2017年06月30日(金)

「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」ルカ11:10


祈りは学校だと言われている。最初は、「あれを下さい、これを下
さい」「主よ、あっちに行って下さい、こっちに来て下さい」式祈
りだ。受験合格、商売繁盛、家内安全、無病息災・・自分の願望、
自分に都合良いものを求める。無いものを満たしてもらい、御利益
を求める。自分が安心するためだ。

しかし、信仰の初心者の頃は、それらにも答えて下さる事を経験す
る。振り返ると、よくわかっていなかった祈りにも答えられていた。
最初は、主との関係が変わっただけで、後は何も変わらず、今まで
の根深い価値観があるので、そうしか祈れない。それを主はよくご
存じで、とにかく祈りによって「主に向く」ことを教え、体験させ
て下さった。主に向く事が大切だと。

そして、段々と主との交わりが深められて行くと、幾ら祈っても聞
かれない祈りに、気づいて行く。答えられていないのでなく、答え
られている。「ノー」が答えなのだ。何でもかんでも、欲しいもの
を与えられるのでなく、必要なものを与えられる事を学ぶ。今、思
うと、必要なものは必ず与えられて来た事を知る。

そして、段々と、自分の思いはあるが、主のお心はどうか、何を主
は喜ばれるのか、主の御心に思いが至る。思考パタンが変えられて
行く。主の御心を求めて行く。御心を求め、約束を与えられた時に、
それを信じて行く「信仰」を求めるようになる。とにかく祈りによ
って、主に向いて行こう。主は、祈りを少しづつ〃教えながら、成
長させて下さる。
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主を信じた時、救われた喜びと同時に祈ることによって大きな力を
得たような勘違いの喜びも覚えた。何と傲慢なことだろう。叩き続
けたり、明け渡したりしながら主に整えられる祈りの時を喜びたい。


2017年06月29日(木)

「主は、エリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。そこでエリヤは・・その子の母親に渡した」T列王17:22

エリヤは、大飢饉の中、主に示されてツァレファテの一人の女性を
訪ねた。その女性は、夫が亡くなり子供と極貧生活をし、ひと握り
の粉と少しの油だけがあり、それで最後の食事をし、死のうとして
いた。悲惨な状況であった。そこに、突然エリヤが現われ、非常識
な、無茶な要求をした。まず、「私のためにパン菓子を作るように」
と。

そうするなら、飢饉が終わるまで、かめの粉は尽きず、そのつぼの
油は無くならないと。その瀬戸際の状況の中で、女性はエリヤの言
葉の通りにした。すると不思議が起きて、飢饉の間中、粉と油は尽
きず、息子に食べさせる事ができ、自分も養われた。飢饉のまった
だ中で、神により奇跡をもって養われた。ところがその後、息子が
重病に陥り、死んでしまった。せっかく生かされた命がなぜ?

しかし、エリヤはその息子が生き返るように、主に祈り、願った。
主は、エリヤの願いを聞き届けられた。その息子は生き返った。そ
の生き返った息子を、彼女に返した時に、彼女は、エリヤが神の人
であり、エリヤの口にある主の言葉が真実であることを、今、知っ
たと言った。それ以前は、まだよくわかっていなかったが、息子の
死を通して、神の言葉が真実であると身をもって知ったのだ。

彼女の内で、信仰が確かなものとされた。大きな試練であったが、
主と主の言葉が真実である事を、真に知る素晴らしい恵みと祝福と
された。私たちも、主からの苦しく厳しい試みがある。しかしその
中でこそ、その中だからこそ、必ず「主の言葉が真実であることを
知った」と言えるようにされる。主を新たに知る恵みにあずかれる。
-------------
試練は神によるテストのようだ。せっかく飢饉から生かされた者を
なぜここで取られるのかと不思議な箇所だが、同じように私たちにも
ぴったりの試みを与えられる。求める者に神は生涯かけて成長させて
くださる。


2017年06月28日(水)

「自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます」ヤコブ1:25



賢い人と愚かな人が建てた二つの家があり、賢い人は岩の上に家を
建て、それは御言葉を聞いて行なう人で、愚かな人は砂の上に家を
建て、御言葉を聞いて行なわない人だ。愚かな人は、御言葉を聞か
ないならわかりやすいが、御言葉を聞いている。礼拝で御言葉を喜
んで聞き、御言葉を学ぶクリスチャンだ。

御言葉を拒否したり、御言葉に反抗しているなら、自分でも自覚で
きるが、喜んで聞いているので、自分でも気づかない。御言葉を聞
いて、それで満足してしまう。聞いて、わかった気になってしまい、
自分のものになった気がして、そこで終わる。聞くだけで行なわな
いなら、自分の生まれつきの顔を鏡で見るようだと。

自分をながめてから立ち去ると、すぐに見たものを忘れてしまう。
御言葉を聞いて忘れてしまい、結実する事がない。何も変わらない。
自分が変わる事がない、御言葉は行なう時に初めて、実を結ぶ。有
難い御言葉を聞いて、心地良い気分になって、終わりだろうか。何
も無い時はよいが、試練が来た時に、はっきりと違いが現れる。
砂の上に建てた家は立ち行かず、倒れてしまうと。

御言葉を実行して行く時に、御言葉が血となり肉となり、どんな暴
風雨が来ても決して倒れない。聞いた御言葉を一心に見つめて離れ
ない人は、事を実行して行く。御言葉を見つめて離れず、そして、
行なえるよう、御霊の助けを求めて祈ろう。今目の前に示されてい
る御心があるだろうか。
------------
御言葉を聞いたり学んだりしただけで満足していると、本当に自分
は出来ているような気がして砂の上で安心してしまう。聞いた御言
葉を実行する者になりたい。主の助けで強い根を張っていこう。


2017年06月27日(火)

「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』」ヨハネ20:28 


主が十字架で死なれ、葬られた後、弟子たちは家に隠れていた。そ
の家に、よみがえりの主が来て、ご自身を現わされた。「平安があ
なたがたにあるように」と。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。
主を見て、どんなに興奮し、嬉しかった事だろう。平安と喜びに満
ち溢れた。しかし、トマスだけが、その場にいなかった。

「自分だけがなぜ?」「自分のいない時に?」自分が不在だったわ
けだが、自分だけが会えなかった事に、不満だったようだ。「私た
ちは主を見た」と喜ぶ弟子たちに「その手に釘の跡を見、私の指を
釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなけ
れば、決して信じない」と言った。

そして八日後、トマスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、主は再び
ご自身を現された。そのトマスに「あなたの指をここにつけて、わ
たしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさ
い」と、トマスが言ったそのままを言われた。トマスの「決して信
じない」に、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」
と応答された。

