2017年11月30日(木) 「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した・・しかし真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20
「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した・・しかし真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20
「人々はやみを愛した」とある。人間の古い性質は、罪が悪だから 憎むのではなく、そうではなく罪を愛すると。肉とは、したくない が、罪を犯すのではなく、そうしたくて罪を犯している。誘惑に乗 ってしまうのは、誘惑を拒絶するのでなく、本当はその誘惑の中に いたい。誘惑は甘くて心地良い。 誘惑が苦いなら、誰も誘惑になどかからないし、こんなに問題にな らない。誘惑は甘くて、心地良くて、ずっとそこにいたい類のもの だ。闇を愛する罪の性質だ。欺きに陥らないために、「できない」 のでなく「したくない」自分であると認める事が大切だ。闇を愛す る性質が、自分の内にある事を認識しておく事は重要だ。 又、自分は見える、わかっていると言うなら、光を拒む事になる。 見えない事を認めない。「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、 盲目で、裸の者であることを知らない」、光を拒むなら、暗闇の中 で見えるのは自分だけだ。自己中心の世界の中で、自分は正しく、 相手が悪いとしかならない。 真理を行なうとは、自分の罪を認める事だ。自分を正当化し、人を 裁き、闇から抜けるには、光のある所へ出る事だ。相手を責める者 である事を認める事だ。その時、その人は光に出るので、神が見え る。神が見えるので、自分の姿がはっきりと見えて、悔い改める事 ができる。全き赦しを与えられ、新しくされる。 今、自分が正しいとしか見えないなら闇の中だ。光は、正しいと思 っているあなたの真の姿を照らし出す。神の前でのみ本当の自分が 見える。それは光の中であって、大きな恵みだ。 ------------- 無意識でも罪は犯せるが、意識しないと罪を拒否する事はできない。 それほどに罪を愛する者との認識は大切だ。闇もあるが真理の光も 知っている。主に頼る光の中は何と恵みだろう。
2017年11月29日(水) 「主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし風の中に主はおられなかった・・地震の中にも主はおられなかった」T列王19:11
「主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし風の中に主はおられなかった・・地震の中にも主はおられなかった」T列王19:11
霊的勝利の後は、危険だと言われる。勝利し油断してしまう。そこ にサタンの攻撃と誘惑が臨む。大勝利の後こそ、身を引き締め、慎 み、へりくだって更に主に拠り頼む必要がある。エリヤは、バアル との戦いで、大々的勝利を遂げた。ところがその後の、イゼベルの エリヤ殺害命令の脅しに怯え、逃亡してしまった。 あれほどの戦いに勝利したエリヤが、恐れて逃げた。この事の原因 はイゼベルの言葉だった。神の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れ て、その言葉に自分が動かされてしまった。エリヤは、人間的な目 で見て弱気になっていた。神はそんなエリヤを責めず叱らず、眠ら せ食事を与え、十分な休息を与えた。 身体の回復を与え、ホレブに向かわせ、山上で主の前に立つように 命じられた。激しい大風、地震、火があった。しかしそこに主はお られなかった。普通は、神とは、そんな大々的な現象の中にいると 思ってしまう。人は、特別目立った、驚異的なものを期待する。し かし人間的思いで弱気になっているエリヤに、主は超人的力では現 われなかった。 「火のあとに、かすかな細い声があった」かすかな細い声でご自身 を現された。それを主の御声とわかったエリヤは、信仰に立ってい た。私たちも、大々的な事柄に主を探していないだろうか。又、自 分の心の中で、自分の思いの声がやかましいと、かすかな主の御声 が聞こえない。黙して、細い主の御声にしっかり耳を傾けよう。そ こで御心が示され、次なる指針が与えられる。 -------------- 心が萎えて力が尽きそうな時すべてがネガティブに見え、周囲は脅 威だ。主が遠くにいるように思える。弱ったままで主の御声を待ち 望み、求めよう。必ずかすかな導きも感受できる。主は導かれる。
2017年11月28日(火) 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25
私たちの心を乱し、落ち込ませるものに、人からの評価がある。人 にどう思われているか。人の自分への言葉や態度を気にし、即、反 応してしまう。今までを振り返ってどうだろう。心が暗くなった時、 沈んだ時はどうだったか、人の言葉に振り回されていなかっただろ うか。 ある人は信頼していた人に、陰で悪口を言われ、ある事無い事を言 われ、大変なショックを受けた。その後、人に対して恐怖を感じる ようになり、人と関わる事を避けるようになってしまった。恐れや 不安を、祈りに持って行った時、「人を恐れると罠にかかる」と語 りかけられた。恐れには罠があると。落とし穴がある。人を恐れる と、ますます対人恐怖症に陥ると。 サタンは人を恐れでがんじがらめにしたい。そして日々を台無しに したいと思い、画策している。「しかし主に信頼する者は守られる」 とあり、主に信頼して行くことが、恐れから解き放たれる道だ。主 に信頼するとは、御言葉にとどまり、御言葉に目を留めて行くこと だ。ある人は、無視して来る相手がいたが、祈り、こちらサイドと しては、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報い が受けられるでしょう」 「愛は礼儀に反することをせず」「異邦人の中にあって立派にふる まいなさい」に従い、返事があろうと無かろうと、挨拶をし続けた。 すると、とうとうある日挨拶が返って来た。そして何よりも、その 間、心が恐れから、守られていた事に気づかされた。 --------- 人の感情やその場の空気に敏感であっても、人との関係のみを見て いくと捕らわれてしまう。人を恐れ自分自身を見失ってしまわない よう、見るものは全能の御神と、御心の中を歩んでいこう。
2017年11月27日(月) 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8
ある人が、まさに企業戦士であり、早朝出勤に帰宅は深夜、忙しく 仕事量は膨大で、休日など無く、ひたすら目の前の仕事をこなした。 余りの重圧にストレスは溜まり、過労でとうとう心身限界にまで来 た。眠れなくなり、食欲も失せ、睡眠剤に頼るようになった。わけ のわからない不安、孤独感に襲われ、軽い鬱状態で、しばらく休暇 を取った。 そんな時、誘われて教会へ行った。そこでの賛美、祈り、聖書、何 もかも初めてであったが、カラカラのスポンジが水を吸い込むよう に、何か心にしみ渡った。不思議な安堵感があった。しかし弱りき っていた者が、ただただ、わらにもすがりたかっただけで、自分の 「罪」が何もわかっていなかった。ある日、「自分はだめ人間で」 との言葉が口から出た。 その時「それは恵みです」と、だめだからこそ、神の力を知れると 言われ、カチン!と来たのだ。だめな人間と、他人から同意された 事に怒りが湧いた。口では言うが、自分はこれぽっちも思っていな い。その時、自分のプライドが、あぶり出された。自分で血のにじ むような努力を重ね、頑張りに頑張って、成果を出して来た。その プライドは人一倍高く、そのプライドこそが神を認めなくさせてい た。 神など要らない。自分が神であり、それは恐るべき高慢であり、そ れこそが罪であると示された。とにかく人より上に立ちたい、勝ち たい、評価されたい、認められたい、今までの人生はそのためにだ け、生きて来たと気づかされた。心から悔い改めた時、心底の安堵 を経験した。人生が変えられた。 ------------ 聖霊様が働く時、罪について考え、自分も救われなければと思わさ れる。そこまで醜いとも思っていなかった自分の内側に気づかされ る。内に語られる御霊様の声を聞き、交わりながら豊かな信仰生活 を歩んでいこう。
