2018年12月31日(月)

「その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない」詩篇1:2



別の箇所には「主を頼みとする者」は「水のほとりに植わった木の
よう」とある。私達は生涯、そして日毎に何かに頼って生きている。
自分は、誰にも何にも頼らず、自主独立だと言う人がいるが、聖書
的にはあり得ない。人間は被造物なので、何かに頼らなければ生き
て行けない。神に頼らなければ、必ず他の何かに頼っている。

自分に頼っていたり、人や富だろうか。「自分の悟りにたよるな」
とある通り、自分は頼りにならない。富に頼る人は多い。富が夢を
叶え、幸せを与え、人生を保障してくれると錯覚する。そのため富
が神になり、容易に偶像になる。しかし、富は愛も、罪の赦しも、
真の喜びも平安も与えてはくれない。

主を頼みとする人が、水路のそばに植わった木だ。酷暑や日照りに
も妨げられる事なく、成長して行く。暑さに関係無く、葉を青々と
茂らせる。他の木々が枯れても、水路のそばの木は、決して枯れな
い。水が豊かにあるので、たわわに実をならせる。何をしても栄え
る。主に信頼する人は、このようだと。目に見える世界とは別に根
を張り、神から直に供給を受ける。

それゆえ、どのような苦しい状況でも、神からの供給があるので、
枯れる事なく、失望や絶望は無い。乗り越えて行ける。私たちは、
何を土台に生きているだろう。主の言葉だろうか、それとも自分の
考えだろうか。主の教えを喜びとし、昼も夜も御言葉を口ずさむな
ら、それは水路のそばであり、何があろうと枯れない。御霊の働き
が絶えずあるから。
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ふらふらと頼りない歩みであっても、主の御言葉が常に傍にあり、
この一年も養われて来た。喜びと感謝を主にお献げして終えられ
る。
★今年も一年、共に主を賛美できましたこと有難うございました。
新年はスタッフの都合により1月5日から送信します。宜しくお
願いします。


2018年12月30日(日)

「 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、 あなたのことばを守ります」詩篇119:67


「あなたを苦しめ、あなたを試み、ついにはあなたを幸せにする」
と主は言われる。主が「苦しめ、試みる」と。苦しみが臨むと「な
ぜ?どうして?」と、「神は愛ではないのか」と不平不満、怒りが
出て来るが、試練を通してしか得られないものがある。

「苦しみに会う前には、あやまちを犯した」とのように、人は頑な
で強情であり、何と自分を正当化し、周囲を責め、非を認めない者
だろう。苦しみにより砕かれて、自力に頼れず、主のもとに追いや
られる。なすすべなく、主にしか頼れないところにまで追い込まれ
る。それこそが大きな祝福となる。その時、初めて真に主を知る。
拠り頼む事の意味を知る。幸いな経験だ。

涙の谷を過ぎる時も、そこが泉の湧く所となる。すべての人は必ず
試練に会う。思い通りに行かないから試練だが、その時に、環境や
他人のせいにし、愚痴と不満で苦しみに飲まれて行く事もできるし、
又、主からの訓練として受け止める事もできる。心を屈折させるの
も、心素直にするのも、自らの選択だ。そしてその実を刈り取る。

「人がその子を訓練するように、主があなたを訓練される」訓練と
して受け止めるなら、測り知れない益を得る。平安の実を結ぶ。キ
リストのかたちへと造り変えられて行く。心を頑なにせず、試練の
中で主に従おう。後に「苦しみにあったことは、私にとって幸せで
した」と必ず言える。苦しみを受け止める時、苦しみは、私達を更
に神に近づけてくれる。

・・・・・・・・・・・・・
苦しみに会う前は過ちを犯し、苦しみに会ったから御言葉が守れる
と言っている。苦しみに会った事が幸いだと。試練通して心砕かれ
る。心が素直に柔らかにされ、御言葉が心に響いて来る。今まで頭
で知っていた御言葉が心でわかるようにされる。試練は祝福に結果
する。


2018年12月29日(土)

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸 いです」ヨハネ20:29



主は弟子たちに幾度も、「苦しみを受け、殺され、三日目によみが
える」と語られた。しかし弟子たちは信じていなかった。ローマ帝
国をくつがえし、主が地上の王として君臨し、この世界を支配し王
国を打ち立てると思い込んでいた。そのため犯罪人の極悪刑である
十字架など言語道断、有り得ない事であった。だから決して信じな
いし、受け入れない。

何度も復活を予告され、実際、十字架で死に、死からよみがえられ
た主は、弟子たちにご自身を現された。しかし、それを仲間から伝
え聞いた弟子たちは全く信じなかった。仲間の言う事すら信じない。
「お姿をよく見た、と聞いても、信じようとはしなかった」「ふた
りの話も信じなかった」、身近な者から聞いても信じない。

主ご自身がその弟子たちに現れて「不信仰と頑なな心をお責めにな
った」。そして弟子のトマスは、「主を見た」との仲間の証言にも
「手の釘跡を見、釘穴と脇に手を入れなければ信じない」と言った。
何と頑なではと思うだろうか。しかし他人事ではない。自分の都合
や自分の思い込みが、真実を見る事を妨げる。又、見たなら誰でも
信じる。見たなら信仰は要らない。見ずに信じるから幸いなのだ。

何でも信じ込む盲信や狂信ではない。しかし神を信じるには、信じ
ようとの意志を向け、決心が必要だ。それ無しに信じる事は出来な
い。よく心の底を探ると、信じられないのでなく、信じようとしな
い頑なな心がある。信じるには信じようとの意志を向け、選択し決
心する事だ。そこに御霊の助けが臨む。

・・・・・・・・・・・・・
自分の思いが強いと、事実、現実が見えなくなってしまう事を見せ
られる。主が見えず、どこまでも自分の思いがあるばかりだ。しか
しそんな弟子達を愛された主は、私たちも深く愛し、気づきを与え
ながら、成長へと一歩一歩導いて下さる。


2018年12月28日(金)

「でもおことばどおり、網を下ろしてみましょう。そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった」ルカ5:5



深みに漕ぎ出て、網をおろせと、主が語られた。が、常識からひど
く外れていた。漁は徹夜で行なうものであり、昼間は魚はいない。
まず捕れない。ペテロの常識、経験から拒否反応が起きる命令だっ
た。又、ペテロはベテランであり、漁のプロだった。心中思ったか
も知れない。「先生より、漁の事なら自分の方がよくわかる。先生
は漁については素人、何も知らない」。

そしてペテロは徹夜の漁で疲れ果てていた。もうクタクタだ。魚は
捕れず、心身ぐったりだったろう。早く家に帰って休みたい。どう
せ捕れないのにごめんだ。様々な思いがあったが、ペテロは一つの
決断をした。この時間帯、魚などいないが、「でも、お言葉通りに」
「その通りに」網を下ろしてみようと。

深みに漕ぎ出して、網を下ろした時に、奇跡が起きた。何とそこに
いるはずの無い魚がいた。それもとんでもない大漁だ。昨夜は一匹
も捕れなかったのに。有り得ない事が起きた。ペテロは余りの驚き
で、聖なる畏れを感じた。そこに神の聖さと御力を見た。神の臨在
に触れて、「先生」から「主」に変わった。

