2001年01月31日(水)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分の十字架を負いそしてわたしについて来なさい」 マルコ(8:34) 

 富める青年がイエス様のもとに来たが、イエス様より財産
を選び、イエス様のもとを去ってしまった。
私建ちのある者は、この青年と似ているかもしれない。
私達は毎週礼拝に出席し、多くの奉仕をし、よい行いをし、
人々の間で、よい評判がある。しかし、これで十分なのでは
ない。富める青年と同様、私達にも妨げとなるものがある。
彼は富みの不誠実だった。私建ちには、高慢、自慢、わがまま
妬み、欲望、偽り、不正直があるかもしれない。
こんな状態では永遠の命を受け継ぐのにふさわしくない。
私建ちをさえぎるものをすべて捨てて、十字架を負って
キリストに従う事が必要だ。青年の間違いは、彼を罪に
落したのは、財産を手放す事を考えるのさえ気が進まなかった
事だ。富みへの執着のために主に従う機会を投げ捨て正しい
人生を破滅させてしまった。
あなた自信もあなたの所有物の権利もキリストにお献げしたか。
妨げている物は何か。


2001年01月30日(火)

『ですから聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くならば、心を かたくなにしてはならない」』(ヘブル3:7)

こんな実話がある。自動車事故で命を失いかけた男性。彼は壊れた車の
下敷きになって倒れていた。
救助隊が来るまで、軽症であった彼の妻がそばに来て夫の名前を呼び続けた。
声をかけ続けた。彼は妻の自分を呼ぶ声がかすかに聞こえていた。
やがて回復した時、彼はその事を医者に告げた。その医師は奥さんが彼のかすかに残った意識の糸に強くすがらせたお陰で、彼の命が助かったと告げた。
妻の愛が、彼を世から去らせなかったのだ。私達への主の愛は更に偉大だ。私達が主のご臨在をほとんど意識しないで、主の御声がほんのかすかに聞こえるだけでも、主は呼び続けられる。
主はあなたを小さな、かすかな御声で日々呼び続けられている。もし、あなたが主の御声に答えるなら、霊的健康に帰る道を作る事が出来る。
主の小さな御声が聞こえている。耳を傾けよ。そして心を頑なにするな。


2001年01月29日(月)

「おのおの隣人に対して真実を語りなさい」(エペソ4:15)

 テレビで流されるコマーシャルでは、有名人がその製品を
使っていて、誰でも買った方がいいという事になる。
しかし、ほとんどの視聴者もわかっているように、彼らは、
自分が宣伝している製品を使っていない。
色々な自叙伝についても、本人でなく別人が書いている。
様々な不誠実が社会にはびこっている欺きのしるしだ。
神の言葉は私達に、真理を語るよう強く勧めている。
私達が神に従う時にのみ、世の光として、社会が偽り
にのみ尽くされるのを防ぐ事ができる。
聖書が「その口になんの偽りも見出されませんでした」
と言っているイエスのように私達も真理を語る者になるべきだ。
この聖い基準を守るよう戦おうではないか。
我が声をして、常に我が主のみをたたえしめよ。
我が唇をして、神よりのメッセージを伝えしめよ。
真実以外は語るな。唇を守れ。この世のもめ事は皆、
一つの嘘から始まる。
  


2001年01月28日(日)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)



ある一家に突然の危機が訪れた。夫
が帰宅して、事業仲間が資金を持ち
逃げしたと告げた。倒産は免れない
ところが絶望する代わりに、母親は
宝石を質に入れ、その晩、素敵な夕
食を準備した。家族の者が非難した
彼女は答えた「喜びが一番必要なの
は今よ。来週じゃないわ」家族の経
済的危機に対する彼女の反応は聖書
的だ。試練に会う時は、この上もな
く喜べと言われている。最近、あな
たは窮地に陥っているか。神はあな
たに偽善的な笑顔で振る舞って欲し
いのではない。どんな状況にあって
も、神により頼んで欲しいのだ。神
は失敗や過失、病気や損失を信仰と
従順の成長の機会として、あなたが
受け入れる事を望んでおられる。状
況の中で、服従する事を願っておら
れる。そうする時にのみ不幸の中で
も喜ぶ事が出来る。神は善き方だ。
事態は暗く、戦いは厳しく、思い煩
いにおおわれるとも、この確信で主
にすがる。


