2017年07月31日(月)

「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」創世記22:12


神は一見、非情とも思える命令をアブラハムに下された。息子イサ
クを全焼のいけにえとして献げよと。私たちの理解を越えたことだ。
そして、彼にとってイサクとは、25年の忍耐を経て、待ちに待って
やっと与えられた子供だった。そのイサクから子孫が天の星の数ほ
どに、増し加えられると。

その子供を殺してしまったら、約束はどうなるのか。断ち切られて
しまうではないか。神の言葉と矛盾する。色々な思いが彼に巡った
ろう。本当に神が言われたのか。自分の聞き違いではないのか。し
かし、彼が神と近く交わり、神と共に生きて来た日々がある。これ
は確かにいつも聞いている御声であり、間違いはない。彼は従うべ
く「翌朝早く」出発した。

すぐに従う事は大切だ。必ずサタンが攻撃して来て、様々な思いを
吹き込み、従う事を妨げる。ぐずぐずすると従えなくなってしまう。
そして告げられた場所で、祭壇を作り、たきぎの上にイサクを置き、
刀を取ってまさに、ほふろうとしたその時に、「手を下してはなら
ない」と神のストップがかかった。自分のひとり子さえ惜しまずに
献げ、神を恐れることがよくわかったと。

神は彼が「神を恐れる」者であることを試しておられた。理解でき
たら従う、納得がいけば従う、のではない。示された事に従って行
く、それが神を畏れるということだ。この事をなし、ひとり子を惜
しまなかったから、大いに祝福すると。「あなたがわたしの声に聞
き従ったからである」と。
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一歩見えたら歩き始めようといつまでも出来ない条件ばかり数えて
いないだろうか。約束の御言葉を信じ従おう。主を畏れ一歩踏み出
す時に主は信仰も備えてくださる。


2017年07月30日(日)

「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神 となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせ にするために、わたしが命じるすべての道を歩め」エレミヤ7:23


「お話しください。しもべは聞いております」とサムエルは言った。
「聞く」=「聞き従う」という事で、「しもべは聞いて、お従い
します」ということだ。逆に、主の言葉に、どうであれ従います、
との態度があったから、御声が聞こえたと言える。私たちも、聞く
態度はどうだろう。「従います」との姿勢で、御言葉を聞く時に、
神の言葉がわかる。御声が聞こえて来る。

ともすれば、一応聞いてみて、都合良ければ従うし、都合悪ければ
したくない。自分の好きな事ならするが、嫌な事ならしない。そう
なら、聞こえて来ない。また、人は聞きたい言葉だけを聞いている、
と言われているが、聞きたくない言葉には耳を閉じてしまう。そし
て聞かなかった事にしてしまう。聞きたくない言葉こそ、実は必要
な、聞かなければならない言葉だ。

主は、取り扱おうとされるのだが、こちら側で耳をふさいでしまう。
自分の願っている事だけを叶えて欲しいのであって、その他の事は
要らない。「あの相手に謝罪しなさい」「あの嫌いな人を愛しなさ
い」「この赦せない相手を赦しなさい」「あなたの時間を、労力を、
金銭を献げなさい」・・と言われたらどうだろう。

まず自分の現状を認めて、「出来ないので、助けて下さい」との祈
りから始めよう。自分に出来ない事が、神には出来る。祈り求める
なら、出来るように御霊がして下さる。従って行けるように助けて
下さる。

・・・・・・・・・・・・・
聞くことは、聞くことプラス従うことだ。従うことまで含まれる。
聞くだけで満足して終わってしまうなら、結実に至らない。従う
ために、御声に耳を傾けようとする時に、御言葉が入って来る。
そこのところを自分はどうなのか、よく吟味してみよう。


2017年07月29日(土)

「ダビデ王がバフリムまで来ると・・その名はシムイとゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た」Uサムエル16:5



私たちは、時に自分にとって痛い言葉、中傷の言葉を浴びる事もあ
る。ある時、ベニヤミン人シムイ人が、ダビデを嘲って、呪った事
があった。盛んに呪いの言葉を吐き「出て行け、出て行け。血まみ
れの男、よこしまな者。今、お前は災いに会う」と。

この時のダビデは、息子アブシャロムの謀反に会い都落ちし、「オ
リーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、は
だしで登った」とある。余りにも悲惨な、極度の悲しみの状況にい
た。そんな弱っている時の、シムイのこの侮辱に、ダビデはどんな
に、心突き刺され、えぐられる思いだったろう。

ダビデの部下が「あの首をはねさせて下さい」と言ったが、ダビデ
は「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられ
たのだから。主が、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを
報いてくださるだろう」と。何とダビデは、シムイを攻撃するので
なく、返って主の御前にへりくだった。神がすべてご存じだと。

自らにかつての罪の自覚もあり、それで甘んじて受け、へりくだっ
て、主の懲らしめとして受け入れた。立派な態度だった。そしてこ
の向こう側に、主の祝福を見ていた。中傷に、怒りで応戦すると、
心に平安が失せ、苦みが残る。ダビデはいつも主の愛を受け取り、
何があっても愛の中にとどまり、主を見上げて行った。そんなダビ
デは再び王の座に戻された。
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ぼろぼろの最悪な時に、自暴自棄にならず主に留まる姿に学べる。
罪も弱さも含めて自分の価値を正しく見ていてくださる主の前に
へりくだりに安んじていよう。何度でも再生できる。


2017年07月28日(金)

「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください」詩篇119:196


体育教師であった星野富弘さんは、運動中の事故で、脊椎を損傷し、
首から下はいっさい動かない身体になってしまった。深い苦しみと
悲しみ、絶望の中にいた時に、聖書に触れ、救いに入れられた。主
に出会い、人生が一変した。ある時、首から下は動かないが、口は
動くので、絵筆を口にくわえ、花の絵を描いた。

そして花々の絵を描き続けた。この絵と星野さんの心から湧き出る
詩が、沢山の人々の心を捕らえ、深い感動を与えている。多くの傷
ついた人々の心を癒し、温めている。彼は神を信じたが、奇跡的い
やしがあったわけではない。状況は何も変わらない。神を信じても
良い事はないのか。

いや、そうではなく、むしろ、彼が不自由な身体という御心をしっ
かり受け止め、受け入れ、その中で感謝して生きているからこそ、
人々を励まし、力づけ、引き上げて行く事が出来る。負の状況を嫌
い、避け、逃げるのでなく、しっかり受け入れて、そこで生きて行
くなら、それは大きな証しとなり、必ず誰かの心を捕らえる。そし
て神の栄光を現わすことになる。

どうしても状況を変え、環境を変えよう、変えようとしてしまうが、
変わらないものを受け入れて行く時に、自分が変えられて行く。あ
なたにとって、目の前の状況を、受け入れられるようにが、今の祈
りだろうか。
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喜べない現実を喜び感謝して歩まれる星野さんの背後にくっきりと
御神の姿が浮かぶ。あなたが決めておられる私の人生と受け入れて
みよう。神の与えられた環境、そこで新たな力を必ず受け取れる。


