2018年04月30日(月)

「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」イザヤ51:1



マタイは取税人であった。当時、取税人は、ローマに代わり、ユ
ダヤ人から税金を取り立てていた。つまり同胞から不正に取り立
てて、私腹を肥やしていた。そのため同胞からは、ローマ帝国の
手先とひどく嫌われ、軽蔑され、裏切り者と憎まれていた。誰か
らも相手にされなかった。

不正の罪を犯しているので、とがめがあり、自己嫌悪にも陥って
いただろう。金持ちであったが、喜びは無く、決して幸せではな
かった。心に暗さを抱え、孤独と虚しさの中にいただろう。そん
な時に、主がマタイを「ご覧になって」「わたしについて来なさ
い」と御声をかけられた。「すると彼は立ち上がって、イエスに
従った」。

主がそんなマタイの心の内を、すべてご存じで、弟子として選ば
れた。マタイは即、招きに応じている。迷いが無い。大変な決心
と覚悟が要るところだが、マタイは、あの聖いお方が自分のよう
な罪人を、招いて下さった事にどんなに驚いた事だろう。そして
どんなに嬉しかったろう。彼は生涯、主に従い通して、マタイに
よる福音書を書く栄誉にあずかった。

マタイは自分の事を「取税人マタイ」と言い、どんな中から救わ
れたかを全く隠さず、むしろ明言した。私たちも「切り出された
岩、掘り出された穴を見よ」と、どんなところから救われたのか、
救われていなかったら、どうなっていたのか、いつも確認する事
は有益だ。どんなに感謝が溢れるだろう。
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★誠に申し訳ありませんが、担当者が急遽の入院治療のため一日
より配信ができません。三週間ほどお休みさせていただきます。
”日々みこ”ですのに本当に申し訳ありません。祝福をお祈りし
ております。


2018年04月29日(日)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」マタイ6:34


明日の事で思い煩っているだろうか。又は、一週間先の事の心配で
頭はいっぱいだろうか。又は、体調が少し悪くなると、もしや大病
では、大変な事になるのではと・・。しかし主は、あすは心配せず
に、一日単位で、今日の一日を生きるようにと言われた。その日そ
の日の労苦、なすべき事があるからと。

一日一日の積み重ねが一生になっている。今日のこの一日しか生き
る事ができない。しかし明日があるので、明日生きる事ができると
思ってしまう。明日の思い煩いで、この一日をつぶしてしまうなら、
今日の御心はどうなるのだろう。行なう事ができない。とにかく目
の前の一日を精一杯生きて、今日の御心を行なう事が、主の喜ばれ
ることだ。

ある人がリーダーとして人々を率いて、プランに臨んだ。ところが
思った以上に困難で、時間も人力も足らず、思い煩いでパニックに
なった。非常な不安と焦りにさいなまれる中、主の御前に行き、静
まり心の内を告げて祈った。その時、「自分が」「自分が」と先走
っている事に気づかされ、主に任せるように導かれた。

そして亡霊の思い煩いに、悩まされている事もわかり、とにかく今
日の1日に集中して、今日なすべき事に全精力を注いだ。それを1
日1日と積み重ねた時に、落ち着いて、一人一人の力も発揮できて、
見事に成し遂げる事ができた。明日のことは委ねて、今日なすべき
事に心を注ぎ出そう。
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誰もがまだ来ない明日の心配をする。だからこそ主はこのように励
ましてくださる。主にあって豊かな今日を生きよう。今日の一日を
喜び、今日する事に向き合おう。


2018年04月28日(土)

「そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか』」創世記4:6



カインとアベルが二人共、主に献げ物を持って来た。カインは地の
作物から持って来て、アベルは、最良の初子の羊を、自分自身で持
って来たとある。すると、アベルの献げ物は受け入れられ、カイン
の献げ物は受け入れられなかった。神のえこひいきだったのか。し
かし「私たちの神、主には、不正も、えこひいきもない」と御言葉
にある。

受け入れられなかったカインはひどく怒り、顔を伏せた。そのカイ
ンに、主は「なぜ憤っているのか、顔を伏せているのか。あなたが
正しく行なったのであれば受け入れられる」と。つまりは、カイン
は正しく行なっていなかった。又正しい心で行なっていなかった。
神が正しくないと言われているので、悔い改めたら良かった。

カインは怒りで、顔を伏せていた。心閉ざしてしまった。主に、ど
のように献げたらよいのか聞けば良かった。自らの気持ちを告げて
行けば良かった。しかし心頑なにし、拒否し、怒りは増幅して行っ
た。怒りは罪を引き起こして行く。罪が戸口で待ち伏せしてると。
主は、罪を治めるようにと警告された。罪を治めるとは、罪を告白
し、悔い改め、十字架の赦しを受け取ることだ。

しかしカインは、怒りの矛先がアベルに向き、妬みが激しい憎しみ
となり、殺人へと至った。弟を殺害してしまった。どんな時にも、
愛して下さっている主に、顔を伏せないで、向いて行くことが大切
だ。豊かな赦しが備えられていて、御心へと導いて下さる。主に向
いて行こう。
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最初に気づいた心の苦さをすぐに主に差し出せば、新たな道に進め
るのに悔い改めを邪魔する肉の思いがある。主に差し出そう。主は
あふれる恵みをもって光の中に連れ戻してくださる。


2018年04月27日(金)

「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」ハバクク2:4




ハバククは切に祈る。「助けを求めて叫んでいるのに、いつまで聞
いて下さらないのか」、暴虐が起こり、裁きが曲げられていると。
ユダのヨシヤ王は主に従おうと、偶像礼拝を断ち切り、次々と宗教
改革を行なった。イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、ユダはアッ
シリアとエジプトに挟まれていた。

そんな時、エジプトがアッシリアに戦いを挑むが、ユダを通らねば
ならない。ユダとは戦う気は無かったが、ヨシヤ王はエジプトを迎
撃し、戦死してしまう。あれほどの信仰深い王が、あえなく死んだ
事に、なぜどうしてとハバククは混乱し大きく動揺する。そして主
は、強暴なバビロンを起こすと言われる。

ハバククは、悪者が正しい者を飲み込む時、なぜ黙っておられるの
かと訴える。彼は真剣に祈り続けた。「主が私に何を語り、私の訴
えに何と答えるかを見よう」と。主は答えられた。「もし遅くなっ
てもそれを待て。それは必ず来る。遅れる事はない」。神の時は、
私たちの時と違う。私たちは、何も動かないではないか、いつまで
待つのかと焦る。

しかし神にとっては、遅れてはいない。それは必ず神のタイミング
で来る。だから待てと。そして「正しい人はその信仰によって生き
る」見えるところではなく「信仰によって生きよ。わたしを信じて
ついて来よ」と。私たちもそうだろうか。目の前の問題に「いつま
でですか」との問いに「遅くなっても待て。必ず来る。遅れる事は
ない」「信仰によって生きよ」と言われている。
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ただ待つなら辛く、やがて無気力になってしまうが、神が時を支配
しひと時待たされている。諦めではなく希望を取り戻そう。ハバク
クのように神にまっすぐに訴えそして祈りの答えを見張っていよう。


