2002年09月30日(月) 「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)
「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)
ある一家の大黒柱の男性、不況の折り、 経営していた小さな事業が倒産してしまった 金銭的なめどは全く立たず、家族を養う生活 費に事欠く日々となっていった。次の職が見 つかるまで、親族から少しまとまったお金を 借りようと考えた。 今まで迷惑をかけた事もなく、気持ちよく貸 してもらえると思えた。しかし、その時、メ ッセージを通して語られた。この時こそ、信 仰に立つべき時だ。神を第一にし神に求める なら神は必ず必要を与えて下さる。 人に借りるのでなく、信仰に立とうと決心し た。神にもう一度自分自身を委ね、必要を与 えて下さるよう、神を信じ祈りに祈り続けた するとずっと昔に借りていたお金を、気にな りながら、やっと整えられたと、昔の知人が お礼も合わせて返済に来た。完全に忘れてい たものだった。神は真実に頼るものに答えら れる。
2002年09月29日(日) 「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
一人の若い女性が神様に従いたいと、願って いた。神様を喜ばせるために仕えたいと思って いた。それゆえ、主のために、伝道のためにと 様々な奉仕に励んでいた。しかし、ある時、主 のためにとの計画がことごとく目の前で挫折 して行く事を経験した。どの方向に進もうとして も、門が閉じられるのだ。なぜ?どうして? 真っ暗闇に落ち込んで行くようだった。「私の 願いでなく、あなたの御旨がなりますように。 私の人生にどんな事をされても結構です。 ただあなたの御旨が成りますように」との 一人のクリスチャンの祈りを聞いた時、自分が 根本的に間違っている事を悟った。何をするか でなく、自分自身と自分の人生を根こそぎ造り 変えて頂く必要がある事がわかった。あなた の御旨を私自身に成して下さいと、明け渡し た時、真の平安を得た。
2002年09月28日(土) 「イエスはシモンに目を留めて言われた「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(ペテロ)と呼ぶことにします」(ヨハネ1:42)
「イエスはシモンに目を留めて言われた「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(ペテロ)と呼ぶことにします」(ヨハネ1:42)
アメリカ、サウスダコタ州の断崖岸壁に巨大な 大統領の顔が彫刻されている写真を見た事が あるだろうか。ワシントン、ジェファーソン、ルー ズベルト、リンカーンのアメリカの基礎を築いた 4人の大統領の顔だ。一つの顔が18メートル もある。彫刻家ポーグラムが削岩機やダイナ マイトを使って、この巨大な顔を造った。14年 かかった。彼は岩を見ながら、常に完成した姿 を心に描いていた。だから、出来上がった。 神も又、私達一人一人を見て、完成した姿を 見ておられる。シモンを見て、あなたをペテロ (岩)とする、つまり岩のような信仰堅き人物 にすると言われた。そして、ペテロは様々な ところを通りながら、そのようにされた。あなた も削り取ったり、砕いたりしながら、神は彫刻し キリストの似姿へと造り変えて下さる。完成し た姿を見ておられる。あなたを全く神に任せよ。
2002年09月27日(金) 『激しい欲望にかられ大声で泣いて「ああ、肉が食べたい。エジプトでは、ただで魚を食べていた、だが今や、私たちののどは干からびてしまった。肉もなくてこのマナを見るだけだ』(民数記11:6)
『激しい欲望にかられ大声で泣いて「ああ、肉が食べたい。エジプトでは、ただで魚を食べていた、だが今や、私たちののどは干からびてしまった。肉もなくてこのマナを見るだけだ』(民数記11:6)
ある一家が郊外に家を建て引っ越した。 そこは高台で見晴らしはなんとも素晴ら しく、こんな美しい景色に囲まれて住め るなんてと感動と感謝に溢れた。少しの 間はその景色に見入ったものだが、日常 生活が始まると、日々の多忙の景色など 全く目にもとまらなくなった。毎日の同 じ光景と感動も覚えなくなって行った。 苦難のエジプト生活から救出されたイス ラエルはもろ手を上げて歓喜した。 しかし、行けども行けども荒野の苦しい 生活が始まると、まず食べ物が無いと不 平をぶつけた。 憐れみ深い神は天からマナを降らせて 下さった。この奇跡を喜んだ民は、しば らくするとこのマナにも飽き不平不満を 募らせた。このわがままで自分勝手な民 は自分自身だ。天から降る溢れるばかり の神の恵みに無感覚になっていないか。 恵みを数えよ。
