2019年01月31日(木)

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています」ピレモン11



主人ピレモンの奴隷であったオネシモ。主人のもとで盗みを働きロ
−マへ逃亡した。しかし捕らえられ投獄の身に、その牢獄でパウロ
に出会う。主人ピレモンはパウロに導かれて主を信じた。そして
コロサイで、家の教会として熱心に主に仕えていた。

オネシモはその良い主人を足げにするような事をした。だがそのオ
ネシモは、パウロに導かれ回心した。しかしピレモンの家の奴隷で
あり、送り返す必要があった。当時、逃亡奴隷は死刑になる事もあ
った。それでパウロは、オネシモが新生し、変えられた事を確認し、
主に在る兄弟として受け入れてくれるよう、ピレモンに執りなしの
手紙を書いた。

その際パウロは命令でなく「お願い」した。「してくれる親切は強
制でなく、自発的でなければならない」と。これは、信仰生活は強
いられるものでなく、自由な自発的なものだからだ。命令に義務感
で、嫌々従う「ねばならない」ものではなく、主の愛への、「〜し
たい」という自発的な応答だ。オネシモの名前の意味は「役に立つ
者」だ。

彼は、主により、役に立たなかった者が、有益な者に造り変えられ
た。私たちの人生も同様だ。時には先が見えず、無益にしか見えな
い事態が、「万事益」とされる方により、大きな祝福へと変えられ
る。今、目の前の「これが一体何になる?」としか思えない事柄が、
必ず素晴らしい益にされる。私たち自身と人生を役に立つものとし
て下さり、目の前の事態を導かれる。
-------------
パウロがオネシモを愛の目で見るように、主も愛を持って十字架で
私達を執り成して下さった。何というご愛だろう。ただの罪人であ
ったのに主のあわれみで役に立つ者として生かされて行く。


2019年01月30日(水)

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか」詩篇121:1



これは都上りの歌であり、エルサレムへ巡礼の旅に出る時のものだ。
「山に向かって目を上げる」は、これから上って行くべき、困難な
険しい山々だ。非常に切実だ「私の助けはどこから来るのか」。だ
いたいから助けが来るのだろうか。エルサレムは遙か彼方であり、
幾つもの山々が行く手を固く阻んでいるかに見える。

当時の旅は、今と全く違い、命がけだ。途中で病気になれば命にか
かわる。又、どんな災いや危険があるや知れず、無事に帰れるかど
うかもわからない。そんな中で何が助けになるのか。「私の助けは
どこから?」との問いとなり「私の助けは、天地を造られた主から
来る」と答えが来る。

ある人が大事な試験の時に、カンニングをしてしまった。大きな罪
責感となり、歩みに影を落とした。誰にも言えず、恐くて苦しくて
たまらなかった。悩み苦しみの末、その事をありのまま主のもとに、
祈りに持って行った。「私の助けはどこから来るのだろうか」自分
の心にピタリと重なった。「私の助けは天地を造られた主から来る」、
主の御声だった。しっかり受け止めて下さった、主の愛をひしひし
と感じた。

御前に心から悔い改めた。苦しみが消えて、安堵と平安で満たされ
た。主に導かれるまま対処して行けた。今、何かの問題で悩んでい
るだろうか。その問題は目の前に立ちふさがる山のようだろうか。
しかしその助けは、天地を造られた主から来る!ありのままで主の
もとへ行き、主に告げよう。解決へと導いて下さる。
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苦難の中で助けを求める者や、罪を悔い改める者を主は決して見捨
てられない。これこそが私たちの力の源だ。罪を赦し最後まで守っ
ていて下さる。力を受け、新たな一歩をまた踏み出せる。


2019年01月29日(火)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4



御言葉に従おうとする時に、衝突し対立して来るものがある。この
世の価値観や、習慣、考え方だ。一見、常識的に見える。今までず
っと叱咤激励の価値観の中で生きて来たので、一生懸命に頑張る事
が善であり美徳との根深いものがある。救われて神に向き合うや、
これまで以上に真面目で忠実でなければと、信仰生活とは修業だと
思ってしまう。

律法を、御言葉を、自分の力で行なうなら苦しいばかりだ。出来な
い。しかし苦労は善だと思い、むしろ苦しいと安心感があったりす
る。修業とは苦しいものだが、日本人気質に合致する。これら世の
価値観から来ている。しかし、それは神から出ていないと言ってい
る。逆行するものだと。

行ないによって義と認められようとし、行ないによって受け入れら
れようとするなら、恵みから落ちてしまっていると。何かをする事
によって、神に認められようとする事は、もはや恵みではない。キ
リストから離れてしまっている。信仰生活は、苦しい修業ではない。

すでに受け入れられ、完全な神からの愛を受けているがゆえに、嬉
しく感謝なので、自発的、自由意志で神に従って行くものだ。「ね
ばならない」との義務ではいっさいなく、「愛によって働く信仰」、
愛が動機であり、愛に動かされた、自由意志で仕えて行くものだ。
決して強いられてのものではない。そこには自由な喜びと平安があ
る。
--------------
自分が満足する結果のために祈っていることがある。それでは、祈
りも自分を鼓舞する叱咤激励の一つではないか。主の十字架の恵み
に自分の善意でお返しはできない。受けるばかりの者だということ
をよくわきまえ謙遜になりたい。


2019年01月28日(月)

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4



有名な例え話を聞いた事があるだろうか。動物学校があって、空を
飛ぶ事、走り、水泳、木登りの訓練していた。鷲は、空を飛ぶ事が
大の得意で、幾らでも飛べた。しかし走り、水泳、木登りは他の動
物たちのようにうまく出来ずに、落ち込んでいた。うさぎは、走り
は得意でよく出来た。しかし絶対に空は飛べないので、ひどく劣等
感にさいなまれ、鷲を羨んでいた。

リスは木登りは得意でよく出来たが、やはり空は飛べない。自分は
だめだと、走りも自信が持てなくなってしまった。アヒルは水泳が
よく出来て得意、しかし木登りはできず、走れず、空を飛べないの
で、落ち込んでいた。自分が走れるうさぎや、木登りできるリス大
空を飛べる鷲であったらと羨望で見ていた。

