2017年04月30日(日)

「悪魔は初めから人殺しであり・・彼のうちには真理がないからで す・・なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」ヨ ハネ8:44



サタンは嘘つきであり、偽りの父とある。そのため、有ること無い
こと、自由自在に思いに吹き込める。現実に無い事も吹き込むので、
これを受け入れて行くと、事実ではない、妄想がどんどん膨らむ事
になる。被害妄想しかりだ。黒を白に白を黒にする。サタンの罠に
はまると、ほんろうされてしまう。サタンは策略を持って来る。

策略というからには、欺こうとの明確な意図があるわけで、思いに
浮かぶ何もかもを信じてはならない。それは否定的な思い、自分が
落ち込んで行く思い、建て上げるのものでなく、壊されて行くもの
だ。又、映画の映像のように思いに映して来る。次々頭に浮かんで
来るものを、何もかもを受け入れてはならない。

サタンが吹き込む思いであって、自分が思っていると思わせるサタ
ンの嘘だ。私達の思いの部分に、四六時中、映像を送り込む。そし
て、自分が思っているとしか思わない。そう思わせれば、サタンは
大成功だ。サタンは絶えず、「思い」という火矢を飛ばしている。

朝起きた時から気づけるように。又、御言葉や祈りを奪ってしまう、
サタンの誘惑と攻撃に気づけるように。自分の「思い」をよく見張
っていよう。恐れ、激しい怒り、批判、急かすもの、自己憐憫、暗
さのある疑い、極度に自分を責めるもの、又、誇るもの、それらの
思いは敵からだ。思いをよく見張っていよう。御言葉に嘘を混じら
せて来るサタンに気づけるよう祈っていよう。
敵に気づけることは、そこに光があるからであり、神に向いている
ことになる。

・・・・・・・・・・・・
落とし穴を作る時、絶対に言わないし、誰にもわからないようにし
て作る。サタンは更に巧妙で狡猾だ。罠を張っている。しかし「内
におられる方が、この世の内にいるあの者よりも力がある」。その
お方が共におられる。いつも祈り頼っていよう。


2017年04月29日(土)

「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」ヨ ハネ5:9



もし人が病気であっても、それが普通であり、正常な状態だと思っ
ているなら、どうだろう。いつまでたってもそのままで、病気が治
ることはない。主はこの病人に「よくなりたいか」と言われた。つ
まり現状は「よくない」という事で、病気が治るには、まず自分が
病気だと認めなくてはならない。

私達も癒されるためには、自分が病んでいると認識することが重要
だ。自分の非に目を向けないで、相手ばかり責めているなら、いつ
までたっても、その状態は改善されず、同じ事の繰り返しのままだ。
何の成長も無い。相手どうこうの問題でなく、それに反応して相手
を攻撃し、責める「自分の問題」だと気づき、認めて行く時、初め
て自分が変えられて行く。

この人は「池の中に私を入れてくれる人がいない」からと、人のせ
いにしていた。自分には介添人がいない、だから池に入れないので、
自分の病気は癒されないと。人に依存してしまっていた。人に依存
すると無気力になる。うまく行かないのは人が悪いから。その、人
依存こそが問題だ。

主は「起きて」と言われた、床を取り上げて、自分の足で歩けと。
人は関係なく、問題は、人に、病気に、「依存している自分」にあ
ると気づき、認める時、主のみわざはすでに始まっている。自分の
床とは何だろう。
自己憐憫、諦め、不満、不信仰、主以外のものに頼る心・・その床を
取り上げて、神を、御言葉を心底頼って歩く事を始めよう。自立と
は人や自分に頼らず、ただ神だけに頼ることだ、

・・・・・・・・・・・・
言い訳をして、自分を正当化している限り、ずっと床に伏せってい
る状態だ。主はいやして下さる。「よくなりたいか」の愛の御声に
応答して「よくなりたいです」と主に向き合おう。自分でも、状況
でも、人でもなく、主に目を向けよう。主の愛に出会う。


2017年04月28日(金)

「その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから・・」創世記11:9


最初、全地は一つ言葉であった。スムーズに意思疎通ができていた。
人々はシヌアルという平地に定住し、石の代わりに、れんがを作る
技術が与えられ、れんがと瀝青で建築物を作ることができた。よく
対話ができ、肥沃な地で、建築の技術も与えられ、すべては神の大
いなる恵みであった。

しかし、その神の恵みに感謝し、神に栄光を帰するのではなく、人
間は、自分の名をあげ、自分の栄光、名誉、賞賛を求め、自分が神
にとって代わった。神の恵みで賜った能力を、自分の栄光のために
使うようになった。自分、自分・・。これがアダムからの罪そのも
のだ。「その内に」「我々は、頂きが天に届く塔を建て」、最初は
良かったのだろうが、「その内に」方向が狂って来た。

神は言葉を混乱させられ、意思疎通が不能にされた。その結果、塔
の建築は不可能になり、中止になった。塔建築は失敗した。神が阻
止された。そして人々は全地に散らされた。原因は神への高慢であ
った。彼らが塔を建てようとしたのは「われわれが全地に散らされ
るといけないから」という動機からだったが、逆に全地に散らされ
る結果となってしまった。

この所で学ぶ事ができる。互いに意思疎通ができない時、そこに
「高慢」が潜んでいる。自分が神になり、自己義、自己中心、自己
防衛、自己主張、自分、自分・・。真の一致は、愛とへりくだりに
ある。そこには必ず喜びがあり、神の栄光がある。
-------------
それぞれの言葉があるように皆、思いも違う。自分には推し量れな
い領域があると認めていくとき自分を神にする傲慢から守られる。
散らされ混乱させられたが、神に目を向けるための恵みとされた。


2017年04月27日(木)

「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10


主は愛する者に訓練を与えられる。懲らしめは愛だと言われる。ア
ブラハムは示す地に行け、との召しに従い75歳の時に生まれ故郷を
出た。なかなか約束の子供は与えられず、100歳になった時に、子供
が与えられた。25年間待った。その間、数々の失敗をし、苦しみを
通りながら神の訓練を受けた。

ヤコブは、父とエサウをだまし、家におれなくなり、伯父ラバンの
もとに身を寄せる。そこで、神の御手により訓練された。伯父に騙
され、愛するラケルをめとるのに14年の歳月をかけ、20年間暑さ寒
さの中で厳しく苦しい労働をし、訓練を受けた。ヨセフは訓練、訓
練の歩みであった。

兄たちに、隊商に売られてエジプトへ。エジプトでは無実の罪で牢
獄へ。神が正義なら、なぜこんな事に?しかしそれはヨセフへの訓
練であった。苦しい日々であったが、ヨセフは、主の御手により砕
かれ、練られ、鍛えられ、整えられて行った。

又、ダビデは、サウルに命を狙われ続け、常に死と隣り合わせに、
逃亡を続け、その恐怖はどんなものだったろう。訓練は決して喜ば
しくなく、辛く悲しく苦しいものだ。傷ついたと感じる。