「主よ、私から離れて下さい。罪深い人間です」と。どうせ魚など
いないと思っていた、不信仰を示された。主のお言葉に、その通り
に従う時、神のみわざを見、頭で知っている神を、御霊によって知
って行く。お言葉に従う時、神が、まことに生きておられる事を知
る。
------------
人の知恵や価値観を超えたところに主は網を下ろしてみなさいと言
われる。その度に自分の経験値が邪魔をするが、それなら行き詰る
ばかりだ。でもお言葉どおり、が必要だ。主のご栄光に触れよう。


2018年12月27日(木)

「この女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころおに出血が止まった」ルカ8:43



女性は、12年もの間、出血が止まらず、どんなにか苦しみと辛さの
中にあった事だろう。律法によるとそれは不浄との事で、礼拝にも
出られない。身体と共に心も痛み、社会的にも、宗教的にも疎外さ
れていた。悪徳医師もいて、治療のため全財産を使い果たし、経済
的にも困窮状態だ。そして治癒どころか、ますます悪化し、これか
ら先どうすればよいのか、絶望状態だ。心身限界で、もうぼろぼろ
であったろう。

全く先が見えず、真っ暗で、わらにもすがりたかったろう。そんな
時、主の噂を聞き、主の着物にでも触ればきっと直ると思った。も
う最後の望みの綱で、必死だった。そして触れた瞬間に、血の源が
枯れて、ひどい痛みが直った事を感じた。どさくさに紛れ、すぐに
その場を去ろうとした。が、主が「触ったのは誰か」と問われた。

隠れて潜んでいたが、隠しきれないと思い、震えながら進み出た。
「イエスの前に出」たのだ。どんなに勇気の要った事だろう。「す
べての民の前で」イエスに触った理由と、すぐに癒された次第を話
した。自分を卑下し人に隠れて、こそこそと陰にいたのが、主に導
かれて従う事により、光の中へと入れられた。そして、あるがまま
を告白できた。

これがすでに大きなみわざだ。主は「あなたの信仰が」と信仰を認
め「安心して行きなさい」と。もう恐れも不安も怯える事もない、
全き平安を下さった。身体だけでなく心を癒し、全人格的救いを下
さった。告白は彼女自身のためだった。あなたにも、主の御前に出
て告白を求めておられるだろうか。光の中へと招くために。
-------------
病が癒されるだけでなく、主と顔と顔を合わせ、癒して下さった方
が誰かをしっかりと知ることが本当の祝福だ。一番必要な答えを知
り、導いて下さるお方を知っていることは何と幸いだろう。


2018年12月26日(水)

「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイ26:39



御言葉は一貫して求めるように言っている。求めよ、そうすれば与
えられると。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願
わないから」だと。「求めなさい。そうすれば受けるのです」と。
苦しみ、悲しみ、嘆き・・あらゆる気持ちを告げつつ、神に願うべ
きだ。神は、私達が献げるどんな祈りも受け止め、聞いて下さって
いる。

だがすべての願いが、その通りに叶えられるのではない。御心にか
なった祈りが叶えられる。御心に合わないなら叶えられない。人間
の計画や考え行動に関係無く、神のご計画だけが成就する。人間か
らのものが、神のご計画に入り込む余地は決して無い。

自分の計画と神のご計画が異なる時がしばしばある。私達は信仰の
目によって捕らえる必要がある。自分の計画より、遙かに良い、高
い、神のご計画がある。そこで自分を明け渡して、自分の願いをそ
の神のご計画に沿わせて、祈りを変更して行こう。そうできるよう
祈ろう。

主がゲッセマネで「わたしの願うようにでなく、あなたのみこころ
のように」と祈られたように。自分の願いをまず祈るが、そのプロ
セスで、神のみ思いに沿わせ軌道修正して行く時、神の御心が見え
て来る。その時、その祈りはすでに叶えられる事になる。時に、忍
耐の必要な祈りがある。

ただずっと祈っているが、手応えなく何かしっくりこない時、御心
が別にあるのかも問うてみよう。「人の心には多くの計画がある。
しかし主のはかりごとだけが成る」とあり、自分の思いも多々入っ
ているかも知れない。そして主の御心だけが成るからだ。
------------
でも、御心がなりますようにと祈るうちに、徐々に祈りを主に明け
渡すことができる。祈りの中で主が心を整えてくださるからだ。御
心はどこにあるのかと主に尋ねていこう。


2018年12月25日(火)

「男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせ た。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」ルカ2:7


臨月のマリヤとヨセフが、ベツレヘムに着いた時、宿屋はどこも満
員だった。「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とある。どこに
も泊まれず、そのためマリヤは家畜小屋での出産となり、そこで主
が誕生した。飼葉おけがベビーベッドであった。主をお迎えする場
所も無く、迎える人もいなかった。

私たちの心の状態はどうだろう。心の中には、様々なものが詰まり
過ぎていて、主をお迎えする場所が無いだろうか。主を外に締め出
しているだろうか。あれやこれやの欲望や、あれやこれやの偶像、
又、あれこれの心配や思い煩いで心はいっぱいで、主のいる余地が
無いだろうか。

今の私たちの状態はどうだろう。自分の心には、主のいる場所があ
るだろうか。今一度、心に主をしっかりとお迎えする、それがクリ
スマスだ。又、悩みが起きると、心が恐れと不安と煩いでいっぱい
になる。主が飛んでしまって、心から締め出してしまう。主のため
の場所が無い。だから心に喜びも平安も失せる。不安でいっぱいに
なる。

弟子たちは、波風逆巻く湖で、右往左往、大パニックの際に、主が、
弟子たちの舟に乗り移られた途端、嵐がピタリと止んだ。心に主を
お迎えする時、逆巻く不安が平安になる。目の前のその問題に主に
来て頂く、つまり主にお委ねする時に、大揺れの心がなぎになり、
平安になる。

今、自分が握って放さないその問題を主に渡して、主に来て頂こう。
自分自身を主に明け渡して、心の王座に来て頂こう。主のいる場所
が無いという事の無いために。

・・・・・・・・・・・・
クリスマスおめでとうございます。主が来て下さったので、罪が赦
された事、今も赦されて赦されて生かされている事に感謝が溢れま
す。「汚れし心をなが御座とし、とこしえまでも座したまえや」今
一度、主を締め出していないか探られ、新たに明け渡して行けます
ように。


2018年12月24日(月)

「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです」マタイ1:20


ヨセフは事態を知った時に、どんなにショックで、悩み苦しんだ事
だろう。マリヤに裏切られた事になってしまう。当時は婚約者以外
の子供をみごもるなど、姦淫罪で石打ちの刑であった。ヨセフは苦
しみ抜いた末、マリヤを内密に去らせようと決意した。「ヨセフは
正しい人であって」とあり、その行動は信仰から来ていた。

ヨセフは真の事情を知らなかったのであり、心は動揺し、乱れた事
だろう。思い煩い、怒り、絶望、様々な思いの葛藤があったろう。
しかしヨセフはどこまでも信仰によって歩み、神を信じ、善をもっ
てマリヤに対応した。自分を捨て、神の御前に正しい事をしようと
した。その結果、彼女をさらし者にしないよう、内密に去らせる事
に。