これは、それぞれ全く違っているという事だ。同じものではなく、
それぞれの個性と良さ、得意分野がある。それを他と比較し、他の

ようになろうとするなら、自分に与えられた賜物をも生かされない
まま、人生終わってしまう。神は一人一人を違うように造られた。
比較せずに、自分に与えられたものを発見し、神のために使って行
く時、喜びと楽しみの中で生きて行ける。与えられた個性が開花さ
れる。

周囲をあれやこれや見て、落ち込んでいないか。無意識にも比較し
ていないか。比較するなら必ず落胆する。人を羨むのは、自分に最
善をして下さっている神を信じないという事になってしまう。無い
ものでなく、与えられているものに目を止め、主のために用いてい
ただこう。
--------------
平安がないと思う時、マイナーな思が来る時、この御言葉を自分の
ものとしよう。ひとり子をさえ献げて愛してくださる。この神の愛
を今日も受けている。主の平安、自由を受け、喜びの人生を歩もう。


2019年01月27日(日)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、 もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生き るのです」ローマ8:13


ある人が子供の頃、家族や周囲の人たちから、ずっと「良い子だね
え」と言われて育った。小さい頃自分では、よくわからなかったが、
何だか嬉しくて、良い子であろうと頑張り、自分でも自分は良い子
だと思っていた。そんな自分が大きくなり、本当の自分の姿が映し
出されて行った。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに
泣きなさい」という事が出来なかった。

人の悲しみを一緒に悲しむ事など出来ないし、ましてや喜ぶ事など
不可能だった。むしろ羨望と妬みが渦巻いた。良い子であるはずの
自分が、決して良いものなどでなく、心に潜む醜さ、罪深さを思い
知らされた。罪を認め、主を信じた時に、あるがまま受け入れられ
ている喜び、平安に満たされた。

ある人は、入試に不合格であった。がっくりと失望落胆し、心沈ん
だ。その時、友人は合格だと知った。一緒に頑張って来た友が合格
したのに、喜べない。羨ましくて仕方がなく、心悶々状態に陥った。
祝福などとても出来ない。でも自分はクリスチャンであり、このま
までいいはずはない。

どうにも出来ず「自分はできません、しかし助けて下さい」と祈っ
た。祈った後、自分ではない、御霊の力だったが、不思議に、簡単
に一言だがおめでとうメールを送れた。あれほど悶々の心が、すう
っーと平安になった。すると相手から、誰からよりも、そのメール
が一番嬉しかった。感動したと、ことのほか喜んでくれ、証しとさ
れた。
・・・・・・・・・・・
一瞬〃肉か御霊の選択に生きている。意志は、主もサタンも触れら
れない。自らの選択となる。御霊の方を選ぶ時、御霊の実を結び、
証しとされる。肉を選ぶと肉の実を結んでしまう「出来ません、助
けて下さい」と祈ろう。御霊は助けて下さる。


2019年01月26日(土)

「・・わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとして イサクをわたしにささげなさい」創世記22:2


はっきりと御言葉が「神はアブラハムを試練に会わせた」と言って
いる。神がアブラハムに与えた試練だった。神は私たちに必ず試練
を与えられる。アブラハムの試練は、ひとり子イサクを、全焼のい
けにえとして献げよと言うものだった。しかし神が本当にそんな事
を言われたのか。もしや聞き違いではないのか。

だが普段から神との親しい交わりに生きている、彼にはわかった。
間違い無く神の御声であり、神からの命令だ。間違いは無い。どん
なに苦しい悶々の一晩であったろう。最愛の息子だ。それも待ちに
待って神が賜った約束の子だ。イサクから全世界に子孫が広がるは
ずだ。そのイサクが死んでしまったら。子孫が祝福されるという約
束はどうなるのか。

しかしアブラハムは、深い祈りの中で、神を信じた。神にはイサク
が死んでも、よみがえらせる事ができると。彼は「翌朝早く」神の
命令に従った。神の示しには、早く、速やかに、すぐに従うのが良
い。グズグズするなら、そこに悪魔に機会を与えてしまい、最もら
しい言い訳や口実や理由が、幾らでも次から次へと出て来る。その
内、サタンに説得されて、必ずや従えなくなる。

あなたも経験あるだろうか。大きな祝福があればあるほど、悪魔は
必ず妨害して来る。ぐずぐずし、従う事が遅れるなら、結局、従え
なくなってしまう。もし、あなたが今この状態なら、目の前の導き
に、すぐに一歩踏み出して、従おう。その時、「主の山の上に備え
あり」の、大きな主のみわざを経験する。必ず主の備えがある。

・・・・・・・・・・・・
主は必ず私たち一人一人に試練を与えられる。それは耐える事ので
きないものは無く、必ず乗り越えられる試練だ。主は量って与えて
おられ、脱出の道も備えられている。受け入れて学べるよう祈ろう。
成長して行ける。そうでなければ痛くて辛いだけで終わってしまう。


2019年01月25日(金)

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」箴言11:24




ある人の証しだ。ある時、礼拝で心が恵まれて感謝に溢れて、主の
愛が臨み、何かの形で応えたい、表したいとの思いで、財布にある
ものすべてを献金した。後のことは考えておらず、とにかく献げた
かった。心からの喜びを持って献げ、献げた時にも喜びと平安に満
たされた。礼拝後、帰りのバス代も無かったところ、たまたま家が
同じ方向の人が車で来ていて、一緒にどうですかとの親切な申し出。

主の備えに、尚も感謝が溢れた。別の人は、経済的必要のある、一
人の人の事を示された。御霊の強い促しを感じ、自分の経済状態の
事も脳裏に来るが、主を愛するゆえに従いたいと思った。導きのま
まに、財布の中身を全額を、指定献金で献げて帰った。すると、そ
の帰り、何と財布を落としてしまったのだ。

御霊に従えて、御心を行えた事に心から感謝し、心が晴れやかだっ
た。もし献げなかったなら、財布を紛失してがっかりし、落ち込ん
で終わりだった。御霊の導きに、促しに従う事を強く教えられた。
ある人は御霊の示しかかわらず、どうしても献げられずに、ぐずぐ
ずしていた。

そんな時、想定外の病院通いが続き、どんどん出費がかさんだ。日
頃、健康がどんなに守られ、必要が満たされているかに、初めて思
いが至った。感謝もなく、恵みを当然としか思っていない態度を心
から悔い改めた。何と溢れるばかりに主は、私たちに良くして下さ
り、与えていて下さる事だろう。
-----------------
お金を蓄えれば安心だと必要以上にお金に頼ると、与えてくださっ
た主に頼ることを忘れてしまう。主からの恵みにより受けているこ
とを覚えたい。主に委ねて、良い目的のために用いていただこう。