しかし逃げないで受け取って行く時、間違いは悔い改め、神のお心
を正しく受け入れて行く時、間に合う器に変えられ、造り上げられ
て行く。主の器として用いられて行く。御霊の喜びを知る。訓練を
逃げて、避けているだろうか。それなら、自分自身は何も変わらな
い。
------------
いつも心地よい環境にいることを求めてしまうが、主はある時、試
練をもって私たち自身を良い器へと整えられる。環境や人ではなく
自分自身が砕かれ、柔和にされ、深く主を知る者に変えてくださる。


2017年04月26日(水)

「サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは・・シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけ」創世記16:7



女奴隷ハガルは、アブラムとサライに子供ができない事から、アブ
ラムの子を宿す事になる。奴隷であって、選択の余地は無い。それ
は、神はご存じだ。しかしハガルは、妊娠すると高慢になり、女主
人サラを見下げた。この高慢はハガルの罪であった。奴隷からの侮
辱に、サラは怒りに燃える。アブラムのせいと、訴える。

するとアブラムは、好きなようにせよと告げ、今度はサライがハガ
ルを攻撃した。いじめは、余りにも辛くハガルは荒野へ逃亡。そこ
に主の使いが現われ、「サライの女奴隷ハガル」と。はっきりと、
サライの奴隷である立場を認識させ、「どこから来て」高慢になっ
た結果、サライのいじめに会い、その苦しみから逃げているという
現実を、見せる。

ハガルも女主人サライから逃げている事を認める。「女主人のもと
へ帰り」「身を低くするよう」告げられた。「あなたの子孫を大い
にふやすから」と。私たちへの言葉でもある。問題や環境から、状
況から、辛さの余りとにかく逃げたい。それが救いだと思う。しか
し、逃げても何の解決も無い。

そこを逃げたとしても、自分自身は何も変わらないので、また次の
環境で同じ事を繰り返す。自らの傲慢ゆえに、苦しみを招いたので、
身を低くし、へりくだって仕えよと。私たちも時として、逃げたい
が、その所にとどまり、へりくだれと言われる。どうしてこうなっ
たのかよく考えと。その時、その所で、豊かな祝福と成長がある。
--------------
逃げた先でも神はハガルを見捨てず御声をかけられた。どこから来
て、どこへ行くのかと。自分もまた受け入れられ愛してくださるお
方がいるとは何という慰めだろう。この神のご愛によってへりくだ
らされていく。


2017年04月25日(火)

「私の助けは、天地を造られた主から来る」詩篇121:2


「私への助けは、一体どこから来るのか」と言っている。そもそも
助けが来るのだろうか。この箇所は、都上りの歌となっていて、エ
ルサレムへ巡礼の旅に出る時のものだ。至難の旅だ。山がそびえて
いて、その山に向かって目を上げる。これから上って行く、困難な
山々だ。エルサレムは遙か彼方であり、山々が行く手を阻んでいる
かに見える。

当時の人々の旅は、今では想像もできないほど骨の折れる、危険な
ものであった。今のように、ちょっと都へというわけに行かない。
途中で病気にでもなれば命にかかわる。又、身にどんな危険がある
やも知れず、無事に帰れるかどうかもわからない。そのような中で
何が助けになるのか。

エルサレムへの都上りは、膨大な困難を前に「私の助けはどこから
?」との問いになり「私の助けは、天地を造られた主から来る」と
答えが来る。計り知れない困難はあるが、その山を造られたのは主
だ。すべての状況も主が御手で治めておられる。「助けは主から来
る」私たちも今、行く手を阻む困難の山々があるだろうか。

又、不意のアクシデントがある。突然の病気、けが、経済的困窮、
対人関係の苦しみ、又、誰にも言えない悩み・・まさに「私の助け
はどこから?」。明確な答えがある。「天地を造られた主から来る」
。主からの愛と配慮、助けが臨む。目の前の事態を祈ろう。どう助
けが来るのか、主に期待し、楽しみに待とう。
--------------
私への助けはどこから来るのか。天までの旅の途上を守り導くお方は
唯一、神お一人だ。辛い日々も神は共におられ、やがて一日一日と過
ぎ去り全ては益となる。その希望に立って明日を待とう。


2017年04月24日(月)

「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:2


私たちはどうだろう。何か問題が起こる時、必ず「なぜ?」「どう
して?」という問いが心に湧き上がる。因果応報のこの世の価値観
がある。登校拒否や、出社拒否や、親子問題、対人関係の悩み、様
々な問題に出会す時、「なぜ?」の答えを見つけたい、理由を探し
出したい、犯人捜しに走る。

しかし「なぜ?どうして?」に対して、誰しも無意識に自分は傷つ
きたくない。だから、自分以外のところに原因を捜し出そうとして
しまう。そうすると、誰かのせい、環境のせいになってしまう。弟
子たちも盲目の人を見て、犯人捜しをした。「この人が盲目なのは、
この人が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。

しかし、主は「誰のせいでもない。この人でも両親でもない。神の
栄光が現れるため」と言われた。私たちが人生で出会う苦しみが、
すべて理解できたなら、それは人間の範囲内の神でしかない。人が
神の上に立ち、神を下に置き、動かす人生でしかない。しかし、平
穏に過ごしていた人生で、突如「どうしてこんな事が」との苦しみ
を経験する。原因がわかるなら、対処すればよいことだ。

しかし時に、どうしてもわけがわからず、理解を越えた所も通る。
そんな時、あれが、これが悪い、誰が、かれがと、非難するのでな
く、神の素晴らしさを知るためとの信仰に立とう。どんな苦しみ痛
みも、必ずすべての事が益とされ、その事で神ご自身を更に深く知
り、神のご愛を知ることになる。その信仰を神は喜ばれる。
------------
目に見える幸せや成功、健康が全てなら今も未来も不安でいっぱい
になる。神は私たちの安定志向も曖昧さも知っておられ、尚も益へ
と導いてくださる。今、解らなくても信仰に立っていよう。


2017年04月23日(日)

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実 を語りなさい」エペソ4:25



ある人が、職場で退社後に、しょっ中飲み会があった。自分はお酒
は飲まないし、参加したくなかったが、付き合っていた。結局は飲
むのが好きな人たちが、何やかやと口実にして、好きでやっている
事だった。余りに続くと、身体も疲れ、時間も取られるじ、段々苦
痛になって来た。心身しんどくてたまらず、平安も全く無く、主の
御前に祈りに持って行った。

祈っていると、自分がズルズルと嫌々ながら、中途半端に付き合っ
ていること、きちんと断らない事が問題なのだと示された。そこで
その事を祈って、行動に移し、断るようにした。すると帰宅後の時
間が、聖書を読むこと、祈ること、休息を取ることに用いることが
できて、平安が戻った。同時に職場でも良い関係に保たれた。

