2019年03月31日(日)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことは明日が心配 します。労苦はその日その日に、十分あります」マタイ6:34


私たちはどうだろう。非常に緊張する事柄や重大な事柄を控えてい
る時、プレッシャーで胃が痛くなったり、心がズシンと重苦しくな
るだろうか。又、大きな悩みや問題がある時、不安と思い煩いで、
夜も眠れない事があるだろうか。しかし主は、何であろうと明日の
事は心配するなと言われる。いっさい心配無用と。

これは勘違いしてはいけないが、将来の計画や備えが不要との事で
はない。それは大切だ。主と相談しながら、将来の備えをすべきだ。
不要なのは将来の備えでなく「心配・思い煩い」だ。主は明日を御
手の中に置かれている。私たちにはいっさい知らされない。今、現
在の、このすぐ後の時間の事すらわからない。知らされていない。

その知らされていない事を、心配するのは無用だと。それは完全に
主の御手の中にある事だ。心配は無駄だ。主は最愛の愛で愛して下
さっている。明日は愛の御手の中にある。「労苦はその日その日に
十分ある」、今日なすべき御心があると言っている。それに必要な
力は与えられている。今日なすべき事、そして今、すべき事に集中
して生きよと。

明日の心配は、その今日生きる力を奪い去ってしまう。心は落ち込
み、暗く、重苦しく、気力が萎え、今日の御心を行なえない。サタ
ンは今日という日を奪いたい。なすべき御心を奪いたい。明日をき
っぱり主の御手に渡して、明日を閉じて、今日を、今を、主と共に
生きよう。

・・・・・・・・・・
今日を生きずに、明日の煩いに生きて、今日を不毛なものにしてし
まう。主が心配無用と断言されているのに、主の言葉をないがしろ
にして、煩ってしまう。見える所に生きてしまう。目には見えない
主や、主の愛や慈しみ、言葉を見ておれるよう、助けを求めて祈ろ
う。


2019年03月30日(土)

「イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを 食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた」出エジ プト16:35



主により苦難から救い出され、驚くべき奇跡により、エジプトを出
たイスラエルの民。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収
められ」と主を讃え、大きな喜びを謳歌し主に感謝した。そして荒
野に出て3日間歩いた途端、「水が無い」との不平不満に変わった。

たった3日後だった。次には食物が無いと不満をモーセにぶつけた。
エジプトで死んだ方がましだとまで言う。主は答え、天からマナを
降らせ、夕にうずらの大群を降らせた。そしてこのマナは1日分だ
けと命じられた。従わずに翌朝まで残しておくと、虫がつき腐った。

命令通り朝ごとに各自食べる分だけ集めた。残ったものは、日が高
くなると溶けた。主は「朝ごとに」「各自」「食べる分だけ」と定
められた。これは信仰による従順の試しだ。どうだろう。1日分だ
けと言われても、密かに明日の分も、1週間先までも、集めるだけ
集めておきたい・・もし翌朝降らなかったら?主を信じなかったら、
そうしてしまう。

主は来る日も〃、荒野の40年間、毎日〃マナをもって養われた。こ
れは自力でなく、主により生かされているという事実を、身をもっ
て教え込もうとされた。「神が私を生かしておられる」「神により
生かされている」これを心底知る時に、思い煩いから解放される。

私たちもこれまでの40年養い続けられたのではないか。主に信頼し、
御声に従う訓練が、私たちにも来る。言われた通りに従って行く時
に、信頼関係が深められて行く。

・・・・・・・・・
民は、荒野の四十年間、一日も欠ける事なく毎日毎日マナにより養
われた。必ず必要を満たして下さる。私たちも今までどんな時にも
養われて来た。御言葉に従う時に、不思議が起きて、主のみわざを
見る。その繰り返しの中で、信頼関係が深められ、強められて行く。


2019年03月29日(金)

「信仰がためされると忍耐が生じる・・その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」ヤコブ1:2




試練が試されると、忍耐が生じるとあるが、「忍耐」は言葉的に
「我慢」に思ってしまうが、そうではない。我慢は、思いも感情も
抑え込み、ひたすら苦しみが去る事を待つばかりだ。忍耐と我慢は
異なる。我慢は消極的で、そこに希望が持てない。忍耐は、積極的
な意味合いだ。

忍耐は「耐」が入るので、耐えて、我慢と思うが、そうでなく、
「神が必ず良くして下さる」と信じる事だ。この事が必ず益となり
祝福となると信じ、苦しみの中で主を待ち望む事で、そこには常に
希望がある。「信仰が試されると」とあり、この忍耐は、信仰の試
練から生じる。もしあなたの親友が、待ち合わせ時間に遅れたら、
どうだろう。

嘘をつかれた、裏切られたと思うだろうか。決して思わない。何か
突発的な事情ができたと思うのではないか。これは親友との間に信
頼関係があるからだ。主に対しては、主との信頼関係はどうだろう。
今、苦しいが、主は必ず良くして下さると、待ち望み続けること、
そこに忍耐が生まれ、それが、私たちの信仰を成長させる。今のこ
の苦しみの状況を、主は必ず良くして下さると信じる。

そして結果的に、必ずそうして下さる。何であれ万事益になる事を
見て行く。この繰り返しの中で、主への信頼が深められて行く。信
仰が試される事によって、主との関係が強められて行く。今、試練
なら、主との信頼関係が深められるためだ。主にありのままの気持
ちを祈り、御声を聞こう。
------------
試練は辛い苦しい時だが、振り返ると確かに主に支えられていたと
言える経験をする。勇気をもって試練を受け入れよう。すでに主は、
信仰で歩む道を備えてくださっている。


2019年03月28日(木)

「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。『兄弟サウロ・・』」使徒9:17




当時キリスト者は、激しい迫害の中、エルサレムから方々に散り、
国外にまで散った。しかしユダヤ人たちはクリスチャンを徹底的に、
執拗に追った。青年サウロは、殺害に燃えて、大祭司にダマスコの
諸会堂宛の手紙を書いてもらい、彼らをエルサレムに引いて来よう
としていた。

それが神のためだと信じていた。その途上で、突然天からの光を受
けて、回心する事になる。一方、ダマスコに住んでいたアナニヤは、
どんどん迫り来る危機に、必死に祈っていたろう。そんな時に「ア
ナニヤよ」との御声を聞いた。どんなに心強かっただろう。励まし
の言葉と思ったかも知れない。

しかしその御声は、非常に驚くべきものだった。キリスト者に殺意
を抱き、痛めつけて来たサウロに会いに行けと。盲目状態にいる彼
の開眼のために祈れと。アナニヤは余りの想定外の事に、理解でき
ず、しかし彼は迫害者で・・と問うて行く。主は、彼は選びの器で
ある事を告げ、行けと。

アナニヤはどうだったろう。多くの愛する同胞を殺害した相手だ。
その相手を助け、祈れと言われる。だが、あのサウロが本当に回心
したのか。それこそ自分も殺されるかも知れない。命がけであった
ろう。又。本当に主の御声なのか。聞き違いではないのか?様々な
思いがよぎったかも知れない。

