2017年08月31日(木) 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き・・」ヨハネ15:1
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き・・」ヨハネ15:1
庭の木々や作物を育てる人は、せん定の大切さを知っている。時に 刈り込みをするなら、豊かな実を結ぶ事になる。枝や葉に余分な養 分が流れるのを防ぐので、その分が実に行き、立派な、たわわな実 がなる。同様に信仰生活においても、主は刈り込みをされる。出っ ぱっている所を切り取られる。 それはプライドや虚栄心やわがままかも知れない。はさみで刈り込 むので、必ず痛い。苦痛を伴う。プライドが強ければ、プライドが 傷つく事態が起きる。それはあなたをへりくだらせるためだ。柔和 にするためであり、主が刈り込んでおられる。目の前にある痛い事 は、もっともっと豊かな実を結ばせるための、主からの刈り込みだ。 自分がどこに反応し、どの部分が痛いのか。そこが刈り込みの必要 な場所だ。もし刈り込みが無ければ、高慢で自己中心のままだ。思 い通りにならなければ周囲に当たり、又落ち込むだけの歩みを繰り 返す。又、進もうとしていた進路が閉ざされる事がある。 自分はその道が最善と思い、そこに進みたいのに閉ざされる。それ も刈り込みだ。開かれた道から行けば良い。そして、閉ざされた事 が、後に、最善のご計画であった事がわかる。別の道が備えられて いて、必ず豊かな実を結ぶ事になる。刈り込みが感謝だったと、後 の日に必ず思える。 ----------- 出会っている困難はもっと多くの実を結ぶための主からの刈り込み と受け取りたい。なぜ、どうしてと混乱するより、根はしっかり主 にとどまっているのだからと安心して主から新しい養分を受けよう。
2017年08月30日(水) 「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」ローマ6:8
「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」ローマ6:8
ローマ7章を例えると、完璧主義者の夫がいて、毎日、家中を点検 し、ほこりやゴミをチェックする。料理は毎回まずいと言い、料理 の仕方をあれこれ指図する。行動の一つ一つにもチェックが入り、 すべてにおいてダメ出しだ。何をしても夫を満足させる事はできな い。 悩んで、落ち込んで、ノイローゼになりそうだ。こんな夫と別れた いが、不可能だ。これ以上自分はやって行けない。夫が死ねばよい が、それもあり得ない。どうすればよいのか。この夫が律法で、妻 が私だ。要求ばかりされて、責められて、しかし、求め通りに行な う事はできない。苦しくてたまらない。 律法が死ぬ事はあり得ず、解決の道は、妻が死ぬ事だ。死により契 約から解き放たれる。これがキリストがして下さった事で、私はキ リストが十字架上で死なれた時に、一緒に死んだ。そのため律法に 対して死んだ。そして、もし親切な愛深い夫ならどうだろう。 指図し、命令するだけでなく、掃除や料理を一緒にしてくれて、助 言と共に、出来ない事を一つ一つ実際に助けてくれ、共に負ってく れたらどうだろう。そんな夫なら妻は自発的に自由意志で愛をもっ て従いたいと思う。これが十字架で死なれたキリストと共に死に、 よみがえられたキリストと共に生きることだ。 -------- 主と共に生まれた新しい命にあって生きていく。何度も繰り返し覚 えたい。律法に迫られてするのは、それがどれ程良いことでも自分 のためではないのか。そこから解放された。主のために生きよう。
2017年08月29日(火) 「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」詩篇119:1
「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」詩篇119:1
主のみおしえに歩み、主に従うためには、御心に従おうとの意識的、 選択が必要だ。オートマチックではない。操り人形や夢遊病者のよ うに、勝手に従って行けるのではない。意識して御霊の導きを求め、 それを選択し、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。主に拠り 頼まなければ進めない。 主が、勝手に私たちを操って従わされるのではない。それならロボ ットになってしまう。また、私たちの意志を無視して、神が代わり にされることもない。詩編記者は自分の道を顧みた。私たちはどう だろう。日々の生活を、自分自身を顧みることは有意義で大切だ。 日々の忙しさに、流されてしまっているだろうか。主との交わりか ら遠ざかってしまっているだろうか。何かの示しをなおざりにし、 引き延ばし、ぐずぐずしているか。記者は、主のさとしの方へ「足 を向け」た。祈ったのでなく、「あなたの仰せを守りました」と、 実際に行動した。 今、はっきりと、主の御心に、自分の足を向けるよう、具体的に従 うように導かれているなら、実行しよう。「急いで、ためらわずに」 とあるように、ぐずぐずしていると、ためらっていると、必ずでき なくなってしまう。いつしか、御霊の促しが消えてしまう。大きな 祝福を逃してしまう。今日、足を向けて、主のみことばを実行しよ う。 ----------- 心を尽くして主に尋ねるには、主に心を向ける時間が必要だ。いつ も何かが同時進行で目の前くる。御言葉は何と言っているか、導き はどこにあるのか、主に心を向ける時を守りたい。
2017年08月28日(月) 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩編119:105
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩編119:105
車のガソリンやオイル計器の赤ランプが無ければどうだろう。又、 飛行機や船が、人間の感覚だけに頼って運行されたらどうだろう。 天候により視界がぼやけると、どの方向に向かえば良いかわからな い。しかし、しっかりした計器があるなら、正しい方向へ間違いな く進んで行ける。私たちの人生も同様だ。 どの方向に進んで良いか、わからない時がある。そんな時の確かな 計器が御言葉だ。ある女性が、職場で非常に重要な地位に、リーダ ーにとの打診があった。それは仕事内容も高度になり、自分の能力 で出来るのか。又、部下を持ち、まとめて行くなど、とても不安だ。 自分に出来るのだろうか。全く自信がない。 あれやこれや思いが巡る中、そんな不安や恐れ、気持ちも、ことご とく主に告げて、御前に祈っていた。ずっと祈り続けていた時に、 御言葉が臨んで来た。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、 あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」。その言葉 が心に来た時に、不安、恐れ、思い煩いが失せて、心がすうっーと 平安になった。 あんなに不安や思い煩いで、騒いでいた心が御言葉により平安にさ れた。自分には出来ないが、主の導きを確信できて、受ける決心が できた。御言葉は霊であり、いのちだ。力がある。主は語った事を 成し遂げられる。道がわからない時は、祈りと御言葉により指し示 される。祈ろう。 ------------ どんなに正しいと思えても間違っているのではと迷う。迷うことが 感謝だ。揺るがない御言葉に頼れる。御言葉に自分を添わせ照らさ れて歩もう。
2017年08月27日(日) 「・・おおいをかけられたままで、取りのけられてはいません。なぜ なら、それはキリストによって取り除かれるものだからです」Uコリ ント3:14
「・・おおいをかけられたままで、取りのけられてはいません。なぜ なら、それはキリストによって取り除かれるものだからです」Uコリ ント3:14
