2002年08月31日(土)

「見よ。わたしは、世の終りまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)

ある時、親友が作ってくれた刺繍入りの
しおりが見えなくなった。それはとても大切
な、かけがえの無いものだったので、懸命
に捜した。しかし、どこにも見つからず落胆
した。すると、本の蔭になっていたが出て来た。
懸命に捜していた間も、しっかりとそこにあ
ったのだ。自分は紛失したと思ったが、実際
にはあった。このことを通して、霊的教訓
を学んだ。神を見失ったと、時々感じる。
神が感じられない、共にいて下さると感じ
ない、喜びが感じられない、神をそばに
感じない・・。しかし、イエスは世の終りまで
いつもあなたがたと共にいると約束された。
いつも、どんな時も共におられる。私達が
感じようと、感じまいと。あのしおりを見失っ
たと思った間、ずっとそこにあったように。
感情ではなく、御言葉の約束に立とう。
主はあなたと共におられる。


2002年08月30日(金)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう・・悟りのない馬やラバのようであってはならない」(詩篇32:8)


 神は私達を常に教えたいと願っておられる
聖霊の促しを毎日の生活で幾度も感じるだろ
う。聖書を読みなさいの促しを感じつつテレ
ビを見てしまう。
今の少しの時間をデボーションにとの促しを
知りつつ、新聞を読んでしまう。
祈りの時をとの促しを無視して、どんどん家
事を片付ける。親族に久しぶりに電話をの促
しに、多忙を理由に無視する。
霊的な書物を読むようにとの促しが在るのに、
気楽な雑誌に手が伸びてしまう。
聖霊の御声を無視したり、なおざりにしたり
気に留めなかったり、なんとわがままな生活
をしている事だろう。くつわや手綱なで抑え
られるのではなく、自発的に自主的に自由意
志で、神を愛するゆえに、聖霊の促しに従お
う。あなたに今、促しがあるだろうか。
すぐに従おう。


2002年08月29日(木)

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」(エステル4:14)


 ハマンがユダヤ民族を皆殺しにしようと
企んだ時、王妃エステルのいとこであるモ
ルデカイは、あらゆる危険を犯してでも、
王に近づくよう、エステルを諭した。
王に願って、ユダヤ民族を救出するように
と。あなたが王妃とされたのは、もしかす
るとこの時のためなのかもしれないと。
王に謁見に行く。そして、ユダヤ民族を救
うために用いられる。
これは、すべてのクリスチャンに言える。
私達一人一人もエステルと同じだ。
神によって、それぞれの場所に遣わされ置
かれている。それは家庭、学校、職場・・
あなたが今いる所だ。それぞれの場所で、
いつも成すべき事があり、語るべき証しが
ある。私達は神に遣わされて、今の場所に
いる事をしっかり自覚しよう。神の時と
神のご計画の中で、あなたには役割があ
る。今の場所で用いられる。


2002年08月28日(水)

「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです」(ルカ8:15)

プランターに、庭に、種を蒔いたことがあるだ
ろうか。花が咲いたり、実がなるとどんなに感
動的だろう。その実を見る時、御言葉の真理
に目が新たに開かれる。御言葉に耳を傾け、
正しい動機でみこころの行ないをしてゆくな
ら、必ず実を結び、信仰が成長して行くという
ことに。この箇所では、「土地」を問題にしてい
る。よく耕された良い地に落ちるなら実を結ぶ。
土地は私達の心だ。素直な心に御言葉が植
わる時、ぐんぐん成長し、豊かな実を結ぶ。
頑固な心、反抗的な心、自分の思いが強い
心は御言葉が根を張ることができず、サタン
が御言葉を取って行ってしまう。思い煩いの
心にも、種は成長不可能だ。あなたの心はど
うか。主よ、お語りください。しもべ聞きます、
主よ、私を変えて下さいの態度だろうか。
その態度があれば、種は成長し豊かに実を
結ぶ。



2002年08月27日(火)

「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」(ガラテヤ1:10)