しかし彼は普段から主との交わりに生き、従い続けて来た弟子であ
り、主の御声を知っていた。アナニヤは主を信じ、従った。主は彼
を選ばれ、彼が従うと知っておられた。主が導かれたなら、主から
力が与えられる。そして主が成し遂げられる。
--------------
自分の今の感情や経験に捕らわれ、そこから一歩も動けずにいるよ
り、先にある主のご計画を信じて御言葉に従っていこう。主が責任
をもって導き必ず祝福してくださる。


2019年03月27日(水)

「そこで、イスラエル人は海の真中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった」出エジプト16:22



モーセを指導者に数々の奇跡を見せられ、出エジプトを果たし、荒
野に出たイスラエルの民。その民に、大試練が臨んだ。パロの率い
るエジプト軍精鋭戦車部隊が追って来たのだ。どんどん迫り来る。
前は紅海、後ろは追っ手。前進も後退も出来ない。まさに絶体絶命
の危機であった。

しかし主はこの窮状を「わたしの栄光を現わす」ためと。「神の栄
光が現れるため」「民の信仰が強められるため」だと。私たちも絶
体絶命の窮地に陥る事がある。前にも後ろにも行けず、なすすべ無
く、身動きの取れない状況に陥る。しかし主は「恐れるな」と言わ
れ、とにかくまず落ち着こう。

「しっかり信仰に立て」「わたしが戦う」との言葉を受け取ろう。
神は海の真ん中に道を造られる。道が無くとも大丈夫。道無き所に
道を造られるお方だ。目の前の絶体絶命の状況を力強く導かれる。
紅海が分けられ、民はエジプトの追っ手から奇跡をもって救われた。
神の栄光とは「神にしか出来ない事態が起こり、それがまさに神で
ある事がわかる」ことだ。

あなたも、今、窮地にあるだろうか。試練の最中だろうか。「恐れ
るな」「信仰に立て」「わたしが戦う」と言われる。御言葉に立っ
て、祈ろう。私たちの窮地は神の機会だ。今、窮地なら、神の栄光
が現される機会だ。恐れと不安と思い煩いに襲われる中「恐れるな」
の言葉を受け取り、握っていよう。主が戦われる。主を信頼してい
よう。
-------------
窮地を前に何もせずにおれないと思ってしまうが、委ねるとは祈り
ながら常に来る不安を主に渡していく積極的な行為ではないだろう
か。信仰に立つ意志を向けよう。




2019年03月26日(火)

「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました」詩篇31:5



ある人が、職場で、理不尽な、不当な扱いを受けた。心が引き裂か
れるように苦しかった。主に在る先輩が、励まそうと「辛かったね」
と声をかけてくれた。その人は、「こんなにも祈った事は無かった
です。自分は正しいのに、悔しくて悔しくて、祈っていると主の十
字架が迫り来ました。

完全に正しいお方が、罪が無く十字架にかかる必要の無い方が、十
字架で苦しまれた。命まで捨てられた事に、まるで初めてかのごと
く目が開かれました。主の十字架の前に、言葉が無くなり、自分の
姿が見せられました。主にすべてをお委ねしました。今、心は全く
平安です。主の十字架の意味を以前より知れて、感謝しかありませ
ん」と答えた。

彼には正当な主張があり、権利があった事だろう。しかしその人は
信仰に立っていた。自分で自分を守ろうとせず、すべてを正しく導
き、裁き、成し遂げられる主に任せた。すると平安になってしまっ
たと。ダビデも、サウル王から理不尽な扱いを受けた。サウルの激
しい妬みにより、命をつけ狙われた。どこまでも追っ手をかけて追
撃された。

ヨセフも、エジプトで主人から厚意を受けたが、その妻により濡れ
衣を着せられ、全く身に覚えの無い無実の罪で投獄された。こんな
理不尽は無い。しかしダビデもヨセフもそんな中で、相手を攻撃す
るので無く、御父に自らを委ねて行った。そして主はふさわしい時
にふさわしい解決を与えられて行った。
--------------
ダビデやヨセフのように解決の一切を主なる神に託そう。正しいと
思うと厳しい態度を取りたくなってしまう。自分自身が神の戒めか
ら迷い出てしまわないよう御手に委ねよう。


2019年03月25日(月)

「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示を仰がなかった」ヨシュア9:14



祈らないで、主を求めずに、事を行ってしまって、失敗した経験は
無いだろうか。その場のなりゆきで、高価な物を衝動買いし、必要
な物でも、欲しい物でも無かったと後悔したり、祈らないで思いつ
きで、活動を始めてしまい、途中で様々な障害にぶつかり、結局頓
挫してまう。一見どんなに良いと思える事でも、祈らないで、肉の
思いで始めてしまうと、挫折してしまう。

ある人は祈らないまま、目の前に来た高額バイトに飛びついた。し
かし余りの多忙にデボーションの時間が取れないまま、どんどん神
から離れ、本末転倒の生活を示され、途中で辞めた。ある人は御心
を求めないまま、高額報酬の仕事に転職した結果、やはり早朝出勤
深夜帰宅で、仕事の内容も高度で、残業も多く時間無く、身体もク
タクタに疲れ、教会へ行けなくなってしまった。

ヨシュアがギブオンの住民達に騙されて、盟約を結んだ箇所がある。
ギブオン人達が計略し変装して、遠くから来たと思わせて欺いた。
実は自分達の中に住む近隣の者達であった。この時、対応するのに
「主の指示を仰がなかった」とある。主を仰がず、肉で判断すると、
道を間違ってしまう。刈り取りも来る。

私達も心して、日常生活、祈りつつ主の指示を仰ぎながら歩もう。
あの決定、この判断に主を仰ごう。結局、肉で始めた計画は中途半
端となり、完成に至らない。よく祈り、平安与えられ、確信持って
前進しよう。それは「主と一つ」に進める幸いな歩みだ。
-------------
思わぬ好機がくるとつい祈らず乗って行ってしまう。祈るまでもな
いと行動が先になる時には気づきたい。衝動的な歩みが守られるよ
う、主に祈り、主と共に歩みたい。




2019年03月24日(日)

「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ」マタイ14:32



主は弟子たちを「強いて」舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせられ
た。強制的だった。試練に会わせられた。彼らは、向かい風に漕ぎ
あぐねて、立ち往生し、どうにもならず悪戦苦闘していた。困難で
前に進めずに、四苦八苦している状況だ。彼らは自分たちの力で懸
命に戦っていた。私たちも問題に、どうしてよいかわからず、方策
尽きて行き詰まる。

主は「ひとりで山にのぼられ」弟子たちのために祈っておられた。
いつも私たちのために執りなしていて下さる。そして、パニックに
なっている「彼らのところへ行かれ」、「しっかりしなさい。わた
しだ。恐れることはない」と御声をかけられた。私たちも恐れでい
っぱいだ。波を恐れ、目の前の状況を恐れ、人を恐れ、将来の事を
恐れ・・そんな私たちにも御声をかけて下さっている。

「恐れることはない」。なぜ、恐れるのだろう。それは、常に共に
いて下さる、主を見失なうからだ。一緒にいて下さるのにわから
ない。凄まじい目に見える状況に飲み込まれると、それしか見えな
い。状況だけだ。背後にサタンが働く。心騒がせ、不安ばかりが募
り、おじ惑う。今、目の前の厳しい状況に、不安と恐れでいっぱい
だろうか。思い煩いしかないだろうか。

