2019年07月31日(水)

「この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される 」Tサムエル17:47


主の戦いを戦った信仰の人々が出て来るが、それが人間的に見るな
ら、非常に不可解な方法だった。出エジプトのリーダとして立てら
れたモーセは、民をエジプトから導き出した時、エジプト軍精鋭部
隊から追われ、窮地に陥った。どんどん追っ手は迫る中、前は紅海
だ。前進も後退も出来ない。その絶体絶命の中で、主はモーセに、
民に前進するよう言えと命じられた。主が戦うからと。モーセと民
が、エジプト軍と交戦したのではなかった。

又、そびえ立つエリコの城壁を前に、主は不可解な事を言われた。
町の周りを回るようにと。6日間、町の周囲を1度周り、7度目に
7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。城壁を叩き壊し
たのでは無かった。その通りに従った時に、難攻不落のエリコの城
壁は崩れ落ちた。

又、ダビデは、誰もどうにも出来ない強敵巨人ゴリアテを相手に、
「この戦いは主の戦い」と、剣や槍ではなく、石を打って倒した。
彼らが戦いに勝利したのは、神の御声に聞き、神の方法に従ったゆ
えであった。人の思いでは、そんな事をして何になるとの不可解な、
不思議な方法だった。しかし主の命令に、その通りに従った結果、
大きなみわざが現われた。奇跡が起きた。

「主があなたがたのために戦われる」、私たちにも、様々な事態が
起きる。その時、まず自分で動かずに、祈って御声に耳を傾け、導
きを切に求めよう。主の示しは、時に理解を超えることがある。し
かし一歩従う時に、事態が展開して行き、主が戦って下さるとの実
際を経験して行くことになる。

・・・・・・・・・・・・
「この戦いは主の戦い」自分の方法や自分の思い、自分の力でなく、
主が主の方法で事をされる。それゆえ、主に示された通りに従うよ
う、御声に耳を澄ましていよう。示しが来たなら、即、その通りに
従おう。「われわれの手に渡される」その時、主のわざが成される。



2019年07月30日(火)

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、 川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あ なたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」イザヤ43:2

ある人が、夫婦で親の介護をしていた。事情があり、又、以前から
の本人の強い願いでもあり、自宅介護とし、最後まで家で看取る事
になった。そんな中、認知症が出てきて、段々と非常に厳しい日々
となった。その内、家族も認識できなくなり、実際、介護は心身共
に大変で重労働で、激しく消耗する毎日で、決して甘いものではな
かった。

自営業で時間の融通は効くものの、仕事もあり、極めてきつく困難
で、ハードな日々であった。朝毎に主に助けを求めて、すがりつい
て、夫婦で心合わせて必死に祈った。祈らなければ一日たりともお
れず、祈らざるを得ない日々であった。主に拠りすがり、明日の心
配は無用の通り、明日は委ねて、介護に関して今日一日の事だけを
考えた。

明日の分までは負えないが、今日一日の荷は必ず負えると主を信じ、
一日一日を感謝と祈りで重ねて行った。その結果、介護を全うする
事ができ、親を看取る事が出来た。自分たちの力でなく、祈りによ
り信仰により、成し遂げる事の出来た経験は、信仰人生にとって大
きな祝福とされた。

達成感、平安、充足感の上に、夫婦間が祝福され、絆が強められ深
められ、そして夫婦の信仰の成長の時とされた。困難で厳しい日々
は、まさに水の中、火の中を通った感覚だった。「わたしはあなた
とともにおり」と、共におられる主を実感をもって知った日々であ
った。それを味わい知らされた。又、夫婦で味わえた事も祝福だっ
た。これら、主の取り扱いであった事に感謝が溢れた。

・・・・・・・・・・・
信仰人生で、特に厳しい苦しみ辛さの中を通る事がある。まさに水
の中、火の中だ。その中で、主の「わたしはあなたとともにおり」
が救いだ。押し流されず、燃えつかない。荒野の試練でも「着物は
すり切れず、足は、はれなかった」どんな試練の中も必ず守られる。


2019年07月29日(月)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、 もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生き るのです」ローマ8:13


私たちは新しい性質と、生まれつきの古い性質がある。天に帰るま
で、常に二つの性質が葛藤して、成長して行く。御霊に導かれてい
る時は、平安と喜びの中で、生き生きと生きて行ける。だが、古い
性質、肉に従って行くと、途端に信仰生活が苦しくなる。イライラ
し、裁く心や、敵対心や妬みが出て来る。そして周囲に害毒を流し
てしまう。普段からの証しを台無しにしてしまう。

ある婦人が、夫の言葉に傷ついた。腹が立ち、言い返して、責めよ
うとしたが、これは言ってはいけないとの感覚が来た。御霊に止め
られた。怒りがあるまま、言葉を発してはいけないと。喧嘩になっ
て、言い合いになるのが、目に見えている。言わずに、まず祈ろう
と、その夜一人の時間に祈りの時を持った。

怒りや恨みを、ことごとく主に告げて祈っていた。主に聞いて頂く
と、心が落ち着いて来て、悪気の無い夫の心が見えて来た。何であ
んなにカッカしたのだろうと冷静になれた。心はすっかり平安にな
った。すると翌朝、夫が「言い方が悪かったと思う。ごめん」と謝
って来た。

怒りをぶつけなくて良かったと、心から主に感謝した。肉に、自我
に、従って行動するなら、自分自身は平安無く、喜び無く、更なる
怒り、敵対心、憎しみに支配されて行く。そして周囲にも害毒を流
す。しかし御霊の導きに従うなら、平安と喜びがあり、周囲にも主
を現わして行く。

・・・・・・・・・・・・
天に帰るまで、新しい性質と古い性質である肉はあらがう。御霊は
新しい性質に働きかけ、サタンは肉に働いて来る。流されたままな
ら肉の方へ向かい、肉を選んでしまう。まずそこで見上げ、助けを
求めて祈ろう。御霊の助けが来る。助けられて御霊の方を選んで行
ける。


2019年07月28日(日)

「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れ て持っていた」マタイ25:4


花嫁の10人の友人たちが、ともしびを持って花婿を迎える準備をし
ていた。ところが花婿が来るのが遅れたので、皆、うとうとと居眠
りをした。その時に突然花婿の到来が告げられた。皆起きて、とも
しびを整えようとしたが、5人は予備の油を持ち、5人は持たなか
った。ともしびが消えてしまうので、油を分けてくれるよう頼むが、
分けて上げるほど無いので、店に行って買うように言われた。

しかしその間に花婿が到着し、予備油を持っていた5人の娘たちだ
け入り、婚宴の戸は閉じられた。ここでは居眠りは問題でない。賢
い5人の娘も愚かな5人の娘もどちらも居眠りした。ともしびもど
ちらも持っていた。何が問題なのか。予備の油を用意したか、否か
だった。

その予備の油は、人に貸し借り出来ないものだった。「分けて上げ
られない」とは、一見冷たいように感じるが、出来ないのだ。油を
用意するとは、聖霊に導かれた生活を、主との交わりを日々地道に
積み重ねて行くことだ。御言葉に耳を傾け、従って行くことだ。一
日一日を通して、主との関係を培い、信仰を信頼を培われ、深めら
れて行く事だ。

それは主と自分との個人的関係の事なので、誰かに取って代わる事
など不可能だ。主の再臨まで、油を豊かに備えること、地道な交わ
りにより、主との信頼関係を築き、それを深めて行くことだ。それ
が主をお迎えする準備を整える事であり、賢い娘だ。