2019年01月24日(木)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44



私たちは心の奥に、人に認められたい、ほめられたい欲求がある。
小さな子供は母親に「見て見て」としょっ中訴える。私たちの、人
からの賞賛の欲求は根強いものがある。そのため人の評価を得られ
ない時、大きなつまずきとなり、ストレスとなる。この所に悪魔は
巧妙に働いて来る。荒野で、悪魔は神殿の頂から身を投げよと、主
を誘惑した。

劇的に御使いが助け、皆の前で素晴らしいヒーローになれると。世
界の注目の的になり、人気を博した上で、人々を救えばいいじゃな
いかと。群衆は大喝采だと。人々から注目を浴びる快感は大きな誘
惑だ。誰しも、人の前で良い格好したいし、賞賛を受けたい。主に
も来た誘惑だ。私たちの心に、悪魔のこの誘惑が来た時に、御霊の
気づきが与えられるよう祈っていよう。

人の評価に目が奪われると、神の歓心より人の歓心を得ようとして
しまう。そこに虚栄、プライド、優越感や劣等感がむくむくと姿を
現わす。そして常に人が気になって仕方が無い。主から目を離すと
「比較」の中で、人との差異でしか自分を量れないので、人が基準
にならざるを得ない。劣等感と優越感に捕らわれてしまう。

主に焦点を合わせる時、それから解放され自由にされる。私たちは、
世界中で、ただ一人かのように愛されている。主に慈しまれ、絶え
ず目が注がれている。主の愛の中で生きて行ける。まず、人の賞賛
を求めている自分に、気づくことから始まる。
--------------
人の評価に焦点を合わせると自分の足らないところばかり気になる
が、主に焦点を合わせれば感謝の祈りに導かれる。見るべきところ
を見ていよう。主の御言葉の約束と主ご自身を仰ぎ歩もう。


2019年01月23日(水)

「そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために』」ヘブル10:7


私たちは寒暖計の人生だろうか。寒暖計は、外気温そのままの温度
を表示する。寒ければ低温度、暑ければ高温度を表示する。つまり、
私たちも気温の通りに反応する。人が親切であれば、親切に、優し
ければ、優しく、暖かければ暖かく反応する。相手が冷淡なら、冷
たくし、攻撃されれば、仕返しをする。これは反応する生き方だ。

これでは、自分の幸、不幸が、他人によってコントロールされる事
になる。すべてが相手次第という事になり、自分が無い。ここ数日
を振り返ってどうだろう。他人のあの言葉やこの態度に反応し、自
分がアップダウンしていないだろうか。他人の評価で一喜一憂し、
天にも上る心地になったり、暗く沈んだり、振り回されている。
人が気になって仕方が無い。

まず反応している自分に気づき、それを祈ろう。反応するのでなく、
御霊の導きに従う事を決心しよう。ある人が、職場で自分に辛く当
たる人がいた。挨拶しても無視された。しかし反応ではなく、御霊
に従って生きる事を決心していたので、相手の対応に関係無く、自
分は御霊に従い、挨拶を続けた。

ある時、その人の仕事により助けられ、真に感謝だったので、心か
らのお礼を述べた。すると、相手に良心のとがめが、ありありと感
じられ、相手の態度が変わった。その後、気持ち良く接して来るよ
うになった。私たちは人に反応するのでなく、主の御心を行って生
きて行く者だ。その時、あなたから良いものが出て、あなたが周囲
を変えて行く。
-----------
肉の感情は相手によって反応し微調整をくり返す。どこへ向かうか
解らない。従うべき方に従えるよう祈ろう。主にある平安と自由が
ある。経験していこう。


2019年01月22日(火)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5



ある女性が結婚後、悩み問題にぶち当たった。嫁姑関係がギクシャ
クし、うまく行かず重苦しい日々だった。夫との関係も、いざ生活
を共にしてみると、思う以上に価値観や好み、生活習慣の違いがあ
り、悶々状態となって行った。夫の仕事は多忙を極め、話し合う時
間もなく、満たされない思いで一杯になり、不信感にもなり、相手
を責めてしまう。

又、そんな自分に自己嫌悪に陥り、罪悪感が来る。主の御前に赦し
を求めるが、そのしりから相手を責める思いがふつふつと湧く。苦
しみの日々を経て、行き詰まり、疲れ果ててしまい、もうこれ以上
やって行けないと思えた。姑との確執、夫と喧嘩ばかりの日々、も
う結婚生活を続けられないところまで、追い詰められた。

「主よ、助けて下さい。もうどうにもできません」と祈りは叫びと
なり、ギブアップし自分自身を明け渡した。するとその時、初めて、
今までも理解していると思っていた主の十字架が、真に自分の事と
して迫った。罪しか犯す事ができない自分だからこそ、自分のため
の十字架である事が身をもってわかり、心底からの悔い改めが与え
られた。

その時、今まで味わった事のない平安と喜びに包まれた。初めての
経験だった。祈る事は祈るのだが、ずっと自分で何とかしようとし
てもがいていた事に気づかされた。明け渡し、委ねる時に、主が働
かれ、主のみわざを見せられて行く。
------------
自分で何とかしようと頑張り、出来ないと自分の限界を知ることは
感謝だ。無理だと認めなければ主に明け渡すこともできない。平安
をもって無力を認めよう。主に信頼し、主に委ねていこう。


2019年01月21日(月)

「私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます」Tサムエル10:8



サムエルはサウルに、自分がいけにえを献げるので、到着するまで
七日間待つよう指示した。しかし七日を経ても、サムエルは来ない。
兵士達は、敵の圧迫に動揺し、不安と恐怖が、まんえんして行った。
そんな兵達はサウルのもとから逃走し始めた。サウルは非常に焦っ
た。このままでは軍は崩壊してしまう。サムエルが来る気配はない。

それで祭司しか献げる事のできない、いけにえを自分で献げた。神
が守られる事を示して、兵士の士気を高めるために。すると、そこ
にサムエルが到着した。サムエルはサウルを厳しくとがめた。「愚
かな事をした。あなたの王国は立たない。主が命じられた事を守ら
なかった」と。

