2019年08月31日(土)

「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知 っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば・・ 成長を遂げ・・」ヤコブ1:2

「忍耐する」とは、じっと我慢する事でなく、神が必ず、今の事態
を良くして下さると信じることだ。夜の後には、朝が来る。この真
っ暗なトンネルは必ず抜けると信じることだ。積極的で、前向き、
信仰的なことだ。そして、試練に対して、逃げないで、とどまる事
だ。誰しも、どうしても痛い事は避けたいし、苦しい事からは逃げ
たい。

世の人は、お酒を飲んで、目の前の痛みを紛らわすが、私たちは、
飲酒はせずとも、嗜好に、自分にとって心地良い事に没頭して、逃
げるかも知れない。しかし逃げずに、試練と向き合う時、どうにも
出来ない自分の無力、自分の弱さが見せられ、向き合わされる。な
すすべが無い。この事こそが感謝で、だからこそ、真に主に拠り頼
むようにされる。

無力こそが、真に主に出会えるようにするための、主のセッティン
グだ。無力だからこそ、主に助けを求めて叫び祈る。自分で出来る
事は、主を求める必要が無く、自力でやってのけてしまう。しかし、
どうにもならない時には主にすがる。何も思い煩わないで、心配し
ないで、主に祈れと言っておられる。

祈りが与えられている。辛い、苦しい気持ちも主は受け止めて下さ
る。祈り続けて行く時に、主からのメッセージが来る。御言葉を通
して、状況の変化や、戸の閉じ開きを通して、他者の助言を通して、
様々なところから、主の御声が聞こえて来る。祈って、目を開き、
耳を澄ましていよう。必ず備えられている、脱出の道へと導かれる。

・・・・・・・・・・・
信仰が試される試練の時は、忍耐が培われる時だ。順境の時は、自
分で生きてしまう。頼らなくとも、生きて行けてしまうからだ。厳
しい試練の中で、自らの無力を認め、主に拠り頼む事が出来る幸い
を経験して行く。信仰が身につけられて行く。試練は必ず祝福とさ
れる。


2019年08月30日(金)

「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした」創世記33:3



ヤコブは、父イサクと兄エサウを欺いて、祝福を奪った。エサウは
激怒し、ヤコブを殺そうとした。そのためヤコブは家におれなくな
り、遠く伯父ラバンのもとに身を寄せた。そこで伯父ラバンに騙さ
れる。ラケルと結婚したくて、ラバンの要求通り、7年の労働をし
たが、与えられたのは姉のレアだった。

それからラケルのために更に7年労働し、辛い苦しい20年を過ごし
た。やがて、主より帰郷するようにとの示しがあり、ラバンのもと
を後にする。故郷が近づくや、非常な恐怖に襲われる。以前、激怒
し自分を殺害しようとした兄エサウに、家族が、皆殺しにされるの
では。幾ら祈っても〃、その恐怖はどうにもならなかった。

策を練り、しもべ達を先頭に、次に家族を行かせ、川を渡らせ、自
分一人がヤボクの渡しに残った。ヤコブとは「押しのける」との意
味だが、自我が強く、人を押しのけて、神をも押しのけて、自分の
知恵と策略、自分の力でずっと生きた来た。しかし自分ではどうに
もならない、恐怖に囚われ、絶体絶命の窮地だった。

その時に、神が、ヤコブと格闘をして来られ、ヤコブに勝てないの
を見てとり、もものつがいをはずされた。ヤコブが一撃で自我が砕
かれた。その時、名前をヤコブ(押しのける)でなく、イスラエル
(神が戦う)とされた。そしてその場でヤコブは祝福を受けた。こ
の時に、ヤコブは、兄に対する恐れが消えてしまったのだ。

最後尾で怯えていたヤコブが、先頭に立って兄に会いに行った。ヤ
コブは変えられた。兄弟は和解がなされた。主は私たちをも同じよ
うに取り扱い、成長へと導いて下さる。今、取り扱いが来ているだ
ろうか。
--------------
神の訓練は最善とわかっていても避けて通りたいが、神はヤコブの
時と変わらず自我の塊の私たちと格闘して下さっている。成長を願
い関わり続けて下さる神の訓練は、決して怖くはないと思える。


2019年08月29日(木)

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」ガラテヤ6:1



もし、誰かが過ちに陥ったなら、そのままにしておかないで、その
人を正してあげなさいと、主は言われる。ただ、ここでよく失敗す
るのが、相手の過ちが見えた時に、祈りなく愛なく、その過ちをズ
バッとその場で不用意に指摘してしまう事だ。突然で、相手も受け
入れられず、拒否反応となる。傷ついて関係が悪化し、そのまま疎
遠になったりする。

「御霊の人であるあなたがた」とあり、大事な事は、自分自身が御
霊に導かれている事だ。指摘を受ける側は、必ず痛くて辛い事なの
で、まずよくよく祈り、御霊の示し、御霊の導きを受け取ることが
大切だ。その時、御霊がこの事を導かれるとの確信が来て、平安が
来る。そして自分もよく整えられ、「柔和に」「愛をもって真理を
語る」ことが大切だ。

ただ真理の剣で刺し貫き、責めるのではなく、自分も弱い者であり、
しばしば罪を犯す者であり、もし自分が相手の立場ならとの思いや
りを持って語る。その時、御霊が働かれるので、相手の心に届き、
響く。罪の指摘は、相手を倒すためでなく、建て上げるためだ。
ある人が、御霊にどうしても友人の間違いを正すように示された。
相手は、急所であるその指摘に激怒する事が予想され、回避したか
った。

しかし幾ら祈っても御霊の示しは変わらず、どんどん強くなり、と
うとう従った。思った通りに相手は激怒して、喧嘩腰で去った。し
かし夜遅くに電話がかかり、感謝された。あれから冷静になりよく
よく考えた。言えば嫌われる事がわかっていて、言ってくれた事に
愛情を感じ、有難うと。よくわかった、その通りだと受け入れてく
れた。
--------------
御霊に示されたなら、気持ちをよく御前に聖められて、主の愛を以
って語りたい。人の過ちを見つけると裁く思いが先立ってしまうが、
感情ではなく御霊に導かれて語ろう。


2019年08月28日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17



罪悪感が、とがめが、どうしても無くならないという人々がいる。
何度も、何度も、悔い改めて、尚、とがめが無くならないと苦しむ。
だが、それは自分で自分を罰して、主の赦しを受け取ろうとしない
態度だ。「どうしてあんな事をしてしまったのか」と自分を責め、
後悔をにさいなまれ続ける。

だが、主が十字架上で、私のためにその罪の責めも負い、罰を代わ
りに受けて下さった。主があなたを赦して下さったのだから、もう
あなたは自分を責めてはならない。もしかして、その主の赦しを頭
だけで、心の底では受け取ろうとしていないのかも知れない。又は
信じていないだろうか。「神の和解を受け入れなさい。神は、罪を
知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」

