2018年02月28日(水)

「神を信じなさい・・祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」マルコ11:22



信じて祈るなら、その通りに祈りが聞かれると、素晴らしい約束が
与えられている。しかし同時に、そこには恨み事のある相手を赦す
事が言われている。祈る時・・赦しなさいと。赦さない心は祈りを
妨げる。神があなたを赦して下さったのだから、憎んだいる相手を
赦しなさいと。

私たちはしょっ中、失敗する。しかし神は豊かに赦して下さってい
る。罪を犯さないのでなく、犯してしまうが、赦されて赦されて生
きている。それゆえ、私たちも赦すべきだと。まず憎しみ、赦さな
い心があると、祈れなくなる。主と私たちの間に、へだたりができ
てしまうからだ。確信もった祈りができなくなる。

あなたも経験あるだろうか。ある人が、目の前に切迫した必要があ
り、祈っていた。しかしどんなに祈っても答えが無い。どうしてで
すかと尋ね求めると、ある人に対し、赦せない、苦々しい思いを持
っている事を示された。これが祈りを妨げている事がわかり、決心
して、悔い改めて赦した。赦すという事は決意だ。赦す決心であり、
赦す事を選択する意志だ。感情に依存してたなら一生赦せない。

すると平安が満ちて、その後、見事に祈りが答えられた。豊かに祝
福された。赦さない心は、祈りを遮断する。祈りの答えを得るため
に、隠れた恨み、赦さない心がないかどうか、御霊に探って頂こう。
妨げが取り除かれる時、平安が与えられ、すでに受けたと信じる事
ができ、その通りの答えを得る事になる。
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これには従えますが、これには従えませんと選り分けながら自分中
心で祈っている姿を示される。罪を示されることがまず祈りの応え
と、悔い改めて、悔い改めて真っ直ぐに主に祈ろう。


2018年02月27日(火)

「弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。』」マタイ18:1



「天の御国では、だれが一番偉いのか」と弟子たちは主に質問した。
弟子たちはどんな答えを予想していたのだろう。世の価値観なら、
最も能力がある人、最も成果を上げた人、最も主のために労苦した
人、最も良い行ないに励んだ人、人の上に立つ人だろうか。その時
に、主は小さい子どもを呼び、子どものようにならない限り、天の
御国に入れないと。

子どものように、自分を低くする者が一番偉いのだと言われた。子
どもの一番の特徴は無力だという事だ。子どもは自分が無力な存在
だと知っている。親無しには、生きて行くことができず、食べる事
も、生活する事もできない。完全に親に依存している。2才児は自
分で棚の物を取れない、戸を開けられない・・何かにつけて親を呼
びに行く。自分で出来ないからだ。

しかし大人は、自分で生きて行けると思っている。自分の力で何で
も出来ると思っている。そして弟子たちは内心自分が一番でありた
いと思っていた。最も重要人物でありたい。人の上に立ちたい。一
番が良いとの価値観だ。弟子たちのそんな考え方を「あなたがたも
悔い改めて、子どものようにならない限り、御国に入れない」と言
われた。価値観、考え方が問題で、「悔い改め」向きを変えなさい
と。

子どものようになるとは、自らの無力を認め、自分を低くすること、
へりくだることだ。実は無力を知ることこそが、最大の恵みだ。無
力を知っている人は神に頼る。子どもが完全に親に頼りきって全き
平安でいるように、主に頼りきって心底平安だ。無力や弱さは神と
結びつく恵みだ。私たちの無力に、神の力は働く。
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子供のように父なる神に信頼しきって生きよう。子供は先々の不安
を思い煩うだろうか。弱さを認め、委ねて今を喜ぼう。そして御父
の導きに「はい」と素直に従いたい。


2018年02月26日(月)

「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」マタイ15:22



カナン人の母親が、主のもとに来て助けを求めた。娘がひどく悪霊
につかれていて、助けて欲しいと。「主よ。ダビデの子よ」と必死
にすがり叫んだ。この全身の叫びに、主は、答えて下さるはずでは、
と思う。しかし主は「一言もお答えにならなかった」。まるで無視
であり、沈黙されたままだ。

しかし決してひるまず、諦めず、叫び続ける女性に、弟子たちが主
に苦情を言った。それに答えて、「わたしは、イスラエルの羊以外
のところには遣わされていない」と言われた。すると、女性は「ダ
ビデの子」をはずして、「主よ」と変えて、ひれ伏して助けを求め
た。カナン人の彼女はイスラエルではない。異邦人だ。「ダビデの
子よ」と言う権利は無い。

彼女はへりくだって正しい位置に立った。自分の場所をわきまえた。
すると、主は「子どものパンを子犬に投げてやれない」と言われた。
何と冷たい言葉、に思えるが、そうではない。実は、主は、彼女が
正しく求める事ができるように、ずっと手助けし導いておられた。
女性は「主よ。その通りです」と認め、へりくだり、「小犬でも食
卓から落ちるパンくずは頂けます」と求めた。

その時、娘は癒された。彼女は主のあわれみを信じたから、決して
諦めなかった。あわれみとは、こちらがどんな状態であれ、頂ける
愛顧だ。それは彼女の主への信仰だった。彼女はへりくだって、ど
こまでも主を信じて迫った。あなたも今、信仰を試されているだろ
うか。
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すぐに諦めてしまう金持ちの青年との対比を学ばされる。主にしか
頼れないと主にねばり強くすがりつこう。必ず導いてくださる。祈
りながら主のお応えをよく見張っていよう。


2018年02月25日(日)

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたい と思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっている からです」ローマ7:15



ある人が、どうしても愛せない人がいた。嫌いで、憎しみをどうす
る事もできなかった。しかし、憎しみには、とがめを感じ、罪責感
が来る。罪意識にさいなまれた。平安もなく、その罪意識から逃れ
たいがために、逆に、相手に親切にしようと頑張った。憎しみを隠
し、ふたをし、罪責感を何とかしたいばかりだった。何とか礼儀正
しく接し、愛そうと頑張った。

しかし、相手を愛そうとすればするほど、心は、いら立ちと更なる
憎しみでいっぱいになり、どうにもならなかった。職場で相手の悪
口が言われている時に、自分はクリスチャンであり、口にこそ出し
て言わないが、しっかり心で同意して溜飲を下げるのであった。愛
からはかけ離れた、ほど遠い結果となって行った。

