2019年10月31日(木)

「・・神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」エペソ4:32



人を赦すことは難しい。ある人が、自分なりに犠牲を払ってした事
を、別の人から批判され悪く言われた。それも仕事上よく話す相手
であり、面と向かって直接でなく、陰で悪く言われた事に、ひどく
傷ついて腹が立った。もう激しい怒りが沸いた。その怒りがおさま
らない。正直、ぼこぼこにしたいほどだった。

だがその相手は、折りからの人事異動で部署替えになり、会う事は
無くなった。しかしそれから、祈りの時に、祈れなくなってしまっ
たのだ。「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちの
負いめのある人たちを赦しました」との御言葉を前に、先に進めな
い。相手への憎しみ、赦せない思いを示され、苦しくなった。

しかしどうやっても赦せない。無理だ。だが、それなら、自分の負
いめも赦されないことになってしまう。悶々状態となり、しかしど
うにもならない。胸が苦しく、辛くてたまらない中、とうとう主に、
あるがままの気持ちを包み隠さず、さらけ出した。怒り、憎しみ、
赦せない思い、敵対心、何もかもを吐き出した。

「赦したくないです。でも助けて下さい」、御前に祈り続けていた。
そんな時、目の前に主の十字架が迫り来た。じっと長い時間、十字
架を見つめ続けた。すると不思議だったのだが「赦してもいいかも
・・」との思いが来た。そして意志を向けて、決心し、「赦します」
と祈った。

その時に、心のつかえが取れた。楽になり、平安にされた。自分の
力では、人を赦すことは到底できない。不可能だ。しかし主に助け
を求めるなら、自分ではなく、御霊の力によって、赦すことができ
るように導いて下さる。
--------------
肉は憎んでいれば心地よく相手のした悪をいつまでも心の中で攻撃
する。それは大きな罪だ。主に祈っていこう。主の愛によって十字
架で罪赦された。赦された者として歩もう。



2019年10月30日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17



ある父親が仕事人間で、家庭を全く顧みる事が無かった。すべて妻
任せで、早朝出勤に深夜帰宅、子供と接する時間など全く無かった。
自分は外で仕事をし家族を養っているのだから、家庭の事はすべて
妻の仕事と、当然のように思っていた。又、仕事上の野心も事実で、
とにかく業績を上げたい一心で、昇進も目指していた。

そんな時、子供が警察沙汰を起こした。衝撃だった。子供は妻任せ
で、実際子供の心の事など考えた事も無かった。荒んでいた事など
全く気づく事もなかった。妻も一人で苦しみを何もかもを背負い、
一番いて欲しい時に、夫はおらず、孤独で、寂しさと辛さの中にい
た。家族がバラバラで方向性も見失っていた。

父親は厳しい現実を前に、初めて心打ち砕かれ、くずおれた。家長
として、全く子供に関わって来なかった自らの罪を、心から主の前
に悔い改めた。罪は決して甘くはなく、苦しく辛い刈り取りをして
行った。妻にも詫び、子供が迷惑をかけた各方面への謝罪に回り、
償いをした。数年間の苦しみは並大抵のものでなく、何より子供の
回復をひたすら祈りに祈り続けた。

しかしそれが出来たのは、心の底に響いて来た「子よ。あなたの罪
は赦されました」との何にも代えられ無い深い安堵感、平安のゆえ
であった。罪赦されるという、大きな恵みを味わい知らされた。
そして主のあわれみは尽きず、涙ながらの切なる祈りは聞かれ、子
供は立ち直る事ができた。
--------------
行き詰まり無力を知るときは感謝だ。自分で頑張れている時には見
えなかったことが見えて来る。本当に自分には何も無い。主のあわ
れみと尽きない恵みに生かされている。



2019年10月29日(火)

「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」エレミヤ29:10



イスラエルの民にとって、バビロン捕囚は、その事態だけを見れば
絶望しか無かった。祖国を追われ、異国の地へ捕囚となるとは。嘆
き、悲しみ、苦しみだった。しかし結果的に見れば、民は捕囚によ
り、悔い改め、神に立ち返る事ができ、信仰の回復がなされた。70
年後にエルサレムに帰還させるとの、神の約束も成就された。

「あなたがたのために立てている計画」・・バビロン補囚が「神の
計画」だと言われる。見えるところは、なぜこんな事がとの落胆、
絶望、挫折、混乱であったが、神にとっては平安と将来と希望のた
めの計画であった。刺繍の裏面は糸がぐじゃぐじゃだ。混沌、混乱
だ。主は、私たちにとっては不都合、行き詰まり、何でこんな事が
?の事態を、神の意図される方向へ導かれる。