サングラスをかけて景色を見るとどうだろう。そのメガネの色に何 もかもが見える。セロファンを通して景色を見ても、青色なら周囲 も青、赤色なら周囲も赤に見える。同様に自分の強い思いがあると、 その自分の色に見える。根に自分の強い思いがあり、自分の願望と いう色で物事を見ているので、思い通りでない環境なら、受け入れ られない。 いつも喜べず、絶えず不満と愚痴になる。そして環境が自分の色に 合った時だけ、喜ぶ事になる。自分の願望というメガネをかけて環 境を見、御言葉を見ていないだろうか。外側のものがおおいとなっ ているのでなく、心の内側の問題だ。自分の願望でなく、自分の思 い通りでなく、神の御心というメガネにかけ変えたらどうだろう。 状況は同じでも、見方が全く変わって来る。そうでなければ、自分 の願望が見えるのみで、まるで主が見えない。しかし神のお心に照 らし合わせて、環境を見て、神の価値観で判断し、神のみ思いを尋 ね求めて行く時に、どんな状況であっても、そこにある神のご計画 や目的を知って行く。 今、自分の強い「願望」に支配されていないだろうか。一旦、その 願望を主に明け渡そう。委ねよう。その時、まず心が平安にされ、 不満や思い煩いが消えて行く。その時、おおいが取られて、主が見 えて来る。そして心に喜びが来る。 ・・・・・・・・・・・・・ 自分の強い思いは、おおいになってしまう。御心を知る事を妨げて しまう。御心がわからない時、無意識にも自分の強い思いに固執し ていたりする。神が見えなくなってしまう。自分の思いをまず明け 渡せるように祈ろう。その時、御心が見えて来る。
2017年08月26日(土) 「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうち で不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5
「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうち で不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5
モーセの死後、ヨシュアに主の示しがあった。「今、あなたとこの 民は、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えよ うとしている地に行け」と。約束の地カナンに入るために、目の前 のヨルダン川を渡る必要があった。橋も、船も無い、この川をどう やって渡るのか。「今まで通ったことがない道」だ。未踏の道であ り、そして人間の力では、決して通る事の出来ない道だ。 丁度、春先の雪解けで、水は岸いっぱいに溢れ返っていた。いよい よ渡ろうとする時に、ヨシュアは民に「身をきよめよ」と言った。 「主が不思議を行なわれるから」と。悔い改めて、主の血潮により、 赦されきよめられる。主との関係が正しい時、平安と確信もって大 胆に前進して行ける。 「祭司たちが契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡るように」と。 主の言葉に従い、箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、祭司たちの 足が水際に浸った時に、水がせき止められた。不思議が行なわれた。 信仰を持って一歩足を踏み入れた時に、水がせき止められて、民全 体が渡る事ができた。先に目に見える水が、せき止められたのでは ない。 目に見える水流を見るのでなく、先立つ御言葉に従って、踏み出す 事が大切だ。あなたの前にも、今、このヨルダン川が横たわってい るだろうか。それは肉では、通る事ができない。主の前に静まり、 よく交わり、悔い改めるべき事を悔い改め、示された言葉に従う事 だ。その時、必ず目に横たわる問題を乗り越える事ができる。 ・・・・・・・・・・・・・ いつも主の示しに従って一歩踏み出す時に、目の前の道が開かれて、 主の備えを次から次と見せられる。人生の様々な局面で「まだ歩い て行ったことのない道を安全に通って行く」。主との関係がすべて だ。妨げが無いよう、悔い改めるべき事は、悔い改めよう。
2017年08月25日(金) 「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」ヨハネ5:8
「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」ヨハネ5:8
ベテスダの池に38年伏せっていた男性がいた。38年とは気の遠 くなるような期間だ。最初は、医者に行き、良いと聞く事は試み、 ありとあらゆる事をやってみた事だろう。どうやってでも直りたい。 しかし、まるでどうにもならない現実にぶち当たる。試みる度に、 今度こそと期待しては、裏切られ、それの繰り返しだった事だろう。 段々心が折れて来る。そしてベテスダの池に来た。だが、そこでも 同じ事だった。水が動いた時、最初に入った者はどんな病でも癒さ れる。じっと動く時を待ち、いつも今度こそと思うが、他人が先を 越してしまう。期待しては、打ち砕かれ、挫折の繰り返しだ。 心が疲へいし、期待すると傷つくので、期待する事を止めてしまう。 これ以上傷つきたくない。主は、この38年間の苦しみ、悲しみ、 嘆き、何もかもをご存じで、この男性に関わられた。「よくなりた いか」と問われた。彼は介助者がいないからダメだと。介助者のい る人が先に行くと。私たちもどうだろう。 あれが無いこれが無い、だからダメ。又、自分がこうなのは、状況 のせい、周囲の人のせい、親のせい・・そうしている限り、自己憐 憫、自己正当化の中にいる限り、何も変わらない。成長もない。周 囲でなく、状況でなく、自分はどうなのか。「あなたはよくなりた いのか」と主は問われる。言い訳でなく「はい、よくなりたいです」 と応答しよう。主はみわざをして下さる。 ------------ 主はいつでも良くなりたいか、良くなりたいと主に従う意思がある かと問われている。苦しみ、悲しみにしか見ていない目を主に向け 主を信頼し良くなりたいと答えたい。
2017年08月24日(木) 「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった」ルツ4:13
「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった」ルツ4:13
ナオミは夫と共に飢饉の際に、ベツレヘムを離れ、モアブの地に移 住した。だがそこで夫と二人の息子が亡くなった。歳月経てナオミ は帰郷の決心をする。二人の嫁に実家に帰るよう勧める。しかし嫁 ルツは決心堅く、ナオミの背後の神を見て、同行する。そしてナオ ミを助けて、落ち穂拾いをし、懸命に働く。 ナオミは、そんなルツの先の事を祈り、よく考えた事だろう。ルツ に親切にしてくれるボアズの事を聞いた。彼は、親戚でもあり、彼 こそがふさわしい相手と考えた。それでナオミはボアズに買い戻し を願うようルツに指示し、ルツは姑の言うその通りに従った。 すると彼は、更に近い親類が権利を放棄するなら、自分がルツを買 い戻すと。その時ナオミは、必ずボアズがルツを買い戻す事、それ が御心であり、成就する事を信じた。それで、どうおさまるか待っ ているように、と確信を持ってルツに言えた。 動き回らず、何かするのでなく、思い煩うのでなく、ただ待てと。 肉の働きをストップする事だ。これが非常に難しい。どうしても自 分を救うために、動いてしまう。じっと待つより、その方が楽なの だ。目に見えない神を、ただ待ち望む事は難しい。又、それは、手 をこまねいているのではなく、示された事はして、待つという意味 だ。 ルツは自分のなすべき事をした。だからこそ、次にすべき事はそこ で安んじ、ただ神がされる事を、祈りの内に待てばよい。そして事 実それは成就した。あなたにも、今、示された事をなし、後は神を 待ち望めと、言っておられるだろうか。 ------------ 御心を求める祈りと同時に、神が働かれる時も定められていること を覚えていたい。それまで神の時を計りながら目の前にあるいつも の御心を忠実にしていきたい。
