2017年12月31日(日)

「それはあなたを苦しめて、あなたを試み、ついには、あなたをし あわせにするためであった」申命記8:16


四十年の荒野の全行程を覚えているようにと言われた。この荒野を
行かせられたのは、神ご自身だった。この40年間で経験したすべて
の事を、忘れてはならないと命じている。なぜなら、この苦しい荒
野の40年こそが、主からの大切な訓練、貴重な学びであり、成長へ
の行程だからだ。

失敗は、そこから学んで行く時、大きな成長へとつながる。もし嫌
な事、失敗した事にふたをして、忘れ、無かったことにしてしまう
なら、そこから何も学べず、何の成長もなくなってしまう。苦しみ
を通して、自分自身が、自分の心の内にあるものを知る。見せられ
る。主の目的は「あなたの心のうちにあるものを知るため」とあり、
平穏な日々、成功している時には、決して知ることのない、自分自
身の内側を知る。

自分の本当の姿、自分の弱さを知って初めて、祈って行ける。知ら
ない限り、何も始まらない。弱さを知ることによって、自分が変え
られて行く。成長して行ける。そこで主の愛や、主の守り、主の真
実を現実に経験して行く。そして、その苦しみの中で「人はパンだ
けで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生き
る」ことを知ると。

苦しみの中で、御言葉にすがる。何もどうにもならず、御言葉を信
じるしか無い状況に追い込まれ、御言葉の力を知る。主との関係が
深められて行く。この一年も、主が歩ませられた行程をしっかり心
に刻もう。

。。。。。。。。。。。。
与えられたこの1年の主からのメッセージをしっかり受け取って、感謝
をお献げして、1年を終われますようにと祈りつつ。
★この1年も有難うございました。新年も日々の言葉が豊かな祝福
と用いられるよう祈りを込めて配信させて頂きます。スタッフの都
合で1〜4日までお休みで、5日開始でよろしくお願いします。


2017年12月30日(土)

「そのうちのひとりは・・大声で神をほめたたえながら、引き返して 来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であ った」ルカ17:15


十人のらい病人が、主のもとに来た。遠く離れた所に立って、大声
であわれみを求めた。当時、らい病は、汚れた病気で隔離されてい
た。人々との接触は許されず「私は汚れた者です」と自分で言わな
くてはならなかった。病の上に、社会生活はできず、病気の苦しみ
と共に、更に精神的な孤独、悲しみ苦しみがあった。宗教的にも汚
れた者であった。

必死な思いで主にすがって来たであろう。「どうぞ、あわれんで下
さい」と叫んだ。主はあわれんで、彼らを癒された。すると十人の
内、一人だけが主のもとへ戻り、あとの九人は帰って来なかった。
病気が完全に治り、社会復帰できて、自由に社会生活が送れる。生
けるしかばねのようであった彼らからすれば、何と夢のような事だ
ろう。

九人は、ラッキー、良かったと、世の中へ帰ってしまった。彼らに
とっては、飛び切りのラッキーであり、幸運で偶然の事態であった。
そこに神は無かった。感謝するために戻った一人は、神への感謝と
賛美と喜びで一杯だった。そこに神を認め、神を崇めたのだ。彼だ
けが、新しい信仰の人生に入った。「あなたの信仰が、あなたを直
したのです」彼は神の愛を体験し、神の愛の中を生きて行く人生が
始まった。

何が大切なのだろう。病気が治る事だろうか。「世の終わりまでい
つもあなたと共にいる」これが真の喜びであり幸せだ。その人生へ
と招いて下さっている。苦しい時も喜びの時も、いつも主と共に生
きて行ける事が、本当の幸せだ。

・・・・・・・・・・
喜びの時も、悲しみの時も、苦しみの時も、主が共におられる。愛
していて下さる主と共に生きて行ける。これが私たちの最大の幸せ
だ。見える所に視点を移すや、迷路に入ってしまう。目に見えない
主にいつも目と心を向けておれるように。


2017年12月29日(金)

「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:11



ある人が、思い通りでない、一見マイナスの状況は、悪いものとの
価値観の中で、ずっと生きた来た。クリスチャンになっても、その
価値観は根に培われていて、そのため思い通りにならない事態が起
こると、その悪いものを、主が良くして下さるようにと祈り続けて
来た。ところがその祈りが、ことごとく聞かれなかったのだ。

「なぜ?どうして?」の悶々を通りながら、その事をも「知恵の欠
けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめるこ
となくお与えになる神に願え」の通りに、なぜですかと問うて行っ
た。その祈りの中で初めて、自分の願い、望みが自分中心である事
に気づかされた。

主が願われ、望まれるようにではなく、どこまでも自分の願いしか
ない。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけ
が成る」。自分の思いと自分のプランがあるばかりだ。「わたしの
はかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる」主のは
かりごとと、主の望む事があることを覚え、自分の思いでなく、主
のみ思いが成るようにと、祈りを変えた。

その時、自分が変えられて行った。主が望む事が、遂げられて行く
のであれば、自分の思いや望み通りでなくても、一番良いのであり、
受け入れて行けるよう祈った。その時、生まれて初めて平安を経験
した。自分の思い通りでなくて良いとは、何と平安なのだろう。
-----------
一見、正しいと思える事が曲者で、他の選択肢を認められなくなっ
てしまう。御心と思っても自分の計画ではないのか。前に進まない
のは主が大きく変えようとしてくださっている時かもしれない。


2017年12月28日(木)

「主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い」哀歌3:22


主は、私たちを豊かにあわれんで下さる。しかし、あわれみを求め
るには、へりくだった心が必要だ。へりくだっていなければ、あわ
れみを求めることは出来ない。私たちは、何か良くない出来事が生
じると、自分はなんと不幸せでかわいそうと、人からの関心、配慮、
同情を求める。

目に見える人の愛が欲しい。しかしだからと言って、主の御前に
「こんな罪人の私をあわれんでください」とあわれみを求めるとは
限らない。なぜなら、自分の惨めさ、弱さを認めることができない
からだ。プライドが許さない。そこまでではない、まだ自分で何と
かできると思っていたい。それを認めるのは、余りにも惨め過ぎる
と思っている。

だから、尚も自分の力に頼っている。しかし神のあわれみは、尽き
ることがなく、それは朝ごとに新しい。徹底的な無力感を感じる時
に初めて、自分には力があると思っていたことを知る。そして自分
の力でやっていた事がわかる。主が、取り扱いを通して、試練を通
して、自分がいかに無力であるかを教えて下さる。自らの無力を知
る事こそが、実は大きな祝福だ。

その時、「主よ、あわれんで下さい」との心からの叫びが出る。そ
して、又、自分の強固などうしようもない自我を知る時「主よ、あ
われんで下さい」と祈ることができる。そして、主はその祈りに答
えて、豊かにあわれんで下さる。
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神はくり返し失敗し罪を犯すばかりの者を、いつもかえりみて受け
止めて続けてくださる。神にあわれみを求める他にできる事がある
だろうか。弱さ、惨めさに気づく度にあわれみを求めて祈れる。
感謝しかない。


