2019年04月30日(火)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。なぜなら神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」Tヨハネ5:3



私たちは誰しも、主に従って歩みたいと願う。そのため、職場で近
隣で、嫌な相手と遭遇すると「愛さなくては」「受け入れなくては」
と思う。嫌い、憎むと平安が失せて、気持ちが辛くなる。だから余
計に愛さなくてはと頑張る。だが幾ら頑張っても愛せない。愛そう
とすればするほど、ますます嫌いになる。嫌な感情は無くならない。
平安も無い。

苦しくて祈る中で、肉で、自分の力で頑張っていると気づかせられ
る。気づくのだが、又、自分の力で頑張っている。肉はどこまでも
強固で根深い。何度も同じ事を繰り返し、自分の力でやれば、やる
ほど失敗する。やがて疲れ果れ果ててしまう。そんな私たちに、主
は「疲れた人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがた
を休ませてあげます」と言われている。

幾ら頑張っても出来ませんと、主の前に認める時に、肩の力が抜け
て、ふうっと心に安堵が来る。自分が頑張るのは、出来ると思うか
らで、心の底では何とかなると思っている。出来ない自分を心底認
める時に、初めて不思議な平安が来る。主のもとに行く時「休ませ
てあげます」の通り、肩の荷を下ろして、心に平安が広がって行く。

そして「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と。主
が共に負って下さっているので、決して重荷とはならない。主と共
に御言葉を行なって行ける。そこには御霊の喜びがある。疲れてい
るなら、主のもとへ行こう。まず、ありのままを告げることから始
めよう。
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御言葉に従うことは良いことなので、疲れても頑張ってしまう。肉
の力に頼らなければ自分は終わりだと思っていないだろうか。主を
頼って重荷を預けよう。主を愛するありのままの自分でいよう。


2019年04月29日(月)

「その子どもの手を取って『タリタ、クミ』と言われた・・すると少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた」マルコ5:41



ヤイロの娘が危篤に陥った。どんな医者でもだめだった。主なら必
ず癒して下さる、そう信じたので、ヤイロは遠距離を急ぎやって来
た。主にひれ伏し必死に願った。娘が死にかけているので来て欲し
いと。主は共に出かけられた。一刻をも争う。心は焦る。そんな時
に妨げが入った。長血の女性が癒しを求めて来たのだ。

主は、その女性を受け止め、対応され、手間取ることになる。どん
どん時が過ぎる。ヤイロは気が急いた事だろう。そんな最中に、決
定的な事態が起きた。家から人が来て、娘は亡くなったと告げた。
主に来て貰う必要はないと。絶望的な状況だ。死んでしまったのだ。
病気なら治るが、死だけはどうにも出来ない。何もかもが決定的に
断ち切られてしまう。

しかし主は「その話のことばをそばで聞いて」とあり、別訳では
「その話している言葉を聞き流して」「注意を払わず」「無視して」
と。主の言葉をかけられた「恐れないで、ただ信じていなさい」。
目に見える所、人の言葉は「亡くなった」「先生を煩わすことはな
い」であり、主の言葉は「恐れないで、ただ信じていなさい」だ。

聞き流す言葉と、聞くべき言葉がある。そしてヤイロの娘は、死を
くつがえされ、命を与えられた。今、絶望的状況だろうか。目の前
の状況に飲み込まれるのでなく、主の言葉を聞こう。「恐れないで、
ただ信じていなさい」、必ず事態を御心へと導かれる。
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御言葉を信じて待つ間にも、恐れや疑いが猛烈に襲ってくる。だか
らこそ、恐れないでと主は言われる。待ち望んでいる祈りは既に聞
かれている。聞くべき主のみ言葉だけを受け取り、希望をもって、
ただ信じていよう。


2019年04月28日(日)

「イエスは彼らに言われた。『さあ来て、朝の食事をしなさい』」 ヨハネ21:12



ペテロは、主を呪いをかけてまで否み、裏切るという大罪を犯して
しまい、心はどんなものだったろう。主からガリラヤに行くよう伝
えられ、故郷に戻ったペテロや弟子たち。どんな顔で会えばよいの
か。合わせる顔がない。自分はもう弟子失格で、心はどんなに重い
ものだったろう。何もなすすべなく自分に出来ることは漁しかない。

それでペテロがその漁に出ると、他の弟子たちも一緒に出る。しか
し魚は一匹も捕れない。無力感、虚脱感にいただろう。魚も捕れず、
ペテロは、自分の人生の大失態が脳裏から離れず、思いはそこでい
っぱいだったろう。大好きな主を裏切り、主を捨ててしまった自分。

しかしそんな彼らに、主の方から、夜が明けそめた時、岸べに立た
れた。そして「右側に網をおろせ」と。それを主とはわからず、た
だ岸にいる人に言われる通りにすると、何と驚くばかりの大漁だっ
た。全く同じ光景が以前にもあった。それと重なり、「主です!」
と気づいた。

ペテロが主に召されて従った時のあの原点だ。ペテロは、もう一刻
も早く主のもとへ行きたいと、湖に飛び込んだ。三度否んだペテロ、
主を捨てて逃げ去った弟子たち、主はその心の挫折、後悔、傷みを
ご存じであった。主の方から弟子たちに朝の食事を用意し、ペテロ
を回復させられ、もう一度立ち上がらせられた。

私たちの信仰生活のどんな真っ暗な中でも、「夜が明けそめた時、
イエスは岸べに」立っておられる。そして主の方から、朝の食事を
振る舞って下さる。主の愛とあわれみは尽きる事がない。

・・・・・・・・・・
主の愛は、こちらがどんな状態であれ、不変だ。主のご性質が愛だ
から。なかなかそれがわからず自分の方から遠ざかってしまう。資
格の全く無い者に与えられるのがあわれみだ。主のあわれみは尽き
ることがない。今日も「さあ来て、朝の食事をしなさい」と。


2019年04月27日(土)

「もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、確かに、明け 方までにナバルには小わっぱひとりも残らなかったであろう」Tサ ムエル25:34



ダビデは、サウル王に絶えずつけ狙われ、逃亡生活にあった。部下
は600人になっていた。ナバルと同じ地域で生活していたので、普
段からナバルの家畜を盗賊や野獣から守ってやっていた。そんな事
もあり、祝いの時に、ナバルに使いを遣わし、報いとして食糧を頼
んだ。ところが愚か者のナバルは、ダビデを侮蔑し、拒絶した。激
怒したダビデは400人の部下を従え、報復に向かった。

すぐにしもべが、この事をナバルの妻アビガイルに告げた。そして
ダビデたちが事実良くしてくれ、守ってくれていた事、このままで
は、皆殺しにされると。その時、聡明なアビガイルは的確な判断を
し、急いで莫大な贈り物を用意し、ダビデのもとへ駆けつけた。

地面にひれ伏し、夫の罪は自分の罪である事を謝罪し、へりくだり、
報復を思いとどまるよう進言した。ダビデも、素手でひれ伏し、謝
罪する女性を前に、激高していた感情がくじかれてしまう。莫大な
贈り物で誠意も示され、思いとどまった。ダビデは、アビガイルの
進言により、肉で復讐する事から守られた。