主は「わたしがともにいる」と、「恐れるな」と言っておられる。
主が舟に乗り込まれた途端、風が止んだ。状況でなく、主を見て、
御言葉を心に受け取る時、心の嵐がおさまり、心に平安が臨む。

・・・・・・・・・・・・
突如の厳しい状況が臨むと、パニックになってしまう。主も、御言
葉も飛んでしまい、思い煩いにおおわれ、心が重く暗くなる。しか
し主は御声をかけていて下さる。今も「しっかりしなさい。わたし
だ。恐れることはない」と。御言葉を受け入れられるよう祈ろう。


2019年03月23日(土)

「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私 の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9


み言葉の言う「弱さ」と、この世の言う「弱さ」は別ものだ。前者
は、自分の限界を知り、認めている事であり、後者は、強さが善で
あり、弱さは悪という価値観だ。能力があり、力のある事が善で、
無力は悪だ。この世は比較の世界なので、人は比較の中で生きてい
る。

人より仕事が、勉強が、運動ができない、迅速に処理できない、対
人関係がうまくできない、そんな弱さは悪だ。競争社会ゆえ、それ
なら負け組になる。そんな価値観の影響を受けると、できない、だ
めな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者
となる。劣等感のとりこだ。そんな自分を受け入れられず、認める
事などできない。だから人も認められない。

自分の弱さが悪であり、人に受け入れて貰えないと思う。そのため
人に弱さを隠す事になる。惨めなので決して知られたくない。競争
社会なので、弱さを見せると負けになる。尊敬を失い、自分の価値
が下がる、だから見せられない。自分で自分を縛り、窮屈にし、が
んじがらめにしている。

しかし、御霊の世界は全く違う。神の力は「弱さ」の内にこそ、完
全に現わされると。神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、そ
れらを弱さの中でのみ体験する。頭でなく身をもって知る。自分の
弱さを認める時、御霊の自由の中に入れられ、解放される。弱さは
恥でなく、誇るべきものだと言っている。そこに神の力が現われ、
そこで神を深く知って行くのだから。

・・・・・・・・・・・・
この世の価値観と正反対だ。この世では弱さは恥ずべきもの、否定
したいもの、みじめなもの、人に知られたくない隠しておきたいも
のだ。しかし主は弱さにこそ、主の力が完全に現れると。そこを否
定するのでなく、認めて、主に持って行こう。何という恵みだろう。


2019年03月22日(金)

「彼らはヨハネのところに来て言った『先生・・あなたが証言なさったあの方がバプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます』」ヨハネ3:26



主が来られた時、皆の関心と人気が、バプテスマのヨハネから主に
移ってしまった。人々は群れをなして、主の方へ行った。その時に
ヨハネの弟子たちは、群衆がこぞって主に行き、主が大きな人気を
博している事に妬みを覚えた。自分の師への身びいきゆえであった。
しかしヨハネは全く違った。

「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」
と、全主権が主にある事を認め、心から受け入れていた。自分は主
が与えて下さるものを受けるのみだ。そしてそれが満足だし、それ
こそが真の満たしなのだと。別の人に関心が高まり、人々がついて
行くなら、それも主のなさる事であり、自分がどうこう言う事では
ない。

ヨハネは与えられた境遇、位置、立場、能力をわきまえ、心から感
謝し、満足していた。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益
を受ける道です」。満足する心は主からのものだ。肉の内に、満足
は無い。肉はどれほど手に入れても満足する事はない。もっと、も
っとと、常に不足だ。貪欲は底なしなので満足する事がない。

私たちはどうだろう。誰かが褒められれば、結果を出したなら、心
騒ぎ、ざらつくだろうか。絶えず主を認め、与えられた場所、地位、
能力に感謝し、受け入れる時、私たちの心は、どんな境遇であれ、
平安に守られる。あれが無いこれが無いと、今の境遇に不満だろう
か。視点を天に向け、主語を主に置き換えよう。

主からの境遇であり、そこに主からの使命があり、豊かな祝福が備
えられている。主を認めて行く時、見方が変わる。不満が感謝に変
わり、どのような境遇であれ、心が主によって満たされるので、御
霊の喜びが与えられる。
------------
泣く人と共に泣けても、喜ぶ人と素直に喜べないところがある。主
と自分との関係に何も影響はないと苦い思いを主に手放そう。物事
をありのままに受け入れた自由な生き方を選択したい。


2019年03月21日(木)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6




人生の悩みの多くが人間関係だと言われる。職場でも仕事より対人
関係の悩みが多いと。今、難しい対人関係があるだろうか。目の前
の問題は、偶然で不運なのではなく、サタンにほんろうされている
のでなく、主からのものだ。環境さえ変われば、この人さえいなけ
ればと思ってしまうが、その事態に主を認めよう。

「どこにおいても、主を認めよ」と。「そうすれば、主はあなたの
道をまっすぐにされる」。主が、目の前に問題の人を置かれている。
それはあなたの祝福と成長のためだ。主は目的と意図をもって、あ
なたをその環境に置かれた。偶然いるのではない。霊的学びを与え
られ、成長へとを変えて行って下さる。ある人は、お節介な隣人が
嫌だった。頼みもしないのに何やかやとお節介だ。

大きなお世話だと思う自分も、小さい人間に思い嫌だった。それで、
その事を祈っていた。ある時、とうとう溜まり溜まって爆発寸前と
なり、取り返しのつかない言葉を発っしそうで、「神様!」と心で
叫んだ。その時、口から勝手に言葉が出た。「有難うございます。
いつも色々して頂いて」。自分でも驚きだ。ずっと祈っていたので
守られたと思った。

すると次に「○○はどうすればいいですか」日頃知りたかった事柄
が、自然に口をついて出た。その事に詳しい相手は、親切丁寧に教
えてくれた。やがて相手が相談事を持って来るほど、いいムードの
仲になった。今の状況に主を認めて祈って行こう。主は計画と意図
を持っておられる。豊かな祝福が備えられている。
------------
嫌なこと、辛いことがあると、そこばかりを見て捕らわれてしまう。
問題と自分の間にはいつも主がいてくださる。主に向かい一番必要
な解決が与えられるよう祈ろう。


2019年03月20日(水)

「エリヤはアハブに言った『私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる』」T列王17:1



エリヤはアハブ王に2.3年、雨が降らないと告げた。アハブ王の追
っ手から逃れるため、主は、エリヤをケリテ川のほとりにかくまわ
れた。「そこであなたを養う」と。主が「養う」と言われたからに
は、状況に関係無く絶対的な保障だ。命は守られる。日照りで飢饉
になる中、ケリテ川の水を飲み、食物はカラスが運ぶと。

奇跡で養われ、ケリテ川が枯れた時に、次に、やもめのもとへ行く
よう示された。飢饉は拡がり、イスラエル全土だけでなく、シドン
にまで達していた。次は、やもめが養うと。カラスの次は、異邦人
の女性だ。プライドはどうだったろう。しかしへりくだって、主の
言葉の通りに従った。そのやもめは、かめに一握りの粉と、つぼに
少しの油とで、子供と最後の食事をして死のうとしているところだ
と言う。

