2019年05月31日(金)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます」詩篇18:28




ある人が職場で、きつい上司がいて、いつも怒鳴られていた。仕
事上の事ではよく怒られ、責められ、暴言もあり、きつい言葉が
心に刺さる辛い日々だった。段々、身体にもきて、体調も崩し、
仕事を休む事もあった。辛く、苦しく、耐え難い日々であった。
余りに辛く、その事を祈りにもって行き、祈っていた。

そんな中、人事異動で、その上司が違う部署に配属替えになり、
状況的に、もう顔を合わすことは無くなった。これは祈りの答え
かと感謝し、苦しみから解放されたと安堵し喜んだ。怒鳴られる
事も、暴言も、責め立てられる事も無くなり、穏やかに仕事が出
来るようになった。これからは平安な日々と喜んだのだが、しか
し現実は違っていた。

上司は目の前にいないのに、上司の事がずっと脳裏に浮かび、心
苦しく、重く、暗い日々だった。そんな重苦しい中で、上司に囚
われている自分に気づかされた。上司に対する恨み、怒り、憎し
みでいっぱいになっている自分。赦せない思いで悶々としている
自分。御霊は、自分の問題である事を示された。憎しみ、恨み、
敵対心、復讐心、赦せない思い、これらは自分の罪であった。

それを認め、悔い改めた。その時、静かな平安が心に広がった。
その後、ひょんな事で、上司とバッタリ出会った。気持ち良く挨
拶ができて、心の悶々が消えていた。被害者としか思えず、自分
の罪は全くわからなかった。祈りに持って行く時、御霊が心の内
を照らし正しく導いて下さる。平安が戻る。
---------------
主とつながっている限り、御霊は様々な示しを与えて導いてくだ
さる。真実な主の光のもとで御霊の声を聞こう。健やかな歩みに
主は整えてくださる。


2019年05月30日(木)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」マタイ25:25




主人から5タラントと2タラントを預かったしもべたちは、すぐに
出て行って商売をした。ただただ主人を喜ばせたくて、主人のため
に働きたかった。彼らは、主人が愛深い、良い方だと信じていたの
で、仮に失敗しても、赦して下さると思っていた。そのため、自由
に伸び伸び、生き生きと喜び持って働くことができた。

1タラントのしもべは、神観が間違っていて、要求ばかり突きつけ
て来る酷い、恐い主人だった。こんな主人のために何をしたいとも
思わない。失敗した時はどんな恐ろしい事になるか。罰が恐い。預
かったものを、減らそうものなら、どんな酷い目にあうか。だから
無くならないように、地に隠しておけばいい。そしてそのまま返そ
う。それなら文句は無いだろう。

しかし主人から「悪い、怠け者のしもべ」と叱責された。怠け者な
ら、怠惰でいっさい何もしないように思うが、このしもべは無くな
らないように、地中に埋めるという行動をした。だが主人の見方は
違った。怠け者とは、タラントを活用しないという事だ。埋めた事
は全く活用していない。それを叱責された。

主人は、私たちが任されたタラントをどんどん使い、用いる事を喜
ばれる。使わない事が怠惰だと。あなたに任された賜物はどうだろ
う。地に埋め込んでいるだろうか。主人はそれぞれのしもべに大き
な信任と期待を持って、タラントを預けた。その主人の愛と信頼を
受け止め、応えて行けるよう、祈って、与えられたものを用いて行
こう。
------------
何もしなければ失敗もないが、主と共に歩む生き生きとした信仰生
活の喜びも経験できない。御霊に導かれるまま、与えられている賜
物を用いて行こう。


2019年05月29日(水)

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか』」ヨハネ21:15



ある人が祈ろうとし、御前に静まっていると、過去のひどい失敗、
人を傷つけてしまった事が思い起こされた。すでに悔い改めてはい
たが、心が痛んで仕方なかった。すると、丁度その日の、聖書日課
の箇所が、主によるペテロの回復の箇所だった。一度ならず、三度
も、主を否んで、裏切ってしまったペテロは、どんなに恥ずかしく、
心痛めていたことだろう。

主は、3回ペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と問われて、
ペテロに答えさせられた。そして「わたしの羊を飼うように」と。
主はペテロに赦されていること、愛されていることを確かなものと
して下さった。主は罪を赦して下さる。「なぜ、わたしを裏切った
のか」と責めておられず、ただ「わたしを愛しますか」と言われた。

その言葉が、自分にも語りかけられて来て、慰めを受け、心平安に
された。時に、私たちは、恥ずかしい失敗をする。ひどく落ち込み、
もうダメだと思う。しかし、主は、成功、失敗は問われない。いつ
の場合も「わたしを愛しますか」と、これだけを問われる。ペテロ
は「あなたはいっさいのことをご存じです」と自分自身を委ねた。

主は、あなたの軽率な失敗もご存じだ。告白するならすべて赦して
下さる。何もかもご存じの主に、自分自身を委ねたらよい。任せる
事ができるとは、何という平安だろう。
-----------
ペテロのこの箇所に大きく慰められる。くり返す失敗も、主の十字
架で主が担ってくださり全て赦された。後悔の思いは来るが、主は
赦してくださったと信じ受け取っていこう。


2019年05月28日(火)

「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った」マタイ14:30


主から「来なさい」と招かれたペテロは、海上歩行の途中、おぼ
れかけた。ペテロはベテラン漁師で、泳ぎは人一倍達者なはずだ。
しかし主から目を離し、風を見た途端、ぶくぶくと沈みかけた。
「主よ。助けて下さい」と叫ぶと、すぐに主は彼をつかまれた。そ
して「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と。私たちも、すぐに疑
って沈んでしまうだろうか。

今、目の前の悩み、問題はどうだろう。あの事、この事・・主から
目を離し、疑ってしまっているので、平安が無い。沈みかけている
だろうか。「なぜ疑うのか」と言われている。目の前の状況に飲み
込まれてしまい、状況しか見えなくて、主と御言葉が飛んでしまう。
主を信頼することができなくなっているだろうか。

サタンの攻撃は凄まじく、すぐに世の価値観に流されてしまう。不
信仰は主をさえぎり、主を見えなくしてしまう。そのため肉眼で見
えるところがすべてになる。すると不安でたまらず、思い煩いにさ
いなまれる事になる。しかし、ペテロが「主よ助けて下さい」と叫
んだ時に、「すぐに」手を伸ばし、つかんで下さった。主の愛だ。

どんな時も、主は変わらない愛で、愛して下さっている。そんな私
たちの手を取って、主の似姿へと一歩一歩成長させて行って下さる。
今、信仰がダウンしているなら、「なぜ疑うのか」と、「疑い」に
気づくだろうか。また一歩成長のチャンスだ。「主よ助けて下さい」
と叫び、しっかりつかんでいて下さる主に安堵し、主への信頼を取
り戻し、従って行こう。
-----------
様々な波や風の外界にあっても、ひとたび主のみ前にいけば、いつ
も穏かな静けさに守られる。不安や動揺があれば、主よ助けてくだ
さいと祈ろう。主に心を委ね、主のご愛と恵みのうちに安らごう。


2019年05月27日(月)

