2017年05月31日(水)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11


エレミヤの時代、イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされ捕虜とし
て連行され、だが、そのアッシリヤは、バビロンによって滅ぼされ
た。バビロンはどんどん侵攻し、国々は滅ぼされ、とうとうユダ王
国も、バビロンに捕囚の身となった。当時のユダは神から離れ、民
は偶像礼拝に走り、堕落していた。

預言者たちは、耳ざわりの良い、都合の良い、心地良い言葉だけを
語った。平安が無いのに「平安、平安」と。しかし神の人であるエ
レミヤは、真っ直ぐに語った。そのため人々から苦しめられた。バ
ビロン捕囚の最中、真っ暗闇の中で、エレミヤは神の言葉を語った。
それは、過酷な「災い」としか見えないが、「平安・将来・希望」
のためのものだと。

そしてすぐに解放にはならないので、その地で落ち着いて、腰を据
えて生活せよと。そこで、敵であるその町の繁栄を祈れ、それは自
分達の繁栄になるのだからと。私たちも苦悩の時、一番欲しいのは
「即、問題解決」「即、悩みから解放」だ。しかし口先だけの励ま
しは、更に傷が深くなる。

そうでなく、かせであり、思い通りでない辛い現状を受け入れる時、
その中で神からの支え、励ましを受け、平安を与えられて、生きて
行けるという事だ。現実を受け入れる事が大切だ。いつまでもその
ままではなく、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。解
かれる時がある。現状を受け入れて、その中で神に従って行こう。
そこに「平安」が約束されている。そして神の時に、解放して下さ
る。
-------------
先が見えない中でも上からの神の光の中にいることを信じていよう。
解決が長引くと弱り果ててしまうが、今日の一歩を歩む力を求め祈
ろう。その継続の中で神は私たちの内の力を強めてくださる。


2017年05月30日(火)

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」箴言16:18


私たちは、皆、主によって罪が赦された。しかし、まだ肉の性質が
あり、主に拠り頼まなければ、肉は罪を犯してしまう。血潮により
罪赦されているが、今後いっさい罪を犯さなくなるわけではない。
私たちの犯す罪の内、最たるものは何だろう。

ある著者は、その罪を私たちが他人の中に見つけるなら、非常なる
嫌悪感を持つが、その同じ罪が自分の中にあると気づく人はほとん
どないと言っている。その罪とは、高ぶり、プライドといったもの
だ。明けの明星が天から落ちたのは、この高ぶりだった。

高慢はサタンの最たる特徴だ。アダムとエバが犯した罪も「あなた
がたは神のようになり」という高慢だ。カインはアベルの献げ物だ
けが受け入れられた事に嫉妬し、弟を殺害した。プライドが傷つい
たた目だ。人々が「天に届く塔を建て、名をあげよう」とバベルの
塔を建てたのも高慢のゆえだ。

サウルがダビデをつけ狙ったのも、「サウルは千を打ち、ダビデは
万を打った」との女達の言葉がプライドに触れた。プライドは神を
愛する事の対極にある。プライドは自らを高め、自らを神とし、人
より上でなければ気が済まない。自らの破れた状態を知り、無力を
認め、へりくだり、ただ神の愛ゆえに今ある事を知る人は、神を
「愛して」行く。それらは相容れないものだ。
------------
内にあるのに気づけない高ぶりに気づく時とはいつだろう。自我に
直接触れるはずだ。傷ついた痛さより、教えてくださった主の愛を
見て、気づけたことを感謝しよう。主に悔い改めてやり直せる。


2017年05月29日(月)

「神よ。私を探り、私の心を知って下さい・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:23  


             
ある人が海外留学となり、皆に見送られ、喜んで出発した。ところ
が翌年、何とした事か、書類上の事で、不手際があり、これ以上滞
在不可能との事態になった。自分の過失であり、幾度も説明し、交
渉したが、どうやっても継続滞在の許可が下りなかった。主の御心
だと思って来たのに、なぜ?こんな事に?自分の落ち度なのだが、
わけがわからず、悶々状態で、祈りに祈った。

その時、心の内が照らされて、帰りたくないのは、主の御心がどう
こうなどで無く、人はどう思うのか、何と言うだろう、人に笑われ
る、プライドが傷つく。御心などの問題でなく、人の目が問題であ
り、人を恐れている自分に気づいた。盛大に送り出されたのに、の
このこ帰る自分が惨めで恥ずかしい。結局、自分、自分と、自分の
事だけではないのか。

主の御心など、大義名分で、たいそうな事を言いながら、実は自我、
自分しかない事を見せられ、心砕かれて、心底悔い改めた。すると
平安が来て、心がすっきりした。心に喜びが溢れた。帰国を心平安
に決意できた。すると、事態を知った現地の友人達が、公的機関を
走り回り、掛け合い、様々な方法で必要な書類を整えてくれたのだ
った。

その結果、何と滞在許可が下りた。主は、目の前の一つ一つの出来
事を通して、心の内を照らし、お心にかなう者へと変え、成長させ
て行って下さる。問題が問題なのでなく、いつも何かを教えようと
されている。
------------
自分でも意識していなかった表に現れない弱さ、醜さを主は様々な
場面を通すことで教えてくださる。見たくなかった痛い部分であっ
ても、主よ教えてくださいの心で目の前の問題を見ていたい。


2017年05月28日(日)

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へり くだる者に恵みを与えられるからです」Tペテロ5:5

中世は天動説だった。惑星の軌道が膨大に複雑で理解不能だった。
コペルニクスが地動説を打ち立てた。天動説は、地球が中心で天体
の動きを見ていた。だから理解不能だった。しかし、地動説は、地
球は、太陽の周囲を回る小惑星だ。地球が宇宙の中心なのではない。
そうすると、すっきりし説明がついた。

私たちの霊的生活はどうだろう。世界の中心が自分で、自分を中心
に考えると、次々と悩みと問題にぶつかり、対人関係では問題を引
き起こし、ギクシャクし、あちこちで頭をぶつける。自分が問題を
引き起こしている。まさに地動説だ。自分中心に世界が回っていて、
周囲を動かそうとする。そこにまさつが生じる。

そしてうまく行かないと、相手が悪いと信じて疑わない。あの人、
この人さえいなければ、人生快適なのに。しかし、相手はいっさい
関係なく、問題は自分であり、自分の問題だ。自分中心の思考パタ
ンだ。相手のせいにしか見えないが、相手は関係ない。自分の心の
状態の責任は自分にある。まず自分の問題だと認めよう。相手がど
うであれ、反応しているのは自分であるからだ。

キリスト中心に据える時、見方が変わる。相手の非しか見えなかっ
たのが、御霊の光に照らされて、自らの高ぶり、自己愛、利己心、
嫉妬心、愛の無さが見えて来る。その時、主が取り扱われ、示しに
従って行く時に、自由に自由にされて行く。解放されて、平安にさ
れて行く。

