2019年06月30日(日) 「サムエルは『お話ください。しもべは聞いております』と申し上 げた。主はサムエルに仰せられた『見よ。わたしは、イスラエル に・・』Tサムエル3:10
「サムエルは『お話ください。しもべは聞いております』と申し上 げた。主はサムエルに仰せられた『見よ。わたしは、イスラエル に・・』Tサムエル3:10
なぜサムエルは、主の御声がわかったのだろう。サムエルは、主か ら呼ばれた時に、2度「はい、ここにおります」と答え、自分の師 であるエリのもとへ行った。エリが自分を呼んだものと思ったから だった。更に同じ事が起きた時に、エリは、主がサムエルを呼んで おられると悟った。それで次に呼ばれた時は、「主よ。お話し下さ い。しもべは聞いております」と答えるように言った。 そして、サムエルは、次に呼ばれた時に、師に言われた通りに答え た。これは「私は、お従いします」ということだ。大事な事は、サ ムエルは、「何でもお従いします」との姿勢でいたから、主の御声 を聞く事ができたということだ。 私たちはどうだろう。自分に都合の良い事を聞きたいだろうか。自 分の聞きたい言葉が決まっているだろうか。もしそうなら、主がど れだけ語りかけても、こちらの側で受け取れない。欲しい御言葉で ないなら捨ててしまう。それが無意識になされていたなら、「御心 がわからない、わからない」になってしまう。 私たちに強い願望、すでに心に決めた事柄がある時、無意識にそれ 以外の言葉はスルーしてしまって気づかない。サムエルのように 「主よ。どうであれお従いします」の態度で、主の御前にいる時、 必ず主の導きを悟って行ける。自分の思いを明け渡せるように祈ろ う。 ・・・・・・・・・・ 主の語っておられる言葉が、主の御心がわかるのは、どうであれ従 おうとのスタンスがあるからだ。自分の強い思いがあると、それが 妨げになって、なかなか主の御心がわからない。御霊に自分の内を 照らして頂いて、気づきを与えて頂こう。次の展開へと導かれる。
2019年06月29日(土) 「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なこ とではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」ガラテヤ5: 6
「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なこ とではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」ガラテヤ5: 6
こんな話がある。結婚したのだが、非常に厳しい夫だった。とにか く細かくて、うるさくて、妻のする事なす事、不足で気に入らなく て、文句ばかりだった。妻は、毎日、夫から家事リストを渡される が、常に不完全で、欠けだらけで、成し遂げる事など到底できなか った。 毎日、不具合を指摘され、責められ、叱られては、落ち込み、怯え て、ビクビクしていた。結婚生活は悲惨であった。喜びも楽しみも なく、辛いばかりで、又、出来ない自分を責めては苦しんだ。その 夫が死んで、その後再婚した。すると再婚相手は、全く違った。 落ち込みそうになるといつも励まし、失敗してしまうと慰めてくれ、 力づけてくれた。夫からいつも新しい力が与えられた。そして最も 違う所は、前夫は命令するのみであったが、今の夫は、いつも助け てくれた。一緒に担ってくれた。夫との生活が、喜びと楽しみであ った。 そして動機が違った。以前は、夫はどこまでも正しく、、正しい夫 に従うのは正しい事であった。しかし、今は、夫の愛に応えたいが ゆえに、義務ではなく、自発的に、自由意志で家事をしていた。夫 を愛するがゆえだった。前夫と妻の関係は、律法と自分の関係だ。 自分で律法を行おうとしても、出来ない自分を知るばかりだ。行な う事は出来ない。惨めな自分を知る。しかし新しい夫は、主だ。常 に寄り添い、共におられ、一緒に負って下さっている。正しいだけ でなく、愛して下さっている。その愛から喜びと楽しみ、平安が流 れ出る。 ・・・・・・・・・・・ 歩みが辛く、重く、苦しいなら、律法に陥っている。自分の力で行 っている。「神を愛するとは、命令を守ることであり、その命令は 重荷とはならない」とある。喜び無く重荷なら、主にありのまま祈 ろう。主が御霊に導かれた歩みへと正しく導いて下さる。
2019年06月28日(金) 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇 119:105
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇 119:105
ある人が、上司から無理な多大な要求をされ、心身共に参っていた。 暴言は日常茶飯事で、心に刺さり、神経的にも参っていた。まさに パワハラであった。皆の前で責められるも、納得行かず、理不尽に 思えた。赦せない思いが募り、その思いは上司に対する憎しみと増 幅して行った。しかし赦せない思いは、自分が苦しい。辛くてた まらない。胸が苦しく、重くて、悶々状態だ。 心に重い鉛を抱えているようだ。他の事を考えていたり、目の前の 事に忙しく追われている時は、紛れているが、空いた時間には、ふ っとよみがえり、心に深い影を落とす。楽しい時も心重くなり、目 の前の事を楽しめない。牢獄に囚われの身のようだった。 追いやられるように、主の御前に行き、何もかも心のありのままを 打ち明けた。苦しくてたまらない事、赦せない事、憎んでいる事、 しかし自由になりたい事、平安が欲しい事・・葛藤があったが、この ままではいたくない。その時、御言葉から示された。「わたしのと りでに頼りたければ、わたしと和を結ぶがよい」と。 これは相手の問題でなく、裁く心、憎しみは、主と自分の間をしゃ 断してしまう事、主との関係にひびが入っている事を示された。相 手どうのでなく、まず主との個人的関係を正しくする事が大事だと 示された。主との関係は何があっても正しくありたい。その一心で、 悔い改め、赦すことを決意した。「赦します。助けて下さい」と主 に意志を向けた。すると、不思議に心が落ち着いて行った。 ・・・・・・・・・・・・ 赦せない思いや憎しみは、闇の中にいることになる。見えなくなっ てしまう。どんな中でも祈ろう。祈りに答えて、主は御霊の光を与 えて下さる。御言葉から光が来ると、光があるので自分の姿が見え る。見えると悔い改めることが出来る。まず主を求めて祈ろう。
2019年06月27日(木) 「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木 に登った」ルカ19:4
「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木 に登った」ルカ19:4
人は、被造物なので、何かに頼らなければ生きて行けない。自分は 自主独立だと言う人がいるが、自分に頼っている。富に頼っている かも知れない。神に頼らなければ、必ず何か別のものかに頼り、心 の偶像となる。愛する人、名誉、地位、人からの賞賛、仕事、趣 味・・何かを握りしめて、心の安心を得ようとする。 ザアカイは、富が自分を幸せにしてくれ、夢を叶えてくれ、生きる 喜びを与えてくれると信じたので、富を握りしめた。不正の利で、 財を築き上げ、取税人のトップに昇りつめ、資産家となった。有り 余るほど富を得た。しかし不正の罪を犯していたので、心は暗く、 喜びも平安も無かった。富は自分を決して幸せにはしてはくれなか った。 心は虚しく、更に人々にも嫌われ、孤独な日々だった。一筋の光を 主に求め、望みを主に置いた。ところが主はすでにザアカイをご存 じで、主を求める渇いた心を受け止めておられた。ザアカイは人々 に阻まれて、主に会えないとわかると、木に登ってまで主のもとへ。 それほどの一途な心を、求めを、主はどんなにか愛し、応えて下さ った。 「今日、あなたの家に泊まる」とすでに決めておられ、ザアカイは 主と食事をし、主と共にいた、その後、180度変えられた。別人に なった。金の亡者が、半分を貧しい人に施し、だまし取った人々に は4倍にして返すと。以前のザアカイを思うと、奇跡のようだ。主 の愛に満たされた結果だった。 主は、主への求めを喜ばれ、求める心に応えて下さる。神以外のも ので、安心を得ているだろうか。主はご自身に求めて来る人を決し て拒まず、豊かに満たして下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 主を切に求めるたましいを、愛して受け止めて下さる。「主を見る ために、走り、登った」。朝起きた時から、そして日々に主を切に 求めたい。主との関係を深められるよう、又、目をそらす妨げがあ るなら、気づきが与えられるよう祈ろう。
