2017年09月30日(土)

「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生か します」詩篇119:50 



ある人が、若くして神学校を卒業し、意気揚々と地方の教会に赴任
した。主のためにと、全力を尽くそうと、気合い満々だった。しか
し、すぐに現実にぶつかった。田舎で、なかなか人が来ない。新し
い人が来たと喜ぶと、すぐ去り、続かない。意気消沈してしまう。
そして今までいた人も、うまく導けずに、去って行く人が続いた。

問題がからまり、分裂のようになり、非常に苦しい状況に陥った。
自分がうまく導けないせいと、自分を責め、ひどく落ち込んだ。そ
んな中でも、信頼のおける人がいて、支えになっていたが、問題が
こじれ、その人も去ってしまった。多大のダメージを受け、沈み込
んだ。それに加えて、経済的苦境が臨み、経済的にも行き詰まって
しまった。

もう何もどうにもならず、気力も失せて、ぼう〜と日を過ごしてい
た。祈る気力も無い中、パラパラと御言葉を見ていた。読むのでな
く、御声を聞こうとするのでもなく、ただぼんやり見ていた、とい
うのが正直なところだった。しかしそんな中で、「不妊の女よ」と
の言葉が、心に語りかけとなって入って来た。「喜び、歌え」と。

自分と重なり、「不妊の女」が自分の事だと思えた。え?喜べ
と??「あなたは右と左にふえ広がり・・荒れ果てた町々を人の住む
所とするからだ」。まさにどん底の中で、御言葉の真の力を経験し
た。御言葉が霊であり、いのちであり、真に人を生かす力であるこ
とを。御言葉により、今一度、主に向かって、顔を上げることがで
きた。内に力が来て、立ち上がらせられた。

・・・・・・・・・・・・
苦しい状況で、心は重く沈み、気力も失せ、何もどうにも出来ない
時がある。そんな中で、神の生ける言葉が、光を放って臨んで来る
事を経験する。パンだけでなく、真に神の言葉によって生きる事を
知る時とされる。御言葉は新しい力を与え、再び立たせてくれる。


2017年09月29日(金)

「主に感謝するのは、良いことです・・朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。」詩篇92:1

私たちはよく思い煩う。思い煩ったところで、もうどうにも出来な
い過去の事をくよくよと思い煩い、心配しても仕方がない先の事を、
くよくよと心配し、不安で不安でたまらない。この思い煩いをどう
すればよいのか。3つの方法が考えられる。環境・状況を変える事、
相手を変える事、自分を変える事、のどれかしかない。

環境は変わらないし、人を変える事など不可能だ、しかし自分を変
える事ならできる。どのように自分を変えるのか。神が良くして下
さった事を考え、思い起こす事だ。思い煩いにさいなまれそうにな
った時、主の恵みを思い出すことだ。主の恵みを思い出して、思い
出して、数えること。主がして下さったことを思い起こして感謝す
ること、それを続ける時、自分が変えられる。

感謝に目が向いた途端、視点が変わる。自分が変えられる。全く何
の資格も無い者に、良きものを、祝福が与えられているのは、罪を
無代価で赦し、その罪を永遠に忘れて下さるゆえだ。決して当然で
はなく、どんなに感謝な事だろう。過去の過失も失敗も、赦し、益
として下さり、祝福に変えて下さる、その愛を信じて生きる時、心
に安堵と喜びが湧いてくる。

私たちは、その愛によって変えられて行く。主に目が向き、恵みに
目が向き、感謝に目が向く時、サタンは足場を失う。目の前の問題
ではなく、主に目が向いているので、心が安らかにされてゆく。そ
してその問題も、主と共に乗り越えて行ける。
--------------
今まで共にいてくださったように、主は明日も明後日も共にいて、
何があっても感謝の祈りを献げる夜は来る。思い煩いの妄想がよぎ
る時、心を主に向け今日を感謝していよう。


2017年09月28日(木)

「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです」ヤコブ1:3


私たちの願いやビジョンがあり、それが主の御心であっても、すぐ
にスムーズには成就しない事を経験する。幾つもの試練を通りなが
ら、信仰を試され、御心が実現して行くという事を学ばせられる。
御心を間違ったのではなく、成就するまでに、苦しみを通ると、主
は言われる。

御心を行なうなら、必ず物事がスムーズに、順風満帆に行くと思っ
ていないだろうか。それで、御心に前進する時、そこで悩みや苦し
みに出くわすと、これは御心を間違ったのかと怪しみ、悩む。しか
し、そうではなく、成就に至までにも試練があるということだ。主
の約束は、「試し」となって私たちに臨む。

それによって、私たちの心に潜んでいて、普段は現れることもなく、
気づかない「不信仰」を見せられる。そして信仰へと導かれる。
「向こう岸へ渡ろう」と御心を示された弟子たちだったが、途上で
大嵐の試練が来た。不信仰を主にさとされ、みわざを見せられた。

霊に憑かれた息子の父親が、主に「もし、おできになるものなら・
・助けて下さい」と言った。主は「できるものなら、と言うのか、
信じる者にはどんなことでもできる」と言われ、父親は「信じます。
不信仰な私をお助け下さい」と叫んだ。不信仰な私を助けて下さい
と頼った時に、息子はいやされた。

ヨセフは約束与えられながら、異国の地へと売られ、幾多の厳しい
試練を通った。患難が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、
ヨセフは造り変えられ、整えられて行った。主は私たちを訓練され、
信仰を成長させて下さる。そして御言葉を成就される。その時、神
の栄光が素晴らしく現れる。
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大きな試練から、日々の些細なストレスまで様々に信仰が試されて
いる。その度に主へと信仰の根を伸ばしていこう。いかなる試練に
も主が共にいてくださる。何と幸いだろう。


2017年09月27日(水)

「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:11


信仰人生の中で、時に、目の前で道が閉ざされる事を経験する。自
分はどうしても進みたいのに、門が閉じられてしまう。神からの
「ノー」を突きつけられ、現実と向き合わせられる。非常に厳しく
感じる。入学試験、就職試験、対人関係、様々な事態で直面する。
自分の思いとは全く異なり、思ってもみない方向へ向かう事になる。

自分の思いがあり、それと違うので、受け入れ難く、失望落胆して
しまう。「ノー」は、進路だけでなく、自分自身も否定されたよう
に感じてしまう。何度も何度も就職試験が不合格になると、人格ま
で否定されているように勘違いしてしまう。

しかし神には、行き当たりばったりという事が無い。最初から、完
全な計画を持っておられる。あなたの思いの道が、神の御心と違っ
ていたのだ。神は、正しくあなたを御心の道へと導いておられる。
人生の「ノー」を神のご意志として受け取ろう。別の道が備えられ
ている。開かれた道を進めばよい。

