2018年03月31日(土)

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもや みの中にとどまることのないためです」ヨハネ12:35


ある人が、サラリーマンとして主に仕えていた。そんな時、上司か
ら「君の昇進を強く推したが、残念だった」との言葉を聞いた。そ
れを聞いた時に、ひどく心が動揺したのだった。サラリーマンなが
らもずっと自分は、主のために生きたいと願い、出世など全く関心
が無いと思っていた。

しかしいざその場になると、動揺する自分の内に、強い野心がある
事を知り愕然とした。御前に行き、その思いを主に語り祈っていた。
その時に、何も無い時は、そんな欲は自分には無いと思っていた。
だが光に照らされると、実は、本音では出世を求め、同僚よりも先
んじたい、上に立ちたい、地位、名誉を求めている自分を見せられ
た。

それらをことごとく主に告げて、今一度新たに自分自身をお献げし
た。その時に、主からの深い平安が臨んだ。それは何にも代えられ
ない平安だった。自分は今の場で、主を第一にして生きて行きたい
と思った。するとその後、突然昇進の命を受けた。何もかもご存じ
の主が、心の奥を照らし、動機を聖めて下さったと感じた。

ある人は、教会で奉仕をしていた。主のためにと思っていたが、あ
る時、御霊に動機を照らされ、主のためでも何でもなく、実は人と
比較し、張り合っている自分の姿を見せられた。負けたくない、又、
人々からの賞賛を受けたい、自分の欲望によるものだった。心底悔
い改めた。

「人の内側のものと心とは、深いものです」とあり、自分で自分を
知らない。御霊が光のもとに出し、本心を照らし、気づかせ、軌道
修正して下さり、御心へと導いて下さる。光の中を歩んで行ける。

・・・・・・・・・・
光が射すと、闇は消える。消滅してしまう。光は闇の中に輝き、闇
は打ち勝てない。光は、心の中の闇を照らし出す。その時闇は消え
る。御霊の光は自分でも気づいていない、心の内を気づかせてくれ
る。更に平安が広がり、きよめられて行く。


2018年03月30日(金)

「主よ。私をあわれんでください。私は衰えています。主よ。私を いやしてください。私の骨は恐れおののいています」詩編6:2



ダビデは何か重い病にあったようだ。「衰えています」「いやして
下さい」「恐れおののいています」と祈っている。そして、嘆きで
疲れ果て、涙がとめどなく溢れて来ると。泣いて、泣いて、訴えて
いる。私たちもダビデと同様に、身体の痛み、心の傷み、様々な苦
しみを経験する

。今も苦しい問題や、不安と恐れの中にいるだろうか。行き詰まっ
て、絶望状態だろうか。ダビデと同じように、主に向かって祈り、
主に知っていただこう。人に言え無い事を、主に何もかも吐き出し、
打ち明け、聞いていただこう。泣いて、泣いて、心の底を訴えよう。

悲しみの涙、怒りの涙、痛みの涙、自己憐憫の涙、様々な涙を主に
向ける事ができる。ダビデはそうやって心の内の嘆き、悲しみ、苦
しみをことごとく主に告げて行った時に、「主は私の泣く声を聞か
れた」「主は私の切なる願いを聞かれた」「主は私の祈りを受け入
れられる」との叫びになり、心が変えられて行った。

祈りが受け入れられ、祈りが聞かれた確信へと、喜びへと変えられ
た。私たちもダビデのように、主の御前で、嘆いて嘆いて、泣いて
泣いて、心の内を主に告げよう。「私をあわれんで下さい」「私を
助け出て下さい」「私をお救い下さい」の祈りが答えられる事を知
る。目の前に問題があれば、思いも感情も、主のもとへ持って行こ
う。愛し、慈しみ、受け止めて、御心へと導いて下さる。

・・・・・・・・・
思いも感情も、あらゆる気持ちを、御前に注ぎ出す事ができる。誰
にも言えない思いを、主に、吐露する事が出来る。主は受け止めて、
応えて下さる。ありのままを告げて交わって行く時に、ありのまま
を愛していて下さることを実感として知って行ける。


2018年03月29日(木)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ 聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22


聞いた御言葉を実行する時に、初めて実を結ぶ。聞くだけで、もし
実行しないなら「自分を欺いて」いると言っている。まず御言葉の
聞き方はどうだろう。自分の事として聞かず、他人事に聞いてしま
う。あの人に、この人にぴったりだった・・。又、観客が、映画でも
観るように、傍観者として聞いている。自分の事として聞いていな
い。良いお話になる。

種蒔きのたとえの、道ばたに落ちた種だ。自分に語られた言葉とし
て受け取らないなら、心に入る事がない。又、この御言葉はもう知
っている、との態度で聞く時にも、頭で聞いていて、御霊によって
聞かないので、心に入らない。サタンが種を奪って行ってしまう。
種が根付かない限り、実を結ぶ事が無い。

私たちの聞き方はどうだろう。他の事を考えながら、御言葉を聞い
ていると、右から左へと何も残らず流れてしまっている。サタンの
妨害だ。サタンが次ぎから次へと思いを吹きつけ、御言葉を入れさ
せない。自分では聞いているつもりなので、気づかない。

御言葉を聞く時には祈りが必要だ。祈って自分の事として受け取る
時に、御霊の助けのもと、心に入って来る。そしてその聞いた御言
葉を、聞くだけで実行しないなら、「生まれつきの顔を鏡で見る人
のよう」だと言っている。鏡で自分の顔を見て立ち去ると、すぐに
忘れてしまう。

御言葉は鏡であり、自分の本当の姿を映し出してくれる。罪を示し、
心の動機を映し出す。悔い改めて、正す事が、御言葉を実行するこ
とであり、その行ないによって祝福される。その時に、実を結び、
成長して行く。

・・・・・・・・・
御言葉を聞いて、心恵まれて、良かったとそれで終わるなら、聞く
だけの者で、自分を欺いていると言われている。すぐに忘れてしま
い、聞かなかった事と同じになる。御声を聞いて示された事を祈っ
て実行してみよう。どんなに祝福されるか経験して行ける。


2018年03月28日(水)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3 



神は、私たち一人一人のために、ご計画を持っておられる。そうな
ら自分たちが、計画を立てるのは良くないのではないか。将来の計
画を立ててはいけないと思う向きがある。しかしそうではない。無
計画の、行き当たりばったりが良いのではない。きちんと将来の計
画を立てることは大切だ。神を無視した計画が、愚かで無意味なの
だ。

肉の思いで、自分本位にではなく、祈りつつ主と相談しながら、計
画を立てて行く。御心を求めつつ、計画するのは良い事だ。あの愚
かな金持ちは、大豊作のすべての収穫物が自分のものだと誇った。
そこに神は無かった。倉に貯え、これから何不自由無く遊んで暮ら
せると思った、その晩に命を取られた。命は、誰の手にあるのか。
神無しの人生設計は虚しい。人間の高ぶりだ。

私達の命は消えてしまう霧のようだと言っている。主権者は神だ。
それゆえ、神の御前にへりくだって生きるべきだ。神を人生の中心
に据えて、委ねて生きる時、人は初めて真の満たしを得る。平安と
喜びと生きがいを見い出す。神無しの人生は結局無意味に終わる。