2019年06月26日(水) 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立 つ」イザヤ40:8
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立 つ」イザヤ40:8
対人関係で問題が起きて、心が暗く辛くなる事があるだろうか。人 から批判されたり、攻撃されたりすると、トゲのある言葉が心に刺 さる。又、人からのちょっとした言葉が、ひどく気になり、不安に なり、落ち込んでしまう。心を探ってみて、もし自分の側に、非が あれば、悔い改めることと相手に謝ることが必要だ。しかし幾ら考 えても、自分に落ち度が無いなら、理不尽な言葉なら、人の言葉で なく、御言葉に目を向けて行こう。 心暗くなり、落ち込むのは、自分の中で人の言葉が第一になって、 重きを置いているからではないか。その根には、人に良く思われた いし、好かれたい、嫌われたくない思いがある。人からの評価が欲 しい。しかし神の言葉と人の言葉と、どちらが大切なのだろう。御 言葉が飛んで、人の言葉に振り回されていた事に気づく時、平安が 戻る。御言葉を受け取り、御言葉を握っていよう。 御言葉によって、人からの批判や状況を見る時に、神視点で人の言 葉や状況を見ることができる。心に平安が無いなら、心が辛く苦し いなら、神の言葉でなく、人の言葉のほうを受け入れている。「す べての人は草」だと言っている。人の言葉は草のようだと。草は枯 れてしまう。 草は枯れ、花はしぼんでしまう。だが、私たちの神のことばは永遠 に立つと。今、心が辛く、平安が無いなら、自分の言葉や人の言葉 に振り回されていないだろうか。御言葉に目を向けよう。御言葉か ら平安が臨む。我に返れて、御心へと導かれる。 ・・・・・・・・・・・・ 人からの、愛のある信仰的、建設的な忠告や助言はどんなに痛くて も聞く事が大切だ。しかし人からの、根拠の無い理不尽な言葉や、 悪意ある言葉は聞き流そう。聞くべき言葉と聞き流す言葉がある。 そして何よりも神の言葉に聞いて行こう。
2019年06月25日(火) 「シムイはのろってこう言った『出て行け、出て行け。血まみれの 男、よこしまな者』」Uサムエル16:7
「シムイはのろってこう言った『出て行け、出て行け。血まみれの 男、よこしまな者』」Uサムエル16:7
ダビデはこの時、心が引き裂かれるような辛い状況にあった。実子 アブシャロムに歯向かわれ、攻撃を受ける。そのダビデは息子と戦 わないで、ただただ逃げ回る。愛する実子の謀反にどんなに辛く心 痛んだ事だろう。又、信頼しきっていた側近のアフィトフェルの裏 切りにも会う。彼はダビデからアブシャロムに寝返る。 心はずたずたに裂かれて、涙と心痛の中、シムイという男にそしら れる。彼は盛んに呪いの言葉を吐いた。「出て行け。血まみれの男。 よこしまな者」と。部下が「首を跳ねさせて下さい」と進言したほ どだ。しかし、ダビデは「彼にのろわせよ。主が、彼に命じられた のだから。主が彼の呪いに代えて幸せを報いて下さる」と。 ウリヤ殺害の罪が思われただろう。しかしダビデは、信仰によりす べてを主に委ねていた。だから受け止めることができた。幸せも主 から来ると信じる事ができた。ダビデは、なぜこんなに落ち着いて 対応できたのだろう。私たちは、人からの攻撃的な言葉、傷つく言 葉を聞くと、不安、恐れ、思い煩い、怒りでいっぱいになる。 何を受け入れるか、拒否するかは自分次第で、選択だ。同じ言葉を 聞いて、心乱れる人も、穏やかでおれる人もいる。どこに視点を置 いているかが重要だ。ダビデは主だけを見ていた。一心に主を見て いたので、状況は問題ではなかった。状況に飲み込まれると、主が 飛んで見えなくなってしまう。今、目の前の問題でなく、目を主に 向けよう。 ・・・・・・・・・・・ 落ち込む時、思い煩いでいっぱいになる時は、必ず状況や自分を見 ている。主を見ていない。主を見上げ、主に頼る時に、御心の対応 が与えられる。主に向くと、主がどなたで、どのようなお方かを思 い出し、信仰の目を持って、状況を改めて見直せる。
2019年06月24日(月) 「私はいつか、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人 の地にのがれるよりほかに道はない』」Tサムエル27:1
「私はいつか、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人 の地にのがれるよりほかに道はない』」Tサムエル27:1
サウル王に命をつけ狙われていたダビデは、常に死と紙一重であり、 それはどんなに恐怖だったろう。いつかは殺されるのではないか。 そのため自分を救うべく敵のペリシテの地へ逃れる事を考えた。そ こは敵地であり、サウルは捜す事を断念するだろうと。「ダビデは 心の中で言った」とあり、祈ったのではなかった。 ダビデは、どんな時も主に祈り、主に導きを求め歩んで来た。しか しここでは祈らずに、自分の思いで決めた。恐怖と不安に飲み込ま れてしまっていた。アキシュのもとへ身を寄せたが、自分の、肉の 思いで進んだ結果、嘘に嘘を重ねる事になり、更に、アキシュと共 に、何と同胞イスラエルと戦争をするという窮地に陥ってしまう。 サウルやヨナタンと戦う事になる。しかし、そこに主が介入された。 ペリシテの領主達が、ダビデが裏切るのではと、参戦させないよう 言って来た。アキシュはそれを受け入れ、ダビデは同胞との戦争を 免れた。最悪の事態から、神は守られた。「人を恐れるとわなにか かる。しかし主に信頼する者は守られる」。人を恐れる時、サタン の罠にかかってしまう。 人を恐れる時、そこにサタンの罠がある。エリヤも、エリや殺害命 令を出したイゼベルを恐れて逃亡し、えにしだの木の陰で死を願っ た。主の言葉でなく、人の言葉を受け入れてしまった。人の言葉に 飲み込まれてしまった。 人や状況や自分にあるその視点を、主に移そう。自分で動かずに、 主を仰ごう。まず祈って判断しよう。自分で自分を守るのでなく、 主が守って下さる事に信頼し、委ねよう。その時、サタンの罠から 守られる。 ・・・・・・・・・・・・・ 目の前の状況が、余りにも大きい時に、主も御言葉も飛んで、状況 に飲み込まれてしまう。自分で何とかしなければと、肉の知恵と考 えで動き回って失敗する。しかし尚も主のあわれみは尽きず、失敗 するが、尚も愛の御手で関与して下さる。窮地では、とにかくまず 主を仰ごう。
2019年06月23日(日) 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5