この間違いは、行ないによって、とがめを無くそうとした事だ。
良い行ないによって自分を救おうとする。敵対心、憎しみを認めな
いで、それを抑え込み、ふたをしてしまう。そうではなく、憎しみ
の感情を光のもとに出し、自分がそういう者であると認める事だ。
その時、それはすでに光の中だ。あるがままを認め、告白する時、
必ず変えられて行く。御霊が導いて行かれる。

大切なのは、まず良い行ないでなく、罪を認め、告白し、悔い改め
る事だ。その時、新しくされ、御霊の働きにあずかる。自分の心が
変えられる事を経験して行く。自由にされて行く。

・・・・・・・・・
「ごめんなさい」だけは回避したくて、罪を認めたくなくて、良い
行いでチャラにしたい肉がある。又弱さも認めたくなくて、自力で
頑張ろうとしてしまう。御前に罪を認め、又、無力なあるがままを
主に打ち明ける時に初めて、あるがまま愛されている事がわかる。


2018年02月24日(土)

「あなたの神、主を心に据えなさい」申命記8:18 

  

イスラエルの民は、出エジプトを果たし、約束の地カナンを目指し
て前進し続けて来た。そしてその約束の地に入れば、信仰は必要無
いのかというと、そうではない。良い地に入って、食べて満ち足り
た後も、高ぶることの無いように、「主の命令を守って、その道に
歩み、主を恐れなさい」と。

神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的
だからだ。ある人がどうしても欲しいものがあり、祈りに祈って、
主に訴えた。絶対に欲しい、余りにも強烈な願望に、ある時、神か
ら何が何でも貰い取ろうとしている自分の姿を見せられ、恐ろしく
なった。

これなら、自分の欲しいものをくれるなら、対象は何でもよくなっ
てしまう。「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」との
サタンではないか。恐ろしくなり心から悔い改めて、明け渡す事が
できた。すると心の方が変えられて、欲望が無くなってしまった。
何でそんなに何かに憑かれたかのように、欲しかったのかわからな
いほど、手にしなくてもよくなってしまった。

しばしば間違ってしまう。信仰を、自分が良く生きるための、又、
欲しいものを得るための、手段にしてしまう。すると何もかもが的
をはずしてしまう事になる。自分の生きがいのための手段、喜びを
得るための手段、問題解決の手段としてしまう。それなら、自分の
期待通りでない時に必ずつまずく。神ご自身を喜び、信じて生きる
事、神を礼拝して生きること、これが目的だ。

・・・・・・・・・・・
この世は家内安全、商売繁盛・・だ。だが主はすべて必要は与えて下
さるが、何より主との信頼関係を願っておられる。そこを深め、培
おうとされている。次々と問題は起きるが、主との愛の関係、信頼
関係を深めて下さるためだ。そこに目を向けて、主を呼び、交わっ
て生きて行きたい。


2018年02月23日(金)

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩篇73:28


「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と言われる。苦しい時に
は、必死になって神に助けをあがき求めるが、物事が順調に行き始
めると、神から離れ自力で生きて行く。形は信仰者なのだが、自分
の思いで生きて行く。肉で生きて行けてしまうので、神に頼る必要
が無い。

この世の商売繁盛、家内安全、五穀豊穣ではないが、目の前の仕事
の困難を助けて欲しい、不作は困る、経済的必要を与えて欲しい、
受験に合格させて欲しいと、主を求める。欲しいものを手にしたい。
しかし、得てしまうと、再び自分の道に戻り、自分の道を歩む。そ
して又、困難が生じると、主のもとへ来る。生涯がこれの繰り返し
ならどうだろう。

欲しいものを得るためだけの主で、自分と主との関係はどうなって
いるのだろう。勿論、主は「求めなさい。そうすれば与えられます」
と、必要を求めるようにと言われ、豊かに与えて下さるお方だ。主
は求める事を喜ばれ、その求めに答えて下さり、私たちを喜びで満
たして下さる。しかし、主は、私たちが欲しいものを得るための手
段ではない。主と私たちの間は、雇用関係でなく、信頼関係だ。

私たちが、主を、主として生きて行くことを願っておられる。主と
して生きて行くとは、苦しみの時も、悲しみの時も、喜びの時も、
絶えず主と共にいる事であり、順境であれ逆境であれ、いつも主を
求めて行くことだ。愛の関係であり、それはすべての事について感
謝する歩みだ。
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主は心の岩、主は避けどころだ。「しかし私にとっては」と、状況
にのまれず、信仰の目で主に向かい主の近くにいることを幸いとす
る歩みは何と平安だろう。


2018年02月22日(木)

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせ」ヨハネ14:26


日々の生活で経験するだろうか。御霊はある事をするよう促したり、
又、平安を与えたり、取り去ったり、御言葉を思い起こさせたりし
ながら、日常を導いて下さる。平安はゴーサインで、平安失せると
立ち止まって祈った方がよい。又、祈っている時に、ふっと、この
事はこうすればよいとの導きが臨む。

又、とっさの判断が必要な時に、心で祈ると的確な御言葉が浮かん
だりする。日々の生活で、助け主である御霊が様々な方法で導いて
下さっている。私たちはどう応答しているだろう。一人の静かな時
間ができると「今が祈りのチャンス。祈りなさい」と御霊の促しを
感じるが、肉は「いや、休みたい、テレビを見たい、気楽な事がし
たい」と言う。

それらは罪ではなく、悪い事では無いが、御霊の促しがある時に、
サタンが肉に働き妨げられてしまう。後で祈ろうと思うが、結局祈
らない。いつも二つの選択肢が目の前にある。肉と御霊だ。サタン
は肉に働き、楽な方へと誘う。御霊は主に近づけるよう招く。マリ
ヤは「良いほうを選んだのです」。選択が必要だ。

御霊に従うと必ず大きな祝福を経験する。サタンはそれを奪い去り
たい。「選んだのです」を心に据え、「選べません、選びたくない
私がいます」と祈る時、御霊の方へと助けられる。従えるように、
助けを求めて、絶えず主を呼ぼう。
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一日の生活の中で豊に御霊様は導いてくださっている。その声を求
めているだろうか。問題の無いときは求めもなく漫然と一日が過ぎ
沢山の導きも聞かずに終わっていく。御霊様のとの交わりを祈ろう。


