2019年02月28日(木)

「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」黙示録12:10



悪魔は、心に猜疑心や不信感を起こして来る。悪魔の攻撃だ。ネガ
ティブな、歪んだ思いが、降って湧いたように起こるなら、サタン
が吹き込んだ火矢だ。、外部から、悪魔に吹き込まれた思いだ。屈
折した思いが湧く時、よく気をつけよう。サタンを見張っていよう。

ある人が、サークルに新人が入って来たので、スムーズに輪に入れ
て、慣れたらいいなとの思いで、お茶に誘った。声をかけたが、特
に反応が無い。素っ気なく感じ、こちらは親しくなりたいと思って
いるのに、相手はそうでもなさそうだ。何だか肩すかしを食らった
ようで、段々、心にネガティブな思いが湧いて来る。

もしや自分の事が嫌いなのか?避けられているのか?疑いが湧いて
来る。こちらの心が閉じそうになる。思い煩いそうで、祈りに持っ
て行った。思いを告げて祈った。すると数日後、帰り道でバッタリ
一緒になり、祈った事もあって再度声をかけた。すると快く応じて
来て、全く好意的で、相手にネガティブな思いのかけらも感じなか
った。楽しい交流が持てた。

その時に、サタンに気づかされた。相手は単にあっさりした性格で
あり、何の悪意もない。それを疑心暗鬼にするサタンの攻撃を受け
ていたのだと。サタンが対人関係にも働いて来る。よく気をつけて
いよう。祈りがある時、気づきが与えられる。人に対する悪い思い
が湧く時は、主のもとに持って行こう。
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見てないことも、まるで見ているかのように悪い方へ思考する。そ
こに嘘を吹き込み煽るサタンがいると気づこう。日夜、人を訴え、
裁いているサタンと同調してはいけない。主に差し出そう。


2019年02月27日(水)

「サムエルは言った。『見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない』民はみな、喜び叫んで、『王さま。ばんざい』と言った」Tサムエル10:24



主が王であったイスラエルで、民は他国のように、自分たちも人間
の王を求めた。周囲に敵の脅威もあり、戦いにおいても強いリーダ
ーを欲した。しかし主はそれがどういう事かを告げ、警告された。
王は支配し、息子や娘を取り、畑を搾取し、王の奴隷となると。だ
がどうしても民は王が欲しいと。

そこで主は、サウルを王として与えられた。王が選ばれたその時、
サウルは荷物の間に隠れた。「私は部族のうちの最も小さいベニヤ
ミン人・・つまらないもの、どうしてこのような事を言われるのか」
とサウルは、自分は小さな者であるのに、王などと、大勢の民を見
た時に尻込みした。

主は小さな者を用いられる。その人の力は問題ではない。主が霊を
注ぎ、力を与えられるからだ。「主の霊があなたに激しく下ると、
あなたも彼らと共に預言して。あなたは新しい人に変えられる」
「手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられる」

御霊に心を支配される時、主の思いが自分の思いとなる。主の願い
が自分の願いとされる。だから何かをする時、御心にかなったもの
となる。残念ながらサウルは王になると高慢になってしまった。主
は小さな者、無力な者に、主の霊と力を満たして用いて下さる。

主に頼り、従うなら、能力も知恵も与えて下さる。今、もし何かの
示しが与えられているなら、その示しに従おう。主がお入り用であ
り、あなたを用いて、栄光を現して下さる。
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主の思いを自分の思いとして歩むとき、主は全てのことを助けてく
ださる。日々の生活は小さな選択の繰り返しだと覚えたい。尻込み
をする自分から踏み出そう。


2019年02月26日(火)

「患難さえも喜んでいます。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです」ローマ5:3



金や銀は、炉で溶かして精錬し、不純物を取り除く。それは高温の、
熱い炉の中で溶かさなければ、不純物は除去できない。しかし精錬
により除去可能だ。私たちも、内にある不純物を除去するために、
試練の熱い炉で溶かされる。その悩みの炉の中で、自分の弱さや内
側のものがあらわにされる。不純物が浮き彫りにされる。

それは、私たちの不純物を取り除き、精錬するためだ。そのために
試練を通される。その中で、不平不満、愚痴で苛立ち、反抗的思い
が湧き、感情的になってしまうかも知れない。普段は知る事のない、
表に出ないそんな自分自身の弱さを知る。しかし耐えられない試練
は決して無い。必ず乗り越えられる試練であり、逃れの道も備えら
れている。

信仰人生で、出会う一つ一つの試練は、すべてクリアできると言っ
ている。許容量オーバーの試練は無い。これは主の約束だ。しかし
その試みの中で、正しい態度が大切だ。屈折したり、逃げたり、い
たずらに落ち込むのでなく、主からのものと、信仰持って受け取る
事だ。自分の思い通りでないし、思いとは全く違う。

肝心なのは、自分の思う最善でなく、主の最善であり、主が自分の
ために思って下さる最善だ。ご計画がある。主は患難から忍耐を生
み出し、忍耐から練られた品性が生み出され、試練により品性が変
えられ、培われて行く。
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手放す不純物はなにか、目の前に来た問題を肉の価値観ではなく信
仰の目で見ていこう。悲しく思える試練も失望に終わることはない
との御約束だ。試練の中で主に近づき希望をもっていよう。


2019年02月25日(月)

「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう」ヨブ42:1




ヨブに極めて厳しい試練が臨んだ。子供たちやしもべ家畜、所有物
をすべて失ってしまった。実は、神とサタンとのやりとりの裏舞台
があったのだが。正しく生きて来たのに、何でこんな目に会うのか。
余りの理不尽さに、思いきり不満を神にぶつける。私など生まれな
かった方がよかった、なぜ、こんな苦しみを受けないといけないの
か。

何も悪い事などしていないのに、「なぜ?」「どうして?」なぜ、
なぜのその答えが欲しい。ヨブ記の最後の箇所で、ずっと沈黙を保
たれていた神が、口を開かれる。が、「なぜ?」には、神は答えら
れなかった。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいた
のか?」と逆にヨブに次々と問いかけられる。ヨブは答えられず、
黙り込んでしまう。

ヨブの「なぜ?」の問いには答えられなかったが、ヨブは、神の語
りかけに納得する。神への不満も捨て去って、神の前にひれ伏す。
なぜヨブは変わったのか。「今、この目であなたを見」たからだ。
神は説明を与えられたのでなく、ヨブにご自身を現わされた。何と
いう恵みだろう。私達は極限の苦しい状況の中で、理由を論理的に
説明されたとして、それで生きて行けるのだろうか。

