2018年11月30日(金)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3


ある人が、主を信じてからも、古い習慣が根強く残っていた。それ
は、何かあるとすぐに人に頼り、聞いて貰い、答えを得る事だった。
聖書の学びを通して、まず主に祈る事をずっと教えられた。ある突
如の問題が起きた時、まだ携帯の無かった頃、次々と導き手や主に
在る友人たちに電話した。ところが次々と電話するが、何と全員が
出かけていて留守録だった。

その時にハッとして、いつもの学びに気づいた。まず人に頼るので
なく、まず主に頼り、祈る事だと。主の示しを感じた。その問題を
まず祈りに持って行けた。その祈りは答えられた。又、ある時は経
済的苦境に陥った。突然の大変な出費があり、給料前で手元にお金
が無くなった。赤ん坊のミルクとオムツが無い。

どうしようもなく、未信者の夫が、友人に少し借りて来ると言った。
給料日にすぐに返せるからと。だが自分は、まず主に祈り、主に頼
りたかった。心の中でその事を祈った。すると夫が、行く前に、近
くに住む一人暮らしの義父をのぞいて来ると出た。主に感謝して、
夫が出た時間、必要を求めて、心を注ぎ出して祈った。

長く祈っていて、ふと背後に人の気配を感じた。すると何と夫が、
両手にミルク缶とオムツの袋を持ち、立っていた。驚いて聞くと、
行くと丁度、職場の上の人が義父の見舞いに来てくれ、見舞金を置
いて行ったと。とりあえず必要な物を買って来たと。即、祈りに答
えられ心から感謝した。そして主のご愛に触れて、心は喜びで満
ちた。
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平安をください、助けてください、知恵を与えてくださいと、こと
ごとく神を呼ぼう。祈るとふっと知恵が与えられたり、そうだった
と忘れていた事を思い出したり。理解を超えた助けが神からくる。


2018年11月29日(木)

「「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する」イザヤ14:24



イスラエル王アハブは、ラモテ・ギルアデをアラムから一緒に取り
返そうと、アラムと戦うよう、ユダ王ヨシャパテを誘った。すると
ヨシャパテ王は、まず主の言葉を聞くことを要請した。それでアハ
ブ王は預言者400人を集め、伺いを立てた。彼らは全員、上って行く
ようにと言った。

しかし預言者ミカヤは、一人正反対の預言をした。アハブ王が偽り
の霊に惑わされている事、殺される事を告げた。だが結局、アハブ
王とヨシャパテ王はアラムに攻め上った。アハブは巧く逃れ、自分
は助かろうとして、ヨシャパテに王の服を着せ、自分は変装した。
何と敵を欺いて、ヨシャパテを狙い襲わせ、自分は逃れようとした。

しかしアラム王の命令は、イスラエル王アハブだけを狙えというも
のだった。敵は、ヨシャパテをイスラエル王と間違い攻撃をしかけ
たが、ヨシャパテが主に祈った時、敵は、彼が王でないとわかり、
引き返した。神の関与だ。そして一人の兵士が、何げなく放った矢
が、何とアハブに的中し、刺さり、アハブ王は死んだ。

別に彼はアハブを狙ったわけではない。何げなく放っただけだ。こ
こに神が関与し働かれた。そしてミカヤの預言が成就した。神の完
璧な主権と支配を見る事ができる。人がどう画策しようと、神の御
心が成就する。厳粛な事だ。それゆえ、神に、人生も自分自身も委
ねるのが最善だ。あなたへの最善のご計画が一つ違わず、成し遂げ
られる。そして、安んじていることができる。
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全てが神のご支配で、御心が計られて今がある。耐えられないよう
な試練の中であっても、それを必ず神が最善のために働かせてくだ
さると確信していられるのは何という平安だろう。


2018年11月28日(水)

「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」マタイ15:23



異邦人であるカナン人の母親が主に助けを求めた。愛する娘が悪霊
につかれていた。彼女の求めは、非常に切実であった。「ダビデの
子よ」と求め、すがりつくように叫び求めた。この必死の叫びに、
主は、答えて下さるはずと私たちは思う。だが主は「一言もお答え
にならなかった」。冷ややかな無視に思える。

しかし彼女は決して諦めず、大声で叫びながらついて来る。弟子た
ちが、帰して欲しいと苦情を言った。それに答えて、「イスラエル
の羊以外には遣わされていない」と言われた。すると彼女は「ダビ
デの子」を「主よ」と変えて、決して諦めず、尚も助けを求め続け
た。

カナン人の彼女は異邦人であり、イスラエルではない。「ダビデの
子よ」と言う権利は無い。彼女はへりくだって正しい位置についた。
すると、主は「子どもたちへのパンを、子犬に投げてやるのは良く
ない」と言われた。何という冷たい言葉、に聞こえそうだが、そう
ではない。

実は、主は彼女が正しく求める事ができるように、正しい道筋へと
ずっと手助けをしておられた。彼女は「その通りです」と認め、へ
りくだり、「しかし小犬でも食卓から落ちるパンくずはいただきま
す」と求めた。主は彼女の信仰に驚かれた。娘は癒された。彼女は
主があわれんで下さると信じたからこそ、諦めなかった。

主への信頼だった。怒ったり、腐ったり、いじけたらどうだろう。
彼女は「その通りです」とどこまでも受け入れ、へりくだった。そ
して、一見拒絶されたかに見えそうだが、主を信じた。あなたも今、
信仰を試されているだろうか。主は正しく導いて、答えて下さる。
求め続けよう。
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様々な悲しみを抱えて日々主の前に祈るが、主の応えがないように
思えてしまう時もある。その時でさえ導きの中と、主の前にひたす
ら、へりくだりあわれみを求め続ける者でありたい。


2018年11月27日(火)

「愛する人たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」ローマ12:1



救われた私たちに、まだある古い性質は、攻撃されたら黙っていら
れない。怒りが湧き、仕返しがしたい。それも何倍にもして報復し
たい。批判、悪口、非難等を受けると、相手に立ち向かって行こう
とする。相当な反撃をしたい。実際、外側には出さずとも、内心怒
り心頭で、何とか復讐したいと思う。

やられたら、やり返したい、それも何倍にもして。古い、罪の性質
だ。しかしこの復讐心は、ますます怒りを激しくし、憎しみへと増
幅させる。互いの間を引き裂いて行く。報復の連鎖が生まれるばか
りだ。相手への憎しみ、恨み、許せない思いは、自分自身を苦しめ
る。相手ではなく、苦しいのは自分だ。牢獄にいるようだ。

平安も全く無い、しかし自我は怒りを手放したくない。怒っていた
い。これは自分自身を痛めつけて行く。実際、恨みで傷害事件を起
こし、自らの人生を破滅に追いやってしまうニュースを見聞きする。
どうすれば良いのか。神は自分で復讐するなと言われる。わたしが
報復するからと。復讐はわたしのすることだと。神は完全な正義を
持つ方で、神が正しく裁かれる。

完全に正しいお方である神に、私たちは目の前の事態を委ねること
が出来る。自分で復讐せずに、神にお委ねしよう。正しく正確に裁
かれる。そして、委ねた時に、復讐心が自分の手から離れ、私たち
の心も平安にされる。自分で、どうこうしようとしないからだ。そ
の平安は何ものにも代えられない。
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何倍にもして返したいという怒りを持ったまま生きるのは、何と苦
しいことか。神はその叫びを聞いてくださる。神の怒りにお任せし
よう。神は必ず正しく裁いてくださる。