そしてそれは、「あなたのため」の計画だと言われる。綿密に図っ
て立てられた、あなたの益と将来のための出来事だと。刺繍の表は
着々と綺麗な模様に完成している。目の前の事は痛い、苦しい事態
だが、実はあなたのための最善がなされている。痛い、辛い所を通
って、真に主に出会う。人は自我の強固な殻におおわれている。痛
みや苦しみによって、その自我の殻が砕かれる。

高慢であっても、自分ではわからず、認識できず、何の問題も無い
と思っている。苦しみの中で初めて、自分の本当の姿を知る。そし
て変えられて行く。必ず益とされて行く。目の前の苦しい状況から
目を離して、主と御言葉が言っている事に目を留め、そこに立とう。
---------------
避けられる試練は避けて通っていく。どうしても避けられない時に、
やはり背後の主を認め、どのようなご計画を持っておられるのかに
心が向く。主と御言葉を信じ主に委ねよう。


2019年10月28日(月)

「イエスは彼に言われた。『あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。彼は言った。『主よ。私は信じます』」ヨハネ9:37 



預言によると、盲人の目が開かれる事は、メシア到来のしるしだっ
た。「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられ」、そのため
この盲人の開眼は、まさに預言の成就であり、心開かれていたなら、
主イエスこそメシヤだとわかるはずだ。しかしパリサイ人はそうで
なく、主が安息日を破ったと非難した。根が悪意であり、その目で
見るなら、すべてが攻撃材料となる。

目を開かれた彼に問いただすのだが、彼の言葉にも全く聞く耳はな
い。率直に事実を話しているにかかわらず、全面否定してかかる。
自分は正しいとの立場に立つ時、自分の思うようにしか、事態が見
えなくなる。彼は、はっきりと的確に言った「盲目であったのに、
今は見える」と。パリサイ人は自分の思いで、自分の目で見た。

「私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と。はなか
ら決めつけ、そんな態度である以上、どんなみわざを見ても信じる
事は無い。心が頑なだった。自らの思いを退けて、素直に主に向き
合う事が大切だ。パリサイ人たちから追放された彼を、主の方から
見つけ出された。この時、彼は初めて、主を見ることになる。

主はご自身を現され、そしてこの盲人は「主よ、私は信じます」と
主を拝した。盲人は救いに導かれた。私たちも、素直に心開いて主
に向くと、目が開かれて主が見えて行く。自分の思いを通す時、パ
リサイ人になり、主が見えなくなってしまう。御霊に心探って頂い
て、自分の固い思いがあれば気づきを与えられ、主に向いて行こう。
------------
主が見せようとしておられる様に見たい。じっと主を見続けよう。
これまでに経験した主の御わざ、与えられた祝福、恵みがある。主
はいつも具体的にご自身を現してくださっていた。


2019年10月26日(土)

「主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のう ちに返り、その子は生き返った」T列王17:22


大飢饉の中、エリヤはケリテ川の次に、ツァレファテへ行くよう命
じられた。そこのやもめにより養うからと。そのように従うと、ど
んな資産家と思いきや、ひと握りの粉と少しの油だけを持ち、何と
それで子供と最後の食事をし、死のうとしていた。何と言う事だろ
う。

しかしエリヤはひるまずに主の示しに従った。まず、私のためにパ
ン菓子を作るようにと。そうするなら、飢饉が終わるまで、かめの
粉は尽きず、そのつぼの油は無くならないと。突然目の前に現われ、
何と非常識な、無理な要求だろう。だが、やもめはエリヤの言葉の
通りにした。すると奇跡が起きて、飢饉の間中、粉と油は尽きず、
息子に食べさせる事ができ、自分も養われた。飢饉のまっただ中で、
神により養われた。

ところが、その後、息子が重病に陥り、亡くなってしまった。エリ
ヤはその息子が生き返るように、主に祈った。主は、エリヤの願い
を聞かれ、息子は生き返った。その生き返った息子を、彼女に返し
た時に、彼女は、エリヤが神の人であり、エリヤの口にある主の言
葉が真実であることを、今、知ったと言った。

それ以前は、まだよくはわかっていなかったが、息子の死を通して、
神の言葉が真実であると知ったのだ。彼女の信仰が確かなものとさ
れた。大変な試練であったが、主と主の言葉が真実である事を知る
恵みの時とされた。私たちも、苦しい試練の中で、主の言葉が真実
であることを知ったと、言えるようにされる。