「ノー」が言えないと、強いられて嫌々することになる。段々重荷
になって来て、喜びと平安も失せてしまう。秩序も崩れて、生活全
般がギクシャクする。ある人は、隣人が家にひんぱんに来る事を断
れないでいた。相手に嫌われたくないので、「ノー」が言えない。
すると段々、相手が嫌になり、心は苦しくなり、いつしか恨みにな
り、憎しみになって行った。

原因は「ノー」が言えない事だった。「あなたがたは、『はい』は
『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」とあるが、
「いいえ」は、「いいえ」と言う事により、恨みや憎しみから守ら
れることになる。「ノー」を言えないところから、混乱が生じてい
るだろうか。ふさわしい「ノー」は秩序と平安を生み出す。

・・・・・・・・・・・・
「ノー」が言えないのは、相手に嫌われたくない、良い人だと思わ
れたい。だいたいズルズルとなり、自分は苦痛になって行く。御霊
は時に「ノー」を言うように示される。よく祈って、示された時に
は従おう。主に従うなら、主の御心が成し遂げられて行く。どうで
あれ平安だ。


2017年04月22日(土)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリスト の名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20


ある本にこんな箇所があった。サタンが倉庫に様々な「種」を持っ
ていた。これから蒔こうとする種だった。一番大量にあったのが
「失望」という種であった。この種が一番よく育ち、多くの実を結
ばせるのだ。この種が一番効果的で、たやすく、人々を神から離す
ことができる。強力な種だ。これを蒔きさえすれば、後は放ってお
いても順調に育つ。

しかし、この種が一つの場所だけに何の効き目もない事を、サタン
は認めた。幾ら蒔いても、効果があったためしがない。「それはど
この場所か」の問いに、「感謝する心」とサタンは答えた。「失
望」はサタンの最強の武器で、信仰者にとって一番の敵だ。心沈ま
せ、気力を奪ってしまえば、どうにも出来ない事をサタンは知って
いる。

逆に「感謝」のある所では、サタンも何もどうにも出来ない。サタ
ンの足場が無くなってしまう。良い事だけでなく、一見都合の悪い
事も「すべての事について感謝」する事は力だ。一見都合の悪い事
は、悪い事ではない。そこから逆転、素晴らしい祝福に繋がってい
る。

ある人が苦しい状況にまず感謝して、感謝を続けた。すると「御心
に従ったのに、なぜ?」「なぜ?助けてくれない?」の思いが消え
た。状況はそのままだが、心に平安が臨んだ。やがてその事態は導
かれて行った。疑いやつぶやきの、サタンの罠にはまらず、感謝を
選ぼう。これは選択だ。

・・・・・・・・・・・・
不意の事態が起きた時、主飛んでしまい、目の前の事の思い煩いで
いっぱいになる。状況を見ている目が、主に向いた時、「愛されて
いる」「ご計画がある」「しようとされている事がある」「万事
益」そこに目が向く。「いつでも」「すべての事に」「感謝せよ」
の御言葉に従う時、自分がまず変えられる。


2017年04月21日(金)

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21


私たちはデボーションやメッセージを通して、御言葉を聞くが、
「すなおに受け入れる」ことが大切だ。素直な、やわらかい耕され
た心で、受け入れることが必要だ。その時に「すべての汚れやあふ
れる悪を捨て去り」とある。妨げがあると、御言葉が心に入って来
ないからだ。自分の中にある汚れや悪を捨て去る必要がある。

心にある怒りや妬み、憎しみ、敵対心、貪欲、それらを認めずに、
言い訳したり、自分を正当化する時、御言葉が入らない。ある人が、
職場の上司が嫌で仕方がなかった。トゲのある物言いをする相手だ
った。きつい言い方をするので、どうしても傷ついてしまう。その
相手と接するのが苦痛でたまらない。心が苦しくなって来る。心暗
く思い悩む日々だった。

あの相手とさえ顔を合わさずに済めば・・。職場を変わろうか。重
苦しいばかりで、御言葉などとても入らない。余りに辛く、主の御
前にことごとく思いを祈った。相手はトゲがあり、傷つけられるの
だが、自分の内にも相手への憎しみ、赦せない思いが渦巻いていた。
相手の非だけが見えて、自分の憎悪の罪は見えない。自分の罪とし
て、悔い改めた。

その時から、御言葉が心に響いて入って来た。罪を悔い改め、捨て
る時、御言葉が心に入って来る。その御言葉を耕されたやわらかい
心で受け入れる時、様々な問題に、解決が来て、そして主のご愛、
真実を知って行ける。
---------------
都合の悪い御言葉は、聞かなかったことにすればとの思いが来るが
そこにこそ自分の今の姿が示されているのではないだろうか。主の
祝福と御言葉の豊かな実りを自分のものとしたい。


2017年04月20日(木)

「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11


ある人が高校受験の時に、合格間違い無しと保証されていた。なぜ
なら成績はトップクラスだったから。本人も周囲も、皆が合格を信
じて疑わなかった。ところが、意に反して結果は不合格だった。周
囲も驚き、本人も大変なショックだった。二番手志望校への入学に
なった。しかし、その人は、はた目から見ても、どんどん霊的に変
えられて行った。

主は素晴らしく益とされた。以前は成績が良く、出来るので、高慢
な鼻につくようなところがあった。が、人が変わったように、周囲
は優しさを感じるのだった。行った先の学校で聖研を開き、救われ
る人が起こされた。教会の中でも、中学生クラスのリーダーとして
用いられて行った。

不合格は大きな試練であったが、その痛みにより、砕かれ練られ、
変えられて行った。そして、今の状況を心から感謝できるようにさ
れた。人生は、思い通りにならない事の方が多い。私たちも自分の
願い通りではないかも知れないが、しかし必ず主の最善が成される。
結果的には、自分の願った道より、主から与えられた道の方が、遙
かに良かったと言える。

主がされる事を、受け止め、受け入れて行く時、経験して行く。必
ず「平安を与える計画」であったとわかる。「平安」に結果して行
く。「平安」に着地して行く。今、苦しい問題が目の前にあるだろ
うか。受け入れて行く時、その事態が「平安を与える計画」であっ
たとわかる。
-------------
神のご計画はいつも理解できるとは限らない。わからない事の方が
多いかもしれないが、この時も神の導きの中である事だけはわかる。
私を知り、私のために立ててくださっているご計画にいることを受
け入れ委ねていたい。


2017年04月19日(水)

「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ」民数記22:32 


聖書の中でも有名な、ろばがものを言った箇所だ。ろばが進まない
ので、バラムはろばを3度も打った。しかし、何と主の使いが、ろ
ばの前に抜き身の剣を持って、立ちふさがっていた。そのため、ろ
ばは前に進めなかったのだ。それでろばが抗議した。その時、主の
使いが「敵対して出て来たのはわたしだ。あなたの道がわたしとは
反対に向いていたからだ」と言った。