・・・・・・・・・・・・・
自分を中心に物事を見ていると、神が見えないし、自分の損得の判
断しか無い。だが神視点に立つと、自分のメリットでなく、神の御
心を考え、神の喜ばれる事は?と目が向いて行く。損になっても御
心を行なおうとして行く。大変な変化だ。


2017年05月27日(土)

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」 マタイ5:3



私たちは、自分は心貧しい事は貧しいが、そこまで貧しくないと思
いたい。「貧しい」という言葉自体が良い響きでなく、どちらかと
言うと悪い印象なので、何かひっかかり、認めたくない。しかし、
内側をよく探るとどうだろう。突き詰めるなら、心底、他人に同情
する事など出来るのだろうか。自分の事だけで一杯だ。歯痛で泣き
叫んでいる時に、人の事など考えられないように。

又、人の喜びを、喜ぶ事ができない。ある人は入試に落ちて、合格
した友人が羨ましく妬ましくて、どうにもならなかったと。又、あ
る人は入院中に、同じ病の人が退院して行くのが羨ましくてならず、
自分は退院のめどすら立たず、祝福などできなかったと。
幸せな人を見ると、なかなか共に喜べない。自分はと、自己憐憫に
陥ってしまう。他人の事に真に関われない冷淡さがある。

普段考える事なく、突き詰める事もなく、あいまいに通過している。
自分は良い人であり、愛が無いなどと認めたくない。そんなに酷い
人間ではないと思いたい。だから、あえて見ないように、無意識に
そうしているので、気づく事も無い。しかし、霊の成長は、必ず現
状を見せられ、「認める」事から始まる。

冷淡で愛が無い、嫉妬深い、プライドの高い自分、破れ果てた真の
自分の姿を見せられ、認める時に、御霊によって、キリストのかた
ちへと変えられて行く。
自分がいかに貧しく惨めかを知る時に、新たに主に出会い、御霊の
喜びを持つ者にされて行く。信仰生活はその歴史だ。低い所に水が
流れるごとく、恵みは流れ、無い所に、神は溢れるまでに満たし
て下さる。自らの貧しさを知る者は、真に幸いだ。溢れる祝福にあ
ずかる。

・・・・・・・・・・・
色々な事が起こり、いかに自分が貧しいかを見せられる。だが何も
無ければ、自分が貧しいと知る事もない。本当の自分を見せられる
事は、主に在っては恵みであり、大きな祝福だ。そこでこそ十字架
の意味を知り、愛されている事を体験して行く。


2017年05月26日(金)

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」詩篇102:17


ある人が、神から伝道者の召しを受けた。そこで仕事を辞め、郷里
を出て、神学校に入学した。寮生活を送り、学びを受け、充実した
学生生活を送っていた。だが学年が進む時に、お金が無くなってし
まった。想定外の出費が様々あり、所持金が底をついてしまったの
だ。とにかく祈ろうと、祈りに祈った。

主のために学びをしているのであり、主は必ず必要を満たして下さ
るはずではないのか・・更に祈った。天地のすべては、主のもので
あり、主のお心一つで与えることがおできになる・・しかし、なか
なか与えられず、尚も祈るが、とうとう期限になってしまった。

自分としては精一杯祈った。だが、与えられなかったので、退学も
止むを得ず、郷里に帰ろうと、自分の部屋の荷物を整理し、荷造り
していた。そこへ学友がやって来て、実はお金が無くて続けられな
いと言った。彼も同じだったのだ。幾ら足らないのかと聞くと、そ
れが丁度、自分の手元にある額だった。

自分のためには不十分だが、彼のためには間に合う。それを彼に差
し出した。彼は驚いて感謝した。荷造りすべて終了し、最後に、一
つの封筒が残っていたが、もう見る気力もなかった。そこで友人が
代わりに開けてみると、何と学費のための小切手だった。彼と二人
で手を取り合い、感謝し、喜び、主の御名を崇めた。窮した者の祈
りを顧みて下さる主に、祈ろう。
-------------
主はご自身により頼む者を助けてくださる。それが私たちの確信だ。
主は祈る前から私たちに無くてはならないものをご存知で、それは
すでに備えられている。力強く祈ろう。


2017年05月25日(木)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」ヤコブ4:3



時に、自分にとって、強烈な願いであり、欲しいものがある。しか
し、その自分が喉から手が出るほど欲しいものが、果たして本当に
自分に必要なのかどうか。それを、神に祈り求める事ができるなら
「欲望」の誘惑から守られる。解放される。欲望は際限がない。欲
しいものと必要なものは違う。

単に自分の欲しいものを求めて行くなら、欲望のとりこになってし
まう。今、どうしても欲しいものがあるなら、それが自分に必要な
ものかどうかを、神に祈ろう。そう祈るなら誘惑から守られ、サタ
ンの足場を砕いてしまう。そして、もしそれがあなたに必要なもの
なら、神は必ず与えて下さる。

又、こんな御言葉がある。「そこで、主は彼らにその願うところを
与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」絶対にどうしてもと、
どこまでも願うなら、神はその欲望の願いに答えられるが、それに
よって、たましいはやせ衰えると。「彼らは、荒野で激しい欲望に
かられ、荒れ地で神を試みた」結果だ。

余りの欲望による願望を向けるなら、神は、ある時、それを敢えて
与えられる。しかし、それを手にして、心は虚しく荒んで行くこと
になる。罪の性質である、際限無い欲望から守られるために、今強
く求めているものが、真に自分に必要かどうかを、今一度神に伺お
う。すべてにおいて守られる。
-------------
目の前に欲しい物があれば、ろくに祈りもせず手を出してしまう。
そんな衝動買いの卑小な失敗からも、御心なら与えてくださいの祈
りの大切さを教えられる。ノーの答えも感謝ですと思える備えとも
される。


2017年05月24日(水)

「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」マタイ22:12


王が、王子の結婚披露宴を開いた。ところが招待していた客は、皆、
断って来た。神の事、永遠の事より、今の地上の事柄が大事で、心
を奪われてしまう。王や祝宴などより、畑、商売、この世の事が重
大事だ。そこで、王は、次に大通りで出会った者を皆、招くよう命
令した。

片っぱしから呼んで来たので、宴会場はいっぱいになった。しかし、
そこに婚礼の礼服を着ていない客が一人いた。王は怒って、外に放
り出した。道で、突然呼ばれるわけで、誰も礼服など持っていない。
だが、この礼服は、すべて主催者側で用意されていた。だから、放
り出された人は、王の礼服を、故意に意識して不要と拒否したこと
になる。

自分の服の方が上等だと思ったのかも知れない。彼は、町で招かれ、
招きは拒まず、やって来たのだが、王の前に出る「礼服」は拒んだ。
「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」この客のようだろ
うか。自分の服で、自分を着飾る。自分の功績、自分の力を捨てな
い。捨てたくない。自分の良い行ないで、義と認められようとする
事だ。