2002年09月26日(木) 「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコ5:36)
「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコ5:36)
大勢の人の群れがイエスのみもとに 集まっていた。そこにヤイロという会 堂管理者が、イエスの足元にひれ伏し 死にかけている娘の癒しを願った。 イエスは彼と一緒に出かけられた。 しかし、途中、長血を患った女がイエ スの着物に触った。信仰持って触った のを見てとられ、癒しのために立ち止 まられた。その時、ヤイロの娘が無く なったとの知らせが届いた。 主は失望した彼に、信じていなさい、 と声をかけられた。私達も厳しい試練 に会う時、もう駄目だと思う。 何もかもが砕け散って、もう何も望み が無いように見える時がある。その時 こそ、実は勝利の一歩手前だ。 せんかた尽きて、心弱り思いしおれて いるか。主は言われる「恐れないでた だ信じていなさい」と。私は決してあな たを見捨てないと言われている。 神に絶望は無い。あなたの信仰は報いら れる。問題の彼方におられる神を見よ。
2002年09月25日(水) 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」(箴言4:23)
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」(箴言4:23)
イスラエルにとって神の宮である神殿は、神を 礼拝する聖なる大切な場所であった。レビの 子孫は、この最も神聖な場所を守るのが任務 だった。彼らの働きは重要で、特別に優れた 能力を求められた。彼らは神殿をしっかり守っ て、内部にある神聖な器具が盗まれないよう 見張った。主を信じる私達も同じく、「あなたが たは神の神殿であり、神の御霊があなたがた に宿っている」とある神殿である。レビ人達が 神殿を守ったように、私達も「心」を守る必要 がある。心には尊い宝が詰まっている。愛、 聖さ、真実、神への信仰・・それらを守らなけ ればならない。又、しっかり心を守って、何 でもかんでも、心に入れてはならない。悪から 心を守らねばならない。神の御言葉を心に とどめ、罪を告白し、心をきれいにし、真実な 事、誉れある事、正しい事、清い事・・それら のもので心を満たしている事だ。心をしっかり 守れ。
2002年09月24日(火) 「あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(マタイ23:28)
「あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(マタイ23:28)
主婦なら誰もが経験するところだが、家の 中はいくら掃除をしても、すぐに汚れてしまう 忙しい中に、毎日の掃除は大変で、段々と一応 綺麗に見えればよしとしてしまう。これは綺麗 に見えるだけで、きちんと掃除され実際きれい なのではない。陽の光線に当たると、汚れやゴ ミや塵が丸見えだ。パリサイ人もそうだった。 心を綺麗にせず、見た目だけを綺麗にする偽善 者だった。陽の光にさらされる時、汚れが暴露 される。彼等にとって外側だけが問題だった。 家の掃除を見た目だけ綺麗にするのはそんなに 深刻な問題ではないが、心を綺麗に見せかけた り綺麗な振りをするのは深刻な問題だ。 人に別の自分を見せかけ、綺麗な振りをしてい る内に、人を欺いていたのが、自分が自分に欺 かれて行く。これが最も危険なのだ。
2002年09月22日(日) 「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります・・神は喜んで与える人を愛してえくださいます」(Uコリント9:8)
「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります・・神は喜んで与える人を愛してえくださいます」(Uコリント9:8)
ある婦人の母親は、園芸が大好きで、バラの栽培 や季節ごとの花々を見事に咲かせていた。肥料や り、草抜き、水やり、刈り込み、世話は大変だ。 高齢で身体もあちこち不調だ。しかし、喜んで 花の世話にいそしんでいた。家に来た人々は 素晴らしい綺麗な見事な花壇に驚く。母親は朝毎 に綺麗に咲いた花を切っては、周囲の人々に届け た。美しい花束は、皆の心を和ませ大変喜ばれた。 切っても切っても、花が無くならず、次々花を開か せるのに気づいた母親は「どんどん切って、人々 にあげるからよ」と笑顔で答えた。切るからますます 増えていたのだ。神の祝福を思った。与えれば 与えるほど、ますます豊かにされる。神は私達 がすべての事に満ち足りて、すべての良いわざ に溢れる者とするために、あらゆる恵みを溢れる ばかりに与える事のできる方なのだ。
