2018年08月31日(金)

「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」エペソ6:18


私達は時々、余りにもサタンの誘惑が、次から次へと絶え間なく来
るので、戦うのに疲れて果てて、気落ちしてしまう事がないだろう
か。サタンは極めて執拗だ。これでもか、これでもかと、誘惑と攻
撃をしかけて来る。非常に強力だ。しかし、覚えておかなければな
らない事は、この世にいる間は、ずっと霊の戦いだ。

誘惑は途絶える事がなく、終わる事はない。天国にはサタンも誘惑
も無い。何という解放と休み、安らぎだろう。だが、この世にいる
間は戦いだ。まず戦いであるという事を受け入れよう。だから、誘
惑が来る事に気落ちしたり、恐れたりする必要はない。それはずっ
と来るが、サタンは主の十字架によって、すでに滅ぼされた敵だ。

だから、信仰に立つ時に勝利できる。誘惑が来るのは止められない
が、受け入れる事を拒否する事ができる。あなたが最も誘惑を受け
る箇所やパタンが必ずある。いつも同じ所だ。あなたの弱点であり、
サタンは狙っている。そして、サタンはやっきになってその状況と
パタンを作ろうとしている。

よく日常と自分自身を振り返って、その所を把握しておこう。無防
備の時にやられるので、予め祈りと御言葉で備えておく事ができる。
誘惑が来た時に、思考や思いに走らず、まず「神様!」「助けて!」
との祈りが一番だ。まず主を呼ぼう。主が御言葉を思い起こさせて、
助けて下さる。
-------------
いつも来るパタンを知っているだろうか。主の語りかけとサタンの
声、二種類の声を識別しよう。サタンの語りかけは気づかないほど
自然だ。直ちに主を呼び退け、きっぱりと拒否しよう。


2018年08月30日(木)

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」エペソ1:7 

 

ダビデはバテシバとの姦淫の後、その罪を隠蔽するために、計略を
巡らし、夫ウリヤの殺害に至った。神はこの事のために、預言者ナ
タンをダビデのもとに遣わされた。ナタンはたとえを用いてダビデ
の罪を指摘した。「二人の男がいた。大富豪は多くの羊を持ち、貧
乏な男は、たった一匹の小羊しか持っていなかった。

その小羊を娘のように愛情を込め大切に育てていた。ある時、大富
豪の家に旅人が訪ねて来たが、その旅人のために、自分の羊を惜し
んで、たった一匹しか持っていない貧乏な男の羊を取り上げ、調理
して、旅人をもてなした」ダビデはその話を聞くや、激怒し、そん
な男は、即刻、死刑だと叫んだ。

それはダビデ自身の姿であり、自分を映したのだ。自分自身に良心
の呵責があり、責めがあったからだ。だから激しくその大富豪を断
罪した。自分を裁いていたので、裁きは、厳しく人にも向かう。ダ
ビデはナタンの指摘により、罪を認め、悔い改めた。

主もまた、悔い改めた者の罪を見過ごされた。十字架の血潮によっ
て、主の赦しをしっかり受け取り、許された人は、自分を赦す事が
できて、人をも赦せる。自分を赦していない人は、人をも決して赦
さない。

私達は、主が赦して下さっているにかかわらず、自分が自分を赦し
ていないという事はないか。主の赦しを受け取るからこそ、赦され
た感謝と喜びと平安に、人をも赦して行ける。十字架の恵みにあず
かろう。
--------------
自分の罪深さが日々赦されている事を知らなければ、人を赦す事は
できない。今の罪を知り、その罪が赦されている事を知ろう。


2018年08月29日(水)

「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されるこ とを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光の ほうに来る」ヨハネ3:20



私たちはどうだろう。他者から、自分の欠点や落ち度を指摘された
時、ムッとするだろうか。カチンと来て、怒りが湧く時などは、ま
さにその指摘が的を射ていて、当たっているからだ。自分でもうす
うすわかっていて、その通りだから、反応する。そこに強固な自我
がある。自我にぶつかる。

そこを認めたくないし、見たくないので、逆に、相手に文句を言い、
食ってかかったり、言い返し、相手を攻撃する行動に出る。まさに
自分の触れられたくない、認めたくない、頑なな部分がある。祈り
つつ、その所に、しっかり目を留めよう。何度も同じケースで起き
ているだろうか。そこを主に取り扱ってもらわなければ、ずっとサ
タンに足場を与えてしまう。

そこにあるのはプライドだろうか、虚栄心か、貪欲か、何なのか、
自分の内側の何に触れるのか、御霊に探っていただこう。自らの弱
さを心底認め、常にそのために祈り、その事を神の御前に置いてい
るなら、人から何か言われても、動揺する事はない。自分自身が認
めているのだから。自らの内の見たくないものを、直視しよう。御
霊の光が照らし出してくれる。

いろんな人々が、決して認めたくなかった自分の弱さを認めた時に、
自由にされて行った。隠れたプライド、コンプレックス・・自分の内
にあるものを知る時、癒しが来る。解放される。人に言われて傷つ
く、そこの部分を主の光のもとに出そう。真理を行なうとは、正直
に認めて行くことだ。

・・・・・・・・・・・・
誰しも自分の弱さは見たくないし、認めたくない。しかしその部分
が絶えずナーバスになり、無意識にも防衛してしまう。主はあるが
まま愛して下さっている。そして自由にして下さる。闇をそのまま
にしておかず、光のもとへ行けるよう祈ろう。光により闇は消える。


2018年08月28日(火)

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律 法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4


ある人は、子供が、なかなか親の言う事を聞かず、困り果て、子供
のために祈る時、いつも「どうか良い子になりますように。親にち
ゃんと従えますように。神様に従えますように。態度が良くなりま
すように」と祈っていた。そんなある時、御霊による気づきが与え
られた。

子供にしょっ中「ああなれ、こうなれ」と口うるさく小言を言って
いる自分の姿に。つまりは絶えず「お前は、今のままでは不十分
だ」と言っている事だと。子供を、自分が、変えよう、変えようと
している事に気づかされた。目の前の子供を受け入れておらず、自
分の思い通りにしようとしている。

変わるべきは子供ではなく、自分であった。悔い改めて、いっさい
家族への要求を止めて、家族に感謝する事を始めた。妻を、子供を
与えられている事、家庭を与えられている事に感謝し始めた。そし
て、家族を幸せにするために、自分は何ができるかを求めて祈った。
すると家の中が、何もかもが一変した。暖かい空気が流れ、和やか
になり、皆がリラックスできるようになった。

家庭が変えられ、オアシスとされた。神の愛が家庭に臨んだ。人を
変えよう変えようとする時、そこに裁きと批判と不平不満、トゲが
存在し、そこには神の愛は無い。しかし、感謝して行く時、そこに
確かに潤いと温もりが流れる。何か冷ややかなものがある時、自ら
を振り返ろう。目の前の相手を変えようとしていないか。「私を変
えて下さい」と祈ろう。その祈りは必ず答えられる。