サムエルが遅れた事が悪いのではないか。敵はどんどん侵攻して来
る。兵士達は怯えて逃げ出ろうとしている。このままなら軍は壊滅
だとサウルは判断した。しかしそういう問題ではなかった。軍を支
配し、敵を支配しているのは、どなたであるのか。ヨナタンは言っ
た「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主が
お救いになるのに妨げとなるものは何もない」

人数、勢力の問題ではない。どこまでも神に従うべきであった。祭
司にしか、いけにえを献げることはできない。分を越えて、しては
ならない事をした。越権行為だ。神を信じて待つべきであった。そ
れが信仰だ。今、目の前の状況で、焦ったり動揺しているだろうか。
じっと神を信じて、神を待ち望もう。神の時に、神ご自身が動かれ
る。
-------------
あれもこれもと決断を迫られる場面があるが、優先順位を見失わな
い歩みをしよう。形を整えるのではなく、神の御心を第一として見
るなら次の一歩も導かれる。神が働いてくださる。


2019年01月20日(日)

「主よ。私は知っています。人間の道は。その人によるのでなく。 歩くことも、その道を確かにすることも、人によるではないこと を」エレミヤ10:23


スポーツ選手の大きな試合やオリンピック、又、入試や就職試験、
又、各競技はどんなに緊張する事だろう。試合や試験に向けて、一
生懸命に努力し準備する。これ以上出来ないほどの準備をしても、
その成果がその当日、確実に出るとは限らない。当日の体調や精神
状態の不調、想定外の事態が起きるかも知れない。

オリンピックなど、練習を積み上げて臨んだのに、緊張からのミス
で、本番で実力が発揮出来ない選手も目にする。練習量や、自分の
精神力、自分の力だけではどうにもならない事を見せられる。人の
歩みは、まさに主によって定められるの通りだ。主と共に歩み、そ
こに主を認める事のできる私達は何と幸いだろう。

私たちの進路、進学や就職、転勤等、目の前に起こる出来事、状況、
それらはすべて主が定められたものだ。それを、主が決められたも
のと受け取る時、揺るがない平安と確信を持って進める。今後も、
主は私たちの手を取って、御心の道へと導いて下さる。

その妨げになるのが、自分の肉の思いだ。自分の願望、欲望があり、
その肉の思いは非常に強い。自分の歩みは、自分で決めたいのだ。
自分のプランがあり、どうしても手放せない。強い自我がある。

だが、主は、すでに最善の道を用意しておられる。自分の思いを明
け渡す時に、平安な道へと導かれる。目の前の状況を、主からのも
のと信仰によって受け取り直そう。その時、道をまっすぐにして、
心を平安にして導いて下さる。

・・・・・・・・・・
一日一日に、いろんな事が起きる。それを主からのもと、受け取り
直す時に、信仰持って対応して行ける。そして主が確かなものとし
て導いて下さる。急遽の事態、想定外の事態にも、ご計画があると
受け取る時に、心が落ち着いて来るから不思議だ。


2019年01月19日(土)

「イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱ です。その願いどおりになるように』」マタイ15:28


悪霊につかれた娘を持つ母親が出て来る。彼女は一心に「主よ。ダ
ビデの子よ」と、娘の救いを必死に、主に叫び求めた。主は、心か
ら叫び求める願いに、答えて下さるはずと思う。だが、主は一言も
全く答えられない。切なる、心底からの求めに沈黙されたままだっ
た。

その時、弟子たちがうるさがり、イライラし、不満を言って来たの
で、「イスラエル以外には遣わされていない」と言われた。母親は
その主の言葉で悟った。自分は異邦人であり、ダビデの子ではない。
ダビデの子よ、という資格は自分にはない。それで、「主よ」とだ
け、更にへりくだり、「ひれ伏して」助けを願った。

身を投げ出し、へりくだり、ひれ伏した。それは、主の答えを引き
出した。しかし答えは「子供たちのパンを小犬に投げてやれない」
だった。それは彼女への試みであり、小犬と認めて、尚も求めて来
るかどうかを見ておられた。彼女は「主よ。そのとおりです」と小
犬だと認めた。

普通は認められないものだ。自分では「いえいえ私などは」と謙虚
な言動をするが、人から「その通り」などと言われたものなら、大
変だ。彼女には信仰があった。小犬でも、豊かな食卓からのパンく
ずはもらえる。主は必ず恵みと慈しみを下さると信じきっていた。
主はその信仰を「立派だ」と驚かれ、とても喜ばれた。その時、娘
は癒された。

・・・・・・・・・・・・・
何の資格も無い者に、いっさいの資格の無い者に与えられるのが、
あわれみだ。そうであれば、どんな状況下でも、あわれみだけは
求める事ができる。そして「主のあわれみは尽きない」と、豊かに
あわれんで下さる。何と有難い、嬉しい事だろう。


2019年01月18日(金)

「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが・・」ヨハネ13:2



あなたの心を見張り、見守れという箴言の言葉があるが、自分の心
を見張る人など無いと言われている。見るもの、聞くもの、思うも
のに全くの無防備状態だと。しかし悪魔の攻撃は、私たちの「思い」
が標的だ。イスカリオテユダの思いに、主を裏切る「思い」を入れ
た。「悪魔は・・ユダの心に・・思いを入れ」の通りに。

ユダは、悪魔が持ち込んだ主を裏切る思いが「自分の思い」ではな
く「悪魔の思い」である事に気づかなかった。そしてやられてしま
った。24時間中、瞬間〃に、サタンからの思い、「火矢」はすべ
ての人に臨むが、ユダはサタンからの思いを拒否せずに、心の中で
温め、「欲がはらむと罪を生み」の通りに、心で妊娠させてしまっ
た。

サタンが吹き込む「思い」を受け入れ、はらんではならない。これ
に対抗する武器は御言葉だ。サタンが吹き入れる思い、妬みや怒り
や批判、それ自体は全く罪ではない。自分ではなく、サタンが吹き
込んでいるのであり、自分は関係無い。しかし、それを拒否せず、
同意し、心の中に受け入れ、妊娠させるなら罪となる。