しかし神に会うならどうだろう。神を見て、私たちの霊が、神の臨
在に触れるなら、どんな辛い状況でも、心は御霊に満たされて生き
て行ける。神との生きた交わりの中で、平安と喜びが臨み、満足が
来る。そして神の愛を信頼できるので、心満たされて生きて行ける。
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理不尽な出来事に遭遇するとその理由、落としどころを見つけよう
とし、すぐには信仰によって受け止められない。けれど素直に祈る
中で神のお心に触れる時、共にいてくださる御臨在に心が満たされ
ていく。


2019年02月24日(日)

「イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、 右と左で壁となったのである」出エジプト14:29


モーセがイスラエル人を導いて出エジプトを果たし、海辺で宿営し
ていた時、パロの軍隊が追跡して来た。みるみる内にそのパロの軍
勢は追いついて来た。前は海で、後ろからは追っ手という、絶体絶
命の危機だ。イスラエルの民は恐怖で叫び、モーセに文句を言った。

奴隷の苦難から救い出されたにかかわらず、エジプトから連れ出
したりして、一体何という事をしてくれたのかと、不平不満をぶち
まけた。その時、神は奇跡をされ、海の中に道を造られた。そして、
安全に無事に民は紅海を渡った。

あなたは今、断崖絶壁にいるだろうか、絶体絶命だろうか。神は必
ずあなたのために、道の無い所に道を造られる。その道は隠されて
いて見えない。しかし、信仰持って前進すると、道がくっきりと目
の前に現れて来る。民のために、海が目の前で分かたれ、道が備え
られていたように。

ある人は進路において経験した。受験が全部失敗してしまい、すべ
ての希望が断たれ落ち込んだ。真っ暗闇だ。どうすれば良いのか、
祈りに祈った。その時に、紅海が分けられたように、目の前に突然
道ができて、留学の道が開かれたのだった。思いを遙かに越えた恵
みだった。

ある人は経済的苦境で、卒業を断たれようとした時、ある方面から
の突然のサポートで目の前に道ができた。あなたも振り返る時、あ
れやこれや、海の中に、主が造られた道を通された事だろう。これ
からも主は、道無き所に道を造り、私たちを安全に導いて下さる。
私たちは前進して行ける。

・・・・・・・・・・・
何もどうにも出来ない、全面ギブアップの状況で、ただ祈り、拠り
すがる時に、目の前に道が備えられた事を何度も見て来た。道の無
い所に、道が造られる。そしてその道を安全に歩めるように、絶え
ず見守っていて下さる。


2019年02月23日(土)

「・・聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。 宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」ロー マ10;14


ある人が、人生の大変な苦境にいた。深刻な問題を抱え、経済的に
も立ち行かず、死をも考えるほどの瀬戸際だった。そんな時、買い
物に入った店で、レジで支払いをしていた時に、背後にかかってい
た言葉が目に入った。店主がクリスチャンであり、壁に御言葉の色
紙を飾っていたのだった。「神は愛なり」とあった。心に焼き付い
て離れなかった。

帰宅後も、その言葉が頭から離れず、グルグル回った。「愛?」
「神が?」「愛って何?」「神とは?」「どういうことなのか?」
「神が愛なら、なぜ今自分はこんな瀕死の状態なのか」。御言葉に
たましいが捕らえられたかように、思いからどうしても離れず、翌
日その人は、店主に意味を聞きに行った。

すると店主は、店の奥の座敷に上げてくれて、聖書から丁寧にその
意味を話してくれた。そして身の上話を真剣に聞いてくれた。店主
の愛情を通して教会に導かれ、主を信じることができた。試練には
脱出の道が備えられていて、生活のめどが立ち、苦境からも救われ
た。御言葉を用い、クリスチャンを用い、苦しみの中にあるたまし
いを導かれた。

別の人も引っ越し先の全く見知らぬ地で、不安と孤独の中、隣家の
クリスチャンが親切に、ゴミの出し方、病院や店を教え、お茶に招
いてくれたりと、優しく接してくれた事を通して、主を知る事と
なった。私たちもそれぞれ何かのきっかけがあって救いに入れられ
た。今度は、私たちが誰かの救いのために用いられるなら、どんな
に幸いだろう。様々な方法で、主は人を救いに導かれる。そして私
たちを用いて下さる。

・・・・・・・・・
御言葉を、証しを、誰かが語らなければ、聞く事ができず、主を信
じることが出来ない。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはい
けない」とあり、まず祈る事が大切だ。祈りから御霊が語る機会を
与え、語るべき相手を導いて下さる。


2019年02月22日(金)

「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて・・走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12:1



例えばマラソン競技で、重い荷物を背負って走るならどうだろう。
ヘトヘトになって走れない。又、100b走で、余分なものが足もと
にからまりついていたらどうだろう。競争になどならない。競走を
する時には、不必要な物はいっさい身につけない。

私たちも信仰の行程を走るのに、重荷を背負っているだろうか。あ
の事、この事の不安と思い煩いが絶えず心に上っては、心が暗く憂
鬱にネガティブになってしまう。「あなたの思い煩いをいっさい神
にゆだねよ」とあるようにあなたのその不安、あの煩いをいっさい
委ねる事が御心だ。

委ねられないのは、自我が握り締めているから。自分が握っていな
いと、自分が放してしまうと、何もかもがだめになり、崩壊するよ
うに思うから。自分が、自分がとの思いで、放せない。それを委ね
られるよう祈ろう。主は助けて下さる。又、しょっ中心を塞がれる、
まとわりつく罪があるだろうか。

解決していないあの憎しみ、この妬み、赦せない思い、普段はどう
もないが、ふっと心によぎると平安が失せ、落ち込んでしまう。そ
の問題を主のもとに持って行き、光のもとに出そう。主が取り扱い、
解決へと導いて下さる。まとわりつく罪を捨てよう。弱さで悩んで
いるだろうか。弱さは罪ではない。

弱さを御前で認め、受け入れる事が大事だ。その時、弱さの中で主
の素晴らしい力を経験して行ける。弱さを受け入れられるよう祈ろ
う。その時、前進して行ける。からみついて放せないものは、何だ
ろう。まず祈って行こう。御霊が光によって示し出して下さる。
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不信仰からくる思い煩いや弱さ罪に気づく度に、赦しの恵みに預か
り、一つ一つ主に委ねていこう。主の平安で軽くされて信仰生活を
豊に歩みたい。