2017年08月23日(水) 「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」エレミヤ29:7
「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」エレミヤ29:7
エレミヤの時代、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ捕虜として連 行された。しかしそのアッシリヤは、バビロンによって滅ぼされ、 国々は滅ぼされ、とうとうユダも、バビロン捕囚の身となった。当 時のユダは神から離れ、偶像礼拝に走り、堕落していた。 預言者たちは、耳ざわりの良い、心地良い言葉を語り、平安が無い のに「平安、平安」と。しかし、神の人であるエレミヤは、真っ直 ぐに耳に痛い言葉を語った。そのため苦しめられた。バビロン捕囚 のさ中、真っ暗な中で、エレミヤは、それは一見「災い」としか見 えないが、「平安と将来と希望」のためのものだと告げた。 すぐに解放にはならないので、その地で落ち着いて、腰をすえて生 活せよと、そして、敵である「その町の繁栄を求め、そのために主 に祈れ」と。それは自分達の繁栄になるからと。 私たちも苦しみの時、一番欲しい言葉は「即、問題解決」「即、悩 みから解放」だ。しかし、口先だけの励ましは、更に傷を深める。 私たちも、足かせのような苦しい現状を受け入れる時、その中で神 からの支え、励ましにより生きて行けるという事だ。 現実を受け入れる事が大切だ。いつまでも苦しみのままでなく「70 年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。現状を受け入れて、そ の中で神に従って行こう。そこに「平安」が約束されている。そし て神の時に、かせから解放して下さる。 ---------- 痛むことも忍耐もなく解放を求めて次々と移り歩くならご利益を 求める世の宗教と同じではないか。私たちの神はご計画をもって 働かれていることを災いの中に認めていくことから祈りたい。
2017年08月22日(火) 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6
私たちは、主によって罪が赦されたが、まだ肉の性質があり、主に 拠り頼まなければ、すぐに罪を犯してしまう。罪赦されているが、 罪を犯さなくなるわけではない。私たちの犯す罪の内、最たるもの は何だろう。ある人は、その罪を私たちが他人の中に見つけるなら、 非常なる嫌悪感を持つが、その同じ罪が自分の中にあると気づく人 はほとんどないと言う。 その罪とは、高ぶり、プライドだ。「私は天に上ろう。密雲の頂き に上り、いと高き方のようになろう」との、明けの明星が天から落 ちたのは、この高ぶりだった。高慢はサタンの最たる特徴だ。アダ ムとエバが犯した罪も「あなたがたは神のようになり」という高慢 に誘惑されてだった。サタンから来る高慢は、常に「私」を意識さ せる。 「私」「私」「私」だ。私はどう見られているか、私は評価されて いるか、私は認められていない、私が一番寂しい・・、誰も私をわ かってくれない・・「私」「私」だけを意識させるようにする。職 場でも、家庭でも、教会でも、「私」が認められないと気がすまな い。「私」はこんなに一生懸命にしているのに・・。 自己憐憫、自己主張、自己顕示だ。主と主の愛はその対極にある。 主は自分を卑しくし、何もかも捨てて、十字架にまで従われた。自 己中心な、自分の惨めな状態を知る人は、無力を認める。そしてへ りくだって、主の十字架によって、神の愛によってのみ、今、生か されている事を知る。その人は、必ず神を愛して行く。 ---------- プライドが傷つくと痛い。そして気づかなかったプライドに気づく。 言い訳で取り繕いたくなる自我は、主の十字架によってもう解放さ れていると覚えたい。神の御子がご自分を無にしてくださったから だ。
2017年08月21日(月) 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」エペソ4:29
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」エペソ4:29
「互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、 自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいている」 の通り、悪口は罪だが、うわさ話も同じく良くない。うわさ話は、 本人のいない所で言われる陰口だ。つまり本人不在で確かめる事が できない話だ。 本人不在なら間違った情報でも訂正できない。又、反論もできない。 事実はわからないのだから、そのまま受け入れるべきではない。又、 そのうわさ話の自分の「動機」は何だろう。本人の利益だろうか、 本人を建て上げ、励ます事になるか。それとも不利益だろうか。不 利益なら言ってはならない。 ある説教者は言った。「うわさ話は、三者を傷つける。言う人と、 聞く人と、言われている本人を」。「たきぎがなければ火は消える ように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ」。うわさ話が来た なら、自分の所でストップできる。あなたの所で、火を消すことが できる。雑談が、有害なうわさ話の方向に行くようなら、進路変更 して行くことができる。 もし自分がその人の立場だったら、どんなに傷つくかを考えよう。 「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人 の舌は人をいやす」。御霊の助けにより、舌が人をいやすために用 いられたら、どんなに幸いだろう。 ------------- 不満や憤りを覚える人の噂話であれば痛みもなく聞き、また応答し たい誘惑もくるが、悪質な罪だと戒めていよう。裁く思いは、日々 悔い改めていきたい。心も言葉も守られる。
2017年08月20日(日) 「ヨシュアの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で 小麦を打っていた。主の遣いが彼に現われて言った。『勇士よ。主 があなたといっしょにおられる』」士師記6:11
「ヨシュアの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で 小麦を打っていた。主の遣いが彼に現われて言った。『勇士よ。主 があなたといっしょにおられる』」士師記6:11
主は、敵であるミデヤン人を逃れて、恐れて、酒ぶねに隠れていた ギデオンに向かって、「あなたのその力で行き、イスラエルを救 え」と告げられた。「わたしがあなたを遣わす」と。驚いた彼は、 どうして自分にそんな事が出来ましょう。私の分団は最も弱く、そ して私はその中でも一番若いと。自分には到底無理だと、出来るわ けがないと言い訳をする。 すると、主は「わたしはあなたと一緒にいる。あなたはミデヤン人 を打ち殺す」と。その時、ギデオンは、私と話しておられるのが、 あなたであるとのしるしが欲しいと願った。本当に主から出た事な のか知ろうとした。二度のしるしを求め、確かめた。その結果、彼 は主によると確信した。 恐れて隠れている彼に、主は「勇士よ」と語られ、現在の彼ではな く、先を見て、勇士として戦うギデオンを見られた。又「あなたの その力で行き」と、彼がいかに弱く、若くても何の問題も無いと。 「主が共におられること」「主が遣わされること」それがすべてだ。 私たちも、自分の弱さを嘆き、無力におじけづき、自分に何ができ ようと、ひるんでしまう。主からの示しに対しても、自分を見るな ら、能力は不足、時間も富も力も不足だ。 しかし、主は「あなたのその力で行け」と言われている。あなたの 力の問題ではなく、どなたが共におられるかの問題だ。主が遣わさ れるのなら、必要な力はすべて主から来る。今、あなたにも「あな たのその力で行け」と御声をかけておられるだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・ 目の前の事態に、又、新たに進むべき時に、「あなたのその力で行 け」と言われている。自分の力量の問題ではなく、主が共におられ ることがすべてだ。主が遣わされるなら、主が知恵も力も与えて下 さる。示しがあるなら、あるがままで主に従おう。