神の考えより、自分の考えを正しいとするなら、神を拒否する事で
あり、礼服を拒む事だ。王の礼服、義の衣、主キリストを着て、主
と一つとなり従って行こう。そして披露宴の大きな喜びと楽しみに
あずかろう。
--------------
どんなに美しく装っていても、神の用意してくださっている服を着
ないで祝福に与ることはできない。イエス・キリストを着なさいと
御言葉は度々警告してくださっている。主を身にまとい、主に着ら
れて歩もう。


2017年05月23日(火)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」Uコリント5:17



ある人が、主を信じクリスチャンになった。生まれつき非常に真面
目な性質で、更に真面目に信仰生活を送りたいと願った。懸命に御
言葉を守ろうとした。世の快楽は止め、罪からは極力遠ざかり、聖
書を読む事に励み、怒りは抑えて、感情的になる事も自制した。あ
るところまでは、出来たのだが、ついにストレスが高じて、体調を
崩してしまった。

床に伏せって、色々考えざるを得なかった。良い事を、善をして来
たのに、このストレスは何なのか。信仰の先輩が見舞いに来てくれ
て、様々な事を話せて交われて、アドバイスをしてくれた。自分は、
肉で、御言葉に従っていた事、肉で、一生懸命に実行してようとし
ていた事が示された。

自分はすでに新しくされており、御霊の内住があり、新しい自分と
されている。それにもかかわらず、古い自分の力や知恵や判断で、
必死に従おうとしていたのだと。新しくされているのに、御霊によ
ってでなく、自分の力で歩んでいた。つまり新しいぶどう酒を、古
い皮袋に入れていた。だから張り裂けてしまった。頑張りが、はじ
けてしまった。

自分はすでに新しくされている。委ねて、御霊に導かれて、御霊の
力によって、歩む事が新しい皮袋に入れて歩む事だと教えられた。
その中で、更に新しい者へと変えられて行く。すでに新しい自分、
御霊が内住している自分、そこから始まるとは、何と幸いな事だろ
う。
-------------
すみずみまで良い行いをすることで安心したい肉がある。自責で苦
しくなる時、主を信じ救われた時に与えられた喜びを思い出したい。
完全な罪の赦しと、主によって導かれて歩めるのだとの喜びに感謝
した。その喜びは今も溢れている。


2017年05月22日(月)

「神よ・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:24



ある人が、職場の上司の事で悩んでいた。いつも大声で怒鳴り、ワ
ンマンで、日々、仕事量は多く、残業は当然だった。深夜帰宅の早
朝出勤、余りのストレスに、倒れそうだった。上司に過重勤務を訴
えると、逆ギレされ、無視されるようになった。ストレスは更に高
じて怒りとなり、不満が爆発、心がどうにもおさまらない。

祈れなくなり、御言葉も全く入らず、平安のない日々が続いた。心
は重苦しく、もうどうにもならず、思わず助けを求めて、主に叫ん
でいた。心の底からの叫びであった。御前で心の内を打ち明け、祈
っていると、「他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めて
います」と、御言葉が臨んで来た。

自分は問題なく、自分は正しく、悪いのは上司、性格の悪い上司の
問題としか見えなかった。非があるのは、一方的に上司で、自分は
正しいのだから、自分の罪など見えない。どこまでも被害者だ。し
かし御霊によって、心の内を照らされた。ずっと上司をさばいてい
た自分。だが、どこまでも自分を正当化しているので、自分に罪な
どあり得ない。

その罪を認め、悔い改めたその時、心に平安が来た。心に鉛があり、
ずっと重苦しかったその心が平安にされ、その平安は何ものにも代
えられない喜びだった。心底の安堵だった。嬉しかった。自分の心
に潜むものを、御霊は探り、平安へと導いて下さる。
----------
自分が被害者なのに平安が全く無い、怒りや悲しみ、それしか見え
なくなってしまう経験は誰にでもあるだろう。自分を越え、全てを
正しく導かれる主に、この謙遜な祈りをささげよう。


2017年05月21日(日)

「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、 それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜が流れている」 民数記14:8



苦難のエジプトを出て、民は荒野に移された。その時に、主の示し
により、モーセは、カナンを偵察するため12人の斥候を遣わした。
戻って来た彼らの結果は二つに分かれた。10人は否定的だった。民
は強大で、自分達はいなごのようで、攻め上れないと恐れて怯えた。
しかし、ヨシュアとカレブは、上って行って占領しようと、信仰に
立った。

民は、紅海が分かれるという、神の奇跡を経験して来た。カナンへ
導き入れるとの約束も何度も聞いていた。だが、斥候の否定的言葉
を聞いた時、神を信じる事が出来なかった。斥候の12人は、全く同
じ状況を見た。しかし、信仰の目で見るのと、肉の目で見るのとで
は、こんなにも結論が異なった。

人間は、否定的見方が強く、放っておくと、否定的方向へ進んでし
まうと言われている。10人と民達は、神ではなく、目に見える状況
しか見なかった。しかし、ヨシュアとカレブは、神を見て、神の約
束を見た。神は必ず約束の地カナンを与えられると。そしてその結
果、彼らに導かれた人々は約束の地へ入って行くが、不信仰に陥っ
た民は皆、荒野で滅んでしまった。

神は、そんな事は不可能だと言う、信じない人々と一緒に働く事が
お出来にならない。私達の思考は否定的、悲観的に傾いてしまう。
神の言葉に立ち、御言葉を握り、御言葉で判断して行く訓練が大切
だ。今、見ているものは、御言葉だろうか、状況だろうか。

・・・・・・・・・・・
信仰生活は練習だ。御霊の気づきが与えられる事によって、状況を
見る目から、上を仰ぎ、御言葉へと目を移される。目に見えるとこ
ろの影響力は凄まじい。飲み込まれてしまう。しかし祈りつつ御言
葉にじっと目を向ける時、まず心が変えられて行く事を経験する。


2017年05月20日(土)

「だから、聞き方に注意しなさい」ルカ8:18


「聞き方」に注意するようにと言われている。ただ単に、御言葉を
聞いていればよいのではない。聞いているつもりで、右から左に流
れてしまっているかも知れない。ぼやっ〜と聞いていれば、サタン
がとって行ってしまう。サタンが持ち去るなら、聞かなかった事と
同じになる。

イスラエルの民は皆、モーセから神の言葉を聞いていた。しかし、
聞いた言葉が「信仰に結びつけられ」なかったため、最後まで神を
疑い、結局は不信仰によって荒野で滅ぼされてしまった。何のため
にエジプトを出たのかわからない。

モーセは神に導かれ、神の言葉を語った。イスラエルの聞く側に問
題があった。信仰に結びつける事が大切だ。御言葉を聞く事は嫌で
はないので、幾らでも聞ける。だから、聞いているので、OK、問
題無しと思ってしまう。しかし、信仰に結びつけて、自分の事とし
て、自分に当てはめて聞かなければ、御言葉は御言葉、自分は自分
と、大きな隔たりがあって、そこに結びつきがない。

傍観者になっていて、御言葉は何年も聞いているのだが、自分が変
わる事なく、成長が無いことになってしまう。しかし御言葉は聞い
ているので、気づかない。又、「自分の思い」に立って聞くと、御
言葉がよくわからない。御言葉の価値観は「神中心」で、自分の価
値観は「自分中心」だ。正反対だ。