ヨセフは、この事は、一体どうなっているのか、何が起きているの
か、混乱の中で、悶々と思いを巡らしていた。その時に、主の使い
が夢に現われ、真実を告げ、ヨセフを導き励ました。マリヤを妻と
して迎えるように、胎の子は聖霊によること、救い主でありイエス
と名づけることを告げた。ヨセフは「命じられたとおりにして」マ
リヤを妻として迎え、生まれた赤子をイエスと名づけた。

ヨセフから学べる。深い悩みや問題のある時、主は御言葉をもって
導かれる事、そして「命じられた通りに」従う時、主の大きなみわ
ざを見ること。今、理解できない問題に直面しているなら、よく御
言葉に耳を傾け、その通りに従おう。主は手を取って導いて下さる。
-----------
どのような驚き、混乱の中でも神様は私たちを強くしてくださる。
信頼し、見るべきお方を仰いでいこう。必ず豊かな祝福へと導かれ
る。この主を今一度、心の王座にお迎えしよう。


2018年12月23日(日)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道で す」Tテモテ6:6


ほとんどの人は、心の奥では自分に無いものを求めていると言う。
「ああであれば、こうであれば〜」「自分も〜〜のようであれば」
と。違う境遇や、違う背格好や、違う能力や性格を求める。しかし、
そうであれば自分を否定する事になってしまう。バラが百合になり
たい、足の裏が華々しい目や口になりたい・・と。

一生そう思って生きるなら、人生、満足する事が一度も無い事にな
る。人を羨んで一生が終わる。一流レストランはレストランの、下
町食堂はおふくろの味の、それぞれの良さがあり、特質があり比較
が不能だ。その事は頭ではよくわかるのだが、頭だけだろうか。

信仰によって受け取る必要がある。人と比較し、自分に無いもので、
人を羨んでいるなら、まずその事を認めよう。そんな事など思って
いない振りをせず、あいまいにせず、自分の羨望や妬みをちゃんと
主の前に認めよう。そこから新しい歩みが始まる。自分が誰それの
ようになろうとするのでなく、人を真似るのではない。、

主が、代わりが無い独自なものとして創造して下さった自分を認め、
生かされて行くことを、祈り求めよう。主が創造されたという事は、
代わりがない、かけがえがないという事だ。人のようになるという
意味では、決して自分を変える必要はない。だが品格が更に主に近
づけられて行くという意味では、変えられて行かねばならない。主
は平安な歩みを下さる。もし満足が無いなら、よく心の奥を御霊に
探っていただこう。主は平安へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
主は満ち足りる心を下さる。何という恵みだろう。境遇にも状況に
も関係無く、満足を下さる。それは環境に依存しない、主にあって
の満足だ。だからこそ、どんな状況になっても、そこに満足がある。
こんな幸せは他に無い。


2018年12月22日(土)

「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」詩篇34:5



家にある寒暖計は、現在の温度を正確に示す。暖かくなると上がり、
冷えると下がる。霊的生活でも、同様の事が起きている。周囲の寒
暖に。状況に、正確に反応してしまう事だ。相手が暖かく親切であ
れば。こちらも暖かく愛深く接する。相手がいじわるで、きつく当
たって来るなら、こちらも冷ややかに反応してしまう。

これならすべてが相手次第になってしまう。相手が良い人であれば、
自分も良い人になり、相手がいじわるなら、自分もいじわるになる。
それでは自分が全く無い。相手にコントロールされている。そうな
ると、自分が怒るのは、相手が怒らせるからであり、怒るような事
を言う相手が悪いとなる。

すべて自分はいっさい悪くなく、相手が悪い、周囲のせいになる。
しかし、信仰によって生きるとは真逆のことだ。何があろうと、ど
うなろうと、人のせいにせず、環境のせいにせず、神を信じて生き
て行く。辛い状況のまっただ中で、相手のせいにせず、神が良くし
て下さること、最善をされる事、ご計画があること、愛して下さっ
ていることを信じて行く。

それが人に反応するのでなく、神に反応した生き方だ。神に向き、
御言葉に反応して生きて行く時、人依存から解放されて、自立して
行ける。周囲の気温に反応する「寒暖計」でなく、温度を調節する
「サーモスタット」だ。状況でなく、いつも主に、御言葉に心を向
けよう。

・・・・・・・・・・・
主から目を離すと、すぐに人に反応し、状況に反応してしまう。そ
して飲み込まれて、翻弄されてしまう。主を仰ぎ見ると、我に返る。
日々、主との地道な交わりを重ねて行くことが大切だ。交わりに生
きて行く時に、目を離している事に御霊が気づかせて下さる。


2018年12月21日(金)

「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」箴言12:15




自分は一体へりくだっているのか、高慢なのか、それは一つの事で
試せる。謙遜な人の特徴は、人の忠告に耳を傾け、痛い警告を聞く
用意があるという事だ。これはへりくだっていないと決して出来な
い。高慢は、そのプライドゆえ、人の忠告を決して聞けないし、人
の意見など全く聞く気はない。自分は常に正しく、それも一番正し
いのだから。

特に自分の弱さや、触れられたくない所など、絶対に人に触れさせ
ない。私達はどうだろう。弱さを隠し、有能な強い自分に見せてい
たいだろうか。真に強い人とは、自らの弱さを認める事のできる人
だ。失敗しない人ではなく、失敗を決して隠そうとせず、人の前に
も素直に認める人だ。

ダビデの素晴らしさは、姦淫と殺人という大罪を犯したが、ナタン
の忠告に耳を傾けた。そして自らの罪を認めた。ここが信仰の人ダ
ビデたるゆえんだ。自分は王であり、最高権力者だ。ナタンなど、
どうにでも出来る立場にあった。即、首を跳ねる事も来た。ウリヤ
にしたように。だが、ダビデは真摯に悔い改めた。

彼の罪はすべての人の目に明らかになり、ダビデは砕かれた。しか
し悔い改めにより、その罪は完全に赦され、罪はおおわれた。ダビ
デは失敗から学んだ。罪を認めて悔い改め、御霊に教えられて行く
人は、同じ失敗から守られる。

この謙遜がなければ、後のダビデは無く、あの詩篇も無かった。失
敗したならやり直せばよい。主がナタンをあなたに遣わされたなら、
あなたのナタンに耳を傾けよう。それは神から示しであり、あなた
への慈しみだ。
---------------
間違いを指摘されるのは痛く、心を閉ざしたくなるが、助言、苦言
は感謝だ。本当の自分を見せられる。神にも人にも心を開いて学び
続けたい。


2018年12月20日(木)

「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる」箴言16:1



私たちには、自分の思いがあり、計画がある。これはこう、あれは
ああして〜と、これが最善との自分の思いがある。しかし神にもプ
ランがある。ヨセフの生涯には顕著に現れている。父親の偏愛のた
め、兄達たちの妬みを買い、隊商に売られ異国の地へ。孤独や不安、
心中はいかばかりだったろう。

だが買い取られた先の主人に忠実に仕え、主人の好意を得、全財産
を任せられるほどに。「主が共におられたので」とあり、主による
事であった。しかし又も苦難が臨み、無実の罪で投獄に。しかしそ
こでも「主が共におられ、監獄長の心にかなうようにされ」模範囚
となり全囚人の管理を任された。

いよいよ出獄かと期待したが、献酌官長との約束は忘れられ2年が
過ぎた。神の時は何と測り知れず長いのだろう。結果的には2年だ
が、その渦中ではどんなに試され、忍耐が要った事だろう。最終的
に総理大臣となり、飢饉の中、ヤコブや兄弟達の命を救う事になる。