「・・神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」Tコリント10:13



神は、耐えることができない試練に会わせられないとある。つまり、
耐えることのできる試練しか与えないと。しかし私たちは試練に会
う時、もうだめだ、とても耐えられないと思ってしまう。だが、目
の前に来る試練は、神があなたが耐えることができる、乗り越える
ことができると認めたので、送っておられる。

信仰人生を振り返る時、確かに試練を乗り越えさせて下さったから、
今がある。あの時も、この時も・・もうだめだ、無理だと思ったか
も知れない。しかし御言葉通りに、いつも脱出の道を備え、忍耐を
与え、すべての必要を与え、乗り越えさせられた。試練のまっただ
中にいる時は、耐えられない試練は無いと言われても、感情がつい
て行かない。

しかし御言葉は真実であり、神は真実だ。試練が臨んだ時は、自分
の思いや、感情ではなく、信仰により神の言葉の下にいよう。今は
苦しいばかりだが、必ず脱出の道があり、この苦しみを乗り越えて
行けると。耐え忍ぶ力も与えて下さると。「試練をこの上ない喜び
と思いなさい」とあり、試練において、忍耐が培われ、その忍耐を
働かせる時に、一段階成長して行くと。

忍耐とは、我慢する事でなく、神は必ず良くして下さると信じる事
だ。それは試練の中でなければ培われない。試練の度に一段階成長
して行ける。つまり一段階成長できる、さじ加減ピッタリの試練が
与えられる。感情に振り回されるのでなく、御言葉に立って、試練
を受け止められるよう祈ろう。
-------------
なぜ、どうしてと理解できない苦しみも神から計って与えられてい
ると受け止めると希望が見えてくる。感情はアップダウンするが、
真実な神を頼り、信じて歩もう。


2019年05月26日(日)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」詩篇119:67



苦しみは辛いものであり、喜ばしいものではない。しかし「苦しみ
に会ったことは幸せ」だったと言っている。苦しみは大きな祝福と
されると。苦しみにより自分が変えられ、成長させられる。多くの
人が試練により、主に近づけられ、主を知り、自分が変えられ、祝
福とされたと証しする。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯した」とある。人は何も
かもがスムーズに行っている時は、「苦しい時の神頼み、楽しい時
の神離れ」で、主を忘れてしまう。頼らずとも問題無く生きて行け
るからだ。頼る必要がなく、自分で生きて行く。「あなたの行く所
どこにおいても、主を認めよ」とあるが、主を認めず、主に頼らな
いことが高慢だ。

しかし何の問題も無いので、気づかない。万事OKと思ってしまう。
高慢になって滅びないように、主は苦しみを送って、気づきを与え
て下さる。苦しみの時は、何の手立ても無く、自分の力でどうしよ
うもなく、主に頼る以外に道がない。苦しみの中で、主の御心は?
何を教えて下さっているのか?自らの歩みを振り返り、主を求め、
様々な事を考える。

主に向き、自分に向き合い、歩みを軌道修正される。必ず後に、苦
しみに会ったことは、幸せだったと言える。主に近づけられ、主の
愛に触れ、深く主を知る時とされるからだ。多くの学びを得る。そ
して苦しみに会う前は過ちを犯したが、「今は、あなたのことばを
守ります」と。御言葉に従う者に変えられる。

・・・・・・・・・・・・・・
問題が無いと、主に頼らずとも生きて行けてしまうので、主を離れ
てしまう。順境の時は、主に感謝して感謝して歩もう。苦しみは必
ずあるが、後に「苦しみに会ったことは幸せでした」と結果する。
主に在るなら、どんな時にも希望があり、光がある。


2019年05月25日(土)

「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒が ありません』と言った」ヨハネ2:3



カナで結婚式が行なわれ、主は弟子たちと共にお祝いに出席された。
その時、マリヤは手伝っていた。その中で非常事態が起きた。客に
振る舞うぶどう酒が無くなってしまったのだ。今でなら、ぶどう酒
が無いなら、他のものでと思うが、当時は、結婚式にぶどう酒は無
くてはならぬものだった。遠慮なく、好きなだけ飲めて、それは結
婚式の楽しみの一つであった。

それが無くなるとは主催者側の大変な失態で、あってはならぬ事で、
花婿花嫁の顔はまるつぶれであった。マリヤはそれに気づき、真っ
先に主に告げた。息子ならすぐに対応してくれると思った。だが
「あなたはわたしと何の関係があるのか。わたしの時はまだ来てい
ない」と一見冷ややかな応対だった。しかしマリヤは手伝いの者た
ちに、あの方が言われることを、何でもするようにと言い渡した。

つまりマリヤは、必ず主が何かをして、この窮地を助けて下さると
信じた。息子イエスでなく、マリヤの主への信仰だった。そして主
はすぐに、水がめに水を満たすよう命じられた。手伝いの者たちは
言われた通りに、6ヶのかめに水を満たした。次にそれを世話役に
持って行くようにとの指示。

その通りに従うと、それは最高のぶどう酒になった。問題が起きた
時に、まず主のもとへ行き、主に告げて、主が必ず何とかして下さ
るとの信頼を寄せて行こう。主はその信頼に応えて下さる。「彼に
信頼する者は、決して失望させられることがない」。

・・・・・・・・・・・・
問題が起きるとパニックになって、まず何とかしなければと頭が
巡る。その時、問題は自分の肩にかかるので、重くて担えず、心は
重苦しくてたまらない。まず、主に向かおう。あるがままを主に告
げ、主の示しを待とう。示されたならその通りに従う時、栄光を拝
する。


2019年05月24日(金)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10



モーセは80歳の時に、神により、エジプトからイスラエルの民を救
い出すリーダーとして召された。しかしモーセは80歳の自分、年老
いた一介の羊飼いに何ができようか。以前、40歳の時に事を起こし
て、失敗した経験があり、今さらこの老人の自分にできる事など何
もないと思っていた。「彼らは私を信じず、私の声に耳を傾けな
い」と。

そんなモーセに、主は数々のみわざを見せて、この働きは、神の力
によるものである事を示し、説得されて行った。しかしモーセは尚
も、「私はことばの人ではありません。私は口が重く、舌が重い」
と、うまく話す事などできないと言い訳した。自分がいかに無力で
あるかを言い続けた。すると主は「だれが人に口をつけたのか・・
それはこのわたし、主ではないか」と。

「わたしがあなたの口とともにあって、言うべきことを教えよう」
と。あなたの口が重くとも、そのままで良い。問題無い。わたしが
教えると。わたしは、弱いあなたをそのまま用いる事ができると。
用いるお方は、全能の主である。この働きは、わたしの働きだと、
主は言われる。召し出されたからには、必要な力、知恵、導きを与
えて下さる。

大事な事は、何もかもご存じの上で、主が、主のご意志で、モーセ
を選ばれたということだ。「わたしはあなたとともにいる」と。も
しあなたも今、新しい導きを受けているなら、すべての必要と力は
主から来る。信仰もって従い、一歩を踏み出そう。
--------------
無力な自分を見ていると、いつまでも主に従えないが主が導かれて
いるのはこのままの自分だと真実な主を信じていこう。日常の小さ
な導きにも従う選択をしたい。


