2002年07月31日(水)

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう・・この二つは対立していて、そのため自分のしたいと思うことをすることができない」(ガラテヤ5:17)

森林で、二つの木だが、根元は二つの幹
なのに、木の上の方は一つになっている
ものを見ることがある。すれ合い、樹液
が混ざり合って一つになったのだ。これ
は私達とイエスとの関係のようだ。主を
信じた時、あなたの内に新しい命が生ま
れた。その命は成長しているか。古い
性質が、自我が衰え、新しい性質が
大きくなってきているか。「あの方は
盛んになり私は衰えなければなりま
せん」との御言葉のように、私達の内
で、イエス様が盛んになり、自我は衰
えて行っているか。あなたの性質は
キリストに似てきているか。それとも
延々平行線をたどっているか。主に
従えば従うほど新しい性質は成長
する。又、自己中心に、自分の欲望
のままに、自分に従うなら、古い
性質が力を盛り返す。主に従うなら
イエスの命と一つになり、キリスト
の姿へと変えられて行く。
深い満足と本当の喜びがある。主と一つである喜びがある。



2002年07月30日(火)

「それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)


 聖書では、イエス・キリストを救い主と
信じた人は、その瞬間からずっと永遠の命
を持つと言っている。誰でもご自身を信じ
る者は永遠の命を持つと言われた。
これはきっとそうだろうではなく、確固た
るものだ。御霊によって新しく生まれるの
だ。御霊による新しい誕生だ。
徐々に誕生するのではない。
イエス・キリストを信じた時に、神は完全
に救って下さった。また、徐々に地獄から
救われるのではない。完全に地獄から救っ
て下さった。神と共に神のみ心に従って行
く時、イエス・キリストに似た者として成
長させて下さる。多くのクリスチャンが救
いのしるしを求めて、何か感じようと劇的
体験を求めている。しかし、十字架により
完全で十分な救いを与えて下さった。
自分の行いや感じによって救われたのでは
ない。キリストの死は十分だ。
イエスのために生きよう。


2002年07月29日(月)

「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは」(詩篇92:1)


 感謝は敬虔の泉だ。自分が神の愛を受
けるに値しない者だと真にわかっていて
神とそのご愛、真実、恵み、慈しみへの
感謝で満たされている人は、高慢になっ
たり不平不満、愚痴を言ったり、自己中
心であったり、赦さなかったりする事な
どあり得ない。もし、日々、神が私のた
めにして下さっているすべての事を思い
起こすなら、感謝に満ちるはずだ。
感謝で溢れると必ず敬虔な人になる。
私達は感謝すべき多くのものがある。
愛する家族、与えられた仕事、多くの友
人、衣食住、私達を通して主を信じるよ
うになった人々・・。主に感謝するのは
良い事だ。感謝と不平は共存し得ない。
感謝が溢れる時、不満は去らねばならな
い。感謝はサタンに足場を与えない。
感謝する時、サタンの足場はなくなる。
感謝は大きな力だ。すべての事について
感謝しよう。


2002年07月28日(日)

「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)

虚しい形式主義に陥ることに常に
警戒する必要がある。私達は主イ
エス・キリストを救い主と信じ、毎週
忠実に礼拝に出席する。犠牲的に
献金をし、よく祈り、聖書を読む。
しかし、このような良い行ないがい
つしか虚しい形だけのもの、心を
伴わない、感謝を伴わないものに
陥らないよう充分気をつけなけれ
ばならない。信仰が愛の行ないに
なって現われなければならない。
愛することが最も大切だ。へりく
だって神と共に歩み、日々神と
の生き生きとした交わりの中に
生きる事だ。愛と憐れみを周囲
の人々に示し、みこころにかな
った事を行ってゆく事だ。イエス
を信じること無しに、良い行ない
をしようとする人々がいる。大き
な間違いだが、しかし、同じほど
に間違っているのは、全く良い
行ないをしないのに、神を知っ
ているという事だ。


2002年07月27日(土)

「私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である」(U歴代32:8)

