2018年09月30日(日)

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。 この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される」 Tサムエル17:47


様々な信仰の勇者たちが、信仰による戦いを戦ったが、その方法は
人間的に見るなら、ほとんど意味をなさないような方法だった。民
と共に、出エジプトを果たしたモーセは、エジプト軍の追跡に迫ら
れ、前は、断崖絶壁の紅海で、前進も後退も出来ない絶対絶命の状
況に陥った。その時、主はモーセに、何とイスラエルの人々に前進
するよう言えと、命じられた。

すると紅海が分かれ道が出来た。又、難攻不落のエリコの城壁を前
に、主はヨシュアに町の周りを回るよう命じられた。6日間町の周
囲を1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあ
げよと。その通りにすると何と城壁は崩れ落ちた。

又、ダビデは、無敵の巨人ゴリアテに向かい、剣や槍でなく、石投
げで、巨人を倒した。彼らが戦いに勝利したのは、ただ神の示され
た方法に従ったゆえであった。人間の思いでは、目の前の状況は不
可能であり、そんな事をして何になるとの不可思議な方法だった。
しかし、主の命令通りに従った時に、神の偉大な奇跡が現わされた。

「この戦いは主の戦い」「主が戦われる」まさに人間ではなく、主
の戦いであった。私たちも時々理解を超えることがある。どう見て
も不可能に見える事もある。しかし主を信じて従う時、主の栄光を
見せられる。目の前の一歩一歩を御霊の導き、方法に従う事が大切
だ。御霊は確実に導かれる。とにかく神の方法に従う時、主が戦っ
て下さる。

・・・・・・・・・・・
どう見てもどうにもならない、不可能に見える状況がある。落ち込
みそうになるがそうではなく、その時こそ主の戦いだ。主が戦って
下さる。必要な力は与えて下さる。行き詰まりの中で、主を信じ、
示された通りに従おう。


2018年09月29日(土)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かな ものにするのは主である」箴言16:9 


35階のビルの入口に立って、地上からビルを仰ぎ見る時、そのビル
と近隣が見えるだけだ。しかし、ビルの最上階から景色を見るなら
どうだろう。遙か彼方の地平線まで見える。遠方の景色まですべて
が展望できる。有限な私たちは地上で見ているごとく、ほんの少し
の目先の情報でしか物事を考えられない。

様々な計画を立てるにしても、近視眼的に、目の前の事しか見えて
いない。遙か先の事は見えないし、明日の事すらわからない。しか
し永遠であり、全知であられる主はどうだろう。明日も、私たちの
将来も、行く道も何もかも見通されていて、完璧にご存じだ。私た
ちよりも遙か先を見た上で、今の状況を導き、配慮して下さってい
る。

自分はこの考えは絶対だ、この計画は絶対だと思う。自分軸で見る
ので、そう思えてしまう。そして、自分に関わる状況を見つつ、最
高の結果を期待し、自らが立てた計画通りに事が運ぶよう願う。だ
がその通りでなく、思い通りにならないと、焦り、イラ立ち、不安
になり思い煩う。ところが、遙かに高い主の前では、自分の計画は
絶対ではないかも知れない、そのへりくだりが必要だ。

しばしば主のみ思いと自分の思いに、大きな隔たりがある。主は私
たちの事も、将来も、周囲の事をも配慮し、最善をして下さる。そ
して全主権を持たれる主は、愛なる主だ。思い通りでない事態を、
その愛なる方が最善へと導いておられる事を信じよう。

・・・・・・・・・・・・
自分の思いと、主のみ思いがある。肉は強く、これは絶対に良いと
自分で思う事も、しばしば主の御心とは違っている。しかし思い通
りにならなくとも、自分自身を委ね、主の最善の御心が成るとの信
仰に立つ時、平安にされる。そして主の御心が成る。


2018年09月28日(金)

「とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」ヘブル9:14



信仰生活に「良心」が非常に大切だが、良心とはどんなものだろう。
よく、船舶や航空機の方位や進路を測る、羅針盤に例えられる。羅
針盤は正しい方向を示すので、自分の言葉や行ないを羅針盤に照ら
すと、方向違いを教えてくれる。

しかし、その羅針盤自体が正常でなければ、どうだろう。羅針盤が
狂っていたなら、判断も何もかもが狂って来る。羅針盤に故障があ
るように、良心も絶対的なものでなく、教育や環境で培われた価値
観で違って来る。正しいと確信して自爆テロができるし、パウロも
神のためと信じてクリスチャンを迫害していた。

私たちは心に血の注ぎを受けているので、御霊は御言葉により、平
安の有無、促しにより正しく軌道修正して下さる。御霊の促しによ
く聞き従おう。無視し続けるなら良心が麻痺してしまう。良心が麻
痺するなら、どうにもならない。破船になってしまう。どんな立派
な船でも、船に穴が開き水漏れがあると必ず沈没するように、良心
にも穴があり漏れるなら、信仰が機能しなくなる。

心にとがめがある時、確信持って神を信じて行く事ができない。罪
責感がある時、信仰に立てない。罪は、一つ一つ御前に悔い改める
事だ。神は主の血潮により、赦して下さり、良心のとがめはきれい
に消し去られる。その結果平安が臨む。御霊の導きにアンテナを張
り、従おう。その時、正しい良心が保たれて行く。
---------------
主の十字架を仰ぐ時に初めて曖昧な良心が平安になる。善行で外側
を取り繕うのではなく、罪を主に差し出せば十字架によって赦され
ている。何という恵みと希望だろう。


2018年09月27日(木)

「私のことばは、その時が来れば実現します」ルカ1:20



信仰生活を歩み始めると、信仰人生、自分の思い通りにはならない、
という事が段々わかってくる。神の思いと自分の思いが違うのだ。
自分の思いとしては、これが最善!と思うが、そのように事は運ば
ない。神のみ思いは違う。遙かに高くて深い。そして振り返る時、
自分の思い通りにならなくて良かった!と必ず思える。

あのまま進んでいたなら恐るべき高慢に陥っていたと。しかし、今、
目の前の事が思い通りにならないと同じように焦りや不安で一杯に
なる。神の方法と神の時がある事を覚えよう。絶妙のタイミングで、
神は事をされる。神の定めた「時」がある。神の時でなければ、事
は全く動かない。微動だにしない。

しかし神の時が来ると、突然に事は動き出す。人の手にはいっさい
よらない。人は先が全く見えない。目先の事しかわからない。神は
何もかも見通しておられる。その神を信頼しよう。焦らずに待とう。
又、人は自己中心というメガネをかけて見るので、物事が歪んで見
える。

自分中心にしか見えないので、最悪にしか見えないが、神の素晴ら
しいご計画の中だ。事態も状況も何もかもが、ぐちゃぐちゃにしか
見えないが、実は最善の計画が着々と進行している。ご計画がある。
ヤコブは「私も失う時には失うのだ」とヨセフもシメオンもベニヤ
ミンも失ったかに見えた。

