2018年07月31日(火)

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」詩篇23:1


主は、何も思い煩うなと言われるのに、なぜ思い煩うのだろうか。
思い煩いは、目の前の事態に対して、自分の力で対応できないとこ
ろから生じる。つまりは、自分が何とかしようとして、できないか
ら思い煩っている。すべてが自分の肩にかかっているので、重くて
苦しくてたまらない。どうしていいかわからない。

この経済問題、あの対人関係、目の前の状況、また先の事、果ては
老後の事まで。自分の力を越えている。そのため思い煩でいっぱい
だ。思い煩いから守られるためには、底に、真の「安心感」が必要
だ。自分一人で人生を歩んでいるのではない。自分には羊飼いがい
る、自分はその羊だ。

羊飼いは、絶えず愛と慈しみのまなざしで、自分を見つめ、あらゆ
る配慮をし、世話をし、食物を与え、病気から守り、すべての危険
から守ってくれる。「主は私の羊飼い」であり、良い羊飼いは羊の
ためにいのちを捨てる。羊飼いに守られているという事実から、安
心感、安らぎが来る。

日々羊飼いを意識しているだろうか。羊飼いは、羊に病気、けが、
傷、痛みはないか、何かの必要は無いか、常にチェックする。そし
て最善の対処をする。もし過去に傷があるなら、主こそ癒し主だ。
癒して下さる。「心の傷ついた者を癒すために、わたしを遣わされ
た」。

「心が傷んでいます」とそのままを主に告げよう。「わたしは、わ
たしのものを知っている」、心の隅々までご存じの主が、最善をし
て下さる。羊飼いが絶えず共にいて、愛のまなざしを注いで下さっ
ていることをしっかり覚えよう。
-------------
満たされるものを自分の経験や知恵で探そうとして疲れていないだ
ろうか。日々主の元で慰めを受け、励まされ真に生きかえろう。主
が羊飼い、頼りない歩みの傍にはいつも主が共におられる。


2018年07月30日(月)

「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった」マタイ18:27



主人から借金6千億を抱えるしもべがいた。返済など不可能だ。猶
予を願うしもべをあわれみ、主人は何と全額免除にしてやった。何
という事だろう。命がかかったほどの重圧がきれいに取れた。その
帰りに、彼は百万貸しのある相手に出会った。ひれ伏して、少し猶
予をと乞う相手を容赦せず投獄した。それを聞いた主人は怒り、彼
を牢に投げ入れた。

私達も人を赦さないならこのようになると。6千億もの借金が全額
免除にされた。同様に、私達は主の十字架の贖いにより、すべての
罪が完全に赦され、片がつけられた。「わたしは、彼らの罪を二度
と思い出さない」と。罪が赦され、罪無しとされる。これほどまで
の恵みを受けているのに、人を赦せない。

それは牢獄に入る事になる。牢獄は四六時中、憎しみと復讐心で真
っ暗だ。憎しみでがんじがらめで、心は苦しく辛いが、外に出る事
ができない。楽しいはずの時も、心に重い鉛があり、決して楽しめ
ない。一生その相手に拘束され、人生がコントロールされる。どう
したら牢獄から出られるのか。解決は一つだ。相手を赦す事だ。そ
の時、牢獄から出る。

頭ではわかるのだが、自分では出来ない。まず助けを求めて祈ろう。
主がさせて下さる。ある人は親を絶対に赦せなかったが、「赦した
くないです。助けて下さい」から取り扱いが始まった。そしてつい
に親を赦せた。牢獄から解放された。赦せない相手がいるなら、ま
ず祈って行こう。祈りが積まれ、主が取り扱われ、主の奇跡のわざ
がなされる。
-------------
相手のした悪を数えて、憎しみ続けるのは牢獄だ。一刻も早く出よ
う。その意思を主に向け祈ろう。御心の祈りは必ず聞かれる。そし
て正しく裁かれる主に委ねよう。


2018年07月29日(日)

「サウルと彼の民は・・最も良いものを惜しみ、これらを聖絶するの を好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した」 Tサムエル15:9



天に帰るまで、私たちの内には古い人である、罪の性質、肉がまだ
あるので、自分を捨てて行く事が、日々の祈りであり、歩みとなる。
サウルはサムエルにより「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖
絶せよ」との主の命令を受けた。しかしサウルは従わずに、最も良
いものを惜しみ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶した。

大事なものは取っておき、どうでもよいものだけを聖絶した事にな
る。この時、主は「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる」と。
そして「従わないことは偶像礼拝の罪だ」と。サウルが主の言葉を
退けたので、主もサウルを王位から退けたと。私たちもどうだろう。
最も良いものを取っておき、どうでもよいものだけを捨てているだ
ろうか。

泥酔やギャンブル、嘘、憎しみ、妬み、争い等の罪は、ストレート
でありわかりやすい。しかし心の奥の偶像になっているのは、一見、
罪ではない合法的な、良いものだ。もっと主に近づきたい、もっと
主を親しく知りたい、喜びもって歩みたい、そんな気持ちもあるの
だが、主への渇きを妨げて来るのが、心の奥に潜む偶像だ。

主以外の喜び、快楽、心地良い思い、充足感、達成感を得られるも
の、それは趣味や仕事や人、又、名誉、地位、自己実現かも知れな
い。点検する事が出来る。それが霊的食欲を減退させるなら要注意
だ。それによって、ますます主を求める事になり、霊的食欲が増す
なら大丈夫だ。気づかずに潜むものを御霊は気づかせられる。

・・・・・・・・・・・・・
クリスチャンなら、まずいわゆる偶像を拝む事はない。しかし目に
見えない心の奥にある偶像は気づきにくい。最も大事なもの、最も
良いもの、大切な宝をしっかり握りしめてしまう。様々な機会に心
の奥が御霊の光に照らされて、更に主に近づけるようにして下さる。


2018年07月28日(土)

「『わたしに何をしてほしいのか』すると盲人は言った『先生。目 が見えるようになることです』」マルコ10:31


バルテマイは、物乞いをして生きていた。盲人ゆえに人に依存して
生きるしかなかった。主がエリコに来られた。耳は聞こえ、主の
様々な噂を聞いていた。憐れみ深いお方、この方なら目を開く事が
お出来になる。そう信じたので叫び求めた。周囲に止めれるが、諦
めずに、更に大声で叫び立てた。この方に可能だと思わなければ、
求めはしない。

すると主は、彼を呼ぶようにと。彼は上着を捨てて主のもとへかけ
寄った。上着は、彼にとり大切な必需品、その大事なものを捨てて、
主のもとに来た。その彼に「わたしに何をしてほしいのか」と問わ
れると、「目が見えるようになること」と答えた。主は彼の願いを
すでにご存じだったが、彼にどうありたいのかと、しっかりと自覚
させられた。

彼は霊の目が開かれる事を願った。心の目が開かれる事こそが、真
の幸せではないのか。真に主に出会い、主の喜びに満ちるなら、状
況は問題ではない。私たちはして欲しい事は様々あるが、どうあり
たいのだろう、核の求めは何だろう。

すると主は、「行きなさい」と言われた。もう自分の足で立てる。
あなたの信仰があなたを救ったのだと。彼の目は見えるようになっ
た。先に見えるようになって、「行きなさい」ではなく、「行きな
さい」の後で目が開いた。