阻止したのは、主であった。私たちは痛い事や、苦しい事は避けた
い。何とか逃れたいと思う。しかし神は、私たちが間違った方向へ
進んでいる時、行く道を阻まれる。私たちを立ち止まらせるためだ。
それは不運なのでなく、偶然ではなく、神の取り扱いだ。そこに関
わる相手や周囲を責めるのではなく、そこに神を認める事が大切だ。

進路を阻んでいるのは、神だ。その状況の中で、神のメッセージを
受け取ろう。何を教えたいのか、何に気づかせたいのか。今、あな
たの行く手が阻まれたなら、状況に右往左往でなく、まずそこに神
を認めよう。神が立ちはだかっておられる。その道は御心とは反対
なのかも知れない。

神はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない。その民を呪っても
いけない。祝福されているからだ」と言われた。それにかかわらず、
出て行くバラムに、主の使いが立ちはだかった。もし進路が閉ざさ
れたなら、そこに神を認め、自分の思いを通すのでなく、御心を尋
ね求めよう。更に素晴らしい御心の道に導いて下さる。
------------
主の御心と違う道なら神は立ちはだかり導き返してくださる。どう
しても自分の思い通りに行きたい、その弱さに気づき神を認めよう。
バラムの目を開かれたように私たちの目のおおいも除いてくださる。


2017年04月18日(火)

「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません』と言った」ヨハネ2:3


カナの結婚式で、ぶどう酒が無くなってしまった。その時に、マリ
ヤは、まず「イエスに向かって」助けを求めた。そのマリヤに、主
は「わたしの時はまだ来ていません」と答えられた。その意味は、
わたしの時とわたしの方法がありますから、ということだ。マリヤ
は、その主に、事態を委ねた。

そして主がこの場を何とかして下さると信じたので、手伝いの者た
ちに、あの方が言われることを何でもするようにと伝えた。すると
主は彼らに、「水がめに水を満たしなさい」と指示された。そして
「宴会の世話役のところへ持って行くように」と。彼らが、主の言
われる通りに従った時に、奇跡が起きて、問題の解決が与えられた。

水がぶどう酒に変えられて、人々は大いに喜び楽しんだ。結婚式で、
大切なぶどう酒が無くなるという、大失態になるところが、更に大
きな祝福に変えられた。私たちも、突如の問題が起きた時は、まず
は、マリヤのように「ぶどう酒がありません」と、主に向かって祈
ろう。そして、主の御声に耳を傾けよう。その主の言われる事に、
その通りに従おう。

そうする時、主が事態を引き受け、みわざをして下さる。そして、
主の栄光が現わされる。今、思い煩いがあるだろうか。問題がある
だろうか。自分で動き回らず、自分で何とかしようとせず、まずそ
れを主に告げよう。主に向かって祈ろう。そして主の御声に耳を傾
け、示しを待とう。それに従う時、みわざを見る。
----------
私達も「ぶどう酒がありません」の祈りから主の栄光を拝すること
ができる。ぶどう酒さえあれば安心だった自分の不安、思い煩いが、
主がどんなことも感謝に変えてくださることを経験で知っていきたい。


2017年04月17日(月)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え・・」エレミヤ33:3


ある人が職を求めていた。当時は景気も悪く、非常に厳しい状況だ
った。しかし、生計のためにどうしても必要だ。祈って、面接に行
くが、次々と断られた。焦りが出て来る。仕事が無ければ、生活が
成り立たない。更に祈り、もう職種は何でも良いので、与えて欲し
いと祈った。そんな中も、面接の度に断られ続けた。

追い込まれ、主に拠りすがるように祈った。そんな時、一つの面接
の道が開かれた。すると、面接をしたその会社の社長が、履歴書を
見て、「自分もあなたと同じ境遇で育った。ここで頑張りなさい」
と言い、採用になった。まさに主からのものだった。絶体絶命の時、
紅海を分けられた主は、道無きところに、道を造られる。

ある婦人は離婚を通り、働きながら子供たちを育てていた。突然、
家主の事情で、家を出る事になった。貯えもなく、これから先、も
うどうすれば良いのか、パニックだった。声を上げて泣いた。皆に
も祈ってもらい、祈りに祈った。すると牧師を通して、クリスチャ
ン老夫婦から、家も広く、手伝いを条件に、同居の申し出が来た。

彼らも助け手を祈っていた。祈りの答えと双方確信した。主は窮し
た者の祈りを顧みて下さる。不思議な方法をもって、祈りに答えて
下さる。そして主の愛を知る。どんな時も「わたしを呼べ」と言わ
れる主に祈ろう。「そうすれば、わたしはあなたに答える」と、そ
こに立って祈ろう。
------------
心が不安で暗くなるのは、状況に圧倒されふと主が見えなくなって
いる時ではないだろうか。私達は既に主が不思議な方法で道を拓い
てくださる事を知っている。問題を一つずつ主の御手に渡そう。


2017年04月16日(日)

「民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくず れ落ちた」ヨシュア6:20



ヨシュアと民は、ヨルダン川を渡り、カナンに入った。するとそこ
にエリコの城壁がそびえていた。難攻不落の城壁であり、ヨシュア
たちの前に立ちふさがった。その時、抜き身の剣を手に持った人物
が、ヨシュアの前方に立った。思わずヨシュアは、「あなたは我々
の味方なのか、敵なのか」と聞いた。

しかし、その人物は、その問いには答えずに、「いや、私は主の軍
勢の将として、今、来た」と答えた。味方か、敵かというのは、戦
いにおいて自分たちを助ける助手、補佐という事になる。主の軍の
将なら、そうではなく導き手であり、リーダーだ。そのリーダーの
指示に従う事が重要だ。

なすべき事は主に信頼することだ。そして「あなたの足のはきもの
を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所」だと。私たちが自分
の思い、考え、経験、常識を捨てる事、つまりはきものを脱ぐこと。
そして主に従うこと、戦いの将はヨシュアでなく、主である。主の
戦いだ。

主は、奇抜な不思議な方法を命じられた。理解できない方法だが、
ヨシュアたちはそれに従った。民は6日間、毎日町の周囲を回った。
民は、「なんでこんな事を??」と思ったろう。しかし、理解でき
ないが、従い、7日目に7回周り、時の声を上げた時に、城壁は崩
れ落ちた。

ヘブル書では、「信仰によって」城壁は崩れ落ちたと言っている。
信仰による従順だった。6日間、全く何も起きなかった。7日目に
みわざが成された。目に見える所どうであれ、主の御心に従い続け
よう。勝利の一歩手前だ。

・・・・・・・・・・
いつも自分を中心に物事を考えてしまう。だから思い煩いで一杯に
なり、恐れと不安にさいなまれる。しかし今、目の前に軍の将が来
ておられる。その将に従えば良いだけだ。肩のすべての重荷が取れ
る。今、将の言われる事に、従おう。大きなみわざを見る事になる。


2017年04月15日(土)