ヒゼキヤ王の指導のもと、ユダの国の偶像
は一掃され、神殿は修復され、人々は主を
礼拝した。ヒゼキヤは「その神、主の目の前
に良い こと、正しいこと、誠実なことを行った」
その直後、アッシリヤ王のセナケリブに包囲
された。普通なら失望落胆するかも知れない。
何で?と、疑いが起こるかも知れない。
しかし、彼は神を信頼し続けた。私達と共に
おられる方は、私達の戦いを戦って下さる
方であると。ヒゼキヤは神に忠実であった。
私達は彼から学ぶ事ができる。ヒゼキヤは
問題や困難の無い人生を求めたのではなく、
主に従うことを求めた。私達も問題を見るの
ではなく、又、問題に押しつぶされ、翻弄さ
れるのでなく、問題の中で、主に従うのだ。
悩みの中で、しっかりと神を仰ぎ、神のみ
こころを求め、神が喜ばれることを行うこ
とだ。


2002年07月26日(金)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)

 ヨシュアはエリコとアイで、素晴ら
しい勝利を得た。キブオンの住民達は
次は自分達だと恐れて、計略を巡らし
変装した。古びた着物を来て、乾いた
パンを持ち陣営にやって来た。
その計略に見事に騙された。主の指示
を仰ぐ事無く、敵と盟約を結んでしま
った。これは多くの教訓を得ることが
出来る。神に祈る事無く、自分の思い
、自分の理性を優先するなら過ちを犯
すという事だ。信仰より見えるところ
に従うなら間違ってしまう。
この時、何より大きな失敗は主の指示
を求めなかった事だ。サタンは「策略」
を持ってくる。「乾いたパン」で私達を
欺く。エリコとアイの大勝利の後で、
過信と油断があったかもしれない。
勝利の後は特に敵の罠に陥りやすい。
常に身を慎み悪魔を見張っているべき
だ。正攻法で前からやって来ない。
巧妙な計略と欺きで罠をかける。
心して祈れ。無防備な所が的になる。
武具を帯びよ。





2002年07月25日(木)

「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさしなさい。渇いたら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」(ローマ12:20)

 自分を攻撃し、傷つけるすべての相手に
仕返しをしなければと思っている人がいる
しかし、それらは何の益もない。
虚しい行為だ。私達は他人に対して寛容で
あるよう神は願っておられる。
この世は、「やられたらやり返せ」だ。
しかし、主は「誰に対してでも、悪に悪を
報いることをせず」「自分の敵を愛し、迫害
する者のために祈り」と言われる。
自分がどれほど主に従っているか、どれほ
ど霊的であるかは、これではかれる。
「私を傷つけ攻撃する人への私の態度はど
うか。愛と親切があるか」キリストのように
生きる事は生まれつきの私達には不可能だ。
肉には決して出来ない。
霊的に自分を明け渡し、従う時に初めて可
能になる。これは超自然の事だ。


2002年07月24日(水)

「悪魔に機会を与えないようにしなさい」(エペソ4:27)

ある神学校で、こんなテストが出た。時間の
前半で聖霊について書き、後半で悪魔につい
て書けというものだ。ある学生はどんどん
どんどん聖霊について書いている内に時間
が無くなってしまい、「悪魔のための時間
がありません」と書いて提出した。これは
試験ではよくないが、信仰生活では悪魔
に勝つベストの方法だ。いつも心を御言葉
祈り、賛美、感謝で満たしているなら、
悪魔の機会がない。つけ入る余地がない。
私達が神に明け渡し、聖霊に支配して
貰っている領域では、悪魔は足場がない。
しかし、聖霊に逆らい、みこころを行わず、
自分を保留している領域、自我が勝って
いる領域では、悪魔が足場を得ている。
そこに、悪魔は自由に働ける。あなたの
その領域はどこだろう。神に従い、悪魔
に立ち向かうことだ。そうすれば悪魔は
逃げ去る。あなたの自我が大手を振って
いる領域が危険だ。聖霊様に心を照らし
て頂こう。


2002年07月23日(火)

「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に・・と言えば、言いつけどおりになるのです」(ルカ17:6)