2018年04月26日(木)

「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです」使徒27:22



パウロと囚人たちは、船でイタリヤへ護送される事が決まり、百人
隊長に引き渡された。途中でもう紅海は危険な季節になり、パウロ
は、命にも危険が及ぶと、中止を進言した。しかし、百人隊長はパ
ウロの言葉よりも、航海士や船長の意見の方を信じ、出航した。こ
のところで、私たちもどうだろう。

神の言葉より、専門家や人の意見、常識や経験値に従う事がないだ
ろうか。肉の目に良いと見えてしまう。するとパウロの言った通り
に、暴風が吹き荒れ、手立てなく流されるままになった。激しく翻
弄される中で、人々は身の危険を感じ、不安と恐怖に襲われ、絶望
的な状況に陥った。

パウロは切に祈ったであろう。その時に人々を励まし、神から語ら
れた言葉を告げる。命を失う者は一人もないと。紆余曲折ありなが
ら、まさにパウロの言った通りになった。最後は「みな、無事に陸
に上がった」。神の言葉の通りに成就した。パウロは絶体絶命に見
える中で、目に見える状況ではなく、神の言葉を信じた。それゆえ
信仰によって、人々に告げる事ができた。

私たちも、目の前の状況や能力や感覚にかかわらず、主の言葉が成
就する。今、「助かる最後の望みも今や絶たれようとしている」、
絶体絶命の状況にあるだろうか。恐れと不安に襲われているだろう
か。しかしどんな中でも望みがある。主が共におられるからだ。必
ず助けられる。御言葉を与え、励まして下さる。その言葉を信じて
行く時に、不安恐れから心が守られ、御言葉が遂げられる。
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主は求める者に行く道を教え、助言を与えると約束してくださって
いる。真っ暗な中で主を見ていないと、自分の目に良いと思われる
道に行きそうになる。闇の中でも恐れず導かれる主に頼もう。


2018年04月25日(水)

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16


二人の弟子たちが郷里に向かっていた。主が十字架で死んでしまい、
落胆と絶望で、話し合ったり、論じ合ったりしながら、歩いていた。
復活を信じない彼らは、「暗い顔つき」だった。そこに主が現われ、
彼らのかたわらを歩かれた。しかし彼らには主だとわからない。目
がさえぎられていた。

何を話しているのかと問われ、主に向かって「イエスのことです」
と言う。面白い光景だ。女たちが墓に行くが、御使いがイエスは生
きておられると告げた、と言うのですと。まるで復活は他人事だ。
無関係の傍観者的態度だ。主は、その彼らに「信じない、心の鈍い
人たち」と、「ふたりの目がさえぎられている」原因は不信仰だと
指摘された。

「イエスご自身が近づかれ」たのは、そんな彼らに信仰を与えるた
めであった。主は御言葉を語られた。十字架の死の意味を復活の事
を説き明かされた。弟子たちはその時、不思議だが心が内に燃えて
来るのを感じた。そして御言葉に耳を傾けて行った時に、信仰がよ
みがえって来た。別れ道に来た時に、主に一緒に泊まるよう切に願
った。

その食卓で、主が目を開いて下さり、主だとわかった。不信仰にな
ってトボトボと失意で故郷に帰る弟子達に、主の方から近づき、ご
自身を現わし信仰をよみがえられせて下さった。不信仰を信仰に変
えられた。今日もよみがえりの主が私たちのかたわらを歩き、信仰
を助けて下さっている。
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不信仰の目で見るなら落ち込む失敗も、信仰の目で見るなら全く別
の意味に変わる。主に与えられたいのちは信仰によって豊にされる。
喜べない日も主に差し出そう。主は助けてくださる。


2018年04月24日(火)

「・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:6



ある人が「以前はもう極度の心配症でした。思い煩い症でもあり、
心配で心配で不安で不安で、何か起こるとすぐに最悪のシナリオが
出来上がり、結果まで頭に描いてしまう。不安は、とどまるところ
知らずでした」。しかし主に出会い、祈りに持って行ける恵みに、
段々、問題が起きた時に、主が何とかして下さると思えるようにな
った。

これは自分にとって奇跡だと。試練の時には、あるがままの気持ち
を告げる。「苦しいです。不安でたまらないです。どうしていいか
わかりません。この事態を受け入れる事ができないでいます。助け
て下さい」そのまま心の内を正直に主に告げて行くと、目の前に問
題はあるのだが、心が不思議に落ち着いて行った。

そして、すぐにどうこうならなくても、主が必ず良くして下さる、
大丈夫だと思えた。試練はトンネルの中だ。トンネルの中は、暗闇
で光が見えない。その渦中では真っ暗だ。しかしことごとく主に告
げて行くと、主に受け止めていただいた、知っていただいた、安堵
感が来る。

そして自分に出来る事をして行こうと思える。別の人が、自分も大
変な思い煩い症だと。だが、御言葉に従って、思い煩いが来る度に、
一つ一つと祈りによって委ねる事を、繰り返していると、心に不思
議な安堵を経験した。何も思い煩わず、御言葉の通りに従ってみよ
う。
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主に信頼し委ねれば委ねるほど、さらに信仰は増し加えられる。自
分の中で解決しようとする辛さを主にお渡しできるよう、思い煩い
が来る度に祈ろう。主が守ってくださることを信じよう。


2018年04月23日(月)

「パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ」出エジプト14:18



モーセに率いられた出エジプトの箇所だ。イスラエルの民は男子で
60万人、皆で200万人とか言われているが、それが一度に脱出すると
は大変な事だ。又、エジプトにとっても、労働力が突如として無く
なるわけで一大事だ。出発したが、すぐに非常事態が起きた。何と、
後ろからエジプト軍の精鋭部隊が追いかけて来るではないか。

どんどん追いついて来る。前は海で、進む事も退く事も出来ず、絶
体絶命だ。民は手の平を返して、モーセをののしる。「こんな荒野
に連れて来て、死なせるのか。何という事をしてくれた。エジプト
にいた方が良かった」。問題が無い時は出て来ないが、問題が起き
る時、試練の時、人の本性が現われ出る。

ずっと祈っていたであろうモーセは言った。「恐れるな」「しっか
り立て」「あなたがたのために行なわれる主の救いを見よ」。私た
ちはすぐに恐れる。不安にさいなまれ、地面が揺れるほど動揺する。
目の前の状況に飲み込まれてしまう。思いは飛躍して、最悪のシナ
リオを作り上げる。その時に、神も、御言葉も抜け落ちている。