ヨセフが売られて以来10数年だ。命を救うため、神が先にヨセフを
送られた。ヨセフ自身にも自分のプランがあったろう。神のプラン
は想定外であったが、結果的に遙かに素晴らしいものであった。私
達にも自分の人生計画がある。

しかし神の計画は、必ず遙かに素晴らしい。ヨセフは神の計画を歩
み、信仰も品格も練り上げられ、使命を全うできた。自分の肉の計
画は虚しい。神のプランの道は永遠に至る。残りの人生、神のプラ
ンに歩めるよう祈ろう。
-------
神は御心のままに志を与えてくださる。神の導きか自分の計画か、
よく悟れるように祈りたい。神の導きなら疑いたくなる状況でも、
信じて歩めるよう信仰も求めていこう。


2018年12月19日(水)

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう」ルカ6:38



有名な例えがある。死海は、ガリラヤ湖からの水が来て溜まるばか
りで、流す先がない。死海からの川がないからだ。受けるのみ、溜
め込むばかりだ。流れ込む水は蒸発する。それで死海の塩分は非常
に濃くなる。この塩分濃度のため、魚が生息できない。周囲も砂漠
で緑がない。

それに反しガリラヤ湖は、フレー湖から流れて来る水を受け、その
水をヨルダン川に流している。受けた水を常に出すので、絶えず水
が流れていてガリラヤ湖の水は生きている。そのため様々な魚類が
生き生きと生息している。周囲も緑が豊かだ。私たちはどうだろう。
受けているばかりだろうか。溜め込むだけなら、腐って死に絶えて
来る。与えられたものを次に流すと、又、与えられて、いつも新鮮
で、生き生きと霊的喜びが流れる。

与えられた恵みを証しすると、人の益となり、自分自身にも喜びが
あり、又、恵みが増し加えられる。与えられている富、時間、賜物
・・自分だけのものにして、握りしめて溜め込んでいると腐って来
る。喜びも無い。それを、神に、人に献げて行くと、又、必ず与え
られ増し加えられ、霊的喜びの流れが止まることがない。

人生何のために生きているのだろう。蓄えるためか?それとも神の
素晴らしさを知るためか?溜め込んで、喜びも無く煮詰まっていな
いか。神の御心にそって、持てるものを献げよう。又、与えられて、
人にも自分にも祝福となり、そして神の栄光が現われる。
-------------
人の見返りを当てにすると逆に自由に与えられなくなるのではない
か。損も得もなく自分自身を無にして献げてくださった主を見て、
主に献げていこう。


2018年12月18日(火)

「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです」Uコリント4:15



時に、突如の事態や、全く予想外の事が起こる。「何で?何で、こ
んな事が?」とパニックになり、右往左往し、驚き慌てる。又、試
練が臨むと「どうして?私にばかりに」とネガティブになり、反抗
したりする。長く祈っているのに、祈りが答えられないと「何で?」
と、疑ったり、心を屈折させたりする。

ある人が、突然、夫に転勤辞令が下りた。賜物が生かせる仕事に就
いて、喜びもって働いていた。これからやりたいプロジェクトに取
り組もうとしていた。恵みを分かち合える友人にも恵まれ、楽しい
環境であり、教会では奉仕に励んでいた。転勤は、やりがいのある
仕事、恵まれた交友関係、生活の基盤である教会、これらをすべて
を失う事になる。

「神様、なぜ?どうして?」大変な葛藤があった。が、祈りにより、
信仰によって、主の御心を受け止め、赴任先へ引っ越した。すると、
引っ越した地で、神の大きなご計画があった事がわかった。近所に
聖書に関心のある人がいて、家庭集会に導かれた。その集いは祝福
され、近所の人々が次々加えられ、救われる人々が出て来た。新し
い友人、新しい奉仕が与えられ、大きな喜びを下さった。

自分の行く手が塞がれ、自分の思い通りにならない、更にその先に、
神の祝福に満ちたご計画がある。時に私たちの思いを越えた、神の
ご計画と御心の道に、私たちを運ばれる。思い通りでない時も、主
の最善を信じ、主に委ねていよう。
-----------
日々の生活に様々な出来事が起こると最悪を考えてしまうが、主の
ご計画は最善に進んでいる。恵みと平安はいつでも豊だ。主を信じ
ていよう。


2018年12月17日(月)

「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31



鷲は幾ら高く上っても疲れることが無い。それは自分の力で飛んで
いないからだ。自分では動かず、じっと風の流れを待っている。そ
して気流が来たら、その時に、その上昇気流に自分の翼を合わせ、
それに乗っかって一気に舞い上がる。翼をバ行く。これが主を待ち
望むことだと言っている。

自分でどうこうするのでなく、焦りも、急くことも、慌てることも
せず、又、心配もせず、ただじっと風を待つ。つまり御霊の導きを
待つ。風が、御霊の導きが来たなら、主に身を任せて、主の力を信
じて行動する。自分で翼をバタバタと、バタつかせるのではない。
主の力に委ねる。だから疲れることが無い。

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる」、どんなに若く
て力があっても、風を無視して、気に留めず、自分の力で、高く上
ろうと力一杯、翼をバタつかせていたなら、どうだろう。必ず疲れ
果ててしまう。信仰生活を、自分の力で頑張るなら、力尽きてしま
う。

なかなか主に従う事ができない、隣人を愛する事ができない、デボ
ーションが持てない、思い煩いや心配に支配されてしまう・・これ
ら自らの姿を、自分の弱さを、ことごとく主の前に認めて行けばよ
い。弱さをあるがまま認めて、主を信頼して行く時に、風が吹いて、
気流に乗せられて行く。御霊の助けが臨む。もたつかせるのは、最
初だけで、気流に身体を乗せて、大空へ高く舞い上がってむ。
------------
主を待ち望むということは、焦らず、諦めず、自分でジタバタする
ところから解放された姿ではないだろうか。主に献げる信仰だけを
頼りに主と共に風に乗ろう。


2018年12月16日(日)

「この、国々のいっさいの権力と栄光・・それは私に任されているの で、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなた が私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう」ルカ4:6



サタンはすべての国々とその栄華を差し出し、主を自分に服従させ
ようとした。サタンに従うなら、これをすべて上げるよと誘惑した。
神からでなく、サタンから来るものだ。私達にも同様の誘惑が来て
いる。神の御心に従うのでなく、自分のしたい道、好きな道を行き、
自分の思いを遂げ、思い通りに進みたいと言うことだ。

これがサタンの誘惑だ。そうすれば地位が得られ、人からの賞賛が
得られ。自分の才能が更に開花し、自分が生かせると。これがサタ
ンの囁きだ。ある人は、自分の才能が発揮できて、且つ高給で、地
位を約束されるというヘッドハンティングが来た。今、移動するの
は、御心でないとわかっていたにかかわらず、すべてが魅力であり、
強く惹かれ、欲望に合致し、乗ってしまった。

高給だけあって仕事はハードで、且つ高レベルで大変だった。霊的
な事のための時間は全く取れず、平安を失って行った。御心をそれ
させるサタンの誘惑であった。あなたにも自分の欲望に合致した、
魅惑的な事柄が来ているだろうか。自分の思いで判断せず、よく祈
って御言葉に聞こう。

