2018年10月31日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17



神から遣わされた指導者モーセが、イスラエルの民をエジプトから
救い出すために、パロと掛け合う。神の様々な奇跡のわざにより、
災難と苦しみが臨むと、パロは「私は罪を犯した」「悪かった」
「私のために祈ってくれ」という一見悔い改めに似た言葉を発す
る。しかし、その災いが過ぎ去ると、再び頑なで強情な元の姿に
戻る。

これは、悔い改めではなく、心の底ではそう思っていないという事
だ。真の悔い改めなら、180度方向変換し、必ず実を結んで行く。
神は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」に、しる
しを行なわれる。しかし、パロには、様々なしるしが、主が主であ
る事を知ることにはならず、脅しみたいなものであった。だからそ
の苦しい状況が退けば、再び強情になった。何も変わらない。

私たちはどうだろう。もし高慢に歩んでいたなら、へりくだるよう
に砕きの御手を、苦しみを送られる。これは神の愛であり、懲らし
めは愛だ。放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロ
のごとく、単に脅しのように取るなら、痛いので、確かに悔い改め、
反省し、自らを正すのだが、その苦しみが去ると、元に戻ってしま
う。そうであれば成長の無い古い自分のままになってしまう。何も
変わらず、真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事がない。

本当は自分は悪いと思っていないが、苦痛を回避したいだけか、そ
れとも自らの罪を認め、悔い改めているのか。真の悔い改めは、御
霊が与えられるので、必ず御霊の実を結ぶ。そして主の完全な赦し
を受け取るので、更に主の愛を知って行ける。悔い改める度に主の
愛を知れる。ありのままの心を御前に祈ろう。心の内を十分に照ら
し主の道へと導いて下さる。
-------------------
何度も失敗し罪を犯してしまう者だ。何も自慢できる捧げものはな
い。それも神は全てご存知で主の十字架のゆえに受け入れてくださ
っている。そこに希望がある。


2018年10月30日(火)

「主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ」民数記22:31



バラク王が、バラムにイスラエルを呪うようにと言った。しかし神
はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない。その民を呪ってもい
けない。その民は祝福されているからだ」と答えられた。しかし結
果的に、尚も出て行くバラムに、主の使いが抜き身の剣を手に持っ
て道に立ちはだかった。

主が阻止された。私たちも目の前で、順調な歩みを阻止される事が
ある。そんな時、思い通りにならずに、挫折を感じてしまう。入学
試験、就職試験、願いが叶えられて前に進みたいのに、不合格、不
採用になる。がっくり落胆してしまう。何だか自分を否定されたよ
うに感じて落ち込んでしまう。

しかしそうではない。御心の道では無かったという事だ。主が止め
られている。別の、更に良い道が備えられている。振り返る時どう
だろう。あの時、この事、強い願いのあった道が閉ざされたが、し
かし遙かに良い道が備えられていた事に気づく。間違った道にそれ
なくて良かったと。

主は、私たちが御心ではない方向へ進まないよう、行く手阻んで、
立ちふさがれる。私たちを立ち止まらせるためだ。不運だったので
はなく、たまたまではなく、主の取り扱いだ。今、もし、目の前の
道が閉ざされているなら、「出て来たのはわたしだ。あなたの道が
わたしとは反対に向いていたからだ」とのメッセージかも知れない。
-------------
行きたい所、通したい思いに目をふさがれれば御心とは逆の道に行
ってしまう。行く手をさえぎることで主は御心を知らせてくださる。
信仰の目で見ていこう。


2018年10月29日(月)

「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」詩篇73:25



詩篇記者は、悪者が栄えるのを見て、落ち込んだ。彼らは楽しそう
で、豊かで肥え太っていて、何の苦しみもなさそうだ。悪者は安ら
かで、富を増している。それに引きかえ、自分は惨めで、苦しみば
かりで、何の良い事もない。この足はたわみそうで、歩みは滑るば
かりだ。なぜ神を信じない者が、肥え太り栄えるのかと。

不平不満で一杯だ。その彼が、神の聖所に入り、光が与えられた。
実は彼の不満や妬みや愚痴や、様々な悩みの原因は、神の近くにい
なかったことによるとわかったのだ。本当の問題は、様々な事柄や
状況ではなく、自分と神との関係だった。それが信仰にとって根本
的なことだ。私たちも同様だ。

愚痴や不平で一杯になる時、イライラ状態の時、本当の問題はその
状況でなく、自分と神との関係だ。神にとどまっていないから、平
安無く、喜び無く、心が荒んでイライラしている。それに反して、
神と親しい交わりの中にいる時、状況がどんなに波風逆巻いても、
大嵐の中でも、心は霊の喜びと平安に守られる。

神の近くにいる事が幸せであり、問題が問題でなくなる。一番大切
なことは、神との関係だ。今、神との関係はどうだろう。神に、御
言葉に、とどまっているだろうか。主との親しい交わりにあるだろ
うか。もし離れていたなら、すぐに立ち返ろう。主との親しい交わ
りにある時、どんな中でも、幸せであることができる。
-------------
人が羨ましく思えたり良く見えるとき、神から目がそれていること
に気づく。気づけ戻れることが感謝だ。神の最善を受けていること
に感謝し、神の近くにいることのしあわせを喜ぼう。


2018年10月28日(日)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11


サタンに真理はなく、サタンは偽り者と御言葉は言う。偽りの父で
あり、私たちを巧妙にだますと。黒を白、白を黒と言い、欺いて来
る。サタンは嘘つきで、真理がない。絶えず嘘で誘惑し、攻撃して
来る。つまり、間違った動機を正しく思わせ、良い動機を間違った
ものとし、思いを混乱させる。又、巧妙で、半分の真理に、半分の
嘘を混ぜて来る。半分まともなだけに非常に識別しずらい。

又、サタンの誘惑は、巧みに自分の欲望に、願いに、ピタリと合致
してやって来る。自分の思いと一つになっているので、しばしば全
く気づかない。自分の思いと違っていたなら、わかりやすいが、自
分のしたい事であり、強い願望だとなかなか気づけない。エバは自
分の願望と合致していたため、見事に誘惑に引っかかってしまった。

酔酒やギャンブル、妬み憎しみのようなストレートな事ならわかり
やすいが、良い事で、一見合法的な事で誘惑して来る。自己実現や、
自己啓発、見た目にはわからない。だが、その動機の裏に自分の
栄光が隠れていたりする。目が向いているのは、神でなく、どこま
でも自分であり、根は自己愛だ。

又、時には趣味、好きな事・・でも誘惑して来る。それらは良いもの
だ。楽しみは神が下さるもので、良い気分転換、リフレッシュの時
も下さる。が、落とし穴もあり、適度ではなく過度に、のめり込み
過ぎると、時間が取られてしまい、霊的な事柄への時間が奪われて
しまう。少しづつ〃、霊的食欲が減退させられて行く。