 私達は優柔不断になりがちだ。良い人に
見られたくて、嫌われたくなくて、言わな
ければならない事も言えない。
悪い事とわかっていて面と向かって指摘す
る事が出来ない。人にかけている迷惑を見
ても注意する事が出来ない。周囲に罪を見
ても、見て見ぬ振りをしている。
イエスは人に嫌われるかどうかを考えなか
った。人の顔色を見、人の歓心を買う事も
されなかった。律法学者達に言うべきこと
をはっきりと言われた。罪を指摘された。
また律法学者の心の中を見ぬかれ、
「なぜ、心の中で悪い事を考えているのか」
と面と向かって言われた。主は優しいお方
であられたが、欺瞞に対しては敢然と立ち
向かわれた。白く塗った墓、内側は偽善と
不法でいっぱいだとパリサイ人の罪を指摘
された。
言うべき時には言える者でありたい。


2002年08月26日(月)

『私は自分で自分をさばくことさえしません・・私をさばく方は主です』(Tコロント4:5)


 私達は、自分を批判する人、悪口を
言う人、攻撃してくる人に対して、ど
のような態度を取るだろうか。
相手の欠点をあげつらっては、裁いて
いないだろうか。もし、誰かが自分を
傷つけた人を誉めたなら、どんな気持
ちになるだろう。その人がどんなに嫌
な人間かを、欠点を数えて証明しよう
とするだろう。その人の悪い所しか見
えなくなる。良い所、長所が全く見え
なくなってしまうのだ。
かの日に主が闇の中に隠れて事を明る
みに出し、心の中のはかりごとをも明
らかにされると、記されている。
その時に、各人に対する賞賛が届くと
だから、主が来られるまでは、何につ
いても先走った裁きをするなと。
裁きをされるのは神であり神に委ねて
良いと。あなたは人の長所を見ている
か。欠点ばかりに煩わされていないか
長所を見て、良い所を数えよ。


2002年08月25日(日)

「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(マルコ14:8)

マリヤは、これからイエスが十字架で命を捨て
ることを悟り、自分の最も大切な高価な貴重な
ものを惜しげもなく献げた。イエスに注がれた
香油を見て、弟子達はマリヤを非難した。
貴重な油を浪費したと。その時、イエスは、わ
たしのために、立派なことをしてくれた、自分
にできる事をしたのだと、賞賛された。マリヤ
のこの行為を受け入れ、絶大な評価をして
下さった。この女は「自分にできることをした」
自分にできること、主はそれ以上は求められ
ていない。私にできることは何だろうか。
主のために、あなたのできることは何か。
主に愛を表すために、自分にできることを
して行こう。目が開かれて、必要がはっきり
見えるように、主に応答して行くことができ
るように、祈ろう。


2002年08月24日(土)

「ヨルダン川に行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります」(U列王5:10)

らい病にかかった将軍ナアマンは、予預者
エリシャの使いに、ヨルダン川に身を浸すと
治ると告げられた。しかし、ナアマンは怒っ
た。エリシャ自らが来て、祈って、患部に手
を置き、癒すものと思っていたからだ。
汚い川に七度も浸かるなどと、将軍である
自分のプライドが許さなかった。しかし、
しもべ達が助言した時、プライドを抑えて
エリシャの言った通りに従った。神の指示
に従った時、ナアマンに奇跡が起こり、ら
い病が癒された。川自体には癒す力など
無い。癒しは神から来る。そして、それは
従順に神の言われる事に従う時に来る。
私達の信仰も同様だ。時には、自分の
思いと全く異なるように導かれるかも知れ
ない。もし、ナアマンが自分の思いに、
固執して川に身を浸していなかったら、
癒しは全く無かった。自分の思いではなく、
神の御言葉に従うことだ。神に従い
続けるなら、きよめられ癒されて行く。




2002年08月23日(金)

「私たちが神の子どもと呼ばれるために・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださった事でしょう」(Tヨハネ3:1)

 受けた親切を思い起こしてみるのは良い事だ
ある時、バスに飛び乗り、小銭の全くない事に
気づいた。大きな札しかなく困っていたら、す
ぐそばに座っていた老婦人がニコニコして綴り
の一枚をちぎって手渡してくれた。
「あの・・でも・・」と戸惑っていると、笑顔で
「困った時はお互い様、どうぞ」。車が道路上で
故障した時、走行不能とわかると、安全な場所
まで牽引してくれた見ず知らずの人。
一つ一つの親切を思い起こす時、一方的に無条
件に与えられた好意。なぜ?私に?与えられる
筋合いは無い。ただただ感謝の思いで一杯にな
り、感謝の思いで溢れる。
では、救い主の親切は?神は私達に何をして下
さったのか。
受けるに全く値しない私達に何をして下さった
のか。側り知れないそのご愛、親切、好意、
今一度改めて感謝しようではないか。