 あなたは飛行機に乗る事は恐いだろうか
多くの人が恐いと思っている。
しかし、統計的には他の乗り物より飛行機
は安全だと出ているのだ。
それがわかっているが恐いのだ。それは空
の上では自分のコントロールが一切効かな
いからだ。操縦士に自分の命を委ねるしか
ない。神に委ねる時も同じことが起こる。
目に見えない神に自分の命を委ねる事が不
安なのだ。弟子たちがイエスに信仰を増し
て下さいと願った時、主はそれには、ほん
の少しの信仰でよい、からし種ほどの小さ
な信仰でよいと答えられた。
主は私達に主を信じて従う事を望んでおら
れる。小さな信仰を用いて、従うのだ。
すると主は成し遂げる力を与えて下さる。
主に従うとき、信仰を少しづつ増して行っ
て下さる。従うことが信仰だ。
従い続けよ。すると、私達の信仰が増して
いる事に気づくだろう。


2002年07月22日(月)

「世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」(マタイ26:13)

 
 ベタニヤのマリヤは、大いなる事をした
イエスは喜ばれて、世界中で福音の語られ
る所に彼女の事も語られると言われた唯一
の女性だった。彼女はイエスの死がわかっ
て、その葬りのためにと大変な額の高価な
香油をイエスに注いだのだ。
弟子たちは憤慨した。何と無駄な事かと。
しかし、イエスは、私に対して立派な事を
してくれた、彼女に出来る事をしたのだと
かばわれた。今から十字架につこうとされ
ている主をどんなにお慰めした事だろう。
私達も主に自分の出来る事を献げられる。
あなたは、あなたのために全てを捨てて下
さった主に何を献げる事が出来るだろうか
また、あなたの周囲の人々に香油を献げる
相手はいないか。感謝を言い表したり、励
ましたり、力づけたりする相手はいないか
夫か妻か友人か。今日、感謝を言い表そう。


2002年07月21日(日)

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」(ヤコブ3:15)

この種の知恵は、至るところで見る。「妬み
や敵対心のあるところには、秩序の乱れや、
あらゆる邪悪な行ないがあるからです」あな
たの思いの中に、苦々しい敵対心や嫉妬が
あるなら、それは悪霊からの思いだ。妬み
や敵対心は教会内の一致を損ない、分裂
させる。あなたの内に、このような知恵が
あるなら、サタンに用いられる事になって
しまう。神からの思いを試す方法がある。
それは、第一に純真であり、平和、寛容
温順だ。動機が純粋で、裏表がなく、み
せかけと偽りのないものだ。御霊に導か
れて歩むことによって、私達は義の種を
蒔く者とされる。私達の心の内をよく探
る必要がある。人の才能や持ち物、人気
を妬ましく思う事はないか。又、自慢し
ている事はないか。それらは神から来て
いない。地に属し、悪霊に属するものだ。
それらは邪悪な行ないへと進んで行く。
御霊に満たされる事を求めよう。


2002年07月20日(土)

「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中私の思いとなっています」(詩篇119:97)


あなたの朝のデボーションの後も、神の
御言葉の黙想を止めてはならない。御
言葉を一日中携える事によって、神の
恵みを受け続けることができる。一日の
生活の折々に朝の御言葉を思い浮かべ
るのだ。主婦達は料理や家事をしながら
御言葉を黙想する。働く人々は、職場で
昼休みに昼食後の時間を御言葉の黙想
に当てた。学生は登下校時の間に神を
思った。車の中に聖書の分冊を入れて
おくことができる。一日を御言葉を思い
ながら生きることだ。詩篇記者は神の
御言葉を愛した。読んでは忘れるので
なく、一日中、御言葉に思いを馳せて
いた。夜も昼も神の言葉を口ずさんで
いた。神の言葉がいつも私達の心に
あるなら、私達は守られる。従いやす
くなる。サタンから守られる。御言葉は
力であり命だ。この世の凄まじい勢力
と戦い、誘惑と戦うために、御霊に
満たされた生活のために、御言葉は
力。


