2017年10月31日(火)

「民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた」ヨシュア6:20


カナンに入り、難攻不落のエリコの城壁を陥落させるために、主は
不思議な方法をヨシュアに示された。黙って、一日一回町を回り、
七日目に七度回って、大声でときの声をあげよと。常識では考えら
れない方法だった。しかしその通りに従い、最後に時の声を上げる
と、城壁が崩れ落ちた。奇跡が起きた。

見える状況に沿って対処するのでなく、主からの言葉を受け取り、
信仰持って、その通りに従うと、主のみわざを見る。つまり、私達
が主の奇跡を見るのは、自分の方法で、事をするのでなく、どこま
でも御声を聞いて信じて従った時だ。目に見えるところは凄まじい
力がある。サタンは目に見えるところを見せて、恐れさせ、思い煩
わせ、失望落胆させる。

私たちは、いつも見えるところを見て、それがすべてとなり、心囚
われ、支配されてしまう。思い煩い、不安にさいなまれ、落ち込む。
しかし、信仰は、見えるところでなく、御言葉の方を真実とし、御
言葉の方を選び取る。見えるところでなく、御言葉の方を信じる。
見えるところと正反対、常識に合わなくとも、経験値と違っても、
御言葉に従うことだ。

すると、「神が」城壁を崩される。常識であり得ない事が実現する。
今、示されている御心があるなら、御言葉を信じて、一歩を踏み出
そう。御言葉の通りに成就する。見えるところでなく、御言葉の方
を選び、信じて行こう。これは自分がどちらを信じるかの選択だ。
“確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩
んでいます。
------------
信仰によって御言葉に希望を持とうとすると必ず不信仰な思いも露
にされる。いつもその戦いだ。常識や経験ではとても信じられない
かも知れない。けれど主の御言葉が成る。主の栄光を待ち望もう。


2017年10月30日(月)

「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った・・えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った」T列王19:4


               
エリヤは、バアルとの激しい戦いで、大々的な勝利を遂げた。その
エリヤが、イゼベルの殺害の脅しに、恐れて怯えて、逃亡した。あ
れほどの大きな戦いに勝利したエリヤが、何とも信じられないが、
霊的勝利の後は、特に危険と言われている通りだ。特別にサタンの
攻撃と誘惑が来る。安堵しきって、油断してしまう。

勝利の後こそ、身を引き締め、慎み、いっそう主に拠り頼む必要が
ある。あの信仰と祈りで勇敢に戦ったエリヤが、恐れで、自分の命
を救うために逃げ出した。この事の原因はイゼベルの言葉だった。
神の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れてしまった。どの言葉を聞
き、どの言葉を捨てるかは極めて重要だ。

その言葉に自分が影響受け、動かされてしまう。激しい戦いで心身
消耗していたエリヤはイゼベルの殺害命令の言葉に反応し、恐怖を
抱いた。私たちはどの言葉を入れているだろう。神の言葉か、サタ
ンの言葉か。主はエリヤを眠らせ、食事をとらせ、十分な休息を与
えられた。まず身体の回復を与え、ホレブの山に向かわせ、山上で
主の前に立つように命じられた。

激しい大風、地震、火の後に、かすかな細い声があった。エリヤは
その細い御声に耳を傾けた。神はエリヤの間違いを訂正し、新たな
使命を与えられた。死を願っていたエリヤが、神の使命を全うする
ために。再び立ち上がる事ができた。スランプから脱っするために
は、御前に静まり、御声に耳を傾けることだ。主との交わりから、
御言葉から、新しい力が湧き出る。無気力から立ち上がれる。
-------------
心身疲弊してしまうとネガティブな声を信仰で切り離そうとしても
自分ではどうにもならなくなる。外から内から湧き上がるストレス
を遮断できるよう主に今の正直な思いを告げていこう。必ず御霊の
導きにより自分を取り戻せる。


2017年10月29日(日)

「私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』すると、 あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩編32:5


ダビデは姦淫と殺人の重罪を犯した。が、自分は王でありトップだ、
誰も何も言う者はいない。罪を隠しおおして、口をぬぐっていた。
外側はそれで済んだが、ダビデの内側は惨憺たるものだった。一日
中うめき、骨々疲れ果て、御手がのしかかり、骨髄は夏のひでりで
かわききった。平安の全く無い苦悶の中にいた。どんなに苦しかっ
たろう。

神は預言者ナタンを遣わされ、その罪を指摘、ダビデは主の御前に
罪を悔い改めた。この時、ダビデはバテシバのせいにせず、何の言
い訳もせず、責任転嫁せず、自らの罪を真っ直ぐに認めた。プライ
ドもあったろう。王の地位にありながら、悔い改めた事は、ダビデ
の素晴らしいところであった。罪は赦され、ダビデに全き平安が戻
った。

「大水の濁流も、彼のところに届きません。あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれま
す」との喜びが満ちた。罪の解決とは、悔い改めのみだ。幾ら自分
で忘れよう、無かった事にしよう、考えるまいとしても、その苦し
み、うめきはどうにもならない。「私のそむきの罪を主に告白しよ
う」その時、罪はおおわれ、完全に赦された。

私たちもプライドがあり、自我があり、素直に罪を認められない。
認めたくない。しかし、言い訳し、自己正当化している間は、主は
働けない。砕かれた、悔いた心が神の喜ばれる、一番の献げものだ。

・・・・・・・・・・・
アダムとエバは罪が示された時、責任転嫁したが、ダビデは指摘さ
れた時に、自らの罪を認めた。すると、即、罪の赦しが宣言された。
幾らでも言い訳は出て来るし、自己正当化したい。しかし自分を砕
いて罪を認める時、主との関係が回復され、平安におおわれる。


2017年10月28日(土)

「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あ なたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に 帰らせる」エレミヤ29:10


バビロン捕囚は、ユダヤの民にとり、国を追われ、敵地に捕らえら
れて行く事であり、絶望のどん底であり、最悪の事態であった。状
況だけを見るなら、どんなに悲惨な事態だったろう。それは艱難で
あり悲しみであり嘆きであった。しかし、結果的に見れば、それは
将来と平安と希望であった。

なぜならユダヤの民は、捕囚の厳しい試練により、悔い改めて神に
立ち返る事ができたからだ。辛い苦しい試練であったが、信仰を回
復する事ができた。エレミヤの預言通り、70年後にエルサレムに
帰還する事になる。神の大奇跡が成し遂げられる。

「あなたがたのために立てている計画」、バビロン捕囚は、不運で
起きた事でなく、敵による人の手のわざでもなく、神による計画だ
と言われる。それも見えるところは絶望と大混乱にかかわらず、将
来と平安と希望のための計画だと。縦糸と横糸が織りなされて、綺
麗な素晴らしい織物が出来上がるように、神は厳しい艱難の中で練
り込み、御霊と一つにして行って下さる。