まず「恐れてはならない」の御言葉に立って、状況を見る時に、心
が動転していた状況が違って見える。そして「しっかり立て」自分
で動かず、自分で何とかしようとせずに、主が動かれる事を信じよ
う。「主が戦われる」と。今、目の前に難題があるだろうか。まず
「恐れるな」、心配するなと言われる。自分でどうこうせず、まず
主の導きを求めよう。主が事を成し遂げられる。
-------------
肉の本性はモーセを通して語られる主の言葉を信じない。簡単に御
言葉の真逆に走ってしまう。恐れの中で御言葉を信じ、御言葉に立
っていよう。主がこの弱い信仰に答えてくださる。


2018年04月22日(日)

「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」T列王17:1



エリヤは、飢饉の折りに、最初ケリテ川でカラスに養われた。カラ
スが食べ物を運んで来た。川の水が枯れた時に、次に、主から「ツ
ァレファテのやもめに命じて、あなたを養うようにしている」と指
示があった。やもめに養われると聞いたので、どんな資産家のやも
めかと思ったろう。

ところが、このやもめは人を養うどころか、食料も底をつき、最後
のパンを食べて、後は死を待つだけという、驚くべきところにいた。
彼女のたった一人の生きがいであり、命であった息子に、もう食べ
させる物がないという悲惨な状況だった。人間的に考えるなら、と
ても自分のためにとは言えない。もっとふさわしい他の人を探すか
も知れない。

しかしエリヤは状況でなく、主に従った。「恐れてはいけません」
「まず、私のためにパン菓子を作り、持って来なさい」と。そうす
るなら「そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」と。
やもめは、信仰を試された。もしそのようにならなければ、息子に
最後の食事を与えられないまま、餓死させる事になる。

しかしエリヤの言葉を信じて、その通りにすると、かめの粉は尽き
ず、つぼの油は無くならなかった。奇跡が起きた。神の国とその義
とをまず第一にするなら、それに加えて、必要は満たされる。その
時に、「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」を
経験して行く。
------------
人間的に見れば「まず、私のために」とは言えない状況だが、主が
永遠の与え主だ。主と御言葉に寄り頼むことで難局は解決された。
自分の判断はいつも信仰の成長の邪魔をするが惑わされず生きて
おられる主に立とう。


2018年04月21日(土)

「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください』こう言って、眠りについた」使徒7:60 


人々への対応で忙殺される12使徒のために、助ける人々が選び出さ
れた。その中に、信仰と聖霊に満ちたステパノがいた。不思議なわ
ざとしるしを行なっていた。それが気に入らない人々は彼と議論す
るが、どうにも対抗できなかった。そこで人々をそそのかし、偽証
させ、神冒涜の罪で議会に引っ張った。

そこでステパノは語り始めるが、彼の顔は御使いの顔のようだった。
イスラエルの歴史をずうっと語って行く。民はいつも偶像礼拝に陥
り、主は立ち返らせようとするが、それも拒み、とうとう最後には
正しい方を殺してしまったと。いつも聖霊に逆らっていると。する
と人々は、はらわたが煮え返る思いで彼に向かって、歯ぎしりした。

聖霊に満たされていたステパノは、「人の子が神の右に立っておら
れるのが見える」と。人々は耳をおおい、彼に殺到し、石を打ちつ
けた。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」「主よ、この
罪を彼らに負わせないでください」と言い、息絶えた。彼は、なぜ
自分を殺す人々を赦す事ができたのか。

まず彼は「聖霊に満たされていた」とあり、自分を全く明け渡して
いた人だった。自分の生涯に主の栄光が現される事を求めていた。
だから聖霊に満ちていた。そして主だけ見つめていた。「人の子が
・・見えます」ただ主のみを見ていた。私たちはどうだろう。赦せ
ない相手だけを見続けていないか。

ますます赦せなくなる。まず自らを明け渡し聖霊に導かれる事、主
を見続ける事を教えられる。主を恐れない生き方は、人を恐れる
(人の目を気にする)生き方でしかないからだ。
--------------
主から目が離れると目に見える物や人に安心を求めてしまう。安心
できない人を恐れてやがて憎む。気づく度に祈りたい。何を見て行
くべきか、目を上げ主に求め続けよう。


2018年04月20日(金)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25



人を恐れると罠にかかると言っている。しかし主に信頼する者は守
られると。誰しも多かれ少なかれ、人が気になる。どうしても人目
を気にする。しかしそこから逃れたい、自由になりたいので、人を
気にすまいと努力する。だが、人の努力で、それは不可能だ。人間
の力ではどうにもならない。これは、人の努力で何とかなるもので
は無いからだ。

肉ではどうにも出来ない。その解決が、主を信頼し、主を恐れるこ
とにあると言っている。ある人が、人一倍、小さい頃から人の目が
気になった。人からどう思われているかが気になって〃仕方が無か
った。だから良い子に見られたいので、良い子に振る舞ってしまう。
良い子だと思われたい。受け入れてもらいたくて頑張りに頑張った。

それは大人になって人の目を恐れる生き方になってしまった。良い
人に思われたい一心だった。ある時対人関係で、いわれの無い誹謗
中傷を受ける状況に陥った。ある人から、周囲に悪口を言いふらさ
れ、事実でない中傷をされ、それを至る所で広められた。悩み苦し
み、悶々で、瀬戸際状態に陥った。

もうどうにも出来ず、主に、自分自身を、この事態を何もかも明け
渡して、助けを求めた。その直後、相手に病が発覚し、病ゆえの事
と判明した。名誉は回復された。だがその後、人の目が前のように
気にならない事に驚かされた。主の取り扱いに心から感謝した。
-------------
恐れから無理をして相手の基準に合わそうとする時、御霊によって
気づかされる。そこに喜びも安心もない。主にしっかりと信頼し惑
わされないようにしたい。主から来る愛で自由に人を愛していこう。


2018年04月19日(木)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:23




ある人が、夫から、勤めている会社を辞して、神学校へ行きたいと
の決心を打ち明けられた。その時に、表向きは快く賛成したのだが、
本心では、これから生活面はどうなるのかと、もう足下が崩れるか
のような極度の不安だった。その不安は心を暗くした。主は、何も
いっさい思い煩うなと言われる。

経済的にも、環境的にも、これから先も守り、すべての必要を満た
して下さるお方ではないか。全能の主ではないか。だのに、このど
んよりした重苦しい心を主の前に注ぎ出し、心の内を探ってもらい、
祈った。長く祈り続けていた時に、心の内が照らされた。自分はク
リスチャンで、主を信じ、主に頼っていると思っていた。

思っていたつもりが、実は、この世の富やこの世の地位、安定、人
にどう見られるか、それが自分にとって、非常に大切なものであり、
偶像であることを示された。この世のものをしっかり握りしめてい
る姿を示され、御前に悔い改めた。その時、心の不安と恐れが取り
去られ、心が平安にされた。