サウルが罪を犯した時に、サウル王に代わって、主からダビデが選 ばれた。サムエルがエッサイのもとに遣わされ、羊飼い少年ダビデ に会った。ダビデはサムエルから油注ぎを受け、主の霊がダビデの 上に激しく下った。イスラエルの王と決められていたが、厳しい下 積み時代があった。ダビデは忠実に、主に仕え、サウル王に仕えた。 ゴリアテを倒したまではサウルの愛顧を受け良かったが、ダビデの 戦いでの連戦連勝で、サウルの妬みをかう事になった。女たちが笑 いながらくり返し「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌 った。これがサウルを激怒させた。「サウルは千を打ち」だけなら 良いが「ダビデが万」がサウルのプライドをひどく傷つけた。 結果、サウルはダビデに殺意を抱き、つけ狙うようになった。ダビ デは槍を投げつけられた事もあった。いつ殺されるかわからない、 「私と死との間には、ただの一歩の隔たりしかない」日々だった。 どんなに恐怖で不安だったろう。ダビデはサウル王に悪い事は何も していない。むしろ忠実な良い部下であった。 しかしこの試練により、ダビデの忍耐と信仰は練られ培われた。サ ウルを殺害する機会があったが、自分で手を下す事をせず、ただ じっと主を待ち望んだ。この厳しい苦しい試練を通して、委ねる生 き方を学ばされた。私たちも極めて厳しい状況を通る。それは委ね る事を学ばされるためだ。これは実地訓練であり、通らなければ、 決して身につかない。様々試練を通して、培おうとして下さってい る。 ・・・・・・・・・・・・・ ダビデは自らの手で油注がれた王にいっさい反撃せず、復讐もせず、 ただ逃げて、逃げて、ひたすら逃げ回った。どんなにか苦しく、辛 く、厳しい試練の中で、主に委ねることの訓練を受けた。委ねざる を得ない状況に置かれた事が、むしろ恵みであったと必ず後に知れ る。
2019年06月22日(土) 「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いて くださる」詩篇55:17
「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いて くださる」詩篇55:17
信仰生活で、苦しみの時、悲しみの時、辛くてたまらない時を経験 する。必ず通る。そんな時、どうすればよいのか。詩篇記者やダビ デを通して学ぶ事が出来る。ありのままの気持ちを率直に主に告げ て祈っている。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか」 「なぜ御顔をお隠しになるのですか」「なぜあなたは私を拒まれた のですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか」 「まことに私のいのちは悲しみで尽き果てました」「私のたましい は悲しみのために涙を流しています」「私の目から涙が川のように 流れます」「私のたましいは御前で絶望しています」。嘆き、悲し み、苦しみ、いら立ちをそのまま訴えている。感情を抑え込むので なく、我慢するのでなく、無い振りをするのでなく、ありのまま主 に持って行っている。 詩篇記者は、心の奥の思いも、感情も、思いのたけを十分、主に吐 き出して、受け止めていただいた時に、変えられている。嘆き、怒 り、恐怖、悲しみ、憂いが、主への感謝と賛美に変わっている。 「主よ。いつくしみ深いあなたの御名に感謝します」「私の心はあ なたの救いを喜びます」。まず祈りにより主に向くことで、問題や 状況から、目が主に転じて行く。 そこに主が働かれ、心にみわざをされる。主と交わる時に、問題、 悩みに飲み込まれていた心が、上を向き、信仰の目を持って、問題 を見るようにされる。変わらない愛で愛されており、万事益であり、 ご計画があり、最善をして下さる、神視点へと導かれる。 ・・・・・・・・・・・・ 苦しみ、悲しみ、嘆き、不満、怒り、失望・・ダビデは率直にそのま ま祈っている。どの箇所も、その後が賛美と感謝に変わっている。 祈りに持って行く時、主に向いている。状況と自分しか見ていない 目が、主に向き交わる時に、状況変わらずとも心が変えられて行く。
2019年06月21日(金) 「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちで す」ヨハネ6:63
「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちで す」ヨハネ6:63
ある人が、非常に苦しい辛い状況にいた。身動き取れない厳しい状 況だった。その上に、経済的苦境や対人関係の問題も起きて、もう いっぱいいっぱいで、心に何の余裕もなく、聖書を読むことも祈る 事もできなかった。実は自分が拒否していたのだが。なぜ自分ばか りがこうなのか、自分は祝福されていないと、心を屈折させていた。 周囲が心配してくれているのはわかるのだが、皆が幸せそうに見え て、反発心まで出て来る。自分のカラの中に閉じこもり、周囲をシ ャットアウトし、教会にも行かなかった。心の屈折が、自分でどう にもならなかった。そんな中、心配して信仰の友が家に来てくれた。 突っ張った態度しか取れない、情けない自分だった。相手の言う事 に反抗ばかりしてしまう。 だが心にはもう一人の自分もいた。こんな自分のためにわざわざ来 てくれて、申し訳ない、有難い。心を頑なにしていて、平安は全く 無かった。これでいいはずはない。だが状況は苦しい。ぼろぼろで、 グダグダな心を主に向けた。 その時、御言葉が心に響いた。その翌日、牧師夫人からの手紙を受 け取ると、全く同じ御言葉があった。もろに主を感じ、主からの自 分への言葉と受け取れた。主を信じようとせず、すねた、曲がった 自己中心な心を悔い改めた。信じて行こうと思えた。立ち返れたの は、やはり周囲の祈りと御言葉だった。御霊からの言葉は、霊であ りいのちであり、力だ。 ・・・・・・・・・・・ 苦しい時、落ち込む時、主のひと言葉が、新しい力を与え立ち上が らせてくれる。又、迷う時、どうしてよいかわからない時、主の言 葉で光が臨み、御心へと導かれる。御言葉はいのちだ。何度も生き 返らされた。主がいつも共におられ、御声をかけていて下さる。耳 を澄ましていよう。
2019年06月20日(木) 「私たちはこの人たちをこの仕事に当たらせることにします。そし て、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにしま す」使徒6:4
「私たちはこの人たちをこの仕事に当たらせることにします。そし て、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにしま す」使徒6:4
初代教会は大きく成長する中で、アナニヤとサッピラの偽りを主が 対処された。その後、問題が勃発。ギリシャ語を使うユダヤ人のや もめ達から、毎日の配給が不公平だと不満が起き、苦情が出た。使 徒たちは配給に多大な労力と時間が取られていた。祈りと御言葉の 奉仕の重大性を考えた事だろう。 そこで12使徒は弟子たち全員に告げた。この問題の解決のために、 神の言葉と祈りが最優先であると。神の言葉を教える事を後回しに して、食卓の事に仕えるのは良くないと。祈りと御言葉の奉仕を第 一にする事、そしてそのために、御霊と知恵とに満ちた評判の良い 7人を選出し、この事に当たらせるようにと。使徒たちが御言葉の 奉仕に専念できるように。 この解決は全員の承認が得られ、一致の中で行なわれた。皆に平安 があった。問題に良い解決が与えられた結果、「こうして神のこと ばは、ますます広まって行き」「弟子の数が非常に増えて行き、多 くの祭司たちが次々に信仰に入った」。働きに実を結んで行った。 使徒たちが御言葉の奉仕に専念できた事が大きかった。 目の前の問題解決だけでなく、豊かな結実へと導かれた。私たちに も問題は次々に起きる。その時に「祈りとみことばの奉仕に励み」 の通り、まずよく祈り、御言葉に聞いて行く事が大切だ。主の御心 を悟り、その通りに従って行く時に、問題解決へと導かれて行く。 ・・・・・・・・・・・ 問題が起きた時に、主が飛んでパニックになってしまう。問題が問 題で、何とかしなければと右往左往し、目の前の解決に悪戦苦闘す る。そうでなく問題が来た時は、まず祈ろう。そして静まって御言 葉を聞き、その御声に従おう。その時に主が働かれ、みわざを見て 行く。
2019年06月19日(水) 「その後、サムソンはソレクの谷にいるひとりの女を愛した。彼女 の名はデリラといった」士師記16:4
