2018年06月30日(土)

「また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が 汚されたりすることのないように」ヘブル12:15


草取りをするだろうか。草を抜く時に、根っこから抜かなければと
思うが、からみつく深い根に、手こずらせられる。労力が要るので、
ついうわべだけ浅く抜いて、良しにするなら、あっとう間に又、雑
草だらけになる。悪い実を幾ら取り除いても、根がある限り、堂々
巡りで、実はなり続ける。

根は隠れていて、表面からは見えない。心に潜む、憎しみ、妬み、
赦せない思い、裁く思い・・その隠れた根がある限り、幾らでも悪い
実が出て来る。表面は、懸命に信仰者らしく、整えようとするが、
いつも同じ問題で、つまずいていないだろうか。そこが主が取り扱
って下さる箇所だ。祈りに持って行き、根の部分を、御霊に探って
いただこう。

ある人が、自分も傷つけ、相手にも傷つけられた対人関係を根に持
っていた。恨みで赦せない思いがある。平安無く、心は辛い。それ
で主の御前で、ことごとく打ち明け、祈っていた時に、心が照らさ
れた。相手を責めるが、自分には甘く、自分の非は言い訳し、正当
化している自分に気づかされた。アダムのように、こうなったのは
相手のせい。心の底では、自分は悪いと全く思っていない。

この自分の姿を認めて悔い改めた。「もし、私たちが自分の罪を言
い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべて
の悪から私たちをきよめてくださいます」。その時、心に何にも代
えられない安堵が来た。今、心に何らかの苦みがあるだろうか。そ
の苦みを、主に持って行こう。ありのままの心を告げよう。取り扱
い、導いて、癒して行って下さる。

・・・・・・・・・・・・・
心に苦いものがあるなら、そのまま主に持って行き、あるがままを
告げて祈ろう。主は取り扱い、なすべき事を導き、その苦みを解決
して下さる。心に苦みがある時、歪みが生じ、正しい判断が出来な
い。主のもとへ持って行こう。


2018年06月29日(金)

「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする・・これは、彼らがわたしのおきてに従って歩むかどうかを、試みるためである」出エジプト16:4



モーセに導かれて、出エジプトを果たしたイスラエルの民。紅海が分
かたれるという、後にも先にも無い、主の偉大な奇跡を目の当たりに
した。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ」と、ど
んなに歓喜であり、大きな感謝であったろう。しかし、荒野に出て3
日後に、あれだけの大きな喜びと感謝が、その舌の根の乾かぬ内に、
「水が無い」との不平不満、つぶやきに変わった。

次には食べ物が無いと、不満をモーセにぶつけた。こんな事なら、エ
ジプトで死んだ方が良かったとまで言い出す。主はそれに答え、天か
らマナを降らせ、夕にはうずらの大群を降らせた。このマナは1日分
だけと命じられていた。しかし従わずに朝まで残しておくと、虫がつ
き腐った。朝ごとに、各自食べる分だけ集め、残ったものは、日が高
くなると熱くなり溶けた。

主は「朝ごとに」「各自」「食べる分だけ」と定められた。私たちも
どうだろう。1日分だけと言われても、隠れて明日の分も、いや1週
間先までも、集めておきたい・・「もし、翌日降らなかったらどうし
よう」との思いで、主を信じられなかったら、そうしてしまうだろう。
不信仰は、主に従わずに、自分の力で生きてしまう。

しかし、主は、荒野の40年間、毎日マナをもって養われた。これは自
分で生きているのでなく、主によって生かされているという事実を叩
き込もうとされた。「私は生かされている」自分で生きているのでは
ない、「神があなたのことを心配して下さっている」これを信じる時
に、心配と思い煩いから解放されて行く。心の状態はどうだろう。
------------
試練を通って学んだ事が弱いから蓄えよう、より強くなろうではなく、
主にあって弱いときこそ強いの信仰に立てるようになりたい。荒野に
は神が常に共におられた。今日も生きている神を知り歩める。


2018年06月28日(木)

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」Tコリント10:13



私たちは、誰しも経験があるかも知れない。平穏に、何ら問題なく
平和な日々を過ごしてる中で、突如として、気がつくと、大きな厳
しい試練の中にいる。何がどうなっているのかもわからない。苦し
い辛い状況に置かれている。戸惑い、わけがわからない、心は混乱
状態で、大パニックだ。

突如、真っ暗なトンネルの中にいて、先が全く見えず、恐怖と不安
に襲われる。時に経験する事があるが、しかしどんなに真っ暗であ
ろうと、主の御手の中だ。御手に支えられている。ヨブも突然の試
練に会った。すべての持ち物も、子供たちも失ってしまった。普通
なら言葉を失う、呆然自失状態だ。

弟子たちも、向こう岸へ渡ろうとしていた時に突然の大嵐に会った。
プロでベテランの漁師であり、嵐にはよく会っているはずが、死に
そうなほどの恐怖を覚える大嵐だった。うろたえて、舟のともで熟
睡中の主を起こしたほどだ。突然の出来事に大きな不安と恐れに襲
われる。しかしヨブの試練に、主はサタンに限界を定めておられた。

ここまでは良いが、これ以上はいけないと。主の主権の中だ。嵐で
パニックになった弟子たちだが、その嵐も自然界の支配者である主
が起こされていて、主ご自身がその嵐をしずめられた。すべて主の
支配の中だ。突如の試練に驚き慌てるが、「永遠の腕が下に」、主
の限度の中、耐えられない試練は無いと明言されている。

そして脱出の道が備えられていると。状況に飲み込まれるのでなく、
どこまで御言葉を信じて、御言葉に立てるよう、御霊の助けを祈ろ
う。御霊は助けて下さる。
--------------
試練の中で、耐えられないような試練はないと気づくとき力が湧い
てくる。この約束をして下さったのは真実な神だ。試練には必ず脱
出の道があると信仰が働きはじめる。


2018年06月27日(水)

「私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています」Uコリント7:4



この世の喜びと、信仰による喜びはどこが違うのだろう。この世の
喜びは、自分の欲望が満たされるところから来る。自分の願望が叶
うこと、自分の思い通りになる事だ。そこに満足がある。そのため
この世の宗教は、家内安全、商売繁盛、五穀豊穣、無病息災を約束
する。

もし信心して、それが得られなければ、信心の意味が無い。他の宗
教に乗り換える。しかし信仰による喜びは、自分の欲しいものを手
にする喜びではなくて、主を信頼することができる喜びだ。主と交
わり、その交わりが深められて行き、信頼関係が増して行く喜びだ。
何にも代えられない平安だ。

この世の宗教は、願いを叶える、つまり欲望を叶えるという利益を
提示する。人々にとってそれが喜びだと思っているからだ。しかし
クリスチャンになっても、その価値観が根深く残っている。形は変
わって来るが、問題解決がご利益、良い生き方や人格者になる事が
ご利益なら、願いの形が変わっただけで、根は同じだ。

それなら願いが叶わなかった場合に、不満とつぶやきでいっぱいに
なり、いつか主のもとを離れる事になる。願いが叶えられるために
信仰しているので、それが得られないなら、他のものに移って行く。
自分の欲望が叶えられるための手段だから。主は求めよと言われ、
願いを叶えて下さる。