2017年12月27日(水)

「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」Tヨハネ1:8



バルナバが地所を売って、代金全額を献げた後のこと。アナニヤと
妻サッピラも地所を売り、一部を残し、ある部分を使徒たちに渡し
た。彼らの間違いは、一部ですと献げたなら、何の問題も無いのに、
全部の振りをした事だ。これは偽りであり、これは「人を欺いたの
ではなく、神を欺いた」のだと。そしてそれは「サタンに心を奪わ
れ、聖霊を欺いた」と言われている。

サタンから出ていると。その前に全部献げたバルナバが、皆から大
賞賛を受けた。その賞賛を自分たちも欲しかった。バルナバに対す
る羨望、妬みがあったろう。そして夫婦が「妻も承知の上で」「心
を合わせて」主の御霊を試みたと。一人が止め、いさめる事なく、
一致して神を欺いたことになる。ペテロは、アナニヤにもサッピラ
にも声をかけ、悔い改めの機会を与えた。

しかし、二人とも悔い改める事はなかった。そこで彼らは神に打た
れた。どんな罪でも赦される。しかしこの「偽り」が信仰生活に入
ると、信仰自体が機能しなくなる。すると信仰の破船だ。聖霊が罪
を指摘し、悔い改めを促しても「いいえ」と否定するからだ。自分
はそのような者でなく、自分に罪は無いと。悔い改めなど不要と。

それなら神を偽り者とすることになり、その時、神の言葉は私たち
の内にないと。教会誕生の最初に、この偽りが入ることを御霊は阻
止された。人に良く見られようとする時、「偽り」の誘惑が来てい
る。サタンの誘惑に陥らないために、御前でありのままおれるよう
祈ろう。
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神と自分の間に人が大きくなってしまうと人の評価で安心してしま
う。自分だけに示される罪や求めに敏感になり御霊の交わりを大切
にしたい。


2017年12月26日(火)

「そのために私は、高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」Uコリント12:7


パウロは、「とげ」が与えられた。そのとげの突き刺して来る痛み
は何とも苦しく、そのとげを取って下さるようにと、三度、主に祈
った。しかし、主の答えは「ノー」であり、その弱さの中にこそ、
主の力が完全に現れると。私たち一人一人にも、いろんな形で「と
げ」が与えられる。

病気や、様々な苦境、辛い問題、悩み、又しばしば対人関係の形で
やって来る。嫌な相手が目の前にいる。「何でここに、この人がい
るのか。この人さえいなければ、私は平穏で、幸せなのに。何でこ
の人が!」との相手だ。そこで何度も何度も、この人を私の前から
取り去って下さいと祈る。

とげが抜けて、痛みから解放されたら、どんなに楽で嬉しい事だろ
う。祈り続けるのだが、その祈りは答えられない。取り去って下さ
らない。しかしそこで取り扱われ、弱さの中でこそ、主の御力や主
のご愛を知って行く。そのとげは、高慢にならないために与えられ
たものだ。

そのとげにより、へりくだりが与えられ、弱さが恵みであることを
経験して行く。もしその弱さが無かったなら、何でもかんでも出来
たなら、決して主に頼ることなく、自分でやって行ってしまうだろ
う。弱さにより、心底主に頼ることを経験させられ、御言葉を信じ
ることを経験して行く。

今、目の前に祈るが、取り去られ無い事態があるなら、それがあっ
た方が良いという事だ。更に主に頼り、更に主を信じる信仰に成長
させようとして下さっている。あなたのとげは何だろう。
--------------
解決できない問題、長引く祈り、その中でどれ程変えられて来ただ
ろう。いつでも強く完璧であれば、弱さの中に働かれる主を決して
知る事はなかった。弱さを弱さのまま受け入れよう。


2017年12月25日(月)

「・・どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」ルカ1:38



マリヤに突如現れた、御使いガブリエルの言葉を受け、マリヤはす
べてが理解できたわけではなかった。が、「どうぞ、あなたのおこ
とばどおりこの身になりますように」と、受け入れ、我が身を差し
出した。マリヤが選んだ事ではなく、マリヤの思いでもない。主が
御心により、マリヤを一方的に選ばれた。

そして彼女を用いようと計画されたゆえの事だった。すべて一方的
な主の主権によることだ。マリヤには、様々な思いが巡ったことだ
ろう。見えるところ困難の壁が立ちふさがっている。しかし主を信
じ、「不可能は一つもない」主に、すべてを明け渡した。マリヤの
信仰だ。

パウロも以前、クリスチャンを熱心に迫害し、それが神のためと信
じていた。ところが突然の天からの光で、地に倒され、主の御声を
聞いた。異邦人、王たち、イスラエルの子孫への宣教の器として選
ばれていた。パウロの思いでなく、パウロが選んだ事でも無かった。
しかし主の導きに従った時、異邦人宣教への偉大な働きのために用
いられた。自分の思いではなく、主のご計画であった。

今、あなたも主からの示しがあるが、ちゅうちょしているだろうか。
とまどっているだろうか。「どうしてそのようなことに」と踏み出
せないでいるだろうか。「神から恵みを受けたのです」「不可能な
ことは一つもありません」を信じ、主からの示しに踏み出そう。
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どうしてそのようなことがの思いは示しと同時にいつも来る。マリ
アも戸惑い祈り、そして全世界の中でたった一人、神の御子を宿す
大きな恵みにあずかった。小さな示しも主が選んでくださった事だ。
真摯に祈って行こう。


2017年12月24日(日)

「御使いは・・マリヤに言った『おめでとう、恵まれた方、主があな たとともにおられます』」ルカ1:28



マリヤは、自分を主のはしためだと言った。奴隷とは、主人に絶対
服従だ。奴隷が、自分が納得したから、主人に従うだろうか。主人
を信じられるから従うだろうか。奴隷は、自分が理解できようが、
できまいが、納得しようがすまいが、主人の言う事に絶対的に従う。

マリヤは、突然の御使いの出現に、その言葉にひどく戸惑った。し
かし御使いに「どうしてそんな事が・・」と問い、御使いの説明を受
け、神に不可能は一つもないと言われた。すべて理解できたわけで
はないが、主が言われるのなら、従いますと応答した。「おことば
どおりにこの身に」と。

自分自身を主に明け渡した。自分の将来も、結婚の夢も、ヨセフも、
何もかもを主に委ねた。この後、どうなるか全くわからない。大変
な状況に直面するだろう。聖霊により妊るなどと、ヨセフが信じら
れるわけがない。家族、周囲の者はどう思うだろう。結婚前に妊る
など石打ちの刑だ。

様々な思いがよぎったろう。しかしマリヤは「この身に」と、自分
自身を差し出した。そしてその後、エリサベツに会いに行った時に、
神を喜びたたえ、人々も「私をしあわせ者と思うでしょう」と言っ
た。マリヤは喜びに満ち溢れた。

「主のはしため」とへりくだったマリヤを、大いなるわざのために
用いられた。私たちも御声に従う時に、恵まれた者であり、主がと
もにおられることを実感して生きて行ける。そこに真の喜びがある。