主は御言葉に立たれたので、サタンは退かざるを得なかった。エバ
は御言葉でなく、自分の思いに立ったので、サタンにやられてしま
った。神の言葉に従う人をサタンもどうも出来ない。今、判断が必
要なら、自分で決めずに御言葉に聞こう。御心へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
主の御思いではなく、自分の思い通りにしたいというのは、根深い
肉、自我だ。サタンから来る。しかしそれを通して行くと砂の上に
建てた家になってしまう。主の御心の上に人生を建てる時、大きな
喜びがあり、必ず豊かな実を結ばせて下さる。


2018年12月15日(土)

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえ を口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来 ると実がなり、その葉は枯れない」詩篇1:2



私たちの身体は、食事を抜くとどうだろう。2食3食と抜いて行く
と、力が入らなくなる。更に抜くと、日常生活に支障をきたす。食
事によって肉体は、元気づく。病気の時に、身にしみる。何も食べ
られなかったのが、食事し始めるや、みるみる体力が回復して行く。
車もどうだろう。ガソリンが無ければ、走るだろうか。

同様に、私たちの霊も補給が必要だ。時に、余りに多忙な日々が続
き、デボーションもおそろかになり、持てない日々が続くと、どう
だろう。心がしんどくしなえて疲れて来ないだろうか。又、普段な
ら気にならない、ちょっとした事が気になり、傷つく。何でも無い
事にイライラして、ピリピリする。人の事が気になって仕方がない。
カッカする。

この原因は、霊的に乾ききっていることだ。心に余裕が無い。油切
れの状態だ。これは霊的補給、つまり、主との交わりが必要だ。ガ
ソリンやオイルが減ると警告ランプが点く。霊的警告ランプ点灯状
態だ。魂が酸欠状態だ。しばし、主の御前に心を静めて祈ってみよ
う。不思議な新しい力が来る。

ある人は連日の残業で、帰宅は深夜、もう疲労はピーク、身体は倒
れる寸前状態、心はカラカラ。ある日、限界を感じ、帰宅するや、
自分に部屋に直行し、一人になり、主と交わった。主の御前にじっ
とおり、心をことごとく打ち明けた。ゆっくりと主と交わると、
隅々まで新たにされ、すっきりさわやかになり、息を吹き返した。

ある人は、職場の昼休みに、公園に出て一人になり、心を主に向け
て祈った。その午後は、心に潤いと平安があった。今、オイル切れ
なら、しばし心を主に向け、主と交わろう。息を吹き返せる。

・・・・・・・・・・・・
主と交わると潤滑油のように、御霊の安堵、平安が臨む。主に頼ら
ずに自分で頑張ると、油切れで余裕が無くなり、ギシギシイライラ
思い煩いになる。交わると余裕が生まれる。どうしても時間的に座
しての交わりが難しい時も、主に目を向けていると平安に守られる。


2018年12月14日(金)

「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる」詩篇37:34



コーリー・テン・ブームは、第二次世界大戦時、ユダヤ人をかくま
ったために、父と姉と共に捕らえられ、ナチスの収容所に送られた。
過酷な強制労働で父と姉は亡くなった。深い悲しみであった。コー
リーは釈放されたのだが、何とそれは驚くべき事に書類上のミスに
よるものだった。神の奇跡であり、収容所内での主のみわざを全世
界に証しするためであった。

彼女は、地獄のような経験を振り返り「私たちの人生は、クロス・
ステッチのようなもの」だと語った。針で糸を刺し、刺繍をするが、
裏側を見ても、全く表の絵はわからない。理解不能だ。様々な色の
糸がぐじゃぐじゃにからみ合い、汚い、醜い様相を呈している。ま
るで意味も何も無い。しかし表側を見るなら、美しい見事な刺繍が
施されている。綺麗な絵が出来上がっている。

私たちも、試練の苦しい最中には、刺繍の裏側のように見える。何
もかもがうまく行かず、行き詰まり、見える所はカオス状態だ。混
乱しか見えない。失望落胆、絶望かも知れない。しかし神の目から
見れば、問題無い。着々と素晴らしい刺繍が施されている。あなた
も、今、この状態だろうか。

「何で?どうして?」「一体何がどうなっているのか?」問題だら
けだろうか。まず、神は表側を見ておられ、素晴らしい作品が創り
上げられる過程である事を信じよう。そして自分自身を神に委ねよ
う。そうするなら、神がすべての事を働かせて益とされる事を見て
行く。
-------------
主が全てをご存知でいてくださるので、問題の早い解決や、病気の
癒しなど様々なものを日々待ち望み祈る。決して平安の中で待ち望
めない不信仰も主に受け止めてもらいながら、待っていよう。


2018年12月13日(木)

「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばを聞き入っていた」ルカ10:39



結婚生活を建て上げるためには、双方の努力が必要だ。オートマチ
ックではなく、単に同居していれば良いのでなはない。関係を育ん
で行く事が大切だ。苦しみや悲しみ、喜びを共有する事で、絆が深
められて行き、又、互いに犠牲を払い合う事で、愛が深められて行
く。人との関係と同様に、主との関係も交わりが必要だ。

何もせず、オートマチックに深まることはない。そして、愛するた
めには、時間が必要だ。マルタとマリヤの箇所で、学ぶことができ
る。マルタは行動力があり、家事能力があり、テキパキと、家事を
こなして行けた。目まぐるしいスケジュールをこなして行く私たち
だろうか。それらが好きなのかも知れない。

御前に座するより動き回る方が充足感が得られるだろうか。しかし
余りに忙しいと、私の仕事、私の責任、私のなすべき事、それらが
おおいかぶさり、進まなければ焦りが、いら立ちとなる。思い煩い
やイライラに支配され、何をしているのかわからない。状況を周囲
を責め始める。主の御前に座り、主と交わらなければ、感覚が薄れ
て行ってしまう。

いつしか、羊飼いの、愛の御声を聞き分けることも、うとくなって
しまう。マリヤも別に暇なのでなく、忙しかったろう。「マリヤは
その良いほうを選んだのです」主との交わりは選択が必要だ。一つ
だけの良い方を選ばなければ、ずっと次善になってしまう。自分は
どうだろう。主は御声をかけたいと待っておられる。
------------
選ばなくては、いつの間にか祈りもデボーションの時間も後ろに置
いて時間が過ぎていく。自分の優先事項しか見えなくなっていたら、
主との交わりに戻ろう。


2018年12月12日(水)

「「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」ヨハネ8:12

マルタとマリヤの姉妹が使いを遣わして、主に、弟ラザロの病気を
知らせた。主に知らせさえしたら、主が必ず何とかして下さると信
じていただろう。しかしあえて主は動かれなかった。人間的には一
刻も早くと思うが、二日もそのままとどまられ、ラザロが死ぬまで
待たれた。ラザロの死後に、主は「ユダヤに行こう」と言われた。

すると弟子たちは、ユダヤに行くと石打ちに会い、殺されてしまう
と。その時に主は「昼間歩けば、つまずくことはない」と言われた。
「この世の光を見ているから」だと。主に従ってさえいれば、大丈
夫なのだと。状況の問題でなく、主の問題であり、御心の中にある
かどうかがすべてだと。