・・・・・・・・・・・・
いつの日か主と顔と顔を合わせて会える。その時を思い、準備をし
て行きたい。天に繋げた今日であるように。サタンは目に見える所
を大きく見せ、この世がすべてのように思わせる。目を天に向け、
この一日も主と信頼関係が築かれる一日であるように。


2019年07月27日(土)

「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、 踊るのに時がある」伝道の書3:4


神は、神の時間割、スケジュールを持っておられる。花の種まきを
した事があるだろうか。種を蒔いて、水をやり見守っていると、芽
が出て来る。日を重ねながら、芽が少しづつ生長し、茎となり、や
がて綺麗な花を咲かせる。植物の生長にも、神は時を定められ、神
のスケジュールがある。芽、茎、花、実と、神の秩序と時がある。

もし、これを無視したらどうだろう。種から芽が出やすいようにと
早く芽を出そうと、人の手で種に裂け目を入れたらどうだろう。種
は死んでしまう。又、早く花を咲かせようと茎を引っ張ったらどう
か。神の時をじっくり待たないなら、無用の、不毛のあがきをして、
返って損なってしまい、出る芽も出ず、咲く花も咲かず、実も実ら
ない。

霊的成長も同様だ。成長には必ず長い時間がかかる。長期戦であり、
神のプランは長期計画だ。悪あがきをせず、人生の苦しみ、喜び、
悲しみ、それぞれの「神の時」をしっかり受け入れ、受け止めて、
生きて行く事が大切だ。その中で主が育み、訓練し、必ず成長させ
て下さる。

ダビデは「四方八方みな恐怖」で出口も見えない苦難の時に、私の
時は御手の中だと言った。状況でなく、主を見て、主の手の中にあ
る事を見た。困難な状況は、「神の時」に、導かれ回復して行った。

辛く苦しく何の希望も見えない時、しかしこの「時」は、愛の御手
の中にある事を覚えよう。握っておられる神に目を向け、信頼して
行こう。その時に「神のなさることは、すべて時にかなって美し
い」ことを実際に体験して行く。

・・・・・・・・・
信仰人生で、様々な「時」を経験する。嬉しい時、苦しい時、悲し
い時、嘆きの時、惨めな時・・。主には一つも無駄はない。行き当た
りばったりも無い。目的と意図を持たれている。一つ一つの「時」
を受け止め、主を求め、教えられながら歩もう。成長、成熟へと導
いて下さる。


2019年07月26日(金)

「彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」詩篇22:5


ハドソン・テーラーの証しだ。彼は医者の助手として働いていた。
その医師から、自分はよく忘れるので、給料を渡し忘れたら言うよ
うにと言われた。しかしその事で彼は、その時には言わずに祈り、
主から答えを頂こうと決めた。そして案の定、給料を忘れられた。

切に祈った。段々食料も尽きて、残り銀貨1枚となった。その時に
貧しい子供が来た。母親が病気だ。しかし銀貨1つしか無い。2つ
あれば1つ上げるが、1つなので上げられないと思った。帰宅し祈
るが「偽善者」との思いが来る。「祈るよりも与えるべきだ」と。
そう出来ない自分に、主にのみ頼る信仰はないと惨めになった。

結局その銀貨を子供に上げた。財布は空になったが、心は平安と喜
びで満ちた。その日の夕飯は残り物を食べた。だが翌朝からは何も
ない。すると早朝に郵便が届いた。封筒を開くと彼が与えたお金の
数倍が入っていた。そのお金が無くなった頃、医師が給料の事を思
い出してくれた。

神は真実であり、生きて働いておられる。ツァレハテのやもめは、
エリヤに、最後のひと握りの粉を求められた。それは饑饉の中、食
糧もすべて無くなり、死ぬ前の、自分と子供の最後の食事だった。
これを食べて死のうとしていると。しかしエリヤは「まず私にパン
菓子を」と。そうするなら、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくな
らないと。

彼女は言われた通りに、最後のギリギリのものを献げた、その時に、
エリヤの言葉の通りに、饑饉の間中、かめの粉は食べても食べても
尽きず、つぼの油は無くならなかった。饑饉のまっただ中で豊かに
養われた。真実な主が共におられる。

・・・・・・・・・
主に信頼する時、決して恥を見ることはない。信頼すべきは、目の
前の見えるものではなく、主ご自身だ。すぐ方向を間違い、見える
ものに頼り、しがみついてしまう。見えるものでなく、すべてを支
配し、すべてを与える事のできる主に信頼を置けるよう、そうでき
るよう祈ろう。


2019年07月25日(木)

「見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハム は行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに全焼のいけ にえとしてささげた」創世記22:13


アブラハムは、自身が100歳、サラ90歳の時にイサクを得た。約束
を待つこと25年、気の遠くなるような長い時間だ。彼らも私たちと
同じ弱い人間であり、数々の失敗があった。神の時を待ちきれずに、
肉の思いと手段で、イシマエルを産み出してしまった。だがヘブル
11章によると、アブラハムは信仰の人として賞賛を受けている。

そして「信仰の父」と言われている。後にその愛する子イサクを献
げよとの命令を受けた時に、大きな厳しい試練であったが、アブラ
ハムは従順に従った。その彼に「あなたが、このことをなし、あな
たの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを大いに祝
福し」と主から祝福を受けた。

だが、25年も待ちに待った目に入れても痛くない最愛の子だった。
そしてこのイサクから子孫が増え広がるはずだ。この事はどうなる
のか。イサクが途上で「いけにえの羊はどこに」と問うた時に、彼
は「神が備えて下さる」と答えた。彼はこの事において神を全く信
頼した。しかしいけには無く、イサクをいけにえとし、まさに刀を
振り下ろす瞬間だった。

主が介入し、止められた。そしてそこには羊が備えられていた。こ
れは彼も知らなかった事だ。私たちも一歩先は見えず、明日の事も
わからない。しかし神は知っておられる。一歩一歩をこの神に信頼
し委ねて歩を進める時に、一生涯の間、「主の山の上に備えあり」
を絶えず経験して行く。素晴らしい恵みの人生だ。

・・・・・・・・・・・
先は全く見えないが、そこを主を信じて、見えない中、一歩を踏み
出す時に、主の備えを経験する。信仰によって歩を進める時に、経
験するのであって、踏み出す前ではない。従うために一歩踏み出そ
う。主の山の上に備えありを、経験し、知って行く日々とされる。


2019年07月24日(水)

「だから彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、 あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知ってお られるからです」マタイ6:7


主は、祈る前にすべての必要をご存じだと。何と感謝な事だろう。
では何のために祈るのか。御父がすでにご存じであれば、祈る必要
が無いではないか。これは異邦人のように、同じ言葉を何度も〃繰
り返し、言葉数が多い者勝ち、時間が長い者勝ちではない。その発
想が間違いだと。祈りの言葉数、時間量の多い順に聞かれるのでは
ない。数と量が事を決めるのでない。それなら力の勝負になる。

主と私たちの間は「信頼関係」にある。だから言葉の繰り返しは無
益だ。偶像と違い、御父はすでに何もかもをご存じで、くどくど説
明する必要もない。しかし主は次の節で「だから祈りなさい」と言
われた。だから祈る必要ないのでなく「祈りなさい」と。主は祈り
を喜ばれる。

祈りは御父との交わりだ。子供に「一生涯の必要を完全に保障する
から、いっさい語るな」と言う親はいない。親は子供の言葉を聞き、
対話したい。気持ちを知りたい。それは親は子供を愛していて喜び
で楽しみであるからだ。御父はあなたの声を聞きたいと、交わりを
待っておられる。