2017年07月27日(木)

「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」ヤコブ4:2


私たちは、様々なことを祈りに持って行くことができる。主は、求
めよ、祈れと言われている。「あなたがたのものにならないのは、
願わないからだ」と。何でも祈って良い。しかしある人は、祈って
いるのに、祈りが答えられない、幾ら祈っても答えられないと言う。

まず祈りの原則にあるように、「その耳が遠くて聞こえないのでは
ない。あなたの咎が神との仕切りとなり」もし罪があれば悔い改め
る必要がある。又、「願っても受けられないのは、自分の快楽のた
めに使おうとして、悪い動機で」とあり、自己中心な動機があるか
も知れない。

又は、自分の願いと、主の願いが違っているのかも知れない。一致
していない。自分の思いが強く、自分の思いに固執してしまってい
ないだろうか。主のみ思いを尋ねてみよう。祈りを軌道修正しつつ、
主のみ思いに合致するように導いて下さる。

又、御心にかなってはいるが、答えられる時期が今ではなく、更に
先なのかも知れない。忍耐もって、待ち望む必要があるのかも知れ
ない。又、あるいは、別の形で答えられているが、自分の思いしか
無いため、気づかず、見えないのかも知れない。

自分はAを祈っていたのに、Bの答えが来たなら、それは、Bが神
の御心であり、自分の思いとは異なるが、自分にとってベストと信
じて受け取ることが大切だ。その先に豊かな祝福が用意されている。
御霊が心を探って下さる。動機をきよめ、忍耐を与え、軌道修正し
ながら祈りを導いて下さる。その導きのみ声に耳を傾けて行こう。
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ご自分の栄光の富を持って必要を満たすとの御約束は真実だ。答え
られない祈りをもう一度吟味して、そこから正すべきことがあれば
悔い改めたい。御心の祈りをまっすぐに主に献げていたい。


2017年07月26日(水)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:23


思い煩いとは何だろう。過去、現在、未来を含め、考えてもどうし
ようもない事を、ああでもない、こうでもないと心配に陥る事だ。
不安の9割は起こらないと言われている。現実ではない、将来の亡
霊の不安のために、ストレスで体調まで崩してしまう。しかし、幾
ら心配せずにおこうとしても、不安は無くならず、堂々巡りとなる。

この不安と思い煩いはどこから来るのだろう。主を差し置いて、自
分で何とかしようとしているところから来る。すべてが自分の肩に
ずっしりとかかって来るので、苦しくてたまらない。心は重く沈む。
では、どうすれば良いのか。御言葉は神に祈れと言う。心が混乱し、
わけがわからなくなる時、紙を出して心の内を書き出してみよう。

何が心を暗くしているのか。自分の何に触れて来るのか。何が問題
なのか。それを失うとどうなるのか。最終的に何を恐れているのか。
心の内をことごとく書き出す時、客観的に見えて、自分の心が整理
できて行く。何を祈れば良いのかが見えて来る。すると思い煩いの
亡霊に振り回されるのでなく、具体的になすべき事もわかって来る。

ある人は、心を探り書き出した時、結局は握っているものを、委ね
られない事が原因だとわかった。そこで委ねられるようにと祈り始
める事ができた。あなたの真の問題点は何だろう。御霊は探り、御
心へと導いて下さる。
-----------
漠然とした不安は漠然としているから怖いのだろうか。神のご計画
のままに来る明日を受け入れて、それは必ず益と確信できるよう、
内にある不安を主に示していただき、信仰に置き換えていきたい。


2017年07月25日(火)

「『きょう』と言われる間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」ヘブル3:12



ある人が、職場で厳しいきつい上司に悩まされていた。膨大な量の
仕事を言いつけられ、暴言でひどく傷つけられたり、人の前で嫌味
を言われたり、苦しく辛い思いをしていた。出社拒否になりそうな
中、心身疲れ、余りに辛く、牧師のもとに行った。牧師は、話を聞
いてくれた後、「では、その人の祝福を祈りましょう!」と言った。

内心「え!!そんな」急に言われても、びっくりし、とんでもない
事で、あり得ない展開だった。だが、聖書には、「悪をもって悪に
報いず・・かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継
ぐために召された」とある。あれこれ言う間もなく、牧師が先に祈
り出した。

牧師はその相手の祝福を祈り、そしてその人が祈れるように熱心に
執り成してくれた。心に非常な葛藤があった。嫌いな上司だ。しか
しこのままで良いはずはない・・。このまま憎み続けるのか、それ
とも主に従う道を選択するのか・・、心は悶々状態だ。自分の祈り
の番になった。岩のように固い自我が妨げて来る。祝福などしたく
ない。

しかし、主に従いたい思いもある。「出来ません。神様!助けて下
さい!」心の中で叫んだ。その時、「上司を祝福して上げて下さい」
との祈りの言葉が出た。祈り終わると、心がすっきりしていて、祈
る前とは打って変わって平安になっていた。牧師の執り成しに、主
が答えて下さった。
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御言葉や御霊の導き、兄弟姉妹の助言と祈りの中に日々生かされて
いる。真に平安を与えるべく主の備えてくれたものだ。肉の価値観
はいつもノーと言うが、迷い出ることなく主に従う選択をしたい。


2017年07月24日(月)

「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」ルカ19:9


私たちにとって、幸せとはどういうものだろう。自分の思い通りに、
自分のしたい事をして生きるなら、幸せで、充実感があると思うだ
ろうか。人生が自分の願い通りになり、自分の好きなようにできれ
ば快適だと思う。しかし、それは勘違いだ。決してそうではない。

ザアカイは、富が自分を幸せにしてくれると信じ、富だけを目当て
に、取税人のトップにまで昇り詰めた。しかし富は決して幸せをも
たらしはしなかった。幾ら富が増しても、心の満たしは無かった。
罪を犯しているので、平安無く、心は暗かった。同胞から搾取して
いたので、同胞からも軽蔑され見下されていた。

富を求めて、取税人になったが、孤独な虚しい人生だった。背が低
くて、主が見えない。どうしても、何としてでも主に会いたいとの
心の渇きは、木にまで登る行為となった。この方なら、真に満たし
てくれるのでは。そんな彼に、主は「ザアカイ」と名を呼ばれた。
心の渇きを、主を求めるその心の底の思いを、主はご存じだ。慈し
んで受け止めて下さる。

ザアカイを断罪せず、裁かず、まず丸ごと受け入れられた。「あな
たの家に泊まる」ザアカイはどんなに驚き、嬉しかった事だろう。
こんな者の家に?ザアカイに心からの悔い改めが来て、救いが与え
られ、それは償いとなって具体的な形に表れた。主は求めに答えて
下さる。そして愛して下さっているので、目の前の一つ一つの悩み、
問題にも、救いを与えて下さる。
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心の乾きに気づけることが感謝だ。満たされない思いを持っている
ことを隠さずありのまま主に告げることが出来る。急いで降りて来
なさいと声をかけられたザアカイの喜びを私達も知っている。