しかし実際は何も失っておらず、ヨセフと再会、飢饉から一族は命
を救われ、家族皆で暮らせるという最高の幸せが伏せられていた。
最善をして下さる神を信じて、神の時を待とう。
--------------
神の時を逃さず悟れるよう主を通して問題を見ていこう。人の手で
通そうとすると混乱ばかりで醜いが、神の時は全てが美しい。神の
時を信じて待ち望もう。


2018年09月26日(水)

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」ヨハネ6:63



伝道していて、時々こんな人々に出会う。それは、妬みや憎しみ敵
対心が心にあるが、それは外に出さない。相手にも向けないし、心
の内で抑えているのだから、自分はむしろ良い人間ではないかと。
これはクリスチャンになってからもあるかも知れない。様々な罪の
思いを心に抑え込む。

憎しみを外には出さず、抑えているので、対人関係のトラブルは生
じない。そのため、いつしか自分は良い人間だと錯覚してしまう。
しかし出さないだけで、内側では憎しみ妬みの罪が渦巻いている。
そうしていて欺瞞に気づかない。そうなると、御霊の促しや語りか
けがわからなくなって行く。

信仰人生は御霊の気づきによって守られ、保たれ、成長して行ける。
それが無いなら最も恐ろしい状態だ。又、信仰者が悪い思いを持っ
てはいけないと、ひたすら抑える。抑え込むが、それは無くなった
わけでなく、そこにあるので、こっちから、あっちから頭を出す。
それをもぐら叩きのように、更に抑え込む。すると許容量越えた時
に爆発する。

しかし押し込むのではなく、無い振りをするのでもなく、言い訳す
るのでなく、その思いを正直に認め、そのつど主に明け渡して行く
事だ。それを繰り返して行く。そうする時、常に主の御前に正直で
おれて、且つ主が変えて行って下さる。そしてあるがまま受け入れ
られている主の愛を実感として、知って行く。

「あくまでもそれを続けなさい」続けて行くことだ。自分の力でな
く御霊によって、変えられて行っている自分を発見する。
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落ち込み、反省しまた肉で頑張る、この悪循環に気づこう。気づけ
たら感謝だ。主に渡して行こう。重圧から解放され、主の御霊の喜
びに満たされてくる。


2018年09月25日(火)

「『先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか』・・イエスは起き上がって、風をしかりつけ・・すると風はやみ、大なぎになった」マルコ4:38



私たちの窮状は、神のチャンスだ。絶体絶命の中で、実は、生ける
主に真に出会う。主は、常に私たちにとっての最善をして下さる。
しかし、私たちには、こうなって欲しい、ああなって欲しいと、自
分の思いが強くあるので、それが思い通りにならないと、イライラ
し、思い煩い、落ち込んでしまう。

先が見えず、目の前も真っ暗になってしまう。しかし、神は独り子
を与えて下さるほどに愛して下さり、最善以下のことはされないと、
信じているなら、落ち込みから守られる。ある人が、経済的苦境や
苦しい対人関係、様々な苦しみが重なり、許容量オーバーになって
しまった。

もう疲れ果ててしまい、実際、何もかもを投げ出そうとした時に、
「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうしてすべ
てのものを恵んで下さらないことがありましょう」の御言葉が臨み、
迫って来た。御言葉がどこまでも追いかけて来て、我に返る事が出
来た。主の愛に阻止されて、立ち返れた。

四方八方すべて塞がり、何もかもお手上げ状態で、窮し、行き詰ま
る中で、そこで主の愛に触れ、心は御霊の喜びに溢れた。心が主の
平安で一杯になって、問題が問題でなってしまった。そして目の前
の経済的必要は、主によりことごとく満たされた。対人関係は和解
に導かれた。

主のみわざを拝した。どんな窮状も主の御手とご計画の中だ。御心
なら状況を変えられるし、又、そうでなければ、私たちの心を変え
て、乗り越えさせて下さる。
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自分の解決方や計画が先立つときは、祈っても不安が消えない。神
のご計画は今はわからなくても恐れず問題を御手に委ねられるよう
祈りを変えてみよう。


2018年09月24日(月)

「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは」Uサムエル12:21



ダビデの子を、バテシバが産んだが、ダビデの罪が原因で死んでし
まった。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯したまま、王の立場であり、
隠ぺいしていたが、ナタンの指摘により、罪を認め、悔い改めた。
主はそれらの罪を赦して下さった。

しかし「あなたはこの事によって、主の敵に大いに侮りの心を起
こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」と言われた。
そして主が打たれたので、子供は病気になった。するとダビデは断
食をして、全身全霊で子供のために切なる祈りを献げた。しかしそ
の子は死んでしまった。

家来達はダビデを余りにも心配して、子供の死を伝えられなかった
ほどだ。それほどのダビデが、息子の死を知った時、起きあがり、
身を整えて、神を礼拝したのだ。ダビデの驚くべき信仰の姿勢だ。
自分はこれだけ祈ったのに、なぜ神は聞かれないのかと、不平不満、
怒りで一杯になったり、又、失望落胆に落ち込む事もできた。

しかしダビデはそうしなかった。どんなにか辛く、悲しく、苦しく、
心痛んだ事だろう。しかし、力を尽くして祈った結果、こうなった
時、これが神の御心である事を受け入れた。そして神を礼拝した。
ダビデは立派だった。

神の聖なる御心を受け入れる事は、時に裂かれるような痛みを伴う。
しかし、神は聖い方であられ、同時に愛なる方だ。必ず神のなさる
事は最善だ。ダビデはそれを信じていた。今、受け取るべき御心が
あれば、受け入れられるように、祈ろう。
------------
罪の刈り取りもしっかりと神からのものと受け取るから、辛くても
不平不満がない。刈り取りを突然のことのように失望するのではな
く、神の赦しを信じ、神に全てを委ねていよう。


2018年09月23日(日)

「すると、その人はイエスに言った『先生。私はそのようなことを みな、小さい時から守っております』」マルコ10:20


この人は、主に永遠の命を受けるためには、「何をしたらよいか」
と尋ねた。彼の心を見通しておられた主は、彼を導くために「戒め
を守るように」と言われた。すると彼は「戒めは、小さい時から守
っている」と答えた。彼は、永遠の命についての質問ではなく、自
分は正しく生きている立派な者で、受け入れられる者との自負があ
ったかも知れない。

彼は、自分は律法を守っていると思っていた。家柄も良く、小さい
時から律法を学び、守って生きて来た。主から、あなたは素晴らし
いと言ってもらえるものと思ったかも知れない。しかし「義人はい
ない。一人もいない」とあるように、律法を守れる人など一人もい
ない。だからこそ主がおられる。