・・・・・・・・・・・
しばしば、正しいのだが、愛が無いという誤りに陥ってしまう。又、
本当は相手のためではなく、自分を落ち着かせたいがために、自分
のために小言を言う。すると相手に響かないし逆効果となる。御霊
はいつも軌道修正し、御心へと導いて下さるので感謝でならない。


2018年08月27日(月)

「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:11



エステルの物語はとても不思議だ。一つ一つの出来事がパズルのピ
ースであり、一つ一つと埋められて行く。不思議に、王妃ワシュテ
ィが退けられた後、エステルが王妃とされた。ハマンのユダヤ人を
滅ぼす悪巧みをモルデカイが知った。モルデカイがエステルに指示
を与え、エステルは従った。エステルの宴会への誘いを王は受け入
れた。

その夜、王はたまたま眠れず、年代記を読んだ。そこでたまたまモ
ルデカイの功績を知った。王はモルデカイに栄誉を与えようと思い
至った。王はエステルの願いに耳を傾け、聞き入れた。どの一つが
抜けても、結果が違ったであろう。ハマンの邪悪な計画は成就され、
ユダヤ人の虐殺が行われただろう。

神が阻止され、ハマンと計画は砕かれた。ここに完璧に状況を支配
しておられる、摂理の神を見る。ルツの物語も同様だ。ルツがナオ
ミについて行く決心をし、帰国したのが、たまたま大麦の刈り入れ
の時だった。生計のため落ち穂拾いを始めると、はからずもボアズ
の畑であった。又、丁度その時、たまたまボアズがやって来た。

一見偶然に見えるが、私達には偶然は存在しない。一つ違わず、神
の導きであり、神の配剤だ。神の配慮が私達の生活に張り巡らされ
ている。過去を振り返る時、あの時も、この時も、時ピッタリの不
思議な取り計らいを見い出す。完璧な御手の支配の中にある事を覚
える時、思い煩いはいっさい不要だ。間違いなく神のご計画が成っ
て行く。
--------------
全てに偶然はなく御神の摂理の中で生かされていると思うと、失敗
にも挫折にも共にいてくださる主を思う。思い煩う時、主の御約束
の中にいる事を思い起こしたい。


2018年08月26日(日)

「主はサタンに仰せられた。『では、彼をおまえの手に任せる。た だ彼のいのちには触れるな』」ヨブ2:6



サタンは、常に虎視眈々と私たちを狙っている。獲物を狙うお腹を
空かせたライオンだ。サタンはヨブを攻撃した。しかしそれは、神
の許容範囲内であった。主が「持ち物はお前の手に任せる。しかし、
身は許さない。次には、身を任せる。しかし、命には触れるな」と
命じられた。

神の主権により、定められた限界内でしか、サタンも働けない。サ
タンがどう攻撃して来ようと、最終的権限を握っておられるのは、
主だ。つまり、目の前に起こる一つ一つの事が神から来ている。偶
然や不運なのではない。サタンに翻弄されているのではない。雀一
羽すら父のお許しなしには地に落ちない。

人が私達を批判し、非難し、敵対しているかも知れない。目に見え
る状況に反応すると、相手への敵対心、憎しみ、裁きが心に湧き上
がる。不平と不満、反抗心で一杯になる。しかし、それなら的はず
れだ。人しか見えていない。その背後で主権を握っておられるのは
神だ。そうであれば対応が違ってくるはずだ。サタンは私達に攻撃
して来る。しかし、主権者であられる神は、サタンすら私達の益の
ために、私達の成長のために利用される。

すべての最終的主権は神にある。ヨブは一夜にして全財産と子供達
のすべてを失った。しかし、それらすべてに神の主権を認め、受け
入れ、ひれ伏し、礼拝した。主を賛美し、御名を崇めた。どんな状
況でも主の御名を崇めて行く事、これは感情でなく、信仰であり選
択だ。出来ないからこそ助けを求めて祈ろう。その求めに答えて下
さる。

・・・・・・・・・・
ダビデもサウルから殺意を持って二度も槍を投げつけられた。しか
し神はダビデの命を守られた。サタンは主の許可範囲内でしか働け
ない。しかも、それをも益のために用いられる。サタンをも利用し
て私たちを益し、成長させて下さる。


2018年08月25日(土)

「・・キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなた がたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべき からだをも生かしてくださるのです」ローマ8:11



ある人が若い時に非行に走った。親は親として機能しておらず、ぐ
ちゃぐちゃな機能不全家庭の、不幸な生い立ちだった。しかし主に
出会い、主に従うようになって、ある時、気づかされた。確かに生
い立ちは、滅茶苦茶不幸だし、親にも恵まれなかったかも知れない。
しかし、心を屈折させ、ひがんでグレる事を選択するのは、紛れも
なく自分なのだと。

他人は選択できない。どこまでも自分自身の選択なのだと。ひがむ
事、グレる事を拒否する選択もできたはずだ。そうであるなら、こ
れから
神に従う道を選択して行きたいと。心からそう思った。私達も同様
だ。サタンは肉に働いて来て、罪に引き込もうと凄まじく攻撃して
来る。人には優しい言葉をかけ、寛容な愛深い態度をと思っても、
つい肉はイラ立ち、とげとげしくなる。

又、きつい言葉を向けられると、肉は、即、言い返したくなる。報
復したい。しかし御霊はそうでなく、まず祈れと言われる。肉と御
霊の二つが相反し引っ張る。そのつど「できません。自我が強いで
す。助けて下さい」と助けを求め、明け渡そう。

自我は頑なで、御霊を選択しようとの思いすら困難だ。だからこそ
助けを求めよう。その時御霊の助けが臨む。御霊が働かれる時、全
く頑張る事もなく、自然に優しい言葉をかけ、攻撃して来る者のた
めに祈ることができる。まさに自分でなく御霊の働きだ。現実の助
けを経験して行く。

・・・・・・・・・・
自らの無力を認めて、「できません、いや、したくないです。自分
で、自分がどうにもなりません」とあるがままを祈りに持って行き、
主に拠りすがる時、不思議が起きて、自分が変えられて行くことを
幾度も経験する。御霊は助けて下さる。


2018年08月24日(金)

「主の訓戒である。謙遜は栄誉に先立つ」箴言15:33




謙遜と言えば、何を思うだろう。「いえいえ、私などは」と控え目
に後ろに下がり、腰を低くする事のように思える。だが、そうでは
ない。口では「いえいえ、私などはつまらない者です」と言いつつ、
心の中では、そう思ってなくて、自らを高めていたりする。謙遜と
は自分の罪を示された時に、心底認めて行く事だ。

サウルがサムエルの命令を守らず、良いものを惜しみ、値打ちの無
いものだけを聖絶した。その罪をサムエルから示され、サウルは、
弁解しながらも、罪を認めた。そして赦しを乞うた。しかし言った
のだ。「民たちの前で面目を立てて下さい」つまり、民達には知ら
れたくないと。これは謙遜ではないし、真の悔い改めではない。