サタンが邪悪な思いを入れて来る時に、憎悪や裁きなら「他の人に
不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」により拒絶す
る事だ。又不安や思い煩いかも知れない。「思い」がその人を造る
ので、力の限り心を見張り、神のみ思いで心を満たす必要がある。
心を御言葉で満たして行く訓練が必要だ。普段の心の「思い」に目
を留めていよう。「思い」が、自分自身を形造る。
---------------
いつも御言葉に触れ、主を見て、主の導きに応える生き方をしよう。
恐れ、思い煩いなど様々な思いが来るが、主はなんと言って下さっ
ているか、御言葉でサタンの声を打ち消そう。


2019年01月17日(木)

「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません・・しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」ヨハネ14:17




御霊は、私たちの内に住み、生活を導かれる。慰めや励ましを与え、
進路を示し、平安を与え、又、取り去り、信仰生活を導き、教え、
助けられる。御霊の解き明かしにより、御言葉を悟る事ができて、
神の御心がわかる。御霊によらなければ、何一つ悟れない。

神の御声がいのちをもったものとして聞け、理解できるのも御霊に
よる。「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしませ
ん」人間的なものは、霊の理解においていっさい役立たない。御霊
は私たちの内に志を与え、願いを与え、事を行わせて下さる。肉の
思いか御霊からのものか、祈って識別する事が大切だ。

特に強い願いには、自らの主観が入り込む事も多いからだ。御霊で
はない、肉の思い、自分の思いかも知れない。自分の内にあるその
志は、「御言葉と合致するか」絶対に御言葉に反する方向に導かれ
る事はない。「神の栄光が現れるか」「自己中心な欲望ではないか」
「動機は、愛か」「他の人の徳を高めるか、つまづきにならないか」

「平安があるか」等で、試すことができる。不安があるなら、その
不安の旨を主に告げ、不安が無くなるまで、祈り続けるとよい。御
心なら、心に必ず平安が与えられる。御霊は主イエスを証しし、主
がどのようなお方であるかを教え、又、主のお心を教えて下さる。
日々の生活で御霊の導きによく目を向けていよう。御霊はあなたを
力強く導いておられる。
------------
自分の思いは御霊の導きを簡単に否定してしまうが、いつまでも御
霊の平安がない。聖書を通して語られる御霊の声を祈り求めていこ
う。御言葉を外れて導く声を消していこう。


2019年01月16日(水)

「・・また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」コロサイ4:12




神の御心を求める時に、「御心を示して下さい」と祈り、聖書をパ
ッと開いて、偶然開いた箇所の、パッと目についた御言葉を取って
来て、「示された!」と言う事があるが、それは危険だ。聖書は占
いの本ではない。すべての御言葉には前後関係があり、文脈がある
ので、前後関係を全く無視して、1節だけを取り出すのは、間違っ
た方向に行ってしまう。

異端がそうだ。神の導きと正反対の方向に進む。又、人は主観が強
いと、強い願いや思いがある時に、御言葉を自分の都合のよいよう
に取り込んでしまう。どうしても人間は、肉の思いがあるので、自
分の都合に合わせて読み込んでしまう。そうすると御心を誤る事に
なる。御心を求める時は、よくよく祈ることがまず大切だ。

主の御前にまず静まり、自分に罪があれば悔い改めよう。主との正
しい関係になければ、御心はわからない。右でも左でもOKですと、
主に委ねよう。そして日常生活全般に耳を澄まし、アンテナを立て、
御言葉を待とう。礼拝メッセージから、デボーションから、学びか
ら、信仰の人々との交わりから、様々なものを通して、主は必ず語
りかけられる。

指導者の助言も有益だ。祈りつつ、御言葉を待ちつつ、状況、環境
をじっと見ていよう。門が閉ざされたなら、御心でない。自分で開
くのでなく、御心なら必ず主が環境を開かれる。門が開かれ、御言
葉と平安与えられ、尚かつ祈るなら「確信」が与えられる。その時、
前進すべきだ。
------------
御心を求めるために自分の思いを全く主に明け渡せるように祈ろう。
御心が解らないで不安が残る時、自分の思いや計算が邪魔をしてい
るかもしれない。御心を求めていこう。


2019年01月15日(火)

「『手を伸ばして、その尾をつかめ』彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった」出エジプト4:4



モーセは、突然主から「今、行け。あなたをパロのもとに遣わす」
との言葉を受け、どんなに驚き、困惑した事だろう。民をエジプト
から連れ出す指導者とすると。「何を今さら?」。かつて王子であ
り、地位、栄誉、富、権力、人脈、すべてを手にしていた彼は自信
に満ち、40才の時に、イスラエルを救うのは自分とばかりに、勇み
立った。

しかし同胞から拒絶され、失敗し、ミデアンの地へ逃亡。その後、
40年の遊牧生活を経て、すでに80才になっていた。かつての野心も
独善的な正義感も失せ、羊を飼う長い歳月に、家庭も持ち、平穏な
日々に小さな幸せも感じていただろう。このまま穏やかに人生を全
うしたい。それに今や地位も力も何も無い。一介の年老いた無力な
羊飼いに何が出来よう。

尻込みするモーセを、主も承知だとばかりに、説得して行かれる。
そして羊飼いの杖を「それを地に投げよ」と言われ、地に投げると
蛇になった。次に「その尾をつかめ」と。荒野でモーセは蛇の恐ろ
しさを知り、尾をつかむ事の危険性を知っていた。主の命令に従い、
信仰によってその尾をつかんだ。すると杖になった。それは神の杖
とされていた。その杖を手に取り、しるしを行なうよう言われた。

モーセは、神の杖を持ち、エジプトへ帰った。羊飼いの杖を神の杖
として用いられるのだ。それは特別なものでなく、普段モーセが使
っていた古びた杖だ。主は、無いものではなく、あなたの手にある
ものを用いられる。一旦地に投げたように、それを一旦献げるなら、
きよめて神の栄光のために用いて下さる。「あなたの手にあるそれ
は何か」と問われる。
--------------
主に従おうとする時に、力が無い事や何も持っていないと、ない物
に目が行き知りごみをする。何もしなければ失敗もないが、祝福も
ない。今もっている物を主に献げて前進する事を主に願おう。


2019年01月14日(月)

「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって・・」ヘブル5:13



乳ばかり飲んでいる者は、幼子であり、乳とは「キリストについて
の初歩の教え」とある。幼子は固い食物を消化できないので、乳を
飲む。生まれたばかりで、乳を飲むのは当然で、健全、正常だ。生
まれてすぐ固い物を食べるなら、消化不良で胃腸を傷めてしまう。
しかし、もしいつまでも、大人になっても乳だけを飲んでいるなら
異常事態だ。