主を信頼しているつもり、委ねているつもりなのだが、何かある時
の、心のザラつきや、不安、痛みを通して、心の奥にあるものを探
られる。委ねている「つもり」なので、なかなか気づかない。しか
し何か心に刺さる時、ザラつく時、心が暗くなる時、御前に心静め
て祈ろう。御霊は心の内を照らし出し、平安の無い原因を示して下
さる。悔い改めたり、矯正され、正されて、御心の道へと導かれる。
------------
何かが違うと示されているものを悟りたい。知っているつもりの心
が壁となっていないだろうか。ざらつく思いを流さず全て主に向け
て祈ろう。新たな一歩が与えられる。


2018年04月18日(水)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1




信仰人生の中では、苦しみ、悲しみ、嘆きの時、喜び楽しみの時・
・様々な時がある。苦難の中では、八方塞がりで、何をどうしてよ
いのかわからない。心が苦しいばかりだ。又、離別、病、信頼関係
の崩壊・・様々な悲しみを経験する。又、入学や入社試験に合格、
結婚、田畑の豊作、経済的繁栄・・喜びも経験する。

だがそれらは未信者にとっては、すべて偶然であり、喜びがあれば
ラッキー、ハピーであり、悲しみ苦しみは、不運だった、巡り合わ
せが悪かったという事になる。そこに神は無く、意味は無い。しか
し主を信じる者にとっては違う。神のなさる事は、すべて時にかな
って美しいのであり、苦しみや悲しみ、喜びの中に、神を見て行け
る。

すべてが神のなさる事であり、すべてに意味がある。そしてそこを
信じて行く。様々な痛い事、辛い事が起こる。私たちの側からは刺
繍の裏を見る事になるので、ぐじゃぐじゃで、秩序も何も無くただ
の混乱状態、カオスだ。しかし神は表を見ておられ、問題無く順調
に秩序立って事が運んでいる。素晴らしい作品が出来上がりつつあ
る。

私たちはプロセスの間では理解不能だが、後に美しい神のご計画で
ある事を見い出す。美しいという事は、そこに感動があるという事
だ。喜びの時も悲しみの時も、いつも主が共におられ、その中で新
たに〃主を知り、主を経験して行ける、それこそが一番の幸いであ
り、喜びだ。
----------------
種を蒔けば芽吹くまでの時を信じて待っている。花の芽が土の中か
ら出てくるのは楽しみだ。自分の時の所有権も神にお渡ししたい。
そして今を主と共に喜んでいたい。


2018年04月17日(火)

「シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く」・・彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」ヨハネ21:3


人は、本当の自分の姿にきちんと向き合わない限り、自分が変わる
事はないと言われている。見たくなくて、目をそらしたり、逃げた
りするなら、何一つ変わらない。岸辺で「食べる物がありませんね」
という声がした時に、弟子たちは「はい、ありません」と現実を認
めた。

プロの漁師であったペテロ達が、ガリラヤに戻った時、何もなすす
べなく、再び網を取り、以前にしていた漁をした。ベテラン漁師で
あったにかかわらず、一匹もとれなかった。収穫ゼロだった。主を
裏切ったペテロは心に深い痛手を負い、これなら出来ると唯一自信
のある漁をするが、全くとれない。挫折感、屈辱感、空虚感はいか
ばかりだったろう。

ありのままの無力を認めた時、「舟の右側に網をおろしなさい」と
声が聞こえて来た。何だかわからないが、その声に従い、網をおろ
すと、何と驚くべき大漁だった。網を引き上げられないほどの、お
びただしい魚だった。ヨハネが以前の光景と全く同じである事に、
主だと直感した。「主です」の声に、ペテロは湖に飛び込み、主の
もとへ行った。

陸地に上がった時、炭火があり、魚とパンがあった。それを見た時、
ペテロは、主を裏切った時の、あの炭火が脳裏に浮かんだだろう。
主は、ペテロに三度「わたしを愛しますか」と問われた。「私の心
を見て下さい、主はすべてご存じです」と答えた。砕かれたペテロ
がそこにいた。主の愛はそのペテロを見事に回復させた。
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無力を認めたら最後立ちあがれないこの世の絶望とは違う。無力を
認めた先に、主の栄光を拝するチャンスが備えられている。何とい
う救いだろう。この世にいる限り何度でもやり直せる。いつも支え
られている。主を賛美したい。


2018年04月16日(月)

「あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです」出エジプト 16:8 




民が、出エジプトを果たし、荒野に出た後、試練がやって来た。荒
野の旅での重なる疲労に加え、暑さ、これから先どうなるのかとい
う恐れや不安、そこにエジプトから持って出た食料も尽き、食物が
無く、人々はつぶやき始めた。少し前に、絶体絶命の窮地の中、目
の前の海が分かれ、道が出来るという、後にも先にも無い、偉大な
奇跡を見たばかりだ。

それにもかかわらず、喜びの叫び、溢れる大感謝は、あっという間
に、手の平返しのつぶやきに変わってしまった。つぶやきとは不平
不満だ。なぜ、不平不満が出るのか、それは神を信頼できないから
だ。神を信じる事が出来ない。神を信じようとしない。

「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで
食べていた時に、主の手にかかって死んでいたらよかったのに」エ
ジプトから何で連れ出したのか。飢え死にさせるためかと、ひどい
不信仰と頑なな心を露呈した。目の前に苦しい事が起きると、以前
の方がましだ、良かったと思ってしまう。

肝心な事は、神が導き、最善をされるという信仰と、神への感謝が
見えない事だ。目の前の食料不足に、心はとらわれてしまう。それ
しか見えなくなる。しかし、神は必ずや与えて下さるお方だ。食料
でなく、心の「苦い根」が問題だ。

「苦い根が芽を出して悩ましたり、これにより多くの人が汚された
りすることのないように」と。頑なな、神を信じようとしない不信
仰、そこに気づき、悔い改め、良いお方を、必ず良くして下さるお
方を信じて行けるよう祈ろう。御霊は助けて下さる。
--------------
目の前の状態に反応してすぐに平安は失せるが、信仰によって失望
やつぶやきに背を向けよう。約束の御言葉があり、今まで通り助け
は来る。主の栄光が雲の中に現われるのを見よう。


2018年04月15日(日)

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさ い・・」Tペテロ5:6


私たちは、よく思い煩う。この先のあの事が、ああなったら、この
事が、こうなったらと、ああでもない、こうでもないと、まだ見て
いない事を心配する。最悪のシナリオを描く。少し体調を崩すと、
将来が不安になって仕方が無い。又、突然失業したら・・、事故に会
ったら・・、このままで経済的に大丈夫なのか、あれやこれやと不安
と恐れに襲われる。

思い煩いでいっぱいだ。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に
ゆだねなさい」とある。思い煩いを「いっさい」「すべて」「何も
かも」委ねよと。主にはご計画があり、配慮があり、最善をして下
さる。しかし委ねることが難しい。頭ではよくわかるのだが、委ね
られない。自分が握り締めていて、手放す事が出来ない。

