2019年09月30日(月)

「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすために、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた」出エジプト13:21



イスラエルの民は荒野にある間、雲の柱、火の柱がずっと共にあり、
進むにもとどまるにも、はっきりと導かれた。常に、雲と火により
明確な指示があった。いつもそれらを通して、主を見、その導きを
見ていた。「雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった」とあ
り、主が止まられる所で、とどまった。私たちはどうだろう。

止まる事が苦痛で、どんどん前に進み、旅を続けたいと思ってしま
う。前進したいと思う。しかし、主が止めておられる時は、主と共
にとどまろう。そんな時こそが実は大切な時で、その所で主は様々
な有益な恵みの学びを与えて下さる。ある人は引っ越しのために、
自宅を売却する事に。すぐに売れると思っていたが、それがなかな
か売れず、忍耐を試された。

祈りに祈るが、売れない。半年が経ち、決まりそうになるが、最後
で見送りとなる。幾ら焦っても思い煩っても、雲の柱が動かない限
り、動かないのだと、じっと待つ事を訓練された。主を待つ事を身
をもって学ばされた。大変な忍耐だった。やがて時が満ちて、とう
とう雲の柱が動き、買い手が見つかった。

とても良い方に買ってもらえ、心に平安が満ちた。私たちも、もし
今待つべき時なら、動かない事が大切だ。必ず神の時が来る。神の
時には、事がひとりでに動いて行く。門が開かれて行く。神の約束
が実現して行く。神の時を待とう。
--------
前進は良くて、とどまることは後退のように思えるが、主は夜も火
の柱となって照らし守ってくださっている。待っている時も主の御
手の中。おりにかなった助けと導きを主に求めよう。


2019年09月29日(日)

「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい・・あなた がたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」Tペテロ5:6


主は「何も思い煩うな」と言われている。「何も」いっさいがっさ
い、思い煩わなくてよいと。主に委ねよと。何という事だろう。そ
れは主があなたの事を心配して下さるからと。目の前の心悩ませら
れている、まさにその問題も心配無用、主に委ねよと。しかしどう
だろう。主の言葉にかかわらず、あれもこれも思い煩ってしまうの
が現実だろうか。

思い煩いはどこから来るのか。それは、目の前の事態は自分で何と
かしなくては、又、自分で対処できると、思っているところから来
る。そのため、自分の肩に、すべての荷がかかって来るので、重く
苦しくてたまらない。思い通りに事態が進まないと、どんより暗く
思い煩う事になる。

そして思い煩っている時は、主が飛んでいる。主がいない。問題と
自分しかない。問題に飲み込まれているので、心は非常に重苦しい。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」。一つ一
つ神に渡してしまうようにと。その前節に「あなたがたは、神の力
強い御手の下にへりくだれ」とある。

「神の力強い御手」、思い煩っている時はどうだろう。「力強い神
の御手」が全く見えない。神を認めていない。どんな時も、神の力
強い御手により守られている。へりくだるとは、目の前の状況に主
を認める事だ。そして主に拠り頼む事D。御手を認めない事は高ぶ
っていることになる。問題が、どうしても委ねられないところにあ
るなら、まずそのまま主に告げて祈ろう。人に出来ない事が、神に
は出来る。平安の道筋へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
委ねられないのは、自分が握って放さないから。自分が握っていな
いと、何もかもがだめになると思う。だから放せない。主を信じる
事ができない。まず主はそのありのままを愛し、受け止めて下さっ
ている。主にそのままを祈り、助けを求めよう。委ねることができ
るよう助けて下さる。


2019年09月28日(土)

「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サ タンがはいった」ルカ22:3


主は、今まで愛し導いて来た弟子たちに、その愛を残るところなく、
完全に、最後まで示された。自分のものを「極みまで愛され」「愛
し通された」。それで、主は、手ぬぐいを腰にまとわれ、かがんで
弟子たちの足を洗われた。そこにユダもいた。今から裏切るであろ
う事を知った上で、ユダの足を洗われた。

ユダをも最後まで愛し通された。主が捕らわれた時に、ペテロも主
を裏切った。3度も呪いをかけ誓い「あんな人を知らない」と。そ
してペテロだけでなく、弟子たちは皆、イエスを見捨てて、逃げ去
った。皆、逃げる事になる。その先の事もわかった上で、主は皆の
足を洗われた。これからの事をわかっていて、尚かつ極みまで愛さ
れた。

しかしながら、ユダとペテロは違っていた。ユダは後悔したが、主
のもとへ行かず、どこまでも主に頼らず自分で片をつけた。ペテロ
も後悔したが、主のもとにとどまり、すぐに悔い改めた。他の弟子
たちも復活の主のもとへと戻って来た。

「さて・・ユダにサタンが入った」とあるが、悪魔は勝手に入れない。
ユダは悪魔の方を選んだ。徐々に悪魔に心を開いて許して行った。
主はユダをも極みまで愛されたが、ユダは主を選ばなかった。自分
の思い描いていた主と違ったのだろうか。

主のそばで3年間、ずっと御言葉を聞いた。主のわざも見た。その
上で自分が選んで計画したユダの意志だった。サタンのふるいを通
ったペテロは、後に「身を慎み、目をさましていなさい・・敵である
悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求め
て、歩き回っている」と記した。お腹をすかせたライオンが獲物を
狙っている。目を覚まし、主に拠り頼み、心して祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・
天に帰るまでは、この世では、ずっとサタンとの霊的戦いであるこ
とをわきまえていよう。主の御声をなおざりにしていると、少しづ
つ霊的に鈍くなって行き、少しづつサタンに足場を与えてしまう。
「従います」の姿勢で、御声に真剣に耳を傾け、心に御言葉を宿し
ていよう。サタンから主により守られる。


2019年09月27日(金)

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」詩篇1:2



詩篇記者は「幸いなことよ」と、本当の幸せ、生きる喜びを語っ
ている。それは御言葉を喜びとし、昼も夜も主の言葉から離れず、
御言葉を口ずさんで生きる人だ。御言葉を心に抱き、思い巡らし、
反すうする。御言葉には力がある事を経験して行く。御言葉に思
いを潜めて行く時に、心が引き上げられ、又、潤いや喜びが温も
りが流れ来る。

「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです」と。この世の喜びでなく、御霊の
喜びを味わう。そしてその御言葉に、聞くだけでなく、実際に従っ
て行く時に、豊かな実のなる人生へと祝福される。御言葉を聞き、
従う人は水路のそばに植わった木のようで、時が来ると豊かな実が
なって、その葉は枯れることがない。

水路のそばが鍵だ。どこに植わっているかが大切だ。水路から常に
水分が絶えることなく供給されるので、みずみずしいたわわな実が
成る。そして水分が常にあるので、決して枯れることがない。又、
何をしても栄えると。