「すべてのことはしてもよい。しかし、すべてのことが有益とはか
ぎらない」の通り、罪ではないが、有益でもない事で、ダラダラと
時間を奪われ、神との交わりの時間が圧迫され、おろそかになって
しまう。サタンの誘惑に要注意だ。判断の基準は、それをする事で
霊的食欲が増進するか、減退して行くかだ。

・・・・・・・・・・・
天に帰るまでは、日々霊の戦いである事を、わきまえて祈っていよ
う。生活の中で、サタンを忘れさせる事が敵の最大の攻撃だ。「あ
なたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいるあの者よりも
力があるからです」に立っていよう。主はサタンをも利用して、私
たちを霊的に成長させて行って下さる。


2018年10月27日(土)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もな い喜びと思いなさい・・成長を遂げた、完全な者となります」ヤコブ 1:2



ダビデはサウル王に妬まれ、命を狙われる。女たちの「サウルは千
を打ち、ダビデは万を打った」の言葉が、サウルの怒りを買い、妬
みの炎を燃え上がらせた。ダビデは忠実に王に仕え、良く戦い、優
れた部下だった。だが、サウルの妬みは憎しみへと増幅し、ダビデ
殺害を図って行く。

ダビデはサウルから殺されかけ、敵からも命を狙われ、又、息子の
謀反により、実子からも攻撃を受ける。自身が病にも陥り、周囲か
らは攻められ、自分自身も弱り果て、もう絶体絶命の窮地だ。心身
ギリギリの限界だ。厳しい悩みと苦しみの中にいた。ダビデこそ神
の心にかなった人だった。信仰もって人生を歩むなら、悩みが無く
なるのではない。悩みや問題は必ず来る。

その時、私達は苦しくてたまらず、とにかくその問題が無くなる事、
状況が変わる事を願う。問題が問題なのだと思ってしまう。しかし、
そうではない。問題は、何ら問題ではない。苦しみの中でこそ、神
が神であられる事を身をもって知って行く。ダビデは「嘆きで疲れ
果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、泣いて泣いて嘆いた。苦し
みの中でこそ、神との深い交わりに入れられる。

「主よいつまでですか、あなたは」と、率直にありのままの気持ち
を神にぶつけて神に近づいている。順境の時には決して経験出来な
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もな
い喜びと思いなさい・・成長を遂げた、完全な者となります」ヤコブ
1い恵みだ。何とかしようともがき、走り回るのではなく、問題を

べて神に持ち出そう。自分で当たると空回りだ。心を注ぎ出し、神
に寄りかかり、すがりつこう。神との近い交わりを経験し、そして
祈りは聞かれ、神の御心が成し遂げられて行く。

・・・・・・・・・・・・
問題は次から次へと来て、自分ではどうにも出来ない時に、ただた
だ祈っていると、不思議を経験する。問題を委ねるようにと導かれ、
それも祈りの中で、明け渡して行くと、問題はそのままなのだが、
不思議な平安、「主の平安」が心に与えられたりする。


2018年10月26日(金)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩篇62:8



ある人の夫が、ギャンブルの誘惑に陥っていた。家計にも、しわ寄
せが来て、生活が追い詰められて来る。やめられるようにと祈り続
けた。夫は救われていて、教会へも通っていた。夫も止めなくては
と思うが、誘惑にどうしても負けてしまう。経済的にひっ迫して来
て、生活は苦しく、神にちゃんと従わない夫に、腹が立って仕方が
ない。

どんどん夫への怒りが高じ、ある時、家事をしていたが、怒り爆発
で抑えきれず、その辺の物を次から次へと投げつけてしまった。
そんな自分に自己嫌悪で、怒りと思い通りにならないいら立ちに、
声を押し殺して泣いた。こんな証しに悪い姿を、子供に見られたく
ない。もう瀬戸際で、心の底から主に叫んだ。

「もう何もどうにも出来ません。限界です。助けて下さい」涙が溢
れた。そしていつも学んでいた「すべての事について感謝」を覚え、
信仰により「この事態も感謝します」と祈った。全部何もかも主に
渡した。すると不思議が起きた。あれほど荒れ狂った感情が、すう
ーっと引き、自分の心が支えられ、変えられて行った。

心底の叫びに、神が答えて下さったのがわかった。心が静められ落
ち着いて行った。驚いたが、夫への怒りが失せていた。心に御霊の
平安が与えられた。夫を責める気持ちが消えていた。奇跡としか思
えない。今まで、夫を責め、裁き、見下す思いが、夫を更にギャン
ブルへと向かわせていた事に気づかされた。

教会へ一緒に行ける事が、ただただ嬉しく感謝の思いで満たされた。
妻の変化に驚いた夫は、心が神へと向けられ、悔い改めへと導かれ
た。自分のした事は、絶体絶命の中、ただ主に叫んだだけだった。
---------------
絶体絶命のようでも、背後で私たちのために絶えず守り、戦ってく
ださる神がいる。神の前に隠さない正直な思いを注ぎだし、助けを
呼び、身を避けていよう。


2018年10月25日(木)

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう」詩篇50:23



ある女性が、その週の礼拝で「すべての事について感謝しなさい」
のメッセージを聞いた。心に響いた。神は独り子を賜うほどに愛し
ていて下さる。神には完璧な私へのご計画がある。一羽の雀さえ、
神の許しなしには地に落ちない。全主権と支配が神にあるなら、
それなら日常に起きるすべての事が感謝だと思えた。

特に運転が下手で大の苦手なのだが、その週に運転中、知らずに狭
い行き止まりの路地に入り込んでしまった。方向変換もUターンも
できず、そのままバックするしかない。ギリギリだ。角がどうして
も曲がれない。パニックになる。何度も切り返して、ガガーッ!と
大きな音を立てる。

その内、人々が何事かと出て来る。ますます焦って、頭に血がのぼ
り、わけがわからなくなり、どうにもならない。そこで「神様!」
と一瞬心を静めた。神に心を向けた。瞬間その週のメッセージが来
て、「神様、バックできない事を感謝します。助けて下さい」と祈
った。すると心が変えられて、あれほど焦っていた心が何だか落ち
着いた。

ゆっくりゆっくりと急がず慌てず、少しづつ〃動かす事ができ、祈
りながら対処できた。すると、無事抜け出すことができた。しかし、
その事以上に、主を呼び、主が瞬間にも御言葉思い起こさせ、主が
働いて下さったことに喜びが溢れた。すべての事が主権の中で起き
ている事、ご計画があり、最善以下の事は決してされない事、感謝
する事はその神を認める事だ。
--------------
御霊の助けにより御言葉の確かさや主を経験するとき、苦しみに出
会っても感謝の祈りが湧き上がる。主を身近に感じられることが何
よりも嬉しい。


2018年10月24日(水)