真に、神の御前に悔い改める時、人の前や体面など見えない。ただ
ただ主の御前に、自分の罪だけが見える。人など入る余地はない。
そして、その罪は赦され、全き赦しを受け取り、新しくされる。謙
遜とは悔い砕かれた心だ。神は決してそれを軽しめられない。ダビ
デがナタンから罪の指摘を受けた時、心が砕かれた。罪を告白し悔
い改めた。

「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」と赦しが与えられ、
恵みが降り注がれた。謙遜は自らの罪を認める。高慢は自分の失敗
をも周囲のせいにする。高慢は自らの罪を認めない。自分が間違い
を犯したなどと決して認めない。だから赦される事もない。

ダビデはナタンに耳を傾けた。高慢は人の助言を聞かない。御霊は
罪を指摘される。心頑なにせず、聞き入れ、悔い改める時、赦され、
豊かな恵みにあずかれる。
------------
一日でも罪を犯さず、聖くいることは出来ない。人は言ってくれない
事も御霊は示してくださる。心を低くし、主からの知恵や訓戒を求め
る生き方を続けよう。


2018年08月23日(木)

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」創世記12:4 

                      
アブラハムは、神から「生まれ故郷、父の家を出て」「わたしが示
す地に行け」との言葉を受けた。その時、彼は、その召しに答えて、
神の言われたその通りに従った。そのためには、故郷を出ること、
父の家を出て、親族と別れること、大きな代価を払わねばならなか
った。75才の彼にとり、大変な決心が必要であった事だろう。

安定した、住み慣れた地を離れ、親族とも別れる事はどんなにか思
うところがあった事だろう。しかし、彼は、「主がお告げになった
とおりに出かけた」。従順に、主に従った。私達も主に従うために
は、時に犠牲を払う必要がある。それは大きな犠牲かも知れない。
自分が堅く握り締めているものを手放す必要がある。

主が示されたなら、それらを明け渡して行く時に、今まで知らなか
った喜びを知る。御霊の喜びだ。一歩大きく前進させ、成長させて
下さる。自らが堅く握り締めているものが、成長を妨げていたりす
る。「そうすれば」と、主は従うなら、祝福を約束された。「あな
たを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるも
のとしよう。あなたの名は祝福となる」と。

これは不妊であった妻のサラに、子供ができるという約束だ。素晴
らしい約束であった。アブラハムは、この約束を受け、従った。今、
目の前に、主からの示しがあるだろうか。犠牲が必要だろうか。し
かし余りある大いなる祝福が備えられている。一歩従えるよう祈ろ
う。
-----------
アブラハムのような劇的な旅立ちはなくても、日常、御霊による様
々な示しが来る。失敗を恐れて何もしない自分や、手放せないもの
が示される。一歩でも主と共に出て大きな祝福を受けよう。


2018年08月22日(水)

「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」ヨハネ10:14



主は「何も思い煩わないで・・」と、「何もいっさい思い煩うな」
と言われている。だのに、なぜ思い煩うのだろうか。思い煩いは、
目の前の事態に対して、対応できないところから生じる。つまり
は、自分が、自分の力で何とかしようとして、できないから不安
と恐れで、思い煩っている。

そんな時、何もかもが自分の肩にかかっているので、苦しくなる。
どうしていいかわからない。この目の前の辛い対人関係、あの経
済的苦境、この事、あの事、また先の事、果ては老後の事まで。
自分の力を遙かに越えている。そのため思い煩う。思い煩いから
守られるためには、底に、真の「安心感」が必要だ。

自分一人で、自力で人生を歩んでいるのではない。自分には羊飼
いがいる。自分は羊だ。その羊飼いは、すべての面倒を見てくれ
る。絶えず愛と慈しみのまなざしで、自分を見つめ、あらゆる配
慮をし、世話をし、食物を与え、どんな危険からも守って下さる。

「主は私の羊飼い」であり、良い羊飼いは羊のためにいのちを捨て
る。自分は弱い羊であり、愛なる羊飼いに守られているとの事実か
ら安心感、安らぎが来る。羊飼いは、羊に、病気、けが、傷、痛み
はないか、何かの必要は無いか、常にチェックする。そして最善の
対処をする。

もし過去に傷があるなら、主こそ癒し主だ。その傷を癒して下さる。
「心の傷ついた者を癒すために、わたしを遣わされた」。「心が傷
んでいます」とそのままを主に告げよう。「わたしは、わたしのも
のを知っている」この悩み、あの患い、心の隅々までご存じの主が
共におられる。知っていて下さるとは、何と嬉しい事だろう。
--------------
思い描く結果しか見ていないと祈っても、全てを負って心配は尽き
ない。そんな主を見失った迷子の羊でも、主は見ていてくださる。
主の声を聞き主と歩もう。


2018年08月21日(火)

「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイ26:39 



神は、どんな時にも、祈るように私たちを招いて下さっている。
「求めなさい。そうすれば与えられます」「捜しなさい。そうすれ
ば見つかります・・だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ
出し、たたく者には開かれる」と。

苦しみ、悲しみ、嘆き、怒り、憂いの時、常に主に祈るべきだ。主
は、私達が献げるどんな小さな祈りも、すべて受け止め、聞いて下
さっている。しかし、すべての祈りに耳を傾けていて下さるが、す
べてが願望通りに実現し、叶えられるのではない。ただただ主の御
心にかなった祈りだけが叶えられる。御心に合致していなければ叶
えられない。

人間の計画や考え行動に関係無く、主の御心だけが成る。人間から
のものが、主の御心に入り込む余地は無い。自分の計画と主の御心
が異なる時は、私達は信仰の目によってとらえる事だ。自分の計画
より、遙かに良い、遙かに高い神の計画がある。それを認め、自分
の願いをその神の計画に沿わせて、「祈りを変更」して行くことだ。

主がゲッセマネで「わたしの願うようにでなく、あなたのみこころ
のように」と切に祈られ、自分の願いを捨て、御心を受け入れて行
かれたように。自分の願いを、そのプロセスで、主のみ思いに沿わ
せて、軌道修正して行く時、主の御心が見えて来る。そして御心を
祈り求めるので、その祈りは必ず叶えられる。
-------------
祈る前は気づかなくても祈りの中で砕かれ心が耕される経験をする。
偽らない思いを主が聞いて下さったとの手応えだ。そこから御心へ
沿っていこうとの祈りに主は変えて下さる。


2018年08月20日(月)

「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:11   

 
                 
目の前に、あなたが計画していること、しようとしている事がある
だろうか。それは重要な計画だろうか。主の導きを確信しているだ
ろうか。自分の肉の思いが入っているだろうか。そんな時、それを、
一旦主に委ねることだ。主に明け渡して、献げてしまうのだ。実は
神のためではなく、自らの思い、肉の欲望によるものかも知れない。

自分の誉れのためかも知れない。もし、それが確かに神の御心なら、
聖められて返って来る。そして堅く揺るがないものとされる。もし
神から出た計画でなければ返って来ない。主は国々のはかりごとを
無効にし、国々の民の計画をむなしくされる」。そして、それなら
その方が良いのだ。