私たちにも、突如の試練が降りかかる。ある日突然気がつくと、苦
しい辛い状況の中にいる。しかし、信仰人生で起こる一つ一つの出
来事は、偶然でなく不運なのではなく、すべて神の細部に至るまで、
綿密なる計らいだ。それは「あなたのため」であり、主は「よく知
っている」と。後に、それこそが神の深い愛であることが必ずわか
る。
・・・・・・・・・・・・・
「七十年の満ちる頃」と試練の期間も、神は定めておられる。それ
より短くも長くも無い。不運でなく、相手の手によらず、サタンに
翻弄されているのではない。主の確かな主権と支配の中で、目の前
の事態が与えられている。信仰に立つ時、世には無い平安が臨む。


2017年10月27日(金)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人・・」マタイ7:24


賢い人は聞いた御言葉に従い、実行する。愚かな人は、御言葉を聞
くだけで「実行しない」と言っている。賢い人と同様に聞く事は聞
いている。しかし実行しない。例えば、水泳やピアノはどうだろう。
講義を聞くだけで、泳ぎ方や弾き方のレクチャーを受けるだけで、
身につくだろうか。

音符を学んだだけで、突然、バッハ曲が弾けたなどとあり得ない。
そのためには初歩から地道に練習し、初めて可能となる。身体で実
践しなければならない。同様に、真理の御言葉は「実行する」時、
初めて血となり肉となる。御言葉を頭で理解するだけでなく、実行
する事が大切だ。賢い人も愚かな人も、どちらも「み言葉を聞いて」
いる人達だ。自分で聖書を読み、説教を聞くクリスチャンだ。

しかし、岩の上と砂の上に分かれる。いかなる厳しい試練があって
も、絶対に倒れない人生と、倒れてしまう人生など、天と地ほどに
異なってしまう。「しかもそれはひどい倒れ方でした」とあり、破
壊的倒壊となる。自分の顔を鏡で見て、その場を去るなら、どうで
あったかをすぐに忘れる。御言葉は鏡となり、自分自身の姿を映し
出す。

その時に示しに従わなければ、自分の心をすぐに忘れる。何も無か
った事になってしまう。流されたままで、自分は変わらない。その
場を去らず、「自由の律法を一心に見つめて離れない」なら実行で
きると。御霊は行なう力を下さる。今示されているその事を、その
ままにせず、御霊に助けられ実行しよう
-----------
家の土台は表には現われないから表面は同じように見える。自分の
土台はどうなっているだろう。御言葉を聞いて信じて行おう。嵐の
中にあっても自分を見失わないよう主がしっかりと支えてくださる。


2017年10月26日(木)

「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい」ヤコブ1:3


私達は、様々な試練に出会う。必ず苦しみがあり、痛みがあり、そ
れは御言葉も明言している事だ。「試み」「試練」「患難」「刈り
込み」「懲らしめ」「訓練」「鍛錬」「苦しみ」「悲しみ」数限り
なく出て来る。キリストのかたちへと変えられるために、砕かれ、
練られ、きよめられるために、必ず試練はあるので、それにどう向
き合うかが大切だ。

苦しみにあっては「耐え忍ぶ」事が重要だ。苦しみの中で初めて忍
耐が培われる。ヨブが経験した理由のわからない苦しみや、善を行
っていて尚受ける不当な苦しみがある。又、訓練、鍛錬としての苦
しみ、自分の罪ゆえの苦しい刈り取り、そして主のための賜物とし
ての苦しみがある。

自分の罪のための苦しみは、罪を悔い改めるべきだ。その苦しみは
罪を知らせ、悔い改めに導くために送られている。そして蒔いたも
のを刈り取って行く事こそが、祝福の道だ。刈り取りは訓練となっ
て自分に返り、それをも益とされ、祝福に変えて行って下さる。

他の苦しみは忍耐する事だ。その苦しみを通して、私達は練られ、
鍛えられ、強められ、聖められ、不動の者とされる。その苦しみに
より霊的に必ず一段階成長する。あなたにも今、苦しみがあるだろ
うか。罪ゆえなら悔い改め、そうで無ければ忍耐が求められている。
主が必ず良くして下さると信じる事だ。後に、必ず平安な実を結ぶ。
------------
耐え忍ぶことは、苦しみに抗って何かする事ではなく、主が必ず良
くしてくださると苦しみだけを見ている目を主に向けて行くことで
はないだろうか。祈り、主に日々の苦しみを預けていこう。


2017年10月25日(水)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11


悪魔は、荒野で断食後の主に攻撃を仕掛けた。40日断食し、まさ
に死と隣り合わせの空腹の主に、神の子であり、石をパンに変える
事が出来るのだから、自分でパンを作ればいいではないかと誘惑し
た。「このままでは確実に死んでしまう、神はパンを与えてくれな
いのでは?」との疑いを吹き込む。

「神に頼っていたら、与えられないのでは?」「自分で何とかしな
いと死んでしまよ」と。「人類を救うのに、死んでしまったら、元
も子も無いではないか」あなたにもこの誘惑が来ていないか。「神
に頼っていたら、らちがあかない。まず祈ってなどと、時間がかか
るし、さっさと自分でしてしまえば。

すぐ出来て、スムーズだ、それでうまく行けばいいじゃないか。結
果オーライだ」。「自分でやった方が早い。御心にかなった事なん
だしOKだ」ここで死ねば、元も子もない。自分の使命はどうなる
のか。どうあってもまずパンを食べて、とにかく生き延びる事が先
決だ。

神に頼るなら、あたかも餓死するかのように錯覚させる。「自分で
調達すれば?」<神のため>なんだからと、自分の判断で動き、自
分の力で事を行なうように仕向ける。サタンの巧妙な誘惑だ。しか
しどこまでも神の言葉の下に自分を置いて、従うことが信仰だ。

神はパンを与えて下さる。パンが命を造るのでなく、神の言葉が命
を造る。神への信頼を崩し、自力で動かそうとするサタンの誘惑だ。
祈っていよう。御霊が気づかせ教えて下さる。
-------------
サタンは煽り、祈る間もなく行動を迫ってくるが、必ず御霊も導い
てくださる。御言葉は何と言われているかと信仰に立とう。たとえ
遠回りに見えても主の力で戦うなら勝利できる。


2017年10月24日(火)

「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫をする者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します・・』」ルカ18:11


パリサイ人は、外側の行ないにより、自分は戒めを落ち度なく守っ
ている正しい人間だと言った。不正、姦淫、盗みもしていない、断
食を守り、十一を献げていると。自分は立派な人間と。だが主の基
準は全く異なり、内側を問題とされた。外側、姦淫はしていなくと
も、「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」
と。心の中の事を言われた。

又、殺人は犯してはいないが、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです」
と。心の中で憎むなら、その相手を殺した事になると。相手がいな
くなればよいと思う事は、相手を抹殺している事だと。又、クリス
チャンなら、実際の偶像は誰も拝まない。しかし目に見えない偶像
はどうだろう。生活を保障し、幸せをくれると、富に依存し、人に
依存し、自力に頼る。