2001年01月27日(土)

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」(ヤコブ1:19)

 あなたが言おうとしている事を、さえぎられて、わかっているとばかりに、結論に飛ばれたら、イライラするだろう。
私たちは皆、その類の事をしてきた。
人が何か言おうとしているのに、自分の思い込みの方に夢中だった。
人の言葉が耳を通り抜けてはいるが、内容は、何を言っているかは、本当には聞いて来なかった。
その結果、多くの誤解が生じてきた。
ある夫婦が議論していた。互いに相手を非難し、同時に喋り互いに相手をさえぎっていた。一言話すごとに、互いの関係をより深く悪化させた。
主はそのような無作法な会話はされなかった。人々は主の言葉を聞き、主も人々に耳を傾けられた。
主は聞きなさいと言われる。よく聞け、耳を傾けよと。
敬意を持ってよく聞くことは怒りを鎮め、正しい事を見分けさせてくれる。自分を思い込みを捨て、よく聞け。
まず、主の真理の御言葉をよく聞き、そして、人に耳を傾けよ。
多くの過ちから守られる。


2001年01月26日(金)

「あなたがたがの中にも、偽教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込 み・・主を否定・・」(Uペテロ2:1)

ニューヨークに住むある夫妻の元に
ブロードウェーの招待券が2枚送ら
れて来た。奇妙な事に何の手紙も添
えられていなかった。いぶかったが
それでも彼らはショーに行き、大変
楽しんだ。帰宅した時、泥棒に入ら
れていた。高価な宝石や衣服が失せ
ていた。「これでわかったろう」と
紙片が置かれていた。偽教師も同様
だ。人々が何を望んでいるか何が気
に入るかを知っている。真理の見本
であるかのように偽装する。人生を
豊かにすると言うが、彼について行
くと、高い授業料を払う事になる。
信者も偽教師に欺かれうる。だから、
聖書をしっかり学ぶよう、聞いた事
を試すよう、信仰に置いて成長する
よう勧めている。そうすれば、気が
つくと霊的生活が、かき乱されてい
たという事は無い。偽者を見破る秘
訣は偽者の研究をするのではなく、
本物をしっかりと知る事だ。イエス
ご自身をしっかりと、親しく、ます
ます深く知って行く事だ。


2001年01月25日(木)

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」(詩篇36:18)

 ある夫婦に娘がいた。愛らしく聡明で、快活で
思いやりがあり、自慢の娘は多くの喜びをもたらして
くれた。娘がジョギングをしていたある日、事故に
あい即死だった。何がなんだかわからず、父親は
理解しようと苦しみ、パニックだった。
また、怒りが沸いてきた。どうして娘にこういう
ことが起こるのか。神はなぜ娘を守って下さら
なかったのか。知らせが伝わると友人、近隣、親族
達が大勢集まった。
悲しみに暮れる心を和らげるために、これらの人々を
遣わしてくださった神を感じた。
そしてこれらの人々を通して働く神の愛や癒しの恵みを
感じるようになった。
娘の死に対する、神ご自身の悲しみに気づくようになった。
神は自分自信の怒りや質問を責めておられなかった。
神は心を少しずつ癒してくださった。
娘が永遠に神の御手の中にある確信に慰められ、神の
無限の知恵と忍耐の中で、神の恵みに満ちた愛に触れて
行く事によって癒された。


2001年01月24日(水)

「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(マタイ21:22)

ある婦人のハイテーンの一人娘が麻薬中毒になった。
繰り返し、警察沙汰を起こし、重大な法律問題を起こした。
何ケ月も家を出たまま帰って来ない。母親は昼も夜も泣きながら、捜し続けた。何の手応えも無かった。
恐れと苦痛の日々だった。罪の意識にもさいなまれた。
というのは、娘の暴力があったため自分の身の安全を心配したからだ。
娘に会う時には、恐れで一杯でもあった。祈る他、何の手立ても無かった。ただ神により頼み祈るばかりだった。神を信じ祈り続けた。
他の人々と共なる多くの祈りの後に、ついに、神は母親と彼らを心配してくれる人々の祈りに答えられた。
娘は家に戻り麻薬から抜け出す事が出来て、もう一度娘と安らかな楽しい時を過ごせるようにして下さった。
神は祈りに答えられる。神のもとへ行き信じて願い求めよ。
窮地にある望みをただ神に置いた切なる祈りに答えて下さる。
大きなみわざを見る。