「その後、サムソンはソレクの谷にいるひとりの女を愛した。彼女 の名はデリラといった」士師記16:4
サムソンは力の賜物を与えられたナジル人であった。しかし、自分 が好意を持つデリラによる誘惑に勝てなかった。誘惑は少しづつ、 しかし執拗に欲望に働きかけてくる。最初は、少しなら大丈夫と油 断してしまう。アルコールやギャンブル依存、薬物依存の人も、少 しなら何の影響もないと思い、段々と深みにはまって行く。 デリラはペリシテ人の領主たちに、サムソンの力の秘密を探るよう 頼まれる。それでデリラはサムソンに力の秘密を尋ねる。しかし3 回もだまされたデリラは、しつこくサムソンにせがむ。「毎日同じ ことを言って、しきりにせがみ、責め立てた」ので、サムソンは死 ぬほど辛かった。デリラを失いたくない、失う事が恐いサムソンは、 とうとう力の秘密を明かしてしまう。 髪の毛に秘密があったが、その髪の毛をそり落とされ、ペリシテ人 に捕らえられてしまった。「毎日、しきりにせがみ」私たちもどう だろう。毎日しきりに執拗に聞く言葉が、肉の言葉、サタンの言葉 であればどうだろう。サタンは、あなたの弱い所を毎日しきりに攻 撃して来る。それは妬みや憎しみや貪欲、不安や思い煩いかも知れ ない。それはサムソンのように行為へと進んでしまう。 日々しきりに来ているサタンからの思いに要警戒だ。サタンからの 思いは拒否しよう。「彼は主が自分から去られたことを知らなかっ た」、何と悲しい事だろう。逆に、主のおしえを喜びとし、昼も夜 もその教えを口ずさむなら、御言葉が心に満ちるならどんなに祝福 で幸いだろう。 ・・・・・・・・・・・・ 「毎日、しきりに」思いに来るサタンに気づこう。デリラを愛し、 執着した。心に握り締めている欲や妬み憎しみ野心思い煩い、執着 しているものにサタンは狙って来る。主に明け渡せるよう祈ろう。 御言葉に心を向け、御言葉を絶えず思い、握りしめていよう。
2019年06月18日(火) 「私が、主に呼ばわると、主は私を救ってくださる」詩篇54:16
「私が、主に呼ばわると、主は私を救ってくださる」詩篇54:16
ダビデは非常に苦しい状況にあった。「私は苦しんで、心にうめき、 泣きわめいています」心はもだえ、死の恐怖に襲われていると言っ ている。この状況から逃げたいが、逃げられず窮地であった。迫害 も厳しいが、更にダビデを苦しめたのは、同輩や親友の自分への裏 切りだった。 「私をそしる者が敵ではない、それなら忍べた、そうではなく、私 の同輩、私の友、私の親友のお前が」。深く信頼を寄せていた相手 に裏切られるのは、非常に辛い事だ。その時、ダビデは自分の気持 ちを、主にそのまま言い表している。私たちも、苦しみの中で、た だ嘆くのでなく、又、自己憐憫に陥るのでなく、御前に気持ちを率 直に言い表して行こう。 「恐れ、おののき、戦慄が私を包んだ」状況で、ダビデは、逃げ出 したい思いも、ありのまま告げている。「鳩のように翼があった ら・・のがれ場に急ぎたい」と。試練は逃げてはならず、受け止める 事が肝心なのでは?しかし率直に自分の気持ちを言ってよい。率直 に認めて、言うからこそ次の段階へと導かれる。 死の恐怖、孤独感、心裂かれる痛み、それらを認めた時、ダビデは 上を見上げる事ができた。そして「主にゆだねる」というところへ 導かれて行った。問題を主に明け渡し委ねる時に、事態が導かれて 行く。悶々として、苦しむのは委ねられない時だ。悶々状態で、且 つ、主も見えなくなってしまう。明け渡せるように、助けを求めよ う。その祈りに答えて下さる。 ・・・・・・・・・・・ 気持ちや思いを、自分の内に抑え込むのではなく、ことごとく主に 告げて行こう。自分で悶々としているのでなく、主のもとへ祈りに 持って行く時に、次の展開があり、前に進んで行ける。今、必要な 事は主に呼ばわる事だろうか。
2019年06月17日(月) 「あなたが足の裏で踏む所はことごとく、私がモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ヨシュア1:3
「あなたが足の裏で踏む所はことごとく、私がモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ヨシュア1:3
モーセに導かれた、イスラエルの民は、エジプトを出発して以来、 40年間荒野を旅をし、とうとう約束の地カナンを目前にする所まで 来た。そしてモーセの死後、新しい指導者ヨシュアが、主によって 立てられた。「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダ ン川を渡り、わたしが・・与えようとしている地に行け」と命じら れた。 「あなたがたが足の裏で踏む所は・・モーセに約束したとおり、あ なたがたに与えている」と。主は、ずっとカナンの地をイスラエル に与えると約束しておられたが、実際にそれを手に入れ、自分のも のとするには、具体的な行動が必要だった。その土地に踏み入り、 戦い、勝ち取らねばならなかった。ただ待っているだけで、延々祈 っているだけで、もし行動する事が無ければ、それを所有すること は出来ない。 実際に入って行って、足の裏で踏まなければならなかった。これは、 私たちの信仰も同様だ。主は、私たちに約束を与え、豊かな祝福を 備えておられる。しかしそれを現実に、自分のものとするには、主 を信じ、立ち上がって、行なって行かなくてはならない。行動が必 要だ。その時、約束のものを手に入れる事になる。 今、あなたにも、主が与えようとしている地に「行け」だろうか。 一歩踏み出す事を恐れて、ちゅうちょしてとどまっているだろうか。 今、祈りの座から立ち上がる時だろうか。信仰もって一歩、踏み出 そう。主の約束が現実のものとされる。足の裏で踏もう。 ------------ 導きを示されたなら一歩踏み出そう。今までの価値観や大切なもの を手放さなければならないときは、主は必ず平安も与えてくださる。 十分祈ったなら立ち上がろう。
2019年06月16日(日) 「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべ てに主は近くあられる」詩篇145:18
「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべ てに主は近くあられる」詩篇145:18
ある人が、自分は肉の思いが来た時に、例えば、妬み、憎しみ、腹 立ち、さばく思い・・そんな時、クリスチャンなのにこんな思いを持 ってはよくない、こんな事を思うなんて自分は何と罪深い、思って はいけないと、その思いを否定し、心に抑え込んでいた。そして心 に抑え込んで、表に出さないのだから、むしろ良い人間だと思って いた。 しかし、その抑え込んだ思いは、無くなるわけでなく、そこに蓄積 されて行く。容量オーバーになると爆発していた。そしてずっと 自分は、なかなか変わらないと思っていた。しかし抑え込むのでな く、主のもとへ持って行くことだと教えられた。自分で何とかしよ うとするのでなく、一つ一つ祈って行くのだと。 「妬んでいます」「怒っています」「こんな思いを持っています」 主に告げて行く。苦しい思いをそのまま祈ると、すうっ〜と思いが 消えたり、悔い改めに導かれたり、様々主が導かれることを経験し て行った。何より良くない思いを自分で抑え込むでなく、主に告げ て祈って行く時、心が平安にされることを知った。 「絶えず祈りなさい」、生活の中で、しょっ中、主に語りかけ、主 が近く感じられるようになった。日々真に共におられることが、頭 でなく、膚でわかるようにされた。自分が変えられていることがわ かった。 突発の事態であれ、心の思いであれ、又、悩み、問題を、自分で何 とかしようとせずに、まず主に持って行こう。ことごとく主に告げ よう。主が働かれ、導かれて行くことを経験して行く。「主は、私 に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう」 ・・・・・・・・・・・・・ 自分で処理しようとせずに、主のもとへ持って行こう。気持ちも 思いも、主のもとへ持って行き、主と交わろう。主にことごとく聞 いて頂く時に、心が落ち着いて来る。心が変えられ、冷静になり、 信仰的に建設的に発想して行ける。主との交わりには大きな力があ る。