ある人は、ことごとく道がふさがれて行った。進もうとすると閉ざ
された。それで自分のしたい事を横に置いて、神が、自分にさせた
いと思っておらる事を祈り求めた。そのように祈りを変えると、な
すべき事が示され、道が開かれたのだ。御心を確信し、働きを始め
た。

自分の思いで進んでいた時は、しょっ中、挫折した。行き詰まり、
途中で投げ出した。しかし、自分が始めた事でなく、神から始めら
れた事は、成し遂げられて行く事を初めて経験した。主のはかりご
とだけが成り、とこしえに立つ。
-------------
祈ってすぐに動きたくなるが、それは神のご計画の邪魔をしてしま
うのではないかと謙遜に立ち止まり、神の働きを待ち望む態度にな
れるようにと祈っていたい。


2017年09月26日(火)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6


私たちは、悪習慣を環境のせいにしたいものだ。アルコール依存症
の人は、どこに行っても、飲酒の誘惑の無い所がないと言う。テレ
ビからは酒のCM、街を歩けば、店、又、店、誘惑があるから止めら
れないと。ギャンブル依存症の人も、ギャンブルが存在する事が悪
いと言う。環境が悪いと。しかし、同じ環境にいて、アルコール依
存症にもギャンブル依存症にもならない人々が大勢いる。

これは環境のせいでは無いという事だ。問題は何なのか。私達も形
は違うが、同様だ。止められない習慣を持っている。しかし、その
問題の底にあるものは、止められないのでなく、止めたくない自分
がいる。そこを認めない限り、問題の解決はない。人一倍思い煩い
の強い人もいるが、実は思い煩っていたい。

思い煩いがないと不安で、思い煩いを見つけ出すと安心する。思い
煩い依存だ。おかしな話だが、心の底を正直にみるとそうなのだ。
主はいつでも「よくなりたいか」と問うて下さる。そう出来るかと
は問われない。「・・たいか」だ。本当に良くなりたいのだろうか。

建前でなく本音はどうだろう。どっちでもいいのだろうか。悪習慣
の中は、心地良かったりする。環境や人のせいにせず、自らの罪を
認め、無力を認める時、主は癒しを与えて下さる。「私はアルコー
ル依存です」と認める人が癒されて行くという。逃げないで、主に
向き合おう。
--------------
一人ではよくなれない状態も、またその苦しみも主はご存知でよく
なりたいかと聞いてくださっている。よくなりたいとの決心を主に
告げることから始めよう。


2017年09月25日(月)

「侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。『たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか』」U列王7:2


エリシャの時代に驚くような事が起きた。飢饉でどんどん人々が餓
死する非常事態の中、エリシャは、「明日、小麦や大麦が溢れるば
かりにある」と言った。そんな状況の中だ。侍従が「そんな事があ
り得ようか」と言った。するとエリシャが「あなたはそれを見るが
食べられない」と預言した。

そんな時、サマリヤの門に、四人のらい病人がいた。町は飢饉、こ
こにいてもどうせ自分達は餓死する。それなら、敵の陣営へ入って
みようではないかと。もしや食料があるかも知れない。それが、敵
のアラム陣営では、神がアラムに大軍勢の騒ぎを聞かせられ、襲撃
と勘違いさせた。アラムは驚き恐れ、陣営を置き去りにし一目散に、
逃亡した。

それでそこに入ると、山ほどの金銀、溢れる食料があった。彼らは、
それを王家に知らせた。王は信じなかったが、偵察により事実を知
った。すると大勢が殺到し、侍従は踏みつけられ死んだ。預言通り
になった。実際、溢れる食料を神は用意された。しかしそれを信じ
なければ、自分のものにはならない。

目の前に溢れる食料があるのに、餓死する事になる。私達も同様だ。
十字架の救い、神の愛、罪の赦し、義とされる事・・、溢れる恵み
の中で、不信仰でいないだろうか。自分で恵みをシャットアウトし
ている自分の姿ではないか。莫大な恵みが目の前に備えられている。
信じようとしない自分に気づこう。
-------------
現実の悲惨さの前には御言葉の約束も吹っ飛んで、自力で右往左往
してしまう。信じられない御言葉を前に不信仰に気がつく。主への
絶対的な信頼を逃げないで経験していきたい。


2017年09月24日(日)

「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におさ さげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ 行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」ヘ ブル9:14  

                   
        
人間には良心が与えられていて、その良心は、罪を犯すと、とがめ
を感じる。そのとがめを何とか消したいがために、善行をする。例
えば、言葉で、態度で、人を傷つけた時に、良心がとがめ、平安が
保て無いので、親切な行いを返す。そして、プラスマイナスゼロに
する。これで良心をなだめて良しとする。誰しもに経験あるかも知
れない。

しかしこれは、心がとがめるのが嫌で、自分の良心を何とかしたい
だけで、神への愛や、相手への愛などまるで無い。自分の事だけで、
自己中心だ。ある人は犯した罪に対するとがめから、懸命に奉仕し
たり、献金している事に気づかされた。神のために良い事をして、
自分の良心をなだめ、罪滅ぼしをする。神に認めてもらおうとする。

そして偽りの平安を得る。人は知らぬ間に、これを繰り返している
事がある。これは「邪悪な良心」だ。善行で、神に受け入れてもら
おうとの態度だ。そうであれば、主の十字架は無意味になる。この
良心はきよめられる必要がある。

それはただ十字架の血潮によってだ。神に行ないで受け入れてもら
おうとの、死んだ行ないから離れさせてくれる。主の血によって良
心はきよめられ、赦され、どんな時も恐れなく御前に行ける。自分
の行ないではなく、主の血に拠り頼もう。

・・・・・・・・・・・・・
罪を犯した時に、主への悔い改めでなく、善行によって、悪い行な
いをチャラにしてしまおうとする。「ごめんなさい」だけは言いた
くない。しかし神が喜ばれるのは、悔い、砕かれた心だ。十字架の
もとへ行き、血潮で赦しきよめて頂く事だ。この赦しにあずかろう。


2017年09月23日(土)

「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火 のあとに、かすかな細い声があった」T列王19:12



エリヤはバアルとの熾烈な戦いで、奇跡的な大勝利を遂げた。し
かし、怒ったイゼベルはエリヤ殺害を命じた。その脅しに恐れをな
して、エリヤは逃げ出したのだ。あれほど勇敢に戦い、勝利したエ
リヤの信じられない行動だが、霊的勝利の後は、特に危険と言われ
ている通りだ。

戦っている最中でなく、勝利の後にサタンが襲う。特に大きな事を
成し遂げた後こそ、身を引き締め、慎み、へりくだって更に神に拠
り頼む必要がある。あの信仰と祈りの人、勇敢なエリヤが、怯えて
自分の命を救うために、逃がれた。この事の原因は、イゼベルの言
葉だった。神の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れてしまった。ど
の言葉を聞き、どの言葉を捨てるかは極めて重要だ。