2019年02月21日(木)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8



主の御心を行なおうとする時、必ず祝福を奪いたい悪魔の妨害が来
る。したくない思いが出て来る。「面倒くさい」「嫌だなあ」「何
とか回避できないか」悪魔の囁きが来る。環境的にも妨げが入った
りする。例えば、祈るよう示され、祈ろうとすると、何か心が重く
なる。祈る前はどうも無かったのに。

そして「今でなくていい。また後で祈ればよい」「今は疲れていて
休みたい」との思いが来る。「どうせ答えられるはずがない、祈っ
ても無駄だ」との思いが来て、祈る気力が失せる。電話がかかった
り、チャイムが鳴ったりもする。悪魔に祈りが取られてしまう。
又、聖書を読もうとする時も、しかりだ。

他の思いが幾らでも湧き、思いがさまよう。ふと別の事を考えてし
まい、うわの空で、何を読んだかわからない。読むのを諦めてしま
う。読み出すと眠気に襲われる。御言葉の意味がわからず、すぐに
止めてしまう。他の本なら幾らでも読めるのに、聖書が読めない。
悪魔の妨害だ。又、今日のすべき事があるのに、突然、怒りや憎し
みが思い出され、悶々の時間でつぶされてしまう。

あるいは思い煩いで、延々不毛な時間を浪費してしまう。悪魔の火
矢を受け入れてしまっている。又、休息というのではなく、怠惰に
ずるずると時間を無駄にする。御心に歩ませないよう、御心を行な
うことを妨げて来る悪魔だ。悪魔をわきまえて、御心を行なえるよ
う助けを求めて祈っていよう。祈りは悪魔が嫌がる、大きな力だ。
-------------
サタンはうまく身を隠し神から遠ざけようとする。過去の苦い失敗
から学ぼう。主が助けてくださる。目を覚まし、サタンを忘れず警
戒していよう。


2019年02月20日(水)

「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。神は予め知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿に予め定められた」ローマ8:28



ある人が、職場の第一線で、バリバリ活躍していた。断トツの成績
だった。だが、重大なプロジェクトで様々な支障が起き、失敗して
しまった。そこに難しい人間関係も絡み、ついに心身ダウンで、過
労で入院となった。その時に、酷い落ち込みに陥った。失敗が受け
入れられないのだ。

成果のあった時は、自分が価値ある者と思えていたが、大失敗をし
た今、自分の価値を認められない。非常な苦痛で受け入れ難い事で
あった。弁解や言い訳で、自分を取り繕おうとするが無駄だった。
失敗を人のせいにする自分、人を赦せない自分に更に苦しんだ。悶
々で辛くて、ベッドの上で主に祈った。

主と交わっていると、徐々に心が落ち着いて来た。ずっと交わる中
で自分の姿を見せられた。今までずっと必死に懸命に頑張りに頑張
って、努力に努力を重ね生きて来た。それなりの成果も得た。しか
し結果を出せない人々は、努力していないからだとしか思えなかっ
た。高ぶって、ずっと人を裁いていた。

根にある裁きや見下した目が、対人関係に影響していた事に気づか
された。しかしこれまでの成果は周囲の助けや、チャンスに恵まれ
ていた事、そしてすべては神から来ていた事に思いが至った。必死
の努力をしても、どうにもならず失敗した事を経験し、へりくだら
され、自らの高ぶりを悔い改めに導かれた。

砕かれて、今までの自分は愛のかけらも無かった事を知った。人を
見る目が変えられた。失敗して良かったと心から思えた。あのまま
なら、どんなに恐ろしい事になっていたか、主の取り扱いに心から
感謝した。
------------
試練や失敗の中を通って更に自分を強化するより、砕かれながら主
に似た者に成長したい。出ている所、足らない所を気づけたら、落
ち込むけれど祝福だ。


2019年02月19日(火)

「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人・・を襲わせたので、彼らは打ち負かされた」U歴代20:22



ユダ王国がアモン、モアブ、セイルの大軍に攻められて、絶体絶命
の事態となった。ヨシャパテ王は、主を求めて全国に断食を布告し
た。民も主を求めた。このおびただしい大軍に、もうどうすればよ
いかわからないと告白している。あなたに目を注ぐのみと。

その時、主の霊によりヤハジエルが「大軍に恐れるな、気落ちする
な、この戦いは神の戦い、主が共にいる。明日、彼らに向かって出
陣せよ」と告げた。王はその言葉を受けて、民に主を信じ、前進す
るよう励ました。その時に、賛美隊が軍の先頭に立って「主に感謝
せよ。その恵みはとこしえまで」と賛美の声を上げた。

戦う前に、すでに得たりと感謝した。すると、主は伏兵を設けて、
攻めて来た敵の大軍を襲わせたので「彼らは打ち負かされた」。敵
の死体が野に転がっていて、逃れた者は一人もいなかった。神が奇
跡を起こされ、大勝利した。出陣となった時は、現実には、敵はお
びただしい大軍だ。人間的に見るなら100%勝ち目はない。恐怖で、
おののき、ひるんでしまいそうだ。

しかし、主を信じ、賛美の声を上げた時に奇跡が起きた。「地のす
べての王国が、神がイスラエルの敵と戦われたと・・聞いた時、神
の恐れが彼らの上に臨んだ」。今、大きな問題が立ちはだかってい
るか。主の戦いだ。主を信じて、感謝を献げ、主の示し通りに従お
う。主は伏兵を備えて下さっている。
-----------
失敗するときは、戦う前から最悪を想定し不信仰になっている時で
はないだろうか。目の前の戦いに主がいて主が戦ってくださること
忘れず、恐れないでただ信じ続けよう。


2019年02月18日(月)

「イエスは彼らに、『誘惑に陥らないように祈っていなさい』と言われた」ルカ22:40



「サタンに機会を与えるな」と御言葉は言っている。サタンは常に
私たちの隙を虎視眈々と狙っている。隙さえあれば、足場として入
り込める。カインはアベルへの憤りと妬みで、サタンに機会を与え
てしまった。罪を治めよと言われたのに、罪に飲み込まれ、アベル
を殺害してしまった。

サウル王はダビデへの妬みで、サタンに足場を与えてしまった。罪
に支配されてしまい、殺害のためにダビデをつけ回した。主のもと
に行き、助けを求め、悔い改めて、罪から離れたならどんなに幸い
だったろう。できない自分をありのまま主のもとに持って行く時、
主は助けて下さる。