へりくだって、御霊の助けのもと、祈って聞くなら、御霊が教えて
下さる。「聞く」だけでなく、自分の「聞き方」はどうだろう。

・・・・・・・・・・
他人事で、傍観者としてに聞くと御言葉を流してしまう。自分の思
いも、御言葉を妨げる。不都合な御言葉は捨ててしまう。「しもべ
聞いています。お従いします」の態度で聞く時、御言葉が心に入っ
て来る。愛して下さっている方の言葉を、どんな聞き方をしている
か、ちょっと振り返ってみよう。


2017年05月19日(金)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」イザヤ55:8


主のみ思いと、私たちが思うことは「異なる」と言っている。主の
計画と、私たちがこうすれば良い、こうすれば幸せになれると思い
描く道は「異なる」のだと。人間は、自分は正しい、自分の考えは
良いと思っているので、この道が絶対と計画を立てるが、主のみ思
いは違うと。

そして、主のみ思いは、遙かに「高い」と。地上を歩いている時に
は、歩いている、その範囲のものしか見えない。しかし、何10階の
高層ビルの最上階から見渡すとどうだろう。ぐるりと四方が見渡せ、
遙か遠方まで見える。人間は目の前の事しか見えないので、限られ
た情報しか無いので、目先の事しかわからない。しかし、主は遙か
先をもご存じだ。

明日もわからない私たちだが、主は明日も明後日もご存じだ。その
上で、私たちの幸せのためのご計画を持っておられる。時に、「ど
うしてこんな事が?」「なぜ私に?」「なぜ?どうして?」という
事態が起きる。自分の思いとは全く異なる事が起きる。決して思い
通りではない道だ。そしてその時には、喜ばしい事ではない事もし
ばしばだ。むしろ痛く、辛く、悲しい。

しかし、今はわからず、理解できず、納得できなくても、後の日に、
この事があって良かった、この事があったからこそ、今の自分があ
ると、言える日が来る。だからどんな時にも希望がある。刺繍の裏
側のように、ぐじゃぐじゃにしか見えないが、主は目的持って素晴
らしい絵を描いておられる。後の日に、パズルがつながるように、
見えて来る。
-----------
起きる問題の原因を自問し、解らなければ不安になるが、失敗です
らも後の日の益に結び付けてくださる神が導いておられる。解らな
いことを受け入れ、今日を喜んで生きる方を選びたい。


2017年05月18日(木)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3



ある人がこの御言葉を、「自分が立てた計画を、主にゆだねよ。と
にかく、主にゆだねるなら、その計画は成功する」ような意味だと、
とらえていた。それで、自分が立てた計画を、これからしようとす
る事を主にゆだねますと、ゆだねた。その結果、大きな失敗となっ
た。

そのプロジェクトは成功どころか、思ったより難度が高く、全くう
まく行かなかった。計画は挫折してしまい、自分自身も、余りの心
身過労で倒れ、体調を崩し、入院する事態になってしまった。その
時に、自分が立てた計画をゆだねるのではなく、自分自身を、自分
の思いをまずゆだねるなら、主の立てて下さった計画に、御心にあ
ずかって生きて行けるという事だと、教えられた。

私たちも、自分の思いがどうしても強く、ゆだねる事が、なかなか
難しい者であるが、そうできるよう祈ることができる。主は助けて
下さる。心の内に、御心のままに志を立てさせて、事を行なわせて
下さる。又、主が与えて下さる計画は、しばしば自分の思いと違う
かも知れない。

しかし自分の思いと合致しても、しなくても、それを受け止めて行
く時、必ず祝福へと導かれる。そして神からの計画と、心に確信が
持てるので、揺るがずに立って行ける。自分の力でなく、自分が背
負うのでなく、主が事を行わせて下さるので、主が責任を負って下
さる。
------------
これによって主は私を何処に導こうとしておられるのか、一つ閉じ
られたらどの道が開かれるのかと、自分の思いを置いて御声を聞い
ていこう。今までも知らぬうちに主は導いて祝福してくださった。


2017年05月17日(水)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8 



悪魔が信仰者を、食い尽くそうと狙っているとある。ある箇所で、
日が暮れるまで憤ったままではいけないと言っている。相手に対す
る怒りやイラ立ち、赦さない心は、悪魔に、足場を与えてしまうか
らだ。不平不満、愚痴、失望なども、そのままにしておくなら、悪
魔はつけ込んで来る。

主のもとに持って行き、祈りに持って行く事が大切だ。主は悔い改
めに導いたり、矯正して下さる。悪魔に機会を与えるなと。カイン
はアベルへの妬みが怒りとなり、悪魔に機会を与えてしまった。主
のもとへ行き、悔い改めて、罪を治めるべきであった。サウル王は
ダビデへの妬みにより、悪魔に足場を与えてしまった。

悔い改め、捨て去ることをせず、足場を与え続けてしまった。ダビ
デは、バテシバを見た時に、主を呼べば良かった。足場を与えてし
まい、姦淫の罪を犯してしまった。その時に悔い改めていたなら、
次の罪に進まなかっただろうに。悪魔が、食い尽くすべきものを捜
し求めながら、鵜の目鷹の目で、獲物を狙っている。

又、特に、赦せない心は、平安が無く、苦しく、牢獄の中だ。「私
の赦したことは、キリストの御前で赦したのです。サタンに欺かれ
ないためです。サタンの策略を知らないわけではありません」とあ
り、赦す事が、悪魔の足場を壊し、恨み、腹立ちをしずめる。主の
もとへ行こう。ありのままの心の内を打ち明け、祈りに持って行く
時、主が一つ一つを導き、成し遂げて下さる。
-----------
思いに合致して来るので当たり前の感情と思わされるが、御霊の実
を基準にすれば、悔い改めることばかりではないか。目を覚まして
いよう。サタンとの戦いを意識し主よ助けてくださいと祈ろう。


2017年05月16日(火)

「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」ヨハネ6:15


主は、5千人の給食の奇跡をされた。それを見た群衆は、主を王に
かつぎ上げようとした。しかし、主は、大勢の群衆が主を信じると
言い、後を追いかけ回しているのは、主ご自身を求めてではないと
言われた。しるしを見て、そこに霊的な恵みを見て、この方こそ主
キリストと信じて、ついて来たのでなく、パンが欲しくて、そして
更なるパンで満たされたい。自分の願望が満たされたいがゆえに、
ついて来ていると。

満腹とは、自分の欲望が満たされる事であり、自分の満足、自己実
現だ。肉の喜び、肉の満足が欲しいばかりで、そこに主がまことの
神である事や、永遠の恵みを見る事はない。主は求めよと言われる。
そして祈りに答え、必要を満たして下さる。しかし、気をつけてい
ないと、私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望満足だけに向かって
しまう。欲望充足の手段となってしまう。