主は、自分の足で立って歩むように、自立させて下さる。自立とは、
人依存でなく、主に拠りすがって生きる事だ。それを得て、霊の目
が開かれた彼は、主を賛美し、崇め、主の行かれる所について行っ
た。

・・・・・・・・・・
「わたしに何をしてほしいのか」と主に問われるなら、何と答える
だろう。普段から切なる心底からの求めがあったから「目が見える
ように」と即座に答えられた。主は求めを喜ばれ、答えて下さる。
核心を突いた求めができるように、主のお心を求めて行こう。


2018年07月27日(金)

「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる」詩篇46:5



主は戦いを止めさせ、弓を折り、槍を断ち切り、戦車を焼かれた。
そして「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と。「わたしは
国々の間で崇められ、地の上で崇められる」と。エルサレムの人々
に、主がもたらされた勝利を、敗北した敵の姿、その様子、主の戦
勝の品々を見よと告げられている。そして、主が戦われ、主が勝利
をおさめられたという事を。

「やめよ」とは、自分で動くな、人間的な知恵、方策によって、ど
うこうするのを止めよという事だ。肉の力で戦うのではなく、その
肉に、自分に死んで、御霊に支配されて、御霊の導きに従って行く
のが真の信仰生活だ。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがな
い。神は夜明け前にこれを助けられるとあり、神は都の真ん中に臨
在され、その都はゆるがない。

神は私達一人一人のただ中に臨在されるので、私たちは何があって
も揺るがない。不安な事や思い煩う事態、非常な恐れに襲われる事、
信仰生活で様々な事態が生じる。しかしその時こそ「わたしこそ神
である」ことを知れる時だ。「やめよ」、自分の思いで動くのは止
めて、目に見えない神を信じよう。

そしてああなったら、こうなったらの思い煩いを止めよと。「神は
われらの避け所、力、そこにある助け」だ。「主のみわざを見よ」
今までどんなに良くして下さっただろう。必ず折りにかなった助け
があり、奇跡があり、幾度もみわざを見て来た。「やめよ」、目の
前の状況に慌てず、まず落ち着いて、主に信頼しよう。「苦しむと
き、そこにある助け」必ず助けられる。
------------
ああなったら、こうなったらと落ち着かず心が騒ぐ時、「やめよ」
との主の言葉を信仰を持って聞いていこう。苦しむ時の、そこに
ある助けは揺るがない主の御言葉。そこに身を避けていよう。


2018年07月26日(木)

「まことに、人の救いはむなしいものです。神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です」詩篇60:11




イスラエルはペリシテや、モアブやエドムに苦しめられていた。ダ
ビデがツォバの王と戦っていた時、アラムがツォバ王を助けに来て、
又、エドムも攻めて来た。苦難のまっただ中だ。神が「地をゆるが
せ、引き裂かれ」、神が「御民に苦難をなめさせ」られ、神が「拒
み、破り、怒られ、顔をそむけられた」と言い、「あなたの右の手
で救って下さい。答えて下さい」と主に救いを求めて祈っている。

主にあるがままを申し上げ、祈ることがまず大切だ。そして旗を授
けられたと。それは弓にかえて、ひらめかせるためと。弓に頼らず
旗をひらめかせよと。弓は武力の象徴だ。自分の力、考えだ。そう
でなく、信仰、神への信頼の旗をひらめかせることが大切だ。あな
たも今、窮地にあり、右往左往しているだろうか。

自分の思い、能力、今までの経験、方法を駆使して、解決を図って
いるだろうか。主は、それらの弓を捨てて、旗をひらめかせよ、信
仰に立てと言われている。人の救いは虚しく、神によって力ある働
きをする。自分の力、知恵、方法は虚しい。又あらゆる状況の中に、
必ず神の御心があり、その御心を求めて歩むことが旗をひらめかせ
ることだ。

あなたにとっての弓は何だろう。自分の力、思い、方法だろうか。
弓を捨てるなら、武力を捨てる事になるが、主は代わりに旗を授け
て下さった。信仰を下さった。それをひらめかせる時、「この戦い
は主の戦い」に立てて、主に拠り頼める。その時、主によって力あ
る働きとされる。
------------
問題の解決を主の視点ではっきり見て闘うことは難しい。いつも祈
っていよう。見えない目、聞こえない耳が開かれ、主の導きを頼り
に主の方法で勝利したい。


2018年07月25日(水)

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」イザヤ55:11



パウロはローマ行きを、主から示されていた。しかし、第3次伝道
旅行の後、エルサレムに寄った時、「除いてしまえ。生かしておく
べきでない」と人々に殺されそうになり、引き裂かれるのではと思
うほどの大騒動になった。捕らえられてしまい、ローマに行く事は、
全く不可能に見えた。

しかしその監禁により、返って暗殺者から守られる事になり、実の
無い裁判に見えたが、それは総督ペリクスやフェストに証しをする
機会となった。又、丁度アグリッパ王がフェストに会いに来たため、
王にも福音を語る機会が与えられた。何という主の支配と導きだろ
う。パウロは更にローマ皇帝に上訴したため、これがローマへの道
を開き、パウロの思いとは異なり囚人としてであったが、ローマに
向かう事になった。

そしてパウロの乗った船が幾日も大嵐に会い、絶体絶命となり、最
後の望みも絶たれようとしていた。しかしパウロは必ずカイザルの
前に立つとの、神の言葉を信じていた。すると、船は座礁したが、
主の示し通りに、全員が岸に辿りつき助かった。「こうして、私た
ちはローマに到着した」。パウロは無事ローマに着き、福音を伝え
る事になった。

様々な事があり、紆余曲折はあるが、どんな障害があっても、神は
必ず語られた言葉を成し就げられる。神が語られた言葉は100%成
就する。あなたは今、途上の苦しい中にいるだろうか。「こうして、
ローマに到着した」。必ず、あなたに約束された御心は成就する。
信じて忍耐しよう。
-----------
草や花のように人の思いは現状に絶望を感じ、しおれてしまう。け
れど神の御言葉はとこしえに立ち、言い送った事を成功させると励
ましてくださる。確かな御言葉が私達を立たせてくれる。


2018年07月24日(火)

「それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」民数記22:19



モアブ王バラクは、バラムにイスラエルを呪うようにと要請した。
その時、バラムには神の御心がはっきりと告げられた。神の示しは
「彼らと一緒に行ってはならない。民を呪ってもいけない。その民
は祝福されているからだ」と。しかし更なる使いが来た時に、バラ
ムは「主が、私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめま
しょう」との態度だった。

御心がはっきりしているのに、それ以上何を聞く事があろう。次に
は、従うことがあるだけだ。そのところで実行する事が、御心であ
り、求められている事だ。私達も同じ事をしていないだろうか。結
局のところ、神の御心は建前で、自分の都合の良い事を言って欲し
い。自分の思いを遂げたい。それを求めてどこまでも巡る。

ある人が、ありとあらゆる偶像を巡りに巡った。自分の求めている
答えを得るまで、拝み屋を次々と回り歩いた。その人は答えがすで
に決まっていて、承認印が欲しい。私達もしばしば、答えを求めて
いるのでなく、承認を求めている。自分の思い、自分のしたい事は
すでに決まっている。しかし、いつでも主の御前に悔い改め、助け
を求めることができる。御霊は自らの状態に気づかせて下さる。