2002年08月22日(木)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)


 ある店をを捜していた時、どうしても見つけ
る事が出来なかった。それで、交差点で止まっ
ていた車の人に聞くと、三つ目の交差点を右折
して、次の交差点を左折して・・と細かく教え
てくれたが、あまりに複雑で結局、その車のド
ライバーは、私の後ろに付いて来て下さい。
連れて行ってあげます、と言って目的地まで先
導してくれたのだった。その人の親切と好意に
心から感謝した。
主イエスも同じだ。私達が人生途上、道に迷う
時、主が先導して御父のもとへ連れて帰って下
さる。御父のもとへ行く道となって下さるのだ
また、どうして良いかわからない時、どう判断
すべきかわからない時、真理であられるイエス
は、私達を教え導いて下さる。人生の確かな導
き手であるイエスがおられるとは、どんなに心
強い事だろう。今日も「わたしに従いなさい」と
の御声が聞こえる。


2002年08月21日(水)

「風の中に主はおられなかった。地震の中にも主はおられなかった。火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(T列王19:12)

「風の中に主はおられなかった。地震の中にも

 ある人が祈りの生活について気づかせら
れた。自分は一方的に神に話すばかりで、
神に聞く姿勢が無かった事を。友人との会
話でも相手が一方的に喋るなら聞いている
しかない。神に語っていただく時を与えて
いない事に気づいた。毎日の追われるよう
に多忙な生活。忙し過ぎるのだ。
静かな時間を作る事に決めた。
テレビを切り、カ-ラジオを切り、食事時
の新聞をやめ、なるべく家族の話しに耳を
傾ける事にした。仕事を整理し、余分な不
必要な事はなるべく避け、努めて静かな時
間を作った。神に心を集中して行く時、静
かな小さな細い神の声が聞こえるようにな
った。神が呼びかけ、御声をかけて下さる
のが感じられるようになった。
あなたは忙し過ぎないか。神の御声はかす
かな細い小さな御声だ。
心を静めて聞く必要がある。
静かな時間を取れ。


2002年08月20日(火)

「ところが・・父親は彼を見つけ、かわいそうに思い走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)


 放蕩息子の父親は、息子が財産の分け前を
求めて来たときに、その通りにしてやった。
身代を二人に分けてやった。父親はこの弟息
子の心の内を何もかもわかった上で、そのよ
うにしてやったのだ。息子の好きなように、
やりたいようにやらせてやった。
やりたいようにやってみなければ本人にはわ
からない事を知っていて。
ホセアもイスラエルが反逆した時悔い改めを
警告し続けたにもかかわらず、イスラエルは
神を離れ、好き放題の道を行った。
神は成すがままに任せられた。しかし、決し
て見捨てられなかった。イスラエルに対する
愛情は変わらず、悔い改めてくるのを待ち続
けられた。放蕩息子の父親が息子が帰って来
るのを待ち続けたように。
同様に、神の私達に対する愛は変わらない。
私達が罪の道を選ぶ時でも決して捨てられな
いし、神の愛は変わらない。あなたを待ち続
けておられる。


2002年08月19日(月)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か・・わきまえ知るために、こころの一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)


 冷蔵庫でアイスキャンディを作った事がある
牛乳、砂糖、卵を混ぜ合わせ、型に入れて冷や
す。するとアイスキャンディが出来る。
その時、色々な型、四角や三角や長方形、それ
ぞれの型に流すと、その型の形になって美味し
いアイスキャンディが出来あがる。
同様にみ言葉も価値観について語っている。
この世の価値観で私達をこの世的に形造ろうと
する凄まじい大きな力がある。この世の力だ。
私達はこの世の力によって、この世の思考パタ
ンにはめ込まれる。それは神のみ言葉とは正反
対だ。自分を生かし、自己主張し、損得で行動
し、与えるより受ける事を好む。
神は自分を捨て、損得でなく神の御旨を選び与
えよと言われる。み言葉に従う事によって、私
達は内側から変えられる。
この世の価値観は私達を倒そうとするが、内側
から変えられる私達は世と調子を合わさない。


2002年08月18日(日)

「自分に言いつけられたことをみな、してしまったら「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17:10)