2017年11月26日(日) 「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26
群衆が、主を追い回していたが、それは、主ご自身を求めではなか った。主がされる奇跡を求めて、「パンを食べて満腹した」通りに、 パンを求めて、主の後について行ったのであった。自分の願望が、 満たされたいがためだった。私たちの信仰が、自分を軸に置くなら、 自分の願いや欲望が満たされている間は、つき従う。 つまり、自分の思いと合致している間は良いが、思い通りにならな くなった途端、離れ去る事になる。自分の願いが叶わないなら、失 望しつまずく。ついて行く意味が無いからだ。群衆がそうであり、 ユダがそうだった。ユダは、主がローマ帝国を覆し、主の王国を築 くと思い込んでいた。それが十字架へと向かわれ、自分の思いと違 った時に、主を捨てた。 私たちは、何のために、主に従っているのだろう。パンのためだろ うか。それなら、自分に都合が悪くなった途端、必ず従うことをや める。軸が自分なので、自分に損か得かで動く。主は信頼できる信 仰を探しておられ、信頼できる信仰に、ご自分を任せようとしてお られる。 つまり、主を自分の利得のために利用するのでなく、主がまことの 神であるゆえに、従って行こうとしている人々に、ご自身を現され る。その人は、どんなに自分に損になろうと、試練の中も、苦しい 中も必ず主に従って行く。そしてそれは、そうするようにと、主が 捕らえて下さったからだ。 ・・・・・・・・・・・・・ 古い性質は、自分の都合優先だ。損得で動き、メリットがあるから 信仰する。しかし新しい性質は、それを悲しみ、主に従いたいと思 う。自分では出来ないので、自分を委ねて、明け渡して行く時に、 御霊の助けてを経験して行く。
2017年11月25日(土) 「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしも べは必ずいやされます」ルカ7:7
「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしも べは必ずいやされます」ルカ7:7
ある百人隊長のしもべが、病気で死にかけていた。百人隊長は、主 のもとに人を送ってしもべを助けに来て下さるよう願った。主は願 いを聞き、向かわれた。その途上で、使いを出し「ただ、おことば をいただかせてください。そうすれば、しもべは必ずいやされま す」と主に伝えた。 百人隊長は、その立場上、権威というものを身をもって知っていた。 自分の指図通りに部下は動く。自分の一言で、その通りに動くのだ。 それゆえ、来ていただくに及ばず、ただお言葉を頂ければ、十分だ と言った。主の権威を心底認めていたからだ。私達はどうだろう。 主の主権と権威を、真剣に信じているのだろうか。 自分の思い通りに事が運んでいると、喜んで主を認めるが、自分の 思い通りでないと、「何で?どうして?」「神様はひどい」と、屈 折し文句タラタラだ。自分の都合の良い時だけ、主を認め、都合が 悪くなると、手の平を返した態度になる。これは「神中心」の信仰 でなく、「自分中心」の信仰だ。 神の栄光や神の御思いに中心があるのでなく、どこまでも自分の思 いが中心だ。私達の日々はどうだろう。百人隊長のように、神の主 権と権威を認め、へりくだり、神は必ず良くして下さると信じて行 けたらどんなに良いだろう。その時、主は「このような立派な信仰 は見たことがない」と言って下さる。信仰の中心が、「自分」にあ る事に気づく事から、祝福が始まる。 ・・・・・・・・・・・・・ 根深く自分中心が巣くっている事に、気づかせて下さる事が感謝だ。 御霊が気づきを与えては、変えて行って下さる。不信仰に気づかせ られて、信仰へと進ませて下さる。御言葉を、約束を、信じる信仰 を与えて下さる。
2017年11月24日(金) 「わたしの目には、あなたは高価で尊い」イザヤ43:3
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」イザヤ43:3
ある人が長年第一線で、営業マンとしてバリバリ働いていた。コン スタントに契約が取れ、営業成績もトップクラスだった。しかしあ る時、仕事上で失敗をし、そこに難しい対人関係のストレスも絡み、 とうとう身体をこわしてしまった。止むなく退かねばならなくなっ た。 その時に、ひどく落ち込んだ。仕事が出来ていた時は、自分が価値 ある人間と思えていたが、出来なくなった時、自分の価値を認めら れなくなったのだ。精神的苦痛であり、どうやっても受け入れ難い 事だった。弁解や言い訳で、自分を取り繕おうとするが、無駄だっ た。 又、その仕事上の大きな失敗を、人のせいにしようとしている自分。 人をどうしても赦せない自分に苦しんだ。心が悶々状態で、苦しく てどうにもならず、主の御前に出た。御前に静まり、何もかもをこ とごとく打ち明け、気持ちをぶつけ、心注ぎ出し祈った。 十字架が迫った。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をして いるのか自分でわからないのです」この箇所は今まで他人事だった。 その主の祈りが、紛れもなく自分のためである事がわかった。主の 赦しの愛を全身に受け取った。そして主は完全に赦し、受け入れて 下さっているのに、自分が自分を赦し、受け入れていない事を示さ れた。 主の赦しを受け入れた時に、嬉しくてたまらず、心が平安でいっぱ いになり、喜びに溢れ、人をも赦す事ができた。そして何が出来な くとも、このままの存在を受け入れて、愛し続けて下さっている主 の愛に癒された。この仕事上の大失敗も、病気も、万事益で、この 主の愛と赦しを知るためであった事に、心から感謝した。 ・・・・・・・・・・・・ この世の価値観、根深い古い価値観があって、何かが出来る事に価 値を見い出そうとする。又、人と比較し、人より秀でようとするの も、自分を認めて欲しいから。だが主の十字架を仰ぐ時に、それら は必要無く、愛されていること、大切に思われていることを知る。
2017年11月23日(木) 「すべての事について感謝しなさい」Tテサロニケ5:18
「すべての事について感謝しなさい」Tテサロニケ5:18