あなたも御心を示されているのに、尚も祈っている状態だろうか。
行動に移したくないので、ぐずぐずしている。その示された事柄に、
信仰もって従おう。その一歩に従うと、次に又展開がある。まず目
の前の御心に従う事が大切だ。それなしに何も始まらない。一歩、
前に進もう。
------------
はっきりと示されている導きに従えない事、その弱さも不信仰も自
分自身で認めていよう。次の一歩が主から与えられる。他の導きを
探っている事に気づいたら感謝だ。また最初の導きに戻れる。


2018年07月23日(月)

「エサウは父に言った。『お父さん。祝福は一つしかないのですか。 お父さん。私を、私をも祝福して下さい。』エサウは声をあげて泣 いた」創世記27:38



イサクは長男エサウに祝福を授けようと、獲物を料理して持って来
るようにと言った。それを聞いた母リベカは、弟ヤコブにこそ、そ
の祝福をと画策した。視力の衰えているイサクを巧くだまして、イ
サクはヤコブをエサウだと思い込み、祝福を授けた。

そこにエサウが戻り、事の次第を知った。イサクは激しく身震いし、
エサウは大声で泣き叫んだ。企みを知ったエサウは怒りに燃え、ヤ
コブを殺そうとした。そのためヤコブは家を出て、遠く伯父のもと
へ身を寄せる事態となった。家族同士が争い、傷つけ合い、いがみ
合い、家庭崩壊だ。

どこに問題があったのか。父イサクは「兄が弟に仕える」との神の
御心が示されていたのに、自らの肉の思いでエサウを偏愛した。リ
ベカも、ヤコブが継ぐ事が御心なら、神を信じ、神の主権のもと、
神がされる事を待っていればよかった。しかしヤコブを溺愛し、肉
で動き、狡猾に画策し祝福を奪った。

ヤコブも神の計画を信じ、委ねるのでなく、母親に言われるがまま
に父をだまし、自力で奪い取った。エサウは長子の権利を豆の煮物
と引き換えた。「長子の権利を売った俗悪な者」とあり、彼は長子
の権を軽んじた。皆が、神を仰ぎ、従うのではなく、自己中心に、
肉の思いで動き、招いた結果だった。親子、夫婦、兄弟関係に亀裂
が入り、ぐちゃぐちゃだ。

神は大きなご計画の中で、これらすべてを益として行って下さった
が、しかしここで学ぶ事ができる。肉で、自分の思いで動き、自分
の力で遂げて行くのでなく、神の主権を認めて、神を待ち望み、委
ねて歩む事がいかに祝福であり、どんなに大切かを。

・・・・・・・・・・・・
信仰人生、主の御心が成し遂げられて行く。そして見えるところは
どうであれ、主の御心が私たちにとって最善のものだ。ところが肉
の目には、自分の思いや欲が入ると違って見えてしまう。それだか
らこそ、自分自身を主に委ねて歩めるよう、祈ろう。


2018年07月22日(日)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」箴言3:5



金持ちの役人の青年は、主に従いたいとは思っていた。が、自分が
愛し、慕う、喜びである、肉の部分が捨てられず、富に執着し、主
から去って行った。信仰生活とは、どれほど聖書を知っているか、
どれほど奉仕し、善行をしているか、又、献金しているかではない。

自分の中に、肉の強い欲望があり、肉の思いがあり、主の御心と相
容れないものがある事をまず知ることだ。そして、人間的な思いか
ら離れ、捨て、主の喜ばれる事、主に受け入れられる事、主の御心
を求めて行く歩みだ。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異な
り」と言われるように、主の御心は、自分の思いと、大幅に異なっ
ている。

主の死の事を聞いたペテロが、そんな事が起こるはずがないと言っ
た時に「下がれ。サタン」と言われた。「わたしの邪魔をするもの
だ」と。ペテロの一見主を思う人間的思いは、サタンから来ていて、
十字架に敵対していた。それゆえ「自分を捨て」なければ、私達は
反対方向に間違ってしまう。しばしば人間的な目で見ると、どう見
ても目の前の事が正しい、妥当としか見えない。

正しいと思っている自分が、肉の中にいるからだ。「人の目にはま
っすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」。正し
いと思っている自分に頼らなくなった時に、初めて神がわかって来
る。盲人や長血の女や姦淫の女のように、何の手段も無い時にこそ、
主に出会う。

・・・・・・・・・・・・
自分軸にいる時、自分が正しいとしか見えない。肉の中にいるから
だ。しかし、主に向く時に、おおいが取り除かれて、神視点へと目
が転じられ、御心へと導かれる。「心を尽くして」主に拠り頼み、
絶えず判断を主に仰ごう。


2018年07月21日(土)

「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによ って、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」エペソ6:16


「悪魔の策略に立ち向かい」ともあり、悪魔は策略を持って襲って
来るとある。何の考えも無しにでなく、行き当たりばったりでなく、
策略を練りに練って向かって来る。それなら、祈り無くしてはひと
たまりもない。武具が必要だ。戦争中の敵軍に、全くの無防備でフ
ラフラと向かうようなものだ。すぐにやられてしまう。

「策略」とあるので、はっきりと欺こうとの意図がある。罠が張っ
てあって、落とそうと企んで来る。サタンは妄想を吹き込んで来る。
何か突如の事態が起きた時に、不安、恐れ、思い煩いのネガティブ
な思いを次から次へと吹き込んで来る。すぐに最悪のシナリオが出
来上がる。「悪い者が放つ火矢」だ。思いに浮かぶ何もかもを信じ
てはならない。

否定的な思い、どんどん落ち込んで行く思い、心が暗く沈む思い、
胸が辛くなり苦しくなる思い、建て上げでなく、破壊させて行く思
いを、吹き込んで来る。映画の映像のように思いに映して来る。何
もかもを受け入れてはならない。自分が思っていると思わせるサタ
ンの欺きだ。次々と映像を送り込み、自分が思っているとしか思え
ない。そう思わせれば、サタンは大成功だ。

朝起きた時から、次々思いの火矢を飛ばしている。思いをよく見張
っていよう。恐れ、激しい怒り、批判、いたずらに急かすもの、自
己憐憫、猜疑心、極度に自分を責めるもの、高慢になるもの、それ
らの思いは敵からだ。思いをよく見張っていよう。サタンに気づけ
るよう祈っていよう。賛美や祈りや御言葉や、良いもので思いを満
たしていよう。

・・・・・・・・・・・
サタンは、光の御使いに変装するので、神のかたちもとって来る。
霊的な深みも知っている。御霊によらなければ、欺かれてしまう。
「内におられる方が、この世の内にいる、あの者よりも力がある」
サタンの識別を祈っていよう。御霊が気づかせて下さる。


2018年07月20日(金)

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです」エペソ6:1



「そうしたらあなたはしあわせになり」と、約束が伴っている。親
は子供に良かれと、子供のためを思い、良い人間になって欲しくて、
厳しくしつけをし、叱る。しかし子供の側では、親の心がわからず、
自分を嫌いだから叱り、自分は愛されていないから、叱られると思
ったりする。