ダビデは、バテシバと姦淫の罪を犯し、その夫ウリヤ殺害という大
罪を重ねた。その後、預言者ナタンが、ダビデの罪を指摘した時、
ダビデは罪を悟り、悔い改めた。その時、罪は赦された。ダビデが
罪の赦しを信じ、救いの喜びを返して下さることを信じたからだ。
「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささ
えますように」。罪で、苦しく、重く渇ききったダビデの心は、新
たにされた。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」。
砕かれた、悔いた心を尊んで受け入れ、赦して下さる。「御子イエ
スの血はすべての罪から私たちをきよめます」。問題は、罪の赦し
を、心の底では信じられないことだろうか。ありのまま御前に行き、
心の内をそのまま告げよう。祈りに答え、主は導かれ、信じる心を
与え、罪の赦しの確信を与えて下さる。
--------------
何度も何度もとがめを感じていく事が砕かれた魂だろうか。主の十
字架があるがゆえに罪は赦され、神の子とされた。神の赦しを受け
取ろう。またとがめを感じず流している罪にも敏感になりたい。


2019年08月27日(火)

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない・・わたしの望む事を成し遂げ」イザヤ55:11



私達は、ああなって欲しい、こうであれば良いのにと、様々な思い
がある。それは自分の気持ちとして、祈れば良い。しかし、わきま
えておくべき事は、「わたしの望む事を成し遂げ」とあり、主が語
られた言葉が、成就するということだ。主の口から出る言葉を、主
ご自身が成し遂げる、と言われている。主の意志が物事を実現させ
る。だから主が語られた御心が大切だ。

しばしば主が願っておられると、「自分が」思う事を、主の御心と
勘違いしてしまう。強い願望のゆえに思い込んで、勘違いしてしま
う。だが成就しないので、いぶかる。ある人が、これこそ御心と思
ったが、成就しなかったと証しした。後にそれは、「主が」望む事
ではなく、主のためにと「自分が」望む事だったと気づかされたと。

主の「わたしの望む事」でなく、肉が望む事であった。主の口から
出た言葉だけが成就する。どうすればよいのか。まず自分自身の意
志を明け渡そう。自分の強固な思いが、御心を知ることを妨げてし
まう。そして、もし主の言葉が臨んだなら、その言葉から目を離さ
ず握っていよう。

その約束は、なかなか実現せず、一体どうなっているのかと思う事
もあり、何年も祈り続ける事もある。遠回りに見えて、忍耐が必要
かも知れない。しかし主の言葉は「必ず」成就する。主が働かれる
ので、その言葉の通りになる。だから、約束はすでに得ている事に
なる。神の時に、目に見える形で現れて来る。
--------------
大きな問題はすぐ解決しなければ不安になり、強い願いは思い通り
の答えが欲しいが、同時にそうでなくても自分の思いをはるかに越
えた主の最善がなることも知っている。主に結果をお委ねしよう。


2019年08月26日(月)

「女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』」Tサムエル18:7




サウル王は、最初は謙虚であった。そのため民にも良く思われてい
た。ところが王位につき、すべてが自分の思いのままになるや、高
ぶって行った。部下ダビデが連戦連勝で戻り、民の賞賛の的となっ
た。女たちの「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」の言葉に
サウルのプライドはひどく傷ついた。

ダビデへの強い妬みは、憎悪、殺意へと増幅して行く。もしサウル
がへりくだって、妬みを認め、主に拠り頼んだなら、誘惑から守ら
れたであろう。自分が王位にいるのは、主による事であり、それは
主の恵みであり、賜物のゆえと思えたろう。そしてダビデのような
忠実で、素晴らしい部下が与えられている事に感謝しただろう。

しかしサウルは、主に従うところから離れた結果、プライド、世間
体、人の目、虚栄心のとりことなった。屈折した感情は、妬みの対
象であるダビデへと向かった。その嫉妬は殺意となり、現にダビデ
に槍を投げつけ、刺し殺そうとした。又、ダビデが荒野にいる事を
知ると、三千人を引き連れて向かった。それも敵と戦うためではな
く、一人の忠実な部下を倒すために。

ダビデはサウル王に熱心に誠実に仕え、何一つ悪い事をしていない。
神から離れると、肉の欲望に振り回される、悲惨な姿を見せられる。
私たちも、感情にかき回される時は、まず主を呼ぼう。主のもとへ
すぐに駆け込もう。自分でどうこうせず、まずありのままを主に告
げよう。「妬んでいます、憎んでいます。どうにもなりません」と
ありのまま祈ろう。そこに御霊が働き、助けが臨む。
------------------
主に頼らずともできるとの高ぶりがくると御言葉より誘惑の言葉が
強くなっていく。徐々に崩れる主との関係に気づけることが感謝だ。
主に戻ろう。主は見放さず受け止めてくださる。


2019年08月25日(日)

「だれでも、私につまずかない者は幸いです」マタイ11:6



バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の罪を、はっきりと指摘した。ヘ
ロデは自分の妻を追い出し、弟の妻を妻としたためだ。その結果、
ヨハネは、投獄されてしまった。正しく不義を裁く主は、ヘロデを
罰っされるのではないのか。無実の自分も牢から出されるのでは。

しかし投獄後、全く何も起こらない。又、ヨハネが思っていた主と、
牢の中で、弟子から伝え聞く主の姿が違っていた。「手に箕を持た
れ、殻を消えない火で焼き尽くされる」、悪を裁く正義の審判者で
あるメシヤを思っていた。が、悪を懲らしめる審判者でなく、人を
慰め、病人を癒し、罪を赦している。

そのためヨハネは戸惑いつまずいて、弟子たちに「おいでになるは
ずの方は、あなたか。そうでなく、別の方を待つべきか」と問わせ
た。主は、その弟子たちに「自分の聞いて見ていることを報告せ
よ」、つまり目の前の「事実」を伝えよと言われた。

「盲人が見、足なえが歩き〜〜」これらは、メシヤ到来のしるしだ。
旧約聖書の預言の成就だ。「わたしにつまずかない者は幸い」とヨ
ハネに託された。これらの事で判断せよと。そして、主はヨハネの
ことを、「預言者よりもすぐれた者。女から生まれた者の中で、バ
プテスマのヨハネよりすぐれた人はいない」とまで言われた。

主はヨハネを正しく認め、評価し、愛しておられた。ある人々は剣
の刃を逃れ、ある人々は殉教した。皆、道は異なり、それぞれに託
された御旨があり、総決算はこの世ではなく、天にある。真摯な疑
問は、直接、主に聞けばよい。主はその問いに答えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
主は一人一人に、全く別の御心を持っておられる。隣の人とは違う
ので比較ができないし、隣は関係がない。主を見上げよう。主のご
愛、真実を信じて、そこからぶれないでいよう。そして心に疑いが
起きる時は、直接主にありのまま持って行こう。


2019年08月24日(土)

「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それ を人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受 け入れてくれたからです」Tテサロニケ2:13


パウロは、テサロニケで迫害に会い、そこを逃れ、アテネからコリ
ントへと向かい、コリントにいた時に、迫害を受けている人々に、
テサロニケ人への手紙を書いた。当時、コリントの教会は堕落と混
乱の中にあった。不品行がはびこり、性的に堕落していた。父の妻
を妻にしている者がいたりした。罪がおおっぴらに行われていた。

又、妬みや争いがあり、救われているにかかわらず、肉に属し、た
だの人のように歩んでいる状態だった。テサロニケの人々とどこが
違ったのか。種蒔きの譬えにある。種である御言葉が、地中深く埋
まる時、つまり私の心が開かれていて、御言葉をしっかり受け止め
る時に豊かな実を結ぶ。種である御言葉と私たちの心である土地が
合致し、しっかり受け入れられる時に実を結ぶ。