受け入れた言葉に、自分が飲み込まれてしまう。私たちは、どの言
葉を心に入れているだろう。神の言葉か、不安や思い煩い、又、高
慢なサタンの言葉だろうか。常にサタンは妨害して来る。神はエリ
ヤを眠らせ、食事をとらせ、十分な休息を与えられた。まず身体の
回復を与え、ホレブの山に向かわせ、山の上で主の前に立つように
命じられた。

エリヤはその細い御声に耳を傾けた。神はエリヤの思い込みの間違
いを正し、エリヤに新たなる使命を授けられた。死を願っていたエ
リヤだったが、再び、神の使命を成し遂げるために、立ち上がる事
ができた。スランプから脱出するためには、身体的休息を取り、神
の御前に静まり、細い御声にじっと耳を傾けることだ。神との交わ
りから、新しい力が湧きいずる。再び立ち上がれる。

・・・・・・・・・・・・
心身疲れ果てた時は、まず休息が必要だ。正常に思考できるために
も、主は、まず休息を与えて下さる。主の御胸の中で憩い、休もう。
そして回復した時に、主は御声をかけて下さる。耳を澄ましてその
主の御声を聞こう。励まして新たなる御心へと導いて下さる。


2017年09月22日(金)

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい・・自分の宝は天にたくわえなさい」マタイ6:19


「宝」とは富、金銭に限らない。名誉、地位、能力、人の評価、人
の称賛・・、とにかく、その人にとって非常に重要な大切なものの
事だ。命ほどに大事なものだ。そして、財産、富、栄誉、称賛、能
力、それ自体は別に悪いものではない。決して罪でも悪でもない。
しかし、主はそれらを拠り所とし、それに頼り、依存し、人生の判
断基準とするなと言われる。

「自分の宝は、天にたくわえよ」地上のものに執着するのでなく、
神に望みを置き、天国とそこでの素晴らしい報いに望みを置くよう
にと。その理由は、「虫とさびで、傷物になり」地の宝は虫やさび
でだめになり、朽ちてしまう。上等の大切な衣服が、虫に食われて
しまった経験があるだろう。地の物は虚しい。

そして「盗人が穴をあけて盗み」名誉、地位、賞賛は永遠ではない。
金銭を持って死ねない。持って行けない。永遠のためには何の価値
もない。又「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」これ
は重大だ。宝が地のものであれば、心は地に縛りつけられたままだ。
神に向く事はない。「貪欲」は底がないので、幾ら手にしても満足
が無い。常に足らない。

満ち足りるという事のない虚しい罪だ。逆に言えば、心を神に置き
たければ、あなたの宝であるものを、時間、富、労力を、神に献げ
て行けばよい。そうすれば、必然的にそこに心がついて行くことに
なる。心は今、どこにあるだろう。あるがままを告げ、天へと向け
られるよう、祈ろう。
-------------
信仰より他のすべては捨ててやがて天へ行くと覚え、今日を生きる
ことが大切だ。地上のものに執着する思いをまず認めたい。主に渡
しながら今の自分、環境に感謝をもって歩みたい。


2017年09月21日(木)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」詩編23:2 


世の中は、日々目まぐるしい。止まる事なく、雑多な情報が行き
交い、その量に飲み込まれてしまいそうだ。凄まじい勢力にどん
どん流されてしまう。このような中で、主の御前に静まるという
事は非常に重要だ。余りにも忙し過ぎるなら、ちょっと手を止め
よう。一旦立ち止まって、御前に静まろう。

ある人が余りの多忙の日々に、過労で倒れる寸前だった。思いき
って休暇を取った。やっと時間ができ、主と交わろうとした。今
まで多忙で交わりがおろそかになっていた。心はイライラし満た
されず疲れ果てていた。喜んで、御前に静まろうとした。一人で
あり、誰もおらず静寂だった。しかしいざ祈ろうとすると、外部
は静寂なのに、思いがぐるぐる渦巻いた。思いの声がやかましい。

次から次へと湧き、頭がいっぱいだ。あなたも経験あるだろうか。
思いが駆け巡り、とどまるところ知らずだ。サタンの声に肉がど
んどん反応する。ああだ、こうだと、思いは目まぐるしく騒がし
い。聖書を読んでも、字を負うだけで頭は雑念で一杯だ。静まる
事ができない自分を知る。静まる事がこんなにも困難だとは。

身体を動かし、働く方が簡単であり、自分の力で幾らでも動ける。
だからこそ立ち止まる事が必要で、主に助けを求めて静まろう。
そんな時は、祈れない事を告げ、数分で良いから主に心を集中し
てみよう。その心を見て主は助けて下さる。主は御声をかけ、あ
なたの今気がかりなその事に示し下さる。
------------
主は私たちを恵もうと待っておられる。そして主を待ち望む者に
必ず祝福をくださる。平安も、感謝も、喜びも主から与えられる。
外は騒がしくても、いこいの水は心に満ちる。


2017年09月20日(水)

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお使わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26



青いサングラスを通して、景色を見ると青色に見える。又、赤いセ
ロファンを通して見ると赤色に見える。私たちは、何色かのセロフ
ァン、サングラスを通して世界を見ている。自分の偏見や思い込み
で見ているなら、そのような自分の色にしか見えない。そうではな
く、ありのままの景色を見たいなら、どうすればよいか。色メガネ
をはずす事だ。

自分の心の中の偏見、偏った、間違った見方が問題だ。もしかして
自分の見方が間違っているかも知れない、肉の価値観、偏見かも知
れないとの姿勢は大切だ。そうなら、御霊の気づきへと導かれて行
く。ある人が対人関係で問題が起きた。どう見ても、相手が悪いと
しか思えなかった。非があるのは相手、自分は被害者であって、悪
くない。理不尽であり、怒りや恨みがある。

あくまでも相手が悪い、にしか立てないので、実は、自分も罪を犯
している事に気づかなかった。赦せない、愛が無い、裁いている、
憎しみと怒り・・、自分の姿は見えなかった。迷い出てしまってい
た。御霊の気づきが与えられ、相手に確かに非があるが、自分の罪
は罪として認め、悔い改めた。

その時、平安が来た。そして、不思議が起きた。見方が変えられた
のだった。今まで相手を責める一方だったが、相手の状況、背景、
置かれた立場に初めて思いが至った。そうした相手がかわいそうに
思えた。気がつくと、相手のために祈っていた。自分が変えられた
事に驚いた。
-------------
助け主なる御霊は教えてくださる。固執している思いや考えの中か
ら気づきを与えて、導き出してくださる。平安なく心を騒がしてい
る時こそ、聞き分けよう。御霊の導きを祈ろう。


2017年09月19日(火)

「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ」マタイ13:8


御言葉は種で、土地は私たちの心だ。同じように神の言葉を聞くも、
全く益を受けない人々がいる。それは心の問題だと言っている。右
から左に抜ける、心に留めないままに聞く。特に関心も持たず、本
音では自分とは無関係だと思っている。傍観者的態度で聞く。他人
事だ。

