2018年05月31日(木)

「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた」マルコ9:32 



主が「人の子は殺されて、三日の後によみがえる」と言われたが、
弟子たちはこの言葉を理解できなかった。わからないのなら、その
事を質問して、理解しようとすれば良いのだが、そうする事をしな
かった。「尋ねるのを恐れた」とあり、知ろうとすること、その事
について考えたり、悩んだりする事を拒否してしまっていた。

「恐れた」とは、何か受け入れがたい事を言われるのが恐い。不安
で、真実を知りたくない。面と向き合うのが嫌だ、恐い。人は自分
にとって、都合の悪いことは聞きたくなくて、拒んでしまう。耳を
ふさいで、シャットアウトしてしまう。弟子たちにとっては、主は、
栄光のメシヤであって、御国を打ち立て、王として支配する事を信
じていた。

そのため極悪人がかかる十字架で、恥辱にまみれた、無惨な死を遂
げるなど、受け入れられるはずもなく、絶対に認められないことだ
った。人々の手に渡され、殺されてしまうなど、考えるだけでも恐
ろしい事だった。だから理解のしようが無かった。理解できないま
まの状態で、主の十字架と復活に遭遇することになった。

私たちもどうだろう。自分の思いが強い時、御言葉がわからない。
又、うすうす何か感じているあれやこれやがあるが、直面したくな
い。向き合いたくなくて、拒否してしまっているだろうか。主は十
字架へと御顔をまっすぐ向けられた。

「わたしは今日も明日も次の日も、進んで行かねばならない」と、
十字架へと前進されて行った。恐れや不安をまず祈りに持って行き、
不安で恐れている事、洗いざらいの気持ちを主に告げよう。主は祈
りに答えて下さり、何かが動いて行き、主が向き合う勇気と力を与
えて下さる。
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無意識の中の自己都合、その問題に主が光を当てて下さる。いつも
流してしまう事が、何度も目の前に来ないだろうか。一度立ち止ま
り祈ろう。前進するための主の取り扱いかも知れない。


2018年05月30日(水)

「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである」マルコ5:28


一人の女性が、12年もの長い間、長血を患っていた。気が遠くなる
ような話だ。長血は不浄とされ、礼拝へ出ることもできなかった。
辛い身体的苦痛の上に、更に精神的苦しみ、又、経済的にも、次々
とあらゆる医者にかかり破綻状態だった。あちこちの医者へと渡り
歩いた事だろう。

悪徳医師に、ひどい目に会わされて、お金を絞り取られ、持ち物を
みな使い果たしたと。身体は治らず、資産は使い果たし、この先に
何の希望もなく絶望状況であった。瀬戸際でいかばかりの苦しみだ
ったろう。主の着物にでも触って、癒されたいと、切なる思いで救
いを求めた。それはもう必死のあがきであり信仰であった。

なぜなら、不浄のため、他人には触れる事が禁じられていた。にも
かかわらず主に触れようとした、諦めない信仰であった。信じなけ
れば、触りなどしない。ひどい痛みが消え、病気が治った彼女は、
誰にも知られずに密かに立ち去ろうとした。しかし主は、「わたし
にさわったのは誰か」と捜され、これはどうあっても隠しおおせな
いと悟った彼女は、自ら進み出て、皆の前で、事の次第を話した。

人の後ろに隠れ、人混み紛れ込み、おどおどしていた彼女が主の御
前に、皆の前に出て、人に言えない事を余すところなく打ち明けた
のだ。主は、彼女をそのまま帰らせず、彼女の口から、はっきりし
た信仰告白を引き出そうとされた。なぜなら彼女には信仰があった
からだ。彼女を光の中に出し、信仰を告白させ、その信仰を確かな
ものとされた。

身体と共にたましいも救われた。「あなたの信仰があなたを直した」
「安心して行きなさい」私たちはどうだろう。群衆に紛れているだ
ろうか。主は向き合って下さっている。今、自らへの主の示しに応
答しよう。  
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なりふりかまわず主に求め救われたが、時と共にどこか取り澄まし
た態度で主に接していないだろうか。癒されたい、解決したい事の
一つ一つをひれ伏し主の御前にはっきりと出していこう。