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえ の道に導いてください」詩篇139:24


信仰生活で、対人関係の悩みにしばしば直面する。そこで問題が生
じた時に、こじらせてしまい、泥沼状態となってしまう。それは相
手を責めて、相手を変えようとする時だ。相手は反発し、心を閉じ
て、ますます頑なになる。争いが根深くなるばかりだ。

相手を変えようとするが、相手が変わる事は無い。だいたい相手を
裁くのは、自分の思い通りでないからだと言われている。相手がど
うのより、自分の期待通りでない事に我慢ならない。どうすれば良
いのか。相手を変えようとする事を止める事だ。相手を変えるので
なく、自分が変わろうとするなら、確実に問題解決へと向かう。

ある人が、不登校の子供をなだめたり、ある時は叱ったり、何とか
登校させようとするが、どうにもならない。学校へも幾度も足を運
び、担任とも話し合い、自分に出来る事はし尽くした。登校して欲
しいが、だが何の変化もない。そんな時を経て、とうとう疲れ果て
てしまい、もうギブアップだった。主のもとへ行き、心の内をこと
ごとく祈った。失意、挫折感、疲労こんぱい、落胆、焦り、嘆き、
何もかもを主に告げた。

その時、御霊に示された。行かせようとするのは、人にどう見られ
てるかが気になるからであり、結局、心の底に潜む自分のプラドだ
と。これでは子供のためでなく、自分のためではないか。心から悔
い改めた。
その時、重荷が取れて、思い煩いも消え、平安と喜びが満ちた。自
分が変えられた。もう行こうと行くまいと良いと思えた。行かなく
てもいいと、心から平安だった。心が解き放たれた。するとどうし
たわけか、子供が登校し出したのだった。

・・・・・・・・・・・・
普段は決して気づく事のない、心の底に潜み、横たわるもの、それ
を主はいろんな事態の中で、気づかせ、悔い改めに導いて下さる。
どんどん自由にし、聖めて行って下さる。何と感謝なことだろう。
一つも無駄はない。教えられている事を悟れるよう祈ろう。


2017年04月14日(金)

「自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります」ヤコブ1:25


御言葉を聞いても行なわないなら、自分の顔を鏡でながめて、立ち
去る人のようだと。すぐに忘れてしまうと。ただ単にながめただけ
で、何もせずに立ち去る。例えば、自分の顔が汚れていても、ただ
見るだけで、汚れを落とそうとしない。そんな態度なので、立ち去
った後は、顔が汚れていたという事も、すぐ忘れる。そうなら、そ
の人は何も変わらず、ずっと生涯そのままという事になる。

つまり、御言葉を聞いても、実行しないなら、これと同じだと。何
も変わることがなく、成長が無い。そうでなく、鏡を見るのは、身
づくろいのためならどうだろう。顔が汚れていたなら、洗顔して汚
れを取り、髪も乱れていたなら、くしを入れ、服も点検する。その
ように対応する時、きれいに身づくろい出来て行く。

示された御言葉を一心に見つめ続けるなら、実行して行けると。
ある人が、自分は御言葉を聞くには聞くが、実行しないので、すぐ
に忘れてしまっている。そこが問題なのだと気づかされたと。それ
は自分を欺いている事だと。私たちはどうだろう。御言葉は鏡だ。
自分の真の姿を照らし出してくれる。

聞き従うとは、照らし出された自分の姿を知り、認め、悔い改め、
示された事を行なってゆくことだ。「和解せよ」「愛せよ」「祈れ」
一つ一つ従って行こうとする時に、御霊は力を与えて下さる。御霊
の助けにより、御言葉を一心に見つめること、反すうすることで、
実行して行ける。
---------------
信仰人生、いつも御心に整えられて変わり続けたい。何年も御言葉
を聞き、知識として知っていることと、一つの御言葉を信じて一歩
従い体現するのとは違う。真の自分の姿はどうだろう。


2017年04月13日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために・・」エペソ6:11



悪魔は「策略」を練りに練って、攻撃して来る。決して行き当たり
バッタリではない。計画的犯行で、確信犯だ。「この先に罠がある」
と知らせてしまえば、人は回避しようと、警戒し、見破ろうとする。
普通、罠にかけるなら絶対に口外しない。

しかし「悪魔の策略」と明かされているからには、相当の巧妙な策
略があるという事だ。警告があるのに、気にも留めず、ぼおっーと
過ごしているだろうか。悪魔は私達の「感情」に働く。「腹が立つ
!言い返せ!」思いに上る度に怒り噴出だ。感情をコントロール出
来ない。ある人は、それで犯罪にまで至る。

私達は、感情はどうにも出来ないが、意志はコントロール出来る。
意志で、相手を赦すことを祈れる。意志で赦しを選択できる。怒り
がわく度に、祈る事を選択できる。主は赦せるように助けて下さる。
悪魔は私達の「感情」に攻撃して来る。対人関係が、好き嫌いに振
り回される。そして苦しくなり、平安を失う。覚えていよう。感情
はコントロールできないが、意志はコントロールできる。

意志を向けて、赦したり、愛したりできるようにされている。意志
で選択する時、主が必要な力を与えられる。対人関係の問題に、悪
魔が巧妙に働いている。相手しか見えないが、実は、相手への裁き、
憎しみ、妬みを起こさせ、私たちが罪を犯すよう、悪魔があおって
いる。背後に働く悪魔に気づけるように。祈っていよう。
-----------
結果があれば原因があるように、御霊の実と違う方向へコントロー
ルされている感情の背後にはサタンがいる。自分だけで格闘しても
勝てない。気づきを祈り、主と共にしっかりと立ち向かおう。


2017年04月12日(水)

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63


ある牧師、大きな震災による津波で、会堂も住まいも流された。何
一つ持って出る事も出来なかった。特に自分にとって、非常に大切
な注解書や信仰書、聖書資料や学びの資料、何もかも流され、失っ
た。余りにも突然で、一瞬の事だったが、危険を直感し、何とか逃
げる事ができた。何もかもすべてを失ったが、とにかく自分も家族
も、命が守られた。

避難所に身を寄せ、これら身に起こった事を、祈りに持って行き、
主に切に祈った。その時に御言葉が臨んで来た。「主は与え、主は
取られる。主の御名はほむべきかな」。御言葉の力を体験した。
「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」、
もうまさにその通りだと思えた。すべてを失い、これから先の事も
全くわからないが、心は不思議な平安で満たされた。

ある女性は職場で、重要な地位である管理職に、上司から打診があ
った。沢山の人々を部下に持つ事になる。自分がまとめて行けるの
だろうか。全く自信がない。自分の能力では無理だ。力不足だ。重
荷であり、断りたい。しかし、まず主の御心を求めて祈ろうと、時
間を取って御前に静まり、長く主と交わり祈った。