2018年11月26日(月)

「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病をいやしてくれると思っていたのに」U列王5:11



将軍ナアマンは、らい病を患っていた。そんな時、捕虜の少女から
エリシャの事を聞いた。それで、らい病をいやしてもらうために、
エリシャのもとを訪れた。しかし将軍が、馬と戦車を伴い、たいそ
うないでたちで、直々に訪ねているにかかわらず、エリシャは会う
事もせず、使いの者に伝言で用を済ませた。

その扱いに、ナアマンはプライドをひどく傷つけられた。ましてや、
厳かな儀式で手を置いて癒すのではなく、ヨルダン川で七回身を洗
えと。とてもじゃないが受け入れられない。ダマスコにもっと良い
川があると激怒だ。ひどく傷ついたからだった。神はこのナアマン
のプライドをご存じで、エリシャを用いて、砕こうとされた。

自分はいっぱしと思い、人よりは上と思い、自分の思いに神を従わ
せようとする態度は、ナアマンだけだろうか。人間のプライドは、
神の恵みと相反する。相容れない。神はナアマンに、真の救いと、
真の癒しを与えるがために、そのところを通された。彼の非常に高
い「プライド」が取り扱われる必要があった。

彼は怒って帰途についた。その時、しもべ達がナアマンに進言した。
難しい事を言われたならプライドが保てた。しかし、余りにも単純
で簡単で、又、人々の目にさらされる奇異な状況に、とてもプライ
ドが許さない。だが、とにかく言われる通りしてみたら、いかがな
ものかと。

ナアマンはその進言に耳を傾け、プライドを捨てて従った。すると
奇跡が起きて、らい病が完全に癒されたのだった。あなたも今の問
題はプライドだろうか。自分の思いを通そうとしているか。主が取
り扱おうとされているか。それを捨てて従う時、大きな祝福に出会
う。
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自分の価値観の中で、納得いく方法であわれみを受けたいという、
あくまで傲慢なナアマンに学ぶことが多い。引き返さず導きに従お
う。従順の先に大きな主のあわれみと祝福が待っている。


2018年11月25日(日)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには 時がある」伝道の書3:1


主は、家を出て、荒野で野宿するヤコブに現われ、「あなたをこの
地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し就げるま
で、決してあなたを捨てない」と約束された。この地に連れ戻すと。
しかし、その約束の成就には、1年や2年ではなく、20年の月日を
要した。20年とは、気が遠くなるほど長い歳月だ。私たちは、しば
しば待つ事が苦手だ。

しかし、神は早急にではなく、地道に、時間をかけながら、こつこ
つと私たちを導かれる。今の1日1日は、主に在って、練られきよ
められ、造り変えられる途上にあり、1日とて決して無駄な日は無
い。必ず時は満ちて、「神の時」は到来する。そして神の約束が成
就して行く時には、よく見ていると、予兆がある。

微動だにしなかった状況が、少しづつ動いて行く。環境に微妙な変
化が出て来る。ヤコブの周囲の状況も変化して行った。ラバンの息
子達が、父の物をみなヤコブが盗んだとの物言いをする。ラバンの
態度も変わって来た。このままなら争いが起きそうだ。ヤコブへの
対応が変わり、微妙な空気を感じ取る。

そんな時に、はっきりと主の御声が臨んだ。「さあ立ってこの土地
を出て、あなたの生まれた国へ帰れ」と。神の時が来た。私たちも
状況の変化をよく目に留めていよう。そして、明確な、神の御言葉
が臨む時が、行動を起こすべき時だ。必ず神の時はやって来る。

・・・・・・・・・・・・・
試練にも、主の定められた期間がある。それより延びる事は無い。
試練のまっただ中では、苦しみが永遠に続くように思えてしまうが、
すべてに時がある。耐えられない試練は無く、逃れの道があり、試
練の度に成長が与えられる。状況でなく御言葉を見つめていよう。


2018年11月24日(土)

「そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた・・わたしはあ なたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与えよ う」創世記28:13


ヤコブは父親と兄を騙し、兄の怒りを買い、家におれなくなり、遠
く伯父のもとへと逃げる。途中の荒野で、独りぼっちで野宿をする。
今後の不安や恐れ、又、寂しさや孤独に襲われただろう。そんな時、
主が現れ「この地であなたの子孫は増え広がり、あなたを祝福する。
わたしが共にあり、どこへ行っても守り、この地に連れ戻す。約束
が成就するまで、あなたを捨てない」と語られる。

主の言葉は必ず実現する。主はヤコブを握り、決して放さず、成し
遂げられる。伯父ラバンのもとに身を寄せるが、この伯父がしたた
かであり、ヤコブは非常に厳しい訓練を受ける事になる。ラバンに
騙され、レアとラケルという二人の妻のために14年の労働を強いら
れる。更にラバンの群れを飼うために6年間、寒さと暑さに悩まさ
れ、20年の辛く苦しい労働をする。

父と兄を騙したヤコブはラバンに騙される事になった。苦しい訓練
だ。しかしその中にも、主は共にいて、ヤコブを堅く守られた。や
がて神の時が到来で、故郷に帰るが、エサウが恐ろしくてたまらな
い。復讐され皆殺しにされるのでは。策を練り、対応するが、最後
の心の奥底にある恐怖がどうにもならない。

ヤコブの問題は、「人を押しのける者」との強固な自我、自己中心
にあった。とうとう神が主権を取り、ヤボクの渡しで、ヤコブを
粉々に砕かれる。自分の策略と自分の力で生きて来たヤコブが、自
分で立てず、神に拠りすがる者に変えられた。神は握った者を決し
て放されず、約束を成し遂げられる。私たち一人一人もしっかり握
っていて下さる。

・・・・・・・・・・・・
懲らしめは主の愛だ。様々な環境を用いて、私たちを訓練し、砕き、
練り、聖めて行って下さる。主が握られたヤコブを放さず、造り上
げられたように、私たちも握って放されない。御霊の実を結ばせて
下さる。目の前の訓練を受け入れられるよう、祈ろう。


2018年11月23日(金)

「私の助けは、天地を造られた主から来る」詩篇121:2



都上りの歌となっていて、エルサレムへ巡礼の旅に出る時のものだ。
「山に向かって目を上げる」、これから上って行かねばならない、
困難な険しい山々だ。エルサレムは遙か彼方であり、幾つもの山々
が行く手を阻んでいるかに見える。当時の旅は、今では、想像もつ
かないほど困難且つ危険なものであった。

今のように、ちょっと都へというわけにはいかない。途中で病気に
なったり、けがをしたり、又、盗賊に襲われる危険もある。命にか
かわり、無事に帰れるかどうかもわからない。そんな中で何が助け
になるのか。目の前に立ちはだかる困難に「助けはどこから来るの
か?」との問いになった時に、私の助けは「主から来る」と答えが
来る。

ある人が、学校の試験で不正をしてしまった。カンニングをし、そ
れは大きな罪責感となって、心がふさがれ、心さいなまれた。苦し
くてたまらなかった。大きな山のように、心に立ちはだかった。辛
くて苦しくて祈った時にまさに「山に向かって目を上げ」「私の助
けはどこから来るのか」の心情だった。その時に、助けは「主から
来る」と語られた。