2017年08月19日(土) 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。 あなたはわたしをあがめよう」詩篇50:15
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。 あなたはわたしをあがめよう」詩篇50:15
ある人が会社を辞して、個人で起業した。それも日曜出勤が多く、 聖日礼拝を守りたいがためだった。始めるに当たり、祈りに祈って、 主の導きを確信しての事だった。素人であり、何もかもが初めてで、 祈りつつ主に頼りながら進めて行った。そんな時にアクシデントが 起きた。 仕事上、銀行、事務所、何軒もの取引先を行ったり来たりしていた 中、ふとバッグが無い事に気づいた。どこかに置き忘れたようだ。 そこに通帳、印鑑、現金、証書、小切手・・全財産が何もかも入って いた。もう真っ青になり、すべての足どりをたどるが、幾ら探して も無い。どこで無くしたかも覚えが無い。何もかもが初めての経験 でわからず、全財産も持ち歩いていたと。 すべて失うなら、これから先どうしたらいいのか。もう真っ暗だ。 もしかして御心を誤ったせいか?もう絶体絶命の思いで、何時間も 必死に祈り続けた。人生でこんなに祈った事は無かった。祈る中で、 たとえどうなったとしても、主が共におられる!「決してあなたを 離れず、また、あなたを捨てない」と。 すべて失ったとしても、主は良くして下さる、大丈夫だと思えて、 騒ぐ心が落ち着いて来た。すると電話が鳴り、警察からだった。何 と良い人に拾われていた。どんな窮地に陥った時にも、心底頼るべ きお方がいる。必ず御手をのべて下さる。まず、主を呼び求めよう。 祈りに確かに答えて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・ 困難の時、苦しみの時、どうしてよいかわからない時、まず主を呼 び求めよう。主は目の前の困難の中から助け出して下さる。そして 主に頼ることを通して、主の栄光が現れるようにされる。自分自身 も新たに主を知り、御名を崇めて行く。
2017年08月18日(金) 「あなたがたの間で、人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」マルコ10:44
「あなたがたの間で、人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」マルコ10:44
ヤコブとヨハネは、御国で右と左にと、右大臣、左大臣の地位を主 に求めた。又、その母が彼らのために、主のもとに来て、ひれ伏し て願った別の箇所もある。親子で高い地位を願っている。そしてこ の事を聞いた他の弟子たち十人が腹を立てたとある。という事は、 彼らも同じように考えていた。自分たちが出し抜かれた事に、腹を 立てた。主の十字架を直前に控えていた時だった。 又、弟子たちは「だれが一番偉いかと論じ合っていた」。主が十字 架に向かう、まさにその時にも、弟子たちの心は「一番偉いのは誰 か」「自分が、自分が」でいっぱいだった。弟子たちだけでなく、 この誘惑は誰にでもある。人を、自分の思い通りに動かしたい、自 己中心な欲求がある。これは相手を支配することになる。 又、肉の性質には「人から評価されたい、認められたい、賞賛され たい、人の上に立ちたい」との誘惑がある。それが強くなると、周 囲が競争相手になり、張り合いが生まれる。そこに愛は無い。「自 分が、自分が」の世界だ。そのため主は「先に立ちたいと思うなら、 しもべになりなさい」と言われた。そして「互いに愛し合いなさい」 と。 主、自らがしもべとなって、ご自分を無にして、十字架の死にまで 従い、私たちの救いの道を開かれた。それによって私たちに愛がわ かった。この主を見続けて、主のお心に従って行けるように。まず、 自分の内側にあるものを認めて、祈って行こう。 ------------- 上に立つものが仕えるものとなって十字架に進んでいく。主の姿に しもべの道は栄光の道と教えられる。仕えられたいから上に立ちた いの価値観はなんとみじめだろう。
2017年08月17日(木) 「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげが与えられました」Uコリント2:8
「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげが与えられました」Uコリント2:8
パウロは、とげが与えられていた。とげは身体を刺し、激しい苦痛 を与える。どんなに苦しみであったろう。取り去られるように、真 剣に求めた。これさえ無ければ、もっと主のために働けるのに、心 底から徹底的に祈った。しかし祈りの答えは「ノー」だった。主は、 とげを取らないと。 なぜなら、主の恵みは十分であり、取るよりも、そのままの方が、 更に主の栄光が現わされると。自分ではどうにもならない「弱さ」 の中にこそ、主の力が完全に現れるのだからと。神の力は「弱さ」 の中に、力強く働くと。あなたにも、弱さが与えられているだろう か。 「この事さえなければ、私の人生どんなにスムーズだろう」「こう でなければ、私は幸せだったのに」「この嫌な人さえいなければ、 こんなに苦しまずとも済んだのに」、侮辱、迫害、困難に、何度も 「この事を、あの事を取り去って下さい」と祈る。状況を変えて欲 しいと。しかし取り去られない。苦痛でたまらない、その中で、パ ウロは切なる祈りをささげた。 とげが与えられる時には、まず祈ろう。御心なら取り去られ、御心 ならそのまま置かれる。しかしその置かれたままの中で、神の力と 栄光を現わされる。強くなるのでなく、弱さの中に神のわざは現れ る。その弱さを無視したり、隠したり、無いものにするのでなく、 受け入れる時、キリストの力におおわれる。そして強ければ決して 知ることのできない、主の恵みを知る。 --------- いつか取り去られると祈り、また格闘するがどうして逃れられない ものに直面する。しっかりと受け取るものであったなら、静かに受 け入れられるよう祈りたい。
2017年08月16日(水) 「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう」詩篇50:23
「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう」詩篇50:23
ある母親の経験だ。家族皆が、慌ただしい朝の準備の時に、子供が 宿題が無いと。今日が提出日だ。登校時刻が迫る。母親も仕事に出 なくてはならない。幾ら探しても無い。母親は、怒りが湧いて来る。 前日に準備するように言っている。「何で、昨日ちゃんと準備しな いのよ!」腹が立って仕方がない。その間も時間はどんどんたつ。 子供は泣いている。「すべての事について感謝しなさい」がふっと 浮かぶ。この事も感謝なんだと思う。だが一方では怒りがおさまら ない。子供を叱り責め立てている。感謝だとの思い、いら立ちが交 錯する。いよいよタイムリミットとなり、「神様!この事を感謝し ます!」と信仰を向けた。 すると子供が「あった!」と叫んだ。思いもかけぬ所に。真に主を 感じた瞬間だった。ある人も経験した。下の子がトイレに積木を入 れていたのを知らずに、上の子がトイレを流した。水は溢れ返り、 小さな洪水だ。うわっ!と思った瞬間、母親は「感謝」を選択した。 「神様、感謝します!」と言った。そして賛美を口ずさみながら、 雑巾で手際よく処置した。 一瞬、緊張し、こわばった、上の子の顔が安堵に満ちて、笑顔がこ ぼれ、主を伝える時とされた。一見、負の事柄の背後に主の素晴ら しいご計画がある。感謝する事は、そこに主を認める事であり、信 仰を献げることになる。そこに主は働かれ、あなたも周囲もみわざ を見て行く。 ----------- 感謝できない場面で主に感謝しますと言い表したい。問題しか見え ない目が主を見て、主を待ち望む体勢になれる。押し寄せる感情か らも守られ、逆境はその場で祝福へと変えられる。
