2002年09月30日(月)

「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)


 ある一家の大黒柱の男性、不況の折り、
経営していた小さな事業が倒産してしまった
金銭的なめどは全く立たず、家族を養う生活
費に事欠く日々となっていった。次の職が見
つかるまで、親族から少しまとまったお金を
借りようと考えた。
今まで迷惑をかけた事もなく、気持ちよく貸
してもらえると思えた。しかし、その時、メ
ッセージを通して語られた。この時こそ、信
仰に立つべき時だ。神を第一にし神に求める
なら神は必ず必要を与えて下さる。
人に借りるのでなく、信仰に立とうと決心し
た。神にもう一度自分自身を委ね、必要を与
えて下さるよう、神を信じ祈りに祈り続けた
するとずっと昔に借りていたお金を、気にな
りながら、やっと整えられたと、昔の知人が
お礼も合わせて返済に来た。完全に忘れてい
たものだった。神は真実に頼るものに答えら
れる。


2002年09月29日(日)

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)

一人の若い女性が神様に従いたいと、願って
いた。神様を喜ばせるために仕えたいと思って
いた。それゆえ、主のために、伝道のためにと
様々な奉仕に励んでいた。しかし、ある時、主
のためにとの計画がことごとく目の前で挫折
して行く事を経験した。どの方向に進もうとして
も、門が閉じられるのだ。なぜ?どうして?
真っ暗闇に落ち込んで行くようだった。「私の
願いでなく、あなたの御旨がなりますように。
私の人生にどんな事をされても結構です。
ただあなたの御旨が成りますように」との
一人のクリスチャンの祈りを聞いた時、自分が
根本的に間違っている事を悟った。何をするか
でなく、自分自身と自分の人生を根こそぎ造り
変えて頂く必要がある事がわかった。あなた
の御旨を私自身に成して下さいと、明け渡し
た時、真の平安を得た。


2002年09月28日(土)

「イエスはシモンに目を留めて言われた「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(ペテロ)と呼ぶことにします」(ヨハネ1:42)

アメリカ、サウスダコタ州の断崖岸壁に巨大な
大統領の顔が彫刻されている写真を見た事が
あるだろうか。ワシントン、ジェファーソン、ルー
ズベルト、リンカーンのアメリカの基礎を築いた
4人の大統領の顔だ。一つの顔が18メートル
もある。彫刻家ポーグラムが削岩機やダイナ
マイトを使って、この巨大な顔を造った。14年
かかった。彼は岩を見ながら、常に完成した姿
を心に描いていた。だから、出来上がった。
神も又、私達一人一人を見て、完成した姿を
見ておられる。シモンを見て、あなたをペテロ
(岩)とする、つまり岩のような信仰堅き人物
にすると言われた。そして、ペテロは様々な
ところを通りながら、そのようにされた。あなた
も削り取ったり、砕いたりしながら、神は彫刻し
キリストの似姿へと造り変えて下さる。完成し
た姿を見ておられる。あなたを全く神に任せよ。


2002年09月27日(金)

『激しい欲望にかられ大声で泣いて「ああ、肉が食べたい。エジプトでは、ただで魚を食べていた、だが今や、私たちののどは干からびてしまった。肉もなくてこのマナを見るだけだ』(民数記11:6)


ある一家が郊外に家を建て引っ越した。
そこは高台で見晴らしはなんとも素晴ら
しく、こんな美しい景色に囲まれて住め
るなんてと感動と感謝に溢れた。少しの
間はその景色に見入ったものだが、日常
生活が始まると、日々の多忙の景色など
全く目にもとまらなくなった。毎日の同
じ光景と感動も覚えなくなって行った。
苦難のエジプト生活から救出されたイス
ラエルはもろ手を上げて歓喜した。
しかし、行けども行けども荒野の苦しい
生活が始まると、まず食べ物が無いと不
平をぶつけた。
憐れみ深い神は天からマナを降らせて
下さった。この奇跡を喜んだ民は、しば
らくするとこのマナにも飽き不平不満を
募らせた。このわがままで自分勝手な民
は自分自身だ。天から降る溢れるばかり
の神の恵みに無感覚になっていないか。
恵みを数えよ。