ある人が子供のために祈る時、いつも「良い子になるように。ちゃ んと片づけするように。ちゃんと勉強するように・・」ああだ、こう だと注文つけて祈っていた。祈っていてある時、気づかされた。子 供をいつも叱り飛ばすばかりで「ああなれ、こうなれ」と細かい事 にまで要求している自分、つまりそれは「お前は、今のままではダ メ。不十分だ」と言い続けている事だと。 それなら子供にとっては、ずっと自分はダメなままだ。ひたすら子 供を変えよう、変えようとしている自分に気づかされた。変わるべ きは子供でなく、自分自身であった。自分が一番問題であった。心 から悔い改めて、いっさい家族への要求を止めて、まず家族に感謝 する事を始めた。主が、妻を、子供を与えて下さっている事、家庭 が与えられている恵みに心から感謝し始めた。 そして、この家族をより幸せにするために、自分は何ができるかを 求めて祈り始めた。そうすると、家の中の空気が一変した。暖かい 雰囲気が溢れ、和やかになり、皆がリラックスできるようになった。 家庭がオアシスとされた。神の愛が家庭に臨んだ。御霊に助けられ、 子供を教え育むのでなく、肉の力で変えようとする時、そこに裁き と批判と不満が存在し、神の愛が失せる。 無理やり人に変えられようとすると、反発し抵抗する。しかし、感 謝がある時、そこに潤いと温もりと喜びが流れる。そこで憩えて、 自ら良くなって行きたいと素直に思える。 ・・・・・・・・・・・・ 自分から変わるのはよいが、人から変えられるのは、誰しも抵抗し、 変えられまいとする。過去と他人を変える事は出来ない。しかし自 分を変えることはできる。変えようとする相手に感謝する事を始め よう。まずあるがまま受け入れられる時、人は変わって行ける。
2017年11月22日(水) 「真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ」箴言12:19
「真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。偽りの舌はまばたきの間だけ」箴言12:19
口から言葉が出て来るのだが、「心に満ちていることを口が話す」 とあり、実は言葉は心から出て来る。言葉は、口でなく心の問題だ。 そのため、心をいつも御霊に探って頂く必要がある。心が屈折して いると、屈折した言葉が出て来る。つまり何かくせのある物言いが 出るのは、心に何かが潜んでいる。 心に苦みがあると、幾ら繕おうとしても、言葉にトゲが出る。心に あるものは、必ず外に出る。又、口から言葉を出す前に、一呼吸置 こう。その内容は「真実」か?真実でなければ、言ってはいけない。 偽りになる。又、真実であったとしても、話す「必要」があるか。 事実だが、醜聞など、あえて話す必要の無い事柄は多い。 又、愛があるだろうか。親切だろうか。愛がないなら、うるさいシ ンバルだ。悪意はないか。愛の無い言葉は発すべきでない。悔い改 めによって、発した言葉を回収しなければならなくなる。「まやか しの証人は滅びる。しかし、よく聞く者はいつまでも語る」。主の 言葉をよく聞くことが、語ることの秘訣だ。 日々、心に御言葉を受け取り、御言葉に浸り、いつも思い巡らして いよう。心の中の思い煩い、不安、妬み、ネガティブな屈折した言 葉を、主の言葉と置き換えて行こう。その時、御霊により、思いが 変えられて行く。人の言葉に振り回されそうな時、御言葉を握りし め、御言葉に拠りすがろう。 少しづつ少しづつ御言葉が自分の価値観となり、自分が変えられて いる事を発見する。御言葉が心に根差す時に、口から感謝が溢れ出 て来る。 ------------- 心に思い煩いがある時など、口から出る言葉はついネガティブにな り不安の害毒を伝染させてしまう。心にある思いを日々主に整えら れて希望や喜び愛に満ちた言葉を発していきたい。
2017年11月21日(火) 「ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り・・」Tテモテ1:6
「ある人たちはこの目当てを見失い、わき道にそれて無益な議論に走り・・」Tテモテ1:6
友人に福音を伝えていて、議論になった経験は無いだろうか。又、 信仰者同士で、議論になった事があるだろうか。ある時、青年たち で聖書に明確に記されていない事柄に関しての議論になり、議論は 高じて気まずい険悪なムードになってしまった。ある人が平安が無 く帰宅した。 そして聖書を読んでいると「果てしのない空想話と系図とに心を奪 われたりしないように・・論議を引き起こすだけで、信仰による神 の救いのご計画の実現をもたらすものではない」と示された。議論 をして平安が失せるのは、神や信仰の衣を着て、実は「自分の正し さ」を主張し、自己主張になるからだ。そこに自我が出て、議論の ための議論になる。 議論になると、とにかく負けるのが悔しくて、勝ちたい。相手を打 ち負かしたい。勝つ事がすべてとなってしまう。何が目的なのかが わからなくなる。「自分の言っていることも、強く主張しているこ とについても理解していない」の通りだ。ここから徒党や分裂が生 じる。 私達の目標は「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て くる愛」だ。「愛」が目標だ。「この目当てを見失い、わき道にそ れて無益な議論に走」りがちだ。建設的意見交換は、良い事であり 大切だ。いつもその動機が「愛」であることを、しっかり確認して いよう。 -------------- 正しさをいくら主張しても、また主張されても御心の動機から逸れ ていくならただの自己主張で終わってしまう。無益な議論からはき っぱりと退き、主の元に立ち戻ろう。
2017年11月20日(月) 「しかし、主はヨセフと共におられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」創世記39:21
「しかし、主はヨセフと共におられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」創世記39:21
ヨセフは、兄たちの悪意により、エジプトへ売られた。父親がヨセ フを特別扱いし、偏愛した事により、兄たちの強い妬みを買ったの だった。ヨセフは一人異国の地に追いやられ、家族と離れ、どん に恐れと不安にさいなまれた事だろう。しかし、エジプトの地で、 奴隷として「忠実に」主人に仕えた。そこに「主がヨセフと共に おられた」。 そして、主が、彼のする事すべてを成功させて下さった。ここで学 べるが、私たちはどんな境遇になろうとも、そこに主が共におられ る。主と共に歩める。私たちは、辛い環境から離れたいと思うが、 主が共におられるなら、その所で、周囲の人々への祝福とされて行 く。主人は彼の忠実に仕える姿を見て、彼に信頼を寄せ、全財産を 委ねた。 しかし次の試練が襲い、主人の妻の悪意により、無実の罪で、投獄 の身となった。奴隷よりも尚も悪い、囚人となってしまった。しか し、そこでも「主はヨセフと共におられ」た。恵みを下さり、監獄 の長の心にかなうようにされた。すべて主による事であった。ヨセ フは監獄でも、「忠実」であった。そのためすべての事を管理する ようになった。 主はどんな状況下でも共におられる。今の境遇に主を認めよう。そ してヨセフは苦しい境遇でも、腐らず、投げ出さず、そこに主を認 め、常に忠実であった。主は「忠実」を喜ばれる。思い通りでない 状況にも、そこに主を認め、忠実である事ができるよう祈ろう。大 きな祝福が待っている。 -------------- どんな境遇の中でも、そこに主を認めるなら希望が生まれる。偶然 は一つもなくそこに置かれる意味があり、何処にいても主にある自 由がある。主と共に忠実に歩もう。
2017年11月19日(日) 「『主よ。この人はどうですか』・・わたしの来るまで彼が生きなが らえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりが ありますか」ヨハネ21:22
「『主よ。この人はどうですか』・・わたしの来るまで彼が生きなが らえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりが ありますか」ヨハネ21:22