2017年07月23日(日)

「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの 祈りを聞いて下さい」ネヘミヤ1:6



ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き
払われたままである悲惨な状態である事を聞いた。深く悲しみ断食
して神に祈った。罪を告白し、祈りに祈った。祈りの中で重荷が増
し加わる中、4ヶ月後、王の前に出た。しおれた悲しい顔つきであ
り、それを見た王は、王のほうからネヘミヤに尋ねて来た。心に何
か悲しみがあるに違いないと。

この時、ネヘミヤは率直に心の内を話した。すると、王の方から
「何を願うのか」と聞いて来た。王はネヘミヤの心の重荷を察した。
そこで、ネヘミヤは、祈ってから王に答えた。ユダの地へ送って再
建させて欲しいと願った。王は願いを聞き入れ快く送り出してくれ
た。

ここで学ぶ事ができる。ネヘミヤはまずエルサレムの現状を聞いて
知った。そしてまず祈った。私たちの信仰生活も同様だ。現状を、
目の前の問題を正しく知る事によって重荷が与えられる。まず現実
を知らない限り、重荷の持ちようがない。現状を見る事が大切だ。

そしてそれを祈りに持って行く時、更に重荷が増し加えられる。ネ
ヘミヤは重荷が加えられ、何かをしたいと思った。その願いは答え
られ、神により環境が目の前に次々と開かれて行った。すべての必
要が備えられて行った。

私達もまず現状を正しく認識するところから重荷が生じ、祈りによ
って更にその重荷が深められ、具体的に行動するように導かれる。
あなたにも主が見せておられる重荷があるだろうか。まず祈りに持
って行こう。

・・・・・・・・・・・・
崩れた城壁をしっかり見る事が大切で、そこから主からの重荷が与
えられ、祈りが与えられる。そして道が開かれて行く。自らの破れ
もしっかり向き合う時に、修復され、建て上げられて行く。見たく
ない現状に向き合う事から、いやしと祝福が始まる。


2017年07月22日(土)

「人から出て来るものが、人を汚すものなのです」マルコ7:17



人の罪は、外側から入るのではない。外側からウィルスのように身
体に入るのではない。外側から入って、汚す事ができるものは何も
ない。内側から、心の中から生まれ、外側に出る。だから汚れや罪
は心にあり、内側の問題だ。「これらの悪はみな、内側から出て、
人を汚すのです」。

カインは、献げ物が神に受け入れられた弟アベルに対して、心の中
から出て来る悪い思いに支配された。妬みや怒りに自分をゆだね、
支配され、飲み込まれてしまった。その結果アベルを殺してしまっ
た。まず心の中から、内側から湧き上がる悪い思いがあり、殺人と
いう行為に及んだ。これはカインの問題であり、アベルは関係が無
い。

しかし、アベルは受け入れられ、自分の献げ物は退けられたという、
その事しか見えず、心の内に湧き上がる悪い思いには目が向かない。
そしてその怒りがアベルに向いた。私たちは、怒りや憎しみ、敵対
心が出て来る時、その原因を外にあるとしか思わない。相手が悪い
から、自分が憎んでいるとしか見えない。

憎んでいる自分の罪には目が向かず、自分の憎しみを正当化し、ど
こまでも相手のせいになる。そして平安は全く無い。実は、「自分
の問題」と受け止める時、正しい対処法へと導かれる。主の十字架
により、きよめられ、解決へと導かれる。答えがそこにある。苦し
みや辛さから解放され、平安へと導かれる。

・・・・・・・・・・・・
環境が悪い、人が悪いとしか見えず、しかし平安が無い。自分と神
の関係が正しければ、どのような状況であっても平安なはずだ。外
側のものは、私たちに何も出来ない。平安を奪う事はできない。内
側からのものをよく吟味してみよう。


2017年07月21日(金)

「しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」マタイ6:32


「明日のための心配無用」と言っている。これは将来に備えたり、
計画したりするなという事ではない。雨の日のための準備は大切だ。
しかし不安や思い煩いは全く必要無いと。私たちの心配は、「もし
〜」から来ていないだろうか。もし、ああなったら、こうなったら、
「もし病気になったら」「もし失業したら」「もし経済的に困窮し
たら」幾つもの現実ではない亡霊の「もし〜」で思い煩い、恐れて
いる。

しかし「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と。種蒔きもせず、刈り入
れもせず、倉に納める事もしない。だが見事に養われている。野の
ゆりは、働きも紡ぎもしない。しかし綺麗に装われている。まして
や、私たちを天の父が養われない事があろうか。天の父は、あなた
の必要を知っていると。何と平安な事だろう。今、目の前に思い煩
いがあるだろうか。

仕事の問題や、対人関係の悩み・・なぜ、人は思い煩うのだろう。
自分の思い込みによっていないか。明日はこうなり、将来はこのよ
うになり・・と勝手に思い込んでしまう。ネガティブに、悪い方に
考え、ああでもない、こうでもないと、心が分割、分裂してしまう。
思い煩いとは心が分裂する事だ。分裂状態から、心が定まる事が必
要だ。それが「神第一」だ。

主を第一に求め、そこに心を定め、自分を主に委ねて行く時、あれ
やこれやの思い煩いから守られる。そして「そうすれば、それに加
えて、これらのものはすべて与えられます」神も、生活の必要も、
どちらも与えられる。
------------
まだ見えていないものは不安で恐い。だから心に主を据えてネガテ
ィブに流される「もし〜」を信仰に置き換えよう。主は心を配って
くださる。今日も明日もだ。心を定めよう。


2017年07月20日(木)

「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まず兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:24


ある人が、友人と言い争いになり、ギクシャクして、わだかまりを
持ったまま別れてしまった。帰宅後も、心が重苦しい。しかし、教
会学校の奉仕をしていたので、どうしても準備の必要がある。お話
の準備をしようとするが、心が平安の無い状態で出来ない。何とか
しようとするが、どうしても出来ない。このままではどうにもなら
ず、祈りに持って行った。

相手を責める気持ちでいっぱいだったが、心をさらけ出し、祈った。
すると、自分の態度と言葉にも非がある事に気づかされた。相手も
傷ついているだろう。このままでは、奉仕の準備など出来ない。
「供え物はそこに・・置いたままにして・・まず兄弟と仲直りをし
なさい」と示された。悔い改めて、すぐに相手に電話した。

自らの非を心から詫びたところ、相手も「いや、こちらこそ悪かっ
た」と謝ってくれて、見事和解とされた。心すっきり平安が広がっ
た。そして仕切り直して、準備しようと祈ったところ、不思議だが、
どうしても次の日曜は新しい子たちが来ると思えてならなかった。
きっと新来者が来ると。御霊の導きだった。