・・・・・・・・・・・
大切な息子が死んだ。その息子が生き返った時に、エリヤが神の人
であり、御言葉が真実である事を、今、知ったと言った。時に、極
めて苦しく厳しい試練を通る。しかし、その時にこそ、主がまこと
の生ける神であり、御言葉が真実である事を真に知る時とされる。


2019年10月26日(土)

「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』」ヨハネ 20:28


十字架にかかり、よみがえられた主が、弟子たちが恐れて隠れてい
た家に、ご自身を現わされた。「平安があなたがたにあるように」
と。「弟子たちは、主を見て喜んだ」とあり、よみがえられた主に、
どんなに興奮し、どんなに嬉しかった事だろう。平安と喜びに満ち
溢れた。しかしトマスだけが、その時、その場にいなかった。

トマスは、「自分だけがなぜ?」「なぜ自分のいない時に?」自分
が不在だったわけだが、不満な思いだったろうか。「私たちは主を
見た」と大喜びの弟子たちに「その手に釘の跡を見、私の指を釘の
ところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、
決して信じない」と言った。

そして、八日後、トマスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、再びご
自身を現された。そのトマスに「あなたの指をここにつけて、わた
しの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさ
い」と、驚くべき事にトマスが言ったそのままを言われた。

「決して信じない」に対し「信じない者にならないで、信じる者に
なりなさい」と。トマスのために来られた。トマスの心の内の微妙
な思いをわかり、受け止めて下さっている主の愛に触れた。自分で
見なければ、決して信じないと言ったそんな自分に、個人的に向き
合って下さった主。

まるでトマスのために、現れて下さった状況に、彼は、指を釘後や
わきに差し入れずに、「私の」主、「私の」神と、主を信じ、最高
の信仰告白をした。同様に、疑い深い私たちにも、私たちを愛して、
主は来て下さっている。

・・・・・・・・・・・
「手に釘跡を見、指を差し入れなければ、決して信じない」とのト
マスに、主はご自身を現され、そのままの言葉を言われた。トマス
はどんなに驚いただろう。心の奧までご存じの上、受け止め愛して
下さっている深い愛が私たちにも注がれている。私の主、私の神だ。


2019年10月25日(金)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」ルカ10:42



祈りは呼吸であると言われている。呼吸をしなければ窒息し、死に
至ってしまう。それほど大切な生命線だと。誰しも頭ではよくわか
っているのだが、なかなか祈れないし、聖書を読めない。主婦もサ
ラリーマンも学生も、皆、忙しく、自分には時間が無いから祈れな
いと思う。家事に育児に、仕事に勉強に、皆、目が回るほど忙しい。

ある人が証しした。仕事に追われる毎日で、早朝出勤に残業続きで、
ヘトヘトだった。デボーションの時間も取れず、ああ時間さえあれ
ば良いのに、時間が欲しいと思った。そんな中、突然の休暇が与え
られた。すると、もう飛び上がらんばかりに嬉しくて、気分転換、
リフレッシュと、即、行楽に出てしまった。

その時、デボーションができないのは時間の問題でなく、自分の問
題だと気づかされたと。時間が無いからとばかり思っていたが、そ
うでなく、優先順位が神第一でなく、自分の好きな事をするのに忙
しいのだと。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだ
けです。マリヤはその良いほうを選んだのです」自分は選ばないの
だと気づかされた。

そしてモーセ率いる出エジプトの数々の奇跡の箇所を読んでいて、
パロが災害がひと息つくと心頑なにするが、デボーションを選ばな
いのは、自分の心の頑なさによるのだと教えられた。それらを祈り
に持って行けた。何よりも心の内側を照らされた事に心から感謝し
た。
-----------
喜びも感謝もない時は、祈る力もなくなっている時かもしれない。
気づいたところから御霊の助けを求め祈ろう。一番大切な神との交
わりの時を意識して選び取っていこう。


2019年10月24日(木)

「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた」ルカ7:13



夫を亡くした女性が出て来る。女手一つで子供を育て、大変な苦労
だったであろう。一人息子がいて、唯一の支え、喜び、力、生きが
いであった。青年となり、頼もしく思い、支えられていたであろう、
そのたった一人の息子が亡くなってしまった。彼女にとって最愛の
息子であり、命そのものであった息子を失ってしまった、その心の
張り裂けるような悲しみ、嘆きはいかばかりだったろう。