はなから従う気も無く、従おうと思っていない。それなら悪魔が種
を奪うので、聞かなかった事と同じだ。心に何の跡も残さない。又、
岩地に落ちるとは、聞く時は、感情的に聞くので、主の十字架に深
く感動し、涙を流す。しかし心の中には、自我という強固な岩があ
って、御言葉が根ざす事を邪魔する。ガチガチの自我だ。それで、
信仰ゆえの迫害や、試練が来ると根が無いので、すぐに枯れてしま
う。

御言葉を涙して感情的に聞くだけでは、根ざす事ができない。御言
葉に従い、御言葉を行って行くことが大切だ。その時に岩である自
我が砕かれて行く。又、いばらは、御言葉を塞いでしまう。せっか
く伸びようとする芽を、塞いで枯らす。世の楽しみ、様々な自分で
良いと思う計画は、せっかく芽生えた信仰をふさぐ。

心で握っているもの、密かに愛する偶像は、神から私たちを離して
しまう。優先順位の問題だ。何が第一になっているだろう。自分は
大丈夫と思っているが、いつしか一番大切なものを見失って行く。
自らの状態をよく点検する事は大切だ。実を結ぶかどうかが、聞き
方にかかっている。
--------------
自分はどうだろう。御言葉を頭で信じて従っているつもりだろうか、
それとも出来ないと右から左に流しているか。従えない弱さのまま
で主に行き一歩踏み出してみよう。


2017年09月18日(月)

「悪魔はすでシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが・・」ヨハネ13:2



サタンは、獲物を求めて捜し回る、腹をすかせたライオンだ。うの
目たかの目で、獲物を狙っている。ヨブを襲った。全財産を何もか
も奪い、子供たちを奪った。ヨブの全身を激しい苦痛の腫れ物でお
おった。ダビデを誘惑し、バテシバとの姦淫、ウリヤ殺害の二重の
罪を犯させた。

又、人口調査の罪を犯させた。ペテロに襲いかかり、主を三度否ま
せた。アナニヤとサッピラを誘い、献げ物の事で、神を欺かせた。
サタンは人殺しであり、偽り者で、真理がない者だ。「あらゆる獣
のうちで、蛇が一番狡猾であった」人間を遙かに越えたずる賢さ、
悪知恵を持つ者だ。騙されないように警戒しよう。

悪魔は、自由自在に思いの「火矢」を吹き込んで来る。心に湧き上
がる思いをよくよく見張ろう。自分の思いでなく、悪魔が吹き込む
ものだ。突然の人への憎しみ、怒り、敵対心が湧き起こる。ある種
の邪悪な思いや、罪深い思いが浮かぶ。しかし、それは悪魔から投
げられた矢であり、思いが来たから罪なのではない。

思い自体は罪ではないとわきまえていよう。悪魔のしわざであり、
平安を奪われてはならない。悪魔の火矢を止める事は出来ないが、
大盾で防ぐ事ができる。主も悪魔の誘惑に会われたが、「罪は犯さ
れなかった」。誘惑は来るが、それは罪を犯した事にならない。
同意する事が罪を犯すことだ。まず一番に「主よ!」と助けを求め
よう。
---------------
苦い思いがくると相手やまた自分を責めてしまうが、本当に戦う相
手を見極めていよう。平安を奪い、神の愛から離そうとするサタン
に感情をコントロールされる前に主を呼び、御言葉で勝利しよう。


2017年09月17日(日)

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して は、イエスはこのようなことを話されて」ルカ18:9



パリサイ人は、自分は正しい者である事を感謝しますと祈ったが、
他人事とは思えない。人は、誰しも自分は正しいと思っている。皆
が、自分は正しいと思っているので、争いになる。親子喧嘩、夫婦
喧嘩、兄弟喧嘩、友人間のもめ事、職場、近隣の様々な対人関係・・
その根は、自分は正しく、相手が間違っていると思うので、争いに
なる。

パリサイ人は、自分の立派な行ないを並べ立てて、誇った。表向き
は、立派な行ないをしても、心の内側、その動機はどうだろう。何
のためだろう。自己顕示、自己満足、自己実現・・だろうか。御霊の
助けなくして、誰も御心にかなった行ないはできない。パリサイ人
の義は、他者との比較に立っていた。私たちも、他者との比較の中
に生きる時、人より自分の方が正しいと思う。相手が間違っている
と。そして自分の間違いは全く見えない。

この状態から救われるためには、人との比較でなく、横ではなく、
絶えず上を仰ぎ、主を見ていよう。御心を求めよう。そして御言葉
を鏡として、自分の姿を見て行くことだ。主は、御言葉を通して語
られる。御言葉により、自らの姿が照らし出される。自分で自分の
本当の姿は決してわからない。御言葉の鏡が照らし出してくれる。

その時、間違いを示されたなら、悔い改め、示されたことに従って
行こう。取税人は「こんな罪人の私をあわれんで下さい」と、自ら
の罪を認めて、主にあわれみを求めた。彼は、罪赦され、義と認め
られて帰った。

・・・・・・・・・・
パリサイ人は罪を持ったまま帰り、取税人は罪赦されて帰った。御
霊に罪を示される時には、人など全く関係無くなる。目に入らない。
ただ自分の罪だけが見える。その罪は赦される。御霊により罪が指
し示される事は何と感謝な事だろう。悔い改めて〃歩もう。


2017年09月16日(土)

「あなたが数の多い民であるなら・・森に上って行って、そこを自分 で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだ から」ヨシュア17:15



約束の地カナンにおいて、各部族がくじを引き、相続地が割り当て
られた。しかしその地は、戦って開拓して行かねばならない。とこ
ろがヨセフ族に不満が起きた。 彼らは、主により大きな民になっ
たのに、一つのくじで一つの割り当て地しか得ていないと。「なぜ、
一つの割り当て地しか貰えないのか」自分たちは、大部族で、大き
な土地が必要だと思った。

するとヨシュアは山地も自分たちのものとせよと。すると彼らは、
カナン人は鉄の戦車を持ち、強いから到底無理だと。ヨシュアは、
敵が幾ら強いとしても、戦って勝ち取れと。彼らの問題は、戦う事
を恐れている事であった。戦って勝ち取ろうとはせずに、ただただ
現状に愚痴、不平不満言うのみだ。

私たちはどうだろう。主によって割り当て地が与えられている。家
族、仕事、対人関係、今の場所、賜物、能力・・。その今の場に、ヨ
セフ族のように不満ばかりだろうか。鉄の戦車が立ちはだかり、難
しい状況が色々あるかも知れない。今の環境が自分の思いとは異な
り、嫌でたまらないかも知れない。しかしヨセフ族と同様に、私た
ちもそれぞれ主から与えられた地だ。