主は、それを教えたくて、「持ち物をみな売り払い、貧しい人たち
に与えよ」と言われた。だが、彼にはそれが出来なかった。財産に
依存していて、彼が愛していたのは財産であり、宝としていたのは、
神ではなく、富であった。主は、彼の内側を指し示して、正しい方
向へ導こうとされたが、彼は主の前から去ってしまった。財産なら
献げたなら、また与えて下さったであろうに。

主は、私たちの気づいていない罪を指し示して下さる。悔い改めが
与えられ、その罪は完全に赦される。主のもとを去るのでなく、
「自分には出来ません。助けて下さい」と、どんな時にも、あるが
ままを主に祈る事ができる。主はその祈りに答えて、助けて下さっ
て、更に主を深く知る者へと変えて行って下さる。

・・・・・・・・・・・・・
主は「出来ません。富に執着し、富を愛する者です。助けて下さ
い」と主にあるがままを申し上げ、助けを求める者を喜ばれ、祈り
に答えて下さる。主のもとを去るのでなく「出来ません」と主に近
づき、だからこそ更に主を求めよう。


2018年09月22日(土)

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって 来るが、うちは貪欲な狼です」マタイ7:15


主は「さばくな」と言われると同時に、「見分けよ」と言われる。
裁くことと、見分ける事は別の事だ。目の前の人物や事柄を識別し、
評価し、判断することは大切だ。「聖なるものを犬に与えるな。豚
の前に真珠を投げるな。それを足で踏みにじり、向かって来て、引
き裂く」と。犬や豚をきちんと「見分け」なければ、どうして主の
命令に従えるだろう。

識別力を行使しなければ、「聖なるものを与えるな」と命令されて
いる、犬や豚を判断することは不可能だ。又「霊だからといってみ
な信じてはならない」と言われている。世の終わりには、多くの偽
預言者、偽クリスチャンが出て来る。何もかも受け入れて、信じて
はならないと。この世にあっては「蛇のようにさとく、鳩のように
すなおで」あれと。

では「さばき」はどうだろう。人を「さばいて」いる時は、自分の
内に密かな優越感がある。上に立って、相手を見下している。そし
て自分は義であり善だ。又、相手の非や足らなさ、失敗を見た時に
快感があるなら、それは肉であり、さばきだ。それは「さばいては
いけません」を犯している罪だ。肉は、妬みや敵対心のある相手の
失敗を喜ぶものだ。これは生まれつきの肉の性質だ。罪の性質でも
ある。

又、肉は批判が大好きだ。自分の内に誰かに対するさばきがあるな
ら、悔い改めよう。そして、さばきと見分ける事を区別して、光の
御使いに偽装して来る偽預言者、偽クリスチャンがいると御言葉が
言っているので、見分ける事ができるよう祈り求めよう。「さば
き」と「識別」を混同してはならない。

・・・・・・・・・・・・
はっきりとサタンがいるし、偽教師がいて、偽者がいると御言葉が
言っている。識別せよと言われている。自分自身は絶えず御霊の光
に照らされて、罪を悔い改めて、悔い改めて歩もう。そして識別力
が与えられるよう、祈っていよう。


2018年09月21日(金)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20



エデンの園で、アダムとエバは、食べるなと命令されていた、善悪
の知識の木の実を食べたが、それにより、彼らには自意識が生じた。
それ以来、たえず自分が自分を見て、量り、裁くようになった。人
がどう見ているかを、人の目でなく、自分の目が量る。結局人が恐
れているのは、人の目ではなく、実は自分の目だ。

自分が、自分の一番厳しい審判者だ。自分が自分を追いつめ、縛る
ようになった。そのため絶えず恐れと不安が生じ、恐れる者となっ
た。自分が自分を裁く。自分の中に敵をかかえていて、自分を一番
傷つけているのは、相手や周囲でなく、実は自分自身だ。これがア
ダムの罪の結果だった。どうやっても自分から逃れられない。

自我、自己愛、自己中心、自己防衛、自己憐憫どこまで行っても自
分、自分だ。ここから救い出すために主キリストが来て下さった。
この罪を引き受け、荒野で蛇が上げられたように、呪われた姿で十
字架にかかられた。主を信じ、罪を悔い改める時、過去のすべての
罪が完全に赦される。無罪放免とされる。十字架の贖いにより、す
べての罪の片がつけられている。

そしてそれと同時に、自分自身も主が十字架で死なれた時に、一緒
に十字架につけられた。古い人が十字架で死んだ。自分はすでに死
んでいる。ここに救いがある。このどうにもならない自我が釘付け
にされた。日々この信仰に立って歩んで行く時に、キリストが内に
生きていて下さることを体験して行ける。
-------------
拠りかかれると思っている自分は、既に十字架で死んだ。自己満足
のために労している一つ一つに気づき十字架を仰ごう。主の十字架
によって、新しくされた喜びを味わって歩もう。


2018年09月20日(木)

「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」ローマ4:20



アブラハムは75歳の時に神の示しに従い、カランを出てカナンの地
に移り住んだ。しかし、子が無く、しもべのエリエゼルを相続人に
と考えていた。その時に、神により、「その者が継いではならない。
あなた自身から生まれ出る者が、跡取りとなる」と言われ、外に連
れ出され、満天の星を見せらた。

そして「あなたの子孫はこのようになる」と告げられた。アブラハ
ムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。その後、子供は
尚も生まれず、サラの提案のもと、肉の思いと行動により、奴隷ハ
ガルによりイシマエルを得た。アブラハムの失敗であった。86歳で
あった。その後も、約束はあっても、13年間、状況的には何一つ動
かず、微動だにせず、全く何も見えない歳月が続いた。

厳しい忍耐の時であった。13年経た時、99歳の時に、主が彼に再び
現われ、子孫を与えると語られた。そして、100歳になって、とうと
う実子であるイサクを得た。アブラハムは常識的には不可能である、
厳しい状況の中で、神ご自身を信じた。望みえない時に望みを抱い
て信じた。見えたなら信仰は必要ない。見えないものを信じるから
信仰だ。

それは厳しい状況を見るのでなく、約束して下さった神を見続ける
信仰だった。アブラハムには数々の失敗があった。しかし、信仰の
父と言われ、神はその「信仰」を喜ばれた。あなたも今、厳しい状
況だろうか。「胎の死んでいることを認めても」、状況的に不可能
と思えても、神の約束の言葉に立とう。信仰に立てるよう、助けを
求めて祈ろう。
-------------
試練に直面すると、試練ばかり見てしまう弱さがあるが、それでも
約束してくださる神は真実な方だと言える経験を重ねたい。信じら
れない不信仰も祈りに変えよう。必ず神が信仰に立たせて下さる。


2018年09月19日(水)