トマスの心の内の、何もかもをご存じである事に驚き、受け入れ、
受け止めて下さっている主の愛に触れた。自分で見なければ、決し
て信じないと言った、そんな自分のために、個人的に向き合って下
さった。その主は、トマスのために、現れて下さったかの状況だ。
主の愛に、彼は、指を釘後やわきに差し入れずに、「私の」主、
「私の」神と、最高の信仰告白をした。
----------------
「私の主」との告白に学ばされる。皆と一緒にいればいつも主は近
く思えても一人になればどうだろう。信仰は常に個人的で、主と私
の深く豊な関わりだ。皆の主であると同時に私の主、私の神だ。


2017年06月26日(月)

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」イザヤ53:3

ある人が、職場でどうしても、そりが合わない相手がいた。話すと、
なぜかぶつかり合う。ギクシャクし、相手にトゲを感じる。嫌われ
ているように感じてしまう。傷つくので、段々対応が苦痛になり、
その事を祈りに持って行った。主の前で静まり、ことごとく打ち明
け、主と交わった。

すると相手の嫌な所、欠点ばかりが目に付き、そういう見方しかし
ていない自分に気づかされた。心では相手を責め立て、裁いている
自分がいた。相手にトゲを感じていたが、実はトゲを出していたの
は自分の方だった。丁度そんな時に、主のへりくだりを教えられた。
「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」

ご自分を何もかも捨てて十字架にまで、従順に従われた主の姿に、
自らの高ぶり、愛の無さを示された。主のへりくだりに、自分の姿
を見せられ、心から悔い改め、へりくだれるように祈った。へりく
だりたいと心を向けて祈り続けた。そんな時、相手と仕事の事務的
な話をしたが、相手との関係が変化している事に気づいた。自分が
変えられていた。

自分がへりくだろうと祈る時に、主が働かれる事を見せられた。穏
やかに話ができ、トゲが消えていた。こちらがへりくだって、相手
に対して心を開く事ができたので、相手も変わったように感じた。
悔い改めて、主に拠り頼む時、主はそこに働かれる。あなたも今、
へりくだる事を示されているだろうか。主の姿を仰ごう
------------
主の忍ばれた悲しみの道を思うとき、何と自分だけが大切な者だろ
うかと思わされる。目の前の棘は痛いが、主は全てを知っておられ
正しく取り扱ってくださる。へりくだらされる事は何より感謝だ。


2017年06月25日(日)

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認め られるために、よみがえらされたからです」ローマ4:25


ある女性が結婚して、新生活が始まった。が、いざ共に生活となる
と、自分が思っていた夫とは全く違う事がわかった。価値観が余り
にも違う事に驚かされた。考え方の違い、好みの違い、習慣の違い、
一つ一つにギクシャクした。この結婚は間違っていたのか。悩み、
悶々状態の中にいたが、夫は忙しく、早朝出勤深夜帰宅で、語り合
う時間など無かった。

イライラが募り、不満で一杯になり、どうしても思い通りでない相
手を責めてしまう。しかし、自分の非は認めたくない。そんな強い
自我に苦しみ、又、そんな自分に自己嫌悪にも陥る。平安もなく、
主の御前に赦しを求めるが、そのしりから相手を裁く思いが噴き出
す。

苦しみの日々を経て、疲れ果ててしまい、もう行き詰まってしまっ
た。夫とは喧嘩が絶えず、結婚生活を続ける事に限界を感じるまで
に、追い詰められた。心底の叫びだった。「主よ、助けて下さい。。
自分自身を、もうどうにもできません。この結婚を明け渡しますか
ら導いて下さい」ギブアップした。その時初めて、今まで理解して
いると思っていた主の十字架が、真に自分の事として迫った。

罪しか犯す事ができない自分だからこそ、十字架がある事がわかり、
心底からの悔い改めが与えられ、今まで味わった事のない平安と喜
びに満たされた。ずっと自分で、自分の力で、何とかしようとして、
もがいていた事に気づかされた。どん底こそが、実は最大の恵みの
場所だった。

・・・・・・・・・・・・・
どうしても生まれつきの価値観が根深くある。自分で何とかしよう
として、もがき、苦闘し、力尽きる。疲れ果てる。主に明け渡す時
に、真の平安を経験する。自分の力でなく、御霊の力によって出来
なかった事が出来るようにされる。栄光が主に帰される。


2017年06月24日(土)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」箴言3:5



ある人が、経済的必要が生じて、どうしても職が必要で、祈りつつ
探していた。なかなか無い中、尚も祈り、ついに仕事が与えられた。
心から喜び、感謝して、仕事に就いた。しかし配属された部署の仕
事は、自分には到底できないと思われた。不得手な分野であり、自
分に出来るのか、大きな不安に襲われた。

実際なかなかうまく行かず、辛くて何度も涙した。行き詰まってし
まい、自分は向いていないと悩んだ。このまま続けても、苦しいば
かりなのではと考えた。向き不向きもあり、もっと自分に向いた仕
事に変わった方が良いのでは。そんな事を祈っていた時に、「心を
尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所ど
こにおいても、主を認めよ」と語りかけられた。

今の場所は、主からのものと認めよ。祈った結果の主からの場であ
り、今の場所で、心を尽くして主に拠り頼めと語られた。目の前の
一つ一つの仕事を具体的に祈り、もうひたすら主に拠り頼んだ。そ
の時に不思議が起きて、目の前に道が開かれて行き、驚くばかりに
業績が導かれて行った。次々と成果が与えられ、周囲からは、「あ
なたに合った仕事ね」「向いてるわね」と言われた。

自分の力では全く無かった。主であり、主が成し遂げられ、まさに
生ける主を経験して行った。今の場に、落胆があるだろうか。主を
認め、心を尽くして拠り頼んでみよう。「そうすれば、主はあなた
の道をまっすぐにされる」心に平安与え、導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
「心を尽くして」拠り頼めと言われている。思い煩わず、一心に主
を信頼せよと。自分の思い経験、自分の力に頼ってしまいがちだ。
だが、どのような状況でも、自分の思いを越えた主のご計画がある。
その事を信じて委ねて行くようにと。その時、心が守られる。


2017年06月23日(金)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4


ある人の証しだ。小さい時から親は厳しく、頑張って〃生きて来た。
何でも一生懸命に頑張る事により、家庭でも学校でも評価を得て来
た。そして「良い子」として、周囲に認められたくて必死だった。
人に認められる事が、自信となった。それが信仰者となった後も、
気づかないまま全く同じ価値観で歩んでいた。

「良い子」が、「良いクリスチャン」に取って代わっただけで、一
生懸命に自分が頑張って、神と人の賞賛を得たい、評価を得て、認
められたいと必死だった。とにかく自分に付加価値をつけて、自信
を保とうとした。しかし比較の上に立っているわけで、自分より優
る人など、幾らでも出て来る。その途端、今度は劣等感に落ち込ん
だ。