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」
神の御心だけが成就する。肉の計画は必ず立ち行かず、途中で挫折
してしまう。そこに確信が来ない。それは状況が変わる度に心は揺
れ動き、風に吹かれて揺れ動く海の大波のようだ。どんなに完璧に
計画したとしても、人の計画は立ち行かない。

しかし、神の御心との確信があれば、見えるところ何があろうと、
心の底に揺るがない平安がある。状況がどうなろうと、その平安は
堅く立つ。そして、どんなに不可能に見えても、主は、道無き所に
も道を造られる。その計画は成就する。今、しようとしている事を
神に委ねよう。
-------------
自分の思い描く結果に縛られていては祈っていても平安が無く、落
ち着かない。主のご計画を希望を持って待ち望もう。主を恐れ、主
を待ち望む者に主は目を注がれる。委ねていこう。


2018年08月19日(日)

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとま ことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」 詩篇115:1


ある人が、職場で、主を証ししたいと願った。しかし、気持ちはあ
るのだが、人前に出ると、気後れがしてどうしても話せない。臆病
になってしまい、勇気が出ない。人を恐れてしまう。又、どう話し
てよいかもわからない。どう切り出したら良いのだろう。証しした
い思いはあるのだが、出来ないまま日々が過ぎて行った。

主がこんなに愛して下さっているのに、申し訳ない。そんな悶々と
した思いを、あるがまま主に告げて、祈った。「ごめんなさい。勇
気が無くて言えません。人を恐れています。どう思われるかとも気
にしています。助けて下さい。言えるようにして下さい」と心にあ
る思いを率直に祈って行った。

帰宅しては祈り、そんな数日後だった。突然、職場のチーフに「○
○さんはクリスチャンなの?」と何気ない感じで聞かれた。驚いて
「はい、そうです」と瞬間に答えることができて、教会へのきっか
けや、今、喜びと平安が与えられていること、聖書や教会の事など、
自然に自由に話すことができた。近くにいた同僚たちも加わり、話
が盛り上がった。証しが与えられたのだった。

祈りの答えに心から感謝した。後日に、福音のトラクトを一人一人
に手渡せた。主の恵みは十分で、弱さの中に働かれることを見せら
れた。自分の力で出来たなら、自分を誇っていただろう。しかし、
心底、ただただ主に栄光を帰することができて、御名を崇め、心か
らの感謝に溢れた。

・・・・・・・・・・
無力は恵みであり、弱さの中にこそ主の力が働く。弱いからこそ、
出来ないからこそ、主にすがりつき、主に拠り頼み、必死に助けを
求める。主の力により、物事が成し遂げられて行く。その結果、自
分を誇ることなく、主に栄光を帰して行く。


2018年08月18日(土)

「悪いことをする者は光を憎み。その行ないが明るみに出されるこ とを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光の ほうに来る」ヨハネ3:20



人の古い性質は、やみを愛すると御言葉が言う。「人々は光よりも
やみを愛した」と。肉は、罪を憎むのではなく、罪を愛する。罪を
犯すと時、心の本当のところは、そうしたくないけれど、罪を犯す
のではなく、そうしたくて罪を犯している。肉は快楽を好む。誘惑
に乗って行ってしまうのは、誘惑を拒絶したくなく、本当はその誘
惑の中にいたい。罪の性質だ。

誘惑は心地良い。誘惑は必ず甘い。苦ければ誰も誘惑になど乗らな
い。そこから出たくない。古い生まれつきの性質だ。ぎまんに陥ら
ないために、「〜できない」のでなく「〜したくない」と認める事
が大切だ。光でなく、やみを愛する罪の性質が、自分の内にある事
を知っておく事は有益だ。

又、私達は自分は見える、わかっていると言って、光を拒む。自分
が見えない事を認めない。しかし光を拒むなら、暗闇の中で見える
のは、自分だけだ。自分しか見えない自己中心の世界の中で、絶対
に自分は正しく、間違っておらず、相手が悪いとしか見えない。

真理を行なうとは、自分の罪を正直に認める事だ。自分はやみを愛
する者であり、自分を正当化しては、人を裁き、周囲を責める者で
ある事を認めて行く。その時、その人は光にいるので、神が見える。

神が見えるので、更に自分の本当の姿がはっきりと見えて、悔い改
める事ができる。赦しを受け取り、新しくされる。今、自分はどん
な状況だろう。主の前で正直でいる時、光の中だ。

・・・・・・・・・・・
御霊を宿しているなら、弱さのゆえに罪は犯してしまうが、罪の内
を歩み続ける事ができない。その方が苦しいからだ。必ず御霊に従
って行く。「神から生まれたので、罪の内を歩み続けることができ
ない」、必ず光の方へ行き、悪から守られる。


2018年08月17日(金)

「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった」使徒16:9



アジアで宣教する事を聖霊に禁じられ、フルギヤ・ガラテヤの地方
を通った。ムシヤに面した所に来た時、ビテニヤの方に行こうとし
たが、それも聖霊に禁じられた。それでトロアスに下った時に、パ
ウロがマケドニア人の幻を見た。「マケドニヤに渡って来て、私た
ちを助けてください」と懇願したのだった。

それまでずっと祈り続けていた事だろう。環境を見て、進路を止め
られる事を通して別の道を探り、よく考え、判断した結果、結論を
下した。それは神がマケドニヤへ導いておられるという事だ。「私
たちはただちにマケドニヤに出かけることにした」と。「確信した
からである」とあり、それは明確な「確信」に至った。

「私たちは、確信した」とあるように、パウロと同行者も、皆で一
致して、平安が与えられた結論だ。私達もここで学ぶ事が出来る。
日常生活で、みこころを求める時に、環境、起こる出来事をよく見
て、祈りによる平安と御言葉により、判断する時に、はっきり確信
に導かれるという事だ。あなたは今、どの方向に進めば良いか迷っ
ているだろうか。

目の前の事態をどうしてよいかわからないでいるだろうか。神は必
ず「確信」を与え、行動できるようにして下さる。環境、祈りによ
る平安、御言葉、それらを総合し、よく考えて行く時に、正しい判
断に必ず導かれる。平安を持って「確信して」御心へと進んで行け
る。 
--------------
御心はどこにあるのか祈り心で御言葉を開こう。御言葉や環境に反
している自分の願いや計画が示されたら感謝だ。真に正しい判断は
一致がある。主に仰ぎ確信を持って歩みたい。


2018年08月16日(木)

「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」ルカ12:20



この世で、懸命に労し大成功を収め、財を築き、今後を左うちわで、
安泰に過ごそうとする農夫がいた。作物を貯える場所が無いほどの
大豊作をもたらす、この農夫は有能で、農業に長けていたであろう。
賢いはずが、しかし神は彼に「愚か者」と言われた。どこが愚かだ
ったのだろう。

まず、彼は神を信じない人であり、彼の人生に神は無かった。彼に
とっては、収穫作物も財も時間も才能も、すべて自分の力によるも
のであり、自分のものだった。だが、収穫を与えられたのは神だ。
天候や自然は神の支配であり、人間にはどうこう出来ない。働く力、
知恵を与えたのも神だ。