神の御心を求めて歩む歩みは、平坦な道ではなく、自分の思い通り
でもないが、決して悔いの無い、虚しく無い、真の実りある人生だ。
豊かな実を結んで行く。主は最高の相談相手だ。どの道を進み、ど
の選択をし、どう判断すべきか、主に相談するなら御心を示し導い
て下さる。今、不安があれば立ち止まろう。そして主に相談しよう。
「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる」
-------------
自分の計画は全く先の見えない不安の中にある。だからいつでも自
分のプランを主に明け渡せるよう、主に祈り整えられて進めて行き
たい。主によって確かな歩みにしよう。


2018年03月27日(火)

「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26



ある人の証しだ。教会へ行く前に、自分で聖書を購入し、読んでい
たのだが、よくはわからなかった。何か良い、立派な教えであって、
教訓なのだろうと思えた。心に響いて来るなどとは全く無かった。
しかし教会に行くようになって、御言葉を学ぶ中で、主を救い主と
して受け入れた。

その時から変わった。祈りによって、聖書を読むようになり、ただ
の良い教え、教訓が、神の生きた言葉に変わって行った。心に御言
葉が響いてきて、初めての経験だった。御言葉から喜びが与えられ、
心の平安を知って行った。自分に道を示し、自分を生かしてくれる
言葉となり、以前とは全く違った。

「この事がわかりません。教えて下さい」と率直に、素直に祈る時
に、学び会から答えが来たり、礼拝メッセージで解き明かされたり、
信仰書を通してわかったり、祈りの答えに驚かされた。まさに心の
内をご存じで、生きて働いておられることを実感した。まさに御霊
の働きだ。悩みの時に、御言葉通して指針が与えられる。

又、悲しみの時、落胆、落ち込みの時、御言葉から慰め、励ましが
臨む。問題の中で祈っていると、これはこうすれば良い、あれはあ
あすればとの示しが与えられる。御霊の助けだ。又、日常生活で平
安が失せると、何かが違い、軌道修正が必要で、平安の方向へと歩
めば良いことを学ぶ。信仰人生どんな苦しい問題の中でも、必ず御
心の道へと、御霊が助け、導いて下さる。
----------
御霊の導きによって今までしなかったことが出来るようになり、価
値観が損得より、主に喜ばれる方へと向きが変わった。主は生きて
助けて強くしてくださる。この確信も御霊を通し与えられた。


2018年03月26日(月)

「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した」マタイ25:18



主人から一タラント任されたしもべが、タラントを地の中に埋めた。
主人を「ひどい方」と言っている。主人が恐いので、地中に隠した
と。しかし、主人の言葉通り、それを銀行に預けておけば、何もし
なくとも利息が手にできた。実は、このしもべは、主人を信頼して
いなかった。そのため失敗を恐れて何もしなかった。

そしてこんな主人のために、何かをしたいなどと思わなかった。言
われた通り一タラントを預かっておいた。失敗して減らしでもしよ
うなら、どんな仕打ちを受けるか。このまま返すのだから、文句は
無いだろうとの態度だ。主人に関わりたくないし、自分に関わって
欲しくない。しかし彼は、主人の心を何もわかっていなかった。

要求ばかりする酷い主人、自分から奪い取る冷酷な相手。しかし主
人を誤解している。一タラント、三千万円を預けるとは、大変な信
頼だ。主人は独り子をも惜しみなく与えて下さったお方だ。奪い取
るのでなく、与えて施して下さるばかりの方だ。「主人の喜びをと
もに喜んでくれ」、しもべを心から愛し、喜んでいる主人だ。その
主人の愛が何もわかっていなかった。

「良い忠実なしもべ」と言い、主は「忠実」を見ておられる。成功、
失敗ではない。失敗したとしても、その忠実さを喜んで下さる。二、
五タラントの者はそれを知っていたから、自由に生き生きと喜んで
働く事ができた。何もしないままだろうか。タラントを用いて行け
るように祈ろう。
-------------
失敗しても主は愛をもって受け入れてくださる。無関心で主を悲し
ませないよう、預けられている多くのものに主を感じて生きよう。
感謝と喜びをもって御心に用いていただこう。


2018年03月25日(日)

「主の使いが彼に現れて言った。『勇士よ。主があなたといっしょ におられる』」士師記6:12


主は、敵であるミデヤン人を逃れて、恐れて酒ぶねに隠れていたギ
デオンに向かって、「あなたのその力で行き、イスラエルを救え」
と告げられた。「わたしがあなたを遣わす」と。驚いた彼は、どう
して自分にそんな事が出来よう。自分の分団は最も弱く、私はその
中で一番若いと。自分には無理だと言い訳をする。

すると主は「わたしはあなたと一緒にいる。あなたはミデヤン人を
打ち殺す」と。その時、ギデオンはあなたであるというしるしが欲
しいと願った。本当に主から出た事なのかと。二度のしるしを求め、
確かめた。主は答えられ、彼は主による事と確信した。恐れて隠れ
ている彼に「勇士よ」と語られ、現在の彼ではなく、主は先を見据
え、勇士として戦うギデオンを見られた。

そして「あなたのその力で行き」と、彼がいかに弱く、若くても何
の問題も無いと。主が共におられる事と、主の任命がすべてだ。私
たちも、自分の弱さを見て、嘆き、無力におじけ、何が出来よう、
何も出来ないとひるんでしまう。主からの示しにも、自分を見るな
ら能力は無い、時間も財も力も、何もかも不足だ。

しかし、主は「あなたのその力で行け」と言われる。あなたの力の
問題ではなく、どなたが共におられるかの問題だ。主が共におられ
るかどうかが、すべてだ。遣わされるのなら、必要な力は主から来
る。今、あなたも「あなたのその力で行け」と御声をかけられてい
るだろうか。

・・・・・・・・・・
主が「行け」「せよ」と言われるなら、今のこのままの力で大丈夫
だ。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもで
きるのです」とのように、「私を強くして下さる方によって」だ。
そのお方を信頼して、行こう。


2018年03月24日(土)

「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます『ダビ デの子よ。私をあわれんでください』と叫び立てた」マルコ10:48



バルテマイは目が不自由で、こじきだった。人々から物乞いをして、
それにより生活していた。金銭を、物を、恵んでもらって生きてい
た。だから、主に「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時に、
生涯不自由なく生きて行ける金銭を求めても不思議はなかった。し
かし、主に求めたものは、金銭ではなく「目が見えるようになるこ
と」だった。

それは、この方にはそれができるとの信仰があったからだ。それが
なければ、はなから求める事はしない。彼には信仰があった。その
信仰は「私をあわれんでください」との叫びとなった。彼を黙らせ
ようと、大勢にたしなめられても、黙るどころか、ますます叫び立
てた。

もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、求めもしないし、
ましてや叫び続ける事など出来ない、しない。彼は必死だった。今
のこの時、このチャンスしかない、これを捕らえなければ、一生に
二度と機会は無いと全身で叫んだ。ザアカイも同様だ。今を逃して
もうチャンスは二度と無い、木にまで登った。