委ねると、自分が崩壊する。委ねると、物事がダメになると思って
しまう。だから握り締めて決して放せない。「神の力強い御手の下
にへりくだりなさい」とある。委ねるために、へりくだりが必要だ。
自分の力に頼っているので、へりくだる事ができない。自分で何と
かしようと思っている。神に頼らず、自分の力に頼る事が「高ぶ
り」だ。

だから「御手の下にへりくだりれ」と。自分の力に頼っているとい
う高ぶりを認めて、へりくだれるよう祈ろう。委ねる事ができない
事を認めて、そう出来るよう祈ろう。その時、御霊が働かれ、必ず
そう出来るよう助けが臨む。

・・・・・・・・・・・・・
御手の下にへりくだれないから、自分が立ってしまい、すべての重
荷が自分にかかる。重荷はずっしりと、辛くて苦しくて、担いきれ
ない。でもへりくだれず、渡せない。自分が、自分が、何とかしな
ければ、と思っている。主に渡せるように、そうできるよう祈ろう。


2018年04月14日(土)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



あなたも、人生において進路が閉ざされる経験があるだろうか。自
分の切に願っている進路が目の前で閉ざされる。入学試験、就職試
験の不合格やら、様々な事で経験する。さあ、今から仕事に就く、
入学するという時に、病に倒れたりする。「なぜ?」「どうして?
こんな事に?」非常に悲しく辛い経験だ。

パウロもアジア州で、さあ、宣教しようとしたところ、御霊に止め
られた。ビテニヤの方へ行こうとしたが、それも阻止された。御霊
の導きは、時に私たちには理解できない。しかし、それが理解でき
なくても、又、どのようであっても、そこに「神を認め」、神の御
心を信じて行くこと、それが信仰によって生きるということだ。

結果的に、パウロはマケドニヤに渡るよう導かれた。そこには、
ヨーロッパ宣教という遙かに大きな御心が備えられていた。進路を
止められる事は、導きを失う事ではない。道に迷ってしまったよう
に感じ戸惑うが、御心が別にあるとの導きだ。

ある人は大きなプロジェクトに関わり、すべての準備が順調に進み、
さあこれから開始という時に、過労に倒れ入院となった。思わず
「なぜ、どうして!」と落胆しそうになったが、信仰に立ち、この
事に主を認めて、感謝を献げた。

するとそれは益とされ、祝福の時とされた。身体をしっかり休める
事ができて、何とベッドの上で祈りに集中し、専心する時とされた。
その祈りは用いられ、素晴らしく答えられ、プロジェクトは大成功
に終わった。

・・・・・・・・・・・・・
「どこにおいても」とあり、思い通りにならない状況が数々起きる
が、そこに主を認める時に、見方が変えられる。主の変わらない愛、
万事益、災いはなく主の立てられた計画・・神視点に立てられて行く。
「道をまっすぐに」状況は変わらずとも、心がまっすぐに=平安に
される。


2018年04月13日(金)

「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし・・私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように」Tサムエル3:17



ハンナの切なる祈りによって、産み出されたサムエル。彼は、祭
司エリのもとで養育された。ある時、サムエルは主から呼ばれた。
エリに呼ばれたものと思い、エリのもとに行く。それは主の御声
だと、次にはエリに教えられた通りに「お話しください。しもべ
は聞いております」と答えた。

すると、その最初のメッセージは、何とエリの家への裁きであった。
「彼の家を永遠にさばく。自分の息子たちが呪いを招くような事を
していながら戒めなかった罪による」と。自分の師であるエリに伝
え難い、厳しい言葉であった。サムエルはエリに語ることを恐れた。
しかしエリにその通りに告げるよう言われ、主の言葉をそのまま伝
えた。

預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にそのまま民に語る人のこ
とだ。どんなに辛い、痛い言葉であろうと、その通りに語らねばな
らない。預言者として立てられて行くサムエルへの最初のテストで
あったかも知れない。私たちはどうだろう。口では、「お話下さい。
しもべは聞いております」、喜んで聞きますと言いつつ、だが罪の
指摘や、醜い姿を照らされる痛い言葉、自分の願いと異なる言葉は
聞かずに、耳をふさぐだろうか。

痛い言葉こそが必要な言葉であり、恵みの言葉だ。そこでこそ自分
が変えられて行く。逃げず、避けずに耳を傾けよう。聖められ成長
して行ける。「愛している」「共にいる」「必要を満たす」そんな
言葉だけが「恵まれる」と思っていないだろうか。
--------------
聞く態度は整っているだろうか。耳の痛い言葉には耳をふさいでし
まいたいが、生きている限り学び変わり続けたい。耳の痛い御言葉
こそ流さず立ち止まろう。


2018年04月12日(木)

「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです」詩篇25:5




ある人が、生い立ちの中で様々な悲しみと苦しみを経て、心に傷を
負っていた。その相手である母親をひどく恨んでいた。傷つけられ
るばかりで、幾ら頑張っても決して認めてもらえなかった。母親に
ほめられたくて、勉強もその他の事も、頑張りに頑張った。が、良
い成績を取っても、一度もほめられる事は無かった。

心を病んだ時期があり、憎しみは更に母親に向かった。違う境遇に
生まれたかったと、何度考え苦しんだか知れない。悩みの中で主に
出会い、解決の無かった悶々の苦しみを、祈りに持って行けた。避
け所が与えられた。主の導きを求めて行った。今まで一方的に母親
が悪く、自分は被害者との意識しか無かった。

しかし祈りの中で、相手の非は、相手の問題であり、自分の側では、
自分と神との問題がすべてである事を示された。赦せない思いと憎
しみを、自分の問題として受け止めるよう導かれた。自分と神との
間にそれが横たわっているから、平安が無く、苦しくて辛いのだと。
問題を明らかにされた。

相手に関係なく、自分の罪であることを認め、悔い改めた。その時
初めて、平安を経験した。何にも妨げられない、神との間の平安だ
った。そしてクリスチャンカウンセラーのもとで、親替えをするよ
う、真の親である天の御父を親として、生きて行くよう導かれた。

多くの時間が経る中で、自分の心が落ち着いて行き、親を客観的に
見られるように、変えられて行った。どんな時にも救いがある事を
経験させられた。
-------------
主が共におられるから一日中、罪の告白や感謝や賛美を献げながら
過ごす事ができ、知らず知らずに自分自身が大きく変わっている。
主の導きだ。心にある傷も苦味も主の前に持っていこう。主がご自
身の道を教えてくださる。


2018年04月11日(水)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10




ある人が、対人関係で、非常につまずく事態が起きた。心が傷つい
て、相手に腹が立ち、思い起こす度に怒りが湧いた。赦さねばなら
ないと思うのだが、心は逆方向に向かうばかりで、憎しみと怒りが
渦巻いた。しかしとがめが苦しく、何とか赦そうと頑張るが、どう
にもならなかった。