その死ぬ前の食事を、まず私の所へ、などと非常識な事は言えない。
しかしエリヤは信仰に立ち、主を信じ、主の言われた通りに従った。
「まず私にパンを下さい」と。そうするなら、飢饉が終わるまで、
かめの粉は尽きず、つぼの油は無くならないと。彼女はエリヤの言
う通りにした。すると主の言葉通りに奇跡が起きて、大飢饉のまっ
ただ中で、やもめと子供は奇跡をもって養われた。

一握りの粉を献げ、3年半の糧を満たされた。神の奇跡は、御言葉の
通りに従うところに現れる。それは一見、常識や、この世的な価値
観からすると、理解できない事があるかも知れない。しかし従う時
に、「私の仕えている主は、生きておられる」事を、身をもって経
験して行く。
------------
恐れずに信じた者だけが主の栄光を拝する。様々な問題を通して主
は、目に見えるものや力に頼ろうとする弱さを示してくださる。
信仰へと進もう。


2019年03月19日(火)

「主はイサクに現われて仰せられた。『エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい』」創世記26:2



飢饉があった時に、人々は食物が豊富なエジプトに移住した。しか
しイサクに主は、エジプトに下るなと言われ、この地に滞在するよ
うにと言われた。「わたしはあなたを祝福する」「あなたの子孫を
空の星のように増し加え、あなたの子孫にこれらの国々をみな与え
る」と。

見えるところ飢饉の厳しい状況であったが、イサクは主に従って、
エジプトに下らず、とどまった。そしてイサクは、その飢饉の中で、
その地に種を蒔いた。飢饉の時に、種を蒔く者などいない。収穫ど
ころではない。大事な種さえだめにしてしまい、すべて失ってしま
う。そんな事はしないし、非常な恐れと不安があったろう。しかし
イサクは信仰によって、飢饉の最中に種を蒔いた。

すると何と百倍の収穫を見た。主の驚くべきみわざであった。「わ
たしはあなたを祝福する」との主の言葉の通りに素晴らしい祝福を
与えられた。問題や悩みが起きた時に、どうすべきか。見える所や
人の意見、自分の思いに従うなら、飢饉には即、エジプトに下るだ
ろう。又飢饉の中で種など蒔きはしない。

しかし自分の思いでも、常識や人の意見でもなく、主の言葉に従う
時、大きな主のみわざを見、栄光を拝することになる。今。問題が
目の前にあるなら、自分の思いでなく、主の言葉に耳を傾け、御声
に従おう。「わたしはあなたを祝福する」と言われる、主について
行こう。
--------------
生きていく途上で様々に不安や問題が来るが、主の御言葉に従って
いるなら、大きな間違い、神のご計画への妨害に気づける。見える
ところ、人の言葉ではない御言葉に従おう。日々の平安がある。


2019年03月18日(月)

「王は・・『では、あなたは何を願うのか』そこで私は天の父に祈ってから、答えた。『・・私をユダの地・・へ送って、再建させてください』ネヘミヤ2:5



ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き
払われた状態である事を聞いた。彼は座って泣き、喪に服し、断食
して神に祈った。御前に夜も昼も祈り、罪の告白をし悔い改め、へ
りくだって祈りに祈った。祈りの中で重荷が増し加わる中、4ヶ月
後王の前に出た。深い悲しみの顔つきであり、王はネヘミヤに尋ね
た。心に何か悲しみがあるに違いないと。

この時ネヘミヤは王に先祖の街が廃墟になっている事を率直に話し
た。すると王の方から「何を願うのか」と問うて来た。王はネヘミ
ヤの重荷を察した。そこでネヘミヤは祈った後、再建させて欲しい
旨を願った。王は願いを聞き入れ快く送り出してくれた。ここで学
ぶ事ができる。

ネヘミヤはまずエルサレムの現状を聞いて知った時に、深い重荷が
与えられた。それをまず祈りに持って行った。私たちも同様だ。現
状を、問題を知る事によって重荷が与えられる。まず現実を知らな
い限り、重荷の持ちようがない。そして具体的に祈りに持って行く
時、更に重荷が増して与えられる。

ネヘミヤはその重荷に何かをしたいと思った。その願いは答えられ、
神により環境が驚くほどに次々と開かれ、すべての必要が備えられ
て行った。私たちも重荷に対し、まず祈り、祈りの中で具体的な行
動を導かれる。あなたにも、主が見せておられる重荷があるだろう
か。
------------
ビジョンが与えられたなら具体的に祈るために現状を知ろう。必要
な計画は知らなければ祈れない。核心へ向かいより堅い信念が与え
られる。


2019年03月17日(日)

「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているの を見ると、もうそれ以上は何も言わなかった」ルツ1:18


飢饉時にナオミは、ベツレヘムを去り偶像の地モアブへ。家族のた
めにおるべき所から離れたが、その家族は亡くなった。ナオミと二
人の嫁が残された。やがて故郷が豊作と聞き、帰郷の決心をする。
嫁たちに実家に戻るよう強く勧めるが、ルツだけは姑にすがりつい
て離れなかった。「あなたの神は、私の神」と、異邦人のルツがそ
の背後に生けるまことの神を見ていた。

信仰ゆえの決断であった。主に従うために、故郷を離れ、見知らぬ
異国の地に姑とやって来た。ナオミは、自分は満ち足りて出て行っ
たが、素手で戻ったと、苦しい日々であった事を故郷の人々に話し
た。しかしナオミが神に立ち返る決心をした時から、すでに大きな
祝福が備えられていた。

帰郷が丁度「大麦の刈り入れの始まった頃」だった。生計を立てる
ために、ルツは落ち穂拾いに出た。刈る人たちの後について拾い集
めたが、それが「はからずも、ボアズの畑」だった。「丁度その時、
ボアズが来た」ボアズは、懸命に身を粉にして働くルツに目が留ま
った。親切にルツに対応した。ルツの行く先を祈り考えていたナオ
ミを通して、ルツはボアズとの結婚へと導かれた。

そしてダビデ王の曾祖母となり、主イエスの先祖となった。キリス
ト誕生の系図に入れられるという想像を遙かに超えた大きな恵みに
あずかった。主を信じ、御手に委ねて行く者を、主がどんなに祝福
して下さるかを見せられる。「ご自分の民を顧みて」いて下さる主
を信頼し従おう。思いを超えた祝福が備えられている。

・・・・・・・・・・
ナオミは饑饉の時に、おるべき場所から離れてしまった。自分をマ
ラ(苦しみ)と呼ぶようにとの苦しい歳月だったが、立ち返る決心
をした時にすでに大いなる祝福が備えられていた。何よりも「ル
ツ」が与えられていた。私たちへの主のあわれみは深く、尽きない。



2019年03月16日(土)

「すると、ペテロが答えて言った。『主よ。もし、あなたでしたら、 私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってくださ い』」マタイ14:28