親も親で、子供を思う気持ちと裏腹に、実は、子供のためと言いつ
つ、子供を自分の思い通りにしようとする。自分の願望を子供に押
しつけ、子供によって自己実現しようとする。子供の人生を乗っ取
っていたりする。そうであれば、子供を愛していると言いつつ、実
は愛しているのは自分だ。子供を歪ませ、損なってしまう。

子供の側としては、親を敬い、従う事は神の御心だ。神の喜ばれる
事だ。又、「良い」父と母、「立派な尊敬できる」父と母なら敬い、
従えとは言っていない。「あなたの」父と母だ。虐待親からは、離
れなければならないが、そうでなく口やかましい親、お節介過ぎる
親、欠点だらけの親がいるかも知れない。

しかしその親を見下し、憎むなら、神との関係にひびが入ってしま
う。神を見上げ、敬うことができなくなってしまう。「天の父なる
神」と「自分の父」が重なってしまうのだ。上に立つ権威にも従う
事が難しくなる。親を否定すると自分を否定するようになり、苦し
くなってしまう。

親を敬う事は、取りも直さず、あなたの幸せのためだと言っている。
難しければ、そうできるよう、主に祈り求めよう。主は祈りに答え
て下さる。親子関係を少しづつ〃導き、みわざを成し遂げて下さる。
----------
愛するのに努力の要る親子関係もあるだろう。けれど親子の関係に
神を認めていこう。親を敬えとは神の勧告であり、それによって自
分自身が祝福され幸せにいたる道だ。


2018年07月19日(木)

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです」マタイ20:1



ぶどう園の主人のたとえ話は、ペテロの質問への答えの中で語られ
ている。その質問は「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従って
きました。ついては、私たちは何がもらえるのか」だ。主はそれに
答えて「先の者があとになり、あとの者が先になる」と言われた。
若い金持ちの役人が、富を捨てる事ができず、主のもとを去った出
来事のあとに続いている。

それを見てペテロは、彼は去ったが、自分たちは何もかも捨てて、
従っているのだから、何をもらえるのかと。その言葉を受けて、主
はこの話をされた。これは天の御国の価値観であり、先の者があと
になり、あとの者が先になると。この世の価値観と正反対だ。主人
は、労働時間の長さに従い、ではなく逆の順で賃金を払い出した。

1時間〜12時間労働まで、何とすべて同額だ。早朝からの者からは、
怒りと不満が噴出だ。だが主人は何の不正もしていない。契約をき
ちんと履行している。天の御国はこの世とは全く違う。神の恵みが
支配する世界だ。受けるに値しない者に与えられる贈り物だ。そし
て「自分のものを自分の思うようにする」神の絶対的な主権の世界
だ。

「気前のいい」主人であり溢れるばかりに与えて下さるお方だ。
「天の御国は・・ぶどう園の主人のようなもの」ここでの主役は労
務者でなく「主人」だ。どうしても労務者側で見てしまうが。神の
御国は、神が崇められ、神の栄光のための場所だ。これが御国の価
値観だ。受けるに値しない者が受ける、恵みでおおわれた世界だ。
------------
神との関係には受けて当然の報酬などなく、受けるに値しない者が
ただで恵みを受けていて、全てに同じ救いが与えられている。何と
いう深いご愛だろう。


2018年07月18日(水)

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです・・私を迎えるように彼を迎えてやってください」ピレモン16




ローマで獄中にあったパウロが、オネシモの事で、ピレモンに宛て
た書簡だ。オネシモは、主人ピレモンの奴隷であったが、主人のも
とで盗みを働き逃亡した。ローマにまで逃げたが、捕らえられて投
獄の身となった。だが、そこでパウロに出会い、回心した。信仰者
になったオネシモは、獄中でパウロに仕えていた。

パウロは「獄中で生んだ我が子オネシモ」と言っている。そして今
やオネシモは変えられて、以前は役に立たなかったが、「役に立つ
者」だと。彼の悔い改めが本物であったようだ。しかしピレモンの
奴隷なので、パウロはオネシモをピレモンのもとへ送り返したいと
思っていた。

そこでパウロはピレモンに、オネシモを赦して、受け入れてくれる
よう執り成している。弁償はすべて自分がするからと。奴隷である
オネシモは取り返しのつかない罪を犯してしまった。本来なら逃亡
奴隷は死罪だ。しかし神の側から見ると、神視点に立つと、全く違
う見方になる。そこに神の摂理があって「しばらくの間あなたから
離されたのは、あなたが彼を永久に取り戻すため」となる。

何という赦しとあわれみだろう。何と希望があることだろう。どん
な人生も、愛なる主のもとでは、人生が全く変わったものとなって
しまう。人の失望の時は、神のご計画の時と言われているが、すべ
てが主の御手の中で益と変えられ、栄光と導かれて行く。主のあわ
れみは尽きない。
-----------
どこまでも愛と赦しの中で生きる者に変えられた。その恵みを覚え
留まることで対人関係もがらりと変わるのではないか。赦されたの
だから赦そう。主の愛に押し出され歩もう。


2018年07月17日(火)

「『どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう』アブラムはサライの言うことを聞き入れた」創世記16:2




主は、アブラハムに「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなた
の跡を継がなければならない」「星を数えることができるなら、数
えなさい」「あなたの子孫はこのようになる」と言われていた。し
かし、現実になかなか子供が与えられなかった。そんな時にサラは
考えた。これは自分ではなく、女奴隷によって子供を持つ事が御心
なのではと。

主が言われたのは、そういう事なのではないのか。それで当時の風
習により、女奴隷によって子供を持つことを、アブラハムに提案し
た。アブラハムは、サラの申し出という事で受け入れた。その結果、
ハガルはみごもった。しかし秩序が狂うと、必ず様々な問題と混乱
が生じる。

ハガルは、不妊の女主人を見下すようになり、サラは、そんなハガ
ルに怒りを燃やし、いじめた。ハガルは余りの辛さに逃亡する。だ
がそこに主が介入され、結局ハガルは主に従い、女主人のもとへ戻
り、イシマエルを産んだ。アブラハムとサラは、主の約束を待てず
に、信じる事ができずに、自分たちの思いに従った。その結果、イ
シマエルを産み出してしまった。

サラは、主の言葉をそのまま受け取らずに、自分の思いを入れて解
釈した。そこで間違ってしまった。自分の思いで、肉で行動すると、
肉の結果を刈り取る事になる。今、主の約束を待てないで、自分の
思いと力で動こうとしているなら、とどまろう。必ず約束はどんな
に遅くなっても成就する。主を待とう。
-------------
長く待たされる時、じっと動かないでいる事は辛い。自力で動き出
す事の方が御心だと思ってしまう。待てない自分を主に祈り、御言
葉の約束に留まろう。


2018年07月16日(月)

「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9




パリサイ人律法学者達が、姦淫の女性を引きずり出した。その目的
は、彼女を利用して、主を罠にはめようとの魂胆だった。律法では
石打ちの刑だが、あなたはどうするのかと詰め寄った。主は黙って
おられた。だが彼らが問い続けて止めないので、「あなたがたの内
で、罪の無い者が、最初に石を投げよ」と言われた。