又、どんなに頑張っても、律法を守る事は不可能だ。心の中では、
自分はだめだ、だめだと、いつも喜びも平安も無かった。それらの
原因が、自分の力で歩んでいる事にあると、気づかなかった。出来
ない自分を見せられて行った。頑張るが出来ない。すると、もっと
頑張ろうとする。しかし、律法を守る事は不可能だ。

色々な事を通して砕かれ、小さい頃からの自信を砕かれた。そして、
結果的にそれが大きな幸いであり、自分の弱さを認める事ができた。
弱いままで、愛され受け入れられている事を、生まれて初めて経験
し、安堵と平安が心に広がった。人にも弱音を吐けるようになった。

信仰生活が辛く苦しいものでなく、生き生きとし、楽しく、喜びに
なった。私たちも律法によって認められようとしている事に、気づ
きが、与えられ、恵みへと移されて行く。
---------------
自分を見れば自信もなく足りない所だらけだ。だから頑張っていれ
ば少し安心する。そういう私が愛されている。主が私のために死な
れ、無償で今も溢れるほどの恵みを注ぎ続けてくださっている。


2017年06月22日(木)

「人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように」Tサムエル24:19



サウル王はダビデをつけ狙い、殺意を持って追い続けた。ある時ダ
ビデ達は、ほら穴の奥にいた。それを知らずに、サウルはそこで用
をたした。もしこの時、ダビデが見つかっていたら、殺されていた
だろう。しかし「サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデを
サウルの手に渡さなかった」と、神はご自身の主権と支配によって
ダビデを守られた。

ある時、サウルは、ほら穴で眠ってしまった。ダビデの部下は、今
こそが神からの好機、千載一遇のチャンスと、ダビデにサウルを打
つよう進言した。しかしダビデは「油注がれた方に対し、主の前に
絶対にできない」と手出しせず、サウルの上着のすそをこっそり切
り取った。その事ですらも心を痛めた。

そして部下を説得しサウルを襲う事を許さなかった。ダビデは神を
畏れ、神を信じていた。サウルはダビデを狙い回したが、ダビデは
決して反撃しなかった。サウルに、ひれ伏し、わざわざ自分の非を
詫びた。そして自分はずっと無実であり、この時にも手を下さなか
った事を、認めて貰えるよう願った。

被害者が加害者を赦し、へりくだって、お願いするという驚くべき
ダビデの姿だ。「サウルは声を上げて泣いた」が、この後もサウル
の妬みは去らず、悪化の一路を辿った。しかし闇の中で、光が輝く
ように、嫉妬、悪意の中で、その信仰は、ますます輝きを増す。
-------------
神を畏れない高慢は、感情の虜となり誰の目にも明らかな愚かさを
撒き散らしていく。ダビデのように神の秩序のゆえに身を低くし、
わきまえていたい。それこそ信仰の勝利だ。


2017年06月21日(水)

「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる」箴言14:27  



罪は苦い、辛い、苦しいものと思いがちだが、そうではない。罪に
は快楽が伴う。罪は苦いのでなく、甘く、楽しいのだ。快適で、心
地良い。罪が苦ければ、誰も罪になど誘惑されないし、これほど多
くの問題は起こらない。甘い罪への誘惑は、悪魔の策略だ。欺かれ
てしまう。

肉に歩んでいながら、それは快感であり、心地良いので、一見何の
問題も無いと思ってしまう。快適なのだ。万事うまく行っていて、
大丈夫だと錯覚させられる。実は、御心に反し、反対方向に向かっ
ていながら気づかない。死の道が、人の目にはまっすぐに見えると、
御言葉は言う。まっすぐに見えるので欺かれてしまう。

サタンの狡猾巧妙な罠であり、要注意だ。自分の目には、まっすぐ
に見えているという事であり、わきまえていよう。しかしサタンに
だまされて歩んで行くと、悲惨な結果に行き着く。それは死の道だ。
そして蒔いたものは必ず刈り取る。蒔いたものに責任を取らねばな
らない。これは法則なので例外は無い。

神から離れて、御心に反しているのに、別に問題なく、楽しいから
いいではないかと思ってしまう。しかしそれは欺かれていて、悪魔
の罠だ。後で思い知り、苦しい刈り取りをする事になる。悪魔の策
略は、人の目には、万事0K、問題無い、うまく行っていると見え
る。

もし、御言葉に反する道に行っているなら、どれだけ楽しくても、心
地良くても、すぐに方向変換しよう。そして、大切なのが、日々主と
交わる祈りの生活だ。主にとどまっているなら、間違った時には、気
づきが与えられる。方向変換ができる。
-------------
大きな罪は解りやすく慎重に主に頼るが、日常の小さな罪の惑わしに
どれほど気をつけているだろう。日々の主との交わり、御言葉を通し
自分自身の今をいつも気づかせて頂きたい。


2017年06月20日(火)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」ルカ9:23



信仰者の生活は、信仰を持つ前と、どこが違うのだろう?何が変わ
ったのだろう。日曜日には教会へ行き、又、聖書を読んだり、祈っ
たりする事だろうか。それも変わったが、何かをする時に、その
「動機」が変化したはずだ。以前は自分中心に動いていた。動機は、
あくまでも自分の損得であった。

自分の利益になるか、損失になるかが判断基準であった。自分に得
にならない事などする理由がない。損失になる事など、とんでもな
い。そんな事のために、時間も、労力も、富も使いたいなどと思わ
ない。しかし、今、判断基準は自分の損得ではない。たとえ自分の
損失になっても、犠牲を払ってでも、主に従おうとしている。

軸が自分から主に変わり、主の御心かどうかが判断基準だ。そして、
自分の利益にならなくとも、主の御心を行なおうとしている。そし
て実際、行なう時、心に何にも代えられない平安と喜びを経験する。
以前は、自分の欲望を遂げる事が幸せであり、喜びであり満足だっ
た。そのために生きていた。しかし、その満足は束の間であり、又、
心は渇いた。

そのため、あれがあれば、これがあればと、満たされるのではと、
次々と目に見えるものを求めてさまよい歩く。しかし心の奥が満た
される事は決してない。真の喜びと心の平安は、自分を捨て、主の
御心を行なってゆくところにある。その時、この世には決して無い、
御霊の喜びがは与えられる。心底の喜びを味わえる。
----------
大きな十字架は負えなくても、今日、目の前にくる出来事の中で負
うべき十字架があれば黙って主に従いたい。人のためにと走り回っ
ていても、よくよく吟味すれば自分のためであったと思わされる。


2017年06月19日(月)

「やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった・・主はその母親を見てかわいそうに思い・・」ルカ7:12