しかし神を認めることなく、又、有り余る財を得ても、貧しい人に
分け与える気は全く無かった。彼の喜びとし、いのちとするものは
財であり、物だった。倉に溢れる財に安心だと言ったが、大きな思
い違いをしていた。その財を手にしている自分自身、その命は神の
手に握られていた。地に幾ら莫大な富を貯えても、天への備えがな
ければ愚かだ。いのちはこの世の富にではなく、霊にある。

神の前に富むとは、まず神を信じ、財をなす力を与えられている神
を認め、神に喜ばれるように富を用いる事だ。それは与えられた時
も、才能も、労力も同じだ。任されている富、時間、才能、労力を
天に繋げて、天に宝を積むことが。愚かでない、賢い生き方だ。今、
あなたの心はどこにあるだろう。
-------------
自分を頼りに地上を歩んでいると財が有ればもっともっとと貪欲に
なり、無ければ思い煩う。いつも神を頼りに歩んでいると覚えたい。
神に与えられた恵みの中でこの地上を歩んでいる。


2018年08月15日(水)

「たとい法令にそむいても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」エステル4:16



ハマンの悪巧みにより、ユダヤ人絶滅の危機が臨んだ。ハマンが王
を巧く動かし、ユダヤ人根絶やしの承認印を得た。モルデカイは、
エステルから送られた宦官に、事情を告げ、エステルに伝えるよう
頼んだ。民のために、王のもとへ行き、王のあわれみを求めるよう
にと。だが、エステルとて、王に召されないで、王のもとへ行くな
ら死刑だ。

エステルは、民に三日三晩断食をして祈ってくれるよう頼んだ。エ
ステルはこの危機に黙っていれば、命は助かり地位も安泰だ。しか
し同胞を救うため、死ななければならないのなら、死ぬと、命をか
けて王に民の救いを求めた。王は、エステルのために動いてくれた。
そして結果的に、民族絶滅の危機を救う事になった。

エステルを通して学ぶ事が出来る。捕囚の民として異国で生まれた
のも、王妃になったのも、この時のためかも知れない。私達も生い
立ち、成育歴がどんなものであっても、今に至るまでの過程は神の
摂理であり、ご計画だ。今、どんなに思い通りでない場であっても、
困難な現実であっても、今の場所で神の御心があり、計画がある。

今、置かれた所であなたの使命がある。エステルは大変難しい状況
で、死を覚悟して、自分自身を明け渡した。その明け渡したエステ
ルを、主はユダヤ民族の救いのために用いられた。危急の事態が起
きた時、方策や解決手段を捜し回る。しかし方法ではなく、全く明
け渡した人を通して、神はみわざをされる。今の場で、神はあなた
を用いられる。
------------
今この場所で自分にしか出来ない事があるのでは、もしかしたら、
と思い当たる事はないだろうか。逃げずに祈りたい。今わからなく
ても神のご計画の中にいる。尋ねていこう。


2018年08月14日(火)

「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」詩篇143:5



その前の節に、「霊が衰え果ててしまい、心がこわばった」とある。
心が打ちひしがれ、折れてしまったと。私たちも心が折れることが
ある。困難や苦しみが許容量オーバーになった時、心が打ちひしが
れる。又、ストレスが次々と来て、対応出来ず、限界になってしま
うことがある。普段なら、対処して行ける事が心に余裕が無くなり、
心がネガティブな方に流されてしまう。

又、余裕が無い時は、心がイライラしてしまう。そんな時、ダビデ
は昔のことを思い出した。以前の恵みを数え、危機の際に成して下
さったみわざを覚え、沢山の祈りの答えを覚え、目の前の状況でな
く、主の恵みに心を向けた。主のなさった一つ一つの事を思い巡ら
し、御手のわざを、主がどのようなお方かを静かに考えた。

それは祈りとなって上って行った。「朝にあなたの恵みを聞かせ、
私に行くべき道を知らせてください」「あなたのみこころを行なう
ことを教えてください」。主が行くべき道を教えて下さるように。
そして、自分の思いや、自分の都合でなく、自分の思い通りの道で
なく、あなたのみこころを、行えるように助けて欲しいと。

辛い時、苦しい時、過去を振り返り、恵みを数えることは良いこと
だ。主に向き、感謝が湧き、たましいが引き上げられる。正しく主
に向くことができて、みこころの道へと導かれて行く。これまで成
されたみわざに思いを馳せよう。そして感謝を献げよう。心が変え
られて行く事に気づく。
------------
心がしおれている時、過去の失敗や過去の栄光が思い出されるが、
振り返るのは主がして下さった感謝な恵みの数々にしよう。そして
ご誠実な主の助けに信頼しよう。主の助けが必要だ。


2018年08月13日(月)

「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」ヨハネ13:2



ユダの心に主を売る思いを入れたサタンは、私たちの心にも様々な
思いを吹き込んで来る。サタンだと思わせないところが、最大の攻
撃だ。サタンは姿を隠すので、私たちは、自分が思っているとしか
思わない。だがサタンが思いを入れて来る。ある人は、職場で、部
署は違うが、同時入社の同僚がいた。親しくなりたいと、しばらく
経た頃、食事に誘った。

相手の都合の良い時にと、取り交わした。だが、一向に連絡が無い。
段々日も過ぎ、心に様々な思いがが湧き上がる。こちらは親しくな
りたいが、相手はそうでも無いのでは?もしや相手は自分の事を嫌
ってるのでは?避けられているのではないのか?何だか段々と疑心
暗鬼になって来る。疑いが出て来る。

そんな折り、それらの事を祈る中で、「サタン!」だと気づかされ
た。妄想のように、思いが次から次へと吹き込まれる。疑いを入れ、
不信感を入れて来る。その直後、相手から連絡があり、非常に忙し
い残業の日々が続いていて、やっと一段落したところと。相手は全
くの好意的であり、交流を喜んでくれていた。サタンの仕業であっ
た。

サタンは、無い事を有るかのように、事実かのように吹き込む。又、
有る事を無いことに、白を黒に、黒を白に、自由自在に欺いて来る。
サタンの識別を祈り、心をよく見張っていよう。妄想、ネガティブ
に傾く思いに気をつけよう。そこにサタンが絡んでいる。気づいた
時、サタンは立ち行けない。
------------
ふいに湧いてくる苦い思い、疑い、絶望感など、心をサタンに支配
されている事に気づくことが大切だ。聞き流せないなら主との交わ
りの中に差し出そう。祈りと御言葉でサタンを拒否しよう。


2018年08月12日(日)

「あなたのみことばは、わたしの足のともしび、わたしの道の光で す」 詩篇119:105



信仰生活の中で、突如の問題や、悩み、苦しみ、困難に出会う。心
は苦しく、悶々とし、真っ暗闇の中にいるように感じる。何がどう
なっているのか、わけがわからない状態だ。落ち込むばかりだ。ど
こに向かえば良いのか、どの方向に歩を進めば良いのかわからない。
方向も見えない。暗闇の中だ。