すると彼らは一人また一人と、結局全員が出て行き、誰も石を投げ
る者がいなかった。彼らは自分の内側を見た。そして罪を認めたの
だ。内側を照らされ、真実が明るみに出されようとしていた。チャ
ンスだった。自分の姿に向き合う事ができた。しかし逃げる事もで
きた。その時彼らは、皆逃げた。

主の言葉に導かれ、自分の罪を見たのに、目をそむけた結果、罪は
そのまま残った。だが彼女は逃げずにそこにいた。裁きからも逃れ
ようとせず、今からどうなろうと、主のもとにとどまった。全員の
冷たい視線の裁きの中、主だけは違った。主の暖かい愛を全身に感
じた。だからその主の愛に身を委ねた。その時「あなたを罪に定め
ない」と全き赦しを受けた。

私達はどうだろう。御霊に示された罪を認め、悔い改める時、赦さ
れる。新しい歩みを始めて行ける。しかし目をそらすなら、闇の中
であり、ますます見えなくなる。罪がわかるなら、それは恵みであ
り、御霊の光による。主の愛の中だ。目をそらさず、悔い改めるな
ら、新しい歩みに入れられる。
-------------
言い訳や弁解が自分の罪を覆い隠してしまうと罪は残ったままだ。
御霊様に示され本当の自分の姿がはっきり見えたなら感謝だ。心か
ら主に悔い改めることができる。


2018年07月15日(日)

「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令 を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立 されたであろうに」Tサムエル13:13


サムエルはサウルに、自分がいけにえを献げるから、自分が着くま
で7日間待つようにと命じた。しかし、その指示された7日間が過
ぎたが、まだサムエルは来ない。民の状況を見ると、民はもはやサ
ウルから離れて散って行こうとしている。それを見て焦り、どうに
かしなくてはと、サウルは自分で全焼のいけにえを献げた。

献げ終わった丁度そこに、サムエルが到着した。何と言う事をした
のかと。いけには祭司以外は献げる事が出来ない。愚かな事をし、
もう王国は立たないと。又、アマレクを打ちすべてのものを聖絶せ
よ、と命令を受けた時も、最も良いものを惜しみ、どうでもよいも
のだけを聖絶した。そして、民が惜しんだと民のせいにした。

サウルのこれらの問題は何なのか。いけにえを献げるかどうか、聖
絶するかどうか、外側の行動の問題以前に、御言葉にあるように
「あなたが主のことばを退けた」「聞き従うことは、いけにえにま
さり」彼の態度が、主に聞き従わないということだった。ここが問
題だった。

私たちはどうだろう。神はこう言うが、この状況ではこっちの方が
良い、神は言うが、しかし・・と、自分の思いが強く、自分の思いの
方で行動するだろうか。大切な事は、どんな善をするかでなく、主
の御声を聞いて、御声に従うことだ。

今もし、御声をなおざりにして、自分の思いで進んでいるなら、立
ち止まろう。御声に耳を傾け、従おう。豊かな祝福はただそこから
来る。

・・・・・・・・・・・・
クリスチャン人生は、自分の思う善い事をするのでなく、主が言わ
れる事を聞き、それに従う歩みだ。しばしば自分の思いが妨げる。
「自分は」でなく「主は」と、主のみ思いに目を持って行こう。信
仰生活は練習だ。よく失敗するが、「主のみ思いは?」に立って行
けるように、祈ろう。


2018年07月14日(土)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成 る」箴言19:21



人は、自分の思いがあり、プランがある。ある時は、どうしてもと
の強い思いがある。しかし神にもプランがある。ヨセフの生涯に神
のプランを見せられる。父親の偏愛により、兄達たちの妬みを買い、
隊商に売られる。奴隷として思いもよらぬ異国の地へ。孤独、不安、
恐れ、いかばかりだったろう。

しかし主は共におられた。ヨセフは腐らずに、買い取られた主人に
忠実に仕え、主人に認められ、全財産を任せられた。「主が共にお
られたので」が鍵だ。これは主による事で、主の計らいであった。
しかし、又も、苦難が臨み、無実の罪で投獄に。しかし、そこでも
「主が共におられ、監獄長の心にかなうようにされ」模範囚となり
すべての囚人の管理を任された。

やがて出獄かと期待が膨らんだが、献酌官長との約束は忘れられ、
又、2年が過ぎた。神の時は何と長いのだろう。結果的には2年だ
が、その渦中では、どんなに試され、信仰が試みられ、忍耐を要し
た事だろう。最終的に主はヨセフを総理大臣とされた。飢饉の中、
ヤコブや兄弟達の命を救う事になる。

そのために神が先にヨセフを送られた。神のプランは思いも及ばな
い、想定外であったが、結果的に一族の命が救われた。私達にも自
分のプランがある。しかし神の計画は、遙かに優っている。ヨセフ
は神の計画を中を歩み、信仰も品格も練り上げられ、使命を全うで
きた。

・・・・・・・・・・
自分の思いは強く、これが最善としか思えなくなる。しかし人には
先は全く見えず、目の前しか見えていない。明日の事もわからない。
自分のプランと主のプランが衝突した時には、自分を捨てて、主に
従えるよう祈ろう。祈る時、選択できるよう御霊の助けが臨む。


2018年07月13日(金)

「『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか』しかし、彼は黙っていた」マタイ22:12



天の御国の事をたとえで話されている。神は、王子のために結婚披
露宴を設けた王として記されている。神はしもべを遣わし、披露宴
に招待しておいた客を呼びにやる。しかし彼らは、畑に商売にと忙
しく、自分のしたい事があり、そちらを選択した。それだけでなく、
何と神が遣わしたしもべ達を殺してしまった。

神の愛を無視し、踏みにじり、仇で返し、恵みを拒否し、退けてし
まう。招待客に拒絶された神は、次にしもべを大通りに遣わし、誰
も彼も皆、招いた。そのため披露宴には大勢の人が集まった。老人、
若者、取税人、遊女、貧しい人、金持ち、ホームレス、酔っ払いと、
良い人も悪い人も皆、招かれた。ユニークな披露宴だった。

その中に礼服を着ていない者が一人いた。この場合、礼服は用意さ
れた。大通りで出会う人々であり、礼服など誰も持っていない。そ
の神が備えた礼服を、拒否した者がいた。招待は拒まなかったが、
礼服は拒んだ。違った目的で宴会に来ていた。それは自分の服のま
まで、自力で生きて行くという事だ。礼服とは、御子の十字架の贖
いだ。

十字架で流された主の血潮は、義の衣として私たちに与えられる。
「良い人も悪い人も」この無代価で用意された義の衣を着る事によ
って、王の披露宴に出る事ができる。何かの功績で選ばれたのでは
ない。自分の衣でなく、義の衣を着る=ただ主を信じる人が、罪赦
され、素晴らしい喜びと光栄の宴会にあずかる。
---------------
主は全てを用意して罪を赦そうと待っていてくださるのに受け入れ
る人は少ない。主の十字架によって贖われたことを深く感謝し、罪
を赦されて生きる幸いを証ししたい。


2018年07月12日(木)

「あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです」マタイ12:37



私たちの口から発する言葉は重要だ。そこには思考、思い、気持ち、
感情の現われがある。日々家庭で、学校で、職場で、近隣で発する
言葉は自分自身の現われだ。内にあるものが外に出たものだ。言葉
となって、内にあるものが現われ出る。「良い人は、その心の良い
倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。