2002年09月21日(土) 「イエスはちょうどそこに来られて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ19:5)
「イエスはちょうどそこに来られて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ19:5)
ある人が、家にお客様をお迎えするように、イエス ・キリストを日毎の生活にお迎えしたいと言った。 今日あなたの家に泊まることにしてある、と言われ る主は、我が家で私に会おうと待っていて下さる。 お客を迎える時、どうするだろうか。お客中心に 時間を設定し、食事を準備し、家を掃除し、お客 と語らいの時間も取れるように、何もかも計画する。 日々時間に追われて過ごしていても、来客の時 はすべての事をそれに向けて備える。 キリストについては、どうだろう。私の心の家に お迎えして一緒に過ごそうと時間をやりくりし、 計画して、取っているだろうか。私はキリストを なおざりにしていないか。主は、朝早く一緒の時 を、語らいの時を持ちたいと願っておられる。 そのために時を備え、自分を整え、準備しているか。
2002年09月20日(金) 「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ10:42)
「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ10:42)
ある婦人は、教会で熱心に奉仕をしていた 朝、目覚めた時にすぐ電話が鳴り、その奉仕 についての様々な計画や打ち合わせの内容だ った。受話器を置いたのはお昼になっていた 午後からは教会活動のためのミーティング、 その後、パートの仕事に出かけ、夕食準備と 一日がバタバタ過ぎてしまった。 その日、魂の栄養を取る時間の全くないまま 動き回り夜になって魂が疲れ果てている事に 気づいた。 どんなに奉仕を懸命にしても神と過ごす時間 が無いならそれは虚しい。栄養を取らなけれ ば何かが失われて行く。無くてはならぬもの は一つだけと言われた。現代は忙しい。 盛だくさんのしなければならない事があるが しかし、主がどうしても必要なものは一つだ けと言われた。そのどうしても必要なものを あなたは日々選んでいるか。これは選択だ。
2002年09月19日(木) 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与なさい」(エペソ4:29)
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与なさい」(エペソ4:29)
何気なく話しているかもしれないが 私達の口から出す言葉には責任がある その言葉は必要か、その内容は真実か 人の徳を高め有益か。時にそれは確か に真実であるかもしれない、しかし真 実をすべて言う必要はない。 その言葉はその場合に必要か。人の徳 を高めるか。人はその口にするあらゆ る無駄な言葉について、さばきの日に 言い開きをしなければならない。 醜聞や噂話などは、真実だがむだな言 葉だ。人は自分の行ないがことごとく 純粋だと思うが、しかし、主は人の魂 の値打ちをはかられる。言おうとして いる動機は、純粋か、内容は必要か、 を試す必要がある。 自己中心な思いやりのない言葉を発し てしまう者である。 悪い言葉をいっさい口から出してはな らない。話す前に主を意識せよ。
2002年09月18日(水) 「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます・・しかし、そうでなくても、あなたの神々には仕えません」(ダニエル3:17)
「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます・・しかし、そうでなくても、あなたの神々には仕えません」(ダニエル3:17)
金の像を拝まなかった3人は、燃える炉に投げ 込まれた。その炉は普通より7倍熱くされ、共に いた者が火炎で焼き殺されるほどだった。しかし、 この3人はどうもなかった。今まで多くの迫害に 会った人々がいる。それらの人々は祈りにも 関わらず殺された。この時、神は「炉」の中におら れなかったのだろうか。3人も死で終わるかも知れ なかった。彼らはその事もわかっていたから、 「もし、そうでなくても」と言った。私達は燃える炉の 中に実際に投げ込まれる事はないだろう。 しかし、私達なりの「炉」があり、困難な状況に 陥ることがある。その苦しみから救い出されない としても、私達にとって、神は神だろうか。 この世で報いがなくても、喜んで神に仕えるか。 「しかし、もしそうでなくても」。