2002年07月19日(金)

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)


 対人関係は難しい。様々な問題が起こる
友人がムッとしているので、何か悪い事を
したかと聞くと、「別に」と彼女は答えた。
しかし、明らかに何か怒っている。自分達
の間に少しでも悪い思いを残したくない。
何か悪い事をしていたら謝ると言うと彼女
は和らぎ落ち着いた。
私達はすべての人と良い関係を持つ事を願
う。しかし、どんなによい関係を持とうと
しても、うまく行かない人が出てくるもの
だ。喧嘩をするにも、仲良くするにも相手
が必要だ。「自分に関する限り」自分の側で
成すべき事をすべてして、尚問題が残るの
なら、それはもう仕方がない。神もよしと
して下さる。その問題解決を神のみ手に委
ねて安んじておればよい。
復讐したり仕返ししてはならない。
善を持って悪に打ち勝て。


2002年07月18日(木)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:18)


 コリー・テンブームの実話がある。
ナチスからユダヤ人をかくまったために
政治犯として捕らえられ、強制収容所に
送られる。姉のペッツイはその中で毎日
の生活に神を見、人々にキリストを伝え
て行く。その収容所の収容されていた部
屋が不潔で、ノミだらけだった。
ベッツイは神は全ての事を感謝しなさい
と言われるから、このノミを感謝します
と祈った。コリーはとんでもない、この
ノミが感謝などとあり得なかった。
しかし、その結果が見えたのだ。
その部屋でベッツイは神様を宣べ伝え賛
美をし祈りをしていた、小さな集会を開
いていた。なんとそこには、ノミを嫌い、
看守が決して入って来なかったのだ。
彼女達はその収容所の中で自由に神を賛
美し、御言葉を語り祈る事が出来たのだ。
ノミのゆえに。あなたにとってノミは何
か。ノミを感謝しよう。


2002年07月17日(水)

「私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです・・恐れてはいけない」(出エジプト14:12)

後ろばかり見て生きているような人
がいる。あの頃は良かった、昔は幸
せだった・・。イスラエルはエジプ
トで奴隷として苦しめられ救いを叫
び求めた。モーセを指導者として、
神は民をエジプトから救い出して下
さった。苦難からの解放に大喜びし
た。しかし、水や食べ物の無い荒野
に来ると、彼らは不平不満だらけで
昔を懐かしみ、エジプトへ帰りたい
と言ったのだ。それは鞭と奴隷のく
びきに関わらずだ。「エジプトとこ
の荒野で、わたしの栄光とわたしの
行ったしるしを見ながら、このよう
に十度もわたしを試みて、わたしの
声に聞き従わなかった者たち」と主
は言われる。過去に生きてはならな
い。過去を思い出すのは教訓を得、
神を賛美するためだ。今日を生きよ。
今日に目を留め、今日与えておられ
る絶好の機会を逃してはならない。


2002年07月15日(月)

「ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Uコリント12:9)


 ある鬱病を患った女性が回復した時
バイブルクラスで、証しをした。
その証しを通して、何人かの人達が特
別に力づけられ彼女に個人的に話して
来た。ある難病の婦人が次に証しをし
た。すると何人もの人が自分も自らの
弱さを受け入れ、神に頼って行きたい
と多いに励まされた。
彼女達は、こんな弱い者でも神が用い
て下さる事、人々の励ましとして下さ
る事で真の喜びを感じた。
弱いより強い方が良い証しだと思うか
もしれない。しかし、パウロが神の力
を経験したのは、彼の弱さの中だった
弱い時こそ強いと証している。
強いクリスチャンばかりなら、人々は
「自分はあのようになれない」と思う。
しかし、自らの弱さを認めるなら人々
も希望を持てる。
「私も弱くてよいのだ」と。神はご自身
の力を現すために、あなたの弱さを用
いられる。それゆえ、まずその弱さを
認めよ。


2002年07月14日(日)

「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取り除けることができるのです」(ルカ6:42)