喜び持って準備できて、本当に次の日曜に新しい子たちが来て、主
に感謝し、御名を崇めた。主に従った祝福だと思えた。御霊が示さ
れる時には、同時に従う力も与えられ、みわざが現わされる。目の
前の示しに一歩従おう。
-----------
主の喜ばれる事が何かを解ったなら後回しにせずに従って行こう。
聖い奉仕の行為よりもまず仲直りしなさいと。従う力も与えられて
いることを信じて、みわざを経験していこう。


2017年07月19日(水)

「あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません」ヤコブ4:14


いつも「主の御心なら」という意識は大切だ。自分の人生のあらゆ
ることに、へりくだって主を認めて行く事は幸いだ。何かをしよう
とする時に、自分の意志と神の意志はどうだろう。又、その動機の
部分はどうだろう。ある人が、ボランティアをしようと思った。し
かしその時「主の御心なら、このことを、または、あのことをしよ
う」との言葉があり、主のみこころはどうなのだろうと心探られた。

単に自分が良い事をしたいという「自分の思い」か。自分のプライ
ド、見栄なのか。自分の自己満足なのか。人の目を意識し、人の賞
賛の得たいがためだろうか。もっと別に本当にやるべき事があるか
も知れない。何かをしようとする時に、まず祈る事は大切だ。主の
みこころを求めてみよう。

人には、自己実現という欲もあるので、良い事だとしても、神の栄
光でなく、自分の欲望を満たすためにしてしまう。自分の計画が
「主のみこころなら」それをしようとの姿勢が大切だ。箴言19:21
“人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る”
とある。自分の計画をまずは祈りに持って行こう。

そして「主のみこころなら、私たちは生きていて」とあり、「明日
〜しよう」と言っても、明日の事はいっさいわからず、明日生きて
いるかどうかは、私たちにはわからない。主の御前にへりくだって、
主を求めて生きることが大切だ。
-----------
一瞬でかき消えていく霧のように心もとない存在なのに、自分の願
いと努力で今日も生きていると思ってしまう。高ぶれる所は何処に
あるだろう。主に許されて任された一日をへりくだって歩みたい。


2017年07月18日(火)

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」創世記12: 4 


アブラハムは「生まれ故郷、父の家を出て、わたしの示す地へ行
け」と主に告げられた。「生まれ故郷」「父の家」とは、居心地の
良い場、長く慣れ親しんだ生活、自分の居場所、拠り所だ。そこで
は安心でき、周囲からの助けもあり、生活の基盤があって、何の心
配も無い安定した場所だ。一つ所にとどまれば、経済的基盤もでき
る。つまり、そこにいれば、物心共に特に神に頼らなくても生きて
行ける。

そこを出るという事は、主のみに拠り頼むという事だ。未知の地へ
出るわけで、何があり、何が起こるかもわからない。身の危険もあ
るだろう。持ち物にも頼れず、人も頼りにならず、自分の知恵も判
断も頼れない。ただ主だけが頼りであり、御言葉だけが行く道を示
し、照らす。御言葉に導かれて歩む人生だ。

ある人が突如、重要なポストへの抜擢を受けた。様々な思いが巡っ
た。「自分に出来るのか」「名誉心ではないか」「人の目が気にな
る」・・思いをすべて主に打ち明け、御心が成るようにと祈りに祈っ
た。その時「あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行け」との
御声を聞いて、決心できた。

私たちもどうだろう。「故郷を出て」「親族を離れて」、神以外に
依存しているものから離れて、次の領域に進めと言われているだろ
うか。地理的な事でなく、霊的な領域だ。信仰をもって次の段階へ
進めと。その時、神ご自身があなたの故郷となり、あなたの家とな
って下さる。あなたも、行けと言われているだろうか。

・・・・・・・・・・・・
主以外の様々なものに拠って立っているが、普段は、なかなか気づ
かない。何かの示しを受けた時に、前進を阻むものが、心の内にあ
る事に気づく。変化を恐れ、安定を願う思い、先が見えない不安・・、
しかし主だけを頼って、一歩を踏み出す時、新たに主を体験して行
く。


2017年07月17日(月)

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8


生まれた時から偶像を見、育って来た私たちは、くどくどと、量を
多く拝めば、聞かれると勘違いをする。数珠を繰りながら唱えたり、
何時間もかけて拝む姿を見聞きするので、同じ言葉の繰り返しでも、
熱心に祈るなら聞かれるのでは、というのが潜在意識にあったりす
る。そして、自分軸の信心なので「神よ、ああして、こうして、あ
っちへ行って、こっちへ来て」式の祈りをする。

願いが聞かれないなら、そんな神は必要無いのだ。欲しいのは自分
に都合のよい神だ。自分に良いように人生が回って欲しい。人生途
上で神に出会ったクリスチャンも、長年培われた価値観が潜んでい
て、自分のための神になってしまう。ところが、そうではなく、祈
る先に必要をご存じの神だ。神が知らないから、必要を知らせるの
ではない。必要は知っていると言われている。

では祈りは何のためだろう。神が状況に無知かのごとく、くどくど
と説明する必要はない。熱心に祈って、祈りを手段として、祝福を
手に入れるのではない。あなたよりも、本当のあなたをご存じの神
が目の前におられ、その方は御子を殺すほどに愛して下さったお方
だ。親は子が心配する前に、子の必要を心配し整える。

私達は自分にとって何が真に必要で、何が最善かがわかっていない。
それを教えてくれるのが祈りだ。祈りの中で自分が変えられて行く。
祈りの中で真の必要がわかって行く。御心がわかり、その御心を求
めて行く。お願いする先に必要をご存じ、だから祈らなくてよいの
でなく、「だから、祈りなさい」だ。
-----------
すでに御霊に導かれその中で生きているのに、気づくと自分の声ば
かりを聞いている。自己都合の祈りが祈りながら変えられていくの
は主が最善を準備して聞いていてくださるからだ。何と愛されてい
ることか。


2017年07月16日(日)

「願って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうす ればその通りになります」マルコ11:24



「神を信じなさい」と言われる主は、祈りについて、素晴らしい約
束を与えて下さっている。信じるなら、その通りになると。「すで
に受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と。
しかし次に言葉が続いている。「誰かに対して恨み事があったら、
赦してやりなさい」と。ここで赦す事が言われている。

赦さない心は、祈りをさえぎってしまうと。それは、まず神があな
たを赦して下さったのだから、相手を赦しなさいと。私たちは、し
ばしば失敗する。しかし神は、常に豊かに赦し続けて下さる。罪を
犯さないのではなく、弱さのゆえに犯してしまうが、赦されて赦さ
れて生きている。

まず恨みや赦さない心があると、祈れなくなってしまう。平安が無
く、心は重く、主と自分の間に、隔たりができてしまう。ある働き
人が、説教奉仕のために、切に祈り求めた。しかし、幾ら祈っても
語るべき言葉が与えられない。期日は迫り、尚も与えられず、徹夜
でも祈る覚悟を決めた。そうすると祈りの中で、心の奥底にあり、
自分でも気づかなかったが、底に、ある人たちに傷つけられた恨み、
苦々しい思い、敵対心が潜んでいる事を示された。