栄えるとは、単に商売繁盛、五穀豊穣、家内安全という意味でなく、
病気もするし、試験不合格もあるし、経済的苦境もあるかも知れな
い。主は私たちの成長のために様々試練を与えられる。しかしその
中で、成長が与えられ、神の栄光を現して行くということだ。何と
幸いな人生だろう。
--------------
主の御言葉には魂を救う力がある。自分の頼りない声や価値観より
主の御言葉の声を聞き、御言葉を土台に考え、決断できるのは何と
幸いな力ある歩みだろう。


2019年09月26日(木)

「だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインはひどく怒り、顔を伏せた」創世記4:5



死傷事件をニュースで目にする。隣人と地境の事で争いになったり、
犬の鳴き声やピアノの音がうるさいと、死傷事件になる。ガンをつ
けたと、単に道で目が合っただけでもめて、傷害事件に発展する。
人の怒りは放っておくと、幾らでも高じて行ってしまう。そして相
手を攻撃し、殺傷へと至ってしまう。

カインとアベルの兄弟が献げ物を献げた時に、兄カインの献げ物は
受け入れられず、弟アベルの献げ物は受け入れられた。カインはそ
の時に顔を伏せるほどの、激しい怒りに燃えた。主はそんなカイン
に「なぜ、あなたは憤っているのか」と言われ、「あなたが正しく
行なったのであれば、受け入れられる」と言われた。

カインは正しく行なっていなかった。主に聞いて、悔い改めて、献
げ直せば良かった。主は罪が戸口で待ち伏せしているから、罪を治
めよと言われたが、カインは激しい怒りと妬みが弟アベルに向かい、
アベルを殺害してしまった。私たちも、怒りに身を任せてしまうな
ら、コントロール不能に陥ってしまい、どうなるかわからない。
大きな罪を犯してしまう。正しく対処する事が大切だ。

対人関係で怒りが沸いた時に、すぐに感情的反応をしてしまうと、
取り返しのつかない失敗をする事になる。人間関係に大きなひびが
入り、信頼関係を壊してしまう。まず主に呼ばわり、祈ろう。まず
祈ることだ。主のもとに持って行く時、主がその事態を正しく導い
て下さる。罪を治めさせ、罪を犯さないよう守って下さる。
-------------
人が認められ自分が顧みられないと口惜しい。そこを指摘されると
神にでも憤るカインの肉が自分の内にもある。口惜しい時も、怒り
が沸く時も顔をふせずすぐに主に告げよう。


2019年09月25日(水)

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです」マタイ6:26




ある人が、働いていた小さな会社だったが、突如の倒産で、どうに
もならなくなった。給料も滞ってた中、途方に暮れた。様々な支払
いはどうすればよいのか。貯えも無い。非常に困惑してしまい、ど
うして良いかわからない。ふっと主を見上げた時に「わたしは決し
てあなたを離れず、またあなたを捨てない」との御言葉が心に浮か
んだ。主の語りかけだった。

心にポッと光が灯ったようだった。嬉しかった。そして祈って行く
中で、大丈夫だと思えて、段々と心が落ち着いた。主が共におられ
る。愛して下さっている。主にはしようとしておられる事がある。
立てておられるご計画がある。災いではなく、平安と将来と希望の
ための出来事だ。すべての事が働いて益とされる。この事態も必ず
益とされる。

そして「何も思い煩うな」「明日のための心配は無用」「空の鳥を
見よ」と主に向くと非常に励まされた。経済的必要をお委ねして、
祈っていると、不思議が起きた。以前、親しい従姉妹の結婚式の必
要のために、その時に使わないお金を用立てしたのだ。感謝と共に、
そのまとまったお金が返済されて来た。

それですべての支払いが一つも滞る事なく、できたのだった。突然
の困窮の事態が、返って素晴らしい主を知る機会とされた。万事益
とされた。私たちも色々な事が起きるが、今も、目の前の出来事に
は意味があり、ご計画があり、万事益とされる、決して見放される
事はない。信じて立とう。
--------------
健康も富も全ては主からのものと頭で知っていても、失った時には
自信をなくし落胆する。主の祝福はいつも変わらず注がれている。
無くてはならぬただ一つのことを信仰の目で知って行きたい。


2019年09月24日(火)

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」詩篇34:1




主は賛美を喜ばれる。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエ
ルの賛美を住まいとしておられます」ともあり、主は賛美を住まい
とされ、そこに住まれる。そして賛美には力がある。「あなたの力
を主が喜ばれるから」ネヘミヤ8:10の別訳は「主を喜ぶことは、あ
なたがたの力である」だ。

イスラエルに敵が攻めて来た時、余りにもおびただしい大軍で、も
うどうしてよいかわからない、ヨシャパテ王は祈った。その時に
「恐れるな、気落ちするな。明日出陣せよ」と言われ、主が共にい
るからと。その時に、王と民は、主の前にひれ伏して、礼拝した。
レビ人たちは「大声を張り上げて」力一杯主を賛美した。

そして翌朝、強靱、屈強な精鋭部隊を前線に出したのでなく、賛美
隊を最前線に出したのだ。彼らが喜びの声、賛美の声を上げ始める
と、主の伏兵が敵を襲ったので、敵は打ち負かされた。大勝利であ
った。礼拝と賛美は大きな力がある。主を喜ぶ事は力であり、私た
ちが主を喜び、賛美して行くとサタンは立ち行けない。サタンが逃
げ出すのだ。サタンは主を喜ぶ事や、主に感謝する事、主を賛美す
る事を非常に嫌う。大嫌いだ。

サタンは失望落胆が大好きで、思い煩いや怒り、不安、不満、憎し
み・・それらはサタンの食物で、そこに足場を得てしまう。増殖し
て行く。しかしどんな苦しい、悲惨な状況の中でも、主に感謝して
行く時、主を誉め讃えて行く時、サタンは足場を失う。サタンの居
場所は無い。敗走せざるを得ない。賛美と感謝の力を覚えよう。
--------------
あらゆる局面を感謝と賛美から始めるなら、自分の力、人の力に一
喜一憂せずに済むのではないだろうか。感謝をもって賛美し主は全
ての拠りどころだと宣言しよう。


2019年09月23日(月)

「イエスは、ご自分ではしようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6


主は、ご自分では、しようとする事をすでに決めておられた上で、
ピリポに「どこからパンを買って来ようか」と問いかけられた。す
るとピリポは「200デナリのパンでは足りない」と答えた。人間的、
常識的判断だ。手元の金額と人々の入り用を計算すると「足りませ
ん」が答えだ。ところがアンデレは、何か食物を持っている者はい
ないかと、群衆の中を探し回った。

そして小さな弁当を持っている子供を見つけ連れて来た。それは五
つのパンと二匹の魚であった。これは、あるいは、主が何かして下
さるのでは、と思ったのか。「あるいは・・しかし、こんなに大勢
では何になろう」主への期待と、しかし大勢過ぎて無理・・の思い
が交錯する状態だった。

だが、主はこのアンデレの行き来するような信仰を用いて、この奇
跡をされた。ここで学ぶ事ができる。「足りない」との判断は、自
分を軸にした見方に立っている。それを自分軸でなく、主を軸にし
た視点に変える事が必要だ。時間が無い、能力が無い、費用が無い
・・だからダメ、それはあくまでも自分の視点であり、しかし主は
どうだろう。