「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる」詩篇37:34



祈りには、失望せずに、忍耐をもって祈り続ける事が必要な面があ
る。まず第一に「祈ること」が必要だ。頭の理解、祈りのノウハウ
の知識だけでは何にもならない。まずは祈りを実践しなければ、何
も始まらない。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが
願わないからです」の通りに。

祈りを実践する時、その祈りがなかなか聞かれない事を経験する。
聞かれないのは、動機が間違っているのではと、動機を探るが、特
にとがめは無い。すると祈り続ける事に疲れてしまって、途中で祈
りをやめてしまったりする。主はしばしば「待つ」ことを通される。

聖書には何度も〃「主を待ち望め」と出て来る。すぐに祈りの答え
が来たなら、「待つ」必要がない。逆に言えば、忍耐を養われ培わ
れる事がない。なぜ、神は待つ事を学ばせられるのか。一心に答え
を待つためには、確信が必要だ。確信の無いものを待つことはでき
ない。

そして主への揺るぎない信頼が必要だ。信頼が無ければ、待つ事は
しない。すぐに諦め、求めをやめる。そして希望が必要だ。待ち続
けるためには、本物の信仰が要る。主は、私たちの内に、その本物
の信仰を練り鍛え、培おうとされている。

そのために、主だけを信じ、見える所がいかに逆行していようと、
期待と望みを主にだけ置いて待ち続ける、そのような状況を作られ
る。今、主は、あなたを練り、本物の信仰を培おうとしておられる
のではないか。
-------------
待つことは、わくわくしながらよりもじっと耐えながらの方が多い
のではないか。御霊は弱い私たちを祈りの度に励まし支えてくださ
る。主を信じ、主を待ち望もう。主が力をくださる。


2018年10月22日(月)

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63


信仰生活の中で、なかなか気づかないが、生まれつきの古い価値観
が成長を阻んでいる事がある。御言葉によらない考え方だ。自分の
思い、自分の経験、自分の好み、この世の価値観による考えだ。ス
トレートな欲や肉はわかりやすい。泥酔やギャンブル、嘘、妬み、
憎しみ等は罪だとわかる。

それらに苦しめられるが、祈りに持って行ける。祈りに持って行っ
たなら、なすべき事が一つ一つと示され、解決へと導かれる。それ
ゆえストレートな悪は、よくわかる。だが、自分では良いと思う事
も、それが御霊によって導かれていないなら、同じく肉であり神か
ら離れている。

そのため、もしその自分が良いと思う思いを、判断や行動の土台に
据えているなら、御心と正反対の方向へ向かってしまう。主がこれ
から苦しみを受け、殺されると話された時、ペテロが「そんなこと
が起こるはずがない」と否定した。その時、主はペテロに向かって
「下がれ。サタン」と言われた。ペテロが良かれと思った思いは、
サタンからのものだった。

古い価値観や自分が良いと思う考えは、御言葉に基づかなければ、
敵に利用されて反対方向へ向かう。だからそれに引き続いて「わた
しについて来たいと思うなら、自分を捨て」と言われた。自分の思
いを捨てなければ、主について行けない。自分の思いが問題だ。常
に、主のみ思いを求めて行こう。
------------
良いと思ったことは迷いがないく祈っても良いとしか思えない。正
しいと思う時こそ気をつけたい。いつも自分のプランを主に預ける
気持ちで祈り、御霊の導きを仰ごう。いつも御心の真ん中にいたい。


2018年10月21日(日)

「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼 を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15



ピレモンの奴隷であるオネシモは、主人の物を盗み逃亡した。それ
がローマで捕えられ投獄に。そこで獄中にいたパウロと出会い、回
心する事になった。当時、逃亡奴隷は死刑であった。主人にその権
利があった。そのため、パウロはオネシモの主人ピレモンに執りな
しの手紙を書く。損害はすべて自分が償うので、どうかオネシモを
赦して欲しいと。

目に見える状況的にはそのようだが、神の視点に立つと、全く別の
見方になる。オネシモは悪事を働き、罪を犯した。そのためローマ
に逃亡する事になった。しかし、そこでパウロに出会う事ができた。
災いが益とされる。オネシモは悔い改め、主のものとされた。神の
見方によるなら、オネシモが一旦ピレモンのもとを離れたのは、主
にある愛する兄弟として、永久に取り戻すためとなる。

神の視点で、状況を、人生を見て行くなら、どんなに救われる事だ
ろう。ヨセフも同様だ。自分を妬み、明白な悪意でもって、エジプ
トへ売り飛ばした兄たちに「あなたがたは悪を計ったが、神はそれ
を良いことのための計らいとされた」と言った。はっきりと悪を計
ったと言い、しかし神はその悪意をも最善への計らいとされると。

先にヨセフをエジプトに送り、総理大臣とし、大飢饉の中、一族の
命を救うように計られた。どんな最悪の事態、状況をも、神は最善
へと導かれる。今、悩み、問題、困難、苦しみの中にあるなら、神
を信じていよう。神にはご計画があり、その苦しみが益とされ、必
ず平安の落とし所へと導かれる。

・・・・・・・・・・・・・・
オネシモは罪を犯して逃亡したのだが、永久に取り戻すために、し
ばらくの間離されたのだと言っている。目の前の事態を神視点で見
る時、全く変わって来る。「愛されている」「ご計画がある」「万
事益とされる」「災いでなく、平安と将来と希望のためのもの」だ。


2018年10月20日(土)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5 


ある人が、とにかく主にゆだねる事が大切と教えられ、それで、主
にゆだねなければと思っていた。そんな時、あなたのしようとする
事を主に委ねよとの御言葉に出会った。そうすれば、立てた計画は
揺るがないと。そこで、自分が立案し、懸命に練り上げたプランを、
主にお委ねした。そうすれば成功するのだと思っていた。

それが、全く思い通りに行かず、思いとはかけ離れた散々な結果と
なり、自らの認識不足、未熟さを露呈してしまった。周囲に多大な
迷惑をかけ、自分も心労と過労で、体調を崩してしまった。休息を
取る中で、身体を横たえながら静かな祈りの時を持った。

そんな中で教えられた。自分主導で、自分が立てた計画に、主が力
を貸して下さるのでなく、そうではなく、自分と自分の思いを委ね
て、祈り、主が立てられた計画に従って行くことだと。祈り求める
時に、主は、御心を示して下さる。その主のプランは、自分の思い
とは、しばしば異なる。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異
なり、私の道は、あなたがたの道と異なるからだ」とある通りに。

「わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」と。自分の思い
に合わなくても、主のプランに従って行く時に、必ず大きな祝福が
ある。神から発した事は、必ず神によって成り、神に至る。神から
発しているので、途上で障害があろうとも神によって成し遂げられ
て行く。そしてその確信が持てる。

・・・・・・・・・・・・
目の前の事態を、重荷を、苦しみを主にゆだねよと言われている。
なかなかゆだねられないので、そうできるよう祈ろう。主に重荷を
明け渡せるように。時に結果が自分の思いと違う場合も、それが最
善だったと後でわかる。必ず主の思われる最善を成し遂げて下さる。