私達は飛行機に乗る時、恐怖を感じる。確率
から言えば、電車や車よりずっと安全なのだ。
しかし、飛行機は恐い。それは、一旦地上を
離れたら、自分の手でコントロールがきかな
くなるからだ。パイロットに命一任となってし
まうからだ。神に委ねる時も同様な不安感を
持つ。目に見えるものを信じて生きてきた者
にとって、目に見えない神を信じることは、
不安なのだ。信仰の不足を感じた弟子達は
信仰を増してくださいと、イエスに願った。
その時、イエスは自分に言いつけられたこと
をしなさいと言われた。主が望んでおられる
事がわかったら、まず従う事だ。従って
行く時に、信仰が成長して行くと語られた。
小さな事に従え。そうするなら、あなたの信仰
は確実に成長して行く。





2002年08月17日(土)

「わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎んだ」(マラキ1:2)

神がヤコブを愛し、エサウを憎んだと記され
ていて、大変不公平なことに見える。ヤコブ
という人物を思う時、更にその思いは大きく
なる。ヤコブは父親をだまし、兄のものであ
った長子の祝福を横取りして、自分のもの
にしたのだ。詐欺行為ではないのか。そん
なヤコブを愛した神は、不公平だったのだ
ろうか。誰しもが抱く質問かも知れない。
答えは簡単ではない。しかし、もっと根本的
なことがある。では、神に愛される資格のあ
る者が誰かいるのだろうか。私達はどうも
がいても罪から逃れられない。神から愛され
る資格など全くない。なぜ神がヤコブを愛し
エサウを憎まれたのかは、私達にはわから
ない。だが、神の愛に価する人など一人も
いないことはわかる。では、なぜ御子を送
られたのだろう。私達にできることは、神の
愛と恵みに感謝して、神にこたえて行くことだ。


2002年08月16日(金)

『サムエルは、「お話ください。しもべは聞いております。」と申し上げた』(Tサムエル3:10)


 人の話など全く聞かないで、一方的に
自分の事だけを話し続ける人々がいる。
あなたのお話など全く関心がなく、自分
の話題のみを喋り続ける人と会話するの
はどんな気持ちがするのだろうか。
あなたの祈りの生活はどうだろう。
自分の言いたい事だけを神に喋り続けて
いるか。一方的会話か。
祈りとは神を最大限利用する事だと思っ
ている人がいるか。そうではなく、神に
自分自身を明け渡して、神に利用してい
ただく事だ。私達の誤りは喋ってばかり
いて聞かないことだ。神に要求だけをし
て、神の御思い、神の御声を聞かない。
神は語られる。御言葉を通して語られる
あなたが祈りによって神に語ったなら、
神の御声を聞くために、御前に静まろう
御前に静まる者に神のみ心を示めして下
さる。神の御声を聞こう。


2002年08月15日(木)

「心を尽くして主により頼め。自分の悟りにたよるな」(箴言3:5)

 ある人が裏山で迷ってしまった。
しかし、そこはよく歩く道であり、よく知っている
つもりの道であった。帰路途上で、道標が自分
の思う方向と反対を示していた。
自分の感覚には自信があった。しかし、道標は
反対を指し示していた。どちらに行くべきか迷っ
たが、敢えて道標に従った。すると、無事に家路
につく事が出来た。自分の思いに従っていけば
正反対の道へ行く所であった。
神のみ言葉は私達の足のともしび、道の光だ。
み言葉は私達の人生の指針であり、道しるべだ。
道に迷った時は、よく祈り、神のみ言葉を求めよ。
み言葉を与えられたら、その指針に向かって進め
神の導きは信頼に足る。
神の助けが備えられている。そのみ言葉は間違い
なく必ず成就する。どう進むべきかと岐路に立つ時
神に頼れ、自分の悟りに頼るな。


2002年08月14日(水)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩篇5:3)

聖書教師であるアイアンサイドは、朝早く
起きて、朝一番の時間を祈りの時として
聖別していた。「朝の見張り」としていた。
ある学生が、その秘訣を聞きたくて「アイ
アンサイド先生、朝早く起きるにはどう
すればよいのですか。どうしたら、そう
できるのですか。そのためにも祈られる
のですか?」と聞いた。彼は「いいえ、祈
るのではなく、起きるのです」と答えた。
デボーションするべきかどうか、神に聞
く必要はなく、願望が起きるように祈る
必要もなかった。彼は朝の祈りと御言
葉なしにやって行く事はできないと思
っていたし、絶対に必要なものと思って
いた。あなたはどうだろう。デボーション
無しでもやって行けると考えているか。
その誤りをすぐに改め、御言葉を聞く
習慣を身につけ、よく耳を傾け、従って
行こう。これはあなたの信仰生活の
土台であり、なくてはならぬものだ。