又、主は必要をご存じだが、私たちが自分の必要を知らない。真に
必要なものをわかっていない。的はずれに求め、自分の欲のために
求めて気づかない。主はそれらを祈りの中で、軌道修正し、正しく
導き、本当に必要なものを求めさせて下さる。その結果、与えられ
て、そして自分自身をも変えて行って下さる。

・・・・・・・・・・
まずは必要をご存じでいて下さることに安堵が来る。霊的、物質的
必要をとにかく祈りに持って行く時に、祈りの中で様々教えられた
り、気づきが与えられる。動機を探られ、自我にも気付かされる。
祈りが変えられて行き、そして御心にかなった答えが与えられる。


2019年07月23日(火)

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の 果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英 知は測り知れない。疲れた者には力を与え・・」イザヤ40:28

背景はバビロン捕囚で、イスラエルの民は国を追われ、バビロンに
囚われていた。異国の地で苦難の中にいた。自分たちの道は神に隠
れ、自分たちの訴えは、神に見過ごしにされていると不満に思って
いた。本当に自分たちの事を思ってくれているのかと。しかし主は
永遠の神、地の果てまで創造された方、疲れる事もたゆむ事も無い
。疲れた者に力を与え、精力の無い者に活気をつけると。

私たちも、時に目の前の問題に落胆してしまう。その時には、神が
どのようなお方かが飛んでしまっている。落ち込んで、下に向いて
いる目を、上に上げる必要がある。そして、主を待ち望む者は新し
く力を得る。鷲のように翼をかって、大空にかけ上ることができる。

「主を待ち望む者は」新しい力に満たされる。疲れた者は来なさい
と、弱いままで良い、そのままで来よと言われる、主のもとへ絶え
ず行こう。鷲は自力で舞い上がるのでなく、常にじっと上昇気流を
待っている。風の音をじっと待って、聞き分けて、風が吹いた時に
崖から飛び降りて、翼を広げ、上昇気流に乗って大空高く舞い上が
る。

私たちも自力で生きるのではなく、御声に、導きにじっと耳を澄ま
し、導きが来たら動いて行こう。風は必ず吹くように、導きは必ず
来る。主の導きは、心に平安が与えられ、門が開かれて行く。疲れ
た者に新しい力を、精力の無い者に活気をつけて下さる。

・・・・・・・・・・
鷲がじっと待って上昇気流が来たら、それに乗るのが印象的だ。私
たちも御霊の導きをじっと待って、御霊の動きが来たら、それに乗
せられて、運ばれて御心を歩んで行ける。御霊の働きであって、自
分の力ではない。アンテナを張って、導きをじっと待とう。


2019年07月22日(月)

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配って おられる」箴言5:21


人は誰しも自分の道を思い巡らす。先の事を考え、予測し計画を立
て、段取りをする。雨の日のための備えは大切で、何の考えもなく、
行き当たりばったり、無計画が良いのではない。だが一応の予測を
し計画は立てるが、その通りにならないのが人生だ。突如の病気に
なり、事故に会う。倒産、リストラ等は計画の内に無い。何が起こ
るかわからず、思い通りには決してならない。

ある人の家族が人生途上で事故に会い、障がいを負ってしまった。
突然の事で驚き戸惑い、パニックだった。全く予想もしていない、
思いを越えた事であった。「しかし、その人の歩みを確かなものに
するのは主」との通り、祈りに祈り、祈り込む中で、心が導かれ整
えられて行った。祈りに答えられ、現実を受け入れる事ができるよ
うにされた。

そして主を仰ぎ、主を信じて歩み出した時に、素晴らしく益とされ
て行った。家族の絆が強められた。信頼し合え、その信頼は深めら
れた。愛し合う事を学ばせられた。心を決め、くびきをしっかりと
負ったので、沢山の事を学べて、主の愛と真実を日毎に体験した。
平安に導かれて、「幸せです」と言う事ができるようにされた。

何が起きようと、主は「ご自分では、しようとしていることを知っ
ておられる」。主に、行き当たりばったりは無い。ご計画があり、
意図があり目的がある。突然の事態に出くわした時、「その人の歩
みを確かなものにするのは主」、主が、その中で、確かな歩みへと
歩を進めて下さる。私たちの人生が「主の目の前に」あるとは何と
いう平安だろう。

・・・・・・・・・・
私たちの「道筋」の「すべて」に心を配っていて下さるとは、何と
感謝な事だろう。今の目の前のこの問題、あの悩み、思い煩いもす
べてご存じだ。主が心配していて下さるから、心配するなと。問題
を見ている目を、心を配って下さっている主に転じよう。


2019年07月21日(日)

「彼らはそこから、ケルビムに座しておられる万軍の主の契約の箱 をかついで来た」Tサムエル4:4


偶像礼拝とは、単に金や木の像を拝む事ではない。まことの神を自
分の願望、欲望のために利用する事も偶像礼拝だ。主を畏れ、御前
に自らを砕いて、へりくだり、従うのではなく、自分の都合、利得
のために、どこまでも自分のために、神を持って来ようとする態度
だ。だから聖められる事なく、何一つ変えられる事も、正される事
もなく、神は、ただ自分の欲望充足のための手段となってしまう。

イスラエルの民は、ペリシテとの戦いで敗北した時、主の契約の箱
を持って来ようと言った。箱を持って来さえすれば、勝てると思っ
た。しかし契約の箱を持ってくれば、神をかつぎ出せるのではない。
そもそも自分達のために、神をかつぎ出そうなどという考えが根本
的間違いであった。

イスラエルは見事に打ち負かされ、箱まで奪われた。神は奪われる
がままにされた。神が守れなかったのでなく、神が敗北させられた。
裁きであった。そして神の箱の中を見たベテ・シェメシュの人々を
激しく打たれた。神を畏れ、伏すのでなく、上に立ち、好奇心と興
味でのぞいた結果だった。

神を動かすのでなく、私たちは神を神として崇め、御前にへりくだ
って従って行く、これが方向転換であり悔い改めだ。神の喜ばれる
態度だ。平安や喜びがない時、御霊に心を探って頂こう。主への態
度、又、方向性が間違っていないだろうか。正される時に、主の溢
れるばかりの愛がわかり、心平安にされる。軌道修正され、心に御
霊の喜びが来る。

・・・・・・・・・
肉は根深く、自己実現や自己充足のために神を利用しようとする。
又、気づかずにしている場合がある。自分、自分、になって、底に
は自分の栄光になってしまう。御霊が気づきを与えて下さる。御前
にへりくり、ひれ伏す時に、御心の中に置かれ、結果的に充足感で
満たされる。


2019年07月20日(土)

「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、 立って、ヨッパに下った」ヨナ1:2



ヨナは、敵であるニネベへ行けとの、主の命令が気に入らなかった。
それで「主の御顔を避けて」反対方向タルシシへ向かった。すると
主は大嵐を起こされ、船が難破しそうになった。くじを引いて災い
の原因を知る事になり、ヨナに当たった。ヨナは自分のせいなので、
嵐を静めるために、自分を海に投げ入れるようにと言う。

海に放り出されたヨナを、主は大きな魚に飲み込ませられる。ヨナ
はその魚の腹の中で祈り、悔い改めた。悔い改めとは、主への方向
転換で、向きを変える事だ。思考が変わり、行動が変わる事だ。魚
から出されたヨナは、今度は主の命令に従った。

ニネベへ行った。言われた通りに御言葉を伝えると、人々は悔い改
めた。そのため神は災いを思い直された。だがヨナは敵が赦される
事が面白くない。、主に、不満、怒りをぶつける。ヨナの思いでは、
神は味方を守り、敵は滅ぼすべきだ。私達も、自分の思いが強い時、
主が自分の思うように動かれないと、いら立ち、不満、不信感が募
る。