神がアビガイルを遣わされたと、ダビデもそこで神を見る事ができ
た。同様に御霊は私たちに進言して下さる。御言葉を通して、時に、
心に働きかけ思いを通して。祈っている時に、この事はこうすれば
良い・・と思いが浮かぶ。ある時は人を通して、助言や忠告を通して。
肉はどこまでも自己中心に動いて行く。自分の思いを遂げようとす
る。だが、御霊の進言に従うなら、御心を歩めて、神の栄光を拝す
る事になる。

・・・・・・・・・
アビガイルの的確な判断と機敏な行動で、ダビデは罪を犯す事から
守られた。ダビデは進言を受け入れた。私たちも絶えず御霊が声を
かけ、環境を閉じ開きし、御心へと導いて下さっている。素直に耳
を傾け、従えるよう祈っていよう。サタンから、罪から守られる。


2019年04月26日(金)

「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」T列王 19:3


エリヤはバアルとの戦いで、大勝利を遂げた。しかし、怒ったイゼ
ベルはエリヤ殺害命令を下す。するとその途端、エリヤは恐怖の余
り逃亡し、何と死を願ったのだった。エリヤは、偶像の神とあんな
に勇敢に戦い勝利したのに、何を怯えるのか?と不思議に思うが、
霊の敵を相手に、この上ない厳しい激しい戦いに心身消耗しきって
いた。人間は無限でなく、身体的、心的に容量があり、限度もある。

又、霊的大勝利の後が、特に要注意と言われている。勝利に歓喜し、
安堵し、油断してしまう。油断が大敵だ。又、高慢になってしまう
場合もある。そこにサタンがつけ込み、牙をむく。成功の後こそ、
身を引き締め、へりくだって、ますます主に拠り頼む必要がある。

あの信仰の勇者エリヤが、怯えた原因は、イゼベルの言葉だった。
主の言葉でなく、イゼベルの言葉の方を受け入れてしまった。聞く
べき言葉と、聞き流し、拒否すべき言葉がある。言葉によって、心
が動かされてしまう。私たちはどの言葉に聞いているだろう。神の
言葉か、サタンの言葉か。

神はエリヤを責めも、叱りもされず、休息させられた。深く眠らせ、
食事を与え、十分休ませられた。心身消耗しきっている時は、まず
休息が大切だ。十分な睡眠と食べ物で、すっかり回復したエリヤは、
ホレブの山に行き、ほら穴にいた。

主は、山の上で主の前に立つように命じられた。そしてかすかな細
い声に耳を傾けて行くと、神はエリヤの、もう自分一人になってし
まったとの思い込みを正し、まだ7千人が残されていると。そして
新たな使命を授けられた。エリやは主の細やかな配慮と手厚いサ
ポートにより、再び、神の使命を果たすために立ち上がる事ができ
た。

・・・・・・・・・・・・
自分で自分を救おうとする途端に、不安、恐れ、思い煩いに襲われ
る。自分で救おうとせず、主のもとに行き、心の何もかもを告げ、
自分自身を主に委ねる時に、心は平安にされ、主が救って下さる。
そしてそこに主の栄光が現され、更に主を知ることとされる。


2019年04月25日(木)

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を 正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」詩篇50:23



ジョニーという女性の証しがある。彼女は、水泳の飛び込みに失
敗し、脊髄を傷めるが、何とか命だけは取りとめた。しかし一生身
体は動かないとの宣告を受ける。その時に絶望のどん底に陥り、死
を求めた。

「鏡に映る姿はとても人間ではない。窪んで落ち込んだ2つの眼球
は、血走ってどんよりしていた。36キロの身体は、黄疸で黄色い皮
膚に覆われた、がい骨だ。不気味に太った頭、歯も薬物治療のため
黒い。とても生きて行けない」。ただただ絶望しかなかった。

しかし周囲の祈りの中で、少しづつ励まされて行く。時を経つつ
「神がどう見ておられるかが大切。人がどう見るかは問題ではない。
人でなく、神からの価値だけを考えよう」との励ましの言葉に、自
分が神の似姿に造られた事に目が向いた。自分のこの身体、格好、
能力、出来る事、出来ない事、自分で自分がどう見えたとしても、
信仰に立とうと、その時に決心した。

そして「信仰により」自分のこの身体を神に感謝する事にした。す
るとパズルが埋まるように、すべてのものをふさわしい場所に置く
よう助けられた。そして、より良く神に仕え、より幸せになれるよ
うに、神がこの身体を与えられたと、受け取れるように変えられた。
奇跡だった。

この事が無ければ最後まで、神無しで、自己中心に生きていた人生
であったろうと、神が特別に自分に関与して下さった事に感謝した。
今、喜びがあり、幸せで、自分を他のものに変えたいと全く思わな
い。感謝する事は、今の状況に神を認める事だ。感謝する時、神が
働かれ、心にみわざをされ、更に感謝に溢れる。

・・・・・・・・・・・
主は、すべての事を感謝せよと言われる。ご計画があり、最善しか
されない。万事益で、災いは無く、すべては将来と希望と平安のた
めのものだから。わかるが感情がついて行かない。だが感情は置い
て、信仰により感謝して行く時、まず心が平安に変えられて行く。


2019年04月24日(水)

「ことばと口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛 そうではありませんか」Tヨハネ3:18



困っている人がいた時、又、助けを求めて来た時にどうだろう。良
きサマリヤ人の箇所の、祭司やレビ人のように、関わるのが嫌で逃
げてしまうだろうか。時間を取られたくない、又、予定外の仕事が
入るのが面倒で、労力も経済的犠牲も払いたくない。だが、困って
いる者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶ時に答えられない、と
ある。

人は普段、無意識にも、自分が聞きたい言葉だけを聞いていると言
われる。聞きたくない言葉には耳をふさぐ。だから聞こえない。そ
して聞かなかった事にすれば、悩まずに済むし、責任も感じなくて
済む。だが、御言葉によると、困っている人の必要を無視すると、
自分が呼ぶ時に答えられないと。

自分の祈りが聞かれなくなってしまう。事は重大だ。「自分の心に
責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、求めるもの
は何でも神からいただける」。行ないを伴って愛する時、自らの祈
りが聞かれて行くと。そして主との間に妨げがないので、御霊の喜
びと平安に満たされる。この平安は何ものにも代えられない。

神は、私たちが、すべての事に満ち足りて、すべての良いわざに溢
れる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに与えて下さる。
従うなら経験する。自分に出来る事でさせて下さる。犠牲を払う事
を嫌がる気持ちをそのまま告げて、主の助けを祈ろう。従う時に、
自分自身が主を知る大きな恵みの時とされる。

・・・・・・・・・・・・・
困っている人に耳を閉じる時、自分が呼ぶ時に答えられない、と祈
りの生活に関わから、大変重大だ。祈りに直結して来る。肉は、労
力の要る事、犠牲が必要な事に関わりたくない。だが御霊に従う時、
平安と喜び、大きな祝福にあずかる。従って良かったと必ず思える。