御言葉もわかっているのに、思いが来ると怒りに支配され、その度
に自己嫌悪に陥り、惨めになった。「赦せますように」と祈るのだ
が、赦せない。段々、「何で、あの相手のために、自分がこんなに
も苦しまなければならないのか」と、別の怒りまで湧いて来る。楽
しい時も、その思いが来た途端、楽しさも吹っ飛び、心は暗くなっ
て落ち込む。

いい加減、こんな日々は嫌だと、主の御前に祈った。「どうしてこ
んな事になっているのですか!」怒り、憎しみ、惨めさ、苦しみ、
平安の無さ、虚しさ・・心の底を延々、ハンナのように主に吐き出
し、ぶちまけた。長い時間主の御前にいたが、不思議だが、何か心
が落ち着いて来て、受け止められているという、暖かい感覚が来た。
主を感じた。

そして祈っていると、赦せるように祈った端から、自分の力で何と
かしようとしていた事に気づかされた。一言祈った途端に、すぐに
自分が動き出す。自分が、自分が、を見せられた。だから出来ない。
そうではなくて、主にお委ねできるようにと祈った。その時、初め
て安堵が来た。委ねられるよう助けて下さると信じる事ができた。
--------------
委ねようと力を入れてまた頑張る、苦い失敗をくり返しながら、自
分には出来ない事、主にお任せするしかない事を御霊様は教えてく
ださる。自分で抱えている問題を主へ渡せるように祈ろう。


2018年04月10日(火)

「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3



ヨナは、ニネベへ行くようにと、主の命令を受けた。しかし気に入
らず、「主の御顔を避けて」、丁度タルシシュ行きの船があり、ニ
ネベ行きでなくその船に乗った。すると嵐になったが、ヨナはこの
嵐は自分のせいなので、自分を海に投げ込むようにと言った。

その海の中で、主は大きな魚を備え、ヨナを守られた。そこでヨナ
は祈り、魚の腹から出た後、今度は素直にニネベに向かった。とこ
ろが、ヨナの言葉にニネベの人々は悔い改めたため、主は災いを思
い直された。それがヨナには納得行かず、気に入らない。小屋を作
り、その陰に座り、どうなるか、見てやろうとの態度だ。

主はとうごまで、日陰を作られたので、ヨナは喜んだ。しかし翌日
は、虫で、とうごまは枯れた。焼け付くような太陽は照りつけ、衰
え果て「死んだ方がまし」と死を願った。機嫌を損ね、良くなった
かと思うと、又、機嫌を損ね、死にたいと思う。私たちも、些細な
事で信仰が揺れる。うまく行けば喜び、行かなければ落胆し、思い
煩う。

外的状況に振り回されているだろうか。大事な事は、主は、ヨナを
大きな深い愛で愛しておられる。ヨナが御心をそれた時も、主の愛
は変わらない。決して見捨てず、見放されない。何があっても変わ
らない愛で、ヨナを導き続けられる。

この愛で私たちも深く愛されている。この主の愛を心に据えよう。
そして今、御顔を避けているなら、御顔に向いて、主の御心を行な
おう。そこに大きな喜びがある。
-----------
状況が上手く行けば主は近くに思え、悪いと全てに疎外感を感じて
しまう。そういう時こそ動くことの無い主を心に据えよう。外を見
て不安定になっている心に、不動の愛で導いて下さる主から平安が
来る。


2018年04月09日(月)

「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである」創世記11:9



最初、全地は一つの言葉だった。互いに意思疎通ができて、人々の
交流がなされていた。そんな頃、人々は移住して、シヌアルという
地に定住した。彼らは、れんがを作る技術が与えられ、れんがと瀝
青で建築物を作ることができた。対話もでき、肥沃な地に住み、建
築技術も与えられ、すべてが備えられ、神の素晴らしい恵みと祝福
であった。

しかし「そのうちに彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」
と言い出した。主への信頼を捨てて、自分たちが神にまで到達しよ
うという、それが出来るという、人間の恐るべき高慢だった。「私
は天に上ろう、いと高き方のようになろう」と言った明けの明星、
サタンであり、「神のようになり」たいと罪を選んだアダムそのも
のだ。

神から与えられた技術、知識、能力を自分の欲のために、自分の栄
光のために使うようになった。神は降りて来られ、阻止された。言
葉を混乱させ、互いに通じないようにされた。意思疎通が出来なく
なり、塔の建築は不可能になった。神の介入だ。神は高慢を砕かれ
る。

「彼らは建てるのをやめた」主はそこから全地に人々を散らされた。
言葉が通じない時、そこに高慢が無いか。高慢が入る時、言葉が通
じなくなる。神を差し置いて、自分が、自分がと、高ぶりが入って
いないか。主の御前にへりくだる時、必ずそこに一致と平安がある。
--------
自分が、自分がといつも自分の事で一杯なら何も入ってこない。創
造された神から離れては本当の幸せはなく、力もない者だと認めて
いく時に始めて、恐れず平安に人の言葉に耳を傾けられるのではな
いか。


2018年04月08日(日)

「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、 わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ヨシュ ア1:2 



荒野を40年旅したイスラエルの民は、ついに約束の地の前まで来た。
モーセの死後、新しい指導者ヨシュアが立てられた。そして「今、
あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたし
が・・与えようとしている地に行け」と命じられた。「あなたがたが
足の裏で踏む所は・・あなたがたに与えている」と。主は、その地を
民にすでに与えていると言われた。

しかし実際に自分のものとするには、「足の裏で踏む」ことが必要
だった。彼らは、その地に進み入り、戦い、勝ち取らなければなら
なかった。踏まなければならない。ただ祈るだけで、具体的行動が
無ければ、所有することが出来ない。不可能だ。実際に入って行か
なければならない。これこそが「信仰」であった。

これは私たちの信仰生活も同様だ。主は、私たちに溢れるばかりの
祝福を備えておられる。しかしそれを実際に、自分のものとするに
は、約束を受け取り、行動しなければならない。その時、約束のも
のを現実に手に入れる事になる。約束は与えられているのに、この
ところに欠けるために、多くのものを、まだ手にしていないだろう
か。
あなたも、「今」、「立って」、「行け」と言われているだろうか。
祈りの座から立ち上がって、実際に行動を起こせと。前進せよと言
われているだろうか。信仰をもって一歩踏み出そう。一歩を踏み出
した時に、主の約束が現実のものとされる。備えられた豊かなもの
を手にする事になる。それは踏み出さなければ、知る事が決してな
い。

・・・・・・・・・・・・
主に示された事は、実際に行動して「足の裏で踏まなければならな
い」とある。その時、自分のものとなる。祈りと共に、具体的行動
が大切だ。今、立って、行け、と言われたなら、祈りから行動に移
ろう。実際に行なうことを通して、大きな祝福を受ける。