つまり主の言葉に従って歩む事が、昼間歩く事であり、従わない事
が、夜歩く事だと。夜、歩けばつまずく。光がその人の内に無いか
らと。主から目を離した途端、すぐにつまずいてしまう。暗闇の中
だ。この苦しみは「何で?どうして?」疑い不安、恐れに襲われる。
つまずき倒れてしまう。

だが主を見上げているなら、私たちの内の光は輝き、明るい。どん
な暗い、困難な中でも歩んで行ける。つまずくことがない。なぜな
ら、光を見ているから。光があるので、どんな状況の中でも歩んで
行ける。そして、主に従い、御心に従って行くなら、私たちの内に
いのちの光が輝く。

状況は最悪でも、心に御霊の喜びがあるので、前に進んで行ける。
肉は、暗闇を愛してしまう。肉は自分の欲望を遂げたいし思い通り
にしたい。今、もし御心と自分の思いの岐路に立っているなら、神
の御心の方を選べるよう、助けてを求めて祈ろう。
------------
主はまことの光であり、御言葉は足を照らす確かな光。困難にあっ
ても御言葉の約束の光があるので希望がある。肉は欲望を遂げよう
とするが、光の方へ行こう。つまずかない道を歩もう。


2018年12月11日(火)

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった」マタイ19:13



親たちは、主に祝福していただこうと、子供達をみもとに連れて来
た。ところが、弟子達がそれを叱った。弟子達にとって、幼子は、
わきまえなく騒ぎ、うるさく、役に立たず、教えも理解できず「足
手まとい」な者であった。しかし主は、「止めてはいけない」と、
幼子達をみもとに招かれた。

そのような幼子は、ただ「受ける」しかない、受け身の弱い存在で
あり、親の世話がなければ、一日たりとも生きて行けない、そんな
子供の無力さ、弱さに、主は「神の国はこのような者たちのもの」
と言われた。幼児は無力だ。何の力も、知恵も、判断力も無い。
ただ受けることによって、誰かを信頼することによって生きている。

自力で生きる事ができない。しかしだからからこそ、素直で、「来
なさい」との声に、何もためらわずに従う。自分を抱いてくれる人
の腕では、身も心も命までも預けきって、すやすやと安らかに快適
に眠る。主はそんな幼子の無力さ、弱さを、そのまま受け止め、祝
福された。そして、私たちに、幼子のように神の国を受け入れる者
であれと、教えられた。

親の腕の中で、何の不安も心配もなく、安らかに眠る幼子、何と幸
せだろう。親に全面的に頼らなければ生きて行けないからこそ、親
さえいれば、どんな中でも安らかだ。状況など全く関係無い。私た
ちも御父に、素直に、全面的に頼ることを、御父は喜ばれる。
------------
幼子に比べ、どれほど平安で自信を持って生きられているだろうか。
自分に頼り自分で守ろうとするから間違えていないかと絶えず不安
になる。御父の子供とされている恵みに信頼しきって生きたい。


2018年12月10日(月)

「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩篇106:15




時に、自分が、どうしても欲しいものがある。経験あるだろうか。
どうしてもそれを得たい。しかし、その自分が喉から手が出るほど
欲しいものが、果たして本当に自分に必要なものなのだろうか。そ
れを、神に祈り求める事ができるなら大丈夫だ。「欲望」の強い誘
惑から守られる。

人の欲は、欲しいと思い始めると、その思いは募るばかりだ。際限
がない。だが欲しいものと必要なものは違う。祈りなく、単に肉で
自分の欲しいものを求めて行くなら、欲のとりこになってしまう。
貪欲の罪に陥ってしまう。今、どうしても欲しいものがあるなら、
それが自分にとって、本当に必要なものかどうかを、神に祈ろう。

祈るならすべてにおいて守られ、サタンの足場を砕いてしまう。そ
して、もしそれがあなたに必要なものなら、神はどうであれどのよ
うにしてでも、必ず与えて下さる。しかしまた御言葉は言う。「そ
こで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってや
せ衰えさせた」。

神の御心に反してでも、どうしてもと欲するなら、神はそのものを
与えられるとある。が、それによって、たましいはやせ衰えると。
「彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた」結果
だと。神は与えられるが、それを手にして、心は虚しく荒んで行く
ことになると。

肉の性質があり、欲もある。主から離れないため、守られるために、
今強く求めているものが、真に自分に必要かどうか、御心なのかど
うかを、神に問おう。そして御心なら必ず与えて下さるので、忍耐
を持って待ち望もう。
-----------
祈っても手に入らないとき、諦めるか、待ち望むのか、そこを悟れ
るようにと祈りたい。欲望を主に一度手渡すことで、間違った誘惑
ならば、心も守られる。


2018年12月09日(日)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下には いません」ガラテヤ5:18


私たちが主を信じ、救われた時には、一方的な恵みによった。何の
行ないも無かった。ただ、主の十字架の身代わりの死を信じ、救わ
れた。その恵みはよく理解できるのだが、救われた後は、しばしば
行ないで生きてしまう。今までの古い価値観が根深く培われている
ためだ。この世の価値観は、成果は自分の力がすべてであり、自分
の努力、頑張りで勝ち取るものだ。

自分を信じて、自分の力で生きて行く。自分以外のものを頼るな、
自分の力で頑張れ、がこの世の教育だ。それゆえ恵みで救われたが、
救われた途端、信仰生活は自分の力に頼り、頑張ってしまう。祈り
も行ないになり、熱心な祈りという行ないや、犠牲的な献げ物によ
って、神は愛して下さると思ってしまう。

自分の願いが叶えられるためには、もっと頑張って祈りを積み上げ、
もっと信じなければと、そこに自分の力が出て、段々苦しくなる。
信仰生活が辛くなっていたら要注意だ。救いは一方的無代価だが、
その後の祝福は、行ないによっていないだろうか。しばしば陥って
しまう。

神の愛顧を得るために、神に受け入れて貰うために、何かをするな
ら、それは律法であり、恵みから落ちている事になる。神に完全に
愛されているから、完全に受け入れられているから、感謝が溢れて、
自発的自由意志で献げたいと思うのが福音だ。そして自力でなく、
全面的に神に頼って生きて行く歩みだ。そこにあるのは苦しい頑張
りでなく、神への信頼だ。

・・・・・・・・・・・
主から目を離すと、すぐに律法に陥る。救われる以前の根深い価値
観と性質がある。自分の力で歩んでしまい、喜びも平安もなく、苦
しくなってしまう。つぶやきと不満になっていたら、すぐに見上げ
よう。すぐに主はつかんで、御霊の歩みへと導き返して下さる。


2018年12月08日(土)

「あなたは、悩む民をこそ救われますが、高ぶる目は低くされま す」詩篇18:27



ダビデは、人口調査をして罪を犯してしまった。サタンがダビデを
誘い込んだと御言葉は言っている。人口を数える事は、罪なのか?
民の数を把握する事、それ自体は罪でも何でもない。ヨセフとマリ
ヤの時代にも住民登録があった。しかし、ダビデは民の数を数えた
時に、良心のとがめを感じた。それをした動機が間違っていた事を、
自分で知っていた。

ダビデは、自らの勢力を誇り、自分を誇るために人口調査をしたの
だった。神が与えて下さったものを、自らの力と取り違え、高慢に
なってしまった。神ご自身ではなく、目に見えるものに、軍事力を
頼み、力とする恐るべき高ぶりであった。神が与えた罰の大きさを
見る時に、ダビデの罪の大きさを知る。