2002年09月26日(木)

「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコ5:36)


 大勢の人の群れがイエスのみもとに
集まっていた。そこにヤイロという会
堂管理者が、イエスの足元にひれ伏し
死にかけている娘の癒しを願った。
イエスは彼と一緒に出かけられた。
しかし、途中、長血を患った女がイエ
スの着物に触った。信仰持って触った
のを見てとられ、癒しのために立ち止
まられた。その時、ヤイロの娘が無く
なったとの知らせが届いた。
主は失望した彼に、信じていなさい、
と声をかけられた。私達も厳しい試練
に会う時、もう駄目だと思う。
何もかもが砕け散って、もう何も望み
が無いように見える時がある。その時
こそ、実は勝利の一歩手前だ。
せんかた尽きて、心弱り思いしおれて
いるか。主は言われる「恐れないでた
だ信じていなさい」と。私は決してあな
たを見捨てないと言われている。
神に絶望は無い。あなたの信仰は報いら
れる。問題の彼方におられる神を見よ。


2002年09月25日(水)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」(箴言4:23)

イスラエルにとって神の宮である神殿は、神を
礼拝する聖なる大切な場所であった。レビの
子孫は、この最も神聖な場所を守るのが任務
だった。彼らの働きは重要で、特別に優れた
能力を求められた。彼らは神殿をしっかり守っ
て、内部にある神聖な器具が盗まれないよう
見張った。主を信じる私達も同じく、「あなたが
たは神の神殿であり、神の御霊があなたがた
に宿っている」とある神殿である。レビ人達が
神殿を守ったように、私達も「心」を守る必要
がある。心には尊い宝が詰まっている。愛、
聖さ、真実、神への信仰・・それらを守らなけ
ればならない。又、しっかり心を守って、何
でもかんでも、心に入れてはならない。悪から
心を守らねばならない。神の御言葉を心に
とどめ、罪を告白し、心をきれいにし、真実な
事、誉れある事、正しい事、清い事・・それら
のもので心を満たしている事だ。心をしっかり
守れ。


2002年09月24日(火)

「あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです」(マタイ23:28)


 主婦なら誰もが経験するところだが、家の
中はいくら掃除をしても、すぐに汚れてしまう
忙しい中に、毎日の掃除は大変で、段々と一応
綺麗に見えればよしとしてしまう。これは綺麗
に見えるだけで、きちんと掃除され実際きれい
なのではない。陽の光線に当たると、汚れやゴ
ミや塵が丸見えだ。パリサイ人もそうだった。
心を綺麗にせず、見た目だけを綺麗にする偽善
者だった。陽の光にさらされる時、汚れが暴露
される。彼等にとって外側だけが問題だった。
家の掃除を見た目だけ綺麗にするのはそんなに
深刻な問題ではないが、心を綺麗に見せかけた
り綺麗な振りをするのは深刻な問題だ。
人に別の自分を見せかけ、綺麗な振りをしてい
る内に、人を欺いていたのが、自分が自分に欺
かれて行く。これが最も危険なのだ。


2002年09月22日(日)

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります・・神は喜んで与える人を愛してえくださいます」(Uコリント9:8)

ある婦人の母親は、園芸が大好きで、バラの栽培
や季節ごとの花々を見事に咲かせていた。肥料や
り、草抜き、水やり、刈り込み、世話は大変だ。
高齢で身体もあちこち不調だ。しかし、喜んで
花の世話にいそしんでいた。家に来た人々は
素晴らしい綺麗な見事な花壇に驚く。母親は朝毎
に綺麗に咲いた花を切っては、周囲の人々に届け
た。美しい花束は、皆の心を和ませ大変喜ばれた。
切っても切っても、花が無くならず、次々花を開か
せるのに気づいた母親は「どんどん切って、人々
にあげるからよ」と笑顔で答えた。切るからますます
増えていたのだ。神の祝福を思った。与えれば
与えるほど、ますます豊かにされる。神は私達
がすべての事に満ち足りて、すべての良いわざ
に溢れる者とするために、あらゆる恵みを溢れる
ばかりに与える事のできる方なのだ。


