2018年01月31日(水)

「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う」箴言30:15


「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、愚かで、有害な多
くの欲に陥る」とある。富を手にしても、又幾ら貯えても、決して
満足する事がない。飽くことなく更に求める。これは富ではなく、
「貪欲」という肉の欲に陥っているからだ。必要が満たされていて
も、心には決して満足がなく、尚も、どこまでも富を渇き求めて行
く。

「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う。飽くこと
を知らないものが、三つある。いや、四つあって『もう十分だ』と
言わない」。果てしなく「くれろ、くれろ」と言い、欲望には際限
がない。「金持ちになりたがる」とは富だけでなく、名誉、地位、
人からの賞賛、人の上に立ちたいとの欲望だ。ここに誘惑と罠があ
ると。いつも人のものを欲しがり、比較しては、満たされない心で、
絶えず欲求不満に陥る。

しかし主を見上げる時、どうだろう。私たちは何一つ持たずに、こ
の世に来て、何一つ持たずにこの世を去る。今、生かされている事
は恵みだ。主は、いっさい何も思い煩うなと言われる、主の愛にお
おわれ、必要は必ず備えられ、日々に生きる喜びと平安が与えられ
ている。主が満ち足りる心を与えて下さるので、状況に関係なく満
足がある。何と幸いだろう。

満足は、外側のものからでなく、主からしか来ない。幸せとは、自
分の欲望が満たされる事と思うが、そうではない。そこに満足は無
い。更に渇くばかりだ。主に自分を明け渡して行く時、御霊に満た
される。その時、真に心の満たしを経験する。満足が心にある。何
と幸いだろう。
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もう十分ですと、神に生かされている存在であることを忘れず、そ
の恵みを素直に喜んで生きていよう。欲求に突き動かされて生きる
事が力の証のようなこの世にあって、なんと豊な人生だろう。


2018年01月30日(火)

「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれそれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:13


サムソンは、ナジル人であり、神から力の賜物を与えられていた。
そこに美しいデリラという大きな誘惑が来た。サタンの誘惑は、人
の内側にある欲望に働きかけて来る。巧妙にほんの少しづつ〃、し
かし、まとわりつくように念入りに働きかけてくる。最初は、少し
位大丈夫と油断してしまう。アル中やギャンブル依存、薬物依存の
人も、少しだけならどうという事ないと、段々と深みにはまって行
く。

デリラはペリシテの領主たちに、お金を渡すから、サムソンの力の
秘密を探るよう言われ、サムソンに力の秘密を尋ねる。しかし3回
もだまされたデリラは、尚も執拗にサムソンにせがむ。毎日しきり
にねだり、又責め立てたので、サムソンは死ぬほど辛かった。デリ
ラを失う事を恐れるサムソンは、とうとう力の秘密を明かしてしま
う。

力の秘密である髪の毛をそり落とされ、ペリシテに捕らえられてし
まった。「毎日、しきりにせがみ」私たちもどうだろう。毎日しき
りに執拗に耳に聞こえる言葉が、肉の言葉、サタンの言葉であれば
どうだろう。サムソンがデリラの誘惑に屈してしまったように、行
為へと進んでしまう。

逆に、御言葉を聞き続けるならどうだろう。神の言葉を喜びとし、
昼も夜もその教えを口ずさむなら、どんなに幸いだろう。日々どの
言葉を聞いているかが、行為を決定して行く。聞いている言葉によ
く注意していよう。神の言葉に心を向け、握って行こう。そうする
と御言葉を行って行く者とされる。
--------------
闇は、光によって一瞬で消える。サタンの誘惑の前に、立ち向かえ
る御言葉を備えておこう。くり返し失敗する弱点はどこか。何度も
落ち込ませたり誘惑するサタンの言葉に御言葉と祈りで勝利しよう。


2018年01月29日(月)

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしべがあなたをのろうのを聞かないためだ」伝道7:21も



対人関係で行き違いが生じ、心が辛くなる事があるだろうか。人か
らのちょっとしたあの言葉、この言葉がひっかかり、ひどく気にな
り、思い煩いや不安材料となる。又、面と向かって批判されたり、
責められたりする事があるかも知れない。心痛く、沈み込んでしま
う。よく振り返ってみて、もし自分の側に、落ち度があるなら、悔
い改めること、相手に謝ることが必要だ。

しかし考えても、自分に落ち度が無いなら、いちいち心に留めるな
とある。心に留めるべきは御言葉だ。御言葉に目を向けて行こう。
そして人がどう思うかでなく、主がどう思われるかだ。心ふさぎ、
落ち込み、又、攻撃心、怒りがわくのは、自分の中で、人の言葉が
大きく第一になって、最も心を占めているからではないか。

神の言葉と人の言葉と、どちらが自分にとって大切なのだろう。
御言葉でなく、人の言葉に、無意味に振り回されていた事に気づく
時、平安が戻る。御言葉を受け取り、御言葉を握っていよう。御言
葉を通して、人からの批判や目の前の状況を見る時に、神視点で人
の言葉や状況を見ることができる。

心に平安が無いなら、心が辛く苦しいなら、神の言葉でなく、人の
言葉を受け入れている。今、心が苦しく、平安が無かったなら、御
言葉以外の、自分の言葉や人の言葉に目を向けていないだろうか。
背後にサタンが働いている。その目を御言葉に向けよう。御言葉に
は神の愛と真実が宿っている。
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大きな圧力で迫ってくる言葉も人からのもので、主の御言葉ではな
い。「いちいち、心に留めてはならない」だ。心に迫って苦しくな
っているのは御言葉ではないと締め出していこう。


2018年01月28日(日)

「この忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何 一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」ヤ コブ1:3



「忍耐」の言葉には、「とどまる」との意味があるそうだ。つまり
忍耐とは、希望をもってとどまることだと。試練は誰しも辛くて、
自分から願うものではない。しかし試練が来た時に、逃げないで、
避けないで、その下にとどまれと。辛いこと、苦しいことからは、
どうしても逃げたい。できるだけ避けたいし、何とかして逃れよう
としてしまう。