この女性は、「やもめ」とあり、夫が亡くなっていた。この事だけ
でも、当時の社会では、大変なことだった。計り知れぬ苦労を重ね
て来た事だろう。ところがその女性の「一人息子」が亡くなってし
まった。彼女にとって、この息子は大切な生き甲斐であり、支え、
希望、いのちそのものであったろう。

息子がいたからこそ、どんな苦労にも耐えることができた。息子は
生きて行く上での拠り所であった事だろう。今や、そのたった一人
の息子が亡くなってしまった。病気ならまだ治るかも知れない、物
質的、金銭的なものなら、何とかなると思える。しかし、死だけは
どうにもならない。

無情にも一切のものを断ち切ってしまう。どうにも取り返しがつか
ない事態だ。人間はこの死の前には徹底的に無力だ。望みのすべて
を打ち砕かれ、人間には何もなし得ない。まさに絶望だ。生きる支
えを、希望を失ってしまった彼女は、悲しみのどん底にいた。

大勢付き添っていた町の人々も、死の前には全くの無力であった。
なすすべ無かった。そこに主が通りかかられ、この母親を見て、
「泣かなくてもよい」と言われた。何と愛とあわれみに満ちた言葉
だろう。主の動機は「かわいそうに思い」であり、同情に突き動か
され、青年を生き返らせて、母親に返された。

彼女は、絶望の淵から一転、大きな喜びへと変えられた。この力あ
る主が、私たちをもあわれみ、同情していて下さる。なすすべのな
い目の前の事態を主のもとへ持って行こう。深くあわれんでいて下
さる主は、あなたの目の前の事態を導いて下さる。
--------------
主は深い同情心をもってこの地上を歩まれた。同じように今も心を
痛めあわれみの眼差しを注いでくださっている。この主に大胆に近
づき祈り訴えていこう。クリスチャンにとって絶望的な絶対は無い。


2017年06月18日(日)

「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った・・そのあとで すぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」使徒16:32



パウロは、アジアで御言葉を語る事を禁じられ、ビテニヤの方へ行
こうとすると、それも止められた。そこで残る西の方面に向かうと、
トロアスで「マケドニアに渡って、私たちを助けて」との幻により、
御霊の導きを確信した。

マケドニヤに渡り、ピリピの町へ行った。祈り場へ行き、そこにい
た女たちに宣教した。その後、占いの霊につかれた女奴隷から、悪
霊を追い出した。すると、儲ける手段を失った主人たちに、訴えら
れ、捕らえられて、投獄されてしまった。

むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁された。御霊の示しに従ったのに、
祈ったのに、問題に会い、苦しみに襲われる。こちらに落ち度は無
く、ましてや宣教のために来たのに、投獄の身だ。一体どうなって
いるのか。これでは、どうにもならないではないか。しかし神の計
画は着々と進行していた。

主を信じ、すべてを主に委ねていた彼らは、牢獄で不平一つなく、
祈り、賛美した。それは囚人たちに大きな証しとなった。投獄によ
り、結果的にそこの看守が救われ、何と全家族が救われたのだ。ピ
リピの教会の核となって行った。神に間違いは無い。

ちゃんと従ったのに、あんなに祈ったのに、どうしてこんな事に?
との状況にあるだろうか。今は全体像が見えないが、神はご自身の
ご計画を、間違いなく進めておられる。信じていよう。続けて従う
なら、必ず思いを越えた主のご計画が成し遂げられて行く。

・・・・・・・・・・・・・
主のみ思いは、人の思いと異なり、主の道は、人の道より高い。目
に見えるところは不可解であり、意味がわからずとも、主に間違い
は無い。自らの思いとは異なっても、主に最善のご計画があること
を見つめ、主を待ち望み、信仰を献げて行けるよう祈ろう。


2017年06月17日(土)

「主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむ きの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか」ミカ6:7


私達は、自分が犯した罪が赦されるために、何か必要なのだろうか。
ミカは、どこまで行なえば受け入れてもらえるのかと言っている。
何をもって御前に出たらよいのか。一歳の子牛を献げたらよいのか。
いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万の油が必要なのか。いや、そ
れでも足らなくて、長子を献げなければならないのか。

罪意識が強くなる時に、何とかしようとするなら、子供を殺すまで
に行くと言っている。これが「邪悪な良心」だ。良心に邪悪なもの
があるのかと、不思議な気がするが、邪悪な良心とは、神を認めな
い心だ。神のして下さった事を認めない。

主の十字架により、罪と死が解決されている。すでに完了している。
罪の赦しは成就されている。それを認めないで、それだけでは足ら
ないので、何かをしなければと思う心だ。つまり、完全に赦されて
いる事を信じない。赦されるはずが無いと思っている。無代価の完
全な赦しを信じないので、行ないを付け加えて受け取ろうとする。

それなら子供をいけにえにするところにまで行き着く。そうでなく、
主の尊い犠牲により、無償で、すでにいっさいのかたが着けられて
いる。完全に無罪放免だ。このプレゼントを、恵みを、感謝して受
け取る事こそが、神の御心であり、喜ばれる事だ。その時、血の注
ぎを受け、邪悪な良心がきよめられ、素直な心にされ、真心から神
に近づける。

・・・・・・・・・・・・
罪赦されるために、生まれつきの性質は、何かの行ないをして認め
られようとする。根深い価値観がある。しかしすでに主の十字架で
無代価で罪が赦される。考えられないほどの驚くばかりの恵みだ。
今一度しっかり噛みしめて主に心からの感謝を献げよう。


2017年06月16日(金)

「イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。『このことであなたがたはつまずくのか』」ヨハネ6:61


信仰人生で、私たちがつまづくのは、どんな時だろう。よく考える
と、「自分の」期待に合わない時ではないか。どこまでも「自分の」
願いに、思いに、そぐわないゆえに、つまづいていないだろうか。
自分に利害関係の無い事で、人はひどくつまづく事はない。

「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、「自
分の」思い通りにならない時に、つまづいたと思う。そして、そん
な神なら離れてしまう。自分の願いが叶えられないなら、信心する
意味がない。偶像ならそうだろう。当時の、主の周囲にいる人々は、
主を現世的、政治的指導者、現世の王として、主を求めた。メシヤ
として華々しく王位につく事を。

しかし、現実的にはどうか。王になるはずの主が、十字架にかから
れるなどとは。到底受け入れられない。人々は「自分たちの」思い
通りでない、主を捨て去った。自分の期待通りでない、その期待を
裏切る主が腹立たしい。裏切られた気になる。私たちもどうだろう。
信仰人生が自分の期待通りに行かない、思い通りでない、願いが叶
えられない。その時につまづくだろうか。