自分を棚に上げて、他人に物差しを向け
高い基準を要求し、さばくなら恥を受ける。
あなたが他人に向けた、その同じ物差しが
神様からあなたに向けられる。厳しい基準
で人とさばけば、その高い厳しい基準が
そのまま自分に返るのだ。自分にさばき
を招くことになる。さばかなければ、自分
もさばかれない。自らの主張がもし正し
ければ、正しいほど謙遜に語らなけれ
ばならない。自分も不完全であり、間違
う者であることを、わきまえて語るのだ。
謙遜でなければ、相手に届かない。
私達は皆、成長過程にある。皆、神の
あわれみがなければ、一時たりとも
生きて行けない者だ。批判し合ったり、
さばき合うのは良くない。余計なお節介
もよくない。互いに赦し合い、いたわり
合うべきだ。自分の偽善に気づけ。
自分を深く知る人ほど、人をさばかない。


2002年07月13日(土)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことの計らいとなさいました」(創世記50:20)


 ヨセフの物語は多くのことを教えて
くれる。思い通りにならない歩みの連
続だった。兄達の嫉妬のゆえに隊商に
売り渡され、エジプトでは身に全く覚
えのない無実の罪で投獄され、牢獄で
は忘れ去られ、波欄万丈であった。
私達も神に従う道を踏み出す時、何も
かもが終わりのように感じられるもの
だ。夢も失せ、何の希望も持てないよ
うに感じられる。神の最初の取り扱い
は無残な事が多い。神に送り出される
時、得るよりは失う事から始まる。
正しい事をしているのに厄介な問題に
巻き込まれたり、妥協を拒んでいるの
に、不当な目にあったり、ヨセフのよ
うに悩まされるかもしれない。
しかし、神があなたをその所に置かれ
神が始まりを与えられた。
それゆえやり遂げる力を求めよ。
神はあなたに完全なご計画をお持ちだ。
あなたを支えて下さり、その後計画を
成し遂げるよう導き助けて下さる。


2002年07月12日(金)

「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(エゼキエル18:4)


 この世の考え方では、人の過失や失敗に
個人の責任を問わない。
親の教育が悪い、教師が悪い、社会、政府
が悪い、環境と人のせいにする。
神の御言葉は個人の責任をはっきりと言っ
ている。
すべての人は自分の罪に対して責任がある
神は、私達が環境の犠牲者だとは言われな
い。環境に責任転嫁することは出来ない。
自分の犯した罪に対して、責任をとらねば
ならない。罪の払う報酬は死である。
私達は有罪判決を受けて当然の罪人だ。
しかし、その罪はキリストが背負い、身代
りに罰を受けられた。キリストに拠り頼む
時、私達の罪は赦される。裁かれて当然の
者が、無罪とされる。
なんという恵みであろう。
この恵みは、自分の罪を認める者だけに与
えられる。犯した罪、過失の責任は、自分
にあると認める者にだ。罪に直面し、認め
る事だ。すると神のあわれみ、赦しが自分
のものとなる。あなたは責任転嫁をしてい
るか。


2002年07月10日(水)

「イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った」(マタイ14:28) 

湖の上を歩いて来られたイエス
を見て幽霊と間違い、弟子達は
恐れた。イエスご自身であること
を示し、安心させられた。すると、
ペテロは、自分も湖の上を歩い
てイエスのもとへ行きたいと言
った。イエスはペテロに「来なさ
い」と招いて下さった。ペテロは
歩き始めた途端、風を見て恐
れて沈んだ。しかし、イエスは
すぐに手を延べ助けて下さった。
今、あなたもイエスに招かれて
いないか。あなたを縛りつける
この世の富、所有物、愛情、
名声、この世の拠り所となる
舟を離れて、イエスのもとへ
踏み出すように導かれていな
いか。イエスは「来なさい」と
招いておられる。あなたを、
一段階、信仰に成長させよう
としておられる。イエスだけを
見上げて前進せよ。状況は
波風逆巻いているが、その
真ん中に主イエスがおられる。
しっかりしなさい、わたしだ。
恐れることはない、との御声
と共に。


2002年07月09日(火)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです」(ルカ10:42)