2019年05月23日(木)

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた・・良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい」マタイ13:3



種はみ言葉、土地は私たちの心だ。4つの地に御言葉は蒔かれたが、
結果がそれぞれ全く違った。結実する人生は、どのように御言葉を
受けとめるか、私たちの心にかかっている。道ばたの心は、御言葉
が心に入っていない。偏見や自分の思いが強く御言葉をはじいてし
まう。心に入らないので、芽の出ようがない。

薄い岩地の心は、一旦芽を出すが、自我が強く、頑なで自我の岩に
ぶちあたり根が張れない。自分に都合の良い範囲の信仰で、犠牲を
払ってまで、自分を変えてまで従う気はない。いばらの心は、御言
葉が入り、芽を出し伸びようとするが、同時にいばらも伸びて、芽
をふさぎ、邪魔をする。

いばらは、世の心づかいと富の惑わしで、それらが芽をおおいふさ
いでしまう。人からどう見られるか、人から良く見られたい思いが
根深く、又、金持ちになりたい誘惑は非常に強く、信仰を枯らして
しまう。良い地は、砕かれた心だ。強い自分の思いを捨て、御言葉
を聞き従おうとする。自分の思いを遂げるのでなく、御言葉により
自分が変えられようとする。

自分を砕いてでも、従って行こうとする。その時、100倍の実を結
ぶと。素晴らしい祝福にあずかる。どんな態度で御言葉を聞いてい
るだろう。御言葉の種が、心に根を下ろさない限り、結実は不可能
だ。今、心に語られている御言葉に、聞き従おう。一歩、前に進ん
で行ける。
-------------
御言葉にはいのちがあるから人生を大きく変える。御言葉の種があ
る限り、いつでも新鮮な芽が出て成長できる。確かに見ているが、
決して悟らない者にならず、御言葉を大切に受けとめ従おう。


2019年05月22日(水)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい」エペソ6:11



罪は、真っ黒な苦いものに思えるが、そうではない。罪には一時の
快楽がある。罪は楽しい、甘いものだ。肉を喜ばせる。もし罪が苦
いものであれば、こんなにも罪の問題は起こらない。苦いものにな
ど、誰も好んで近寄らない。罪は心地良く、甘いからこそ、人は簡
単に罪に陥ってしまう。そこにサタンが働き私たちを巧妙に誘惑し、
惑わす。

エデンの園でエバに来た誘惑、「食べるのに良く、目に慕わしく、
賢くする・・いかにも好ましい」の通り、罪を素晴らしい、魅力的
な、麗しいものに見せて欺く。そしてサタンの言葉を受け入れて行
くと、そうとしか見えなくなる。エバが、蛇の「決して死なない」
「神のようになり、善悪を知るようになる」と、一つ〃の言葉を受
け入れ、その目で見ると、その木は良いものに見えた。

もう行動に移る事は、時間の問題だった。エバは禁じられたその実
を取って食べた。サタンは罪を良い魅力的なものに見せる。罪は快
適で、欺かれていて気づかない。サタンの策略だ。良いものと思う
ので、御心をそれていながら気づかない。何の問題もなく、人生う
まく行っていると思ってしまう。

とにかく神から離そう〃と、誘惑し、攻撃して来るサタンに心して
いよう。サタンに聞いて行ってはならない。拒否することだ。自分
は大丈夫と、罪と戯れ、もて遊んではならない。罪に飲み込まれて
しまう。はっきり拒否し、避け、退けよう。いつも助けを求めて祈
っていよう。
---------------
サタンの誘惑に気づけるように朝から祈って備えよう。御霊に従う
時は、主に意志を向けるが、心地よいもので惑わすサタンには無意
識で流されてしまう。拒否できるよう目覚めていよう。


2019年05月21日(火)

「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる」詩篇55:17



詩編でダビデは、親友から裏切られ、胸も張り裂けんばかりに苦し
んでいる。苦しみも悲しみも喜びも共にして来た、信頼する同輩で
ある、その親友が自分を攻撃して来る。それも最も恐ろしい敵とな
って立ち向かって来る。いかばかりの苦しみ、辛さ、恐怖だろう。

「私の心は、内にもだえ、死の恐怖が、私を襲っている。恐れとお
ののきが私に臨み、戦慄が私を包んだ」とあるがままの、恐れ、お
びえた心の状態をそのまま告げている。荒野へ逃げたいと、その荒
野こそが私の逃れ場と。自分で動かず、自分で何とかしようとせず
に、まず祈りにもって行き、主にあるがままの心をことごとく吐き
出し、告げる事が大切だ。

その祈りに主は答えて下さる。私たちも、不安、恐れ、煩悶、思い
煩い、すべてをありのまま、主の前に吐き出す事が、どうしても必
要だ。主はそれらを受け止めて下さる。「私が、神に呼ばわると、
主は私を救ってくださった」ダビデは、主に受け止められ、救われ
た。神に呼ばわることが大切だ。「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめ
く」、ことごとく吐き出す時に「主は私の声を聞いてくださる」

祈りが聞かれているという、心奧深くに確信を得た。主の救いを経
験し、はっきり主との交わりを得たダビデは「重荷を主にゆだねよ。
主は心配していて下さるから」と確信持って言えた。ダビデのよう
に「私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています」と、あるが
ままの気持を、主に告げて行こう。受け止めて下さったとの確信が
与えられる。
-------------
祈りのうちに主と交わる時、外界の攻撃は遮断され、心は無風状態
になる。主の安全な隠れ家に入れる。夕、朝、真昼、恐れや不安の
度に主のもとに逃れよう。


2019年05月20日(月)

「カレブが・・民を静めて言った『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから』」民数記13:30



イスラエルの民が、エジプトでの苦役で、主に叫び求めた時に、主
はモーセを遣わし、民を救い出された。主の偉大な奇跡によって、
紅海が分けられ、出エジプトを果たした。民は、どんなに喜び踊っ
たことだろう。偉大な奇跡を目の当たりに見た。そしてモーセのも
とで、民は、主が約束して下さった乳の蜜の流れる地、カナンを目
指した。

カナン目前で、各部族から2人づつ12人の斥候を遣わした。斥候は
カナンの地を探った。戻った時に、ヨシュアとカレブは、「私たち
は是非とも、上って行って占領しよう。必ずできるから」と主に拠
り頼んで攻め上ろうと勝利宣言をした。しかし他の10人は「攻め上
れない。敵は私たちより強く、私たちはいなごのようだ」と。

主に拠り頼むのではなく「自分の悟りに頼り」不信仰に陥った。不
信仰は蔓延し、民たちも「荒野で死んだほうがましだ」と大声を上
げて叫び、泣き明かした。「エジプトへ帰ろう」とまで言い出した。
信仰人生で迷路に迷い込むのは、「自分の悟り」に頼るからだ。
「主に拠り頼む」ことを忘れてしまう。自分の思いの方が正しいと
思い、そう見えてしまう。