なぜなら人の口は、心に満ちているものを話す」と。心に無いもの
ではなく、心にあるものを口が話していると、真理のみ言葉が言っ
ている。屈折した言葉は、ねじれた心から出て来る。荒んだ言葉は、
荒んだ心から出て来る。心が喜びで満ちているなら出ない。偽りで
塗り固められた言葉は、偽りの心から出て来る。心が問題だと。

心に愛があるなら、慰め、励ましの言葉が出て来る。その人のため
に祈っているなら、その人と接する時に、必ず何らかの慰めや力づ
けの言葉や態度となって、自然に現われ出る。それは相手を建て上
げて行く。ある人が、心にあるものを口が話すとあるが、自分はへ
つらいを言ってしまったり、良い人を装ったり、心にも無い事を言
ってしまう。

それは自分の心が真実でなく、誠実でない事だと悔い改めさせられ
たと。言葉の原因は心にあると言われているので、心がいつも御霊
に導かれて、御霊に助けられて、御霊と共にあることが大切だ。御
霊に導かれ、満たされて行くと、自然と心から喜びや平安の言葉が
湧き出て来る。
-------------
いくら婉曲に言っても心にあるものはどこかに滲み出てくる。自分
の利益のためだけの言葉ならその源を主に差し出そう。今日会い、
言葉を交わすその人のために祈ろう。


2018年07月11日(水)

「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」詩篇119:50



ある人が、あるサークルで熱心に活動をしていた。自分自身は喜び
もって、やりがいを持って働けて、仲間たちとも良い関係だと思っ
ていた。自分の居場所にもなっていて、責任も任され、充足感を与
えられていた。そんな中、ミイーティングでの出来事だった。様々
な事を話し合う中で、自分のやり方について、ある人から、はっき
りとした批判を受けた。

一つ一つの指摘を受けて、驚きの余り、その事についての言い訳に
終始した。するとその言い訳に対して、又、別の人から、非を指摘
された。又もや弁明すると、次々と様々な指摘を受けた。自分は全
く気づかなかったが、普段、周囲の人々が思っていた事だった。自
分は、良かれと思っていた事が、周囲の人々には、そうではなかっ
た事が判明した。むしろ、反発を買っていた事に気づかされた。

周囲を傷つけていた事に、全く気づきもせず、自分の独りよがりで
あった。ショックで、言葉を失い、呆然状態だった。詫びて、逃げ
るようにその場を去った。自分は、ただただ良かれの一心だった。
頭は真っ白で、わけがわからなかった。自分には何も無いと思えた。
余りの痛手に、心がどうにかなりそうだった。

ギリギリの瀬戸際で、崩れ落ちそうな中、その時に「神が私たちの
味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」「主は私の
味方」との言葉が臨んで来た。そのみ言葉により不思議な力で、く
ずおれそうな心が守られた。
--------------
御言葉を開き、今日も主の約束を受け取ろう。主がその通りに成し
遂げてくださる。状況、感情がどうであれ御言葉の上に安んじてい
よう。祈りつつ主と交わろう。


2018年07月10日(火)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



ある人が、定年以前に、様々な事情で、やむなく職を退く事になっ
た。非常に小さな職場だったので、退職金もままならなかったが、
思いのほか少なかった。これからどうすればよいのか。不安と恐れ
に襲われ、途方に暮れたが、主の御前に、祈りに持って行った。こ
とごとく心の内を告げて、祈った。

その時に、「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」と語られ
た。すべての道で主を認めよということで、これは主が決められた
事で、主から来た事と認め、そして「あなたがこうしてくださった
のですから」と目の前の事を信仰によって受け止めた。すると状況
は大変厳しいのだが、不思議に心が変えられて、平安にされた。思
い煩いが消えて、心がすっきり安らかにされた。

そしてすべてを支配しておられる、主に信頼し、委ねて、今後の事
をひたすら祈り続けていた。すると、思ってもみなかった所から、
誘いの手があり、間を置かずに次の職が与えられたのだった。又そ
れは自らの賜物が生かせる、願ってもない職場だった。差し迫った
経済的必要もあり、与えられた事を心から主に感謝した。

私たちも、目の前の事態をただ見えるところでなく、外側の状況に
ほんろうされるのでなく、それを主から来た事、主がそう決められ
た事と、信仰によって受け止める時、心が変えられる。状況はその
ままだが心が不思議に平安にされる。そして主からの事と受け入れ
る時に、信仰持って主に拠り頼んで行ける。
-----------
時に目の前の現実が主からのものとは信じられない事もあるが、主
を認めるとは、ただ嘆くだけの弱さではなく主の愛を信じて主に訴
え、祈ることのできる強く前向きな生き方だ。


2018年07月09日(月)

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」ルカ22:32



失敗した事の無い人はいない。人間であるので必ず失敗する。失敗
しない人はいない。しかし失敗で終わらず、そこから学ぶ事が大切
だ。それには、まず失敗をきちんと認める事が大切だ。認めたくな
くて、目をそらし、無かった事にし、認めないなら、前に進む事が
できない。成長も無い。

どんな場合も、主の御前で失敗をきちんと認めるなら、赦されて、
必ず前に進んで行ける。そこには新たな展開があり、恵みが備えら
れている。自分自身が修正され成長へと導かれる。必ず益とされる。
ペテロも弟子たちも失敗した。主を裏切り、見捨てて逃げた。しか
し彼らは建て直され、主の昇天後、聖霊に満たされ、宣教のために
大いに用いられて行った。

ペテロは失敗をして初めて、自分の本当の姿を知った。自信満々で
あったのが、実はいざとなれば、主を捨ててしまう臆病で保身の情
けない姿を、弱さを思い知らされた。ペテロは砕かれて、回復させ
られ、諸教会のリーダーとして用いられた。モーセも同様だった。
エジプトで王子であった時、自分の力で、同胞を救おうとして、見
事に失敗し、ミデヤンの地に逃れた。

地位、名誉、富、栄光、何もかもを無くした荒野で、砕かれ、訓練
され、出エジプトのリーダーとして着々と準備された。そして偉大
な働きに用いられた。主は失敗しないようにと祈られたのでなく、
信仰が無くならないよう祈られた。私たちも失敗をするが、砕き、
練られ、成長させられて行く。
--------------
失敗を認め、弱い所を知らされるなら次からの祈りの課題にしてい
ける。失敗はするが落ち込まず、その度に砕かれて主により頼んで
いこう。主の祈りがある


2018年07月08日(日)

「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正し い、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐え て、実を結ばせるのです」ルカ8:15


実を結ぶとは、みことばを聞いて、しっかりと守ることだと言って
いる。つまり、みことばを聞くだけでなく、聞いて受け入れ、従っ
て行くことだと。聞くことは喜んで聞くが、それで終わってしまっ
ている事が多かったりする。御言葉を聞く事は大切とわかっている
ので、聞いたという事で満足してしまう。しかし、道ばた、土の薄
い岩地、いばらの地は、全く実を結ぶ事なく枯れてしまったと。