泣いて泣いて泣き叫んでいたであろう。その悲しみを知る町の人た
ちが何とか慰めようと、大勢が彼女に付き添っていた。主はこの母
親を見て、かわいそうに思われた。主は、その心をご存じであった。
“かわいそうに思い”は、気の毒に思う程度ではなく、腹わた痛み、
腹の底から揺さぶられほどの激しく強い思いだ。

「泣かなくてもよい」と、息子を生き返らせて下さった。主の深い
あわれみだった。ここでは、母親が主に助けを求めたのではない、
主の方から声をかけ、一方的に癒された。「かわいそうに思い」に
突き動かされてであった。私たちにも、主のこのあわれみが向けら
れている。

悲嘆に暮れる時、主は、腹の底から激しくかわいそうに思っていて
下さる。何という慰めだろう。ご自分の痛みとして感じ、深いあわ
れみをもって抱いて下さる。この主に心を向けて、心開いて行く時、
主は心をいやして行って下さる。
------------
何かを失った悲しみや犯してしまった罪に悔いる心に主はいつも
「泣かなくてよい」と寄り添ってくださる。主のあわれみは尽きな
い。この主のあわれみに今日も支えられている。


2019年10月23日(水)

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」マタイ6:22



目は澄んで、健全でなければならない。悪い目なら、物事をまっす
ぐ見る事ができない。それなら正しい判断ができず、目が悪いと道
に迷ってしまう。健全な目とは、霊の目のことであり、純真で二心
がなく、単一で、シンプル、シングルアイ、一つの事に集中してい
る目だ。主に心が開かれた目だ。そして一心に主を見つめている目
だ。

「だれも、二人の主人に仕えることはできません」とあり、しもべ
が仕える主人は一人で、二人の主人はいない。「神と富に仕えるこ
とはできない」。神と富のどちらもでなく、二者択一だ。神に集中
している目だ。目が悪いとは、視力が弱いという意味でなく、濁っ
ている、よこしまな目であり、地上のものに執着する貪欲な目だ。

自分のために、自己中心でいる状態であり、その目は妬みや劣等感
で歪み、又、見栄や体裁に捕らわれ、自分の欲に振り回されてしま
う。そして主に対して心が閉じられた目だ。又、富は、宝の意味で
あり、金銭だけでなく、名誉、地位、人からの賞賛、有形、無形の
自分にとって大事なものだ。色々な事に執着したり、あれもこれも
と振り回されている時、神が見えていない。

その結果、様々な思い煩い、不安、恐れにさいなまれてしまう。ど
うすればよいのか。まずシングルアイでなく、二心である事を認め
て、主に助けを求めよう。主は助けて下さる。心にある様々な歪み
を指し示し、捨てたり正したりし、矯正しつつ、必ず御心へと導い
て下さる。
------------
肉の目に映る現実だけが現実のように思え、本当に助けとはならな
い物を求めてしまう。主を頼るといいながら自分で何とかしようと
右往左往していることを主に認めたい。主だけを見つめることがで
きる霊の目を祈ろう。


2019年10月22日(火)

「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」Tヨハネ4:19



私たちは、日常生活でどうしても寒暖計になってしまう。相手が暖
かければ、こちらも暖かくなり、親切であれば、こちらも親切に。
好かれるとこちらも好意を持ち、相手が冷たければ、こちらも冷た
くなる、批判的であればこちらも批判で返し、嫌われると、こちら
も嫌う。相手に、周囲に「反応して」生きてしまう。

だから相手に正比例の反応を返している。しかし愛なる主は、決し
て反応される事は無い。こちらがどうであれ、全く変わらない愛で
愛し続けて下さる。不変の愛だ。なぜなら神のご性質が愛だから。
その愛は無条件だ。無条件の愛というのが、なかなかわからない。
この世には条件付きの愛しか無いからだ。例えば、母性愛は尊く、
子供のためには、自分の命すら投げ出す。

見返りを求めない、無償の愛だ。だが、他人の子にも同様に出来る
かというと、できない。そして主はそんな私たちの弱さをご存じの
上で、愛して下さっている。主の愛は無条件だ。もし何かをしたか
ら愛されるのであれば、条件付きになってしまう。無条件の愛、一
方的に与える無償の愛、犠牲の愛、報いを求めない愛、その主の愛
をまず知る事から始まる。