もし、ここであわれみをもらわなければ、生涯盲人のまま、又、ザ
アカイは一生虚しい何の喜びもない暗い日々が続くだけだと、絶対
にこのままでは帰れなかった。主はその切なる叫びに、答えて下さ
った。肉体の目も、心の目も開かれて、主について行った。

私達はどうだろう。この求めがあるだろうか。得ても得なくても、
どっちでもよいのだろうか。又、諦めているか。彼は何も出来なか
った。唯一「あわれんで下さい」との叫びだけができた。この求め
を、主は待っておられる。そして喜んで答えて下さる。

・・・・・・・・・
「私をあわれんで下さい」と、主のあわれみを求めるのみの、自分
では何も出来ない状況がある。「あわれんで下さい」の祈りに、主
は答えて下さることを経験する。徹底的に無力な者を、主は愛して
下さっていることを知る。


2018年03月23日(金)

「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」エレミヤ18:4


ある人が言った「私は、教会に出たり入ったりしてたのですが、主
を信じるのに、十年かかりました。砕かれなければ、神様はわから
ないですねえ。それからも砕かれて〃、主を知って来た感じです」。
自分が変わらないのは、自我が砕かれていないという事だ。

そのために、主は、対処出来ない事態に会わせたり、そりの合わな
い相手を、目の前に置かれたりする。嫌いな相手であり、嫌で嫌で
たまらない。ある時は、どうしても我慢ならず、職場を変える。す
ると、行った先にも同じような相手がいて、悩まされる。「相手を、
環境を、何とかして下さい」「相手を変えて下さい」と祈るのだが、
祈りが全く聞かれない。

しばらくして、祈りが聞かれていない事に気づく。そして段々と、
「これは、もしかして自分の問題?」と気づいて行く。祈りが変え
られて、「主よ、私を変えて下さい」となる。そうすると、その祈
りは聞かれて行く。祈りに答えられ、自分の内側が変えられて行く。
へりくだらされ、自我が砕かれて行く。

自分が変えられるので、同じ相手が目の前にいても、自分は平安に
される。自我が砕かれれば、砕かれるほど、平安が流れ込み、主の
事を知って行ける。主は陶器師であり、私たちを砕き、練り、造り
上げられる。目の前の痛い、辛い、苦しい事態は、砕かれ、自分自
身が変えられるために、主から送られて来たものだ。必ず平安へと
導かれる。
-----------
もしかしたら、これは私の問題?と気づける事が感謝だ。砕きは痛
く避けたいが、避けずに主に委ねれば、どのように作り替えて下さ
るだろう。私を変えて下さいと祈っていこう。


2018年03月22日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11 


私たちの格闘は悪魔に対するものだが、まず悪魔に「機会を与える
な」とある。機会を与えるのは自分自身だ。悪魔は私たちの心に、
足場を得ようと常に狙っている。カインは怒りにより、悪魔に足場
を与えた。悔い改めて、罪を治めるべきであった。しかし、カイン
はそうせずに、アベルを殺害してしまった。

サウル王は妬みにより、悪魔に足場を与えた。妬みを悔い改め、主
に拠り頼み、捨てる事をせず、悪魔に機会を与え続けた。ダビデは、
高慢により人口調査の罪を犯した。勝利に次ぐ勝利に、高ぶった。
人口調査で自らの力を誇ろうとした。神でなく兵力に頼るよう誘惑
された結果だった。部下ヨアブが、神への反逆だと阻止しようとす
るが、ダビデは聞かない。

その結果、神の怒りを招き、民に災いをもたらす事になった。悪魔
は、忠実であったダビデにさえ巧妙に働いて、姦淫と殺人の罪を犯
させた。私たちは自分の心を見張り、守る必要がある。又、悪魔は
狡猾に「疑い」を引き起こす。「これでも神は愛なのか」「本当に
守ってくれるのか」「必要など与えられるのか」。足元が揺れ動き、
ぐらつく。

対人関係に「疑い」を起こし、疑心暗鬼にし、不信感を植え付ける。
サタンの誘惑だ。赦さない心は悪魔に足場を与える。赦し合おう。
今、悪魔の攻撃に会っていないか。足場を与えてしまっていないか。
心をしっかり見張ろう。サタンの策略に気づけるよう祈っていよう。
-------------
思いがけない衝動で罪を犯してしまう、その背後にサタンがいる。
この思いは御聖霊によるのか、それともサタンからと自分で解決せず
主に委ねていこう。必ず気づかせてくださる。


2018年03月21日(水)

「エリは答えて言った。『安心して行きなさい。イスラエルの神が、 あなたの願ったその願いをかなえてくださるように』」Tサムエル 1:17



当時、イスラエルは士師の時代であり、霊的には、真っ暗闇であっ
た。人々は主の目に悪を行ない、めいめい自分が正しいと見える事
を行なっていた。神無しで、自分の思いを通し、自己中心に生きて
いた。偶像礼拝もはびこっていた。神は、そこに、新しい霊的指
導者を起こそうとされた。そのために神はハンナを用いられた。

「主がハンナの胎を閉じておられた」とあり、ハンナの祈りを引き
出すためだった。ハンナは不妊の辛さ、ペニンナのいじめ、周囲の
偏見による苦しみ、何より、なぜ神は与えて下さらないのかという
苦しみで悶々としていた。それらをことごとく祈りに持って行った。

主に向かい、心を吐き出し、感情もぶつけ、涙ながらに一心に祈っ
た。その中で「男の子を授けて下さったなら、その子の一生を主に
お献げします」とすべてを明け渡す決心へと導かれた。その時、泣
いて食事もできなかったハンナが、祈り終えた時、帰宅して食事が
できた。号泣し、悩みと憂い、いただちの以前の顔ではなかった。

平安になり、心すっきりしていた。私たちも祈りによって、いつも
経験する。苦しい状況で主に心を注ぎ出して祈る時、状況が変わら
ずとも、自分の内側が変えられる。御父に自分を委ねるので、主か
らの平安が与えられる。

今、何かの閉じられた状況にあるなら、あるいは祈りを用いて、開
こうとしておられるのかも知れない。ハンナのように、主に向かい、
感情も主に持って行き、心の何もかもを打ち明け祈ろう。明け渡し
て行った時に、ハンナの祈りは答えられ、子供サムエルが与えられ
た。サムエルは祈りにより産み出された霊的指導者だった。

・・・・・・・・・・・・
祈りは主との交わりであり、思いも感情も喜びも痛み悲しみも知っ
て頂ける。主に知って頂けたことで安心する。自分自身も事態も明
け渡して行く時に、良いお方が最善をして下さると信じられる。仮
に思い通りでなくとも、心に平安が来る。


2018年03月20日(火)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる ことができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿 をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2:6



誰しも人生途上で、時に、理不尽な扱いを受ける事がある。ある人
は、上司の失敗を皆の前で、自分のせいにされてしまった。「○○
さんが、やっちゃったね」と言われ、ミスを指摘された。しかし、
それは実際は自分のミスではなく、上司のミスであった。しかし上
司は無言で、自分のミスだとは言ってくれない。

自分ではないという証拠も持っていた。自分は悪く無いのに、心は
悶々だった。怒りが湧いて、帰宅し主の御前に祈った。自分は悪く
ない、悪くないと、訴えて祈っていると、主の十字架が目の前に迫
った。悪く無い方が十字架で苦しみを受け、命を捨てられた事に、
目が開かれて行った。