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」詩篇119:130



ある人が信仰ゆえに、家族の迫害に会い、教会へも行かせてもらえ
ず、密かに教会の人々と連絡を取り、一人で信仰を守っていた。目
の前の状況は、実に辛く、苦しい。反対する周囲からの、深く傷つ
く言動、態度、置かれている状況を見ると、失望落胆するような事
柄ばかりだ。心が沈んでしまい、暗く重くなってしまう。

これから先もどうなるのだろうと思うと、真っ暗になり、思い煩い
にどっと襲われそうになる。しかしそんな中で、聖書を開いて、御
言葉に向かう時、まさに主がすぐそばにおられるかのように、生き
た言葉となって、ビンビン心に響き、力が与えられた。御言葉によ
り、励まされ、新たにされた。まるで闇の中にある光のようだった。

神の言葉は霊であり、いのちが宿っている。心が引き上げられる。
状況は何も変わらず、同じ環境なのに、心に不思議な平安が与えら
れる。感謝が湧き、主がおられるから大丈夫だと、先にも希望が持
てる。御言葉によって変えられる。苦しい状況の中であっても、確
信持って、前に歩んで行ける。神のみわざだ。御心なら状況を変え
て下さる。

しかし、しばしば経験するのは、状況は変わらないが、私たちの心
を変えられる事だ。平安を下さるので、問題が問題で無くなってし
まう。あなたも今悩みの中だろうか。状況からも、自分からも目を
離し、主に向き、御言葉に向かおう。主は御言葉を与えて、心慰め
励まし、新たにして下さる。
--------------
御言葉を開くと、それまで支配されていた状況やそれに呼応してい
る自分がすっと消えて、真に頼るべき主に帰れる。平安が戻ってく
るのを経験する。御言葉に向かおう。


2018年09月18日(火)

「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる・・」創世記4:6



カインとアベルがそれぞれ献げ物をしたが、カインの献げ物は退け
られ、アベルの献げ物は受け入れられた。カインは自分が受け入れ
られなかった事で、怒りに震えた。しかし神は正しく行なっていな
いと指摘された。そこで悔い改めて、神に教えてもらい、献げ直せ
ばよかった。

だが、正しい献げ物をしたアベルによって、自らの罪が明らかにな
った事で、カインはアベルに対する妬みと怒りが燃え上がった。そ
の結果、カインはアベル殺害に至ってしまった。アベルの行ないは
正しく、自分の行ないは悪かったからだ。義人は迫害を受ける。義
人はそこにいるだけで、他人の罪を明らかにしてしまうからだ。

悪口ざんまいの職場で、一人だけ悪口を言わないクリスチャンは憎
まれる事がある。悪口を言わない事で、周囲の罪をあらわにするか
らだ。「世のものであったら、世は自分のもを愛した。しかし世の
ものでなく、世から選び出されたので、世はあなたがたを憎む」と。

噂話や悪口に同調しない人を、世は快く思わない。ダビデは、常に
主に信頼し、主の御心を歩んで行った。ダビデが真っ直ぐに主に従
えば従うほど、サウルの不従順と罪があらわになった。サウルは、
ダビデを見る目が疑いと嫉妬に歪み、ダビデを抹殺しようとする。

主に従う人によって、自分の罪があらわになる。だから憎しみが湧
く。時に信仰ゆえの苦しみがあるが、それは義のためである事を覚
えていよう。主は見ておられ、主からの豊かな報いがある。
--------------
主の御霊を頂いているので私達は世の人とと同調できない。生き辛
さを感じることもあるが、霊の眼は見るべき主を見ていこう。罪を
赦し、救うことのできる主を見よう。


2018年09月17日(月)

「どうか、今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください」Tサムエル8:5



イスラエルの民が、他国の様子を見て、自分たちにも王を求めた。
それは、神のみこころに反する事であった。しかし主は、サムエル
に、民の声を聞き入れよと言われた。それはサムエルを退けたので
はなく、神を退けたのだと。民は自分たちの思いで、王を求めて、
神に逆らい、神を退けたのだ。

神はサムエルに彼らに厳しく警告し、王の権利を告げよと言われた。
しかし、それを聞いても、民はどうしても王が欲しいと言い張った。
すると神は、王を立てよと言われた。しばしば、自分が肉で計画し
た事がうまく行き、画策通りになる時に、これは神が成功させて下
さったと勘違いする。神が認めて下さったのだと思い込もうとする
が、しかしそうではない。

それは大きな誤解だ。神がどうしても行くという私たちに、自分勝
手な道を行く事を許されただけだ。どれだけ止めても、忠告しても
聞かない頑固な私たちに、思う道を行かせられる。そして、自分が
した事の結果を刈り取らせられる。苦い、辛い、苦しい刈り取りに
なる。その刈り取りを訓練とし、学ばせられる。

自我を通すことが、いかに愚かであるかを身をもって知る。蒔いた
ものは必ず刈り取る。例外はない。肉のために蒔くと、必ず苦しい
刈り取りがある。神は侮られる方ではない。今、自分の思いの道に
行こうとしているなら、ストップし、方向転換して御霊に従おう。
御霊に蒔くなら、大きな祝福を刈り取る。
-------------
道は開いても、御心の道ではない道もある。強い思い込みはないだ
ろうか。いつまでも混乱が続き、祝福が見当たらないなら立ち止ま
って、もう一度初めから祈ってみよう。


2018年09月16日(日)

「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにす る。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、 彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためであ る」出エジプト16:4


神は、出エジプトを果たし、荒野に出た民たちを、40年間養われた。
天からマナを降らせられ、毎日1日分だけを集めるように言われた。
その日の分だけだ。6日目だけは、2倍集めたるようにと。7日目
は安息日であり、集める事ができないからだ。しかしある人々は、
主の命令に従わず、欲張って翌日分まで取り込んだが、それは虫が
わき、腐ってしまった。

又、ある人々は、6日目に2倍集めず、安息日に取りに出た。しか
し何も見つからなかった。主はこの事を通して、「教えに従って歩
むかどうかを試みられ」た。荒野の40年の間、1日たりともマナの
無い日はなく、主が民を愛し養われた。

又、これは日ごとの糧を表わしている。主は、その日その日の必要
を必ず与えて下さる。明日の心配はいっさい無用だ。明日の糧を求
めよとは言っていない。今日の糧だ。明日のことは明日が心配する。
今日1日の糧があれば充分だ。明日の心配は必要無い。能天気でよ
いという意味ではなく、主が心配していて下さるから不要なのだ。

「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神が・・心配
してくださるからです」の通りだ。今日、糧が与えられている事を
精一杯感謝して、明日は、主にお任せしよう。主はその人を、どん
な時も平安と喜びの中に守って下さる。

・・・・・・・・・・・・・
明日の心配が無用なのは、主が明日の必要を備えていて下さるから
だ。だから明日を思い煩わずに、今日の御心を、今日なすべき事を
精一杯行なって行けるように。毎日一日分、主を信頼して生きて行
くことを学ばせて下さっている。