2002年08月13日(火)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16:24)


 クリスチャンの人生は安易な、楽な道
のりだろうか。答えは簡単ではないが、
聖書に出てくる聖徒を見ていると、彼ら
の人生は楽なものではなかった。
パウロは鞭打ち、石打ち、難船、川の難
盗賊の難、飢え乾き、食べ物もなく・・と
これ以上の試練もあるまいと思えるほどの
苦境に会っている。確かに従い始める前は
これらの生活はなかった。神は、はっきり
と自己否定を求められる。安易な楽な道で
はない。パウロは、自分に与えられた行程
を走り尽くした。どんな犠牲を払っても忠
実に歩み続けた。神の福音を証しする事が
できるなら、命も惜しくないと言った。
私達にはパウロの模範がある。あなたは楽
な道を求めているか。主に従って行く事は
正しい事だが、簡単な事はめったにない。
主に従う歩みに困難はある事を覚えよう。


2002年08月12日(月)

『器官は多くありますが、からだは一つなのです。目が手にむかって「あなたを必要としない」と言うことはできないし・・』(Tコリント12:20)


 自転車に乗る練習をした時の事を覚えて
いるだろうか。石壁に横付けして、こいで
みたり、後ろを持って貰ってこいでみたり
しただろう。ペダルに気を取られていると
ハンドルがおろそかになり、手と足を同時
にうまく動かす事で自転車を乗りこなせる
手と足が共同で働く練習だ。
これは、キリストのからだである教会につ
いても同じだ。それぞれに神から与えられ
た各々の部署がある。ある人は手、ある人
は目という具合に。誰でも出来る奉仕があ
り、特定の召された人の働きもある。
ハンドルを取りたがる人が多すぎて、ペダ
ルをこぐ人がいないと前進する事は困難だ
からだの中にそれぞれが備えられた場所が
ある。人を羨ましがったり、人の役目を欲
しがるな。あなたに与えられた賜物を用い
て奉仕すべきだ。
神が求められるものは「忠実」それだけだ。
あなたの場所で忠実に仕えよう。


2002年08月11日(日)

「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群集が・・イエスのあとを追った」(マタイ14:13)

バプテスマのヨハネが首をはねられ、殉教
した。イエスにとって非常な悲しみであり、
心は打ちのめされたに違いない。イエスは
故郷を離れ、ご自分だけで寂しい所へ行か
れた。この悲しみに耐えようとされた。一人
になる事を願われた。しかし、群集はイエス
を放っておかず、どこまでも押し寄せた。
イエスはご自分の深い悲しみにも関わらず、
群集の苦しみを見て、深く憐れまれた。
多くの人々の病を癒された。ご自分の悲し
みのゆえに、人を助ける働きを中断される
事はなかった。私の事など誰も気にかけ
てくれないとの、失望と絶望感にひしがれ
た事があるか。イエスは気遣っていて下さ
る。あなたの苦しみ、悲しみ、重荷を担って
下さる。イエスにあなたの悲しみを打ち明け
重荷を委ねよ。神が心配して下さる事を
知る者が、人を気遣う事ができるのだ。


2002年08月10日(土)

「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました・・しかし、あなたのために祈りました」(ルカ22:31)

麦はふるいにかけて、もみ殻を取り除く。
ふるいを揺すり、もみ殻を吹き飛ばす。
イエスはこれを予め十字架にかかる前に、
ペテロに話した。ペテロの心を備えさせ
るためであった。サタンはペテロを打ち
倒そうと、彼の信仰を揺るがした。
しかし、イエスは「あなたの信仰がなく
ならないように、あなたのために祈りま
した。」信仰はなくならない。立ち直った
ら、兄弟達を力づけるよう言われた。
こう言われたに関わらず、ペテロは
イエスを裏切った。呪いをかけて否定
した。私達もペテロのようだ。口で否定
しなくても、行動で否定してしまう。人を
恐れて、主とは何の関係も無いふりを
してしまう。神はサタンが人をふるう事
を許される。そして、それは「自信」
「自惚れ」のもみ殻だ。サタンが攻撃
をしかけてきたら、祈らなければなら
ない。


2002年08月09日(金)

「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」(エレミヤ45:5)