心の内の不安、恐れ、思い煩いのすべてをことごとく告げた。その時
に「恐れるな・・わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義
の右の手で、あなたを守る」と語られた。御言葉が臨んだ時、平安が
心を支配した。受諾の決心が与えられた。御言葉は霊であり、いのち
だ。私たちを生かし、どんな状況の中でも、立ち上がる力を与えてく
れる。
-------------
外からの試みや煩わしさにも支配されない御言葉によって心が満たさ
れる実感は何よりも力となり命そのものだ。外からのものではない内
側からの喜び、その源である御言葉から今日も一日を始めたい。


2017年04月11日(火)

「イスラエル人に、引き返すように言え。そして・・バアル・ツェフォンの手前で宿営せよ」出エジプト14:1


時に、主は、不可解な理解不能な事をされる。パロのもとから、エ
ジプトを脱出した民に、何と引き返せと。少しでも先に進まねばな
らないのに。パロは民が道に迷っていると思い、追ってくるので、
そこで「わたしは栄光を現わす」と言われる。民はその通りに従っ
た。すると神の言葉の通りに、パロ自身が先頭に立ち、最強精鋭部
隊、全戦車で追跡して来た。

追っ手は背後に迫った。主に従った民だったが、目に見えるところ、
状況を見るや一変、臆する事なく出て行った民が、恐怖におののく。
恐れ不安、怒りがすべてモーセに向かう。しかしモーセは民に向か
わず、主に向かい祈った。そして語った。「恐れるな」「しっかり
立て」「主の救いを見よ」どんな困難も恐れるな。自分で動かず、
又、逃げず、しっかり立て。主が成されると。

前は紅海、背後は追っ手の絶体絶命の中、何と目の前に道ができた。
私たちにも、道無きところに道を造られる。民が渡りきった後、追
いかけたパロと全軍隊は滅ぼされた。結果的に、引き返す事により、
パロに追跡させるよう仕向け、イスラエルを救い、パロとエジプト
軍を滅ぼす事となった。

私たちに、時に理解を越える事態が起きる。「なぜ?こんな事が?」
と、わけがわからない。しかし、神の栄光のためであり、必ず良い
こととして下さる。信じよう。「恐れるな」、まず自分で動かず祈
ろう。そして必ず主が動かれるので、「前進せよ」との示しが来た
なら、従おう。
----------------
理解不能な状況を前に、何故、どうしてと原因を探って心は乱れる。
まず祈ろう。落ち着いて主に祈り、主への信仰に立てることを求め
よう。状況は理解不能だが、すべて益のためとの主の御心を知って
いる。


2017年04月10日(月)

「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:7


「だれも悪い不信仰な心になって生ける神から離れる者がないよう」
にと警告し勧めている。御言葉に従わない不従順は、神から離れて
しまう。そのために「今日」という日が強調されている。エジプト
を出た民のようにならないために、明日ではなく、「今日」今すぐ
に神に立ち返るようにと。

「今日」は大切だ。悔い改めるべき事があれば、明日に延ばさずに、
今日悔い改めるべきだ。背後にサタンの働きがあり、ぐずぐず引き
延ばすよう誘惑して来る。すると気持ちが萎えて、その内、気持ち
が失せて、必ず悔い改められなくなってしまう。決心すべき事があ
るなら、「今日」しよう。

明日でもいいや、明日しようと思っていると、明後日となり、結局、
決心出来なくなる。御霊の示しがあるのに、ぐずぐずしていると、
その気持ちが失せてしまう。ある人が、信仰に一歩前進するよう御
霊に示された。しかし、ぐずぐずしていた。尚も促しがあったにか
かわらず、従うことをしなかった。するとある時から、その気持ち
が全く無くなってしまった。消えてしまった。

主のあわれみにより、その後、御霊の示しが来た時に、すぐに従っ
た。従った結果、大きな喜びに心から感謝した。祝福の機会を逃し
てしまう事を学ばされた。サタンも強く妨害して来ることをわきま
え、「今日」従えるよう、助けを求めて祈ろう。何か示されている
事があるなら、従えるよう、助けを求めよう。
------------
日々、多くの成すべきことがあり責任や使命感もあるだろう。その
中で御霊の示しを聞き分けられる事は感謝だ。御霊の声を消してく
る惑わしを識別して、今するよう示された決心に従順でありたい。


2017年04月09日(日)

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒た ち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」使徒 8:2


サウロは神のためと信じて、熱心にクリスチャンを捕まえていた。
そしてステパノ殺害に賛成していた。ステパノの御霊の力に満ちた
証しを、目の前で見て、サウロは憎悪に燃えた。キリストを神とし、
救い主とする、クリスチャンは許しがたい存在だった。怒りと敵対
心、憎しみは増幅し、殺害の意を固くした。

ステパノの厳粛な殉教により、更に迫害は激しさを増し、荒れ狂っ
た。サウロは、教会を次々と荒らし、家々に入って、容赦なく人々
を引きずり出し、投獄して行った。そのため信徒たちは、四方に追
いやられ、あちこちへと散らされて行った。皆が、散りじりバラバ
ラになってしまった。

では、この厳しい苦難で、信徒たちは失望落胆、意気消沈して、教
会は壊滅して行ったのか。ところが、そうではなかった。あちこち
に、散らされた信徒たちは、何と「みことばを宣べながら、巡り歩
いた」。結果的に見れば、この迫害による離散によって、返って福
音が拡大して行く事になってしまったのだ。

信仰の火が消えるどころか、ますます燃え上がり、信仰が強くされ、
福音が四方八方に拡がって行った。私たちも「なぜこんな事が!」
「なぜ突然こんな苦しみが?」との突如の事態が起きる。しかし一
見、マイナスのその事が、理解を越えた大きな祝福へと結実して行
く。そして信仰が堅くされ、成長へと導かれる。

・・・・・・・・・・・
今、目の前に理不尽な状況、理解不能な事態、失望させられるよう
な事柄、それこそが大きな祝福となる事を信じていよう。迫害によ
る離散が、福音の拡大になったように、主のご計画は思いを遙かに
越えている。


2017年04月08日(土)

「ようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、 話を聞いたり質問したりしているのを見つけた」ルカ2:46


主が12歳の時に、ヨセフとマリヤは過越の祭りのために、エルサレ
ムに上った。そして帰路に着くが、主は、まだとどまっておられた。
1日歩いた後、我が子が見当たらない事に気づき、心配と不安の夜
を過ごし、翌日、都に引き返した。都に着き、3日目に都中を探し
回り、やっと宮で見つけた。

教師たちの真中で、話を聞き質問していた。人々はその知恵と答え
に驚いた。両親は驚き、心配し捜し回った事を告げた。すると主は、
「わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのです
か。」と答えた。主は肉の父ヨセフと、霊の父がいる事を明かされ
た。ヨセフとマリヤは御使いからの託宣、数々の預言、奇跡による
誕生等を通して、イエスが神の子であることを理解していた。しか
し、いつしか肉親、我が子になっていた。