主を愛し、主によく仕えていたダビデだったが、王になった時に、
バテシバを見て、サタンに機会を与えてしまった。主を仰ぎ、助け
を求めずに、サタンの誘惑に負けてしまった。誘惑が来た時に、主
を呼び、祈ればよかった。そうせずにバテシバを連れて来させ、姦
淫の罪を犯してしまった。ダビデはその後、どんなに苦しく辛い日
々となったろう。サタンは巧妙に、私たちの欲のある所につけ込ん
で来る。

サタンは、私たちの内側をすべて見ていて、どこを揺さぶればよい
かを熟知している。的確に攻撃して来るので、祈りが無いとやられ
てしまう。サタンがいつも来ている箇所であり、わかるはずだ。そ
この所を祈りで武装していよう。祈っているなら、誘惑が来た時に
気づける。気づけたなら、主のもとへ飛んで行ける。
-------------
サタンの誘惑が来ていると気づけるように、朝から祈って一日を始
めたい。サタンの攻撃に身構えていよう。いつも来る誘惑には御言
葉を用意し、祈りと御言葉で身を守ろう。


2019年02月17日(日)

「・・ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏 のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」マル コ14:3


マリヤは自身の香油を、主の頭にすべて注いだ。その香油は300デ
ナリで、1デナリが労働者1日分の給料であり、給料10ヶ月分だ。
非常に高価な物であった。又、その香油は女性が結婚の時のために
と、少しづつ々ためて行くものだった。非常に大切な宝であった。
それを惜しげもなく全部献げた。するとそれを見た弟子達が、貧し
い人々に使えたのにと非難し憤慨した。

しかし主は、マリヤのその行為の意味をわかっておられた。「わた
しのために、立派な事をしてくれた」と。埋葬の準備にと油を塗っ
た。それは、主に香油を塗れる最後の時であった。その後主は十字
架へと向かわれた。そして週の初めの日の明け方、主のご遺体に香
料を塗るために、女性たちが墓に行ったが、もう主は復活されて、
誰も塗ることができなかった。

まさにマリヤが塗ったのが最後の機会だった。それはどんなに主を
お慰めした事だろう。マリヤは大切な香油は無くしてしまったが、
その犠牲の大きな分、心が、愛が、主に向かい溢れた。主によって
心満たされ、悔いの無いすがすがしい、晴れやかな確信が深められ
た。献げる事の意味を知り、祝福を味わい、生涯を主に献げて生き
た。

どんなに祝福だったろう。「時と機会」を逸してはならない。マリ
ヤはなぜそのピッタリの「時」がわかったのか。いつも御言葉に耳
を澄ましていたからだった。私たちも御声に耳を傾けるなら、自分
に出来る事をする機会を悟る。

・・・・・・・・・・・
主が「わたしのために・・してくれた」と言って下さる。自分にと
って、主にお献げできる香油は何だろう。「すべての人が時と機会
に出会う」とあるが、時と機会を逃すことが無いように、御霊の示
しを祈り見張っていよう。主に喜んでいただける幸い。


2019年02月16日(土)

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」詩篇23:1


主は私の羊飼い。私は乏しいことがない、とある。別訳では、私は
欠けることが何も無いとある。何の欠けもないと。欠け自体は、人
生で幾らでも経験して行く。様々欠けて行く。親を見送って失う。
リストラで職に欠ける。突如の経済的困窮で金銭に欠ける。段々と
体力に衰えて行く。欠けるものに目を留めていると、あれやこれや
と欠けている。

しかしダビデは主に目を留めた。羊飼いであられる主、羊である自
分。私には羊飼いが常に共におられる。小さな子供はどんな状況の
中でも、親がいれば十分だ。そこは幸せの場所だ。どんなに厳しい
境遇であろうと、親さえおれば心は満たされている。安堵と喜びが
ある。私たちもどんな時にも、羊飼いである主が共におられる。

ダビデは無いものを数えたのでなく、今、与えられているものに感
謝した。今、現在すべての必要は与えられている。明日の心配は無
用であり、明日は、また明日の必要を与えて下さる。羊は近視眼で、
羊だけだとすぐ迷子になる。しかし羊飼いが進路を導き、軌道修正
し、正しい道へと導く。羊飼いがいる限り、私たちは決して道に迷
うことはない。

しばしば、私たち自身が羊飼いになってしまう。すべての荷が自分
の肩にかかり、不安、心配、思い煩いで身動きが取れない。私は羊
であり、すべての責任を持ち、養い、導き、支えてくれる羊飼いが
おられる。羊飼いが心配して下さっている。委ねて安堵しておれる。

・・・・・・・・・・・・
羊ではなく、しょっ中、羊飼いになってしまい、自分が、自分がと
すべてを肩に負い、行き詰まってしまい、へしゃげてしまう。重荷
にあえいで、苦しい時は、羊飼いを思い起こそう。愛し慈しみ、最
善を考え、心配して下さっている。ご愛と真実を新たに知る機会だ。


2019年02月15日(金)

「・・だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13



人を赦すことは祈りの課題であり、難しい。自分を傷つけた相手を
赦せない。だが、ある人が「相手を赦さないなら、その相手から何
かを求め続けているのであって、その人に永久に縛られてしまう」
と言ったが、赦さない事は、結局は相手に求める事になり、生涯、
その相手に自分の人生のコントロールを許す事だ。

相手を憎むなら憎しみの奴隷となり、結局、相手に拘束され続ける
事になる。それも四六時中。どんなに楽しい時にも、ふっと暗い影
がよぎる。苦しむのは相手ではなく自分だ。憎み続ける事は、心が
どんなに辛く苦しい事だろう。一人相撲であり真っ暗闇の中だ。
「赦しなさい」は、主の御心に従う事であり、結果的に自分も縄目
を解き、自身を牢獄から出して解放する事になる。

赦さない心は、自分をがんじがらめにする。ある人が、他人にコン
トロールされる一生は嫌で、拒否したい。心底自由になりたいと願
い、主に従い、赦す決意をした。御前に祈り、赦しを意志で選択し
た。今、憎んでいる人、赦せない人、傷つけられた相手・・具体的
に名を挙げ「赦します」と祈った。その時「赦しなさい。そうすれ
ば、自分も赦されます」を、身をもって体験した。