2001年01月22日(月)

『そこでイエスは彼らに「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。(マルコ6:31)』



クリスチャンは皆、霊的に乾いた時期を
経験する。そんな時、神は遥か彼方に
おられ、私達の祈りは届くようには思
えない。又、天井から祈りが、跳ね返
って来るように感じるものだ。こうし
た状態は、単純な疲れから来る事もあ
る。時には、自分の力で動き回ってい
て、実際は神に頼らず、自分でしてい
る事から起こる。時には、霊的に特別
な素晴らしい経験をした後に来る事も
ある。C・S・ルイスは著書の中でこ
んな事を言っている。悪魔が「もし奴
等が、この初めの乾燥期をうまく切り
抜けてしまうと、感情に動かされにく
くなるから、誘惑しにくくなる」と。
乾燥期の中でも、私達の祈りは聞かれ
ている。神の臨在を感じないで祈る時
にこそ、いっそう大きな信仰が必要だ
その乾燥期の後、私達は更に強くされ
ている。山も谷も通る。神は共におら
れる。自分の感情に依存してはならな
い。


2001年01月21日(日)

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」 (マタイ6:7)

 祈る時に、聖書は何と言っているか。
どう祈るべきか。イエスは、くどくど祈るなと言われた。
父なる神は必要をご存知なのだからと。必要をご存知
なら必要を知らせることは無意味ではないか。
神は知っておられる。しかし、神は私達から、神を愛し
信頼しているという言葉を、私達からお聞きになりたいのだ。
私達は自分にせよと言われていることを、神にして頂くよう
待ち続けるのは無意味だ。
神の側のことと、自分の側の事柄とがある。
自分に示されたことを、自分の側の事を喜んで行い
神の祝福に対する感謝を、喜んで言い表す事を神は
望んでおられる。
そして、神は常に新しい力を受けるために、私達を
新たにお委ねする決意を私達の口から聞くことを待って
おられる。私達が新たに明け渡して行く時
「わたしのために、あなたは何を献げるか」と問われる。


2001年01月20日(土)

「彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもは暮らしてゆけます」U列王4:7

二人の子供達を奴隷に売られようとし
ている未亡人の記事がある。彼女は神
の人エリシャに助けを求めた。エリシ
ャは家に小さな油の壷が一つあるのを
知った。彼は近所から、空の入れ物を
借りて来るようにと、彼女に言った。
言われた通りにした。小さな油壷から、
すべての容器に注ぐと奇跡が起こり、
みな油で一杯になった。彼女が言われ
た通りにしなかったらどうか。エリシ
ャの指示に従って、忠実に実行しなけ
れば、それらの容器は満たされなかっ
た。神は私達を聖霊で満たして下さる。
私達の多くは霊的に飢え渇いている。
満たされたい。満たしを祈る。しかし、
私達は空の器、心の空いている部分を
用意しているか。心の窪みが何かで一
杯になっているか。良いものかも知れ
ないが、更に良いもののための余地が
ない。御霊に満たされるためには、不
要のものを心の中から片づけるよう祈
る必要がある。


2001年01月19日(金)

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」(詩篇1:2)

 子供達へのテレビの影響がよく議論されているが、テレビの影響について十年間調査した、ある評論家は こう言った。テレビは絶えず私達に、どんな振る舞いや態度が望ましいかを決定し告げていると。
テレビは巧妙に現実を定める事における重大な影響力となってしまうと。
私達はテレビを見るとき、見るものによく気をつけた方が良い。
放送網は、クリスチャン的価値を描写する事を任せられているわけではない。良いものだと紹介されている多くのものが大変危険だ。そしてテレビは私達を受身的な傍観者としてしまう。
テレビでの暴力、セックス、物質主義は、罪深い世において、塩であり光であるというクリスチャンの召命について、私達を鈍感にしてしまう。逆に神の言葉に思いを馳せる時初めて、私達は正しい物の見方が出来る。
人生において正しい判断をするために、テレビでなく、みことばの前に自分を置かなければならない。


2001年01月18日(木)

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ」(イザヤ52:7)