2002年09月17日(火) 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)
嫁姑で悩んでいる婦人がいた。姑の言葉が 心に突き刺さり、自分なりに今までして来た 努力が吹き飛んだ。心は氷のように凍りつい た。全く言葉も交わす事なく沈黙の数日が過 ぎた。お互いにただ避けていた。 彼女は姑の事を、この人は変わらない。 これからも絶対変わらないだろうと思った。 尚も数日、心の中で恨み続け、怒っていた。 姑が悪い、姑が理不尽を認めなければならな いと神に訴えていた。 しかし、悶々と日が続き自分が苦しくなり疲 れ果ててきた。とうとう降参して、自分を赦 し、この苦々しい思い、怒り恨みから解き放 たれるよう神に願った。その時、自分も深く 傷ついたが、姑もまた深く傷ついたのだと御 霊が示された。姑はそのままだったが、自分 は心が自由にされ姑を赦す事ができた。 今、わだかまりなく自由に接っせる。
2002年09月16日(月) 『すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい』(マタイ4:3)
『すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい』(マタイ4:3)
ある人がスーパーのレジで支払いを済ませ 品物を袋の入れながら、ふと二十円おつりが 多い事に気づいた。レジはごった返して忙し そう。相手のミスなのだし二十円ぐらいいい じゃないか、という声が心に来た。 誘惑する者の声だ。しかし、それはよくない と、客が支払いを終わるのを待ち、係りに言 った。すると、有難うございましたと、すま なさそうに、嬉しそうに礼が返って来た。 サタンに勝利した事が嬉しかった。イエスは 大きな誘惑に会われた。 四十日の断食後、石をパンに自分で変えて食 べようとの誘惑が来た。奇跡を行える主への 特別な誘惑だった。しかし、御言葉によって 生きる事、父の御旨に従って生きる事を表明 され、サタンを撃退された。ご自分の意志で なく御父の意志、御言葉に完全に従われた。 それによってサタンに勝利された。
2002年09月15日(日) 「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ4:34)
「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ4:34)
現代は忙しい時代だ。皆が時間に追われ、走り 回っている。ビジネスマンは分単位で仕事をこな している。人々は、あれやこれや多くの事に手を 出し、やる事が多過ぎる。手を出す事が多過ぎて、 結局一つ一つの事が、中途半端で達成感もなく 疲れ果てている。イエスは目の前に来る事を、 次から次へと、何でもかんでも必死になって、 こなして行かれたのではない。日々、父のみここ ろを求められ、父がせよと言われた事をされた。 あなたは、どのようになすべき事を決定している か。神に祈るなら、神があなたに望まれている 事柄がはっきりとわかる。神との交わりの中で あなたのなすべき事を求めよ。何でもかんでも していると、雑事に忙殺され、人生が終って しまう。
2002年09月14日(土) 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが・・御霊ご自身がとりなしてくださいます」(ローマ8:26)
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが・・御霊ご自身がとりなしてくださいます」(ローマ8:26)
神に祈る時に、余りの重荷に言葉が出て来なか った経験があるだろうか。適切な言葉が見つか らなくて。又、思いが溢れて言葉いならないという 経験があるだろうか。ある人の親が突然倒れ、 危篤になった。まだ救われておらず、その魂への 余りにもの重荷に、祈りが言葉にならず、全身 からのうめきだった。その祈りは答えられ、親は 救いに入れられた。小さい子供が言いたい事を 言えず、もどかしがっている時、親はその気持ち を汲み取る。同様にどう祈っていいかわからな い時、御霊はその思いを御父に届けて下さる。 どんなに弱っている時の、弱々しい祈りであっ ても、天に聞かれている。何という励ましだろう。 聖霊の助けがあるからだ。あなたがどんなに 無力を感じる時でも、あなたは祈り続ける事が 出来る。言葉にならない時、神はあなたの心を 聞いて下さっているのだ。
2002年09月13日(金) 「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」(ピリピ1:12)