2002年09月21日(土)

「イエスはちょうどそこに来られて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカ19:5)

ある人が、家にお客様をお迎えするように、イエス
・キリストを日毎の生活にお迎えしたいと言った。
今日あなたの家に泊まることにしてある、と言われ
る主は、我が家で私に会おうと待っていて下さる。
お客を迎える時、どうするだろうか。お客中心に
時間を設定し、食事を準備し、家を掃除し、お客
と語らいの時間も取れるように、何もかも計画する。
日々時間に追われて過ごしていても、来客の時
はすべての事をそれに向けて備える。
キリストについては、どうだろう。私の心の家に
お迎えして一緒に過ごそうと時間をやりくりし、
計画して、取っているだろうか。私はキリストを
なおざりにしていないか。主は、朝早く一緒の時
を、語らいの時を持ちたいと願っておられる。
そのために時を備え、自分を整え、準備しているか。



2002年09月20日(金)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ10:42)


 ある婦人は、教会で熱心に奉仕をしていた
朝、目覚めた時にすぐ電話が鳴り、その奉仕
についての様々な計画や打ち合わせの内容だ
った。受話器を置いたのはお昼になっていた
午後からは教会活動のためのミーティング、
その後、パートの仕事に出かけ、夕食準備と
一日がバタバタ過ぎてしまった。
その日、魂の栄養を取る時間の全くないまま
動き回り夜になって魂が疲れ果てている事に
気づいた。
どんなに奉仕を懸命にしても神と過ごす時間
が無いならそれは虚しい。栄養を取らなけれ
ば何かが失われて行く。無くてはならぬもの
は一つだけと言われた。現代は忙しい。
盛だくさんのしなければならない事があるが
しかし、主がどうしても必要なものは一つだ
けと言われた。そのどうしても必要なものを
あなたは日々選んでいるか。これは選択だ。


2002年09月19日(木)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与なさい」(エペソ4:29)


 何気なく話しているかもしれないが
私達の口から出す言葉には責任がある
その言葉は必要か、その内容は真実か
人の徳を高め有益か。時にそれは確か
に真実であるかもしれない、しかし真
実をすべて言う必要はない。
その言葉はその場合に必要か。人の徳
を高めるか。人はその口にするあらゆ
る無駄な言葉について、さばきの日に
言い開きをしなければならない。
醜聞や噂話などは、真実だがむだな言
葉だ。人は自分の行ないがことごとく
純粋だと思うが、しかし、主は人の魂
の値打ちをはかられる。言おうとして
いる動機は、純粋か、内容は必要か、
を試す必要がある。
自己中心な思いやりのない言葉を発し
てしまう者である。
悪い言葉をいっさい口から出してはな
らない。話す前に主を意識せよ。


2002年09月18日(水)

「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます・・しかし、そうでなくても、あなたの神々には仕えません」(ダニエル3:17)

金の像を拝まなかった3人は、燃える炉に投げ
込まれた。その炉は普通より7倍熱くされ、共に
いた者が火炎で焼き殺されるほどだった。しかし、
この3人はどうもなかった。今まで多くの迫害に
会った人々がいる。それらの人々は祈りにも
関わらず殺された。この時、神は「炉」の中におら
れなかったのだろうか。3人も死で終わるかも知れ
なかった。彼らはその事もわかっていたから、
「もし、そうでなくても」と言った。私達は燃える炉の
中に実際に投げ込まれる事はないだろう。
しかし、私達なりの「炉」があり、困難な状況に
陥ることがある。その苦しみから救い出されない
としても、私達にとって、神は神だろうか。
この世で報いがなくても、喜んで神に仕えるか。
「しかし、もしそうでなくても」。


2002年09月17日(火)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)