そしてそうであれば、欲望が叶えられず、思い通りにならない時に、
遅かれ早かれ主のもとを去る。主は、そんな私たちをあわれみ、正
しく導くために、時に、思い通りでない答えを与え、よく考えさせ、
動機を探らせ、省みさせて下さる。

「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で
心を探り、取り扱い、御心に適った者へと成長させて下さる。思い
通りにならない状況は大きな恵みだ。主に近づき、主のお心を尋ね
よう。動機が探られ、更なる成長へと導かれる。
-----------
自分視点でしか主を見られない時は、祈っても毎日が不安と不平で
で仕方ないが、主はどういうお方で、主はどんなご計画を持って・
・との見方に立つなら毎日は新しい発見の連続ではないだろうか。


2017年05月15日(月)

「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」マルコ12:44


1人の貧しいやもめが2レプタを献金した。僅かな額であったが、
主はその事を大きく評価された。金持ちが多額の献金をしていた中
で、そっと献げたこのやもめに目を留められた。それは彼女の生活
費のすべてだった。主はそれを重く受け止められた。ここで言われ
ている事は何なのだろう。やもめのように、全生活費を献げよと言
うことなのか。

それが信仰的で、霊的だということなのだろうか。そうではなく、
大事な事は、彼女の心の目が見えるところでなく、主に向いていた
という事だ。目の前の生活や、物や、将来の事、将来の必要ではな
く、ただただ主に向いていた。所有欲から自由にされて、自分のす
べてを主に明け渡し、委ねきっていた。

「人が主に向くなら、おおいは取り除かれ」「主の御霊のあるとこ
ろには自由がある」神と富に兼ね仕える事はできない。彼女の心は
富にではなく、神にあり、神に自分自身と将来を任せた。投げ入れ
たのは、彼女の所有欲、自我、いのちそのものであり、神にすべて
を明け渡したのだった。それが彼女の信仰であった。

自分で自分を守ろうとせず、明日の必要は与えられると信じた。そ
して、人にどう見られるかもなく、自由であり、ただ主だけを意識
していた。主はその心をしっかり受け止めて下さった。同様に主は
私たちの献げものも、その心もしっかりと受け取って下さっている。
主は、今日も私たちの心を見ておられる。
---------------
経済的なことや人間関係、様々なことに心配りをしながら生きてい
る。その中の一部を主にお任せして残りは自分で格闘していると示
される。全てを主にお任せし支えられ、こころ広やかに歩みたい。


2017年05月14日(日)

「たとい、主が天に窓をつくられるにしても、そんなことがあるだ ろうか」U列王7:2



飢饉で人々が餓死する、非常事態の中、エリシャは「明日、小麦や
大麦が溢れるばかりにある」と語った。すると侍従はそんな事が、
あり得ようかと言った。それを聞いてエリシャが、あなたはそれを
見るが、食べられないと預言した。そんな時、サマリヤの門に四人
のらい病人がいた。町は飢饉、ここにいてもどうせ自分達は死ぬ。
それなら、敵の陣営へ入ってみようと。

あるいは食料があるかも知れない。すると敵の陣営で、神が敵に、
大軍勢の騒ぎを聞かせられ、襲撃と勘違いするようにされた。敵は
驚き恐れ、陣営を置き去りにしたまま逃亡した。それでそこに入る
と、山ほどの金銀と食料が溢れていた。彼らは、王家に知らせた。

王は信じなかったが、偵察により事実を知った。すると大勢が殺到
したので、門の管理をしていた侍従は踏みつけられ死んだ。預言通
りになった。実際、溢れるほどの食料を神は用意された。しかし、
それを信じなければ、自分のものにはならない。溢れる食料がある
にかかわらず、飢えて死ぬ事になってしまう。

私達も同様だ。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされ
る事・・、溢れる食料の中にいながら、信じなければ、餓死するよう
に、溢れる恵みの中で、不信仰でいないだろうか。自分で恵みをシ
ャットアウトしている、自分の姿ではないだろうか。満ち溢れる食
料が目の前に備えられている。信じようとしない自分に気づく事か
ら始まる。

・・・・・・・・・・・
「そんな事、ありえない」との侍従は、恵みを受け取れなかった。
主の言葉は実現する。御言葉を捨ててしまわないで、耳を傾けて、
信じて行く時に、みわざを見て行く。御言葉を流さないで「信じら
れません」と主に向き合って行こう。次の展開へと導かれる。


2017年05月13日(土)

「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいの です・・今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となって います」ピレモン10



神の摂理、ご計画、神視点を見ることができる。オネシモは主人の
物を盗んで、逃亡した。奴隷が自分の主人の物を盗み、逃亡とは、
大きな罪だ。あってはならない悪事だ。しかし、神の側から見ると、
別な見方がある。神は、このような災いをも、益とされて、ご自身
の栄光へと変えて行かれる。

オネシモが逃亡した事により、ローマに行く事になった。そこでパ
ウロと出会い、主の救いを受けた。否定的な、害であるような事柄
さえも、神は益と変えられる。いっさいの起こる出来事が、神の許
しの中であり、主権のもとであることを認める時に、物事の見方、
人生の見方が全く変えられてしまう。

神視点で見る時、オネシモが一時、主人ピレモンのもとを離れたの
は、彼が永久に主人のもとにいるためだった、となる。神視点で、
目の前の事態を見、人生を見るなら、どんなに幸いであり恵まれる
事だろう。兄たちの悪意でエジプトに売られたヨセフも、兄たちと
再会した時に同じ事を言った。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことの
ための計らいとされた」と。兄たちは悪意であったが、神はその悪
意すら良い事の計らいとされた。エジプトの総理大臣とし、大飢饉
の中、ヨセフによって一族は命を取りとめた。今、目の前の事態を
単に出来事だけでなく、それを神視点で捕らえよう。豊かな恵みと
される。

・・・・・・・・・・・
目の前に痛い事柄、苦しい事態事が生じる時、それだけを見るなら
苦しいばかりだ。しかし神視点に立つ時、「この事により、何を教
えて下さっていますか」の問いに変わり、結果的に摂理の神に出会
って行ける。そこに神の恵み、み思いを見て、ご愛に触れる。


2017年05月12日(金)

『この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」』マタイ4:8


サタンはすべての国々とその栄華を差し出し、主を自分に服従させ
ようとした。サタンに従うなら、これをすべて上げるよと誘惑した。
私達にも同様の誘惑が来ている。神の栄光でなく、自分の栄光、神
の御心でなく、自分の思いの道だ。サタンの誘惑だ。そうすれば地
位が、名誉が手に入り、自分の誇りが満たされると。

ある人が、自分の才能が発揮できて、且つ大変な高給で、地位を約
束された転職が来た。御心でないとうすうすわかっていたにかかわ
らず、すべてが強烈な魅力であり、願望に合致していて、乗ってし
まった。高給だけあり極めてハードで、霊的な事のための時間がな
く、平安を失って行った。御心をそれさせるサタンの誘惑であった。