しかしそれはあくまでも自分の思いの神だ。実際の神とは違う。自
分の思いの神像を造り上げている。だが神は、そんな、だだっ子の
ようなヨナをなだめ、どこまでも忍耐強く見守られる。お前のよう
な者はだめだ、とは言われず、ヨナの気持ちを受け止め、とうごま
まで備え、愛をもって忍耐深く教え導かれる。

ヨナと同様、あなたの気持ちを受け止め、愛し、導いて下さる。
今、不満や怒りがあるだろうか。「主の御顔を避け」ているだろう
か。まず主に告げ、ことごとく内にある思いを打ち明けよう。主は、
正直な気持ちを愛をもって、受け止めて下さる。そして御心へと導
いて下さる。

・・・・・・・・
御心が好きでない時、都合悪い時、「主の御顔を避けて」反対方向
へ向かってしまう。御心に従わない。しかし御心をそれるヨナを変
わらず愛されたように、忍耐持って悔い改めに、方向変換に導いて
下さる。今、もし御顔を避けているなら、立ち返って、主に向こう。


2019年07月19日(金)

「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主 を喜びましょう」詩篇104:34


ある人が、順風満帆であった歩みが、突然、様々な危急の事態が起
きて来た。仕事で大きなミスをし、その上、過労で自分自身も体調
を壊し、そんな中、家族が急な事で入院、突如の家庭の経済的苦境
にも見舞われた。自分は思い通りに動けず、又、状況も全く思い通
りにならない。何もどうにも出来ない。この先どうなるのか、どっ
と大きな不安に襲われる。

そのままをことごとく祈りに持って行った。その中で「すべてうま
く行っていたのに、問題だらけになった」と思う事を考えた時に、
うまく行くことが善、問題は悪、との価値観に気づかされた。又、
自分の思い通りにならない状況に、いら立ち、落ち込む事に対して
も、自分の思い通りになる事が善、との価値観に気づかされた。

又、「どうしてこういう事になるのか?」と不満に思う自分に、信
仰すれば、何もかも良くなり、順調に行くはずとの、思い込みがあ
った事にも気づかされた。私たちも、想定外の色々な出来事を通し
て、今まで決して気づかなかった、心の底にある思いに気づかされ
る。根深く培われている肉の価値観だ。普段は気づかずに生きてい
る。

様々な事を通し、御霊の気づきを与えられる。自分を知り、新しく
される。成長して行ける。古い価値観を御言葉に代えて行くことで、
私たちは思考を変えられて行く。思考が変わる時に行動が変えられ
て行く。

・・・・・・・・・・
古い価値観に気づかない限り、変えられることはない。根深くある
生まれつきの価値観に気づけることが感謝だ。古い思考パタンに気
づける度に感謝しよう。そこから変えられて行く。御言葉は何と言
っているか、いつもそこに目を留めよう。主の価値観、神視点へと
少しづつ〃変えられて行く。


2019年07月18日(木)

「妬みや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な 行ないがあるからです」ヤコブ3:16


知恵=思いには、「上から来たもの」と「地・肉・悪霊に属するも
の」がある。神からの思いと、生まれつきの肉から湧く思い、悪霊
からの思いがある。心に浮かぶ思いが、神からのものもあるが、全
部が神からの思いではない。気をつける必要がある。特に「苦い妬
みと敵対心」が心にあるなら、それは、生まれつきの古い性質から
出た思いだ。

背後でサタンが、たきつけている。心の内をよく探ってみよう。「
上からの知恵」なら心に喜びがあり、平安がある。そして、妬みや
敵対心、憎しみは、「悪霊に属するもの」だと言っている。それら
は悪霊に足場を与えてしまう。そこから「秩序の乱れや、あらゆる
邪悪な行ないがある」と。

つまり、人々が集まる中に、争いや分裂、邪悪な行ないがある時、
そこには、隠れた「妬みや敵対心」が潜んでいる事になる。自分を
正当化し、自分は悪くないと思いたいが、争いや分裂があるなら、
心の底に苦いものがあると。「苦い妬みと敵対心があるならば、自
分を誇ってはいけません」自分が正しいと思っているなら、必ず自
分を誇ってしまうので。

生まれつきの知恵は、地からのものなので、自分が正しいとしか思
えない。しかしそれは「真理に逆らって偽る」ことになる。心に苦
みがある時、私たちは、正しい判断が出来ない。必ず判断に歪みが
生じる。悔い改めて、捨てて行くことが大切だ。上からの知恵はへ
りくだっていて、そこにはさばきが無い。あわれみに満ちている。
「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る」。

・・・・・・・・・・・
妬みや敵対心がある時、正しい判断ができないので重大だ。自分で
は正しいつもりだが、必ず歪みかたよっている。それなら御心から
それてしまう。上からの思いは、主の御心をのみ求めるので純真だ。
かたよりがない。悔い改めて、御霊により軌道修正されて歩もう。


2019年07月17日(水)

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、 などと言って心配するのはやめなさい」マタイ6:31



私たちは、心配事が来ると、不安や恐れに飲み込まれてしまう。不
安は不安を呼び、幾ら大丈夫だと思もうとしても、不安が泉のごと
く湧き上がり、襲って来る。あなたも経験があるだろうか。周囲か
ら大丈夫だからと励まされても、どうしてもだめなのだ。「何も思
い煩うな」と言われている事は、頭ではよくわかっているのだが、
しかし不安がどうにもならない。

主はそれもご存じで、明日のための心配は無用と。明日は考えずに、
今日の事だけ考えればよいと。今、現在、何か不足があるか?とり
あえず飢えていない、身体も守られている。今日の必要は十分与え
られている。では、常に「今日」は、目の前の必要が与えられてい
るのではないか。

その「今日」の連続が一生だ。まだ見ぬ明日を心配し恐れるより、
今日、満たされている事に感謝してはどうだろう。その感謝は、信
仰と喜びを引き寄せる。感謝する時、視点が目の前の心配から、神
に向く。神視点になる時、心に平安が戻って来る。御言葉に立てて
行く。主にはご計画があり、一羽の雀さえ忘れられていない。

目の前に問題があるが、それは災いでは無く、平安と将来と希望の
ためのものだ。必ず平安の落とし所へと導いて下さる。独り子をた
まうほどに、愛されている・・。目が、問題から、御言葉へと転じる。
明日は委ねて、この一日だけを考えよう。この一日の労は、十分に
負える労だから。

・・・・・・・・・・
能天気という意味でなく、明日の事は主が心配して下さるから、私
たちは心配しなくてよいと。主が担い、すでに備えておられるから、
平安でいるようにと。状況を見るか、御言葉を見るかで、天と地ほ
どに違ってくる。御言葉を信じ、御言葉の方に立てるよう祈ろう。


2019年07月16日(火)

「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向け ました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」 詩篇119:59



日々の信仰生活で経験するだろうか。御霊は促したり、平安を与え
たり、取り去ったり、御言葉を思い起こさせたりしながら、日常生
活の様々な事を導いて下さる。祈っている時に、ふっと、この事は
こうすればよいとの思いが、平安と共に浮かぶ。とっさの判断が必
要な時に、主を仰ぎ、祈ると御言葉が浮かんで来たりする。人々に
証しをしたり、伝道したりする時に、次に言うべき御言葉が浮かぶ。