有名なペテロの海上歩行の箇所だ。嵐吹きすさぶ中、湖の上を歩い
て来られた主に、ペテロは「私に水の上を歩いてここまで来いと、
お命じになって下さい」と願った。主のお言葉があれば、水の上さ
え歩けると信じた。すると主は、「来なさい」と言われた。御言葉
を頂いたペテロは、舟から出て水の上を歩いた。

常識で考えるなら、自然現象では、あり得ない事だ。人間が水の上
を歩くなど不可能だ。しかしペテロは歩いた。なぜ歩けたのか。そ
れは「来なさい」という主の言葉がすべてだった。ペテロは主の言
葉があれば、できると信じていた。だからこそ「ここまで来いと、
お命じになって下さい」と願った。

「来なさい」との主の言葉に従ったので歩けた。もし主の言葉が無
ければ、ペテロが歩こうとしたとしても、沈んでしまったろう。主
の言葉と、ペテロの信仰による従順が一つになった時に、奇跡は起
きた。私たちも、この世での信仰人生は、水の上を歩くようなもの
だ。私たちの確固たる基盤は、目に見えるものではなく、主の言葉
だ。御言葉によって生きている。

御言葉に従う時、どんな困難な中をも前進して行ける。主の言葉と、
あなたの従順がある時、そこに主のみわざが現れる。「来なさい」
との御声を聞いたなら、信仰もって一歩踏み出そう。不可能のよう
な状況に見えても、必ず前進して行ける。主のわざが現される。
「来なさいと言われた、そこで・・水の上を歩いた」。

・・・・・・・・・・・
主が「来なさい」と言われたなら、どんなに不可能に見えても、ど
のような状況であっても、前に進んで行ける。主の言葉によって歩
んで行けるし、生きて行ける。今の状況の中で、主の御声に耳を澄
ましていよう。御言葉を求めよう。


2019年03月15日(金)

「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」創世記45:5



私たちの信仰人生で、どのようなマイナスの事態が起ころうと、そ
こに神がわざをなされ、私たちのために益として下さる。それが、
他者からの攻撃であったとしても、又、自分の過失、失敗により招
いてしまった悩みや問題であっても、そこで神が働かれ、それらを
も益と造り変えて下さる。

ヨセフの兄たちは、弟ヨセフに対し妬みを抱いていた。妬みは憎し
みに増幅し、殺意となり、ヨセフを隊商に売り飛ばした。そこにあ
ったのは明確な悪意であった。しかしヨセフは後に「あなたがたは、
私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らい」と
されたと言った。はっきりと悪を計ったと言っている。

しかし神がそこにわざをされ、益とされ、良い事とされたと。神は
不思議をされ、不思議な方法で、悪さえ良い事とされる。であれば、
人がどんなに悪意を持って事を計って来ようと、私たちに何も出来
ない。時に私たちは困難を通ることがある。 神を信じ、神に仕え、
神の御心を行ない生きていたとしても、 問題が起こったり、様々な
悩みが降りかかることがある。

だが、神が私たちの人生を完全に手中におさめておられる。 神が、
目の前のその問題を、あなたのために最善となるようにされる。信
じていよう。ヨセフは、神が、兄たちの、親族の命を飢饉から救う
ために、先に私を遣わされたと言った。「兄たち」が計った悪事で
あったが、「神は」を主語に見つめ直している。今は難解なパズル
のピースであっても必ず「神の栄光」へと埋められて行く。
------------
どんな人の罪や悪よりも強い御神の支配が後ろにある。渦中では何
も見えなくなるが、ヨセフの生涯を通して、苦しみの中で神を仰ぐ
信仰を学びたい。


2019年03月14日(木)

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神」詩篇68:19



目の前に突如の問題が起きた時、まずどうするだろう。驚き慌て、
何とかしなければと焦り、動き回るだろうか。自分の力と知恵、経
験を駆使して、何とか解決をと試みる。頭はとどまる事なく駆け巡
る。あれやこれやと、実際にやってみるが、しかし心はどうだろう。

思い煩いと不安で、どんより重苦しい。つまり平安が全く無い。心
は暗く重く、思い煩いは深まるばかりだ。そんな時を経た後に、は
っと自分の力で、何とかしようとしている事に気づかせられる。そ
して目の前の問題から目を離し、主を見上げる時に、いつも耳にす
る言葉が響いて来る。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ
さる」「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさ
い」「思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたの
ことを心配してくださる」。万事益にされる。御言葉を一つ一つ噛
みしめ、心に反すうし、見つめる時、見えない世界に、主に、目が
転じて行く。

そうだ祈ろう、委ねなくては、と思えて来る。自らの気持ちや思い
煩いをことごとく、主に持って行く時に、不思議を経験する。状況
は何も変わらないのに、心が平安になるのだ。主に問題を知って頂
いている、この平安は何ものにも代えられない。あなたの目の前の
事を、気持ちを、祈りによって主に告げよう。
-----------
委ねるという事が行き詰るまで解らない者だが、気づいたところか
ら、明け渡していこう。御言葉に信頼し立とう。信じる者に働く神
の力を経験し、ほむべきかなと神を賛美しよう。


2019年03月13日(水)

「それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」Tサムエル1:18



祈りの人ハンナ、ハンナの祈りは有名だが、不妊ゆえの悩み、苦し
みは深かった。自分で抱えていた煩悶を、祈りに持って行った。思
いも感情も、何もかもを御前に持ち出した。御前で激しく泣き、長
く祈り、その祈りはうめきとなった。祭司エリには、彼女が酔って
いるように見えた。

しかし、ハンナは募る憂いといら立ちで、主に心を注ぎ出していた。
私たちも、余りの苦しみに、痛みに、何をどう祈ればよいかもわか
らない時がある。主にその心をそのまま、「どう祈ってよいかわか
らないです」と祈ればよい。「苦しい、辛い」と吐き出して行けば
よい。その本心からの祈りを御霊が助けて下さる。

もし男の子が与えられるなら、主に献げると誓願を立てた。つまり、
ハンナは自分自身を主に明け渡した。私たちは、主に、あれが欲し
いこれが欲しいと要求し、願うが、自分の大切なものは握りしめて、
決して主に献げる事はしない。自分の思い、プラン、自分に属する
もの・・そうであれば、神の御心がなかなかわからない。

ハンナは、何もかもを主に委ねた。自分の持てるものも、思い煩い
も、将来も、自分の思いもすべてを明け渡した。その時、エリから
「安心して行きなさい・・神があなたの願ったその願いをかなえて
下さるように」との言葉を受けた。

その結果、食物が喉を通らなかったハンナが、帰って食事ができた。
ハンナはすっきりした。すでに得たりの平安が与えられた。私たち
も主に気持ちを告げ、聞いて頂こう。御霊が寄り添って祈って下さ
る。思い煩いを主に渡し、自分自身を委ねよう。
------------------
祈っている相手は私を一番知っていて愛してくださっているお方だ。
祈りを通して自分の思いを告げながらも、主のお心も信仰を持って
受け入れ委ねていきたい。


2019年03月12日(火)