あなたにも魅惑的な事柄が来ているだろうか。自分の思いで判断せ
ず、よく祈って御言葉に聞こう。主イエスは御言葉に立たれたので、
サタンは退いた。エバは御言葉でなく、自分の思いに立ったので、
サタンにやられてしまった。

主イエスはいっさいご自分の思いを持ち出さず、御言葉がどう言っ
ているのか、その神の御心に従順に従われた。御言葉の下に自分を
置いて、御言葉に従う人をサタンもどうも出来ない。今、判断が必
要なら、自分で決めずに、祈って御言葉に聞こう。
-------------
自分を神のように拝ませるために、サタンは今、何を持ってきてい
るのか。何気なく思いに来る誘惑や迷いは、そのままにしてしまい
がちだが、主の元に、光に出して行こう。主に聞き助けを求めよう。


2017年05月11日(木)

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」詩篇115:1


ある人が、主がどんなに素晴らしいお方かを、職場で何とか証しし
たいと願った。心に願いはあるのに、いざ職場に出ると、どうして
も出来ない。勇気が無くて話せない。クリスチャンだと表明する事
を恐れる自分がいる。又、何から、どう話していいかがわからない。

毎日そうしたいと願うのだが、出来ないまま、ずるずると日が過ぎ
た。思いはあるのに、勇気が無く、段々、人と話すのを避けてしま
っている自分に気づいた。主がこんなに愛して下さっているのに、
申し訳ない。心、悶々状態となり、祈ろうと、主の御前に出た。
あるがままを主に告げて「ごめんなさい、どうしても出来ません、
助けて下さい」と祈った。

そして、祈り続けていた数日後、突然、職場の上の人が「○○さん
はクリスチャンなの?」と話しかけて来た。びっくりして、聖書、
教会の事、自分の信仰の事を色々話せて、近くにいた同僚も一緒に
加わって来て、証しが出来たのだった。翌日には、わかりやすく書
かれたトラクトも渡せた。祈りが答えられた。そして自分でなく、
まさに主が働かれた事がわかり、感謝が溢れた。

自分には出来ない、無力の中にこそ、働かれる主に触れ、喜びで一
杯になった。御名を崇めた。もし自分の力で出来たなら、表面上は
へりくだっても、内心自分を誇ったに違いない。しかし、心底「役
に立たないしもべです」と認める事ができて、喜んで主にのみ栄光
を帰し、神の御名をたたえる事ができた。主に拠り頼む時に初めて、
主に栄光を帰して行く。無力こそが幸いだ。
------------
できない、無力と、主に拠り頼むところに主は恵みと栄光を見せら
れる。謙遜にさせられるとは何と祝福だろう。主の恵みが見えてい
るだろうか。主がしてくださったことを感謝して力強く証ししよう。


2017年05月10日(水)

「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ」ルカ15:31



弟息子が、父の財産をもらい、家を出て、放蕩三昧に身を崩した。
餓死寸前で我に返り、父のもとへ帰ることを決意する。好き放題を
して、財産も浪費し尽くした息子を、父は何も言わず、責めずに全
面的に受け入れる。息子が帰った事が、父には大きな喜びだった。

ところが、兄息子は、行方不明であった弟が無事に戻ったのだが、
受け入れられない。好き勝手をして、身を持ち崩した弟、そんなこ
と自業自得ではないか。その弟のために宴会とは何事だ。兄息子は
激しい怒りがおさまらない。怒りで、家に入ろうともしない。父に
食ってかかった。

自分はずっと父に仕え、戒め破った事がない。なぜこんなろくでも
無い弟のために、子牛をほふり、宴会なのかと。怒りで、納得が行
かない。実は、兄息子は長年不平不満でいっぱいだった。父との関
係は労使関係、雇用関係だ。しかし父は「私はいつもいっしょにい
る。私のものは、全部おまえのものだ」と。

兄息子は、父のすべてが与えられている。だが、全部の祝福を手に
している事がわからず、弟への待遇に怒った。妬みもあったかも知
れない。兄は、父の愛を受け取ろうとしないので、愛がわからない。
父は、弟息子は「死んでいた」と言った。だが、兄息子も同じよう
に「死んでいた」。

自分は正しいので、罪が見えず、それなら、悔い改めも無いことに
なってしまう。父は兄息子を、こんなにも深い愛で愛している。今、
心が不満でいっぱいなら、溢れるばかりに注がれている主の愛を覚
え、立ち返ろう。
-------------
ありのままを愛され、受け止められていることを覚えたい。不平不
満の中に自分は正しい、よくやっている、だから与えられていると
の価値観がないだろうか。自分の罪も御父への感謝も見えなくなっ
てしまう。


2017年05月09日(火)

「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった」ルカ5:6



ペテロは、徹夜の漁も収穫なく、疲労こんぱいだった。魚が捕れな
いので、場所を変えながら、あちこち移動しての作業だったろう。
それでも空手で帰り、今日の糧もなく、心身共に疲れ果てたことだ
ろう。群衆が主の言葉を聞きに集まっているのに、背を向けて、聞
く気なく網を洗っていた。早く帰って身体を休めたい一心だったろ
う。

そこに主が「少し」舟を出すよう言われた。その前に、先生に姑を
癒してもらった恩義もあり、少し位ならと、舟を出した。持ち舟で
あり、何もする事もなく、仕方無く舟の中で、主の語る言葉を聞い
た。最初、主の語る言葉に全く背を向けて網を洗っていたペテロが、
主の語る御言葉を聞いた事により、心に変化が生じた。

その後、主が「深みに漕ぎ出して魚をとれ」と言われた。しかし、
常識、自分の考え、今までの経験値では、朝に魚はいない。あり得
ない事だ。だが「でも」との思いに変えられた。「でも、おことば
どおり、網をおろしてみましょう」と。ペテロは御言葉を実行した。
その結果、今まで経験した事のない大漁を見た。

主は従えるように、少しづつ導かれた。「少し」舟を出させ、御言
葉を聞かせ、沖へ出るようにと。「少し」出ているので、そのまま
沖へ行ける。配慮が込められている。最初から「沖へ」なら断って
いたかも知れない。従えるように、手を取って助けて下さる。今、
何かの示しがあるなら、その一歩踏み出そう。次の展開があり、大
きな祝福にあずかる。
---------
いきなり深みに向かって「お言葉どおり」と出て行ける人ばかりでは
ない。主は一人一人にあった方法で少しずつ導いてくださる。これま
での経験や思い込みから一歩漕ぎ出してみよう。


2017年05月08日(月)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:12



私たちの日常で、状況的に、様々な問題が起きる。目の前に起きて
いる苦しい問題に、心は奪われ、右往左往する。何とかしなくては、
対応策はと、あれこれ思い悩み、心痛み、思い煩いにおそわれる。
とにかくどうにかしようと、立ち騒ぎ、ああでもない、こうでもな
い、あれやこれやと煩い考える。