しかしもし願いが叶えられなくとも、主を信じ、主を愛して行く、
そこに御霊の平安と喜びを経験して行く。そしてそれは、苦しみの
中でも経験する。この世の与える喜びではない、御霊の喜びだ。そ
してその平安と喜びは、誰も奪い去れない。
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外から来るものは流動的で一瞬だとわかっていても、喜んだり悲し
んだりする。そんなもろく弱い土の器の中に主の宝を内包している。
尽きない御霊の喜び励ましにあずかって今日も歩もう。


2018年06月26日(火)

「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」Tペテロ5:9 

 

信仰生活は天に帰るまでは、日々霊の戦いだ。一生の間、どんなに
成長した人々も、必ずサタンの誘惑を受け続ける。サタンは、お腹
をすかせたライオンのごとく、食い尽くすべき獲物を求めて、絶え
ず狙っている。策略を巡らして襲って来るので、あなたの弱い所が
要注意だ。

サタンは熟知している。ある人々にとれば、飲酒やギャンブルは何
の誘惑にもならない。誘惑にならない所には来ない。来ても仕方が
無いからだ。自分の弱い部分をよく知り、普段から祈り、見張って
いるなら、足をすくわれる事はない。サタンの誘惑が来た時に、御
霊が気づかせて下さる。自分の弱さはどこにあるだろう。

高いプライド、人と比較して妬む心、名誉、地位、人からの賞賛を
求める思い、怒り、思い煩い、心配症、体面を気にする虚栄心・・
自らの弱点がサタンの標的となっている。サタンは誘惑をしかけて
来る。それは、必ずあなたの心に心地良い、快い喜びとなる。肉の
欲望に合致している。欲望と一つになっているので、誘惑だと全く
気づかない。

酒やギャンブルなら簡単だ。しかし、仕事や趣味、愛する人、好き
な事柄、それらは容易に偶像になるが、ストレートな罪でないだけ
に気づかない。誘惑は必ず甘い。心が魅了されるもの、一見罪でな
く良いものに見えるが、霊的食欲が減退して行くものには要注意だ。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」。なかなか自分の心
を見張る人はいない。だが力の限りと言っている。祈って、心を見
張っていよう。日々主と交わっていよう。そうするなら、サタンの
誘惑は必ず来るが、それに陥る事はない。御霊が助けて下さる。
-----------
思いに来るサタンには思いや気分で判断せず、御言葉に立とう。落
ち込みやネガティブな思いより、御言葉を正しく読み、自己流で解
釈せず主と御言葉に応答していこう。


2018年06月25日(月)

「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい』」ヨハネ11:39                 


  
主は、ラザロにご計画を持っておられた。そのため、ラザロが病気
である事を聞かれても、決して動かれず、何と死ぬまで待たれた。
そして死を確認してから、ラザロのもとへ行かれた。主のご計画は、
病気を治す事ではなく、死からよみがえらせる事であったからだ。

迎えに出たマルタに、主は「あなたの兄弟はよみがえります」と、
ラザロはよみがえると、はっきりと語られた。マリヤにも同様だっ
た。しかし、人々は信じなかった。主が墓に行くと、ほら穴には石
が立てかけてあった。「その石を取りのけなさい」と言われた。

しかし、死後4日経ていたので、もう臭くなっているのに、今更ど
うなりましょうかの戸惑いの反応であった。この石は、私達の信じ
ようとしない「不信仰」だ。そして「あり得ない」「不可能」との
思いだ。それが信仰をさえぎっている。心の底にあるだろうか。信
仰が働くためには、私達の内側の、信じる事を拒む思いを取りのけ
る事が必要だ。

「あなたの兄弟はよみがる」と言われ、「わたしは、よみがえりで
す・・わたしを信じる者は死んでも生きる・・このことを信じるか」
と問われた主は、今一度、「もしあなたが信じるなら、あなたは神
の栄光を見る」と言われた。そこで彼らは石を取りのけた。そして、
死からよみがえったラザロを、姉妹達のもとへ返された。

私たちはどうだろう。私たちの内にも、信じる事を妨げ、塞いでい
る、「石」があるだろうか。信じようとしない、頑なな自我だろう
か。そのまま、主のもとへ行き、不信仰を認めて、主に告白しよう。
主は助けて下さり、主が信仰を与えて下さる。そして、神の栄光を
見せて下さる。
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どうせ何をやっても駄目だろう、無理だろうと決めてかかっている
から何の変化もないのではないか。主のご計画の邪魔をしている石
を主に差し出し動かそう。主のご栄光を見る者となりたい。


2018年06月24日(日)

「試練に耐える人は幸いです・・誘惑に会ったとき、神によって誘惑 されたと言ってはいけません」ヤコブ1:12


「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」の両方に使われている。
「試練」は、神からのもので、「誘惑」は、サタンからのものだ。
神は、悪に誘惑される事の無い方で、誰をも誘惑される事はないと。
神からの誘惑は無い。そして神から与えられる「試練」は受け入れ
て、耐え抜くべきものであり、いのちの冠を受けると。

逃げずに試練に向き合うなら、必ず成長する。試練は痛く、辛いが、
良いものだ。反対に、サタンからの「誘惑」は決して受け入れては
ならない。拒否し、立ち向かうべきものだ。それを受け入れると罪
を犯してしまう。だから、主が「主の祈り」で、こう祈りなさいと
言われたように、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いく
ださい」と祈る事は大切だ。

誘惑から守られるように、日ごとに祈る必要がある。サタンの誘惑
の巧妙さは、物事が順調に行っている時に来る事だ。試練の時は、
むしろ主にすがり、主に頼るので、主が近い。何の問題もなく、万
事うまく行っている時に、人は油断する。神に頼らずとも、物事が
順調に行くので、祈る事も怠る。自分でやって行けると思ってしま
う。

ダビデの姦淫も、油断があった。部下が命がけで戦っている時に、
夕方に起き出すという怠惰な生活をしていた。サタンにつけ込まれ
た。誘惑が来たその時に、主を仰ぎ、主に助けを求めれば良かっ
た。、祈る事も怠った。順調の時こそ、身を引き締め、神に感謝を
献げ、神を喜び、恵みを数え、更に神に近く歩めるよう祈っていよ
う。

・・・・・・・・・・・・・
天に帰るまでは、毎日霊の戦いだ。今も、サタンは攻撃して来てい
る。しばしば、主からの試練は逃げたくて、サタンの誘惑には乗っ
て行ってしまう。逆になってしまう。主に拠り頼んで、試練は受け
入れ、誘惑は拒絶できるよう、祈っていよう。祈りは力だ。


2018年06月23日(土)

「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合う ためです」Tコリント12:25



人の弱さが見えた時、試されるのではないだろうか。ある人が、職
場で、ペアで働く相手は多くの時間を共に過ごし、密接な関係にあ
るゆえ、どうしても相手の弱さが見えて来る。その時、心の中で、
責めて、裁いてしまっていたと。アドバイスしたり、補ったり、共
に負ったりするのではなく、まずいら立ってしまい、心で責めて、
怒りとなり、イライラするばかりで、平安が全く無かったと。