そんな時こそ、自分の悟りを捨てて、主の御心に従うなら、大きな
祝福を見る。ペテロが、自分の悟りでは「ノー」だが、「・・でも、
お言葉通りに網を下ろし」た時、大漁という破格の祝福にあずかっ
た。今、目の前に選択すべき事があるなら、自分の悟りを捨てて、
御言葉に拠り頼み、従おう。
-------------
見た所がどうであっても、御言葉の道に祝福と平安がある。ころこ
ろ変わる人の言葉と自分の悟りによって生きるか、御言葉によって
生きるか、大事な選択を間違わないでいよう。



2019年05月19日(日)

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、 などと言って心配するのはやめなさい・・あなたがたの天の父は、そ れがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」マタイ 6:31


主は、神の国とその義とをまず第一に求めよと。そうするなら、神
の国と義も与えられ、それに加えて、生活の必要も与えられると。
両方とも与えられる。これをよく逆にしてしまう。子供が菓子のお
まけが欲しくて、菓子を買いあさり、おまけを集め、大喜びし、菓
子など見向きもしなかったりする。

私たちはどうだろう。「それに加えて与えられるもの」の方を求め
て、あがいていないだろうか。生活の必要のため、又、それ以上の、
より裕福な生活のために、どうしても欲しいと追い求める。本末転
倒で、与え主のことは目に留めない。又、名誉や地位、人からの賞
賛も欲しくて懸命に求めるが、主ご自身を求める事は無い。

おまけが目的で菓子を買う子供だろうか。神の国は、神の支配のこ
とであり、主のご愛による支配に心を向けて行くことだ。神の下さ
るものではなく、神ご自身に心を向けることが大切だ。その時に初
めて、思い煩い、心配が解決して行く。「何を食べるか、飲むか、
着るか、心配するのはやめよ」。

主を求めるのでなく「それに加えて与えられるもの」を、求めて行
くなら、人生最後まで、思い煩いから解放される事がない。私たち
はどうだろう。主を第一にして行く時、「あすの心配は無用」であ
り、その日〃の労苦により、達成感、充足感を与えられ、喜びを持
って生きて行ける。

・・・・・・・・・・・・
しばしば逆になってしまう。添えて与えられるものを第一に求め、
主を後回しにしてしまう。その時、平安無く、絶えず思い煩いに悩
まされ、支配される。今、優先順位はどうだろう。とにかく主を第
一に据えて行く時、平安が戻り、他のものも与えられて行く。


2019年05月18日(土)

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにし てはならない」ヘブル4:7


イスラエルは、主が乳と蜜の地カナンに導くと約束して下さったの
に、入る事が出来なかった。不信仰のゆえだった。導き入れるとの、
主の言葉を聞きながら、信じる事なく、心を頑なにした。「もし御
声を聞くならば・・心を頑なにしてはならない」のように、御声を聞
くなら信仰もって、受け入れる必要がある。

語られた御言葉をないがしろにしてしまうなら、自分の心は固く
なり、ますます頑なになって行ってしまう。私たちはどのように聞
いているだろう。主が御言葉を語られた時も、聞く人の心の態度は
様々であった。素直に受け入れる人、単なる好奇心だけの人、反発
する人、傍観者として聞き流す人・・。

又、石地のように、喜んで聞くが、自我にぶつかると、自分の思い
のほうを通して行くだろうか。そんな心が耕される必要がある。頑
なな心が砕かれる時、素直にされる。砕きは祝福だ。御声を聞く時、
主の言葉を、その通りにそのまま受け止め、信じて行く事が信仰だ。
この世は、目に見えるもの、手でつかむ事のできるものを確かなも
のとする。私たちは、目に見えないが、御言葉を真実なもの、確か
なものとする。

そして、その語られた御言葉を、行なってゆくことが大切だ。実行
して行く時に、初めて御言葉が身につき、そして必ず豊かな実を結
んで行く。私たちはどうだろう。ただ聞いて通り過ぎているだけだ
ろうか。心して受け止め、今、目の前の御声に一歩従おう。

・・・・・・・・・・・・
御言葉は素晴らしいが、その御言葉の受け取り方が大切だ。受け取
り方で、天と地ほどに違ってしまう。心が固いと聞いても、遮断し
てしまうので、聞かなかった事と同じになる。聞く態度を御霊に探
って頂き、素直に聞けるよう祈ろう。豊かな実を結べるように。


2019年05月17日(金)

「・・すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人はその行ないによって祝福されます」ヤコブ1:25



御言葉は「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け」と言う。泣く者
と共に泣くのは、映画を観て感情移入して泣くし、余りにも悲惨な
報道にも、同情やあわれみの気持が出て来る。又、泣く者と共に泣
くのは、自分が優位に立っているので、まだ出来やすい。肉にでも
できるのだ。しかしこれは御言葉の真意ではない。相手の慰めには
ならない。

御霊に導かれない限り、真に泣く者と共に泣くことはできない。そ
して喜ぶ者と共に喜ぶことが、非常に難しいと言われている。罪の
性質には、根深い嫉妬心があるからだ。比較で人を見てしまい、シ
ーソーのように感じ、誰かが賞められたなら、自分がけなされたと
思ってしまう。誰かに幸せな事があるなら、羨ましさで一杯になる。

同期の者が、先に出世したらどうだろう。素直に喜べるだろうか。
妬みが出て来てしまう。ある人が友人が合格で、自分が不合格だっ
た時に、複雑な思いで、どうしても友人の合格を喜べなかった。心
辛く平安は無い。主の御心は喜ぶ者と共に喜ぶことだ。「喜べませ
ん」と正直に祈った。

すると自分には出来ないが、意志を向けて、主に喜ばれる選択をし
たいと、思いが変えられた。そして従いたいと、祝福の言葉を伝え
た。すると相手は非常に驚き、一番嬉しかったと喜んでくれた。そ
れは証しとされた。自分も心平安にされた。自分にはできないと祈
ろう。人にできない事が、主にはできる。御言葉に従えるよう、御
霊が助けて下さる。
------------------
御言葉を実行しようとするとすぐに出来ない事を認めさせられるが、
そこで駄目だと退くのと、主がさせてくださることを信じ、意志を
向け祈るのでは結果は全く違う。その祈りを主が叶えてくださるか
らだ。


2019年05月16日(木)

「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった」出エジプト40:36



イスラエルの民はエジプトを出て、荒野にある間、常に雲の柱、火
の柱を見ていた。進む事にも、とどまる事にも、常に雲と火により
明確な指示があった。「雲が上らないと、上る日まで、旅立たなか
った」とあり、雲が上ると進み、主が止まられる所で、とどまった。
私たちはどうだろう。停止が苦痛でたまらず、早くどんどん進みた
いと思う。

しかし、主が止められる時は、主と共にとどまろう。そんな時こそ
が大切で、主は様々な事を教えて下さる。ある人が転勤で、家を売
る事になった。すぐに売れると思っていた。しかし半年過ぎても売
れず、信仰が試された。祈っているのだが、どうなってるのだろう
と焦って来る。本当に売れるのだろうか。

不思議に何人も契約寸前まで行くのだが、成立しない。しかし、雲
が動くまでひたすら待つ事を学ばされた。「待つ」ことの訓練であ
った。結果的に1年後に大変良い方の手に渡り、主を誉め讃え、心
から感謝し喜びに満ちた。じっと待つ事がいかに難しいかを教えら
れた。しかし時が満ちるなら、必ず雲が動く。人がどうであれ、主
権を持っておられる神が動かされる。それこそが神の時だ。