フィギュアスケートの試合で、時々選手がヘッドホンをして、順番 を待っている姿が映る。他の選手の結果を耳に入れないためだ。心 を騒がせたり、心を乱すことなく、情報をシャットアウトし、ひた すら自分の演技にのみ集中できるように。でなければ、他人の演技 に自分が影響されてしまい、他人の出来、不出来で心が動揺してし まう。 そのため本番で緊張の余り、ジャンプで転倒してしまうケースがよ く見られる。様々な思惑が入り、演技に集中できない結果だ。せっ かく普段の練習で積み重ねた力が発揮できない。自分の歩みが、他 人により変えられてしまっている。私たちの信仰人生も同様だ。人 と比較すると、自分の人生が歩めない。人と比べてアップダウンし てしまう。上を見上げて、自分に与えられた御心を行って行くと ころに、この世の喜びではない、御霊の喜びがある。 人と比べると劣等感で落ち込んだり、不満を募らせ、勝ち負けに走 ったり、それなら競争相手が基準になってしまう。人によって自分 が左右され、振り回される。人との比較でなく、自分に与えられた ものを、主のために十分に発揮して行く。 上を見上げるなら、そこに競争相手は存在せず、主と自分との関係 だけだ。そして、そこには妬みや争いでなく、喜びがある。優越感 の肉の喜びではなく、霊の喜びだ。比較から解放されるのは、「わ たしに従いなさい」と言われる主を仰ぎ、主に従い、与えられた御 心を一つ一つ行って行くことだ。 ・・・・・・・・・・・・・ 比較している時に、御霊の気づきが与えられるよう、祈っていよう。 気づかないまま、心が暗くなり、平安を失ってしまっている。主と 自分の関係がすべてだ。そこが正しいと、どんな中でも平安だ。そ こに人が入っている時に、気づけるように。
2017年11月18日(土) 「あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦は その日その日に、十分あります」マタイ6:34
「あすの心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦は その日その日に、十分あります」マタイ6:34
心配無用との意味は、雨の日のための備えをする事や将来に対する 計画、準備をする事が無用と言っているのではない。無計画や行き 当たりばったりが良いのではない。受験の備えをしようと思うなら、 当然計画を立てて、勉強をする必要がある。ここでの心配無用は、 不要な思い煩いのことだ。 ああなったら・・こうなったら・・と、ありもしない最悪のシナリオを 自分で描いて、不安と恐れ、思い煩いに落ち込む事だ。現実に起き ている問題ではなく、妄想なので、主もどうする事も出来ない。こ れが無用だと言っている。無用な思い煩いをしないために、神に思 い煩いを委ねることが大切だ。 私たちを消耗させてしまうものに、過去の後悔がある。済んでしま った事はどうしようもない。しかし延々と、あの時ああすれば、こ の時こうすればと、くよくよと思い煩う。又、先行きが不安で不安 でたまらない。進路の不安、対人関係の不安、経済的不安、健康の 不安、老後の不安・・際限が無い。亡霊の心配で消耗しきってしまい、 今日なすべき事が出来なくなってしまう。 労苦はその日その日にあるとは、今日のなすべき事があるという事 だ。過去をくよくよし、将来を思い煩い、目の前のなすべき大切な 御心を流してしまう。「委ねることができません」「思い煩いがど うにもなりません」まずあるがままを主に告げて、祈ろう。祈りに 答えて、委ねられるよう助けて下さる。 ・・・・・・・・・・・ 頭ではよくわかるのだが、委ねることが出来ない事が問題だろうか。 自我が頑なに思い煩いを握って放さない。「委ねようとしない自分 がいます」とありのまま祈ろう。心配が来る度に「主よ」と祈りに 持って行こう。その祈りに答えて下さる。
2017年11月17日(金) 「そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった」マタイ20:9
「そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった」マタイ20:9
主人は早朝6時から3時間おきに、労務者を雇った。夕5時に雇用 の人々は1時間働いただけだった。しかし、主人は労働時間に全く 関係無く、全員に同じ1デナリを支払った。早朝の人々は1デナリ の賃金契約をし、その契約通りに支払い、それ以降は「相当のもの」 と明確な金額の契約は無かった。 だから主人は不当な事は何もしていない。だが多くの時間働いた人 々は、もっとくれてもよいとの不満噴出だ。主人の心はあわれみだ。 早朝の人は1日中希望と平安があった。1日働けば、確実に1デナ リの賃金が入る。家に糧を持って帰れ、家族の喜ぶ姿が目に浮かぶ。 しかし、5時の人は、夕刻までどんなに不安と思い煩いの暗い1日 だったろう。家族にその日の糧は無い。妻はどんなに落胆するだろ う。どうすれば良いのだろう。不安は、いかばかりだったろう。主 人は慈しみと憐れみで一杯だ。主人のあわれみが現れた時、早朝の 人々の妬みと怒りが露呈してしまった。肉は恵みに反発する。とん でも無い事だと。 パリサイ人は律法を忠実に行って来た。それが突然、行ないは不要、 信仰だけによる救いが来た時、反発は高じて主への憎しみになった。 自分が否定されてしまうからだ。肉は、自分の行ないで認められた いし、評価されたい。自分の力を捨てたくない。私達も恵みにより 無代価で救われていながら、肉によって完成しようとしていないか。 ------------- 主から受けている恵みとあわれみにただ感謝するばかりだ。いつも 自分が5時からの者であることを忘れないでいたい。無代価で救わ れて、今も守られ愛され続けている。
2017年11月16日(木) 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」ヨハネ20:27
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」ヨハネ20:27
弟子たちが隠れていた家に、よみがえりの主が、ご自身を現わさ れた。「平安があなたがたにあるように」と。「弟子たちは、主 を見て喜んだ」。どんなに興奮し、嬉しかった事だろう。平安と 喜びに満ち溢れた。しかし、トマスだけが、その場に彼らと一緒 にいなかった。「自分だけがなぜ?」「自分のいない時に?」自 分がいなかったわけだが、自分だけがと、不満な思いだったかも 知れない。 「私たちは主を見た」と喜ぶ弟子たちに「その手に釘の跡を見、 私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入 れてみなければ、決して信じない」と言った。そして八日後、ト マスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、再び主が、ご自身を現さ れた。そのトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を 見なさい。 手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と、トマスが言 ったそのままを言われた。「決して信じない」に対して「信じな い者にならないで、信じる者になりなさい」と。トマスの心の内 の思いを何もかも見透しておられ、そしてそれが主により受け止 められている。その主の愛に包み込まれた。 自分で見なければ、決して信じないと言ったそんな自分に、個人 的に向き合って下さった主。まるでまさにトマスのために、現れ て下さったような状況に、彼は、指を釘後やわきに差し入れずに、 「私の」主、「私の」神と、最高の信仰告白が溢れ出た。 -------------- 素直に信じると言えないかたくなな者の傍に来られ、身を低くさ れ信じるように導いてくださる主を覚える。大勢の中の一人では なく個人の欠乏に関わってくださる。私の主だ。