自分のプライド、自分の罪を見せられるのだが、同じ事を繰り返し
ていた。又、それは家族に対しても、そうであった。自分の事は棚
上げで、家族の弱さが見えるとイラ立ってしまい、思いやり、サ
ポートするのではなく、裁いてしまう。そんな自分の姿が見せられ
て、主の御前に祈りに持って行った。ことごとく主に告げて、日々
に祈りを重ねて行った。

そんな中だったが、ある大きな試練が与えられた。それは涙で祈る
日々で、いかに自分の力を誇っていたかが初めて思い知らされた。
砕かれ、へりくだらされた。プライドも打ち砕かれた。無力で、自
分の力が何も無い事を認めた時に、初めて真に主に出会えた。十字
架が迫り、自分がこのまま受け入れられ、愛されていることが実感
としてわかった。新たな感謝と喜びが溢れた。

そして自分が変えられた事が発見できた。以前は裁きまくっていた
が、相手のために祈ろう、何か自分に出来る事は、の姿勢に心が変
えられていた。キリストのからだが、各器官が劣ったところをいた
わり合うために与えられているように、家族に対しても、相手の弱
さは、責めて裁くためでなく、補い合うために、与えられていると
教えられた。

・・・・・・・・・・・・・・
人は皆、それぞれ弱さがある。又、その弱さも、それぞれ異なる。
主と御言葉が無ければ、さばいてしまう。だが、主と御言葉に立つ
時、それはいたわり合うため、補い合うためとなる。相手の弱さを
自分が補い、又補ってもらえるなら、そこに分裂は無い。


2018年06月22日(金)

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25



信仰を持って祈る時、素晴らしい約束が与えられている。「祈って
求めるものは、何でも、すでに受けたと信ぜよ」と。その願い通り
に叶えられると。だが続きがある。誰かに対して恨み事があるなら
赦してやりなさい。そうすれば、天の御父も、あなたがたの罪を赦
して下さる」と。

恨み事を赦す事が言われている。赦さない心は、祈りを妨げてしま
う。神があなたを赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦
しなさいと。私たちは、しょっ中、失敗する者だ。ほんとに失敗ば
かりだ。しかし主は豊かに赦し続けて下さっている。罪を犯さない
のではなく、弱さのゆえに罪は犯すが、赦されて赦されて生きてい
る。

だから、私たちも赦すべきだと。まず恨みや、憎しみや赦さない心
があると、主と私たちの間にへだたりができて、祈れなくなってし
まう。確信持った祈りができない。ある人が、切実な必要があり、
神の御前に出て祈っていた。しかし、幾ら祈り続けても与えられな
い。尚も祈っていると、その中で、心の奥にある人に対し、恨みと
苦々しい思いを持ち続けている事を示された。

これが妨げとなっている事を示され、心から悔い改めて、赦した。
その後、祈りが見事に答えられた。赦さない心は、祈りを遮ってし
まう。祈りの答えを受け取るために、隠れた恨み、密かな赦さない
心がないかどうか、御霊に探って頂こう。取り除かれる時、すでに
得たりと信じる事ができ、確信が来る、そして祈りは答えられる。
------------
祈るときはまず自分の罪の赦しを祈るのではないか。人に対する恨
みがあるなら赦せるようにの祈りから始めたい。恨みや憎しみの感
情を主に渡して、真っ直ぐに主に向かおう。


2018年06月21日(木)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4




ある人が、親が非常に厳しい家庭で育った。何をしても、親の期待
に沿うように出来ず、いつも足らず、ほめてもらった事が一度も無
かった。それで思春期に、自分に自信を持てずに苦しんだ。人と比
較してしまい、自分はダメで劣等感のかたまりだった。人が気にな
って仕方がない。

人前に出ると足はガクガクで、身体も震えてしまった。とても人前
になど立てなかった。自分はダメ人間だと思い込んでいた。やがて
学校を卒業し、家の仕事を手伝う事になった。父親のもとで、身を
粉にして働いた。何とか父親に受け入れてもらいたい一心だった。
少しづつ仕事も覚え、自分なりの工夫もし、軌道に乗って行った。
父親が喜んでくれたのが、何よりも嬉しかった。

しかし心の底に根深く培われた劣等感の解決には至らなかった。心
に固い動く事のないかたまりのようなものだった。心の傷だった。
それが後に主に出会い「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わた
しはあなたを愛している」と言われ「わたしはあなたを必要としな
いと言うことはできない」「弱いと見られる器官が、かえってなく
てはならないもの」「比較的に尊くないとみなす器官を、ことさら
に尊び」と、自分が見る目と全く異なる、主が自分を見られるまな
ざしに出会った。

その時、包み込まれるように、心の奥のかたまりが溶けて、安堵と
喜びが心に満ちた。本当の親である、主によっていやされた。
別の女性も、親との関係が同様で、ほめられた事が一度もなく心病
んだ。主に出会い、クリスチャンカウンセラーにかかり、真の神に
親替えするよう言われた。主を親として生きるようにと、少しづつ
〃主の愛が実感でき、同じように癒されて行った。
-------------
周囲はどう見ようと、わたしの目には、という神の目を軸にして生
きるようにされた。そこからぶれないでいよう。この神の深いご愛
と慈しみにいつも支えられている。


2018年06月20日(水)

しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません」Tコリント4:3



私たちは人からの批判を経験する。人から批判される時、痛いが、
吟味してみる事は有益だ。その批判が当たっているかも知れず、主
からの忠告かも知れないからだ。思い当たる事があれば悔い改めれ
ばよいし、批判のための批判ならやり過ごせばよい。

私たちは人が気になって仕方がない。人にどう見られているかが気
になり、良く見られたい。人目を気にして生きている。人目を気に
せずに生きるためには、確固たる信念が必要なのではと思う。そう
なら、人は人、自分は自分と思えるのではないかと。

しかしパウロは「私にはやましいことは少しもありませんが、だか
らといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方
は主です」と言っている。パウロは自分では、やましい事は何も無
いと。しかしそれで無罪なのではなく、主にすべてを委ねている。

自分を本当にさばくのは、自分ではない。人のさばきも、自分のさ
ばきも意味がない。主に委ねていた。それゆえパウロはいつも平安
でおれた。パウロは様々な批判、批評を受けていた。しかしそれは
人間による判定であり非常に小さな事だと。自分の事を真に知って
おられる方があり、その方に委ねているので、自分で自分をさばく
こともしないと。

そこに人の目からの解放があった。パウロは一貫して、人相手でな
く、キリスト相手の生活を遂げた。私たちも、人がどうこうでなく、
耳を澄まして一心に主の御声を聞き、主を求めて行く時に、心はこ
の世のものでない、御霊の平安を与えられて生活して行ける。
-------------
自分を自分で裁くことからも解放されるというのは何と自由で幸い
な生き方だろう。人を裁いたり裁かれたりする者でなく、正しく裁
かれる主の前にヘリくだりお任せしたい。


2018年06月19日(火)

「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」箴言12:18



人間関係において、言葉は人を殺すこともできるし、又、いやす事
もできると言っている。言葉は、剣が人を殺すと同様に、その人の
人格をズタズタに傷つける事が出来る。人から傷つく言葉を言われ
たり、又、自分も人を傷つける言葉を言って後悔する。人をいやす
言葉を語れたらどんなに幸いだろう。