2018年02月21日(水)

「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」ガラテヤ2:21


「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」とあるが、邪悪
な良心とは、何だろう。良心とは良い心であり、良い心が邪悪とい
う事になって不思議だが。ここでは、主の十字架の血潮だけでは、
心が満足できず、それだけでは足らないとして、そこに行ないを付
け加える。つまり、自分の善行によって、主に受け入れてもらおう、
愛されようとする事だ。

もし、主の愛を得たくて、受け入れて欲しくて、奉仕をし献げもの
をするなら、それは人間の力によるものであり、主の十字架を無意
味にしてしまう。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法
によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」
だ。主はいたずらに、無駄に死なれた事になってしまう。

良心のとがめが辛いので、良心のとがめを無くしたくて、奉仕や献
げもの、善行、親切をしているだろうか。善行で、良心のとがめを
無くしたい。それを邪悪な良心と言っている。例えば、人を傷つけ
る言葉や不機嫌な態度で、良心のとがめを感じると、優しく親切な
行ないをして、自分の内で帳消しにする。何か良い事をして、良心
をなだめる。

これなら「キリストから離れ、恵みから落ちてしまった」事になる
と。これは御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが、私たちの
良心のとがめを消し去る。完全に消し去る。平安を与えられ、真心
から神に近づくことができるようにされる。主の血潮以外のものに
依存しているなら、きよめていただこう。
-----------
十字架の血潮によって罪赦されているのに、実際の生活ではや行い
の足りなさを嘆いたり、また行いで安心したりする。主の十字架以
外に自分の価値を測ろうとする不自由があるなら祈って行こう。


2018年02月20日(火)

「また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」エレミヤ24:7 



モーセに導かれた出エジプトの際、主は次々に奇跡をされた。パロ
は、次々と災害に苦しめられると「出て行かせる」と言い、苦難が
去り、ほとぼりがさめると「行かせない」と翻す。又、苦難が臨む
と「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。行かせる」と言う。

「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、悔い改めに見
えるが、事がおさまると、又、頑なになり強情になる。これは苦難
を何とかして欲しいだけで、悔い改めではない。口先だけで、心で
は思ってはいない事の表われだ。王であり、何もかも自分の思い通
りに、思うがままにできたパロにとって、主の奇跡は、単に脅しに
過ぎなかった。

脅しが無くなれば、問題無い。だから元に戻り、何も変わらない。
主のみわざが、悔い改めを生み、主のご愛や真実を知ることには、
ならなかった。私たちはどうだろう。不都合な出来事は、ただ単に
災難であり、苦しみが去りさえすれば良いのだろうか。それならパ
ロと変わりがない。「わたしが主であることを、あなたがたが知る
ためである」。

信仰生活での様々な困難や問題は、「わたしが主であることを知る
ため」に送られている。それは、主ご自身が神である事を知る時で
あり、又、自分の内側が照らされる時だ。悔い改めに導かれるかも
知れない。目の前の問題は、「わたしが主であることを知る心を与
える」ためと受け取ろう。
------------
問題の解決のための信仰でなく、自分の強い思いから御心を求める
よう信仰を働かせる時に変えられていく。そして神が御わざをもっ
てご自身を知らせてくださる。その経験が祝福だ。


2018年02月19日(月)

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身は明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」マタイ6:23




青い色のメガネをかけるなら、景色が青色に見える。赤い色のメガ
ネなら、赤色に見える。同様に、メガネが自分の思い、偏見や思い
込みだとしたらどうだろう。思い込みのメガネで物事を見るなら、
その色にしか見えない。又、自分の偏見のメガネなら、偏見でしか
見えない。正しく、あるがまま、事実を事実として見ることが出来
ない。

では、ありのままの景色を見るためにはどうすればよいか。メガネ
をはずせばよい。景色の問題でなく、状況の問題でなく、自らの肉
の思い、肉の見方の問題だ。ある人が、対人関係で衝突が起きたが、
どうしても、相手が悪いとしか思えなかった。自分は被害者であっ
て、何も悪くない。自分は悪くないはずなのに、しかし、心に喜び
と平安が無い。

心は辛くて、重苦しく、暗く沈んだままだ。余りにも心が苦しいの
で、主の御前に出て、あれやこれやと心の内を、あるがまま打ち明
けながら祈っていた。その時、御霊は示された。自分は被害者だと
思い、相手に確かに非があり、自分は正しいと思っているので、全
く気づかなかったが、相手を憎み、敵対心を抱き、裁いている。

怒りに隠れた憎しみに気づかなかった。義憤だと勘違いしてしまう。
しかしそこに愛のかけらも無かった。相手は関係無く、自分は主の
御前に自分の罪として、悔い改めた。その時平安が戻り、心が安堵
で満たされた。自分と主との関係が問題であった。
------------
一番解らないのが自分自身のことだ。どうすればはっきり見える者
に成れるだろう。裁く思い、苦い憎しみを自分の問題として気づき
たい。自分を正しく見られることこそ幸いだ。悔い改められる。


2018年02月18日(日)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11


信仰生活で、サタンの誘惑が絶えず来る。「悪魔の策略」とあり、
「策略」を持って襲って来るので、常に祈りで見張っていなければ
やられてしまっていて気づかない。ダビデは、ダビデを妬んだサウ
ル王に、ずっと命をつけ狙われた。何も悪い事をしていないのに、
荒野を逃げ回り、いつ殺されるかわからない、死と隣り合わせの恐
怖の中をさまよった。

そんな時、サウルを討つ千載一遇の機会が訪れた。部下は、今こそ
チャンス、サウルを殺す事を申し出た。今が、神の与えた時と。し
かしダビデは自分の損得、都合ではなく、主の御心を第一にした。
「主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にできない」と。主が打
たれるから、殺してはならないと。

そして、ダビデは罪を犯す事から守られた。そんなダビデが、バテ
シバと姦淫を犯し、サウルを何があろうと殺さなかったダビデが、
バテシバの夫ウリヤを殺してしまった。部下が命がけで戦闘に出て
いる中、夕刻に起きて来るような怠惰な生活をし、その油断にサタ
ンにつけ込まれてしまった。バテシバへの誘惑が来た時に、「主
よ!」と助けを求めて祈れば良かった。