2017年11月15日(水) 「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」マルコ11:33
「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」マルコ11:33
主は宮で商売をしている人々を追い出したが、祭司長、律法学者、 長老たちは、何の権威によっているのかと、主に詰め寄った。する と主が逆に問いかけた。「ヨハネのバプテスマは天からか、人から か」と。天からと言えば、なぜ信じないとなり、人からと言えば、 群衆はヨハネを預言者だと思っているので、人からどう思われるか が恐い。 どちらの側にも立たず、「わかりません」に逃げ込んだ。結局、真 理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われ るかであり、自分の立場を守る事が判断基準であった。時々、祈っ ているのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがあ る。そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないか、心探 ってみよう。 態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。あいまいのままに しておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、 こっちにも良く思われたい。どちらも欲しい。結局、自分の思い通 りに生きたい。しかし、時に、はっきり迫られる。「群衆なのか、 主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかりません」と逃げ ると、「わたしも・・話すまい」と言われた。 「わかりません」と逃げないで、「人を恐れています」「中途半端 です」「犠牲を払いたくないです」と、ありのままの姿を認めて、 「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。そうするなら、御 心へと導いて下さる。 ------------ 真理は御言葉によってはっきりと指し示されている。出来ること、 出来ないことを自然に振り分けてしまうが、出来ないことを祈れる ことが感謝だ。曖昧でない、本音の自分で主に応答しよう。
2017年11月14日(火) 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16
ある人が、大変な短気に悩んでいた。とにかくすぐにカッと、頭に 血が上る。怒りが噴出する。もうイライラし出すと、止まらず、お さまらない。あれもこれもと次々と連鎖して、腹が立って仕方がな い。普段ならどうも無い事まで、些細な事にもカッカする。どうし ても一番身近な家族に、甘えがあり、当たってしまう。 当然のごとく害毒をまき散らしてしまう。暗い、嫌な空気になる。 冷静になると、自分も暗たんたる気持ちになり、自己嫌悪に陥る。 反省を繰り返すのだが、直らない。そんな中、主に助けを求めて、 主の御前に何もかもを打ち明け祈った。祈りの中で、イライラする 時に、自分は猛烈に「怒りたい」と思っている事に気づかされた。 怒りたくないのでなく、怒りたいのだ。その一番自分の弱い所に、 絶えずサタンの攻撃が来ている事を知らされた。そして、自分に 余裕がある時は、つまり御霊に導かれている時は、同じ事でも全 くイラ立たないし、カッとしない事にも気づいた。主と共に歩み、 心に平安と喜びがある時は、短気にならない。余裕があって受け 止める事ができる。 状況や相手ではなく、問題は自分だと示された。主と交わり、御 霊に導かれて歩む時、心に平安と喜びがある。そのため主と共に 対応できて、状況に、相手に反応するのでなく、流されるのでな く、意志をもって行動して行ける。そのためには御霊によって歩 む事、主にとどまる事だと教えられた。 ------------ 感情に傾き感情どおりに動いてしまいやすいからこそ感情より行 動に焦点をおこう。御霊の実を結んで生きていたい。感情に支配 されそうな時、主を呼び主に従いたいと祈りたい。
2017年11月13日(月) 「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」ヤコブ1:15
「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」ヤコブ1:15
「人は自分の欲に引かれ」とあり、人には欲望があり、強い欲求が ある。主は、人を欲望を持つ者として創造されたので、欲望そのも のは罪ではない。しかし、それ自体は良いものだが、人間には罪の 性質があるため、欲望に引かれ、おびき寄せられ、誘惑され、罪を 犯すことになってしまう。 「自分の欲」とあるように、外側の問題ではなく、自分の内側に問 題がある。様々な問題が起こる時、相手が悪い、相手が原因だと思 いたいが、実は、相手の問題ではなく、「自分の欲に引かれ、おび き寄せられ」た結果だと。相手の悪い態度で、敵対心を抱き、憎し みが湧く時、どう見ても、相手が悪いとしか見えない。 しかし敵対心を抱き、憎むという罪を犯したのは自分だ。それを決 して認めたくないので、相手のせいにしている場合も多い。だが、 相手のせいにしている限り、欲望に引かれ、おびき寄せられている 自分の姿が見えない。サタンは、私たちの欲望に働きかけ、餌を投 げかけ罪に誘惑する。が、サタンは、私たちに罪を犯させる事はで きない。誘う事しかできない。 その誘惑に乗って罪を犯してしまうのは、私たち自身の選択であり、 私たちの責任となる。自分は何に強い欲望があるのだろう。そこに 誘惑が来る。名誉、地位、富、人の賞賛、人からの評価、人の愛・ ・自分の一番強い欲は何だろう。それを知り、認めて、祈って行く 時、必ず守られる。 ------------ いつも失敗する自分の弱さを知っているだろうか。認めたくない所 をサタンはピンポイントに突いて来る。認めたくない所、見たくな い所こそ認め、祈りに繋げよう。
2017年11月12日(日) 「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15
「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15
私たちは寒暖計の人生だろうか。外気温そのままに、正比例して、 温度を表示する。寒ければ低く、暑ければ高温度を表示する。つま り、気温の通りに反応する。相手が親切であれば、親切に対応し、 優しければ、優しく対応する。相手が冷たければ、こちらも冷たく、 無視されれば、無視し、攻撃されれば、こちらも反撃する。 これは反応する生き方だ。これでは、自分の幸せ、不幸せが、相手 によってコントロールされる事になる。すべて相手次第という事に なり、自分が無い。ここ数日を振り返ってみてどうだろう。他人の あの言葉やこの態度で、自分がアップダウンし、又、暖かくなり、 冷ややかになっていないだろうか。 他人の評価で一喜一憂し、喜んだり、沈んだり。人が気になって、 気になって仕方が無い。まず反応している自分に気づき、祈ろう。 人に反応するのでなく、御霊に反応し、御心を行ない、導きに従う 事を決心しよう。 ある人が、職場で辛く当たられ、挨拶しても無視された。しかし反 応ではなく、御霊に従って生きる事を決心していたので、相手に関 係無く、相手がどうであれ、自分は挨拶をし続けた。すると段々相 手が変わって来た。やがて、親しい友人となり、悩みを相談される ようになった。 又、ある人は無視されても同様に挨拶を続け、特別親しいというわ けではないが、普通の関係になり、しかし自分自身は平安に満ちた。 私たちは反応するだけだろうか、もし御霊に従うなら、、自分から 良いものが出て、自分と周囲を変えて行く。 ・・・・・・・・・・・・・ 人に反応して生きている時、御霊の気づきを与えられるよう祈ろう。 そのつど主のもとへ行ける。そして反応するのでなく、主の御心を 行なえるよう祈ることが出来る。御霊は助けて下さる。主とひとつ に生きる御霊の喜びを味わって行ける。