自分には出来ないが、主には出来ないだろうか。人に出来ない事が
主には出来る。まさに主はその信仰を求められていた。こんな微々
たるものが何になろう、焼け石に水、役に立たないと思うだろうか。
だがそれを主のもとに携えるなら、それを用いて、驚くべきみわざ
をして下さる。
----------------
すぐに自分の能力を見て判断してしまうが、主を見つめていくこと
が信仰だ。自分には出来ないが主から何か示されていないだろうか。
主が働かれると信じ主に応答していこう。


2019年09月22日(日)

「あなたがたが、私から学び、受け、聞き、また見たことを実行し なさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてください ます」ピリピ4:9


ある人が、職場で厳しい問題に直面していた。プロジェクトがうま
く行かず、行き詰まっていた。対人関係でも問題を抱えていた。心
は重く、苦しく、仕事にも生活にも、どっちを向いても、せっぱ詰
まった状況だった。どうにもならず、助けを求めて主の御前に出た。
心の内をことごとく告げながら祈っていた。

すると、やはり祈りが大切と「わたしを呼べ」「絶えず祈れ」「何
も思い煩わず・・告げよ」と祈るように示された。実は多忙の中、祈
りの時が全く持てていなかった。主との交わりの大切さを、今一度
覚えさせられた。とにかく従おうと、その日から「祈る」事を始め
た。

朝のデボーションで、又、道を歩きながら、雑用をしながら、夜寝
る前に「祈り」を実行した。示しの通りに祈りを続けていると、気
づきが与えられた。「自分が」「自分が」と自分が立ち、自分の力
と自分の頑張りで、やっていた事に気づかされた。この挫折が無け
れば、更に自分の頑張りに拍車がかかり、バーンアウトしていただ
ろう。

肉の頑張りを認め、明け渡す事ができた。肩から力が抜けて、平安
にされた。委ねていると、しばらくして仕事の突破口が見つかり、
軌道に乗り出した。対人関係も解決の糸口が見えた。御霊に示され
た通りに従った時に、御霊が働かれて、目の前の硬直状態だった事
態が動いて行った。示された事に従うことが大切だ。今、示しがあ
るなら、その通りに実行しよう。

・・・・・・・・・・・
御言葉を実行する時、平和の神が共におられると。今、目の前に与
えられている御霊の示しに従えるよう祈ろう。実行できるよう確か
に助けて下さる。そして一歩従うと、次の展開へと導かれて行く。
不思議なみわざを見る。まず意志を向けよう。従う力は主から来る。


2019年09月21日(土)

「その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなる からだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし、主が 私たちとともにおられるのだ」民数記14:9


約束の地を探った12人の斥候が、10人はかの地の人々が巨人に見え、
自分たちはいなごに見えた。城壁は高く、彼らは強い民で、自分た
ちはやられてしまう。攻め上れないと言った。片や2人の斥候ヨシ
ュアとカレブは、乳と蜜の流れる素晴らしい地だった。是非とも上
って行って占領しよう、主が共におられるのだから、必ずできると
言った。

正反対の見解を示した。彼らは別のものを見たのではない。同じ場
所へ行き、全く同じものを見たのだ。民は皆、モーセとアロンにつ
ぶやき、エジプトで死んでいたら良かった、荒野で死んだ方がまし
とまで言った。不信仰でつぶやいた民たちは、約束の地に入れず、
荒野で死んでしまった。

だがヨシュアとカレブは、主が私たちをかの地に導き入れ、私たち
に下さる、彼らは私たちのえじきとなると言った。私たちはどうだ
ろう。信仰生活の中で、問題が来た時に、二つの態度が取れる。一
つはつぶやいて、不満タラタラで、不信仰に陥り、思い煩いにのめ
り込み、周囲に害を流す。もう一つは、主は約束を実現させて下さ
るとの信仰に立ち、感謝して行く。すると問題が「えじき=仕留め
られた獲物」となると。

そして、約束の地に入って行く。主が飛んで、問題だけを見る時、
問題は巨人に見える。そして自分を見、到底だめだと思える。しか
し主が共におられるなら、目の前の問題は必ず導かれる。乗り越え
て行ける。つぶやきでなく、感謝の方を選択してみよう。主のみわ
ざを見て行く。

・・・・・・・・・・・・・
感謝には不思議な大きな力がある。感謝する時、主に焦点が向いて
いるので、そこから御言葉が思い出され、信仰が湧いて来る。感謝
する時、サタンが来れず、サタンの足場を崩してしまう。状況と自
分だけを見ているなら、御霊の気づきが与えられるように。


2019年09月20日(金)

「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:15



モーセを指導者とするイスラエルの民は、出エジプトを果たし、荒
野に出た。そして約束の地カナンを目指して旅をする間も、モーセ
により神の言葉を聞いていた。しかし彼らは何度も繰り返し、従う
事なく、水が無い、食物が無いとつぶやき、不平不満を口にし、主
に逆らった。

カデシバルネアでは、各部族からカナンへ斥候を遣わしたが、信仰
に立ったヨシュアとカレブの言葉に従わず、不信仰な10人の斥候の
言葉に従い、恐れと怯えで号泣し、エジプトに帰るとまで言い出し
た。そのため大人たちの中で、約束の地に入れたのは、ヨシュアと
カレブたった2人だった。他の成人たちは、荒野で死んでしまった。

それだから「語っておられる方を拒まないように注意しなさい」
「不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけ
なさい」と。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合
えと。そして「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにし
てはならない」と。「今日」が大切だ。明日、明後日でなく、「今
日」主に向き、真実であれと。

又、民はモーセから神の言葉をずっと聞いていたが、聞いた御言葉
も益にならなかった。「聞いた人たちに、信仰によって結びつけら
れなかった」と。物理的に耳で聞いていたが、御言葉を信じず、聞
き流し捨ててしまっていた。どこまでも主に向き合い、もし、信じ
られない、従えないなら、そのままを告げ、自らの状態を正直に告
白し助けを求めよう。祈りに答えて、主は助けて下さる。
----------------
御言葉を信じようとするとすぐに否定的な思いが浮かぶ。そこで御
言葉を捨ててしまうか、そのつぶやきを祈りにするかで大きく変わ
る。主につぶやきを差し出しながら歩みは遅くても前進しよう。





2019年09月19日(木)

「ヨシュアは祭司たちに命じて言った。『契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい』」ヨシュア3:5



約束の地カナンを目前にし、指導者ヨシュアは、ヨルダン川を渡り、
約束の地へ行けと主に命じられた。水が、とうとうと岸いっぱいに
溢れ流れる川だ。祭司たちは、ただ、ヨシュアの言葉だけが頼りで
あった。「足の裏が、水の中にとどまると、上から流れ下って来る
水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」と。