ダビデの犯した罪のために、疫病が起こり、罪の無い7万人が死ん
だ。神は厳しい辛い試練を通して、ダビデの罪を明らかにされた。
しかし神の厳しさは、懲らしめは、神の愛だ。ダビデがこの罪を持
ったままに、そのままにされなかった。神はダビデに臨み、取り扱
われた。

私たちはどうだろう。神が上から与えて下さったものを、自分が横
取りして、誇っていないだろうか。私たちは裸で、この世に来た。
今、有形、無形で所有しているものは、すべてが神から与えられた
ものではないか。今一度、与えられているものを、神にお献げする
なら、聖められて、神に喜ばれるように使うことができる。
私物化する事なく、神の栄光のために用いられる。今、与えられて
いるものが、神から来ている事を、今一度認めて、感謝しよう。

・・・・・・・・・・・・
何一つ持って来ないでこの世に来た。主より働く力が与えられてい
るから、仕事もできている。主から目を離すと、自分で生きている
かのように勘違いし、自分を誇ってしまう。様々な出来事はへりく
だりのためだ。主が、愛をもってへりくだらせて下さる。


2018年12月07日(金)

「あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」Uサムエル7:12




ダビデは、主のために神殿建設の願いがあり、その事を祈った。し
かしその願いは御心ではなく退けられ、彼の子が建設すると示され
た。神殿建設は次世代の子供に委ねられており、その子の王座を堅
く立てると。ダビデ自身が建設したかったが、主の答えは「ノー」
だった。私たちもこういうケースを経験する。

自分の切なる願いがあり、祈り続けた結果、答えが「ノー」だった
時どうだろう。自分の思い通りにならない事に、失望落胆して、や
る気が失せ、又、反発して心を屈折させてしまうだろうか。しかし
別の対応がある。「ノー」を主からのものと受け入れ、受け止め、
では、主の御心が成し遂げられるために、自分は何をなすべきかを
祈り求めて行く。

ダビデは後者だった。主からの「ノー」の答えを受け入れ、子供ソ
ロモンが建設するとの御心を知り、自分はそのための準備の役目に
回った。これがダビデの信仰であり、素晴らしさであった。政治的、
経済的な安定がなければ、神殿建設は不可能だ。そのためダビデは
諸外国の敵と戦い、勝利を重ね、基盤を築いて行った。

「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従うダビデに、主が
連戦連勝を与えられた。そして膨大な戦勝品を、建設資金として主
に献げて行った。自分の思う道が閉ざされた時、無気力になり、屈
折する事もできる。しかしダビデはそうでは無かった。このダビデ
にならおう。

自分への主の御心がある。「では、今自分のなすべき御心は?」と
問おう。主は、ダビデと同様に、願った形とは違うが、大きな祝福
と満足を与えて下さる。
----------------
神のために何かをするから神が祝福してくださるのではなく、神の
主権で事は導かれていくと学べる。一方的な神の恵みに感謝して、
今成すべきことを祈っていこう。


2018年12月06日(木)

「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:59



神に従うためには、御心に従おうとの意志を向けること、意識的な
選択が必要だ。オートマチックで従えるのはなく、身体が勝手に動
くのではない。没人格、没個性になるのではないし、夢遊病者かの
ように、意識せず従って行くのではない。意識して、御霊の導きの
方を選択し、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。

主に拠り頼む必要がある。神が、私たちを操って従わせられるので
はない。それなら操り人形であり、ロボットだ。また、私たちの意
志を無視して、神が代わりにされることもない。詩編記者は自分の
道を顧みて、主の御心の方向に「足を向け」た。祈り続けていたの
でなく、足を向けて、実際に行動した。

私たちも御心と違う方向に向いていたなら、今、主の御心の方へと、
自分の足を向けよう。何かの示しを受け、従うように導かれている
なら、決心して実行しよう。「急いで、ためらわずに」とあるよう
に、ぐずぐずしていると、気力が失せて、必ず従えなくなってしま
う。経験あるだろうか。御心を行なおうとする時には、サタンが来
る。妨げが来る。

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行なえ」とあるが、つぶ
やきや疑いが心に上る。「何で自分がしなければならないのか」
「しなくても良いのでは?」「今でなくても良いのでは、もっと後
で」ちゅうちょする思いが出て来る。なすべき事は「急いで、ため
らわずに」実行する事が大切だ。示されているなら、一歩踏み出そ
う。
-------------
いつも自分の歩みが御心を離れていないか顧みてみよう。主のさと
しの中にいることが祝福だ。つぶやきや疑い、心に来る苦い思いか
ら主へと引き戻してくれる御言葉と日々親しく交わろう。


2018年12月05日(水)

「イスラエルは罪を犯した・・だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ」ヨシュア7:11 



アイへの偵察隊が戻り、「二、三千人で大丈夫」と報告した。その
ためアイに三千人を戦いに出したが、予想外の、散々な敗北だった。
そのため民の心はしなえ、水のようになった。勝利を信じて疑わな
かっただけに、大変なショックであり、動揺であった。

主の大きな奇跡によってヨルダン川を渡り、エリコ城壁崩壊の大勝
利を目の当たりにし、勝利に次ぐ勝利だ。大いなる神が共におられ
る、周囲の民もそれを恐れた。その事がヨシュアの拠って立つとこ
ろであり、一つでも敗北の事実自体が、それらをすべてなし崩しに
してしまう。主の御名はどうなるのか。

敵の前で、この敗北は周囲にはどう映るのか。敵にとっては恐れが
失せるだろう。恐くも何ともない。重大で深刻な事態だ。ヨシュア
は、「なぜですか」と御前にひれ伏し祈った。「大いなる御名のた
めに何をされるのか」と。だが、「大いなる御名」こそが、この敗
北を与えられたのだった。

全能の神は、同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、
聖さのゆえに、罪のあるところには働けない。聖く無い所では、む
しろ敗北の方が、神の栄光が現れる。妨げは神の側ではなく、民の
側にあった。神との間が正しければ、アイでも今まで通りに勝利し
ていた。神は罪を示し出され、アカンの罪が発覚した。

そのアカンの罪が対処された時に、再びアイに上り、完全勝利が与
えられた。罪は神との仕切りとなり、平安を失う。私たちには主の
血潮がある。罪があれば、今すぐ主のもとへ行き、告白しよう。主
は全き赦しを与え、回復させて下さる。心に平安が戻り、罪赦され
た喜びに溢れる。
-----------
罪をそのままにして前進はできない。上手く行かない問題の原因は、
外より自分の内にあるのではないか。神の前に罪を悔い改めたなら、
豊に赦される。聖い神に歩みを整えてもらおう。


2018年12月04日(火)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道の書3:11


神は、神のスケジュールを持っておられる。種蒔きの経験があるだ
ろうか。良質の土に、まず種を蒔いて、水をやり見守っていると、
小さな芽が出て来る。その芽は時間の経過と共に、少しづつ伸びて
生長し、やがて花を咲かせ、そして見事な実がなる。植物の生長に
も、神は時を定められ、時のスケジュール管理がある。