以前の事なので、普段は意識にも上らない。しかし決して赦してい
ない。恨んでいる。御前に心から悔い改め、その人々を赦した。す
ると平安と確信が満ちて、願った祈りは見事に答えを得た。赦さな
い心は、祈りをさえぎってしまう。もし恨み事がそのままなら、そ
の事をまず祈りにより、主に持って行こう。

・・・・・・・・・・・・
赦さない心や恨みは非常に根深い。普段は目の前の事に忙しく、意
識に上らずに過ぎている。しかし決して赦していない。その底の思
いも明るみに出し、心底平安にして下さる。祈りの中で教えられて
行く。祈りの中で正されて行く。


2017年07月15日(土)

「エリは言った。『その方は主だ。主がみこころにかなうことをな さいますように』」Tサムエル3:18


主の御声がサムエルに臨んだ。が、サムエルにはそれが主からの御
声であることがわからなかった。それで、サムエルは、エリに呼ば
れたと思い、何度もやって来た。エリは、そんなサムエルに、主が
語っておられると悟った。そこで、もしまた呼ばれたら、「主よ、
お話しください。しもべは聞いております」と言うように教えた。

そして再度主は「サムエル。サムエル」と呼ばれた。エリに言われ
た通りに応答すると、主は、エリの家に裁きが下されるという厳粛
な御心を明らかにされた。サムエルが、呼びかける声が主だとわか
った時に、御心が示された。それをエリに言うのを恐れたが、エリ
に促され、そのままを伝えた。

主に聞いて行く時、語られる内容は、時に厳しい。嬉しい事ではな
いかも知れず、都合良い事ばかりではない。しかし避けずに受け止
めて行く時、主の御名が崇められ、主の御心が成し遂げられて行く。

主に聞くのではなく、自分で考え、自分で決めてしまってないだろ
うか。それなら主の御心でなく、自分の思いの道を歩んでしまう。
又、「主よお話下さい。しもべ聞きます」でなく、「主よお聞き下
さい。しもべ語ります」一辺倒になっていないか。まず聞こうとす
る態度が大切だ。

デボーションから、礼拝から、学びから、書物から、交わりから、
あらゆる所を通して、主はサムエルを呼ばれたように、私たちの名
を呼び、御心を示そうと語りかけて下さる。

・・・・・・・・・・・・
サムエルは、エリの家の裁きという、厳しい主の言葉を、主に従い
エリに告げた。「主よお話下さい。しもべ聞きます」は、聞いた御
言葉にお従いしますとの態度だ。どうであれ従おうとの姿勢がある
からこそ、語られている御言葉が悟れて、受け取ることができる。


2017年07月14日(金)

「みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません」マルコ4:19




種まきのたとえで、ある種はいばらの地に落ちた。道ばたに落ちた
種は、地が固く、種をはじき返してしまい、植わることがなかった。
その種は、サタンが奪い去ってしまった。土の薄い岩地の種は、薄
い土があり、芽を出した。が、下へ下へ根ざそうとすると、岩にぶ
つかり根ざせない。岩は自我だ。自我を砕いて従おうとしないなら、
試練が来た時に枯れてしまった。

それに引き替え、いばらの中に落ちた種は、一応芽が出て伸びた。
この人は主を受け入れ、御言葉に教えられ歩んでいた。しかし、同
時にいばらも伸びて来て、その成長が阻まれてしまった。そのいば
らとは、世の心づかい、富の惑わし、色々な欲望だ。それらが心に
巣くい、御言葉をふさいでしまったと。

御言葉に従って歩み始めたが、実を結ぶまでに至らなかった。その
地に、元からいばらもあり、成長と共にいばらも出て来た。誰しも、
思い煩いや、富の誘惑や、様々な肉の欲望がある。富自体、楽しみ
自体が悪いのではない。富も、楽しみも神が与えて下さるものだ。
「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」だ。

しかし、神以上に執着してしまう心が問題だ。神よりも、自分の心
配な事柄、富、快楽に思いが奪われる時、実を結ぶことができない。
私たちの優先順位はどうだろう。神よりも執着するものがあると、
御言葉をふさぎ、結実できないと。枯れてしまうので要注意だ。自
らの、心の大切なものは何だろう。それぞれが正しい位置に置かれ
る時、平安と喜び持って生きて行ける。
-------------
何故ストレートに御言葉に従えないのだろう。御言葉を受けて決心
してもあっという間に取り越し苦労が襲う。いのちの種をふさぐ、
いばらの実態は何か、見過ごさずきちんと向き合ってみよう。


2017年07月13日(木)

「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Uコリント12:9



「弱さ」と言うと、どんなイメージが湧くだろう。この世の言う
「弱さ」は、強さが善であり、弱さとは劣っている事だ。弱さは悪
いものだ。だから隠したいし、人に知られたくない。弱さを見せる
と、尊敬を失い、自分の価値が下がると思っている。その価値観な
ら、自分でも弱さは決して認められない。認めたなら、自分が崩れ
そうに思うからだ。

しかし、御言葉の言う「弱さ」は違う。弱さは恵みだ。弱さの中に
こそ、神が働かれるからだ。そこで神の力を知り、神の慈しみを知
れる。だから弱さを大いに喜べて、それはむしろ誇るべき事だと。
何と世の価値観と違う事だろう。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と主に全面的に受け入れ
られ、愛されているからこそ、自分の弱さを認める事ができる。弱
さを受け入れる事ができる。主に愛されているゆえだ。幾ら自分の
弱さをがあろうと、主の愛は全く変わらないのだから。逆に、この
愛のベースが無ければ、弱さなど認めることが出来ない。

ある人が隣人との対人関係にずっと悩んでいた。うまく行かない。
出来ない自分を責め、もっと頑張ろうとしてしまう。でも心は重く
苦しいばかりだ。でもそうでなく、自分を責めず、頑張らず、その
弱さを認め、受け入れて、そこで主を頼ることだと教えられた。そ
の時、あんなに苦しかった心に喜びが来て驚いた。
------------
パウロのように祈っても努力してもどうしても出来ない現実を前に
するとことがある。ただ受け入れじっと主の力が現われる事を祈る
しかない。無力は主を誇れる時だ。すでに備えられている祝福を待
ち望める。


2017年07月12日(水)

「『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」ヘブル3:13



ある人が、非常に厳しい試練に会っていた。続く苦しみに打ちのめ
され、聖書を開く事も、祈る事も出来なかった。神はわかるのだが、
自分は祝福されていないと、心を屈折させてしまっていた。他の人
々が幸せそうで、羨ましいばかりだった。心が沈み、落ち込んだ。
教会へも、人の集まりにも行けなかった。人に会いたくなかった。

そんな中、友人が訪ねてくれた。頑なな心の拒否反応が出て、会い
たく無いのだが、仕方なく会った。でも、もう一方で、こんな自分
をわざわざ訪ねてくれて、申し訳ないとの思いがあった。御霊が導
かれる新しい性質の反応だった。しかしそれがきっかけで、又、教
会へ行ってみようと思えた。御霊の働きだった。