2017年11月11日(土) 「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたが たは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44
「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたが たは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44
私たちの肉には、人に認められたい、ほめられたい、評価されたい という強い欲求がある。小さな子供は、絵を描いたり、工作を作っ たりした時、又、事あるごとに、親に「見て」「見て」と注目を集 める。自分を見て欲しい。私たちの、人に認めて欲しい、褒めて欲 しいという欲求は深いものがある。 そのため、人の評価を得られない時、多大なストレスとなる。この 部分に、サタンは巧妙に誘惑して来る。主が荒野で誘惑を受けられ た時に、サタンは、神殿の頂から身を投げるように誘惑した。御使 いが助けに来て、皆の前で、素晴らしいヒーローになれると。世界 中の注目の的になり、大人気を博した上で、人々を救えばいいでは ないかと。人々は大喝采だと。 人々から注目を浴びる快感は大きな誘惑だ。誰しも、人の前で良い 格好したいし、賞賛を受けたい。主にも来た誘惑だ。私たちにも、 サタンのこの誘惑が来た時に、御霊が気づかせて下さるように。人 の評価を求めるところから、神の歓心より人の歓心を得ようと方向 が大きくずれる。そこに体面、虚栄心、プライドが、むくむくと頭 を出してくる。そして人が気になって仕方がない。 神から目を離すと「比較」でしか自分を量れないので、人が基準に ならざるを得ない。その中で劣等感と優越感にがんじがらめだ。主 に焦点を合わせる時、自由にされて行く。まず、人の賞賛を求めて いる自分に、気づくことから始まる。気づく時、祈りに持って行け る。そして、その祈りは答えられる。 ・・・・・・・・・・・ 人が主に向くなら、おおいが取り除かれると言われている。主は御 霊であり、主の御霊のあるところには自由がある。真の自由は主の 内にある。人との比較に気づける事が感謝で、絶えず主のもとへ行 ける。主に向く時、横から縦へと視点が変えられる。
2017年11月10日(金) 「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11
ある人が、家族や親族の救いを願い、切に祈っていた。そして家で は、親族に福音を伝え、証しをしていた。救われて欲しい一心だっ た。しかし、熱心に伝えれば、伝えるほど、けむたがられ、避けら れ、親族からは拒否反応が出た。嫌な顔をされるのだが、意に介さ ず、ガンガン押しつけがましく話したのだった。 段々、家族は、彼女の信仰に心を閉じて行ってしまった。やがて、 家を出て、遠方で仕事に就いた。しかし、その仕事はどうしてもう まく行かず、挫折してしまった。対人関係でもうまく行かず苦しみ、 深い傷を負った。ぼろぼろになり、行き詰まり、仕事を辞め、一旦 家に戻った。 家族としばし生活したが、妹が「お姉さん変わった。今のお姉さん 嫌いじゃない」と言った。耳を傾けて、話を聞いてくれた。以前の 自分がいかに高慢であったかを思い知った。心の内では、自分は聖 い、他の人のような罪人ではないと思っていた。まさにパリサイ人 であった。辛い試練を通して、砕かれた。 試練は、決して嬉しいものではなく、痛い。しかし、主が苦しみを 通し、砕いて下さる事は、感謝以外の何ものでもない。苦しみが、 高慢を砕いてくれる。「苦しみに会ったことは、私にとって幸せで した」痛いが、祝福の道だ。幸せへと導いてくれる。「私たちの益 のため・・ご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」。 聖められ、成長が与えられて行く。 ------------- 主から来た痛さ、辛さだと受け止めて立つ時に試練の中に希望が見 えて来る。試練を通して自分では変えられない所、捨てられないも のをどのように主が取り扱ってくださるだろう。
2017年11月09日(木) 「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3
「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3
ある人が、お酒を断とうとしていた。酒屋に近づいた時に、「主よ、 もしお酒を買う事が御心でなければ、駐車場が空いていませんよう に」と祈った。すると駐車場は空いていた。笑ってしまうが、私達 も同じような事をしているかも知れない。主よ、御心なしたまえと 求め、御心を、と祈るのだが、実は自分の内では、もうしっかりと プランは定まっている。 主からの認め印が欲しい。もし心ですでに決まっているなら、自分 の計画にそぐわない御言葉は排除してしまう。そして自分に都合の 良い御言葉しか入らない。無意識にそうしてしまっていて、気づか ない。間違った方向に進まないためには、自分の計画を一旦、主に 委ねるのが良い。主に明け渡すことだ。 その計画が御心なら、主によって返って来るし、更に揺るぎないも のとして、確信が与えられ、そして主により成し遂げられて行く。 又、御心でないなら、成って行かない。いつも祈りは「主よ、こう して下さい」「ああして下さい」「主よ、こっちへ来て下さい」 「あっちへ行って下さい」だろうか。 そうではなく、「私は」「私は」でなく、「主は」私に、何を願い、 どんな御心を持っておられるのか、主のみ思いはどうなのか、祈り の中で問うてみよう。御心の計画は、どんな紆余曲折を通ろうとも、 必ず成し遂げられる。 --------------- 自分の強い思いが御心であったらとの目で、御言葉も環境も見てし まいがちだ。迷っていればいるほど明け渡せるように祈りたい。み こころのままに働かれる主の導きを砕かれた心で聞きたい。
2017年11月08日(水) 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