芽、茎、花、実と、神の秩序がある。「夜は寝て、朝は起き、そう
こうしている内に、種は芽を出し育つ。どのようにしてか人は知ら
ない」とある通りだ。もしこれを無視したらどうだろう。種から芽
が早く出るようにと、種に裂け目を入れたなら、又、早く花を咲か
せたくて、茎を引っ張ったならどうか。種は、茎は死んでしまう。

神の時をじっくり待たないなら、返って損ない、出る芽も出ず、咲
く花も咲かず、実もならない。私たちの成長も同様だ。霊的成長に
は必ず時間がかかる。長期戦であり、神のスケジュールは、非常に
地道な長期計画だ。悪あがきをせず、人生の苦しみ、喜び、悲しみ、
楽しみの、それぞれの「時」をしっかり受け入れ、受け止めて生き
て行く事が大切だ。

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のな
さること」御言葉は、人生には順境も逆境もあると言っている。受
け止めて行く事こそが成長とされる。ダビデは「四方八方みな恐怖」
で出口も見えない苦難の時に、この「時」が、神の「御手の中」に
ある事を見た。そしてそれらは、神の「時」にかなって導かれて行
った。

何の希望も見えない時も、この「時」は、愛の「御手の中」にある。
握っておられる、愛なる神に目を向けていよう。その時、神のなさ
ることは、すべての事が、時にかなって美しいことを現実に体験し
て行く。 
-----------
神は人の心に永遠への思いを与えてくださった。明日を知ることは
できなくても、すべては神の御手の中にある。希望を持って今日を
十分に生きよう。


2018年12月03日(月)

「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2



私たちは普段、日常生活で様々な計画を立てる。今日一日の計画
から、一生涯の、また老後の人生プランまで様々だ。そこには良
い仕事に就く事、幸せな家庭を持つ事、出世する事、趣味を楽し
む事、財産を築く事・・それら自体は決して悪い事ではない。仕
事で努力し、結果を出す事、名を上げる事、財を築く事も全く悪
いことではない。

目標に向かって、努力する事は良いことだ。しかし大切な事は、
それらに突き進ませている、心の内側の「動機」だ。信仰には、
動機に目を向ける事が大事な事だ。どうしてで財を蓄えようとす
るのか?なぜ仕事に邁進するのか?私たちの「動機」が非常に重
要だ。今、目の前の計画の動機はどうだろう。御霊によく探って
頂こう。

誰しも「自分の行ないがことごとく純粋だと思う」、自分の動機
はきよいと思う。が、「主は人のたましいの値うちをはかられる」。
主はまさに動機を見ておられる。主のための奉仕、他者を助ける
計画の動機はどうだろう。自分を喜ばせるためか。自己満足のた
めだろうか。

自己実現や、あるいは虚栄心、プライド、人からの賞賛を求めて
だろうか。それとも神をお喜ばせするためだろうか。御霊は心探
って下さる。そして「あなたのしようとすることを主にゆだねよ」
とあるように、立てた計画に固執するのでなく、それをまず主に
委ねよと。

その時、「動機」を正しく軌道修正し、主に喜ばれるものとして、
導いて行って下さる。そして「あなたの計画はゆるがない」。そ
して主が成し遂げて下さる。
----------
夢中になるあまり気づくと主に聞くこともなく走っていないだろ
うか。日々、主の聖さ、正しさ、愛に触れていよう。自分の姿を
見せてくださる。気づいたところからやり直せる。


2018年12月02日(日)

「バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み・・あな たがたをこの所に帰らせる」エレミヤ29:10

エレミヤの時代、イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされ捕虜とし
て連行された。だが、そのアッシリヤは、バビロンによって滅ぼさ
れた。ユダ王国もバビロンによって、どんどん侵攻され、とうとう
ユダもバビロンに捕囚の身となった。捕らわれて行った。当時のユ
ダは神から離れ、民は堕落し、偶像礼拝の罪に陥っていた。それな
のに預言者たちは、耳ざわりの良い、心地良い言葉だけを語ってい
た。平安が無いのに「平安、平安」だと。

しかし、神の人であるエレミヤは真っ直ぐに真実を語った。そのた
めに苦しめられた。バビロン捕囚のさ中、真っ暗な、一見絶望的な
中で、エレミヤは神の言葉を告げた。それは「災い」としか見えな
いが、「平安・将来・希望」のためのものと。将来があり、希望が
あると。すぐに解放にはならないので、その地で落ち着いて、腰を
据えて生活するようにと。そして、敵であるその町の繁栄を祈れ、
それは自分達の繁栄になるからと。

私たちも苦悩の時、一番欲しい言葉は「即、答え、問題解決」「即、
悩みから解放」だ。しかし口先だけの励ましは、更に傷が深くなる。
そうでなく、かせのような、辛い現状を受け入れる時、その中で神
からの支え、励ましにより前進して行ける。現実を受け入れられる
よう祈ろう。
いつまでもそのままではなく、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰
らせる」。現状を受け入れ、神に従って行こう。そこに「平安」が
約束されている。そして「神の時」に、解放して下さる。

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「バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたし
はその土地にいこわせる」とあり、与えられた辛い状況を、受け入
れる時に、状況はそのままだが、心に平安が、与えられる。状況に
あらがうので、苦しいばかりになる。受け入れられるよう祈ろう。


2018年12月01日(土)

「患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐 が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っ ているからです」ローマ5:3


信仰を持つと苦しみが無くなるのではない。商売繁盛、家内安全・・
受験はすべて合格、畑はすべて豊作、商売は大儲け、そして天国へ
行き、めでたし、めでたしと思いたいがそうではない。合格あり不
合格あり、病気やけがも、豊作も不作も通る。合格が祝福で、不合
格は祝福されていないのでは断じて無い。主に在る時、それらがす
べて祝福へと結果して行く。万事益とされて行く。

苦しみのプロセスで、練られ、鍛えられ、きよめられ、主の似姿へ
と変えられて行く。いかに自我が強く、自分の思いが強く、自己中
心であるかを知り、砕かれて行く。信仰人生には様々な苦しみがあ
る。自ら犯した罪の結果の苦しみがあり、又、人から受ける理不尽
な苦しみもある。主は試煉として、苦しみを与えておられる。

罪は悔い改める時、完全に赦される。主は二度と思い出さないと言
って下さっている。だが人は蒔いたものは、必ず刈り取る。蒔き刈
りの法則だ。ダビデも姦淫と殺人を犯した時に、罪は完全に赦され
たが、厳しい刈り取りがあった。痛く辛い刈り取りがあるが、主の
あわれみは尽きず、それすら尚も訓練として私たちの益のために用
いられる。

主と共に、主に導かれて、刈り取って行く事が祝福とされる。主の
尽きないあわれみと慈しみを知る時とされる。試煉があるが、信仰
者は必ず乗り越えて行ける。耐えられない試練は、はなから与えら
れない。一つ一つの試練通して、必ず成長して行ける。

苦しみにより忍耐が培われ、一段階〃と信仰を強くされて行く。忍
耐が練られた品性を生み出す。品性が培われて行く。必ず後の日に、
苦しみに会ったことは、しあわせでしたと言えるようにされる。

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患難が忍耐を生み、忍耐が品性を生む。つまり品性は、患難により
生み出されると言っている。試練は願わないが、主より与えられた
時に、受け入れられるよう祈ろう。主が共におられ乗り越えさせて
下さるのだから。くびきを嫌い、もがけば痛いばかりだ。