・・・・・・・・・・・
見える所だけ見れば、マリヤは大変な状況だ。結婚していないのに
妊るなどと、命がけだ。しかしこれは神からの恵みで、喜ばしい事
だと。主を信じて自分自身を委ねた時に、マリヤはその通りに計り
知れない大きな恵みにあずかる者とされた。


2017年12月23日(土)

「それで、彼は行って、主のことばのとおりにした」T列王17: 5



「彼に・・主のことばがあった」、エリヤはケリテ川に行くように言
われた。「彼は行って、主のことばのとおりにした」、示された通
りに、ケリテ川へ行き、そこで養われた。飢饉のため、その川が枯
れた時、「彼に・・主のことばがあった」、ツァレファテへ行け、や
もめ女に命じて養うと。

「彼は・・出て行った」、その町へ行くと、やもめ女に出会った。そ
こで彼女に水とパンを求めた。すると、彼女の悲惨な状況が発覚。
最後の一握りの粉でパンを作り、母子で最後の食事をして死のうと
しているという、何という事だろう。目の前の人物は、人を養う事
など到底不可能だ。しかし助けを求めなければならない。人間的に
考えるなら、その最後のパンを自分にくれとは、とても言えない。

しかし、エリヤは見えるところでなく、情でも、思いでもなく、信
仰に立ち、ただ御言葉に従った。まず自分にパンを作り、その後に
あなた方のために作るようにと。そうするなら、飢饉が終わるまで
粉は尽きず油は無くならないと。彼女はエリヤの言葉に従った。す
ると奇跡が起きて、母子は飢饉のまっただ中で豊かに養われた。

それは母子のためでもあった。神を第一にして従う時、神の栄光を
見る。自分の思いや、見えるところが正反対であっても、神の言葉
に、信仰によって従おう。「主のことばがあった」「主のことばの
とおりにした」。その時大きなみわざを見る。

・・・・・・・・・・・・・
主の言葉を、御霊の語りかけを、スルーし、ないがしろにしていな
いだろうか。今、目の前に示しがあれば、従えるよう祈ろう。主の
ことばの通りにする時に、次の展開がある。ぐずぐずしていると、
御霊の示しは消えてしまう。一歩、歩を進められるよう祈ろう。


2017年12月22日(金)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3 


ある人がプロジェクトのリーダーとなり、懸命に労していた。準備
に励んでいた最中に、急病で倒れ、入院という事態になってしまっ
た。別の人が代わりに立ち、取りまとめて行った。病院で処置が終
わると、静かな時が持てて祈っていた。「どうして途中でこうなっ
たのですか」と、やり遂げられず、残念な気持ちもあるがまま告げ、
心の内をことごとく祈って行った。

その時、表立って人を押しのけようとはしていないが、しかし心の
中に「自分が」「自分が」との強い思いがある事に気づかされた。
自分が上に立ちたい、前に出たい、認められたい、自分が仕切りた
い。認めたくないが、そうなのだ。「へりくだって、互いに人を自
分よりもすぐれた者と思いなさい」そのような態度も思いも無く、
心の内では、自分、自分だった。

砕かれ、教えられるためであった事を悟り、悔い改めて主に心から
感謝した。プロジェクトを成し遂げるより、もっと大切な大きな学
びを得た事に感謝できた。そして病室で、祈り手として執り成しの
祈りにあずかれた。そのため、その成功を共に喜べた。一致を妨げ
るものが、「自己中心」と「虚栄」だ。

一致が無く、秩序が乱れ、分裂が生じる時には、そこに自己中心と
虚栄がある。そして、一致に必要なものが「へりくだり」だ。へり
くだりとは、「互いに人を自分よりもすぐれた者と思う」ことだ。
私たちは神のみ思いでなく、自分のメガネと自分の物差しを持って
いる。これが自己中心であり、自分の思いに固執する。

「虚栄」とはプライドであり、自分が特別な人間だと認められたい。
様々な出来事で、主はそこを取り扱おうと教えて下さる。砕きによ
り変えられて行く。
-----------
自分の物差しが一番正しいと誰もが思う。だから更に自分、自分と
押さえても前に出ようとする自我がある。互いにすぐれている者で
あり、互いにそういう弱さを持っていることを覚え祈っていきたい。


2017年12月21日(木)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



神に出会うまでは、神無しの人生を生きて来たので、この世の価値
観が根深くある。どこまでも軸が自分にあって、自分軸で考えてし
まうし、そうしか考えられない。それが普通の状態で生きて来たか
らだ。そのためどうしても「自分のための神」になってしまう。

「自分が幸せになるための神」「自分がより良い人生を送るための
神」「自分が助かるための神」「問題解決のための神」その底は、
どこまでも「自分」であって、「初めに神」ではなく、「初めに自
分」になってしまう。「自分」のための神だ。

しかしそこには本当の「喜び」、「御霊の喜び」は無い。真の平安
も無い。そして聖書の信仰は、神中心なので、なかなかわからない。
自分中心、自分軸でしか考えられないからだ。又、自己実現、自己
充足等は、悪いことに思えないので、そのための神としていても気
づかない。

しかし御霊が信仰生活を導いていて下さるので、少しづつ少しづつ、
自分の姿を見せて下さって気づきを与えて下さる。教理的には神の
栄光だが、実は、自分の要求のみで、神のお心、神の栄光など発想
にも無いことに気づくことから始まる。

自らの求めを、神の御心に合ったものに、自分が変えられて行くこ
とを学ばせられて行く。その時に、自らの心の願いが叶えられること
を経験して行く。
------------
自分の判断で人も状況も見えているので、状況で一喜一憂してしまい
そうになるが、神の御心を深く知ろう、御言葉の約束から見ていこう
と心の向きを変えるなら、自らが大きく変化させられる。


2017年12月20日(水)

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」マタイ6:12




頭では、人を赦すべきとわかっているが、なかなか出来ない。ある
人が、悪口を言われている事が、巡り巡って入って来た。それがそ
の相手は、面と向かって話す時には、良い顔をするのに、陰で悪口
を言われている事に、ひどく腹が立った。怒りが湧き、赦せない思
いでいっぱいになった。それが、祈りの時に、祈れなくなってしま
った。

「私たちも、負い目のある人たちを赦しました」との御言葉に迫ら
れ、先に進めなくなった。赦せない思いがある所には、必ず怒りが
ある。相手を赦せない、怒り、憎しみがある事を示され、苦しくな
った。だが、思えば思うほど腹が立って、絶対に赦したくない。そ
れなら、自分の負いめも赦されないことになってしまう。悶々状態
だ。

とにかくいつも学ぶように、まず祈りに持って行こうと、この悶々
状態を、あるがまま主に告げて行った。赦したくない、しかしこの
ままで良いはずはない。助けて下さいと祈り続けていた。すると、
御霊により、今までの学びを思い起こさせられた。皆、弱さがあり、
罪人であり、完全な人などいないこと。赦しは、意志による選択で
あること。