あれほど動かなかった物事が動き、前進して行く。そしてそれは最
も美しい神の時だ。自分で動かずに、じっと待つ事が大切だ。あな
たも今、「待て」との示しを受けているだろうか。自分で動きたい
衝動、誘惑が来るが、主と共にとどまろう。雲が上る日が、旅立つ
時だ。神の時だ。
------------
祈りながらも、あらゆる手を尽くして自分で何とかしようとしてし
まう。動かない状況にぶつかるとき始めて主の訓練にきづく。動く
時、待つ時をよく悟れるよう、目の前の一つ一つを明け渡していき
たい。


2019年05月15日(水)

「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。私たちはこの点でそしられるのです。・・もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです」ローマ3:8


神は完全に罪を赦して下さる。主の血潮のゆえに無罪放免にして下
さる。しかし、では、何をしてもどうせ赦されるのなら、いいでは
ないかというのは間違っている。安易に罪を犯してはならない。決
して恵みを放縦に変えてはならない。何でも赦されると安易に考え
てはならない。

非行により犯罪を犯した子供は、施設で厳しい矯正訓練を受ける。
その親は、迷惑をかけた各方面への謝罪に奔走し、壊した物に弁償
金を支払い、時間労力をかけてあらゆる償いをする。そのように、
傷害事件を起こした時、悔い改めるなら、完全に主は罪を赦して下
さる。しかし、法律上の刑罰を免れる事はできない。法に即して罰
を受ける事になる。

又、憎しみや敵対心で人を傷つけたなら、悔い改めにより、主は赦
して下さる。しかし一度壊れた信頼関係を、再び築き上げるには、
多大な労力と時間が必要だ。罪のもたらす傷や害は、私たちが思っ
ている以上に大きい。罪は、自分だけにとどまらず、家族や周囲を
も巻き込んで、傷を負わせてしまう。決して罪を軽く見てはならな
いし、安易に罪を犯してはならない。

だが、もし弱さのゆえに罪を犯してしまったなら、悔い改めて、全
き赦しを受け取り、主と共に刈り取ろう。人は蒔いたものを必ず刈
り取る事になる。しかし尚も主は豊かにあわれんで下さる。主のあ
われみは尽きず、主に在るなら、その刈り取りをも訓練として用い、
祝福と変えて下さる。
--------------
何度も失敗し罪を犯し続ける者なのに、主の私達への御思いは変わ
らない。この十字架の赦しと恵みになんと鈍感なことだろう。罪の
刈り取りをも恵みとし祝福としてくださる。




2019年05月14日(火)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



ある人が、ある事に強い願望があり、「○○を与えてくれたら、神
がおられることを信じる」との祈りをした。ところが、その事は成
らず、何も起こらなかった。しかし、その事についてよく考えた時
に、神がなぜこんな自己中心な、自分勝手な祈りに答えなければな
らないのか、自分が間違っていると思えた。

私たちにも、あるかも知れない。神が自分の思い通りに、祈りに答
えてくれたなら、神を信じよう。そうでなければ、信じない。これ
は不信仰だ。御言葉だけなら、信じがたいので、自分が納得できる
証拠をくれという事になる。これは際限が無い。そしてこのような
ら、仮に主がみわざをして下さっても、自分の思い通りでないなら、
決して受け入れ無いし、認めない。

主と御言葉の上に、自分を置き、主を試している事になる。高慢な
思いだ。そこには自分の思いがあるばかりで、主が見えない。主は、
私たちが欲しいものを、手に入れるための手段では無いし、幸せに
なるための手段でも無い。主は、私たちの思い通りには動かれない。
そうでなく、主と御言葉の下に自らがへりくだり、自分の思いを捨
てて、主の御心を求めて、そのお心に従って行く時に、必ず喜びと
平安が来る。

自分の思いでなく、主の御心が重要だ。主のお心を求めて行く時に、
主とひとつだ。主とひとつであるので、主の願いが、自分の願いと
なり、その御心に適った願いは叶えられることになる。主を喜びと
する人は、主のお心を求めて行くので、その求めは叶えられる。今、
軌道修正が必要だろうか。
------------
祈りはありのままの自己中心から始まるが、主の御心を尋ねている
うちに、手放せない思いも明け渡せるようにとの祈りに変えられる。
主が整えてくださるのをいつも感じる。


2019年05月13日(月)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」ヘブル10:35



すべての事において、定まった「神の時」があると言っている。又、
「私の時は、御手の中にあります」とあり、主も又「時」を非常に
重要とされた。「わたしの時がまだ満ちていないからです」「わた
しの時はまだ来ていません」の通り「わたしの時」があると。「見
なさい。時が来ました」と。

私たちの信仰生活でも、あらゆる事に「神の時」がある。自分では
「最善の時」「今こそが時」と思うのだが、それが「神の時」でな
ければ、事態は動かない。自分では何とかしようと懸命に頑張るの
だが、空回りするばかりだ。経験あるだろうか。神の時では無かっ
た・・あの時、この時。どうやっても、全く道が開かれず、事が動
かない。

逆に、神の時には、ひとりでに門が開かれて行く。道が整えられて
行く。微動だにしなかった事態が動いて行く。その時にはチャンス
を逃さずに捕らえる必要がある。「すべての人が時と機会に出会う」
しかし、祈っていなければ、せっかくの神の機会を逃してしまう。
神の機会を逃さず捕らえよう。

又、これは「神の時」を焦らずに待てば良いという事だ。必ず神の
時に、事態は動き、前進して行く。その神の時が満ちるまで、ただ
待っていれば良い。その神の時が待てずに、しばしば自分で、肉で
動いて失敗してしまう。「あなたがたが神のみこころを行なって、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」。待ち望んで
いよう。
-------------
遅いように思えても失望せずその時を待てと言われる。ただの一日
も遅くならないと。神の時を信仰の目で待ち望もう。焦りや諦めの
度に祈りつつ、美しい神の備える時を待とう。


2019年05月12日(日)

「私はあなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めま す」詩篇119:15


有名な話がある。ある親子がロバを連れて旅をしていた。すると通
行人が言った。「せっかくロバを連れていて、誰も乗っていないな
んて!」父親は「そうだ」と思い、息子をロバに乗せた。又、通行
人が言った。「親不孝な息子だ。自分がロバに乗って、父親を歩か
せるなんて」そう言われた息子は降りて、父親をロバに乗せた。

すると別の通行人が「何てひどい親だ。自分がロバに乗って、息子
を歩かせるとは」。それで親子でロバに乗った。すると今度は「何
とひどい!あんなロバに、2人も乗るなんて」親子はどうして良い
かわらず、2人でロバをかついだ。

人の目を気にし、体面を気にして生きると、ほんろうされて、どこ
に向かうかわからない。羅針盤を失った船のようだ。私たちが気に
するのは、人の言葉でなく、主の言葉だ。主はどう思っておられる
のか。主のお心は?御言葉と人の言葉とどちらが行動基盤になって
いるだろう。