主は両親に、自分は神から来て、メシヤとして遣わされた事を思い
起こさせようとされた。その時、両親には意味がわからなかったが、
マリヤは心にしっかり留めていた。そして主は一緒に帰り、両親に
仕えられた。主は神の子であるとの自覚の後、仕えるために帰られ
た。

真の信仰とは、人に仕える事となって現れる。仕えるとは、へりく
だって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思うことだ。へりくだ
らなければ、仕えることができない。又、主は「必ず自分の父の家
にいる」と言われた。両親は主がいる所を、違った場所に探して、
見つける事ができなかった。
「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまりま
す」の主に、私たちもとどまる事が大切だ。

・・・・・・・・・・・
神の子が、へりくだって両親に仕えられた。驚くべき事だが、主は
仕えられるためでなく、仕えるために来たと。主はへりくだったと
ころにおられ、父の家におられる。そこに居ることが主とひとつで
あり、平安の場所だ。



2017年04月07日(金)

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」使徒3:6


富は、私たちに快さを与える。欲望のままに欲しい物を持ち、快適
だ。しかし、どれだけ所有しても、人の心に決して満足を与えるこ
とはない。幾ら持っても不満足であり、もっと欲しい、これで充分
ということがない。これが「貪欲」だ。貪欲は底無しであるため、
悲惨であり、哀れだ。

ペテロとヨハネが宮に入る時に、お金を求める男がいた。その男に
ペテロは、はっきりと「金銀は私には無い」と答えた。私たちは何
を求めているだろう。何を求めて御言葉に向かっているだろう。実
は、この男のように、自分の欲しいもの、都合良いものを求めてい
るのかも知れない。

「自分がこの世で成功して生きること」「人から人格者と思われた
い」「自己実現のため」「充足感を、生きがいを得たい」有形無形
の金銀だろうか。しばしば自分が求めているものと、神が意図し、
下さるものとが違う。方向違いに求めている。「しかし私にあるも
のを上げよう」私たちが欲しいものでなく、神が必要と思われるも
の、最も良いものを下さる。

「イエス・キリストの名によって歩く」これを与えて下さるのであ
り、これこそが彼にとって最も必要なものであり、私たちも同様だ。
主との交わりを回復させて下さり、日毎に生ける交わりの中で、神
を実感しつつ、讃美を与え、喜びを下さる。何と幸いだろう。
----------
主を知らないでいた時は様々な目的、生甲斐を原動力に歩んでいた。
今も簡単に主によって歩む喜びが他のものに取って代わる事を経験
する。主の名によって歩みを始めた美しの門へいつも立ちかえろう。


2017年04月06日(木)

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」箴言16:1 8



私たちは新しく生まれ、主によってすべての罪が赦された。しかし、
まだ天に帰るまでは、肉の性質があり、主に拠り頼まなければ、罪
を犯してしまう者だ。罪は赦されているが、今後いっさい罪を犯さ
なくなるわけではない。

私たちの犯す罪の内、最たるものは何だろう。ある著者は、その罪
を私たちが他人の中に見つけるなら、ひどく嫌悪感を持つが、その
同じ罪が自分の中にあると気づく人はほとんどないと言う。その罪
とは、高ぶり、プライドといったものだ。

明けの明星が天から落ちたのは、この高ぶりだった。高慢は悪魔の
最たる特徴だ。アダムとエバが犯した罪も、神のようになりたいと
いう高慢だった。カインはアベルの献げ物だけが受け入れられた事
に嫉妬し、弟を殺害した。プライドが傷ついたためだ。人々が「天
に届く塔を建て、名をあげよう」とバベルの塔を建てたのも高慢の
ゆえだ。サウルがダビデを殺害すべく狙ったのも、ダビデをたたえ
る女達の言葉がプライドに触れたからだった。

プライドは神を愛する事の対極にある。プライドは自らを高め、自
らを神とする。自分の思い通りでなければ気が済まない。しかし逆
に、自らの破れた状態をとことん知り、自らの無力を認め、へりく
だり、ただ神の愛ゆえに今ある事を知る人は、神を「愛して」行く。
高ぶりと、神を愛することは、全く相容れない。御霊が絶えず心の
内を、照らし出して下さるように。

・・・・・・・・・・・・
高慢とは、神無しだ。どこまでも「自分」「自分」で、自分を誇り、
自分の力で、アダムからの肉、自分が「善悪」を判断して生きて行
く。その自分が砕かれる事が、へりくだらされて行く事だ。幾度も
失敗し、神に拠りすがるようにされる。それこそが大きな恵みだ。


2017年04月05日(水)

「見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるので す。立ちなさい。さあ、行くのです」マタイ26:46


主がゲッセマネの園で、祈られた祈りを通して、私たちも学ぶこと
ができる。主は、みこころなら、この杯=十字架を取り除いて欲し
いと祈られた。十字架を避けたいと。しかしわたしの願いでなく、
御心の通りにと。わたしの願い=十字架以外の、何らかの主の思い
を持っておられた。

最初から「みこころのとおりに」と優等生の祈りをされたのではな
く、この十字架を回避させて欲しいと率直に祈られた。驚くべき事
だ。人々の救いに関して、十字架でなく主の別の方法があったのか
も知れない。主が、そう祈られた事実は厳粛だ。そう祈ってよいの
であり、祈るべきだ。建前のきれい事の祈りでなく、素直に心の底
の本心を告げて行く事を教えられる。

自分の心の本音を打ち明け、主と交わることが大切だ。主は、御父
に向き合われ、真実に祈られた。本音で祈るからこそ、あるがまま
の自分が受け入れられていることがわかる。実感できる。そして、
自分の気持ちを十分受け止め、受け入れて貰っているからこそ、自
分を捨て、御心に従う決心へと進める。

「苦しみもだえ、切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ち
た」。壮絶なる苦悶の祈りの中、御父の御心の通りにと、ご自身を
委ねられた主は「祈り終わって立ち上が」られた。御心を受け入れ、
御心に向かって進んで行かれた。十分主と交わろう。気持ちを聞い
ていただき、本心を告白して行く時、自分が変えられて行く。そし
て御心へと歩を進めて行ける。

・・・・・・・・・・・
主が十字架を取り除いて下さいと祈られた。観念的に抽象的に、御
心が成りますようにと言えてしまうが、主は真に御心に向き合われ
た。自分自身も真剣に御心に向き合う時、出来ない事がわかる。そ
こで助けて下さいの祈りが生まれ、主に拠り頼んで行ける。


2017年04月04日(火)

「『私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着 ていてください』こうしてイスラエルの王は変装して戦いに出かけ た」T列王22:30



イスラエル王アハブは、ユダ王ヨシャパテに、ラモテ・ギルアデを
アラムから、一緒に奪い返そうと誘いをかけた。ヨシャパテはアハ
ブにまず、主の言葉を聞くよう要請した。アハブは預言者400人に、
伺いを立てると、彼らは、「上って行け、主は渡される」と答えた。