旧約聖書の時代の情報網をちょっと考
えてみると、今とは全く違っていた。
ニュースをすぐに知る事など出来なか
った。テレビもメールも無かった。
放送も通信網も無かった。もし、軍隊
が戦うなら、それを故国に知らせるの
は飛脚だった。町の人達は戦いを知る
と、町の城壁に一列に並んで、自軍の
勝敗の知らせを熱心に待った。私達は
伝えるべき素晴らしいニュースを持っ
ている。イエスを信じる者に永遠の命
が約束されている。私達がこの良い知
らせを伝える時、それは栄光に満ちた
メッセージなのだから、勝利の喜び満
ちた心と「美しい」足で伝えよう。家
や周囲にいる失われた者の所へ行け。
もうためらうな。今日始めよ。イエス
の救いを告げよ。あなたが次に会う人
物が、イエスに会う事を必要としてい
るかも知れない。


2001年01月17日(水)

「神は、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(Tコリント1:27)

 ある有名なバイオリニストが、コンサートの前に世界で最も高価なバイオリンのうちの一つで、演奏すると告げた。
最初の作品が完璧に演奏され、聴衆は感動した。
すると、その音楽家は突然その楽器を叩きつけて壊してしまった。
聴衆はビックリしたが、彼は今弾いたのは、安い楽器だと説明した。
それから高価な楽器を取り上げ、弦をゆみで奏で始めた。
その響きは素晴らしく美しかったが、ほとんどの人は高価な物と安い物との違いがわからなかった。
つまりそれほど、演奏者の技術が素晴らしかったのだ。
私達の主への奉仕も同じ事が言える。
「名手」である主は、私達のような平凡な楽器を用いて、美しい音学を奏でる事がお出来になる。
問題はバイオリンではなく演奏者の技術であったように主はどのような者を用いてでも、最高の音楽を生み出される。
あなたを主にお任せするなら人々に祝福をもたらす最高の楽器として用いてくださる。


2001年01月16日(火)

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた」(U列王22:11)

こんな話がある。5才の男児が、行方不明の子供のテレビ番組を見ていて、それが自分である事を知った。
彼は自分がいるべき所にいると思っていたが、本当は一緒にいるべき人から離れていたのだ。子守りにその事を告げて、警察が呼ばれ、自分の母の腕に戻る事が出来た。
ヨシア王もそうだ。彼は自分と国民は霊的に、いるべき所にいると思っていた。しかし、長い間、失われていた律法が読まれた時、自分と民が
神に不住順で、神から離れてしまっている事を悟った。彼は悔い改めて、主に従って歩み、主の命令を守る事を公に契約した。
その結果、民は悔い改め、神の元へ戻った。私達も生活に罪があるのに、すべて霊的で順調で、いるべき所にいると思う。
だから、聖書を読み、そこに映る自分自身を見て、罪を示される必要がある。罪を認め「これは私だ」と告白し、悔い改めるなら、主と「再会」する。


2001年01月15日(月)

「あすのための心配は無用です」(マタイ6:34)

 キリストに従うものは、今日多くの思い煩いを見つける事が出きる。
さまざまな反社会的事件、株式市場、中東紛争、病気の恐れ…。
私達はしばしば、未来に何が起こるかを心配したり、過去の事に
こだわり過ぎたりする。自分の犯した罪や以前の悲しい出来事を
思い出しては、堂々巡りして胸が熱くなる
私達は過去を変えることは出来ないし、未来を何とかすることも出来ない。
ある人が言った、何が起こるかとか、ああすれば良かったと気をもむ事
をやめて、今の事に集中するなら、毎日神の平安を経験出来ると。
今この瞬間なすべき事において、神と共に歩むためには、私達が
感じたり行ったりする、すべての事から開放される必要がある。
一瞬一瞬が献身した魂が忠実に従う義務を負わせる。
心配はゆり椅子のようなもの。
する事は与えても、どこにもつれて行かない。
イエスは、繰り返し、繰り返し「心配するな」と言われる。


2001年01月13日(土)

「キリスト.イエスにおいて上に召してくださる神の栄光を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」 (ピリピ3:14)