「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」(ピリピ1:12)
自らの歩みが様々な事で挫折し、中断して しまうと何となく、自分は神のみこころから それているのではと考えてしまう。 自分の量りが間違っているのに、自分の霊的 状態がおかしいと思い、神にさえも疑いを持 ってしまう。物事が、人生がスム−ズに行く 事が良い事との無意識の発想があるからだ。 ある人が言った「もし神に従えば、人生すべ てがうまく行くというのは詭弁、そういう事 はない。うまくいかないときも神と共に歩む という意味だ。むしろ災いや苦しみの中で福 音は前進する」と。パウロの目的は福音を伝 える事であったので、投獄されても動じる事 はなかった。その状況さえも利用して福音を 伝えた。パウロの投獄は福音を前進させる事 になったのだ。神に従うならうまく行くとの 詭弁に欺かれるな。神は困難を取り除けられ ず困難の中で働かれ、神の栄光を現される。
2002年09月12日(木) 「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(Tテモテ6:6)
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(Tテモテ6:6)
苦しみ、試練はいつも私達を試みる。 信仰のテストだ。逃げてしまうか、試練 を受け止めてしっかり信仰に立つかの試 練だ。試練は痛いが、大変良いものだ。 それによって不純物が取り除かれ、きよ められて行く。繁栄は試練の両極にある ように思えるが、そうではない。 繁栄というのは形の違うテストだ。 ある人が言った。「苦境に立ち向かえる 人が百人とすると繁栄に立ち向かえる人 はわずか一人だろう。繁栄の中で道徳的 霊的にバランスを取れる人はほとんど皆 無だ」と。 莫大な宝くじの賞金を受け取った結果、 人生が狂って破綻してしまった人々の例 はよく聞くところだ。莫大な財産があり 且つ道徳的霊的に健全である事は至難の わざなのだ。財産が増すほど貪欲になる のが人間であり、罪の性質だ。 満足は繁栄からではなく、物質の豊かさ からではなく、主から来る。 主により心満ちた生活は何と幸いだろう
2002年09月11日(水) 「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4:4)
「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4:4)
イエスはユダヤからガリラヤまでの途上、サマリヤ を通らねばならなかった。ユダヤからサマリヤは 直結すればすぐだ。それをわざわざ迂回された。 それにユダヤ人とは敵対関係にあるサマリヤへ 何でわざわざ?弟子達はいぶかった。しかし、生け る水を求めていたサマリヤの女性を目に留めてお られたのだ。その女性の救いのために、わざわざ 迂回されたのだ。あなたの救いもそうだ。どのように 救われたか。人に誘われてか。チラシを見てか。 主があなたのところへ様々な形で来て下さったのだ。 その結果、あなたは救われた。イエスはサマリヤ を迂回して下さった。そのように、私達も自分の 思いではない環境に行かなければならないかも 知れない。又、自分の思いと全く違う事をしなけれ ばならないかも知れない。しかし、その中であなた は大いに用いられる。証しの機会とされ、魂の救い を見、多くの事を学ぶ。
2002年09月10日(火) 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人達も聞き入っていた」(使徒16:25)
「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人達も聞き入っていた」(使徒16:25)
パウロとシラスはキリストを宣べ伝えた ゆえに、迫害に会い、ピリピの牢獄に入れ られた。背中は鞭打ちで激しく痛み、足か せがはめられ、どんなにか苦るしい状況で あった事だろう。しかし、彼らはその状況 のゆえに悲嘆したり、意気消沈、落胆、不 満、になったのでない。 自己憐憫に落ち込む事も出来ただろう。 しかし、彼らは何をしたか。 真夜中に祈りつつ賛美をしたのだ。 神に間違いはない。神のご計画の内。 神は最善をして下さっている事を信じた。 地震が起こり、扉が壊れ、皆逃げたと思い 看守は自殺しようとした。パウロはそれを 止め、誰一人逃げないのを見て、パウロの 前に救いを求めひれ伏した。看守と家族全 員は救われたのだ。あの状況の中で、パウ ロとシラスが状況ではなく、信仰に立った ゆえだ。あなたの生き方は周囲に大きな影 響を与える。