乳から離乳食、固形物へと移るのが正常だ。柔らかい乳の言葉だけ
を求めるのが、霊的幼子だ。聞きたいのは神の愛だけで、義の教え
や訓練鍛錬は聞きたくない。神に愛されている、それだけだ。しか
し懲らしめは愛であり、神は厳しい訓練、患難、砕き、聖化を備え
ておられる。「あなたを苦しめ、あなたを試み」とある通りに。

又、幼子は自己中心だ。自分中心に世界が回る。自分の思い通りに
ならなければ、ひっくり返って泣きわめく。そして自分を通す。乳
児は固い食物が食べられないように、従いたくない言葉は吐き出す。
自分が受け入れられ、認められ、評価され、愛されたいばかりで、
又、問題解決して欲しいばかりで、自分を捨てる事や、神の栄光に
は関心が無い。

何が神の御心で、神に喜ばれるのかに思いが及ばない。自らに幼児
性は無いだろうか。すべての人が大人へと成長する事が神の御心で
あり、神が喜ばれる事だ。自分の都合に御言葉を合わせるのではな
く、御言葉に自分を合わせ、自分を従わせて行くことを祈ろう。自
分を砕いて御言葉に従う時、変えられて行く。必ず一歩一歩と成長
が与えられる。成熟を目指して進める。
------------
御言葉を信じて歩もうとしても、少し堅ければ避けて都合よく歩ん
でしまう。そこに気づきたい。何が神の望まれていることか、祈り
つつ御言葉に従って行こう。一歩から成熟がはじまる。


2019年01月13日(日)

「宴会の世話役は・・それがどこから来たのか、知らなかったのでー しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」ヨハネ2:9


カナの婚礼のみわざはよく知られている。結婚式の最中に、ぶどう
酒が無くなってしまい、裏方を手伝っていたマリヤが気づき、「ぶ
どう酒がありません」と主に告げた。わたしの時はまだ来ていない
と言われたが、マリヤは主を信頼していたので、手伝いの者たちに、
「あの方が言われることを何でもしてあげてください」と伝えた。

主が何とかしてくれると信じたからだった。すると主は「水がめに
水を満たしなさい」と言われた。水がめは、80〜120リットル入る。そ
れが6つあった。井戸から大変な骨の折れる作業だ。しかし手伝い
の者たちは、主の言われる通りに満たした。そして水を汲んで、宴
会の世話役の所へ持って行くようにと言われた。その通りに持って
行くと、純正の素晴らしいぶどう酒に変わっていた。

人々が驚くほどの最高のぶどう酒だった。宴会の世話役は、それが
どこから来たか知らなかった。「しかし、水をくんだ手伝いの者た
ちは知っていた」。私たちも、主のしもべとして生きる時、主の言
われた通りに従う時、主の素晴らしいみわざの目撃者とされる。そ
れは人には知られない、全くの裏方の仕事かも知れない。

しかし自分自身は主の素晴らしさを味わい知ることになる。それは
人知れず、陰でする執り成しの祈りかも知れない。又、何かの働き
かも知れないが、何であれ、自分にとっての「水がめに水を満たし
なさい」に従おう。

・・・・・・・・・・・・
主の言葉を聞くだけでなく、言われた事に従う時に、主のみわざを
見る。それは従う者に与えられた特権だ。目の当たりに主の素晴ら
しさを見る。まさに目撃者だ。何と光栄だろう。今、「水がめに水
を満たせ」が思い当たるだろうか。その示しに従おう。


2019年01月12日(土)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ・・私のうち に傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導い てください」詩篇139:23



ある人が、対人関係において、主に在る自分は常に正しくあろうと、
公平であろうとして来た。そしてそうしていると思っていた。自分
は人を偏見で見ていないし、そう見る人たちは間違っていると。し
かしある時、御霊の光で照らされた。自分の心の奥深くでは、自分
はそのような人達のようではないと、優越感を持ち、偏見持つ人々
を見下している事に気づかされた。

表には出さないが、心では別の差別をしている醜い自分に気づかさ
れた。まさに取税人を裁き見下している、パリサイ人の姿そのまま
ではないか。愕然とした。神に反抗しているなら、わかりやすいが、
表面的には、正しくあろうとし、従おうとしているので、返って気
づかない。

パリサイ人は自分は正しいと信じ込んでいた。御言葉と御霊の光が
臨む時、私たちも、心の奥底が見せられ、自分の姿を知る。落ち込
むが、神はそんな事はすでにご存じの上で、愛して下さっている。
神は知っておられるが、自分が自分の本当の姿を知らない。試練を
通して、行き詰まりを通して、本来の姿を教え、見せて下さる。

余裕のある時は、幾らでも自分を繕えて、うまく見せられるが、切
羽詰まった試練の時に、全く余裕の無い時に現れる姿が、自らの本
性だ。言い訳や弁解せず、自分を正当化せず、その自分を認めて行
く時、キリストのかたちへと変えられ、成長して行く。

・・・・・・・・・・・
「人の内側のものと心とは、深いもの」とあるように、罪深い、醜
い自分を知る。それに向き合い、認めて行けるのは、主に愛されて
いるからだ。主の愛があるから、そう出来る。どんなにひどくても、
主は変わらない愛で、愛して下さっているからだ。


2019年01月11日(金)

「それで父親は、イエスが、『あなたの息子は直っている』と言われた時刻と同じであることを知った」ヨハネ4:53



王室の役人の息子が、重病だった。それも、もう危篤状態であった。
役人はカペナウムからカナに、主を求めて、30キロほどの道のりを
歩いてやって来た。主なら癒すことができると思ったから来た。も
し思わなければ、30キロも歩いて来れない。主に、家に来ていただ
き、癒しを願うと「しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じな
い」と言われた。

そして「帰って行きなさい。あなたの息子は直っている」と。主に
一緒に来て癒して欲しいと願ったが、御言葉を信じて帰りなさいと
の示しだった。私たちもどうだろう。しるしと不思議を見ての信仰
だろうか。しるしを見せて欲しいと思っているかも知れない。幾多
の奇跡をこの目で見たなら、信じる事が出来て、信仰が強くなるの
ではないかと。