道ばたとは、御言葉をぼおっ〜と聞くので、右から左へと流れてし
まう。他の事を考えていたりする。又、自分の事として聞かないの
で、他人事の傍観者となる。又、偏見や自分の強い思いにより御言
葉をはじいてしまう。心に入らない。岩地は、根が下に伸びようと
すると、固い岩である自我にぶつかり、枯れてしまう。

いばらの地は、根は芽が出るのだが、いばら=世の思い煩い、富の
惑わしでふさがれる。優先順位がこの世のもの優先となり、御言葉
がふさがれてしまう。御言葉は種であり、いのちだ。聞いた御言葉
を反すうする事が大切だ。反すうして行く時、御言葉が心にとどま
り、宿り、糧とされて行く。御言葉が、生活の中に根ざして行く。

御言葉を一心に見つめて離れない時に、実行できると。そして、御
言葉を口から離さず、御言葉を喜びとし、昼も夜もそれを口ずさめ
と。そうするなら守り行なう事ができる。それは水路のそばに植わ
わった木となり、必ず実がなり、その葉は枯れない。いつもみずみ
ずしく葉は生い茂る。御言葉により生き生きと喜びもって生きて行
ける。

・・・・・・・・・・・・
御言葉は大切だ。とにかく祈りと御言葉から離れないでいよう。御
言葉から慰めや励まし、指針が来る。どんな中でも生きて行け、乗
り越えて行ける。御言葉に耳を傾けよう。肉は安逸へと流れるので、
そう出来るよう祈ろう。


2018年07月07日(土)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い 煩いを知ってください」詩篇139:23


私たちは、他人の心を知ることは出来ない。目の前の人の心の底も
わからない。又、自分の心すら、自分ではわからない。自分の事は、
自分が一番知っていると思いがちだが、それは間違いだ。心に深く
潜む思いは、自分でも知り得ない。

心が何だか重苦しくなる時がある。そんな時、心を探られ、自分で
も気づかなかったが、心の底に「思い煩い」がある事を知る。自分
では全く気づかない。御霊は、その思い煩いに気づかせ、委ねる事
が出来るように助けて下さる。

又「傷がついた道」がある。心の奥に気づかない思いが潜んでいた
りする。ある人が、級友がいて、ずっと一緒に学び遊び、大の親友
だった。しかし相手がほめられると、いつも何かザラつく思いがあ
った。しかし仲良しの親友であり、わからなかった。主に出会い、
心を御霊に照らされた時に初めて、人気があり、何でも出来て、皆
に好かれる親友に、強い「妬み」があった事を知らされた。絶対に
認めたくないので、気づかない。

ある人は、熟年になって初めて、自分の底に強い「憎しみ」がある
事を知らされ、こんな思いがあるとは全く気づかなかったと。ある
人は、自分では気づかなかったが、自分を批判した人たちを、ずっ
と憎んで「赦せない思い」が潜んでいた事を示された。自分で自分
の内側はなかなかわからない。

自分の心の奥底を差し出し、祈る時に、主が導いて自由にして下さ
る。主は、底の何もかもをご存じで、受け止め、理解し、いやして
下さる。この方のもとへ行く時、隠れ潜んだ、傷のついた道を、修
復して下さる。肉の思いを捨て去って行ける。自由に自由にされて
行く。

・・・・・・・・・・・・
心にいつもではないが、場面によりザラつく思いがあり、重苦しく
なり、平安が無くなる時、御霊に心の奥を探って頂こう。何かが潜
んでいる。主は一つ一つと解き放ち、自由にし、癒して行き、喜び
と平安を増して行って下さる。
★大雨のご心配頂き感謝します。会堂と周辺、及び教会の皆大丈夫
です。


2018年07月06日(金)

「求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」Tヨハネ3:22




こんな人が目の前にいたらどうだろう。いつも会えば愚痴ばかり、
人の悪口しか言わない、噂話にうんざりさせられる、自慢話ばかり、
人の話はいっさい聞かず、自分の事のみ・・これではとてもじゃな
いが「好き」になれない。しかし、聖書に一言も、相手を好きにな
れとは言っていない。「愛しなさい」だ。

愛するとは、好きになる事ではない。好きになれなくても構わない。
好きになれずとも、愛することはできる。聖書の中で言っている愛
は、すべて「意志的愛」だ。感情の愛ではなく、意志の愛だ。感情
はコントロール出来ない。しかし意志は出来る。感情はコントロー
ルできないので、好きになる事が愛する事なら一生不可能だ。

主は意志の愛を見て、受け入れて下さっている。愛するとは、相手
の必要が生じた時に、自分に出来る事で犠牲を払うことだ。自分の
労力、時間、富の一部を献げることだ。「ですから私たちは兄弟の
ために、いのちを捨てるべきです」。例えば、「塩狩峠」のような
劇的に命を献げるなどと大きな事は普通の人生では起こらない。

日常生活で、目の前の小さな事であっても、自分の持っているもの
を献げて行く事、それが愛する事だ。少しの時間を犠牲にしたり、
労力を払ったり、富を献げたり、自分にできる事をすればよい。今、
具体的に御霊により示される事があるだろうか。実践する時、神の
御前に心を安らかにされる。そして求めるものをいただける。祈り
が答えられて行く。
--------------
感情で好きにはなれなくても、意思で相手の側に立てるよう成熟し
た信仰で御言葉に従いたい。自分にできることは人より僅かでも、
主のために示す愛で自分自身が深く養われていく。


2018年07月05日(木)

「ダビデはギブオン人たちに言った。『あなたがたのために、私は何をしなければならないのか。私が何を償ったら、あなたがたは主のゆずりの地を祝福できるのか』」Uサムエル21:3



ダビデの時代に、3年間引き続いた飢饉があった。その時にダビデ
は、飢饉があったという事実だけで終わらず、「この飢饉はなぜで
すか」と主に御心を問うた。ただ豊作になるよう求めたのでなく、
この事の原因は何ですかと尋ねた。この祈りは主の心にかない、す
ぐに答えが示された。

「サウルとその一族に、無実の血を流した罪がある。彼がギブオン
人たちを殺したからだ」と。イスラエルは彼らと盟約を結んでいた
にかかわらず、サウルは熱心の余り、彼らを殺すという罪を犯して
いた。その罪を神はお許しにならなかった。そこでダビデは対処す
るために、ギブオン人たちを呼んで、何をすればよいのか、何を償
えばよいのかと問うた。

そして彼らの言う通りに、ダビデはすべての償いを果たした。する
と「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」とあり、罪が示
され、その償いをきちんとした時に、神は祈りに目を留められた。
罪は祈りの障害となる。罪があるなら、祈りは聞かれない。さえぎ
られてしまう。「あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いて下さらな
いようにした」。

幾ら祈っても答えが無い時には、立ち止まって、原因を求め、主の
御心を伺おう。何かの障害があるのかも知れない。主はその祈りに
答えて、御心を示し、軌道修正し、正しく導いて下さる。そして祈
りは豊かに答えられて行く。
--------------
願い事だけをもって主に向かいがちだが、現実を恐れることなく見
るへりくだった信仰をまず受け取りたい。気づかない罪、隠してお
きたい罪を主に示され、祈りの答えを受け取ろう。