 嫁姑で悩んでいる婦人がいた。姑の言葉が
心に突き刺さり、自分なりに今までして来た
努力が吹き飛んだ。心は氷のように凍りつい
た。全く言葉も交わす事なく沈黙の数日が過
ぎた。お互いにただ避けていた。
彼女は姑の事を、この人は変わらない。
これからも絶対変わらないだろうと思った。
尚も数日、心の中で恨み続け、怒っていた。
姑が悪い、姑が理不尽を認めなければならな
いと神に訴えていた。
しかし、悶々と日が続き自分が苦しくなり疲
れ果ててきた。とうとう降参して、自分を赦
し、この苦々しい思い、怒り恨みから解き放
たれるよう神に願った。その時、自分も深く
傷ついたが、姑もまた深く傷ついたのだと御
霊が示された。姑はそのままだったが、自分
は心が自由にされ姑を赦す事ができた。
今、わだかまりなく自由に接っせる。


2002年09月16日(月)

『すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい』(マタイ4:3)


 ある人がスーパーのレジで支払いを済ませ
品物を袋の入れながら、ふと二十円おつりが
多い事に気づいた。レジはごった返して忙し
そう。相手のミスなのだし二十円ぐらいいい
じゃないか、という声が心に来た。
誘惑する者の声だ。しかし、それはよくない
と、客が支払いを終わるのを待ち、係りに言
った。すると、有難うございましたと、すま
なさそうに、嬉しそうに礼が返って来た。
サタンに勝利した事が嬉しかった。イエスは
大きな誘惑に会われた。
四十日の断食後、石をパンに自分で変えて食
べようとの誘惑が来た。奇跡を行える主への
特別な誘惑だった。しかし、御言葉によって
生きる事、父の御旨に従って生きる事を表明
され、サタンを撃退された。ご自分の意志で
なく御父の意志、御言葉に完全に従われた。
それによってサタンに勝利された。


2002年09月15日(日)

「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ4:34)

現代は忙しい時代だ。皆が時間に追われ、走り
回っている。ビジネスマンは分単位で仕事をこな
している。人々は、あれやこれや多くの事に手を
出し、やる事が多過ぎる。手を出す事が多過ぎて、
結局一つ一つの事が、中途半端で達成感もなく
疲れ果てている。イエスは目の前に来る事を、
次から次へと、何でもかんでも必死になって、
こなして行かれたのではない。日々、父のみここ
ろを求められ、父がせよと言われた事をされた。
あなたは、どのようになすべき事を決定している
か。神に祈るなら、神があなたに望まれている
事柄がはっきりとわかる。神との交わりの中で
あなたのなすべき事を求めよ。何でもかんでも
していると、雑事に忙殺され、人生が終って
しまう。


2002年09月14日(土)

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが・・御霊ご自身がとりなしてくださいます」(ローマ8:26)

神に祈る時に、余りの重荷に言葉が出て来なか
った経験があるだろうか。適切な言葉が見つか
らなくて。又、思いが溢れて言葉いならないという
経験があるだろうか。ある人の親が突然倒れ、
危篤になった。まだ救われておらず、その魂への
余りにもの重荷に、祈りが言葉にならず、全身
からのうめきだった。その祈りは答えられ、親は
救いに入れられた。小さい子供が言いたい事を
言えず、もどかしがっている時、親はその気持ち
を汲み取る。同様にどう祈っていいかわからな
い時、御霊はその思いを御父に届けて下さる。
どんなに弱っている時の、弱々しい祈りであっ
ても、天に聞かれている。何という励ましだろう。
聖霊の助けがあるからだ。あなたがどんなに
無力を感じる時でも、あなたは祈り続ける事が
出来る。言葉にならない時、神はあなたの心を
聞いて下さっているのだ。


2002年09月13日(金)

「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」(ピリピ1:12)