2019年04月23日(火)

「すると彼は見えるようになって『人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます』と言った」マルコ8:24 



ベッサイダで、人々が盲人を連れて来て、主に触って下さるよう願
った。すると主は盲人の両眼につばをつけ、両手を彼に当てられた。
「何か見えるか」と問われると、彼は「人が見え、木のようだが、
歩いているのが見える」と言った。見えるのだが、はっきりとは見
えない。人が木のようにぼや〜としていた。

見えるようになりつつあるが、まだ十分でなかった。そこで、主が
もう一度両手を彼の両眼に当てられた。そして彼が見つめていると、
すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。癒さ
れた。主に直接触れられた時に、ぼんやり見えるようになり、彼が
「見つめて」いた時に、「はっきり」鮮明に見えるようになった。

私たちはどうだろう。主を見つめているだろうか。じっと見ている
だろうか。忙しくて、じっと見る余裕など無いだろうか。主が、何
だかぼんやりしているのは、そのためだろうか。デボーションも、
なすべき事が気になり、心が座らず、立ったままだろうか。主は彼
の目を開かれたように、私たちの見えない心の目も開いて下さる。

御言葉により触れて下さり、ぼや〜としていたのが、少しづつはっ
きりとするようにして下さる。主が見えるようにして下さる。彼は、
ぼんやりした中も、失望せずじっと見続けた。今、まだよく見えな
くても、御声に耳を傾け続けよう。時間をかけながら、主は必ず少
しづつはっきり見えるようにして下さる。なすべき事は見つめ続け
る事だ。
-------------
朝にデボーションをしても、いつの間にか自分中心の歩みで終わっ
てしまう。一日の終わりに顔を出すのは自我ばかりではないだろう
か。主を求めよう。じっと見続け、御声を聞き分けていよう。


2019年04月22日(月)

「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」出エジプト40:35



出エジプト記は、ヨセフを知らない新しい王が、民を苦しめるとこ
ろから始まる。民は苦役にうめき、叫び、その苦しみの叫びは神に
届く。そして記事の最後は「主の栄光が幕屋に満ちた」で終わって
いる。主は幕屋を作るように命じられた。「わたしのために聖所を
造るなら、わたしは彼らの中に住む」と。

それはアロンとアロンの子たちを祭司として任命し、聖別し、その
所で、罪のための全焼のいけにえを献げさせるためであった。律法
を与えると同時に、律法が示す罪への解決、罪のための贖いを備え
られた。そして幕屋は、彼らの間に住むために与えられたと。

神が、民の間に住むことが、民をエジプトから出された目的だと言
っている。「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住
むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知る
ようになる。わたしは彼らの神、主である」と。苦難のエジプトか
ら出されたのは、主が民と共に住むためであった。

新約では「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」そして
「この方の栄光を見た」と。また「わたしにとどまりなさい。わた
しも、あなたがたの中にとどまります」、「わたしはぶどうの木で、
あなたがたは枝」と。「とどまる」=「住む」、主と一つであると。

そして将来の最終的、新天新地で「見よ。神の幕屋が人とともにあ
る。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」と。苦役の奴隷
であった民、罪の奴隷であった私たちが救い出されて、主が住まわ
れる。何という光栄、喜びだろう。
-------------
主は誰よりも身近におられ、語り祈りを聞かれる。朝ごとに主の前
に立てることは何と感謝だろう。そしていつの日か朽ちない身体で
主に見える日が来る。


2019年04月21日(日)

「主よ。その通りです。ただ、子犬でも食卓から落ちるパンくずは いただきます」マタイ15:27


異邦人の母親、娘が悪霊につかれていて、必死の思いで、主に助け
を叫んだ。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんで下さい」。この
全身の叫びに、求めに答えられる主は、応じて下さるのではと思う。
だが何と主は「一言もお答えにならなかった」。沈黙されたままだ。
無視された状態だが、彼女は諦めず、尚も叫び続けついて来た。弟
子たちは、余りの様に、帰して欲しいと主に願った。

それに答えて「わたしは、イスラエルの羊以外のところには遣わさ
れていない」と。すると彼女はそれを聞いて「ダビデの子」を抜い
て、尚も、ひれ伏して求めた。カナン人はイスラエルではない。
「ダビデの子よ」と言う権利は無い。彼女はへりくだって正しい位
置に立った。

すると次に主は「子どものパンを子犬に投げてやるのはよくない」
と言われた。何と冷淡なと思いそうだが、そうではない。主は、彼
女が正しく求められるように、導いておられた。彼女は、主の前に
へりくだった。「主よ。その通りです」と認めて「小犬でも食卓か
ら落ちるパンくずはいただきます」と求めた。

主は必ずあわれんで下さると信じたからこそ、決して引き下がらず
諦めなかった。小犬がもらえる恵みを願った。その時、娘は直った。
そして主は彼女の立派な信仰に驚かれた。主のあわれみを、愛を、
主の力を信じたからこそ、ひるまずに求める事が出来た。求めが自
分の頑張りでなく、どこまでもへりくだる態度と、主への信頼であ
った。

・・・・・・・・・・・・・・
拒否されたかに見えても、その通りですと、どこまでもへりくだっ
て、求め続けた。決して引き下がらず、諦めなかった。それは、主
が必ずあわれんで下さると信じたからだ。信じなければ求めないし、
途中で止めてしまう。これを立派な信仰と、主は感嘆された。


2019年04月20日(土)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたこ とです」マルコ4:40


夕刻になって、主は「向こう岸に渡ろう」と言われた。舟に乗り込
むや、主は疲労のため、とものほうで熟睡された。その時に、大嵐
に会い、弟子たちは右往左往、パニックに陥った。舟は波をかぶり、
水で溢れ、このまま行けば沈没だ。自分たちは溺れ死んでしまう。
嵐も慣れているであろうベテラン漁師たちが身の危険を感じるほど
の大嵐だった。しかし主はそんな中、全き平安の中で安心して眠り
続けておられた。

弟子たちは「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないの
か」と屈折した不満をぶつける。しかしそんな弟子たちのために、
まず主は「黙れ、静まれ」と風をしかりつけ、湖を静められた。主
の一言で大なぎになり、弟子たちは非常に驚いた。

その後で「信仰がないのはどうしたことです」と言われた。問題は
嵐でなく、不信仰にあると。主は「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
途中で何があろうと必ず渡れる。一言で風がやみ、なぎにされた主
だ。その主が同乗の舟が、沈む事など100%あり得ない。嵐の問題
でなく、御言葉を信じられない不信仰が問題だった。

どうしても状況や相手が問題だとしか見えない。が、目の前の状況
や相手でなく、御言葉に立てていない事が問題だ。私たちもどうだ
ろう。目の前の状況に右往左往で、嵐にほんろうされ、主と御言葉
が飛んでしまっているだろうか。主の言葉は必ず成就する。その通
りになる。嵐の中も、目の前の嵐でなく、主の言葉の方を見て、御
言葉を握って、信じていよう。