御言葉から、日常の様々な出来事を通して御霊は、私たちに主の愛
を教え導いて下さる。まず自分自身が主の愛を受け取る事から始ま
る。そして主と交わり、その交わりを深めて行く中で、主からの力
によって、人を愛して行ける。まず神の愛が土台だ。
-------------
ああしてくれたから、こうして欲しいからと、何処まで行っても自
分のための愛しか持たない者ではないか。このような者が無条件に
神から愛されている。この恵みを覚えて、それゆえに人を愛する者
になりたい。


2019年10月21日(月)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」ヘブル10:35



神の約束が、なかなか実現しない時に、私たちはどのようにとらえ
たらいいのだろう。子孫の約束が与えられていたアブラムだが、ず
っと子がなく、信頼を寄せているしもべエリエゼルが跡取りになる
のかと主に問うた。その時に、「あなた自身から生まれて来る者が
跡を継ぐ」と言われた。そして子孫は天の星のようになると。

しかし「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった」とあ
り、約束と現状は正反対であった。夫婦共に老いて、早くしなけれ
ば、もう出産など望めなくなってしまう。焦りもあったかも知れな
い。この状況の中で、当時の風習であり、サライはアブラムに女奴
隷によって、子供を持つことを提案する。当時は普通の事であった。
妻からの申し出でもあり、アブラムは受け入れた。

その結果、奴隷ハガルはアブラムの子を宿した。あれほど望んだ、
待ちに待った子を得ようとしていた。喜びの絶頂かと思いきや、決
して幸せではなく、御心に反し、秩序が狂うと。必ずや不幸と悲惨
をもたらしてしまう。妊娠したハガルは高慢になり、不妊のサライ
を見下した。サライはハガルに嫉妬し、憎悪するようになった。

ハガルを憎み、いじめ、そこに争い、混乱、妬み、敵対心を生じて
行った。神を待ち望み、神の時を待つことなく、肉の知恵と力で、
神の約束を実現させて行く時、必ず悩みとトラブルを引き起こす。
神の時を待とう。約束は必ず実現する。忍耐できるよう祈ろう。そ
こに深い感動があり、大きな喜びと平安があり、神の栄光が現れる。
---------------
委ねきれない強い思いは都合の良い解決策を見つけてしまう。その
結果は混乱だ。苦しくても御心の中にいよう。そこに御霊の平安が
あり希望がある。


2019年10月20日(日)

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このよ うな人のことです」マタイ13:19


種蒔きのたとえで、道ばたに落ちた種は、御言葉を聞いて悟ろうと
しなければ、サタンが来て心に蒔かれた種を奪って行くとある。御
言葉の力を知っているのは、私たちよりサタンであり、恐れている。
御言葉が心に根づいてしまうと、結実に至ってしまうからだ。その
ため御言葉を奪おうとする。このサタンの妨害をわきまえておく事
は大切だ。

現実問題として、サタンは今も働いている。救いを得させないため
であり、又、信仰者たちの成長を妨げ、奪うためだ。種が無ければ、
実を結ぶ事は有り得ない。サタンはそれをよく知っている。このサ
タンの攻撃をしっかり見張っていよう。

普段、御言葉をどのように聞いているだろう。他の事を考えながら
ぼんやり聞くと、右から左へとすり抜けて行く。聞かなかった事と
同じになる。又、思いに攻撃して来るサタンは、メッセージを聞く
最中にも、デボーションの最中にも、あれやこれや「思い」を吹き
込んで来る。必ずや妨害する。

又、聞きたくない、耳に痛い御言葉には、耳をふさいでいるだろう
か。という事はその御言葉こそが聞くべき言葉だと、薄々気づいて
いる。逃げないで向き合う事が、大きな成長への鍵だ。サタンは御
言葉を心に入れないよう阻止して来ている。聞く時にまずよく祈ろ
う。その時、妨害して来るサタンに気づけるようにされる。そして
御言葉を心に植え付けて下さる。

・・・・・・・・・・・
サタンは信仰生活の生命線である、祈りと御言葉を何としても奪い
取りたい。御言葉が心に根ざして、結実する事を恐れている。様々
な誘惑や攻撃の中で、御言葉が心に臨んで来て守られる経験をよく
する。御言葉は力でありいのちだ。祈って御声に耳を澄まそう。


2019年10月19日(土)

「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人 を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』 と・・誇るといけないから」士師記7:2



ギデオンの時代、イスラエルは絶えず侵略受け、苦しい状況にあっ
た。神はデオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせようとされた。
呼びかけに32,000人が集まった。しかし、相手は135,000人の大軍
で、圧倒的不利で、勝ち目はない。だが、神は極めて不可解な事を
された。ギデオンに、兵士の数が多過ぎるので、減らすよう命じら
れた。