2019年06月15日(土) 「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってくださ い」詩篇141:3
「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってくださ い」詩篇141:3
ある人がサークルに入った。活動して行く中で、一人の人に理不尽 な態度を取られる。良く思われていないようだ。こちらとしては挨 拶するのだが、返してもらえない。だが相手がどうであれ、挨拶し 続けた。自分が新しく入った事で、彼女の持ち場に変更が生じた。 それが気に入らないようだった。何の応答も無いが、礼儀をもって 接し続けた。 それも祈っていたから出来たことであった。そんな中、自分の挨拶 は無視で、自分を越えて、自分の隣にいた人に、これ見よがしに話 し始めた。さすがにひどい態度に、肉の感情が爆発。怒りで、一言 言おうと、口まで言葉が出かかる。一瞬、自我だと気づき、「神 様!」と叫んだ。「守って下さい!」主に拠りすがった。 すると何と自分の口から、思ってもない言葉が自然に出た。「ごめ んなさいね。私が入ったばかりに、あなたの持ち場が変わってしま って」。自分で驚いた。自分ではなく、御霊によることであった。 そして活動内容に関して「あなたがとても上手なので、リードされ て、私は助けられている」とこれは事実だったので感謝を伝えた。 相手は非常に恐縮し、まさに良心のかしゃくを感じて、動揺してい るようだった。その後は和やかな関係になった。言葉は出してしま うと、取り返しがつかない。自我による取り返しのつかない言葉を 発っしそうな時は、瞬間、主に叫ぼう。主はくちびるを守って下さ る。 ・・・・・・・・・・・・・ 一旦発してしまった言葉は、取り返しがつかない。長年の信頼関係 も一瞬にして壊れてしまう。舌はじっとしていない悪とある。出す べきか迷う言葉は、出さずにまず祈った方が良い。舌が御霊に支配 され、励ましや慰め、建て上げの言葉が発せるよう常に祈っていよ う。
2019年06月14日(金) 「『でもおことばどおり、網をおろしてみましょう』そしてその通りにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった」ルカ5:5
「『でもおことばどおり、網をおろしてみましょう』そしてその通りにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった」ルカ5:5
ペテロたちは徹夜で漁をした。しかし一匹も獲れなかった。漁の網 は重く、身体は疲れ果てていた。その重い網を洗い、一刻も早く家 に帰り、眠りたかったろう。しかし、深みに漕ぎ出して、網を下ろ せと言われる。自分はベテラン漁師であり、他のことはどうあれ、 漁に関してはプロとの自負がある。 先生は、立派な方で、愛や赦しや、神の国のことを教えて下さる方、 だが、漁については素人だ。自分は専門であり、よく知っている。 普通の人の反応だ。自分の方がよく知っている事に関しては、他の 人に、どうこう言われても、なかなか聞けない。しかし、ペテロは、 先生の言うことであり、朝に魚などいるわけがないと思ったが、自 分の経験も常識も横において「でもおことばどおり、網をおろして みましょう」と答えた。 すると奇跡が起きた。自然現象では、いるはすの無い魚がいて、更 に大漁だった。驚いて、畏れた。ペテロは、主の足もとにひれ伏し て「主よ。私は、罪深い人間です」と言った。ペテロは、従った時 に、「先生」から「主」に変わった。私たちも、自分の思い、常識、 経験を横に置いて、「でも、おことばどおり」従って行く時に、ま ことに主であることを知る。 自分の思いや常識、経験値の浅瀬にいるなら、「深みに漕ぎ出して、 網を下ろせ」と私たちにも言われる。示された御言葉に従い、一歩 深みに前進しよう。従う時に、頭でなく、御霊によって、主を知っ て行く。大きな祝福が備えられている。 ---------------- 自分の経験から得た知識には絶対的な信頼をよせている。だからこ そ自分が想定もできなかった主の栄光を拝し、価値観が大きく変え られる経験が大切だ。自分から出て主に信頼し従おう。
2019年06月13日(木) 「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」ヘブル12:7
「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」ヘブル12:7
父と兄をだまして祝福を奪い、兄の激怒のもと家におれなくなった ヤコブは、伯父ラバンのもとへ逃亡する。そこでラケルを愛し「ラ ケルのために7年間仕え」ると、ラバンに申し出た。するとラバン は承諾した。そして約束通り7年仕えたが、愛ゆえに数日のように 思われた。 ラバンは祝宴を開いて娘を与えた。ところがそれは姉のレアであっ た。ラバンに騙されたのだ。その怒りとショックで、ラバンに抗議 すると、姉より先に妹を嫁がせる事はしない、あと7年働けばラケ ルを与えると。狡猾なラバンは、14年間の無報酬の労働力を得た。 ヤコブには辛い苦しい期間だった。 「この20年間、娘たちのために14年、ラバンのために6年間仕えて 来た。昼は暑さに、夜は寒さに悩まされ、眠る事もできない」辛い 日々だったと。ラバンにだまされ苦しめられ、不当な扱いに辛い歳 月。しかし、主に間違いは無い。これらすべて主の取り扱いであっ た。だまされる痛みに、父と兄にした事に思いが至ったろう。20年 の労働も主からの厳しい訓練だった。 「主はその愛する者を懲らしめ」主は、愛ゆえにヤコブ決して見捨 てず、放さず、しっかり握っておられた。砕き、鍛錬された。「あ なたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。あなたに約束したこと を成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。目の前の問題を主 の訓練と受け取ろう。 ------------- 試練を通してどうしても自分の力では動かせないものがあると知り、 心底、主に頼るしかないことを思い知らされる。主からの訓練がな ければどうなるだろう。ますます主を頼り、訓練を通ろう。
2019年06月12日(水) 「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」マタイ8:8
「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」マタイ8:8
あるクリスチャン夫妻の、主人が突然会社が倒産するという事態に 陥った。貯えも無く、パニックになりそうな中、必死で、次の職探 しに奔走した。なかなか次の職も無い中、面接を受けるのだが不合 格。段々焦りが出て来る。そんな間にも、所持金もどんどん減り、 底をついて来る。不安と恐れでいっぱいになる。夫婦で心を合わせ て祈った。 今の自分たちに「御言葉を与えて下さい」「お従いします」「次の 礼拝で、御言葉を与え、御心を教えて下さい。不安でいっぱいです。 思い煩ってしまいます」ありのままを祈った。委ねて、次の礼拝に 臨んだ。すると礼拝での御言葉が「すべての事について感謝しなさ い」だった。 1週間ずっと祈って来たので、主からの答えである御言葉と受け取 り、「わかりました。主よ。今まだ仕事が無いことを感謝します」 と夫婦で祈った。すると不思議が起きて、夫婦で心が平安にされた。 あんなに不安、思い煩い、恐れでいっぱいだった心が、平安になっ てしまった。そして、その後、仕事が与えられたのだった。 しもべの癒しを求めて主のもとに来た百人隊長のように「おことば をいただかせて下さい」と祈ろう。問題が起きた時に、どう捉えて どう対応すればよいのか、み言葉を与えて下ださいと祈ろう。御言 葉から指針が与えられ、御心へと導かれる。 -------------- 主だけが私たちの必要の全てをご存知で、その権威と力のある御言 葉で、不安でいっぱいの所から救い出してくださる。主の御言葉を 切に求めよう。主は与えて導いてくださる。