2018年09月15日(土)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になる ことを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17


信仰生活で大切な事は、自分の思いを捨てて、主のお心を求めて歩
む事だ。その主の御心を求める時に「どうか、御心を示して下さ
い」と一言祈り、聖書をパッと開いて、偶然、開いた箇所の、パッ
と目についた御言葉を取り「示された!」と言う人がいる。が、そ
れは危険だ。聖書は占いの書ではない。すべての御言葉には前後
関係があり、文脈があるので、前後関係を無視して、1節だけを取
り出すのは、間違った方向に行ってしまう。

時に、神の導きと正反対へ向かう。又、人は、強い願望や思いがあ
ると、御言葉を、自分の都合のよいように、読み込んでしまう。ど
うしても、人は、肉の思いがあり、自分に良いように、読みたいも
のなのだ。そうすると御心を誤ってしまう。御心を求める時は、よ
くよく祈ることがまず大切だ。主と親しく交わり、まず悔い改める
べき事があれば悔い改め、主との関係を正しくされ、素直に率直に
祈って行けばよい。

そして、日常生活の全般に耳を澄まし、アンテナを張り、御言葉を
待つことだ。礼拝メッセージから、デボーションから、信仰書から、
信仰者の交わりの中から、様々なものを通して、主は必ず語りかけ
て来られる。信仰の指導者の助言も参考にするとよい。様々な経験
を先に通っているので有益だ。

祈りつつ、御言葉を待ちつつ、状況、環境をじっと見ていることだ。
環境の門が閉ざされたなら、御心でない。別の道が備えられている。
御心なら必ず門がひとりでに開かれて行く。自分でドアを叩き割っ
て進むのではない。主の御手により開かれる。私たちは開かれた道
を行く。
・・・・・・・・・・・・
主は祈り求める時、進路を導いて下さる。導いてもらわなければ、
私たちはどう進めばよいかわからない。よく祈ってアンテナを張り
巡らし耳を澄ましていよう。ありとあらゆる所から、御言葉を通し
て、人を通して、状況を通して、主は導きを下さる。


2018年09月14日(金)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから・・しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないおうにしなさい」ガラテヤ5:1



戦後の民主教育で、自分を主張する事、男女平等、ウーマンリブ、
女性は翔べと、自己実現が人生の目的とばかりに教えられた。今で
は、自分を抑制する事が心の病につながるとまで言われている。今
の時代は癒しブームだ。誰にも拘束されずに、自由に自己表現し、
解放されて生きる事が癒しだと。

しかし、自分の欲望に従って、自分の好きなように生きる事が自由
なのではない。又、自分に忠実に生きる事が解放ではない。自分の
自然の願望のままに生きて行くと、肉はとんでもない事をしでかす。
ある人が、人から批判されて、プライドがひどく傷つき、怒りで報
復の思いが湧き立った。それは抑えきれず、隠れて匿名で相手を非
難攻撃した。

しかしそれが発覚し、その卑怯なやり口に皆からの一斉非難の的と
なった。まさに自分の蒔いた種であり、その事を通して、いかに自
分が罪人であるかを思い知らされた。自然に感情の赴くままにして
いると、罪を犯したのであり、又、自分の内側には、人を見下し、
馬鹿にし、人を傷つけ、攻撃したいという思いがある事を知らされ
た。

古い性質は罪に向かう。真の自由は、肉の声を拒否し、それに従わ
ず、神の御声を聞いて従って行くところにある。御言葉にとどまる
時に「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」
だ。自分の欲望を遂げるのでなく、それを拒否し、主の御声に従お
う。
------------
主が自由にして下さったのだから、罪を犯さない自由を選択する事
ができると御霊は励ましてくれる。御言葉の基準を知っている。選
び取れるよう祈ろう。


2018年09月13日(木)

「すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ」T列王17:5



カルメル山でのバアルとの壮大な闘いの前に、主はエリヤをケリテ
川に退かせられた。「ケリテ川のほとりに身を隠せ」、人のいない
隠れた場所で、充分な主と交わり、霊的養い、備え、整えを与える
ためであった。しばし人からも離れ、密かな主との交わりが、まさ
に働きのため、又、信仰生活のための原動力だ。植物は根が下に強
く張っていないと、上に伸びない。

人に隠れた密室での交わりはその根だ。色々な人が証しをしている。
早朝から深夜まで余りの激務に、体調を崩して、倒れてしまった人、
又、先頭を切って活躍していた中、病気になり入院となった人。最
初はガックリ落胆して、落ち込んだが、天井を見つめる静かな時間
は、常に後回しにしていた、主との幸いな交わりの時とされ、息を
吹き返し、神に立ち返れたと。

休養が必要となり、全く動けず、寝床でじっとしている間に、大切
なものは何なのか、人生このままで良いのかと、立ち止まる時とさ
れ、仕事に忙殺され、狂っていた優先順位を正される時とされた。
時に私たちにも、ケリテ川が与えられる。

病気のケリテ川や、入試や就職試験が不合格のケリテ川、思い通り
に行かない失望落胆のケリテ川、大きな失敗のケリテ川、別離のケ
リテ川、そんな時、悲しみや寂しさ、痛みの中で静かに主と交わろ
う。心を主に向けて、余すところなく気持ちを告げ、御声を聞こう。
主はそこで養いを下さり、前進するための力を下さる。新たにされ
る。
------------
人生の中で辛く不自由な時こそ祈れ、主の御言葉だけを求める得が
たい祝福の時だ。今、大切な養いを受けていると信じて、焦らず主
に全てを委ねていよう。


2018年09月12日(水)

「しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には・・』」ルカ15:29




兄息子は弟のように家出したわけではない。言いつけを守り、父親
のもとで懸命に働いた。だが、兄息子にとって父親とはまるで労使
関係だ。主人と雇用人で、労働を提供して報酬をもらう。父親にと
りこんなに悲しい事はない。

親が子供を愛するのは、子供であるからであって、何かをしてくれ
るから、労働を提供してくれるからではない。信仰者も律法に陥る
と、よく勘違いをする。自分の努力によって、神の愛を得ようとし、
祝福を得ようとする。神に願いを聞いてもらいたいがために、懸命
に奉仕する。

ある人が、信仰生活を一生懸命頑張った。その結果、しんどく疲れ
るので、頑張らない人を裁き、責める、嫌な人間になっていた。自
分が絶対になりたくないと思っていたそのものになっていた。神は
全能なのに、なぜ自分はこうなるのか。挫折して初めて、自分の力
で生きている事を示された。

周囲を責め、非難し、裁くのは、自分の力と思いで突き進んでいた
からだった。恵みの中で、平安に憩う事を教えられて行った。兄息
子は父の心がわからない。本来なら父と一つ心で、父の側に立ち、
共に労すべき者だった。距離的には近くいたが、その心は全く父と
かけ離れていた。