人を赦す事によって、自分自身が、神から赦されていること、受け
入れられていること、深く慈しまれ、愛されていることを知る事に
なる。大きな平安に包まれた。人を赦すからこそ、自分が赦されて
いる事を知る瞬間であった。人を赦さないなら、自分が赦されてい
ることが、どうしてわかるだろう。赦せるよう祈ろう。主は助けて、
みわざをして下さる。
----------------------
自分には出来ないように思えても主が助けてくださる。主はどれ程
の罪を赦してくださっているだろう。相手のした悪を数えず、主に
委ねよう。主が解放してくださる。


2019年02月14日(木)

「私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵の福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20:24


ヘロデ王がヤコブを殺害した。するとそれがユダヤ人に大変に気に
入られたのを見て、次はペテロ殺害に手を伸ばした。ペテロを捕ら
え、投獄し処刑しようとした。しかしペテロは、主が使わされた御
使いにより、奇跡をもって牢から救出された。

「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」とあり、教会
ではヤコブの時も、ペテロの時も同じく熱心に必死に祈った。その
結果ヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。なぜ?と思う。
が、これは、ヤコブとペテロそれぞれに対する、主のご計画であり
召しだ。ヤコブは殉教によって神の栄光を現わし、ペテロは更なる
福音宣教の任務が備えられており、それによって神の栄光を現わす
事となる。

ヘブル11章にも「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃
れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」ある人々は、驚
くべき奇跡によりどんどん進撃して行った。そして同時にある人々
は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺さ
れ、乏しくなり、苦しめられ」と殉教して行った。

見える結果は異なるが、どちらもが「信仰によって」歩んだ。一人
一人に備えられた神のご計画が全く違う。それぞれ別個の使命、召
しがある。「あなたはわたしに従え」のごとく隣の人は関係無く、
主だけを見て、自分に与えられた人生、自らに備えられた御心を歩
む事が、一番の喜びであり、神の栄光を現して行く。
---------------
置かれた場所で主を認めて、主に与えられ主が用意してくださった
工程を信仰をもって歩んでいこう。一人一人みな違う工程にあって
も主を心に歩む人生はみな幸せだ。


2019年02月13日(水)

「そこで彼は言った。『確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない』」U列王7:2



アラム王がサマリヤを包囲し、町は大飢饉だった。大勢が餓死し、
ろばの頭や鳩のふんが高値で売られ、子供を食べるという凄惨な状
況だった。エリシャの危急の折りに主の答えがあった。「明日、小
麦粉や大麦が売られる」と。15gが数10円で。すると王の侍従が
「主が天に窓を開かれてもそんな事があり得ようか」と言った。
その時エリシャは、あなたはそれを見るが食べられないと預言した。

時にサマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は大飢饉、自分達は
このままなら必ず死ぬ。そうであるなら敵の陣営へ入ってみよう、
もしや食料があるかも知れないと。そして入って行くと、その時、
敵の陣営に、神が大軍勢の騒音を聞かせ、襲撃に勘違いさせた。敵
は恐怖にかられ、陣営を置き去りにし逃亡。

そこに山ほどの金銀、食料が残された。彼らは王家に知らせ、王は
信じなかったが、偵察により事実を知った。すると大勢が殺到し、
例の侍従は踏みつけられ死んだ。預言通りになった。実際、溢れる
食料を神は用意された。しかし侍従のようにそれを信じなければ、
自分のものにならない。溢れる食料の中で飢えて死ぬ事になる。

不信仰は、目の前にあるものを手に出来ない。私達はどうだろう。
十字架の救い、神の愛、恵み、赦し、義とされる事・・溢れる食料
の中で、信じなければ餓死するように、溢れる恵みの中で、不信仰
で餓死寸前だろうか。すでに莫大な恵みが目の前にある。信じよう
としない、自分に気づく事から、祝福は始まる。主のもとへありの
まま行き、求める時に信仰を与えて下さる。
-----------
肉の価値観は目の前のことだけで一喜一憂させる。心配する目には、
落胆と思い煩いしか見えずいつも平安がない。惑わされず御言葉を
信じ、約束のものを手にしよう。


2019年02月12日(火)

「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった」マタイ22:3



主は、天の御国をたとえで話された。王は、王子のために結婚披露
宴を設けた。結婚式は人生最大の喜びと祝福の場だ。招待客を呼び
にしもべを遣わすが、彼らは来なかった。気にもとめず、畑に商売
にと出て行き、招待を拒否した。それらは、式の後でも出来たであ
ろうに。そして王のしもべ達を殺してしまった。

神の愛を足げにし、恵みを踏みにじる。王は、しもべを送り、通り
で出会った者を誰でも皆招いた。そのため披露宴には大勢が集まっ
た。老人、若者、取税人、遊女、貧しい人、金持ち、ホームレス、
体調悪い人も、誰でも彼でも、「良い人も悪い人でも」皆招かれた。
ユニークな披露宴だったろう。王の招待はすべての人に差し出され
た。

礼服は入口で王により用意された。大通りで出会う人々だ、礼服な
ど持っていない。ところが一人、その礼服を着ないで出席した。王
の礼服を拒絶したという事だ。招待は拒まなかったが、礼服は拒ん
だ。違う目的で宴会に来ていた。王への不敬な心だった。王は神で
あり、礼服とは御子の十字架の贖いだ。十字架の主の血潮は、義の
衣として、私たちに無代価で与えられる。

「良い人も悪い人も」この義の衣を着て、王の祝福と喜びの披露宴
に出る事ができる。何かの功績により選ばれたのではない。全くの
無功績だ。招かれるに値しない私たちに、義の衣が与えられる。礼
服を着ない者のように、主の救いを拒むのでなく、礼服を着て、罪
の赦しを受け取り、主の御前で救いを喜び味わい、光栄の宴会にあ
ずかろう。
-------------
主により招かれ、御国の宴席に連なる特権にあずかれた。何という
恵みだろう。新しい天の御国に生きる者とされたことに感謝し、喜
びを持って信仰の歩みを続けよう。


2019年02月11日(月)

「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは・・」申命記8:18




イスラエルは神の選びの民とされた。それは、彼らを通して諸国民
が救われるようにという事であった。出エジプトを果たし、水や食
物の無い荒野で奇跡をもって守られた。そして約束通り、乳と蜜の
流れる地カナンに導き入れられた。

ところがその良い地で、生活が豊かになると「この私の力、私の手
の力が」、この富を築き上げたのだと高ぶった。主は、何度も警告
された。「主が」あなたに富を築き上げる力を与えられたのだと。
その事を決して忘れるなと。人は、何不自由無い順風の日には、神
を忘れる。自分で物事を進められて行くので、自分の力で生きて行
けると錯覚し、恵みを忘れ、高慢になる。