主からの答えだった。嬉しかった。悔い改めて、勇気を持って担任
に話し、謝った。担任は受け止め善処してくれた。心底の平安を経
験した。私たちも山のようにそびえ、行く手を阻む悩み問題を通る
事がある。しかしすべての状況も主の御手の内だ。どんな時も「助
けは主から来る」、天地を造られた主だ。主のもとへ行き、ありの
ままを祈ろう。
--------------
助けはまどろむことも眠ることもない天地を造られた主から来る。
出来る出来ないを自分の問題としてしまわず、ゆるぎない信仰を持
って主に頼り祈ろう。


2018年11月22日(木)

「わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日・・彼らは、わたしが主であることを知ろう」エゼキエル24:25



私たちは、神以外のものに執着すると、神が見えなくなってしまう。
太陽の前に10円玉を置くと、あんなに大きな太陽が全く見えなくな
るように。そのように、神の前に置いたものは、偶像となってしま
う。主を裏切ったユダは、主の前にお金を置いたばかりに、主が見
えなくなった。

金持ちになりたがるなら、誘惑と罠に陥り、破滅と滅びへ向かう欲
に陥るとある。「金持ち」とは金銭だけでない。地位、名誉、賞賛、
評価、人の上に立ち、人を支配したい欲であり、自分が認められた
い欲望だ。その欲は、悪魔の誘惑と悪魔の罠に陥るとある。信仰か
ら迷い出てしまう。そして迷い出ていて気づかない。

クリスチャンになれば、石や木の神を拝む事などまず無い。気をつ
けるべき偶像は目に見えないものだ。飲酒やギャンブルならすぐわ
かるが、それが麗しい、愛するもの、慕わしいもの、喜ばしいもの、
良いものであると気づかない。握り締めて放さないものがあるだろ
うか。神より大切になってしまっているだろうか。

自分の内に偶像がないか、御霊に探って頂こう。そのままにしてお
くと、ユダではないが命取りになってしまう。主のもとに行き、主
に告白し、偶像を献げよう。きよめられ、主がはっきりと見えて来
る。10円玉が除けられると太陽がくっきり見えるように。その時、
ぼんやりしていた、神の御声が聞こえ、信仰に前進できる。
-------------
心に慕うもの、活力としているものの光で、簡単に主が見えなくな
ってしまう。主に慰めや助けを求める時は、足りない自分を認めた
ときだ。与えられている物ばかり見ていないか探っていただこう。


2018年11月21日(水)

「食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」ルカ15:23


家を出て、父親からの財産を使い果たし、放蕩三昧で帰宅した弟息
子だが、父親は大喜びで迎え、宴会を開いた。なぜ父親は大喜びし
たのか。「死んでいた」のが「生き返った」からだった。彼は、我
に返って戻って来た。御父は、悔い改めて、父のもとに戻る事をこ
んなにも喜ばれる。

ここに兄が仕事から戻るが、この事態を耳にし、怒りで震えた。自
分は今まで遊びもせず、我慢して懸命に父のもとで働いて来た。そ
れを好き放題して、遊びほうけて帰宅した弟のために宴会とは、一
体どういう事か。有り得ない、納得が行かない。我慢している自分
は何なのか。怒りがおさまらない。父の思いが全くわからない。

この世の価値観では、兄の方が常識的に見えてしまう。その通りで、
弟を甘やかすな、もっと厳しく扱うべきだと。どうせ又、同じ事を
するに決まっている。まず下働きでもさせてみて、本気かどうか確
かめるべきだ。それまで雇い人がよい。弟も弟だ。どの面下げて帰
れるのだ。これが世の価値観だ。だから兄の方に納得が行ってしま
う。

しかし神の価値観は全く違った。父親は、息子が何をして来て、今
どんな状態なのかをすべて知った上で、帰った事をどんなにか喜び、
無条件で受け入れた。どん底で、ぼろぼろで、打ちのめされた、そ
のままを受け入れた。又、兄息子をも、とがめず叱らず受け入れて
いる。

わたしのものは全部お前のものだと。大きな愛情を表している。私
たちも信仰生活で、兄、弟、のどちらにもなる。どうであれ、父の
もとへ帰る事を大喜びで迎えて下さる、その無条件の愛に心してい
たい。
---------------
父なる神にとって一人一人が弟息子と同じように、愛する対象で、
喜びの対象とされている。何という特権だろう。いつも受け入れら
れている。兄の目になる時は父から離れていると気づきたい。悔い
改めていこう。


2018年11月20日(火)

「おいでになるはずの方は、あなたですか、それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」マタイ11:3




バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不法を真正面から間違っている
と指摘した。そしてその結果、投獄された。ヨハネは正しい事をし
た。神は正義なるお方、自らの投獄は理不尽であり、それこそ不法
だ。何の罪も犯していない。神の御前に誠実に歩んだのであり、主
が正しい対処をして下さるはずと思ったに違いない。

しかし投獄されて、幾日が過ぎても、何の音沙汰もなく、何も起こ
らない。イスラエルの王国を打ち建てられ、王となられるのではな
いのか。正しい事をされるお方ではないのか。自分が思っていた義
なる方、力を持って裁く方であるメシヤ像と弟子たちから伝え聞く
メシヤ像がかけ離れていた。

それで、弟子たちに主に「おいでになるはずの方は、あなたですか。
それとも別の方〜」と問わせた。主はその時に、弟子たちに答えと
して、「自分の聞いたり見たりしていることを報告せよ」と言われ
た。目の前の「事実」を告げよと。「盲人が見、足なえが歩き、死
人が生き返り〜」これらは、救い主到来の時の預言であり、預言が
成就している。まさに証拠だ。メシアにしか誰にも出来ない事だ。

ヨハネが自分でわかる事が必要だった。人に幾ら説得されても、自
分で受け取ならない限り、納得はできない。自分で御言葉を真剣に
受け止め、真摯に向き合い、事実を認める時に、御霊の助けがあり、
真理がわかるようにされる。預言が正しく成就している事に思いが
至る。私たちも自分の思い、自分の知識、先入観がある時、神が見
えず、物事を正しく捕らえられない。

神の御心と自分の思いが異なる時、つまずくのだが、自分の思いを
除いて行く時に、正しく神が見えて、焦点が合い、御心がはっきり
と見えて来る。「わたしにつまずかない者は幸いです」と言われた。
今、目の前に起きている、この事に神を見、過去のあの事この事に
も神が見えて、神の心がわかって来る。
------------
御心を知るために真っ白な思いで御言葉に向かいたい。目に見える
状況も自分の思いを通して見えてしまう。思い込みやすく簡単に御
心を外れてしまうと、謙遜に主に導きを尋ねていこう。


2018年11月19日(月)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5


あなたも経験があるだろうか。神の御心が成りますようにと祈るの
だが、実は自分の思いと願望で一杯で、口では神の御心なのだが、
本音では全くそうではなく、自分の思いに固執していたりする。し
かし、あえて反抗する気などは無く、一応は御心がなりますように
とは思っているので、そう思っているだけに自分でも気づかない。