重症なのは、弟以上に兄なのかも知れない。兄にも御父の両手が開
かれている。「わたしのものは全部お前のものだ」との大いなる恵
みと愛の中に飛び込もう。
--------------
父から受けているものは報酬ではなく愛なのに、弟は得だと弟を喜
べない心がある。無理をするのは誰のためだろう。愛してくださる
御父と愛を持って交わっていこう。


2018年09月11日(火)

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」ピリピ1:29



クリスチャンは、時に、信仰ゆえの様々な試練がある。信仰のため
に苦しみを受ける。だが、そうでなく、しばしば自分の至らなさの
ゆえに、欠点ゆえにトラブルを起こし、周囲に迷惑をかけて苦しみ
を招く。これは信仰ゆえの苦難ではない。信仰以前の問題だ。

誰でも、礼儀に反する事をするなら嫌われるし、自己中心に歩めば、
問題が起きる。しかし、クリスチャンという事で苦しみを受ける事
がある。信仰している事で悪口を言われたり、笑われたり、仲間は
ずれにされたり、嘲られたり、何もしていないのに非難されたり、
不当な苦しみを受ける。

「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今の時
代なら、信仰ゆえに、即、命を取られる事は無いかも知れないが、
辛く当たられ、馬鹿にされ、村八分にされるような、正当でない苦
しみを受ける。しかし、それがキリストゆえの苦しみなら、恥じる
事はない。むしろこの事のゆえに、落ち込むのでなく、喜べと。

喜び踊れと。そして神を崇めるようにと。「喜びなさい。喜びおど
りなさい。天においてうける報いは大きいのだから」と。その人は、
たとえ主のために迫害され、辱めを受け、いやがらせを受けたとし
ても、主との個人的な関係があるので、幸せな人だ。御霊の喜びが
与えられる。

迫害や苦しみの中にあっても、喜び踊る人々だ。どんなに自分が罪
深いかを知り、その罪が赦されている事を知っている。どんな愛で
愛されているかを知っていて、いかに苦しい時にも、主が共におら
れることを知っている。
--------------
迫害を受けることは、この世とは違う生き方をしていると認めらた
ということ。大いに喜ぼう。その辛さ、悲しさは誰にも理解されな
くても主が知っていてくださる。何という慰めだろう。


2018年09月10日(月)

「わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも・・手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた」ハガイ1:11



主が、ハガイを通して、民に語られた。「現状をよく考えよ」と。
「主の宮が廃墟となっているのに、自分達は板張りの家に住んでい
てよいのか」と。多く蒔いても少ししか収穫がなく、食べても飲ん
でも飽き足らず、幾ら稼いでも穴の開いた袋に入れるだけで、どん
なに稼いでも貧しく、生活が満たされる事がないと。

そして心も満たされない。多くの収穫を期待しても、僅かしかない
と。「わたしはそれを吹き飛ばした」と。それは「わたし」による
事だと。天は露を降らさず、地は産物を産出しない。神がストップ
をかけておられる。なぜなら、神を顧みず、自分中心に自分の事だ
けに走り回っているからだと。主は何かを伝えたいがために、時に
祝福を差し控えられる。

神を忘れ、自分を喜ばせるだけの生活にある時、収穫が無いように、
事態がうまく行かないようにされる。それは神の愛であり、立ち止
まって、考えさせるためだ。行く道をふさがれる。道をそれている
時に、懲らしめられる。もし放っておかれたなら、どこへ向かうか
わからない。様々な人が、主を忘れて生活していたが、行き詰まっ
たので、主のもとに戻れたと証ししている。

あなたも今、色々な問題が起きてギクシャクしているだろうか。物
事がうまく行かないだろうか。何かが空回りしている。立ち止まっ
て考えてみよう。優先順位は狂っていないか。第一のものが、後回
しになっていないだろうか。第一のものを第一に、軌道修正しよう。
あらゆる祝福と喜びはそこから来る。
-------------
一番必要なのは神の方法だと云うことを忘れて走っていることがあ
る。具体的な方法で罪や愚かさに気づかせてくださることは感謝だ。
立ち止まろう。神を第一としやり直せる。神の後を進んでいこう。


2018年09月09日(日)

「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうし て、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マ タイ7:11



「求めなさい。そうすれば与えられます」とある通り、私たちは主
に祈り求め、沢山の祈りが答えられた事を、感謝している事だろう。
しかし、答えられなかった祈りも幾つも経験して来た。そして、振
り返ってみた時に、答えられなかったあの願い、この願い・・答えら
れなかった事が感謝であった事を見い出す。

あの時、この時、あの願い、この願いに、その通りに答えられてい
たら、間違った道に行っていたと。私たちは、自分の真の必要をわ
かっているわけではない。どうしても自分軸で、自分を中心に物事
を見てしまうので、正しく見えていない。あの時、あの祈りが答え
られていたら、自分はどんなにか高慢になって、恐ろしい事になっ
ていたかと思う。

道が閉ざされた事で、心砕かれ、へりくだらされ、高ぶる事から守
られた。思い通りになっていたら、どうなっていたかわからない。
自分的には、これが、あれが、絶対に最善と思うが、美味しい草を
あさって迷子になる羊のごとく、目先の事しか見えていなかったり
する。

主は、遙か彼方まで何もかも見通された上の最善を用意して下さっ
ている。そしてそれは御子のかたちに造り変えて下さるようにとの
最善だ。自分の思う最善でなく、主が思われる最善に従って行けた
ららどんなに良いだろう。自分の思いを横に置いて、主のみ思いを
求めてみよう。主が与えて下さるものが、最も良いものなのだから。
自分の思いとは違うかも知れないが、「良いもの」を与えて下さる。

・・・・・・・・・・・
長い信仰生活を振り返ると、自分の思いと主のみ思いがしばしば違
っていた事がわかる。自分ではこれが絶対に良いと思うが、主の御
心は別なところにあった。それを幾度も経験して、主のみ思いを求
めて行く事が、幸せへの歩みと思わせられる。


2018年09月08日(土)

「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、そ れに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


ある人が、早朝出勤、深夜帰宅の大変な過密スケジュールの日々だ
った。仕事量は半端なく、仕事後の付き合いは続いた。人を気にし
て、ノーが言えず様々な事柄を引き受けた結果、とうとう身動きが
取れない状況に陥ってしまった。時間と体力には限りがあり、許容
量オーバーで、心身限界状態になった。

行き詰まってしまった。デボーションも持てないままの多忙の日々
に、心はカラカラに渇き、一歩も歩めなくなってしまった。どうに
もならず、助けを求めて、主の御前に静まった。主の御前で、心の
内の虚しさ、満たされない思い、思い煩い、不安、恐れ・・ことごと
く告げて祈った。