・・・・・・・・・・・・・・
試練では目の前の状況しか見えなくなり、舟が沈むと思う。何もか
もだめになると。状況を変えようと苦闘する。その間、主が飛んで
しまっている。状況から目を離して、見上げよう。主の御心は何か、
主は何を教えて下さっているのか、そこに焦点を当てて、祈ろう。


2019年04月19日(金)

「・・神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです」Tテサロニケ2:13



聖書を読む時、どうだろう。「愛している」「慈しみ深い」「あわ
れみは尽きない」「高価で尊い」「赦されている」「罪しない」そ
んな御言葉は、非常に心地良くて大好きだが、弱さ、醜さ、罪を指
摘されたり、矯正されたり、悔い改めよとの御言葉は、痛くて避け
てしまうだろうか。つい耳をふさいでしまう。

だが心地良い言葉、自分に都合の良い言葉だけを求めるなら、成長
する事は出来ない。いつまでも幼な子のままだ。私たちの成長は、
神の言葉にかかっている。御言葉が気持ち良く、感動的だからでな
く、都合良かろうが、悪かろうが、正面から受け止めて行くところ
にある。神の言葉によって内側が変えられて行く。

人間の言葉でなく、神の言葉として厳粛に受け止めて行く時、心が
変えられ、そして必ず生活が変えられて行く。神の言葉は、種その
ものだ。心に素直に受け入れられると、発芽し、花が咲き、実がな
る。しかし決してオートマティクではない。種を素直にしっかりと
受け入れる、受け入れ側、土壌が大事だ。その時にだけ、種は働い
て、実を結ぶ。

「この神のことばは、信じているあなたがたの内に働いているので
す」とあり、逆に言えば、神のことばを信じなければ、働く事がで
きない。信じる者に働くことになる。痛いと避けて、スルーしたく
なるが、神の言葉を素直に受け入れられるよう祈ろう。そして一つ
一つの示しに従って行こう。その度に神のみわざを見、そして信頼
関係が深められて行き、成長して行ける。
--------------
与えられた御言葉を頼っていく時に経験する御言葉のいのちと力は、
耳に痛い御言葉でも同じのはず。無理だと流す前に主にできません
と祈りにもっていこう。


2019年04月18日(木)

「ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちからいのちに至らせるかおりです」Uコリント2:16



救われた私達は、人々の救いのために福音を伝えて行く。また証し
をして行く。私たちの言葉を通して、人々にキリストを伝えて行け
る。そのために自分自身が、主に従う生活が何よりも大切だ。主に
従う時に、単なる知識でなく自分自身が主を知り、通り良き管とし
て用いられる。

人々は口先の言葉でなく、信仰者の実際を凝視している。それが自
己中心でわがままなら、正反対の香りを放ってしまう。又、御霊に
導かれて語った時も、ある人には命に至らせ、ある人には死に至ら
せるとある。太陽は一つだが、その同じ太陽が氷を溶かし、又、粘
土を固くする。一つのものが全く正反対の結果をもたらす。

神の言葉は、受け入れる人々には永遠の命を与え、拒む人々には永
遠の死という、極めて厳粛な結果をもたらす。喜んで聞く人々もい
れば、サタンの支配下であるこの世において、聞くのが嫌な人々も、
拒否する人々もいるだろう。その事で恐れる事はない。「あの人と
いると、何だか安らぐ」「彼には元気がもらえる」「彼女には悪口

が無く、噂話が無い」「彼女の口からゴシップを聞く事がない」
「落ち込んだ時に、彼と会うと何だか不思議に前に向ける」・・日
々家庭で、学校で、職場で、どんな香りを放っているだろう。周囲
に何かしらの影響を及ぼして行く。日々に、主を信じ、委ねて歩ん
で行く時、主が私たちを命に至るかおりとして下さる。
-------------
主はどのように自分の中に生きて働かれているのか。証しして歩み
たい。救われ、新たにされた者として主のかおり、息吹はもう吹き
込まれている。委ねた喜びをもってこの世を歩みたい。


2019年04月17日(水)

「ペテロは・・『たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません』弟子たちはみなそう言った」マタイ26:35



ペテロは、「全部の者があなたのゆえにつまずても、私は決してつ
まずかない」と豪語した。「私は」どこまでも従う。たとい死ぬ事
になったとしても、「私は」あなたを知らないなどと決して言わな
い。「私は」大丈夫との自負。ペテロは自分に自信があり、自信満
々であった。「自分は」他の者たちとは違う、そこに高ぶりが潜ん
でいた。そして他の弟子たちも同じで、皆そう言った。

その時の彼らの気持ちではあった。しかしそのしばらく後、主が捕
えられた時「弟子たちはみな、イエスを見捨てて逃げてしまった」。
ペテロの裏切りは有名だが、弟子たちも皆逃げた。皆がつまずいて
も自分だけは違うと断言していたペテロは、呪いをかけて誓ってま
で否んだ。ペテロは自分の弱さを知らなかった。本当の姿が見えて
いなかった。

私たちもペテロの姿は見ることができるが、自分の本当の姿は見え
ていない。主はペテロの弱さをご存じで、取り扱われた。ペテロを
「岩」とされる過程だ。将来のリーダーとして見据えておられた。
苦しい試練の中で、「信仰がなくならないように、あなたのために
祈りました」との主の執り成しがあり、守られた。

私たちも取り扱われる。試練は苦しく、厳しいが、その中でこそ自
らの弱さを知る。順境の中では決して知る事のない弱さだ。砕かれ
る。その中で主の愛は変わらず、手厚いケアがあり、そこで新たに
主を知る。そこで信仰が培われ、成長が与えられて行く。
-----------
手痛い失敗によって本来の自分を知り、ますます主に頼れるように
されることが試練に打ち勝つことではないか。失敗から目を背けず、
そこから与えられる信仰を受け取ろう。


2019年04月16日(火)

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」ルカ23:34



ある働き人が、若い神学生時代に、友人の学生たちとの間にトラブ
ルが起きて、言い争いになった。喧嘩ごしになってしまい、険悪に
なり口もきかない状態になってしまった。互いが皆、自分は正しい
と思っている。自分自身も怒りが沸き、腹が立って仕方がない。

敵対心や赦せない思いで、悶々となり、自分は間違っていない。自
分は正しい。相手が間違っている。自分は傷つけられた。その思い
で一杯で、怒りは収まらなかった。数日後、メッセージ当番が回っ
て来た。こんな苦々しい思いの状態で、メッセージの準備など出来
るはずもない。

しかし赦せない。段々、せっぱ詰まってきて、悶々だ。とうとうど
うしようもなく、祈ろうと主の御前に出た。ハンナのごとく、苦し
い思い、いら立ち、怒り、敵対心・・ことごとくありのまま告げた。
心を吐き出し、じっと主の御前にいた。長い時間が過ぎたが、その
時に、主の十字架が自らの前に、くっきりと浮かんだ。

罪の無い主が、黙って罪を負っておられる。自分は、相手の事など
考えもできず、主も、御言葉もすっ飛んで、ただ「自分」「自分」
「自分」。自己主張に、自己憐憫、自己正当化、自分の気持ち。
自分しか無い。十字架の主に涙が溢れ、心から悔い改めた。悶々
がきれいに消えて平安になった。