しかし、逃げずに、とにかくそこにとどまる時、主は「忍耐」を生
み出して下さる。そして、私たちが願う「成長」が与えられて行く。
「忍耐を完全に働かせなさい」と言われている。ある人が、営業部
門で、対人関係の多い仕事だった。そんな中、一人の顧客からク
レームが来て、散々文句を言われ、罵倒され、非常に辛い状況だっ
た。上司に相談すると、その相手は、誰が対応しても同じで、あな
たの問題ではないと言われた。

苦しい辛い状況だったが、祈った。自分の思いでなく、主の御心に
従いたいと願った。主が教えて下さりたい事があると信じ、とにか
く逃げないで、この事態に向き合って行こうと決心した。祈ってい
て、どうあっても、主に仕えるように、相手に仕えて行こうと思え
た時、不思議だが心が落ち着いて、平安になった。

実際の対応にも主の助けを感じる事ができた。こんな経験は初めて
の事だった。主を知ることの御霊の喜びが臨んだ。逃げなかった事
で、大きな学びを得た。信仰に、一歩前進が与えられた。

・・・・・・・・・・
目の前に来る一つ一つは、主から送られている。時に面倒で、辛く
逃げてしまいたい。避けたい。しかし、起こる事に無駄は一つもな
く、主の目的と意図があって、「それはわざわいではなくて、平安
を与える計画」だ。必ず平安の落とし所へと導かれて行く。


2018年01月27日(土)

「サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております』と申 し上げた」Tサムエル3:10



サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と、申し
上げて、主の御声に聞き入った。最初はエリに呼ばれたと思い、
「はい、ここにおります」と言ったが、「何であれ、言われる事に、
お従いします」の姿勢だ。「お話しください。どのようであれ、お
従いしますから」サムエルは、その心の態度があったからこそ、主
の御声を聞くことができた。

御声を聞く事と、従う事はセットだ。私たちはどうだろう。したい
事が決まっていて、その後押しの御言葉が欲しいだろうか。欲しい
言葉が定まっているなら、それ以外の言葉は耳に入らない。聞きた
くないからだ。無意識にもスルーしてしまう。肉は、都合の悪い言
葉は聞きたくない。ただただ、自分の願いを聞いて欲しいばかりだ。

願い通りになって欲しい。余りに願いが強いと、願望以外のものは、
受け付けず、聞こえなくなってしまう。しかし、尚かつ自分は聞い
ているつもりなので、極めて要注意だ。無意識に自分の願望でもっ
て御言葉を読み込んでしまう。そうなると、御心と逆方向に向かう。

まず自分自身を明け渡すことが大切だ。もし思い通りでなくとも、
何であれ、お従いしますの姿勢が大事だ。その時、心が備えられ、
整えられ、主の御声がわかる。御心を知れる。そして従おうとする
時、行なう力も主から来る。強い肉の思いの妨げがないか、心探っ
て頂こう。

・・・・・・・・・・・
心の底に自分の強い思いがある時は、御言葉がよく聞けない。又、
自分の思いで御言葉を取ってしまう。まずありのままを祈り、自分
を明け渡せるように祈ろう。それも主が助けて下さる。そして御心
がわかるようにして下さる。


2018年01月26日(金)

「ナアマンは・・神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した」U列王5:14


ナアマン将軍はらい病を患っていた。その時、捕虜の娘から、らい
病を直せる預言者がいると聞いた。王の手立てもありナアマンはエ
リシャのもとへ行く事になる。馬と戦車と共に大々的にエリシャの
家に到着した。だがエリシャは出て来ず、使いの者に、ヨルダン川
へ行き7回身を洗えとだけ告げられた。

余りにも軽いあしらわれ方にナアマンは激怒だ。プライドが傷つい
た。怒って帰るところを、しもべの進言により思い直して、言われ
た通りにした。すると奇跡が起きて癒された。ナアマンは、自分自
身かも知れない。もし、エリシャが「〜しなさい」と難しい事を命
令したなら、ナアマンは、どんな困難な事であろうと、成し遂げた
に違いない。それは自分自身を誇ることができるからだ。

自分はこんなに力があり、有能であり、知恵があり、価値のある者
だと。肉は評価されたい、認められたい、ほめられたい。人からの
賞賛が欲しい。しかし主はそれらをシャットアウトされた。極めて
単純にされ、主を信じ、主を信頼すること、それがすべてだと。し
かし肉には難しい。どこまでも自分の力を誇りたい。

実は神のためと言いつつ、自分の力による自分の栄光を求めている。
御霊は気づきを与えて下さる。信仰や恵みによる歩みには、自分の
栄光の余地が全くない。自分の栄光は全く無いが、しかしそこに神
の素晴らしい栄光が現れる。そして自分も肉の喜びでなく、御霊の
喜びと平安を受ける
--------------
主は解決を与えようとしておられるのに、素直に御言葉に従えず悶
々と苦しんでいる事は無いだろうか。妨げているものは何だろう。
主の前にへりくだり素直に脱ぎ捨てよう。


2018年01月25日(木)

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう」エステル4:14



ハマンの悪巧みにより、ユダヤ民族に、皆殺しの危機が訪れた。そ
の時丁度、王の妃であったエステルに、伯父のモルデカイは、王に
あわれみを求めるよう伝えた。それは王妃の立場にいる、エステル
だけが出来ることで、エステルにしか、他の誰にも出来ない事であ
った。

エステルは、時ピッタリにその場にいた。「あなたがこの王国に来
たのは、もしかすると、この時のためであるかも知れない」と。
しかしエステル自身も命がけであった。召されないで王のもとに行
くことは死を意味する。彼女は決心した。そして皆に断食の祈りを
要請した。法令に反してでも王のもとへ行くと。もし死ななければ
ならないのなら、死ぬと。自分自身を献げた。

エステルは、王に救いを求める行動を起こし、主により、ユダヤ民
族はハマンの悪巧みから救われた。ここから学ぶ事ができる。環境
や境遇は、神から来ている。エステルがその時に、王妃として選ば
れていた事も、神のご計画による。私たち一人一人も神によって、
それぞれの場所に置かれている。そしてその位置にいる、あなたに
しか出来ない事がある。他の誰にも出来ない事だ。