選択しようとするなら、御霊の助けが臨むこと。赦せない思いに縛
られてしまい、神の御心を行なう事ができなくなってしまう事・・、
心が少しづつ落ち着いてきた。祈っていると、不思議に心が変えら
れて行く事を経験した。長い時間を要する事があるかも知れない。
しかしとにかく祈り続けよう。必ず導かれて行く。
-----------
赦したいと祈るなら必ず御霊の助けが臨む。赦したいと祈れないこ
とが問題だ。自分には出来なくても主が助けてくださる。赦せない
心を主に渡そう。


2017年12月19日(火)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4:4



ハバクク書にこんな御言葉がある。「いちじくの木は花を咲かせず、
ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食
物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、
私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」。何とい
う事だろう。花は咲かず、果物は収穫なく、畑は不作、家畜も死滅、
見渡す限りの不毛地帯だ。ひどい絶望状態だ。

しかしすべてを失った中でも「主にあって」「救いの神にあって」
喜ぶことができると。どのような状況の中でも、喜べると。私たち
は畑は豊作、受験は合格、商売は繁盛なら喜べるだろうか。しかし、
パウロやハバククが喜んだのは、「状況にあって」ではなかった。
「主にあって」であった。状況にあって喜ぶなら、常にアップダウ
ンしていなくてはならない。

状況が良い時は喜び、悪くなると落ち込み、落胆し、気力が失せ、
「いつも」喜ぶことなど不可能だ。しかし状況でなく、主を仰ぎ見
る時に、主は必ず良くして下さる、必要は与えられる、万事益とな
る、主は生きておられるので、御言葉により導きや指針が臨む。常
に希望がある。

痛い所、厳しい所、苦しい所を確かに通るが、そこで新たに主に出
会い、主を経験して行ける。私たちにとっての喜びとは、単に安穏
な生活でなく、主を知ること、主の愛を、真実を知る事ではないだ
ろうか。苦しい状況の中で、主の力、支え、慰め、励ましを受けて
行ける。だから喜ぶことができる。
-----------
喜べていないならそれは何故だろう。何によって喜べるのだろう。
いつも主にあってと言われている。今日一日でも信仰の目で喜んで
みよう。状況に関わらず喜んでいるならそれは大きな証とされる。


2017年12月18日(月)

「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」創世記22:12



イサクは、アブラハムの宝物であった。「あなたの子」とあり、よ
その子ではなく、自分自身の実子、「あなたの愛しているひとり子
イサク」と続く。とても大切な心底愛している子供、ひとり子であ
り後継者だ。神の祝福を受け継ぐ子であり、祝福が全世界に拡がっ
て行くこの上なく大事な約束の息子だ。そのイサクを献げよと。約
束が否定されてしまうのだろうか。

ある日、突然の神の命令だった。そして、これはアブラハムへの試
練だと。アブラハムにとって、どんなに厳しい試練だったろう。信
仰人生、最終章の大きな試みだった。しかし、アブラハムは従った。
神ご自身が全焼のいけにえである羊を備えて下さると信じた。又
「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と
考えた」。

もし全焼のいけにえとしてほふったとしても、神はイサクをよみが
えらせて下さると信じた。モリヤの地まで3日かかる。命令を受け
て、翌朝早く出た時から、彼の決心と信仰は変わらなかった。現地
に近づいた時、若い者たちに、そこで待つようにと言った。「私と
子どもとは、礼拝をして戻って来る」と。戻って来ると言った。

アブラハムも人間で、何度も失敗をした。しかし、主に従い続け、
信頼関係が培われて行った。とても自分には出来ない、無理だと思
う。だが自分の力でなく、神のみわざであり、信仰も与えて下さる。
試練通して長させて下さり、練の度に、主との信頼関係が強められ
て行く。
-------------
失敗しても主に従い続けるなかで、必ずそこにある主の助け、失っ
ても更に最善があることを経験で知れる。今与えられている目の前
の問題を、御言葉を信じ主を頼って歩んでいこう。


2017年12月17日(日)

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属 し、悪霊にするものです」ヤコブ3:15


昔から教会には、偽クリスチャンが現れて来た。その知恵は、神か
らのものではなく、悪霊に属するものだと。では、その知恵が神か
らのものか、悪霊に属するものかを、どのように識別すればよいの
か。行状は素晴らしく、クリスチャンより立派だったりする。しも
べとしてよく仕え、よく働く。言葉は業界用語を駆使する。クリス
チャン用語、御言葉が幾らでも出て来る。教える事ができるほどだ。

「実によって彼らを見分けることができます」「羊のなりをしてや
って来るが、うちは貪欲な狼です」「盗人が来るのは、ただ盗んだ
り、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです」。偽クリスチャン
が来るのは、外側どんなに良く見えても、実は一致を破壊し、分裂
をもたらすためだ。

「肉の行ないは・・党派心、分裂、分派」見えるところは光の御使い
だが、必ず裏がある。裏に「邪悪な行ない」があり、「秩序の乱
れ」をもたらす。「上からの知恵は、純真、平和、寛容、温順・・見
せかけのないもの」だ。上からの知恵は、見せかけがなく、表裏が
無い。「霊だからといって、みな信じてはいけません」、識別が必
要だ。

「にせ預言者たちに気をつけなさい」「御霊を持たず、分裂を起こ
し、生まれつきのままの人間です」。自分自身が欺きに陥らないた
めに、主の御前に正直でいよう。悔い改め〃つつ歩み、絶えず上か
らの知恵を求めよう。御霊は助け、平安を与え、導いて下さる。そ
して、神からのものは、必ず御霊の実を結んで行く。愛、喜び、平
安・・の実だ。主との間の愛が増し加えられて行く。

・・・・・・・・・・・・
この世にいる間は、すべての思いや志が、神からではない事をよく
わきまえていよう。サタンからの思いがあり、クリスチャンもどき、
聖書もどきが行き交う。絶えずサタンの攻撃がある。自分自身は主
の御前にただただ正直であり、絶えず御霊の光に照らして頂こう。


2017年12月16日(土)

「彼らが、私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、 そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に 祈った」Tサムエル8:6



イスラエルの国は、神によって治められていた。しかし民は、人間
の王を求めた。サムエルは年老いて、息子達も主の道を歩んでいな
い。敵の攻撃があっても王がいれば戦ってくれる、そのため他の
国々のように、自分たちも王が欲しいと。サムエルは気に入らなか
ったが、祈りに持って行った。私たちも気に入らない出来事も、ま
ず祈りに持って行く事が大切だ。

主は、民が、人間の王を欲した時に、「彼らを治めているこのわた
しを退けた」と言われた。そして、王の権利を知らせよと言われ、
サムエルは、ことごとく民にどんな犠牲があるかを知らせた。息子
は戦いに取られ、娘たちは働かされ、畑は取り上げられ、自分の家
来たちに与える・・そして自分たちの選んだ王のゆえに主に求めても、
その日、主は答えて下さらないと。

しかし、それでも尚、民はどうしても王が欲しいと言い張った。そ
の時、主は、彼らに一人の王を立てよと答えられた。人間が、神の
警告を聞かずに、どうしてもしたいと主張し続けて願うものは、神
は与えられる。しかし願いが叶えられた結果、やせ衰えると。「そ
こで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってや
せ衰えさせた」詩106:15