強い偏見や、又、他人事に聞いていると右から左へと抜けて入らな
い。又、岩のごとき自我が心にあり、根ざさせ無い。御言葉より自
分の思いの方が良いと思ってしまう。又、茨が生えて来て、伸びよ
うとする芽をふさぐ。神より大事なものを握りしめて、御言葉がわ
からないようになる。

テサロニケの人々は、神の言葉として、しっかり受け止めた。その
時、御言葉を信じたいとの思いでいる私たちの内に働く。御言葉の
受け入れ方にかかっている。聞いている「つもり」では。聞いてい
ないので、祈って御霊の助けを仰ごう。

・・・・・・・・・・・・
御言葉は霊であり、いのちだ。御言葉を信仰持って受け入れる時に、
それはいのちとなり、そこに主が働かれる。だから御言葉によって、
苦しみ悩みの様々な状況の中で、救いを得る。必ず自分が変えられ
て行く。聞き流していないか、どのように聞いているか、今一度心
探ってみよう。


2019年08月23日(金)

「というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9



言葉にすれば同じ「弱さ」だが、この世の「弱さ」と、御言葉の言
う「弱さ」は異なる。この世では、強さが善い事で優秀な事であり、
弱さは悪で、劣っている事だ。だから人に知られたくない、隠して
おきたい事だ。しかし御言葉の言う弱さとは、自分の限界を知り、
それを認めているという事だ。

世の価値観では、比較社会の中で、人より仕事ができない、勉強が
できない、運動ができない、テキパキと動けない、対人関係がうま
くできない、そんな弱さは悪になってしまう。競争社会では負け組
となる。そのような価値観の影響を受けると、できない自分、人の
持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者となる。そんな
自分は、受け入れることができず、認めることができない。

自分が自分を裁いている。それなら人も決して認める事ができない。
又、弱さが劣っている事なら、必然的に、人に自分の弱さを隠す事
になる。弱さを見せると、尊敬を失い自分の価値が下がると思う。
だから極めて表面的な交わりしかできなくなる。しかし御霊の世界
は違う。神の力は「弱さ」の内にこそ、完全に現されると。

「弱さ」の中にだけ神の力が現れる。世とは全く違う恵みの世界だ。
自分の弱さを真に認めた時に、神の愛や、力や、真実や、恵み、神
の支えや、助けを経験する。頭でなく、身をもって知る。自分の弱
さを認める時、御霊の自由の中に入れられ、喜びが湧き、生き生き
と生きて行ける。何と嬉しいことだろう。
-------------
出来ないと認めている事は必死に神の助けを求め、祈りながらする。
そして感謝と賛美で終える。無力を認めず、中途半端に逃げている
あのこと、このことも祈りに持って行こう。


2019年08月22日(木)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました」創世記50:20



あなたには思い出すと影を落としてしまう、過去があるだろうか。
大きな失敗をしてしまった、又、深い痛手を負った、被害に会った
・・。過ぎ去った過去は決して変えられないが、しかし、そこに主
を見て、意味を見い出す時に、過去が変わって来る。人の悪意によ
って、受けた傷があるだろうか。父親から偏愛されたヨセフは、兄
たちから激しく妬まれ、エジプトに売られてしまった。

家族から離され、独り、異国の地へ。それも奴隷として。どんなに
孤独で、不安と恐れにさいなまれた事だろう。しかしヨセフは主に
すがった。投げやりにならず、くさらず、主を仰いだ。奴隷に売ら
れた先で忠実に働き、主人からの篤い信頼を得た。しかしその妻か
ら無実の罪をかぶせられ一転投獄に。奴隷より悪い囚人となったが
そこでも主を仰ぎ、忠実に仕えて模範囚になった。

紆余曲折を経て、結果的に総理大臣となり、大変な饑饉の中、一族
を呼び寄せ、一族の命を救う事になる。ヨセフは兄たちの悪意によ
って、売り飛ばされたのだが、しかし主に視点を置く時に、一族の
命を救うために先に自分をエジプトに遣わされたのだと。だから自
分をエジプトに行かせたのは、兄たちでなく、「実に、神」なのだ
と。

「あなたがたは、私に悪を計りましたが」とはっきりと兄たちの悪
意に言及、しかし神はそれを良い事のための計らいとされた。人か
らの悪意による傷であっても、又、自分の失敗であっても、主に視
点を置く時、そこに意味を見い出す事ができ、過去が意味を持った
ものと変えられる。主からの訓練と受け止める事ができる。
---------------
表面的には最悪としか思えなくても、これも主からのものと見てい
くなら、一日一日も主が支えて導いてくださる。そしてそれは必ず
良いことのための計らいであったと言える日が来る。


2019年08月20日(火)

「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない・・さもないと滅ぼされてしまう」創世記19:17



ソドムの町は、酷い罪深さのゆえに滅ぼさる直前だった。主は、ロ
トのもとに二人の御使いを送り、家族を連れ出すよう告げた。もう
一刻を争う差し迫った状況だ。そこでロトは娘婿達にその事を伝え
るが、彼らは罪のために神が滅ぼすなど、冗談、戯れ事だと思った。
到底信じられなかった。

彼らはずっとロトの生活や価値観を見て来た。世を享受し、世を求
め、楽しんでいる姿を。その人から突然、神、罪、滅びなどと言わ
れても「何の冗談か」と。そしてロト自身すら、滅びが迫っている
のに、何と逃げる事を「ためらった」のだ。今まで世で得たものへ
の強い執着だろうか。資産、名誉、地位、世の賞賛を手放したくな
かったのか。

もう間に合わないと、御使いが、彼と彼の妻と二人の娘の手をつか
んで町の外へ連れ出した。「命がけで逃げよ。後ろを振り返るな。
山に逃げよ」と。しかしロトは「主よ。そんな事になりませんよう
に」と。即、従順に従うのでなく、自分の思いを持ち出す。彼の妻
は途中で、振り返り、塩の柱になってしまった。残した世の物への
執着だろうか。

ロトは最初ソドムの近くに住み、自分は大丈夫だと思っていた。し
かし町の中に住み、やがて町の名士になった。少しづつ〃世に引き
込まれた。少しづつ世に流されて、いつしか世にどっぷり浸かって
気づかない。ロトを教訓としよう。私たちの生き方、価値観が知ら
ず〃周囲への証しとされている。
---------------
自分こそ大丈夫ではないと覚えたい。周囲に影響されやすく簡単に
同化してしまう。主と共に心に据えているものは何だろう。それが
周囲に現われる。何を証しているクリスチャンだろう。


2019年08月19日(月)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18



ある人に、どうしても受け入れ難い、好きになれない相手がいた。
なぜそういう行動を取るのかが、理解できず、受け入れられない思
いでいた。そんな相手に突如の厳しい試練が臨み、共通の知人から
祈りの要請が回って来た。大変な試練だと思うのだが、祈れない。
その苦しい状況も、自業自得だと思ってしまう。そのように行動す
れば、そういう結果を刈り取るではないかと、批判的な目でしか見
れない。