「心に満ちていることを口が話す」とあるように、言葉以前に、心
が問題だ。憎しみが満ちていれば、トゲのある言葉となり、心に愛
があれば、いやす言葉となって自然に溢れ出て来る。心が御霊に導
かれ、支配されるよう求めよう。

又、言葉を発する時に、心に留めるべき事がある。@それは真実だ
ろうか。憶測ではないか。事実だろうか。人づてに聞いた単なる噂
話ではないか。まず真実でなければ話にならない。嘘を広める事に
なる。そして真実だとしても、その場で語る必要があるかどうか心
に留めよう

Aそれはフェアだろうか。偏見は無いか。又、その場にいない人の
事は言うべきではない。その人は反論が出来ないのだから、フェア
ではない。B愛があるか。誰かが傷つかないか。語る時に愛がある
だろうか。愛が無ければその言葉は相手に届かない。Cそれは有益
だろうか。人を励まし、慰め、力づけ人の徳を高めるだろうか。信
仰的だろうか。

「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってくださ
い」と祈っていよう。舌は誰にも制御できない、少しもじっとして
いない悪であり、死の毒に満ちていると言っている。発した言葉は
取り返しがつかない。だからこそ祈りが必要で、祈りにより舌は守
られ、主のために用いられて行く。
--------------
うかつに言葉を発すると、ただ自分のための自分にふさわしい話し
方になってしまわないか。自分の弱さを自覚し警戒し主に頼ろう。
発するにふさわしい言葉を吟味し語ろう。


2018年06月18日(月)

「彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない」民数記14:9




出エジプトを果たし、民は、約束の地を目指して進んでいた。その
時に、モーセは、主からカナンに偵察を送るようにと命じられた。
それでモーセは12人の斥候をカナンに遣わした。彼らは偵察し戻っ
て来た。その結果、彼らの見解は二つに分かれた。10人は否定的意
見だった。

民は強大で、自分達はいなごのようで、とても攻め上れないと怯え
た。しかしヨシュアとカレブは、上って行って占領しようと、人々
を励ました。必ず出来るからと。民は、出エジプト時に、神の超自
然のみわざを経験していた。そしてカナンの地の約束も何度も聞い
ていた。

しかし、斥候の否定的言葉を聞いた途端、主を信じる事が出来なか
った。12人は、全く同じ状況を見た。しかし同じものを、信仰の目
で見るのと、肉の目で見るのとでは、こんなにも正反対の結論が出
る。新しい事を始める際に、8割方はまず出来ない事から、数え始
めるそうだ。そして納得の行く説明がついてしまう。

人間は肯定的より、否定的考えの方が強く、放っておくと、必ず否
定的方向へ進んでしまう。10人と民達は、神ではなく、状況しか見
なかった。しかしヨシュアとカレブは、神を見て、神の約束を見た。
彼らに導かれた人々は約束の地へ入って行くが、不信仰に陥った民
は皆、荒野で滅んでしまった。

神は、「不可能」だと、信じない人々と一緒に働く事が出来ない。
私達は否定的、悲観的に傾いてしまう。神の言葉に立ち、御言葉を
握り、御言葉で判断して行く訓練が大切だ。今、目が見つめている
のは、御言葉だろうか、状況だろうか。
------------
目の前を見る目と信仰の目、いつも二つの目で見ているが御言葉が
行けと言われるなら信仰を持って従う者でありたい。刻々と変わる
状況に飲まれず、主の平安がそこにある。


2018年06月17日(日)

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないから だ」エレミヤ31:34


あなたも失敗した事があるだろうか。ある人が大失敗をしてしまっ
た。軽率な言動、行動に、後悔しても、しきれなかった。自分とし
たことが、よく考えもせず、何と愚かな事をしてしまったのか。取
り返しがつかない。しかし御霊に示された。紛れもなく、それが自
分なのだと。

本来の自分でないと思いたいが、認めたくないが、自分はそのよう
な愚かな者なのだと。高慢を砕かれた。主を見上げる事なく、肉で
歩むと、欲望のままに歩んでしまう。自分がいかに罪深い者である
かを知らされ、心砕かれた。主の十字架がまさに自分のためだと思
い知らされた。

それまで罪人と言われてもよくわからなかった。法に触れてもいな
いし、大罪を犯したわけではない。真面目に生きて来た。しかし自
分が罪を好み、自然にしていれば罪を犯し、又、罪を犯しても、そ
れも認識できず、平然としている罪深さを知らされた。辛い所を通
ったが、初めて主の十字架が、誰のためでもなく、自分のためであ
る実感が臨んだ。身にしみて、感謝が溢れた。

人前にも、隠しようのない失態であった事も益とされた。人に知ら
れた事によってプライドは砕かれ、へりくだらされた。もし、人目
に隠しおおせたなら、懲りずにいたに違いない。バレさえしなけれ
ば問題無いと、どんなに罪深い者であるかを、御霊は教えて下さる。

主のご愛と真実だ。罪を認めて、悔い改めるならきれいに赦される。
何という恵みだろう。悔い改めて、悔い改めて、歩む時に、主の恵
みがどんなに大きいかを知って行く。赦されて、赦されて、歩む事
を通して、主の愛を頭ではなく、御霊によって知って行く。

・・・・・・・・・・
悔い改めた罪は、二度と思い出さないと言われる。記憶にはしっか
り残っているので「あの時のあの罪が・・」と言うと、主は「それは
何の事か。わたしは知らない」と言われる。悔い改める度に、主の
愛の大きさ深さを知って行く。罪赦されるとは何という恵みだろう。


2018年06月16日(土)

「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。 『あなたこそ私の神です』」詩篇31:14


私達は、常に、何かに頼って生きている。自分は、自主独立で、他
の何にもいっさい頼っていないという人がいるが、その人は自分の
何かに頼っている。人間は被造物なので、何かに頼らなければ生き
て行けない。神に頼る事が、人間の真の正しい自立だ。正しく神に
頼らなければ、必ず他の何ものかに依存する。

富であったり、地位、名誉であったり、自分の力や考え、経験に頼
る。富を頼みとする人は多い。富さえあれば、何でも出来ると錯覚
する。富が自分の夢を実現させ、幸せを与え、老後も保障してくれ
ると思う。しかし、富は愛を与えてはくれず、罪の赦しも得られず、
真の平安も満たしも与えてはくれない。

大資産家のザアカイは、孤独と虚しさの中にいた。ニコデモや若い
役人は、富も、地位も名誉も人々の尊敬と賞賛も、何もかも持って
いたが心は満たされていなかった。ある人々は、人に依存する。サ
マリヤの女性は、男性に依存していた。男性が自分を幸せにし、心
を満たしてくれると信じていた。そのため5回の結婚を繰り返した
が、心は満たされ無かった。

私たちも、もし、神以外に頼っているものがあるなら、それは偶像
であって、偶像礼拝になってしまう。真の喜びと平安は無い。神以
外のものに依存しているなら、御霊からの気づきが与えられるよう
に。そして主に信頼し、主をのみ頼りとして行けるように。その時
に、御霊の喜びがあり、心底の平安、世のものではない、主の平安
が与えられる。