エステルは、困難な厳しい状況で、死をも覚悟して、自分自身を明
け渡した。主はそのエステルを用いて、民を大きな危機から見事に
救われた。「ユダヤ人にとって、それは光と、喜びと、楽しみと、
栄誉であった」。遣わされたその所で、主に明け渡した人を用いて、
主は大きなみわざをされる。
-----------
神のご計画にあって今の場所に置かれている。一つ一つ小さな事も
主にあって誠実に行っていこう。決して無駄ではなく、主が祝して
主のわざのために用いられる。主に明け渡していこう。


2018年01月24日(水)

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3


主は、盲人の目に泥を塗り、シロアムの池で洗うように言われた。
シロアムの池はエルサレムから1キロほどだそうだが、目の見えな
い人が行くのは大変な事だ。もし初めての道なら、どんなに困難な
事だろう。更に池は下って行かねばならない。「そこで、彼は行っ
て、洗った」とあるが、いい加減な気持ちでは、決して出来ない事
だ。

又、信じないなら、はなから行かないだろう。しかし彼は、主に言
われた通りにした時に、見えるようになった。ここからが問題で、
パリサイ人達が、安息日に癒したと、主を批判し、彼も連行され尋
問された。この男性は、彼らにありのままを話した。パリサイ人達
は、主を信じないが、しかし目の前の男性が、目が開いた事実は否
定出来ない。

「あの人を何だと思うのか」と聞かれ、その男性は「預言者」と答
えた。男性は、主が誰なのか、よく知らなかったが、預言者でなけ
れば不可能だと思った。パリサイ人達は、彼の両親を呼び出して、
本当に生まれつき盲人なのかと確かめた。再度彼を呼び出し、主が
罪人である事を認めるよう迫った。

が、彼は盲目であったのが、今は見えるという事実に、神でなけれ
ば、そんな事は不可能だと言い切った。会堂から追放された彼に、
主がご自身を現わされた。彼は「主よ。私は信じます」と信じる者
にされた。そして主を礼拝した。霊の目が開かれ、真の救いを得た。
これこそが、神の栄光であった。
-------------
心配事や災いがあれば何が悪かったのか、誰の過失かと原因を探し
てしまう。原因ばかりに気を取られず、災いと同時に主が見せよう
とされている神の栄光があると、そこをしっかり見つめていよう。


2018年01月23日(火)

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」創世記3:1


エデンの園で、サタンは、エバを誘惑したが、まずどの木からでも
自由に取って食べて良かった。沢山の木があった中で、エバはその
たった一つ禁止された、その時、善悪を知る木の下にいた。その木
に、大きな関心があったようだ。サタンはエバを会話にうまく引き
込んだ。「どんな木からも食べてはいけないのか」とあえて訂正さ
せるように、うまく誘導した。

エバは乗ってしまい、会話を始めた。サタンと会話を始めた事が間
違いだった。そして「本当に?」と。疑いを持って来る。私たちに
も、主が明確に罪だと言われている事に対しても「本当に?ちょっ
とぐらいいいんじゃないの?」と。主からの語りかけに関しても
「本当に語られたの?自分の思いでは?」。サタンと会話を始め、
聞いて行ってしまうと、欺かれてしまう。

エバに「決して死にません」と正反対の嘘を堂々と言う。しかし、
巧妙なサタンに聞いて行ってしまうと、だまされて、もう嘘が見抜
けなくなってしまう。「あなたは神のようになる」。エバにとり、
大きな誘惑であった。「手に入れると、幸せになれるよ」、心がそ
こに向いてしまうと、サタンの嘘にだまされ、行動に移ってしまう。

サタンの言葉を心に入れてしまうと、主が禁じられた木は、好まし
く魅力的なものにしか映らない。その結果、行動に移り、取って食
べてしまった。私たちも同じサタンの攻撃が来ている。祈っていよ
う。御霊が識別させて下さる。祈りと御言葉によって勝利して行け
る。
------------
サタンの誘惑は絶えず思いに来る。御霊によって守られていなけれ
ば危うく弱い者だ。見た目に麗しく良く思えるものは、本当に神か
らのものなのか。サタンに一刻も早く気づけるよう祈っていよう。


2018年01月22日(月)

「いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」ルカ10:42


マルタとマリヤ、二人共同じように、主をもてなし、大歓迎したい
と思っていた。その歓迎の形が違っていた。マルタは綺麗に掃除を
し、家を整え、最高の料理でもてなしたいと思った。マリヤも主を
歓迎し、主の足もとに座り、主の語られる言葉に真剣に聞き入った。
マリヤは一言も逃すまいと全身全霊で聞いた。

マルタは、食事の時刻も迫って来る中、手は足らず、思うように準
備が進んでおらず、焦り出した。だいたい妹は何をしているのかと
見ると、何もせずに座っている。何もしていないではないか。マル
タは不満が爆発する。自分だけてんてこ舞いなのに、妹は手伝いも
しない。ムッとする。

それを許している主にイラ立ちが向かう。主よ、この状況を何とも
思われないのかと、主を責めて行く。私を手伝うよう、妹に言って
くれと、主に指図までする。主をもてなしたいとの良い思いが、周
囲を責めて、裁いて行く事になり、何のための奉仕かになってしま
う。本末転倒となる。

もてなしは必要で大切な奉仕だ。主はそのもてなしを喜んで下さる。
しかしマルタは、主をお喜ばせしたいと思ったが、自分の思いで、
自分の方法で、自分の力で行なった。自分の強い思いがあり、思い
通りにしたい。これなら、自分が主の上に立ってしまう。自分の力
で行なうと必ず不満が出て、周囲を裁いて行く。

私たちも、時々間違う。主は、必要な事は一つと明言された。あれ
もこれもと言われない。一つだけと。まず動くのでなく、まず座っ
て「主に聞く」、主と交わって始める。これが第一だ。
------------
孤軍奮闘している時は、自分の計画、自分の段取りと自分、自分に
なってしまう。最優先は何か、主の喜ばれることを祈って動きはじ
めたい。主と共に柔らかな心で伸び伸びと動き出そう。


2018年01月21日(日)

「立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために 身をきよめなさい」ヨシュア7:13


モーセの死後、ヨシュアをリーダーに、ヨルダン川を渡り、大きな
奇跡を経験し、更にエリコの城壁が目の前で崩れるという、大勝利
を民は見て来た。そしてヨシュアはアイに偵察隊を遣わした。偵察
に出た人々は戻って来て「彼らは僅かなので、二、三千人で大丈
夫」と言った。