2018年10月19日(金)

「彼はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそイスラエルの王となり・・』」Tサムエル23:17




サウルはダビデを殺害すべく執拗に追いかける。ダビデはケイラの
人々をペリシテ人の手から救った。サウルがそれを聞いて、ケイラ
に下り、ダビデを封じ込めようとした。ところが、ダビデはケイラ
の人々の裏切りを知り、神の示しにより再び荒野へ逃亡する。

ダビデが逃げた事を知り、サウルは討伐を止めた。神が介入されサ
ウルが幾ら執拗に追っても、神はダビデをサウルの手に渡されなか
った。ダビデは逃亡を続け、ジフの荒野に潜伏する。命をつけ狙わ
れ続けて、いつ殺されるかわからない、まさに死と隣り合わせの恐
怖であったろう。

サウルは一国の王であり、ダビデは僅か600人の部下がいるだけだ。
いざとなればサウルは国民全体を招集できる。その時、ヨナタンが
「神の御名によってダビデを力づけた」。「父の手があなたの身に
及ぶことはない。あなたこそ、イスラエルの王となる」と。神が、
ダビデをサウルの手に渡すことなく守られると。

ヨナタンは状況を見るのでなく、神の約束を見ていた。王の息子が、
ダビデにはっきりと、あなたこそ王で、自分は次に立つ者だと言っ
た。ヨナタンは神に従う者であり、神を見ていた。彼の信仰だ。ヨ
ナタンは、神の御名によって力づけた。

それは人間的な励ましでなく、神の約束に立った力づけだ。神の約
束が成就する。見えるところ、どんなに危機的状況でも、神の主権
と支配の中だ。
------------
状況に飲まれない神の御約束に立ち、大丈夫だと励まされたら、ど
れほど心強だろう。冷静な判断もできない試練の中で大きな指針だ。
もう一度神を仰ぎ、心が燃やされる。


2018年10月18日(木)

「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」創世記11:7


ノアの洪水後、人類は新しい出発をした。全地は同じ言語であった。
問題無くスムーズに意思疎通ができていた。人々はシヌアルという
平地に定住した。神により、石の代わりに、れんがを作る技術が与
えられ、れんがと瀝青で建築物を作ることができた。肥沃な地に住
めて、建築の技術も与えられ、すべては神の大いなる恵みであった。

しかし、その神の恵みに感謝し、栄光を神に帰するのではなく、町
を建て、天に届く塔を建てて、自分たちの名を上げようとした。自
分の栄光、自分の名誉、自分の賞賛、自分が神にとって代わった。
神の恵みで賜った物や能力を、自分の栄光のために使うようになっ
た。自分たちの偉大さを見せつけるために建てようとしたのだった。

これが「神のようになろうとした」アダムからの罪そのものだ。
「そのうちに」「我々は、頂きが天に届く塔を建て」、最初は良か
ったのであろうが、「その内に」方向が狂って来た。神は言葉を混
乱させ、意思疎通が不能にされた。その結果、塔の建築は不可能に
なり、「彼らは建てるのを止めた」塔建築は失敗した。

神が阻止された。そして人々全地に散らされた。原因は神への高ぶ
りであった。私たちが、互いに意思疎通ができない時、そこに「高
慢」が潜んでいるのではないか。自分が神の座につき、自己義、自
己防衛、自己主張・・していないか。真の一致は、愛とへりくだり
にある。そこには必ず御霊の喜びがあり、神の栄光が現れる。
---------------
自分の力でもできるとの高慢が、神の御心や御言葉より、手っ取り
早い人の助言や自分の方法を優先させてしまう。アダムの罪が自分
の内にあることを覚え、御霊の一致を求め祈って行こう。


2018年10月17日(水)

「しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」ヨハネ9:41




見えないものを見るために、重要な事は何だろう。まず光が必要で、
光が無ければ絶対に見えない。真っ暗闇では、何も見えない。そし
て自分が盲目である事を知らなければ、決して見えるようにならな
い。自分が見えていると思っている限り、ずっとそのままだ。

では、見えるようになるためには、どうすればよいのか。自分が見
えていないと認めることだ。その時、主が、見えるようにして下さ
る。パリサイ人たちは自分は見えていると言い張った。しかし人間
の教えを、教えるだけで、神の言葉が何も見えていない。盲目であ
るのに、見えていると言う。

見えていないと気づくなら、救いがあるが、見えていると言い張る
ところに罪が残ると主は言われた。人は、自分が正しいと思い込む
と見えなくなる。物理的には見えていても、霊的盲目状態だ。祭司
長やパリサイ人たちは、自分たちは神の戒めを守り、神に従ってい
ると思い込んでいた。旧約聖書の学者であり聖書に精通していた。

それが、神が遣わされた御子イエスを認めず、殺そうとした。実際
十字架へと追い込んで行った。自分を正しいとする時、何も見えな
くなる。私たちも同様だ。神によらなければ、何一つできない盲目
の者と知る事が、見えるようになる事だ。自分が見えていない者で
あることを知る事は、大きな祝福だ。そこから始まる。主が霊の目
を開いて行って下さる。
------------
見えると思っている事が視野を狭くさせ主からの豊かな恵みを遮断
させていると覚えたい。見えてないことを認めよう。いつも主に求
め、変わり続けよう。主が成長させてくださる。


2018年10月16日(火)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5



祈りは聞かれるが、聞かれない祈りもある。悪い動機で願う祈りだ。
「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして」
とあり、自分の欲のために求める祈りだ。動機は大切だ。動機が間
違っていたら、聞かれない。

ある人が、主に示された進路に進もうとした時に、未信者の親族た
ちから猛反対された。代わるがわる説得され、何やかやと言われる。
しかしこの事は主の御心だと思え、祈りに祈っていた。しかしなか
なか道が開かれず、尚も祈り続けていた。

周囲からの反対は変わらず、こんなに祈っているのに、どうして道
が開かれないのか。しかし更に祈り続けた。その祈りの中で、心探
られ内側が照らされた。確かに主の御心ではあるのだが、周囲の余
りの反対に、反発心が起きて、心の中では反抗的になり、意地にな
っている自分に気づかされた。

心が頑なになっていて、何としてでも、自分の意志と力で突き進も
うとしていた。主の栄光などではなく、自我そのものであった。心
から悔い改めて、今一度主に自分自身を明け渡した。真に主の御心
が成りますようにと思えた。その時、心平安にされた。

そして、すべてを委ねて、祈っていると、時満ちて、門が開かれた。
時と共に周囲も認めてくれて、御心の道へと進む事ができた。とに
かく祈りに持って行くなら、間違った動機も、態度も教えられる。
そして祈りも軌道修正されながら、御心へと導かれる。
-------------
祈りながら自分の本当の動機が示されたり、違う祈りへと導かれた
りする。主は本当に必要なものを与えてくださったと知れることが、
感謝だ。