 人には肉の欲望があり、野心がある
それは人に認められたい、人よりよく
見られたい、人から賞賛を浴びたい。
自己中心性はその場の中心にならなけ
れば気が済まず、人の話など聞かず、
自分の事に終始する。脇役は気に入ら
ず、中心人物になりたいのだ。
しかし、神の言われることは正反対だ
自分の利益を求めず、人の利益を計り
人の成功を共に喜び、人が自分よりも
人気があっても、満足する。
自分の成功だと自慢せず、人の働きを
評価する。御霊が導かれると、これら
すべての経験は、へりくだり、謙遜を
学ぶための、神の恵みだと受け取られ
る。それほどまでに私達は変えられる
肉の欲望とは、この世とは常に正反対
だ。主は一度としてご自身を守ろうと
はされなかった。常に御父にすべての
評価、権威、地位、命さえも任せてお
られた。神に従えば従うほど、私達は
勝ち負けの世界から開放される。


2002年08月08日(木)

『主が来られ・・「サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話ください。しもべは聞いております」と申し上げた』(Tサムエル3:10)


 あるクリスチャンは、救われた時から
導いてくれた導き手に、いつも主に聞き
主に従う事が大切だと教えられた。
クリスチャンになったばかりの頃は、よ
くわからなかったが、サムエルのように
主に聞く態度を持とうとし、それを続け
た。数年後、神が共におられる事を聖霊
様によってはっきり意識した。
日々の生活に喜びが出てきた。
平凡な日常に神を見出し、楽しみを得た
いつも神に聞き、神に自分を明け渡して
従って行く時、神が門を開き、導いて下
さる事を経験して行った。
問題の中にある時、神に頼る事も学んだ
証しするときに聖霊の力を与えられる事
も経験した。私達が神に聞く態度がある
時、神は語られ、導かれる。
同時に、神に頼らず、自分の判断と自分
の力で歩みはじめる時、神から離れ何の
実も結ばない事も学んだ。神は従うもの
を力強く導いて下さる。


2002年08月07日(水)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました」(創世記50:20)

ヨセフの物語の中で、ベニヤミンを連れて
来るようにとの箇所で、「そして今ベニヤ
ミンをも取ろうとしている。こんなことが
みな私にふりかかって来るのだ」。すべ
てが、自分に不利に不利に動いている
ように見える事があるだろうか。ジグソー
パズルをする時、苦労して途中でくじけ
本当に全ピースあるのだろうかと思った
ことはないか。はめ込むなんて不可能だ
と。問題や悩みに会う時、いつもそう思う。
混乱と混沌の中で、どうなっているのか
が、わからない。解決が全く見えない。
全ピースが揃って完成するなどと信じ
られない。しかし、全ピースは揃って
いるのだ。絶望の中にいたヤコブは、
ヨセフとの驚くべき再会を果たし、
飢饉の中、全家族がエジプトで飢え
から守られた。あなたに問題があるか。
今、不利に見えるが、必ずピース
が埋められ、神の素晴らしい栄光を見る。


2002年08月06日(火)

「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」(ピリピ3:16)



 信仰生活をつい横の人と比較しがちだ
彼女は、彼は何と霊的に進んでいるのだ
ろう。どんどん成長している、それに引
きかえ私は・・と、落ち込んでしまう。
気落ちする事があるだろう。失望、落胆
絶望の中にいるか。しかし、神は慰め励
まして下さる。それぞれが達したところ
に従って進みなさいと。私達はそれぞれ
の信仰の段階がある。その段階、段階で
神が示して下さった事に従って歩むなら
また、次の段階に成長させて下さる。
常に一歩一歩だ。神は聖霊様により御言
葉を解き明かして、教えて下さる。
しかし、教えられた事を行うよう願って
おられる。そして、それを行う時、更に
理解を増して下さる。そのようにして、
成長させて下さるのだ。
小川で一つの岩を踏みしめて渡る時、次
の岩が見えるように、今の導きに従うな
ら、明日のみこころを示して下さる。


2002年08月05日(月)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)


 ある年、アメリカの南部で大洪水が
起こり、山が崩れた。大災害が起こった。
この洪水で家を流された人々、亡くなった
人々、多くの怪我人が出た。
人々はあ然と立ち尽くした。
容赦なく降り続いた雨は濁流となり、教会
にも浸水した。多大な被害が出た。これが
どう益となるのだろうか。
すぐに、近隣教会、近くの町、近くの州の
沢山の人々が援助にやって来た。
食糧、日用品、援助金がどんどん届いた。
町の再建が成されて行った。多くの人々が
「人生の優先順位が変わった」と言った。
一番大切なものを考えた。クリスチャン達
も皆、新しくされるのを感じた。
祈りに答えて、神がこの事態の中に働いて
おられるのをしっかりと見てとれた。
神から励まされ、力づけられ神に抱かれて
いた。