自分ではそう思い祈っている「つもり」だが、後で振り返ると、委
ねる事の意味もわかっておらず、神を信頼もしていなかったとわか
る。メッセージで、学びで、神に委ねる事の大切さを、しょっ中教
えられるので、それが良い事と思い、そうしている「つもり」だが、
実は自分の思いと自分の願望をしっかり握って放さない。

しばしば、自分がそうあればいいと思っている事を、実際それが御
心だと勘違いする。反抗したり、逆らっていれば、明らかにわかる
のだが、逆らっているつもりはないので、返ってわからない。気づ
かない。何かが漠然とし、混沌としているのだ。何だか心に確信と
満たしが無い。平安が無い。それで自分でも、何かが違うと薄々感
じている。この問題は、委ねることができないところにある。

心の底を御霊で照らされる時に、委ねていない自分を見い出す。こ
の事を認める事が、前進のためのまず第一歩だ。握っているものは
何だろう。まず委ねられないと、そのまま祈って行けばよい。御霊
の助けを求めて祈ろう。祈りに答えて、導いて下さり、少しづつ〃
取り扱われ、委ねる事ができるようにして行って下さる。
-------------
強い思いがあれば、主よ、この道がどうしても良いと思えてしまい
ますと主に祈ってみよう。委ねられないと気づくことは大切だ。主
の導きに従えるよう、まず思いを主にお預けしよう。


2018年11月18日(日)

「彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分 にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、 また偽りの父であるからです」ヨハネ8:44


サタンは嘘つきだと言っている。攻撃の手段は「嘘」で、「彼のう
ちには真理がない」「偽りを言う時、自分にふさわしい話し方をし
ている」「彼は偽り者であり、また偽りの父」だと。サタンは嘘そ
のものだ。真理が無い。エデンの園で、エバに攻撃の牙をむいた時、
神の言葉に疑いを持たせた。「神は、ほんとうに言われたのです
か?」と。

そして暗に神が「あなたがたの目が開け、神のようになり、善悪を
知るようになること」が嫌なのでは?との巧妙に猜疑心を投げかけ
た。つまり愛されているわけではないのでは?と。サタンの大嘘だ
った。サタンの手口であり、騙そうとしてくる。しばしば、あなた
にも向けられるだろうか。

病気、けが、リストラ、倒産、別離・・「どうしてこんな事が?」
「神は本当に愛して下さっているのか」「愛されていないので
は?」「愛されているのなら、何でこういう事に?」。自らの内に、
ふつふつと湧き上がる思いだろうか。サタンからの攻撃だ。ユダに
主を売ろうとする思いを入れたのもサタンだ。「悪魔は、ユダの心
にイエスを売ろうとする思いを入れた」とある。

しかしこれは、自分が思っているとしか見えない。サタンが入れた
思いだが、必ず、自分が思っていると思ってしまう。自分の考えだ
と思い、そのように行動してしまう。サタンだなどと思わない。そ
れが攻撃だ。疑いの思い、不信感、御言葉に反する思いは、サタン
からの思いだ。ついて行かないよう、拒否するよう、よくよく識別
し、祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・
主の御声とサタンの声が、どちらも思いとなって湧いて来る。そし
てサタンは御使いに変装し、神に似せて来るので紛らわしい。合理
的で信仰的で良い考えに思えてしまう。間違ってしまう。よく祈っ
て主に拠り頼んでいよう。祈り心でいる時に、御霊により守られる。


2018年11月17日(土)

「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答え てくださる」詩篇3:4


ダビデは幾度も辛く苦しい中を通った。詩篇を通して、耐えず心の
苦しみ、嘆き、悲しみ、叫びを祈りによってあるがままに訴えてい
る。又、真実を向けた相手になじられ、愛するにかかわらず、憎し
みで返されるという非常に辛い経験もした。サウル王からの執拗な
攻撃や、実子アブシャロムによる歯向かいは、どんなに苦悩であっ
たろう。

愛情や真摯な心は相手に通じると思いたいが、そうでない場合があ
る。誠意をもって接して来た相手が、立ち向かい、攻撃して来る。
裏切られるという辛い局面を通る。欺きの口と偽りの舌をもって、
憎しみの言葉で取り囲み、なじって来る。

しかしこれはまさに、人間の神に対する態度そのものだ。だが神は、
神に敵対する者を更に追いかけ、ご自身の御子まで殺して下さった。
その御子を私達はどのように扱ったのだろう。神の愛すら通じない
のであれば、罪人であり、自己中心な、人間同士の愛が通じなくと
も不思議はない。

主は十字架上で、人々の罵りに対してどうされたか。敵対する人々
の赦しを御父に祈られた。ダビデも同じだ。サウル王に、実子に、
反撃せずに「私は祈るばかりです」と、どの局面でもダビデは絶え
ず祈っている。ことごとく祈りに持って行っている。相手に復讐
するのでなく、神にすべてを打ち明け、吐き出し、叫んでいる。

どんな時も神に知って頂くことができる。神に心の内を洗いざらい
吐き出したダビデは、いつも賛美と感謝へと変えられている。今、
苦しみの中にいるだろうか。「彼らは、私の愛への報いとして私を
なじります。私は祈るばかりです」、答えは「私は祈るばかり」だ。
神に心の何もかもを打ち明け、聞いて頂こう。神がその事に対応さ
れる。賛美と感謝の結実を見て行く。

・・・・・・・・・・・・
自分の思いで事に対処し、動くと、ますます糸がからまるばかりで、
逆に悪化して行く。まず主に持って行き、祈っていると、主が動か
れ、事態を導かれる。洗いざらい心をさらけ出し、主の呼ばわって
行く時、不思議に心が平安にされて行く。


2018年11月16日(金)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20



ある父親は、子供に対して、常にダメ出しをしていた。言葉遣いか
ら行儀作法に関して、学業成績、又、勉強の仕方・・特に休みの日
など、朝から晩まで、どうしても子供の欠点が目について仕方が無
かった。ガミガミと注意した。子供にすればずっと叱られるばかり
で、何の楽しい事も無かった。

父親自身もストレスでいっぱいになり、楽しくも無く平安も無く、
暗い重い心で主の御前に行き、祈った。心を打ち明け、祈っていた
時に、絶えず「今のお前ではダメだ」と子供を否定するメッセージ
を、送り続けている事に気づかされた。否定しかしていないではな
いか。どんなに傷つけていた事かと思い至り、心から悔い改めた。

その時に、主から家庭が与えられている事に、心からの感謝が湧い
た。そして子供を主に感謝した。すると心に変化が起きて「今のお
前がいい」との気持ちで接するようにされた。いてくれる事が感謝
だと。ある妻は、いつも夫に対して、不満だらけでイライラが募っ
ていた。

家事を手伝わないこと、自己中心なこと、ワンマンな物言いと態度、
常に命令口調で、いちいち怒りが沸いて仕方が無かった。心の中で
腹を立て、口にこそ出さないが、責めては裁いていた。夫に対して
いつも苛立ち、平安が無かった。余りに悶々で苦しいので、主の御
前に祈りにもって行った。

祈り静まっていた時に御霊に示された。夫が自分の思い通りでない
ので、裁いている事に。自分の思いを押しつけようとしている、自
分の強い自我に気づかされた。自分の思いが中心である事を悔い改
めた。神に、御言葉に従い、まず夫が与えられている事に感謝し、
そして夫に感謝した。