又、地位、賞賛を求める・・それらは偶像礼拝だ。パウロは、自分
は正しいと思っていたが、目が開かれた時に「私は罪人のかしら」
と言い、ペテロも目が開かれた時に「私は、罪深い人間」と言った。
自らを罪人と認める時に、主は「いや、あなたは正しい」と、義の
衣でおおって下さる。

又「この取税人のようではない・・」、相手を見下して、裁いてい
る。裁きがある時、自分が見えず、相手も見えない。心に裁きがあ
る時、愛はない。絶えず自らの状態を、御霊の光に照らして頂こう。
御心にかなった道筋へと、導いて下さる。
-----------
自分中心でしか見られない者だということを絶えず思い起こしたい。
自分の内を見るなら正しいに立てる要素がどこかにあるだろうか。
罪からの守りも赦しもただ主から来る。祈って行こう。


2017年10月23日(月)

「取税人は遠く離れて立ち・・自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」ルカ18:13



パリサイ人と取税人が祈るために宮に来たが、二人の祈りは対照的
なものだった。取税人は罪人の私をあわれんで下さいと祈り、パリ
サイ人は、他の人たちのようでない事を感謝しますと祈った。子供
たちの視覚教材で、ハート型に切った紙を使うが、取税人は真っ黒
なハートが真っ白にされて帰った。パリサイ人は真っ黒なハートが
真っ黒なまま帰った。

パリサイ人が来たのは、赦しを受けるためでなく、自分は正しいの
であり、賞賛を求めてであった。自己賞賛で一杯だった。御霊もパ
リサイ人に対しては、方法が無かった。なぜなら、「己の義」とい
うよろいをまとい、自身をしっかりガードしていたからだ。罪の悔
い改めなど、何の関係も無かった。どこまでも自分は正しいのだか
ら。

取税人は恥じ入り、顔も上げられず、遠くに立ち、罪の赦しを祈っ
た。ただただ自分の罪を赦されたく、悔いくずおれ、人の事など目
にも入らない。全く無い。自分と神との関係の中だけにいた。彼の
罪は赦され、真っ白にされ、神の義におおわれた。

「自分は正しい」に立つ時、闇の中だ。自分はどこまでも正しいの
だから、他の者は、間違っているのであり、そんな他の者たちのよ
うでない事を感謝する事になる。まさに闇の中だ。自分はどうなの
だろう。へりくだって、心を開いて、御霊の光のもとに身を置くな
ら、間違いを教えて下さる。闇に、御霊の光が射す時、闇は消える。
------------
自分を義人だとはとても思えない、だからパリサイ人よりましだと
思う自分の中に傲慢がしっかり顔をだす。御言葉は、人ごとで済ま
そうとする罪を照らしてくれる。いつも主のあわれみの中にいたい。


2017年10月22日(日)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になる ことを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17



悩み、問題に会う時、心が動揺する。そしてまず、何とかしなけれ
ばと思ってしまう。そう思う途端、自分の肩に問題のすべてがかか
り、どおっと重苦しくなる。心が暗くなる。そしてどんどん最悪の
シナリオが描かれて、思い煩いに落ち込んでしまう。目の前の悪い
状況に、飲み込まれてしまい、主が飛んでしまうのだが、まず主に
向く事が大切だ。まず祈る事が大事だ。

「主よ」と向くと、ひと息置けて、パニック状態から守られる。あ
る人は会社の突如の倒産に、職を失った。ショックでパニックの中、
主に祈ったところ「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはな
い」の御言葉が来た。先が見えず、恐れに襲われそうな中、心が守
られた。御言葉に支えられ、力づけられて、次の職捜しができた。

同じく倒産に会った別の人も、貯えの無い中、家族を抱え、とりあ
えず当座の必要分を友人に借りようと思った。信頼関係があり、快
く貸してもらえるだろう。しかし主に祈ったその時に、「神の国と
その義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、こ
れらのものはすべて与えられます」と導かれた。

即、友人に借りるのでなく、まず主に求めようと。それで必要が与
えられるようにと切に主に求めた。求め続けていると、古い友人か
ら、昔、借りたお金がやっと返せるとの連絡と共に、まとまったお
金が返済されて来た。全く忘れていたものだった。主が共におられ
るとは何と幸いだろう。

・・・・・・・・・・・・
突如の事態が発生すると、まず何とかしなければと思う。知らず知
らず主が飛んで自分が出ている。思い煩いで真っ暗になる。自分の
力に頼っているから。まず「主よ」と叫ぼう。すると「思い煩う
な」と返って来て、神視点に変わる。信仰的見方に変えられる。


2017年10月21日(土)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があな たがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7


私たちは、悩みや問題にぶつかる。その問題は壁のように、目の前
に立ちはだかる。ああでもない、こうでもないと悶々とし、思い煩
い、その問題に飲み込まれ、囚われてしまう。その最中は、出口の
無い真っ暗なトンネルの中のように感じる。暗闇で何も見えない。
必ず出口があるのに、光が全く見えず、暗闇が永遠に続くように思
える。

苦しくてたまらず、祈るのだが、とにかく苦しみから逃れたいばか
りだ。この苦しみが無くなって欲しい、助けて欲しいのみで、すぐ
に解決をと、もがく。この辛さを何とか取り去って欲しい一心だ。
主に委ねる事だとわかるのだが、頭だけで、一番の問題は委ねられ
ないという事だ。委ねられない、頑なな自我がある。

ある人が苦しい状況に陥り、頭では委ねる事が大切とわかる。そこ
で「委ねます」と祈る。何だか心が楽になった気がする。しかしす
ぐに、ああでもないこうでもないと、悶々と対策を考えている。気
持ちは重苦しい。そこで再度「委ねます」と祈る。しかし思い煩い
は去らず、胸の苦しさも消えない。それを繰り返す中で、初めて自
分は委ねる事が出来ないのだと悟った。

握り締めていて、決して放せない。それで「どうしても委ねる事が
できません。助けて下さい」と祈った。そう祈った時に、今まで
堂々巡りだったのが、委ねる事ができた。すると胸が楽になり、そ
の後、問題解決の糸口が見つかった。

・・・・・・・・・・
委ねることが出来ない事が問題だ。頭では委ねますと思うのだが、
頭だけの話で、頑なな自我がしっかりと握り締めて放さない。本音
は、明け渡したなら、すべてがダメになると思っている。だから自
分が握り締めている。出来ませんと祈ろう。主が働いて下さる。


2017年10月20日(金)

「このおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」U歴代20:12 



敵であるモアブとアモンが攻めて来た。ヨシャパテ王は、全国に断
食を布告し、一途に主を求め、祈った。この絶体絶命の状況を、主
に訴えた。すると主はヤハジエルを通して語られた。この戦いは神
の戦いであり、主が共にいるから、恐れず出陣せよと。

これを聞き、ヨシャパテはひれ伏して、礼拝し、主を賛美した。主
の言葉を信じ、歌う者たちが賛美をし、喜びの声、賛美の声をあげ
始めた時、主の言葉の通りに、敵は全滅し、奇跡的勝利を与えられ
た。まさに主の働きであった。私たちもどうだろう。問題だけを見
ていると、思い煩いと不安に飲み込まれ、敗北してしまう。