そこでヨシュアは三千人を出したが、見るも無惨な敗北だった。思
ってもみない現実に、民の心はしなえ、水のようになった。勝利に
次ぐ勝利で進軍して来て、勝利を疑わなかっただけに、ショックを
受け大きな動揺であった。大いなる神が共におられる、ただその事
がヨシュアの拠って立つところだっただけに、敗北の事実が、それ
らをなし崩しにしてしまう。

主の御名はどうなるのか。敵の前で、この敗北はどうなるのか。ヨ
シュアは「なぜですか」とひれ伏し祈った。「大いなる御名のため
に何をなさろうとするのですか」と。しかしその「大いなる御名」
こそがこの敗北を与えられた。全能の神は、同時に聖なる神だ。
「聖さ」に関心を持たれ、罪のあるところに働かれない。

聖く無い所では、敗北の方が神の栄光が現れる。妨げは神の側でな
く、民の側にあった。アカンの罪が発覚した。その罪が取り除かれ
た時、再びアイに上り、神は勝利を与えられた。私たちにはどんな
時にも、主の血潮がある。主のもとへ行き告白しよう。主は完全な
赦しを与えて下さり、心に平安が戻り、再び、前に進んで行ける。

・・・・・・・・・・・・・
何か平安が無ければ、立ち止まって、御霊に心を探っていただこう。
主との交わりにより、矯正が必要なら導いて下さる。自分の思いで
歩んでいたり、又、思い煩いがあるのかも知れない。内側にあるも
のに気づかせ、平安へと導いて下さる。


2018年01月20日(土)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたがは律法の下に はいません」ガラテヤ5:18



日々の生活で経験するが、御霊に導かれて、御霊の支配の下で生き
る時、私たちは平安で、喜びがあり、感謝がある。しかし、律法の
下で、肉に従って生きるなら、途端に喜びも平安も無く、辛く苦し
く窮屈になる。「〜ねばならない」に陥って、「今のままでは、だ
めだ」「もっと頑張らねば」、心は焦りとイラ立ち。平安も失せて、
心は苦しいばかりだ。

重くふさがれるようだ。あの一タラントのしもべのように、常に神
に要求されているように感じる。要求されるばかりで、苦しい。神
がひどい、恐い方で、蒔かないところから、刈り取る非常に厳しい
方になってしまう。そこには感動も喜びも無い。

今、どうだろう。辛い信仰生活だろうか。そうであるなら御霊によ
く心探って頂こう。辛いなら、自分の力で頑張っている。自分でし
ているなら、必ず苦しい。例えば、妬みや憎しみ、怒りが湧く時、
これは良くない事と、自力で心の奧に抑え込むだろうか。抑え込ん
だものは、無くなるのでなく、押し込んでいるだけで、ずっとそこ
にある。更に膿んでただれる。そしていつかオーバーすると爆発す
る。

この時に、抑え込まずに「腹が立ちます、妬んで、憎んでいます」
と一つ一つ、人に言えない思いを、主に告げる事が大切だ。言い訳
せず、ごまかさず、主の御前に認めて、言い表して行くことだ。そ
うすると、御霊は悔い改めに導き、平安へと導いて下さる。絶えず
主を呼び、言い表わして行く時、嫌な思いが消えて行く事を経験す
る。主を呼び求めよう。その時、御霊の導きの下におれる。

・・・・・・・・・・・・
いつも疲れ人は来なさいと招いて下さっている。御霊があるところ
には自由があって、伸びやかだ。平安なく、心が重苦しいなら、主
のもとに行き、ありのままを告げて、主と交わろう。御霊の流れの
中に導き返して下さる。そこには憩いがあり自由がある。


2018年01月19日(金)

「自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」ヤコブ1:24



みことばを実行せよと言っている。ただ聞くだけで、実行しないな
ら、自分が欺かれてしまうと。みことばは、自分を映し出す鏡だと
言っている。鏡を見る時、自分の姿が見える。そこで髪の乱れを直
したり、服装をチェックできる。しかし鏡に映った姿を見て、何も
せずそのまま離れたらどうだろう。

髪は乱れたまま、服装はちぐはぐなままだ。そして忘れてしまうと。
「自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであった
かを忘れてしまいます」と。つまり自分には何の問題も無しになっ
てしまう。直すべき点が映し出されるが、スルーするので、そのま
まで自分は何も変わらない。私たちの心の内も同様だ。自分で自分
の心の中はわからない。

自分の本当の姿はわからない。鏡があって初めてわかる。みことば
が自分の姿を映し出してくれる。しかしその時に、御言葉に向き合
い、主に従って行くなら自分が変えられる。しかし立ち去るなら、
忘れて、何の問題も無い、すべてOKとなる。自分が変えられる事
が無い。

御言葉の下に自分を置き、映し出された自分の姿を見て、立ち去る
のでなく、その御言葉に従おう。悔い改めかも知れないし、矯正か
も知れない。新しい示しかも知れない。その時、自分が変えられて
行く。「その行ないによって祝福されます」成長が与えられて行く。
---------------
御言葉に向き合い考えると、一つ一つ悔い改めて整えなければなら
ない事ばかりだ。自分の今の状態を知ると痛いが、心底へりくだら
される。一つでも主の御心に成長できたら何と祝福だろう。


2018年01月18日(木)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」ピリピ2:14



神はみこころのままに、私たちの内に働いて志を与えられる。そし
て、神が事を行なわせて下さるとある。神が思いを与え、神が成し
遂げて下さる。だが、そのみこころを実際に行なおうとする時に、
つぶやきや疑いが出て来る。あなたも経験あるだろうか。「ああで
もない〜、こうでもない〜」「ああすれば、ああなり〜、こうすれ
ば、こうなり〜」あれこれ〃考えてしまう。

自分の立場を考えると、人にどう思われるか、変に思われないか気
になって仕方がない。又、払う犠牲に、時間に、労力を考えると、
ちゅうちょし、及び腰になってしまう。いのちの言葉をしっかり握
って、彼らの間で世の光として輝く、とあるようにいのちの言葉を
しっかり握る事が大切だ。