2018年07月04日(水)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6



私たちは、信仰生活で、様々な必要が生じる。金銭的、物質的必要、
体力的必要、霊的必要・・その時に、この目の前の必要は、本当に
満たされるのだろうかと、どうしても不安になるだろうか。主は空
の鳥を見よ、野の百合を見よと励まし続けて下さる。鳥は種蒔きも
刈り入れもしないが、神が養っておられる。

百合は働きも紡ぎもしないが、綺麗に装われている。ましてや愛す
る子供たちのために良くして下さらない事があろうかと。エリヤが
カラスに養われた箇所は有名だ。ケリテ川へ行けと言われるが、ど
うやって養われるのか、一見不可能に見える。しかし事実養われた。
川の水を飲み、カラスが食料を運んで来た。主に不可能は無い。

日照りで川の水が枯れた時、やもめ女に養わせると。どんな資産家
と思いきや、極貧の母子で、最後の食事をして死のうとしていると。
一見、養うなど不可能だ。しかし主は最後の粉をエリヤに差し出し
た彼女を祝福し、飢饉のまっただ中で母子は報われ、養われた。主
に不可能は無い。

出エジプト時に紅海を分けて、道を造られた主は、私たちの道なき
所、絶体絶命、断崖絶壁であっても、道を造る事が出来る。主に不
可能は一つも無い。今、四方八方手詰まりで、途方に暮れているだ
ろうか。主は目の前に道を造られる。主は解決を持っておられる。
主はすでに、“ご自分では、しようとしていることを知ってられる”。
ご計画をお持ちだ。目の前に道ができて行く。
---------------
出来る訳がないなら信仰は何処にあるだろう。けれど出来る訳がな
いと流してしまう事は多い。圧倒的に無力であっても解決に向けて
祈ることはできる。そして主の解決を信じ応答していこう。


2018年07月03日(火)

「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」詩篇55:17



ダビデは、敵からの激しい攻撃、迫害があり、極度の苦しみの中に
あった。「私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいている」敵の叫
びと悪者の迫害のためと。「心は内にもだえ、死の恐怖が襲ってい
る」「恐れとおののきが臨み、戦慄に包まれている」と大変な窮地
にいた。そして更に辛い事態が襲った。親友がダビデを裏切って、
去ったのだ。

どんなに心痛で張り裂けそうだったろう。死と隣り合わせの恐怖の
上に背信、孤独に見舞われた。だがすべての事は、主の御手の内に
あり、主の目的と意図がある。この辛い試練を通り、ダビデは主に
嘆き、訴え、うめき祈り続けた。その結果「あなたの重荷を主にゆ
だねよ」に行き着いた。「主が、心配して下さるから」と。

私たちはどうだろう。思い煩いが一つ来ても、心は沈んで重く苦し
く、真っ暗になってしまう。更に自分で最悪のシナリオを描いて、
冷静さも失ってしまい、四六時中、その悩みに捕らえられてしまう。
誰しも経験あるかも知れない。その解決法は「重荷を主にゆだねよ」
と。今、深刻な悩みを抱えているなら、主に委ねられないから、悩
まされている事になる。

「委ねることができない」が問題点なら、そのまま祈ろう。主が委
ねられるように助けて下さる。結局、ダビデは極度の苦しみを通っ
たが、「主に委ねる」ということを学ばせられるためであった。あ
なたも今、委ねることを学ばされているだろうか。心配して下さる
主が共におられる。委ねられるよう祈ろう。
--------------
主に委ねられないと思い煩いのシナリオは徐々に膨らんでしまう。
問題を一人で受け止めることはできない。主に荷を下ろすと決心し
よう。うめきを主は聞いて下さっている。


2018年07月02日(月)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテモテ6:6



ある男性が、目の病で手術をした。ほんのかすかな視力が残ったが、
仕事は不可能となった。運転も出来なくなった。バリバリと仕事を
こなし、トップクラスの成績を上げていた有能な社員だった。前途
を断たれ、真っ暗になっても不思議は無かった。幾らでも悲観的に
なり落ち込むことができた。

しかし彼はそうしなかった。主にすがり、祈りに祈って、否定的思
いを拒否し、自分に与えられた目の前の状況を受け止めた。切なる
祈りにより、平安が与えられていた。「主は与え、主は取られる」。
今まで与えられていたものはすべて、主からであり、それを取られ
るのも、主によるのであり、自分はこれからもずっと、主を礼拝し
て生きて行きたいと。心安らだった。

この事が、更に主との深い関係に入れられる、恵みとして受け止め
た。「なぜ、どうして」と神を恨み、反抗する事もできたが、そう
しなかった。彼の選択だった。周囲に素晴らしい主の栄光を現して
行った。ある高齢の男性も、徐々に衰え、人の助け無くては生活出
来なくなった。それを主からのものと受け止めた。

以前の自分なら、助けを受ける事は苦痛でしかなかった。生活の様
々なサポートの手を、主からのものと感謝して受けた。今まで無か
った「受ける」ことを学ばせられた。それにより、心に何にも替え
られない平安が満ちた。どんな状況でも「満足」を下さる。
-------------
常にどんな時にも満ち足りるという心の状態は自分の内にはなく、
ただ主との交わりの中で与えられている。苦しみや悲しみ、不満の
度に生きておられる主に祈ろう。主が思いを引き上げてくださる。


2018年07月01日(日)

「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでなさって、娘 の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにし てください」マルコ5:23



会堂管理者であるヤイロの娘が、今にも死にかけていた。そのため
ヤイロは必死で、主のもとへ来て、助けを求めた。主は、それに応
えてヤイロと一緒に出かけられた。その途上で、長血の女性が割り
込んで来た。娘は危篤であり、一刻を争う。それなのに妨害が入り、
ヤイロの心はどんなに焦り、急いた事だろう。

その女性が癒された時、使いが来て娘の死を告げた。もう主に来て
頂く必要はないと。ヤイロの心はどんなものであったろう。絶望が
襲おうとする瞬間に、間髪を入れず、主は御声をかけられた「恐れ
ないで、ただ信じていなさい」と。別訳では「主はその話している
言葉を聞き流して」、「主はその言葉に注意を払わず、心に留め
ず」となっている。

不信仰な言葉は、聞き流す必要がある。心に入れてはならない。信
仰の言葉である、御言葉を心に入れて、不信仰な言葉は拒否し、シ
ャットアウトすることだ。不信仰の言葉を入れると、不安、恐れ、
疑心暗鬼に支配され、どんどんネガティブへと侵されて行ってしま
う。心に握るのは「恐れないで、ただ信じていなさい」との主の言
葉だ。

家に着くと、人々は大泣きし、わめき取り乱していた。娘はすでに
死んでいた。目の前に突きつけられた現実であった。だが、主は
「死んだのではない、眠っている」と言われた。人々は嘲笑った。
主の言葉が理性、常識、見えるところに合わないからだ。しかしそ
の言葉通りに娘は生き返った。どの言葉を受け入れ、どの言葉を聞
き流すか、心が守られるために、見分ける事が非常に重要だ。

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四六時中、心に言葉が行き交っている。不安、恐れ、思い煩いの肉
の言葉、サタンが吹き込む中傷やネガティブな言葉、心を見張って
いなければ、流されてしまい、ほんろうされてしまう。聞くべきは
神の言葉であり、御言葉に立てるよう祈っていよう。