そして、だいたいその場合、自分は被害者だと思っている。「何で、
自分はこんなひどい待遇に会うのか」「この職場が悪かったのだ。
違う職場であれば・・」「何で、あの人と出会ったのか。あの人の
ためにこんな苦しみに会っている」「何で、自分はこういう生い立
ちなのか」、職場が、親が、周囲が、環境が・・悪いとしか見えな
い。

悪い態度を取る相手が悪い。自分を怒らせるような事を言ったから、
自分は怒ったのであって、自分は悪くない。言い訳は幾らでも出て
来て、どこまでも自分を正当化して行くので、罪が見えない。自分
は正しいのだから、罪は無い。アダムとエバは罪を犯した後、アダ
ムは自分のせいではない、エバが悪いと、エバは自分が悪いのでな
く、蛇が悪いと、自分を正当化して行った。

肉に、根深く巣くう自己正当化、自分の内にないだろうか。肉は、
罪を認めたくない。そのため、無意識にもはまって行ってしまう。
御霊が気づかせて下さるように祈っていよう。罪を認め、赦しを受
け取る時の、平安と喜びは何にも代えられない。
---------------
言い訳は次々と出てくるが、自分の内に神の言葉よりサタンの言葉
が好ましく、しっかり選んでいった罪がないだろうか。うやむやに
したいが、赦そうと声をかけてくださる神に応答しよう。


2017年05月07日(日)

「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。 『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』」マタイ14:31



主は弟子たちを舟に乗り込ませられたが、その舟は強い嵐に見舞わ
れた。懸命に漕いでも、舟は進まず、漕ぐのをやめるなら、逆風に
押し流されてしまう。弟子たちはもう死にもの狂いで、逆風と長時
間悪戦苦闘していた。そんな時に、ずっと見ておられた主が湖の上
を歩き、近づかれた。しかし彼らは、その人影を幽霊だと思い、恐
怖の叫び声を上げた。

だが「しっかりしなさい。わたしだ」と、御声をかけられた。する
とその時ペテロが、水の上を歩いて主のもとへ行きたいと願った。
大変な願いだ。主は、それをとがめる事も、拒む事もされず「来な
さい」と招かれた。ペテロは主の言葉があれば、行けると信じ、一
歩を踏み出した。まだ風がやむ前の、波風逆巻く大嵐の中だ。

何と、そのまっただ中を歩いた。一心に主を見つめている間は歩け
た。しかし、風を見た途端、恐怖の余り、ぶくぶくと沈み始めた。
水の上を歩くなど、この世の常識、価値観ではあり得ない。今、自
分は何をしてるのか・・。私たちも主から目を離すと、必ず沈む。だ
が、「主よ。助けてください」と叫ぶと、「すぐに」手をのばし、
つかんで下さった。

私たちも、主の御声を聞いて、従おうと一歩を踏み出す。しかし主
から目を離して、逆巻く波風に恐れをなしてしまう。沈みかける瞬
間に、主がつかんで助け上げて下さる。何度も何度も助け上げられ
て、今がある。沈む時は、主から目を離した時だ。繰り返し〃信仰
の練習をして下さっている。「助けて下さい」に、すぐにつかんで
下さる。

・・・・・・・・・・
日常生活でずっと経験する。どんなに大変な中でも、主を見上げる
と、平安と安堵に包まれる。主から目を離すと、状況に飲み込まれ、
ほんろうされて、沈んでしまう。しかしどんな時も主の大きな愛の
御手の中だ。いつでも主を呼ぶ事ができる。


2017年05月06日(土)

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7 

 
エステル記の中で、王に重んじられたハマンに、家来は皆ひれ伏し
た。しかしモルデカイがそうしないので、ハマンはひどく怒った。
そのためモルデカイの民族を根絶やしにする事を画策した。王に巧
く取り入り、ユダヤ民族皆殺しの、王の命令を取り付けた。サタン
が、この邪悪なハマンを通して、神の計画をつぶし、阻止しようと
働いた。その結果、ユダヤ民族殺害の勅令が出された。

モルデカイは祈り、王妃エステルに、王にあわれみを求めるよう伝
えた。だが、召されないで王のもとへ行く者は死刑だ。そして、エ
ステルはこの30日間王に召されていない。しかし、この危急の事態
に、自分は命をかけるので、民にも断食の祈りを要請した。そして
祈りがなされた。

ハマンはモデルカイを殺害すべく柱まで用意したが、神は祈りに答
え、介入された。王を不眠にし、年代記を読むようにしむけ、モデ
ルカイの手柄を見つけさせた。結局、神が、ハマンが裏で仕組んだ
邪悪な企みを、明るみに出された。モルデカイ殺害のための柱に、
ハマン自らがかる事になった。邪悪な企みは自分の身に返った。

サタンの陰惨な企みは、神が光に出された。隠れたものは明らかに
される。神はモルデカイに知恵を与え、なすべき事を示し、民は祈
りを献げ、エステルは命を献げ、行動し、サタンは打ち破られた。
私たちにも、サタンの攻撃は絶えずあるが、まず祈り、主に従い、
示された事をして行く時、サタンは破られる。

・・・・・・・・・・・・・
サタンは攻撃して来るが、まずよく祈って、示されたことに従って
行く時、サタンに立ち向かう事になる。サタンは逃げ去るとある。
御霊の導きをよく悟り、拠り頼み、示された通りに従おう。そこに
主が力強く働かれる。主の愛の内に堅く守られている。


2017年05月05日(金)

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」ルカ1:35 


時に、理解を越えた事態にでくわす。マリヤがそうだった。突然、
御使いが現われ、仰天するようなメッセージを告げた。マリヤがみ
ごもると言う。男の子が生まれるので、名をイエスと付ける事。そ
の子は神の子であり、預言されていた救い主だと。しかし、マリヤ
はその言葉に応答し「どうして処女の自分にそんな事が」と尋ねた。

大きな戸惑いであったが最初から全面拒否でなく、まず受け止めて
対応した。御使いは答えた。聖霊によると。不妊のエリサベツにす
でに奇跡がなされている。神に不可能はないと。これらの言葉を聞
いた時、マリヤは「おことばどおりこの身になりますように」と身
を差し出した。

結婚前にみごもるなら、姦通罪として死刑だ。ヨセフの立場はどう
なるのだろう。聖霊により妊娠したなどと信じられるのだろうか。
信頼関係も壊れ、婚約も破綻し、夢に描いた結婚も消え去るだろう。
死をも覚悟の上での告白であった。マリヤは、神の言葉に身をもっ
て応えた。

救い主の母となる恵みが実現したのは「私は主のはしためです」と
へりくだり、「この身になりますように」と身を明け渡して、応答
したゆえだ。私達も突如の事態には、大きく戸惑い、動揺する。し
かし、拒否、否定的にならずに、主からのものと、まずは受け取れ
るよう祈ろう。

そして「自分の思い通りに」でなく「お言葉の通りに」と言える事
を求めて、ありのままの気持ちを祈ろう。取り扱われ、自分が変え
られて行く。そして従う時に、聖霊の力が臨み、大いなる恵みが備
えられている。
------------
認められない現実を前にすぐに「お言葉の通りに」とは言えない。
できれば回避したい。神からのものであると向き合えない現状も主
に告げていこう。そのひとつひとつの過程も主は導いてくださる。