「世の価値観や常識、自分の思い、経験値」を握っていたなら、主
に従うことができない。この先もずっと従えない。肉の価値観が妨
げる。そして、ああでもない、こうでもないと、思い巡らしている
内に、サタンが「しなくてもいい」と吹き込む。ぐずぐずしている
間に、気力に攻撃が来て、気力がなえてしまい、御心が行なえなく
なる。その背後に敵の妨害、サタンの惑わしがある。

みこころに歩ませないよう、サタンは絶えず攻撃して来ている。振
り返る時、どうだろう。思い当たるだろうか。ぐずぐずして、失敗
しただろうか。「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守り
ました」の通り、御言葉をしっかり握る時に、「急いで、ためらわ
ず」行なうことができる。
-------------
志が与えられても、ぶつぶつと自分の中で考え、それで終わってし
まう。そんなことは無いだろうか。志とつぶやきはいつも同時に来
る。従いますの心でつぶやきを捨てよう。信じて従い輝いていよう。


2018年01月17日(水)

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


日々の生活で、主は、優先順位を定めておられる。「これらのもの」
というのが、その前に記されている「何を食べるか、何を飲むか、
何を着るか」という、生活上の種々の心配事だ。心配事は経済的必
要、対人関係の悩み、健康上の不安、仕事の問題、先の事と様々に
及ぶ。

そんな時、目の前の問題で、頭はいっぱいで、主が飛んでしまって
いるだろうか。順序が逆になり、生活の必要をまず第一に求めてい
るだろうか。そのために走り回り、あたふたし、不安に飲み込まれ、
不安は不安を呼び、思い煩いでどうにもならない。神を第一にせよ
と、御言葉は言っている。そうすれば生活の必要はすべて与えられ
ると。

主はすべて与えると約束して下さっている。優先順位が正しければ、
神の国とその義も生活の必要もどちらも与えられると。逆にするな
ら、どちらも失ってしまう。今、軌道修正が必要だろうか。目の前
の問題に向けている目を、主に向けよう。その時、信仰が戻って来
る。自分の力で、何とかしようとしているから、思い煩い、焦り、
イライラしている事に気づかせられる。

神第一とは、神の望まれる事、喜ばれる事を第一にして行く生活だ。
それは神との交わりから生まれる。余りにも多忙で、主との交わり
から遠ざかっているなら、今一度、生活を振り返り、軌道修正しよ
う。その時、乾いた心に、喜びと平安が戻って来る。
------------
心配事の解決に走りまわる前に、神の備えてくださる解決に信頼し
、信仰に立ちもどろう。迷いや焦りがあっても、信仰により御言葉
に従った時、様々に解決を経験したことが有るのではないか。


2018年01月16日(火)

「セムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった」創世記9:23



ノアの箱舟の出来事の後、箱舟から出て来たノアの息子たちは、セ
ム、ハム、ヤペテであった。ノアはぶどう畑を作り始めた。そして
ぶどう酒を飲んで酔って、天幕の中で裸になっていた。息子のハム
がそれを見て、外にいるセムとヤペテに告げた。

ハムは父のぶざまな裸の姿を見て、二人の兄たちに、告げ口のよう
にするが、しかし二人の兄たちは、着物を持って来て、自分達二人
の肩にかけ、後ろ向きに歩いて行って、父の裸をその着物でおおい、
父の裸を見なかった。愛は、人の失敗や弱さをあげつらい、辱める
のでなく、それをおおう。ノアは自らの裸をおおってくれた二人の
息子を祝福した。

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をお
おうからです」とある。律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕
らえられた女性を連れて来た。そして主に、モーセは姦淫の女を石
打ちにするよう命じていると。あなたはどうするのかと詰め寄った。
群衆は好奇心で見物するかのように、そこにいる。主はじっと座っ
て地面に何か書いておられた。

そして罪の無い者が石を投げよと、言われた時に、人々は去り、誰
もいなくなった。その女性に、主は「婦人よ」と語りかけ、「わた
しもあなたを罪に定めない。今から決して罪を犯してはならない」
と。その女性の罪を主はおおわれた。「幸いなことよ。そのそむき
を赦され、罪をおおわれた人は」。私たちも、十字架で罪を赦され、
おおわれた幸いな者だ。
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人の過失だけに目が行くと批判が沸きあがって、次第に批判が正義
のように思えてくる。御言葉はその肉とは真逆を示しておられる。
愛は多くの罪をおおうと。主におおわれた愛をいつも覚えていたい。


2018年01月15日(月)

「すると御使いは言われた『・・ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た・・さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい』」創世記31:12


ヤコブは母リベカと共謀して、イサクと兄エサウをだまし、長子の
特権と祝福を奪い取った。エサウは激怒し、ヤコブを殺そうとした。
それでヤコブは家におれず、家を出る事になる。荒野の孤独と寂し
さの中で野宿した。夢を見て、はしごが現われ、主がかたわらに立
ち、言われた。

「わたしはこの地をあなたとあなたの子孫に与える。わたしはあた
なと共にあり、あなたを守り、この地に連れ戻す。成し遂げるまで
あなたを捨てない」と。ヤコブは伯父ラバンのもとへ行くが、ラバ
ンはヤコブより更にうわてで、狡猾だった。ラバンに利用され、苦
役の歳月を過ごす。

ラケルとの結婚のために懸命に働くが、ラバンにだまされる。だま
したヤコブは、だまされる事になる。苦しい砕きを通る。苦しい20
年を経て、とうとう神の時が来た。「あなたの先祖の国に帰れ」と。
すべてに時があり、神が動かれる時には、ラバンも誰も妨げる事が
できない。

妻と多くの財産を得て、帰郷する事となる。この事のすべては主の
主権にあった。「この地に連れ戻す」「この地をあなたとあなたの
子孫に与える」主による事であった。「わたしはあなたと共にあり」
「成し遂げるまで決してあなたを捨てない」、主の約束の成就だっ
た。

主が握られたなら、決して放される事はない。狡猾なヤコブは、砕
きに砕かれ、主の器へと練られ変えられ整えられて行った。主はあ
なたをも握っておられ、多くの砕きは、主の器へとの整えのためだ。
---------------
全ての道において主は私たちと共におられ、その歩みを支えてくだ
さっている。困難や思い通りに行かないことがあるなら、主が子と
してあえて通される道ではないか。主の愛を信じて歩み続けよう。