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」ローマ12:19



私たちは、人に批判されたり、中傷され、理不尽な扱いを受ける時、
怒りが湧き上がる。どうしても感情的になってしまう。そんな時ど
うすれば良いのか。自分で報復せずに、神の怒りに任せるようにと
言っている。怒りは罪ではないが、罪へと誘発されやすい。「怒っ
ても、罪を犯してはならない、日が暮れるまで憤ったままでいては
ならない」と。

悪に対する正当な怒りがあるが、自我からの怒りは罪だ。ダビデは、
親切を示しているのに、ナバルが自分を罵る事を耳にした時に、即、
報復の行動を取る。だがナバルの妻アビガイルの機転、へりくだっ
た賢明な進言により、自分で復讐して、神の前に罪を犯す事を思い
とどまれた。

怒りには、底に憎しみが潜み、周囲に害毒を撒き散らす。ナバルが
ダビデを罵った事も、神の許しのもとで起きた。ダビデが神視点に
立ち、そこを見ていたなら、軽率な行動に走る事から守られたろう。
しかしこの事でダビデは学んだ。後にシムイに呪われた時、冷静に
対処できた。報復しようとする部下に「放っておけ。彼に呪わせよ。
主が彼に命じられたのだから」と言えた。

愚かなナバルは神に打たれて死んだ。復讐は神がされる。「復讐は
わたしのする事である。わたしが報いる」と。神の怒りに任せよと。
更に、善をもって悪に打ち勝て、と言われる。侮辱をもって侮辱に
報いず祝福を与えよと。自分には不可能だが、内におられる主がそ
うして下さる。
--------------
人ではなく本当の自分自身を知っていてくださるのは主お一人だ。
感情は全て主のところへ持って行き、主の正当な報いにお任せでき
るよう祈ろう。主が今の心も、また罪からも守ってくださる。


2019年03月11日(月)

「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った『主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください・・』」T列王19:4



エリヤはバアルとの壮絶な戦いで大勝利した。そのエリヤを憎むア
ハブ王の妻イゼベルが、翌日までにエリヤを殺害すると宣言した。
心身消耗し尽くしていたエリヤは、恐怖で怯えた。あの偶像との熾
烈な戦いは何だったのか、無駄ではないか。何も変わらないではと
の、大きな失望と落胆に襲われ、性根尽き果てたようになった。
挫折と孤独感で「自分一人だけが残った」と思った。

しかしそうではない。自分の曲がった思いで事態を見る時、見誤っ
てしまう。神は七千人を残しておられた。勝手に歪曲した思い込み
をしてしまう。あれほど勇敢にバアルに立ち向かった信仰の人が、
怯えて逃げ出してしまう。「自分の命を救うため立ち去った」主を
仰ぐのでなく、自分を見、自分を守ろうとする途端、恐れ不安、思
い煩いのとりこになる。

自分で自分を救わねばならず、それは自分の能力を超えているので
パニックだ。私達も同様だ。平安失せ、思い煩いと恐れに囚われて
いる時は、自分で自分を守ろうとしている時だ。問題から逃げたい
が、逃げても何の解決もない。逃げると、そんな自分に更に落ち込
む事になる。主はエリヤに、充分な休息を与え、体力回復させ、御
前に立たせられた。

そして御言葉を与え、新たな使命を授けられた。今、落胆している
だろうか。自分で自分を守ろうとせず、又、逃げずに、神の御前に
立とう。余す所なく主に気持ちを吐き出して、祈ろう。御声をかけ、
新たにして下さる。なすべき事を示し、御心へと導いて下さる。
------------
疲れた時、ネガティブになる時、自己中心にしか見えなくなる。す
ぐに主の前に立とう。主は完全だ。完全な御言葉で導いてくださる。
全てをお委ねし心を静めよう。


2019年03月10日(日)

「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなっ た。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうと している」創世記42:36



ヨセフは紆余曲折の末、エジプトで総理大臣になった。状況は深刻
な大飢饉だ。以前、自分を隊商に売った兄たちが、食糧を求めてエ
ジプトのヨセフのもとにやって来た。ヨセフはひと目見て兄たちと
わかった。兄たちはわからなかった。そこでひと芝居打った。シメ
オンを人質にして、弟ベニヤミンを連れて来るようにと、食糧を持
たせ帰らせた。

その食糧が尽きた時、再度食糧を得るために、どうしてもヨセフの
もとへ行かなくてはならない。父ヤコブはベニヤミンを手放す事を
渋った。しかしシメオンが人質のままであり、且つ食糧は不可欠で、
ベニヤミンを伴うしか選択肢がない。ヨセフが死んだと思っていた
ヤコブは、ベニヤミンを更に偏愛したのかも知れない。

ユダが、ベニヤミンもシメオンも必ず連れ戻ると強く説得した。ヤ
コブは「失う時には、失う」のだと決意する。ヤコブがいっさいを
主に明け渡した信仰だ。ヨブが「主は与え、主は取られる。主の御
名はほむべきかな」と言った。そのように主は取られ、また与える
こともできる。すべては、主の主権と支配の中にあり、お心のまま
にとの信頼だ。

ヤコブはヨセフもラケルも亡くし、今、最愛のベニヤミンまでも失
うかも知れない。しかし何と実際は素晴らしい祝福の現実が待ち受
けていた。握りしめていたベニヤミンを主に渡した時に、シメオン
もベニヤミンも返され、それだけでなく、思いも寄らなかったヨセ
フをも取り返し、家族が一つにされた。その上飢饉の中、命をも救
われた。今、握りしめているものを、明け渡すよう示されているだ
ろうか。

・・・・・・・・・・・
明け渡した時に、大きな祝福が備えられている事が、頭ではよくわ
かるのだが、委ねる事、明け渡す事は至難のわざに思える。自我が
握り締めて放さない。明け渡せる事も主の恵みで、みわざだ。祈る
事ができるので、祈って行こう。


2019年03月09日(土)

「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペ リシテ人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17


出エジプトに際し、約束の地カナンへの道のりを、近道であるペリ
シテ人の国には行かせず、「荒野の道」へ向かわせられた。「民が
戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返すといけない」との理由
からで、そこに神のご配慮があった。長年の奴隷生活で、戦いの訓
練など全く無い民が、ペリシテや敵との戦いが恐怖で怯えて引き返
してしまう。

私たちの価値観の中に、近道、早く到達する事が善との思いがない
だろうか。遠回り、苦しい事、困難な事は避けて通りたい。しかし、
神は近道ではなく、あえて苦しく長い荒野の道を通される。神が困
難な道を通されるのだ。神に不可能はなく、今すぐに、願っている
ものを一気に与えて下されば良いのにと思う。延々時間がかかり、
まさに遠回りさせられていると感じる状況がある。

自分の思いやプランと全く違う道を歩ませられる。しかし、そこを
通ってこそ、忍耐や信仰が培われ、その渦中でこそ、神のご愛や真
実を経験する。明け渡す事を経験させて下さり、成長が与えられる。
そこを通らずしてあり得ない。そしてその通り道には、雲の柱火の
柱が伴い、神の臨在があり、行くべき道が示される。