その時、不思議が起きて、今まで決して見えなかった、夫の長所が
見えて来た。今まで欠点しか見えていなかった。長所など全く見え
なかった。主の祝福だった。この結婚が建て上げられ、神の栄光が
現わされるようにと、祈りが変えられた。感謝することの祝福と力
を見せられた。
--------------
昨日も今日も恵みはいつも十分に注がれているのに、足りないもの
を数えて祈ってしまう。与えられている恵み気づけるよう、感謝し
て受け取れるように祈りたい。


2018年11月15日(木)

「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが・・父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20



「この息子は、死んでいたのが生き返り」とあり、弟息子は「死ん
でいた」とある。彼は、父を足げにして、父のもとを出た。窮屈で
父のもとにいたくなかった。そして、財産を受け取り、自分の好き
放題、放蕩を尽くして帰還した。死んでいたのが生き返った。だが、
彼は家を出る前も、父のもとにいた時から、すでに死んでいた。

身体はそこにいるが、心は父から離れていた。父は変わらず、息子
を愛し続けて来たが、息子の心は父には無かった。それがわかって
いた父は、どうなるかはわかっていたが、あえて息子のしたいよう
に、望むようにさせてやった。息子は気ままに、好き放題をし、行
き着く所まで行った。

身を滅ぼし、行き詰まり、どん底で初めて我に返った。その時、父
のもとへ帰ろうと決心した。私たちもどうだろう。御父のもとを離
れて、自分の思いで生きてしまう。自分の思い通りにしたいとの強
い欲求があり、思いを遂げる。自我は、誰にも妨げられず、好きな
ようにしたい。そして罪を犯すと、なかなかすぐに帰れない。

どんな顔で帰ればよいのか。誰しもが、少しましになってから帰ろ
うと思う。しかし、父は何を喜ばれるのか。息子が「帰る」ことだ。
父は帰ることをひたすら忍耐し待ち続け、息子を見るや、父の方か
ら走り寄って、抱き口づけした。

父はただただ待つ。腕づくで連れ戻しに行かず、説教しにも行かず、
ただ待つ。息子が自ら帰るのを、ひたすら待つ。私たちは何度も主
を離れる。しかし、私たちの弱さをご存じだ。何度でも立ち返ろう。
御父は待って下さっている。立ち上がって、父のもとへ行こう。両
手を開いて抱き喜んで下さる。
-----------
御父の思いや考えが窮屈に思える心も、自分の思いを通してしまう
心も、私達にも息子の心がしっかりとある。けれど御父はいつでも
心配し両手を広げて待っていて下さる。すぐに立ち返れる。


2018年11月14日(水)

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」マタイ6:21



マリヤは、主がこれから十字架に向かおうとされる事を悟り、彼女
の持てるすべての香油を、主の頭に注ぎ切った。その香油は300デナ
リで、1デナリが労働者1日分の給料であり、給料10ヶ月分だ。今
なら1日1万円として300万円だ。大変高価な物だった。それを見
た弟子達は、何て無駄な事をするのか、貧しい人々に施せたのにと、
マリヤを非難し憤慨した。

しかし、主は、マリヤのその行為の意味を理解しておられた。「わ
たしのために、りっぱなことをしてくれた」のだと。「わたしのた
めに」埋葬の準備にと前もって油を塗ってくれたと。それが、主に
油を塗ることの出来る最後の時であった。それから主は十字架へと
向かわれたのだから。そして、週の初めの日の明け方、何人かの女
性が、主のご遺体に香料を塗るために、墓に行ったが、もう主はお
られなかった。

主は復活されており、誰も油を塗ることができなかった。まさにマ
リヤが塗ったナルドの香油が最後の油だった。これから十字架にか
かる主を、どんなにお慰めした事だろう。マリヤは、大切な香油は、
無くなってしまったが、その犠牲の大きな分、心が一心に主に向か
った。私たちの宝のある所に、私たちの心もある。

マリヤは主への後悔の無い晴れやかな確信が深められた。献げる事
の意味を知り、大きな祝福を味わい、生涯主に献げて生きただろう。
時と機会は大切だ。その時にしか献げる事ができないものがある。
機会を逃してはならない。マリヤのように主の御声に真剣に耳を傾
けていよう。時と機会を悟らせて下さる。
----------------
必要なものは全て天の父から与えられるのに、与えられた物に望み
を置いてしまう。気をつけていよう。ふさわしいものを、ふさわし
い時に用いられたい。


2018年11月13日(火)

「神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだと確信したか らである」使徒16:10


主は私たちを導く時に、環境を通して導かれる場合がある。パウロ
がアジアで宣教しようとすると、聖霊に阻止された。ビテニヤへ行
こうとすると、それも阻止された。つまり状況的に、何らかの事情
が出来て進めなくなったと思われる。「行くな」と言葉で言われた
のでなく、何かの事情が生じて前進できなくなった。

それでトロアスに下った時に「マケドニヤへ渡って来て私たちを助
けて下さい」との幻を見た。この幻を見た時、ずっと祈り続けてい
たであろうパウロは、マケドニヤ行きを神が導いておられると確
信した。パウロは「確信した」ので「ただちに」マケドニアに向か
った。

ここで学ぶ事ができる。神は環境を用いて御心でない道を閉ざされ
る。もしこの聖霊の阻止が無ければ、パウロは御心に反する方向へ
向かっていた事になる。私たちが切に願っていた進路が閉ざされた
時、落胆し、心は真っ暗になる。だがそうでなく、神があなたのた
めに、更にふさわしい別の道を備えておられるという事だ。

又、「確信した」とあり、祈り続けるなら、神は必ず「確信」を与
えて下さる。今、一歩前進を躊躇させるものがあるなら、不安があ
るなら、「確信」が与えられるよう祈り求めよう。「確信する」事
によって、一歩を踏み出すことができる。そして、確信が臨んだな
ら、彼らが「ただちに」マケドニアに向かったように、行動を起こ
そう。

そこで尚かつ行こうか、どうしようかと、ぐずぐずしていたなら機
会を失ってしまう。御心を確信したなら、次に必要な事は、今すぐ
に「ただちに」行動に移す事だ。

・・・・・・・・・・・・・
よくよく祈り、祈りの答えを見張り、又、心の平安を探り、御言葉
に目を留め、環境を見ていよう。アンテナを張っているなら、進む
べき道を導いて下さる。不安があるなら更に祈る時、その具体的な
不安に対して答えを与えて導いて下さる。


2018年11月12日(月)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは 大きな報いをもたらすものなのです」ヘブル10:35



アブラはハムは、子孫が天の星のようになるとの、主の約束を受け、
その言葉を信じていた。しかしながら、なかなか成就しない。待て
ども待てども、長きに渡って子供は与えられない。当時は夫婦に子
供が無い場合、召使いに子供を産ませ、跡継ぎにすることが通常で
あった。

それで、子供ができない中、この慣習にならって、サラが提案した。
主が産めないようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を
持つようにと。アブラハムは自分の言い出した事でなく、サラから
の申し出である事により、受け入れて、女奴隷ハガルの所へ入った。

しかし重大な事は、この時アブラハムは祈らず、主の御心を求めな
かった。自分の思いと自分の判断で、肉で動いてしまった。肉は、
一見、合理的で良い考えに思えるが、必ず問題を引き起こす。ハガ
ルは、子供のないサラを見下した。ハガルはイシマエルを産んだが、
アラブ人の先祖となり、今日のパレスチナ紛争に至っている。