2002年08月04日(日)

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Tコリント10:12)

雪の日に、車を運転していてアイス
バーンにでくわし、車がスピンしてし
まった。ケガは無かったが、車が溝
にはまってしまった。凍結は見えない
内に、車が乗り上げてしまう。凍結
だと予めわかっていれば、スピード
を落として気をつけるが、わか
らないところが危険だ。信仰生活にお
けるサタンの誘惑は、これに似てい
る。危険だと思わずに、安心して進ん
でいると、突然足元をすくわれる。
コントロールが効かなくなる。
突然このようなサタンからの誘惑
に会うと、破滅してしまう。明らか
な誘惑なら警戒し、誘惑に乗る
事はない。避けて通る。大きな
誘惑には勝利できても、小さな
誘惑は油断して敗北してしまう。
祈りの時間や神との交わりが
少しづつ失せ、知らぬ間に溝
にはまる。神を第一にし、神と
の交わりを大切にしているなら、
誘惑に負ける事はない。絶えず
交わっているなら安全。


2002年08月03日(土)

「欺く者よ。お前の舌は破滅を図っている。さながら鋭い刃物のようだ」(詩篇52:2)

ある母親が子供が宿題をなかなか
終らせない事にイライラしていた。
もう教会へ行く時間が迫っていた
のだ。怒りと共に子供を攻撃して
しまった。言葉に子供は傷ついた
表情をした。母親は、ハッと我に
返り、何とひどい言葉を発した
のだろうと悔いた。子供を傷
つけた事を謝らねばならないと
思った。子供に「ごめんなさい。
赦して頂戴。ついイライラして
しまって、ひどい事を言ったわ。
あなたはよくやっているわ。お
母さんが助けられることある?」
子供は泣きながら「この問題
難しくて全然わからないの」
子供に教えてやりながら、深
い反省におおわれた。舌は
鋭い刃物だ。不用意な言葉
は人を深く傷つける。
言葉は人を生かしもし、殺し
もする。励ます事も打ちのめ
す事もできる。あなたの唇の
戸を守り、見張れ。


2002年08月02日(金)

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」(ヤコブ3:18)


 ある父親がマイカーでの家族旅行の長距離運転
で疲れていた。車の中で退屈な後部座席の子供達
が喧嘩を始めた。父親はイライラし注意をした。
何度となく注意を繰り返した。しかし、子供達は
止めるどころかますますひどくなって行った。
すると、父親は怒り爆発してしまい、大声で怒鳴
りつけてしまった。子供達はビックリして、一瞬
静かになったが、しばらくすると、また、喧嘩を
始めた。彼は帰宅し、神の御前に静まった時、平
和でない方法で、平和をもたらそうとした事に気
付かされた。怒りとイラ立ち怒声によって、平和
はもたらせない事を悟らされた。
神のみこころは目的が正しいと同時に手段も正し
くなくてはならない。態度と行動が問題だ。
困難な状況の中で私達の態度と行動が平和を作り
出す者とされるように。


2002年08月01日(木)

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いてただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:22)


 聖書を学び始めると楽しくて、色々な事
を議論するものだ。あなたも経験があるだ
ろうか。「宇宙人はいるのか」から「宇宙
から「なぜ神様は罪を犯すのを知っていて
そのように人間を造られたのか」。
しかし、一番大切な事は、わからない事を
議論するより、わかっている事に従う事だ
その時神が私達に望んでおられるような人
になれるのだ。御言葉に従うのでなければ
学ぶ意味がない。みこころに従うために、
御言葉を学ぶのだから。「知識は人を高ぶ
らせ、愛は人の徳を建てます」とあるよう
に、教会に長い間来ていると、どうしても
聖書の知識が増えてくる。しかし、御言葉
に従うのでなければ、真に聖書を知ってい
る事にはならない。私達が御言葉を学ぶの
は、神を愛するため、そして神に従うため
あなたは示された事に従っているか。
「神を愛するとは、神の命令を守ることで
す」みこころを行う事が神を愛する事。