「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができな
いとは考えないで、ご自分を無にして仕える姿をとり」「自分を卑
しくし、実に十字架の死にまでも従われた」考えられないほど低い
所へまで下りて来られ、ご自身を捨てられた主。

主張して当然の特権を、私のために放棄された主の姿を前に、悪く
ない〃と主張する自分の姿を見せられた。主の十字架の前に、頭を
垂れていると、その時、怒りが消えて、心が平安に満たされた。初
めての経験だった。だが、このような出来事を通して、主の驚くべ
き、人の思いを越えた、愛のへりくだりを教えられる時とされ、逆
に心恵まれ、心から感謝した。

・・・・・・・・・・
理不尽な事があるも、十字架を見つめる時、言葉を失ってしまう。
自分は絶対に正しいと主張するが、完全に正しい方が、十字架にか
かり罰を受けておられる。それも自分のために。この主から目を離
さず、主のお心を歩んで行きたく、助けを求めて祈りたい。


2018年03月19日(月)

「さばいてはいけません。さばかれないためです」マタイ7:1



裁判とは、法律を基準に、照らし合わせて、判定される。しかし、
「さばく」とは、自分の都合の良いものさしで判定することだ。あ
くまでも自分の主観的な偏見のあるものさしだ。しかし他人をさば
く時、自分は絶対的に正しいと信じている。それは、自分を神の座
に置く事になる。そして、自分の事はいっさい棚上げだ。

実は、さばく自分の内に同じものがあると。だからこそ相手の内に
見える。肉の性質は人を裁いて行く。自分が優位に立った気になる
からだ。人を見下す罪の性質だ。しかし真のさばきは神にしかでき
ない。人間は、皆、間違う。相手の外側しか見えず、心の内は全く
見えない。その動機もわからない。うわべでしか判断できない。

逆に、もし自分が人からさばかれたら、どうだろう。うわべで判断
され、批判され、悪口を言われ、見下されるなら、どんなに傷つき、
腹を立て、又落ち込むことだろう。それを平気で人にしてしまう。
裁きから守られるためには、まず自分のメガネをはずす事だ。それ
が梁になる。ある人が、窮地に陥った人に対して、冷めた思いしか
持てなかった。自業自得だとしか思えない。そうすれば、当然こう
なるだろうと。

しかしとにかく思いを主に告げ、祈っていると、御霊が突然、相手
の立場に立たせられた。もし自分がその人なら・・、どんなに辛い
かと、自分はとても耐えられないと苦しくなり、ひたすら祈らされ
た。その窮地は解決し、主のお心に触れさせられた。さばきと何と
対極だろう。
---------------
はっきり見えて判断する事ができないものをたやすく裁く。人の事
より自分の罪を認めたい。裁く思いに支配される自分に誇れるとこ
ろなど無く、人を裁いている場合ではないと示される。


2018年03月18日(日)

「主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をも って私を悩まされたこととを知っています」詩篇119:75


 
問題や悩みは、誰しも好きではない。辛い痛い目には会いたくない。
できれば避けたいし、平穏な日々が、誰しもの願いだ。しかし御言
葉は、正反対のことを言う。「苦しみに会う前には、私はあや
まちを犯しました」と。苦しみがあったから、過ちから救い出され
て、今は、主の言葉を守ることができていると。

だから自分が、過ちを犯したのは、苦しまなかったからという事に
なる。つまり試練を通して、砕かれ、練られ、鍛えられていないか
らだと。そしてまた、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわ
せでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と。苦しみに
会ったことが良かった。この世の価値観と、聖書の価値観は何と異
なる事だろう。

苦しみを通して、苦しみの中でしか学べない多くの訓練を受ける。
それは身について来る。苦しみの中で、主に拠り頼み、すがりつく
事を膚で知る。本気で、真剣に主に向かい、自分を振り返り、主の
御心を尋ね求める。自分の自我に満ちた姿を照らされる。あれもこ
れも自我のゆえ、エゴである事に気づかされる。

主を信じているつもりが、信じていない不信仰に気づかされ、教え
られる。苦しみに会う時は、主が私たちに道を教えるためであり、
その中で、御言葉の力、御言葉によって生きる事を知る時だ。

・・・・・・・・・・・・・
苦しみに会った事は幸せだったと言っている。苦しみに会った事で
過ちからも守られて行くと。自我が強く、自分の思い通りにしたい
のが生まれつきの性質だ。それが砕かれ矯正されて行く。その中で
しか聞けない御言葉があり、心に迫る。頭でなく真に主を知って行
ける。


2018年03月17日(土)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、 もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生き るのです」ローマ8:13



ある人が、一人の同僚と難しい関係にあった。何かにつけて攻撃的
で、目の敵にされているようだった。自分への言葉はきつく、他の
人々への対応と明らかに違っていた。仕事上で、自分が成果を次々
と上げて、上司から、周囲から賞賛されていた。それが嫌なのかも
知れない。とげのある言葉や態度に傷つき、心が曇り、重苦しい
日々が続いた。

裁く思いも出て来るし、悔い改めながら、主に助けを祈る日々だっ
た。自分に非があるなら、教えて下さいとの祈りもしていた。ある
日、余りに心重く沈み、帰りに教会へ足が向いた。そして牧師に、
心の内を打ち明け、今までのあれこれを、ことごとく聞いてもらっ
た。時間をかけ、じっくりと牧師は聞いてくれた。

そしてその後、「では、その相手の祝福を一緒に祈りましょう」と
言われた。「え!」「はあ?」で、その言葉について行けず、祈れ
るわけなどないと、心の内で思った。牧師は祈りの姿勢に入り、事
がどんどん進んで行く。「では、私から祈りますから、君も彼の祝
福のために祈ってね」と言われた。

牧師が祈り終え、次が自分の番になった。ずっと心の葛藤で、「祈
れません、祈れません、無理です。無理です」と心の内でうめいて
いた。しばらく沈黙が続いた後、ついに決意して「彼を祝福して上
げて下さい」と祈った。すると御霊の平安が心に来た。心が晴れや
かなになり、あんなに苦しかった事が嘘のようだった。肉と御霊が
いつも目の前にあり、主に従おうとする時、選択を助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・
御言葉に従うことが大切と、頭ではよくわかるのだが、自我がある
ので、なかなか難しい。自我が邪魔をし、あらがう。しかし心の奥
に平安は無い。自分には出来ない事を認め、且つ従おうとする時、
御霊の助けが臨む。不思議だが出来ることを経験する。


2018年03月16日(金)

「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」エレミヤ18:4



ある人が証しした。「教会へ行って、聖書も学ぶんですが、長い間
なかなか神様がわかりませんでした。十数年通って、救われました。
しかいその後も、神様を知るのに時間がかかりました。砕かれない
と、神様はわからないですねえ。今は心の底に揺るがない平安を与
えられて、感謝です」と。

自分はなかなか変わらない、というのは自我が砕かれていないとこ
ろにある。まさにこの固い頑固な自我を砕くために、主は難しい問
題を送られる。どうしても合わない嫌な相手が送られる。対人関係
で悩み、苦しくてたまらないので、職場を変えるが、次の場所でも、
同じような難しい相手に出会す。この人さえいなければ、人生快適
で、幸せなのに、どうしてこの人なのかという相手が、近隣に、親
戚に置かれている。