ある人は、やはり大きな苦しみに会い、心身消耗しきっていた。弱
り果て、もう考える事も、祈る事もできなかった。気力が無く、ど
うにもならなかった。家族が、懸命に祝福を伝えて、励ましてくれ
るのだが、心が動かなかった。しかし、その励ましによって、御言
葉を読む気力までは無いが、聖書を取り、パラパラと見ていた。

読むのでなく、ぼおっと見ていたという状態だった。しかし驚くべ
き事が起こり、その見ていた御言葉が心に響いて来たのだ。語りか
けて来た。光が射したようだった。御言葉により、今の苦しみの状
況が、ふに落ちたのだ。そこからもう一度立ち上がることができた。
親族の励ましに感謝した。
-------------
御言葉は語られる。そして自分に向けて語られたと解ることは感謝
だ。心を鈍くせずキャッチしよう。古い価値観は御言葉に信頼させ
ないように働いてくるが惑わされず御言葉をしっかり心に留めよう。


2017年07月11日(火)

「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない」創世記19:17


ソドムの町は、不道徳、争い、混乱、余りの罪深さのために滅ぼさ
れようとしていた。「彼らの罪はきわめて重い」と。神はその前に、
アブラハムの執り成しにより、ロトに二人の御使いを送り、家族を
連れ出すよう言った。一刻を争う、ギリギリの状況だ。そこでロト
は娘婿たちに伝えるが、彼らは、罪?滅び?など、冗談、戯れごと
だと思った。

彼らは普段のロトの生活や価値観を目の当たりにしていた。神と世
と二股かけて、世を愛し、享受している人物に、突然、神の裁き、
罪、滅び、と言われても、「何を冗談を」と。そして何とロト自身
すら、滅びが死が迫っているのに、逃げる事を「ためらった」のだ。
今まで手にしたものへの強い執着があり、財産、名誉、地位、世か
らの評判を失いたくなかったのかも知れない。

もう間に合わないと、御使いが、彼の手、彼の妻の手、二人の娘の
手をつかんで連れ出した。「命がけで逃げよ。後ろを振り返るな」
と言われたのに、ロトの妻は途中で、世への執着で、後ろ髪を引か
れ、後ろを振り返ったため塩の柱になってしまった。二人の娘は父
親と近親相姦を犯した。ソドムの罪の影響を娘たちも受けていた。

ロトは最初、ソドムの「近くに」住み、次にソドムの町に「入り込
み」、住人になり、地位を求め「町の名士」になった。世に少しづ
つ引き込まれて行った。結局、家族すらも救えない最後となった。
私たちにも「ためらい」があるだろうか。それはどこから来ている
か、御霊に探って頂こう。
-----------
御心だけに従いたい思いと、この世で自分が頼りとしている物とが
混ざり合い、生き方は徐々に複雑になっている。後ろを振り向かず
逃げているだろうか。前にある神のあわれみだけを信じる真っ直ぐ
な生き方をしていたい。


2017年07月10日(月)

「それで神は、この民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた」出エジプト13:18 


神が民をエジプトから出された時に、約束の地に導くのに、ペリシ
テの近道を行かせず「荒野の道」へ回らせられた。「民が戦いを見
て、心が変わりエジプトに引き返すといけない」からであり、そこ
に神の配慮があった。長年の奴隷生活で、戦いの訓練も経験も全く
無い民が、敵との戦いなど恐怖で怯えて、引き返してしまうだろう。

私たちの価値観の中に、楽な道、平らな道、問題の無い道を好み、
近道、早く到達する事、順調が善との思いがないだろうか。苦しい
事、困難な事は避けて通りたい。しかし神は近道ではなく、あえて
荒野の、困難な道を通された。神が、苦しい、延々時間のかかる道
を通されるのだ。

神に不可能はなく、今すぐに、願っているものを与えて下されば良
いのに。長々と時間がかかり、事は解決せず、まさに遠回りさせら
れていると感じる状況がある。自分の思いと全く違う道を歩ませら
れる。しかしそこを通ってこそ、学べる事がある。神に無駄はない。
忍耐や信仰が培われ、神の愛や慈しみ、真実を経験する。委ねる事
を学ばせられる。そこを通らずしてあり得ない。

そしてその通り道には、雲の柱火の柱が伴い、進べき道が示される。
道を見失う事はない。荒野での灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜
の暗闇を火の柱が照らした。それは、道中決して「民の前から離れ
なかった」。今、荒野にいるなら、神を信じ、従って歩もう。片時
も離れず共におられ、導いて下さる。
---------------
平凡な日々の間に感謝できない試練が突然臨む。出口の無いような
長い荒野であっても必ず終わりが来る。試練の背後の御神を見てい
よう。神に頼りぬく深い信仰を与えられ、今の一歩の力をくださる。


2017年07月09日(日)

「もし、私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進 もうではありませんか」ガラテヤ5:25 

 

私たちは、主に従って行きたいと思う。しかし、自分の力で、主に
従おうとすると、怒りが湧く事態に出くわすと「怒ってはいけな
い」と、怒りをぐっと抑え込む。又、相手の態度にイライラすると、
「忍耐しなければ」と、ぐっと我慢する。あちらでも、こちらでも、
我慢を重ねる。

しかし、無くなってはおらず、内側に抑え込んでいるだけなので、
許容量オーバーになると、必ず切れて爆発する。定期的に爆発して
は、それまでの証しが台無しになる。経験あるだろうか。我慢する
事は、抑え込むだけなので、それが溜まると大噴火する。

主に従うとは、押し殺し、抑え込み、我慢する事ではない。それな
ら、外側を懸命に取り繕うだけになる。クリスチャンである事は、
フラストレーションのかたまりになってしまう。そうではなく、歯
を食いしばって頑張り、眉間にしわを寄せて我慢するのでなく、
「我慢できません」「忍耐できません」「腹が立ってどうにもなり
ません」と、主に心の内をありのまま告げ、主に受け止められ、主
から力を受けて、歩む生活だ。

主によって変えられて行く。まず、自分で何とかしようとせずに、
自分の心の内を、主に打ち明けよう。主は喜んで受け止めて下さる。
主にことごとく告げて、御声に耳を傾けよう。主のみ思いを伝えて
下さる。その御声に従おう。出来ないと表明しているので、必ず御
霊の助けが臨む。

・・・・・・・・・・・・
気に入らない事が起きた時、内に抑え込むか、相手を攻撃して行く
かのどちらかになる。しかし主の御心は、まず主に呼ばわることだ。
主に向いて「助けて下さい」と。これが肉の方へ行く事から守られ
る。御霊に助けられ、御心の対応へと導かれる。


2017年07月08日(土)

「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさ い』」ヨハネ5:8

 

38年間、病気で伏せっていた男性がいた。主が「彼が伏せってい
るのを見」と、主は見られて、主の方から、声をかけられた。「よ
くなりたいか」と問われた。彼は、真っ直ぐに「よくなりたいで
す」と応答したのではなく、介助者がいないから、どうにもならな
いと。よくならないのを、介助人がいないせいにした。