しかし、預言者ミカヤは正反対の預言をした。アハブが悪霊に惑わ
されている事、殺される事を告げた。結局、アハブとヨシャパテは
アラムと戦う事になった。アハブは巧く逃れようと、ヨシャパテに
は王の服を着せ、自分は王の服を着ずに変装した。敵をごまかし、
自分は助かろうとした。

しかし、敵の王の命令は、ただアハブだけを狙えというものだった。
敵は、ヨシャパテをアハブと間違い、狙ったが、彼が祈った時、敵
はアハブではないと知り、追うのを止め、引き返したのだ。神の関
与だった。そして一人の敵兵が、「何げなく」放った矢が、何とア
ハブに刺さり、死んだ。

別に彼はアハブを狙い、殺そうとしたのではない。神が関与し働か
れた。ミカヤの預言が成就した。ここに神の完璧な支配を見る。人
がどう画策しようと、神の御心が成就する。厳粛な事だ。それゆえ、
神に、人生も生活も自分自身も委ねる事が賢明だ。あなたへの最善
のご計画を一つ違わず、成し遂げて下さる。そして、安んじている
事ができる。

・・・・・・・・・・・
アハブは自分のために、ずる賢く画策するが、何もかも見ておられ
る主を欺く事は不可能だ。兵士が何げなく放った矢が、アハブに刺
さった。まさにすべてに主の主権と支配が働いている。主を畏れて
歩む事を覚えさせられる。


2017年04月03日(月)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10 


主は、人間が高慢にならないように、ある時、人の計画を止められ
る。エジプトの王子であったモーセは、40歳の時に、虐げられて
いる同胞を救おうと計画した。だが、それは主によるのでない、自
分の思い、自分の計画だった。その時に、エジプトの看守を殺して
しまった。善をしようとしたのに、失敗した。

そのためミデヤンの地に逃亡する事になる。その何もない荒野で、
40年間、羊を飼う羊飼いの日々を送った。以前はこの世の栄華、
栄光、地位、名誉の何もかもを手にしていた。能力があり、あらゆ
る人脈を持ち、脚光を浴び、何の不自由もなく、将来も約束されて
いた。それが一転、全く何もない荒野だ。

スポットライトを浴びる事も、かつての栄華も栄光も何もない。来
る日も来る日も、羊を追い、それが40年だ。刺激も変化も無い日
々だが、しかしながら、その中で妻子も持ち、小さな幸せの中にい
たかも知れない。だがこの荒野こそが、神のモーセへの砕き、訓練、
整えの場所であった。自信に満ちたモーセは砕かれた。もはや自分
の計画でなく、神の計画に従えるように、神のわざは着実に確実に
進み、荒野でモーセを造り変えられた。

80歳になった時、神の時が満ちた。今さら、何ができようと思っ
たモーセこそ、神の目にはふさわしい。出エジプトの指導者として
召し出された。もし今、こんなはずではない場に、置かれているな
ら、神はあなたを取り扱い、整えておられる。神の時に、あなたを
用いられる。主の御手の中だ。今、目の前の事に忠実であり続けよ
う。
-----------
祈ってはいても神のみにより頼むことがなかなか出来ない者だ。自
分や目の前の人に頼ってすぐに行動したい。どちらに行っても活路
を見出せない中は祝福だと信じよう。訓練され、神のみにより頼む
者へと変えてくださる。


2017年04月02日(日)

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、 かえって乏しくなる者がある」箴言11:24


神の価値観は、この世の価値観と全く違う。例えば、手元に経済的
余裕が無くなった時はどうだろう。持ち金が少ない。そんな時、世
の価値観では、何とか収入を増やす事を考え、支出を控える。財布
のひもを締める。しかし、神は異なり、与えよと言われる。そうす
れば与えられると。

ある宣教師が、母国からのサポートが、ある時、非常に少なかった。
家賃や高熱費等、通常のなすべき支払いをすると、手元に残らない。
とにかく必要が与えられるよう祈りに祈って、可能な限りの節約を
した。そんな時、想定外の収入があり、これは主の答えと感謝し、
喜んだ。ところがその収入分が、これまた想定外の病院通いで、す
べて無くなってしまった。

与えて下さったのでは無かったのか。これは一体どういう事かと、
主の前にお心を尋ね、祈り、交わった。その中で、主は更に献げよ
との、御心を示された。「与えよ。そうすれば自分も与えられる」。
しかし、もう手元には僅かしか無い。生活もできないほどだ。どう
するのか。だが、どれだけ祈っても、主は献げよと言われる。示し
は変わらない。

そこで決心した。主の御心に従おうと。主の示し通りに、持てるも
のを献げた。信仰によって献げ、あとは主に身を委ねた。すると不
思議が起きた。その直後、自分たちへの愛の献金が献げられ、何と
支払い含め、生活の必要のすべてがことごとく満たされた。

・・・・・・・・・・・
聖書の価値観は、世の価値観と全く違う。世の価値観だと、ばらま
くと減って、無くなってしまう。支出しなければ、減らない。しか
し御言葉は正反対だ。与えるなら増えると。御言葉に従う時、その
通りである事を経験し、主を知り、御霊の喜びに溢れる。


2017年04月01日(土)

「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつ まずきません」マタイ26:23


ペテロは主を裏切るという、大変な罪を犯してしまった。命をかけ
ても従って行くつもりであったのに、どこに問題があったのだろう。
主が十字架にかかる前に、「あなたがたはみな、わたしにつまず
く」と言われた時に「全部の者がつまずいても、私は決してつまず
かない」「あなたのためなら命を捨てます」と言い切った。

しかし主は「あなたはわたしを知らないと言う」と告げられた。ペ
テロは自分を過信していた。他の者たちはどうであれ、自分は絶対
に大丈夫だと。主は、このペテロの、主に頼るのでなく、自分の力
に頼る自信を砕かれた。ペテロは主を呪いをかけてまで知らないと、
主を裏切るという辛い体験を通った。自信満々の時は、主が見えな
い。主を横に置いたまま、自力で突進だ。

主の力は、私の弱さの中に完全に働く。挫折は、神にまみえるとい
う大きな恵みへと変わる。悔い改めて、主に従って行ける。主はこ
のペテロにご自分の羊を、将来の教会を託された。自分の弱さを知
り、真に弱さに向き合う時、主が強くされ、主によって立てられて
行く。その時、砕かれ、自分を誇らず、主を誇って行く。

自らの弱さを認めず、その所で主に向き合わないなら、信仰人生の
中で、必ずほころびが出て来る。プライドは、弱さは見たくないし、
ふたをしておきたいし、決して認めたくない。しかし、そここそが
強みへと変えられ、自由にされて行く。

・・・・・・・・・・・
主によって気づかせられ、教えられた自分の弱さを、隠したり、棚
上げにしたりせず、認める事が大切だ。そこで主に心底頼る事がで
きて、弱さの中にこそ、主の力が完全に働く事を見せられて行く。
大きな失敗をも、素晴らしい益へと変えられて行く。