仲間たちに謝った。すると相手も謝ってくれて、和解ができた。何
をしているのかわからず、道をそれる時にも、主は正しく導き返し
て下さる。悶々状態の時には、十字架の主のもとへ行こう。
------------
苦しい胸のうちを主に訴えると、そこから次の段階へ必ず進める。
すぐに自分しか見えなくなる者だが、主の平安を求め、最後は自分
自身を変えてくださいの祈りへ向かいたい。


2019年04月15日(月)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます」詩篇18:28



誰しも経験するが、素直に聞けない御言葉があるだろうか。何だか
耳が痛いので、聞きたくない。目をそらせてしまう。その言葉には
触れたくない。距離を置いておきたい。そんな時、心は嫌がるが、
向き合うことが大切だ。その御言葉が「どうして嫌なのか」「なぜ
聞きたくないのか」を考えてみよう。突き詰めてみよう。御霊が心
を探って下さる。

その中には、自分ではわからない、決して気づけない問題があって、
その御言葉こそが、大きな祝福の言葉で、私たちを成長へと導いて
くれる。実は、うすうす問題に気づいているからこそ、聞きたくな
い。その問題には触れたくない。ふたをしたり、後回し、後回しに
していたい。しかし何かの問題を抱えていて、放っておくなら、更
に根は深くなり、深刻になって行くばかりだ。

内側にあって、無くなるわけではないので、膿んで来る。主は、私
たちのその暗い部分を、光に出し、取り扱い、真の平安に導きたい
と願っておられる。愛なる主の御前に、心を打ち広げ、心を探って
頂こう。何か握り締めていて、主に介入されたくない部分、自分で
もうすうす気づいている部分を、主は取り扱い、導き、心の底から
すっきりさせて下さる。

「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、
暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す」とあり、光のもとに出
る時、闇に光が射し、もはや闇でなくなる。何かもやもやがあるな
ら、まず主に祈ろう。
------------
繰り返し流してしまう、またかと読み飛ばしてしまう聖書箇所は、
もしかしたら自分の問題箇所ではないか。弱さや闇に気づく事は
感謝だ。主からの光を感じる。じっくりと向き合おう。


2019年04月14日(日)

「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪 な行ないがあるからです」ヤコブ3:16


誰しも、これまでの対人関係の中で、敵対心を抱いたり、憎しみや
恨みを持った事はあるだろう。非難、批判されたり、悪口や攻撃を
受けた時に、敵対心を持ってしまう。あるいは、いじめに遭ったり、
理不尽な扱いを受けた時には、相手に強い憎しみを抱いてしまう。
又、自分の罪ゆえ、相手に妬みを持ってしまう事もあるだろう。そ
のような時は要注意、要警戒だ。御言葉が警告している。

もし心の中に、苦いねたみと敵対心があるなら、真理に逆らって偽
ることになると。妬みや敵対心は、上から来たものでなく、地に属
し、肉に属し、悪霊に属するものだと。そして妬みや敵対心のある
ところには、秩序の乱れや邪悪な行ないがある。私たちが、人に対
して敵対心や妬み、憎しみを持っている時には、そこにサタンが足
場を得て、サタンが働いて来るので、言葉や態度にサタンの影響を
受けてしまう事になる。

サタンが絡んできて、憎んでいる相手の事については、正常な判断
が出来ず、正常な態度がとれなくなる。感情的になってしまい、言
葉にトゲが出て、きつい言葉に、悪い態度となって出てしまう。自
制ができずに、サタンに振り回される。恨みや憎悪の苦みが内にあ
るので、判断も歪み、間違ってしまう。

そして問題は気づかない事だ。自分では正当だと思っている。サタ
ンの影響など受けたくない。外に表れる言葉や態度は、心の内にあ
るものが問題だ。まず妬み、憎しみ、敵対心を主のもとに、光に持
って行こう。相手には確かに非があるが、自らの憎しみ敵対心は、
主の御前に罪だ。主との間が損なわれしまう。主にゆだねられるよ
う祈ろう。

・・・・・・・・・・・
もし相手の悪だとしても、自分で復讐するな、主にゆだねよと言わ
れている。「復讐はわたしのすること、わたしが報いをする」と。
憎しみや敵対心をもったままでは、平安が無い。主に明け渡した時
に自分自身は平安にされる。ゆだねることができるように、祈ろう。


2019年04月13日(土)

「ある人がイエスに言った。『私はあなたのおいでになる所なら、 どこにでもついて行きます』」ルカ9:57



主に従おうとする人々が出て来る。一人目は「どこにでもついて行
きます」と主に全面的に従います、何でもしますと言った。しかし、
主は狐には穴、空の鳥には巣があるが、人の子には安心して住める
家さえ無いと言われた。苦労があり多大の犠牲が伴う。喜びと同時
に苦難もあり、覚悟と決心が必要だと。中途半端な気持ちなら、こ
んなはずではないとすぐに止めてしまう。

二人目は、「わたしについて来なさい」と主からの明確な示しがあ
るに関わらず、「まず父を葬りに」と父が亡くなった後にと言った。
ぐずぐず優柔不断であり、従おうとは思うが、結局従う事の無期延
期だ。それなら必ず従わないまま終わってしまう。御霊の示しに、
言い訳や弁解をし、ずるずると引き延ばしをすると、結局従わない
まま終わる。経験あるかもしれない。

三人目は、「あなたに従います」と、主に従うと決心していた。だ
が前進しようとしつつ、後ろを振り返る。捨てたつもりのものに未
練があり、後ろ髪を引かれ、断ち切る事が出来ない。その未練は神
の国にふさわしくないと言われたが、捨てるものへの執着が強くて
断ち切れない。結局従えないまま終わってしまう。

主に従おうとする時には、必ずサタンが来る。従わせないように妨
害する様々な誘惑、攻撃、かせがある。心の内からも、外の環境か
らも妨害がある事を踏まえ、祈ろう。必ず悪魔の妨害が来る事に心
していよう。

・・・・・・・・・・・・
何度も経験する。サタンはとにかく主に従わせたくないので、力を
尽くして妨害してくる。心を萎えさせたり、決して死なないとのエ
バへの誘惑のように、「しなくてもいいよ」と反対の事を平然と言
って来る。御心に従えるよう、助けを求めて祈ろう。


2019年04月12日(金)

「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるよう に、私を生かしてください」詩篇119:156


人の歩みは主が決め、定めておられる。例えば、大会の競技試合や、
又、入試や入社試験は、誰しもどんなに緊張するだろう。普段に、
これ以上出来ないほどの準備を重ねても、必ず結果が出るとは限ら
ない。当日突然、発熱や腹痛で体調を崩すことも、実際にある事だ。

最善の備えをしても、当日の心身の調子や 又、不測の事態がある
かも知れない。当日、緊張の余り、力が入ってしまいミスをし、実
力が十分発揮出来ないスポーツ選手も少なくない。練習量や、精神力
だけではどうにもならない事態を目の当たりにする。思いもよらな
い事が起きて、自分の人生なのだが、自分の思い通りには行かない
事を思い知らされる。