自分の心が頑なで、自我だとわかるが、どうしても祈る気になれず、
悶々状態だった。でも、祈りの要請が来てるし、現状は大変で、主
は祈れと言っておられる。どうにもならず、心は苦しいばかりで、
とうとうあるがまま祈った。「主よ。祈れません。いえ、祈りたく
ありません。でも祈れと言われます。それで自分に出来る事として、
祈れない自分を明け渡します。助けて下さい」。

そして祈っていると、今の試練で、もし自分がその人の立場なら、
との思いが突然臨んだ。その時、自分なら絶対に耐えられないと思
った。その時、その人の置かれている状況の厳しさと、その人の苦
しみに思いが至った。涙が出て仕方がなかった。相手の助けと祝福
を心から祈っている自分に驚いた。それは自分ではなく、御霊だっ
た。

自分にどうにも出来ずに、明け渡した時に、御霊が働き、みわざを
して下さった。人に出来ない事が、主にはできる。御霊は肉に逆ら
い、肉は御霊に逆らうので、しようとする事が出来ない。自分自身
を主にお委ねしよう。その時、主が成して下さる。通り良き管とし
て、用いられる。自分自身も主を味わい知って行ける。
-------------
自分が納得できないからという思いに肉はないだろうか。よく主に
祈り、唯一、御声を聞こう。主に愛されている恵みのゆえに人にも
優しくできる、自分には出来ないすこやかな歩みへ御霊は導いてく
ださる。


2019年08月18日(日)

「それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた」出エジプ ト13:18


主は、民をエジプトから導き出された時に、約束の地へ向かうのに、
近道であるペリシテ人の国の道ではなく「荒野の道」へ行かせられ
た。「民が戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返すといけな
い」からであり、主の配慮があった。この道だと、すぐペリシテ人
との戦闘になる。長年の奴隷生活で、戦闘訓練も戦いの経験も全く
無い、無力な民が、敵との戦いなど恐怖で怯えて、おじけずいて、
引き返してしまう。

私たちの思いの中に、出来るだけ楽な道、平らな道、困難の無い道
を好み、近道、早く到達する事、順調が善との価値観がないだろう
か。苦しい事、困難な事は避けたい。だが、主は近道ではなく、あ
えて荒野の、困難な道を通された。主が苦しい道を通されるのだ。
私たちも時に思う。主に不可能はなく、今すぐに、願いを一気に叶
えて下されば良いのに。

延々と時間がかかり、まさに遠回りだと感じる状況がある。自分の
思いと全く違う道を歩ませられる。しかしそこを通ってこそ、忍耐
や信仰が培われ、主の深い愛や慈しみ、真実を身をもって知る事に
なる。委ねる事を学ばせられる。そこを通らずしてあり得ない。

そしてその通り道には、雲の柱火の柱が絶えず伴い、進べき道が常
に示される。灼熱の荒野で、雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の柱が
照らした。それは、道中「民の前から離れなかった」。今、荒野を
通らせられているなら、主を信じ、主に従って歩もう。雲の柱、火
の柱で、片時も離れず共におられ、行くべき道に守りつつ導いて下
さっている。

・・・・・・・・・・・・
信仰人生は、ほんとに思い通りではない。思いと全く違う道も歩ま
せられる。平坦な道だけでなく、様々な紆余曲折がある。だが荒野
の道中には雲の柱火の柱が伴い、常に主の臨在と明確な導きがあっ
た。愛の主が同伴の道のりだ。どんな時も導きが期待でき希望があ
る。


2019年08月17日(土)

「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」ヨ ハネ5:9主は、


38年間、伏せっていた男性を見られた。「イエスは・・見」、主の方
から、目を留め、語りかけられた。「よくなりたいか」と。一見不
思議な言葉に思える。病人が良くなりたいのは当り前ではないのか。
ところが彼は、率直に「よくなりたいです」と答えたのではなく、
介助者がいないからだめだと言った。

自分には助け手がいないから、ずっとこのままだと。確かに、彼に
は助けてくれる人がいなかった。孤独な寂しい人生だったろう。彼
の過去も、失望も、嘆きも、心の内の何もかもをご存じで、主は御
声をかけられた。そして「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と
命じられた。

助けてくれる人がいないせいで、自分はこんな状態だと、38年間、
自分はかわいそうと、自己憐憫の中にいると、そこは楽で居心地良
くなって来る。そのような床を捨てて、起き上がって歩み出せと言
われた。「よくなりたいか」の主の言葉は、彼の現実を見せられた。
「よくなりたいか」とは、現在よくないという事だ。「起きて、床
を取り上げて歩け」この言葉を信じて、起きようとしない限り、癒
しはない。

彼は、主の言葉にすがったからこそ、起き上がろうとした。すると、
主から力が臨み、起きて歩いた。はなから信じなければ、起き上が
ろうとはしない。私たちにも、「イエスは・・見」と、主のまなざし
が注がれている。すべてをご存じで、「よくなりたいか」と御声が
かけられている。自分が依存している、取り上げるべき「床」は何
だろう。

・・・・・・・・・・
余りにも長年の事で諦めてしまっている、「床」が自分にもあるだ
ろうか。何度やってもだめだった。どうせだめだろう。しかし主に
は癒す力があり、変える力がある。自分には出来ないが、主には出
来る。御声を聞いたなら、床を取り上げ、一歩従おう。


2019年08月16日(金)

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」Uテモテ2:13 


 

ある人が、学校でいじめに会っていた。しかし、それを絶対に親に
言いたくないし、知られたくなかった。それはプライドからだった。
いじめられている自分を認めたくない。余りにも惨めで、認められ
ない。それを知られるなど、更に惨めで耐えられなかった。傷つい
ている事を認める事も、受け入れる事も出来なかった。

そのため、傷ついていない振りをした。だが心は苦しくて〃たまら
なかった。しかし主の御前では、そうであってはならない。振りを
してはいけない。主はどんな状態であれ、あるがままのあなたを受
け止めて下さるからだ。主の前では、繕う事も、隠す事も必要ない。
すでに裸のままの、その惨めな私を何もかもご存じの上で、受け止
め愛して下さっている。

傷ついていない振りをしているだろうか。プライドゆえに認めたく
ない事、だが深く傷ついている、その事をまず認めよう。それを主
にありのまま告げよう。その時、初めてあるがまま受け入れられて
いる事、愛されている事が実感できる。私たちがどうであれ、主は
常に真実だ。しかしこちらが正直でなければ、交わりが成り立たな
い。繕った私は、本当の私で無いからだ。

主との交わりが何か実感が無いのは、主の前でも繕っているからだ
ろうか。大丈夫な振りをせず、あるがままの気持ちを告げよう。誰
にも決して言えない事を聞いていただこう。主は両手を開いて、待
ち構えていて下さる。どんな中でも、平安を与えて下さる。
--------------
祈ると心が平安に満たされるのは、主からの最初の祈りの答えでは
ないだろうか。ストレスの一つ一つを、偽らない本音を、真実な主
に聞いていただこう。人知を超えた神の平安を受け取れる。


2019年08月15日(木)