自分の欲望を突き通すのでなく、私たちを愛し、最善を備えて下さ
っている神に従い、神の警告に従う事が、自分にとって喜びと平安
の道だ。それは何よりも神の愛から出ているからだ。純粋に私たち
の益のためだ。もし今、主からの警告があるなら、耳を傾け、従お
う。

・・・・・・・・・・・・
どうしてもの欲望、欲しいものがあるなら、その思いをまず主に持
って行こう。気持ちを充分告げて知って頂こう。もし御心でないな
ら教えて下さる。主に充分受け止められ、受け入れられ、愛されて
いる事がわかるからこそ、自分の思いを献げて行ける。


2017年12月15日(金)

「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」詩編119:50



道に迷った事があるだろうか。方向もわからず、どこへ向かえば良
いのかわからない。その時は、交番か、地の人に聞けば進める。停
電で、暗闇の経験があるだろうか。ロウソクや懐中電灯でホッとす
る。飛行機や船の航行はどうだろう。雲におおわれ、嵐の中で、何
も見えなくなった時、羅針盤や計器によって正しい方向に進める。

これらが霊的生活においては神の言葉だ。どの方面に進むべきか、
どちらを選択すべきか、わからない時、御言葉は方向を示し、確か
な指針を与えてくれる。又、苦境の時に、どうすべきかを教えてく
れる。経済的苦境、対人関係の苦境、仕事上の問題、健康の悩み・
そんな時に、御言葉は、なすべき事を教え、心の内側も照らし、励
まし慰めを与え、平安へと導いてくれる。

ある人が失業し、就活は次々と落ち、貯えも底をつき、不安と恐れ、
思い煩いで一杯だった。どうしてよいかわからない。この苦境で
「御言葉を下さい」と切に祈り求めた。すると「すべての事につい
て感謝しなさい」との言葉が臨んだ。答えだとわかった。それで
「失業を感謝します。まだ職が無い事を感謝します」と祈った。

その時に不思議が起きて、不安と恐れが消えて、心にすうーと平安
が広がった。御言葉に従った時に、状況は変わらないが、心が変え
られた。前に進めた。次に「求めなさい・・捜しなさい。そうすれ
ば見つかります」に従って、平安の内に職捜しができた。そしてふ
さわしい職が与えられた。
-------------
環境の上に安心を置いていたことを問題が来ると示される。そして
御言葉の上に信頼するときに平安が来ることを学ぶ。御言葉を求め
よう。慰めと力が与えられる。


2017年12月14日(木)

「・・炎はあたなに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ」イザヤ43:2


水の中を過ぎる時も、川を渡るときも、押し流されない。火の中も、
焼かれず、炎は燃えつかないと言っている。わたしがあなたと共に
いるからと。モーセに率いられた出エジプトを思い出す。背後から
精鋭エジプト軍隊の追っ手が迫り、目の前は紅海。前進も後退も出
来ない、まさに絶体絶命だ。

そんな中、目の前で紅海が分かたれ、道が造られた。そして約束の
地カナンに入る前に、とうとうと水が溢れ、横たわる橋も舟もない
ヨルダン川を、主は渡らせて下さった。火の中も焼かれずとは、シ
ャデラク、メシャク、アベデネゴが、ネブカデネザル王の命令に逆
らい、金の像を拝む事を拒否した時に、燃える炉の中に投げ込まれ
た事を思い出す。

いつもの7倍熱い炉の中に入れられたが、全く無傷だった。主が彼
らと共におられた。よく見ると、その炉には彼らの他にもう一人い
たと。主イエスがまさに共におられた。私たちも信仰人生で、水の
中、火の中の非常に厳しい試練を通る。しかし押し流されず、焼か
れず炎は燃えつかない。

ある人は子供に難病が発覚した時に、涙に暮れ、しかしその子供か
ら喜びと平安と希望を与えられる事に。ある人は、親の介護の厳し
い現実に瀬戸際に追い詰められた。しかし叫び祈り、委ねて行った
時に、心に“人のすべての考えにまさる平安”が与えられた。どん
な中にも必ず救いがある。炎は燃えつかない。
---------
自分一人では疲れ果てて、とても脱出できない問題であっても主が
時に叶った助けをくださる。その助けは無限だ。動くことも揺らぐ
ことも無い。私たちの信仰はそこに立っている。


2017年12月13日(水)

「私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は」詩篇39:1


詩篇記者は、口に口輪をはめておこうと言っている。舌で罪を犯さ
ないためにと。悪者から攻撃され、非難されている状況だ。私は、
ひたすら沈黙を保ったと。なぜなら、燃えたぎる怒りで、口を開く
や、言葉で罪を犯してしまう。言葉は一旦発すると取り返しがつか
ない。そしてそこにはサタンの罠がある。パリサイ人たちがいつも
主に罠をしかけて、言葉で主を罠にはめようとしたように。

そのため、彼はとにかく精一杯の沈黙を保った。しかし黙している
と、ストレスが内攻し、鬱積状態になり爆発しそうだった。苦しく
てたまらない。その時、彼はどうしたかと言うと、それを人にでは
なく、主に持って行った。人から受けた傷は、主に持って行き、癒
していただくのが一番だ。心の中の本音を吐き出し、底の気持ちを
何もかも神に告げた。

主に向かって祈っていると、心が落ち着いて来て、人生は、短い、
はかなく虚しい、貯えたとて死ねば誰のものになるのかと。本当に
大切なものを気づかされて行った。混乱した心の内を告げ、祈って
いると、信仰が戻って来た。この虚しい人生での望みをかけられる
のは何かと、見上げた時に、主を見い出した。「私の望み、それは
あなたです」と。

そして私たちはこの世では寄留者だと。正しい場所に戻された。
「私がほがらかになれるように」もう一度喜びが戻る。心が混乱す
る時、苦しい時、思い煩いで一杯の時、主に向く事により、心が整
理され、様々気づきが与えられる。
------------
私の心はうちで熱くなり燃え上がったとある。感情的になりそうな
場面では、ただ祈り心で口を閉じて自分を守ろう。正しく裁かれる
主は自分自身の心も整えてくださる。


2017年12月12日(火)

「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです」Tヨハネ2:12


赦さない心は、自分が苦しい。辛くてたまらない。恨み、裁き、憎
む思いは心に重い鉛となる。心をふさぎ、重苦しくする。経験ある
だろうか。普段、目の前の事に忙殺されている時には、忘れている
のだが、ふっとした途端、思いによぎり、心を暗くする。楽しい時
にも、頭をよぎった途端、苦しくなる。

そして何より一番の問題は、御霊によって歩めなくなってしまう。
「御霊によって歩みなさい」の命令に従えない。肉の歩みになって
しまう。今の状態を祈りに持って行こう。あるがままを主に告げよ
う。主は受け止めて下さる。そして、赦さない自分を認めて、主の
助けを仰ごう。必ず赦せるように、一歩一歩を手を取って導いて行
って下さる。