2017年08月15日(火) 「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」ルカ17:18
「神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」ルカ17:18
いやされた十人のらい病人が出て来る。当時らい病は、不治の病で、 人々から隔離され、歩く時は「汚れた者です」と唱えなければなら なかった。社会からはのけ者にされ、何の希望もなく、絶望的な人 生だったろう。主がらい病をいやされた噂を耳にして、彼らは主に すがった。らい病人は、人前に出られない。彼らは、遠く離れた所 から声を張り上げて「あわれんで下さい」と主に求めた。 遠くから力の限りの大声で、必死に願った。答えてもらえない相手 なら、求めはしない。その切なる求めに、主は答え「行きなさい。 自分を祭司に見せなさい」と。いやしを判断をするのは祭司だった。 しかしその時は、まだ直っていない。らい病のままだ。らい病のま まで、言われた通りに、祭司のもとへ出発する。すると主の言葉を 信じて、行動した時に、途中でらい病がいやされた。 普通なら、いやされてから、祭司のもとへ行くが、彼らはみ言葉を 受け取るや、出かけた。これは彼らの信仰だ。この信仰に答えられ て、途中できよめられた。そして十人の内、一人の異邦人だけが、 主に感謝するために戻って来た。九人はユダヤ人だ。いやしが叶え ば、本音のところもう主に用はなかった。いやしだけが目的だった。 それを得るや、大喜びで、主のもとを去った。しかしサマリヤ人は、 主のもとに戻り、御前にひれ伏した。その時、いやし主との関係に 立ち返ることができた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信 仰が、あなたを直したのです」この信仰が彼を救った。感謝する時、 主をあがめることになる。 ---------- 病が癒されればそれは良いが、その途中に主を認めて感謝していけ る人生こそ幸いだ。結果が出ていない途中であっても主は共にいて くださっている。迷いや苦しみの中でもそこに立っていられる。
2017年08月14日(月) 「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25
「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25
私たちには、尚、古い性質があり、難しいのが人を赦すことだ。な かなか人を赦せない。過去の出来事を、いつまでも恨み、相手を裁 いて、自分が苦しんでいるだろうか。肉は、赦したくない。自分を 傷つけた相手に対する、苦々しい思いが尾を引いてしまう。赦せな い思いは、相手への憎しみとなって行く。 そうなると、報復したい思いでいっぱいになる。しかし一番の問題 は、そんな時、心を神に向けることができなくなる事だ。心から神 が飛んでしまい、思うのは、腹の立つ相手のことばかりになる。結 局人生を、憎む相手にコントロールされ、支配されることになる。 そして平安は無い。こんな人生で良いのだろうか。 赦さない心は、苦い根が生えて、どんどんはびこり、周囲にも害毒 を流すので、気をつけよと。「だれも神の恵みから落ちる者がない ように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多く の人が汚されたりすることのないように」。赦さない心、憎しみ、 裁く思いを悔い改めないまま持ち続けると、自分自身をどんどん害 し、手がつけられなくなって行く。 解決は赦すことだ。解き放たれ、自由にされる。平安になり、牢獄 から出る。赦せないのではなく、赦したくない頑なな心を認め、意 志を向け、赦すことを選択して行こう。これは選択だ。意志を向け る時、御霊が助けて下さる。心が晴れ晴れとした喜びに溢れる。 -------------- おなじ恨み事を何度も思い出しては大切な時間を台無しにするのは 不毛だ。意志を持って捨てるしかない。主に赦せるよう祈ろう。平 安を与えると言われる主が必ず赦せるようにしてくださる。
2017年08月13日(日) 「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に 出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知 らないで、出て行き」ヘブル11:8
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に 出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知 らないで、出て行き」ヘブル11:8
アブラムは年老いた父テラと、甥のロトを連れ、妻と共にウルを出 る。カランという町に住み着くが、父のテラは、そこで亡くなった。 するとその後、主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、 父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と。アブラムに、 神の御声が臨んだ。 75歳だった。「信仰によって」、アブラハムは、受け継ぐべき地 に出て行けとの召しを受けた時、行く先を知らないで出て行った。 信仰によって、行き先のわからない旅に出たのであった。それはア ブラムの信仰だった。 ウルを出る時に、長い間に培われた人間関係も、慣れ親しんだ環境 も捨てて、出発した。安心できて、居心地の良い居場所を出た。そ してカランに住み着いた。 だがそこにとどまらず、更に先に行くように告げられた。ちょっと は休みたい、とどまりたいと思ったかも知れない。しかし神の御声 に従った。私たちにも、主は、今の場所を出て、新しい場所に一歩 踏み出すように、言っておられるだろうか。御声が来たなら、従お う。先は見えないので、不安も恐れもあるかも知れない。 しかし神の御声には、ためらわずに従うことが大切だ。「そうすれ ば、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者とする」そこには大 きな祝福が備えられている。従う時に初めて、神の御言葉の確かさ、 神の真実を経験して行く。神の愛を知って行く。 ・・・・・・・・・・・・ 主は時に、みこころにより、新しい地に進めと言われる。新しい事 をせよと。それは信仰的にも新しい領域だ。恐れと不安があるし、 勇気が要る。しかし一歩踏み出す時に、主の山の上に備えありで、 豊かな備えを経験し、そして信仰の成長へと導かれる。
2017年08月12日(土) 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます」マタイ13:19
「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます」マタイ13:19