あなたも経験あるだろうか。信仰生活の中で、嫌な相手と出くわす。 近所、職場、学校、親戚であったり様々だ。顔を合わせたくなくて、 どうにかして避けようとする。環境を変えたくなる。どうしても嫌 で、職場を変えたり、引っ越したりするだろうか。 しかし、その移った先で、又、同じような相手に出会う。又、職場 を変えても、同じ事が起こる。どこへ行っても嫌な相手がいる。同 じ事を繰り返し、やっと相手でなく、環境でなく、これってもしか して自分の問題では、と気づく。自分の問題だと気づけた時、光が あり、神に焦点が合った事になる。 状況は同じなのに、深い安堵感に包まれる。「羊のようにさまよっ ていたが、自分のたましいの牧者のもとに帰った」感覚だ。平安に なる。自分と状況しか見えていなかった目が、神を見ている。そう であれば、主は必ず目の前の事態を導かれる。真の問題は自分のプ ライドだろうか。虚栄心や、高慢だろうか。 主がそこを砕こうとしておられると見えると、不思議だが平安にな る。そこに主を認める時、本当の問題が見える。へりくだる事を教 えておられるだろうか。ある人が、嫌な事があるとすぐ辞め、バイ ト先を転々としていたが、主を知った時に、止んだ。一つ所で、様 々な主の訓練を、学びを受け止め、自分が変えられて行く喜びを知 った。 ---------------- 相手の問題は、相手が自分に対して謙遜になれば解決するのだろう か。何事でもへりくだってとの御言葉の通り、まず自分自身が変わ ろう。主が必ず変えてくださる。
2017年11月07日(火) 「どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください」Uコリント9:5
「どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください」Uコリント9:5
神は喜んで与える人を愛して下さる、献げる事は大きな祝福だ。 更に豊かに報いられる。この祝福を何としても奪うために、サタン は必ず妨害して来る。古い性質、肉には、執着心があり、所有欲が あるため、なかなか献げられない。肉にとって、得ることは嬉しい が、失う事は嬉しくない。 肉は、損得勘定だ。損になる事はしたくない。しかし、新しい人は 損得でなく、主の御心を求めて行く。たとえ損になっても、損得関 係でなく、又、肉の思い、自分の思いでなく、御言葉に従おうとし て行く。その時、大きな祝福を刈り取る。ある青年が、バイブルセ ミナーに出席した。その集いで、恵みに恵まれ、心が喜びで満ち満 ちた。 余りにも心満たされたため、最後の集会で、感謝献金のかごが回っ て来た時に、財布をパンと逆さまにして、全部献げた。そうしたか った、喜びに溢れた結果の行動だった。そして集会が大きな祝福の 内に終わり、青年は帰りの電車賃が無かった。するとその時に「同 じ方向ですよね。送りますよ。一緒に帰りましょう」と車の男性が 声をかけて来た。 「神は喜んで与える人を愛してくださいます」、献げる事を通して、 更に主の愛に触れて、喜びが増し加えられた。「神は、すべての事 に満ち足りて、すべての良いわざに溢れる者とするために、あらゆる 恵みを溢れるばかり与える事のできる方です」 ----------- 目に見えるもの、見えないもの多くのものを神から受けている。そ の感謝のしるしとして何を献げられるだろう。更に受けるためでも、 義務でもなく喜んで献げているかが大切だ。
2017年11月06日(月) 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」マタイ6:12
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」マタイ6:12
人をどうしても赦せなくて、憎んで、苦しんだ経験があるだろうか。 人を赦さない心は、自分から牢獄に入る事になる。それは四六時中、 牢獄の中であり、相手が目の前にいようといまいと、憎しみで、が んじがらめだ。心が辛くてたまらない。心の中に鉛があり、重く、 平安無く、悶々状態だ。 人を赦す事はどうしても必要だ。人を赦す事は、人生の主導権を自 分に取り返す事だ。なぜなら、憎んでいる相手に、自分自身と自分 の全生活をコントロールされてしまっている。繰り返し、繰り返し 嫌な相手を思うので、憎悪は更に増幅し強固になり、やがてモンス ターになって行く。悪循環そのものだ。 いつもその相手を思っている。その背後にいるサタンの思うつぼで あり、サタンのとりこになってしまう。あなたが赦す事によって、 サタンを拒否し、相手があなたの人生をコントロールする事を拒否 する事になる。あなた自身が解放される。赦さない心からは何も生 まれない。辛いばかりだ。自分で赦す事はできない。 ありのまま主に告げて、主の助けを求めよう。赦しますとの意志を 向けて行く事は大切だ。主の十字架に目を向けよう。十字架から赦 しが流れ出ている。まず自分自身が赦されている事を受け取る時、 必ず人を赦して行ける。主が助けて下さる。 赦された人が、人を赦して行く。ある人は決して赦したくない心を 認め、赦しを決意した。御霊に導かれ、苦しくてたまらなかった心 に平安と安堵が満ちて、天国を経験した。 ------------- 赦せない相手の罪はその人のもので、私には関係ありませんと主に 決心しよう。心で攻撃し、怒りで無駄な時間を過ごすときに気づき たい。主に怒りを告白し悔い改めよう。主が解放してくださる。
2017年11月05日(日) 「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあ なたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたの であるから」Tサムエル8:7
「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあ なたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたの であるから」Tサムエル8:7
イスラエルの民が、サムエルに王を欲しいと、王を求めた。これは 御心に反する事だった。その事をサムエルは主に祈ると、主は「民 の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、このわたし を退けた」と言われた。主に示された通り、サムエルは民に厳しく 警告し、王の持つ権利を告げた。 今後、自分たちの王ゆえに、助けを求めても、主はあなた方に答え て下さらないと。しかし、民はサムエルの言う事を聞かず、主に従 わず、どうしても王が欲しいと、王を求めた。主は、彼らの言う事 を聞き入れ、一人の王を立てよとサムエルに言われた。時々、自分 の思い、自分の肉でした事や計画が、成功するように見える事 がある。その時、これは神が認めて下さったと勘違いするが、それ は間違いだ。 私たちが強情な意志で、どうしても行くというので、主が許された に過ぎない。しかし後に、肉の行ないは、苦しい刈り取りをする事 になる。その結果が、辛い訓練となって返って来る。「あなたがた は王を求めて、主の御心を大いに損なった」、民は、王に苦しめら れ、懲らしめを受けた。 自分の都合の良い御心は、実は自己中心なわがままだ。主は懲らし められる。そして、その懲らしめこそが、実は神の深い愛であるこ とを知る。それにより矯正され、神に立ち返る事ができて、御心に かなった道へと導き返される。 ・・・・・・・・・・・・ どうしても欲しいと自分を通すと、神の御心をそれてしまう。自分 のための最善を備えて下さっている、神のその事への御心を求めて、 歩めたらどんなに幸いだろう。神の御心の中には、神の愛と配慮、 必要な力が伴っている。
2017年11月04日(土) 「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、 赦してやりなさい。そうすれば・・あなたがたの罪を赦してください ます」マルコ11:25
「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、 赦してやりなさい。そうすれば・・あなたがたの罪を赦してください ます」マルコ11:25