主は、それらを祈りつつ、御霊の示しに従い、主のために用い、栄
光を現して行く事を願っておられる。山地をもあなたものとせよと。
信仰に立つ時に、主が戦って下さり、更に恵みを増し加えて下さる。
不満でなく、主に導かれ、なすべき事をして行こう。必ず主の助け
がある。

・・・・・・・・・・・・
今の環境が嫌で、目の前の状況が嫌で、との思いに支配されてしま
う時、何の祝福も見えない。不平不満、愚痴だけだ。しかし状況の
背後で、支配し、ご計画を持っておられる主を見る時に、見方が変
わる。今、置かれた場で、主の栄光のために用いられたい。


2017年09月15日(金)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1 


起こるすべての事に「神の時」があり、そして神のみわざは、時に
かなって美しい。「かなう」とは「ぴったり合う」「適合する」
「丁度当てはまる」であり「時にかなって」とは「ちょうど良い時」
「ピッタリな時」「ジャストタイミング」だ。「美しい」とは。
「調和がとれていて快適に感じられるさま」であり、「人に感動を
与えるさま」だ。

主のみわざはピッタリのタイミングで、秩序と調和があり、人に感
動を与える。ハマンにより、ユダヤ人絶滅の悪巧みがなされた際、
そこにピッタリのタイミングでエステルがいた。王に救いを願う事
は、エステルだけにしか、他の誰もできないことだった。そしてエ
ステルは命がけで従順に従った。自分にできることをした。結果ユ
ダヤ民族は救われた。

飢饉で、祖国を出て異国の地に移ったナオミが、帰国を決意した時、
ルツもつき従った。それが丁度、大麦の刈り入れの時期だった。落
ち穂拾いという生計の手段が備えられていた。又、はからずもボア
ズの畑であった。選んだわけではなく、たまたま足を踏み入れた畑
だった。そして丁度その時、ボアズが現れた。

まさに主のなさる事は、時にかなっている。神に従い、故郷を捨て、
異国の地に来たルツは、豊かに報いられ、ボアズとの結婚が備えら
れていた。神の時に、ふさわしい事をされる。それは美しい。今は
わからずとも、いつか必ず「美しい」ことが判明する。信じていよ
う。
--------------
振り返ってみれば神の時は、神ご自身の栄光をはっきりと表され、
秩序と調和の中に美しくある。神の時は動かず時がくれば必ずふさ
わしい事をされる。神の時を悟れるように祈ろう。


2017年09月14日(木)

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」マタイ13:4


聖書に「御言葉を実行する人になれ」とあり、ただ聞くだけなら自
分を欺いていると。聞いた御言葉を実行する時に初めて実を結ぶ。
実行しないなら実を結ぶ事はない。実行して実を結ぶために、まず
聞き方が大切だ。人に踏み固められた「道ばた」は、心固く、物理
的には聞いているが、他人事のように聞き、自分の事として聞かな
い。

自分は棚上げで、あの人が聞けばよかった、この人にぴったり・・。
傍観者で、自分への言葉として受け取らないので、心に入る事がな
い。種をはじき返してしまう。又、この御言葉はもう知っている、
何度も聞いた、との態度で聞く時も心に入らない。サタンが御言葉
を奪ってしまう。私たちの聞き方はどうだろう。

他の事を考えながら聞いても、右から左へと何も残らず流れてしま
う。何も入っていない。サタンの妨害だ。自分の思いでいっぱいに
し、御言葉を入れさせない。よく祈り、自分の事として聞く時に、
御霊の助けのもと、心に入って来る。自分のすべてが「道ばた」な
のでなく、自分のある部分が「道ばた」の事もある。

その部分だけ受けつけない。人を赦す事、自分を捨てる事、献げる
事、悪習慣を止める事・・聞きたくない部分をスルーしてしまう。
無意識かも知れない。豊かな実を結ぶために、成長して行くために
も、道ばたになっている部分が無いか、御霊に、探り照らしていた
だこう。
--------------
御言葉を受け入れる前にはじいてしまう自分の障害はなんだろう。
種を見ているだけでは命を感じることはできない。御言葉を素直
に受け取ろう。耕された土になりたい。


2017年09月13日(水)

「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った」ルカ10:29



律法学者が、主に質問をした。「何をしたら永遠のいのちを自分の
ものとして受けられるのか」と。だが、「ためそうとして」とあり、
真摯に質問したのでなく、罠であり、試すためであった。この学者
は答えがわかっている。律法の専門家なのだから。すると主は、律
法には何と書いてあるかと、逆に問われた。

そして「あなたはどう読んでいるか」と。あなたはどのように理解
し受け止めているか、あなたの現実問題としてどうなのか。聞き従
っているのかと。学者は、神を愛し、隣人を愛すること・・正しい
答えをした。そこで主は、では、その事を実行せよと。すると学者
は「自分の隣人とは誰か」と質問した。

その動機が「自分の正しさを示そうとして」であった。自分を正当
化しなければならないという事は、やましいものがあって、取り繕
わなければならないという事だ。すべての隣人を、愛せない事がわ
かっていたのかも知れない。当時のユダヤ人は同胞は隣人で、外国
人は隣人ではなかった。同胞なら愛せるが、それ以外は愛せない。

ありのままを主に告げたらよかったが、自分を守りたかった。そこ
で主は、敵を助けたサマリヤ人の話をされた。私たちも、すぐに自
分を守ろうと自己正当化してしまう。そしてそれに気づかない。御
言葉すら自分を正当化するために用いてしまう。

しかし御霊が気づきを与えられる。心の闇を照らされる。そしてど
んな時も、決して変わらず愛されている。その愛の中で、内側を照
らされつつ、成長が与えられて行く。
------------
誰も御言葉を守り続けられない。だから主の十字架が必要だと気づ
けることが感謝だ。頭の理解と現実はいつも違ってしまう、その弱
さを認めて成長していきたい。


2017年09月12日(火)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2


その昔、宇宙は、地球を中心に動いていると見られていた。その時
には、その動きは複雑怪奇で説明が成り立たず、わけがわからなか
った。それが、宇宙ではなく、地球の方が動いていると見た時に、
突然すべてがすっきり解明した。宇宙は今も昔も何も変わらないが、
視点が変わる事によって、全く見え方が変わる。

これをコペルニクス的転回と言われているが、私たちクリスチャン
も、この視点の転換が起こる時に、主がわかって行く。主に向き、
従おうとして行く時に、御霊が働いて、教えて下さる。この視点の
転換によって、難題が解決して行く。信仰者であっても、古い人は
根深く、自分の願望が成し遂げられる事こそが、自分の大きな喜び
だと思う。

そして懸命に取り組むが、実際はほとんど自分の思い通りにはなら
ない。挫折を味わう。又、仮に思い通りになったとしても、その瞬
間は歓びがあるが、その底には、何かこんなはずではない虚しさを
感じる。そんな事を繰り返す中で、信仰者でありながら、自己中心
に生きている姿に気づかせられる。