そんな時こそ「みことばは、私の足のともしび」だ。真っ暗な中を
歩むために何が必要なのか。光だ。光があれば、足元照らせて、歩
く事ができる。停電の真っ暗闇の中でも、ろうそくの光があれば、
歩ける。突然の試練の中で、「みことば」を真剣に求めよう。

ある人は次々と厳しい試練に襲われ、飲み込まれてしまいただ頭を
おおって、しゃがみ込んでいるばかりだった。そんな状態だが、集
会に出た時に、「祈りなさい」との御言葉が語られた。流されるま
まになっている自分の姿が見えて、まず祈るように示されましたと。
顔を上げて前を向いて歩み出した。

別の人は、突然の極めて厳しい困難の中で、御言葉を求めた。「わ
たしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え」と語られた。ま
ず祈る事を示された。「理解を越えた大いなる事を示す」と。示し
の通り祈りを積むと、思いとは全く違う進むべき道が示された。
確信持って、はっきりと指し示された道に進む事ができた。

暗闇の中で、どうしてよいか全くわからない状況の中で、御言葉を
求めよう。主は御言葉を与え、進むべき方向へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
真っ暗闇で、道が見えなくなる時「お言葉を与えて下さい」と求め
よう。御言葉は光なので、足元照らされ一歩前に進める。その光は
心の内も照らし出し、何が問題なのかを示し、指針を与え、平安へ
と導いてくれる。


2018年08月11日(土)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりして いるのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12


百合とバラが優劣を競ったらどうだろう。百合が好きな人、バラが
好きな人、それぞれの好みがあり、人それぞれの好きずきで、花に
優劣は無い。好みだ。車とバイクと自転車ならどうだろう。それぞ
れの特性があり、用途が違い、役割が違う。それぞれ独自の利点が
ある。優劣は無い。比較の対象にならない。

又、一流レストランと大衆食堂はどうだろう。それぞれの特性、利
点、良さがあり、比較にならない。一流レストランは素晴らしいが、
下町の食堂には、味わいがある。それぞれの持ち味が異なる。まし
てや神によって創られた私たち一人一人はどうだろう。一人一人が
ユニーク、唯一で、それぞれが全く違う。同じものは二つとなく、
代わりがきかない。かけがえがない。隣人と自分は全く異なる。異
なるので比較が出来ない。比較にならない。

それなのに比較によって、劣等感へと落ち込み、優越感へと高ぶり、
アップダウンを繰り返す。無益で的はずれだ。自分を量る手段が無
いので、どうしても目に見える人との差異で量る事になる。しかし
主は愚かで、知恵の無い事だと。

主が決められて、今の境遇と今の場に、私たち一人一人を置かれた。
主が決められたことだ。そこを認め、受け入れる時、世にはない御
霊の平安が臨む。そして満足できる。喜びと感謝が生まれる。そし
てその時、平安に、与えられた賜物を十分に用いて行ける。

・・・・・・・・・・・・
この世では、自分を量るのに横を見て、人との差異でしか量りよう
がない。そのため必ず比較に生きている。それしか生きようがない。
その価値観が根深い事に気づき、御霊に比較の度に気づかせて頂こ
う。信仰者は上を見ることができる。そこに救いがあり、解放があ
る。


2018年08月10日(金)

「そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた」ヨシュア6:20




今、あなたの前に、ヨルダン川が、エリコの城壁が、極めて困難な
問題が立ちはだかっているだろうか。目の前に、船も橋も無く、水
が岸一杯にとうとうと溢れるヨルダン川、目の前にそびえ立つ、難
攻不落のエリコの城壁が立ちはだかっているか。しかし神は解決へ
と導いて下さる。そのためにまず、身をきよめよと言われる。

御霊に心探って頂き、罪があれば悔い改める事が必要だ。頑固な自
分の意志、敵意、憎しみ、妬み、赦さない心、不従順・・御霊に示
されるなら、まず主に告白しよう。主と自分の間に妨げが無いよう
に、整えていただこう。主の示しの通りに、祭司たちが契約の箱を
かついで、足が水際に浸った時、水はせきをなして立ち、川はせき
止められた。

エリコ攻略のために不思議な方法を示された。町の回りを1度回り、
7日目は7度回り、ときの声を上げる。変わった方法だ。だが民が
その通りに、ただ従順に従った時、エリコの城壁は崩れ落ちた。奇
跡が起きた。いっさい人間の力ではなかった。主の力であり、主の
奇跡であった。私たちも、主の御声を聞き、示された事に、その通
りに従うことだ。

その時、あなたの前に立ちふさがっている、問題の城壁が崩れ落ち
るのを見る。今、御霊に心を探って頂こう。悔い改めるよう示され
ている罪は無いか。そして自分で動かず、肉で判断せず、まず御声
に耳を傾けよう。そして主が示された通りに従おう。その時、主が
働かれ、勝利を得る。
-------------
信じて従えば神の栄光を見ると頭ではわかっていても、無理だ、駄
目だと不信仰が先に立つ。その不信仰をまず悔い改めなければ、都
合の良い妥協策に乗ってしまう。身をきよめて導きを聞こう。


2018年08月09日(木)

「なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」使徒5:4




聖霊の力強い働きにより、教会は一つとされ、非常に強くされてい
た。信じた人々は、心と思いが一つであり、誰一人持ち物を自分の
ものと言わず、全部を共有にしていた。自発的、自由意志により財
産を共有にしていた。そう出来たのは、人の力や統制力ではなく、
「大きな恵みがこのすべての者の上にあった」ゆえであった。

恵みによる事であった。貧しい人々への愛があった。そんな中、バ
ルナバが畑を売って、その全代金を献げた。神の愛に動かされた自
発的行為だった。アナニヤとサッピラは、それが人々の賞賛の的に
なるのを目にした。そこにサタンの誘惑が来た。彼らも人々からの
賞賛が欲しくて、持ち物を売り、その一部を持って来た。

しかし全部の振りをした。それは神など無く、自分の栄誉のためだ
った。「妻も承知の上で」夫婦の合意のもと、一致して欺きの行為
をした。そこに聖霊が介入された。それは聖霊を欺いたのだと。聖
霊をだます行為であった。信仰に偽りが入ると、信仰は破船してし
まう。初代教会に、この「偽り」が入る事を阻止された。

賞賛を得たくて、人前に良い人の「振り」をし、嘘をつく事は、悪
魔からの誘惑であり、それは聖霊をだます事になる。「もともとあ
なたのものであり、売ってからもあなたの自由」と。彼らの問題は、
全部献げる事どうこうでなく、良く見られたくて、嘘をついた「偽
善」にあった。彼らの息が絶えた時、教会全体に非常な恐れが生じ
た。主を畏れ、聖なる神の権威が現された。
---------------
良く思われたいとの誘惑はいつも来るが、欺きの罪こそ恐れよう。
聖い神の前に正直な自分でいたい。神が憐れみ一歩ずつ導いてくだ
さる。


2018年08月08日(水)