又、その問題を逃げても、又必ず同じ問題にぶち当たる。しかし、
ヨシャパテのように、まずその問題を主の前に差し出し、主に祈る
ことができる。自分で戦おうとせず、主に告げて、委ねよう。単に
問題の解決だけでなく、その試練を通して、砕かれ、練られ、造り
変えられて行く。そこが重要だ。

主は祈りに答えて、御言葉を示し、指針を与えて下さる。その言葉
を信じ、感謝をし、賛美して行く時、主が戦われ、勝利を受け取る。
御言葉を信じて、感謝を献げることは信仰だ。目の前の状況に主を
認めることになる。その信仰を受け取り、主が力強く働かれ、みわ
ざをされる。
-------------
信仰が働くと思い煩いを消し、問題の中でも賛美する事ができる。
なんという力だろう。不安で目の前に助けが欲しいと探すが、助け
は主から来るとそこに立っていよう。


2017年10月19日(木)

「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7


求めよ。そうすれば与えられると、主は求めよと言われる。そして
求めを喜ばれ、求めに答えて下さる。すべての祈りに耳を傾けてい
て下さるが、しかし、すべての祈りが答えられるのではない。御心
にかなった願いだけが叶えられる。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを
聞いてくださる・・神に願ったその事は、すでにかなえられたと知
る」の通り、御心にかなった願いは、100%叶えられることになる。
神の御心がよくわからない時は、とにかく祈って行くと、神が祈り
を軌道修正して導いて下さる。

自分でも気づかぬまま、自分の欲のため、自分の栄光を求める祈り
だったり、肉の思いだったり、的はずれな祈りだったりする。しか
し、祈りがわからない者を正しく導いて下さる。祈りの中で、祈り
が変えられて行く。御霊により動機が照らし出されて、主のために
と思っていたが、実は自我から出たものだと気づかされる。

ある人は、主に従おうとする中で、未信者の家族からの強い反対に
会った。迫害だとばかりに、信仰の戦いだと思っていたが、祈りの
中で、信仰ではなく、自分を通そうと意地になっている自我を示さ
れた。とにかく祈る事が大切だ。祈りを正しく修正して、御心にか
なった祈りへと導かれる。

そして、どんな場合でも、思い煩い、不安、嘆き、悲しみ、苦しみ
・・ことごとく主のもとに委ねる時、人のすべての考えにまさる平
安を与えて下さる。まず心が落ち着いて行く。
------------
与えられるものは、自分の求めているものでないかも知れないが、
主は次の一歩をくださる。何のために求めていたのか、的外れでは
ないのかと。主に求めよう。


2017年10月18日(水)

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」マタイ28:20


ある婦人の証しだ。クリスマス会を婦人たちの家を持ち回りで行っ
ていた。彼女の家はどうかとの打診を受けた時、とっさに「その日
は仕事!準備ができない」と答えてしまった。しかし「神様ごめん
なさい」だった。実は、家の片づけ掃除、準備が面倒で回避したか
ったのだ。とっさに出た言い逃れだった。

やがて当日、仕事が入って、それも大変忙しく残業だった。ああク
リスマス会の日に、残業だなんて。みんないいなあ、楽しくやって
いるんだろうなと、さえない思いで一杯だった。そんな時、ふと突
然、「あ!神様だ!」と感じた。主は、自分が言った事が嘘になら
ないように、その日仕事にして下さったのだ。主のあわれみだと。

するとその瞬間まで、沈んでいた心が、あったかくされ、主と共に
温もりの中で、残りの仕事ができた。全く心が変えられた。何をし
ているかではなく、共におられる主、それが私たちの喜びだ。喜び
はそこから来る。何をしているかは問題ではない。小さな単調な仕
事であれ、多くの人々に影響を与える大きな仕事であれ、主が共に
おられるかどうかだ。

毎日同じ事の繰り返しの平凡な日々、しかしそこに主が共におられ
る。それを意識する時に、単調な日々に御霊の喜びが来る。又、厳
しい辛い試練の時、主が共におられるとは、何と慰めであり、支え
だろう。それが救いとなる。主が共におられるのであれば、恐れる
ものはない。今も主が共におられる。意識して今日も歩もう。
----------
自分という限定された世界でいつも思い煩ってしまうが、主と共に
今を見ていよう。主はいつも想定外の励まし、喜び、希望、慰めを
もって今日を支配してくださる。心配することは何もない。


2017年10月17日(火)

「『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ』しかしヨナは、主の御顔を避けて・・」ヨナ1:1


ヨナは神からニネベに行くよう命じられた。しかし、ヨナはニネベ
には行きたくなかった。それで何とか避けて逃げようとすると、丁
度そこにタイミング良く、反対行きの船があった。それでそれに乗
り込んだ。私たちも、御心を示されているが、嫌で、したくない事
があるかも知れない。

逃げたいとの誘惑が来る。そんな時に丁度、別の魅力的な事柄をあ
ると、そちらに誘惑されてしまう。ある人は、高給の転職の誘いが
来た。だが、今の場所を動くべきではない、今の場が主の御心だと
わかっていた。しかし、高給と自分の能力を発揮できるとの誘惑に
は勝てず、転職に乗ってしまった。

その結果、高給なだけあり、膨大な仕事量に心身すり減らし、体調
も崩してしまい、神のための時間も持てず、離れてしまった。幸い、
後の日に立ち返れたが、多くの苦しい刈り取りがあった。御心だと
わかりつつ、ぐずぐずしている時、丁度そこに反対方向の船がある
ものだ。ピッタリの誘惑が来る。サタンの誘惑をわきまえよう。

逃げることは「主の御顔を避ける」ことになる。主の御顔の光のた
だ中を歩む方がどんなに幸いだろう。主に従おうとする途端に、サ
タンの妨げが来る。いつも心していよう。今、逃げたい誘惑がある
なら、その事をまず主に告げよう。主が御心を行なえるよう助けて
下さる。
-----------
御心とわかっていても、素直に従えず主の御顔を避けていたい時も
ある。主はその思いも受け止めてくださる。平安が無いのは、真逆
の船を探しているのではないか。逃げたい思いを正直に祈ろう。


2017年10月16日(月)

「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう・・うるさくてしかたがない」ルカ18:5



この人は裁判官だが、神を恐れず、人を人とも思わない人物だ。し
かし、裁判官であるという事は法律に乗っ取って裁くという事だ。
人格的には、人を人とも思わないような人だが、やもめが余りにう
るさいので、これ以上対応が面倒なので、裁判をする事にした。

ここでは、こんな人でも、やもめがうるさいからの理由で、裁判を
するのであれば、ましてや完全な愛と完全な義を持つ神が、正しい
裁きをされずに、いるわけがないと言っている。こんな人格的に問
題のある裁判官でもそうするのだから、対比して「ましてや神は」
という事を言っている。