ある父が減量のため、毎晩息子を誘ってジョギングを始めた。
最初は元気一杯だった。しかし、毎日毎日決められたルートを走るにつれて、疲れが出てきた。
続けるためには、何か褒美が必要だと感じた。
そこで毎晩、思いを身体からそらす事の出きる何らかの褒美を出す事にした。ある晩はピザが褒美だった。息子がダウンしそうになる度に、「ほら!ピザ!」と励ました。
そのお蔭で完走できるのだった。
別の晩はテレビの番組だっリ、色々考え出し、毎晩、新しい褒美が励ましとなったのだ。クリスチャンも、キリストのために生きることに、時に疲れてしまう事がある。
なぜ進み続けるのか、なぜ自分を駆り立てるのか、と考えるかも知れない。パウロはずっと以前に動機付けの報奨を使った。
クリスチャンとして私達が持つ最大の報奨は、ゴールで待っている。
主と顔と顔を合わせて会い、永遠の栄光を分かち合う事だ。
ゴールをまたぐ時、主と永遠に共にいるのだ。


2001年01月12日(金)

「神よ。私をあわれんでください。人が私を踏みつけ一日中、戦って、私をしいたげます」(詩篇56:1)

私達を傷つけようとして人が、私達より優れているように見える時、感情のコントロールがきかなくなりやすい。
ある男性が言われのない非難によって、職を失う危機に陥った。
彼を陥れようとしていた敵は、巧妙だった。自分の上司に信じてもらえなかった。彼は感情のコントロールを失ってしまった。腹を立て、敵を殺してやるとまで激しく口走ってしまった。別の時には自殺まで考えた。抵抗するかと思えば、惨めに降参する、彼は混乱していた。
詩編五六篇の記者も言われない憎しみを受けていた。狡猾な敵は本当に彼の命を脅かしていた。しかし、彼は抑制出来た。それは、彼が神により頼んだからだ。神に包み隠さず、正直に語り、すべてを打ち明け、そして神に頼り、助けを願った。そして、神は助けて下さったのだ。
私達も同様な事態に陥った時は感情に負ける必要はない。神に祈り、信頼を置け。神は答えて下さる。


2001年01月11日(木)

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても しっかりやりなさい」 (Uテモテ3:2)

教会の中に、あなたの中に福音を閉じ込めておいてはならない。こんな言葉がある。「聖書の中に、失われた人が教会へ行くように命じている箇所は無い。しかし信者に、失われた世へ出て行くように、命じている箇所は沢山ある」。
こんな出来事があった。ある女性が車の事故で、相手の赤ん坊を死な
せてしまったという記事があった。
それを見た一人のクリスチャン女性は心から同情し子供を失った家族を思ったが、同時に刑事責任に問われるドライバーの方も心配した。彼女はその女性に手紙を書いて、連絡先を記した。
打ちのめされていた女性は、彼女に連絡してきて、出合うことが出来た。
この悲しみのどん底にあった女性はキリストを信じた。
彼女は刑務所で罰を受けたが信仰は彼女を強め、他の囚人達のために
用いられた。
一人のクリスチャンが魂を追い求める時、そこに救いと大きな喜びがある。
神は失われた人々を愛しておられる。あなたに今出来る事は何か。


2001年01月10日(水)

「主よ。もう十分です。私のいのちを取って下さい。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4)

こんな言い伝えがある。一人の天使が、サタンに伝言するよう遣わされた。それには「クリスチャンを打ち負かそうとするサタンの方法はすべて取り去られる」というものだった。
悪魔は一つだけ残して欲しいと懇願した。憂うつを残してくれと願った。天使は小さな願いだと考え承諾した。「やった!」と悪魔は叫び、嘲笑って言った。「これ一つあれば、すべてが確保できた」。
憂うつはどの時代にも、神の民を悶々とさせて来た。これは私達を疲れさせ、孤立させ絶望の淵に追いやる。エリヤも死にたいと叫び、落胆した。ヨブやダビデも同様の魂の苦悩を通った。信仰によってそこから脱した。問題の原因が鬱にあるなら、恐れず治療を受ければ良い。
悪魔は私達を望み無しの状態に置く事によって打ち負かしたい。
しかし、私達の究極の助けは神だ。この方こそ、望みの神であるからだ。神を知る人に決して絶望はない。


2001年01月09日(火)

『キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました』(Tペテロ2:21)