2018年01月14日(日)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこ ころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全 であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えな さい」ローマ12:2



私たちには、主を知る以前の根深い価値観がある。この世の価値観、
肉の価値観、それは非常に固く培われていて、根は深い。主から目
を離し、御言葉から目を離すと、知らず知らず、その価値観に戻っ
てしまう。頑張るのは良いことで、善だ。自分の力で、頑張って、
頑張って生きるように、この世ではずっとそう言われる。

そうすると、出来ないのは、頑張っていないからという事になる。
頑張りが足らないからで、もっと頑張れと。それは非常に辛い事に
なる。又、自分は頑張っていて、辛くてたまらない。そうすると、
何もしていない人、頑張っていない人に腹が立ち、怒りが湧く。必
ず人を責め、人を裁くことになってしまう。

又、それは行ないに価値を置くので、成果を出せたら価値ある人間、
出せなかったら価値の無い人間になってしまう。神の恵みなどわけ
がわからない。どこの世界の話かになる。良い子は善で、ごほうび
をもらえ、悪い子は悪で、罰を受ける。その根深く培われた価値観
で、神を見、御言葉を見るので、それを当てはめて行くので、神の
愛がなかなかわからない。

生まれつきの価値観、世から凄まじく影響を受ける価値観が問題で、
価値観が変えられる必要がある。この世と調子を合わせるな、この
世の価値観と調子を合わせるなとあり、自分の根深い価値観に気づ
く事は大きな祝福だ、そこが御霊によって、御言葉の価値観に変え
られて行く時、見方が変わり、思考パタンが変わり、行動が変わり、
自分は変わって行く。

・・・・・・・・・・・・・
行動じゃなくて、行動の前の、価値観の問題だと言っている。目に
見えるこの世の影響力は凄まじく、更に根深い培われた古い思考パ
タンがある事を踏まえ、御霊に拠りすがろう。気づきが与えられ、
その御霊の気づきが感謝で、心の一新へと一歩一歩導かれて行く。


2018年01月13日(土)

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して は、イエスはこのようなたとえを話された」ルカ18:9


「パリサイ人と取税人」のたとえが出て来る。どちらも神殿に来て
祈った。パリサイ人はこのように祈った。「神よ。私はほかの人々
のように、ゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの
取税人のようではないことを、感謝します」と。

週に二度断食し、全収入の十分の一を献げていると。悪い事はせず、
正しい事をしていると。パリサイ人は「私はほかの人々のように」
と、人との比較により自分を見た。人との比較に立つと、必ず優越
感と劣等感をグルグル行ったり来たりする。パリサイ人は、そこに
いた取税人と比較し、相手を見下し、優越感で自分を誇った。

しかし主の一番の御心は、神を愛し、隣人を愛することだ。そこに
愛は無かった。「愛が無いなら何の値うちもありません」と言って
いる。一番肝心なものが抜け落ちていた。内側は、高ぶり、自己正
当化、自画自賛、人を見下し裁く思いで一杯だったが、主の教えを
守り、従っていると自負していた。一番問題なのは、何の問題も無
いと思っていた事だった。

人は、自分の問題に、弱さに気づくから、主のもとへ行ける。そし
て罪赦され、問題は取り扱われ、祈りが答えられて行く。その時、
自分を変えて下さった主を誇って行く。御霊が内側の罪、弱さを照
らし、気づかされる。弱さを認める事は非常に痛いが、そこにこそ
祝福があり、御霊の平安、喜びを経験して行く。

・・・・・・・・・・・・
どんな罪であれ、失敗であれ、弱さであれ、それを認める時に、主
のあわれみは尽きず、素晴らしく良いものへと導いて下さる。肉は
弱さは認めたくないし、失敗は自己正当化し責任転嫁したい。御霊
に導かれ、認めて行く時に、万事益と祝福へと導かれて行く。


2018年01月12日(金)

「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった」創世記6:22 



主から「箱舟を作りなさい」と言われ、ノアはこれに従った。だが
見渡す限りの晴天、雨など降りそうにない。洪水など誰が信じられ
よう。しかしノアは見える所や自分の感覚、感情でなく、主の言葉
を真実とし、主の言葉に従った。寸法も設計も「すべて主の命じら
れたとおりにした」。

箱舟が完成した時も、自分で入るのでなく、主から「あなたとあな
たの全家族とは箱舟に入りなさい」との言葉により、入った。又、
雨は40日40夜降り続き、その後も150日間=5ヶ月間、水が増え続け
た。そして水が引き始め、大雨が止められた。アララテ山上に箱舟
はとどまり、2ヶ月半後、山々の頂きが現れた。ハトを放っては様
子を見、結局山上で7ケ月待った後、地は乾き切った。

その時、主は家族と一緒に「箱舟から出なさい」と命じられた。ノ
アは箱舟を作るのも、完成した箱舟に入るのも、出るのも、すべて
主の言葉に従った。「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」。
水かさが増し続けた5ヶ月の間、又、雨が止んだ後、7ヶ月の間、
ずっと箱舟の中だった。その間、どんな思いだったろう。

しかし、主は「ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣
や、すべての家畜とを心に留めておられた」。「心に留めておられ
た」。私たちにも同様にして下さっている。先が見えない、わから
ない、試練の中で、主はあなたを心に留めて下さっている。愛し、
慈しみ、しっかり目を留めて下さっている。そこを信じ、試練の中
で、主の言葉に従って行こう。
------------------
いつも主は御霊を通して慰め導かれる。見えない先の一歩は、今の
不安や問題を祈り明け渡した後に見えて来るのではないか。そして、
その導きに一歩従おう。


2018年01月11日(木)

「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:60



主に従うためには、主に目を向け、従おうとの意志をもって選択が
必要だ。オートマチックで、自動的に従えるのではない。人格や個
性、意志が無くなるのではない。夢遊病者のように、意志にかかわ
らず従って行くのではない。意識して、御霊の導きの方を選択し
、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。

主に拠り頼む必要がある。主が、私たちを操られるのではない。そ
れなら操り人形であり、ロボットだ。また、主が、私たちの意志を
無視して、何かされることもない。意志には触れられない。従うか、
従わないのか、自らの選択にかかっている。だから責任は自分にあ
る。神や人に責任転嫁する事は出来ない。