2018年10月15日(月)

「『子どもたちよ。食べる物がありませんね』彼らは答えた。『はい、ありません』」ヨハネ21:5




ペテロは、大好きな主を裏切ってしまった。その心はどんなものだ
ったろう。主に合わせる顔がない。心は暗たんたるものであった。
深い痛みと後悔、虚無感。重い心でなすすべなく、かつて主に従っ
て行くために、捨てた網を再び取り、漁に出た。しかし魚は一匹も
とれない。

かつてはベテラン漁師であり、漁においては自負があった。追い打
ちをかけられるように、ますます打ち砕かれ、惨めで、どん底だっ
た。そんな時、主から御声が臨んだ。「食べる物がありませんね」
正直に自分の状態を認めた。「はい、ありません」まさに実情だ。
そして、これがいつも回復への秘訣だ。自分には無い、無力である
事を、正直に認める事だ。

愛が無い、能力が無い、信じられない・・。その時「右側に網をお
ろしなさい」との指示が来た。彼らは、ただ言われる通りに、網を
右側に下ろした。すると網が引き上げられないほどの大漁だった。
どのような中であれ、主の御声に従う事が大切だ。無力で構わない。
御声に従う時、神の力が臨み、みわざを見る。

主の方から臨み、ペテロを回復させて下さった。「主よ。あなたは
いっさいのことをご存じです」と、ペテロはいっさいを主に明け渡
した。主はペテロを聖霊に満たし、主の昇天後、再び大いなる働き
のために立てられた。どんなに失敗しても、落ち込んでも、その時
の、主からの語りかけに一歩従おう。今、主の示しがあるなら従お
う。
---------------
無力を覚える時、主を仰げば一方的に注がれる恵みに気づく。何と
慰めだろう。愛が無い、能力が無いとしみじみ認める時が最も近く
に主を感じる時だ。素直に主に従える。


2018年10月14日(日)

「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえ で、歩いたことがなかった」使徒14:7



ルステラでのこと、生まれながらの足なえの男性がいて、一度も歩
いた事がなかった。その人が丁度そこに座っていて、パウロが語る
御言葉にじっと耳を傾け、聞き入っていた。彼は自分の足に関して、
何の手だてもなく、何もどうする事もできなかった。生まれながら
の障がいで、どうやっても歩く事は不可能だった。

自らに全く望みを置けない、完全に無力の状態だった。自分で何の
方法も無い。だからこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」
とのパウロの言葉にすがった。すがる事が出来た。もし自分でどう
にか出来るなら、自分で出来る事があるなら、何かにすがりなどし
ない。自分でさっさと行動しただろう。彼はこの言葉にすがりつい
た。全望みを置いて信じて賭けた。この言葉がすべてだった。

自分が完全に無力だからこそ、そうできた。その言葉に頼んだ。信
仰が働き、そこに神の力が臨み、奇跡が起きた。一度も歩いた事の
ない彼が、飛び上がって歩き出した。神の力だった。私達も自らの
無力を知る時が、信じる事の出来る時だ。何の方策も無く、何もど
うにも出来ない。もう信じるしか道がない。その時に信仰が働く。

自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、神へ
の信仰は頭だけになる。御言葉があっても、自分の力、自分の方法
でやって行く。そこに信仰の入る余地はない。信仰とは、御言葉だ
けを頼りに、自分を委ねて行く事だ。そこに必ず神が働かれる。自
らの無力を徹底的に知る事こそが、大きな祝福への道だ。

・・・・・・・・・・・・
何のすべもなく、どうにも出来ない無力な時こそ、大きな恵みの時
だ。弱くない事が問題なのだが、主は日常の様々な出来事を通して、
取り扱って下さっている。壁にぶち当たる時は感謝だ。「わたしの
力は弱さに内に完全に現れる」を経験できる時だ。


2018年10月13日(土)

「こうして彼らは・・すべて主が命じたとおりにした。その後、神は この国の祈りに心を動かされた」Uサムエル21:14



祈っても祈っても、祈り続けるのだが、全く答えが見えないことを
経験するだろうか。又、何か、ずっと打ち続く状況が目の前にある
だろうか。ダビデは3年間引き続くききんがあった。なかなかきき
んが、おさまらない。その時、ダビデは、ききんがおさまるように、
この状況が何とかなるようにと祈ったのではなく、「主のみこころ
を伺った」。

ダビデはこの出来事に、主を仰ぎ、主の御心を求めた。主はどう思
っておられるのか。豊作を求めたのでなく、この事の原因を伺った。
この祈りは主の心にかない、すぐに答えが来た。サウルがギブオン
人を殺すという罪を犯していたのだ。盟約を結んでいたにかかわら
ず、サウルは熱心の余り罪を犯した。その罪を神は見過ごされなか
った。

そこで、ダビデはその事を対処した。ギブオン人たちに聞き、彼ら
が求める通りに、その事の償いを果たした。「その後、神はこの国
の祈りに心を動かされた」罪が示され、その償いをした時に、神は
祈りに目を留められた。罪は祈りの妨げとなる。罪があるなら、祈
りは聞かれない。「あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いて下さら
ないようにした」と。

熱心に祈っても答えが無い時には、立ち止まって、原因を求め、主
の御心を探り求めよう。主はその祈りに答え、御心を示し、正し、
祈りを軌道修正しつつ、正しく導いて下さる。主のお心を尋ね求め
よう。

・・・・・・・・・・・・
時に主は、心の内を探らせたくて、祈りの答えを控えられる場合が
ある。そんな時は祈りを変えて、主のみこころを伺ってみよう。主
が軌道修正を望んでおられる、何かがあるのかも知れない。御霊の
光で、自分も気づいていない心の内を照らし出して下さる。


2018年10月12日(金)

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」ヨハネ4:13


サマリヤの女性は、昼の暑いカンカン照りの最中に、井戸に水を汲
みに来た。普通は、しない事だ。女性たちは涼しくなった夕方に生
活用水を汲みに来た。又、それは井戸端会議を楽しむためでもあっ
た。しかし彼女は、人と会いたくないために、昼間に来た。人を避
けての行動だった。

主は、そんな彼女の何もかもを知っておられた。井戸の所で、主の
方から話しかけられた。ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係で、敵同
士の間柄だ。その中、声をかけた男性が不思議な事を言った。生け
る水を与える事ができ、その水を飲むなら渇く事なく、永遠の命へ
の水が湧き上がると。

彼女はよく意味がわからず、井戸水の事かと思い、もう汲む必要が
ないなら、その水を欲しいと言った。すると「あなたの夫を呼べ」
と言われた。一見、会話がつながらない。井戸水と夫と、どう関係
があるのか。不思議な言葉だ。しかし実は彼女は5回結婚し、5回
離婚し、今は結婚でなく同棲していた。