私たちは御言葉を聞く時、どうだろう。自分に都合の悪い言葉は、 聞きたくないものだ。耳をふさいでしまうし、聞かなかった事にし てしまう。自分の罪を指摘される事や、自分の弱さ、醜さを明らか にされる御言葉、それらを肉は聞きたくない。自分は変わりたくな い。相手や状況を変えたい。強固は自我がある。 又、メッセージを聞く時、聖書の学びをしている時、その折々の御 言葉が自分には関係ない、無関係と思っていないだろうか。そう思 って、他人事に聞く時、神の言葉は、全く心に入らない。聖書のど の箇所から聞いても、もし自分とは関係ないの態度で聞くなら、心 の耳に聞こえて来ない。 ある人は、何年も教会に集っていたが、全く御言葉が入らなかった。 理解できず、どうしてもわからなかった。ところが非常に厳しい試 練が臨んだ時に、自分では全くなすすべなく、生まれて初めて神に 助けを求めた。拠りすがった。その時に初めて、御言葉がぐいぐい 心に入り、心に響いて来た。 御言葉が自分の支えとなり力となり命となった。それまでは、自分 と何の関係もないものとして、聞いていた事に気づかされた。神に 頼るなどと、とんでもない。自分は自分の力で生きて行くと思って いた。だから何度聞いても入らず、信仰に至らなかった。私たちは どうだろう。他人事のように聞いているだろうか。御言葉を教えて 下さいと、わかるようにと、祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・ 御言葉を聞く時は、心の態度が大切だ。へりくだって、主よ教えて 下さいと、御言葉の下に自分を置く時に、心に入って来る。自分の 都合の良いように聞くと、わからない。聞けない者である事を認め て、へりくだり助けを仰ぐ時、御霊が助けて下さる。
2017年08月11日(金) 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6
あなたも思い煩うだろうか。明日の事、来週の事、果ては老後まで、 心配でたまらない。不安は、更に不安を呼び、大丈夫だと思おうと しても、思えない。不安はどんどん膨らみ、次から次へと湧き上が る。とどまるところを知らない。経験があるだろうか。 周囲から、神がおられるから、必要は備えられると励まされても、 どうにもだめなのだ。頭ではわかるのだが、恐れがどうにもならな い。ほとんど恐怖となる。ある人は、人一倍心配症だった。事情が あり無収入の状況に陥った。かつて経験した事のない事態だ。必ず 毎月、給料が入って来た。生まれて初めての状況だけに、もう不安 を通り越して恐怖だった。 しかし結果的に、祈りに答えられ、溢れるばかりの必要が与えられ た。驚きだった。初めての経験だった。その後、何度も経済的苦境 を通ったが、その度に不安にもなりながら、しかし祈った。すると、 その度に必ず必要が満たされた。不安になるのも事実だが、その度 に祈った。祈りは答えられ、必ず満たされた。 それを何度も繰り返し、歳月を経た時に、当初のあの恐怖が、今で は、「次はどのように与えて下さるか楽しみ」に変えられていた。 主は訓練し、弱い所を鍛え、強めて下さる。今、不安な状況なら、 主に頼る事を訓練し、鍛錬して下さっている。主への信頼を深める 取り扱いだ。主の御手に抱かれている事を覚え、不安をそのままま ず祈りに持って行こう。その祈りが答えられる事を経験して行く。 ---------- 御言葉は恐れるなと言うが感情はついて行かない。だからこそ意思 を向けよう。心配も不安も委ねてよいと言われる主が傍にいる。そ れを経験で知ることが大切だ。心配を抱えたままで祈ろう。
2017年08月10日(木) 「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44
「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44
他人との比較の中に生きると、絶えず劣等感と優越感の間を行った り来たりする。人と比べるとだいたい劣等感に陥るので、そのため 優越感に浸りたい。それで人を裁く事によって、自分を正当化しよ うとする。自分は正しいとの位置に立ちたい。 そんな私たちに「あなたは、どこにいるのか」と主は問うておられ る。かつてエデンの園で、エバはサタンの誘惑が来た時、惑わされ て、罪の方を選んだ。取って食べるな、必ず死ぬと言われた、善悪 を知る木の実を食べ、夫にも与えた。夫も食べた。その結果、神と の関係がしゃ断されてしまった。そのため神を恐れ、隠れた。 だが、神の方から御声をかけられた。「あなたはどこにいるのか」、 場所の問題ではない。神はどこに隠れているかご存じだ。神との関 係の問題だ。アダムとエバに罪が入った結果、神と正しい関係でな くなってしまった。私たちも自分と神の間に、人が入る時、正しい 関係でなくなってしまう。 人が偶像になってしまい、人の目にどう映るか、人からどう思われ るか、好かれたい、認められたい、評価されたいとの思いで、いっ ぱいになる。罪により、神との愛の関係が失せ、人からの愛を求め るようになったからだ。しかしそこに平安も喜びも無い。今、どこ にいるだろうか。人からの誉れを求め、人との比較にいる自分に気 づく時、そのまま主のもとへ行き、言い表そう。導いて下さる。 --------- 認めたくはないが、目の前の人の評価が欲しい者だと気づくことが 大切だ。強く影響力されていると。比較の世界に迷い込まないよう、 霊の目がはっきりと見え、どこにいるのか気づけるように祈りたい。
2017年08月09日(水) 「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」ヨハネ12:7
「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」ヨハネ12:7
埋葬の日のためにしてくれたと、主が言われたように、マリヤは、 主がこれから十字架にかかられる事を、ただ一人悟っていた。この エルサレム入城が主の最後の旅であることを理解していた。主のた めに、自分の出来る精一杯の事をしたいと願った。そのため非常に 高価な香油を惜しげもなく注ぎ出した。 「300デナリ以上に売れて」300万円の価値と思われる。弟子たちは 全く理解できておらず、「貧乏な人たちに施しができた」と、「無 駄にした」と、マリヤを責めた。しかし主は「マリヤはわたしの葬 りの日のために、 それを取っておこうとしていたのです」と、マリ ヤをかばわれた。「取っておいた」香油を今まで少しづつ蓄えてい た。マリヤの主への愛だ。 献げものは主への愛の表われだ。今、自分に出来る事をすれば良い。 自分になしうる感謝を精一杯に表わせばよい。私達はよく思う。も っとお金があれば献げられるのに。お金が無くてと。今は忙しいか ら、余裕が出来たら時間を献げよう。状況と環境が変われば、もっ と主のために労力を献げられるのだが・・と。しかし、そのように なったとしても献げない。 今、「自分にできることを」すればよい。弟子たちさえ、主の十字 架をわかっていたなかったのに、なぜマリヤは悟れたのだろう。 「主の足もとにすわって、みことばを聞き入っていた」。じっと御 言葉に耳を傾けていたからこそ、主の時が悟れた。そしてそれは今 から苦難に向かう主を、どんなにお慰めした事だろう。 --------------- 主に受け入れられるために献げるのではなく、愛する主に今の感謝 を素直に現したい。その主への応答の連続が、主の葬りを誰よりも 悟り、愛をもって主をお慰めしたのではないか。今できることは、 何だろう。
2017年08月08日(火) 「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない」エペソ6:6
「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない」エペソ6:6