「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエル16:12



シムイという男が、ダビデをののしって来た。ダビデがバテシバと
姦淫を犯した時に、その夫ウリヤを殺害した。その罪を罵倒し、ダ
ビデに石を投げつけ、呪った。「出て行け。血まみれの男、よこし
まな者。お前は災いに会う」と。部下が首をはねる事申し出たが、
ダビデは許さなかった。主が、彼に言わせているのだから、彼に呪
わせよと。

ダビデは、その罵りを主が命じられたと、主から来たものと受け取
った。ダビデは罪は赦されていたが、主からの訓練と甘んじて受け
たのだ。「私の身から出た私の子さえ、私の命を狙っている」、シ
ムイどころか、実子のアブシャロムすら自分に敵対して、歯向かっ
ている。シムイの呪いも訓練として受け入れた。

敵対して来るシムイではなく、彼を置いておられる、背後の主の主
権を認め、その下にへりくだった。そして主に委ねた。「今日の呪
いに代えて、幸せを報いて下さる」。どんな苦しみの中でも、ただ
状況を変えようとするのでなく、主の前に、正しい心でいるなら、
それをも用いて、万事益に、主が良い事のための計らいとされる。

ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良い
ことのための計らいとされた」と。相手の悪意すらも、あなたのた
めに祝福と変えられる。状況に、感情で反応するのでなく、主を見
て、状況を見る時、御霊に導かれて対応できる。主のお心にそって
行く時、どんな苦しく辛い状況でも、主の平安の義の実を見て行く。
------------------
私たちが犯した罪をも用いて、神は見放すことなく訓練して下さる。
悔い改め、逃げずに神の訓練を受け入れるダビデに、本当に罪の赦
しを受け取った人の謙遜と心の平安を学べる。


2019年08月14日(水)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17




主は、導きの主だ。私たちを歩むべき道に導いて下さる。箴言に、
主によって人の歩みは定められるとある。主が私たちの道を決めて
下さる。しかしそれは、自分の思い通りではない。自分の思いと主
のみ思いは、しばしば異なる。誰しも経験するところだ。

全く自分の思いと違う事があり、受け入れ難い時がある。しかしそ
の時も、そのままの気持ちを祈って行く時に、主との交わりの中で、
不思議に心が落ち着いて、心が変えられて行く。しばしば経験する。
そして、主が決められた道と受け入れる時に、信仰が働いて、どん
な道であれ、心が平安にされる。

又、箴言に、人はどうして自分の道を理解できようとあるが、時に
思いもよらない、想定外の事が起きる。戸惑って、驚き慌て、パニ
ックになってしまうが、しかし「あなたの歩むべき道にあなたを導
く」との力強い言葉が与えられている。全く先は見えないが、主を
信じ、御言葉を信じて、御言葉頼りに、一歩一歩と歩む時に、心が
平安に守られる。

信仰人生は自分の思い通りにはならず、又、すべてが願いの通りに
なるのではないが、主のみ思いの通りに導かれて行く。結果的に、
主の御心が最善である事を見せられて行く。そしてどんな時も、あ
りのままの気持ちを受け止めていただける。悲しみも苦しみも嘆き
も戸惑いも、人に言えない事を何もかも、主のもとに持って行ける。

聞いていただいて心が落ち着いてくる。主に知っていただいたとの、
安堵が来る。そして、御言葉を通して、環境を通して、平安を通し
て、確かに御心へと導いて下さる。
------------
何処に安心があり何に信頼して歩んでいるだろう。わたしはあなた
の神であり教え導くと神ははっきり約束をして下さっている。この
方に信頼し明日を信じて今日も歩もう。


2019年08月13日(火)

「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする」出エジプト16:4



イスラエルは、目の前で紅海が分かたれるという、偉大な主の奇跡
を見て、主エジプトを果たした。後にも先にも無いような、驚異的
な輝かしい奇跡だ。民はどんなに大歓声を上げ、喜びの叫びだった
事だろう。しかし、それも束の間、荒野に入った途端、水が無い、
食べ物が無いと、不満噴出で、モーセに食ってかかる。さっき神の
偉大な全能の力を見たばかりで、その神が共におられるのだ。

信じておれば良いだろうと思うが、しかし、イスラエルの姿は自分
の姿だろうか。自分に都合良く、順調に行っている時だけの感謝で、
ちょっと状況が厳しくなると、不平不満、愚痴、恨み事が出て来る。
感謝も恵みも吹っ飛んで、更には神を責め始める。その後は、民は
「どうして荒野になど連れて来た」「飢え死にさせるためか」「エ
ジプトにいた方が良かった」「エジプトに帰ろう」とまで言い出す
始末だ。

何が問題なのだろう。常に自分を中心に、物事を見ていて、自分軸
で世界が回っているので、「自分の思い」「自分の感情」が第一に
なっている。そして「自分の損得」で動いてしまう。険しい状況に
なった時に、「主はどう思われてるのか」「主のお心は」「御言葉
は何と言っているのか」。ここが大事だ。

「自分は」〜でなく、「主は」〜に、主語を置き換えて、神視点に
立つ時、見方が一変する。心が落ち着いて来て、平安になって来る。
主は善い方であり、愛して下さっていて、最善をして下さることに
目が向いて行き、信仰を働かせて行ける。主は荒野の間、毎日マナ
を降らせ、うずらを与えて下さった。自分軸になっていないだろう
か。
--------------
肉はいつも不平不満を見つけるが、感情にふり回されず信仰による
平安と喜びを望みの主に祈ろう。順境にも逆境に主は共におられる
主を仰ごう。苦しい今も主のご計画の途上だ。


2019年08月12日(月)

「そこで蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません』」創世記3:4 



サタンがエバを誘惑しにやって来た。エバがどんな状態なのか、試
したのだろう。「神はほんとうに言われたのか」と。「神」や「神
の言葉」を出して来て、安心させ、そうではないと、エバが反論し
乗って来るように仕向けた。無神論や神否定なら、はなから警戒し
て接するが、神も御言葉も認めているので、同じものかと、心を許
してしまう。

そして、サタンは、エバが御言葉が不確かで、おぼろげで、御言葉
に立っているのではない事を見て取ると、一気に攻撃をしかける。
「あなたがたは決して死にません」。神は、善悪の知識の実を食べ
ると、「必ず死ぬ」と断言された。正反対だ。こんな明白な事はな
い。しかし最初から、「決して死なない」と言われるなら、即、間
違いがわかるが、サタンの声に聞いて乗って行ってしまうと、説得
されてしまう。

極めて狡猾で巧妙だ。エバは御言葉に立っておらず、自分の思いに
立っていたので、サタンにやられてしまう。サタンに聞いて行くと
「決して死にません」と言われて、もはやおかしいと思わない。更
に「神のようになり」と言われて、誘惑が核心を突いて来る。神の
ようになりたい。自分で好きなように判断し、自分の思い通りに生
きて行きたい。

そう言われて木の実を見ると、もはや識別力も判断力も飛んで、禁
じられた木の実が、魅力的で、心地良く、素晴らしいものにしか見
えない。食べるのは時間の問題だ。このサタンが朝起きた時から、
ずっと言葉を発して来ている。言葉が飛び交っている。祈り無くし
て、見分けられなくなってしまう。サタンをも利用される、主に拠
り頼み、識別を祈っていよう。
----------------
自分の思いでサタンに関わらず主のように、聖書にはこう書かれて
いるとサタンを撃退したい。くり返し御言葉を読もう。自分の思い
は曖昧だが、神のことばは鋭利で鋭い。