2002年09月09日(月) 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)
「作り笑い」は出来るが「作り喜び」は出来 ないといった人がいる。その通りだ。喜び は外側のものではなく、内から湧き上がっ て来るものだからだ。作り笑いは外側で出 来るが、喜びは心の問題であり、神によっ て与えられるものだ。深い苦しみの中にあ ったダビデは、苦しみの中でどのようにし たかは、私達の教訓だ。ダビデはまず祈っ た。私をあわれみ、私の祈りを聞いてくだ さいと願った。そして、主の前に静まり、 主によ拠り頼んだ。そして、平安の内に 身を横たえ、すぐに眠りにつく事が出来た ダビデは苦しみの中で主に祈り、拠り頼み 祈りを聞いて下さる事を信じ、主を信頼す るなら、一時的な感情ではない主の平安と 喜びが与えられたと証している。 喜びは主から来る。
2002年09月08日(日) 「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった」(使徒9:11)
「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった」(使徒9:11)
生まれつき目が見えない人が、手術を受け、 初めて見えるようになった時、周囲は単純 に大喜びする。が、本人は何もかもが、目に 入るものが初めての経験だ。見る物を一つ 一つ考える事から始めなければならない。 なぜなら、今まで視覚以外の方法で、物を 認知してきたからだ。パウロはダマスコ途上 で、突然の天からの光に照らされ、視力を失 った。再び見えるようになった時、視力と同時 に主から霊の目を頂いたのだ。パウロは3年 間、アラビヤにいた。恐らく神につき、人生に つき学び直した事だろう。私達も救われて、 霊の目で物事を見るようになるまでには、時間 がかかる。神との関係が育ち、信仰に成長し て行きながら、生まれつきの価値観でなく、 霊的な目で物事を判断して行く。お互いに 忍耐が必要だ。特に、生まれたばかりの クリスチャンは忍耐持ってよく見守って あげる必要がある。あなたがして貰った ように。
2002年09月07日(土) 「いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」 (ヘブル13:5)
「いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」 (ヘブル13:5)
この世では、物質的に豊かな生活が幸せ であり、富みが幸せを与えてくれると信じ られている。富=幸福なのだ。しかし、そう ではない事は明らかだ。ザアカイは富が幸 福を約束してくれると、信じて皆から嫌われ る取税人の職業に就き、かしらにまで上り つめて富を築いた。しかし、富は何も与え てはくれない事に気づいた。心は虚しく 暗く何の喜びも満たしも無かった。ザアカイ は主を求め、そして、イエスはザアカイの 罪を赦し、心を満たされた。もはや、富は 偶像ではなくなった。心に真の喜びを得た のだ。まず第一に私達は主を持っている。 主は喜びと安らぎ、心の満たしを与えて 下さる。心の満足は決して富では買えない。 満ち足りる心は一番幸いなものだ。富を 得れば得るほど、貪欲に駆り立てられ、 不安をもたらす。
2002年09月06日(金) 『「君。パンを三つ貸してくれ」・・あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要なものを与えるでしょう』(ルカ11:5)
『「君。パンを三つ貸してくれ」・・あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要なものを与えるでしょう』(ルカ11:5)
家の掃除をする時、家中全部を考えるとおおごと になり手をつける前からおっくうになってしまう。 しかし、一日に一箇所づつ決めてすると、数日で 綺麗に家中の掃除が仕上がる。 膨大に見える仕事も少しづつ片付けて行くと成し 遂げられる。祈りにも同様の事が言える。 小さく分けて祈るのだ。大きな漠然とした祈りは 答えられたかどうかわからない。 生活の必要を満たして下さいは漠然だ。 そうでなく、家賃を満たして下さい。 醤油を、小麦粉を与えて下さいだと具体的だ。 答えられたかどうかがわかる。具体的に祈れと 神は言っておられる。あなたの祈りはどうか。 全世界の人々が幸せになりますように的な祈りは するな。答えられたかどうかわからない。 ○○さんのこの必要を満たして下さい、そのため に私に出来る事があれば示して下さいと祈れ。 具体的に祈れ。
2002年09月05日(木) 「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(ガラテヤ4:4)