その時の軸は「自分」だ。「自分の」気持ち、「自分の」思い。そ
の軸を「神」に変えてみよう。「神の」御思いは?「神の」ご計画
は?神はどう思っておられるのか。神は何をしようとされているの
か。神を軸におき、その神に自分の心を沿わせ、明け渡して行く時
に、今までの世界とは違って、神が見えて来る。
-------------
パンを食べては喜びこの方こそ王と言う人々から主は退かれた。自
分の基準で主を待ち望み喜んだり焦ったりで、どれ程主を悲しませ
ているだろう。自分の中から出て主ご自身を待ち望む者でありたい。


2017年06月15日(木)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろとなだめてみた」ルカ15:28


ある時、取税人、罪人たちが主のもとに話を聞きに来た。そこにパ
リサイ人らが、主が罪人たちを受け入れ、食事を共にする事を非難
した。そこで、3つの失われたものが見つかった喜びの話をされた。
一匹の羊と一枚の銀貨と放蕩息子だ。

迷い羊、無くした銀貨、放蕩息子は、取税人や罪人であり、迷って
いない羊、無くなっていない銀貨、兄息子がパリサイ人、律法学者
だ。失われたものが見つかり大喜びしたと同時に、失われていない
ものも同じように愛されている。パリサイ人たちは自分たちは迷っ
ていない、失われていない、放蕩していないと思っていた。

放蕩の弟が戻り、父親が大喜びで宴会している事に、兄は激怒した。
自分は辛い目をして毎日労苦しているのに、どういう事か。弟は
「あなたの息子」と他人であり、父に怒りが向く。しかし父は兄を
見放さず、なだめて寄り添い話を聞く。自分も愛されている事が全
くわからない。自分に子山羊一匹くれない、何もしてくれないと言
うが、そんな事はない。

父親は「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部お
まえのものだ」と言っている。これほどの深い愛で愛されている。
弟を迎え入れた父は、何かをしたからではなく、存在そのものを愛
して下さっている。兄も同様であった。それが兄にはわからなかっ
た。私たちも、時に兄息子になる時がある。父の無条件の愛のもと
に帰り、安んじよう。
------------
無条件の御父の愛をいつも自分のものとしていよう。いとも簡単に
兄息子になり、全部自分でやっているのにと人の足りなさを裁く醜
さに陥る。御父の近くにいよう。罪に気づかされまたやり直せる。


2017年06月14日(水)

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです」Tコリント2:14


ある人がしょっ中、牧師に相談に来ていた。牧師は相談事をいつも
聞き、御言葉から助言していた。その人は「はい、わかりました」
と帰るのだが、御言葉には従うことなく、いつも自分の思い通りに
していた。そして、それを幾度も繰り返していた。口では「わかり
ました」と同意するのだが、実際は御言葉でなく、自分の考えに従
って行動する。だから同じ失敗を繰り返していた。

実は自分の考え、価値観がしっかりと根にあって、自分は正しいと
思い、そして自分の考えの方が良いように思えるからだ。「生まれ
ながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れない、それらは
彼には愚かなこと」だからとあり、肉は、生まれつきの性質には、
御言葉に従う事が愚かな事に思える。

「そんな事をしていたら、この世の中渡って行けない」「そのよう
にするなら、自分の時間はどうなる、労力も要るし」「そんな事を
したら、人に変に思われる」「自分が少々献げても、焼け石に水、
何にもならない。無駄だ」と、愚かな事に思えてしまう。サタンも
祝福を奪い取ろうと常に攻撃して来る。

自分の思いと判断に立ち、都合の良い言葉だけを受け取っているな
ら、決して成長する事はないし、実を結ぶことがない。主のみわざ
を見ることもない。堂々巡りするばかりだ。御言葉をどう聞いてい
るだろう。愚かな事に見せて来るサタンと肉をわきまえて、御霊の
助けのもと、一歩、目の前の御言葉に従おう。
-------------
見た目の幸せや得で安易に御霊の導きを流してしまう。御言葉に従
う目的は何だろう。目先の幸せではなく、ご誠実な主を知り主のか
たちに似せられ、清く変えられていくことではないか。


2017年06月13日(火)

「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた」マルコ5:29


一人の女性が、12年もの長い間、長血の病にあった。その間、次か
ら次へと望みを託して、多くの医者にかかったが直らず、財産も使
い果たしていた。長い歳月、どんなに恐れと不安にさいなまれ、苦
しみと辛さの中にあった事だろう。もう必死に、あれこれと画策し、
やってみた事だろう。

しかし「何のかいもなく」、努力のかいなく「悪くなる一方」であ
った。更に悪化し、すべての道が閉ざされ、もう何の望みも持てず、
まさに絶望だった。そんな時に主イエスの事を耳にした。瀬戸際の
必死な思いであり、着物にでも触ればきっと直ると信じ、主の着物
に触った。すると触った瞬間、癒された。

主は「だれが触ったのか」と触った人物を捜された。人の心の中ま
で見透かされる主は、聞くまでもなくご存じであったろう。しかし
女性のために、女性が、主ご自身と接触するようにされた。そのま
ま帰るなら、身体は治ったが、残りの人生、主とは何の関係も無く
生きて行くことになる。

すると彼女は「ひれ伏し」人前も構わず、主にすべての今までの真
実を告げた。「安心して帰りなさい」との宣言を受け、12年間の心
の苦しみ、悲しみ、傷が何もかも癒された。心身癒され救いを受け
た。「安心して」とは何という喜びだろう。主は不安と恐れを安心
に変えて下さる。

私たちも主に自分の苦しみを打ち明けよう。主は癒して下さる。又、
主は一刻を争うヤイロの娘へと向かう途上に、女性に対応された。
一途に主を求める魂を、主は必ず顧みて下さる。
-------------
病にあっても健やかでいられるのは、祈る前から必要をご存知の主
にあるがままを訴え、満たされる安心感があるからだ。もう一人で
走り回りびくびくしなくても良い。その健やかさの源を知っている。


2017年06月12日(月)

「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」詩編119:50


ある人が、苦しい、厳しい試練の下にあった。余りにも苦しい日々
に、心は押しつぶされるようで、御言葉を読むことも、祈る事も出
来なかった。気力が起きて来ない。神がいる事はわかるのだが、自
分は祝福されていないと思っていた。他の人々が幸福そうに見えた。
心が滅入り、落ち込んだ。

しかし、信仰にある人々が自分のために祈ってくれていた。声かけ
や御言葉で励ましてくれた。後で思えば、辛い中も、周囲が送って
くれた御言葉で生かされていた。ある時、別関係の友人二人から、
全く同じ御言葉が送られて来た。その時、これがまさに自分への神
からの言葉、自分への御心と信じることができた。素直に受け取れ
た。