2019年08月11日(日)

「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨ ハネ10:4 

「羊はその声を聞き分けます」とあり、羊は、羊飼いの声を聞き分
ける事ができると言っている。羊飼いは愛する自分の羊を、その名
で「呼んで」連れ出すからだ。そして羊は良い羊飼いの声を、聞き
分けてついて行く。

だが、しばしば惑わす別の声も聞こえて来る。羊飼いの声を妨げる
様々な声で、盗人、強盗や雇い人だ。それは害を加えるためだ。
「ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのため」だと。サ
タンの声、人の声、自分の肉の欲から湧き上がって来る声がある。
それらの声がしばしば混線し、良い羊飼いの声と区別がつかなくな
る。

肉の欲から湧く声は、自分と一体になっているため、なかなかわか
りにくい。自分が思っている事が御心だと勘違いしてしまう。自分
の思いは心地良いので平安だと勘違いする。御霊の声と肉の声が、
わからない時はまず自分の思い、自分の好みを明け渡す事だ。それ
は「イエス」でも「ノー」でもOKですという事で、自分の思い通
りでなくても受け入れます、との態度だ。

そしてよくよく祈るなら、必ず御霊の声、良き羊飼いの声がわかる。
悪に誘惑する声ならストレートでわかりやすいが、悪ではなく、罪
でもなく、一見合法的で、良い事に見えることに騙されやすい。サ
タンは光の御使いに変装する。羊飼いに似せたサタンの声がある、

良い考えに思えるが、御心をそれさせる人間的な意見がある。最善
に見える、実は肉の欲の声がある。まず、白でも黒でも、右でも左
でも従います、の態度が大切だ。それさえあれば、必ず良い羊飼い
の声がわかるように助けられる

・・・・・・・・・・・・・・
これこそ羊飼いの声と思ってしまうが、時に自分の思いが混線し間
違う事もある。しかし従いたい願いがある時、主は軌道修正しつつ、
必ず主のみ思いへと助け導いて下さる。妨害の声もわきまえ、環境
を見つつ、祈り進もう。愛して下さっているので、羊飼いは御心へ
と導いて下さる。


2019年08月10日(土)

「・・この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻 とふたりの息子を連れて、モアブの野に行き、そこに滞在すること にした」ルツ1:1


ベツレヘムが饑饉になった時、エリメレクとナオミ夫婦は、糧を求
めて異教の地モアブへ移住した。偶像のはびこる地であった。主の
約束の地にとどまる事なく動いてしまった。飢饉は苦しいが、忍耐
していたなら、主は必ずまた豊作にして下ったであろう。家族の幸
せを求め、安心を求めて、偶像の地モアブに行ったはずが、そこで
夫は死に、二人の息子も死んでしまった。ナオミと二人の嫁が残さ
れた。

故郷なら親戚や親しい人々もいたが、異国の偶像の地で、ナオミは
どんなに辛い思いをし、大変な苦労をした事だろう。飢饉は苦しい
が、もっと苦しむ事になる選択をしてしまった。私達もどうだろう。
試練は辛いが、そこから逃げて、一見非常に良く見える別の選択を
しても、結果的に更に苦しみが増す事になる。

ナオミは約束の地にとどまるべきだった。私達も主からの試練を逃
げないで避けないで、受け入れる事が、実は一番の祝福だ。それは
私達の益のためのものだ。その時は痛く悲しいが、必ず平安な義の
実を結ぶ事になる。私達を聖くするため、成長のために訓練される。

やがてナオミは、約束の地に戻ろうと決心する。その時、嫁のルツ
がナオミの神を信じ、自らの故郷を捨てて、ナオミにつき従う。苦
しい刈り取りをしたが、しかし、尚も主は恵み深く、憐れみは尽き
ず、ルツという大きな慰めが与えられた。

私達も失敗しただろうか。その失敗にかかわらず、主は尚も恵み深
く、私たちにも、形は違うだろうが「ルツ」を与えて下さる。失敗
した時も、主のあわれみを求める事ができる。主のあわれみは尽き
ず、万事益とされ、慰めがどんな時にも備えられている。

・・・・・・・・・・・
御心にとどまる事の大切さを学ぶ。苦しみに会い、より楽に見え、
良く見える場に逃げて、御心から出ると、更なる別の苦しみに会う
事になる。今、饑饉が来ているだろうか。必ず豊作にして下さる主
を信じ、動かずに忍耐して御心の場にとどまろう。


2019年08月09日(金)

「何も思い煩わないで・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6



思い煩いが、絶え間なく起きて来るだろうか。心配事、不安、恐れ
は尽きないだろうか。一つ解決すると、又、次の心配事がやって来
る。対人関係の悩み、経済的不安、健康上の問題、親子や夫婦の悩
み、仕事や学業の問題、日々の些細な様々な心配、老後の事、世の
中のこと・・次から次へと襲って来る。

ある人々は嗜好に逃げ、又、周囲に責任転嫁をして逃げる。しかし
何の解決も無く、苦しく辛い思いは無くならない。心は沈むばかり
で、平安も無い。思い煩いと平安は共存し得ない。心は重苦しいば
かりだ。こんな時は、どうすれば良いのか。聖書の答えは「祈れ」
だ。不安や心配事をそのまま、主のもとに持って行き、祈れと。

「何も思い煩わないで」いっさい、一つも思い煩わなくて良いと。
今、目の前の問題も思い煩う必要がない。そのまま主のもとに行け
ば良い。「あらゆるばあいに」例外が一つも無い。大きな問題は勿
論、些細な問題、小さな不安、それも含まれる。「あなたがたの願
い事を神に知っていただき」つまり主のもとへ心配事を持って行く
事だ。

主のもとへ行くことが大切で、主との交わりが大事だ。思いのたけ
を告げ、ことごとく主に聞いていただこう。すると自分の姿が見え
て来て、心が整理され、問題が何なのかが見えて来る。混沌状態で
混乱していた心が落ち着いて来る。主は主を呼ぶ者にいつも知恵を
下さる。何を求めるべきかがわかる。そしてその祈りが答えられて
行く。
--------------
何も心配はいらないとの御約束だ。不安がわずらいになる前に、考
え込むその前にまず祈ろう。必要の全てを知ってくださっている。
不安なままで御父に祈るとき不思議に感謝も口をついて出る。


2019年08月08日(木)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」詩篇32:8



よく聞く話だ。航海中、ある乗客が船長とデッキに立っていた。そ
の乗客は、船長に尋ねた。「こんな真っ暗な夜に、どうやって港に
入ってゆくのですか?」船長はこう言った。「あそこに三つの灯が
見えるでしょう。あの三つが重なって一つに見えるようになったら、
船が港の入り口に着いたいうことです」。

これは神の御心を求める時も同様だ。神の御心を知るために、次の
三つが一致する必要があって、待たなければならない。その三つは、
御言葉と祈りによる内なる平安と環境だ。すなわち、神が御言葉を
与えて下さるのを待ち、又祈りを積む中で、心の中に平安が臨むの
を待ち、環境の門が開かれるのを待つ。