沢山の人々がそのプロセスを経験して来た。自分には出来ない事を
認める時に初めて、御霊の助けが臨む。その中で、御霊が何か具体
的になすべき事を示される。一人一人に取り扱いが異なるが、相手
に声をかける事であったり、相手の祝福を祈る事であったり、その
御霊の示しに従う時、事が動いて行く。

信仰もって従う時に、神が動かれ、みわざをされる。その時、自分
の心が変えられて、赦す事ができている事を発見する。自分で出来
ない事を認めて、御霊の示しに従おう。主が、まず私たちを赦して
くださったことを覚えよう。
-------------
赦せない気持ちを主に告げる中で、赦せない思いも罪だと主との関
係が正される。自分では治まらない気持ちに主が働いてくださる。
感情に留まらず、迷わず御霊の導きに従おう。


2017年12月11日(月)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・」エレミヤ29:11


イサクとリベカ夫婦に、双子が誕生するが、前もって「兄が弟に仕
える」との御心が示されていた。しかし、その御心に目を留める事
なく、イサクは、狩りをする兄エサウを偏愛した。、リベカはリベ
カで、弟ヤコブを溺愛した。そして主のはっきりした、兄が弟に仕
えるとの、御心があるにもかかわらず、イサクは自分の思いでエサ
ウを祝福しようとする。

するとリベカも信仰ではなく、自分の力で、夫をだまし、ヤコブに
祝福が来るように計らった。その結果、ヤコブが祝福を受け継いだ。
騙されたエサウは激怒で、ヤコブは家におれず逃亡するはめになっ
た。家庭崩壊であり、各々が主を仰ぐ事なく、自分の欲を遂げよう
とした結果だった。

夫婦間も、兄弟間もおかしい。ヤコブの家庭も同様だ。ヤコブは、
ヨセフを特別に可愛がり偏愛した。その結果、兄達は嫉妬でヨセフ
を激しく憎んだ。そうすればこうなる。兄達は、ヨセフを異国へ売
り飛ばしてしまう。息子達は問題を起こし、ヤコブの二人の妻、レ
アとラケルは激しく嫉妬し合い、ヤコブの家庭も機能不全家族だ。

家族が傷つけ合い、ぼろぼろだが、しかし、神は大きなご計画の中
に、彼らを導かれる。「地上のすべての民族はあなたとあなたの子
孫によって祝福される」とのアブラハムに誓った誓いを果たされる。
ヨセフは苦難の末、エジプトで総理大臣となり、一族が絶体絶命の
飢饉の中、一族の命を救う事となる。

人は罪を犯し、間違いをし、滅茶苦茶な歩みをする。しかし、神は
何もかもを働かせて益とされる。万事が益と働いて行く、何という
一方的な恵みだろう。失敗しても挫折しても、しっかりとこの所に
立ち見据えていよう。
-----------
失敗は辛い経験だが、そこから学べることは多い。自分の限界を誰
よりも知っておられ、大きなご計画を持って導いてくださっている
神に信頼し成功よりも、もっと実りある失敗にしていこう。


2017年12月10日(日)

「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、 キリストの使徒に変装しているのです」Uコリント11:13



偽使徒、人を欺く働き人がいると、御言葉が言っている。サタンの
働きであり、サタンは擬装すると。サタンが、不品行、汚れ、好色、
分裂、泥酔、遊興といった形で来るのはわかりやすいが、別の面で
は、光の御使いに変装して来るとある。つまりサタンは、神に変装
して来る。偽預言者、偽教師となって来るし、又、偽クリスチャン
となってやって来る。

それは「羊のなりをしてやってくる」ので、私たちが思うような、
サタン的なものではない。一見、邪悪そうな悪人ではない。羊に姿
を変えている。そのため逆に非常に魅力的だ。必ず良い人であり、
大変親切で愛想良く、誰にも好かれ、非常に感じが良い。だからわ
からない。だが、なりすましであり要注意だ。

サタンの変装で、人を欺くためだ。偽預言者は、真理を語るのでな
く、聞く人に都合の良い事を語る。耳ざわりの良い事、人の気を引
くこと、気に入る事を語る。罪や、悔い改めや、滅びは語らず、苦
しい試練や訓練、鍛錬は語らない。愛されている事、赦されている
事、受け入れられている事がすべてだ。痛い事は決して言わない。

又、偽クリスチャンもそれのみを求める。罪の指摘、矯正や義の訓
練、砕きは要らない。自分を捨てる事も十字架を負う事も無い。気
に入った、心地よい言葉だけが欲しい。サタンが変装して来る事を
覚えよう。御言葉が言っている事だ。警戒し、よく祈っていよう。
自分自身も、御霊から来る痛い言葉、心刺される言葉を受け止めよ
う。それこそが必要であり、自分を変えて行ってくれる。

・・・・・・・・・・・
天に帰るまでは、この世にいる間は、ずっとサタン相手に霊の戦い
だ。朝起きた時から、夜寝るまでずっとサタンの火矢が来ている。
サタンが頭に無い時、サタンを忘れている時が、サタンにやられて
いる時だ。神の形をして欺いて来る事をわきまえて、祈っていよう。


2017年12月09日(土)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になる ことを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:10


神は、私たちの内に、御心にかなった思いを心に授けられる。つま
り「〜しよう」「〜したい」との思いを起こされる。しかし、心に
起こる思いが、すべて神からのものというわけではない。サタンも
絶えず火矢を投げ込み、心に思いを吹き込む。又、自分から湧き上
がって来る、肉の思いもある。では、どれが神からの思いなのか。

見分けるためには、その思いについて、まずとにかく祈ることだ。
まず祈りに持って行く。そして、その思いが、聖書全体の原則にか
なっているかを見る。どうであれ、御言葉に反する方向へ導かれる
事は絶対に無い。神に矛盾は無い。目的のために手段を選ばないも
のも、神からではない。不正な方法で事をされない。神から出たも
のであれば、目的も手段も正しく導かれる。

それは人の徳を立て、霊的成長に役立つものか。御霊は、意味もな
く人を傷つける事はされない。誰かが傷つくなら、それは違う。又、
御心の思いは、時間の経過があっても変わらない。気まぐれな肉の
思いなら、気分次第で変わるし、しばらくすると消えてしまう。特
に重要な事柄であれば、よく時間をかけて祈ることだ。それではっ
きりしてくる。神の御心なら、その思いは時間を経ても変わらない。

環境も伴って行く。又、指導者に祈ってもらうと良い。御心なら必
ず一致があり、共に平安が与えられる。神からの御心をしっかり受
け取り、従おう。神が成就され、栄光を現される。

・・・・・・・・・・・・
「わたしは、あなたの神、主」「あなたの歩むべき道にあなたを導
く」とは、なんと心強い事だろう。目の前にどういう事態があり、
どういう状況であろうと、主は必ず導いて下さる。よくアンテナを
張って、御声に耳を澄まし、環境を見張っていよう。


2017年12月08日(金)

「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」ピリピ2:2


ピリピ教会には、不一致の問題があった。「ユウオデヤとスントケ
・・あなたがたは、主にあって一致して下さい」と。ピリピ教会は、
外部からの迫害もあった。そのためにどうしても一致が必要であっ
た。そして、「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、
御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがある」ので、だから一致を
保ち、志を一つにして行くようにと。