その彼女の決して誰にも触れられたくない、核心部分をストレート
に突かれた。人は、愛する人、富、名誉、地位、仕事・・この世の
「水」で心を満たそうとする。しかしそこに決して満たしはない。
彼女は男性が自分を満たしてくれると、求めた。だから何度も結婚
と離婚を繰り返した。

だがそこに満たしはなく、救いはなかった。主はその罪を示し、悔
い改めに導き、彼女を真の喜びと満足へと導かれた。私たちにとっ
て、「あなたの夫」とは何だろう。何に依存しているのだろう。そ
こを対処し、真の喜びが湧き上がるように導いて下さる。
------------
内側から溢れてくる喜びは信仰により主からくる喜びだ。渇くこと
がない。もし渇いているなら主に求めよう。「わたしのもとに来て
飲みなさい」と言われる主に求めよう。


2018年10月11日(木)

「しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい」マルコ9:50



料理に必ず塩は必要だ。料理を引き締めて、美味しくうまく味つけ
する。塩気の無い料理はどうだろう。まずくて、食べられたもので
ない。又、甘いものに、かくし味の少量の塩は甘みを増す。酢の酸
味を抑えるのも塩だ。料理に塩は不可欠だ。塩は、防腐剤にも使わ
れ、腐敗を防ぐ。

主は私たちは地の塩だと言われた。この世において、塩の役割を願
っておられる。塩けが無くなったとは、どんな歩みだろう。御言葉
ではなく、この世に合わせて歩む信仰生活だ。基準が御言葉でなく、
人の顔色だったりする。摩擦を起こさないために、カメレオンのよ
うに自分をその場に合わせて変えて行く。

だが、塩に塩けが無くなったら、何によって塩けを取り戻せるだろ
うか。「もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけ
られるだけです」とある。自分の力では塩けなど保てない。御霊が
助けて下さる。

そして逆に塩けが強過ぎる場合もある。効き過ぎると、愛無しの律
法主義に陥ってしまう。言っている事は、全く正しいのだが、愛や
柔和が感じられない。愛なしに正論で責められても、心が苦しくな
るばかりで、受け入れ難い。

正しい事であっても、御霊に導かれて、御霊と共にでなければ、相
手に響かず、届かない。日ごとに主にとどまり、主のとの交わりの
中で、御霊の働きにより、御霊が私たちを地の塩として、用いて下
さる。
----------
信仰が日々の生活の中で生かされているだろうか。主から与えられ
た塩気を自分の内に保てるよう主に留まり目覚めていよう。御霊に
聞きながら適量の塩気で、世に証しして行こう。


2018年10月10日(水)

「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたがに、まことの富を任せるでしょう」ルカ16:11



管理人が主人の財産を乱費していた事が発覚し、解雇を言い渡され、
会計報告を出せと言われた。彼は債務者を次々呼んで、減額にした。
そうすれば、解雇された時、彼らが何とか自分に有利に計らってく
れると踏んだのだ。主人はこの抜け目のなさをほめた。

そして主はこのように「不正の富」で自分のために友を作れと言わ
れた。ここで「不正の富」というのは、悪事で得た富の事ではなく、
「この世の富」という意味だ。「不正」=「この世」の意味であり、
つまりは、この世の富を忠実に、主の御心通りに、喜ばれるように
使えという事だ。

この世にいる間に、この世の富を主に喜ばれるように用いる時、来
たるべき天で、まことの富を任されると。天に帰った時に御国の管
理者とされる。神から任された、この世の富を御霊に導かれて賢く
使えうようにと言われている。会計報告を出すのは、所有者でなく、
管理人だ。

所有者なら自分の物であるので、自由に使えばよいし、報告を出す
必要はない。しかし、管理人は主人に報告の義務がある。私たちも
この世の富は管理であって、所有ではない。主人に喜ばれるように、
主人に御心を問いながら使う責任がある。富は容易に偶像になる。
富に執着し、固執し、振り回されてしまう。

富の主人でなく、奴隷になってしまう。神と富に仕えるなと言われ
たのでなく、仕える事は出来ないと。二者択一だ。どちらかにしか
心は無いと。富の使い方を、まず主に問い祈って用いて行こう。
------------
手にしているものは、働いて受けた当然の報酬と思ってしまいがち
だが、すべては神が整え、与えてくださる一方的な恵みだ。感謝と
共に、管理を任されていることを今一度覚えたい。


2018年10月09日(火)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、 私たちは知っています」ローマ8:28



ある人が不注意で、片方のコンタクトレンズを落としてしまった。
周囲を一生懸命探すが見当たらない。祈りつつ、尚も当たりを探し
続けるが、見つからない。どうしたのかどこを探しても無い。「ど
うしたらいいですか」と、主を仰ぐと「すべての事について感謝し
なさい」との御言葉が浮かんだ。

それで「レンズを無くしてしまい、見つかりませんが、この事も感
謝します」と祈った。するとその時に、主には、すべてにご計画が
ある事が思われた。これだけ時間をかけて探し回って無いのだから、
次に進めば良いのだと思えた。得心が行った。それで店に行って新
しいコンタクトを作ろうと思えた。

そこで店に行くと、残ったコンタクトを見せるように言われ、渡す
と、レンズがかなりの劣化で、ひどく傷んでいる事が判明した。最
近、何だか見えにくく、度が進んだのかと思っていたが、そのせい
だとわかった。そのまま使っていたなら、目を傷めるところだった
と。
私たちにとって、時に、「なぜ?どうして?」と思う事態が起きる。
私たちの目からすると、刺繍の裏側で、時にはぐじゃぐじゃで混沌
状態で、わけがわからない。
しかし、主には行き当たりばったりなど無く、一つ一つにご計画を
持っておられる。主は刺繍の表を見ておられ、素晴らしく綺麗な作
品を造り上げておられる。必ず主の栄光が素晴らしく現れる。目の
前の事態を祈って行こう。一つ一つに主が働かれ、主を新たに経験
して行ける。

・・・・・・・・・・
振り返る時、一つ一つの事が、主により益とされて今がある。時に
目に前に起こる事は、全くわけがわからない。しかし主の約束通り
万事益にされるとは何と感謝な事だろう。自分の失敗又、身に降り
かかる事、すべてを益として下さるとは、何という恵みだろう。


2018年10月08日(月)

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」詩篇119:9



ある人が、職場でどうやってもそりの合わない相手がいた。話すと、
相手は反対意見を言って来る。何かにつけて、自分には逆らう態度
を取る。どうしてもギクシャクしてしまう。相手にトゲを感じ、段
々、話すことすらも苦痛になり、心重い日々だった。そのため、そ
の事を祈りに持って行った。祈っていると、相手の短所、欠点ばか
りに目が行き、そういう見方しかしていない自分に気づいた。

相手を責めて、裁いていた。相手にトゲを感じていたが、自分の側
もトゲを出していた。そんな時「高慢」についての学びがあり、
「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」「自分を卑しくし、死
にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」主の姿に、自分の高
慢、愛の無さを示された。