又、御心と違う方向へ進もうとする時には、道を閉ざして下さる。
日々の生活で、御霊が導いて下さっている。私たちはどう応答して
いるだろう。思いがけず空いた時間に、今、祈ればよいとの思いが
来る。御霊の促しだ。すぐに従えばよいのに、ぐずぐずしてしまう。
すると好機を逸してしまう。背後にサタンが働き、妨害して来てい
る。
「私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」、逆に、
御霊に従えた時には、喜びと豊かな祝福にあずかる。「急いで」「
ためらわず」すぐに従わない限り、従えない。今、御霊の示しにか
かわらず、なおざりにしていたり、延ばしている事があるだろうか。

悔い改めや、ある人との和解、サポートする事、誰かに連絡する事、
証しする事、小さな雑用・・すぐに従おう。意識して、足を向ける事
が必要だ。ぐずぐすしていると、必ず出来なくなって、大きな祝福
を逃してしまう。祈って従おう。

・・・・・・・・・・・・・・
御霊は、日々の信仰生活を導いて下さる。門の閉じ開きで、平安の
有る無し通して、御言葉を与えながら、御心を教えて下さる。御心
が示されたなら、足を向けて、急いで、ためらわず行なおう。すぐ
に従わなければ、従えなくなってしまう。


2019年07月15日(月)

「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、 七回も地に伏しておじぎをした」創世記33:3

ヤコブは主から帰郷を命じられ、とうとう兄との対面の時が来た。
激怒の兄に殺されそうになり家を出たので、恐怖しかない。祈るの
だが主を信頼しきれない。兄が恐い。考えられる限りの方策を用い
る。兄へのなだめの贈り物を先頭に送り、次にしもべたち、その後
に家族を送り、自分は一人残った。もう少しで故郷だ。どうすれば
よいのか。悶々状態だ。

家族皆殺しにされるのでは。恐怖は恐怖を呼ぶ。祈るのだが、根が
信じ切れないので、恐怖は無くならない。人生最大の窮地だったろ
う。その時にある人が、ヤコブと格闘した。ヤコブが格闘したので
なく、神だった。神主導だ。主がヤコブの苦しみを解決しようとさ
れた。この格闘で、主がヤコブのもものつがいを打たれたので、も
ものつがいがはずれた。

神主導で、ヤコブのどうにもならない強い自我を打たれた。ヤコブ
は砕かれた結果、別人になった。恐れて皆を前に行かせ、自分は最
後尾にいたのが、何と自分が先頭に立って、兄に会いに行ったのだ。
そうすると、兄はすでにヤコブを赦しており、和解が与えられた。

主がヤコブに大きく関与された。これはともかくもヤコブが祈った
祈りの答えだ。「わたしは、あなたをこの地に連れ戻す」との約束
が与えられていたのに、信じる事ができないで、恐れおののいてい
たヤコブ。
しかし主はご自身の約束を成し遂げられる。器を造り上げられる。
あなたもヤコブ同様、主に握られている。問題を通して砕き、練り、
聖め、御子のかたちへと造られる。主により変えられて行く。

・・・・・・・・・・・・・・
ヤコブは苦しみの20年により、砕かれ、練られ、造られて行ったの
だが、最後の兄への恐怖がどうにもならなかった。信じきれず、委
ねきれず、身動き取れない。そこに主が関与された。逆に、主にし
て頂くしかどうにもならない状況こそ、大きな恵みだ。


2019年07月14日(日)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時 がある」伝道3:1


ヤコブは、父とエサウを騙して、兄は激怒。身の危険に、逃げるよ
うに遠方の伯父ラバンのもとへ。そこで20年の歳月、神の御手によ
り苦しく厳しい訓練を受けた。ラケルをめとるために7年の労働を
課せられ、成し遂げた時に与えられたのは、姉のレアだった。ラケ
ルをめとるためには、もう7年の労働を要求された。伯父に騙され
たのだ。

父と兄を騙したヤコブは、伯父に騙された。苦しい刈り取りであっ
た。結果14年の厳しい労働の末、ラケルをめとる事ができた。ラバ
ンに無料労働を提供したようなものだった。そして滞在の20年間は、
暑さ寒さの中で苦しく辛い労働の日々であった。決して甘くはなか
った。厳しいものであった。この20年は、主の御手による取り扱い
であった。砕きと訓練の連続であった。

それは伯父ラバンでなく、主によるものだった。狡猾で自我の強い
ヤコブを砕き、練り、整え、器とされるためであった。主の定めた
20年を、誰も変える事ができない。ヤコブも自分で縮める事は出来
ない。又、延ばす事も出来ない。訓練し整える期間は、主が一日も
違わず定められている。そして期間が終了し、時が満ちたなら、ラ
バンも止める事が出来ない。

主が「あなたをこの地に連れ戻す」と言われた通りに成就する。私
たちも様々な事が身に起きる。主の取り扱いだ。偶然でなく、不運
でなく、サタンにほんろうされているのでない。ヨセフと同じく
「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なので
す」「実に、神」であり、神によることだと。

・・・・・・・・・・・・・
ヤコブが20年後に帰郷を果たす。時は定められていた。主はヤコブ
を砕き、練り、整えられて、主の時が満ちた。私たちにも、時が決
められている。長くも短くもないピッタリの最善の時だ。主が時を
定めておられるので、信じ委ねて、安んじていよう。


2019年07月13日(土)

「ヤコブは眠りからさめて『まことに主がこの所におられるのに、 私はそれを知らなかった』と言った」創世記28:16


父と兄を欺いたヤコブは、激怒した兄エサウの殺意に、家におれず、
遠く伯父のもとへ。一人で家を出て野山を旅した。歩き続けて日が
沈み、野宿する事に。冷たい石ころを枕にし横になった。惨めさ、
親を離れた孤独感、寂しさ、兄が追って来るのではとの恐れ、これ
から先の大きな不安にさいなまれた事だろう。

ヘトヘトで、うとうとし、夢を見た。はしごが天と地の間に立てら
れ、御使いが上り下りしていた。そして、主がヤコブのかたわらに
立って言われた。「この地を、あなたとあなたの子孫に与える。子
孫は地のちりのように多くなり・・」「わたしはあなたと共にあり、
どこに行ってもあなたを守り、この地に連れ戻そう」と。

ヤコブの悪事を責める事もされず、又、条件のいっさい無い、主の
一方的な祝福だ。何という主の恵みだろう。孤独で寂しいヤコブと
共にいると。危害からも守り、これからどうなるのか不安と思い煩
いに対して、故郷に連れ戻すとの約束が与えられた。どこまでも恵
み深い。「約束を成し遂げるまで決してあなたを捨てない」と。

ヤコブは、まさにどん底にあった。誰にも頼れず、荒涼とした野に
一人ぼっち、孤独、不安と恐れ、思い煩い、何の希望も持てなかっ
た。そこで初めて主に出会った。主がこの所におられるのに、それ
を知らなかったと。私たちも、どん底、行き詰まりは苦しいが、し
かしそこで主に出会える。大きな祝福が備えられている。どん底の
中で、まことに主がこの所におられると、かたわらにおられる主を
知る。

・・・・・・・・・・・・
家を出て、逃亡したヤコブは、孤独の中で初めて主に出会う。この
地に連れ戻す、捨てないと。ヤコブが神に愛されたのは、彼の行な
いによるのでなく、一方的な選びの計画によるものであった。ヤコ
ブの神は、私たちの神であり、どうなろうと共にいて愛していて下
さる。


2019年07月12日(金)

「主は彼女に仰せられた『・・一つの国民は他の国民より強く、兄が 弟に仕える』」創世記25:23


エサウとヤコブの双子の兄弟が、リベカのお腹の中にいた時に、主
は御心を示された。「兄が弟に仕える」と。アブラハムに約束され
た祝福は、弟ヤコブにより成し遂げられると。しかし父イサクはエ
サウを、母はヤコブを愛した。兄弟も霊的な事柄に対する心が違
っていた。