神が主権者なのであって、自分ではないことを見せられる。人間の
力の及ばない領域があり、まさに自分の人生を導く方がおられる事
実を認めざるを得ない。だが、その方は恐怖政治の独裁者ではなく、
愛と慈しみに満ちたお方であり、最善以下は決してされないお方だ。
試練も訓練も鍛錬も通るが、「あなたを苦しめ、あなたを試み、つ
いには、あなたをしあわせにするため」と幸せへと導かれる。

そして願いを聞いて下さる。「願い」を抑え込むのでなく、主に知
って頂けと言われる。なんと嬉しい事だろう。その願いが自分の思
い通りにならなくとも、更に良いものへと導かれる。だから主権者
である主にお委ねすることができる。そこに平安が臨み、どんな時
も平安に生きる事ができる。

・・・・・・・・・・・
主が完全に善い方である事、最善以下はされない事を据えて、信じ
て行く時に、心は守られる。自分が思う最善と主が私たちのために
思われる最善が、しばしばかなり違う。そこで迷い出てしまうので、
思いとは違うが、自分の思いで測れない、主の思われる良いものと
心していよう。そこに信仰が求められる。


2019年04月11日(木)

「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」ルカ18:11



謙遜とは、本当は自分に能力があるが、それを見せびらかさない事、
というふうに思われている。自分に力があるが、それを自慢するの
は品位に欠けると。だが、聖書の言う謙遜とは、御霊の光により、
自らの本当の姿を見せられて、高慢でおれない人々の事だ。本音で
自分は無力だと認めている事だ。

パリサイ人と取税人が祈ったが、取税人は、真に自分の罪深さがわ
かっていた。それゆえ、パリサイ人のように、人と比べる事など思
いも及ばない、人の事など目にも入らない。ただただ、自分と神と
の関係だけがすべてであり、自分の罪だけが見えた。神に自らの赦
しを求め、そして彼は赦された。罪無しとされた。

パリサイ人は、「神よ」と一見祈っているように見えるが、神を見
てはいない。見ているのは、神ではなく、神の前にいる自分だけだ。
徹頭徹尾、自分だけに関心があり、神への祈りでなく、独り言を言
っていることになる。取税人は罪赦されて義と認められ、帰って行
ったが、パリサイ人は何一つ変わらず、来た時のまま、罪を持った
まま帰った。

「ほかの人々のように」「この取税人のように」との、人に向いて
人との比較でなく、主に向いて御言葉に向く時、自分の本当の姿が
照らし出される。「人の内側のものと心とは、深いもの」「人の心
は何よりも陰険で、それは直らない。誰がそれを知ることができよ
う」との内側が照らされ、そして赦される。へりくだった者とされ
て行く。
-------------
このパリサイ人のようではないと思っている傲慢もまた知らなけれ
ばならない。誰一人そのままで主の前に立てない。自分の罪に向き
合い、素直に罪をお赦しくださいと祈りたい。


2019年04月10日(水)

「しかしイエスは言われた『ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います』」ルカ22:34


ペテロは、主が今から十字架にかかられるという時に、主を否定し
てしまった。主を知らないと裏切ってしまったのだ。しかしそれは、
サタンがふるいにかける事を、主が許されたゆえの事であった。そ
して、主はそのペテロの信仰がなくならないように、祈られていた。

試練のペテロの背後に主の祈りがあった。ペテロは以前に、他の者
たちが皆、主を捨てても、自分だけは大丈夫と言い切った。どこま
でも主について行くと。主はその心に潜むペテロの弱さをご存じで
あったが、ペテロは知らなかった。強く、自信に溢れていた。自分
の力に頼っていた。だがその自信は粉々に砕け散った。

「信仰がなくならないように」主は祈られたが、信仰が無くならな
いとは、罪を犯し失敗するが、悔い改めに導かれるという事だ。ペ
テロは悔い改めて罪が赦された。私たちも必ず失敗する。失敗しな
い人は一人もいない。しかし、常に主は執り成していて下さる。だ
から罪を認めて、悔い改める事ができる。そしてその罪は赦される。

ペテロは砕かれ練られ、主の器として整えられて行った。私たちも
今、試練の中にあるなら、砕き、練られ、整えられるためだ。もう
だめだと思う失敗すら赦して、尚も益とされる。そして自分の力で
なく、主に頼る者と造り変えられて行く。
------------------
主と共にいる時は大丈夫、絶対にできると思うが、主から離れると
ペテロのように現実が迫り恐れ退いてしまう。失敗の度に自らの無
力を知らされる。主に頼れる恵みを知っていこう。


2019年04月09日(火)

「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け」使徒9:18



サウロは、殺害の意に燃えて、クリスチャンを迫害し捕らえていた。
それが神の御心であり、正しい事だと信じきっていた。エルサレム
だけでは気が済まず、ダマスコまで追いかけようとした。近くまで
来た時に突然、天からの光が来て、彼は地に倒れた。そして主の御
声を聞いた。「なぜ、わたしを迫害するのか」と。クリスチャン迫
害は、神を迫害することだと。

倒れた地面から起き上がった時、目が見えなくなっていた。サウロ
にとって、何もかもが根底からくつがえされる、衝撃的な出来事だ
ったろう。その後3日間、盲目の状態に置かれ、飲食もせず、真っ
暗闇の中で、サウロは今までの事を考え、今、目の前に起きた事を
考え、これから先を考え、祈りに祈った事だろう。

サウロは「地に倒れた」時に、主の御声を聞いた。主が倒されて、
聞かせられた。私たちは全力疾走の時、周囲の事は見えないし、自
分の事も見えない。行き詰まった時、失敗した時に立ち止まる。疾
走する私たちにも、主は、立ち止まらせたいがために、挫折や失敗、
行き詰まりを通される。そこには主のご計画があり、大きな祝福へ
とつながって行く。

又、今、行き詰まって暗黒状態なら、主は祈らせたい。立ち止まっ
て自らを振り返り、現在の状況を見据え、先について、祈りに祈ろ
う。「そこで、彼は祈っています」サウロは真剣な祈りの中、アナ
ニヤが遣わされ、再び見えるようにされた。「目からうろこのよう
な物が落ち」、私たちも、暗黒を通過後、神がはっきりと、鮮明に
見えるようにして下さる。
-------------
思わぬ出来事により立ち止まるとき、その行く手を遮っているのは
主だ。初めて主に出会った時もそうではなかっただろうか。そこで
主に触れ、全く新しい人生が見えてきた。


2019年04月08日(月)

「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て」Uサムエル7:12



ダビデは、主のためにと神殿建設を願い祈った。しかし主の答えは
「ノー」だった。その願いは退けられ、御心は他にあった。身から
出る世継ぎの子が建設すると。神殿建設は、次世代に委ねられてい
て、その者が一つの家を建て、主がその王座を堅く立てると示され
た。ダビデは神殿建設を望んだが、答えは「ノー」だった。