・・・・・・・・・・・・
目の前に、突如の問題が来たらどうだろう。祈りつつも、とっさに
頭で対策をぐるぐる巡らせる。目の前の状況に飲み込まれ、自分の
思いと力に頼る。しかし平安は無く、不安で一杯だ。その度に主に
頼ることを学ばされる。主に頼って行く時に心底の安堵を経験する。


2018年06月15日(金)

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです」ガラテヤ5:17


私たちは、新生によって新しい性質が与えられるが、生まれつきの
古い性質もまだ残されている。サタンは、その古い性質に働いて来
て、絶えず誘惑し攻撃して来る。特に、御霊に従おうとする時に、
妨げて来る。御心を行なおうとするなら、必ず妨害して来る。

「証しするように」「トラクトを渡すように」と示されたなら、
「どう思われるだろう」「ヘンに思われるのでは」「仲間はずれに
されないか」「今後何かと都合が悪くなる」・・不安や恐れもって
阻止しようとする。

「善を行ないなさい」と示されると「時間と労力の犠牲が要る。忙
しくて時間が無い」「面倒で関わりたくない」・・様々な攻撃が来
る。そっちの声に聞いて行くと、段々御心を行なわなくても良いと
思えて来る。主は「せよ」と言われているのに、「しなくてもよい」
に誘われて行く。

又、生活の中で時々、御霊の促しが来る「今、この時間を捕らえて、
祈れ」しかし、肉は「今は疲れているから、今でなくてよい。時間
のある時祈ろう」「ぼおーと休みたいから、テレビを観よう」サタ
ンが巧く祈りを奪って行く。肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は
肉に逆らうとある。二つは対立していて、相容れないと。

御霊の示しや促しが来る時、必ずサタンは肉に働いて、阻止して来
る。そのままでいると流されてしまう。その時に、そのままにせず
に、「わたしを呼べ」と言われる主に、一言、助けを求めて祈ろう。
ここがかぎだ。そうすれば、流されずに、主が助け導いて下さる。
------------
御霊の導きと同時にいつもの肉の声もくる。主の導きの声に従える
ように祈ろう。肉に従っても心は満足しないのは経験済みではない
だろうか。勝利を体験しよう。


2018年06月14日(木)

「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる』」創世記31:3

 

ヤコブが父と兄を騙して、祝福を奪い取り、兄の怒りを買い、家を
出るはめに陥った。カランへの途中、野宿するが、そのかたわらに
主が立たれ「あなたと共ににあり、あなたを守り、あなたをこの地
に連れ戻そう」と約束された。約束を成し遂げるまで決してヤコブ
を離れないと。

やがて主は約束を成就されるのだが、その実現に、20年もの歳月を
要した。気が遠くなるほど長い年月だ。私たちは、待つ事が非常に
難しい。待つ事が出来ない。しかし、主は手っ取り早くでなく、時
間をかけながら、こつこつと、地道に私たちを導かれる。

今日の1日、非常に有益な、大切な、意味のある1日だ。主に在っ
て、練られきよめられ、造り変えられる途上にあり、1日も無駄な
日は無い。必ず「神の時」は到来する。約束は成就される。その約
束が実現して行く時に、よく見ていると、様々な予兆がある。状況
が少しづつ変化して行くのだ。

ヤコブの状況も目に見えて変わって行った。ラバンの息子達が、父
の物をみなヤコブが盗んだと言い出す。ラバンの態度も以前のよう
でなく、好意的でなくなった。このままなら争いが起きそうだ。ヤ
コブへの対応も変わって来て、微妙な空気を感じる。

そんな中、はっきりと主の御声が臨んだ。「先祖の国へ帰れ」「さ
あ立ってこの土地を出て」と。今こそ約束の時が来た。私たちも、
状況の変化をよく見ていよう。そして、主言葉が臨む時、行動を起
こすべき時だ。
----------
すべての事は偉大なご計画の途上、動き続ける今日だ。主の御働き
の顕著な兆しはないか、またその実を通して示されている事の意味
は。よく悟れるように祈り、良く見張っていたい。


2018年06月13日(水)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」詩篇55:22 




時に見る光景がある。小さな子供が、口の狭いキャンディボックス
に手を突っ込み、飴をいっぱい握りしめ、手が出ないと泣き叫んで
いる。飴を放すと、手が出るのだが、絶対に飴は放さず泣くばかり。
滑稽だが、私たちの霊的生活に似ている。例えば、嫌な、赦せない
相手がいて、心が悶々と辛くてたまらない。

平安が無く、喜びも無く、心は苦しい。飴を手放すなら、ボックス
から手が出て、自由になるように、憎しみや裁く思いを手放す時、
心は解放され、喜びと平安が戻る。しかし、強固な自我は、放した
くない。苦しいのに、赦したくないし、愛するなどとんでもない。
嫌いなのだから。罪の性質だ。しかし心は辛い。

そんな時、「赦す事が出来ません」「赦したくありません」と自分
の姿をありのまま認める事から、主のみわざは始まる。祈りに答え
て、主が赦せるように、様々導いて助けて行って下さる。ある人が
生まれた子供の難病を、どうしても受け入れられなかった。

なぜ?自分の子が?と涙は溢れ、グルグル思いは回るばかりで、苦
しく、悲しく、又、神に対して反抗している自分もいた。特に同年
齢の子供を見れば涙が溢れた。苦しくてたまらず、とうとうもう悶
々も反抗も苦しみも限界で、許容量オーバーで、主に対してギブア
ップした。自分自身も子供も、将来も、不安も恐れも、自分の思い
も何もかもを、主に明け渡した。

その時、状況は同じなのに、心に初めて深い安堵と平安が臨んだ。
不思議だった。主は委ねる時に、みわざをして下さる。委ねられな
いで握っているなら、その事を主に告げて、ありのままの心を祈ろ
う。主があなたの事を、心配して下さっているのだから。
-------------
偽らない心の内を祈ることが委ねる最初の一歩としよう。主の平安
が来る。荷はあっても、主が心配してくださるの御言葉を自分のも
のとして今日も受け取ろう。


2018年06月12日(火)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:12




「へりくだり・謙遜」と「卑下」は違う。しかし、しばしば勘違い
してしまう。自己卑下は、「いえいえ、自分などは」「つまらない
者です」とする。そして、どうせ自分はダメ、何をしてもダメ、と
気力が失せ、ますます劣等感に陥る。そこに信仰は無い。

又、偽りの謙遜がある。腰を低くする事が謙遜と勘違いし、「いえ
いえ私などがとんでもない」と決して上座へは行かず、下座でうろ
うろする。しかしもし上座に座る人がいれば、何と常識の無い人と
心の内でさばく。それは自分も実は上座に座りたい思いの裏返しだ。

自分では謙遜になる事は不可能だ。肉で謙遜になろうとすると、更
に高慢になる。真の謙遜は、砕かれるところから来る。砕かれる時、
高慢でいる事ができなくなる。ある人が若くして成功者になった。
それも群を抜いての大成功だった。謙遜は大切であり、へりくだら
なければならないとわかるのだが、どうしてもだめだったと。成功
ゆえに、高慢が頭をもたげ、どうにもならなかった。