2018年04月07日(土)

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。 彼らは、人に見られたくて・・」マタイ6:5 


偽善者のようであってはいけないと言われた。「偽善者」とは「役
者、俳優」の意味だ。偽善者=俳優で、つまり演技をする者の事だ。
俳優は何をするのだろう。脚本家が書いた脚本の通りに、その人物
を「演じる」。監督が指示し、演技指導し、俳優はその人物を、監
督の指示通り演ずる。それをいかに巧く演じるかで評価される。

その人物になりきる事が勝負だ。だが、俳優の場合は、はっきりし
ている。それは本人ではなく別人だ。自分では無いとわかっている。
偽善者とは、別人を演技する事だ。私たちもしてしまう。それは
「人に見られたくて」とあり、人の賞賛を得たいがためだ。

ある人が親に隠れて非行に走っていた。親の前では真面目な良い子、
裏では非行ざんまい、しかし完璧に顔を使い分けていた。親を見事
に欺き、演じ続けた。しかしそうしている内に、どちらが真の自分
か、本当に自分でもわからなくなってしまったと。演技をし、人を
欺いていた、その欺きが自分に向かい、自分が自分に欺かれてわか
らなくなってしまう。

自分は良い人だと信じ込む。これが偽善の最も恐ろしいところだ。
信仰に偽りが入り込むと、信仰自体が成り立たなくなり、信仰の破
船に会ってしまう。御霊が偽善を示そうとされると、拒否してしま
う事になる。「罪は無いという言うなら、自分を欺いており、真理
は私たちの内にない」。御前に正直でいよう。御前では決して良い
子にならず、あるがままの気持ちを告げて行こう。偽善から守られ
る。
・・・・・・・・・・・
良い人の演技を続けていると、人にほめられ、人から良い人だと言
われ続ける。いつしか自分が自分を良い人だと信じ込む。偽善の結
果だ。信仰に偽りが入ると、破船してしまう。信仰が成り立たない。
主の御前に正直でいよう。あるがままを愛されている事がますます
わかる。


2018年04月06日(金)

「心に満ちていることを口が話すのです」マタイ12:34



舌では失敗してしまうものだ。舌を制御する事は誰にも出来ないと
言われている。少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちて
いると。舌は小さな器官だが、その小さい火が大きい森を燃やすと。
舌は両刃の剣であり、人を生かし、勇気づけ、建て上げる事ができ
るし、人を傷つけ、損ない、殺してしまう事も出来る。

ダビデは「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守っ
て下さい」と祈っている。くちびるが守られるようにと。口に見張
りを置いていない時、不用意に肉の言葉が出てしまう。主が飛んで、
祈りから離れると、本心がひょっと出てしまい、出た言葉は取り返
しのつかない事になってしまう。

一瞬の不用意な言葉で、長年の信頼関係が壊れ、終わってしまった
と世間ではよく聞く話だ。外では外向きの顔で、言葉も自制できて
も、家の中ではどうだろう。甘えがあるので、気もゆるんでいて、
怒りが湧いた時など、そのまま家族にぶつけて、一番大切な人たち
を傷つけてしまう。相手を癒し、励まし、建て上げる恵みの言葉が
語れたらどんなに良いだろう。

言葉の問題でなく、心の問題だと御言葉は言う。「心に満ちている
ことを口が話すのです」と。主との交わりに生きる事が大切だ。心
が御霊に導かれている時に、潤いと喜び平安があり、心に「余裕」
「ゆとり」があって、相手に配慮持って接する事ができる。御霊の
働きによる。「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導
かれて、進もうではありませんか」

・・・・・・・・・・・
舌は誰も制御できず、死の毒に満ちていると。不用意な言葉が長年
の信頼関係を一瞬にして壊す。壊れた信頼関係を、再度築き上げる
には多大な労力と時間を要する。舌の力をよくわきまえ、舌が守ら
れるよう、まず心が御霊に導かれるよう祈っていよう。


2018年04月05日(木)

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の 中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そ こを泉のわく所とします」詩編84:5


人生には、様々な出来事が織りなされる。胸が張り裂けそうな悲し
い事や、悶々状態の苦しい事、理解に苦しむ理不尽な事、辛くてた
まらない問題が起きる。なぜ自分にとわけがわからないような事が
起きる。苦しみや悲しみは、クリスチャンにも未信者にも同じよう
に起きる。

クリスチャンになれば苦しみや悲しみが無くなるのではない。同じ
ように苦しみは置かれている。しかし両者は異なる。その違いは、
神を信じる人は、どんな苦しい事、悲惨な事、悲しみの中にも、神
を認めて行く。そこに神を見て行く。神を信じているからだ。

だから涙の深い谷を通る時も、感謝が湧く所とする。そこに神がお
られ、神の愛、慈しみ、助けを実際に体験して行くから。神を信じ
ない人は、どんなに素晴らしい事があっても、そこに神を認める事
は無い。神に感謝する事も無い。ラッキーであり、ただの偶然にす
ぎない。

神を信じる人は何があっても、どんな事が起きても、そこに神を認
め、神の愛を信じる。どんな悩みが来たとしても、神を信じている
から、涙の谷であっても、そこを泉の湧く所として行く。そこで神
を見、神に出会って行く。そこでしか聞けない御言葉を聞いて行く。
何をどうして良いかもわからない、まさにどん底で、慰めや平安の
泉が湧き上がる。

なぜなら、そのどん底に神がおられるから。信仰とはそういう事だ。
もし思い煩いや、不満、怒りがあるなら、神以外のものを見ていた
り、神以外のものに頼っているのかも知れない。どんな苦しみの中
でも、そこが泉の湧く所とされる。シオンへの大路にある人、神に
向く人は、深い悲しみの中で、新たに主に出会って行く。

・・・・・・・・・・・
信仰者にも、苦しみも悲しみもあるが、神無しの人生とは異なる。
そこに神がおられ、苦しみ悲しみに意味があり、神に触れて行く。
多くの事を教えられる。「後になると」パズルが繋がるように、そ
れらの意味が見えて来る。どんな時にも希望がある。


2018年04月04日(水)

「あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、 主の目の前に悪を行なったのですか」Tサムエル15:19



サウル王は、アマレクとの戦いにおいて「アマレクを打ち、すべて
のものを聖絶せよ」と、主から命令を受けていた。しかしそれに従
う事なく、羊や牛の最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのな
いものだけを聖絶した。そしてその事を「主に、いけにをささげる
ため」だと言い訳した。

しかしそれは重大な罪だった。御言葉を聞かず、捨ててしまう事で
あった。サムエルが「あなたは主のことばを退けたので、主もあな
たを王位から退けた」と言ったが、御言葉を無視し、自分の思いで
動く事は、主の言葉を退ける事になる。どんなに自分が良かれと思
っても、受け入れられない。