完全な愛により、常に私達の最善を考えて下さっている神なのだか
ら、失望は決してあり得ないと。祈りの執拗さ以前に、祈る相手が
どんなお方かが肝心で重要だ。神はすみやかに正しいさばきをして
下さる。「パンを三つ貸してくれ」としつこく頼み続けて、パンを
得た人も、友達だから愛情のゆえにくれたのでなく、執拗さのゆえ
に勝ち取った。

ここでも、重要なのは、だが神はそうではないという事だ。うるさ
いからでなく、子だから良いものを下さると言っている。だからこ
そ神に、失望する事なく信頼し続ける事ができる。ガンガン祈るか
らではなく、極みまで愛し、必要をご存じで、祈りに答えようと待
ち構えていて下さる主。その主に信頼して祈れるとは、何と私たち
は幸いだろう。
-------------
ヤコブのように格闘する祈りもあれば、失望へ向かいそうな心や迷
う時、恐れが来た瞬間など一瞬一瞬が祈りの時だ。しつこいほどに
絶え間なく祈っているだろうか。


2017年10月15日(日)

「すべての事について、感謝しなさい」Tテサロニケ5:16  


                     
厳しい試練が臨み、心が痛み、苦しい状況に陥る時、「こんな中で
感謝なんて無理、どこが感謝なのか。感謝などではない」と思う。
しかし真理なる御言葉は、どう言っているだろう。感謝できるから
感謝せよ、とは言っていない。又、ハピーな事には、感謝せよとも
言っていない。「すべての事について」と言っている。

そして喜べる時は喜べ、とは言っていない。「いつも」喜べと。な
ぜ感謝できるかと言うと、信仰者はすべての事に神の主権を認める
からだ。一つ残らず神の支配を認め、神には目的があり、計画があ
り、意図を持っておられる事を信じるからだ。無意味な事は一つも
なく、無駄も無い。

私たちを砕いて、聖め、成長させるためだ。様々な気づきを与え、
教えるためだ。実はもっと危険な状態に向かう事から、救うためだ
ったりする。試練によりどれほど高慢から守られた事だろう。人か
らの批判を受けた時、肉は相手を憎み、恨み、復讐心が湧き上がる。
しかしそれにより平安が全く失せ、喜びは無くなり、心は悶々状態
で、辛いばかりだ。

「感謝したくないですが、できるよう助けて下さい」と気持ちをそ
のまま祈って行こう。感謝できないが、しかし意志を向けて、感謝
を選び取ろう。「感謝ではないですが、感謝します」と。その選択
を祝福して下さる。すると不思議にまず心が変えられて、やわらい
で行く事を経験する。愚痴、不満の中にいても何も変わらない。真
理の言葉に従ってみよう。

・・・・・・・・・・・
負の状況の時に、感謝して、感謝して行く時、心が変えられた事を
何度も経験して来た。感謝する時、サタンの足場を崩してしまう。
サタンがそこに来れなくなる。信仰による感謝には、計り知れない
力がある。苦しい時こそ「感謝」に目を向けよう。みわざを見せら
れる。


2017年10月14日(土)

「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。 それで、そこはマラと呼ばれた」出エジプト15:23


苦難のエジプトを脱出したモーセと民は、荒野を3日歩き続けた。
炎天下で水が無かった。民はのどがカラカラで死にそうだった。そ
んな人々の心は、大歓喜から一転、失望落胆、嘆きに変わった。そ
の時マラで水を見つけた。歓喜に湧いたが、しかしその水は苦くて
飲めなかった。それで「マラ」=「苦いもの」と言った。

人々は落胆して、不満を、怒りをモーセにぶつけた。あの3日前の、
主への大きな感謝は見事に吹っ飛んでしまっていた。手の平を返す
がごとくだ。そこでモーセがした事は、まず神に向かう事だった。
民への対応でなく、まず神に叫び祈った。すると一本の木を示され、
それを投げ入れるや、苦い水が、何と甘くなった。

私たちも日常で、何か起きると、不安、思い煩い、恐れ、又不満、
怒りに襲われる。それが苦い水となって、心の中に苦みが渦巻き、
溜まって行く。主が一本の木を備えられたが、それは私たちにも備
えられた主の十字架だ。苦い水を、人がどうやっても、甘くはでき
ない。心の苦みはどうにも出来ない。

十字架が、その苦みを甘みに変えてくれる。人への怒り、憎しみ、
赦せない思い、そんな苦みが、十字架の愛、赦しの下でのみ、甘み
へと変えられる。今、不満や怒りのマラにいるだろうか。主の十字
架が解決だ。十字架から赦し、癒しが流れて来る。苦みが、甘みに
変えられる。十字架をじっと見つめて祈ろう。

・・・・・・・・・・・
理不尽、恨み、怒りが、じっと主の十字架のもとにいる時に、心が
変えられる。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしてい
るのか自分でわからないのです」と。又、嘆き、思い煩い、不安、
恐れも、主の十字架じっと見る時、平安へと変えられて行く。


2017年10月13日(金)

「・・わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63



ある人が、厳しい試練の下にあった。余りにも辛い日々に、心は押
しつぶされそうで、もう御言葉を読むことも、祈る事も出来なかっ
た。気力が無かった。神がいる事はわかるのだが、自分は祝福され
ていないと思い込んだ。他の人々がとても幸福そうに見えた。自分
は惨めで、心が滅入り、落ち込んだ。しかし、主に在る人たちが、
自分のために祈ってくれていた。

しかしそこにすら思いが行かないほど、もういっぱいだった。声か
けや御言葉で励ましてくれた。後で振り返ると、苦しい中も、周囲
が送ってくれる御言葉で生かされていた事に気づく。ある時、牧師
夫人と遠方の友人からの励ましの手紙に、全く同じ御言葉が書かれ
ていた。その時、これがまさに主からの、自分への言葉と受け取れ
て、自分への御心と信じることができた。

素直に受け入れる事ができた。その時から倒れていた自分が、起き
あがる事ができた。又、ある人は、非常に辛い試練の中で、心身弱
り果て、もう考える事も、祈る事もできず、何もどうにもならなか
った。心は沈むばかりで、聖書を読む事もできず、ある時、聖書を
パラパラと見ていた。読むのでなく、ただぼうっ〜と、見ていたと
いう状態だった。

しかし、驚いた事に、そのぼおっと見た言葉が、突然、心に響いて
来たのだ。無気力な心に、主が臨んで下さった感じだった。御言葉
により再び立ち上がることができた。どんな時にも、私たちを生か
してくれるのは御言葉だ。主は悩みの時に、御言葉を与えて下さる。
-----------
自分から神のもとに行けない時であっても、恵みは追いかけて、い
のちの御言葉で引き寄せてくださる。こうしていつも御神に結び付
けられて生きられる。感謝だ。


2017年10月12日(木)

「わたしは人からの栄誉は受けません」ヨハネ5:41


「偽善」とは、「役者」という意味がある。役者とは、つまり本当
の自分ではなく、舞台で演技をする人のことだ。全く違う自分を演
じている。仮面をかぶり、台本の通りに、芝居をし、演技する。そ
の演技を、台本通りに舞台上でなく、普通の日常生活で行なう人を、
偽善者という。宗教が、信仰が、お芝居になる。