アブラハムが神によらず、自分の判断により、良かれと行なった事
は後々まで大トラブルとなった。アブラハムが100歳になり、人間
的力が、完全に、100%絶えた時にイサクが与えられた。今、あな
たの状況はどうだろう。神の約束を待てずに、神を待ち望まずに、
自分で動くならイシマエルを産み出してしまう。肉の知恵で動かず、
神を待とう。必ず「神の時」に、神ご自身が動き出され、約束を成
就される。

・・・・・・・・・
長い間、全く動かない、微動だにしない事柄も、神の時が満ちると、
突然に動き出す事を経験する。「神の時」がある。その前に自分の
思いで動いてしまうと、刈り取ることになる。時を待つことは、非
常に難しい。そうできるよう主に助けを求めて祈ろう。


2018年11月11日(日)

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与え られます」ルカ11:9



ある人に、真夜中に友人が来た。あいにくパンを切らしていた。そ
れで隣人にパンを三つ貸して欲しいと頼んだが、こんな時間に迷惑
だと、子供がまた起きてしまうと断られた。しかし空手で帰れず、
借りるしか方法がなく、引き下がるわけにはいかない。尚もしつこ
く求め続けた結果、隣人は貸してくれた。

しかしその動機は、うるさくて、もう早く立ち去って欲しかったか
らだ。このままだとずっと止みそうにない。別に愛や親切からくれ
たのではない。しかし神は違う。御父は、私たちを独り子を下さる
ほどに、極みまで愛しておられ、うるさいからではなく、面倒だか
らでなく、愛ゆえに与えて下さる。

アウグスチヌスの母モニカの祈りは有名だ。放蕩息子のために、モ
ニカは何年も何年も祈り続けた。ところが、祈れば祈るほどますま
す息子は堕落して行った。見えるところ正反対だ。だが「涙の子は
滅びない」と言われ、更に尚も祈りに祈り続けた。

そんな中、息子がローマへ行くと言う。ローマは誘惑の溢れた歓楽
街、ローマ行きが止められるよう祈り続けた。しかし、彼はローマ
へ行ってしまった。が、まさにそのローマで、彼は悔い改めに導か
れ、神に立ち返った。祈りは見事に答えられた。

祈りの答えに「神の時」がある。時が満ちると実現を見る。失望せ
ずに祈り続けよう。祈れば祈るほど、事態が悪くなって行くように、
見えたとしても、時が来ると必ず実現し、実を結ぶ。祈りの答えを
見る。御心に適った祈りは必ず叶えられる。

・・・・・・・・・・・
すぐ答えられる祈りがあり、長くかかる祈りがある。祈り続けよと
の祈りがある。又、一見、祈っているのに、更に事態が悪くなって
行くように見える事がある。しかし失望せず祈り続けよと言われる。
目の前の長く祈っている祈り、状況でなく御言葉を見て、祈り続け
よう。


2018年11月10日(土)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上も ない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じ・・成長を遂 げた、完全な者となります」ヤコブ1:2


クリスチャン人生における、神の祝福をしばしば勘違いする。受験
合格は祝福されていて、不合格は祝福されていないと思う。仕事は
常に繁盛で、家族は皆、健康で、いつも嬉しい事、楽しい事が溢れ、
心は喜びで満ちている事が祝福だと。そして最後は天国で、めでた
し、めでたしで終わると。

祝福とは、幸せで楽しい事、問題が無く、平穏無事、順風満帆のこ
とだと思う。だから、ある日突如として、倒産したり、リストラに
なったり、家族が病気、子供は受験失敗となれば、パニックになる。
こんなはずではない。何で?どうして?神は祝福してくれるはずで
は無いのか。

未信者の親族からは、そんな事では信心している意味がない、と責
められる。自分自身も不平不満が募って来る。しかし聖書は、そん
な事は言っていない。信仰人生、順風満帆で問題が何もないなどと
は、一言も言っていない。むしろ多くの箇所に、試練、訓練、鍛錬、
懲らしめ、刈り込みと出て来る。痛いし、辛いがそれは、後の日に
必ず結実すると。平安な義の実を結ぶ。

新しく生まれたからこそ、その新しい性質が主に似るようにと成長
して行くために、多くの訓練が与えられる。懲らしめは、神の愛だ。
「愛」も勘違いしていいないだろうか。暖かく包まれるような、嬉
しい喜ばしい感情的なもの、ハピーな事が愛されている事と。

しかし、聖書は懲らしめが愛だと言っている。「主はその愛する者
を懲らしめ」、必要な事は、根底の価値観を修正する事だろうか。
試練、訓練、刈り込みは、神の愛だ。愛されているからこそ、キリ
ストの似姿へ造り変えようとされている。

・・・・・・・・・・・・・
試練は決して望まないが、でも、後で振り返る時、驚くほど教えら
れ恵まれる。それが無ければ、後の信仰生活は無いと思える。試練
が無い方が私生児だと言っている。試練に会うとパニックになって
しまうが、そこに主を認めて、一つ一つ学べるよう、造り変えられ
るよう祈ろう。


2018年11月09日(金)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33



信仰生活の中で、目の前に様々な問題が起きる。皆、色々な悩みや
問題を通る。それは仕事や生活の必要であったり、対人関係の深刻
な悩みであったりする。問題に出会した時に、どうするだろう。ま
ず驚き慌てて、パニックになってしまうだろうか。まず何とかしな
ければと、自分の肩にずっしり荷がかかり、思い煩いに真っ暗にな
るだろうか。

とにかく目の前の苦しい事態を何とかしたくて、その苦しみを取り
除く事に必死になる。しかし、真の問題のありかを、主は指し示し
ておられる。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうす
れば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。「神
第一」根本の問題は、神とあなたの関係にあると。神との関係はど
うだろう。ここが正しい関係に戻されずに解決は無い。

日々、親しく主と交わっているだろうか。日々に、主を主として認
め、主に従おうとしているだろうか。主との関係を正さない限り、
目の前の問題を何とかしようとしても、空回りするばかりだ。更に
糸と糸が絡むように悪化する。又、神第一無くして、対人関係を何
とかしようとしても、糸がもつれるように、ますますこじれるばか
りだ。

神第一にするならば、それに加えて必要はすべて与えられる。今、
真の問題は、神との関係だろうか。悩みを何とかしようと焦るが、
神との関係に目を向け、見直そう。神に立ち返り、生活の基盤に
「神第一」を定めよう。その時、自分自身が変えられ、整えられて
行き、生活が秩序をもって導かれて行く。
--------------
早い解決が最善の道だと焦るが、問題の中で神を第一と認めたい。
逃げる所は問題の無い所ではなく、神のもと、神が逃れの場だ。
神のもとで待ち望もう。


2018年11月08日(木)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」箴言27:4



妬みは誰しも経験するやっかいな罪だ。サウルはダビデを妬み、妬
みは憎しみに増幅し、殺害の思いにまで高じて行った。カインは献
げ物の事で、神に拒まれた事から、怒りが弟に向かい、弟アベルを
妬み、妬みゆえに実際に殺害してしまった。祭司長たちは、主イエ
スへの群衆の人気を妬んだ。その嫉妬は十字架にまで追い込んで行
った。