ヨシュアの指示通り、祭司たちは契約の箱をかついで、ヨルダン川
に足を踏み入れた。それは丁度、春先の最も水かさが増える時期で
あり、自分の背丈よりも深い川に入って行こうとした。先に、川の
水が、そのようになってから、渡るなら大変簡単だ。誰でも渡れる。
しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている時に、足を水の中に入れ
る事は、決して簡単ではない。

そこには信仰が必要だ。語られた御言葉に従うことが信仰であり、
信仰もって一歩従う時、いつも主のみわざを見せられる。何も見え
なくとも、一歩従う時に、確かにみわざが成されて行く。私たちは、
見えない状況は非常に不安で、恐れる。少しでも見えたなら従える
と思う。しかし見えたなら、信仰は要らない。

先にヨルダンの水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、
せき止められた。この順序は重要だ。目で見てから従おうとするな
ら、一生従えない。あなたの目の前の一歩は、何だろう。示しがあ
るなら、御言葉だけを頼りに、何も見えない中で踏み出そう。主の
大きなみわざを見ることになる。
-------------
見えないところを踏み出すのが信仰とわかっていても、願うのは少
しだけ先を見せてくださいだ。でも主が示されたからには必ず祝福
される。信じて少しでも踏み出そう。


2019年09月18日(水)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」マルコ4:40




そろそろ夕暮れという頃に、主はガリラヤ湖で弟子たちに「さあ、
向こう岸に渡ろう」と言われた。弟子たちと共に舟に乗り込むや、
主は疲れのため、とものほうで熟睡された。その時に大嵐が来て、
弟子たちはパニックに陥った。漁師で、よく嵐にも会い、嵐に慣れ
ている彼らでさえ、身の危険を感じるほどのひどい大嵐だった。

舟は水でいっぱいになり、このままなら沈没だ。溺れ死んでしまう。
泳ぎの達者なベテラン漁師が、恐怖を感じるほどだった。しかし主
は、全き平安の中で泰然自若として眠り続けておられた。なぜそう
できたのか。「向こう岸へ渡ろう」との言葉だ。御言葉は100%成
就するのだから、途中経過で何があろうと、必ずその通りに実現す
る。

何があろうと、向こう岸へ渡れるのだ。そして主が乗られた舟が、
どうして沈む事があり得ようか。沈む事の方が不可能だ。しかし私
たちも、試練の中で、まさにこの舟が沈む事を恐れている。自分の
人生がだめになってしまう、子供がだめになってしまう、何もかも
がおしまいだ・・真っ暗闇に落ち込む。しかし主の舟が沈む事は有
り得ない。

主は「黙れ、静まれ」と風をしかりつけ、一瞬にして湖を静められ
た。風はやみ、大なぎになった。そして弟子たちに「信仰がないの
はどうしたことです」と、嵐の問題でなく、信仰の問題だと言われ
た。あなたも今、弟子たちのように大嵐の中だろうか。試練に会っ
ているだろうか。しかし必ず向こう岸に着ける。試練を乗り越えて
行ける。主が同船されているのだ。主に信頼を置いていよう。
-----------------
嵐の中を動揺せずに渡りきる信仰はないが「黙れ、静まれ」と嵐を
鎮めてくださる主を知っている。なんと感謝なことか。この主が共
にいてくださるので、試練の中も主を頼みに越えていける。


2019年09月17日(火)

「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす」箴言12:18



私たちの口から出る、肉の言葉は、剣で人を刺すように、心を刺し
て傷つける。そうでなく、口から出る言葉が相手を癒して行くなら、
どんなに良いだろう。舌は両刃の剣であり、人を殺すことも、生か
すこともできる。傷つけることも、慰め励ますこともできる。しか
しそれは、舌の、口先の問題でなく、心の問題だと御言葉は言う
「なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです」と。

心が肉でなく、御霊に支配されている事が大切だ。「あなたのくち
びるからは優しさが流れ出る」「主よ。私のくちびるを開いてくだ
さい。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう」。
心が御霊に導かれていると、おのずと優しさが流れ出る。主が、私
のくちびるを開き、賛美を溢れさせて下さる。

そのためには、いつも主と交わっている事が大切だ。罪は悔い改め、
思い煩いは主に渡し、恵みと感謝を数えよう。サタンも剣で私たち
を刺して来る。サタンの識別を祈っていよう。ネガティブな言葉で
襲って来る。「お前はだめだ」「幾らやっても無駄」「もうだめだ」
「出来ない」失望落胆させ、恐れと不安思い煩いで、気力を萎えさ
せる。

希望が見えず、気力が失せると倒れてしまう。サタンは言葉により、
あなたを突き刺し傷つける。「盗んだり、殺したり、滅ぼしたり」
するために来るので、ズタズタにして来る。心を突き刺して来るサ
タンに気づけるように。信仰の大盾で火矢を防ぐことができる。
そして神の言葉で対抗できる。御霊は助けて下さる。
--------------
言わなければよかった言葉が何と多いことだろう。なにげない言葉
こそ気をつけたい。心が主によって豊かに潤され、主に習った言葉
を相手を思って用いたい。


2019年09月16日(月)

「・・心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21 

 

ある人が、試練の渦中にいた。次から次へと問題が続いて、目の前
の事態に、心は重苦しく沈み込むようだった。主に助けを求めて祈
るのだが、余りの状況の厳しさに、不安と思い煩いに飲み込まれそ
うだった。そんな時に、遠方の主に在る友人から手紙が届いた。友
人も同じように、続く試練が与えられ、目の前の難しい事態に胸が
ふさがれるように苦しく、どうして良いかわからない状況だった。

もう、うめくように祈っていた時に、「何も思い煩わないで、あら
ゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなた
がたの願い事を神に知っていただきなさい」の御言葉が臨んだ。
「何も思い煩わないで」との言葉が、光のように射し込んで来て、
「何も」「いっさい」思い煩わなくてよいのだと、頭でなく心に入
って来た。

御言葉が全く新しいものに感じられ、祈って行けばよいのだと、あ
んなに苦しかった心が平安にされたと。そんな証しがつづられてい
た。その証しを読んだ時に、自分にもその御言葉が臨んで来た。
「何も思い煩わないで」、ああ、思い煩わなくてよいのだ、感謝を
もって祈ればよい、肩から荷が下りてすうっーと気持ちが楽になっ
た。不思議だった。

主が導いて下さると思えた。心が平安にされた。助けを求めた祈り
の答えだった。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、
またいのちです」御言葉には力がある。窮地に陥るが、その中で、
御言葉の力を体験して行く。
-----------------
与えられたとしか思えない御言葉に出会う。目の前の状況や、肉の
思いで挫折しそうな時も主の吹き込んでくださる御言葉を支えに、
また立ち上がれる。御言葉によって心が素直にさせられる。



2019年09月15日(日)

「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟り を与えます」詩篇119:130


ある人が厳しい苦しい試練の中にいた時。気持ちは辛いばかりで、
何をどうする事もできなかった。暗い穴に落ち込んだようだった。
祈る事も、御言葉を読む事もできなかった。そんな真っ暗な日々が
続いた中、ふと友人たちの手紙やハガキに目が留まった。それすら
も全く読めないでいたのだが、不思議に手が伸びた。背後の人々の
切なる執り成しのゆえだった。