本来の役者は、演じているとわかって芝居している。しかし偽善者
は演じているとは思っていないで、演じている。そもそも演じるの
は、「人に見せるため」だ。「彼らのしていることはみな、人に見
せるためです」のごとく、天の御父にほめられるためでなく、人に
ほめられるために、賞賛を得るために演じる。それを偽善と言う。
それは虚栄心から来ている。

私たちにもあるだろうか。御父のためでなく、人に見せるために、
人にほめられたいがために、人前で善行をする。しかしそれは主が
「白く塗った墓」と言われたように、外側は正しくて立派に見えて
も、内側は、偽り、欺き、醜い罪でいっぱいだ。どんなに人に認め
られ、賞賛されたとしても、神からの評価はゼロであり、そこに信
仰が成り立たないとある。

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたが
たは、どうして信じることができますか」と。人からの栄誉を求め
る時、神の愛が無いと。人の賞賛を求める根深い思いがありますと、
祈って行こう。主が祈りに答え、導いて行って下さる。
-------------
人を意識した善行は、唯一の神からの評価は受けられないとはっき
り宣言されている。人からの栄誉で満足してしまうときは要注意だ。
欺かれないように目を覚ましていたい。


2017年10月11日(水)

「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる」箴言12:22


なぜ人は嘘をついてしまうのだろう。まず虚栄心から来る。自分
をよく見せようとの見栄のためだ。人に自分をよく見せたい。良
い人に、能力があるように見られたい。評価されたいし、認めら
れ、人からの賞賛が欲しい。その欲望は、本当の自分を隠して、
本来の自分より良く見せる。

アナニヤとサッピラは、バルナバが畑を売って、代金を献げた時
に、皆の賞賛を受けるのを見た。その賞賛が欲しかった彼らは、
持ち物を売った代金の部分を持って来て、あたかも全部献げた振
りをした。しかしそれは偽りであった。ペテロは、アナニヤに、
サタンに心を奪われ、聖霊を欺いたと罪を指摘した。

後で現れたサッピラも同じように偽り、二人共息が絶えた。自ら
を信仰深く見せようとした偽りであり、欺きであった。嘘はサタ
ンから来る。サタンこそが偽りの父だ。信仰生活に嘘が入ると、
信仰が破綻する。彼らは一部ですと献げれば良かったし、悔い改
める事ができた。

又、真実を言うと都合が悪い時に嘘をつく。サウル王は、アマレ
クを打ち、すべてのものを聖絶せよとの命令を受けた。が、最も
良いものを惜しみ、値打ちの無いものだけを聖絶した。それをサ
ムエルに問い詰められた時に、民がそのようにしたと、嘘をつき、
民のせいにした。自分を守るためだった。

嘘をつくと、嘘の上塗りをして行く事になり、何重にも罪を犯
す。そして隠れた事は必ずあらわにされる。「良く見せたい者で
す」「保身に走る者です」と主の御前に真実でいよう。主が変え
て行って下さる。
---------
真実な神の前に嘘をつく必要はなく、虚栄によって自分自身が欺
かれないよう、自分の姿を直視できるよう、いつも弱い自分を素
直に差し出していたい。自分の足りなさを祈ることこそ優先だ。


2017年10月10日(火)

「あなたがもし、不義に目を留められるなら・・だれが御前に立ちえましょう。しかしあなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」詩篇130:3


ある夫妻の子供が、未熟児で出生後、育たずに亡くなった。医療も
今のようでは無かった。しかし夫は、悔いに胸がふさがれた。非常
に若くして結婚したので、まだまだしたい事も多く、遊びたくもあ
った。そのため内心、妻の妊娠を喜べなかった。あのスポーツ行事、
この旅行も〜キャンセルしなければならない。

数々の制約に、子供はもっと先で良かったのに、との不満で一杯だ
った。そのため、子供が亡くなった時、子供が死んだのは、自分の
せいと、自分をひどく責めた。幾ら周囲が慰めてくれても、そのと
がめ、罪責感は消えず、苦しみはどうにもならなかった。その後、
主に出会い、悔い改めが与えられ、心の苦しみ、とがめ、辛さ、思
いの何もかもを吐き出して行った時、初めて心の平安を経験した。

「子よ。あなたの罪は赦されました」の言葉が響いて来た。あれほ
ど苦しかった心に安らぎが満ちた。ある人は、辛い対人関係があり、
余りに辛く当たられ続け、それは内に憎しみとなって積もった。決
して表には出さないが、心は憎しみで一杯で、どす黒く、重苦しく、
自分が辛くてたまらなかった。

主は、少しづつ〃手を取って導いて下さり、悔い改めが与えられた。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方
ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ
います」と赦しの確信が与えられた。あの胸の辛さと苦しみが、き
れいに消え去り、心に喜びが来た。
---------
御神が私たちの罪に目を留められるなら、誰が御前に立っていられ
るだろう。主の贖いにより豊かな赦しが備えられている。苦しみの深
い淵より主は引き上げてくださる。


2017年10月09日(月)

「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」ヤコブ3:2


聖書には、舌について、多くの戒め、勧めが出て来る。普段どうだ
ろう。余り考えずに、言葉を次から次ぎへと発しているだろうか。
舌にはよくよく注意を払って、気をつけるようにと言われている。
「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。
人から出て来るものが、人を汚すものなのです」とあり、人の口か
ら出る言葉は、人を汚してしまう。

「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人
の舌は人をいやす」ともあり、言葉は人を刺し殺すことも、人をい
やして、建て上げることもできる。舌は両刃の剣だ。「軽率」も気
をつけよう。「知恵ある人の舌は、人をいやす」、相手をいやす事
ができたなら、どんなに幸いだろう。

「あざける者たちは町を騒がし、知恵のある人々は怒りを静める」、
知恵のある人は、人の怒りをも静める。その知恵はどこから来るの
か。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されて
いるのです」「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に
平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち・・」、

この知恵はキリストにあり、上からのものだ。人をいやすのは、主
からの言葉、上からの言葉だ。御霊に導かれ、発せられた言葉が、
人をいやして行く。まず自分自身が日々、御霊に従い、導かれて行
く時に、そのように用いられて行く。
-----------
制御されない肉が舌によって表に現われ、人に影響を及ぼしていく。
恐ろしい器官だ。神だけが人には手に負えない舌を制御される。上
からの知恵を求め、肉ではないのかと吟味していこう。


2017年10月08日(日)

「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受け ても黙っている」箴言12:16


ここでは、主やパウロのような義の怒りでなく、自我からの怒りを
見てみよう。御言葉は、「怒り」をすぐに現わす人は、愚かだと言
っている。「怒り」は自制する必要があると。対人関係で、人から
批判されたり、敵対され攻撃されたり、悪口を言われたらどうだろ
う。面と向かって、人格攻撃されたりすると、カッとなって、即、
感情を爆発させ、激怒するだろうか。