幾らへりくだろうとしても、ムクムクと高ぶりが出て来る。まだ未
熟で、霊的経験も浅く、高慢になってしまったと。そんな成功の絶
頂にいた時に、思わぬほころびが出て、築き上げたものが崩れ落ち
た。体調も崩してしまった。主の取り扱いであった。苦しい試練は
砕きとなって、打ちのめされたが、自分は大きく変えられて行った。

へりくだらせて下さり、「苦しみにあった事は、私にとって幸せで
した」と心から真に感謝できた。主の関与が無ければ、恐ろしい高
慢に陥って、どうなっていたかわからない。主の懲らしめ、取り扱
いは、主の愛だ。いつも目の前の状況でなく、その中で主が教えよ
うとして下さっている事に、そのメッセージに目を向けて行きたい。
-------------
生かされている事だけではなく喜びも感謝も悔い改めも、自分発で
は出来ない。主によってしか満たされない一つ一つに感謝したい。
主によらなければ謙遜にはなれない高ぶる心を持っている。


2018年06月11日(月)

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇119:105 



信仰者の生活とノンクリスチャンの生活は、どこが違うのだろう。
私たちは、何が変わったのか。日曜日になると教会へ行くこと、聖
書を読んだり、祈ったりすることか。それも確かに変わったが、何
かをする時に、その動機となるものが変わったはずだ。

又、どの進路に進むべきか、今日は何をするべきか、金銭や時間、
労力をどう使うべきか、それらを選択する時に何に基づいて選ぶか、
それも変わったはずだ。ペテロは水の上を歩いた。普通に考えるな
ら、あり得ない事だ。人間が水の上を歩くなど不可能だ。

しかし、ペテロは歩いた。どうして歩けたのか。それは、「来なさ
い」という主の言葉があったからだ。ペテロは主の言葉ひとつあれ
ば、できると信じていた。それで「ここまで来いと、お命じになっ
て下さい」と言った。主の言葉に従ったので歩く事ができた。主の
言葉が無ければ、ペテロが歩いたとしても沈んだ事だろう。主の言
葉とペテロの信仰による従順が一つになった時に、奇跡が起きた。

私たちも、信仰生活は、この世で水の上を歩くようなことだ。私た
ちが、未信者と異なるのは、主の言葉によって生きているという事
だ。価値観、思考、行動や選択の基準、それらが御言葉によってい
る。「来なさい」と言われたので「行く」。自分の思いや経験値や
常識や、人の言葉でなく、主からの言葉によって歩んでいる。今一
度、自分の内で確かなものとしよう。
---------------
都合の良い言葉だけを聞き、世の価値観に流れようとする肉に逆行
するように御言葉も御霊の促がしも来る。従いますの心で大切に聞
いていこう。一歩一歩、主と共に歩もう。


2018年06月10日(日)

「バビロンに70年の満ちるころ、わたしいはあなたがたを顧み、あ なたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に 帰らせる」エレミヤ29:10



バビロン捕囚は、ユダヤ民族にとっては、国を追われ、捕らわれの
身となって行く事であり、その事態だけを見るなら、絶望であって、
真っ暗闇であった。国を追われ、どんなに悲惨な事であったろう。
艱難、苦渋、混乱であった。しかし、結果的に見れば、それは「平
安」と「将来」と「希望」であった。

なぜなら、ユダヤの民は、捕囚の苦難により悔い改めて、神に立ち
返れたからだ。厳しく苦しい試みであったが、信仰を回復する事が
できた。エレミヤの預言通り、70年後にエルサレムに帰還する事に
なる。

神の大きな奇跡が成し遂げられる。「あなたがたのために立ててい
る計画」、バビロン捕囚は不運でなく、人間的なものでなく、神に
よる計画だと言われる。それも見えるところは絶望と暗黒にかかわ
らず、将来と平安と希望のための計画だと。縦糸と横糸が織りなさ
れて、綺麗な素晴らしい織物が出来上がるように、神は艱難の中で、
私たちを練り込み、御霊と一つにして行って下さる。

私たちにも、突如の試練が降りかかる。平穏に過ごしている中で、
ある日突然、苦しい状況の中にいる。しかし、信仰人生で起こる出
来事は、偶然でなく不運なのでなく、すべて神の綿密なるご計画だ。
それは「あなたのため」であり、完璧なる神の采配のもとで来たも
のだ。後に、それこそが神の深い愛であった事がわかる。

・・・・・・・・・・・・
苦しみの渦中は、トンネルの中だ。真っ暗で、全く先が見えない。
しんどいばかりで、苦しみが永遠に続くように思える。希望が見え
ない。しかし神の真実なる言葉は、平安と将来と希望のためのもの
と言う。真っ暗闇で、神の言葉が光だ。


2018年06月09日(土)

「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずから せようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10



信仰人生において、苦しみや悲しみ、悩み、問題は必ず来る。それ
らを用いて、主は私たちを訓練し鍛え、成長させて下さる。しかし
大事な事は、正面から受け取る事だ。どうしても痛くて、辛いので、
避けて、逃げようともがいてしまう。それなら、ただ痛くて苦しい
だけで、何の学びも得られない。

ある人は試練の苦痛に、ただただ頭をおおいうずくまっていただけ
だったと。祈る事も、求める事も何もせず、試練として受け取って
いなかった。そのためただ痛いだけだったと。苦難に際して二つの
選択肢がある。一方は信仰の目で受け止め、口からは信仰の言葉を
語って行く。他方は愚痴と不満を言い、又、反抗し、周囲を、相手
を責めて行く。

相手を責めると、その時は肉が快感を得、解放感を得る。が、その
結果、周囲に害毒を流し、証しを壊し、自分も平安が無く、怒りや
不満、いら立ちで一杯いになる。だが主を見上げ、信仰もって事態
を受け止めて行く時、そこに主が働かれ、祈りが受け止められ、自
分自身の心も守られる。

試練の受け止め方で、天と地ほどの差が出て来る。今までのあの時、
この時、どうだったろう。信仰人生、これからも数々の試練がやっ
て来る。主が私たちを救って下さったのは、悩みの無い、問題の無
い平穏な生活を与えるためにではなく、自己中心が砕かれ、御子の
かたちに変えられ、聖くされるためなのだから。
主の目的に焦点を当てて、試練を受け止められるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・
痛い事には触れたくなく、逃げてしまいたくなる。しかし何かを教
えたくて、さじ加減ピッタリに与えられている、目の前の事態に向
き合えるよう祈ろう。向き合って行くなら、自分が変えられて行く。
そして主を更に深く知って行ける。


2018年06月08日(金)

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲に陥ります」Tテモテ6:9


 人は富を持っても、持っても、幾ら得ても、決して満足する事は
ない。返って更に富が欲しくなる。欲望が増して、飽くことなく求
める。これは富ではなく、貪欲という欲望に陥っているからだ。生
活の必要が満たされていても、決して満足する事はない。

心は常に満たされていない。果てしなく富に渇いて求めて行く。ど
こまで行っても満足はなく、安らぎは無く、哀れで悲惨だ。又、金
持ちになりたがるとは、金銭だけでなく、名誉や地位、人からの賞
賛を欲しがる事だ。人の上に立ち、人を支配し、プライドを満たそ
うとする。しかしそこに真の満ち足りる平安や喜びは無い。