出エジプト時のように、目の前で紅海が分かれるような大々的奇跡
を見たなら、信仰が強くなるような気がする。しかし主は、しるし
を見てではなく、「主の言葉を信じる信仰」へと導かれたい。役人
は「帰って行きなさい」と言われた。息子は直っているからと。主
の言葉だけをもらい、その言葉を受け取り、信じて帰った。すると
途中でしもべに出会い、息子の癒しを聞いた。

主の言葉のその通りに。そして、良くなった時刻を聞くと、主が
「あなたの息子は直っている」と言われた同時刻である事に驚いた。
彼と彼の家の者が皆、主を信じた。主の言葉は100%成就する。主が
私たちを助けて下さり、しるしと不思議を見ての信仰から、主の言
葉を信じる信仰へと成長させて行って下さる。

------------------
どうしても自分の思う結果が欲しいと、目に見える、すぐにわかる
方法にすがりたい。その思いとの葛藤を主は見ていてくださる。主
の口から出る言葉を信じて従っていく信仰を祈ろう。


2019年01月10日(木)

「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て』」T列王19:11 



エリヤは、バアルとの熾烈な戦いで、大々的勝利を遂げた。神の栄
光が満ちる大いなるみわざであった。しかしその直後、怒ったイゼ
ベルがエリヤ殺害を命じた。するとあれほど勇敢に戦ったエリヤが、
イゼベルの脅しに怯えて逃亡した。信じられないが、霊的勝利の後
は、特に危険と言われている通りだ。特別にサタンの攻撃と誘惑が
臨む。

身を慎み、へりくだって、いっそう主に拠り頼む必要がある。あの
力強い信仰と祈りで戦った勇敢なエリヤが、恐れて逃げた原因は、
イゼベルの言葉だった。神の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れて
しまった。するとイゼベルの言葉に支配され、動かされてしまう。
どの言葉を聞くかは極めて重要だ。

私たちは心にどの言葉を入れているだろう。神の言葉か、思い煩い、
恐れ、不安を入れて来るサタンの言葉だろうか。神はエリヤを眠ら
せ、食事を与え、それを繰り返し、まず十分な休息を取らせられた。
しっかりと身体の回復を与え、ホレブの山に向かわせ、山上で主の
前に立つように命じられた。激しい大風、地震、火の後に、かすか
な細い声があった。エリヤは、その細い小さな御声に、一心に耳を
傾けた。

神は、エリヤの思い込みの間違いを訂正し、エリヤに新たなる使命
を授けられた。死を願って、気力を喪失していたエリヤが再び、神
の使命を遂げるために立ち上がった。スランプ、無気力から脱出す
るためには、ただただ神の御前に静まり、細い小さな御声にじっと
耳を傾けることだ。神との交わりから、新しい力が湧き上がる。御
霊の力によって、もう一度、立ち上がらせて下さる。
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私たちが本当に慰められ、立ち上がることができるのは、主から来
る霊の言葉によってだ。ネガティブな言葉が自分の内から湧いてき
ても意識して流そう。空っぽの心で主の御言葉を聞こう。


2019年01月09日(水)

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」ローマ8:6



ある人の家庭で、話し合いをしていた。自分では全くの正論だと思
い、本人が意見を言った。父親が真っ向からそれに反対した。する
と今度は兄が父親に反論し、本人の肩を持った。そうしていると母
親が全く別の意見を言い出した。全員が自分こそが正しいと思って
いるので、言い合いになり、どんどんエスカレートして、やがて争
いになってしまった。

その場に何の関係も無い過去の事、別の問題などが飛び交い、収拾
がつかなくなり切り上げた。腹立ちや対抗心で全く平安が無かった。
皆が平安失せてしまい、暗たんたる気持ちになった。その後、それ
ぞれが我に返り、冷静になり、よく考えた。すると各々が、神の御
前に悔い改めを与えられ、互いに詫びた。

その時、自分の思いでなく、神の御思いは何かに視点を向ける事が
出来た。御霊の導きを求め、祈り、相手の気持ちを思いやりつつ、
再度話し合った。すると一つ思いにされ、一致して平安の内に事態
の決め事が導かれた。そこに潤いと温もりが臨んだ。御霊の支配が
感じられた。

「肉の思いは死」の通り、自分の思いを通して行くと、そこには何
の実も無い。平安無く、心重苦しく、暗い気持ちが残る。「自分は
正しい」こそ、まさに肉の思いであり、その行き着く所は死だ。
「御霊の思いはいのちと平安」、神に視点を向、み思いを求めよう。
-------------
肉は自分の正しさだけを頼りに歩んでいく。正しいのに潤いも平安
もなく疲れてしまう。肉の高慢を主に明け渡そう。そして御霊の思
いを尋ね、御霊に従っていこう。


2019年01月08日(火)

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」詩篇56:11



日々の生活で、私たちの心を乱し、ざわつかせるものは何だろう。
それには人の評価があるのではないだろうか。人の自分に対する評
価を気にし、人目を気にし、それにすぐ反応してしまう。今までを
振り返ってどうだろう。落ち込んだ時、心暗くなった時、思い煩い
が来た時はどうだったか、人の言葉や態度が気になり、振り回され
ていなかったか。

人の自分への批判に反応し、心乱され、敵対心を抱く。憎しみや怒
りを抱いてしまう。人が向けて来る憎しみに反応し、憎しみで返す
なら、愚かなことをしている。そんな時は、御言葉がどう言ってい
るかに目を留め、神の評価を見上げよう。「人の語ることばにいち
いち心を留めてはならない」「人を恐れるなら罠にかかる」と。

売り言葉に買い言葉、苛立っている時に、人から出る言葉にいちい
ち心に留めず、無視することだ。時にその場でカッとなり、思って
も無い事も無責任に発してしまう。人からの評価に、大きな価値を
置いている自分が問題だ。そして、プライドという肉が問題だ。少
しでもプライドが傷つこうものなら、すぐに怒り、恨み、憎悪とな
る。自我に触れた途端、反発心が起きる。又、深く根に持つ。

人の評価で一喜一憂し、アップダウンし、人依存で生きている私た
ちを、御言葉は正しく導いてくれる。まずそんな自分である事を認
め、御言葉に従って行く時、人の評価に反応する自分に、気づける
ようになる。気づきがあると、祈りに持って行ける。その祈りは聞
かれて、人の言葉でなく、神の言葉に反応して生きて行くように変
えられて行く。
-------------
人からの評価は全て真実だろうか。心乱される時はダビデのように
主に祈ろう。誤解なら真実は神が知っていてくださり、受け入れる
べき評価や指摘は有り難く受け取ろう。神が味方だ、何も恐れるこ
とはない。