確かに、彼には誰も助けてくれる人がいなかった。寂しい、孤独な
人生だったろう。彼の過去も、病も、その思いも、苦しみ、嘆きも、
何もかもご存じで、主は御声をかけられた。そして「起きて、床を
取り上げて歩きなさい」と命じられた。38年間、自分の不幸を人
のせいにし、自分はかわいそうと、悲劇の主人公になり、自己憐憫
の中にいた。

それが彼の床だった。そこは楽で居心地良い場所だ。そのような床
を取り上げて、起き上がって歩み出せと言われた。「よくなりたい
か」の主の言葉は、彼の現実を照らし出した。「よくなりたいか」
という事は、現状よくないという事だ。

「起きて、床を取り上げて歩け」この言葉を信じて、一歩を踏み出
さない限り、決して癒しはない。彼は、御声を受け入れ、信じたか
らこそ、起き上がろうとした。すると、主から力が臨んで、起き上
がる事ができた。

すぐに直って、床を取り上げ歩き出した。私たちにも、同様に、主
は見られ、慈しみと愛のまなざしが注がれている。私たちの過去、
弱さ、傷、すべてをご存じで、「よくなりたいか」と御声をかけて
下さっている。自分が依存している、取り上げるべき「床」は何だ
ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・
成長したいと願うのだが、その成長を阻むものが心の内に潜む。
「よくなりたい」と願っているとのつもりだが、実は、心の底は、
そうではなかったりする。犠牲を払いたくなかったり、このまま
でいいと思っていたり、御霊が探り、祝福、成長へと導いて下さる。


2017年07月07日(金)

「私たちには五つのパンと二匹の魚のほかは何もありません」ルカ9:13



男だけで五千人の人々、女、子供を入れるともっと大人数の人々が、
主のお話を聞きに集まっていた。夕刻になり、弟子たちは、人々を
回りの村々に分散させ、宿と食事を取れるようにと、主に申し出た。
ところが主は「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい」と言わ
れた。

その時に、弟子たちには、子供のお弁当小さな五つのパンと二匹の
魚しかなかった。それ以外には何も無かった。しかし、主はそれを
持って来るようにと言われ、その五つのパンと二匹の魚を受け取ら
れ、それを天を見上げ、感謝の祈りをされ、弟子たちに群衆に配る
ようにと与えられた。

すると、人々は十分食べて皆が満腹し、なおパンくずを集めると十
二のかごがいっぱいになった。私たちはどうだろう。多勢に無勢、
こんなものが何になろう。何の役に立つのだろう。私たちの時間、
労力、金銭・・莫大な必要を前にして、私の献げるものなど焼け石
に水、無きに等しい。献げても無駄、そんなふうに思うだろうか。

しかし、男だけで五千人、全員だと一万か二万人か。そこに小さな
五つのパンと二匹の魚だ。量の多い少ないでなく、主がおられるこ
とが重要だ。主がおられるなら、どんなに僅かでも問題無い。あな
たの手にある時間、労力、金銭、それで十分と。

あなたの手に置いておくなら、それはそのままだ。しかし主のもと
に持って行くなら、主が大きなみわざをされ、皆が栄光を拝するこ
とになる。主の手にあるかどうかだ。
-------------
手の中の物を見ると無いに等しい僅かな物に見えるが、そこしか見
ないのは何と不信仰だろう。主はいつも大きく用いてくださった。
信仰を持って主の手に渡して行きたい。


2017年07月06日(木)

「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった」ルカ9:53


よくドラマに勧善懲悪が出て来るが、正義のヒーローに悪人が懲ら
しめられると、見ているほうは、すっきりする。気持ちが良い。主
がエルサレムに向かおうと、十字架の決意を定められ、御顔をまっ
すぐに向けられた。サマリヤを通過するが、宿等のために使いを先
に遣わし準備させられた。

しかしサマリヤでは、主を受け入れなかった。協力もしなかった。
その時、弟子たちが「私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き
滅ぼしましょうか」と言った。敵対する者たちは裁かれてしかるべ
きだと。しかし、主は彼らを戒められた。人の思いと神の思いには
大きなへだたりがある。

主がエルサレムへ向かわれるのは、多くの苦しみを受け、十字架に
かかるためだ。神のあり方を捨てられ、ご自分を無にし、仕えられ、
自分を卑しくし、すべての罪を身に引き受け、贖いを成し遂げるた
め、御父に徹底して従われるためだ。しかし、弟子たちにはわから
ず、理解できず、その前には、この中で誰が一番偉いかと議論して
いた。

しかし主は一番小さな者が一番偉いだと、諭された。主がまっすぐ
御顔をエルサレムに向けられたように、私たちの進む道も、十字架
の道だ。自分を捨て、自分の思いを通すのでなく、主の御心に歩む
道だ。しかしその時、主とひとつだ。心底の平安がそこにある。
---------------
私たちは目の前のことに反応し思いは自然にネガティブに流される。
自分を捨てるのはとても不自由に思えるが、一瞬、一瞬の怒りや恐
れから祈っていこう。主と一つ心になることで本当に自由にされる。


2017年07月05日(水)

「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします」詩篇142:2



詩篇で、ダビデは、嘆きに嘆いている。涙は止まらず、いら立ちで
衰え、敵のために弱っていると。疲れ果て、弱り果てた姿をありの
まま出している。クリスチャンとはいつも笑顔で、ニコニコしてい
ると思っていたら、ほど遠い姿だ。しかしダビデは率直に、自分の
感情や思いを言い表している。何の問題も無い振りをしていない。
大丈夫な振りもしていない。

「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いて
くださる」「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前
に言い表わします」と。焦り、思い煩い、不安、不満、悲しみ、苦
しみ、すべてを隠さずに、気持ちを抑え込まず、無い振りをせずに、
率直に、主に告げている。

その後「主は私の泣く声を聞かれた」「主は私の切なる願いを聞か
れた。主は私の祈りを受け入れられた」と確信に変わっている。そ
して「嘆きを踊りに変えて下さった。喜びを着せて下さった」と言
っている。ダビデは、主への深い信頼があるから、何でも言えた。
信頼していない相手に、気持ちを打ち明けることはない。受け入れ
られるとわかるから、訴え、告げ、願って行く。

心の底の思いを主に告げて行く時、辛い心が、平安に変えられる。
状況は変わらずとも、心が平安にされる。そして主との交わりが深
められ、信頼関係がますます強くされる。今、心が重く、苦しい状
態なら、そのまま主にことごとく告げよう。心が平安にされ、導か
れて行く不思議を経験する。
--------------
心にある様々な問題を持って主の元にいこう。言葉にならないうめ
も主の方からそれをご存知でいてくださる。苦しみを注ぎだしなが
ら、主のものであると子供のように安心しよう。


2017年07月04日(火)