そして静まっていた時に、「だから、神の国とその義とを第一に求
めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与え
られます」の御言葉が心に語りかけられた。自分は「それに加えて
これらものはすべて与えられる」のそっちの方のために、走り回っ
ていた事に気づかされた。本末転倒であり、「神の国とその義とを
第一に求めよ」が抜け落ちていた。

そのため、生活が悪循環であり、平安も喜びもなく、達成感もなく、
実もなく、心は疲れ果てるばかりだった。何が大切なのか。もう一
度生活全般を見直し、第一のものを第一とし、優先順位を正して行
った。その時、生活が秩序あるものと変えられ、心に喜びと平安が
戻った。私たちもしばしば同じ状態に陥ってしまう。今一度、第一
のものを第一に軌道修正しよう。

・・・・・・・・・・・
忙し過ぎる時に、しばしば陥ってしまう。目の前の事を次々とこな
さなくてはならず、それが第一になり、主が後回しになる。それに
加えて与えられる「これらのもの」に心が飲み込まれていないか、
そのため油切れの状態でないか、今朝点検してみよう。


2018年09月07日(金)

「あなたが主のことばを退けたので、主もまたあなたを王位から退けた」Tサムエル15:23



サムエルは、アマレクとの戦いで、サウルに主の命令を告げた「行
って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ」。しかし、
サウルは、命令に従わず、最も良いものを惜しみ、つまらない値打
ちのないものだけを聖絶した。サムエルは「あなたが主の言葉を退
けたので、主もあなたを王位から退けた」と告げた。

するとサウルは「私は罪を犯した。しかし私の民と長老とイスラエ
ルの前で私の面目を立てて下さい」と願った。サウルの悔い改めは、
面目を立てるための悔い改めであった。神に対して罪を犯したゆえ
の悔い改めではなく、罪を犯す=人前で面目を失うという意識だっ
た。これは悔い改めではないので、神との関係の修復にはならなか
った。

「主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた」。私たち
はどうだろう。真に御霊により罪を示された時、悔い改めが起こる。
御霊からの悔い改めだ。その時、人など思いも及ばない。自分と神
との関係の中だけにいる。悔いくずおれる。自分の面目など入る余
地も無い。人も体面等も関係なく、ただ自分の罪だけが見える。

その罪は、悔い改めにより主の十字架の血潮によって赦され、きよ
められる。真の悔い改めだ。神との関係が修復され、平安と喜びが
戻る。世の悲しみ=結果が悪かったという、単なる後悔は死をもた
らし、真の悔い改めは救いをもたらす。
--------------
人前の失敗によるのではなく、御霊によって罪が示され、主に赦さ
れることが本当の幸いだ。悔い改めてまた御霊の実を結んでいける。
今、罪が見えているだろうか。主の示しを受け取ろう。


2018年09月06日(木)

「あなたの神、主を心に据えなさい」申命記8:18



モーセに導かれて、出エジプトを果たしたイスラエルの民は、乳と
蜜の流れる地を目指して前進し、神を信仰し歩んで来た。その約束
の地、カナンに入れば、信仰は必要無いのかというと、決してそう
ではない。良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を
守って、その道に歩み、主を恐れなさい」と。

神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的
だからだ。ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療に
も通っていた。どうしても欲しい、余りにも強い願望に、ある時、
神からもぎ取ろうとしている自分の姿に、悔いくずおれた。このま
ま行けば、子供さえ得られるなら、手段は何でも良い事になってし
まう。

突き詰めれば「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」と
のサタンでもよいという事になってしまう。恐ろしくなり、心底悔
い改めて、明け渡した。心に平安が満ちた。しばしば間違ってしま
う。信仰を、自分が良く生きるための、又、何かを得るための、手
段にしてしまう。すると、何もかもが的はずれになってしまう。

自分の自己実現の手段、喜びのための手段、問題解決の手段、それ
なら、自分の思い通り、期待通りでない時に、必ずつまずいて、失
望し、神から離れる事になる。何かを与えられようと、与えられま
いと、神ご自身を信じて生きる事、神を喜ぶ事、神を礼拝して生き
る事、これが目的だ。
-------------
結果を主に手渡そう。祈っていても平安が無いとき、自分の望む結
果に向けて祈っていることがある。主を心に据え今日の一歩の導き
を受け取ろう。


2018年09月05日(水)

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」ルカ1:30



突然、御使いが、マリヤに現れた。「おめでとう。恵まれた方」と。
マリヤにすれば、考えられもしない、突如の出来事だ。何の前ぶれ
もなく、突然に、神が、人生に大きく介入して来られ、一方的に
「みごもって、男の子を産む」と言われたのだ。何という事だろう。

マリヤは、ヨセフと婚約していて幸せな時であり、結婚の準備をし
つつ、将来の生活を思い描いていたであろう。しかし一方、マリヤ
はメシヤの到来をずっと聞いており、信じていた。だが、余りも唐
突な戸惑う出来事だった。処女で出産するなどとは。当時、婚約中
の姦通は石打ちの刑だ。

おことば通りこの身になるなら、死ななければならない。それこそ
命がけだ。それに、ヨセフとの関係はどうなるのだろう。聖霊によ
ってみごもったなどと、どうして信じられるだろう。ヨセフをどん
なに傷つけ、恥をかかせる事か。信頼関係はめちゃくちゃだ。婚約
は破綻するだろう。

非常な恐れと不安があった事だろう。しかし、そんな中でマリヤは、
主のために、自分自身と自分の人生を、差し出した。「おことばど
おりこの身になりますように」と何もかもを明け渡した。これはマ
リヤが思いついた事ではなく、選んだ事ではない。「自分の思い通
りになりますように」ではなく、まさに命がけで「あなたのお言葉
どおり、なりますように」だ。

このマリヤの従順により、救い主の誕生が実現した。今、目の前に
戸惑う事態があるだろうか。マリヤが特別に選ばれたように、あな
たを主の素晴らしいご計画のために選ばれている。明け渡せるよう、
自分では出来ないので、まず祈ろう。
-----------
予想外の出来事にはまず恐れが来る。先は全く解らないがどれも主
から来ているものと今の不安を主に祈ろう。不安の中でも主が助け
てくださる。一歩、一歩、預かっていきたい。


2018年09月04日(火)

「しかし、舌を制することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」ヤコブ3:8



ある人の証しだ。職場に、普段から快く思えない相手がいて、日々、
忍耐し何とか接していた。すると、別の人から電話がかかり、それ
がその人への苦情、批判だった。自分はクリスチャンだから、決し
て悪口は言わないが、言われる事がその通りで、思わず同意し、同
調しそうになる。

その時キャッチホンが入って、対応した。そして電話に戻ると、ワ
ンクッション置いたせいか、心が冷静になり、唇の罪を犯す事から
守られた。主の介入と守りを感じて感謝したと。悪口や噂話は、対
象となる人をひどく傷つける。本人のいない、陰で話されている事
であり、噂が人から人へ伝わる時に、一人一人の主観が入って次に
伝わるので、必ず尾ひれがつき、歪曲されるからだ。