「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。ー主の御告げー」ハガイ2:4



信仰生活で、神の「時」と、神の「みこころ」は、非常に大切な事
柄だ。すべての事に、美しい「神の時」がある。そして同時に、神
は、私達一人一人に、「みこころ」を持っておられる。宮の再建が
中断したままであったが、民は、まだ今でなくてもよいからと、都
合の良い言い訳をしていた。

しかし、その本心は、主のことが第一なのではなく、自分の事と自
分の家の事で忙しく、それが第一であり、主の宮の事まで、時間も
労力も無かった。手が回らなかったのだ。自分の好きな事は快適で
あり、心地良く、幾らでもできる。時間も労力も財も幾らでも割け
る。全く苦にならないのだ。

自分の好きな事、自己実現の生きがいや仕事や趣味・・一見合法的
で、悪い事ではなく、罪でないので、没頭していて全く気づかなか
ったりする。幾らでも労力を注げる。しかし、現に神の時が来てい
た。宮を建てよ、栄光を現わすと言われる。仕事に取りかかれと。
あなたに何かの神のみこころを示しておられるだろうか。自分の事
に夢中で、見ようとしていないだろうか。

中断したままの事があるだろうか。うすうす気づいていて、心で言
い訳し、弁解している事はどうだろう。今、示されている事がある
なら、その御心に取りかかろう。「山に登り、木を運んで来て、宮
を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わ
そう」と言われている。
--------------
神の時が示されているのに「自分の生活のために走り回っていた」
なら、それは期待したような成果はなかったとある。今せよと言わ
れる事を悟り、逃げずに従おう。


2018年08月07日(火)

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」ヨハネ14:1



私たちは信仰人生で、様々な事態に遭遇する。時に、思いもよらな
い不意の事態にでくわす。突然の経済的苦境、倒産だったり、リス
トラだったり、想定外の多額の出費だったり、又、病気やけがをす
る。事故に会ったりする。対人関係で苦しんだり、一生懸命努力し
勉強したのに、入学試験や入社試験に不合格だったりする。

そんな時、私達は「なぜ?」「どうして?」と戸惑う。主には与え
る事ができたのにと。しかし雀一羽さえ父のお許しなしには、地に
落ちることはない。頭の毛さえも、みな数えられていると。又、主
が捕らえられ時、主は「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも
多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができない
とでも思うのですか」と言われた。

神に不可能は一つもない。何でもお出来になる。その許しの中で、
起きている出来事だ。一見、負の事だが、教えようとされている事
があり、メッセージがある。学ばせたい事はあるが、あるいはヨブ
の場合のように、「理由」は明らかにされない事もある。信仰を用
いて、信仰の目で見るようにされる。

なぜだか、わからない事もある。理解不能な中でこそ、私達は神に
「信頼」を献げることができる。今、真っ暗なトンネルの中だろう
か。見えない中で、何がどうなっているのか、理解できないが、神
を「信頼」する事、これを神は喜ばれる。信じる事を求められてい
る。「信頼」をお献げしよう。
-----------
なぜ、どうしてと心は騒ぐが、その思いも神に差し出していこう。
全ての災いと思える事も御神を通って来ると深い信頼の中で、今の
必要な助けを祈ろう。


2018年08月06日(月)

「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」ヨシュア5:15



ある女性、若い時、海外宣教師として献げて主に仕えるように、導
かれていると強く感じていた。しかし、余りもも大きな事で、多大
な犠牲や、不安、恐れのためどうしても決心できず、一歩が踏み出
せずに、主の示しに従うことが出来なかった。やがて、結婚し、妻
として母親として、主婦として、家事と育児と、夫の親の介護に追
われる日々となった。

余りの忙しさに、心身疲れ果てていた。自分は人生を間違ったので
はないか。心にぬぐう事の出来ない後悔と挫折感、虚しさに襲われ
た。あの時、従えば良かったのに、従えなかったとがめと後悔で、
今の重い苦しい生活が罰のように感じられた。余りにも辛く苦しく
て、心注ぎ出して、心の内を何もかも吐き出して、御前に祈った。

その時に神は語って下さった。「何が良いことなのか」と。「主が、
求めておられるものは何か」という事を。それは、今、自分が与え
られている場で、へりくだって、誠実に、主と共に歩む事だと。今
の場所から出て、海外に行く事ではなく、今の場で、へりくだって、
主に、家族に仕えて行く事を、神は望み、喜ばれる事を。

心の不安や虚しさが消えて、主の平安に満たされ、心新たにされ、
今の主の御心の場に帰る事ができた。あなたにも同じ事を求めてお
られる。あれこれ思い煩うのでなく、今の場で、地に足をつけて、
誠実に主と共に歩む事だ。今いる場所は、神からの聖なる地だ。
--------------
しみじみと生きている事に感謝できるのは、物や場所ではなく、今
ここに主が恵みを注いでくださると信じて生きる事ではないか。今
置かれた地でどう生きるか、何が喜ばれるかと祈って行こう。


2018年08月05日(日)

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを 加えられるからである」ヘブル12:6



この世の宗教は、商売繁盛、家内安全、五穀豊穣・・だ。そのための
信心だ。だが、クリスチャンにとっても、願いが叶うことは嬉しい
事であり、思い通りになると心地よい。辛い、苦しい事は、誰しも
避けたいし、好きではない。思い通りの事態は大歓迎で、思い通り
でない事柄は受け入れ難い。願いが叶えられることは感謝だ。

しかし、思い通りでない事態により、私たちは練られ、鍛えられ、
成長させられる。思い通りにならない事により、砕かれて、練られ
て行く。振り返る時、どうにもならない絶体絶命の状況の中で、全
身で主を叫び求めたのではないか。主に叫び、拠りすがる事によっ
て一歩一歩と主を新たに知り、自分自身が変えられ、成長が与えら
れて来た。

言えることは、もし成長を望むなら、霊的成長したいなら、痛い事
を逃げるな、避けるな、だ。それらによって、霊の感覚が訓練され
る。苦しみの中で、あがき求める中で、御霊からのもの、そうでな
いサタンからの誘惑、肉の思い、これらのものがクリアにされて行
く。

今までわからなかったものが、鮮明に見えて来る。頭の理解でなく、
経験によて良い物と悪い物とを見分けることができるようにされる。
訓練だ。苦しみを通りながら、見分ける感覚が鍛えられ、研がれて
行く。もし霊的成長を願うなら、試練によってそれは培われる。懲
らしめは神の愛、まず受け止める事ができるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・
誰しも、痛い事、苦しい事からは逃げたいし、避けたい。しかし逃
げるならいつまでも幼子クリスチャンのままになってしまう。成長
が無い。「愛する子を懲らしめ」懲らしめは愛だと言っている。試
練により砕かれて、霊的成長して行ける。どんな時にも希望がある。


2018年08月04日(土)

「悪魔の策略に対して、立ち向かうことができるために、神のすべ ての武具を身に着けなさい」エペソ6:11


信仰生活で忘れてはならない、大事な事が、天に帰るまでは、戦い
だという事実だ。霊の戦いであり、日毎にサタンとの戦闘だ。まず
それを受け入れる事が大切だ。朝、起きた瞬間から、悪魔の火矢が
飛んで来る。どうだろう。「ああ、今日も○○のあの事、○○のこ
の事が・・」とずっしりと心に重くのしかかるだろうか。まず思い煩
いの火矢が飛んで来るだろうか。