教会の一致を妨げるものが、「自己中心」「虚栄」だ。そして一致
に必要なものが「へりくだり」だ。それは「互いに人を自分よりも
すぐれた者と思う」ことだ。私たちは皆、自分のメガネを持ち、自
分の物差しを持っている。これが自己中心であり、自分の思いに固
執する。そして自分の益だけを求める。

これが妨げとなり、相手の本当の姿を、正しく見ることができない。
これを捨てる時に、初めて相手の立場に立ち、理解して行くことが
できる。「虚栄」とはプライドであり、自分が特別な人間だと認め
られたい。主のへりくだりと対極をなす。へりくだりとは、「人を
自分よりもすぐれた者と思」う事だ。
--------------
それぞれに豊かな賜物、個性の持ち主が心を合わせて主に従うには、
常に自己中心の自我と戦いそれを手放せるようにとの隠れた祈りの
連続ではないだろうか。


2017年12月07日(木)

「『あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい』・・『はしための家には何もありません。ただ油のつぼ一つしかありません』」U列王4:2


エリシャは預言者の集団を従えていたが、その内の一人が亡くなっ
た。借金を残しており、貸し主が二人の子供を奴隷にしようとして
いると、妻が訴えて来た。エリシャは「何をしてあげようか」と、
「家に何があるか」と尋ねた。家の中には何も無く、油の壺一つし
か無いとの答えだった。

エリシャは、近所から空の器を借りて来るようにと言い、油をつい
で行くように言った。彼女は、近所から多数の壺を集め、次々に油
をついで行った。その一つだけの油の壺から、油は幾らついでも、
無くならず、器の数の分だけ出て来た。そして、壺が無くなった時
に油は止まった。それを売って負債分を支払うようにと。

神は、必要を満たし、彼女の子供たちを守られた。そこでは空の器
が満たされた。神は虚しい、空の心を満たして下さるお方だ。私達
は、空の心を様々な他のもので満たそうとする。富、仕事、趣味、
名誉、地位、人からの賞賛、自己実現・・しかし決して満たされな
い。神のもとへ、虚しい心を持って来る時に、聖霊で満たして下さ
る。

神以外のもので満たそうとしても、心はいつまでも虚しいままだ。
私たちも、他のもので満たそうとしていないだろうか。又、器に、
余分なものが入っていないか。プライド、虚栄心、貪欲・・それな
ら、主は満たすことができない。それらを認めて、明け渡そう。
「空の器を」。その時、聖霊で満たして下さる。
----------------
空であることは無限の可能性だ。ありませんと人には言えない言葉
を主には言える。そこから新しい展開を待ち望もう。尽きることの
無い満たしを受け取ろう。


2017年12月06日(水)

「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ」箴言4:25


私達は、根深い古い性質があり、どうしても人の目を気にしてしま
う。嫌われたくない、良い人に見られたい。救われる前の古い価値
観、この世の価値観は、ずっと人との比較の中で生きて来た。人の
目に自分がどう映っているかを絶えず意識する。神の御前でなく、
人の目に映っている自分を意識して演じてしまう。それは本当の自
分ではない。

絶えず「人の目に映る自分」を見ているので疲れ果ててしまう。人
によく見られようと、自分でない自分、自分以上の自分を見せよう
とする。比較からは必ず優越感と劣等感が生まれる。そこから競争
意識による妬みが出て来る。自分が欲しいものを持っている相手を
妬む。解決の道は、比較を止める事だ。

比較さえ無ければ、優越感や劣等感、妬みから守られる。まっすぐ
に主だけを見ておれたら、どんなに幸いだろう。しかしそれがなか
なか出来ない。だが、神が備えて下さった道がある。それは、比較
する自分、人の前に演技する自分、背伸びをして、自分以上によく
見せようとする自分、ごまかす自分、それらを主の御前にそのまま
行き、認めることだ。

それが主の御前にへりくだる事だ。隠さず、欺かず、逃げずに、自
分の本当の姿を、主に告白することだ。その時、主は受け止め、働
いて下さる。人ではなく、主を見るように助けて下さる。解き放た
れて、自由にされて行く。正直に告白するなら、神は赦し、すべて
の悪からきよめて下さる。自分でどうにも出来ない事を、神がして
下さる。
------------
飾らないありのままの自分で御霊の導き、確信、平安など主からの
ものを受け取る前に、まず人を意識してしまうと解らなくなる。主
が望まれている道へ、真っ直ぐに目を向けられるよう心を配ってい
よう。


2017年12月05日(火)

「アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた」使徒5:5


バルナバが畑を売り、その代金をすべて献げた事で、皆の賞賛を受
けた。それを見たアナニヤとサッピラは、自分たちも同じように人
々からの賞賛を得たいと思った。それで、自分たちも持ち物を売っ
た。しかしその時、代金の一部を残しておき、ある部分だけを献げ
た。

それに対し、ペテロは、「あなたは、サタンに心を奪われ、聖霊を
欺いた」と指摘した。これは「企み」だと言った。彼らの間違いは、
一部を残して、ある部分を献げた事ではなく、一部であったのに、
全部を献げたかのように偽った事だった。別に全部献げなくても良
かった。一部なら一部で良かった。又、自分の持ち物なのだから、
自分のもとに残しておいても良かった。

彼らの問題は「偽善」にあった。人前に良く見せたいがために、偽
った。「アナニヤは、妻サッピラとともに」「妻も承知の上で」
「あなたがたは心を合わせて」と、どちらかが止める事もなく、合
意の上で、故意に行なった事であった。一致して主の御霊を試みた
と。ペテロは妻が来た時に、「地所をこの値段で売ったのですか」
と問い、悔い改めの機会を与えた。

しかし、彼女は「はい、その値段です」としらを切った。神への畏
れが無かった。信仰に、この偽りが入ると、立ち行かない。信仰が
破船してしまう。どんな罪も認めて悔い改めるなら豊かに赦される。
しかしそこに嘘が入るなら、認める事ができない。御前に正直でい
よう。どんな罪をも赦され、導かれて行く。
-----------
いつも純粋に全てを献げて、とは思えない弱さや、醜さ、計算もあ
る事実を自分自身が受け入れ認めていたい。そこを主に赦され、主
に支えられて今がある。今の自分で主に従って行こう。


2017年12月04日(月)

「民はモーセにつぶやいて、『私たちは何を飲んだらよいのですか』と言った。モーセは主に叫んだ」出エジプト15:24



モーセに率いられた民はエジプトを出た時、男子だけで60万人、
女子子供を入れると200万ほどだろうか。驚くべき人数だ。葦の海
から旅立ち、3日間、荒野を歩いた。彼らは水が見つからず、水を
探した。マラでようやく水を見つけたが、それは非常に苦くて飲め
ないものだった。

そのいら立ちとつぶやきは、モーセに向かった。モーセの素晴らし
いところは、民に向かわず、それをいつも主に持って行った事だっ
た。自力でどうこうしなかった。モーセが祈ると、一本の木が示さ
れた。それを水に投げ入れると、その水は甘くなった。その水は民
をうるおした。「その所で彼を試みられた」。