この三つが一致する事が必要で、一致しない内は行動を起こさず、
続けて祈って待った方が良い。この三つが揃うとゴーサインだ。も
し環境が閉じられるなら、それは御心ではない。他に更にふさわし
い道が備えられている。御心の門はひとりでに開いて行く。人生の
重要な事柄に関しては、この原則に基づいて、三つが一致し、尚も
祈り、平安が変わらなければ、進めば良い。

日々の生活での些細な事柄は、神が与えて下さった知性をもって、
常識をもって判断すれば良い。しかし重大な選択については、必ず
明確な導きを示されるようよく祈り、主のお心を求めることが大切
だ。主は私たちを、御心の道へと導きたいと願っておられるので、
求めるなら、必ず示して下さる。
---------------
進むべき道を主に祈ると御霊は真っ直ぐに聖書を開くように導かれ
る。御言葉、平安、環境をよく見ながら導きを確認しよう。自分の
強い思いや世のマニュアルではなく主が悟らせてくださる。


2019年08月07日(水)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい」エペソ6:11




悪魔は私たちの「思い」に攻撃して来る。「悪魔はすでにユダの心
に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」とあるように、悪魔
が、イスカリオテのユダの心に、主を売る「思い」を入れた。ユダ
は最初に、悪魔が持ち込んだ、主を裏切る思いが「自分の思い」で
はなく「悪魔の思い」である事に気づかなかった。悪魔の吹き込む
思いを拒否せずに、受け入れてしまった。

日ごとに、朝起きた瞬間から、悪魔は言葉を投げかけて来る。私た
ちの脳裏に、言葉が常に飛び交う。御霊からの言葉があり、サタン
からの言葉がある。肉の言葉もある。サタンが様々な言葉を吹き込
んで来る。思い煩いであったり、不安や恐れであったり、又、人へ
の妬みや憎しみの言葉であったりする。

その言葉で心が暗くなったり、平安が失せたり、落ち込んだり、ネ
ガティブな感情があおられるなら要注意だ。サタンの吹き込みだ。
その言葉が心に来る事自体は罪ではない。主も40日の断食後、空腹
の時に悪魔の誘惑が来た。「この石がパンになるように、命じなさ
い」と。主が思われたのだ「今、死んでしまったら、人類の十字架
の救いはどうなるのか。

だからここは石をパンに変えて生き延びた方がいいのでは」。しか
しそれは主ではなく、サタンの誘惑だ。主は御言葉をもって撃退さ
れた。そして主は「罪を犯されませんでした」とあり、サタンの言
葉が思いに来る事は罪ではない。自分では無いのだから。サタンの
言葉を識別できて拒否できるよう日々祈っていよう。
----------------
悪魔に立ち向かうためにはサタンの偽りに気づくことが必要だ。
気づけるよう祈り、サタンの偽りに支配されないよう偽りを見破る
正しい御言葉を心に蓄えよう。


2019年08月06日(火)

「・・自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:8



私たちは必ず失敗する。失敗しない人はいない。もし私達が失敗し
た時には、どうすればよいのか。あなたは失敗した時にどうするだ
ろう。その失敗を見ずに無視してしまい、自分の内で無かった事に
する事ができ、隠してしまう事ができる。又、周囲に責任転嫁をす
る道がある。人のせいにし、人に責任をなすりつける。

自分が怒った時に、怒るような事を言った相手が悪い。相手がそん
な事を言わなければ、自分は怒らない。だから相手が悪いと、相手
のせいにしてしまう。肉は、自分の罪をどこまでも認めたくない。
言い訳し、自分を正当化しようとする。アダムがエバに、エバが蛇
に責任転嫁をした罪の性質が根深くある。悪いと思っていない。

自分が悪いと認める事は、自我にとって痛い事だ。私たちは罪を犯
したくないが、弱さのゆえに犯してしまう。その時にどうすべきか
聖書は示している。「自分の罪を言い表わすなら・・その罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめて下さいます」。罪を告白するなら、
罪が赦されて、そしてすべての悪からきよめられると。

いっさい言い訳を止めて、悔い改める事が、自分の罪に責任を取る
ことだ。そしてその時、光の中にいると。「光の中を歩んでいるな
ら・・御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。御
霊が導かれる悔い改めにあずかろう。その時、完全な赦しの恵みに
あずかれる。そして主の愛を知る。
--------------
罪を認めないなら自我は痛まないが御霊の平安はあるだろうか。罪
が赦されるということは何と幸いなことだろう。赦されなければな
らない者だとわきまえていたい。失敗し罪を犯す度まっすぐ主にい
ける。


2019年08月05日(月)

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへ の水がわき出ます」ヨハネ4:16


サマリヤの女性は、井戸ばたに水を汲みに来ていた。女性たちは皆、
涼しくなる夕方に生活用水を求めて井戸に来た。そして談笑を楽し
んだ。井戸端会議だ。しかし彼女は、カンカン照りの暑い、誰も来
ない昼間に来た。人目を避けての事だった。その時に、主は彼女に
「水を下さい」と求められた。

彼女は、サマリヤ人のそれも女性に、ユダヤ人の男性が話しかける
ことに驚いた。当時そういう習慣は無かった。それにサマリヤ人と
ユダヤ人は敵対関係だった。そして主は、ご自身こそが、生ける水
を与え、渇くことのない、真の心の満たしを与えることができると
言われた。

箴言に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とあるが、人間
は心の奥で誰しも、愛し、愛されることを求める。しかし人間の愛
は条件付きであり、時に人の心は変わってしまう。この女性は、男
性の愛を求めて、さまよっていた。それにより自分は満たされ幸せ
になれると思ったからだった。

そのため五度の結婚と離婚を繰り返し、今の相手とは同棲中だった。
しかしそこに心の満たしは無かった。この世の水は飲んでも飲んで
も、満たされるどころか、ますます渇く。そのため、次から次へと
満たされるものを求めて、さまよう事になる。私たちも、もし心に
喜びや満足が無ければ、主以外のもので、心を満たそうとしていな
いだろうか。

それなら更に渇くばかりだ。心の奥に強い渇きがあり、満たされず
に、虚しさの中にいた彼女のその心を知り、わざわざ彼女に会うた
めに、主はサマリヤに立ち寄られた。「サマリヤを通って行かなけ
ればならなかった」と。私たちの心の渇きを主はご存じだ。主こそ
が渇きを満たして下さる唯一のお方だ。

・・・・・・・・・・・
主は、女性の心の奧の渇きと求めを知っておられた。そして心の必
要を与え、満たされた。私たちの心の奥はどうだろう。何を求めて
いるのだろう。もし主を求めていたなら、必ず満たして下さる。泉
となり永遠の命への水が湧き出ると。


2019年08月04日(日)

「・・神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たち は知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々 を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ロー マ8:29



私たちは、主のために働きたいし、役に立つ器とされたいとの思い
がある。だがそこでキリストに似た者に変えられて行く「聖化」と
いうより、自分の賜物がいかに用いられたか、どれだけの働きを遂
げたかというような、目に見える「成果」を求める間違いに陥ってし
まう。

この世の価値基準が、目に見える「成果」だからだ。企業はどうだ
ろう。立派な動機があり、素晴らしいプランがあっても、何の「成
果」も無ければどうだろう。慈善事業ではないので、結果を出さな
くては意味が無い。結果がすべてだ。成果が要求され、それを追い
求めて仕事をしている。