2017年05月04日(木)

「悪魔は言った・・『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』」マタイ4:8



自分は「何のために」信仰しているのだろう。立ち止まって、よく
考えてみる必要がある。もし信仰が、自分の願いを得るための「手
段」なら、自分の欲しいものを手にしたなら、信仰は不要になる。
又、願望を遂げるための手段なら、絶対に欲しいのなら、別に、他
の手段でも良い事になる。

サタンは、「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。あ
なたの欲しいものを何でも上げるよと。そう言われるなら誘惑に乗
ってしまう。目的のものを得たいだけなら、誰がくれようと、構わ
ない事になる。しかし主にとっては、御父を礼拝する事は、手段で
なく「目的」だった。このところが肝心だ。

もし信仰が、より有益な人生とか、より高尚な生活、道徳的生活、
人格者になること、自己実現のための手段だとするなら、神が自分
の思い通りに、期待通りに動いてくれなかったら、遅かれ早かれ必
ず失望する。神の愛を疑い、神から離れ去る。いつか神を捨てる。
そこに自分にとって益が無く、得るものが無いのだから。

しかし、神を神として信じ、神を崇め、何を得ようと得まいと、神
との交わりを目的として歩むなら、何があっても平安と喜びを失う
事はない。状況は関係ない。あなたは「何のために」信仰している
だろう?何かを得るための手段だろうか。それともこの与えられた
人生、あなたの神、主を礼拝して生きるためだろうか。
--------------
目的のものを得るために祈るのではなく、神が聞いてくださってい
るから何でも祈るのであり、委ねまかせている神を神とし賛美しひ
れ伏し拝む。神に愛されていることを知って歩む人生は何と幸いだ
ろう。


2017年05月03日(水)

「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、


ある人が、思春期の頃から、父親との長年の確執があった。仕事人
間で、ほとんど家にはおらず、しかしワンマンで厳しく、上から抑
えつけられて来た、気持ちを聞いてもらった事など一度もない。そ
んな父親を恨み、憎んでいた。父親が大嫌いだった。主を信じた後、
その事が取り扱われた。

憎しみは、苦しみをもたらした。苦しくてたまらなかった。心が、
どうにもならず、がんじがらめだ。まさに牢獄の中だった。常に囚
われの身であり、父親が目の前にいようと、いまいと関係ない。楽
しい時にも、ふっとよぎり、心は沈み暗くなった。まさに真っ暗な
牢獄の中だ。余りにも苦しくて、もう一歩も進めず、主の御前に、
この事を差し出し祈った。聖霊は心に示された。

今、うまく行かず、自分がこうなっているのは、すべて父親のせい
だと思っている事。それで父親を恨み、赦せない思いでいる事。し
かし、父親を責めていれば、自分を見なくて済む。そして父親がど
うであれ、憎む事は、自分の問題であり、自分の罪である事を。そ
れがわかった時、自分の罪を認め、悔い改めた。その時、涙が溢れ
出た。

神が触れて下さった、恵みの涙だった。心が溶かされて行くのを感
じた。神の赦しを実感し、あの苦しかった心がすう〜っと穏やかに
なり、平安になった。そしてあの憎しみと苦しみが不思議に消えて
行った。相手に関係なく、自分の感情、思いは自分の責任だ。それ
を認めて行く時、自由にされ、解放されて行く。御霊からの喜びを
経験する。
--------------
神が触れてくださるゆえに、人ではなく自分の罪を悔い改め、赦し
を受け取る事ができる。混乱しやすく人しか見えない者だからこそ、
隠れている私の罪を悟れ、お赦しくださいの日々の祈りが大切だ。


2017年05月02日(火)

「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」ヘブル12:15


ピリピの教会で、ユウオデヤとスントケは、主のために歩んでいた
が、二人の間に争いがあったようだ。それで主に在って一致するよ
うにと、パウロは勧めている。一致を妨げるものが「自己中心」と
「虚栄」だと。交わりの中で、様々な行き違いも生じるが、余り自
分に関係の無い事は、フェアで寛容でおれる。が、いざ自分の利害
に直接関わって来るや、大変な事になる。

過敏になり、保身の態勢に入り、自分を正当化し、相手を責め、攻
撃的になってしまう。これは「自己中心」によるものだ。又、他者
の言葉が、自分のプライドや虚栄心、体面に触れるなら、ただでは
済まない。激怒して反撃に出るか、内向して執念深く恨み、憎しみ
を抱く事になる。

自分の心にざらつく思いや、イラ立ち、苦い思い、重苦しい状態が
出て来たら、自己中心、虚栄、プライドでないか、御霊によって心
探って頂こう。苦い根を置いておいてはならない。その根は心に巣
くって、どんどんはびこってしまう。すぐに主のもとへ持って行き、
十字架の血潮で、聖めて頂こう。罪の苦い根を、小さい内に、次々
と根本から引き抜こう。

心に何か平安が失せた時には、御霊に照らして頂き、悔い改める時、
罪は赦されて、平安が戻る。苦い根によく気をつけよう。今、心に、
苦いものがあるなら、命取りになる前に、そのまま主のもとに持っ
て行こう。まず祈りに持って行く時、必ず導かれて行く。
------------
心にざらつきを覚えたなら、根の所を見極めよう。自我が満たされ
思い通り行っていれば気づけなかった罪だ。何かを御霊様は示して
くださる。対処療法でなく根を取り除けるよう祈ろう。


2017年05月01日(月)

「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8


ルステラで宣教していた時に、生まれながら足のきかない男性が座
っていて、一度も歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語ってい
た時に、その人が丁度そこにいて、じっと聞き入っていた。彼は自
分の足に関して、何の手だてもなく、何をする事もできなかった。
どうやっても歩く事は不可能で、自分に何の望みも置けない、完全
無力の状態だった。

自分で何をどうする事ができない。何の方策も無い。だからこそ、
「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがっ
た。全くの無力だからこそ、すがれた。彼にはこの言葉しかなかっ
たのだから。全望みを置いて信じてすがりついた。この言葉がすべ
てだった。もし自分に何かができ、力があれば、御言葉にすがる事
はできない。どこまでも自分に頼り、自力でやってみる事だろう。

無力だったので、その言葉に拠り頼んだ。信仰が働き、神の力によ
り奇跡が起きた。一度も歩いた事のない彼が、飛び上がって歩き出
した。私達も自らの無力を知る時が、信じる時だ。何の方策も無く、
何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて信仰
が働く。

自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、神へ
の信仰は無い。幾ら御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやっ
て行く。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を明け渡し、委ねて
行く事だ。ゆえに、自らの無力を知る事が大きな祝福であり、幸い
だ。
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あまりに大きな試練が来るともう委ねるしかないと、逆にすっぽり
主の平安に包まれることがある。日常生活の中で感謝が失せ、スト
レスを感じる時、御言葉に向かいまた心を新たにされよう。