これはまた、民だけでなく、モーセへの試みでもあった。試練の中
で、主の御声に従うかどうかを試みられた。民はエジプトを出て、
そのまままっすぐに行けば、カナンまで2週間位のところを、あえ
て荒野へと南下させられた。そして40年間荒野をさまよった。

これは、神が、民を様々な試みを通し、訓練し、整えるためであっ
た。信仰を成長させ、整え、神に従って生きることを身につけさせ
る、その歴史であった。私たちも同じように、荒野を通る。様々な
苦しい問題や悩みを通り、試され、砕かれ、練られ、鍛えられる。
そして信仰者として整えられて行く。

主に信頼し、御言葉によって生きる事を培われて行く。その荒野の
間、主はずっと天からマナを降らせられた。主に従うなら、必要は
必ず与えられ、満たされる事を見せられる。
--------------
日々やって来る問題の中で、主に訴え、主に問いながら導かれる過
程こそ感謝だ。問題を通して神を見て右往左往している所から、神
を通して問題を見ていたい。それならどんな荒野も乗り越えていけ
る。


2017年12月03日(日)

「聖なるものを犬に与えてはいけません・・それを足で踏みにじり、 向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから」マタイ7:6


主は、人を「さばいてはいけません」と言われると同時に、「偽預
言者たちに気をつけなさい」「羊のなりをしてやって来るが、うち
は貪欲な狼です」「見分けよ」と言われる。「裁く事」と「見分け
る事」は別の事だと。

「裁くな」と同時に「聖なるものを犬に与えるな」と命令された。
犬や豚を見分けなければ、どうして聖なるものを犬に与えるな、豚
に真珠を投げるなとの主の命令に従えるだろう。識別力を行使しな
ければ、見分ける事は不可能だ。

又「霊だからといってみな信じるな」と言われる。終末には、多く
の偽預言者たちが現れると。羊のなりをしているが、貪欲な狼だと。
羊のなりをして、つまり一見素晴らしいクリスチャンとしてやって
来る。。霊を何でもかんでも信じるのではなく、見分けよと。「鳩
のように素直」で、且つ「蛇のようにさとく」あるようにと。

では「裁き」はどうだろう。人を「裁いて」いる時は、自分の内に
優越感がある。上に立って、相手を見下している。そして自分は義
であり善なのだ。又、相手の非や欠点、失敗に快感があるなら、そ
れは肉であり、裁きだ。それは「裁いてはいけない」に違反してい
る罪だ。見分ける事は、事実を事実してだけ見るが、裁きは、主観
が入り、自分の思いが入る。

裁きがあるなら、悔い改めよう。そして、裁く事と見分ける事、識
別する事を区別しよう。光の御使い=神に偽装して来る、つまり偽
クリスチャンや、偽教師がいると御言葉が言っている。一見素晴ら
しいクリスチャンだが、実は聖なるものに敵対し、踏みにじって来
る者を、見分けられるよう祈ろう。祈りによって識別を与えられる。

・・・・・・・・・・・・
「なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか」とあ
る。日々の生活で、御霊からのものとサタンからのものを識別でき
るよう祈っていよう。祈りなくして不可能だ。「求めよ、そうすれ
ば与えられる」と続いている。祈りにより御霊が正しく導かれる。





2017年12月02日(土)

「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・ キリストをいつも思っていなさい」Uテモテ2:8


サタンは私たちの「思い」に攻撃して来る。「悪魔はすでにイスカ
リオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」と
あるように、悪魔が、ユダの心に、主を裏切る「思い」を入れた。
悪魔が持ち込んだ思いだ。ユダは、主を裏切る思いが、サタンから
の思いである事に気づかなかった。

最初にサタンが思いを吹き込む。そしてその思いを、受け入れるか、
拒否するかは、人間の側の選択だ。サタンからの思いの吹き込みを、
拒否せずに、同意し、受け入れ続けた時に「サタンが彼にはいっ
た」と御言葉は言っている。ユダが拒まず、その思いを決意し選択
した結果、サタンに支配されてしまった。

サタンからの思い自体は罪ではない。朝から晩まで一日中、様々な
思いを吹き込んで来る。それを選択し、同意し、受け入れる時に罪
となる。自らの欲のところに、サタンが誘惑を吹き込み、それを思
いの中でじっと熟成させ、妊娠させてしまう。「欲がはらむと罪を
生み」との通りだ。妬みや憎しみ、恐れや思い煩い・・その思いに同
意し、受け入れてしまっているだろうか。

心が真空状態になっている時に、サタンは思いを吹き込む。賛美や
御言葉、主を思う時に、心は守られる。心を、力の限り、見張れと
言っている。心を見張る人などいない。そのためサタンが自在に働
けてしまう。心を見張っていよう。祈っていよう。主を思っていよ
う。

・・・・・・・・・・・・・
「絶えず祈りなさい」「すべての事について感謝しなさい」祈りと
感謝が心にある時、サタンから守られる。心が主に向いている時、
平安と喜びがある。心が暗く沈む時、ネガティブに向く時、サタン
の思いについて行っている。御霊が気づきを与えて下さるように。


2017年12月01日(金)

「主よ・・私たちにも祈りを教えてください」ルカ11:1


祈りは、学校だと言われている。祈りとは信仰生活の中で、学んで
行くもので、最初からよく祈れるわけではないと。実践して行く中
で、実地訓練で教えられて行く。「求めよ。そうすれば与えられる」
とあるが、時に、なかなか与えられない事を経験する。

祈りには原則があり、御心にかなう祈りだけが答えられる。つまり、
御心でない祈りは幾ら祈っても答えられない。そのため御心にかな
う祈りを知るために、祈るわけだ。祈りの実践の中で、自らの祈り
が、主のお心に適うようにと軌道修正されて行く。主が祈りを導い
て下さる。求める動機が探られ、正されて行く。

目的が正され、核心に導かれ、御心にかなう祈りへと導かれて行く。
又、祈りの中で、自分自身の姿が見せられる。砕かれ、整えられて
行く。ある人がイベントの祈りで、あるアイデアが浮かんだ。良い
案であり御心を確信し、進めようとするが、ギクシャクして思うよ
うに行かない。皆の一致が得られない。

祈りで得た案であり、更に祈るが、事が進んで行かない。イラ立ち
の中で、祈っていた時に、自分の内側を照らされた。確かに主に示
された企画だが、意見を異にする人々に反発し、何が何でも押し進
めようとする。内に潜む頑なな「自我」に気づかされた。心から悔
い改め、自分自身も企画も主に明け渡した。

するとその後、不思議に、事が前に進みプロジェクトが組まれ実現
して行った。祈る時、答えと共に、私たち自身を造り変え、整え、
成長へと導いて下さる。
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自分の思いを告げるだけの祈りが、祈りの中で導き返される。主の
御心を求め、御心が成るようにと。主は常に最善のものを与えよう
としておられると祈りの中でいつも知らされる。