どんな状況であれ、怒りを、即、現わすなと言っている。批判され
て、いかに傷ついたとしても、とにかくは、黙っているようにと。
怒りがある時の言葉は、非常に感情的になる。制御できない。売り
言葉に買い言葉、双方エスカレートすると、その場の激情で、思っ
てもいない事まで言ってしまう。本心でない言葉まで飛び出す。

そして一度口から出た言葉は、取り返しがつかない。ひどく相手を
傷つけてしまう。どうしても遺恨が残り、これで失敗した人は多い。
言葉は取り返せない。長年かけて築き上げた信頼関係が、一瞬にし
て崩れ去る。周囲で耳にする。又、自分が間違っていると指摘され
た時はどうだろう。まず自己弁護したいし、又、自分を正当化した
い。自分にも言い分があり、その腹立たしい思いが、攻撃になって
しまう。

「自分が正しい」と思っているので、すぐ怒りとなる。だが、それ
も後で後悔する事になる。はずかしめを受けても、とにかくは黙り、
まずはワンクッション置こう。そして自分の心の内を御霊に探って
いただこう。自分が、怒る原因は何なのか。プライドなのか、何か
過去の心の傷に触れるのか・・御霊は示し、教え、霊的成長へと導い
て下さる。

・・・・・・・・・・・
一旦、口から出た言葉は、取り返しがつかない。いつも「口に見張
りを置き、私のくちびるの戸を守って下さい」と祈る必要がある。
感情的になっている時は、気をつけよう。その場で黙るだけで、罪
を犯す事から守られる。言葉が守られるよう祈っていよう。


2017年10月07日(土)

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。そ れは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」ローマ 8:7 



この御言葉によると、私たちの内にある肉は、神に反抗するとある。
肉は、神を求めず、反抗すると。そんなものが、自分の内にあると
知っておくことは大切だ。だから、砕かれる必要がある。肉は、自
分が中心だ。自分の思い、自分の考え、価値観が大切だ。しっかり
握って、捨てることをしない。自分を軸に、回して行こうとする。

御言葉を聞く時も、いつも同時に自分の思いが来る。御言葉をこと
ごとく自分の思いをもって相対する。「愛されている」「そんなは
ずはない」「必要は満たされる」「満たされるなど、どうやって?
信じられない」「神は導く」「見たところ無理だ」・・。自分の思い
が、御言葉をはね除け、御言葉を捨ててしまう。

「みことばをあなたがたの内にとどめていない。父が遣わした者を
あなたがたが信じないからだ」の言葉の通りだ。なかなか御言葉と
同時に来る、自分の思い、肉の思いに気づかない。いつもそうなの
で、意識する事もない。御霊は気づきを与えて下さる。御言葉をど
のように聞いているか、御霊に心探っていただこう。

絶えず肉の思いの方を選び取っていることに、気づかせられる。そ
こで悔い改め、ありのままを祈って行こう。「愛されていると思え
ません」「必要が満たされると信じていません」「導かれると思え
ません」・・・その時、必ず主から次の展開へと進ませられ、自分が
変えられて、導かれて行く。

・・・・・・・・・・・
御言葉を聞く時、意識していると、正反対の思いが出て来るのがわ
かる。「ほんとうに?」背後のサタンが、肉の思いと一つになって
逆の方向へと誘う。疑いも、不信仰も、あるがまま主のもとへ祈り
に持って行く時に、主が働かれ、信仰へと変えられて行く。


2017年10月06日(金)

「サウルは言った。『私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民と長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください』」Tサムエル15:30


サウルは、アマレクとの戦いで「すべてのものを聖絶せよ」との主
の命令を受けた。しかしどうでもよいものだけを聖絶し、最も良い
ものを惜しみ、残した。サウルが主の言葉に従わず、主の言葉を退
けたので、主もサウルを王位から退けられた。サウルは、罪により
主との関係が絶たれてしまった。

その時にサウルは「罪を犯しました、しかし私の面目を立てて下さ
い」と言った。が、これは罪の悔い改めではない。外面、自分の体
裁、体面を守るためのもので、悔い改めではなかった。私たちも、
罪とは人前で体面を失う事と考えていないだろうか。それなら人前
で面目を保てば良しとなる。何の問題もなくなる。

だが、そうでなく、人は全く関係なく、罪とは、まず神と自分の間
のことだ。その後、サウルはペリシテとの戦いで、主に伺いを立て
たが、主は何も答えられなかった。それでサウルは霊媒へと向かっ
た。まず主との関係が大切で、その修復がなく、悔い改めが無いの
に、伺いを立てても、答えが無いのは当然だ。

神との関係が何よりも肝心だ。ダビデは、姦淫と殺人という重罪を
犯したが、「私は主に対して罪を犯した」と、主に心底悔い改めた。
ダビデが罪を犯したのは人に対してであった、直接的には人であっ
たが、実は、主に対する罪であった。同様に、人を憎む時、妬む時、
主に対して罪を犯している。悔い改めにより、神との関係は回復さ
れる。今、あなたと神との関係はどうだろう。
--------------
サウルの愚かな高慢に学べる。神と自分との間に何も置かず、真っ
直ぐに向き合えることが何より大切だ。聞きたい御言葉を選別して
悔い改めの導きを逃してないだろうか。


2017年10月05日(木)

「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません』と言った」ヨハネ2:2



カナで結婚式が執り行われていた。そこに主が出席されていた。弟
子たちも主の母マリヤもいた。その結婚式の最中に、ぶどう酒が無
くなってしまった。当時の結婚式に、ぶどう酒は無くてはならぬも
のだった。結婚式では、人々はぶどう酒を心行くまで飲み干し、結
婚式を喜び楽しんだ。

途中で無くなるなど、あってはならぬ事態で、花婿花嫁の顔は丸つ
ぶれだ。心配したマリヤは、すぐ主のもとに行き「ぶどう酒があり
ません」と告げた。私たちはどうだろう。不安な事態が起きると、
思い煩いに落ち込むだろうか。

不安と恐れにさいなまれ、心が真っ暗になるだろうか。また、何と
かしなければと、即、動き回るだろうか。あるいは周囲を巻き込ん
で、騒ぎ立てるだろうか。マリヤのように、思い煩うのでなく、騒
ぎ立てるのでなく、動き回るのでなく、すぐに主のもとに行こう。
祈りに持って行こう。

結果的に、主はみわざをして下さった。主は時を備え、主が解決へ
と導いて下さる。マリヤは主を信じ、委ねた。だから手伝いの人々
に、主の言われる通りにするようにと告げた。主が御心を成し遂げ
て下さると信じた。最高のぶどう酒が振る舞われた。

今、目の前に極めて不安な事態があるだろうか。思い煩わず、動き
回らず、まず主のもとへ持って行こう。そして主の委ね、信じて待
とう。主が動き、働き、みわざをして下さる。
---------------
最悪の状況では最悪のシナリオしか浮かんで来ないだろう。そこで
主を呼ぼう。いく度も最悪の後に主の助けを得てきた。悩み動く前
に主を呼び祈ろう。