 自らの歩みが様々な事で挫折し、中断して
しまうと何となく、自分は神のみこころから
それているのではと考えてしまう。
自分の量りが間違っているのに、自分の霊的
状態がおかしいと思い、神にさえも疑いを持
ってしまう。物事が、人生がスム−ズに行く
事が良い事との無意識の発想があるからだ。
ある人が言った「もし神に従えば、人生すべ
てがうまく行くというのは詭弁、そういう事
はない。うまくいかないときも神と共に歩む
という意味だ。むしろ災いや苦しみの中で福
音は前進する」と。パウロの目的は福音を伝
える事であったので、投獄されても動じる事
はなかった。その状況さえも利用して福音を
伝えた。パウロの投獄は福音を前進させる事
になったのだ。神に従うならうまく行くとの
詭弁に欺かれるな。神は困難を取り除けられ
ず困難の中で働かれ、神の栄光を現される。


2002年09月12日(木)

「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(Tテモテ6:6)


 苦しみ、試練はいつも私達を試みる。
信仰のテストだ。逃げてしまうか、試練
を受け止めてしっかり信仰に立つかの試
練だ。試練は痛いが、大変良いものだ。
それによって不純物が取り除かれ、きよ
められて行く。繁栄は試練の両極にある
ように思えるが、そうではない。
繁栄というのは形の違うテストだ。
ある人が言った。「苦境に立ち向かえる
人が百人とすると繁栄に立ち向かえる人
はわずか一人だろう。繁栄の中で道徳的
霊的にバランスを取れる人はほとんど皆
無だ」と。
莫大な宝くじの賞金を受け取った結果、
人生が狂って破綻してしまった人々の例
はよく聞くところだ。莫大な財産があり
且つ道徳的霊的に健全である事は至難の
わざなのだ。財産が増すほど貪欲になる
のが人間であり、罪の性質だ。
満足は繁栄からではなく、物質の豊かさ
からではなく、主から来る。
主により心満ちた生活は何と幸いだろう


2002年09月11日(水)

「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」(ヨハネ4:4)

イエスはユダヤからガリラヤまでの途上、サマリヤ
を通らねばならなかった。ユダヤからサマリヤは
直結すればすぐだ。それをわざわざ迂回された。
それにユダヤ人とは敵対関係にあるサマリヤへ
何でわざわざ?弟子達はいぶかった。しかし、生け
る水を求めていたサマリヤの女性を目に留めてお
られたのだ。その女性の救いのために、わざわざ
迂回されたのだ。あなたの救いもそうだ。どのように
救われたか。人に誘われてか。チラシを見てか。
主があなたのところへ様々な形で来て下さったのだ。
その結果、あなたは救われた。イエスはサマリヤ
を迂回して下さった。そのように、私達も自分の
思いではない環境に行かなければならないかも
知れない。又、自分の思いと全く違う事をしなけれ
ばならないかも知れない。しかし、その中であなた
は大いに用いられる。証しの機会とされ、魂の救い
を見、多くの事を学ぶ。


2002年09月10日(火)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人達も聞き入っていた」(使徒16:25)


 パウロとシラスはキリストを宣べ伝えた
ゆえに、迫害に会い、ピリピの牢獄に入れ
られた。背中は鞭打ちで激しく痛み、足か
せがはめられ、どんなにか苦るしい状況で
あった事だろう。しかし、彼らはその状況
のゆえに悲嘆したり、意気消沈、落胆、不
満、になったのでない。
自己憐憫に落ち込む事も出来ただろう。
しかし、彼らは何をしたか。
真夜中に祈りつつ賛美をしたのだ。
神に間違いはない。神のご計画の内。
神は最善をして下さっている事を信じた。
地震が起こり、扉が壊れ、皆逃げたと思い
看守は自殺しようとした。パウロはそれを
止め、誰一人逃げないのを見て、パウロの
前に救いを求めひれ伏した。看守と家族全
員は救われたのだ。あの状況の中で、パウ
ロとシラスが状況ではなく、信仰に立った
ゆえだ。あなたの生き方は周囲に大きな影
響を与える。


2002年09月09日(月)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)