この相手でなければ上手く行くのに、あれが悪い、これが悪いと思
うが、自分は全く変わらない。辛く苦しいばかりだ。同じような事
が繰り返され、やっともしかして、自分の問題かと悟り始める。そ
して「主よ、私を変えて下さい」の祈りがなされて行く時に、自分
が変えられて行く。

そして平安無く辛かった心に、喜びと平安が与えられて行く。今、
目の前にある出来事は、自らの頑なな自我を砕くための取り扱いだ
ろうか。訓練を受け止めて行けるよう祈ろう。その中で、私たちは
変えられて行く。変えられた自分を発見して行く。
------------
様々な環境を通して、内面の気づきがある。思うように行かない人
間関係は必ず目の前に来るが、それを通して自分自身の罪に主が
必要だったと知れることが何よりも感謝だ。


2018年03月15日(木)

「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない・・」エペソ6:6




会社でも、バイト先でも、職場で時々目にしてしまう。上司や雇用
者がいる時には、真面目に仕事をするが、そこにいない時はサボり、
適当な手抜き仕事をする。又、子供たちに、オモチャを片づけるよ
うにと言うと、兄弟で、これは自分が出した物じゃないと言う。自
分が出してないのに、何で片づけなければならないのかと。

肉の性質は少しでも楽をしたいし、自分が損をするのは嫌だ。どこ
までも自分の損得が判断基準だ。得も無いのに労力も時間も使いた
くない。しかし新しい性質は新しい原理で動く。自分の損得でなく、
神の御心を行なおうとする。それは、人のごきげんとりのような、
うわべの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従う事
だとある。

人が見ている時だけ、懸命に動き、人が見ているから、へつらうな
ら、それはうわべの仕え方だと。真心から、つまり正直に仕えて行
くようにと。そして根本的に、人に対してではなく、主に対してす
るようにと。もし、強いられた事であったとしても、人に対してで
はなく、主に対してするようにという事だ。

人の目のためにでなく、目の前の事を主に対してする事が、主に従
う事になると。自分を中心に生き、損得でしか考えられず、動けな
かった者が、主の御心を、主が喜ばれる事を中心に考え、生きる事
が出来る。これこそが大きな奇跡であり、御霊の支配の中に生きて
いる事だ。
------------
仕事は手際よく片づけたいと無意識で動くから、いつも事だけが片
付けば満足してしまう。次はもっと効率よくやろうと、そこに主へ
の思いが抜けていた。主に対してと心を添えて身体を動かしたい。


2018年03月14日(水)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15:5



私たちは失敗する。人間だから必ず失敗する。どうして自分がこん
な事を、という驚くべき失敗をしてしまう。過去にも何度も失敗し
て来た。しかし、失敗で、すべてが終わりなのではない。大事な事
は失敗を認め、悔い改め、そこから学んで行くことだ。失敗を通し
て、多くの学びを得る。あわれ深い主は、そこから次の展開へと導
いて下さる。

ペテロのために、主は不思議だが「あなたの信仰がなくならないよ
うに」と祈られた。「失敗しないように」とも祈れたはずだが、そ
うは祈られなかった。ペテロは主を3回も否み、裏切るという大失
敗を通して、満々の自信をこてんぱんに砕かれた。その渦中も、主
の御手の中にあり、砕かれ、造り変えられて行った。

そして主の昇天後、諸教会のリーダーとして大きく用いられて行っ
た。失敗を通して、自分の考え、自分のあり方を軌道修正されて行
く。ペテロは裏切りという大失敗を通して、自分の本性、自分の裸
の姿を見せられた。自分の力で従って行けると思っていたが、全く
従うことの出来ない、弱い人間だと。

だが、ペテロの失敗のただ中も、主は変わらない愛で、愛し続けて
おられた。主の執り成しにより、ペテロは立ち直る事ができた。そ
して更に深く主を愛する者とされ、主に頼る者とされた。自分は心
底弱い者であり、主に頼らなければ、何も出来ず、生きて行けない
者である事を知る。これこそが大きな恵みであり、成長だ。
--------------
自分の無力を認められる砕かれた心を失敗を通して受け取りたい。
頑張っても出来ないと落ち込まず、次は主に素直に委ねよう、主に
明け渡そうと主に向いて歩もう。


2018年03月13日(火)

「この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った」創世記12:10



信仰人生には、試練が必ずある。様々な試みが臨む。アブラハムが
「わたしの示す地に行け」との御声に従い、カナンからネゲブの方
へ旅をしていた時に来た試練が「飢饉」であった。生活問題は大き
い。その時にエジプトに下って行った。そして妻サライが美しかっ
たので、妹だと偽るようにと言った。自分が助かるためであった。

人間的思いで自分を守ろうとした。サライはどうなるのか。明日の
食物にも事欠く時に、不安は大きかったろう。しかし妻を犠牲にし
て、自分の身の安全を図ろうとする、そこに信仰も、神も飛んでし
まっていた。主の御心は、示された地にとどまることだ。どんなに
飢饉であっても、必ず主が守られ、必要を与えられる。人間的思い
にかられて、エジプトへ下さった事が、失敗だった。

しかし神は関与された。サライが宮廷に召し入れられ、それゆえア
ブラハムは多くの家畜、奴隷を所有する事になる。しかし、サライ
の事で、神はパロと家をひどい災害で苦しめられた。アブラハムへ
の祝福の約束ゆえに関与された。パロはアブラハムとサライを去ら
せた。祭壇を築いて祈っていたアブラハムであったが、旅を続ける
内に、祭壇を築く事、祈る事がおろそかになったのだろうか。

主を仰ぐ事、祈る事、御言葉から離れると、弱いので、肉の思いに
支配されてしまう。自分の損得、自分の考えで動いてしまう。主に
とどまり、御心の中にとどまる事が安全、平安であり、豊かな祝福
への道だ。
------------
主から離れ、御言葉を離れては平安が無い。自分の知恵や経験で立
ち向かうならいつまでも不安の中だ。思いがけない問題は必ずくる。
主への祈りの祭壇はちゃんと築けているだろうか。


2018年03月12日(月)

「ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。それから二年の後、パロは夢を見た」創世記40:23



波瀾万丈のヨセフ。父親の偏愛に、兄たちの妬みを買い、隊商に売
られ、奴隷としてエジプトへ。そこで忠実に仕え、主人の信頼を得、
すべての管理を任される。ところが主人の妻の誘惑を受け、聞かず
にいると無実の罪で投獄に。奴隷から更に悪い犯罪人に転落だ。

そこでも、監獄長はヨセフの誠実さゆえ管理を任せる事に。そんな
中、献酌官と調理官の夢を解き明かす事になる。ヨセフの言った通
りになり、献酌官長は獄から出る事に。その時ヨセフは、自分は無
実なので、王に話してくれるようにと頼む。しかし、献酌官長はき
れいに忘れてしまう。ヨセフはどんなに期待した事だろう。今こそ
出られるのだ。