自分の価値観と自分の力で生きている。それに気づけることが祝福
だ。変えられて行く。神の国と神の義、神第一、神の御心中心にし
て行く時に、心に真の平安が来る。自己中心から神中心に、転換し
て行く時に、秩序をもって人生が回って行く。まず御霊の気づきか
ら、祝福が始まる。
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自分中心から神中心へ主従関係を変えていく時、痛みは伴うが神の
秩序の中に入れられているから御霊の支えがある。神の喜ばれるも
のは何か。知恵を主に求めていきたい。


2017年09月11日(月)

「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」マタイ14:28


ペテロは水の上を歩いた。普通に考えるなら、あり得ない事だ。人
間が水の上を歩くなど到底不可能だ。しかし、ペテロは実際に歩い
た。どうして歩けたのだろう。それは、「来なさい」という主の言
葉があったからだ。主の言葉による。ペテロは主の言葉ひとつあれ
ば、何でも出来る、不可能は一つとして無い。だから水の上を歩こ
とも出来る、と信じていた。

それで「あなたでしたら、水の上を歩いてここまで来いと、お命じ
になって下さい」と願った。すると主は「来なさい」と言われた。
明確な主の言葉があり、その御言葉に従った結果、水の上を歩く事
ができた。ペテロは水の上を歩いた。もし主の言葉が無ければ、ペ
テロが自分で歩いたとしても、即、沈んだであろう。

主の言葉とペテロの信仰による従順が一つになった時に、超自然の
奇跡が起きた。私たちも、日々の信仰生活は、この世で水の上を歩
くようなものだ。私たちが、未信者と根本的に異なるのは、主の言
葉によって生きているという事実だ。価値観、思考、行動や選択の
基準、それらが御言葉によっている。

自分の思いでなく、主が「来なさい」と言われたので「行く」。そ
して必ず行くことができる。結果がついて来る。自分の考え、思い
で行動する時に、何度も失敗した。沈んでしまった。しかし主の
「来なさい」を聞くなら、恐れず足を踏み出そう。今、御声が臨ん
でいるだろうか。
-------------
波が荒れていても風が吹いていても主の御言葉を握って主に頼って
いれば、世の流れの上を信仰によって歩んでいける。ぶくぶくと沈
みそうになる度に、自分の思いから出て主を呼び、御言葉に返ろう。


2017年09月10日(日)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、 その人はほんとうに実を結び・・」マタイ13:23



種は御言葉で、土地は私たちの心だ。同じように神の言葉を聞いて、
ある人は益を受け、又、全く益を受けない人々がいる。土地である、
心の問題だと御言葉は言う。聞く態度が大切だと。右から左にス
ルーするように、心に留めないで聞くだろうか。自分とは無関係だ
と思っているので、傍観者的に、他人事のように聞く。そこで悪魔
が種を奪って行くので、何も聞かなかったのと同じだ。自分の事と
して聞く事が大切だ。

又、岩地に落ちるとは、感情的に聞き、深く心動かされ、涙を流し
て聞く。しかし心の中にある、強固な自我という岩が邪魔をし、根
ざして行けない。そのため信仰ゆえの迫害や、試練が来るとすぐに
枯れてしまう。御言葉を涙して聞くだけでは、根ざす事ができない。
一つ一つと祈りつつ従って行く事が大事だ。

又、いばらは御言葉を塞いでしまう。せっかく伸びようとする芽を、
塞いで枯らしてしまう。世の楽しみ、様々な計画は、せっかく芽生
えた信仰を塞いでしまう。心にしっかり握っているもの、心で愛す
る偶像は、神から私たちを離してしまう。自分は大丈夫と思ってい
るが、優先順位が崩れ、いつしか一番大切なものを見失って行く。

自らの状態を点検する事は大切だ。逆に言えば、信仰生活で「実を
結」んでいるなら、御言葉を正しく聞いたという事になる。悔い改
め、信仰、愛、喜び、平安・・御霊の実だ。聞いて従って行く時、
実を結ぶ。

・・・・・・・・・・・・・
御言葉の聞き方が、非常に大切だ。御言葉があっても、土地と一つ
にならなければ、実を結ぶことはない。へりくだった、素直な気持
ちで聞き、聞くだけでなく、御言葉を実行できるよう祈ろう。その
時、豊かな実を結ぶと約束されている。


2017年09月09日(土)

「何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重 に番をするように命じた」使徒16:23



パウロは、御霊の明確な示しにより、マケドニヤに渡り、宣教のた
めにピリピの町へやって来た。そして、川岸の祈り場へ行き祈った。
それから宣教を開始し、悪霊を追い出したのだが、訴えられて捕ら
えられてしまった。そして投獄となった。むち打たれ、暗い奥の牢
へ監禁されてしまった。

祈ったのに、何でこんな事に?御霊の示しに従い、導きに確信もっ
て従ったのに、どうして?御心を行なっているのに、問題が来て、
苦しみがやって来た。なぜ?どうして?ましてや、宣教のために来
たのに、投獄の身だ。あの祈りはどうなったのか?投獄されてしま
って、身動きもとれない。これでは、どうしようもないではないか。
しかし、神の計画は着々と前進していた。

パウロとシラスは、これらすべてに神の主権とご計画を信じ、牢獄
の中で祈りをし、賛美した。愚痴と不満では無かった。何度もむち
打たれた激痛の中でで、賛美した。結果的に、その投獄によって、
看守が救われた。そして、何と看守の全家族も救われたのだ。ピリ
ピの教会の核となり、宣教がなされて行った。

神に間違いは無い。一つ一つの事柄が、パズルのピースだ。つなが
った時に、神のみわざが見えて来る。あんなに祈ったのに、御心に
従ったのに、どうしてこんな事に?との状況にあるだろうか。神は
ご自身のご計画を着々と進めておられる。紆余曲折により、神のみ
思いの通りに、みわざが進行中だ。神に間違いはない。思い煩いと
不安、恐れを「すべてのことについて感謝しなさい」の感謝に変え
よう。

・・・・・・・・・・
「なぜ?どうして?」との事態が目の前に起きる。わけがわからな
い。祈ったのに、従ったのに。当座はわからないが、思いを越えた
みわざへと発展して行く。必ず、災いではなく、平安の計画へと着
地して行く。それゆえ全主権者なる主を見上げ、感謝を献げて行こ
う。


2017年09月08日(金)

「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8



ルステラでのこと、生まれながらの足なえの男性がいて、生まれて
一度も歩いた事がなかった。その人が丁度そこに座っていて、パウ
ロが語る御言葉にじっと聞き入っていた。彼は自分の足に関して、
完全に無力であった。何の方法もなく、どうする事もできなかった。
どうやっても歩く事は不可能だった。自らに全く望みを置けない、
徹底的に無力の状態だった。