「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」と あり、私たちの日々の行為はどうだろう。何をするにも、人にでは なく、主に対してするようにせよと言われている。私たちは、どん な仕事をしていても、主のためにしているとの意識が大切だ。 日々、同じ事の繰り返しかも知れない。毎日同時刻に同じ電車に乗 って、通勤し、同じ机に座り、同じ仕事を繰り返す。主婦は毎日、 同じ家事を繰り返し、掃除し、洗濯し、片づけ、食事を作る。平凡 で、変化のない生活かも知れない。しかし、毎日、同じ事を主のた めにすることができる。 サラリーマンは主のために働き、主婦は主のために家事をし、母親 は主のために手のかかる子供を育てる。上司や雇用者との関係も、 「主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい」とある。「あなた がたは主キリストに仕えているのです」。対人関係のすべての土台 は、主との関係だと言っている。時に、単調な仕事に、うんざりし て疲れてしまうかも知れない。又、ぎくしゃくする対人関係にも疲 れてしまう。 ある人は、変化の無い日々にうみ疲れた時、「主に対してするよう にしなさい」との御言葉を受けた。祈って、そのようにした時に、 する事は同じなのだが、気持ちが変えられて感謝が生まれて、喜び が与えられたと。目の前の一つ一つを主のために、行なって行ける よう祈ろう。 ------------ 人のしもべ、仕事のしもべ、家事のしもべであれば人目につかない 働きにいつか不満も出てしまう。主のしもべとは何と栄光に富んだ 立場だろう。主のためにいつも仕える心を持っていたい。
2017年08月07日(月) 「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3:13
「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」ピリピ3:13
他人と過去は変えられないと言われているが、過去の過失を思い、 思い煩い、くよくよする事があるだろうか。普段は目の前の事の忙 しさで、忘れて普通に生活しているが、何かがあると、あの失敗、 この過失、傷が思い出されるだろうか。フラッシュバックし、心暗 くなり、落ち込んでしまうだろうか。 悔い改めたその事は、主の十字架の血潮によって、すでに完全 に赦されているのに、またほじくり返しては悶々とする。もしあの 時、違う選択をしていたら、この時、違う対処をしていたら、あの 時ああしていれば・・、この時こうしていれば・・自分の人生は全 く違った結果になっていたかもしれない・・堂々巡りしては後悔す る。 しかしもし神が、あなたに違った道を歩ませたければ、その時、そ う出来なかっただろうか。この事を本気で信じているだろうか。心 の奥にとがめや不安がある時、前進が出来ない。感謝と喜びが 奪われてしまう。過去のその所に神を認めよう。 「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしな い」と主は宣言されている。主が思い出さないと。そして、「内な る人は日々新たにされている」と。日々新しくされている。今日も 完全に新しい者とされている。何と感謝な事だろう。後ろのものを 忘れ、前のものに向かって、進めと言われている。 ----------- 主にあって新しくされた立場は、その日の気分でゆらぐような不 確かなものでなく、主に捕らえられ義とされるための過程の全て は祝福だったではないか。疑わず前を向き信じていよう。
2017年08月06日(日) 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」 ピリピ4:4
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」 ピリピ4:4
ラッキーな事、ハピーな事、都合の良い事は、誰でも嬉しい。受験 合格、昇進、大豊作、商売繁盛・・信仰が無くとも、誰でも喜べる。 だがハバククは、いちじくの木が花を咲かせず、ぶどうの木も、オ リーブの木も実が無く、畑は何の収穫も無い。完全な不作だ。羊も 牛も絶えてしまった。環境は、どうしようも無い絶望状態であった。 その中でも喜んだ。失望落胆、嘆き、無気力になりそうなほどの状 況の中で、なぜ喜べたのか。「状況にあって」でなく、「主にあっ て」喜んだからだ。ある人が、聖書を読む時に「喜べ」との御言葉 が心に迫った。「主にあって喜びなさい」と。読む度に、何度も語 りかけられた。 しかし状況を見るなら、「何で?喜べるのか」「これのどこが?喜 びなのか」の状態だった。体調崩し、職を辞し、回復途上で、仕事 もしていない。しかしそんな時、状況と自分ばかりを見て、主から の語りかけを、拒否している事に気づかされた。状況にあって喜べ でなく、主にあって喜べと言っている。 初めて、「はい、喜びます」と受け取ろうと思った。その時、心が 不思議に平安にされた。主に視点を持って行こう。主はすべての事 をあい働かせて益とされる。災いは一つも無いと言われる。平安と 将来と希望のためのものであると。そして主に行き当たりバッタリ は無く、一人一人に計画を持っておられる。 そして、独り子を与えて下さるほどに愛して下さっている。さじ加 減ピッタリの訓練により、砕き、成長させて下さる。そんな主に絶 えず目を留め、愛されている。だからいつも主にあって喜ぶ事がで きる。 ・・・・・・・・・・・ 「主にあって」喜びなさいと言われている。しばしば状況にしか目 が行かない。恐れ、不満や愚痴で一杯いなる。喜びどころではない。 しかし喜べる状況だから喜べとは言っていない。主を見つめ、御言 葉を握り、信仰により、従えるよう助けを求めよう。
2017年08月05日(土) 「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱って おられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょう か」ヘブル12:7
「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱って おられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょう か」ヘブル12:7
信仰人生に、様々な問題が起きる。問題や悩みは、誰しも避けたい ものだ。できるだけ、苦しい目、痛い目には会いたくない。できれ ば、避けて通りたい。そして出来る限り順境であって欲しい。平穏 無事な日々が、私たちの心からの望みだ。 しかし、御言葉はそう言わない。正反対のことを言う。「苦しみに 会う前には、過ちを犯したが、しかし今は、御言葉を守る」と。 そして「苦しみに会ったことは、幸せだった。私はそれであなたの おきてを学んだ」と。一見反対で、苦しみに会うと、過ちを犯すよ うに思う。だから平穏無事でいたい。 しかし苦しみに会う前は、過ちを犯したと言っている。つまり、苦 しみを通ったからこそ、過ちから守られ、御言葉を守る者とされい ると。そして、苦しみに会った事が幸せだったと言っている。 私たちは苦しみに会う事は、不幸だと思っている。だが正反対だ。 ある人が若い時に共産圏宣教で、捕らえられてしまい、死も覚悟し た。結果的に無事に帰れたが、その時に霊的に何の備えもなく、自 分はこれまで何の訓練も鍛錬もいっさい受けた事が無い事に気づか された。この事により、後の信仰人生の幾多の訓練を受け止める事 ができるようにされた。試練は決して嬉しくはないが、しかし「こ れによって訓練された人々に」必ず実を結ばせる。 ・・・・・・・・・・・・ 心の本音の願いは、とにかく問題の無い事、平穏無事だろうか。本 音の価値観は、問題の無い事が善、だろうか。それなら世の宗教と 同じだ。苦しみは嫌だが、御言葉によると試練は、品性を培ってく れる善いものだ。受け止められるよう祈ろう。
2017年08月04日(金) 「元気を出しなさい・・いのちを失う者はひとりもいません。失われるのは船だけです」使徒27:22
「元気を出しなさい・・いのちを失う者はひとりもいません。失われるのは船だけです」使徒27:22