「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と言われるが、何もかも
が当り前となり、感謝が無くなる。こんな時、主は愛ゆえに試練を
送られる。懲らしめは愛だ。民もバビロン捕囚という厳しい試練に
会った。砕きであった。エルサレムがバビロンによって滅ぼされ、
国土を失い家を失った。異国への捕囚の身となり、苦難を受けた。

時を経て、次世代になった頃、人々は暮らしは成り立っているが、
信仰心は失せ、何を拠り所に生きて行けば良いのか、心は空虚だっ
た。そんな時に、諦めていた祖国帰還のメッセージが語られた。労
苦は終わり、慰めの時が来たと。

私たちも状況がどんなに悲惨でも、主は決して捨てられない。必ず
夜の後に朝は来る。何よりもいつも主を心に据えて、主が、今の祝
福の与え主であることを心に刻んでいよう。感謝を忘れないでいよ
う。
------------
無くして初めて無力だと知るのではなく、順境の時こそ与え主であ
る主に感謝の祈りを献げよう。すぐに自分の力で歩んでいると錯覚
してしまう。有限の者だとわきまえていたい。


2019年02月10日(日)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13



ある人が、職場でどうしても受け入れられない、難しい相手がいた。
何かと言葉にトゲがあり、傷ついた。出来るだけ避けて、接触した
くなかった。仕事上のイライラがあるとぶつけて来た。嫌な、嫌い
な相手だった。争いも、問題も起こしたくないので、我慢していた。

その相手が、家の事情で突然の転職となり、状況的にはもう二度と
会う事は無くなった。正直なところ解放感に安堵した。ところがし
ばらくして気づかされた。その場にいないし、もう会う事も無いの
に、自分の心が縛られている事に。傷つけられた事の恨みと憎しみ
が、心の奥にあり、消えないのだ。

ふっと思いに来ては、心が重苦しく沈んだ。目の前にいないのに、
心はがんじがらめだった。平安が無く、余りに苦しいので、主の御
前に行き、心を打ち明けて祈った。祈る中で、示されたのが、恨み
と赦せない心だった。しっかりと握って放さない自分の罪だった。
それが平安を奪っていた。

主の御前に悔い改めた。大嫌いな相手だったが、不思議だが赦すこ
とができた。自分では全く無い、御霊の力だった。平安が戻った。
今度は真の解放感と安堵が心に広がった。赦せない心ほど、苦しい
ものは無い。辛い。主が、そこから救い出し、平安へと導いて下さ
る。まずありのまま主のもとに行き、心を打ち明けよう。必ず導い
て下さり、みわざにあずかる。

・・・・・・・・・・
恨みや赦せない思いは、心に重い鉛を抱えているようだ。思いに浮
かんでは苦しく、がんじがらめだ。そしてサタンに足場を与えてし
まう。怒りや憎しみとなる。ありのまま主のもとに携えよう。主が
取り扱って下さり、平安へと導いて下さる。


2019年02月08日(土)

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえ の道に導いてください」詩篇139:24


ある人が、まとまった当座の費用が必要になり、すぐ返せると、深
く考えずに、軽い気持ちで金融機関から借金をした。ところが大変
な利息に、又、諸事情も重なり、それが返済できず、おおごとにな
ってしまった。とうとう自分ではどうにも出来なくなり、誰にも恥
ずかしくて言えなかったが、牧師に告白し、軽はずみであった事を
悔い改め、一緒に祈ってもらった。

主は祈りに答え、奇跡的に必要を与えて下さり、無事に完済できた。
その事を通して、様々教えられた。すぐに金融機関から借金をせず
に、まず祈るべきであったこと。主は必ず必要を与え、又、ふさわ
しい導きを与えて下さったであろうこと。「あなたの道を主にゆだ
ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」との事を、頭ではよ
く知っていたが、自分は全く信じていないことを知らされた。

主が成し遂げて下さることを、信じる事が出来ないから、自分が動
き、自分の判断、自分の思いで行動したこと。主を信頼しきれてい
なかったこと、不信仰な自分の現実の姿が見せられた。非常に手痛
い失敗であったが、感謝であった。

この取り扱いを通して、主のあわれみのみわざを経験して、どんな
状況であれ、祈るなら、主に頼るなら、主は何とかして下さると、
信じることができるようにされた。大きな一歩前進であった。主は、
私たちの内側を照らし、成長へと、手を取って導いて下さる。

・・・・・・・・・・
信仰人生に起きる様々な出来事を通して、主は、私たちの内側を見
せて下さる。弱さや足らなさ知る。それを認め、そのまま祈りに持
って行く時、高ぶりの山は削り、不足の谷は埋め、成長へと導いて
下さる。主のかたちへと変えて行って下さる。


2019年02月08日(金)

「キリストは、人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2:8


         
アダムとエバが、エデンの園で罪のほうを選択した結果、罪を犯し
てしまった。罪はプライドの形をとり、以来、人はプライドで生き
ている。男性は自分の仕事や地位に高いプライドを持ち、母親は子
供に夢を託し、子供によって自分のプライドを満たそうとする。

様々な対人関係で、プライドとプライドが衝突し、争いや、妬み憎
しみが起こる。ある婦人はお節介な隣人にいら立っていた。余りに
立ち入って来るので、怒りが湧き、冷静にではなく、苛立ちに任せ
て言葉を発しそうになった。何とか守られ、御前に祈った。

心の内をことごとく告げて、祈っていた中で、主のへりくだりを見
せられた。相手ばかりを責めてしまうが、自らを省みる時、こちら
も愛の無い態度を示された。自らの非も気づかされ、心が変えられ
て、次に会った時に、日頃の助けを感謝できた。確かに助けて貰っ
ている事も事実だ。

すると相手の態度が変わり、相手も柔らかくなった。そうこうして
いると、悩みを相談して来られ驚いた。御霊に従う事の祝福を経験
した。プライドに生きると心休まる時が無い。パリサイ人は徹底し
てプライドに生きた人達だ。彼らの立派な行ないの動機は、愛でな
くプライドだった。

プライドでも立派な行ないが出来る。主はプライドとは無縁で、徹
底して愛に生きられた。様々な問題が起こる。その中でプライドが
砕かれ、へりくだらされる。今の問題にプライドが潜んでいるだろ
うか。ありのまま祈ろう。取り扱って下さる。
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プライドや虚栄から解放されたらどれほど真っ直ぐに事実が見える
だろう。人の良いところも、自分の罪もありのままが見える。主に
祈り主のへりくだりを学ぼう。