 「作り笑い」は出来るが「作り喜び」は出来
ないといった人がいる。その通りだ。喜び
は外側のものではなく、内から湧き上がっ
て来るものだからだ。作り笑いは外側で出
来るが、喜びは心の問題であり、神によっ
て与えられるものだ。深い苦しみの中にあ
ったダビデは、苦しみの中でどのようにし
たかは、私達の教訓だ。ダビデはまず祈っ
た。私をあわれみ、私の祈りを聞いてくだ
さいと願った。そして、主の前に静まり、
主によ拠り頼んだ。そして、平安の内に
身を横たえ、すぐに眠りにつく事が出来た
ダビデは苦しみの中で主に祈り、拠り頼み
祈りを聞いて下さる事を信じ、主を信頼す
るなら、一時的な感情ではない主の平安と
喜びが与えられたと証している。
喜びは主から来る。


2002年09月08日(日)

「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった」(使徒9:11)


生まれつき目が見えない人が、手術を受け、
初めて見えるようになった時、周囲は単純
に大喜びする。が、本人は何もかもが、目に
入るものが初めての経験だ。見る物を一つ
一つ考える事から始めなければならない。
なぜなら、今まで視覚以外の方法で、物を
認知してきたからだ。パウロはダマスコ途上
で、突然の天からの光に照らされ、視力を失
った。再び見えるようになった時、視力と同時
に主から霊の目を頂いたのだ。パウロは3年
間、アラビヤにいた。恐らく神につき、人生に
つき学び直した事だろう。私達も救われて、
霊の目で物事を見るようになるまでには、時間
がかかる。神との関係が育ち、信仰に成長し
て行きながら、生まれつきの価値観でなく、
霊的な目で物事を判断して行く。お互いに
忍耐が必要だ。特に、生まれたばかりの
クリスチャンは忍耐持ってよく見守って
あげる必要がある。あなたがして貰った
ように。


2002年09月07日(土)

「いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」   (ヘブル13:5)   

この世では、物質的に豊かな生活が幸せ
であり、富みが幸せを与えてくれると信じ
られている。富=幸福なのだ。しかし、そう
ではない事は明らかだ。ザアカイは富が幸
福を約束してくれると、信じて皆から嫌われ
る取税人の職業に就き、かしらにまで上り
つめて富を築いた。しかし、富は何も与え
てはくれない事に気づいた。心は虚しく
暗く何の喜びも満たしも無かった。ザアカイ
は主を求め、そして、イエスはザアカイの
罪を赦し、心を満たされた。もはや、富は
偶像ではなくなった。心に真の喜びを得た
のだ。まず第一に私達は主を持っている。
主は喜びと安らぎ、心の満たしを与えて
下さる。心の満足は決して富では買えない。
満ち足りる心は一番幸いなものだ。富を
得れば得るほど、貪欲に駆り立てられ、
不安をもたらす。


2002年09月06日(金)

『「君。パンを三つ貸してくれ」・・あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要なものを与えるでしょう』(ルカ11:5)


 家の掃除をする時、家中全部を考えるとおおごと
になり手をつける前からおっくうになってしまう。
しかし、一日に一箇所づつ決めてすると、数日で
綺麗に家中の掃除が仕上がる。
膨大に見える仕事も少しづつ片付けて行くと成し
遂げられる。祈りにも同様の事が言える。
小さく分けて祈るのだ。大きな漠然とした祈りは
答えられたかどうかわからない。
生活の必要を満たして下さいは漠然だ。
そうでなく、家賃を満たして下さい。
醤油を、小麦粉を与えて下さいだと具体的だ。
答えられたかどうかがわかる。具体的に祈れと
神は言っておられる。あなたの祈りはどうか。
全世界の人々が幸せになりますように的な祈りは
するな。答えられたかどうかわからない。
○○さんのこの必要を満たして下さい、そのため
に私に出来る事があれば示して下さいと祈れ。
具体的に祈れ。


2002年09月05日(木)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」(ガラテヤ4:4)