自分で何もする事ができない。その時に、パウロが「自分の足で、
まっすぐに立ちなさい」と言った。彼は、そのパウロの言葉に全身
ですがった。無力だったから、すがれた。彼にはこの言葉しかなか
ったのだから。すべての望みを置いて信じて賭けた。この言葉がす
べてだった。その言葉に拠り頼んだ。

信仰が働き、神の力が臨み奇跡が起きた。生まれて一度も歩いた事
のない彼が、飛び上がって歩き出した。私達も自らの完全無力を知
る時が、信じる時だ。何の方策も無く、何もどうにも出来ない。信
じるしか道がない。その時に初めて信仰が働く。自分の力がある限
り、自分でやって行く。自分の方法に頼り、自分を信頼して行く。

そこに、神への信仰は無い。幾ら御言葉があっても、必ず自分の力
でやって行く。信仰の入る余地がない。信仰とは、御言葉だけを頼
りに、自分を任せて行く事だ。そうなら、自らの無力を知る事こそ、
大きな祝福であり、幸いだ。
------------
信仰だけでなく何か他の方法で自分を立たせていないだろうか。自
分を安全な場所に置いてどうして神の働きを信じぬくことが出来る
だろう。完全に無力にさせられる時こそ平安がある。


2017年09月07日(木)

「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天の私の父も、あなたがたに、このようになさるのです」マタイ18:35



王がAに6000億を貸していた。清算の時が来たが、Aは返済不
能で、ひたすら懇願するので、王はかわいそうに思い、赦してやっ
た。そして6000億の借金を全額免除にした。そのAが出て行く
と、Bに出会った。AはBに100万貸していた。ところがBも1
00万を返済できず、Aに懇願した。返すから、もう少し待ってく
れと。しかしAは赦さず、Bを牢に投げ入れた。

心を痛めた仲間たちは、事の次第を王に報告した。すると、王は怒
って、Aを借金を全額返すまで、投獄した。せっかく免除された借
金が、自分に負債のある者を赦さなかったばかりに、また返って来
た。免除された6000億は、そのままでなく、王が肩代わりし、
その負債を負う事になるのだ。

何という王のあわれみだろう。測り知れない莫大なあわれみを受け
ているのに、人をあわれむ事ができない。どこまでも自己中心で、
これが人間の姿であり、罪の性質だ。自分は神に赦されているのに、
人を赦す事ができない。二つの道がある。決して自分を変えないで、
そういうものだと、誰でもそうだと、根に恨みと憎しみを持ったま
ま生きて行くか。

そうではなく、自分が変えられて、神に喜ばれる道、栄光が現わさ
れる道へ向かうか。今、岐路に立っているだろうか。自分にはでき
ない。しかし、神には可能だ。神は赦す力を与えて下さる。このま
まか、新たに信仰に前進するのか。選択にかかっている。
------------
湧き上がる怒りで相手ばかりを見るのではなく、主は何と言われて
いるかに自分の心を合わせていきたい。自分も莫大な負債を払いき
れない者で、限りなく赦されている。


2017年09月06日(水)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4


御言葉に、従おうとする時に、必ずあらがって来るものがある。
この世の価値観や、習慣、肉の思いだ。一見、非常に妥当に思え
る。今まで叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、自分の力で
頑張るのが良い事、善、美徳だ。

今までも真面目に生きて来たが、救われてまことの神を知るや、
更に真面目に、更に忠実でなければと、信仰生活とは厳しい修業
のように思ってしまう。律法に従うのは、苦しいが、しかし苦し
みは美徳、当然、むしろ苦しいと安心感があったりする。修業し
ている気になれる。特に日本人の気質に合致する。

これらは世の価値観から来ている。しかし、真理と正反対の方向
に向かっている。それは神から出ていない。ここでは割礼の事で
問題となっている。ユダヤ人の慣習である割礼を受け入れて、問
題を起こさないようにと。何かをする事によって、神に、人に認
められよう、受け入れられようとする事は、恵みではない。

それはキリストから離れ、恵みから落ちてしまっていると。信仰
生活は、神に受け入れてもらうための苦しい修業でない。すでに
神に受け入れられ、完全な愛を受けているゆえに、喜んで、感謝
して自由に神に従って行くものだ。

「ねばならない」義務ではなく、「愛によって働く信仰」の愛が
動機であり、自発的な自由意志で主に応答し、従って行くものだ。
そこには苦しみでなく、喜びと平安がある。主を愛する愛がある。
----------
ねばならないと努力する事が救いの条件でなく、もう赦され救わ
れたのだから、努力も頑張りも主に褒めてもらうためにしたい。
失敗すれば主に悔い改め、いつも主に顔を向け歩んでいたい。


2017年09月05日(火)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」マタイ6:33 



「あすのための心配は無用です」とあるが、思い煩いに悩まされて
いるだろうか。くよくよと心配するだろうか。もしああなったら〜、
こうなったら〜と、これから先に起こるかも知れない事を想像して、
不安に駆られ落ち込む。そしてそこから最悪のシナリオが出来上が
る。しかし妄想だ。

現実に起きていないのだから、神も、そんな架空のものをどうする
事も出来ない。先の事は、私達にはいっさいわからない。何も見え
ない。神にしかわからない。しかし、神を信じる私達は、世の価値
観とは全く異なる。明日に恐怖と不安を見るのでなく、神の愛を見
る。明日は、神の愛に包まれ、神のご計画の中にあり、神の御手の
中に堅く守られている。

そこに立ち、そこを見、信じて行く時に、見えない明日に、不安や
恐怖ではなく、平安に守られる。神の愛を信じて歩む時に、思い煩
いの亡霊に惑わされない。そして大事な事が、「神の国とその義を
第一に求めなさい」の通り、神第一を心に据える事だ。神を第一に
せず、自分が第一で、神を後回しにする事から、秩序が狂い、思い
煩いが生じる。

自分を第一にするなら、不安と恐れで、あらゆる事が思い煩いとな
る。自分の肩にすべてがかかり、自分で自分を守らねばならないか
らだ。しかし神を第一にするなら、神が全責任を取って下さる。そ
こから平安と安堵と喜びが来る。今、あなたの優先順位はどうなっ
ているだろう。
------------
私達は明日が分からないから、内側からは不安や恐れが来る。その
中で神を第一にするとき、先の備えや心配で今日を過ごすことがな
いようにと言われる主の御言葉に守られていく。御言葉に生きよう。


2017年09月04日(月)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15



ヘブル書に「あなたがたの先祖達は、わたしを試みて証拠を求め」
とモーセに率いられたイスラエルの民の例が出されている。約束の
地カナンに入るために、出エジプトを果たしたにかかわらず、40
年間荒野をさまよった。

あげく、約束の地に入れずに、20歳以上の者達は皆、荒野で滅ん
でしまった。ヨシュアとカレブと新世代だけが、約束の地に入った。
民達は、エジプトでの災害の奇跡と紅海が二つに分かれた大奇跡を
目の当たりにした。何も無い荒野で水が湧き、マナやうずらが降る
奇跡を見、雲の柱や様々な奇跡を見た。