その事を悔い改め、主にならい、へりくだれるように祈った。そし
てその事に心を向けていた。そんな時、相手と打ち合わせの必要が
生じ、話をしていた時、相手との関係が変化している事に気づいた。
自分が変えられたのだった。へりくだろうとして祈る時、主が働か
れる事を見せられた。普通に平安に対話でき、不思議にトゲが消え
てしまっていた。

こちらが心を開いたせいか、相手も変わった。どちらかが変わると
関係は変わる。まず祈りに持って行く事が大切だ。主はそこで語り、
示して下さる。その示しに従う時に、主が働かれて、みわざを見せ
られて行く。
-------------
主と正しい関係にあるよう御言葉はいつも教え導いてくださる。感
情はすぐ相手すぐに反応してしまうが、御言葉から迷い出ないよう
に祈り、主に従おう。


2018年10月07日(日)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にし ます」ヨハネ8:32



ある人には、不幸な生い立ちがあり、確かに父親に非があった。酒
やギャンブルに手を出し、家族に暴力を振るった。そんな父親を非
常に憎んでいた。憎むべき多くの理由があったし、自分は被害者で、
どう見ても、父親が悪いとしか見えなかった。そんな親を赦すこと
ができず、心は憎しみでいっぱいだった。

そんな中、主に出会い、主を信じる事ができた。そして聖書の学び
を続けていると、ある時、御霊に示された。父親自身に間違いがあ
り、問題があり、父親から多くの傷を受けたが、自分が父親を「憎
んでいること」は、どんなに言い訳しても、それは自分の罪なのだ
と。相手が悪いと自分を正当化したいし、しかし正当化しようとも、
紛れもなく自分の罪なのだと。

父親の罪は、父親と神との関係であり、それは自分のあずかり知る
ところではない。しかし自分は、自分と神との関係において責任が
あり、それが罪である事がはっきりとわかった。そのため、それを
認めて告白し、神の御前に悔い改めた。

その時、心の中の重い大きな鉛のようなかたまりが溶けて行くよう
に感じた。心が落ち着いて、安堵が広がった。確かに相手が悪く、
自分が被害者である時、自分の心の部分が隠れて見えなくなってし
まう。しかし、主はいつも私たちを愛して下さっているので、自由
にし、解き放ち、平安にしようと働きかけて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
被害者である時に、見えにくくなる。相手が悪い時、憎しみが正当
化されて隠れてしまう。苦しいので、相手のせいと、ますます憎む
事になる。実は、主と自分の関係において平安が無いから苦しい。
人は関係無い。主が正しく導いて下さるよう祈れる事が感謝だ。


2018年10月06日(土)

「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もす ることはできません」ヨハネ14:30


サタンは全知全能ではない。神に許された範囲内でしか働けない。
ヨブ記のように「持ち物はいいが、身体はいけない」、次に挑戦し
て来た時には「身体はいいが、しかし命には触れるな」。神は限度
を定めておられ、それ以上は手を出せない。サタンはユダの心に、
主を売ろうとの思いを入れた。そのユダは主を銀貨30枚で売ってし
まった。無実の罪で捕らえられた主は、サタンにより十字架へと追
いやられた。

神はサタンを止める事も可能だが、働く事を許された。結果的に、
そのサタンは、神の御旨の成就のために用いられた。神は全知全能
であられ、神が全主権を握っておられる。サタンは主を十字架の無
残な死に追いやったが、その結果、主の十字架は人類の贖いを成し
遂げてしまった。もう誰も、サタンすらどうする事も出来ない。こ
の贖いの成就を、元に戻す事が出来ない。

ペテロもサタンにやられてしまった。自己過信していた。自信に溢
れ、命を捨ててでも従って行けると豪語した。しかし主が捕らえら
れた時、恐怖で保身に走り、呪いをかけて誓ってまで、知らないと
主を裏切ってしまった。しかし、主はそれをも予めご存じで、ペテ
ロの将来を見据えておられた。「サタンがあなたをふるいにかける
ことを願って聞き届けられた」サタンのふるいだと。

ユダは悔い改めず、ペテロは悔い改めた。ペテロは粉々に砕かれ、
自らの弱さを徹底的に知らされた。サタンは働くが、神はサタンを
も利用して、私たちを更なる成長へと導かれる。

・・・・・・・・・・・・・
サタンは絶えず祝福を奪うために、妨害して来るが、主の許しの範
囲内だ。主の支配の内だ。サタンは働くが、それをも私たちの成長
のために利用される。力を持って攻撃して来るように見えるが、し
かし、背後に更に力ある主に主権がある事を覚えよう。


2018年10月05日(金)

「私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ・・私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」民数記13:32



「心配」とは、主を信頼せずに、問題を自分が取り込む事だ。そこ
に主を信じる信仰が飛んでしまっている。問題を自分が抱え込むの
で、ずっしりとすべてが自分の肩にかかる事になる。そして来る日
も、来る日も、繰り返し繰り返し、問題への不安と思い煩いを反す
うし、問題を心の中で、ますます大きく強固なものにし、モンスタ
ーにして行くことだ。

毎日毎日繰り返していたら、ますますその事に心が奪われ、とりつ
かれ、身動きできないものになる。自分で問題を巨大にする。いつ
しかその問題は、自分を「食い尽くす地」「背の高い巨人」「自分
はいなご」となってしまう。

又、憎しみや妬みも同様だ。それを主のもとへ持って行かないなら、
御言葉を信じ、信仰を働かせないなら、憎悪と嫉妬は、毎日毎日繰
り返す事により、どんどん膨らみ、大きくなり、自分で成長させ培
って行ってしまう。そのような状態だろうか。問題を心の中で繰り
返し反すうするのでなく、御言葉を繰り返し、繰り返し反すうすべ
きだ。

御言葉を「口から離さず、昼も夜も口ずさむ」なら「すべてのこと
を守り行なう」ことができる。そして「あなたのすることで繁栄し、
栄えることができる」。問題をずっと見続けている事に気づくなら、
問題でなく御言葉に目を転じ、御言葉を見続けよう。その問題は
「私たちのえじきとなる」「主がともにおられる。恐れるな」「上
って行って占領しよう。必ずできる」主は指針を与え導いて下さる。
--------------
思い煩う時は、気づかないうちに問題の前でじっと立ち止まってし
しまっている。委ねるとはもっと積極的な行為だ。主に渡そう。繰
り返し、繰り返し、御言葉を思い起こそう。必ずできる。


2018年10月04日(木)

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」ローマ10:17 



主はイスラエルのために、多くの教えを与えられたが、彼らはその
教えを他国人のもののとみなした、とホセア書に出て来る。主から
の御言葉を、他人事、よそ事として聞き、決して自分たちへ向けた
ものとはしなかった。自分とは無縁なこと、無関係な事であった。