罪を犯してしまった後、悔い改めたなら、次の罪を重ねずに済んだ。
サタンは策略を練って、計画を持って、巧妙に私たちの弱い所を襲
って来る。相手は陥れようとして攻撃して来るので、ひとたまりも
無い。敵がいる事に心して、祈りと御言葉を身にまとっていよう。
主は祈りに答えて、気づきを与え守って下さる。

・・・・・・・・・・
悪魔は、行き当たりばったりでなく、練られた緻密な策略をもって、
襲って来ていることをわきまえていよう。「誘惑に陥らないように、
目をさまして、祈っていなさい」と言われているように、祈ってい
る時、悪魔の誘惑に気づかされる。


2018年02月17日(土)

「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を 聞き入れる」箴言12:15


箴言には、人の助言、忠告についてよく出て来る。耳を傾けるよう
にと。自分は高慢かどうかが、わかる事柄があると言われている。
それは、人の意見や助言に耳を傾けられるかどうかだと。高慢であ
れば、人からの助言や忠告が聞けない。自分が正しいと思っている
ので、聞く必要など無いからだ。聞くに値しない。人から教えを受
ける必要性が無い。

プライドは自分を高くする。すると他人は競争相手になってしまい、
教えを受けるなど、思いも及ばない。しかし、へりくだっている人
は、他者の忠告や助言に耳を傾けられるので、どんな人からでも、
教えを受ける事ができる。そのため謙遜な人は、どんどん成長して
行ける。

ある役職にあるクリスチャンが職場で、プロジェクトについて会議
をし話し合っていた。なかなか困難で、話し合いを重ねる中で、部
下が一つの案を出した。一瞬良い案だと思ったが、否定的な意見が
自分の口から出た。一応その場はそれで終わったが、帰宅するが何
か平安が無かった。心がざらつき、主の御前に祈った。心を打ち広
げ、心の内を祈って行った。

すると本当に部下の提案は、素晴らしものであり、それに良い顔が
出来なかったのは、部下からの案だからであり、上司である自分の
プライドだと気づかされた。悔い改め、心平安にされた。翌日、部
下の案を採用する事を伝えた。そのプロジェクトは大成功だった。
神の祝福を感じた。しばしばプライドは、助言、忠告をシャットア
ウトする。へりくだって耳を傾ける事に心を向けよう。

・・・・・・・・・・・・
導きを求める時、まず、御言葉からの示しを尋ね求め、また人から
の助言は有益だ。しばしば、他者からの忠告や助言を用いられる。
特に耳に痛い事は聞く必要のある事だ。それらを祈りに持って行く
時、判断を主が導かれる。


2018年02月16日(金)

「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」ヨハネ5:8 

 

一人の男性が38年間、病気で伏せっていた。主は、その長く伏せ
っている彼に目を留められた。「イエスは彼が伏せっているのを見」
「それがもう長い間のことなのを知って」と。そして「よくなりた
いか」と問われた。彼は、真っ直ぐに「よくなりたいです」と答え
たのではなく、池の中に入れてくれる介助者がいないからだと言っ
た。

そのせいで他の人が先に降り、自分はずっとこのままだと。人のせ
いにしていた。確かに、彼には介助者がいなかった。寂しい孤独な
人生だっただろう。主は、彼の背景も、辛さも、嘆きも、状況も何
もかもご存じで御声をかけられた。そして「起きて、床を取り上げ
て歩け」と言われた。

38年間、自分はかわいそうと、人のせいにし、自己憐憫の中にいる
と、そこはそこで、楽で居心地良くなって来る。起きてそのような
床を取り上げ、歩み出せと言われた。「よくなりたいか」という事
は、現状がよくないという事だ。主はよくして下さる。御声を信じ
て、起き上がろうとした時に、主から力が臨んで、起き上がる事が
できた。

癒されて床を取り上げ歩き出した。私たちにも、彼と同様に、主の
まなざしが注がれている。私たちの何もかもをご存じで、「よくな
りたいか」と声をかけて下さっている。自分が依存している「床」
は何だろう。
----------
どうせ駄目だ出来ないと諦めている事はないだろうか。ぐずぐずと
言い訳をしないで主に良くなりたいと応答したい。いつまでも変わ
っていける。何と恵みだろう。


2018年02月15日(木)

「とすれば、なおさらのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者に良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11


願いが叶えられないと思っているだろうか。だが「あなたがたのも
のにならないのは、あなたがたが願わないからです」とある。願え
と言われる。「求めなさい。そうすれば与えられます」と。神は求
めに答えて下さるお方だ。だから、私たちは求める必要がある。し
かし、神は私たちが求めたものを、その通りに与えられるとは限ら
ない。

小さな子供に、配慮無く高価な物を与えたりしない。それにふさわ
しい年代に、時期に高価な物を与える。親は、子供の事を考え、教
育的配慮もし、子供にとっての最善を考えて与える。天の御父も同
様だ。「どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがあ
りましょう」と、願った通りのものでないかも知れないが「良いも
の」を与えて下さる。「良いもの」だ。

神は私たちよりも、私たちにとって、何が良いのかを知っておられ
る。そのため、祈った結果、来たものをことごとく感謝することが
祝福だ。神が下さるものは、常に「良いもの」だからだ。「求めな
さい」には、「求め続けよ」の意味がある。すぐに答えが無いから
と諦めないで、祈り続けよう。忍耐持って祈る中で、祈りを助けて、
御心にかなった祈りへと導かれる。

動機を探られ、「自分の快楽のために使おうと悪い動機」なら、そ
れを示し、祈りを軌道修正される。実際、私たちは何が自分に最善
であるのかを知らない。御霊は、御心にかなった祈りへと導かれる。
そして御心に適った祈りは、すでにかなえられた事になる。
-----------
何でも諦めずに祈ろう。祈りの中で本当の自分を示され、動機を識
別させられる。答えられた祈りによって更に聖くあわれみ深い御神
に触れ、どれ程愛されているかを知る。


2018年02月14日(水)

「サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た」創世記21:9



アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたイシマエルが、イサク
をからかっていた。それを見たサラは「このはしためを、その子を
追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクといっ
しょに、跡取りになるべきではない」とアブラハムに迫った。サラ
の嫉妬から出た言葉であったが、言い分は正当であった。

しかし、イサクと同様にイシマエルもまた自分の実子であり、愛す
る息子であり、アブラハムは悩みに悩んだ。どうすれば良いのか。
イシマエルを追い出す事は忍びない。苦しい状況だ。主の御心はど
こにあり、どうする事が正しいのか、切に主に求めた。「すると、
神はアブラハムに仰せられた」主は答えを下さった。

悩んではならない。サラが言う通りに聞き入れるようにと。しかし、
イシマエルも、一つの国民とする。あなたの子なのだからと。主か
らの明確な答えがあったので、アブラハムは従うことができた。翌
朝早く、パンと水の皮袋をハガルに与え、イシマエルと共に送り出
した。荒野をさまよい歩き、水が尽きた時、ハガルは子供が死ぬの
を見たくないと、離れて座り、声を上げて泣いた。

しかし、神の使いから「あの子を大いなる国民とする」との励まし
を受け、神により目が開かれると、ハガルはそこに井戸を見つけた。
神はイシマエルをも顧みられた。苦しみの時、悩みの時は、判断を
主に求め、従おう。主は答え、道を示し、必ず導いて下さる。
--------------
悩みに悩んでも決断を下せなかった問題に神は答えを出してくださ
った。アブラハムはどれ程安堵したことだろう。あわれみ深い神に
御心を求めえて祈ろう。


2018年02月13日(火)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」士師17:6



ミカという人物がいた。そのミカの母親が盗難に会い、銀千百枚が
盗まれた。その時、母親は盗んだ者を呪った。しかし、自分の息子
のミカが、盗んだ事を知るや一転、息子を祝福する。まるで一貫性
が無く、自分の都合次第だ。ミカが銀を返した時、母親は、その銀
を聖別して主に献げると言ったが、二百枚を献げただけで、何とそ
の銀で我が子のためにと、彫像と鋳像を作った。それがミカの母親
だった。

ミカもミカで、自分の家に宮を作り、自分の息子の一人を祭司に任
命していた。そこにレビ人の若者が来たので、お金の力で、自分の
家の祭司にした。レビ人も、お金に目がくらみ、それを受け入れた。
王が無い時、このように霊的にも道徳的にも混乱し、偶像礼拝がは
びこり、秩序は乱れ、混沌状態だ。めいめいが自分の目に正しいと
見える事を行なった。

つまり自分に都合の良い事をした。正義も、義も、神の御心も無く、
ただ自分の損得、自分の都合で、判断もその場〃で、コロコロ変わ
る。そうなるのは、「王がない」ためだと。人は、王が無い時に、
自分中心、自分次第、自分勝手に歩んで行く。私たちも、どうだろ
う。何かを判断し、決める時に、軸は自分の損得、自分の都合だろ
うか。

それとも神の御心だろうか。自分の都合がまず来るだろうか。そう
であって、気づいていないだろうか。物を決める時、判断する時を
振り返ってみよう。主を心に据え、王座に来て頂いて、主の判断を
仰ごう。
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自分の価値観で動いた結果はどうだろう。一瞬の心の満足はあって
もすぐ次の混乱がくる。心の軸に主を据えて主の目に正しいことは
何かと祈って行こう。そして主の御心の中を歩もう。


2018年02月12日(月)

「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい」創世記26:2


イサクが飢饉に会った時、周囲の人々がそうするように、エジプト
へ移ろうと考えた。エジプトは食料が豊富であったから。その飢饉
は、移動しなければならないほどの重大な危機だった。しかし、主
は、はっきりと止められた。エジプトへは下るなと。主の示す地に
住むようにと。

この地に滞在するなら、大いに祝福し、この地を子孫に与え、子孫
は空の星のように増し加えられ、子孫によって地のすべての国々は
祝福されると。大いなる祝福の約束を下さった。そしてイサクは主
に言われた通りに従った。イサクがその地に種を蒔くと、何とその
年に百倍の収穫を見た。非常に厳しい飢饉であった中で、やせた土
壌で、百倍の実を結ぶなど考えられない、天からの奇跡のわざだ。

それにイサクは父アブラハムからの遊牧民だった。それが農耕をし
て百倍もの実を結んだ。主に言われた通りに従った結果だった。
「主が彼を祝福して下さったのである」とある。私たちも見た目、
常識、自分の考えでは、絶対こうした方が良いと思う事がある。
しかし主の御言葉、示しは全く違う方向である場合がある。

イサクがエジプトに下らず、とどまったように。そこには主の大き
な祝福がある。自分の常識、自分の判断でなく、主の御声を聞いて、
主の示しに従おう。その時、「主が彼を祝福してくださったのであ
る」を経験して行く。
--------------
飢餓の国を捨てて、豊かなエジプトに行くことは一見当たり前で、
全く間違えているとは思えない。けれど唯一主の御心だろうかと、
自分の正しさを捨てて、主に祈り聞いて行こう。


2018年02月11日(日)

「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたと おりになると、私は神によって信じています」使徒27:25


パウロが囚人としてローマへ護送される途上に、船はクレテの良い
港に着いた。人々は、この港よりもっと良いピニクスまで進んで、
そこで冬を越そうとの意見だった。しかしパウロは、祈りの中で主
から示され、この航海はもう危険であり、命にまで危害が及ぶと強
く反対した。

「しかし百人隊長は、パウロの言葉よりも、航海士や船長のほうを
信用した」の通り、人々はパウロの言葉を信じる事なく、百人隊長
も、パウロより経験のある航海士や船長の言う事を信用した。それ
で、その言う事に従い出帆した。するとパウロの言葉の通りに、暴
風に巻き込まれてしまった。

私たちも信仰生活で、常に二つの声が聞こえて来る。二つの思いが
ある。一つは御言葉を通して聞こえて来る神の御声であり、もう一
つは自分の経験や知識、自分の思い、判断から聞こえて来る肉の声
だ。それは世の価値観に基づいていて、見える状況、常識から判断
する声だ。目に見えるところの方が正当に見える。それは又、肉の
願望、欲望と合致しているのでしっくりくる。