荒野での灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の柱に照ら
される。道中決して「民の前から離れなかった」。今、荒野なら神
を信じ、従って歩もう。片時も離れず共におられ、導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
近道を行きたいのに、時に、遠回りをさせられていると感じる事が
ある。思い通りにならない状況を経験する。しかしそここそが主の
栄光を見る場所であり、主を知れる時であり、沢山の事を学べる時
だ。そして雲の柱、火の柱により、必ず進むべき道が示される。


2019年03月08日(金)

「長官たちは、ふたりの着物をはいでむち打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて看守には厳重に番をするように命じた」使徒16:23



パウロは、アジアで御言葉を語る事を禁じられ、ビテニヤの方へ行
こうとすると、それも止められ、何らかの障害で、南も北も阻止さ
れるので、西方に向かった。するとトロアスで「マケドニアに渡っ
て来て、私たちを助けてください」との幻を見た。ずっと導きを求
めて祈っていた中であり、御霊の示しを確信し、マケドニヤに渡っ
た。

ピリピの町へ行き、川岸の祈り場で祈り、そこにいた女性たちに宣
教した。その後、霊に憑かれた女奴隷から悪霊を追い出した。する
と儲ける望みの無くなった主人たちに訴えられ、投獄されてしまっ
た。むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁された。御霊の示しに従い、祈
ったのに、苦しみがやって来た。

こちらに落ち度は無く、ましてや宣教のために来たのに、投獄だ。
これでは、どうにもならないではないか。しかし神の計画は着々と
進んでいた。むち打ちの激痛の中、牢獄で不平不満一つなく、祈り、
賛美する彼らは、囚人たちに衝撃を与えた。今まで見た事のない人
たちだ。大きな証しとされた。結果的にそこの看守が救われ、何と
全家族が救われたのだ。

ピリピの教会の核となって行った。神に間違いは無い。御心に従っ
たのに、あんなに祈ったのに、何でこんな事に?との状況にあるだ
ろうか。今は見えないが、神はご自身の計画を進めておられる。神
に間違いはない。今は見えなくても信じていよう。必ず平安の落と
し所へと導かれ、神の栄光が現わされて行く。
--------------
不意の試練の中でも、御心だと確信があるから主の平安に守られる。
不安、恐れですぐに揺らいでしまうが、初めの確信に立って御言葉
を握り、御霊の慰めを受けよう。


2019年03月07日(木)

「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます」詩篇84:6



私たちは、様々な苦しみを経験する。辛い悲しみの涙の谷も通る。
理不尽な事、理解不能な事に遭遇する。それはクリスチャンにもノ
ンクリスチャンにも同じように起こる。しかし神を信じる人々は、
どんな辛く悲しい事の中にも、神を認めて行く。そしてそこに神が
おられるので、神の愛、慈しみを体験して行く。

神を信じない人は、どんなに素晴らしい事があっても、そこに神を
認める事は無いし、感謝も無い。ただの偶然だ。そこの違いだ。信
仰者はどんな出来事が起きても、そこに神を認め、神の愛を認める。
深い涙の谷を泉の湧く所とし、その中に神を見、神に出会って行く。

ある人は、成績がトップクラスで高校受験合格間違い無しだった。
しかし驚いた事に不合格だった。初めて大きな挫折を経験した。第
二志望へと進んだ。砕きは、泉の湧く所とされた。神に近づけられ、
学校ではリーダーシップを発揮し、聖書の同好会を発足した。救わ
れる同級生が起こされた。苦しみ、悲しみ、挫折、行き詰まり、も
うだめだと思うそここそが、泉の湧く所とされる。

そこでこそ真に神に出会うからだ。その痛みの中で、主を仰ぐなら、
いやし主である主を味わい知る。何も、どうにも出来ない、なすす
べのない、弱さと無力の極みにある時こそが、実は主に近い。大き
な祝福へと展開して行く。泉の湧く所とされる。
---------------
私達は涙の谷にこそ神の恵みが注がれることを知っている。闇の中
にこそ主の真理の光を見る。そして慰めを受け、力を得てまた引き
上げられていく。


2019年03月06日(水)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34


私たちには、現在から先のことはいっさい見えない。だから明日の
事は全くわからない。見えないので、先に心配事があるなら、大き
な不安と思い煩いに襲われてしまう。あの事は、この事は・・と考
えるのだが、全く見えないので、不安と恐れにおおわれるばかりだ。

そして、不安は不安を呼び、増幅して行き、幾ら大丈夫だと思って
も、得体の知れない恐れが、次から次ぎへと湧き上がって飲み込ま
れてしまう。あなたも経験があるだろうか。最悪のシナリオが出来
上がっている。周囲から、幾ら大丈夫だからと励まされても、どう
してもだめなのだ。自分でもわかっているが、どうにもならない。

主はそれもご存じで、この1日、「今日」を考えてごらんと言って
おられる。今、現在、何か不足があるか?常に、とにかく今日は必
要が与えられている事に気づくようにと。その「今日」の連続が一
生だ。果てしない明日を心配し恐れるより、今日、十分必要が満た
されている事に、感謝してはどうだろう。

ある独り身の高齢の婦人は、「だれが心配したからといって、自分
のいのちを少しでも延ばすことができますか」の御言葉が、心にズ
バリと入り納得できた。今日、飢えていない、身体が守られている。
必要が与えられている。「今日」を心から感謝していると、喜びが
溢れ、平安で心が満たされ、先の不安が全く消えたと。明日は委ね
て、今日、精一杯感謝して生きよう。
---------------
具体的な計画ではなく、漠然と明日を心配しネガティブになるのは
今日を無駄にしてしまう。今日の恵みに目を向けてみよう。まだ気
づいていない恵み、感謝していない恵みはないだろうか。


2019年03月05日(火)

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:29



信仰人生において「何で?どうして?」という不意の出来事が起こ
る。突然の辛い、苦しい状況に、何がどうなっているのかわからな
い。ただただ苦しいばかりだ。だがエレミヤ29:11にあるように、
決して災いは無い。目の前の苦しい事態は、平安と将来と希望のた
めのものだとある。必ず「平安」の地に着地する。

渦中ではわからないが、後になって、パズルがつながるように、神
のご計画を知ることになる。「くじは、ひざに投げられるが、その
すべての決定は、主から来る」とあり、すべての出来事に、神の支
配と主権がある。主が決められた通りに成っている。

「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ち
ることはありません」とあり、父の許しの中で起きている。そして、
理解を越えた事態に遭遇するが、「神がすべてのことを働かせて益
として下さる」その事に神が関与して下さる。しばしば、自分が思
う最善が成ると勘違いするが、そうではなく、神が私たちのために
思われる最善だ。

それは、自分の思いと大きく違うかも知れない。しかし自分にとっ
てベストで良いことだ。その益は、自分がどんなにぐじゃぐじゃで
も、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」御
子のかたちへと変えて下さる「益」だ。何と嬉しいことだろう。 
------------
御子の形に変えて行くためとご計画の目的は知らされている。問
題を通して何を学べばいいのだろう。何を捨てて、何を受けるのだ
ろう。主はもう一歩信仰へと進ませてくださる。


2019年03月04日(月)

「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23




ある人が、主に在る友と話していて、議論になってしまった。議論
が高じて争いになり、言い合いになって行った。自分が正しいと主
張して行き、相手への攻撃になってしまった。気まずい思いでその
場は別れた。重い心で帰宅した。その日は奉仕の準備があったのだ
が、まず祈れない。平安が無い。