そこには、人との比較があり、子育て、職場の昇進、学業成績、人
気、絶えず不安で、焦りがあり、思い煩いでいっぱいだ。満足が決
して無い。人より優っていたい。人より劣ると不安と恐れにさいな
まれる。満足などほど遠い状態だ。「衣食があれば、満足すべきで
す」何も持たないで生まれて来たし、死の時も何も持って出る事が
出来ない。

今、生かされている事を感謝する、今、与えられているものに感謝
する、これが満ち足りる心を得る秘訣だと言っている。「感謝して
行く事」が、心を満たし、大きな利益を受ける道だと。自分で得た
ものなど一つも無い。すべて主が与えて下さったものだ。

働く力も主から来ている。主に在ってどんな環境の中でも「満ち足
りる」事が出来る。これは生まれつきの自分には無い。御霊による
ことだ。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びまし
た」。主に心の内をことごとく告げて、満ち足りる心へと導いて
頂こう。
--------------
どんな境遇にも満足できる秘訣はそこに神を認めていくことと学び
たい。足りないなら祈り、それでも満たされないなら、これが適量
ではないか。既に満たされている。感謝して歩もう。


2018年06月07日(木)

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩篇1:2



広大な砂漠が続く中に、川があり、水がある。そしてその川のそば
には緑豊かな木々が生え、みずみずしい葉が生き生きと息をしてい
る。砂漠の日照りのまっただ中において、水路のそばに植わった木
々は青々と葉を茂らせている。「水路のそばに植わった」がキイワ
ードだ。

どのような苦しい悲しい試練の嵐の中でも、その木は青々と茂り、
決して枯れない。なぜなら「水路のそば」に植わっているからだ。
水路から絶えず水分を吸い上げ、十分に回り、葉を瑞々しく茂らせ
て行く。「その葉は枯れない」。木の問題でなく、どこに植わって
いるかの問題だ。

同様に私達も水路のそばに植えられた木だ。常に豊かないのちが水
路から流れて来る。御言葉に根ざして、御言葉を喜びとし、御言葉
を絶えず口ずさむ。そこから力と喜びが湧き出て、それによって生
き生きと生かされて行く。「何をしても栄える」のは、商売繁盛と
か、五穀豊穣、無病息災、家内安全といった御利益ではない。

何でも自分の思い通り、願い通りになるのではない。御言葉を喜び
とする人の願いは、神によってきよめられて行き、軌道修正されな
がら、御心へと導かれて行くので、神のお心にかなった願いを願っ
て行くようにされる。それゆえそれは叶えられる。人生に神の御心
を求めて行くから、豊かに祝福されて行く。

結局、人生の土台を何にするかだ。主の教えか、自分のはかりごと
か。主に頼るのか、自分の力に頼るのかだ。気づきを与えられつつ、
主を見上げて、拠り頼んで行こう。すでに水路のそばに植えられて
いるのだから。
---------
尽きることのない流れから豊かな養分を受けて育つ木のように主は
御霊によって私たちを大きく青々と成長させて下さる。朝に夕にそ
の教えを口ずさもう。


2018年06月06日(水)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30



ヨハネの弟子たちは、自分たちの師のヨハネから、主に、人気が移
るのを見て、妬みを抱いた。妬みは誰しもが持つやっかいな感情だ。
人が賞賛を受けると妬む。ライバルが良い成績を上げると妬み、同
僚に先に出世されると嫉妬を感じる。妬みは誰しもに、根深く巣く
う罪だ。

主を十字架につけたのも、祭司長たちの妬みであり、カインはアベ
ルを妬んで殺害し、サウルがダビデを殺そうとしたのも妬みのゆえ
だ。ヨハネの弟子たちも同様に妬んだ。それに答えたヨハネの言葉
が、私たちへの答えだ。「人は天から与えられなければ、何も受け
ることができない」人々が主のもとへ行くのは、神の御心ゆえだと。

神がそうしておられるのだからと、ヨハネは受け入れている。そし
て、自分はその主を証しするために来たと。結婚式での主役は花嫁
花婿だ。介添人は彼らより目立ってはいけない。引き立て役だ。花
婿の友人は、花婿が花嫁を迎えるのを見て喜ぶ。

ヨハネは、皆が主のもとへ行く事を喜ぶと言った。そして主が来た
るべきキリストだと証しし、それが自らに与えられた使命であり、
務めであると悟っていた。「あの方は盛んになり私は衰えなければ
ならない」自我は、自分が主役でいたい。人より上であり、賞賛を
受けたい。しかしそこに真の満たしは無い。

絶えず人を評価が気になり、恐れ、ますます不安と恐れのとりこに
なって行く。そうでなく私たちは、主が崇められる時に初めて、自
分に真の喜びと平安と満足が来る。御霊による喜びだ。今、必要な
のは、御前にへりくだる事だろうか。
-------------
自分が褒められることは嬉しいが、人の評価が自分の中に大きくな
る時、自己満足の偽らない思いを主に明け渡そう。気づけることが
感謝だ。主が望まれることを主に委ねていける。


2018年06月05日(火)

「彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ」民数記22:31


有名な、ろばが喋る箇所だ。神はバラムに「彼らと一緒に行っては
ならない。その民を呪ってもいけない。祝福されているからだ」と
言われた。にもかかわらず、出て行くバラムの前に主の使いが抜き
身の剣を手に持って、立ちはだかった。ろばはうずくまってしまい、
バラムは杖でろばを打った。

するとろばがバラムに、何で打つのかと喋った。だが主の使いがバ
ラムに、敵対して出て来たのは、わたしだと言った。あなたの道が
わたしと反対に向いていたからと。私たちは誰しも、痛い事、苦し
い事、問題は回避したい。苦しみや悩みが、好きな人などいない。
そのため、痛くて辛い事態を、避けて、何とか逃れたいと思う。

しかし、神は、私たちが間違った方向へ進まないために、行く手に
あえて障害物を置かれる。私たちを立ち止まらせるためだ。運が悪
かったのでなく、たまたまそうなったのではなく、神の取り扱いだ。
不運なのではない、又、立ちはだかっている相手を責めるのではな
く、神の取り扱いを認めることだ。

その状況の中で、神のメッセージを受け取ろう。何を教えたいのか、
何に気づかせたいのか。今、あなたの行く手が阻まれているなら、
状況ではなく、まずそこに神を認めよう。神が立ちはだかっておら
れる。その道は御心とは違うのかも知れない。又、押し通そうとし
ている事は間違っているのかも知れない。

何かを教えたいと思っておられる。目の前の状況に神を認め、自分
の思いを置いて、神の御心を求めよう。祈りの中で、必ず正しい道、
御心の道に、軌道修正しながら導いて下さる。 
------------
押し通そうとするなら神はあえて「行きなさい」と言われる。御心
と思っても祝福がなく混乱が続いているなら自分でこじ開けている
のではないかと御神に尋ねてみよう。


2018年06月04日(月)

「しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました」詩篇73:23



記者は、悪者が栄えるのを見て、落ち込んだ。彼らは楽しそうで、
豊かで肥え太っていて、何の苦しみもなさそうだ。悪者は安らかで、
富を増している。それに引きかえ、自分は惨めで、苦しみばかりで、
何のよい事もない。虚しく心をきよめている。