 例え話しがある。素晴らしい夢のスポーツカーを
手に入れた男がピカピカに磨き上げ大喜びだった。
その車を押して運んでいた。しかし、男は大喜びで
こんな心踊る車をただで貰ったのだからしんどい労
力は当然と思いこんでいた。しかし、疲れて息切れ
がして来た。もう運べなくなった。その時、運転席
に聖霊と言う名の運転手が座り、男は助手席に座っ
た。エンジンをかけるや凄いスピードで快適なドラ
イブが始まった。男は驚いた。
自分の力で自分の思いで生きるクリスチャンを表し
ている。疲れ果ててしまう。しかし、私達の内にお
られる御霊に導かれて生きるなら、御霊の力と喜び
を経験する。あなたの信仰生活は疲れていないか。
イライラしていないか。自分の力で歩んでいるから
だ。運転を聖霊にお任せするなら、平安と喜びがす
ぐ自分のものとなる。あなたの席は助手席。


2002年09月03日(火)

「すべて利口な者は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める」(箴言13:16)


 「愚かな者は・・ただ自分の意見だけを表す」
という御言葉もある通り、会えば不平不満、愚
痴だけの人を見たことがあるか。
身体があちこち悪いと愚痴を言い続け、対人関
係で相手が悪いと不満を言い続け、物事がうま
く行かないとウジウジと不平を言い続け・・
聞く人がうんざりして嫌になるほどの愚痴不平
不満だけの人。友人を失いたくなければ、否定
的会話だけというのはやめたほうが言い。
人は皆その人自身の重荷を抱えているし、皆悩
みを抱えている。その上、愚痴だけと言うのは
聞きたくない。なぜ、皆から拍手されなくなっ
て行くのか良く考えた方がいい。そういう人は
人生の明るい面、神の恵みを決して見ようとは
しない。現に沢山の恵みが輝いているのに、受
け入れない。頑なな自己中心の態度が問題なの
だ。自分の事だけで自分中心。自分から自分を
離して、神に向く事だ。恵みが見えて来る。


2002年09月02日(月)

「心に不安のある人は沈み、親切なことばは人を喜ばす」(箴言12:25)


 ある婦人が話してくれた。小さい頃から
ずっと、母親から誉められた事がなかった
母親を喜ばせたいと一生懸命勉強を頑張っ
た。良い成績を取っても、母親は満足せず
更に上を求めた。尚も頑張りつづけたが、
いくら頑張っても母親の満足は得られなか
った。もっと出来るはずだと。認めてもら
ったり、誉めてもらったりが一度もなかっ
た。そんな中で、彼女は鬱病を患い、苦し
い闘病生活を通り、キリストに出会ったの
だった。母に悪気はなかったのでしょうが
人は認められ励まされないと生きて行けな
い事を学びましたと。あなたの周囲に励ま
しの必要な人がいるのではないか。
成績が悪くても、動作が遅くても、仕事が
出来なくても、必ず良い所があり、他人に
ない素晴らしい点がある。
誉める事をしよう。親切な言葉は人を力づ
ける。家族の中に落ち込んでいる者はいな
いか。


2002年09月01日(日)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ6:34)

多くの人々は行く先を心配する。明日の事、来
週の事、1年先の事、果ては老後の事・・。仕事
の事、健康の事。しかし、主は明日の事は心配
するなと言われた。あるクリスチャンが言った。
人生で大切な事を学んだと。毎日の生活で様々
な心配事があった。しかあし、そのほとんどが
取り越し苦労であったと。起こりもしない事のた
めに怯え、不安になり、思い煩っているのだ。
何と無駄なエネルギーだろう。明日の思い煩い
で、今日という日をつぶしてしまう。主は今日
一日を負える力と恵みを与えていて下さる。
一日一日の恵みだ。今日を生きよ。障害を
持った子供を育てていた母親は、神から恵み
と知恵を与えられ、今日1日だけ生きる事を
決心した。明日を思い煩わず今日一日だけを
子供と共に生きた。一日は負う事ができ喜び
持って生きれた。それが20年続いている。
神は必要な恵みを1日1日送られる。明日の
事は心配するな。神の御手の中だ。