しかし何日たっても何も起こらず、希望が見えているだけに、どん
なに辛い試練の日々となった事だろう。だがヨセフには、この期間
が必要であった。私を思い出して、私に恵みを、私のことを、私が
出られるように、と「私」「私」であったヨセフが、この厳しい2
年を通して、更に砕かれ、「私でなく神」へと造り変えられて行っ
た。そして完璧な神の時であった。

牢の中で、パロの夢を解き明かすという機会が与えられた。やがて
総理大臣へと任命され、ヤコブ一族を救う事になる。もし2年前に
出ていたら、そうはならなかった。パズルのピースが完璧な場所へ
とはまって行く。自分の思いとは違っても、主のご計画は完璧だ。
従って行こう。
----------------
神の時でなければ、いくら人に頼んでも御心の道は開かないと学べ
る。開らかない環境も神からのもの、祈りつつ時を待ちたい。必ず
慰めも励ましも共に備えてくださると信じよう。


2018年03月11日(日)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される のです」ヤコブ1:14


罪には一瞬の快楽があり、甘い心地良さがある。だから、これほど
までに誘惑されるし、引き込まれてしまう。罪が苦いものなら、誰
も見向きもしないし、魅力も無い。罪と戯れることは、苦く嫌なも
のでなく、反対に楽しく、気分良く、快適なのだ。だからこんなに
も巧くサタンに引き込まれてしまう。

ちょっと戯れるつもりが、罪の奴隷になってしまう。飲酒、ギャン
ブルしかりだ。自分は大丈夫と思うところに油断があり、そこにつ
け込まれてしまう。警戒なく、気がゆるんでいるところを狙われ襲
われる。

ダビデは、部下が命がけの戦闘状態にあるという時に、夕刻に起き
出す怠惰な締まりのない生活をしていた。そこを狙われた。誘惑が
来た時に、主を仰がず、祈らず、バテシバとの姦淫の罪へと至って
しまう。ロトも伯父アブラハムと別れて、最初はソドムの「近く」
で天幕を張った。中ではない、近くなら、大丈夫と思った。自分さ
え、しっかりしてたら大丈夫だと。

ところがいつしかソドムの中に入り込み、その中でも影響力を持つ
名士になっていた。世と調子を合わせる、妥協した歩みに、娘婿た
ちは、突然この地が滅びると言われても冗談だと思った。世にどっ
ぷり浸かり、世の名誉、地位、富・・世の美味しいところを手にした
生き方は、周囲に何の霊的力も持たなかった。

私たちの欲望と合致した魅力的なものを持って、サタンは誘惑して
来る。欲望と一つになっているので、気づかない。祈っていよう。
祈りにより御霊に気づかせられる。

・・・・・・・・・・
誘惑されるのは、自分の欲のある所だと言われている。自らの弱さ
を知り、認めて行けるなら、そこを祈りに持って行ける。祈りで見
張っておれる。祈りがある時、守られる。折々に感じる自分の弱さ
を認め、また、気づきが与えられるよう祈っていよう。


2018年03月10日(土)

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。 すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨハ ネ10:4



この世には、様々な声があり、混線している。肉から湧き上がる欲
望の声、サタンの誘惑の声、テレビやネットや雑誌の世の様々な価
値観の声、そしてその中に、最も大切な主の御声がある。主は羊飼
いで、私たちは羊とのたとえがあるが、羊は目の前の事しか見えな
い。方向音痴で、目の前の美味しい草をあさっている内に、迷子に
なってしまう。自分がどこにいるかわからない。

私たちも羊のように迷いやすい者だ。目の前の美味しいものに、よ
く考えず、祈りもせずに食いついてしまう。それは自らの欲望と合
致しているので、なかなか見分けられない。自分にメリットが無い
話には惹かれないが、物質的なものであれ、精神的なものであれ、
利得になる話は受け入れてしまう。美味しい話に釣られてしまう。

自分が中心にあり、自分に得、自分に損で判断してしまうので道に
迷い込んでしまう。神が中心なら、神の御心は?主の判断は?が基
準になるので、守られる事になる。自分に都合の良い声だけを聞く
なら、自分に痛い、厳しい、いさめる声は聞きたくない。拒否して
しまう。

主は甘い話で釣られるのでなく、痛い事もはっきりと語られる。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、弟子になるこ
とはできない」「自分のいのちまでも憎まない者は弟子になること
はできない」。しかし主の御声を聞き分ける羊は、主について行っ
た。主の羊は、主の御声がわかる。どんなに痛くとも、愛の御声で
あるとわかる。そしてついて行く。

・・・・・・・・・・・・
主は御声をかけて導かれる。サタンも同じ事をする。声が聞こえて
来る。甘いささやきは、自らの欲望と合致しているので、気づかず
に乗ってしまう。しかし主を仰ぐ時に御霊の助けが臨む。御霊が御
声の方へと導いて下さる。平安に合致する御声だ。


2018年03月09日(金)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6


私達は、日常生活で様々な問題にぶち当たる。病気になるし、けが
もする。仕事、対人関係の問題、親子、夫婦、友人、近隣とのトラ
ブル、経済的苦境、これら問題の中で、信仰が試されている。試練
は、乗り越えるために与えておられる。つまり、乗り越える事が出
来る試練を量って、目の前に送られる。

ピリポも試された。男だけで五千人、女、子供を入れると万単位だ。
大勢を前に、主は「どこからパンを買って来て、この人々に食べさ
せようか」と。「ピリポをためしてこう言われた」のだと。ピリポ
は、人数と、持ち金をさっと計算し、「足りません」と答えを出し
た。こんな大勢の人に食べさせる事は到底無理、出来ないと答えた。

アンデレは、あるいは主が何かして下さるのではとの信仰から、何
か持っている人を捜し回った。その中で、唯一少年が、5つのパン
と2匹の魚の弁当を持っていた。とにかくそれを主のもとに携えた。
しかし、これだけの物が、こんなに大勢では何になろうとの思いも
あった。だが、不可能と決めつけて、諦めてしまうのでなく、アン
デレは、アンデレとして自分に出来る事をした。

すると、主の大いなるみわざを見た。そして全員が満ち足りた。主
はすでに「ご自分では、しようとしていることを知っておられた」。
私たちの試練の時にも、主にはすでに、しようとしていることを持
っておられる。そこに目を留め、そこを信じて、「無理」「不可能」
と決めつけてしまわず、祈って行こう。主を新たに知り、一歩一歩
成長へと導かれる。
---------
目の前の問題に無理、出来ないと自分の答えは決まっているが、主
の御心は何処にあるのだろう。不安の中から御心を求めて祈ろう。
御言葉を通し、祈りを通し主は必ずご計画の一歩を示してくださる。


2018年03月08日(木)

「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」ヤコブ3:8


舌は火であり、不義の世界であり、からだ全体を汚し、人生の車輪
を焼くと。舌を制御する事は誰も出来ないと言っている。どうにも
ならないほど、大変な事だ。そうであれば、舌を制御するにはどう
したら良いのか。これは舌、口の問題でなく、私たちの心の問題だ
と言っている。