最終的に残ったのは、たったの300人だった。そしてその300人で戦
った結果、ギデオンの大勝利に終わった。この時、神は兵士を減ら
す理由に「大人数だと自分の手で救ったと、自分を誇るから」と言
われた。この戦いの勝利が人間でなく、神の力によるものと明確に
するため、あえて兵士を減らされた。

私たちは、自分がもっと強ければ、能力があれば、体力、財があれ
ばと思うだろうか。しかしもし強ければ、神の働きを自分が奪い、
自分を誇り、自分の栄光にしてしまう。信仰的体験さえも肉は誇る。
パウロは第三の天にまで引き上げられるという、誰も経験した事の
ない特別な扱いを受けた。そのためパウロは、自分を誇らぬよう、
高ぶるらないように、とげが与えられたと言っている。

苦しく辛いとげであったが、それによって高ぶりの罪から守られた。
高ぶりはどうにもならない。高ぶらないでおこうとしても何の力も
ない。その高ぶりからの守りは、何と恵みであり感謝な事だろう。
そして「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と弱さを認める
時、それは恵みであると、更に素晴らしい啓示を受けた。

・・・・・・・・・・・
自分の力で勝利したと錯覚し、高慢にならないためと言われた。少
し上手く行くと自分の手柄と勘違いし、自分の力に頼り、主に頼ら
なくなる。人数が減らされたように、自らの無力を見せられ、時間
も財も、能力も勢いも減じて行く時こそ、実は幸いで、主に頼れる
時だ。


2019年10月18日(金)

「しかしダビデは言った・・『殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、誰が無罪でおられよう』」Tサムエル26:9



人々から人気を博したダビデは、サウル王に妬まれ、その妬みは憎
しみとなり、殺害のためつけ回されていた。そんな中、サウルはダ
ビデの所在の情報を得て、追って来た。それを知ったダビデは、夜
にその陣営に行ってみた。するとサウルと将軍アブネルや兵士達
は皆、熟睡していた。今こそ反撃のまたとないチャンスだ。

部下が、神が敵を渡された、殺させて下さいと言った。が、ダビデ
は決して手を下さなかった。その理由は、サウルが「主に油を注が
れた王」だからであった。だが、同時にダビデ殺害のための行動は、
主の御心に反するものである事も知っていた。その事について「主
は、必ず彼を打たれる」と信じていたので、ダビデは裁きを主に委
ねていたた。決して自分で復讐しようとはしなかった。

そのしるしに、サウルの枕元にある槍と水差しをこっそり持ち帰っ
た。「主が彼らを深い眠りに陥れられた」ので、皆、眠りこけて全
く気づかなかった。すべての事は主の主権の下にあり、眠りすら主
の支配だ。やがてサウルはダビデが二度までも、チャンスがありな
がら、自分を殺さなかった事実を知る。

そのダビデを「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように」とサウ
ルはとうとう祝福した。人を憎み、呪う時、憎む本人が一番苦しい。
喜びも平安も無い。決して自分で復讐せずに、どこまでも主に委ね
て行くダビデの命を、主が堅く守られた。「復讐はわたしのする・
・わたしが報いをする」と言われる主に、裁きを委ねよう。
-----------
主こそ全ての主権を持っておられる方、最善をしてくださる。自分
の肉でしようとする事に気づき主に委ねよう。主が味方でいてくだ
さる。主の栄光のために成すべきことを見ていよう。


2019年10月17日(木)

「悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる」伝道7:3



ある人の証しだ。若い頃から教会に行っていたが、神の愛はわかっ
ておらず、自分にとって信仰とは「あれはダメ、これはダメ」の律
法ばかりだった。窮屈なだけで、喜びも平安も無かった。そんな折
り、教会の人とトラブルを起こし、ギクシャクしてしまい、教会へ
行かなくなった。堅苦しいだけの戒めから解放され、自由になった
と思った。

しかし社会の荒波の中で、別のこの世の様々な縛りに直面し苦しん
だ。仕事も対人関係も、問題続きでとうとう行き詰まってしまった。
辛く苦しく、もう仕事を辞めようかと悩んだ。せっぱ詰まり、何の
すべもなく、どうしてよいかわからない状況で、ふと、なぜか聖書
を思い出した。昔、読んだ聖書を取り出して読んでみた。放蕩息子
の箇所になり、まさに自分の事だと涙が溢れて仕方が無かった。