その時から、御言葉により立ち上がれた。又、ある人は、非常に辛
い試練の中で、心身弱り果て、もう考える事もできず、祈る事もで
きなかった。何もどうにもならなかった。しかし、心は沈むばかり
で、聖書を読む事もできず、ある時、聖書をパラパラと見ていた。
読むというのでなく、ただぼうっ〜と、見ていたという状態だった。

しかし、驚いた事に、そのぼおっと見ていた中で、ある御言葉が、
突然光を放ち、心に入り響いて来たのだ。沈んだ、無気力な心に主
が臨んで下さった感じだった。御言葉により再び立ち上がることが
できた。どんな時にも、私たちを生かしてくれるのは御言葉だ。主
は悩みの時に、御言葉を与えて下さる。
-------------
不安で悪い方へと考えが流されているまさにその時、壁にかかって
いる御言葉に思いがさっと引き上げられる。恐れるな。わたしはあ
なたとともにいると。主の御言葉が手を取り立たせてくださった。


2017年06月11日(日)

「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエ ルの神、主がほめたたえられますように」Tサムエル25:32


ダビデは、ナバルの羊の群れをよく守っていた。そしてナバルのし
もべたちは、ダビデが非常に良くしてくれることを知ってた。その
ため、ある祝いの日に、ダビデはナパルに手元にある物を与えてく
れるよう、使いを出して頼んだ。しかしナバルはダビデの要求をむ
げに拒んだ。好意を侮辱で返したのだった。

それでダビデは怒り、報復しようと剣を帯びて出陣した。それを知
ったしもべが、ナバルの妻アビガイルに、即、対応するよう伝えた。
彼女はすぐにパンやぶどう酒等、溢れる贈り物を用意し、ダビデの
もとに行き、へりくだって率直に詫びた。彼女の的確な判断と速や
かな行動により、ダビデは我に返り、冷静になり、彼女の機転はダ
ビデの報復をとどめた。

彼女の阻止が無ければ、ダビデは肉の思いと行動で、ナバルに復讐
していた。肉は自己中心で、感情で動き、そして自分は正しいに立
つので、状況が見えず、冷静な判断が出来ない。しかし肉は自分の
思い通りになるので、心地よい。自分の欲望が遂げられる。だが、
肉の思いは、神に反し、死だ。御霊の思いはいのちと平安。

ダビデはアビガイルの進言により、主に従うことができた。御霊は
主の御心へと私たちを導く。心に語りかけ、促しを与え、また、あ
る時は人の忠告や助言を用いられる。今、判断すべき事があるなら、
肉の思いでなく、御霊の導きを祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・
しばしば肉で行動してしまい、失敗する。又、肉で行動してしまい
そうになる。御霊は絶えず私たちを導いて下さっている。へりくだ
った素直な心で、御霊の促しや、阻止に耳を澄ましていよう。人の
助言、忠告を通しても、御霊は導かれる。


2017年06月10日(土)

「わたしは高く、聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだる者と共 に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすた めである」イザヤ57:15



アダムとエバがエデンの園で、神のようになりたいと、罪を犯して
以来、人はプライドで生きている。男性は仕事への野心、地位、名
誉に高いプライドを持ち、母親は子供に自分の夢を託し、プライド
を満たそうとする。対人関係では、プライドとプライドが衝突し、
火花を散らし、怒りや憎しみが生じる。

ある婦人は隣人に、いら立っていた。余りに立ち入って来るので、
怒りが湧いて来る。忍耐が限界となった時に、主のへりくだりを示
された。そして自らをよく省みる時、こちらにも非を示され、一段
下がってへりくだり、日頃の助けを感謝できた。すると相手も柔ら
かくなり、いい関係になり、そうこうしていると、悩みの相談を受
け驚いた。御霊に従う事の祝福を経験した。

プライドに生きると、決して心休まる時が無い。パリサイ人は徹底
してプライドに生きた人達だ。彼らの立派な行ないの動機は、愛で
はなくプライドだった。プライドでも立派な行ないが出来る。その
ため肉の行ないに気づかない。

しかし主はプライドとは無縁で、徹底して愛に生きられた。様々な
悩みや問題が起きる。その中でプライドが砕かれ、へりくだらされ
る。聖めようとの神のご計画だ。今、問題があるなら、あるいはプ
ライドが潜んでいるだろうか。主にあるがまま祈って行こう。取り
扱って下さる。

・・・・・・・・・・・
プライドによって良い行ないが出来てしまうので、それがプライド
によると気づかない。しかし動機はプライドであって、愛ではない。
パリサイ人になってしまう。動機が愛だろうか、心探って頂こう。
そして、御心に沿う動機へと導かれるよう助けを求めて祈ろう。


2017年06月09日(金)

「ところが、パロは息つく暇ができたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった」出エジプト8:15


出エジプトの際に、民を救出するために、神は様々な奇跡を起こし、
モーセが、そのつどパロに迫る。神の超自然のみわざにより、激し
い苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯した」「私と私の民は悪者だ」
「私の罪を赦してくれ」「私のために祈ってくれ」という、一見悔
い改めのような言葉を発する。が、その災いがおさまり、息つく暇
ができると、すぐに再び強情な姿に戻る。

これは、それらしき言葉を口にするが、心の底では思ってはいない
という事だ。真の悔い改めなら、必ず実を結ぶ。主は「わたしが主
であることを、あなたがたが知るため」にしるしを行なわれる。し
かしパロにとっては、様々なしるしが、主を知ることにはならず、
脅しみたいなものであった。だからその脅しが無くなれば、再び強
情で頑なになった。元に戻る。

私たちはどうだろう。もし高慢になっていたなら、神はへりくだる
ようにと、苦しみを送られる。これは神の愛であり、放っておかれ
る方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しに取る
なら、確かに痛いので悔い改め、反省し、神妙になるのだが、その
苦しみが去ると、元に戻る。

実は自分が悪いなどとは思っていない。成長が無く古い自分のまま
で、何も変わらない。真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事が
ない。しかし、御霊に導かれた真の悔い改めは必ず実を結んで行く。
砕かれた、悔いた心に、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。
-------------
自分にとって痛ければ反省し、そうでなければ自分の罪は見えて来
ないだろうか。なかなか成長できない者だが、罪を見極めて、御霊
に導かれた実となる悔い改めをさせていただきたい。


2017年06月08日(木)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように」詩篇143:10


私たちに歩むべき一生が与えられている。しかし父の御心にそって、
人生を歩まなければ、せっかくの人生が的はずれなものになってし
まう。人生における御心を求め、導きを受け取り、従って行く事が
信仰生活で重要な事柄だ。多くの問題の中で、自分の思いが強いた
め、つまり自我が強いため、御心を受け取り損ねてしまう。

自分の強い欲望が御心をさえぎってしまう。まず右でも左でも白で
も黒でも、御心のままでOKですと、自分の思いを明け渡す時、9
割方解決と言われている。そこが一番の問題で、強い肉の思いが御
心を見えなくしてしまう。意志を明け渡して行く時、必ず御心は示
される。