御言葉のほうに従って行く時、心が定められ、確信が与えられるの
で、無責任な人の言葉が気にならなくなる。御言葉には力がある。
無責任な人の言葉には、「しかし私には聞こえません。私は耳しい
のよう」と、耳しいになる必要がある。思い煩いや不安の不信仰へ
と誘われてしまう。

「人の言葉にいちいち心を留めてはならない」ともあり、何でもか
んでも受け入れるのではなく、聞く言葉と聞かない言葉の区別が必
要だ。御霊の助けを祈っていよう。

・・・・・・・・・・
愛のある、的を射た助言や忠告は、聞かなくてはならないが、人の
無責任な言葉は気にしない事だ。聞くべきは、主の言葉だ。御言葉
から目を離すと、揺れ動いて定まりが無くなってしまう。御言葉に
より思考し、御言葉により判断し、御言葉を行なってゆけるよう、
祈ろう。


2019年05月11日(土)

「そして舟に乗り込まれると、嵐がやんだ。彼らの心中の驚きは非 常なものであった」マルコ6:51


弟子たちが、夜の嵐に悩まされていた中、湖の上を歩いて、弟子た
ちのもとに来られた主を「幽霊だと思い、恐れで叫び声をあげた」
とある。みなイエスを見ておびえてしまったと。なぜ、主が幽霊だ
と思ったのだろう。「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、
その心は堅く閉じていた」。心が堅く閉じていたからだと。

主を見ても主だとわからない。認識できなかった。まず、主が湖の
上を歩くなどと、発想もなかった。「彼らの心中の驚きは非常なも
のであった」なぜ主が湖を歩くはずがないと思ったのか。弟子たち
は、主は偉い先生だが、人間だとしか思ってなかった。主を正しく
認識せずに、間違って認識していれば、助けを受ける事ができない。

主を小さく見積もるなら、様々な問題に、「これは難しい」「これ
は無理」と決めつけ、不信仰の暗闇に落ち込んでしまう。嵐に飲み
込まれ、沈んでしまう。不信仰は主の力を制限する。私たちはどう
だろう。この程度なら主も可能だろうが、これは難しいからだめだ
と、自分で判断し、思い込みがないだろうか。

「幾ら主でもこれは不可能」との思いが心の底に無いだろうか。そ
れこそ心が「堅く閉じている」状態だ。それなら、主が助けに近づ
かれても、主を恐がり怯えてしまう。自分が主の上に立ち、判断し
ている事に気づこう。主に心を開く時、全能の主がかたわらにおら
れる事に気づく。不可能な事が一つも無い主だ。そして愛の主だ。
問題に心を開いて主を迎える時、風がやむ。平安が臨む。

・・・・・・・・・
主が幽霊に見えるように、見えない先の事を思い煩う時、漠然とし
た不安や恐れで幽霊に見える。不安で不安でたまらない。しかし
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と、向こうか
ら来るのは幽霊でなく主だ。信仰に立つ時に、心は守られる。


2019年05月10日(金)

「それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ、ガラテヤの地方を通った」使徒16:6



信仰生活で、主の御心を知り、御霊に導かれて歩むためには、まず
御言葉が大切だ。主は御言葉に反した導きをされる事は決して無い。
御霊の導きと御言葉は合致している。御言葉と相反する導きは無い。
御霊は御言葉を通して語りかけられる。人生の大切な局面では、御
言葉が与えられるよう祈ろう。

又、御霊は環境、状況を通して示される。それは御霊の働きだ。パ
ウロの一行がアジアで御言葉を語る事を禁じられた。彼らは切に祈
ったであろう。ムシヤに面した所に来た時、ビテニヤの方へ行こう
としたが、それも禁じられた。そこでムシヤを通り、トロアスに下
った。そこで幻を通してマケドニヤへ行く事が導きである事が確信
できた。

あちこちと進路を止められる事により、残された、開かれている道
へと進んだ。環境により、御霊が導かれる。私たちの状況をよく見
ていよう。御心の進路は開かれるが、御心でないなら、道は閉ざさ
れる。状況の閉じ開きにより、御霊の導きを知ることができる。自
分の思いが強い時には、気づかぬまま、自分の主観に飲み込まれて
しまう。

信頼できる導き手の助言を求める事は有益だ。一緒に祈ってもらう
と良い。御心なら必ず御霊の一致があるからだ。又、「神が混乱の
神ではなく、平和の神だからです」。御霊の導きには、混乱ではな
く、必ず秩序がある。そしてそこに平安がある。御霊は私たちを御
心へと導かれる。
--------------
何かを決めようとする時、御霊はまず聖書を開くように導かれる。
自分の思いを委ねられるよう祈り、御言葉と変わらぬ御霊の平安の
中で状況を見ていこう。

--


2019年05月09日(木)

「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった」マルコ6:26



ヘロデは、ヨハネを正しい聖なる人と恐れ、保護していたのに、娘
の言いなりに殺してしまった。なぜなのか。王は娘から、ヨハネの
首が欲しいと言われた時に、非常に心を痛めた。しかし自分の誓い
もあり、人々の手前もあり、ヘロデは、ヨハネを正しいと知りなが
ら、人目のため、ヨハネを殺害してしまった。

ヨハネの語る言葉を当惑しつつも喜んで聞きながら、立場を守り、
体面を保つために、ヨハネを抹殺してしまう。ヘロデは、ただ神の
言葉を喜んで聞くだけで、神に応答し、悔い改める事がなかった。
又、神の言葉にへりくだり、自らを従わせ、自分が変えられて行く
という事もなかった。ヘロデには権力があり、娘の願いを退け、正
しい事を行なう事ができた。

にもかかわらず、娘の言う事に従ってしまった。ヘロデは、神を恐
れず人を恐れた。体面、面子を取り繕うことが最優先であった。私
たちはどうだろう。他人の目に、自分が思う以上に縛られているも
のだ。人を恐れる余り、事を誤ってしまう。それは神の言葉に喜ん
で耳を傾けていながら、御言葉に従うことをさせない。

人への恐れは、内側に根深く培われている。まず気づきから始まる。
ヘロデはヨハネの言葉を喜んで聞いていた。しかし悔い改める事は
なかった。御言葉を聞いてはいても、御霊の示しに従わないなら、
実を結ぶことがない。実を結ぶために、目の前の御霊の示しに、一
歩従う事が大切だ。そうする時、主の豊かな祝福の中を歩める。
--------------
人の言葉や人の思惑、権力やプライドなどで、結果的に自分のした
くない事をしてしまう。なんとう悲劇だろう。御霊の導きがいつも
聞こえ本当に必要な事を行える自分でいたい。


2019年05月08日(水)

「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、ーしかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」ヨハネ2:9




主は、カナの結婚式で、ぶどう酒が無くなった時に、水をぶどう酒
に変える奇跡をされた。その時に、手伝いの者たちに80〜120リット
ルの水がめ6ヶに、水を汲ませた。彼らは、ぶどう酒が必要なのに、
なぜ水を汲むのか。何の意味があるのかわからないまま、主が言わ
れた通りに水を汲んだ事だろう。