初めて御言葉が単に頭でなく、心に迫り来た。以前はわからなかっ
た神の愛が、初めて心に沁みてわからされた。真実の愛を知った。
その時に、主に立ち返ることができた。主が喜んでいて下ることを
感じた。人は順境である時、うまく行っている時、神のもとへはな
かなか来ない。喜びの絶頂で、神に会う事はまれと言われている。

神無しで十分やって行けて、神無しで幸せだと思えるからだ。肉は
甘くない。試練は感謝で恵みだ。神の元へと導いてくれる。多くの
人があの時のあの苦しみが無ければ、神を求めていないと言う。苦
しみや悲しみは、私たちを神に向かわせてくれる。それは祝福へと
変えられて行く。
----------
問題に直面して初めて主の助けを経験する。一つ一つの試練が主は
必ず導いてくださるとの確信に変わっていく。それはあの苦悩の日
があったからだと必ず言える。


2019年10月16日(水)

「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ・・」詩篇73:2



詩篇記者は、悪者が富を増し、栄えるのを見て落ち込んだ。自分は
足がたわみそうで、滑るばかりだ。だが、彼らは楽しげで肥え太り、
あぶらぎり何の苦しみもなさそうだ。だのに、神を信じる自分は苦
しみばかりで、惨めで、何の良い事もない。どうして自分はこんな
にも惨めで、神を信じない者が栄えるのか。不満でいっぱいだった。

しかし、それは「私が誇り高ぶる者を妬んだ」からだった。そして
その妬みは、人との比較によって生じるのであり、神を見ずに、人
を見ていた事によるものだった。信仰生活で、平安や喜びが失せる
のは、状況の問題ではなく、神以外のものを見て、それが心を占め、
重きを置き、第一になっているからだ。

その底に、人知れない富への欲や、人からの賞賛を求め、それを愛
する心がある。それが人への羨望、妬みになって出る。それは、神
に焦点が合っていないからであり、その時、欲求不満や愚痴、虚し
さ、いら立ちとなる。そのため喜びがなく、虚しい。彼は聖所に入
った時に、光が来た。心荒み、悶々状態の原因は、目の前の状況で
はなく、「神と自分の関係」にあると悟った。

神から離れているから、平安が無いのだと。今、平安が無いなら、
苦しい問題のせいと思うが、そうでなく、心が、神以外の所にある
からだ。逆に、どんな困難な中でも、神との親しい交わりにいるな
ら、心は不思議な平安に守られる。神の近くにいることが、幸せな
のだ。
------------
妬みや落ち込みの時も神と共にいよう。共にいてくださる神を見失
うことは何よりも悲しく恐い。褒めてもらうのも、応答するのも第
一は人ではなく神だ。


2019年10月15日(火)

「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです』」ルカ18:27



金持ちの若者は、「永遠の命を得るには何をしたらよいのか」と主
のもとに来た。心が満たされず、生き生きと生きる、永遠の命の実
感が無かったのか。主は、彼の心を何もかもをご存じで、導かれた。
戒めはよく知っているはずと「姦淫してはならない、殺してはなら
ない、盗んではならない・・」と言うと「そのような事はみな守っ
ている」と答えた。しかし守れる人は一人もいない。

外側の犯罪は犯さなくとも心の内を見られたなら、律法を守れる人
は誰一人いない。彼は外側のルールは守っていた。その時、主は
「一つだけ欠けたものがある」と。「あなたの持ち物を全部売り払
い、貧しい人々の分けてやりなさい」と。それが天に宝を積む事に
なると。富が彼の偶像になり、それが障害となり主に従う事を妨げ
ている事を、主はご存じで導かれた。

律法を守っていると言い切りながらも、実は、貧しく苦しんでいる
隣人に富を与える事ができない、隣人を愛せよとの律法を守れてい
ない、愛の無い本当の姿を見せようとされた。すると彼は「悲しん
で去って行った」。富を手放す事を拒否した。富に支配されてしま
っていた。献げたなら主は更に与えられたであろうに。献げる事は
人には出来ない。出来ないからこそ、主がおられる。

主は、「自分には出来ないから、助けて下さい」を求めたおられた。
主が出来るようにして下さる。敵を愛する事、人を赦す事、犠牲を
払う事・・自分には到底無理だ。だが人に出来ない事が、主には出
来る。「出来ない」と去るのでなく、「主よ、助けて下さい」と主
に近づこう。喜んで答え下さる。
----------------
自分の努力では出来ないこと、またしたくないことを主は様々な出
来事を通して見せていってくださる。自分には出来ないが主にはで
きる。出来ないままで主に頼っていこう。