兄エサウは、長子の権利よりも、肉のものが大事であり、空腹で死
にそうなら、食物が重大であり、長子の権利など何の価値も無かっ
た。「こうしてエサウは長子の権利を軽蔑した」「一杯の食物と引
き替えに自分のものであった長子の権利を売った俗悪な者」と。霊
的祝福を肉のものと取り替えてしまい、関心は地のもので、神への
思いが無かった。

ヤコブはしたたかで、計算高い人間だが、霊的な事に強く心が向き、
価値を見い出していた。長子の権利も欲しかったため、兄の空腹に
つけ込んだ。そして祝福を奪うため、父と兄を欺いた。間違いは、
神がヤコブに与えられるものを、自力と策略で奪い取ったことだっ
た。名の通り「人を押しのける者」だった。

父イサクも、「兄が弟に仕える」と御心を示されていたのに、偏愛
するエサウをひいきし、祝福を与ようとした。それも肉によるもの
だ。主は、弟が祝福を受け継ぐ者と決めておられた。行ないや努力
でなく、主の選びによるものだった。

このようなヤコブだったが、信仰の人として賞賛されている。ヤコ
ブは厳しい訓練を受け練られて行った。同様に私たちも「世界の基
の置かれる前から、キリスト・イエスのうちに選び、御前で聖く、
傷のない者にしようとされた」と、一方的に主の愛により選ばれた。
どんなにはかり知れない恵みだろう。霊の祝福をなおざりにし、肉
のものと取り替えていないだろうか。

・・・・・・・・・・
自分の思い、好みでなく、御心に従うことの大切さを教えられる。
兄が弟に仕えるという人の思いを超えたご計画に、皆が従えば、ど
うだったろう。神の主権によることであり、人間的なものでなく、
神視点でものを見ることを教えられる。


2019年07月11日(木)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられた からである」ヨハネ6:6


五千人の給食の箇所で、ピリポが、主から、群衆にどうやってパン
を食べさせようかと問われた時に、手持ちの金では足りません、無
理ですと答えた。所持金に対して大勢の群衆、目に見えるところで
結論を出し、不可能だと。目に見えるところがすべてで、そこに主
が抜け落ちてしまっていた。持てる物によっても、自分によっても
不可能だが、主には出来る、これが信仰だ。

「人にはできないことが、神にはできる」。主はその信仰を求めら
れた。そして主はすでに、しようとしている事を決めておられた。
詩篇記者は、「軍力の大きさによっては救われない、人は力の強さ
にはよらない、軍馬も軍勢も救いにはならない」と言っている。普
通、戦争に勝つには、兵力が勝負だ。百人対一万人なら、どう見て
も一万人が有利だ。

ところが詩篇記者は、兵力の大きさは救いにならないと。救いは主
によると。主に信頼し、主の指示に従って戦う時に、勝利を得る。
私たちはどうだろう。現実生活においては、兵力の多い少ないがす
べてだろうか。ピリポのように、見えるところで計算してしまって
いるだろうか。目の前の困難、問題、悩みに、見える所を見て、失
望落胆しているだろうか。

主が飛んでしまい、抜け落ちてしまっていないか。今、あるがまま、
そのままの気持ちを、まず祈りに持って行こう。信仰を与えて、導
いて行って下さる。主がしようとされている事がすでにあるのだか
ら。

・・・・・・・・・・・・
手持ちの能力、時間、財源を見る時、自分にはできないし、不可能
だと思える事は多い。しかし主が味方であれば、軍力でなく、大人
数でも小人数でも関係がない。人にできない事が神にはできる。自
分ではなく、主に望みを置いて、主に拠り頼もう。


2019年07月10日(水)

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分 と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」 U歴代16:9


主は、御力をあらわして下さるとある。あまねく全地を見渡し、そ
の心がご自分と全く一つになっている人々にと。ここで落胆してし
まわないだろうか。とても主と全く一つになどなっていない・・。罪
ばかり犯し、肉に歩んでしまうし、そんな事は不可能に思える・・。

だが、主と一つになるとは、自分の思い、自分の願い、自分の計画
を、祈りの中で、軌道修正されつつ、主のお心に合わせて行く事だ。
自分の思いでいっぱいだったのを、自分の方が変えられて、主のみ
思いに沿わせて行く、その時、主の御心を行なう者とされる。

そして又、ダビデを通して教えられる。ダビデは主より「彼はわた
しの心にかなった者」と言われた。主と一つだ。しかしダビデはど
うだろう。バテシバとの姦淫、その罪を隠ぺいするために、その夫
のウリヤ殺害という更なる罪を犯してしまった。そんなダビデだが、
ナタンを通して罪を示された時に、罪を認めて、悔い改めた。

王であるダビデが悔い改めた事は、主の御前でのへりくだりだった。
主と一つであるという事は、決して罪を犯さず、完璧に信仰生活を
送るという事ではない。そんな事は誰も出来ない。弱さゆえに、ど
うしても罪を犯してしまうが、その罪を認めて、悔い改める時に、
主と一つだと言われる。御霊は罪を示して下さる。それは大きな恵
みだ。赦されるためだ。悔い改めて、悔い改めて歩もう。

・・・・・・・・・・・
新しく生まれた後も、肉の性質があり、弱さがあり、どうしても罪
を犯してしまう。しかし私たちは悔い改めることができる。何とい
う恵みだろう。悔い改めて悔い改めて、赦されて赦されて生きて行
ける。そしてその度に、主の愛がいかに深いかを知って行ける。


2019年07月09日(火)

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかった からです」詩篇102:17



ある男性が、高齢になり足腰が弱っていたが、とうとう車椅子とな
り、人手を借りなくては、移動ができなくなって来た。礼拝出席も
一人では不可能な状況となった。若い時は、人に助けられるのが嫌
いで、絶対に人の手を借りたくなかった。プライドであった。しか
し自分自身も変えられた。礼拝出席はどうすればよいのか、切なる
祈りを献げた。

するとそんな中、礼拝出席サポートの申し出が来た。心から感謝し
て受けた。祈りの答えであり、主からの助けと受け取れたからだ。
以前なら拒否反応だった事だろう。受ける事が、上下関係の下に思
えていた。助けを求められない事が、自らの弱さであった。しかし
今は、主ご自身からのサポートとの目で見れるようになった。そし
てその相手に心から感謝でき、感謝して受けることができて、自分
自身は平安に満ちた。

ある人は、ずっと第一線でバリバリと働き、どんどん成果を出して
いた。そんな中、体調を崩したのだが、突然の思いもよらない難病
の発覚に驚かされた。ハードな仕事は到底無理で辞職した。突如の
人生の窮地に、祈りに祈った。とにかく祈った。心の思いを何もか
も聞いて頂いた。その時に「主は与え、主は取られる。主の御名は
ほむべきかな」との御言葉が臨んだ。

暗闇の方へ引っ張られようとする思いがストップされた。御言葉が
救ってくれた。疑いや不信感等、幾らでもネガティブの方向へ行け
るが、御言葉に立ち続けた。今まで与えられたものは、主によるの
であり、それを取られるのも主。自分はどうであれ、これから先も、
主を礼拝して生きて行こうと、心が平安にされた。窮した時はとに
かく祈ろう。

・・・・・・・・・・・
どうにもならない窮状の時、絶体絶命の時に、どんなに行き詰まっ
たとしても、私たちには祈りが与えられている。何があっても祈れ
るとは何と有難い、感謝な事だろう。その祈りに答え、主が働いて
下さるとは、何という恵みだろう。窮地の祈りが何度も聞かれたこ
とを思い出す。