 ある男性は仕事の忙しさにかまけて
教会出席を怠ってしまっていた。
神を信じる信仰は持っていたので悩み
の時や、特別に喜びのあった時などは
出席していた。しかし、神第一の生活
ではなかった。毎週、教会へ行くのは
特別の人達だと思っていた。
しかし、ある聖日のメッセージに深く
心を捉えられた。信仰生活や教会出席
は感情で行うものではない。
感情で信仰生活を送っていると、何も
成し得ない。信仰は感情ではなく意志
だ。意志で神のみこころを選び取って
行く事だ。意志で正しいみこころを歩
むなら、感情はついて来る。
感情に頼っていたら、一歩も進む事は
出来ない。日曜日に必ず喜びや熱心を
感じるわけではない。しかし、感情に
振り回されず、意志で忠実に歩むなら
喜びを感じる事ができる。
感情ではなく、意志によって歩め。
選択せよ。


2002年07月08日(月)

「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です・・」(ヨハネ10:10)


 バイオリンのストラディバリウスは、
素晴らしい最高のバイオリンと言われて
いる。一つ一つの部品は手造りで、細部
に渡り精巧に組み立てられている。
しかしどんなに完璧で精巧で美しく素晴
らしくても、単に楽器のままではいのち
が無い。その楽器が真価を発揮するのは
有能なバイオリニストの手で奏でられる
時だ。その弦の響きは聞く人を魅了し感
動させる。ストラディバリウスは名手の
手によって、生き生きといのちを輝かせ
る。私達も同じだ。私達は神によって造
られた。それゆえ、私達は神の手の中に
ある時、いのちが満ち生き生きと輝く。
私達の内からいのちが湧き上がり溢れ出
る。神の手に自分自身を明け渡す時、神
のいのちが私達を通して溢れ出て周囲に
及んで行く。
他の人々に感動を与えて行く。


2002年07月07日(日)

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)

ある婦人が孫の世話を頼まれて、
面倒を見ていた。孫は沢山の玩
具を前に、次から次へと玩具を
代えて行く。移り気で、関心が
次々と移ってしまう。目の前に
ある物に決して満足しないで、
次々と欲しいのだ。それを見
ていて、彼女は自分自身の姿
を見せられているようだった。
神が自分の最善のために与
え、して下さっていることに
いつも決して満足しない。
試練に文句を言い、思い通り
にならない事態に不満タラタラ
で、いつも現実を受け入れる
事をしないで、こうでなければ
良いのにと愚痴だらけ。神が
与えられるのに、満足しない。
このところが変えられるなら、
私達はどんなに変わるだろう。
あなたの口を大きく開いて、
わたしがあなたに与えるもの
を食べよと言われている。
あなたの目の前にあるものを
受け入れよ。そうする時初め
て、神のあなたへのみわざが
見えて来る。







2002年07月06日(土)

「イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(ルカ24:30)

二人の弟子が、エルサレムで起こっ
た出来事について語りながら、エマ
オへの道を歩いていた。イエスこそ
イスラエルをあがなって下さるはず
だと望みをかけていた、が、だめだ
った・・。二人の弟子達は失望し、
落胆、絶望の中にいた。よみが
えられた主が、途中から一緒に
道を歩かれた。しかし、失望と
絶望の中にいた二人にはイエ
スを認める事が出来なかった。
イエスは彼らに不信仰を示さ
れ、ご自身が十字架にかから
れ、死んでよみがえられるとの
御言葉の箇所を解き明かして
下さった。御言葉を聞いている
と二人の心は内に熱く燃えた。
信仰を燃え上がらせて下さった。
私達も失望落胆に陥る時、主
が見えなくなる。イエスを見失
ってしまう。しかし、御言葉に
立ち、見上げる時、イエスが
見える。神に立ち返れる。
信仰を通して、主が見える。
あなたは失望落胆で、目が
ふさがり、さえぎられてしまっ
ていないか。






2002年07月05日(金)

『「そこでイエスは彼らに「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた』(マルコ6:31)