結局のところ、どちらの声を選択するかにかかっている。彼らは暴
風に会い、手立てなく絶体絶命に陥った。絶望的状況になった。そ
の時初めて、人々はパウロの言葉に思いが至った。パウロは、告げ
られた通りになると人々を励まし、紆余曲折の末、彼らは全員まさ
にパウロの言葉の通りに命が助けられた。今、あなたも二つの声が
聞こえているだろうか。従うべきは主の御声だ。

・・・・・・・・・・
目に見えるこの世界の常識と、主の示しの言葉が真逆である場合が
ある。世の価値観、肉の思いは、理に適っていたりする。そちらの
方が正しく見えてしまうが、主の言葉のほうに従って行く時、みわ
ざを見、主の栄光が現れる。


2018年02月10日(土)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる」詩篇55:22


私たちは、時に困難や問題に遭遇する。その問題は、巨大な城壁の
ように、目の前に立ちはだかる。思い煩い、心配し、心がふさがれ
重苦しくてたまらない。自分で何とかしようと、ああでもない、こ
うでもないと、頭はぐるぐる巡るが、解決の道は見えず、どうにも
ならない。ますます思い煩い、負のスパイラルに落ち込んでしまう。

その悩みのただ中では、永遠に苦しみが続くように感じてしまう。
出口が無いように思えてしまう。真っ暗で何も見えない。そのため
余計に心がふさがれてしまう。試練は必ず出口があるトンネルなの
に、そう思えない。苦しくてたまらず、祈るのだが、何だか絶望的
で、その苦しみから逃れたいばかりだ。今すぐに解決して欲しいと
あがき、もがく。

この苦しみを何とかして欲しい一心だ。主に委ねることだと頭では
わかるのだが、しかし委ねられない。底に、主に委ねられない自分
がいる。頑なな強固な自我がある。祈りながらも、自分で何とかし
ようと必死で、あれこれと頭は巡り考える。しかしどうにもならず、
心は重く沈む。

あなたも困難に、悩みに、ぶち当たり、行き詰まっているだろうか。
心は悶々状態だろうか。「委ねることができません。助けて下さ
い」と祈ろう。人に出来ない事が、神には出来る。委ねられるよう
助けて下さる。明け渡す時、光が見えて来る。まず心が平安にされ、
真っ暗闇の中に、光が射し、少しづつ道が見えて来る。次の展開へ
と導かれて行く。

・・・・・・・・・・・
主に委ねられないところが問題で、委ねずに握り締めているので、
ずっと悶々状態になってしまう。頭ではわかるのだが、どうにも
ならない。心底心配して下さっている主に、委ねられるよう祈ろう。
助けて下さる。


2018年02月09日(金)

「主をおのれの喜びとせよ」詩篇37:4



ある働き人が、地方に開拓宣教に出た。宣教は困難で、なかなか人
は来ない。そんな中、宣教の働きの成果が出たら喜び、成果が無け
ればひどく落胆した。人が救われれば喜び、人が救われなければ、
がっかりし失望落胆する。ひどく落ち込んでしまう。そんな歳月を
経て、ある時気づかされた。伝道の成果で一喜一憂、大きくアップ
ダウンし、自分はいつも不安定この上ない。

それは、常に成果を見つめ、成果を喜びとしているのであり、主を
喜びとしているのでは無いからだと。見ているのは、成果であって、
主ではない。そうではなく与え主を絶えず仰いで、どんな時にも主
を喜んで行くなら、どのような状況の中でも、結果がどうであって
も、喜びがある事を教えられた。主が与えて下さったものを、祝福
を、喜ぶのでなく、与え主である主ご自身を喜んで行くからだ。

そして主を喜んで行くなら、もし自分の思い通りに事が運ばないと
しても、そこに不満は無い。主を信じているからだ。主のご計画が
あることを信じ、主のしようとしておられる事がある事を信じ、万
事が益になる事を信じて行くからだ。そんな中で、主は信仰を鍛え、
更に信仰を強めて行って下さる。今、主を見ているだろうか、主の
下さるものを見ているだろうか。
------------
良いものは喜び、悪いもの、思い通りでないものは素直に喜べない
が、それも主から来たものと知っている。主を信頼し、全て良いも
のしか与えられないと信仰に立とう。


2018年02月08日(木)

「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」ヤコブ1:13



「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われてい
る。しかし源が異なる。「試練」は神から来ていて、「誘惑」は悪
魔から来る。神は罪に誘惑される事はない。誘惑は神からは来ない。
そして神から来る「試練」は良いものだ。受け入れて、忍耐して行
くなら必ず一段成長する。信仰者の成長のため、益のためのものだ。

「試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」この上
もなく喜べと。それは試練の時にこそ、信仰を使うからだ。使わざ
るを得ない状況に追い込まれる。雨の時に傘をさすように、試練の
時に信仰を使う。主は必ず良くして下さると信じる、「忍耐」を働
かせる時に成長して行く。

サタンからの誘惑は決して受け入れてはならない。拒否し、立ち向
かうべきものだ。「誘惑」は拒否し、「試練」は受け入れる。この
逆をしてはならない。試練は苦しいので、それが誘惑となって来る
事も要注意だ。人は自分の欲に引かれ誘惑される。欲望がまず心の
中にあり、それが時の経過と共に行為となって表れ出る。

丁度赤ん坊が生まれる前にお腹にいるように、その胎児の生命は、
実際に生まれる10ケ月前にすでに存在する。同様に欲望を妊娠させ
て、行為になって表れ、罪を犯してしまうのだと。行為以前の欲望
が問題だ。罪の行ないはそこから来る。良い贈り物は上から来る。
真理のことばによって生まれたとあり、絶えず上を仰ぎ、御霊の助
けのもと、真理の御言葉により守られて行く。
------------
主から目を離すとすぐに迷いサタンの誘惑を聞く。主を仰ごう。主
から与えられているものは動機が完全に純粋で試練さえ成長とされ
る。誘惑を見極め主から与えられている最高のものに目を留めよう。


2018年02月07日(水)

「事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」Tテサロニケ2:13


ある人が証しした「主イエスを受け入れて救われたのだが、ずっと、
もう一つ神様の事がよくわからなかった。ある時、種蒔きのたとえ
を学んでいた時に、道ばたの土地に自分が重なり、自分の心だと気
づかされた。御言葉に拒否反応はなく、学ぶ事も嫌でなく、良い事
と、喜んで聞くのだが、決して御言葉を心に受け入れていなかった
と。