2019年07月08日(月)

「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す」 箴言14:29


怒りに関しては、すべての怒りが罪なのではない。正しい怒りがあ
る。悪に対する怒りだ。主はパリサイ人の偽善に怒り、又、神殿で
商売がなされている事にひどく怒られた。悪や罪を憎まずして、主
を愛する事は出来ない。神を愛するとは罪を憎む事だ。怒りに二種
類あり、正しい怒りと自我から出る怒りだ。

では、肉の怒りはどのように対処すればよいのか。まず、自分の怒
りをきちんと認める事だ。腹を立てているのに、怒っていない振り
をしてはいけない。怒っているのに、怒りは良くない事だと、心に
押し込め抑え込んでしまう。しかし、封じ込められた怒りは、無く
なるのでなく、心の底に溜まる。

自分はクリスチャンであり、クリスチャンは怒ってはいけないのだ
からと、自分の怒りを認めない事がある。そうではなく、怒ってい
る事実をまず認める事だ。次にその怒りの原因をよく考えてみる。
なぜ怒っているのか。自分の何に触れるのか。プライドか、虚栄心
か、自分の名誉、メンツが損なわれるのか。又、自分の思い通りに
ならない事が、腹立たしいのか。これはなかなか多い。

次に、その怒りはそのまま表現してはならない。感情的なままで人
に対応すると、売り言葉に買い言葉となり、感情が激して、思って
もない言葉まで発してしまう。相手を傷つけ自分も傷つき、必ず後
悔する。害毒を流してしまう。感情に任せてしまい失敗した経験が
あるだろう。

自分の怒りを抑え込む事も、爆発させる事もよくない。まず人では
なく主を仰ぎ、助けを求めよう。怒りを正直に主に告げ、気持ちを
告げよう。一呼吸置いて祈ると、全く違って来る。祈りに答え、主
が働いて関与して下さる。

・・・・・・・・・・・・
対象がどうのでなく、自分の思い通りにならないから怒ると、よく
言われるが、それなら「自分」が根にあり「自我」だ。又、理不
尽な事態なら「自分で復讐するな。わたしがする」と言われる主に
委ねられるように祈ろう。


2019年07月07日(日)

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのとこ ろに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ」イザヤ5 5:11



ある女性が田舎住まいだった。山に囲まれ、日没後は街灯は無く、
真っ暗だ。ある時、帰りが遅くなり、うっそうとした林道を通るが、
恐ろしくて通れない。何とか歩を進めようとするが、恐怖で足がす
くんで、固まってしまい動けないのだ。どうしても動けず、どうに
もならず、その場で主に叫び祈った。

その時に突然「インマヌエル」「神は私たちと共におられる」との
御言葉が光のように臨んだ。主が共におられる!がリアルに臨んで
来て、その場がパッと明るくなったように感じた。「インマヌエ
ル!」すると主と共にその林道を通り抜ける事が出来た。その「イ
ンマヌエル」の経験は、後の信仰人生にも大きな励ましとされた。

別の女性は、両親が不仲で、毎日のように喧嘩していた。争いにな
ると苦しくてたまらない。心が引き裂かれるようだった。ある時、
どうしても耐えきれず、教会に来た。事情を聞き、一緒に祈り、御
言葉を一緒に読んだ。

「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼
らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなた
がたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえ
ます。人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心の
ゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」「善を
行なってなお苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神
に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためで
す」一緒に聖書の御言葉を読んでいると「私、帰ります」と。「心
が平安になりました」と。

・・・・・・・・・・・
御言葉には力がある。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊
であり、またいのちです」。御霊の力があり、いのちがある。御言
葉により、死人も生き返り、干からびた骨も生き返る。御言葉を求
めよう。御言葉によって歩めるよう祈ろう。


2019年07月06日(土)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神 よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17


ある子供が警察沙汰を起こした。父親は当時の企業戦士で、早朝出
勤、深夜帰宅、仕事だけに生きて来て、家庭は妻任せであった。い
っさい子供に関わって来なかった。多忙を理由に、家庭の事は妻に
押しつけ、顧みることも無かった。仕事がすべてだった。子供が非
行に走り、大変な問題を起こし、現実を見せつけられた。脳天打ち
砕かれたように、悔いくずおれた。

出世街道をひた走り、仕事しか頭に無く、野心でいっぱいだった。
子供の事など無かった。家長の責任を全く果たしていない。自分は
何をしていたのか。自責の念と後悔で涙が止まらなかった。自分の
せいだ。この事で砕かれ、御前に悔い改め、自分自身が神に立ち返
る事ができた。

遅れながら、息子のために出来る事は何でもしようと決心していた。
学校にも、地域の青少年育成会にも関わり、夜回りも引き受けた。
仕事でも数々の問題を抱える中、刈り取りは決して甘くは無かった。
身体的、精神的、時間的にもう限界の瀬戸際だった。しかし強いら
れてでも、義務でもなく、したいからしている自分がいた。そんな
歳月の中、息子が「今のおやじは嫌いではない」と言ってくれた。

この瀬戸際の中で支えられたのは、自らの罪が赦されたという事
実だった。「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さ
ない」との赦しを受けて、その事が感謝で感謝でならなかった。ギ
リギリの日々にも、心の底に深い安堵があり、平安が流れていた。
だからこそできた事だった。罪が赦されるとは、何という恵みだろ
う。主の十字架のゆえだ。自らが受けるべき罰を主が受けて下さっ
た。驚くべき恵みだ。

・・・・・・・・・・
「あなたの罪は赦されています」とは、何と驚くべ事だろう。罪赦
される喜びは、何にも代えられない。何度も失敗してしまうが、赦
されて、赦されて生かされている。その赦しを通して、主の深い愛
を知る。もう一度立ち上がれる。


2019年07月05日(金)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇45:10



ある人に突然、家族に関わる事で、大きな問題が起きた。大変な事
になり、パニックだ。いつも学んでいるように、まず祈るのだが、
祈っている最中も、祈りどころでなく、「どうしよう、どうしよう、
どうすれば良いのか」と頭はぐるぐる巡り、方策を懸命に考えてい
る。これは祈りではない。あれこれと考えを巡らすばかりだ。自分
が、自分がと立ってしまっている。

そのため平安など全く無く、不安で不安でたまらない。段々と「こ
うなったら、どうしよう」と最悪の結末のシナリオまで浮かんで来
る。ますます不安は募り、思い煩いでいっぱいだ。恐れと不安の数
日が過ぎ、余りにも苦しくてたまらず、主に叫んだ。

その時、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」「立ち返って
静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あ
なたがたは力を得る」と語られた。そして自分は「いや、私たちは
馬に乗って逃げよう」と言っている者だと。自分で心騒がせるばか
りで、自分で何とかしようとしている姿を見せられた。そのため全
部が自分の肩にかかるので、焦り、恐れ、不安しかない。

「やめよ」「静まれ」「わたしが神だ」「わたしに信頼せよ」と言
っておられる。問題に飲み込まれ、問題しか見えておらず、神が見
えていなかった。祈りは口先で、自分が動き回っていた。今度は祈
りにおいて、主に問題を持って行くようにされた。不安しか無かっ
た心に、初めて安堵が与えられた。

・・・・・・・・・・
突如の問題が起きた時は、まず対処法が頭を駆け巡る。ああして、
こうして〜と。そして心が重くなる。主が飛んで、全部自分の肩に
かかるので、思い煩いと不安でいっぱいだ。まず主を呼ぼう。主の
もとへ持って行こう。そして委ねて、示された事に従おう。