又、主が全く失せて、今日一日のスケジュールが駆け巡り、心はこ
の世の事ですでに一杯だろうか。心に根深く持っている、妬みや憎
しみが、朝一から襲うだろうか。主を思い、御言葉に思いを向ける
前に、瞬発的にサタンが攻撃して来ている。「悪い者が放つ火矢」
だ。心配事、思い煩い、否定的な思いに心を持って行かれてしまう。

気づくだろうか。無意識にサタンからの思いに同意し、説得され、
取り込まれてしまう。落ち込んだり、気持ちがふさがれたり。目に
見えない霊の戦いであることをわきまえよう。自らの「思い」を見
張っていよう。朝一に、主を呼ぼう。又、様々な不安、恐れに、サ
タンに耳を貸す前に、先に主に呼ばわろう。

朝起きた瞬間から、誘惑が、攻撃が来ていることに心して、主に拠
りすがって行こう。サタンに対する識別力をまず祈り、主の守りを
祈ろう。祈りが無ければ、戦闘に、武器も盾も持たず、フラフラと
敵陣に向かって行くようなものだ。即、やられてしまう。朝の目覚
めに「主よ」と心を向けよう。

・・・・・・・・・・・・
目覚めた瞬間、「神様、おはようございます」から始めよう。瞬時
にサタンは来て、思い煩い、不安、悩み、今日のあれこれに目を向
けさせる。朝から気持ちがふさぎ、又目の前の事で一杯になってし
まう。朝にサタンの識別を祈ろう。攻撃を御霊が気づかせて下さる。


2018年08月03日(金)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17




大人同士でも、子供の喧嘩でも、一方が謝罪した時に、すぐに受け
入れてもらえない場合に、逆ギレして、攻撃的になる光景を見るこ
とがある。それは真に謝罪していないことを暴露している。それは
口先だけの謝罪であり、心では悪いと思っていない。だから攻撃、
非難に転じる。

もし真の謝罪であり、悔い改めなら、悔いくずおれて、自分は、到
底赦されるなどと思えないほどで、赦されるのが驚きだ。あのパリ
サイ人と取税人の祈りの箇所で、取税人は遠く離れて立ち、目を天
に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の
私をあわれんでください」と言った。心から悔いていた彼は義と認
められて帰った。

又、ダビデがバテシバとの姦淫とその夫ウリヤ殺害の罪を犯した時
に、ナタンの指摘により、「私は主に対して罪を犯した」と悔い改
めた。即「主もまた、あたなの罪を見過ごしてくださった」と罪の
赦しを受けた。そして「この事で、主の敵に大いに侮りの心を起こ
させたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」と言われた時に、ダ
ビデはへりくだって、その取り扱いを厳粛に受け入れた。

そこに不満も、反抗も無く、「主の宮に入り、礼拝した」。主にひ
れ伏し、御名を崇めた。神が喜ばれるいけには、砕かれたたましい
だ。真に砕かれた悔いた心、神は決してそれをさげすまれない。
-----------
ダビデのような大きな罪を犯して、どうして赦されたと信じること
ができるのか。その刈り取りも厳粛に受け止める姿に学べる。真実
な主に一切をお任せし、ただ主を崇めていくだけだ。


2018年08月02日(木)

「その人は兄のところに来て『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は答えて『行きます。おとうさん』と言ったが、行かなかった」マタイ21:28 

 

ある父親に息子が二人いた。父親は兄の方に「ぶどう園に行って働
いてくれ」と言った。兄は「行きます」と言ったが、行かなかった。
弟にも同じことを言った。弟は「行きたくない」と言ったがが、あ
とで悪かったと思い、出かけて行った。父親に喜ばれたのは、口先
だけで「はい」と言い、実行しない兄でなく、実行した弟の方だっ
た。

兄は祭司長や律法学者であり、弟は取税人や遊女の罪人だった。私
たちもどうだろう。救われているのだが、兄のように、心の奥に従
おうとしない頑なな部分があるだろうか。固い固い自我が、ここは
都合悪いので触れて欲しくない、ここは変わりたくないので、そっ
としておいて欲しい、肉のままでいたい、明け渡したくない、むし
ろ肉を楽しんでいたい、自分の都合に合わせて欲しい・・。

「はい、従います」の口先の言葉でなく、実際に従うことが大切だ。
取税人や遊女たちは、神に従わず、罪を犯していた。しかし、悔い
改めて、主を信じ、主に従った。どうであろうと、自分の罪を認め、
悔い改め、主に拠り頼む者を、主は救い、罪を赦して下さる。「頑
なな者です。どうにも出来ないので助けて下さい」と祈ることがで
きる。すると御霊の助けが望む。「きょう」、主の
喜ばれる選択ができるように祈ろう。「きょう」従うことを助けて
下さる。
-----------
父親の言葉の重みを認め、素直に聞いているから「行きたくない」
と言えるのではないか。真実な父との交わりの中にいよう。出来な
い、したくないの偽らない祈りが力だ。


2018年08月01日(水)

「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり・・人のうちにあるものを知っておられたので・・」ヨハネ2:24




大勢の人が主の奇跡によって、主を信じたが、主は彼らにご自身をお
任せにならなかった。任せるとは、信頼する、信じる、心を与えると
いう意味だ。カナで最初の奇跡を行なわれ、次々と奇跡をされた。そ
れらを見た人々は主を信じた。しかし、主はしるしを見て信じた人々
にご自 分を委ねられなかった。主はよく人の心をご存じであった。

しるしにより心動かされ信じても、その感動は一時的なものに過ぎず、
感情はいつか必ず冷める。しるしだけを求めるなら、試練の時に立ち
行かない。必ずつまずき、離れ去る。軸が自分にあり、自分が中心な
ので、自分のための信仰で、自分に得るものが無ければ離れる。

主は奇跡をされた時、必ず御言葉によって行なわれた。主の口から語
られる一つ一つの言葉によって、みわざが成された。しかし人々は御
言葉より、目に見える奇跡の方に心奪われ、夢中になる。だが奇跡を
見て信じた人々は、皆、去ってしまった。出エジプトを経験したイス
ラエルはあれほどの、主の超自然のわざを見たのに、すぐ荒野でつぶ
やいた。

荒野でも奇跡を見続けたにかかわらず、結局カナに入れず、荒野で不
信仰のゆえに滅んでしまった。主を信じるとは、主が語られた御言葉
を信じることだ。御霊により語られた言葉を信じ受け入れ、そして御
言葉に従う時、信仰が確かなものとされて行く。従うとは、自己中心
な自我を捨て、自分を、自分の思いを捨てることだ。
---------
奇跡的に物事が動くとすぐにこれが御心かと思う。それ程、人の思い
はしるしを求めてしまう。御言葉が伴わない奇跡は主からのものでは
ないと、見たいように見てしまう思いに気をつけていたい。