2019年02月07日(木)

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」創世記3:5



サタンは、何の考えも計略もなく、行き当たりばったりに攻撃して
来ない。徹底した策を練り込み挑んで来る。「サタンの策略」と言
われているからには、相当の用意周到の策があるという事だ。サタ
ンがエバを誘惑した時に、目が開け、善悪を知り、神のようになる
ことを「神は知っている」と言った。

つまり暗に、人が神のようになるのが嫌だから、禁じているのだと。
ふっとした不満な思いへと誘い、疑いを生じさせ、不信感へと誘惑
したのだった。サタンは私たちに同様に誘惑する。罪を犯した時の
事を振り返ってみよう。そこに何らかの不満が無かったか。罪の裏
に不満が見え隠れする。心に不満が忍び寄ると、感謝も賛美も失せ、
恵みが消えてしまう。

最近失敗した状況を振り返ってみよう。対人関係において、イライ
ラして怒りを自制できなかった事、きつい言葉、悪い態度、その裏
に不満が無かったか。不満はサタンの巧妙な策略だ。不満という餌
で、罪に誘われてしまう。喜びと平安を失ってしまう。それは神へ
の不信感、疑いへと発展する。神は愛していると言うが、愛されて
などいないと、ささやいて来る。目の前の状況はどうだと。

愛されているなら、こういう状況にはならないはずだと。知らず知
らずに、疑いが忍び寄る。サタンの策略だ。もろに神や御言葉を否
定しては来ない。「ほんとうに?」とささやいて来る。お腹をすか
したライオンをわきまえ、御霊の助けを祈っていよう。必ず守られ
助けられる。
------------
食べてはいけないのは一本だけ、むしろ食べられる実ばかりなのに、
どの木の実も食べられないと思い込んでいく。サタンの誘惑に事実
が見えなくなっていく。気づけるよう祈り、御言葉に立っていよう。


2019年02月06日(水)

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」ルカ10:36




当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあった。そのサマリヤ人が、
傷を負って倒れていた敵であるユダヤ人を助けた。サマリヤ人の動
機は心からの「同情」であって、それ以外の何の下心も無かった。
あわれみ=かわいそうに思う心+行動だ。単に感情的、感傷的な同
情でなく、そこに行ないが伴う。

彼は、目の前で苦しみ、助けを必要とする人に自分に出来る事をし
た。関わるのが嫌だと、逃げて去らず、「近寄って」ぶどう酒は消
毒用に、オリーブ油は薬として惜しげもなく使った。自分の家畜を
使い、自分の予定を急遽変更し、宿に同行し、一泊し、親身に介護
の上、費用も全額負担した。中途半端でなく、至れり尽くせりだ。

愛するとは犠牲を払う事だ。自らの金銭、労力、時間を突然の必要
のために、彼は惜しまずに献げた。犠牲を払わずして愛する事は出
来ない。そしてその後、彼はきちんと自分の仕事をするために出向
いた。自分の仕事をし、再び帰りにお世話をした。自分の責任を放
り投げて世話するのではない。自分を必要としている家族を顧みず、
人の世話ばかりにかけずり回るのは違う。

自分の責任は果たすべきで、尚且つ、助けを必要とする人に、自分
に出来る事をして行くことだ。御霊が導いて下さる。今、御霊の示
しがあれば「近寄って」、従おう。祭司とレビ人は関わりたくなく
て、逃げた。自らの何かを献げて、仕える事を、今、示されている
なら従おう。それが隣人になるという事だ。
--------------
どれ程の犠牲が必要なのか、また満足な手助けが出来るかと、実行
する前に躊躇するが、祈り、御霊に導かれながら一つ一つ実践して
いこう。通り過ぎる言い訳より今出来る事を行おう。


2019年02月05日(火)

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6:8



神は、主イエスの十字架の血潮のゆえに完全に罪を赦して下さる。
悔い改める時、二度と思い出されず、無罪放免にして下さる。しか
しだからと言って、どうせ赦して貰えるからと、罪を犯してはなら
ない。心して恵みを放縦に変えてはならない。罪は赦されるが、刈
り取りがある。

警察沙汰を起こした少年少女は、施設で厳しい矯正訓練を受ける。
親は、迷惑をかけた人々に謝罪して回り、破損は弁償し、あらゆる
償いをして回る。大人も、傷害事件を起こした時、悔い改めるなら、
完全に主は赦して下さる、しかし法律上の刑罰を免れる事はできな
い。法に即して罰を受ける。

又、憎しみや妬みで人を傷つけてしまったなら、悔い改めにより、
主は赦して下さる。しかし一度壊れた信頼関係を取り戻すには、多
大な努力と時間が要る。罪のもたらす傷や害は、思っている以上に
大きい。罪の結果は、自分だけでなく、家族や周囲をも巻き込み、
大きな悲しみ苦しみの傷を負わせてしまう。罪を軽く見て、もてあ
そんではならない。

弱い者だからこそ、主に拠りすがり、頼み祈っていよう。逆に御霊
のために蒔くなら、周囲の証しとなり、神の栄光が現われ、人々の
救いにつながって行く。自分自身にも喜びがある。御霊は私たちを
導かれる。御霊の声に耳を傾け、肉の思いでなく、御霊の導きに従
おう。御霊の実を刈り取る。そう出来るよう、従えるよう祈ろう。
---------------
折々に祈りながら御霊の導きの中を歩もう。御霊に従う時、主は心
に喜びを与え、罪を犯せば平安は去り、主のお心を知らせてくださ
る。御霊の実を刈り取ろう。


2019年02月04日(月)

「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」マルコ1:35



主は誰もいない、寂しい所へ出向き、よく祈られた。一人きりで、
世の喧噪から離れて、主に向くことはとても大切だ。又、独りきり
で主と対峙するために、ある時、主が私たちに「孤独」を送られる。
時に孤独を感じる事があるだろうか。親しい人々から離れた環境で、
又、大勢の人々の中でも、感じることがある。

しかし時に孤独は良いものだ。心が主に向くからだ。主は、私たち
の注意を、主に向けたいと願っておられる。孤独は特別なプレゼン
トだ。この世の騒がしさから離れ、寂しさの中で、初めて真に心が
主に向く。様々な関心から離れ、主のみに向けられる。幸いな交わ
りを経験する。ある時には、人に裏切られ孤独だろうか。親しい人
が去って孤独かも知れない。