日々の生活を、自分自身を顧みることが大切だ。全く顧みることの
ないまま、日々の忙しさに、流されてしまっているだろうか。主と
の交わりから遠ざかってしまっているか。御霊の示しを、いい加減
にし、なおざりにしているだろうか。主の導きの方へ足を向ける事
が大切だ。祈りっ放しでよいのでなく、祈った結果、実際に行動す
る事が大事だ。

今、主の御心に、自分の足を向けるよう、具体的に従うように導か
れているなら、実行しよう。「急いで、ためらわずに」従ったとあ
るように、ぐずぐずしていると、そこにサタンの攻撃が来て、気力
が萎えて、必ずできなくなってしまう。その内に御霊の促しが消え
てしまう。大きな祝福を逃してしまう。今日、意志を向けて、示さ
れた事を実行しよう。
------------
試練の時だけでなく、いつも主との近い交わりを大切にしていよう。
主の細い声をキャッチできる。主の導きを確信したら主から力を得
て、ためらわず明け渡していこう。


2018年01月10日(水)

「主があなたのしたことに報いてくださるように・・あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように」ルツ2:12


飢饉から逃れるために、エリメレクとナオミは偶像の地モアブに移
った。二人の息子はそこで妻をめとったが、夫エリメレクも息子た
ちも死んでしまった。当時は男性社会であり、残された女性は危機
的状況であった。「主が民を顧みて」郷里が豊作になった事を聞き、
ナオミは帰郷の決心をする。二人の嫁が途中までついて来たが、ナ
オミは彼女たちを気遣い、実家へ戻るよう強く勧めた。

その時ルツの強い決心は変わらなかった。「あなたの神は私の神」
とルツの信仰であった。生まれ故郷を捨て、異国の地へと、とんで
もないほどの大変な決断であった。ナオミは「主の御手が下った」
と状況を受け止めていたが、帰郷すると、私をマラ(苦しみ)と呼
べと言い、主が私をひどい苦しみに会わせ、素手で帰されたと言っ
た。

だがすべてが逆方向へと向かい、希望と喜び、祝福へと変えられて
行く。丁度時期が「大麦の刈り入れの始まる頃」であり、ルツは落
穂拾いへと出て、生計の手段が備えられていた。「はからずもボア
ズの畑」であり、「ちょうど、ボアズがやって来て」、懸命に働く
ルツに目を留める。ボアズの親切と配慮を受ける事になる。

これらすべてが、偶然は一つもなく、主の働きによるものだった。
結果的にルツとボアズは結婚に至り、ルツはイエス・キリストの先
祖となる。素手で帰ったナオミは、その手で孫を抱く事になる。ま
ことの神に従った結果だった。主の御翼の下に、身を寄せる者を、
主はどこまでも守られる。
----------------
偶然と思われるものの後ろに神がおられ、時も場所も人も備えて、
祝福に導いてくださっている。今は不安の中であっても全てを働
かせて益としてくださる神の摂理の中だ。どこまでも頼っていよ
う。


2018年01月09日(火)

「彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」詩篇22:5


ハドソン・テーラーの証しだ。ある時、医師の助手として働いてい
た。その医師は、給料をよく渡し忘れるので、その時は言うように
と告げられた。彼はそれを聞いて考えた。その時には、言わずに祈
り、神から答えを頂きたいと。それを信仰の訓練にしたいと思った。
そしてやはり医師は、忘れた。

彼は祈った。祈って待った。とうとう銀貨1枚になった。そんな時、
非常に貧しい子供が来た。母親が病気だ。しかし銀貨は1枚しか無
い。2つあれば、喜んで1つ上げるが、1つなので上げられなかっ
た。その後祈ると「偽善者」との思いが来る。「祈るより与えるべ
きだ」と。出来ない自分に、神にのみ頼る信仰はないと、非常に惨
めになった。結局その銀貨を上げた。

一文無しになったのだが、心は平安と喜びで満ちた。その日の夕飯
は残り物を食べた。しかし翌朝から何もない。すると朝に郵便が届
いた。封筒を開くと、何と彼が子供に与えた額の数倍が入っていた。
そしてそのお金が無くなった頃、医師が給料の事を思い出してくれ
た。神は真実であり、生きて働いておられる。「正しい者が見捨て
られたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」とある。

ツァレハテのやもめは、飢饉の中、餓死する前に子供に最後の食事
をさせてやりたい、その最後の粉をエリヤに献げた。最後のギリギ
リのものを献げた、その時に、飢饉の間中かめの粉は尽きず、つぼ
の油は無くならなかった。真実な主が共におられる。
---------------
差し迫った問題を前に混乱しても出来ることがある。主を呼び叫ぶ
ことだ。主に信頼するなら失望は無い。必ず助け出される。不安は
襲って来るが問題の解決はただ主から来る。祈ろう。


2018年01月08日(月)

「神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7



悪魔とは、黒いマントを着たものを想像するだろうか。又、悪魔的
なものというと、殺人鬼や冷酷な犯罪者、泥酔、ギャンブル狂を連
想するだろうか。しかし聖書によると、光の御使いに変装するとあ
る。「キリストの使徒に変装しているのです。しかし驚くには及び
ません。サタンさえ光の御使いに変装するのです」つまり神に変装
して来ると。

すばらしく輝いて、この上なく魅力的で、美しく、好感の持てるも
のとして、目の前に現れる。思っているような形では来ないので、
簡単にだまされてしまう。そして悪魔はだまそうと意図し、それが
目的で来るので、簡単にやられてしまう。悪魔がエバを誘惑した時、
「ほんとうに?」と言った。これは悪魔の手口だ。「本当に?」の
声が聞こえて来ないだろうか。

「その示しは本当に?語られたって本当?」「その導きは本当に神
から?」「本当に必要は与えられるの?」「信じておれば良いって
本当に?」。あなたが御心に従わない時、不信仰に陥る時、その前
に、必ず悪魔がかんでいる。そして悪魔は、その実を食べるなら神
のようになり、善悪を知る事を神は知っている、だから神がそれを
嫌がっているかのように言った。