その水が、ぶどう酒に変えられた。世話役や結婚式の出席者たちは、
何もわからないまま、知らないまま最高級のぶどう酒を味わい、楽
しんだ。しかしそこに神を認めることは無い。神への感謝も無い。
しかし弟子たちは違った。それが主のみわざだと知っていたので、
「それで、弟子たちはイエスを信じた」。

主は日々、私たちの日常の中で、みわざをなされ、働いておられる。
しかし主を認めなければ、それは偶然で、ラッキーであり、たまた
まそうなったのであり、運が良かったわけで、そこに主を認める事
も、主に感謝する事も無い。私たちはどうだろう。日々、主のご愛
や配慮を認める事なく、一つ一つの出来事を偶然として、流してい
れば、世話役や人々と同じだ。

この1日は主から来ていて、主から、家族が、仕事が与えられてい
て、環境も主の御手の中だ。当たり前ではなく、主からのものだ。
そこに焦点を当てて、この1日を見る時に、弟子たちのように、主
のみわざを認め、見る事ができ、感謝が溢れ、更に主を信頼して行
くことになる。
----------
主の御言葉を受け、あのこと、このことと黙々として行く。何気な
い日常に、水をくんだ者にしかわからない主からの感動が与えられ
る。今日も主に従い歩もう。


2019年05月07日(火)

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神」詩篇68:19



重荷を委ねたら良いのはわかるのだが、委ねる事ができない、どう
しても出来ないとよく聞く。「委ねる」とは、石を転がすというよ
うな意味で、主の上に、あなたの重石である重荷を転がしてしまう
ことだ。石を転がすと、その転がした石はどうなるのか。それは主
の上にあって、自分のもとにはもう無い。

そのように、主にきっぱりと手放してしまうことだ。すると思い煩
いが消えてしまう。不安が失せて、平安が心に満ちる。経験した事
があるだろうか。重荷が、心配事が、主の手に渡ってしまうからだ。
ところが、委ねたつもりでも、自分が握っているなら、いつまでも
不安は消えない。平安にならない。

委ねた「つもり」で、実は明け渡していない。自分が手を放すと、
どうなってしまうのかと不安でたまらず、どうしても放す事ができ
ない。つまり主を信じることができない。自分が手放すと、すべて
がだめになってしまうように、崩壊してしまうように思える。だか
ら放せない。問題が「不信仰」「信じる事ができない」ところにあ
るなら、その事を主に打ち明け、助けを求めよう。

自分の思い通りにしたいという時も、委ねられない。委ねると自分
の思いが通らないからだ。委ねるとは、「イエス」でも「ノー」で
も、どちらでもOKです、との態度だ。その事に執着しているなら
委ねられない。御霊に心を探っていただいて、主の助けを求めよう。
主は委ねさせて下さる。
-------------
私たちの背後には常に共に戦ってくださる主がいる。主に問題を委
ねられないのは何故か、ゆずれないものは何だろう。握ってるもの
を主に渡せるように祈ろう。


2019年05月06日(月)

「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」詩篇130:3



聖書には、信仰者の失敗がありのまま記されている。世の書なら、
都合悪い部分は隠すところだ。しかし赤裸々に書かれている。アダ
ムとエバは失敗して罪を選んで、神から隠れた。ノアは酔っ払って
失敗し、アブラハムは妻を妹だと嘘をつき、又、神の時を待てずに
奴隷ハガルにより、イシマエルを産み出してしまった。

イサクも父と同じく、妻リベカを妹と偽る。ヤコブは父と兄をだま
した。モーセは40歳の時に人を殺して逃亡した。又、出エジプトの
後、荒野で怒りで岩を打つ罪を犯し、約束の地に入れなかった。ア
ロンは金の子牛の偶像を作る罪を犯した。ダビデは姦淫に殺人の罪
を重ね、ペテロも弟子たちも主を裏切って逃げてしまった。

主はそれらを失敗をことごとく悔い改めに導き、赦され、尚も不変
の愛で、愛し続けられた。どんな失敗をしたとしても、決して見捨
てられない。アブラハム、イサク、ヤコブは祝福され、モーセはイ
スラエルの民救出の大役を果たし、ダビデは詩篇を記し、ペテロは
諸教会のリーダーとして活躍した。

失敗の時は、問題の原因を考えてみよう。自分のどの部分の弱さで、
自分の何に触れているのか。プライドか、虚栄心か、貪欲か・・繰
り返す事から守られる。いたずらに落胆せず、主の完全な赦しを受
け取ろう。主はあわれんで下さる。何度も起き上がり、やり直すこ
とができる。
------------
失敗する度に前を向けるのは罪を赦してくださる御父がいるからだ。
悔い改め赦しを受け取る時に大きな慰めを受ける。失敗はしても、
その処し方だけは間違いたくない。


2019年05月05日(日)

「彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄 光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる」 出エジプト14:4


エジプトで苦難にあえいでいた民は、主に助けを叫んだ。すると、、
主はモーセを、民、救出のために送られた。幾度も前言を翻すパロ
に対して、主の奇跡を持って対抗し、とうとうパロは観念し出て行
くよう告げた。意気揚々と大勝利で、男子60万人、女、子供で倍以
上の人々でエジプトを出た。

主は険しい回り道を命じられ、荒野へ出た。東の平地へ向かえば楽
だが、ペリシテに行くなら、民が戦いを見て、心が変わり、エジプ
トに引き返すといけないからと。荒野に出て宿営した途端、更なる
問題が。主は「引き返せ」と。少しでも先に進みたいのに、なぜ?
だが、主の作戦であった。パロに民が迷子になったと思わせ、追跡
させるためであった。

パロの全軍を通して、「わたしの栄光を現わす」「わたしが主であ
ることを知る」と。主はわざとそうされた。民が引き返すと、パロ
は、全戦車、最強軍団で追跡し、彼らに追いついた。民は非常に恐
れて、主に叫んだ。叫んだのはよいが、答えを待つのでなく、モー
セを責め、文句をぶつけた。モーセに、主は「恐れるな、主の救い
を見よ、主が戦われる」と。前は海、後ろは追軍の絶体絶命の事態
だ。

だが主は、海を分け、目の前に道を造られた。私たちも絶体絶命の
苦しみに会う。しかしそれは神の栄光のためだ。あなたを通して、
神が栄光を現わされる。主は、あなたの前に道を造られる。不可能
は一つもない。目の前の問題に、ご計画がある事を信じ、栄光が現
されることを信じていよう。

・・・・・・・・・・・・
なぜかわからない、理解不能な事態が起きる。だが何もかも御手の
中のこと、どんな時にもご計画があることを信じよう。結果的に主
が、ご自身の栄光を現されるためだ。信じていよう。主は道無きと
ころに道を造られる。今、目の前に道が無くても造られる事を見て
行く。


2019年05月04日(土)

「それから、彼に次のような主のことばがあった・・それで、彼は行 って、主のことばのとおりにした」T列王17:2


主はエリヤを一歩一歩と導かれた。まずアハブ王に雨が降らない事
を告げるようにと。悪王であるアハブだ。王の気に入らない事を言
えば、その場で打ち首にも。しかしエリヤは主の命令に従った。勇
気が要った事だろう。すると次の一歩が示された。ケリテ川へ行け
と。そこでカラスを用いて養うからと。アハブの攻撃から守り、か
くまうためだった。