2019年07月04日(木)

「サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告 げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた」 Tサムエル19:1


サウル王はダビデを妬み、殺害すべく、つけ狙っていた。その事を
ヨナタンと家来全員にも告げた。ヨナタンはダビデを非常に愛して
いたので、何とか助けようとする。ダビデにその事を話し、隠れ場
にとどまり、身を隠すよう告げる。愛する父親と、愛する親友との
はざまでヨナタンはどんなに、苦しく辛く悲しかった事だろう。

父親が憎み、敵対するダビデのことを、父親に進言する事は、勇気
が要ったろう。しかしヨナタンははっきりと父親に、ダビデは罪を
犯していない事、むしろ王のために益となっている事、なぜ理由も
なくダビデを殺そうとし、罪を犯すのかと直言した。ヨナタンはそ
の事が言える位置、立場にいた。

エステルもユダヤ人皆殺しの法令が発布された時に、王に嘆願でき
る位置にいた。それは他の誰も取って代わる事ができない。その時、
その場所に置かれたのは神だ。ヨナタンは、ダビデの事を誰よりも
よく知るゆえに執りなした。ヨナタンは自分にできる、自分の使命
を果たした。エステルもユダヤ人の救いのために、命をかけて自分
の使命を果たした。

私たちも、それぞれ現在、置かれている場がある。あなたの位置と
立場だからこそ、できる事がある。それは、あなたにしかできない
事だ。祈って、置かれている意味を捕らえて、自分に与えられた、
自分にできる事をして行こう。

・・・・・・・・・・
今の場は、自分でいるのでなく、主が与え、主が遣わされた場だ。
そこで自分にしか出来ない事がある。他の誰にも出来ない。御霊に
示された事に従おう。必ず主の守りがあり、支えがあり、力が与え
られる。そして主の栄光が現わされる。


2019年07月03日(水)

「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなた のところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラ エルの君主とせよ」Tサムエル9:16


サウルがイスラエルの王とされるために、まるでパズルが埋まるよ
うに、的確なタイミングで事がなされている。まずサウルの父親の
ロバがいなくなった。それで父親が、サウルに若い者を連れてロバ
を捜しに行くよう言いつける。サウルは若者と出かけ、山地を巡り
に巡って捜す。が、見つからない。

それで、ツフまで来た時に、サウルは父親が心配するからもう帰ろ
うと言った。しかし、若い者が、丁度この町に神の人がいて、彼の
言う事は必ず実現するから、道を尋ねに行こうと言う。サウルも同
意し、町へ行くと、丁度その日、そこにサムエルが来ていた。サム
エルは前日に、主から「明日一人の人を遣わすから、油を注いで、
イスラエルの君主とせよ」と告げられていた。

父親のロバがいなくなった事、捜してツフの地まで来た事、若者が
神の人がいる事に気づいた事、丁度その時そこにサムエルが来てい
た事。このどれ一つが欠けても成就しない。「丁度」と、時ピッタ
リに、一つ一つが不思議な導きだ。私たちの人生も同様だ。偶然は
一つも無い。主の主権と支配の中で、愛の御手で導かれている。

振り返ると、あの時の〜この時の〜、あれとあれが、これとこれが
丁度時ピッタリにこうつながって・・と必ず経験している。今、あな
たが、今の場所にいること、今、目の前の人々、出来事・・すべて主
のご計画と配剤だ。今わからなくても、後にパズルが埋まるように、
わかるようにされる。

・・・・・・・・・・・
「あなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ」主
の主権とご計画の中にいることに、心からの安心、安堵がある。振
り返ると、様々な事柄がパズルのように繋がる事を経験する。主の
セッティングだったと。更に御手の中で平安に歩まされる。


2019年07月02日(火)

「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかな った助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありま せんか」ヘブル4:16



主を信じて以来、私たちは古い性質と新しい性質が、絶えずあらが
っている。霊と肉の戦いの中にある。再臨の時に私達のからだは変
えられる。それまで私たちに、肉の弱さがある事を主はご存じだ。
肉体は往々にして、疲れ果てるし病気にもなる。主は肉体をとって
地上に来られたので、この事をわかって下さっている。主は、あな
たの弱さをご存じだ。良き理解者だ。

そして主のゆえに、いつでも恵みの御座に行ける。私達は力と勢い
に満ちている時は、主のためにどんどん働き、主に近いと感じる。
逆に弱さを覚え無力の時は、どうだろう。主を遠く感じるだろうか。
「役に立たない者はだめだ」サタンの声が聞こえる。罪を犯してし
まうと「同じ失敗ばかり、成長がない。自分はだめだ」その声に乗
ると、落ち込み、ますます主から離れる。

御言葉はどう言うだろう。「あわれみを受け、恵みをいただいて、
大胆に恵みの御座に近づこう」恵みの御坐に近づける根拠は「あわ
れみを受け」「恵みをいただいて」とあり、「あわれみ」と「恵
み」だ。自分の功績にはいっさいよらない。自分サイドの何かによ
らない。主からの一方的な愛顧だ。

主のあわれみと恵みがあるので、どんなに破れ果てた状態でも、御
前に行ける。綺麗になって行くのでなく、あるがままだ。どんな状
態でも恵みの御座に行こう。折りにかなった助けが与えられる。

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失敗し、再度チャンスを与えてもらい、又、失敗する。この世では
だめだろうが、主のもとには、そのどん底に尚もあわれみがある。
全く資格の無い者に与えられるのがあわれみだ。主の尽きる事のな
いあわれみを覚えよう。それは朝ごとに新しい。


2019年07月01日(月)

「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありませ ん。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります」ローマ1 1:6


普通、給料とは、時間と労力を雇用主に提供して、得た報酬だ。そ
れが賃金となる。だが全く時間も労力も提供せずに給料が出たらど
うだろう。それは報酬ではなく、一方的に与えられるプレゼントだ。
そして、それが「恵み」だ。正しい行ないがあって、義と認められ
るなら当然だが、行ないが無いどころか、「不敬虔な者を義と認め
て下さ」っている。普通、有り得ない事だ。

「私たちがまだ弱かった時・・不敬虔な者のために死なれた」「罪人
であった時、キリストが死んで下さった」「行ないによるのではな
い。誰も誇ることのないためです」。ぶどう園の労務者の箇所で、
5時から雇った労務者に、早朝から働いた労務者と全く同じ1タラ
ントが支払われた

5時など、もう後片づけに入る時刻だ。しかし家族に持ち帰る今日
の糧無く、朝から5時まで不安な中にいた者にとって、どんなに救
いだったろう。主は、これほどにあわれみ深く、驚くべき気前の良
い方だ。この世の常識では計算が合わない。主の一方的なあわれみ
の心だ。

放蕩息子の箇所も同様だ。父からの財産を使い果たした弟息子が、
我に返り父のもとに帰る時、父は、財産の事は一言も無く、尚も与
える。最上の着物、指輪、靴に、最上の子牛をほふり、祝いの宴会
を開く。。主は「弱い者」「不敬虔な者」「罪人」を愛される方だ。
働きのある者、敬虔な者、霊的な、立派な者だけが愛されると勘違
いしていないだろうか。

・・・・・・・・・・・
主の世界は、恵みとあわれみが支配する世界だ。世は真逆で、救わ
れた後も培われた古い価値観が根深くあり、なかなかわからない。
弱さの中で、また試練の痛みの中で、そのどん底に尽きないあわれ
みが満ちている事、又、恵みは常に十分であり、弱さの中で主の力
が働く事を知って行ける。