私たちはどうだろう。礼拝でメッセージを聞く時、又、デボーショ
ンで御言葉を読む時、他人事としていないか。自分への言葉、自分
の事として聞かないので、どこまでも傍観者であり、心に留まらな
い。右から左にすり抜けて行く。御言葉が心に刺さることも、根づ
くこともない。

又、自分には当てはめないが、他人に当てはめて、あの人に、この
人にピッタリだと。あの人、この人は変わるべきだと。しかし、御
言葉をそのように聞くべきではない。ただただ自分の事として聞く
べきだ。物差しを人に向けず、自分にのみ向ける事が肝心だ。人に
向けると、いつしか裁きとなって行く。

他人の小さなちりに目をつけるが、自分の大きな梁に気づかない。
日頃の御言葉の聞き方はどうだろう。他国人のもののように聞いて
いないか振り返ろう。メッセージを、御言葉を、自分自身に、自分
の生活に当てはめよう。御言葉は光として、心の内を照らし出し、
鏡となり自らの本当の姿を映し出す。

心の奥が探り出される。慰めや励まし、指針が来て、罪の指摘や矯
正がある。御声に従って行く時、必ず成長して行く。変えられて、
新しくされて行く。聞く態度が重要だ。
----------------
日々、目にし耳にする御言葉を一つでも、自分の事として受け取ろ
う。感謝できない心が示されたり、また慰められたり、この世にあ
って御言葉が心を熱く燃やしてくれる。


2018年10月03日(水)

「イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分たちの天幕に逃げた・・神の箱は奪われ、エリのふたりの息子、ホフニとピネハスは死んだ」Tサムエル4:10



イスラエルの民は、とにかく主の契約の箱さえあれば、主はご自身
の契約を果たされるのだから、自分たちは敵から守られると考えた。
自分たちが契約に対して、全く真実でなかったとしても、契約の箱
がある限りは、大丈夫だと思った。しかし、そうではなかった。神
は民が偶像礼拝し、神から離れて行く時、彼らが敵に打ち負かされ
るに任せられた。

彼らは、御名のために、ご自身の栄光のために、神は自分たちを救
って下さるはずだと思った。自分たちが負けるなら、神の御名が立
ち行かない、御名が汚れる。だから必ず助かるはずだと高をくくっ
ていた。しかし、神は罪をあいまいにされたり、ごまかしたりされ
る事は決してない。何よりも聖なる方だ。

民は敵に打ち負かされ、天幕に逃げ帰り、疫病で歩兵三万人が倒れ、
契約の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。
徹底的な敗北だ。都合が悪い事はふたをし、おおい隠されるのでは
ない。敵の前にも隠されない。人間は勘違いをする。不祥事は証し
に悪いと、とにかく隠し、ひた隠しにする。

しかし敵の前で、民が敗北する事によって、神の聖さを現わされる。
神は聖いお方だ。キリストとベリアルは何の関係も無く、光と闇も
何の関係も無い。おおい隠す事によってでなく、敗北によって罪を
明らかにされる。聖なる方だ。そして悔い改めて歩む時に、大きな
恵みにおおわれる。
----------------
かたちだけを整えれてばたばたと動き回れば、信仰そのものが空洞
化していく。気をつけよう。失敗は真に悔い改め、聖なる主と共にい
よう。それがいつでも最善で最強だ。


2018年10月02日(火)

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ローマ8:14


ある人が、小さい頃から、下の兄弟たちの面倒をずっと見て来た。
両親が忙しく働いていた事もあり、親代わりに世話をし、家の手伝
いもして来た。親も疲れ果てて帰宅する日々に、親に甘えるどころ
か、親の親になっていた。自分の気持ちを抑え込み、良い子でなけ
ればならず、我慢に我慢をして、良い子でずっと生きて来た。

そしてそれは、信仰を持ってからも良い子クリスチャンとなった。
自分では全く気づかなかったが、神の前でさえ良い子でいようとす
る。だからそれは本当の自分では無いので、主との間に距離があっ
て、主の愛がわからず、教理の、頭の知識でしかわからなかった。

実感が全く無かった。本心を隠したままで、本当の気持ちなど、到
底出せなかった。ところが度重なる試練に、八方塞がりで追い詰め
られ、行き詰まり、良い子を演じる余裕が無くなり、許容量オーバ
ーとなり、ついに底の本心を主にぶつけた。それは怒りだった。こ
れまで懸命に従って来たのに、この散々な状況に怒りが爆発した。

しかし、その本心を主に吐き出し、ぶつけた時に、初めて主から答
えを得た。驚きだった。良い子でなければ受け入れて貰えないと思
っていた。しかるに、生きた交わりを初めて経験した。主に何でも
心の内を言っていい事がわかった。心に初めて経験する安堵が来た。

喜びが湧き上がり、平安を知った。主との間に距離があるだろうか。
あるがまま祈ってみよう。「アバ父」「お父ちゃん」と子供になっ
て素直に御前に出てみよう。私たちは子どもだ。
--------------
いくら知識で主を知ってもそれは観念だ。直接、御父から来る豊か
な恵みを味わおう。御霊を通して御父を知り、信じて実践して経験
していこう。


2018年10月01日(月)

「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5


信仰生活、いつも神の御言葉に立つよう教えられる。しかし、目に
見えるところと神の御言葉が相容れない時、現実とズレがある時、
どうしているだろう。ある人が二つの「でも」があると言った。
厳しい困難が生じた時、「神は益とされる」「神は最善をされる」

「神はご計画をお持ちだ」「神は愛して下さっている」、「でも」、
こんな状況で、この悲惨な真っ暗な現実で、どこが愛なのか。神が
愛なら、なぜこうなっているのか。どこが最善なのか。最善などで
なく、最悪ではないか。何で信じられよう。その「でも」だ。


もう一つは、目に見えるところ真っ暗闇で、先も真っ暗で、全く何
も見えないが、「でも」神を信じ、神の愛を信じ、神の言葉を信じ
ようの「でも」だ。どちらに立つかで、天と地ほどの差となる。信
仰の「でも」を選び取り、全く何も見えなくとも、御言葉に立つ時、
必ず御霊の実を結んで行く。

不信仰の「でも」を選ぶなら、愚痴と不平不満、失望落胆、怒り、
落ち込みの肉の実を刈り取って行く。ある人が、家族が次々と病や
けがに倒れ、身動き取れない困難のまっただ中で、信仰の「でも」
を選び取り、神は最善以下をされない事を堅く信じ、信仰により、
神に感謝を献げた。

すると、その信仰は本人だけでなく、周囲をも引き上げて行った。
周囲の人々がその態度に、神を見せられ、周囲に大きな恵みと励ま
しをもたらした。そして、目の前の状況が一つ一つと導かれて行く
のを。皆で見せられた。
----------------
でも無理だろうと御言葉を信じようとせず目の前だけを見て行動
するなら、逆にいつまでも魂は揺らぎ平安がない。御言葉を土台に
信仰のでもを選び取っていこう。主の平安がある。