2019年06月11日(火) 「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18
「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18
ある母親が、子供にいら立っていた。学校から帰宅するや、暗くな るまで外で遊び回り、なかなか勉強へと向かない。友達も沢山いて、 外で元気に遊ぶのは良いのだが、内心は勉強しない事に不満だった。 元気で良いと頭では思うが、心では決してそうでなく、ちゃんと勉 強して、良い成績を取って欲しかった。 子供に対して、こうあって欲しいとの思い、決してそうならない子 供。そんなモヤモヤ、悶々を抱えた日々のところに、その子供が事 故に会った。大きな事故で、救急搬送され、すぐ手術となった。予 断を許さない厳しい状況に、医師には、「覚悟をして下さい」と言 われた。突然の事態にわけもわからない中、とにかく命をとどめて 下さいと、祈りに祈り、手術の間中、必死に祈り続けた。 その時に、生きていてくれさえしたら、後はどうでも良いと心の底 から思った。成績なんてどうでもよい。何も要らない。生きていて くれるだけでいい。長い手術の間に、偏差値でしか子供を見ていな い自分の姿を見せられ、心から悔い改めた。九死に一生を得て、子 供の命は助かった。そして順調に快復が与えられた。 自分自身が全く変えられた。子供の見方も全く変えられ、子供をあ るがまま、受け入れられるようにされた。もしあのまま行っていた ら、子供をどんなに酷く損なっていただろう。痛い、辛い出来事だ ったが、心から感謝だと思えた。主に在って、すべての事が感謝で あること、心から受け取れた。 ------------- 決して喜べない状況でも、最悪に思える出来事にも、感謝するとき、 背後におられる主を仰げる。いつも最善を送ってくださる主にあっ て条件をつけず、すべての事にいつも感謝していたい。
2019年06月10日(月) 「「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」創世記3:11
「「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」創世記3:11
蛇に誘惑され、エバは善悪を知る木の実を食べてしまった。それを 夫に与え、夫も食べた。罪を犯した結果、二人の目は開かれ、自分 たちが裸である事を知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり 合わせて、腰のおおいを作った。園には、アダムとエバの二人しか いないのに、いちじくの葉という頼りないもので、お互いに隠し合 うようになる。 そして主の声を聞いた時に、主の御顔を避けて、木の間に身を隠し た。神と何の妨げもない自由な喜びの交わりにあったのが、神を恐 れて、避けて隠れるようになった。神の前にも、互いの間でも、あ りのままではおれなくなり、自分がどう見られるかを気にし、相手 の目を恐れて生きるようになった。 そして、神がアダムに「食べてはならいと命じておいた木から食べ たのか」と問われた時に、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、 くれたので、私は食べた」とエバに責任転嫁し、エバのせいにした。 それも「あなたが、置かれた」と暗に神のせいにもしている。神は 「食べたのか」とストレートに問い、悔い改めの機会を与えられた。 しかし悔い改める事なく、エバが悪いからこうなったと。 エバは蛇のせいにした。責任転嫁、自己正当化、あるがままでおれ なくなり、自分を隠す、神からも隠れる、様々な罪の結果が生じて 来た。自分の内側にもある事を認めるなら幸いだ。「ごめんなさい」 と答えるなら、主は豊かに赦して下さる。失敗はするが、赦されて 赦されて生きて行く。繰り返しの赦しを通して、神の深い愛を知っ て行く。 ------------- 罪を犯すと謝るより先に隠そうとするアダムの性質をしっかりと受 け継いでいる。罪の赦しが与えられているのは、何と感謝なことだ ろう。あわれみは尽きない。誤魔化さずありのままで神に向かおう。
2019年06月09日(日) 「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けま で彼と格闘した」創世記32:24
「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けま で彼と格闘した」創世記32:24
ヤコブはずっと神と取引き関係だった。神に祈るのだが、自分の利 得のために神を利用していた。兄エサウをだまして、祝福の権を奪 い取り、激怒する兄のもとにおれず、家を出なければならなくなっ たヤコブ。伯父の家に向かう途中、野宿した時に主が現れる。主が 共におり、守り、この地に連れ帰ると。 そんな主に、ヤコブは、無事に父の家に帰れて、主が私の神となっ てくれるので、十分の一をささげると。ギブアンドテイクの関係だ った。心が神にあったわけではなかった。これまでもずる賢く、策 略を用いて、この世を渡って来た。伯父ラバンの家で、20年の歳月、 苦しい試練に会う中、とうとう神の時が来て、帰郷するように主か ら示され、伯父の家を出た。 帰郷にあたって、だました兄エサウが恐怖でならなかった。激怒し ていた兄に、家族皆殺しにされるのではないか。あらゆる策を尽く すが、どうやっても兄への恐怖は、どうにもならなかった。しもべ や家族を先に行かせて、ヤコブは一人一番後ろに残った。心を神に 向けた時、自分を祝福してくれるまで放さないと神にしがみついた。 その時、もものつがいがはずれた。ヤコブは砕かれたのだった。固 い〃強固な自我が砕かれた。自分の思いと自分の意志、自分の力が 強いヤコブは、これまでは神を利用して来ただけだった。そのヤコ ブが180度変えられた。 列の最後尾で恐怖で怯えていたのが、先頭に立って行き、エサウと 和解できた。自分にどうにも出来ない状況こそが幸いだ。主の取り 扱いにあずかれる。 ・・・・・・・・・・・・ ヤコブはエサウへの恐怖が、どんなに画策し、周到に準備してもど うにもならなかった。その絶体絶命の中で、真に主に出会った。主 は私たちも取り扱われる。自力で、何もどうにも出来ない時こそが 大きな恵みの時だ。主に深く出会える時だ。
2019年06月08日(土) 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せな さい」ローマ12:19
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せな さい」ローマ12:19