妬みは、相手の環境や持っているものを、自分に無いものを羨む事
から始まる。地位、才能、人気、境遇、周囲の評価、賞賛・・。だ
が不思議だが、自分と余りにも環境が異なる相手を妬むことはない。
例えばスターや何かに秀でた有名人に羨望はあっても、それを妬み
に妬んで、どうのこうのは無い。

だいたい自分と同じ位の、同じ種類の相手を妬むと言われている。
手の届くところにいるような相手で、自分の持っていないものを持
っている相手だ。自分が喉から手が出るほど、欲しいものを持って
いる相手。サタンからの妬みの誘惑に要注意だ。

ある人は、どうしても職場の同僚の成功を祝福できず、能力は自分
の方が上なのにと、悔しさで一杯だった。しかし平安は全く無く、
心が重く苦しくてたまらなかった。その状態に耐えきれず、御前に
祈った。「喜ぶ者といっしょに喜び」、とても無理、出来ませんと
心を告げ、長い時間祈っていた。

しかし、このままで良いはずもなく、とうとう意志を向けて「祝福
します」と心を砕いた。相手の祝福を祈った。その時、心に安堵が
来て、すう〜っと心が解き放たれた。とにかくまず主のもとへ行こ
う。御心の解決へと導いて下さる。
-----------
怒りには和解の道もあるが、妬みは陰険な闇の世界でサタンの思う
つぼだ。苦い思いが妬みから来ているのなら、主に認めて、光に出
そう。主に差しだし、手放そう。


2018年11月07日(水)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13


人は自分の非を認めたくないものだ。心には、二人の自分がいる。
そして、あらがい戦っている。一人は「人がどうであれ、罪を犯し
たのは自分だ。自分の罪だ」と言う。しかしもう一人は言い訳し、
弁解し、あれこれ理屈をつける。「相手が悪い。相手のせいで、自
分はこのようにした。相手がそうしなかったら、自分はしていない。

自分は悪くない。それに自分は疲れていた」自分を正当化し、罪を
認めない。一人の自分の内に、異なった二人の自分がいる。罪を認
める自分と認めない自分だ。しかしどんな中でも、神に従って行こ
うとの思いがある時、神は強情な思いを砕いて、悔い改めへと導い
て下さる。人は本音では、罪がわかっている。しかし自我があり、
素直に認められない。

人に注意されたらどうだろう。わかっていても、ムッとなる。言わ
れるとプライドが傷つき、反発心が湧き、心を頑なにする。自分の
内の古い人であり自我だ。しかし、それではいけないとの思いもあ
る。内の新しい人だ。肉が改良されて霊になるのではない。肉はど
こまでも肉、霊は霊だ。

「肉によって生まれた者は肉。御霊によって生まれた者は霊」の通
りに。私たちは、この二つの間にあって選択している。肉を選ぶか、
御霊を選ぶか、御霊を選ぶなら御霊の実を結ぶ。選べるよう主に助
けを求めて祈ろう。失敗した時は、悔い改め、〃前進して行こう。
主がそうさせて下さる。
---------------
強い自我を感じる一方で御霊による導きも示される。立派な言い訳
を肉は用意しても、御霊の導きに従う自由を選ぼう。主が共にいて
前進させてくださる。


2018年11月06日(火)

「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた」詩篇120:1



信仰生活の中で、突如の悩みや問題にぶち当たる。そんな時、どう
するだろう。まず、何とかしなければと、ああでもない、こうでも
ないと、頭グルグル巡らせ、今までの経験、方法を駆使して、対策
を考え出すだろうか。しかし、どうにもできない。目の前の事態に
どうしても解決策が見つからずに、パニックに陥るだろうか。

真っ暗闇に放り出されたように、不安と恐れの深い淵に落ち込み、
思い煩いでいっぱいになる。心臓が圧迫されるような苦しさと痛み
を感じる。そんな時、まずすべき事は「わたしを呼べ」と言われて
いる、主を呼ぶことだ。頭を巡らし、動き回る前に、主を呼ぶこと
だと。主に呼ばわる時、まさに主に触れる。

詩編記者も「死の綱が取り巻き、よみの恐怖が襲い」「苦しみと悲
しみの中にあった」その時「主の御名を呼び求めた」。主よ、私の
命を助け出して下さいと。その結果、「たましいを死から、目を涙
から、足をつまづきから救い出された」。主の御名を呼ぼう。必ず
主がいかに真実であるかを経験して行く。

人気の店では、よく列をなして人が待っている。美味しい食事をす
るためには、順番を待たねばならない。それでも人々は待っている。
電話や携帯は便利だが、すぐに話したくても、話し中に出くわす。
私たちの主はどうだろう。順番待ちも、話し中も決して無い。即、
喜んで耳を傾け、受け止めて下さる。深夜、早朝、時間制限も無い。
あなたも今すぐ、目の前の問題に「主を呼ぼう」。
--------------
考え悩む前にまず祈ろう。問題と自分の間に在るのは何だろう。全
て問題は神を通って自分のところに来ている。率直に、偽らざる思
いを主に告げよう。


2018年11月05日(月)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9



人は皆、必ず失敗をするものだ。失敗しない人は一人もいない。ど
んなに注意していても、人間である限り、どうしてもミスをしてし
まう。完全無欠ではないからだ。あなたも信じられない失敗をした
事があるだろう。大切な事は、その失敗から「学ぶ」事だ。いたず
らに落ち込んでしまうのでなく、学ぶ事が大事だ。

何度転んでも立ち上がって、再び、主に従って行くことだ。幸せな
結婚生活は、夫婦間の努力なしには有り得ない。建て上げて行く努
力が必要だ。互いに相手を思いやり、自分を捨て、日々愛する事を
学んで行き、日々築き上げて行くべきだ。又、友人間も同様だ。

ペテロは人生で、主を否むという大失敗をした。自分は大丈夫、命
をかけても主に従って行けるとの自負が、試みの前にもろくも崩れ
去った。主を裏切ってしまった。しかし、見事に回復され、後に主
の証人とされ、殉教するに至った。ダビデも姦淫と殺人という大失
敗をした。しかし何もかも終わったのではなかった。

ダビデも悔い改め、罪赦され回復させられた。私達も皆、信仰が試
される。時に失敗してしまう。本当に弱い者だ。しかし失敗で終わ
りではない。落胆し、絶望する必要はない。どんな状態であれ、や
り直す事ができる。悔い改めて、そこから学ぼう。

主がペテロにしたと同様に、あなたを再び建て直し、建て上げられ
る。今度は人々を力づけるために、砕かれた者を豊かに用いられる。
いつも恵みは十分だ。心底の弱さの中でこそ、初めて主の力を知る。
主のご愛、慈しみ、主の支え、助けを真に知る。
-----------
自分の弱さを深く自覚する時に、主の支えなしでは生きられないと
謙遜にさせられる。二度と失敗しないぞと強くなるより、主の支え
で立ち上がりたい。主の助けを受け取るために自分の弱さを受け入
れよう。


2018年11月04日(日)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6


ある母親の経験だ。忙しく慌ただしい朝の準備の時に、子供が宿題
のプリントが無いと騒ぐ。どうしても今日提出しなければならない。
登校時刻が迫って来る。母親も仕事に出る時刻が迫る。幾ら探して
も無い。母親はイライラし、怒りが湧いて来る。いつも前日に準備
するようにと言っている。