真実が伝わる事はまずない。なぜなら、聞いた人は自分の色合いで
聞くからだ。そして、意識的、無意識的にも、自分の主観と自分の
色を混ぜて次へ伝える。その人も又、同様にして次へ伝える。その
時、相手への敵対心や妬みが心にあれば、どう伝わるだろう。その
フィルターを通して、又、自分の思いを混ぜて、伝える事になって
しまう。事実でも真実でも無くなって行く。

人間には肉の性質があり、偏見や自分の強い思いや密かな悪意があ
れば、容易に誘惑に陥ってしまう。くちびるの戸が守られるように、
祈りが必要だ。自分の言葉が守られるように祈っていよう。
-------------
軽率な言葉を出さないようにではなく、思わず出そうになる自分の
内の悪意に気づき主に悔い改めよう。そして、誰もが制御できない
舌で伝えていると伝聞にも祈り心で警戒しよう。


2018年09月03日(月)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:23



聖書が与えられている目的は「すべての良い働きのために、ふさわ
しい十分に整えられた者となるため」とある。良い働きのために、
ふさわしく十分に整えられるためだ。整えられた人格に変えられる
ため。単に聖書知識のため、知識的に聖書を知るためでなく、人格
が整えられるためだ。

人格が変えられるためには、行動が変えられる必要がある。行動が
変えられるためには、まず「心に植えつけられたみことばを、素直
に受け入れ」る必要がある。主が、御言葉を植えつけて下さるので、
私達は心「素直に」受け入れる事が大切だ。御言葉と同時に様々な
思いがよぎる。

「そんな事、無理だ、できない」「本当に信じるだけで大丈夫なの
か」「やって行けるのか?本当に?」と、素直に受け取らない心が
問題だ。常に、疑いや恐れの方を、受け入れてしまっていないか。
そして、御言葉は聞くだけでなく、「実行すること」が何より重要
だ。実行しない限り、自分が変わることは決して無い。

どうすれば実行できるのか。それは御言葉を「一心に見つめて離れ
ない」とあるように、御言葉を常に反すうすることだ。一心に見つ
めるなら忘れない。思いは行動へと移る。自分が全く変わらないの
は、聞いても「実行」していない。実行しないなら、聞いた御言葉
もすぐに忘れてしまう。

今、あなたに示されている事を「実行」しよう。日々、示された事
を「実行」し続けてみよう。そうできるよう祈ろう。「その行ない
によって祝福されます」。
-------------
御言葉を聞いたら、その後は実行しなさいと求められている。自分
では絶対しない、出来ないことも主を仰いで行くなら祈りになるの
ではないか。御心を具体的に行うために祈りはじめよう。


2018年09月02日(日)

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないな ら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」Tコリント 13:1


信仰者同士で議論になる事があるだろうか。ある青年が、教会の交
わりの中で、他の青年たちと、他愛もない事から、大した事のない
事で激しい議論になった。議論になると、自分は正しいと思ってい
るので、相手を打ち負かしたくなってしまう。強い自我が出て来る。
自分の主張が受け入れられないと、怒りが沸く。心で相手をさばい
てしまうし、険悪な空気になってしまった。

平安なく、帰宅した。帰宅して平安が無いので、聖書を読んでいる
と「果てしのない空想話と系図とに心を奪われたりしないように・・
論議を引き起こすだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をも
たらすものではない」ことを示された。議論になると平安が失せる。
それは信仰の名のもとに、自分の正しさを主張して行くからだ。そ
こに肉が出る。議論のための議論になる。

それは、「信仰による神の救いのご計画の実現をもたらす」もので
なくなってしまう。議論になると、負けるのが悔しくて、自分の正
しさを主張したい、絶対に負けたくない。相手を打ち負かしたい。
経験あるだろうか。何が目的なのかがわからなくなる。「自分の言
っていることも、強く主張していることについても理解していな
い」の通りだ。ここから徒党や分裂が生じる。

私達の目標は「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て
くる愛」だ。「愛」が目標だ。「この目当てを見失い、わき道にそ
れて無益な議論に走」りがちだ。向上のための、前向きな意見交換
は良い事だが、動機が「愛」であることをしっかり定めていよう。

・・・・・・・・・・・
肉は自分の思い通りにしたいし、自分は正しいと思っている。自分
の思いを通して行くと、周囲とギクシャクし平安が失せる。そして
その時、「愛」ではない事を示される。目標は「愛」であることを、
いつも御霊により思い起こさせられるよう、祈っていよう。


2018年09月01日(土)

「ダビデは・・『さあ、ベエル・シェバからダンに至るまでのイスラ エルを数えなさい。そして、その人数を私に報告して、知らせてほ しい』」T歴代21:2



ダビデは、姦淫と殺人の罪に、もう一つの失敗があった。人口調査
だった。モーセも人口調査をしたが、それは主の命令による事であ
った。「全会衆を・・調べ・・人口調査をせよ」。ところが、ダビデの
人口調査は主の命令ではなく、サタンに誘惑されての事だった。ダ
ビデは兵力に頼り、兵数で勢力を誇り、自らを誇ろうとした高慢ゆ
えだった。

神から任された軍事力を自分の力と勘違いした。部下が「なぜこん
な事を要求し、罪過ある者となられるのか」と忠言したにかかわら
ず。ダビデは神の御心を損なった。王国は3日間疫病で打たれる事
になった。7万人が倒れた。主の使いが抜き身の剣を持ち立ってい
るのを見て、ダビデはひれ伏した。自らの間違いに気づき、悔いた。

神罰が民に及ばないよう、オルナンの打ち場に祭壇が築かれた。全
焼のいけにえ、和解のいけにえが献げられ、主に呼ばわった時に、
御使いは剣をさやに納めた。これは主の十字架だ。私達の罪のため
に、キリストが全焼のいけにえとして献げられ、罪のさばきを受け
られたゆえに、裁きは止んだ。

成功し、高慢になったダビデにサタンは働いた。人は成功の原因を
神ではなく、自分に帰して、自分を誇りたい。自分に栄光を帰した
い。人からの賞賛が欲しい、人に認められたい。強い肉がある。サ
タンはそこにつけ込んで来る。サタンに足場を与えないために、根
にあるものを御霊に照らされ、高ぶりを認めて、悔い改めよう。主
の血潮に拠り頼もう。豊かに赦される。

そして高ぶりの罪から守られるように、いつも主に拠り頼んでいよ
う。御霊が絶えず気づかせて下さるように。

・・・・・・・・・・・・
自分、自分に、なっている時に、御霊の光により、気づきが与えら
れるよう、祈っていよう。自己中心な者だが、その自分中心の古い
自分が、十字架で主と共につけられた事を、絶えず見つめていよう。
主の栄光を求める者へと変えて行って下さる。