2018年05月29日(火)

「わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28


新しい性質を与えられた私たちは、主に従い、主に喜ばれるように
歩みたいと思う。しかし「恐れないでただ信じていなさい」と言わ
れるが、どうしても主の約束を信じる事の出来ない自分がいる。目
前の状況に、圧倒され飲み込まれて、主が全能であり、不可能が一
つもないことを信じる事ができない。

不信仰を恥じて、信じようとするのだが、どうしても信じる事がで
きない。又、嫌いな相手を「嫌ってはいけない」「愛さなければ」
と思う。裁いたり、憎むとすぐに平安が失せる。だから余計に愛さ
なくてはと、頑張る。だが幾ら頑張っても、どうやっても嫌な相手
を愛せない。何とか愛そうとするのだが、むしろますます嫌いにな
るばかりだ。しんどくてたまらないし、平安は無い。

そんな堂々巡りの中で、自分の力で頑張っている事に気づかせられ
る。気づくのだが、また肉の力で頑張ってしまう。肉はどこまでも
根深く根強い。何度も繰り返す。自分の力でやれば、やるほどます
ます失敗する。やがてもう疲労こんぱい、疲れ果ててしまう。そん
な私たちに、主は招かれている。「疲れた人はわたしのところに来
よ」と。「わたしが休ませるから」と。弱いままで良いと。わたし
のところにおいでと。

クタクタのヘトヘトになって、主のもとに行き、「どうしても信じ
る事ができません」「愛せません。愛したくもありません」と重荷
を下ろす時に、そのままを受け止めて下さる。不思議だが、事態が
展開して行く。新しい気づきが与えられて行く。弱いままでよいと
の主のもとへ、絶えず行く時に、律法の苦しみから、恵みの世界に
入れられて行く。御霊の気づきが与えられ、心が解き放たれて行く。
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主に「できません、助けてください」と言える人生に入れられてい
る幸いを忘れないでいよう。自分の思いが先立つと「休ませてあげ
ます」の主のお言葉も虚しく聞こえる。いつも主に頼れる。
★再開にあたり、沢山のお励ましメールを心より感謝します。


2018年05月28日(月)

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」ヨハネ15:4



主は、ぶどうの木と枝のたとえで、「わたしにとどまりなさい」
「つながりなさい」と言われた。「わたしはぶどうの木で、あなた
がたは枝です」と。大事な事は、わたしはぶどうの「幹」で、あな
たがたは「枝」と言われていない。よく「幹」と「枝」なのだと勘
違いする。

幹と枝がくっついているなら、祝福されるのだと。だから、懸命に
くっついていなければならないと。だが、主がぶどうの木全体で、
わたしたちは枝であるなら、ぶどうの木の一部であり、ぶどうの木
に含まれ、ぶどうの木と一つだ。枝が、ぶどうの木につながってい
る時に、おのずと豊かな実を結ぶ。

主ご自身につながっている事とは、主と交わっている事だ。この世
の書物は、ポジティブシンキングを言い、プラス思考をするなら、
良く生きられると。又、勤勉に、真面目に、修業を積むなら、良い
人間になれると言う。しかし主は、そうでなく「わたしにとどまれ」
と言われる。

いつでも、どんな時も、主のもとへ行き、起こる何もかもを主に告
げ、主と親しく交わって生きて行くことだ。主に心を開いて行くこ
とだ。誰にも言えない、あるがままの自分を主に告げて、主に拠り
頼んで行く。目の前の一つ一つに、「あなたの行く所どこにおいて
も、主を認めよ」とあり、すべての出来事の中に、主を認めて行く
時に、主と共に生きている実感が臨む。

そして喜びと平安を経験して行く。又、「わたしのことばがあなた
がたにとどまる」とあり、主にとどまるなら、御言葉が与えられ、
それが叶えられて行くと。そして平安は何かをする事でなく、主に
とどまるところから流れ来る。
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沢山のお見舞いメールとお祈りを感謝します。大変励まされました。
突然の激痛・救急搬送・その場で緊急手術となり、全く身動きとれ
ずでした。退院後も自宅療養でご迷惑をおかけし、申し訳ありません
でした。再開できる事を感謝し、祝福をお祈り致しております。