様々な友人が、信仰の先輩が、励ましてくれていた。苦しい気持ち
の中にも、有難いと思えた。その中に別人ながら、全く同じ御言葉
が記されていて、目に留まった。ただ御言葉を眺めていたのだが、
不思議にこれは、主が自分に与えてくれた言葉だと思えた。そこか
ら主に向くことができ、やがて立ち上がって行く事ができた。

別の人も、大きな問題が起きて、鬱症状にまでなってしまった。休
息が必要で、何もできず仕事からも退いていた。やはり祈る事も聖
書を読む事もできないでいた。ひたすら心身を休めていた。ずっと
気力が湧かなかった。だいぶ日を経た時に、少しづつ回復が見えて
来た。聖書を手に取れて、読むというではなく、ただパラパラとぼ
んやりながめていた。

するとその中から、この事が益とされる事、この事を通して主の栄
光が現されるという御言葉が臨んで来た。まさに光が射し込むよう
だった。その時、立ち上がる事ができた。やはり、背後に家族や周
囲の人々の祈りが積まれていた。御言葉は霊であり、いのちであり、
力だ。生きる力を与えてくれる。

・・・・・・・・・・・・
主の言葉には霊といのちと力がある。この世の言葉とは全く違う。
何度も何度も、御言葉で立ち直らされた。命を持って迫って来た。
又、御言葉により状況が解き明かされた。百人隊長のように「ただ、
お言葉をいただかせて下さい」と御言葉を求めて祈ろう。


2019年09月14日(土)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらな い」詩篇55:22


信仰生活で、様々な悩みが起きる時に、いつも学ぶように委ねる事
が大切だとわかる。頭ではよくわかるのだが、問題は、なかなか委
ねる事ができないことだ。「ゆだねる」とは、大きな石を転がすと
いうことで、主の上に、重荷を、問題を、転がしてしまうことであ
り、主にきっぱり手放してしまうことだ。そうできたならどんなに
平安だろう。

委ねた「つもり」が、実はしっかり握りしめたままでいる事がある。
強固な自我が決して手放さない。そんな時、自分ではどうにも出来
ないので、あるがまま祈ろう。「委ねられません、助けて下さい」
と。その祈りに答えて、委ねられるように御霊が教えつつ、助けて
下さる。そして「何も思い煩わずに」と言われている。「何も」
「すべて」「いっさい」思い煩わなくて良いと。

今、あなたの目の前の、その問題も含まれる。いっさい思い煩うな
と。ことごとく祈れと。祈りにより、主のもとへ持って行けと言わ
れている。その事も、ありのままを祈る事ができる。「思い煩うな
と言われますが、思い煩ってしまいます」「委ねることができませ
ん」その正直な祈りを喜んで受け止めて下さる。自我は問題を握っ
て放さない。

自分が放してしまうと、事態がだめになってしまうと思うからだ。
何もかもが崩壊してしまう気がする。だから自分が握りしめ持って
いたい。人に出来ない事が神には出来る。そんな事も、ありのまま
祈ろう。不思議だが主の力により、委ねさせて下さる。そして主の
平安へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
苦しい問題で、主に委ねること、明け渡す事がが解決なのだが、そ
れがどうしても出来ない。どうしても放さない。そこに強固な自我
が潜んでいる。人に出来ない事が神いは出来るので、まず祈りに持
って行こう。必ず主がそうさせて下さる。


2019年09月13日(金)

「イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」ヨハネ21:17



ペテロと弟子たちは、肝心な時に、主を否み、裏切り、主を捨てて
逃げ去った。その後ガリラヤに戻った彼らの心はどんなものだった
ろう。死んでも従うとのペテロの満々の自信は、こっぱみじんに砕
かれた。なすすべなく、一度捨てた網をもう一度取り、漁をする。
しかし一匹も捕れない。心は深い後悔と痛み、激しい落胆、言いよ
うの無い虚しさ、挫折感だったろう。

夜明け頃、岸辺に立つ見知らぬ人が「子どもたちよ。食べる物があ
りませんね」と叫んだ。声の主はわからないまま、「はい、ありま
せん」とありのままを答えた。すると直ちに「舟の右側に網をおろ
しなさい。そうすればとれます」との声。その声の言う通りに網を
下ろした。すると、何と網を引き上げられないほどの大漁だった。

以前の全く同じ光景を思い出したヨハネは、瞬間「主です!」と悟
った。ペテロは主に会いたい一心で湖に飛び込んだ。上がるとそこ
に主がおられ、魚とパンの朝食が用意されていた。「なぜ、裏切っ
たのか」と一言も言われず、叱りも責めもされない。三回の裏切り
は、「わたしを愛しますか」の三回の問いかけにより、深い傷をが
おおわれ癒されて行った。

そして「羊を飼いなさい」と牧会の働きを委ねられた。神の御心に
添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる。
罪は赦され、信仰を回復させて下さる。弟子たちへの慈しみとご愛
は、私たちへも同じように向けられている。
-------------
深い後悔で主の前に裸になるとき、「はい、ありません」と素直に
認められる。言い訳もできない失敗も主は変わらず愛して下さる。
主のご愛に応答していこう。


2019年09月12日(木)

「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」ルカ22:31



信仰者を神から離そうと、狡猾に執拗に働くサタンだが限界がある。
ふるいにかけることを「願って聞き届けられ」とあり、神から許可
を受ける必要がある。ヨブの場合も、神は明確な限界を定められた。
悪魔は、ヨブは利得のための信仰で、持ち物が取られたら、神を呪
うと言った。

神は、すべての持ち物を打ってよい。しかし身はだめだと。ヨブは
愚痴をこぼす事なく罪を犯さなかった。すると次に悪魔は、物だか
ら、自分の身に直接の害がない、しかし自分の身に害が及んだなら、
神を呪うと中傷。そこで神は、ではヨブの身を任せる、だが命には
触れるなと。ここまでは良い、これ以上はいけないと限界がある。

悪魔は働くが主の主権の範囲内だ。主を超える事は出来ない。ペテ
ロは主の許しのもと、悪魔のふるいにかけられた。ふるいとは、脱
穀した麦から、殻やゴミを取り除く作業の事だ。悪いものが除かれ、
良い実だけが残る。死んでも従うと豪語したペテロは、主を裏切っ
てしまった。弟子たちも主を捨てて逃げた。

自信満々のペテロの弱さ、もろさ、愚かさが露呈した。しかし主は
ペテロが失敗しないようにではなく「信仰がなくならないように」
執り成された。ペテロはこっぱみじんに、粉々に砕かれ、自らの真
の姿を思い知らされた。その後、主により見事に回復させられ、癒
され、建て直された。