「その通りにしたなら、職場でとてもじゃないがやって行けない」
「御言葉はそう言うが、自分はそう思わない」「人にどう思われる
だろうか」「周囲に嫌われたくない」「グレーにしておけば摩擦が
なくうまく行く」・・御言葉を聞く時に、同時に別の思いが必ず来
る。その肉の思いの方をずっと選択し、御言葉を捨てていた、それ
が、自分の心でずっと起きていた事だと理解できた。

種である神の言葉を受け入れないので、実を結ぶ事が無かった。聖
書も神様もよくわからなかった。御言葉を捨てている事にも気づい
ていなかった。悔い改めて、御言葉を受け入れ、示された言葉を実
行する事を始めた。その時に、自分の力では御言葉を決して行なえ
ない事、だからこそ祈るのであり、祈りが無ければ、従い得ない事
を知らされて行った。

祈って、御霊の助けを求めて行く時に、御霊の力によって御言葉を
実行できる事も経験した。御言葉を聞く時に、サタンが御言葉を奪
うために、肉に働いて、スルーさせたり、人間的思いを持って来た
りする。そこに気づける事が感謝だ。
-----------
信じる者に働く神の力を体験していこう。耳で聞いて、頭で知って
いても実際の問題の前では、いつも自分の経験が先立ってくる。
その思いに気づき、今こそ御言葉に従う時だと受け取りなおそう。


2018年02月06日(火)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8


主は、十字架の時が来た事を知られ、今まで愛し導いて来た弟子た
ちに、「その愛を残るところなく示された」。自分の弟子たちを
「極みまで愛され」「愛し通された」。それで、主は手ぬぐいを腰
にまとい、弟子たちの足を洗われた。そこにユダもいた。今から裏
切るであろう事を知った上で、ユダの足を洗われた。

ユダをも最後まで、極みまで愛し通された。ペテロも主を裏切った。
3度も呪いをかけ誓い「あんな人を知らない」と。そして裏切ったの
はユダとペテロだけでなく「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、
逃げてしまった」。弟子たちは皆、主を見捨てて一目散に逃げた。
それも予めわかった上で、主は愛し通され、皆の足を洗われた。

そして主の死後、ユダはひどく後悔したが、主のもとへは行かず、
主に頼らず自分で片をつけた。ペテロも同じく後悔したが、主のも
とにとどまり、悔い改めた。他の弟子たちも復活の主のもとへ戻
って来た。「ユダにサタンが入った」とあり、悪魔は勝手に入れな
い。ユダは悪魔の方を選んだ。徐々に心を開き受け入れた。

主はユダを愛されたが、ユダは主を選ばなかった。自分の思いの主
と違ったのだろうか。主のそばで3年間、御言葉を聞いた。主のわ
ざも見た。御言葉も知った上でのユダ自らの意志だった。ペテロは
後に「悪魔が食い尽くすべきものを捜し求めて、歩き回っている」
と。悪魔との戦いであり、目を覚まし祈っているよう警告している。
------------
目を覚ましていなければ、すぐにサタンに心を開いてしまう、そう
いう危うさがある。「なぜ、眠っているのか。起きて誘惑に陥らな
いように祈っていなさい。」祈りで勝利しよう。


2018年02月05日(月)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」マタイ6:34    



ある人が、急な事情で、兄宅にいた親をどうしても一ヶ月預かる必
要が生じた。年老いて世話が必要だった。しかし自分はフルタイム
で働きながら家事育児もしていた。それに夜勤も入り、到底不可能
に思えた。しかし自分しかおらず、どうすれば良いのか。パニック
になりそうな中、とにかく主の御前に祈った。

状況も、自分の思いも気持ちも何もかもを、主のもとへ持って行っ
た。祈っている中で、「あすのための心配は無用」との御言葉が心
に臨み、そうだ、明日の事は考えなくてよい、今日一日だけを考え
ようと思えた。今日一日だけを生きよう。その時、すうーっと気持
ちが楽になった。あれほど重かった心が軽くなり、今日一日だけ生
きれば良いと思うと平安にされた。

そして祈りつつ一日だけを目指して、生活し始めた。思い煩いと心
配が来そうな時に、「あすのための心配は無用」との御言葉に立つ
と、不思議に思い煩いが消えた。不安も消えた。御言葉の力を知ら
された。祈りと御言葉に守られた。そして、感謝な事に家族が率先
して協力してくれた。主の計らいに驚くばかりだった。

一日、一日と、その日だけを考え、過ごして行った。主に導かれ、
平安の内にすべてが助けられ、親を看ることができ、無事一ヶ月を
終えることができた。親との良い交わり、家族が一つになれた事、
主を新たに知れたこと、豊かな祝福にあずかれた。明日は委ねて、
今日一日に集中しよう。
-------------
予定のわかっている明日ならいいが見通しのつかない出来事の前に
は不安になる。祈りながら主に不安を明け渡そう。どのような明日
でも主と共に越えられることを知っている。何と幸いな人生だろう。


2018年02月04日(日)

「私の助けは、天地を造られた主から来る」詩篇121:2 

  
      
「山に目を上げ、私の助けはどこから来るのか」これは、エルサレ
ムへ巡礼の旅に出る時のものだ。前に立ちはだかる困難な険しい
山々、苦難が待ち受ける行く手の山々に、助けがあるのだろうか。
エルサレムは遙か彼方であり、どんな危険が待っているかわからな
い、だが巡礼者は、立ちはだかる山々よりも、更に上に目を注いだ。

「私の助けは、天地を造られた主から来る」。その山々を造られた
のも主で、すべての状況も主が支配しておられる。助けは主から来
る。私たちの人生も、巡礼の旅をしているようだ。険しい山々があ
り、荒野があり、様々な危険にも遭遇する。

今、行く手を阻む困難の山があるだろうか。それは、経済的困難、
健康問題、仕事のこと、対人関係、又、誰にも言えない悩みだろう
か。ある人が、人に対して罪を犯してしまった。良心にとがめが来
て、ずっと悶々と苦しかった。平安が無かった。その苦しみを祈り
に持って行った時に、「私の助けは、どこから来るのだろうか」自
分の心情と重なった。