人から傷を受けた時、赦せない思いでいっぱいになるだろうか。そ れは憎しみとなり、敵対心となる。相手への処罰感情がどんどん強 くなる。生まれつきの性質は、何倍にもして復讐したいと思う。復 讐心はどんどん膨らむ。繰り返し繰り返し思いを反すうする事で、 憎しみはモンスターとなって行く。 しかし自分自身は平安が全く無い。心は苦しくてたまらない。赦せ ない思いは、ますます自分自身をむしばんで行く。辛いのは自分な のだ。だが相手が悪いせいで、自分はこんなに苦しいとしか見えず、 辛いのは相手のせいだと思う。ますます悪循環になって、相手を憎 むことになる。 主はどう言われるのか。自分で処罰するなと言われている。それは、 罪を無かった事にすることではなく、大目に見ることでもなく、諦 めることでもない。自分で復讐するな、神の怒りにまかせよと。 「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」と。処罰 感情を、その思いを、主の御手にゆだねることだ。相手の悪を、主 が正しくさばかれる。 だから、「わたしにゆだねて、あなたが復讐するな」と言われてい る。処罰感情や憎しみは、自分で牢獄に入るのと同じだ。四六時中、 囚われの身で、がんじがらめだ。楽しい時も、それを思うと影を落 とし、途端苦しくなる。何も楽しめない。しかし主に明け渡し、ゆ だねる時に、自分自身が自由にされ、牢獄から出ることになる。解 放される。委ねられるよう祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 主は悪を見ておられる。ご存じだ。受けた傷もご存じでいて下さる。 「復習はわたしのすること、わたしが報いをする」と言われ、だか ら「自分で復習するな」と。私たちのする事は、主に委ねることだ。 処罰感情で難しければ、委ねられるよう祈ろう。助けて下さる。
2019年06月07日(金) 「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神』」ヨハネ20:28
「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神』」ヨハネ20:28
弟子たちが恐れて隠れていた家に、「平安があなたがたにあるよう に」と、よみがえられた主がご自身を現わされた。「弟子たちは、 主を見て喜んだ」とあり、どんなに喜び、胸を躍らせ、嬉しかった 事だろう。平安と喜びに溢れた。しかしトマスだけが、その時、そ の場にいなかった。自分が不在だったわけだが、「自分だけなぜ?」 不満な思いだったかも知れない。 「私たちは主を見た」と興奮し喜ぶ弟子たちに「その手に釘の跡を 見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し 入れてみなければ、決して信じない」と言い放った。そして八日後、 トマスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、主は再びご自身を現され た。そしてトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見 なさい。 手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」と、トマスが言っ たそのままを言われた。「決して信じない」に「信じない者になら ないで、信じる者になりなさい」と。トマスはどんなにか驚いた事 だろう。トマスの言葉をご存じで、トマスの思いを何もかも知り、 あるがまま受け止められている、そんな主の愛に触れた。 自分で見なければ、決して信じないと言った、そんな自分に、愛を 持って個人的に向き合って下さった主。まるでトマスのために、現 れて下さったような状況に、彼は、指を釘後やわきに差し入れずに、 「私の」主、「の」神と信仰告白をした。 ------------ 頑なさや頼りない信仰に気づかされる時が、主の取り扱いの大切な 時ではないだろうか。愛を持って自分に向き合ってくださる主を知 ることで一歩、一歩、見ないで信じる者にされていく。
2019年06月06日(木) 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」ルカ22:42
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」ルカ22:42
ある人が、「“御心のままに”との祈りは、私たちの意志を投げ捨 てる事でなく、私たちの意志と神の意志とが一つとなるために苦闘 すること。自分の祈りを矯正して行くことだ」と言っているが、祈 りなくして、御心のままにと委ねることはできない。口先だけで 「御心のままに」と言えるが、心の奥では決して思っていない。 諦めるのではなく、祈りに祈って、自らの意志を明け渡し、主の意 志に沿わせて行くことだ。受け入れ難い事態に直面した時には、祈 りに持って行こう。自分の正直な気持ちを隠したり、抑え込むので なく、ありのままを主に告げよう。自分の思いをことごとく告げて、 主と交わろう。 すると頭では「主の御心を」と思っているが、心は「私の願いを」 だと気づく。気持を底の底まで十分に告げて初めて、主が働かれ、 みわざをされる。逆に十分気持ちを告げない限り、受け入れる事は できない。主ご自身も「深く恐れもだえ」「悲しみのあまり死ぬほ ど」と、血の汗を流し、正直な気持ちを「この杯をわたしから取り のけて・・」と祈られた。十字架を回避したいと。 そう祈って良いのであり、だからこそ、しかし「わたしの願うこと ではなく、みこころのように」に導かれる。祈りの中で、自分の願 いが、主の御心へと思いが変えられ導かれて行く。御霊の働きだ。 主との交わりが大切だ。まず、率直に、正直に思いを主に告げて祈 ろう。 ------------ 信仰生活、明け渡さなければとの思いから、御心が成りますように と祈るが、時に諦めに近いことがある。祈りに力が湧かないことは ないだろうか。今はこれしか祈れないと本音を力強く主に告げよう。
2019年06月05日(水) 「『青年よ。あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」ルカ7:15
「『青年よ。あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」ルカ7:15
やもめである母親の一人息子が、死んでかつぎ出されるところに、 主は遭遇された。やもめの上に、たった一人の息子を失うとは、母 親は、どん底の悲しみ、絶望であったろう。病気やけがなら治るが 、死だけは何もかもを容赦なく断ち切ってしまう。後戻りも回復も 不可能だ。何もかもが打ち砕かれてしまった状況だ。 当時のやもめは、社会的に厳しい状況にあり、唯一頼りであった息 子、そして生き甲斐であった息子を失うとは。はらわた裂かれる思 いだったろう。生きる望み、支えが無くなってしまった。泣き続け ていた。そこに、主が「泣かなくてもよい」と御声をかけられた。 「かわいそうに思い」「深い同情をよせられ」「憐れまれ」とあり、 強烈な同情だ。 腹の底からの憐れみが湧き出で、溢れ出て、主は青年を癒された。 母親から頼まれてではなく、一方的に主の溢れ出る憐れみによって であった。「青年よ。起きなさい」の言葉で、青年は生き返った。 主は口先でなく、「深い同情」と共に「力」を持っておられる。 「泣かなくてもよい」はその通りに実現し成就した。 同じ主が、今、悲しみのどん底に、絶望にある私たちに、腹の底か らの同情を寄せていて下さる。そして、主の御口から出る言葉は、 私たちの心に奇跡を起こし、揺るぎない「平安」をもたらす。「彼 を母親に返された」、取り返し不能、完全に失ってしまった状況に、 決定的解決を与えられた。この同じ主が、今、あなたの目の前にお られる。 ------------ この先どうなるのだろうとの不安と恐れを主はいつも共にいて、深 い同情を持って見ていてくださっている。主の守りの中にいること を覚えるとき不安が消えて、何の心配もないと慰められ励まされる。
2019年06月04日(火) 「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」マタイ5:9
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」マタイ5:9