この足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだ。どうして神を信じな
い者が栄えるのかと。不平不満で一杯だ。その彼が、神の聖所に入
り、光が与えられた。実は彼の不満や妬みや愚痴や、様々な悩みの
原因は、「神の近くにいなかった」ことによると悟ったのだ。神の
近くにいることが幸せなのだと。

本当の問題は、様々な事柄や状況ではなく、自分と神との関係だっ
た。それが信仰にとって根本的なことだ。私たちも同様だ。愚痴や
不平で、人への妬みで一杯になる時、イライラ状態の時、本当の問
題はその状況でなく、自分と神との関係だ。神から離れているから、
平安無く、喜び無く、心が荒んでイライラしている。

それに反して、神と親しい交わりの中にいる時、状況がどんなに波
風逆巻いても、大暴風雨の中でも、心は霊の喜びと平安に守られる。
神の近くにいる事が平安であり幸せであり、問題が問題でなくなる
からだ。一番大切なことは、神との関係だ。今、神との関係はどう
だろう。神から離れていたなら、すぐに立ち返ろう。

父親が放蕩息子が帰る事を何より喜んだように、御父は喜んで下さ
る。神と交わって行く時に平安が戻る。そして、状況に関係なく、
どんな中でも、幸せであることができる。御翼の陰で、神により心
が満たされるからだ。
------------
外にある悪は、私たちが神に繋がり、そのご愛に包まれているなら、
全ては神を通って来ていると悟らせてくださる。絶えず神に叫び、
神と語ろう。耳も心も神の知恵に守られる。


2018年06月03日(日)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリスト の名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20


ある母親の経験だ。朝は、自分も出勤を控え、家族を送り出すのに
非常に忙しく慌ただしい。その時に子供が宿題をどこに置いたかわ
からない。どうしても、今日提出しなければならない。登校時刻が
迫って来る。母親も仕事に出なければならない。懸命に探すのだが
無い。

母親はイライラし、怒りが湧いて来る。いつも前日にちゃんと準備
するように言っている。「何で、昨日の内にちゃんと準備しないの
よ!」腹が立って仕方がない。時間が無い。その間も時間はどんど
ん過ぎる。子供は泣きべそをかいている。

だが「すべての事が感謝なんだ」と、ふっと頭をよぎる。この事も
感謝なんだと思う。しかし、一方では腹が立って怒りがおさまらな
い。心で子供を責め立てている。感謝なのだという気持ちと、同時
にいら立ちが交錯する。いよいよタイムリミットとなり、「神様!
この事態を感謝します!」と信仰を向けた。

すると、子供が「あった!」と叫んだ。思いもかけぬ所に置いてい
た。真に主を感じた瞬間だった。一見不都合な出来事の背後に、必
ず神の素晴らしいご計画がある。感謝する事は、その事柄に神を認
めることであり、信仰を献げることになる。

神はその信仰に働かれ、信じた通りになって行く。不信仰はすべて
の道を閉ざしてしまう。今、目の前に非常事態があれば「感謝でき
ませんが、感謝します」と信仰を向けよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
新しい性質と古い肉の性質があり、葛藤する。どうすればよいか御
霊は教えて下さる。しかし自我はどこまでも頑なで、それを拒む。
自分を通したい。「わたしを呼べ」と言われる主に「助けて」と
呼ばわろう。御霊の方へと助けて下さる。


2018年06月02日(土)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御 前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩篇62:8


ダビデはサウル王に妬まれ、命をつけ狙われた。サウルは、女たち
が笑いながら、それも繰り返して「サウルは千を打ち、ダビデは万
を打った」と歌う事に、プライドが傷つき、ダビデを妬みに妬み、
それは憎しみとなり、殺害しようとして追い回した。

サウルは王であり、いつでも大軍を招集できる。ダビデは、いつも
死と隣り合わせの状態だった。どんなに恐怖であったろう。自分の
息子アブシャロムからも歯向かわれ、狙われ、自らが病にも陥り、
もう心身ぎりぎりの大変な苦境だ。

ダビデは神の心にかなった人だった。信仰者になると悩みが無くな
るのではない。試練、問題は必ず来る。私達は苦しくてとにかくそ
の問題が無くなる事を願う。しかし、苦しみの中でこそ、神が、ま
ことに神であられる事を身をもって経験して行く。ダビデは、嘆き
で疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせと、なすすべなく、ただた
だ泣いて泣いて嘆いた。

泣けばよい。感情もことごとく主に吐き出せばよい。主は受け止め
て下さっている。苦しみの中でこそ、主に拠りすがらざるを得ない
ので、主との深い交わりに入れられる。「主よいつまでですか」と、
これが一体いつまで続くのかと、ダビデもありのままの気持ちを、
率直に主に持って行っている。主は受け止めて下さっている。

順境の時には決して経験出来ない恵みだ。自分で何とかしようとも
がくのでなく、問題をすべて主に持ち出そう。ダビデは、泣き、嘆
き、悲しみ、思いの丈を主にぶつけた。心を御前に注ぎ出そう。主
との近い交わりを経験する。そして祈りは聞かれる。

・・・・・・・・・・・・・・
順境の時は感謝だ。喜んで感謝すればよい。だが逆境の時に神に拠
りすがれる。なすすべなく、すがる事しか出来ない。「助けて下さ
い」こそを喜んで下さるお方だ。その求めに豊かに答えて下さる。
気持ちをしっかり受け止めて下さる。苦境の時、洗いざらいを主に
告げよう。


2018年06月01日(金)

「イエスは十二弟子に言われた。『まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう』」ヨハネ6:67


私たちは、どんな動機で主を信じ、又、従っているだろう。主は、
ご自身を求め、従って来る者を決して拒まれない。しかし、祈り
を聞いて欲しい、助けて欲しいとの強い思いがあったとしても、
それがどんなに熱心であっても、もし自分の欲求を満たすためだ
けなら、どうだろう。

遅かれ早かれ、どんなに祈っても願いが叶わない、思い通りになら
ない時に、失望して主のもとを離れ去る。多くの弟子たちも自分の
思い通りでない主から離れ去った。実は従っているのではなく、自
分の利得のために、主を利用していただけだった。

「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとと
もに歩かなかった」。しかし、真に従いたいと願う人は、そこで、
離れ去るのではなく、自らの欲望満足のために、従っていた事に気
づかされた事に感謝する。悔い改めて、信仰のあり方を軌道修正さ
れて行く。

間違った方向に進む者を、御霊は示し、気づきを与え、御心の方向
へと変換させて下さる。彼らは、主の「肉を食べ、血を飲む・・」
との言葉を、「ひどい言葉」だと言った。受け入れ難い拒否反応だ。
それは不信となる。自分が、主より上であるので、自分の知識を越
えると、主を捨ててしまう。理解できないのなら、へりくだって、
主に教えてもらおうとはしない。

そんな時、ペテロは「主よ。私たちはだれのところに行きましょう」
と信仰告白をした。信じ、従って行く時に、初めて「神の御心を行
なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わ
たしが自分から語っているのかがわかる」と御霊により、実感を持
って、主を経験して行ける。
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いのちを与えるのは御霊で、肉は何の益ももたらさないと言われる。
祈りをもって御言葉を読んでいると、肉の強い影響は消え、御言葉
が心に入ってくる。いつも主の傍で主に尋ね、求めていよう。