「心に満ちている事を口が話す」と。心が先だ。よく心に不満が溜
まってしまって、爆発すると言うが、心に我慢となって蓄積した事
が、何かが引き金となり噴出してしまう。又は、日頃ずっと思って
いる事が、ひよっと口に出てしまう。抑えて我慢していても必ず出
る。又、逆に、これを言おうと、心でしっかり思っている事を口に
する。

話し方どうこうの問題でなく、心に潜んでいるものの問題だ。憎し
み、妬み、敵対・・があるなら、必ず言葉となって出て来る。悪口
やとげのある言葉が出る。心に満ちている事を口が話す。心にも無
い事を言うのでなく、心にある事を言う。それは人を傷つけ、周囲
に害毒を流して行く。主のもとに行き、心にある問題を打ち明けよ
う。

心の中の憎しみ、妬み、敵対心、虚栄心、プライド、貪欲・・一つ
一つを主に持って行こう。主は受け止め、取り扱い、悔い改めに導
いて下さる。人との関係以前に、自分と主との関係が問題だ。主と
の間に妨げなく、自由な交わりがあるなら、心は平安だ。その時、
舌が守られる。我慢するのでなく、御霊の平安が心を支配するので、
心に余裕があり、舌を制御して行ける。
-------------
傷つけられたり、嫌な事があると苦い思いを持ってしまうが、苦い
思いにサタンの誘惑も来る。主の助けに頼ろう。失敗してもくり返
し実践しよう。


2018年03月07日(水)

「何も思い煩わないで・・感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6



「何も思い煩うな」と言われている。日々、生活の中で、大きな事
小さな事、様々な心配、不安に襲われる。目の前に事態は次々と起
きる。ちょっとした人の言葉で、どっと不安になったり、暗く沈ん
だり、突如の経済的苦境が発生したり、病気やけが、対人関係の悩
み、仕事の事、近隣の事、次から次へと思い煩いが起きて来る。

心が揺れ動き、平安を失ってしまう。その時に、思い煩いをストッ
プしなければ、幾らでも落ちこんで、わけがわからなくなって行く。
経験あるだろうか。そんな時に、思い煩いをストップして、主に告
げることだ。主に向いて、心の内の不安、恐れ、嘆き、心配をこと
ごとく主に告げて行く。

すると、主に祈る中で、いつも共におられる主、決して変わらない
愛で愛して下さっている主、必要をご存じの主、すべてを益にと導
かれる主、そんな主との交わりにより、主への信頼が取り戻せて、
混乱、動揺していた心が落ち着いて来て、平安にされて行く。主に、
心の求めを知っていただけた事で、心は平安になる。

なぜなら主が目の前の事態を、どうであれ最善に導かれる事を知っ
ているからだ。問題の解決のめどがついたから平安になるのでなく、
主との交わりによって平安にされるのだ。主の暖かい愛に包まれて
いる事に気づき、人格と人格の交わりを通して、理解し心配して下
さっている主に触れ、心に安堵が来る。
------------
思い煩いに襲われると、どれだけ恵みが注がれていても見えなくな
ってしまう。祈ろうと主に心が向くだけで、思い煩いの淵から光が
射す。絶えず主に祈ろう。


2018年03月06日(火)

「・・そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」Tヨハネ4:4


サタンは全知全能ではない。サタンは被造物だ。主権は神にある。
サタンは、主の許可の範囲内でしか働けない。ヨブ記にあるように、
「持ち物はいいが、身に手を伸ばしてはならない」、持ち物に限定
だ。次にサタンが挑んで来た時には「身はいいが、いのちには触れ
るな」。身体に限定だ。神が限度を定め、その限度内でしか働けな
い。

12弟子の一人であるユダは、銀貨30枚で主を売った。裏切ってし
まった。その結果、主は捕らえられた。「サタンがユダの心に、主
を売ろうとする思いを入れた」とあり、サタンに思いを入れられ、
ユダはそのサタンの思いに同意し、主を裏切った。全能の主は、サ
タン阻止は可能だが、働く事を許され、そのサタンすら、主の御旨
の成就のために利用された。

主が天でも地でも、全主権を握っておられる。サタンは、主を十字
架の死に追いやったが、結果的に、その十字架は人類の贖いという
金字塔を打ち立ててしまった。もう後に戻せない。サタンもどうす
る事も出来ない。又、ペテロもサタンにやられてしまった。自分の
弱さを知らず、自信満々で、主に従って行けると思っていた。しか
し、いざとなると保身に走り、主を否んでしまった。

だが、主はそれもご存じの上で、ペテロの将来を見据えておられた。
「サタンがあなたをふるいにかける」と。ユダは悔い改めず、ペテ
ロは悔い改めた。ペテロは粉々に砕かれ、自らの弱さを知った。サ
タンは働くが、主はその上におられ、勝利へと導かれる。
-----------
自分の思いにサタンの攻撃が来るので、自分を否定し神だけに頼ら
なければ勝利できない。世の言葉や自分の策を頼らず、神に祈り、
神の御言葉に聞き従って勝利を得よう。


2018年03月05日(月)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて・・大胆に恵みの御座に近づこう」ヘブル4:16


新生して以来、私たちは古い性質と新しい性質が、絶えず葛藤して
いる。霊と肉の戦いの中にある。やがてかの日に私達のからだは変
えられる。それまで私たちに、弱さがある事を主はご存じだ。この
肉体は疲れ果てるし、病気にもなる。主は肉体をとって地上に来ら
れたので、この事を理解し同情して下さる。

主は、あなたのあらゆる弱さをご存じだ。良き理解者だ。同情して
下さっている。だから主のゆえに、いつでも恵みの御坐に行く事が
できる。私達は力に溢れている時は、主のためにどんどん働き、主
に近いと感じる。逆に弱さを覚え、無力の時はどうだろう。主を遠
く感じるだろうか。

「何も出来ない者はだめだ」サタンの声が聞こえて来る。罪を犯し
てしまうと「同じ失敗ばかりしている」「成長がない、自分はだめ
だ」ひどく落ち込んでしまい、ますます主から遠ざかる。御言葉は
どう言っているだろう。「あわれみを受け、恵みをいただいて、大
胆に恵みの御座に近づこう」。離れるのでなく、近づけと。

恵みの御坐に近づける根拠は「あわれみを受け」「恵みをいただい
て」とあり、「あわれみ」と「恵み」だ。自分の功績、自分の力に
は全くよらない。立派な行ないによらない。一方的な愛顧だ。主の
あわれみと恵みがあるので、どんなに破れ果てた、ぼろぼろの状態
でも、御前に行ける。綺麗になって行くのでなく、あるがままだ。
主の「あわれみ」と「恵み」をしっかり心に刻もう。
------------
恵みが注がれているのに、自分で付加価値をつけたり、主が罪をと
りなしてくださるのに罪に気づくと隠くす。不信仰を増長させる肉
に気づく度に、主に近づき、御言葉を素直に信じよう。


2018年03月04日(日)

「すると、ユダが兄弟たちに言った・・さあ、ヨセフをイシマエル人 に売ろう」創世記37:26


主イエスは、ユダの家系から誕生されたが、そのユダは、ヨセフを
隊商に売ろうと言った人物だ。そのユダはカナン人シュアの娘と結
婚した。異邦人との結婚だ。子供がエル、オナン、シェラと生まれ
た。長男エルはカナン人タマルと結婚したが、エルとオナンは御心
に反する決定的な事があり、死んでしまった。