 ロッキーヤギの話がある。片側は深い谷底で、反対側は垂直にそびえ立つ険しい断崖だった。そこで二匹の荒々しいヤギが出くわした。
向きを変えることも出来ず、後退することも出来なかった。
彼らはどうしたのか。争うのではなく、片方のヤギがひざまづいて、平になった。そして、もう一匹のヤギがその上を歩き、双方共安全に進んだ。
これは主がして下さった事だ。私達が自分の罪と神の義との間で、どうにもならない事をご覧になった。
人の姿をとられ、しもべとなられた。罪深い人間のために死ぬ事によって、御自身の「上を歩かせ」られた。私達も主のために迫害される時必要なら私達の上を他人が歩く事も辞さないほどの謙遜さを学ぶ必要がある。
このような応答が主のためになされる時、主の御名に栄光が帰されるのだ。
罪深い高慢さを砕かれ、へりくだらせられるように。


2001年01月08日(月)

「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねてその情欲に従ってはなりません」(ローマ6:12)

グアム島には、蛇がうようよいる。この蛇は美しい島の鳥を殺し、市民の生活を脅かしている。人々はこの蛇を締め出したいと願っている。この蛇はもともとグアムにいたのではない。ミクロネシアから飛行機に乗って、密航者としてやって来て、何千倍にも繁殖した。鳥類をどんどん滅ぼして行ってしまった。この蛇が島にとって、危険であるように、私達の罪も同じだ。
罪を断固たる態度で扱わなければならない。情欲、不品行、むさぼり、怒り、悪意、そしり、偽り・・このような罪はあの蛇のように危険である。
罪は成長し、繁殖し、私達を支配する。奉仕を台無しにし証しを台無しにする。解決は、罪に対して「ノー」と言う事だ。私達はキリストと御言葉に目を留め、「地上のもの」ではなく「天にあるもの」に心を定める必要がある。
忍びよる罪を殺してしまわなければならない。


2001年01月07日(日)

『ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです』 (ヤコブ3:16)

  黒海で二隻の船がぶつかって、何百という乗客が氷の海に投げ出されて、悲劇的な死を招いた。この事故が人間の頑固さによって、引き起こされた事が判明した時、この災難の暗さは更に深いものになった。
双方の船長は相手の存在に気づき、どちらも衝突を避けるために回避的行動を取ることが可能だった。ところが、どちらも相手に屈伏したくなかった。自分達の過ちに気づいたときは遅すぎたのだ。
同じ理由で大きな損失を人間関係のうちに作り出される可能性がある。
他を非難する根本的な問題は、「苦い妬みと敵対心」が心のうちにある事であり、それは高慢から生じる。
この高慢こそ、明けの明星が天から落とされた原因でありアダムとエバがエデンで無垢を失った原因だった。
私達は上からの知恵を引き出さなければならない。
私達はこの高慢な古い自我が砕かれなければならない。利己主義という力が砕かれなければならない。


2001年01月06日(土)

「彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1:20)

ある薬物常習者が助けを求めて、牧師のもとへ来た。
聖書から話した後で、その彼は「でも、したい事をしてしまってから、神様、私を許して下さいというのは調子が良すぎる気がする。正しい事がわからないのだったら、まだしも、それをした後だけでなく、してる最中も悪い事だとわかっているんだ。」彼は的を射た事を言っている。
私達は自分の罪について正当な理由など何もない。
神は私達に責任を求められる。なぜなら神は、世界中の人に、良心を通してご自身の道徳律法を示しておられるからだ。
被造物が神の力と神性を示している一方で、良心は神の律法をはっきりと示す。誰も私はわからなかったと弁解出来ない。牧師は、私達の罪からの救いの望みはただ一つ、身代わりに十字架で死んで下さったイエスキリストへの信仰によると示した。
神が赦しを提供して下さっている。罪を認めない限り、赦しを得る事は出来ない。神に対して言い逃れはできない。罪に対して言い訳をしているなら、あなたの罪は赦されない。


2001年01月05日(金)

「イエスは答えられた。『あなたは自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなた にわたしのことを話したのですか。』」 (ヨハネ18:34)

ピラトがイエスを取り調べている時、このローマ総督は囚人に尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王なのですか」。
イエスは質問をもって答えられた。「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それとも他の人々が、私の事をあなたにそう言ったのか。」
つまり、「ピラト、あなたは救い主のことを個人的に求めているのか。それとも、他の人から私について聞いた事を、口にしているのに過ぎな
いのか。」
この質問は、今日の私達に関係がある。イエスは、あなたと私に尋ねられている。「本当にあなたは、私を知りたいのか。それとも、他の人から聞くだけで満足しているのか。」
イエス<を>知ることと、イエス<について>知ることとは決定的な違いがある。
イエス<を>知ることは、個人的な関係である。それは、私の救い主、私のいのちの主として、イエスに自分を明け渡す事から生まれる。
イエス<について>知るとは、間接的な関係にすぎない。他人から受け継いだ関係である。
あなたは個人的に知っているか。それとも間接的に知っているだけか。