2017年10月04日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17



主が私たちを用いられるために、砕きを通される。聖書の様々な箇
所で学ぶ事ができる。ヤコブの息子ヨセフもそうだった。12人の
息子の中で、特別に可愛がられた。えこひいきだ。そのため、他の
兄弟たちはひどく妬み、ヨセフを憎んだ。殺害を思いとどまり、奴
隷として商人に売り飛ばした。

家族から離され、誰も知った人のいない異国の地へ。しかし、主は
そこでヨセフを砕かれ、練られ、訓練され、整えて行かれた。奴隷
から囚人にまで、波瀾万丈を経て、総理大臣にと立てられ、結果的
にヤコブ一族の命を救う事になった。紆余曲折の中でヨセフは砕か
れた。

モーセも王子として育ち、あらゆる学問を学び、文武両道、地位、
名誉、富、人脈、何もかもを持っていた。自分の力に満ちていた。
そのモーセは逃亡の末、荒野で羊飼いとなり、40年の歳月を過ごし
た。モーセは砕かれた。そんなモーセを主は大きな働きのために用
いられた。主は必ず器を砕き、へりくだらされ、身を低くさせられ
る。間に合う器に整え、用いられる。

しかしその時、自由意志を妨げられる事はない。強いられない。も
し従うならそのようにされ、拒むならされない。主の恵みの砕きが
ありながら、心を固くし、頑なになり受け入れない事もできる。そ
の時、ますます心は固くなってしまう。様々な痛い事態は、砕きと
受け止めよう。必ず一歩一歩成長を遂げて行く。
-------------
主は長い時をかけて成長させてくださる。感情はまっ先に避けて通
れと言うが、御言葉を思い起こす時、問題は自分のためと受けとり
直せる。一歩一歩目の前の事に主を見て歩もう。


2017年10月03日(火)

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3


争いが起きた時、確かに相手に非があったかも知れない。しかし
「あなたが間違っている。あなたのせいで問題が起きた」と、相手
の目からちりを除こうとすると、事は、更に悪化し、心の糸がから
まり、混乱し事態はぐじゃぐじゃになる。経験ないだろうか。

相手のちりを見つけた時こそ、実は、まずこちらがへりくだること
だ。御霊と共に、自分をよく省みて、自分にも非がなかったか、反
省すべき点がないのか、よくよく御前に静まり祈って、御霊に照ら
される事が大切だ。自分の目の中に梁があると言っている。

「おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れ
ると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れ
ることではない」と。へりくだって、自分を省みる時、「まず自分
の目から梁を取りのけ」るなら、その時、はっきり見えるようにな
る。そして、へりくだって、愛によって、相手のちりを取り除く助
けができる。

目のようなデリケイトな所は、触れようとした瞬間、相手は閉じる。
不用意に、祈りもなしに、こちら側の霊的整えも無しにできる事で
はない。梁は大きな材木、ちりは目に見えないほど微少のほこりだ。
まず批判的な、裁く心が大きな材木だ。

相手が悪いからと思っているが、実は自分の思い通りでないから、
裁いている事が多々ある。愛とへりくだりが無ければ、必ず泥沼に
なる。まず自分を主の御前で御霊に探って頂こう。そうする時、整
えられ、今度は相手のちりを除くために、用いられる。
------------
相手のちりが見えたとき、冷静に自分自身をふり返れたなら感謝だ。
人の事をとやかく言える立場ではない自分に気づける。へりくだり
いつも主の前に自分自身を省みていたい。


2017年10月02日(月)

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました」マタイ2:2 


主の誕生後、東方の博士たちが旅をし、主を礼拝するためにエルサ
レムに到着した。ユダヤ人の王はどこで生まれたかと聞いた。星に
導かれてやって来たと。ヘロデ王はそれを聞いて恐れた。新しい王
が誕生するとは、自らの地位が危うくなる事であり、恐れるのはわ
かる。しかし「エルサレム中の人も王と同様であった」とある。

ヘロデが恐れるのはわかるが、なぜエルサレム中の人々も恐れるの
か。彼らはヘロデなど、どうという事なく、真の王と認めているわ
けではない。逆らえば、身に危険が及ぶから、言うことを聞いた振
りをしている。脅威でも何でも無かった。だが新しい王の誕生は脅
威であった。恐れと不安を抱いた。

神から遣わされた王なら、真の王であり、自分たちは真実に従わな
くてはならない。今の生活も状況も乱されたくない。変えたくない。
私たちは、肉があり、古い罪の性質がある。それは本質的に自分が
王であり、主人でありたい。自分の上に「主」を置くのが嫌なのだ。
従いたくない。

ヘロデになら、形だけであり、心では自分が王であり主人だ。しか
し真の王は違う。私たちはどうだろう。私のために命を捨てられた
主を前に、自分が王であり続けるか、御前にひれ伏して、主に王座
に来て頂くか、どちらかだ。民は、今のまま何も乱されず、安泰で
いたかった。変わりたくない自分に気づかされるだろうか。
------------
真の王は、自己中心が心地よい私たちを良くご存知で、でも変わり
たいとの思を喜んで導き続けてくださる。この闇の世に真理の光を
知って歩めるとは何と幸いなことだろうか。


2017年10月01日(日)

「 主はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおま えの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』」ヨブ 1:12



神は、私達の生涯に計画を持っておられる。私たちが現状より、更
に神に近くなるようにと、人生の嵐に遭遇することを、あえて許さ
れることがある。平穏で良好な日々を過ごしていたのに、ふと気づ
くと、なぜか突然、問題と困難の中に巻き込まれている事がある。
突然、一体何がどうなったのか。戸惑い、不安、恐れに襲われる。

何で、こんな事になっているのだろう。わけがわからないまま、苦
しい状況に陥っている。経験あるだろうか。こんなに辛く苦しいの
に、主はご存じなのかと思ってしまう。しかし、ヨブを通して学ぶ
ことができる。ヨブも平穏な生活の中で、突如の試練に会ったが、
特別な目的があった。

神はヨブの信仰を認めておられたので、サタンからヨブの信仰を試
すという申し出があった時に許された。神はヨブを信頼しておられ
た。サタンは、ヨブが主に従っているのは、見返りがあるからだと
言った。そうでなければ、従うはずなど無いと。しかしヨブはその
サタンの主張を砕いてしまった。

神はあなたも認めておられるから、サタンの試みを許されたかも知
れない。神はあなたを信頼し、見守っておられる。親が、子供の手
を引いていて、子供が石につまずいて転びかけると、ぐっと手に力
を込め、強く握り倒れないよう支え、守る。試練の時には、主の特
別な愛と支えが、あなたの上にある。主は必ずあなたを守られる。

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サタンも働いて来るし、襲って来るが、サタンをも支配しておられ
る背後の主は、全主権を持っておられる。サタンをも利用して、私
たちの益とされ、成長のために用いられる。すべては私たちのため
だ。万事益とは、何という恵みであり、感謝な事だろう。