しかし貪欲なカラスが食べ物など運ぶはずがない。自分が食べてし
まう。だがエリヤは信仰によってその示しに従った。すると主の言
葉の通りに、カラスが運んで来る食物により養われた。その川の水
を飲んだが、日照りで遂にケリテ川も枯れた。すると次の一歩が臨
んだ。ツァレファテへ行けと。そこのやもめにより、養うとの示し。

その通りに従うと、やもめ共々、大きな主の奇跡を見る事になる。
飢饉の中、やもめが手持ちのギリギリ最後の貴重な食物を、まずエ
リヤに献げた結果、飢饉の間中、豊かに養われた。主は一歩づつ示
される。「あなたの御言葉は、私の足のともしび、道の光」の通り
だ。

暗闇の中で、先も見えずわからない。しかし主は目の前に御言葉を
与えられる。だから足もとだけは見える。ともしびだ。サーチライ
トではない。一歩、歩を進める事の出来る御言葉を与えられる。そ
れに従い一歩進むと、次へと展開し、次の一歩が明らかにされる。
サーチライトを求めていないだろうか。今、必要な事は、目の前に
示されている一歩を踏み出す事だ。

・・・・・・・・・・・・・・
ケリテ川に行く事、ツアレファテに行く事、目に見える所は不安材
料しかない。だが主の言葉の通りにした時に、大きなみわざを見、
主のご愛と真実を新たに知る。目の前の事も、見えたら従うのでな
く、見えない中御言葉信頼し、従えるよう祈ろう。


2019年05月03日(金)

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」詩篇102:17




ある人が、ある月末に経済的苦境に陥った。赤ん坊のミルクが無く
なってしまい、買うお金が無かった。夫が、とりあえず友人に借り
ると言った。給料が入ればすぐに返せる。夫の友人は快く貸してく
れるだろう。しかし自分はクリスチャン、まず主に祈り、主に頼り
たい。

心の中で主に向けていると、夫が、「先にちょっと父親を見て来
る」と出た。すぐ近くで独り住まいの父親が体調崩し伏せっていた。
夫が出た後、主に祈り始めた。必要が与えられるように、切に祈り
に祈った。30分経た頃、ふと人の気配を感じ、振り向くと、夫がミ
ルク缶とおしめを持って立っていた。びっくりして、どうしたのか
と聞くと、父親の所へ行くと、丁度親しい知り合いが来て、見舞金
を渡された。

それでとり急ぎ必要な物を買って来たと。直ぐなる主の答えに、主
を崇め感謝に溢れた。ある人も会社の突如の倒産に、貯えの無い中、
とりあえず当座の必要を親戚に借りようと思った。しかし「神の国
とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、
これらのものはすべて与えられます」を与えられた。

即、人に借りるのでなく、まず主に求めようと。それで必要が与え
られるようにと切に祈った。祈り続けていると、以前にお金を貸し
た人から、まとまったお金が返済されて来た。全く忘れていたもの
だった。主が共におられるとは何と幸いだろう。
--------------
主は愛する者の最善を与えてくださるお方だ。まず主に求めよう。
窮地を知っておられる主に祈り一切を委ねよう。祈りと同時にまず
主の平安が与えられる。


2019年05月02日(木)

「さあ、私たちに先だって行く神を造ってください・・モーセという者が、どうなったのかわたしたちにはわからないから」出エジプト32:1




モーセが主との会見でシナイ山に上っている間、モーセは不在、神
がわらなくなってしまった民は、アロンに偶像の神を造るように頼
んだ。彼らは周囲の人々と同じように、目に見える偶像の神を求め
た。人は目に見えない神よりも、肉眼で見える、形のある神を求め
る。それは木や石や金で造ったいわゆる偶像の神だけではなく、お
金、仕事、趣味、人であったりする。

名誉や地位、人からの賞賛が偶像にもなる。目に見えない神を信頼
できないので、確かな手応えのある、目に見えて信頼出来るものを
求める。アロンはモーセを助けるためにそこに置かれたのであって、
モーセ不在中での出来事に際し、主からの力を受け、民を導き、治
めるべきであった。それが民の言いなりになってしまった。

アロンは鋳物の子牛の像を造り、彼らは「これがあなたをエジプト
の地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、礼拝した。主はモーセ
に「すぐ降りて行け。民が堕落してしまったから」と。神の栄光を
現すべき聖なる民が、神でないものを崇め、礼拝する、神を辱めて
しまう。クリスチャンなら、目に見える彫像を拝みはしないが、心
の奥で、神よりも大切にしているものはどうだろう。

神よりも愛し、神よりも信頼しているもの、それが偶像だ。「この
むさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と、偶像礼拝は、心の欲
望、貪欲にあると。又、心の奥の空洞を埋めたくて、偶像に走る。
真に心を満たす事ができるのは、主だけだ。主ご自身で、心満ち足
らわせられるよう、求めて行こう。
-----------
偶像を造らせ、拝ませる者の正体はサタンだ。もし神以外のものに
依存しているなら、それを失った時に自分自身が失われる。生きる
力、希望、喜びを豊に与え続けてくださる御神から迷い出ないでい
よう。


2019年05月01日(水)

「たとい、主が天に窓をつくられるにしても、そんなことがあるだろうか」U列王7:2



飢饉で人々が餓死する非常事態の中、エリシャは「明日小麦や大麦
が溢れるばかりにある」と語った。すると侍従はそんな事があり得
ようかと言った。それを聞いてエリシャは、あなたはそれを見るが
食べられないと預言した。そんな時、サマリヤの門に四人のらい病
人がいた。町は飢饉、どうせ自分達は死ぬ。それなら敵の陣営へ入
ってみようと。

もしや食料があるかも知れない。すると敵の陣営で、神が敵に、大
軍勢の騒ぎを聞かせられ、襲撃と勘違いするようにされた。敵は驚
き恐れ、陣営を置き去りにしたまま逃亡した。それでそこに入ると、
山ほどの金銀と食料が溢れていた。彼らは、王家に知らせた。王は
信じなかったが、偵察により事実を知った。

すると大勢が殺到したので、門の管理をしていた侍従は踏みつけら
れ死んだ。預言通りになった。実際、溢れるほどの食料を神は用意
された。しかし、それを信じなければ、自分のものにはならない。
溢れる食料があるにかかわらず、飢えて死ぬ事になってしまう。私
達も同様だ。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされる
事・・、

溢れる食料の中にいながら、信じなければ、餓死するように、溢れ
る恵みの中で、不信仰でいないだろうか。自分で恵みを遮断してい
る、侍従は自分の姿ではないだろうか。溢れるばかりの、驚くばか
りの恵みの中で、信じようとしない自分に気づく事から始まる。そ
れはそのまま祈りに持って行ける。主はその祈りに答えて、信仰へ
と導いて下さる。
--------------
目の前の現実が心を支配し、本当に御言葉は成るのかとつぶやく。
不信仰のつぶやきをひとつ、ひとつ主に差し出して祈ろう。今しか
見えない恐れも、主が守ってくださる。御言葉を信じる信仰へと進
もう。