「何で、前の日にちゃんと準備しないのよ!」腹が立って仕方がな
い。時間が無い。その間も時間は迫る。子供は焦って、泣きべそを
かいている。その時、「すべての事について感謝しなさい」が、ふ
っと頭に浮かぶ。この事も感謝なんだと思う。

しかし、一方では怒りがおさまらない。心の内で子供を責め立てて
いる。この事は感謝なのだという御霊からの思いと、片方では肉の
いら立ちが交錯する。いよいよタイムリミットとなり、「神様!こ
の事態を感謝します!」と信仰を向け、感謝を選択した。

その途端、子供が「あった!」と叫んだ。思いもかけぬ所に置いて
いた。真に主を感じた瞬間だった。一見、負の、不都合な出来事の
背後に、必ず神の素晴らしいご計画がある。感謝する事は、その事
柄に神を認めることであり、信仰を献げることになる。

神はその信仰に働かれ、信じた通りになって行く。「どこにおいて
も」日々のすべての出来事に主を認めて、認めて行く時、主は信仰
を成長させて行って下さる。

・・・・・・・・・・・
一日の生活の中に、主を認めて行く時に、生き生きと喜びあるもの
とされる。そして道をまっすぐにして下さる。御心なら状況を変え
て下さるし、又、状況がそのままなら、取り扱いの中で、心を変え
て、心の方を平安にして行って下さる。


2018年11月03日(土)

「ヨブは主に答えて言った『あなたには、すべてができること、あ なたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました』ヨ ブ41:1



ヨブは人災や天災によって、すべての家畜や雇い人、全所有物を、
7人の息子、3人の娘を、何もかもを1日の内に失った。その後、
今度はヨブ自身が、足の裏から頭の頂まで、全身に悪性の腫物がで
き、土器のかけらで身をかきむしるような、妻から神を呪って死ね
とまで言われるような悲惨な状態に陥った。

10人の子供を一度に失い、自らの身も限界状態で、何だか極限の苦
しみだ。しかし、ヨブが原因で起きた苦難ではない。裏側でサタン
が、神にヨブを訴えたのだ。神が、ヨブは潔白で正しく、神を恐れ
ていると言われた事に対して、そうではない、ヨブが神に従ってい
るのは、自分に利得があるからに過ぎないと。それで神は条件付き
で、限界を定めた上で、サタンの介入を許可された。

そのためサタンが働いたわけだが、だがサタンが原因なのではない。
神が許可されたから、起きた事だ。人間による事でも、サタンでも
なく、運命でもない。大もとにおられるのが神であると信じる時、
目に見えるところしか見えない状況から守られる。

全主権が神にあり、その主権者のもとで起こっている事であり、そ
の方は独り子を私のために与えられた愛なるお方であり、極みまで
愛して下さっているお方だ。最善以下の事は決してされない。ヨブ
は大変な苦しみ悲しみにあったが、しかし、「主の御名はほむべき
かな」と神の御前にひれ伏し、礼拝した。

神を認め、神の主権を認め、受け入れた。その神は、ヨブにご自身
を現され、最終的に失ったすべての2倍の祝福を返された。今、目
の前の状況に、人によるのでなく、偶然でなく、サタンでなく、そ
の背後に全主権をもって支配しておられる神を認める事を、求めら
れているだろうか。
・・・・・・・・・・・・・
様々なマイナスの事態が起きるが、偶然でなく、不運なのでなく、
サタンにほんろうされているのでなく、背後に主の絶対的主権があ
る。主の許しのもとであり、主の範囲内であり、ご計画がある。万
事益とされる。大きな成長とされる。そこを見ている時に、見え方
が変わって来る。


2018年11月02日(金)

「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」ヘブル3:19



不信仰とは、信仰が不足している事ではない。不信仰とは、自分の
力、自分の判断、自分の知恵を信じることだ。つまり、神を頼らず、
自分を神として生きることだ。不信仰とは、自分の人生の全主導権
を自分が堅く握って放さずに生きることだ。つまり、車の運転席に
自分が座っていて、主は助手席だ。自分主導で思い通りに生きるこ
とだ。

それはむしろ真面目に生きるので、気づかない。不信仰とは、自己
実現、自分の利益のために、神を利用することだ。自分のための神
であり、自分がより良く生きるための神、あくまでも軸が自分だ。
不信仰とは信仰を無視し、否定する事だ。信仰とは、自分の思いを
捨てて、神の判断、知恵、神の心を求め、受け入れて、神に頼って
生きることだ。

自分は助手席に座り、主に運転席に座っていただく事であり、自分
と自分の人生を、主に明け渡して生きることだ。信仰によって生き
て行く時、自分が変えられて行く。自分の損得でなく、神の御心を
求めるようにされる。大きな変化で、奇跡だ。神が喜ばれることを
求め、それが自分にとって不利益であり、損になろうとも従って行
く。

損得の価値観で動かない。自分にとって何が都合良く、楽かではな
く、神は何を喜ばれ、神の願いは何かに、軸と視点が変わる。その
時、御霊の喜びと平安、真の心の満たしを経験する。そして御霊に
よって歩んで行ける。
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主の十字架によって救われていても、やはり緊急の事態には自分の
経験や都合が優先していく。自分で平安の道を探るとき、不信仰に
気づきたい。主に無力な自分を明け渡そう。


2018年11月01日(木)

「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」マタイ25:21


1タラントのしもべは地に隠した。だが1タラントは少額ではない。
6千万円に相当する額だ。彼は減らす事を極力恐れた。もし商売に
失敗したなら、泥棒に盗まれたなら、主人の怒りが恐ろしい。とに
かく減らさず無くさないために必死であった。そのため地に埋めた。
しかし帰還した主人は、減らしたわけでなく、そのまま返した彼を、
怠け者と叱責し追い出した。

失敗して減らすより、現状維持なのだから良いではないかと思えそ
うだが、主人の思いは全く違った。彼は、本音のところは、主人に
いっさい関わりたくなかった。5タラントと2タラントの者が儲け
たのは、とにかく主人に喜ばれたい一心であった。それが動機だっ
た。そこには主人への愛情と信頼があった。

それゆえ万一失敗したとしても、主人は受け入れてくれると思えた
し信じていた。だからこそ失敗を恐れず、主のために一生懸命に、
自由に思いきり商売ができた。そのため良い結果を得た。埋めた彼
は、主人理解が間違っていた。厳しい冷酷なひどい人と。そんな主
人のために何をしたいとも思わない。

私たちはどうだろう?神理解が間違っていないだろうか。罰を与え
る酷い恐い方だろうか。常に要求され、取り立てる神であり、恐い
から従っているのだろうか。神の最大の賜物は、私たちにキリスト
の賜った愛であった。御父と私たちは、その愛の信頼関係にある。

主人はしもべに期待して、失敗のリスクも背負った上で、信頼して
タラントを預けた。「主人の喜びを共に喜んでくれ」それは喜びを
共にするためだった。御父の大きな愛と信頼を受け取る時、精一杯
応えようとしないだろうか。
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神がただ厳しい冷酷な方だと思っていたらどれだけ苦しい信仰生活
だろう。そのようなお方ではないと知っている。結果ばかり考えて
恐れを感じるとき、愛ある神に信頼していこう。