時間は過ぎるがどうにもならず、奉仕の準備など出来ない。とにか
くあるがままを祈る事にした。祈れないこと、平安がないことを正
直に、主に打ち明け祈った。すると心が照らし出された。やはり議
論になると相手を打ち負かしたい思いでいっぱいになり、負けたく
ないと思うこと、勝ちたい。

自分は正しい、相手は間違っていると思っているので、きつい言葉
が出てしまうこと、そこに愛もへりくだりも全く無く、高ぶってい
たこと・・自分の姿が映し出された。悔い改めに導かれた。悔い改
めた時に、重苦しく平安の無かった心が、変えられて、平安が満ち
た。そしてどうしても相手に謝りたいと思い、すぐ電話をして詫び
た。

実は相手も謝る事を示されていて、双方で主の御名を崇めた。平和
が戻った。その後、その奉仕の準備は御霊に力強く導かれて、素晴
らしい祝福の結実を見た。対人関係で平安が無いなら、祈ろう。そ
して和解が導かれているなら、仲直りをしよう。
-------------
対人関係、心の内に怒りを隠したままでも外側は平然と付き合うこ
とが出来る。しかし、主はそうではなく和解しなさいと言われる。
主の前に正しく生きよう。まず相手のために祈ってみよう。


2019年03月03日(日)

「三百人が角笛を吹き鳴らしいる間に、主は、陣営の全面にわたっ て同士打ちが起こるようにされた」士師7:22


ギデオンが勝利を得たのは、非常に不思議な方法だった。いなごの
ように大勢のミデヤン人やアマレク人に対して、ギデオンの兵力は
32000人だ。しかし、それでもまだ多いと言われ、何と減らされた
のだ。尚も減らされ、最後にはたったの300人までになってしまっ
た。いなごのような大群に対して、たったの300人。

その理由が、イスラエルが自分の手で自分を救ったと言い、神に向
かって高ぶるといけないからと。神に栄光が帰されるためだった。
そして武器も不思議で、角笛、からつぼ、たいまつだった。300名
の人々が一斉に角笛を鳴らし、からつぼを砕き、左手にたいまつを
握り、右手に角笛を握って、「主の剣、ギデオンの剣だ!」と叫ん
だ。

ミデヤン人は驚き、非常に動揺し混乱してしまった。角笛を吹き鳴
らしている間に、主がミデヤン人の陣営全面に渡って、同士討ちが
起こるようにされた。神の介入があり、神が奇跡をされた。いなご
のように大勢の敵に対して、味方はたったの300人だ。ギデオンは
「主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった」と約束をも
らっていた。

主はすでに勝利を約束して下さっている。そこに立ち、御言葉を握
りしめ、あくまでも御言葉にとどまり、とどまり続ける事が大切だ。
そして言われた通りに、従うことだ。状況を見るのでなく、神の約
束を握り続け、信仰に立つ時、神が介入して下さる。人数でなく、
能力でなく、勝利は主によってもたらされる。

・・・・・・・・・・・・・・
この世の常識では、32000人と300人の兵力では、32000人の方が有
利に決まっている。しかし主が共におられる事と、主のお心がすべ
てだ。どんな方法ででも勝利を与えて下さる。「権力によらず、能
力によらず、わたしの霊によって」と。自分の考えでなく、主に従
おう。


2019年03月02日(土)

「彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえ よう」と言った」創世記29:35


レアは、ずっと妹ラケルと比較、嫉妬に生きてきただろう。ヤコブ
との結婚によって、ますます劣等感が強くなって行った。ヤコブの
愛をどれだけ切望してもあがいても得られない。ヤコブの愛はラケ
ルにある。そんなレアを主は憐れまれた。それでレアの胎を開かれ
た。「ルベン」と名づけ、主が悩みをご覧になったと言った。

ルベン誕生により、夫の心が自分に向き、愛してくれるだろうと思
った。しかし、決してそうはならなかった。第二子のシメオン出産
は「主は私が嫌われいるのを聞かれて」とレアが神に祈った結果だ
った。そして次々と産み、最後はユダ「主をほめたたえよう」と名
づけた。長い時間と共に、目の前の苦しみでなく、主を見上げるよ
うにレアは変えられて行った。

これまで自分の容姿等をラケルと比較して、劣等感にさいなまれ、
また夫がラケルを愛し、自分には気持ちが無いことで悩み苦しみ抜
いた。しかし主を見上げた時、変えられた。レアの女奴隷が男児を
産んだ時は、アシュルと名づけ、レアは「なんと幸せなこと。女た
ちは、私を幸せ者と呼ぶでしょう」と言った。

私たちは何を学べるだろう。レアはずっと劣等感で生きて来て、又、
夫は妹ラケルを愛していて、夫の愛をどんなにあがいても得られな
い境遇にいた。満たされない、辛い、寂しい状況だ。そんな中で、
レアは神に向き、神の愛と憐れみに目を向けて行った。神は、レア
の不幸な境遇により、ご自身に近づけられた。私たちも、悩み、問
題を通して神の愛を知って行ける。

・・・・・・・・・・・・・
レアは孤独で寂しく満たされない境遇にいた。しかし、その思いや
気持ち、状況を主のもとへ持って行った時に、解決を得た。人でな
く、境遇でなく、主ご自身で心が満たされた。方向が違うと決して
心は満たされない。主に向かおう。


2019年03月01日(金)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2



この世は、「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」「五穀豊穣」で
あり、信心はそのためであって、悪い事、負の事が無いためだ。こ
の世は都合良い事が善、不都合な事が悪だ。しかし主は、すべてが
感謝であり、善い事だと。一見、負の事柄も、私たちに良い事とし
て、訓練として与えて下さっている。私たちの益のため、成長のた
めと。

そして「ご自分の聖さにあずからせようとして」懲らしめると。だ
が、それを訓練として受け入れなければ、ただ辛く痛いだけで何も
学ぶ事がない。早く過ぎ去って欲しいばかりだ。又、逆に反抗し、
心を屈折させてしまう。何度痛い所を、試練を通っても、何も変わ
らない事があり得る。それなら同じ失敗を繰り返すばかりになる。

主のお心は、私たちが成長し、豊かな実を結んで行く事だ。私たち
をキリストのかたちへと変えて下さる事だ。ある人が、「今、試練
が次々に来ています。だが、自分はただしゃがみ込んで、頭をおお
っているだけです。通り過ぎて欲しい、逃れたいばかりです。

でもそうじゃなくて、この事を通して、私を霊的に成長させたい、
もっと主に近づけたいと思っておられるとわかります。この試練を
しっかり受け止める事が出来るよう、そして何を教えて下さりたい
のか、この事でのメッセージは何なのか、求めて行きたいです」と。
試練は悲しいが、必ず平安な義の実が約束されている。痛いが、受
け止めて行けるよう祈ろう。
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包み隠せない心を注ぎだして試練の時には祈る。主と一時も離れず
結びついているのが試練の時ではないだろうか。結果がどうであれ、
主への信仰が深められて試練のトンネルを抜けたい。