後にペテロは「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべき
ものを捜し求め」ていると言っている。悪魔は人間よりも力がある。
だから「身を慎み、目をさまして」いるようにと、自らの経験から
記している。祈って、主に拠り頼んでいよう。そして主に従おう。
「神に従い、悪魔に立ち向かえ」と。そうする時、悪魔は逃げ去る。
-------------
全ては主の許しの範疇、私たちをサタンから救い出し守ってくれる
のは信仰だけだ。自分の意欲や知識では太刀打ちできないと身を慎
んで祈って下さっている主に従おう。


2019年09月11日(水)

「彼はタルシシュ行きの船を見つけ・・それに乗り、主の御顔を避けて・・タルシシュへ行こうとした」ヨナ1:3




ヨナは、主からニネベへ行くよう命じられた。だが敵国の異邦人で
あり残虐なアッシリヤの首都ニネベに行きたくない。するとそこに
丁度反対方向のタルシシュ行きの船があった。それこそ渡りに船で
それに乗った。私たちも時々経験する。御心に従いたくなくて、ぐ
ずぐずしている時、そこに都合良く、反対方向の船があるものだ。

ヨナは、その反対方向の船に乗った。私達も信仰人生で経験する。
ある人は宣教師になるよう、導かれているとわかった。しかしぐず
ぐずと決心できず、悶々状態だった。するとその時に別の船が来た
のだ。大変な高給と地位を約束された仕事のオファーが来た。又、
それが自分の才能を生かせる仕事で魅力的だった。

結局、その仕事を受けた。しかし高給なだけあって、仕事は高度で
ハードで、残業も多く、主のための時間も労力も無く、主から離れ
てしまった。子供の事故の事で、我に返り、神に立ち返る事が出来
た。御心がわかったが、ちゅうちょしている時、丁度そこに「高給
と地位」という船があった。それに乗り込んでしまい、御心からそ
れてしまった。しかしあわれみ豊かな神は、尚も主のもとに導き返
して下さった。

人生の大きな進路だけでなく、日々の小さな事柄の中に、御心から
逃げたいと思う時、丁度そこに反対方向行きの船があるものだ。そ
れに乗りたい誘惑にかられる。まさにサタンが、反対向きの船を用
意している事を覚え、御心の方に従おう。測り知れない、大きな祝
福が待っている。
---------------
目の前に来れば反対方向の船でも御心と思えてしまう。いろいろと
理由をつけては主の導きを避けてしまう者だが、従えない思い、逃
げたい思いをそのまま祈っていこう。


2019年09月10日(火)

「あなたがたが、わたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26



主は、五つのパンと2匹の魚で、大勢の人々を満腹させるという驚
くべき奇跡をされた。それで群衆は、主を王にかつぎ上げようとし
た。しかし主は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを
見たからではなく、パンを食べて満腹したから」だと、群衆が自分
を追いかけるのは、パンをもらえるからと、パンのためだと言われ
た。

主の奇跡に際し、霊的な恵みを見て、この方こそ主キリストだと信
じたからでなく、求めていたのはパンであり、この方について行け
ばパンに不足する事はない。自分の欲を満たすためにつき従ってい
ると。満腹とは、自分の欲望が満たされる事であり、自己実現だ。
肉の喜び、肉の満足であって、そこに主ご自身や、恵みを見る事は
ない。

主は祈りに答えて下さる。求めよと言われる。しかし気をつけなけ
れば、私たちの祈りは、ただただ自分の欲望充足だけに向かい、自
らの欲望を満たす手段となる。それは願望が叶えられず、思い通り
にならないなら、主のもとを去り、主を捨てる事になる。つき従う
意味が無いからだ。パンに満腹した群衆はそうだった。主は、そん
な私たちをあわれみ、正しく導くために、時に思い通りでない答え
を与えられる。

よく自分自身を吟味させるため、動機を探らせ、省みさせるためだ。
「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で
心を探らせ、取り扱い、御心に適った者へと変えて行って下さる。
思い通りにならない状況は、実は大きな恵みだ。霊的成長へと導か
れる。
---------------
心地よく思い通りに整ってはじめての感謝ではないかと思わされる。
足りなさや、自分の罪を示される苦い取り扱いも大きな恵だ。与え
主である神を喜び、求める者になりたい。


2019年09月09日(月)

「ダビデは主に伺って言った。『あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか』するとお答えになった『負え。必ず追いつくことができる・・』」Tサムエル30:8



サウルに殺害すべく追われていたダビデは、ペリシテの地に逃げ込
んだ。その時、首長たちがダビデが裏切るといけないので、一緒に
戦いに出すなと言った。それはダビデが同胞と戦う事から守るため
の、神の介入であった。そのためダビデは引き返した。すると、何
と町がアマレクに攻撃され、焼かれ、彼らの妻も子供も皆連れ去ら
れ、町は廃墟になっていた。

それを見て、ダビデも部下たちも大声で泣き、ついには泣く力も無
くなった。ダビデの妻たちも連れ去られた。民たちは、妻や子供た
ちが略奪された事で、余りにも衝撃が大きく、パニックで、ダビデ
を殺そうと言い出した。ダビデは、サウルから逃げてここに来たが、
今、部下達に殺されそうになっている。その窮地にダビデはどうし
たのか。

「しかしダビデは彼の神、主によって奮い立った」。ダビデは、ま
ず主に向かい、祈ったのだ。「略奪隊を追うべきですか」主は「追
え。必ず追いつける、救い出せる」と答えられた。そこで追撃を開
始するや、途上でアマレクの奴隷に会い、その奴隷の手引きで彼ら
の居場所を突き止めた。すべて神の計らいであった。敵を討ち負か
し、妻や子供、奪われた物全部を取り戻した。奪われた物は、何一
つ失わなかった。

非常に悩んだ時に、ダビデは「彼の神、主」によって奮い立った。
祈り、御声を聞いて、その導きに従った。窮地の時は、「自分」に
でなく「私の神、主」により奮い立たせていだだこう。主は事態を
導いて下さる。
-----------------
想定外の問題が起こると必ず最悪の結果が浮かび、今日より悪い明
日を思い落胆してしまう。主に祈り、主の御言葉によって事態を見
ていこう。失望の中から主への信仰に立てる。主が導いてくださる。


2019年09月08日(日)

「聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、 それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったから です」ヘブル4:2


モーセを指導者として、民をエジプトから脱出させた主は、乳と蜜
の流れる地カナン、豊かな地へ導くと約束された。しかしその素晴
らしい約束を何度も聞いても、信仰によって結びつけられなければ、
単なるただの言葉になってしまう。民にとっては、「この聞いたみ
ことばも、益になりませんでした」。なんら意味をなさない。主は
いのちの言葉を語られる。祝福を約束して下さる。

しかし、信仰によって結びつけられなければ、何の益も無い。せっ
かく苦難のエジプトを出たのに、カナンの斥候たちが戻った時に、
不信仰に陥った。主が与えると約束されたのに、強敵に滅ぼされて
しまうから上れない、荒野で死んだ方がましだと泣き明かした。そ
の民は不信仰ゆえ、約束の地に入れなかった。