しかし私たちは異なる。私たちが救われたのは、主に似る者とされ
るためだ。生涯を通じて、主のかたちへと造り変えられて行くこと
だ。主の愛、主の喜び、平安、寛容、親切・・へと変えられて行く。
だが私たちの内には、根深い肉の性質があり、それは「自分が」認
められたい、評価されたい。「自分が」褒められたい。賞賛された
い。どこまでも「自分」「自分」がある。

無意識にも主の栄光でなく、自分の栄光を求めてしまう。肉は自分
の力でやって行きたい。そして自分が認められ、評価される事が嬉
しいし喜びだ。だが、そこに神の栄光は無い。キリストに似るとい
う目的からずれる時、肉がすぐに頭をもたげ、自分の栄光にすり替
わってしまう。

主と同じかたちに変えられて行くのは御霊の働きによる。自分では
不可能だ。御声に一心に耳を傾け、御言葉に一歩一歩従って行く時
に、自分の力によってでなく、御霊によって変えられ、造り上げら
れて行く。そのように定めて下さっているとは、何という恵みだろ
う。
・・・・・・・・・・・・
万事益とされるのは、御子の似姿に変えるためとある。御子のかた
ちへ変えるように、益とされるのだと。古い価値観は、自分の利益
のために、万事益にされると勘違いしてしまう。一つ〃の失敗も、
御子の似姿に変えるために益とされるとは、何という恵みだろう。


2019年08月03日(土)

「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れ そうになった」ルカ5:6


プロのベテラン漁師であるペテロが、一晩中漁をして、一匹の魚も
とれなかった。何がどうなったのか、どこが悪いのか。しかし、こ
んな日はどうしようもなく引き揚げるしかない。徹夜で働いて身体
も疲れきっていただろう。心的にもその日の糧が無く、がっかり落
胆し、その疲労は倍増だった事だろう。岸辺で網を洗い片づけをし
ていた。

そこに主が、舟を少し出すよう頼まれ、従うと、その後「深みに漕
ぎ出して、網をおろして魚をとれ」と言われた。その時、様々な思
いが巡っただろう。夜通し漁をしたがだめだった。こんな時間帯に
魚はいない。自然現象だ。常識で考えるなら不可能だ。徒労に終わ
る事がわかっている。無駄ではないか。早く家に帰って寝たい・・。

しかしペテロは「でも、おことばどおり」と従い、網を下ろした。
「そして、そのとおりにすると」驚くばかりの大漁であった。奇跡
だった。大事な事は、「お言葉通り」従うことだ。従おうとする時
には、肉の思いが立ちはだかり、妨げて来る。「出来ない、難し
い」「前もだめだった。今度もだめだろう」「意味があるのか」、
様々な妨害が入る。

しかし、どんなに肉の思いが妨げて来ても、「おことばどおり」従
う時、大きな祝福が備えられている。又、この時にペテロは「人間
をとる漁師になる」との召しを受けた。「おことばどおり」従う時、
祝福が待ち構えている。目の前に御心を示されているなら、ちゅう
ちょせず従おう。

・・・・・・・・・・・・
御心に従おうとする時に、サタンの妨害が来る。常識、世の価値観、
自分の思いが巡って来る。祝福を阻止したいサタンだ。「でも、お
ことばどおり〜」とあり、御言葉と見える所が異なる場合は、御言
葉の方に従おう。沢山の魚が入り、溢れる祝福にあずかる。


2019年08月02日(金)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行 く所どこにおいても、主を認めよ」箴言3:5



ある人が祈りつつ、ずっと職探しをしていた。なかなか無い中、つ
いに与えられて、喜び、感謝して仕事に就いた。しかし任された部
署のその仕事は、自分にとって、初めてであり非常に難しくて、う
まく出来なかった。辛くて何度も涙した。自分はこの仕事に合わな
い、向いていないのではと悩み、もう出来なくなって、祈り、ギブ
アップし、すべてを主にお委ねした。

その時に、「心を尽くして主に拠り頼め・・あなたの行く所どこにお
いても、主を認めよ」と語りかけられた。今の場所で主を認めよと。
確かに切なる求めに答えられ、主が下さった場だった。今の場所で、
心を尽くして主に拠り頼めと。自分のする事は、主に拠り頼むこと。
祈りに祈って与えられた職場であり、今一度主に拠り頼んで、続け
る決心をした。

目の前の一つ一つの仕事を具体的に祈り、ひたすら主に拠り頼んだ。
主に委ねたので、心も吹っ切れて、重苦しさが取れた。その時に不
思議が起きた。目の前に道が開かれて行き、驚くばかりに仕事に
次々と成果が出て、導かれて行った。自分が一番驚いた。

周囲からは「あなたに合った仕事ね」と言われるが、自分の力では
全く無かった。まさに主を経験して行った。今の場所に、がっかり
しているだろうか。今の場に主を認め、心を尽くして主に拠り頼ん
で行こう。必ず道をまっすぐにして導いて下さる。

・・・・・・・・・・
出来ない事を認めて、弱さを認めて、どん底で心の底から主に拠り
すがり、助けを求めた時に、救い上げられる経験をする。まだ余力
がある内は、自分の力で走り回る。自分の悟りと自分の力に、頼っ
てしまう。どうにもならない時こそ、逆に大きな恵みの時だ。


2019年08月01日(木)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリスト の名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20


ジョニーという女性が証ししている。彼女は水泳の飛び込みに失敗
し脊髄を痛める。かろうじて命は取りとめたが、一生身体は動かな
くなった。その時絶望して死を願った。36キロの身体は黄疸になり
黄色い皮膚に覆われた骸骨のよう。歯は薬物治療のため真っ黒だ。
もう絶望しか無かった。とても生きて行けない。死ぬ事ばかりを考
えた。

しかし、真っ暗闇のどん底の中から、時間を経つつ、周囲の暖かい
励ましに、少しづつ心が動いて行く。「神がどう見ておられるかが
大切であって、人がどう見るかは重要でない。人の基準、この世界
の基準でなく、神がどう思われるのか、神からの価値だけを考えよ
う」。神に目が向き、考えるようになって行った。その思いは少し
づつ膨らみ、自分が、神の似姿に造られた事に思いが至った。

やがて自分のこの身体、格好、能力、自分でどう見えたとしても、
今の自分を神に「感謝する」事を決心した。信仰による選択だった。
この今の自分の姿を、神に感謝し続けていると、パズルが埋まるよ
うに、すべてのものがふさわしい場所に置かれて行った。そしてよ
り良く神に仕え、より幸せになれるように、神が自分にこの身体を
与えたのだと理解できた。

こうでなければ最後まで、自分の人生に神の事はいっさい無く、自
己中心に生きていたと。神の関与に心から感謝した。今、喜びがあ
り、幸せそのものだ。感謝する事は、つまり今の状況に神を受け入
れ、認める事であり、その時、神はご自身のみわざをされる。

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信仰人生、様々な状況に直面する。苦しく辛い事態、悲しい出来事、
嘆かわしい状況、それを感謝する事は信仰によってでしか出来ない。
それを受け入れる時、幸福感をもって生きていけるのだが、到底受
け入れられない。そこを助けて下さるのが御霊だ。ありのまま祈り
御霊の助けを求めよう。