私たちもこのような事を経験する。自分の心からの願いに「ノー」
が突きつけられたなら、どうだろう。二つの反応ができる。一つは
思い通りにならない事に、やる気が失せ、又、反抗的態度になるか
も知れない。もう一つは、「ノー」を御心と受け入れ、では、主の
御心が成し遂げられるために、自分は何をすべきか、どう動くべき
かに焦点を当てる。

ダビデは、「ノー」を受け入れ、息子ソロモンが建設すると知り、
そのための準備に回った。これがダビデの信仰であり素晴らしさで
あった。政治的、経済的安定がなければ、神殿建設は不可能だ。そ
のためにダビデは諸外国の敵と戦い、着々と基盤を築いていった。
「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従順に従うダビデに、
主が連勝を与えられた。

そしてダビデは膨大な戦勝品を、建設資金として主に献げて行った。
自分の道が閉ざされた時、ダビデにならおう。自分に備えられた御
心があり使命がある。それに従おう。主はすでに大きな祝福を備え
ていて下さる。
-------------
自分のプランを主に手放し、今自分に出来ることを祈ってみよう。
「ノー」は否定ではなく違うご計画、違う重荷に向かわせてくださ
る示し。もう一度、広い視野の中に自分を置いてみよう。


2019年04月07日(日)

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち を少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27


心配事があるだろうか。問題は、次々と起きて、心配事を抱える。
親子、夫婦の悩み、対人関係の苦しみ、仕事、経済的苦境、様々な
悩みで思い煩う。しかし主は「思い煩うな」と言われる。「何も、
いっさい」思い煩うなと。なぜ心配無用なのか。思い煩いが何かの
益になるのなら良いが、全く何の益も無い。思い煩ったところで何
一つ変わらないし、何を成し遂げる事もない。

「誰が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことがで
きるか」の通りだ。心が真っ暗に落ち込む事で、何かを変える事が
できるだろうか。思い煩いは有害無益だ。又、思い煩いは、実際よ
り物事を大きくしてしまう。冷静に対処するなら、乗り越えて行け
る事態が、巨大に見えて、不安と恐れでパニックに陥ってしまう。

カナン視察の後、ヨシュアとカレブは大丈夫だ、占領できる、前進
しようと言ったが、民は恐れて怯えて泣き伏した。
その心配事は、絶えず脳裏に浮かび、それを繰り返し〃受け入れ続
けていると、不安と恐れの要塞を築き、それを強固にし、モンス
ターにしてしまう。自分がそうしている。モンスターにはとても打
ち勝てず、敗北しかない。不信仰に陥る。

しかしそれは現実とは異なる。空想上のモンスターであり、自らが
描く最悪のシナリオは成ったためしがない。「祈りと願い事によっ
て」その不安、この恐れを主に知って頂こう。思い煩うなと言われ
るが、どうにもならないとありのままを、まず主に告げよう。平安
と交換して下さる。

・・・・・・・・・・・・
思い煩いは小さな事ではない。心はずっと重苦しく、身体まで壊し
てしまう。愛なる主が委ねよ、委ねよと言って下さっているのに、
自我は固く握って放さない。握っていないと、放すとだめになると
思ってしまう。祈って行こう。助けて委ねさせて下さる。


2019年04月06日(土)

「それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法 の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4      

      
肉の思いとは、どんなものだろう。自己中心的な考え、ネガティブ
な考え、様々な肉の欲望だとは想像がつく。しかし、もし礼拝に忠
実に出席し、熱心に奉仕をしていたとしても、自分が良く見られ、
信仰深く見られるため、自分の誉れ、自分の栄光のためなら、肉的
なことだ。

又、御霊に属することとは、御霊からくる思いであり、信仰的、創
造的、肯定的であり、そこには喜びと平安がある。主への愛があり
感謝がある。私たちは自分の思いを、コントロールすることは、な
かなか困難だ。思いはしょっ中、乱れてさまよう。人からの一言で、
動揺し、心は騒ぎ、落ち込み、暗たんとしてしまう。

どうすれば良いのか。御霊に自分の心を支配していただくことだ。
その時、御霊が正しく導いて下さる。信仰生活が喜びであり、幸福
感をもって歩む人々がいる。又、そうでなく愚痴と不満、批判や非
難で一杯の人々もいる。どこが違うのだろう。いつも喜びのある人
は、喜びに目を向け、その事をひたすら考えている人であり、愚痴
だらけの人は、愚痴に常に目を向けている人だ。環境は関係がない。
環境が原因ではない。

その人が思いをどこにつけるかだ。いつも恵みを数え感謝している
人は、幸せだ。何に目を留め、何を考えているかで、生き方が決ま
る。「現在の状況は難しいが、主は必ず良くして下さる、信じてい
よう」これは御霊による思いだ。御霊の方を選択して、従う事が、
御霊に従って歩む事だ。肉の思いと御霊の思い、いつも二つの思い
が目の前にある。どちらの思いを選択して生きているだろう。

・・・・・・・・・・・
古い性質は、どこまでも自己中心だ。しかし信仰者には新しい性質
が与えられている。それは今まで無かった性質だ。主に喜ばれたい、
主に従いたいと願い、主の栄光を喜ぶ。自分を捨てて、御霊の導き
の方に意志を向けて選択して行く時、後ろに結果がついてくる。祈
ろう。


2019年04月05日(金)

「万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は」詩篇84:12



ハドソン・テーラーのよく知られている証しがある。彼は、医者の
助手として働いていた。その医師は給料をよく渡し忘れるので、そ
の時には言うようにと、本人から言われた。その時、彼は、もしそ
ういう時には申し出ずに祈り、神から直接答えを頂いて、信仰の訓
練としたいと考えた。やはりその月、医師は給料の支払いを忘れた。

それで言わずに祈っていた。すると段々食料も底がついて来た。残
りが銀貨1枚になった。丁度その時に貧しい子供が来た。母親が病気
で困っている。手元には銀貨1枚だ。2枚あれば喜んで1枚上げる
が、1つしか無いので、あげられなかった。その後、祈り始めたが
「偽善者」との思いが来る。「祈りよりも、それを与えるべきだ」
と。

出来ない自分に、神のみに頼る信仰など無いと知り、惨めになった。
しかし結局は上げて財布は空になった。だが心はすっきり晴れやか
になり、平安で満ちた。その日の夕は残り物を食べ、しかし翌朝か
らもう何も無かった。主に拠り頼み、祈り続けていた。すると早朝
に郵便が来た。封筒を開くと彼が与えたお金の数倍が入っていた。

そのお金が無くなる頃、医師が給料の事を思い出してくれた。神は
真実であり、生きて働いておられる。「彼らはあなたに信頼し、彼
らは恥を見ませんでした」「正しい者が見捨てられたり、その子孫
が食べ物を請うのを見たことがない」。
------------
すぐに自分の力や人に頼り、限界が来なければ神のみに頼る事がで
ない。そのような不信仰な者なのに、神はいつも信頼して生きよと
待っていてくださる。何と感謝なことだろう。


2019年04月04日(木)

「しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる」エレミヤ27:11




エレミヤの時代、イスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされ、捕虜と
して連行された。しかし、そのアッシリヤはバビロンによって滅ぼ
された。バビロンは侵攻して行き、国々は滅ぼされ、とうとうユダ
王国も、バビロンに捕囚となった。当時のユダは神から離れ、民は
偶像礼拝に陥り、堕落していた。

預言者たちは、人々に耳ざわりの良い、心地良い言葉だけを語り、
平安が無いのに、見せかけの「平安、平安」と言っていた。だが神
の人であるエレミヤは真っ直ぐに神の言葉を語った。そのため迫害
され苦しめられた。バビロン捕囚中の暗闇の中で、エレミヤは神の
言葉を語った。

その捕囚は、「災い」としか見えないが、災いではなく「平安・将
来・希望」のためのものだと。すぐに解放にならないので、その地
で落ち着いて、腰を据えて生活せよと。そして敵であるその町の繁
栄を祈れと。それは自分達の繁栄になるからと。私たちも苦悩の時、
一番欲しい言葉は今すぐ問題解決、苦難からの解放だ。

しかし口先だけの慰めは、更に傷を深くする。思い通りでない、か
せのような現状を受け入れるなら、その中で神からの支え、励まし
により歩めると言っている。現実を受け入れる事が大切だ。いつま
でもそのままではなく、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせ
る」。現状の中で神に従うなら、そこに「平安」が約束されている。
そして神の時に、そこから出して下さる。
--------------
かせのような現状でも御心の中にいるならそこに平安を見出せる。
そこに祝福があると確信できるからだ。耳障りの良い助言を求める
より御言葉に聞き御言葉に立とう。


2019年04月03日(水)

「戦車隊長たちはヨシャパテを見つけたとき・・彼のほうに向かって行って戦おうとした。すると、ヨシャパテは助けを叫び求めた。それで・・イスラエルの王でないことを知ったとき・・引き返した」T列王22:32



イスラエルアハブ王は、ユダ王ヨシャパテに、ラモテ・ギルアデを
アラムから取り返そうと、誘いをかけた。ヨシャパテはアハブの申
し出に乗り、主の言葉を聞くよう要請した。アハブは預言者400人
を集め、伺いを立てると、彼らは、上って行くようにと口を揃えて
答えた。だが預言者ミカヤは正反対の預言をした。

そしてアハブが悪霊に惑わされている事、殺される事を告げた。ア
ハブとヨシャパテはアラムと戦う事になり、アハブは自分は助かろ
うと、巧妙な策を講じ、ヨシャパテに王の服を着せ、自分は変装し
た。敵を欺き自分だけ巧く逃れようとした。しかしアラム王の命令
は、イスラエル王アハブだけを狙えというものだった。

敵が、ヨシャパテをイスラエル王に違いないと、戦おうとした時、
ヨシャパテは祈った。すると敵はユダ王ではないと知り、引き返し
た。神の関与だった。そして一人の兵士が、「何げなく」放った矢
が、何とアハブに命中し、彼は傷を負い死んだ。別に彼はアハブを
狙ったわけでも、殺そうとしたわけでもない。神がそのようにされ
た。

ミカヤの預言が成就した。主の完璧な主権と支配を見る。人がどう
画策しようと、主の主権のもと、主の御心が成就する。主の御手の
中にある。それゆえ、日々の生活も、人生も、自分自身も主に委ね
よう。その時、あなたへの最善のご計画を一つ違わず、成し遂げて
下さる。そして、平安に守られる。
------------
目の前の危機に人間な策をあれこれ思いめぐらせるが、主の完璧な
主権の前に謙遜に静まりたい。御心はどこにあるかを祈りながら主
に具体的な歩みを委ねよう。


2019年04月02日(火)

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」ヨハネ6:63



ある人が難しい仕事で、行き詰まってしまった。もう策が無く、ど
うにも八方ふさがりに感じた。しかしその事業は、主に祈り、主に
導かれて始めた仕事であった。どうしてよいかわからない。自分の
限界、自分の無力に打ちのめされるばかりだった。主の御前に静ま
ろうと、心を静め、そして、心の思いをことごとく打ち明けた。

御声を聞こうと、御言葉を読んでいた時に「あなたがたがわたしを
選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・任命した
のです・・実を結び、実が残るため・・」の言葉に釘付けになり、
心に迫り来た。主がこの仕事に自分を選び、任命して下さった事が、
新たにされた。

この仕事を導かれたのは主だ。自分が何とかしなければと、「自分
が」「自分が」と先立ち、頑張って、力尽きた姿が見せられた。
「自分が選んだのでなく、主が選んで下さった」そこに平安と安堵
が来て、肩の力が抜けた。その時、自分自身、仕事を今一度明け渡
した。すると不思議な事に、思い煩いが失せた。とにかく、目の前
の一つ一つを、主に従って行けばよいのだと思えて、気持ちが楽に
なった。

祈りつつ、主が導かれる通りに従って行った。その時、目の前の道
が、開かれて行き、「主の山に備え」があることを一つ一つ体験し
た。今、もし行き詰まっているなら、主のもとに行き、心を静め、
耳を澄まして、主の御声を聞こう。「聞く者は生きるのです」主の
言葉により、再び立ち上がらせられる。御言葉には霊といのちが宿
っている。
------------
ありのままを祈り御言葉を開くと、主が様々な形で語ってくださる
経験をする。御霊は一瞬で肉の思いを変えてくださり、心が伸びや
かにされる。主の言葉を信じ立ち上がれる。


2019年04月01日(月)

「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8


悪魔に機会を与えてはいけないと言っている。悪魔は私たちの心に、
足場を得ようと、鵜の目鷹の目で狙っている。カインはアベルへの
妬み、怒りにより、悪魔に足場を与えた。その結果、アベルを殺害
してしまった。サウル王はダビデを激しく妬んで、殺意と増長しど
こまでもつけ回した。

祭司長律法学者たちも、主への妬みにより主を十字架へと追い詰め
た。ダビデはバテシバを見た時に悪魔に機会を与えてしまった。そ
の結果、姦淫の罪を犯してしまった。見た時に、主を仰ぎ、助けを
求めて祈ればよかった。又、ダビデは高慢になり、自らの力を誇り
たくて、御心でない人口調査を行なった。

ユダは悪魔に主を売る思いを入れられ、従ってしまった。「悪魔に
機会を与えるな」と言われている。カインはアベルへの妬みを、又
サウル王はダビデへの嫉妬を、そのままにせず、主のもとへ持って
行き、悔い改めて、助けを求める事ができた。主のもとに持って行
かずに、そのままにするなら、悪魔に機会を与えてしまう事になる。

その怒り、その妬み、その憎しみを、主のもとへ持って行こう。
放っておくと、どんどん悪魔につけ入るすきを与え、つけ込まれて
しまう。思いがいつしか行動に移ってしまう。祈りに持って行く時
に、悪魔から守られる。そしてどうすべきかを主は導いて下さる。
妬みを、憎悪を、捨てるように助けて下さる。
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心に湧いてくる様々な苦い思は、こじらせる前にまっすぐ主に祈ろ
う。サタンの攻撃には主に頼るしか術はない。身を低くし、主に祈
り御言葉で身を守ろう。