「私の助けは、天地を造られた主から来る」と、主からの答えを得
た。「助けは主から来る」その言葉により、心に安堵と平安が来た。
そして相手に謝ろうと素直に思えた。決心して、謝罪した時に、相
手は快く赦してくれ、「話してくれて有難う」と言ってくれた。今、
悩み、問題があるなら、その助けは、天地を造られた主から来る。
祈りに持って行こう。

・・・・・・・・・・・・・
落ち込む時に、心が沈んでしまう。助けなど来るのだろうかと、目
の前の問題は一体どうなるのだろうと不安でたまらない。しかし、
「助けが来る」「主から」とはっきり言っている。必ず助けが来る。
主にありのままを告げて、主の示しに従おう。


2018年02月03日(土)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かな ものにするのは主である」箴言16:9


ある人が、神学校への導きを受けた。祈りを重ね、確信を与えられ
たので入学を果たした。主の示しであり、経済的な必要は、すべて
備えられると信じた上での決心だった。貯えからの生活であったが、
学生生活の間に、不意の多額の出費や、様々な想定外の必要が生じ
て、途中で貯金が尽きてしまった。最終学年に進級する時に、授業
料が払えなくなった。

払えなければ退学だ。御心を確信して来たはず、主は必要は必ず与
えて下さるはず・・、祈ったが、しかし与えられなかった。あらゆる
奨学金の道も模索したが、開かれなかった。「導きを信じて、職も
捨て、郷里を出て来たのに、なぜ?」と、尚も祈ったが、与えられ
なかった。結局、支払い期日になっても、与えられず、祈った結果
なので、もうこれが神の御心と受け止め、学校を辞めて帰ろうと思
った。

しかし何もかも捨てて来て、これからどうすれば良いのか。失意と
落胆を禁じ得なかった。どうにもなすすべなく、もう今後の事も何
もかも、いっさいがっさい主にすべて委ねた。すると委ねきった心
はすっきりした。そしてその直後だった。自分宛に無名の献金が届
いている知らせを受けた。

驚いたが、授業料と生活費に必要な額だった。瀬戸際の中で試され、
委ねることの意味を、実際を、教えられた。どんな時にも、主の恵
みは十分で、歩みを確かなものとして導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
委ねるということが自分の力では出来ない。試練がやって来るが、
試練を通して取り扱われる。どうにも出来ない、行き詰まりの中で、
主に委ねる事をさせて下さる。委ねられるのも、恵みによるのであ
り、主のみわざだ。


2018年02月02日(金)

「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで、私は生きのびるだろう」創世記12:13 


カナンに入り、ネゲブへと旅をしていたアブラムは、激しい飢饉に
遭遇する。その飢饉を避けるため、エジプトに下った。「あなたの
子孫に、この地を与える」と約束されていたにかかわらず、目の前
の不都合で、安易に約束の地を離れてしまった。その時にエジプト
人は美しいサライを見て、自分を殺すだろうと恐れた。

そこでサライに、妹だと嘘を言うようにと。そうすれば自分にも良
くしてもらえ、尚かつ生き延びられると。確かに異母妹ではあるが、
故意に妻であることを隠すのであり、偽ることであった。そんな事
をしてサライはどうなるのか。自己中心、自分勝手な保身であった。
案の定、サライはパロの宮廷に召し入れられた。

パロは、サライのゆえにアブラムを特別待遇とし、沢山の家畜や奴
隷を与えた。しかしこの危機に、主が介入され、パロとその家をひ
どい災害で痛めつけられた。主により、サライは危機一髪のところ
難を逃れ、守られた。アブラムと一族はすべての所有物と共に出さ
れた。信仰の父、信仰の勇者と言われたアブラハムにもこのような
失敗があった。

飢饉に際して、祈らず、主を求めず、自分の思いと自分の判断で動
いた結果、エジプトへ下ってしまった。又、そこで主を仰がなかっ
たので、とんでもない罪を犯してしまった。まず肝心なことは、第
一に祈ること、主を仰ぐ事だ。その時、主が進むべき道に導いて下
さる。又、失敗しても、そこで主に向き、向きを変え歩んで行ける。
------------
危機を前にして主に聞かなければ、ちょうどいい妥協案や、灰色の
抜け道を選んでしまう。それは祝福から遠い。御言葉に反するなら
まず自分の判断を捨て、向きを変えられるように祈りたい。


2018年02月01日(木)

「そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」使徒6:4 



人々がどんどん救われ、聖霊が力強く働く、初代教会に問題が起き
た。ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人た
ちに対して、やもめ達が、毎日の配給で、なおざりにされていると
の苦情が来た。そこで12使徒は、弟子たち全員を呼び集め、この
問題の解決に当たる時に、御言葉の奉仕がまず一番大切で、最優先
であることを伝えた。

つまり、神の言葉を教える事を後回しにして、食卓の事に仕えるの
は良くないと。神の言葉の奉仕を最優先にし、全員一致して、問題
の解決に当たりたいと。その結果、御霊と知恵とに満ちた、評判の
良い人たち7人を選出して、この事態に当たらせることになった。
そしてペテロ達は御言葉の奉仕を優先できるようにした。

この解決は全員の承諾を得、一致の中で行なえた。皆に平安があっ
た。問題に良い解決が与えられた結果、「こうして神のことばは、
ますます広まって行き」「弟子の数が非常に増えて行き、多くの祭
司たちが次々に信仰に入った」。問題解決だけでなく、更に素晴ら
しい結実が与えられた。

私たちにも、常に問題は起きる。その時に、「もっぱら祈りとみこ
とばの奉仕に励み」の示しの通り、まずよく祈り、御言葉に聞き、
主の導きを求めて行く時に、道が示され、良い解決が与えられて行
く。問題が起きた時には、神の言葉をあと回しにして、自分で考え、
自分で動き回るのでなく、まず祈りと御言葉に聞いて行くことが大
切だ。
-------------
問題が起きた時には、御言葉によって御心を知り、祈りによって主
に知恵をもとめよう。それぞれの考えでは、いつまでも一致はない。
御言葉に従うところに平安が戻り、真の解決に導かれる。