主の素晴らしい約束も、信仰を働かせなければ。意味がない。聞き
方に3通りある。1は、ただ物理的に耳で聞くだけだ。情報として
のみ聞く。2は、聞き流しでなく、その聞いた事を心に受け入れ、
反すうし、よく思い巡らし考え、悟ることだ。わかったと思えるこ
とだ。3は、その聞いた事を、聞くだけでなく、実際に行なうこと
だ。実生活で従うことだ。

それが御言葉を聞いた人たちに「信仰によって、結びつけられる」
という事になる。その時に、主が働かれ、大きなみわざを見る事に
なる。御言葉が大切な事はわかっているが、聞いて終わりだろうか。
祈りつつよく反すうし、御霊に教えて頂こう。そして示された通り
に従おう。その時、必ず大きな益を受ける。

・・・・・・・・・・・・・
御言葉を聞く事で、自己満足してしまい、聞く事がすべてで、聞き
流していないだろうか。御言葉をしっかり心にとどめ、その御言葉
を行なって行く時に、主のみわざを見、新たに主を知る事ができる。
そして自分が変えられる。実行する事を祈り、助けて頂こう。


2019年09月07日(土)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11


ある人が、主の御心を示され、祈りの中で確信も与えられ、従った。
すると、それを進めて行くと、なぜか周囲に受け入れられていない
ように思える。よく思われていないと感じられて仕方が無かった。
何だか心が苦しくなって来る。

それで祈りつつ、心をしっかり探り、その動機も探って行ったが、
自分の思い、自分の栄光、自分の誉れ、自分の欲では無いと思える。
むしろ自分の思い、自分の好みとは違っていて、肉の自分なら選択
しない事だった。主に示され、自分の好み、自分の思いを捨てて、
従った事だった。

だが、本当に御心だったのだろうか。御心を誤ったのではないか。
迷惑をかけてまで、進んで行って良いのだろうか。悶々状態になり、
主のみもとへ行き、今の状況や、心の思いも感情も、何もかもをこ
とごとく主に告げて、祈った。祈っていた時に、「あなたの道を主
にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」「人の歩み
は主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる」との言葉
により、不思議に心が平安にされて、再確信が与えられた。

そして、周囲によく思われていないように感じるのは、サタンの攻
撃だと気づかされた。勝手に自分がそう思っているだけだと。周囲
との関係の中で、全くそうでない事を、信頼関係にある事を主は色
々な場面で見せて下さった。悪魔の妨害だと気づかされた。悪魔が
御心を行なう上で、必ず妨げて来る事も再確認できた。悪魔の妨げ
に心していよう。

・・・・・・・・・・・・・・
主の御心に歩もうとする時、サタンは必ず妨げて来る。主に従われ
るのがよほど嫌で、地に御心が成るのが嫌なようだ。したくない思
いが来たり、気力が萎えたり、ネガティブな落ち込みが来たりする。
まず祈りに持って行く時、サタンだとの気づきを与えて下さる。


2019年09月06日(金)

「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」ルカ12:21



愚かな金持ちが出て来る。畑が大豊作になった時、大きな倉を建て
て、全部しまい込み安心した。「たましいよ、これから先、何年分
もいっぱい物がためられた。安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。
今後、安泰だ、何の心配も無いと思った。金持ちは、自分に素晴ら
しい才覚があるから、有り余る富を築けたと思っていたろう。自分
の力は大したものだと。

だが、その夜に金持ちは死ぬ事になる。主は「愚か者」と言われた。
どこが愚かだったのか。彼は、自分が得たもの、自分が稼ぎ出した
ものは、すべて自分のものだと考えた。更に自分の命は、自分の手
中にあり、自分の思うように出来ると思っていた。そして財産、富
が、命を維持してくれると。彼の間違いは、愚かさは、神が無い事
だった。

彼の人生は、神無しの人生だった。命を自分が支配できると思って
いた。別訳では「私の作物」「私の倉」「自分のたましい」となっ
ていて、「私」「私」だ。彼の生き方には、「私」しかない。しか
し、そこには神がおられ、介入された。「おまえのたましいは、今
夜おまえから取り去られる」と。命は神の支配の下だった。

太陽を与え、雨を降らせ、水や空気を与え、作物を実らせて下さる
神への、収穫の感謝も無く、又有り余る中から、そばにいる貧しい
人々へ分け与える気持ちも無かった。「自分が」「自分が」と高慢
な肉の思いが出て来る時、気づかせられるように。そして「私」で
はなく、天に、主に、心を向ける事ができるように、いつも祈って
いよう。
-------------
大いなる神の恵みの内に生かされている事をいつも主に感謝してい
よう。自分が蓄えた自分のものも、全て神からのものだ。貪欲や傲
慢から成す事なく、神により保たれている歩みを感謝したい。


2019年09月05日(木)

「口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、ののしりは心から出て来るからです」マタイ15:18



世の中は「性善説」であり、人は善いものだが、外側からのものに
より、汚されると考えられている。環境、成育歴、親、社会が悪い
から犯罪を犯すと。だから環境・社会が良くなれば、人は良くなり、
その悪いものを除くのが教育だと。だが聖書は正反対の事を言う。
人は生まれつきの罪人であり、罪を犯すから罪人なのではなく、罪
人だから罪を犯すのだと。

幼児は嘘をつく。親は嘘をつくように一度も教えた事はない。しか
し子供は必ず嘘をつく。「義人はいない。ひとりもいない」外側の
問題、環境でなく、人の内側からのものが人を汚す。様々な悩み、
争い、それらは環境の問題ではない。それに関わる人の心から、内
から出て来るものの問題だ。

心に原因があり、内から出る「罪」が人を汚す。唯一、主の十字架
の血潮だけがその罪を赦し、きよめてくれる。又、外側から私たち
に入るもの、それが人の悪意や侮辱であれ、私たちを汚すことはで
きない。決してできない。自分から出るものだけが、自分を汚す。
つまり、人は私たちに何もできない。人の悪意に対して、自分が反
応する事から起きている。

もし敵対心や憎悪で反応するなら、自分は罪を犯す事になる。しか
し主に愛されている事に堅く立ち、その侮辱を憎しみで返さなけれ
ば、人は、誰も自分を汚すことはできない。自分で報復せずに、主
に委ねるよう言われている。その時、自分から出るもので、自分を
汚す事が誰にも出来ない。
-------------
御霊に導かれ歩もう。外がどんな状況であれ、主の十字架によって
内側には新しい平和と喜びの御霊をいただいている。外のものを見
るとすぐに沈んでしまう。この主を仰ぎ主に愛されていることを覚
えて歩もう。


2019年09月04日(水)

「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている」箴言12:16



「怒っても、罪を犯すな」ともあり、怒り自体が悪と言っているの
でなく、罪へと増幅させるなと言っている。怒りを根に持つと、恨
みや憎しみ、敵対心へと増長させて行きやすい。「悪魔に機会を与
えるな」とあるように、悪魔に足場を与えてしまう。そうすると、
根深い恨み、憎しみは、強い復讐心へと発展して行く。