よく祈り、御言葉に向かい、環境をしっかり見張っていよう。指導
者に助言を求める事は有益だ。彼らの御言葉の知識と経験が、初心
者を大きな失敗から守ってくれる。目を開き耳を澄ましていると、
神が導かれる。多くの人が、祈っていた時に、ピッタリに、その事
に関する情報が目の前にやって来たと。

ある人は家族が重病になり、パニックになりそうな中、何をどうす
べきかを切に祈っていると、不思議に様々な情報があちこちから集
まり、なすべき事がわかり、入院手術に至るまで、手を取り導かれ
たと。人間の側に、先はいっさい見えない。が、先を見通し、すべ
てを存じの主が共におられる。先を委ねて目の前に示される一歩に
従おう。
-------------
主の導きを得ようと耳を澄まし、祈りの答えを見張っている者に主
は様々な方法を通して答えをくださる。自分で自分の道を平らかに
しようとしていないか。強い思いあれば手放せるようにと祈りたい。


2017年06月07日(水)

「あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し・・」創世記22:16


アブラハムは、神が約束されたイサクを得るために、25年待った。
長い歳月だ。イサクを得たのは、アブラハム100歳、サラ90歳の時
だった。忍耐に次ぐ忍耐の末だった。しかし彼らも人間で、私たち
と同じ弱さを持ち、数々の失敗があった。子供が授かる気配が無い
ので、待ちきれずに、信仰によらず、自分たちの思いで、奴隷ハガ
ルによりイシマエルを得た。

ここで大きな失敗をしてしまった。しかしアブラハムは信仰の人と
して名を連ね、賞賛を受けている。愛する子イサクを献げるように
との厳しい試練が臨んだ時に「翌朝早く」、アブラハムは、「すぐ
に」主に従順に従った。その彼に神は「あなたが、この事をなし、
ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを祝福し」と神から
大いなる祝福を受けた。

だが、極めて苦しい試みであった。25年も待ち望んだ最愛の我が子
だ。そして、このイサクから子孫が大いに増え広がるという約束は
どうなるのか。イサクが「いけにえの羊はどこに」と聞いた時に、
彼は「神が備えて下さる」と答えた。彼は全く神を信頼した。しか
し、いよいよイサクをいけにえとし、刀を振り下ろす瞬間に止めら
れた。

そこには代わりの羊が用意されていた。これは彼も知らなかった事
だった。私たちも先は見えず、明日はわからない。しかし主は私た
ちの先をご存じだ。どんな試練の時でも、一歩〃この主に信頼して
歩む時、信仰人生で、絶えず「主の山の上に備えあり」を経験して
行く。
---------------
必ず祝福してくださると信じて山を登って行くも、いけにえの羊は
刀を振り下ろす瞬間まで現われなかった。何という試みだろう。自
分の思い込みでの期待や落胆は捨て、一歩一歩の信頼を学ばさ
れる。


2017年06月06日(火)

「あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行なわなければならない」出エジプト4:17



神がモーセに、出エジプトの指導者として「今、行け。あなたを
パロのもとに遣わす」と言われた時、モーセの戸惑いは、どんな
ものであったろう。今さら何を?この80歳の老人に?かつて40歳
の時に、王子の身分であり、地位も、バックも能力も人脈も何も
かも持つ、自分こそふさわしいと、同胞イスラエルを救おうとし
た。

しかし殺人を犯し、同胞の拒絶に会い、ミデアンの地へ逃がれる
事に。そこで遊牧生活40年を経て、一介の羊飼いであり、かつて
の野心も、独りよがりの正義感も失せていた。家庭も持ち、平穏
な安定した日々に、それなりの幸せも感じていただろう。このま
ま静かに余生を全うしたい。

それに今やエジプトでの地位も力も影響力も何も持たない。一介
の羊飼いの老人に何が出来よう。困惑し尻込みするモーセを、神
もそれは承知だとばかりに、説得を重ねられる。そして、羊飼い
の杖を手に取り、しるしを行なうように言われた。

モーセは神に説き伏せられ、手に「神の杖」をもってエジプトへ
と戻る。仕事で使っていた羊飼いの杖が、今や神の杖とされた。
その杖により、神が力あるわざを行なわれる。「あなたの手にあ
るものは何か?」それはモーセが常用していた羊飼いの杖だ。

神は、すでに「あなたの手にあるもの」を用いられる。その手に
あるものを、神に明け渡そう。そうするなら、それを神の栄光の
ために用いて下さる。あなたと手にあるものを神に献げよう。そ
れをきよめて、神と人のために大いに祝福して用いられる。
-----------------
不具合があり4日分が届いていないとのことで本日分と一緒に
送ります。少し長くなりますがよろしくお願いします。


2017年06月05日(月)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人・・」マタイ7:24


山上の説教の最後で、二種類の土台があると言われた。二つの家が
ある。外側は違いがない。しかし土台が違う。一方は「岩」で、も
う一方は「砂」だ。そして岩の上に建てるのが賢い人で、砂の上が
愚かな人と。順境の時は、外側同じなので、見た目には何ら変わり
がない。しかし雨、風、嵐の逆境の時に違いが明らかになる。

私たちの人生、必ず試練が来る。経済的苦境、病気、不登校、対人
関係の悩み、離別・・突如として襲って来る。その時に、大きな違
いが明らかになる。岩の上の家は、絶対に倒れず、嵐の中も耐え、
乗り越えて行ける。しかし砂の上の家は、大きな悩み問題が起きた
時に、立ち行けずに、崩れて倒れてしまう。

家庭内問題が起きた時に、岩の上ならどんなに困難であっても必ず
乗り越えて行けるが、砂の上なら家庭崩壊してしまう。その倒れ方
はひどいとある。岩の上に家を建てるとは、神の言葉を聞いて行な
って行くことだ。砂の上に建てるとは御言葉を聞くが、行なわない。
山上の垂訓の一番最後に、この箇所が出て来る。「あなたの敵を愛
せよ」となど、自分の力、人の頑張りでは不可能だ。

しかし自分の力で行なうのではない。主につながる時に、御霊が成
し遂げて下さる。助けるために共にいて下さる。自分にはできない、
だが祈って行く時に、取り扱いを受け、一つ一つと成し遂げられて
行く事を経験する。御言葉を行なって行く事が、主を愛することだ。
そして、主を愛する人のためには、すべての事を益として下さる。
何と感謝だろう。
------------
試練や問題の中で、自分の感情では絶対にしたくない事も主の御言
葉だからと従い激しい雨風から守られた。また逆の苦い経験もある。
御言葉は聞いて流さず従おう。その一歩が必ず岩とされる。