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信ぜよ。そうすれば、 その通りになると、素晴らしい約束が与えられている。しかし、次 に続く言葉がある。「恨み事があったら赦してやりなさい」と、赦 す事が強調されている。赦さない心は、祈りを妨げてしまう。祈り が聞かれない。神があなたを赦して下さったのだから、恨み事のあ る相手を赦しなさい、と。 私たちはよく失敗する。ミスを犯すし、罪を犯してしまう。しかし 神は豊かに赦して下さっている。罪を犯さないのではなく、罪は犯 すが、赦されて〃生きている。それだから私たちも相手を赦すべき だと。日常生活でどうだろう。まず恨み、憎しみや赦さない心があ ると、祈れなくなってしまう。神と私たちの間に、へだたりができ て、平安が無い。すると確信もった祈りができなくなる。 あなたも経験あるだろうか。ある人が、切迫した必要があり、神の 御前に祈っていた。しかし幾ら祈っても答えがない。心探られる中、 ある人に対し、以前言われた事で、恨みと赦せない思いを根深く持 っている事を示された。これが妨げである事がわかり、心から悔い 改めて、赦した。その後、見事に祈りの答えを見た。 密かな恨み、赦さない心は祈りを妨げる。妨げが取り除かれる時、 すでに受けたと信じる事ができ、その通りの答えを得る。まず赦せ ない心を告げ、助けを求めよう。 ・・・・・・・・・・・・ 人を赦す事は、人間の力では不可能だ。赦せない。御霊の働きと御 霊の力によって、人を赦す事ができる。出来ない事を認めて、主の もとへ祈りに持って行く時に、自分を越えた力を経験する。赦すこ とができるように助けて下さる。
2017年11月03日(金) 「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です』」使徒9:15
「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です』」使徒9:15
アナニヤは、ダマスコに住んでいた。当時、キリスト者は、激しい 迫害を受け、エルサレムから方々に散った。国外にまで及び、散っ て行った。しかし、ユダヤ人たちは徹底的に、目の敵のごとく、執 拗にどこまでもキリスト者を追い回した。 青年サウロは、殺害の意に燃えて、大祭司にダマスコの諸会堂宛 の手紙を書いてもらい、彼らを捕らえて、エルサレムに引いて来よう としていた。その途上で、突然天からの光を受けることになる。一 方、アナニヤは、迫害の迫り来る危機に、真剣に祈っていただろう。 そんな時に「アナニヤよ」との御声を聞いた。主の御声に、どんな に心強かっただろう。しかし、その言葉は、驚くべきものだった。 キリスト者殺害に燃えた、サウロに会いに行くようにと。そして盲 目になっている彼の開眼のために祈れと。アナニヤは余りの驚き に理解できず、彼は迫害者で、と問うて行く。主は、彼は主の選び の器、行けと言われる。 アナニヤはどうだったろう。愛する同胞たちを殺害した相手だ。そ の相手の助けのために祈れと言われる。だが、あのサウロが本当 に回心したのだろうか。自分も殺されるかも知れない。命がけであ ったろう。本当に主の御声なのか?聞き違いではないのか?様々 な思いがよぎったかも知れない。しかしアナニヤは従った。 主はアナニヤをこのために選ばれたのであり、彼が従う事を知っ ておられた。彼は、日頃御声に耳を傾け、主との交わりの中に生 き、従い続けて来た弟子であった。私たちも普段の交わりを大切 にし、「主よ。ここにおります」と答えよう。 ------------ 日ごとの主との交わりの中で、主の導きを受けとる姿勢はどうだろ う。従うにはあまりにも無力だ、駄目駄目と自分の思いで一杯なら 主の御声は聞こえない。主の語りかけに応答しますの態度で御言 葉を聞きたい。
2017年11月02日(木) 「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです」ヤコブ4:2
「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです」ヤコブ4:2
この世界には、なぜ様々な戦いや争いがあるのか、その原因は、心 の中が問題で、「欲望」があるからだと言っている。どうしても欲 しいものがあると、力づくで手に入れようとする。その時に、争い が起きる。有形無形の自分の利益を守るために、戦う。対人関係で、 相手と敵対関係になると、相手を憎み、悪口を言い、攻撃して行く。 個人間なら喧嘩だがそれが国家間になると戦争になる。個人間であ れ、国家間であれ、敵対関係があるのは、そこに奪いたい、自分を 利としたい欲望がある。そして、どのようにその「欲望」が生まれ るのか。「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、 人殺しをする。うらやんでも手に入れることができないと、争い、 戦う」とある。 争いや戦いの原因は、相手を羨むこと、相手への妬みだと。争いの 根に、嫉妬がある。自分は持っておらずに、相手が持つものが妬ま しくて仕方がない。それは相手の持っている能力、名誉、地位、立 場、人気かも知れない。自分には持てないので羨み、戦う。しかし 得る事ができない。そしてそれは、自分の力で得ようとしているか らだと。 人への敵対心の裏に、嫉妬心がないか。「だまされないようにしな さい。すべての良い贈り物・・完全な賜物は上から来る」。そこに 神を認めるべきであり、人に向かうのでなく、自分に無いものは主 に求め、祈って行くことが大切だ。 ---------- 誰にでも思い当たる欲望だが、私達はその処し方を知っている。ひ とつずつ主に手放なしていこう。妬み争う思いに代えて主が平安と 祝福を注いでくださる。
2017年11月01日(水) 「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10
「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10
私たちが切に望むのは、平穏無事、問題が無い事、順風満帆な日々 だろうか。世の宗教が言う、家内安全、商売繁盛、無病息災、五穀 豊穣だろうか。生涯が無事でありたい。いつも安全な所に身を置い ていたい。コントロールが効かないと不安で仕方がない。 だが一生涯、いっさい問題は無く、無事平穏であれば、神を求める 事は決して無いのではないか。順風の時は神無しで生きる。自分の 力で生きられるので、神が必要無い。自分にはどうにも出来ない、 絶体絶命の窮地で、初めて人は神を求める。私たちの信仰の成長も 同様だ。何の問題も無いところで、安穏としていて、決して信仰の 成長は無い。 愛、喜び、平安、寛容、親切、善意・・これらの実はいつ結ぶのだ ろう。愛はどうだろう。漠然と、抽象的になら、全世界を愛せる。 ところが目の前に、どうしても愛せない人が置かれて初めて、愛せ ない自分を知り、悩み苦しみ、自分の限界を認め、主に明け渡した 時に、御霊の愛が与えられる。全く喜べない環境、感謝などとても できない状況に置かれて初めて、主の取り扱いにより、御霊の喜び を知る。 平安が全く持てない境遇を通らされて、真の平安を知る。寛容にな れない状況、全く寛容のかけらすら無い自分に向き合い、主によっ て寛容な者と変えられる。一つ一つの出来事を通り、醜い真の自分 を知り、主の品性へと変えられて行く。窮地に陥り、御霊の実が与 えられて行く。試練は望まないが、感謝だ。 -------------- 神は、時に追い立てるようにして信仰を使うよう試練を送られる。 その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われること、そ れらを通し変えられていく。それは自分では決して出来ないことだ。