「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(ガラテヤ4:4)
例え話しがある。素晴らしい夢のスポーツカーを 手に入れた男がピカピカに磨き上げ大喜びだった。 その車を押して運んでいた。しかし、男は大喜びで こんな心踊る車をただで貰ったのだからしんどい労 力は当然と思いこんでいた。しかし、疲れて息切れ がして来た。もう運べなくなった。その時、運転席 に聖霊と言う名の運転手が座り、男は助手席に座っ た。エンジンをかけるや凄いスピードで快適なドラ イブが始まった。男は驚いた。 自分の力で自分の思いで生きるクリスチャンを表し ている。疲れ果ててしまう。しかし、私達の内にお られる御霊に導かれて生きるなら、御霊の力と喜び を経験する。あなたの信仰生活は疲れていないか。 イライラしていないか。自分の力で歩んでいるから だ。運転を聖霊にお任せするなら、平安と喜びがす ぐ自分のものとなる。あなたの席は助手席。
2002年09月03日(火) 「すべて利口な者は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める」(箴言13:16)
「すべて利口な者は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める」(箴言13:16)
「愚かな者は・・ただ自分の意見だけを表す」 という御言葉もある通り、会えば不平不満、愚 痴だけの人を見たことがあるか。 身体があちこち悪いと愚痴を言い続け、対人関 係で相手が悪いと不満を言い続け、物事がうま く行かないとウジウジと不平を言い続け・・ 聞く人がうんざりして嫌になるほどの愚痴不平 不満だけの人。友人を失いたくなければ、否定 的会話だけというのはやめたほうが言い。 人は皆その人自身の重荷を抱えているし、皆悩 みを抱えている。その上、愚痴だけと言うのは 聞きたくない。なぜ、皆から拍手されなくなっ て行くのか良く考えた方がいい。そういう人は 人生の明るい面、神の恵みを決して見ようとは しない。現に沢山の恵みが輝いているのに、受 け入れない。頑なな自己中心の態度が問題なの だ。自分の事だけで自分中心。自分から自分を 離して、神に向く事だ。恵みが見えて来る。
2002年09月02日(月) 「心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす」(箴言12:25)
「心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす」(箴言12:25)
ある婦人が話してくれた。小さい頃から ずっと、母親から誉められた事がなかった 母親を喜ばせたいと一生懸命勉強を頑張っ た。良い成績を取っても、母親は満足せず 更に上を求めた。尚も頑張りつづけたが、 いくら頑張っても母親の満足は得られなか った。もっと出来るはずだと。認めてもら ったり、誉めてもらったりが一度もなかっ た。そんな中で、彼女は鬱病を患い、苦し い闘病生活を通り、キリストに出会ったの だった。母に悪気はなかったのでしょうが 人は認められ励まされないと生きて行けな い事を学びましたと。あなたの周囲に励ま しの必要な人がいるのではないか。 成績が悪くても、動作が遅くても、仕事が 出来なくても、必ず良い所があり、他人に ない素晴らしい点がある。 誉める事をしよう。親切な言葉は人を力づ ける。家族の中に落ち込んでいる者はいな いか。
2002年09月01日(日) 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6:34)
「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6:34)
多くの人々は行く先を心配する。明日の事、来 週の事、1年先の事、果ては老後の事・・。仕事 の事、健康の事。しかし、主は明日の事は心配 するなと言われた。あるクリスチャンが言った。 人生で大切な事を学んだと。毎日の生活で様々 な心配事があった。しかあし、そのほとんどが 取り越し苦労であったと。起こりもしない事のた めに怯え、不安になり、思い煩っているのだ。 何と無駄なエネルギーだろう。明日の思い煩い で、今日という日をつぶしてしまう。主は今日 一日を負える力と恵みを与えていて下さる。 一日一日の恵みだ。今日を生きよ。障害を 持った子供を育てていた母親は、神から恵み と知恵を与えられ、今日1日だけ生きる事を 決心した。明日を思い煩わず今日一日だけを 子供と共に生きた。一日は負う事ができ喜び 持って生きれた。それが20年続いている。 神は必要な恵みを1日1日送られる。明日の 事は心配するな。神の御手の中だ。