2017年06月04日(日)

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」ローマ8:32


ある人が、試練に次ぐ試練で、苦しみが余りにも大きく、もう自分
には耐えきれないと、まさに許容量オーバーになり、現実逃避に走
った。もう限界とばかり、とにかく苦しい現実から逃げ出したくて、
何もかも置いて、車で当てもなく走って走り続けた。何も考えたく
なかった。家にも帰らないつもりだった。

ひたすら走っていると、何と御言葉が臨んで来た。「ご自分の御子
をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子といっしょにす
べてのものを、私たちに恵んで下さらない事がありましょう」、御
子を与えるほどに愛しているから、この必要、あの必要、すべて満
たすと。その御言葉は、幾ら逃げても〃、追いかけて来る。

どんどん御言葉が大きくなり、迫り来て、御言葉に捕らえられ、と
うとうギブアップした。「神様、ごめんなさい」とUターンして、
帰宅した。そして主は、心の必要、物質的必要、すべてを豊かに満
たして下さり、主の大きなご愛を身をもって体験したと。

主は、何があっても、私たちを諦めずに、どこまでも追いかけ捕ら
えて下さる。御子を下さったお方が、物質的必要を下さらないわけ
がない。心の糧、必要、癒しを下さらないはずがない。神は良くし
て下さり、良いものを与えて下さる。今、もし苦しみの中にいるな
ら、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、その必要を
満たして下さる事を信じよう。


2017年06月03日(土)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」 箴言29:25


ある人が、隣人からいわれのない誹謗中傷を受けた。全く事実無根
の中傷を言い触らされ、巡り巡って、耳に入って来た。悪口を言わ
れ続けた。わけもわからず、辛くて辛くて、涙ながらに祈る日々だ
った。結果的に、その相手は精神の病だと判明し、入院となった。
苦しい試練の期間であったが、主の取り扱いであった。

いかに自分が人の目を気にし、人に良く思われたいか、人からの評
価、それが自分の命となっていて、それが自分の最たる弱さである
事を教えられた。人にどう思われているかが、気になって仕方がな
い。それは恐れになってしまう。その苦しい事態があったがゆえに、
主に自分を委ねる事ができた。

そしてその辛い試練を通過した時、以前の自分と変えられていた。
人の目が気にならなくなっていたのだ。奇跡のようだった。試練を
心から感謝できた。人を恐れると、絶えず心が定まらず、人の言動
に反応し、振り回されてしまう。

振り返って、あの時、この時、どうだろう。人の、あの言葉、この
言葉で平安を失ってしまう。落ち込んだり、いら立ったり、疑いが
生じたり・・喜びを奪われてしまう。「人を恐れるとわなにかかる」
の通りだ。

しかし、主に信頼する者は守られる。人にどう思われるかを判断基
準にするのでなく、御言葉を判断基準にして行く時に、心は平安に
守られる。「・・しかし御言葉はこう言っている」そこに立ち続けよ
う。

・・・・・・・・・・・・
どうしても見えるものに、大きく影響を受けてしまう。目に見えな
い神より、見える人からの賞賛が欲しい。しかしそれは恐れにもな
る。人の目が気になって仕方が無い。解決は主に信頼する事だと。
御言葉に力がある。まずはありのままを祈りに持って行こう。


2017年06月02日(金)

「いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る」箴言15:31

人は、本当のことを、真実を指摘される時、耳をふさぐ。聞きたく
ないからだ。ステパノが議会で弁明をした時に、はっきりと真実を
述べた。その時、「人々は、耳をおおい、いっせいにステパノに殺
到した」。ステパノの弁明で、神は人の手で造った神殿には住まな
いと言い、いつでもどこにでもおられる。

あなたがたはいつも聖霊に逆らっている、そしてモーセの律法を守
ったことがないと、直に語った。それは人々を激怒させた。そして、
人々ははらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりし
たとある。ステパノの語った言葉が、正しかったために、人々は怒
り狂った。

そして「天が開けて、人の子が神の右に立っているのが見える」と、
イエスがメシヤである事を大胆に、証しした時に、迫害者たちは耳
をおおって、ステパノに殺到し、町の外に追い出し、石打ちで殺害
してしまった。それはステパノを迫害する者たちが、彼らの隠れた
姿をあらわにされたからだった。何とステパノを抹殺してしまった。
人は、本当のこと、真実を指摘される時、耳をふさぐ。聞きたくな
い。

真実と向き合おうとしないからだ。真実を見ようとしない人、又、
真の自分と向き合おうとしない人は、真実の言葉を恐れる。避けて、
除けて、受け止めない。聞く耳を持たないなら、自分をごまかして
しまう。主は「耳のある者は聞け」と言われ、御言葉に真正面から
向く時に、痛いかも知れないが、解決へと導かれ、真の平安へと導
かれて行く。今、聞くべき言葉が示されているだろうか。
-------------
聞きたい言葉だけを聞いていれば自分はいつも問題はなく平和だろ
うか。神の目を通した本当の自分を御言葉は示される。痛いけれど
豊かな成長への導きだ。耳を閉ざさず向き合おう。


2017年06月01日(木)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」箴言27:5 



ある人が、友人のために祈っていて、ある事でどうしても忠告せよ
と、御霊の示しを受けた。だが、絶対に相手にとれば、言われたく
ない、触れられたくない事で、傷ついて怒るのが目に見えている。
本当に御霊からの導きなのか。祈りに祈るが、どれだけ祈っても、
示しは変わらなかった。心に強く促されるばかりだ。

気まずくなるだろうが、しかし相手のためだともわかる。決心して、
相手にその事を忠告した。案の定、相手は激怒した。物別れで帰っ
てしまった。しかし予想してた反応であり、心の深い所には主に従
った平安があった。続けて祈っていた。すると夜遅くに相手から電
話がかかった。

言われた時は、カッー!と感情的になってしまって、物凄く腹が立
った。が、帰宅して冷静になり、言われた事をよくよく考えた。そ
ういう事を言うと、嫌われる事がわかっているのに、言ってくれた
んだと。愛を感じた。まさに言われる通りで、悔い改めたと。感謝
の電話だった。

人はうすうす気づいている事を指摘されると怒りが湧く。本当の事
を言われ、痛いところをつかれると逆上する。肉で指摘するなら、
そこに裁きがあり、反感を買うだけだが、御霊に示され、祈りと共
に導かれて語るなら、その言葉は建て上げのために用いられる。私
たちも痛い言葉を、素直に聞く耳を持って受け止める時、御霊が内
で働かれる。そして変えられて行く。
---------------
悪く思われるのが嫌で出来るだけ責めるよりも受け入れようと努力
するが、示されたならよく祈り御霊様に従いたい。また自分を捨て、
忠告してくれる声をへりくだって受けとりたい。