ユダは嫁のタマルを3男シェラが成人するまで実家に帰した。当時
は子供を得るため兄弟と結婚した。しかしシェラが成人になっても、
ユダにその意志が無い事を知る。ユダの妻も死に、放置されたまま
のタマルは一生このままかと思った時に、何とかユダにより、子を
得ようと決心する。ユダが近くに来た事を知り、タマルは着替え、
ユダを待つ。

ユダはタマルを遊女だと思い、関係を持った。その代価に子やぎを
後で渡す担保として、印形とひもと杖を渡す。タマルはそれを持ち
去り姿を消した。3ヶ月後、タマルの妊娠が発覚。実家に帰省中の
妊娠に、ユダは怒り、タマルを焼き殺せと言う。しかし証拠品を出
すと、ユダは事実を認めた。タマルは正しい。自分がシェラを与え
なかったせいだと。

このようなどろどろの家系から、主が生まれた。聖書はいっさい隠
さず、罪も恥も汚れもすべてを赤裸々に明らかにしている。学べる
事は、主の前で、今のあるがままを主に向いて、正直に生きればよ
いという事だ。虚栄も繕いも必要無い。血統も関係無い。罪は悔い
改めればよい。過去は赦されている。何を背負って来たとしても、
今、主に向いて生きる事が大切で、主はすべて受け止め、愛し、豊
かに祝福して下さる。

・・・・・・・・・・・・
普通なら隠すであろう醜聞、とんでもない酷い罪、それらが隠ぺい
される事なく、そのまま記されている。肉は何をするかわからない、
罪深い自分の姿だ。しかしそのための主の十字架で、赦され、赦さ
れ続けて、いつも新しくされて、前を向いて生きて行ける。驚くべ
き恵みだ。


2018年03月03日(土)

「・・あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます」マタイ11:29


くびきとは、平板に穴が二つ平行に開いていて、二頭の家畜の頭部
を入れるものだ。二頭を同じ方向へ進ませるためだ。それが無けれ
ば、それぞれ別々の方向へ行く。くびきは同じ方向へ進ませる。主
も私たちに「わたしのくびきを負え」と言われる。わたしのくびき
は負いやすいと。それは身体にフィットして快適、心地良い事だ。

くびきは、その穴に首をきちんと入れると、快適で心地良いが、嫌
がって、もがくと首が締め付けられる。くびきを逃れようとするな
ら、そのくびきは締め付け、痛くて辛いものとなる。これさえ無け
ればと、自分を非常に苦しめるものとなる。

あなたにとってくびきはどちらだろう。自分のくびきを「受け入
れ」しっかり負う時、そのくびきは平安と喜びをもたらしてくれる。
しかし受け入れず、もがく時、それはきつく首を絞め、ただ苦しい
ばかりだ。くびきを受け入れられなければ、そう出来るよう祈る事
ができる。主は助けて下さる。

ある人は、目の前の状況が受け入れられず、苦しいばかりだった。
どうしても受け入れられない。心は重く辛く苦しい。もがいて悶々
状態だ。どうにも出来ない。もう瀬戸際に来て、「自分でどうにも
出来ず、もうぼろぼろです、助けて下さい」と叫び祈った。

ギブアップの祈りに答えられ、主の助けが臨んだ。くびきを受けれ
る事が出来て、自由にされた。平安満ちて、それは軽いものとされ
た。くびきが受け入れ難いなら、そうできるよう助けを求めて祈ろ
う。

・・・・・・・・・・・
なかなかくびきを受け入れられない事が問題だ。締め付けられ、苦
しいばかりだ。受けれられた時には、そのくびきは平安で、快適で
心地良いとある。沢山の恵みをもたらしてくれる。自分では受け入
れられないので、祈ろう。受け入れられるよう助けて下さる。


2018年03月02日(金)

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:7


ある人が、急な難題が起きて、不安と恐れでいっぱいになった。何
をどうして良いかもわからない。胸が苦しく、痛くなるほどだ。ど
うすれば良いのか、誰にも言えず、悶々状態だ。真っ暗のように感
じる。どんどん心が落ちこんで行く。ネガティブな方へと向き、何
もかもがダメになるように思えてしまう。

しばらくたって、はっとした。そうだ主が飛んでいた。御霊が気づ
かせて下さった。とにかく真っ暗な心で、主のもとに行った。心は
どんより重い。しかし御前で、何が何だかわからない、心の内を、
あるがまま素直に主に告げて行った。そして、ただただ主の御前に
いた時に、小さな御声が聞こえて来た。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる
祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただきなさい」
。「何も」いっさい思い煩うなと。そして「あらゆるばあいに」と
言われている。それで続けて、願い事を主に告げて行った。その時、
「神に知っていただきなさい」の御言葉により、神に知っていただ
いた、との確信が来た。

「神が知って下さった!」との確信に、もういいと思えた。神が知
って下さったのなら、何を心配する事があろう。どうであれ、最善
へと導いて下さると信じる事ができた。状況は変わらず、まだ同じ
なのに、心に平安が臨んだ。不思議な恵みの経験だった。
-------------
祈っているうちに不思議に不安も心配も軽くなっている。今、重苦
しい心配事があるなら、考え込む前に神に差し出そう。事の全てを
知っておられる神が心を守ってくださる。


2018年03月01日(木)

「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」詩篇105:19


ヨセフは、主から夢を通して、将来偉大になり、大きく用いられる
と語られていた。しかし現実は正反対だった。父は、ヨセフを偏愛
し、長子が着る袖付き長服を着せていた。兄たちは、父がヨセフば
かりを可愛がるので嫉妬した。それに加えて、ヨセフが将来兄たち
が自分にひれ伏すという夢を見たと語った事から、嫉妬は憎しみに
増幅し、殺意になって行った。

ある時、野原で兄たちはヨセフを殺そうとしたが長兄が止め、隊商
に売り渡した。ヨセフはエジプトで奴隷となった。主からの言葉と
は逆行している現実。そこで忠実に懸命に働き、主人から認められ
信頼を託されるが、主人の妻からの濡れ衣で、投獄となり、奴隷よ
り更に悪い囚人となった。激しいアップダウンの人生だ。

「彼をためした」、試すとは精錬する事だ。金が、火を通して精錬
されるように、厳しい逆境の苦難の火の中で、精錬された。不純物
を溶かし、取り除いて行かれた。神の器に選ばれていたヨセフは、
練られ、鍛えられ、整えられて行った。父の偏愛を受けたヨセフも、
兄たちの悪い噂を父に告げ、一人長服を着て、人の気持ちがわから
ない。器として矯正が必要だった。

厳しい苦難を通して砕かれ、へりくだらされ、造り上げられて行っ
た。紆余曲折を経て、やがて総理大臣として立てられて行った。ヤ
コブ一族の救いのために用いられ、神の言葉がその通りに成就した。
今、試練の中だろうか。しかし神の言葉は必ず実現する。
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自分の力で抜け出せない境遇で、少しずつ、少しずつより神に頼る者
とされ御心の形に整えられる。今の問題も神からのものと受け取りな
おそう。神に慰められ、励まされ、力を受ける。