2001年01月04日(木)

『あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい』  (ヨシュア24:15)

 人は誰でも、自分の好きなようにしたいものだ。したい事を自由にして生きたい。制約のある環境を打ち破りたいと思う。
しかし、完全な自由は、絶対に手に入らない。気づいていないかも知れないが、私達は生まれつき何かに仕えている。
アマゾンの奴隷を造るアリの話がある。
何百というアリが周期的に巣から出て、近くのより弱いアリの集団を捕まえる。抵抗する防御アリを殺した後で、働きアリの幼虫が入っている繭を運び出す。この捕らえられた子達は孵化すると、自分たちはこの群れの一群なのだと思いこみ与えられた仕事をし始める。決して的による強制労働の犠牲者などとは思わない。
生まれた時から捕らえられているのと同様に、私達は罪と悪魔のとりことなっている世界に生まれている。
私達は皆仕えている。ヨシュアが言ったように、私達は仕えるかどうかではなく、誰に仕えるかなのだ。
真の自由はキリストの内にある。


2001年01月03日(水)

「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」 (ルカ11:29) 

ある人が言った。「神が何か明確なしるしを見せて下さったら神を信じるのになあ。例えば、突然大金持ちになるとか」彼は冗談で言ったが、このような態度は一般的だ。
しかし神はご自身の存在を証明するのに、このような軽薄な挑戦には応答されない。イエスの時代の、多くの人達は明らかな軌跡にも関わらず、イエスをあくまで拒否した。イエスは天からのしるしを求める彼らの傲慢な侮辱的な要求を拒絶された。真の問題は証拠がない事ではなく頑固に信じない彼らの心の態度だ。
今もこのような不信仰がはびこっている。自然界の証し、良心の証し、キリストの生涯がすでにあり、信者の生活に聖霊の働きがある。これ以上何を求めるのか。信じようとしない罪だ。御子を信じ、より頼み、従う事だ。
そうするなら心のうちに確信が与えられしるしが不要になる。


2001年01月02日(火)

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13) 

 ジェームス.ハリソンは、大学の聖歌隊員だった。仲間の聖歌隊員と共にヨーロッパからの帰途にあり、飛行場に着陸した時、強風雨に見舞われた。
ジェット機は滑走路を横滑りし、ライトにぶつかり、胴体に穴が開いた。大混乱になった。破損した飛行機に火の手が上がったとき、彼は
周囲の人々を救助し始めた。次から次へと乗客を安全な所へ引っ張り出しては飛行機に戻って行った。最後に燃え上がる残骸のもとへ行った時、彼は二度とそこから戻る事は無かった。葬儀の時、彼の死を通して、イエス.キリストの身代わりの死が語られた。私達は彼のような、むごたらしい惨事で示した犠牲を払うような場面は無いかも知れない。
しかし、毎日の日常生活の中で、些細な事の中に臨人を愛するために自分の楽しみをちょっと我慢する機会は幾らでもある。
あなたの周囲へ愛を示す機会を捕らえよ。キリストの愛を表わせ。


2001年01月01日(月)

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じまた私を信じなさい」(ヨハネ14:1)

ある人がこう言った。内面的な平安は、平穏な環境からではなく、落ち着いた心から来る。
もし百人の人に「あなたがたは心を騒がしてはなりません」と言う聖句を暗唱してもらうなら、九九人は「騒がしてはなりません」の箇所に強調を置くだろう。
しかし「心」こそ強調されるべきだ。地獄のような状況の中でも心は平穏な天国に守られるはずだ。
私達はどうだろうか。困難を通してキリストをより知ろうとする事よりも、困難を避けようとする事に力を使っていないか。もしそうなら、私達には、苛立ちと失敗しかない。
私達は人生に対する困難、問題に目を留めて、不安と恐れにさいなまれる事も出来れば、キリストにある勝利に目を留めることもできる。
キリストの死には復活が続くからだ。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」神に思いを集中する時、私達は平安だ。