主が喜ばれるのは、自分の思う善行をする事ではなく、「御声を聞
いて従う」ことだ。御声に従う時に、主のわざが成し遂げられ、栄
光が現される。ある人が職場で、どうしても嫌な相手がいた。幾ら
愛そうとしても出来ない。頑張るが、ますます嫌いになるばかりだ。
心は苦しい。

ある時、もうギブアップで、自らの無力を認め、あるがままを主に
祈った。その時、御霊からの促しが来た。声をかけるようにと。声
などかけたくもない。しかし従う事を決心し、昼休みに声をかけた。
すると何気ない話から、盛り上がり、何と互いの生い立ちにまで話
が及んだ。平安な暖かい気持ちになった。
自分の思いによる善行でなく、御霊の示しに従った結果だった。示
しに従う事が重要だ。

・・・・・・・・・・・
良い行ないをしようとして、「自分が良いと思う」善行をしようと
してしまう。しかし自分の思いであって、神の御思いなのではない。
祈って、神が示される事を行って行く時、必ず結実して行く。自分
も主を知り、周囲にもみわざが現わされる。


2018年04月03日(火)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、 父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28 


弟息子が、放蕩ざんまいののあげく、父のもとに帰った。父は嬉し
くて大喜びで迎え、宴会を開いた。その時に、兄息子が畑仕事から
戻った。家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえ、何事かとしもべ
に聞いた。すると、ずっと行方不明であった弟が戻ったので、父が
宴会を開いていると。

生死もわからず、行方不明であった弟が戻ったのだが、兄の反応は
「喜び」ではなく「怒り」だった。激怒で、家に入ろうともせず、
父が出て来てなだめた。その父に、兄息子は溜まった不満を爆発さ
せる。父の言いつけを守り、ひたすら父に仕えて来た。それなのに、
友達と楽しむための子山羊一匹くれたことがない事。

それが、身代を食いつぶした弟には、肥えた子牛をほふっている。
一体どういう事かと。弟のことを「あなたの息子」と冷たく言い、
自分の弟とは認めない。兄弟の関係を拒絶している。父には怒りで、
弟へはさげすみだ。兄は戒めを守る事には、文句のつけようがない
ほど熱心だった。しかしそれは、父に心から喜んで従うのではなく、
義務感で従っているだけだ。父への愛は無い。

弟息子は失われた者だったが、兄息子も同じだった。父とずっと距
離的には一緒にいたが、心は全く離れていた。父の愛がわからない。
父はそんな兄息子に、いつも一緒で、私のものは全部お前のものだ
と言った。兄にも無条件の愛が注がれている。

今、信仰生活に喜びが無く、「ねばならない」の義務感しかなく、
心に不満や怒りがあるなら、そのままの気持ちを御父に告げて祈ろ
う。そうするなら、御父の無条件の愛を今一度経験して行くことに
なる。

・・・・・・・・・・・・
兄は、わくから出る事はできない。でも心は「ねばならない」の不
満と怒りで一杯で、愛はなく、喜びもなかった。物理的距離は父親
と近くにいたが、心は遠く離れていた。もしこの状態なら、あるが
ままの心の内を、そのまま主に吐き出し祈ろう。主に触れて行ける。


2018年04月02日(月)

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にも そのようにしなさい。これが律法であり預言者です」マタイ7:12



ある人が職場で、移動になった先で、辛い状況にあった。先輩が、
自分が気に入らないのか、挨拶をしても返してもらえなかった。他
の人々には気持ちよく話していて、自分だけ無視されていた。しん
どい辛い状況だった。何が悪かったのかと考えるが思い当たらず、
その人がしていた仕事を、上司が自分に任せたのが、嫌だったのか
も知れない。

だが、自分はクリスチャンであり、相手がどうであれ、こちらはき
ちんと挨拶をし続けた。これみよがしに、自分の隣にいる同僚には
親しく話しかけ、カチンと怒りが沸くが、祈りによって、何とか守
られ接することができた。辛い中、この事を主のもとに持って行き、
祈っていた。

ある時、相手の分担の仕事が、多大な時間がかかる状況になり、仕
上げるのに、せっぱ詰まった状態であった。相手は非常に困ってい
た。到底出来そういない。その時に「自分にしてもらいたいことは、
他の人にもそのようにしなさい」の御言葉が頭をよぎった。御霊の
示し、強い促しを感じ、遅くまで残業をして手伝った。窮地にあっ
た相手に、大変感謝された。

相手は良心のかしゃくを感じているようだった。その時を境に良い
関係とされた。祈りの答えだった。祈りに答えて主が働かれた。問
題が起きた時、とにかくまず祈ろう。祈っていると、御霊が働かれ、
なすべき事も示される。その時、示しに従おう。従う時にみわざを
見て行く。

・・・・・・・・・・・
相手に、周囲に反応するのでなく、どんな時にも主のお心を行って
ゆけたらどんなに幸いだろう。相手が優しければ優しく、冷淡なら
冷淡に、すぐ反応し、自分が寒暖計になってしまうが、反応でなく
主のお心を行動して行けるよう祈ろう。主が働かれ助けて下さる。


2018年04月01日(日)

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あ なたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています」ピレモ ン11


ローマの獄中から、パウロが、信仰者ピレモンに宛てた書簡だ。ピ
レモンの奴隷であったオネシモが、主人のもとでお金を盗み、ロー
マにまで逃亡した。そこで捕らえられて獄につながれた。その時に
パウロに出会い、回心した。

新しく生まれ変わったオネシモは、獄中でパウロに仕えていた。パ
ウロは「獄中で生んだ我が子」と言っている。彼の回心は本物であ
ったようだ。奴隷は主人のものなので、パウロは彼を正しくピレモ
ンのもとへ、帰らせようとしていた。逃亡奴隷は、本来なら死刑だ。
だが、彼は、今や、以前のオネシモではなく、変えられて「役に立
つ者」になっていると。

パウロはへりくだって、ピレモンにオネシモを赦して受け入れてく
れるよう頼んでいる。弁償はすべて自分がするからと。彼は自分の
罪ゆえに逃亡したのだが、神の視点に立つと全く違う見方になる。
役に立つ者として、彼を取り戻すために、しばし離されたのだと。

すべての出来事の背後に、神の摂理を信仰によって見る時に、人生
の見方が一変する。そこに神の愛があり、赦しがある。そして神の
働きがある。私たちも、すべての出来事に、その背後に神の摂理が
あることを認める時、全く違う見方になる。そこにはどんな時にも
平安と希望があり、救いがある。

・・・・・・・・・
創世記のヨセフも、兄たちの妬みと憎しみにより、隊商に売り飛ば
され異国の地へ。苦しみ悲しみ辛苦を通ったが、「兄たちでなく、
神が」そうされたと言った。一族を救うためだと。主語を「神」に
する時に、摂理のみわざが見えて来る。そこに救いがある。