見たにもかかわらず、尚も神を信じないで、約束の地に入る事を拒
んだのだ。それらの民達を教訓とするようにと警告している。彼ら
は神の言葉を聞いていた。主が乳の蜜の流れる地へ導き入れるとい
う良き知らせを聞いていた。しかし、その聞いた言葉が「信仰によ
って」結びつけられなかったため、何の益も無かった。

斥候の言うカナンの強敵について聞いた時に、神を信じる事が出来
なかった。せっかく苦難のエジプトから神は脱出させて下さったの
に、神への信仰がなく、不信仰のゆえに、荒野で死んでしまった。
私達は御声をどう聞いているだろう。受け止めずに聞き流している
だろうか。拒んでいるだろうか。

神の愛から発した、神の真実な言葉だ。その一言一言に向き合い、
従えるように祈ろう。出来ないなら、そのように告げて、助けを求
めて祈ろう。主が従えるように助けて下さる。
-------------
内からも外からも多くの声が聞こえてくる中で、神の御言葉を、従
いますの気持ちで真剣に傾聴する姿勢が勝利の秘訣だ。御言葉を前
に聞く耳のある者となりたい。


2017年09月03日(日)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらな い」詩篇55:22 


ある人が、主の御心を確信し、海外留学に出た。それが様々想定外
のアクシデントがあり、次の学年に進む頃には、手持ち資金が底を
ついてしまった。必要は必ず与えて下さるはず、とにかく祈った。
各方面の奨学金も問い合わせたが、道が開かれず、「御心を信じて
来たのに、どうして?どうか与えて下さい」と、尚も祈り続けるが、
道は開かれない。

「なぜ?どうして?」焦りと思い煩いで一杯だ。しかし祈りに祈っ
たが、与えられず、道は閉ざされたままだ。すべてを委ねて、これ
が神のご意志と受け入れる決心をした。「自分は最後まで学びたか
ったが、この事を神の御心と受け止め、帰国します」と祈った。す
ると不思議に、イライラや、思い煩いで騒いでいた心に、すうっー
と平安が来た。

その直後、諦めていた奨学金が下りたとの連絡が入った。現地の友
人達が走り回ってくれていたのだ。結果的に、すべての学びを終え、
きちんと卒業し、帰国できた。主の取り扱いであった。教えられた
事は、御心なのだからと、御心を自分の力で行ない、自分で成し遂
げようと、自分が、自分がと必死になっていた事だった。

何もかも自分の肩にかかり、心に平安は全く無く、焦りと、イラ立
ちと思い煩いで一杯で、苦しくてたまらなかった。主は自分自身を
明け渡す事を望まれ、委ねた時に、平安が来て、そしてすべての必
要が満たされた。あなたも今、自分が、自分がと背負っているだろ
うか。委ねる事が必要だろうか。

・・・・・・・・・・・・・
不安と恐れの思い煩いに沈む時に、ふと目を上げると、自分が、自
分が、と自分の肩にずっしりかかっているので、平安が無い事に気
づく。委ねることがなかなか難しい。だが出来ませんと祈って行く
時に、主が委ねられるよう、助けて下さる。


2017年09月02日(土)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10


モーセは、イスラエル人でありながら、エジプトの王子として育て
られた。40歳の時に、モーセは、イスラエル人を救おうとした。同
胞が虐待されているのを見て、エジプト人を殺してしまった。その
事で、遠くミデヤンの地に逃亡する事になった。そしてその何も
無い、荒涼とした原野で羊飼いとして、40年を過ごす事になる。

モーセは、こんなはずではない、何がどうなっているのか、何で自
分が、と思っただろうか。王子としての地位も栄誉も、財も、人脈
も、華々しい栄光を何もかもすべて失ってしまった。余りにも大き
な落差だ。来る日も来る日も、その何もない地で、羊だけを相手に、
40年。

そこでモーセは家庭も持ち、それなりに小さな幸せを得て、落ち着
いた生活をしていただろうか。主はモーセを砕きに砕き、練り、整
え、長い時間をかけて着々と準備しておられた。そんな時、羊を飼
い、やって来たホレブの山で、柴の中に炎があるのに、柴は燃え尽
きない非常に不思議な光景を見た。

「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景
を見ることにしよう」ここで神と出会う事になった。私たちも主に
出会う時、不思議な光景が大いなる光景となって行く。モーセに、
神の大いなるご計画があった。モーセは整えられ、神により用いら
れて行った。今、こんなはずではない、何でこんな事が、の状況だ
ろうか。しかし神にはご計画がある。砕き、練り、整えられて、大
きく用いられて行く。

・・・・・・・・・・・・
人生途上、不意の、突然の思いもよらない事態に遭遇する。何でこ
んな事が自分に、と驚き、怪しみ、わけがわからない。その時には
見えないが、主の愛なるご計画の中だ。全主権を持ち、慈しみ深い
主が「平安と将来と希望」必ず平安の落とし所に着地させて下さる。


2017年09月01日(金)

「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするようにと命じています。ところで、あなたは何と言われますか」ヨハネ8:5 



主を陥れようと、律法学者とパリサイ人が姦淫の現場で捕らえられ
た女性を連れて来た。律法では石打ち刑だが、あなたはどうするの
かと。罪人の友である主、その愛とあわれみはどうなるのかと。主
を窮地に陥れる算段だったが、主は第三の答えをされた。「あなた
がたの内で、罪のない者が石を投げよ」と。

姦淫の女を断罪した人々は、その投げた石が、ブーメランのように
自分に返って来た。罪の無い者が投げよと言われた時、主のその言
葉で自らの姿が映し出された。彼らは罪がわかったから、一人一人
とその場を去った。律法学者やパリサイ人は、自分の姿を見た。し
かし彼らは主の前から逃げたのだ。

だが、姦淫の女性は、逃げずにそのままそこにいた。そして主のも
とにとどまったその女性は、主から全き赦しを受けた。私達はどう
だろう。日ごとに、御言葉に向かう時、自らのありのままの姿が映
し出される。鏡に映るように。メッセージを通して、自分の罪が指
し示される。

自分の醜い、汚れた、自我にまみれた姿を見るのは痛い。心刺され
る。プライドが傷つき、認めたくない。心の引き出しに押し込めた
いし、ふたをして置きたい。私達も逃げるだろうか。しかし逃げな
いでとどまった女のように、映し出された本当の自分を認めよう。
その時に、造り変えられて行く。何より主の赦しと、深い愛を知っ
て行く。
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主のもとに留まったから主から赦しの言葉を受け取る事ができた。
自分の醜さ罪を覚えながら立ち去ってしまえば永遠に後ろめたいま
まだ。主の前に罪を認めることは赦しを受けとる道だ。