 時々、くたくたに疲れ果てる事はないか
職場での仕事の重責に対人関係、小さな子
供を持つ母親は育児に食事作り、掃除、洗
濯、子供達は手がかかり一日中目の回る忙
しさだ。高齢の親の介護をしている人もい
るだろう。フルタイムで働きながら、家事
をしている主婦。皆、ストレスで疲れ果て
る。主と弟子たちも大変な忙しさだった。
人々に説教し、教え、病の人々を癒し、常
に大勢の人々に囲まれ、食事をする暇さえ
なかった。主は弟子たちに休息の必要と共
に静かな所へ退いて休むよう命じられた。
働きは大切であったが、脇へ置かれた。
私達もそのようにする必要がある。
一時喧騒から離れて、主の静かな臨在の中
で、憩い心身ともに新しくされる。
疲れた頭と心は、休息を得て物事がはっき
りと見える。祈りは重荷を下ろす。
仕事を脇において、主と共に静寂の時を
持とう。


2002年07月04日(木)

「わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、あなたがたは聞こうともせず、わたしが呼んだのに、答えもしなかった」(エレミヤ7:13)


 この世界には様々な声があり、様々な
語りかけがある。テレビやラジオ、新聞
や雑誌、周囲の世の人々、この世界から
の語りかけがある。
「この世と調子を合わせてはいけません」
このの世の価値観、発想、考え方、凄ま
じい勢いでこれらは私達に挑んで来る。
地に属し、肉に属し、悪霊に属する知恵
だ。この世の神なし人間中心のヒューマ
ニズム、自らの欲望から湧き上がる思い
サタンが吹きかけて来る思い、これらの
紛らわしい思いを識別しなければならな
い。ただ一つの私達が聞くべき声は、神
の御声。御言葉を通して語りかける神の
呼び声。内なる聖霊様の御声。
あなたはどの語りかけに耳を傾けている
か。この世の声、サタンの語りかけ、自
我の欲望に惑わされてはならない。
神に聞け。神の語りかけに耳を傾けその
御声に従え。


2002年07月03日(水)

「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた」(ヨハネ4:7)

イエスは井戸のかたわらに腰を
下ろし休んでおられた。そこへ
サマリヤの女が水をくみに来た。
ユダヤ人はサマリヤ人とは付き
合いをしなかった。しかし、主
はこの女に「水を飲ませて下さ
い」と頼まれた。この箇所で、
「受ける」という事を教えられ
る。私達は「与える」事につい
てはよく教えられ、気に留める。
「受けるより与えるほうが幸い」
の通りに。しかし、気持ち良く
「受ける」事を学ぶ事も大切だ。
自分で出来るから大丈夫と、親
切な手助けの申し出を断ってい
ないか。相手に迷惑をかけくた
くないとの思いが強くなり過ぎ
て、相手の好意や愛情を拒否し
ていないか。愛情の受け手にな
る事も必要だ。感謝して受ける
事を神は喜ばれる。又、相手に
も与える機会が提供される。頑
なな心で拒んでいないか。又、
余計な遠慮はないか。感謝して
受けることを学ぼう。


2002年07月02日(火)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(Tヨハネ5:14)


 神は私達の願いや、必要に配慮して
下さっている。苦しみや悲しみを神に
告げ打ち明けるよう待っていて下さる
思い煩いをいっさい委ねよ。
神があなたの事を心配して下さるとの
み言葉がある。しかし、神はどんな願
いを叶えて下さるのだろうか。
もし農夫が雨になるよう願い、遠足の
小学生が晴れになるように祈れば、ど
うなるのか。試合をする両チームとも
自分のチームが勝つように祈ったとし
たら?主に祈る事は良いことであるが、
自己中心的な祈りは聞かれない。
自分の快楽のために使おうとして、悪
い動機で願うなら受け入れられない。
私達は自分の欲望でなく、神のみ心を
求め、神のみ心に叶って願うべきだ。
その時、その願いは叶えられる。
自分勝手にあれやこれやでなく、それ
にそうことが大切だ。神と親しく交わ
る中で神の心を知って行く。