2019年01月07日(月)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」Uコリント5:7



モーセの死後、ヨシュアが民を率いて、ヨルダン川を渡る箇所があ
る。船も橋も無い。春先の雪解けで水かさが最も増える時期で、水
はとうとうと溢れ流れていた。主の指示通り、祭司たちは契約の箱
をかついで、ヨルダン川に足を踏み入れた。自分の背丈よりも深い
川に入って行こうとした。目に見える何の保証もなく、ただ、ヨシ
ュアの言葉だけであった。

目の前は水かさ溢れる川だ。「足の裏が、水の中にとどまると、上
から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようにな
る」。先に、目の前で川の水が、そのようになってから、渡るなら
簡単だ。誰でも出来る。しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている
時に、足の水の中に入れる事は決して容易ではない。そのためには
信仰が必要だ。

見えない中で、示され、語られた御言葉に従うことが信仰であり、
そして信仰もって従う時、いつも神のみわざを見る。何も見えなく
とも、一歩従う時に、不思議が起きて確かに神が見えて来る。
私たちは、先が見えない状況は恐くて進めず、見えたなら従おうと
思う。しかし見えたなら信仰は必要無くなる。すでに見えているの
だから。

先にヨルダンの水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、
せき止められた。この順番は重要だ。見えたなら従おうとするなら、
一生従えない。今、示しがあるなら、御言葉を頼りに、何も見えな
い中で踏み出そう。神の素晴らしいみわざを見ることになる。
-------------
みわざを見せてください、それから従いますの態度ではないだろう
か。自分の想定を超えることは誰しも不安だ。不安の中で、全く神
に信頼する信仰を祈ろう。信じる者に働く神の力を見よう。


2019年01月06日(日)

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのこ とばによる」マタイ4:4


悪魔は、荒野で主を襲った。主は40日の断食を終え、まさに限界ギ
リギリの空腹状態だ。その主に、神の子で何でも出来るのだから、
目の前の石をパンに変えて、パンを自分で作ればと誘惑して来た。
「このままでは確実に死ぬ、神はパンを与えてくれないのではない
の?」との疑いを吹き込む。「神に頼っていたら、らちがあかない
のでは」「この場合は自分で何とかした方がいい。さもないと生死
に関わるよ。使命が果たせないよと」と。

「死んだら、人類の救いも元も子も無いではないか」「とにかく命
を保つことが大切」と。あなたにもこんな誘惑がないか。「神に頼
っていたら、らちがあかないよ。祈りなんて時間がかかるし、さっ
さと自分でしてしまえば。すぐ出来るよ。それでうまく行けばいい
じゃない」「自分でやった方が早いよ。御心にかなった事なんだし。
問題無いよ」。

それこそ、ここで死ねば、元も子もない。人類の救いという自分の
使命はどうなるのか。どうあってもパンを食べて、とにかくは生き
延びねば。神に頼り続けるなら、あたかも餓死するかのように錯覚
させる。「自分で調達すれば?」神のためなんだからと、自分の判
断で動き、自分の力で事を行なうように仕向けて来る。

サタンの巧妙な誘惑だ。どこまでも神の言葉の下に自分を置いて、
従うことが信仰だ。神はパンを与えて下さる。パンが命を造るので
なく、神の言葉が命を造る。神への信頼を崩そうと攻撃して来る、
サタンをわきまえて、祈っていよう。

・・・・・・・・・・・
サタンは私たちに、自分の思い、自分の判断で動くように仕向けて
来る。特にせっぱ詰まった時に、顕著だ。何とかしなければと、焦
ってしまい、主と御言葉が飛んでしまう。とにかく主を仰ごう。主
を呼ぼう。主に目を向けるなら守られる。いつも経験する事だ。


2019年01月05日(土)

「カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも、 上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから』」民数 記13:30


約束の地カナンの手前まで来た時に、モーセは12人の斥候をカナン
に遣わした。そしてその報告を聞いた。ヨシュアとカレブは、良い
地であり、主が共におられるから上って行こう、必ず占領できると
言った。しかし10人は、民は強く、巨人達もいて、城壁は大きい、
とても攻め上れないと恐れた。

それを聞いた民達は恐怖で怯え、ひどい不信仰に陥った。神が与え
ると約束された地にかかわらず、エジプトにおればよかった、エジ
プトで死んでいたらよかったと、恐怖と不満で一杯で、皆でエジプ
トに帰ろうとまで言い出した。そしてヨシュアとカレブを殺そうと
言い出した。

主は「いつまで信じないのか、わたしを侮るのか」と。つぶやいた
民達は、カナンに入れず、荒野で滅びると言われた。するとそれを
聞いた民達は、今度は「罪を犯した。とにかく言われた所へ行こ
う」と山地の峰の方へ上って行こうとする。モーセは、主が共にお
られないから、行くなと止めた。敵に打ち負かされると。が、上っ
て行き見事に敗北する。

行けと言われれば行かず、行くなと言われれば行く。自分の思いが
あるばかりだ。民の姿は自らの姿かも知れない。主に従うために
「時」がある。時を逸しては、遅い。後から従おうとしても、もう
時遅しだ。民達は斥候が戻って来た時に、自分の思いでなく、信仰
に立つべきであった。神の約束に立ち、カナンへ入って行くべきだ
った。

頑なにそうせずに後悔するが、時遅かった。主の御声は愛だ。愛に
よる語りかけだ。主の愛に応答し従って行く時、更に主の愛を知る
事ができる。今、示しがあるなら御声に従おう。従う時、更に主の
愛を味わい、又、主の真実を経験して行ける。

・・・・・・・・・・・
信仰に立ったヨシュアとカレブ、恐怖で不信仰に陥った10人の斥候、
どちらも同じものを見た。全く同じものを見て、正反対の反応が出
た。これは状況は関係無く、御言葉によって見るか、単に状況だけ
を見るかだ。主を仰ぎ、現状を御言葉に照らして見よう。
★多くの年末のお励まし、新年のご挨拶を頂き感謝します。本年も
よろしくお願いします。新年も祈りを込めて配信させて頂きます。
お一人お一人に日々御言葉により、祝福が豊かにありますように。