主も、ゲッセマネでは孤独の中で祈られた。そして罪となられたが
ゆえに、十字架上で御父に捨てられた。又、弟子達は、肝心な所で
我先にと逃げ去った。孤独を知る理解者だ。主を捨てた弟子達への
言葉が「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」だ。
主は決して見捨てられない。世の喧噪から離れ、人の交流からもし
ばし離れ、主にだけ心を向ける事は有益だ。主との幸いな交わりに
入るために。

いっときの孤独が私たちを主のもとへ追いやってくれる。そうでな
ければ、目に見える人や物で満足してしまって、主のもとへ行かな
い。孤独が来た時には、私たちは世の価値観とは違い、主からの特
別のプレゼントと受け取ろう。そして、主と交わり、主で満たして
頂こう。
-------------
たった一人になり神と交わる時は大切だ。主でさえそうされた。ま
してや世の刺激に弱い私達にはどれ程大切な時間だろう。忙しい日
も、神との交流で心を満たす時を確保しよう。


2019年02月03日(日)

「ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられ た」マルコ4:38


ガリラヤ湖はすり鉢状で周囲は山に囲まれているため、突如の嵐が
発生する。この日、主は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われ、弟
子たちは、その言葉に従い舟を出した。主はかなりの疲労のため、
乗り込んですぐに熟睡された。

そんな時に、突如の嵐が起きた。凄まじい突風で、大きな波をかぶ
り、舟は水で一杯になった。今にも浸水し転覆しそうだ。嵐にも慣
れているはずのプロ漁師ですら、恐れて慌て、身の危険を感じパニ
ックになった。

しかし、主はと言えば、この大騒動の中、熟睡しておられた。大嵐
にいっさい動じる事もなく。弟子たちは、舟に主がおられるのに、
恐怖でパニックだ。嵐に、状況に、飲み込まれてしまい、主を前に
置いて、右往左往だ。だが、主の舟が沈む事など有り得ない。沈む
事など不可能だ。そして向こう岸に渡ると言われている。

舟が沈むと恐れて怯えているのは、私たちの姿だろうか。嵐に、厳
しい試練に会うと、何もかもがだめになってしまうように思って
しまう。自分の一生はだめになる、仕事はだめになる、家庭はもう
だめだ、子供がだめになる・・。恐怖でしかない。しかし主の乗って
おられる舟が、沈む事など有り得ない。

「どうしてそんなに恐がるのか、信仰が無いのはどうしたことか」
と。主は、私たちの人生、同船して下さっている。その主を信じる
ことを、信仰を求めておられる。恐れている事をそのまま言い表し
て、信仰が与えられるよう祈って行こう。

・・・・・・・・・・・・・
試練に会うと、主が飛んで、目の前の状況に飲み込まれてしまい、
最悪のシナリオが出来上がる。最悪の結末で、すべてがだめになっ
てしまうと思う。つまりは舟が沈んでしまうと。しかし主が同船の
舟が沈む事が不可能だ。主への信頼が与えられるよう祈ろう。


2019年02月02日(土)

「・・あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。 そうすればたましいに安らぎが来ます」マタイ11:29


くびきとは、平たい板に二つ穴を開けて、二頭の家畜の頭部をその
穴に入れて、同方向へ進ませるためのものだ。家畜があちこち別の
方向へ向かず、同じ方向へ進むので、御する事ができて農作業に便
利だ。「負いやすく」は「身体にフィットして快適、心地良いこ
と」だ。くびきはその穴にしっかり首を入れると、快適で心地良い
が、それを拒否し、抵抗すると、穴に首が締め付けられる。自分で
首を絞める事になる。

自分の思い通りに行こうとするなら、そのくびきは自らを締め付け、
苦しく、辛いものとなる。自分を阻むものでしかない。今、与えら
れているくびきは、あなたにとって、どちらだろう。意に沿わない
としても、与えられたくびきをしっかり受け入れる時、そのくびき
はむしろ平安と、それによって主を知る喜びをもたらしてくれると。

しかし受け入れようとしない時、それは苦しいばかりだ。何の喜び
も無く、ただ辛くて痛いだけだ。どうしても受け入れ難いものなら
祈ろう。主が助けて、受け入れられるにようにして下さる。あなた
にとっての、くびきは何だろう。今の境遇か、役割か、部署か、又、
対人関係だろうか。

嫌で受け入れられないなら、平安が無く、悶々状態で苦しいばかり
だ。心砕いて、受け入れて行く時、全く同じ状況の中で、心は自由
にされ、そして多くの学びが与えられる。成長へと導かれる。難し
ければ、くびきを負えるよう、求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・・・
「わたしのくびき」主のくびきだ。「わたしから学び」、主が沢山
の霊的学びを与えて下さり、状況に関係なく平安にされる。だが、
くびきを受け入れる事が難しく、受け入れられない。祈ろう。不可
能が一つも無い主が、みわざをして下さる。求めに答えて下さる。


2019年02月01日(金)

「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」Tペテロ2:24



ある人が、職場でどうしても、そりの合わない相手がいた。いつも
嫌な感じに思っていて、相手も同じように思っているだろう。性格
が合わない。話すとギクシャクし、相手にトゲを感じる。時に批判
され、嫌でたまらない。憎しみが湧く。段々、話す事が苦痛になり、
避けたい。

だが、自分はクリスチャン、これでよいとは思えない。平安が無く、
心は重苦しい。その事を祈りに持って行き、そして牧師にも相談し
た。すると「じいっと十字架を見てごらん。何度も何度も見てごら
ん」と不思議な事を言われた。言われた通りに、じいっと十字架を
見つめた。尚も見つめ続けていると、なぜか涙が出た。

「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすこと
をせず」御父にすべて委ねられた主。あの極限の状態の中で、「父
よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわから
ないのです」と赦しを執りなされた。何をしているのかわからない
自分のための執り成しだった。自分は一体何をしているのか。十字
架により、主のもとへと戻らされた。

自己中心を悔い改め、しかしこのまま愛し受け入れて下さっている
主に感謝した。その時、相手の欠点しか見ていない自分に気づかさ
れた。長所など全く見えない。相手を責め、裁き、トゲを出してい
たのは自分だった。私たちの原点、帰る所はいつも十字架だ。解決
は主の十字架にある。ノウハウや処方箋ではない。主の十字架に愛
と力がある。
-----------
クリスチャンだから嫌な人にも愛を持ってと思うが、本当に難しい。
自分自身の醜い罪が主によって赦されたと、そこを認めることから
始めたい。主のうち傷のゆえに癒されたのだと。