神は愛ではなく、良い方でもないと吹き込む。巧妙に疑いや不信感
を植え付ける。しかし神は愛であり、良い方であり、最善しかされ
ない。何があっても御言葉に立つ時に、悪魔は退かなくてはならな
い。あなたにも、今、誘惑が来ているだろうか。
-----------
いかにもそれらしく来る悪魔の火矢で自分の足りなさばかり思わさ
れる時、気づけますように。もっと心配して、もっと準備をしてと
、どんどん落ち込む時、聖書を開き、主からの御言葉を握ろう。


2018年01月07日(日)

「なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」ヨハ ネ8:44



悪魔はアダムとエバをだましたが、悪魔は嘘つきだと御言葉は言っ
ている。「悪魔は初めから人殺しであり・・彼が偽りを言うときは、
自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者で
あり、いつわりの父である」と。悪魔の内には「真理」がないと。

悪魔はアダムとエバに、御言葉に反する思いを吹き込み、神の真実
や愛への疑いを起こし、罪へと誘った。悪魔は、今も、クリスチャ
ンを狙い、空腹のライオンのごとく獲物を探して、動き回っている。
悪魔は偽り者であり、嘘をあたかも真実のごとく、吹き込んで来る
ことを覚えていよう。

それは「思い」を通してやって来る。神の言葉に対して、反対の思
いを吹き込む。「あなたの道を主にゆだねよ」と言われると、肉は、
主にゆだねると、とんでもない事になるのではと思う。試練が来て、
めちゃくちゃになるとの恐れが来る。だから自分でしっかり握って
いないと、手放したらダメになってしまうと思う。

そしてそれは常識的で妥当な良い考えだと思える。これが悪魔の嘘
だ。しばしば嘘の方を信じてしまう。種蒔きのたとえの通り、悪魔
が来て「その人の心に蒔かれたものを奪って行く」。だまされて、
悪魔に御言葉を持って行かれてしまう。

悪魔に騙されてしまうと、一番の問題は、神への信頼が育たない事
だ。そこを崩したい悪魔と悪魔の嘘をわきまえ、一歩一歩、御言葉
に従おう。御霊は助けて下さる。そして一歩従うごとに、主への信
頼が増し加えられ、信頼関係が培われて行く。

・・・・・・・・・・・・
天国へ帰るまでは、この世では日々霊の戦いだと、新しい1年もわ
きまえていよう。飢えたライオンが獲物を狙っている。朝一に祈り
で武装していよう。祈りがある時、守られる。御言葉によって立ち
向かって行ける。


2018年01月06日(土)

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、ど こにいるのか』」創世記3:9


わけわからず、イライラする事があるだろうか。なぜか心が窮屈で、
平安が無い。思い煩いも来るし、焦りや不安で気持ちが重く、閉塞
感がある。周囲のせいだと思い、身近な者に当たってしまう。甘え
られる相手や弱い者にぶつけてしまう。しかし平安は無く、今度は
落ち込んでしまう。

又、「悪者は追う者もないのに逃げる」とあるが、あれをしなけれ
ば、これをしなければ、仕事は山積で、いつも追い立てられている
ように感じる。圧迫感があり、心が焦る。身体は休んでいても心は
安まらず、平安が無い。そんな時、外側の問題でなく、自分の問題
であり、自分と主との問題だ。主との関係に目を向けよう。

神に背いて、恐れて隠れていたアダムとエバに、主の方から呼ばれ、
御声をかけられた。「あなたは、どこにいるのか」と。「そよ風の
吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主のみ声を聞いた」と
あり、主の方から彼らを捜された。「あなたは、どこにいるのか」、
主との関係の問題だ。自分が主から離れているだろうか。

御声を聞くなら、あるがままの状態を主に打ち明けよう。「イライ
ラしています」「平安がありません」「焦っています」「重苦し
い」・・恐れて自分を隠すのでなく、あるがままで出ておいでと招い
て下さっている。常に赦しと、変わらない愛をもって、どんな状態
であろうと、まずあるがままで受け入れて下さる。心配していて下
さる。主のもとに行く時、再び平安と安堵で心が満ちる。

・・・・・・・・・・・
状況ではなく、いつも主と自分の関係が問題だ。屈折して見える時、
平安が無い時、主と正しい関係にいない。絶えず「あなたはどこに
いるのか」と愛の御声をかけ、主を見上げるように、主に向くよう
に、矯正して下さる。、


2018年01月05日(金)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16 



別の箇所では、「主から目を離すな」とある。普段経験するが、目
の前の状況と自分を見ると、ひどく落ち込む。何をどうすればよい
のかわからず、思い煩いで真っ暗になる。ところが御霊に助けられ、
主を仰ぐと、「益になる」「愛されている」「ご計画がある」「主
の御手の内」「最善をされる」「訓練とされる」・・御言葉に励まさ
れ、信仰が湧き、心が落ち着いて来る。

ペテロは海上で、主の「来なさい」との御言葉を信じ、ただその御
言葉のゆえに、一歩を踏み出した時に、水面上を歩いた。奇跡が起
きた。主イエスだけを見ていた。ところが、ふと風に目が行き、主
から目を離した途端、ぶくぶくと沈み始めた。これは状況は全く同
じという事だ。海上で、「何を見ているか」で、歩けたり、沈んだ
りする。

全く同じ状況で、恐れに支配されたり、又、逆に心平安だったりす
る。私達はとかく苦しい状況を変えようとする。それさえ変われば
平安になり、幸せになれると。しかし状況の問題ではない。どんな
状況の中でも、主を見る事で平安を得る事ができる。神を通して状
況を見る時、どんな悲惨な中でも、平安と感謝と喜びが来る。しか
し、状況だけを見た途端に、恐れと思い煩い、いら立ち、不満、怒
りの海に溺れる。

ある試練にある人が言った。苦しい状況で、自分だけが不幸で、皆
は幸せそうと、屈折した思いにとらわれた。ところが主を見上げた
時に、思いが全く変わった。こんな自分を励まそうとしてくれる人
々の愛が見えて、素直に感謝できて、心から嬉しいと思えた。御霊
は主から目が離れている事に気づかせ、主へと導いて下さる。
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風を見て自分を見るならとても立っていられない。自分が思った道
は困難に見えても主を仰ぐなら、必要な備えは必ずあると希望が湧
く。今年も信仰に立って、主の備えてくださる道を歩んでいこう。