そのため「怒ったまま、日が暮れることのないように」と言ってい
る。そのわだかまりを、解決するようにとのことだった。怒りは、
そのままにすると、憎悪、恨みへと実が熟して行ってしまう。悪魔
は、憎しみや妬み、恨みに乗じて来る。それら肉の思いに悪魔が絡
んで来て、どんどんネガティブな思いが膨らむ。思い当たるだろう
か。

怒りにより、冷静さを失ってしまい、ひどく感情的になり、取り返
しのつかない暴言や行動に出てしまう。人間関係を、信頼関係を、
破壊して行く。後で冷静になり、ひどく後悔する。悪魔にやられた
と気づく。失敗を繰り返さないために、対人関係で感情的になって
しまうが、そんな時、まず主を仰ごう、主を呼ぼう。心で祈る時、
発する言葉が主により変えられる。言葉が守られる。

言葉は一度発すると、取り返しがつかない。謝罪して、回収する事
になる。恨みつらみでいっぱいの時は、悪魔の攻撃が来ている。す
ぐに主を呼ぼう。助けが臨む。自分で復讐せず、主に委ねるよう、
祈ろう。
----------
怒りの対処を間違わないようにしよう。怒っても主に委ねよう。
怒りに身を任せるとサタンに絶好のチャンスを与える。煽られ怒り
が増幅するばかりだ。落ち着いて祈り静かに主に委ねよう。


2019年09月03日(火)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11



ある人が、父親が高齢のため、会社員を辞して、父の店を継いだ。
考えての決心であり、店を何とか少しでも発展させたいと、懸命に
働いた。勉強もし、様々なプランを練り、努力に努力を重ねた。少
しづつ成果が見え始めた頃、近くに大型ディスカウント店が出来た。

サービスも大型店ならではで、客の送迎バスまで出した。もうどう
やっても太刀打ちできず、とうとう店を畳む事になった。激しい失
望落胆に襲われた。あんなに頑張って、努力して軌道に乗ろうとし
ていた矢先に、「なぜ?」職場まで辞めて、決意したのに、「どう
して、こんな事に?」。徒労感、虚無感にも襲われ、落ち込みの中
で、主に向かった。

これからどうすれば良いのか。失意、挫折感、何もかもを、ことご
とく祈りに持って行った。とにかくしばらく祈ろうと思えた。心の
内の思いも感情も主に告げ、又、途方に暮れていることも告げ、祈
りの日々だった。主と交わっていると、不思議に状況は最悪だが、
心が落ち着いて行った。主の働きを感じた。そんな日々の中で、思
っても見ない展開を迎えた。神学校へ行き聖書を学ぶよう導かれた
のだ。

主にはご計画があった。店を畳んで、フリーの身になったからこそ
可能だった。私たちも、一見災いに見えるような状況に陥る。しか
し、主は災いではなく、平安と将来と希望のためのものと言われて
いる。計画があると。「どうしてこんな事が」の突如の事態に、思
いを超えたご計画が備えられている。信仰に立てるよう祈ろう。
------------
どんなに先の見えない状態でも、神の御約束があるからこそ踏み出
していける。不安や戸惑いも祈ろう。わたしに祈るなら、わたしは
あなたがたに聞こうと、神はその日その日を支えてくださる。


2019年09月02日(月)

「それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ」T列王17:5



エリヤは、主から命じられ、アハブ王のもとへ行き、ここ2,3年
雨が降らない事を告げた。その場で殺されても不思議は無い。大変
な勇気がいった事だろう。しかし主に従った。その後、主はエリヤ
にケリテ川のほとりに身を隠すよう告げられた。アハブからかくま
うためだった。エリヤは「主のことばの通りにした」。ケリテ川の
畔に逃れた。

目の前の一歩一歩を主は確実に示された。そしてエリヤは従った。
だが、烏に養わせると言われるが、あり得るのだろうか。ゴミに群
がる貪欲な烏が、食物など運ぶのか。それは、烏でなく、主がエリ
ヤを養うとの意味だった。日照りで、日増しに枯れて行くケリテ川
の畔で、何もどうにも出来ない。、エリヤは無力を思い知らされ、
主ご自身に拠り頼む信仰の訓練とされた。

川の水も段々干上がって来る。どんなに心細い事だろう。「ケリテ
川のほとり」と指定されていて、他へ移動する事もできない。日照
りで水は涸れて来た。このままここにいて大丈夫なのか。命が危な
いではないか。しかしエリヤは自分で動かず、主の次の指示を待っ
た。「すると、彼に次のような主のことばがあった。

シドンのツァレハテに行き・・」必ず、主から次の導きが臨む。主
に拠り頼み、従おうとする時、目の前の進むべき一歩が示される。
その一歩に従うなら、また次の一歩が示され、次へと展開して行く。
主のみわざを見せられて行く。今、目の前の一歩を示されているだ
ろうか。それに従おう。従った時に、また次の一歩が示される。
----------------
現実と主の示しには大きなギャップがあり、主はここからどう導か
れるのか、先のことはいつも霧の中だ。今日の一歩を主に信頼し委
ね、従おう。主が明日へと導き、主が成し遂げてくださる。


2019年09月01日(日)

「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない」創世 記19:17


主がソドムとゴモラを滅ぼされる時に、御使いを遣わし、ロトと家
族を救い出そうとされた。アブラハムの執り成しの祈りがあったか
らだ。一刻も早く逃げるようにと。しかしロトの娘婿は、滅びるな
どと冗談だと思い、ロトの言葉を信じなかった。もう猶予が無いの
で、妻と二人の娘、家族4人で逃げるようにと。「命がけで逃げよ。
うしろを振り返ってはいけない」と。

その時、逃げる途中で、町に天から硫黄の火が降り、一瞬に滅ぼさ
れてしまった。「振り返るな」と言われていたのに、ロトの妻は振
り返った。残して来た、家、財産、宝、地位・・この世のものに未練
があり、後ろ髪を引かれてしまい、その彼女は塩の柱になってしま
った。後ろのものに固執する時、前進ができない。

後ろのものを思う時に、心がそこに、後ろに停止したままになる。
前に進む事を妨げられてしまう。後ろのものに心が囚われているだ
ろうか。世のものに固執し、握りしめ、未練がいっぱいで、信仰の
前進が妨げられているだろうか。
又、過去の失敗、過失はどうだろう。主はすでに完全に赦して下さ
っているのに、受け取らないで、ぐずぐずくよくよいつまでも引き
ずり、振り返っては落ち込むだろうか。

又、赦せない思い、傷、いつまでも固執して、前に進まないだろう
か。「古いものは過ぎ去った。すべてが新しくなった」「先の事ど
もを思い出すな」「見よ。わたしは新しい事をする」とある。振り
返っている事に気づくなら、「振り返るな」に従おう。

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手を鋤につけてから、後ろを見る者は神の国にふさわしくないと、
あるが、執着するものがあるだろうか。主に近づく事を妨げられて
しまう。一つ〃御霊の気づきが与えられるように。捨てて、献げて
行けるよう祈ろう。その時、主を親しく知って行ける。