「それは、私が・・生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願い・・」ピリピ1:20 



教会を迫害するヘロデ王は、ヤコブを殺害した。それがユダヤ人の
気に入ったのを見て、次にはペテロに手を伸ばした。ペテロを捕ら
え、処刑しようとした。しかしペテロは、奇跡が起きて、御使いに
よって牢から救い出された。「教会は、彼のために神に熱心に祈り
続けていた」その答えだった。

教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じく熱心に祈った。だがヤ
コブは処刑されペテロは救い出された。「なぜ?」と思う。だが、
これはヤコブとペテロそれぞれに対する、神のご計画であり、召し
だ。ヤコブは殉教により神の栄光を現わし、ペテロは更に先に福音
宣教の使命が与えられていて、それによって神の栄光を現わす事と
なる。

ヘブル11章にも、ある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、
剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」と。
奇跡に次ぐ奇跡により進軍して行った。同時に別の人々は「牢に入
れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しく
なり、苦しめられ」と殉教して行った。結果的には全く違うが、ど
ちらもが「信仰によって」歩んだ。

パウロは「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめ
られること」を求めた。一人〃に備えられた神のご計画が全く違う。
隣の人と比較ができない。比較は何の意味もなさない。いつも主と
自分の関係の中で、自分に与えられた人生、自分に備えられた御心
を全うする事が、最大の喜びの道だ。
------------
平凡な毎日のくり返しで、主の栄光より自分のために生きてしまう
日々だ。このような的外れな者に主は証を託されている。私の身に
よって・・の御言葉を今朝は自分のものとしたい。


2017年07月03日(月)

「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和・・」ガラテヤ5:22


私たちの悩みは、対人関係に関する事が多いと言われている。職場
でも、仕事自体より対人関係で悩むと。しかし、その人間関係の中
で、私たちは砕かれ、練られ、成長して行く。御霊の実を結んで行
く。批判されたり、悪口を言われたりする。それは思い当たる所が
あったり、又、全く理不尽だったりする。

人から面と向かって非を指摘された時に、ムッとするだろうか。ど
う言い返そうかと、怒りでいっぱいになるだろうか。しかし対人関
係において、反応する自分に、自分の真の姿が照らし出される。人
里離れた山の中で、一人暮らしをしていて、自分は愛深く、寛容で、
親切で、忍耐があり、自制があり・・と思うのは簡単だ。

誰とも摩擦がないし、関わりを持たなくてよい。何をしようと人に
迷惑かける事はない。目の前に人が来た時に試される。本当の自分
があらわになる。自分に愛がない事、寛容も、忍耐も、自制もない
事を知らされる。しかし、それは目の前に、相手が送られなければ
わからない。自分は愛深いと思い込んでいるものだ。

目の前の苦手な相手が、自分を成長させ、成熟させてくれる。鉄は
鉄によって研がれる。鉄は熱い炉に溶かされ、不純物を除かれ、打
ちたたかれ、磨かれる。主が私たちから不純物を取り除き、砕き、
磨くために、人間関係を用いられる。私たちを精錬し、そして豊か
な実を結ばせて下さる。
-------------
苦手な人に愛をもって仕えるという選択は肉にはない。けれど私た
ちはもう御霊の導きの中に生かされている。そこを信じ肉の思いに
逆らう選択をしたい。その祈りを主に献げることからはじめよう。


2017年07月02日(日)

「それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」Tサムエル1:18


ハンナは辛い状況にいた。不妊の悩み、周囲の人々からの目、ハン
ナを妬むペニンナからのいじめ・・これらすべての悩みと苦しみを、
ただ悩み思い煩うのでなく、決意して祈りに持って行った。主の前
に、感情を吐き出し、激しく泣き、長く祈り、心の何もかもを注ぎ
出した。つのる憂いといら立ちを、すべて主のもとへ持って行った。

心を注ぎ出すのは、主に何も隠さず、すべてを打ち明けて、祈るこ
とだ。主と自分の間に、隠し事が無いこと、主と自分の間をしゃ断
してしまうものを置かないことだ。主との間のパイプに詰まってい
るものがあれば、告白し、悔い改めよう。主との間に妨げがないこ
とが必要だ。

自分の内側を吟味して、障害となるものは捨て去り、悔い改めを確
かなものとしよう。ペニンナからのいじめがあったが、もしかして
ハンナの側にも、彼女に対する嫉妬、憎しみがあったかも知れない。
又、夫のエルカナを責める思い、不満、いら立ちがあったかも知れ
ない。

自分の中に苦い根がないか、頑なな心が無いか、よく吟味し、主の
血潮によって赦しを受け取ろう。主との間が妨げなく、スムーズに
なるなら、恐れなく御前に行ける。そして大胆に自由に求めること
ができる。

「安心して行きなさい。神があなたの願ったその願いを叶えて下さ
るように」とのエリの言葉を受けて、食事ができなかったハンナが、
心すっきりして食事ができた。以前のハンナではなく、すっかり変
えられたハンナがそこにいた。祈りは私たちを変える。

・・・・・・・・・・・
主に心の何もかもを持って行く事により、ハンナは変えられて行っ
た。あんなに苦しかった心が、その苦しみが消えて、平安にされた。
今の辛さや、苦しみを、主のもとに持って行こう。主に知っていた
だいた、主がわかって下さっている・・ここから安堵が来る。


2017年07月01日(土)

「・・しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのよ うに、なさってください」マタイ28:39



ある人が、自分の現在の状況を、一見マイナス、負の状況なので、
悪いものと受け止め、良い状況になるようにと、ずっと祈り続けて
いた。祈りは積み上げられるが、その祈りが答えられないどころか、
その後、様々出来事が起こり、この状況は変わらないと確信になっ
て行った。

その時に、この状況は悪いものというのでなく、神が自分のために
備えられた最善なのだと、自分の思いが変えられて受け入れる事が
できた。その時に、苦しかった心に平安が満ちた。気持ちが楽にな
って驚いた。自分の思う歩みでなく、主が定められた、主が決めら
れたように生きることが、こんなにも心安らかで、安堵であとは、
本当に驚きであった。

振り返って、自分は自分の思いが強く、主の御心ではなく、自分の
思い、願望が中心になっていた事に気づかされた。自分の願望が叶
う事が喜びでだと思い込んでいた。しかし、そうならない時に、心
は不満や思い煩いでいっぱいになった。そうではなく、それを明け
渡して、主の導きに従うところに真の平安と喜びがあると体験させ
られた。

主も、十字架を前にした時に「できますならば、この杯を去らせて
下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころ
のように」と祈られた。私たちは、自分の力では委ねる事もできな
い。祈るからこそ、その祈りが答えられ、自分の思いを、自分自身
を委ねて行くことができる。

・・・・・・・・・・・・
口先で「御心が成りますように」と祈っても、心では思っていない
事が時々ある。それにも気づかなかったりする。だが実際は受け入
れられず、違う思いがあったり。それを祈りの中で正直に自分の思
いを告げて行く時に、御霊が受け入れられるようにして下さる。