パウロはもう航海は危険だと主張したが、皆の意見は違い、クレテ の港まで行って冬を過ごす事になった。それで出帆したところ、激 しい暴風に巻き込まれ、船はほんろうされた。積み荷を捨て、船具 まで捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、身の危険が迫り、事 態は絶望的であった。最後の望みも断たれようとしていた。しかし パウロは確信もって「いのちを失う者はひとりもいない。失われる のは船だけ」と告げた。 神は、クリスチャン人生、失うものは何もないとは言われない。ヤ コブも「私も、失うときには、失うのだ」と言っている。私達は信 仰生活で、様々失うものがあるだろう。「主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな」と言っている。しかし、様々な時に失う 事はあっても、必ず私達は主により御手の中に堅く守られ、信仰人 生を全うできる。 船を失う場合があるという事実を覚えよう。だが、必ず守られ、確 実に安全な島に打ち上げられることも覚えよう。いつでも得る事は 嬉しい事だが、失う事は辛く、痛手だ。しかし、振り返った時、あ の時の、この時の様々な損失、それによって自分自身が練り鍛えら れ、きよめられ、信仰が成長させられ、今の自分があるのではない だろうか。 あの損失が無ければ、今の自分は無い。あの取り扱いによって、自 分は一段階成長できた。信仰人生、損失は必ず通るが、思いを遙か に越えた結実に至る。船を失うことがあるが、いのちは守られ、豊 かな霊的祝福が与えられる。 ----------- 何一つ失わず変わらず、与えられることばかり求めているといつも 不安だ。失う時は失うのだの心意気で、次の一歩を踏み出したい。 主に明け渡せる事が何よりの祝福だ。
2017年08月03日(木) 「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」マタイ6:22
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」マタイ6:22
からだの明かりは目とは、目から、光が取り込まれる事による。目 が光を取り込む窓口になる。その目が健全なら、全身に十分に光が 取り込まれるので、全身が明るく心も明るい事になる。しかし目が 悪いと、光は十分あっても、身体に取り込めない。だから身体の中 は暗く、心も暗い。窓から光が入らない状態だ。 光が無いのでなく、光はそこにあり、ちゃんと輝いている。光の問 題では無い。目の問題だ。見る事が出来ないので、そこに光がある 事がわからない。太陽がさんさんと輝く中で、目を閉じるなら、真 っ暗闇になる。だから、あなたの内の光が、暗闇にならないように せよと。光は主だ。主は常に輝いておられる。 健全な目=単一の目、一つの目、光である主だけを見続ける時、内 側は健全で明るい。しかし、主に対して目を閉じ、主ではなく、目 がこの世のもの、名誉、地位、富・・様々な偶像に、又、心配事や 思い煩いに、主以外のものに向いているなら、光が入らない。その 時、心は暗く、不安や恐れでいっぱいになる。 又、目が自分の思い込み、偏見、独りよがりでいるなら、光が入ら ず、心は暗く歪む。見ているものを「よく注意せよ」と。見ている ものが重要だ。例えば赤い警告ランプが、目が悪く、青に見えてい たらどうだろう。生死に関わってくる。主を見つめているなら、光 が目の窓から豊かに入り、自分自身は輝く。そして、それは自分だ けでなく、周囲の人々をも照らして行く。 ------------- 目の前の障害がまず目に入り、恵みが満たされていないように感じ る。それは受けての問題だと、主の光は変わらず十分に注がれてい ると気づきたい。主の光を全身に浴びて、内からの喜びで輝こう。
2017年08月02日(水) 「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはなりません」ヤコブ1:22
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはなりません」ヤコブ1:22
ある人が、隣家と、敷地の事で折り合いがつかず、行き違いが、争 いになってしまい、難しい関係になっていた。解決がないまま、関 係はこじれて、険悪になっていた。嫌がらせのような攻撃もされ、 重苦しい空気だった。相手は隣であり、顔も合わせるし、ぎくしゃ くし、心重く、晴れない日々であった。 そんな中、友人が教会に誘ってくれた。思うところもあり、素直に 行ってみたいと思えた。通い続け、学びをしている内に、主を受け 入れる決心ができた。この隣家との苦しみが、主を求めるきっかけ になったのであって、これが無ければ教会へ行っていない。御言葉 の通り、すべてが益とされることを思わされた。 そして学びを続けて行く中で、「自分の敵を愛し、迫害する者のた めに祈りなさい」との御言葉が出て来た。心にグサッと刺されるよ うに入って来た。しかし自分には、到底出来ない、無理だと。だが、 帰宅しても、御言葉がずっと追いかけ来て、心から離れなかった。 「自分は出来ません。出来るように助けて下さい」と切に祈った。 すると、不思議に感情は横において、隣人のために、とにかく祈ろ うと思えた。 そして隣家の祝福を祈ることを実行した。毎日祈りを重ねていると、 何と自分の心が変えられたのだ。心が安らかになって行った。頑張 るのでなく、ただ御言葉に従った時に、自分が変えられる事を経験 した。祈りを続ける中で、和解ができ、問題の解決が与えられた。 祈りには力があり、御言葉に従う事は大きな祝福だ。「その行ない によって祝福されます」。 ----------- 聞くだけで従ったような満足感はないだろうか。主は折々に導いて くださる。祈りなさい、立ちなさい、行きなさいと。聞き流さずす ぐに従おう。必ず祝福があり次のご計画の中に導き入れられる。
2017年08月01日(火) 「 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」創世記39:2
「 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」創世記39:2
ヤコブの偏愛で育ったヨセフは、一人だけ綺麗な服を着て、また、 兄たちの悪い噂を父親に告げ口していた。周囲がどういう気持ちに なるかに、考えが及ばない。そのヨセフは、兄たちの妬みと憎しみ から隊商に売られ、異国の地へ連れて行かれた。家族を離れて独り、 どんなに不安と孤独と寂しさの中にいただろう。 しかしそれは神からの訓練となり、練られて造り上げられて行く。 起こる出来事に神を意識し、神を見ていた事だろう。売られた先で 主人の厚意を受け、信頼を得る。しかしその妻の誘惑に、その場を 逃げ去る。その時も「神に罪を犯すことができましょうか」と、神 の前に生きていた。 無実の罪で投獄され、奴隷よりも更に悪い囚人になり下がってしま った。しかしそこでも、「主はヨセフと共におられ」と、そこに神 を認め、神の前に生活して行った。様々な厳しい訓練を経て、神は 最終的にヨセフを総理大臣にされた。そして飢饉の中の、ヤコブ一 族を救う事になる。神の主権と支配を認める時、すべての状況は神 から来ている。 自分にとって辛い事、苦しい事が起きた時も、単に物理的な状況で なく、そこに神を見て行く時に、そこで神に出会って行く。神には 深い考えがあり、ご計画がある事を信じて行く。「あなたの行く所 どこにおいても、主を認めよ」状況に主を認める時、「そうすれば 主はあなたの道をまっすぐにされる」。主は平安へと導いて下さる。 ------------- 全てが主のご計画と摂理のうちに置かれているという事は、全てが 自分だけの問題ではなと安心して、そこで力も知恵も求めていけば 良い、この当たり前の事がすぐに飛んでしまう。主は生涯を通しく り返し整えてくださる。