「平和をつくる者は幸い」だが、平和をつくる人となるためには、 自分自身の中に、まず平和がつくられていなければならない。自分 の内側が混乱していたり、思い煩いと不安でいっぱいだったり、悩 みで悶々状態であるなら、周囲に平和をつくり出すことなど、とて もじゃないができない。そのためにまず大切なことが、神と自分と の平和だ。 神との個人的関係において、妨げを取り除くことが必要だ。罪が示 されているなら悔い改めよう。心にずっとひっかかっていて、示さ れているが、なおざりにしている御心を行なおう。実行する事が大 切だ。誰かに謝罪が必要なら、和解しよう。神から離れていたら、 今すぐ立ち返ろう。神は両手を開いて、待っていて下さる。 放蕩息子が、父親のもとへ帰った時に、責めも、さばきもされず、 ありのまま受け入れられたように、どうであれ、神のもとへ帰るこ とを喜ばれる。まず、自分と神との縦の関係が、妨げなく平安であ るように、なすべき事をして行く時、平和の子として、横の関係で ある周囲に平和をもたらすために、用いられて行く。 自己中心の罪の世界にあって、平和は自然に、オートマチックにで きるものではなく、「つくる」ものだと言っている。「敵を愛せよ」 とあり、それは愛することだと言っている。愛するとは感情でなく、 意志であり、決意だ。「迫害する者のために祈れ」とあり、感情は 横において、その通りに意志をもって祈って行くことだ。できない 自分を認め、しかし意志を向けて従おうとする時、御霊の助けが臨 む。そして用いられて行く。 -------------- 神に赦され愛されていることを日々に感謝し、その恵みのゆえに隣 人を愛していくという健やかな歩みでありたい。心に平安がない時 にはまず祈り、自分の心を整えていただこう。
2019年06月03日(月) 「マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にはマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:38
「マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にはマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:38
マルタは、主を歓迎し、もてなしのため準備をしていたが、食事時 も近づき、はかどらず、イライラして来た。マリヤはなぜ手伝わな いのかと、見ると何もせずに座っている。だがマリヤは、何もしな いのではなく、主の言葉を一言も逃すまいと、一心に耳を傾けてい た。マルタは、何もしないマリヤを見た時に、不満と怒りが湧き上 がる。 自分はこんなにてんてこまいなのに。その不満は主に向かう。「妹 が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならない のか」そして主に指図までする「私を手伝うように、妹におっしゃ って下さい」。しかし主は、マリヤはどうしても必要な一つのもの を選んでいる。彼女からそれを取ってはならないと、マリヤのして いる事を認められた。 マルタは主のために労していたが、実は主のためではなく、自分の 事でいっぱいになっていた。主に向くのではなく、自分に向いてい た。自分軸になるので状況しか見えない。主が見えなくなっていた。 平安と喜びが失せ、焦り、いら立ち、思い煩いで一杯だった。「あ なたは色々な事を心配して、気を使っている」。 マルタもまず主を仰いで、奉仕にあずかれば良かった。油切れでイ ライラする時、人も状況も関係無い。自分の問題だ。主が飛んで、 自分の思いと自分の力で空回りしている。平安が失せた時は、心の イラ立ち、焦り、思い煩いをそのまま、主に告げよう。主は受け止 め、主と共に労させて下さる。 -------------- 無くてはならないただひとつのものを忘れ、動き始めるといつの間 にかマルタになっている。第一の大切なものを知っていることは感 謝だ。先へ先へと焦る気持ちに気づいたら主に委ねていこう。
2019年06月02日(日) 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:712
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:712
様々な人の「苦しみに会ったことは、幸せでした」との証しを聞く。 あの苦しみゆえに、神に真に向き合えた、砕かれ、造り変えられた。 余裕がある間は、自分を装い、繕っておれるが、試練は、何もかも はぎ取り、自分の素の姿をあらわにする。ある婦人は、嫁ぎ先で、 姑と難しい関係であったが、良い嫁を頑張った。懸命に家事をこな し、姑にも精一杯仕えた。 しかし辛く当たられ、涙を流す日々だった。ほとんどいじめにも思 える辛い日々であった。だが自分はクリスチャン、証しにもなるよ うにと、懸命に仕えた。外側は、きつい姑に仕える、けなげな良い 嫁に見えた。しかし御霊は心の奥を照らされた。心は、姑に対する 憎しみ、恨み、怒りが渦巻いていた。 そして密かに、巧く、わからないように復讐していた。良い嫁を繕 った、内奥の恐ろしい罪を、御霊は照らし出された。まさに自分は 罪人であった。心からその罪を悔い改めた。今まで罪人だとは認め るのだが、ましな罪人で、罪が余りピンとこなかった。主の十字架 が迫り来て、まさに自分のためであることが真にわかった瞬間だっ た。 いかに闇の中にいたかを知り、光に照らされ、罪赦される喜びを、 平安を経験した。御霊の喜びであった。苦しみに会った事を心から 感謝した。姑にも、はしばしに出ていたであろう悪い態度、心が開 けなかった事を詫びた。自分の心が全く変えられ、主が働かれ、姑 のとの関係が変わった。声を上げて心底笑い合える間柄にされた。 ・・・・・・・・・・・・・ 苦しみに会う時には、とてもじゃないが、これが幸せになるなどと 決して思えない。辛く悲しいばかりだ。しかし後の日に、その事で、 主を深く味わい知る事になり、世の喜びでない御霊の喜びを与えら れている事に気づく。どんなに辛くとも、光があり希望がある。
2019年06月01日(土) 「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、 娘の上に御手を置いてやって・・娘が直って、助かるようにしてくだ さい」マルコ5:23
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、 娘の上に御手を置いてやって・・娘が直って、助かるようにしてくだ さい」マルコ5:23
ヤイロの娘が危篤であった。一刻を争う状況の中、ヤイロは30キロ ほどの道のりを急ぎやって来た。主の足もとにひれ伏して、来て娘 を癒して欲しいと懇願した。主は願いを聞かれ、出向こうとされる と、突然長血の女性が割って入った。12年間長血を患い、心身の非 常な苦しみの上、財産も使い果たし、絶望状態の中にいた。 彼女が主の着物のふさに触ると一瞬にして出血が止まった。奇跡が 起きた。長血は汚れていて触る事も禁じられ、人前に出る事もでき ない。彼女は密かにそのまま去りたかった。しかし主は彼女を取り 扱い、「安心して行きなさい」と救いを与え、身体だけでなく心の 癒しも与えられた。 しかしその間、ヤイロはどんなに心急いたことだろう。一刻を争う 状況だ。女性は12年間の持病、瀕死の娘の方が、先ではないのか。 そこに決定的知らせが入った。娘は亡くなったと。病気やけがなら 治る。金銭問題なら何とかなり、人間関係ならまだ修復できる。し かし「死」は、何もかもを決定的に断ち切ってしまう、絶望的状況 だ。回復も修復も不可能だ。 しかしその現実を前に、主は「恐れないで、ただ信じていなさい。 娘は直る」と語られた。信じ委ねよと。その言葉の通りに、娘は生 き返らされた。私たちにも心痛む心配事、思い煩いが次々と襲いか かる。しかし死をも打ち破る力ある主が「恐れないで、ただ信じな さい」と言われる。「あなたがたは心を騒がしてはならない。神を 信じ、またわたしを信じなさい」と。 ・・・・・・・・・・・・ 「恐れないで、ただ信じていなさい」何と力強い言葉だろう。ヤイ ロは、ただただ御言葉にすがりついただろう。今、目の前に様々な 問題、苦境があっても「恐れるな、信じていなさい」。主が最善を して下さる。お委ねしていよう。