2019年10月14日(月)

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい」ヤコブ5:13



ある人が、何かと出過ぎた干渉をしてくる、お節介な隣人が苦痛で
ならなかった。プライバシーに踏み込まれるので、嫌でたまらなか
った。だが、そう思う自分も、心が狭いのでは、愛が無いのではと、
自己嫌悪に陥ったりで悶々としていた。その干渉が、段々度を超え
て来て、いら立ちが募り、祈りに持って行った。

苦しいので、祈りに祈る日々だった。ある日、自分にも思いがあっ
たのに、頼んでもいない事をされ、我慢の限界で切れると思った。
自我が爆発し、口から取り返しのつかない言葉が出そうな瞬間、
「神様!」と心で叫んだ。すると口から肯定的な言葉が出て、何と
相手に感謝の言葉が出たのだ。自分でも驚いた。

ずっと助けを求めて祈り続けていたので、御霊が働いて守って下さ
ったと思った。そして御霊の働きで、相手の心が和らいで、何やか
やと打ち解けて話して来て、こちらの心も変えられて、受け止める
事ができるようにされた。良い感じで、付き合えるようになり、仲
の良い相手になってしまった。

しばらくすると、悩みの相談もされるようになった。こちらも料理
や家事の事など相談するようになった。振り返ると、自分ではどう
にも出来ない事で、祈りに持って行き、祈り続けた結果で、祈りの
答えであり、祈りの力を見せられた。思い煩っていないで、目の前
の事態を祈りに持って行こう。
-------------
苦しい時には祈り、喜びの時は賛美するということがすぐに出来な
い者だ。まずはぐずぐずと心の中でつぶやいてしまう。悩むより先
に主に問題を主に渡そう。主が御霊により導いてくださる。



2019年10月13日(日)

「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように、 そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとあなたを返してくださるよ うに。私も失うときには、失うのだ」創世記43:14


ヤコブは、以前にヨセフが獣に殺されたと思っていた。どんなに嘆
き悲しんだろう。今、大饑饉で食糧も底をつき、ヤコブはエジプト
へ食糧調達のため、子らを送った。すると人質にシメオンを捕られ
た。又、食糧を売る代わりに、ベニヤミンを連れて来るよう要求さ
れた。愛してやまない末子ベニヤミンだ。愛するヨセフを失い、シ
メオンが捕らわれ、その上ベニヤミンまでも失う事になる。

次から次へと襲う苦しみに、ヤコブはなすすべのない絶望的状況だ。
どうでもベニヤミンは行かせたくない。しかし食糧が無ければ、一
族は餓死してしまう。もう瀬戸際だった。ヨセフもシメオンもベニ
ヤミンも失う、こんな悲惨な事が、我が身にふりかかって来ている。
真っ暗だったろう。ルベンが進言した。必ずベニヤミンを連れて帰
るので、任せて欲しいと。

しかしヤコブは余りにも辛い事で出来ない。その内、持ち帰った食
糧も食べ尽くした。ユダが父親を説得した。ついにヤコブは「全能
の神がその方に、あなた方をあわれませて下さるように・・私も、失
うときには、失うのだ」と意を決した。するとその結果、驚くべき
事に、何と死んだと思っていたヨセフが生きていて、エジプトの宰
相となっていた。

シメオンも無事で、全員がエジプトに呼び寄せられ、一緒に住める
という夢のような事態に。今、光が見えず、目の前は真っ暗だろう
か。しかし神にはご計画があり、万事益とされる。必ず良くして下
さる。トンネルは抜ける。主を信頼していよう。

・・・・・・・・・・・
見えるところでは、真っ暗な状況だ。何もかも失い、命であるベニ
ヤミンまで失うとは。しかし実際はヨセフは生きていて、シメオン
も無事で、失うどころか、夢のようだった。はかり知れないご計画
がある。脱出の道がある。耐えられない試練は無い。


2019年10月12日(土)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時 がある」伝道3:1


信仰生活を送る中で、「神の時」ということを学ばせられる。
「時」は重要だ。すべてに神の定められた、神の時がある。しかし
神の時を待てないで、焦って自分の思いで突き進んでしまい、実の
無い結果に終わる経験をしただろうか。アブラハムは、子を与える
と神の約束が与えられたが、なかなか実現しなかった。サラの申し
出から、奴隷ハガルによりイシマエルをもうけてしまったが、肉に
よる行ないであった。

後に約束の子イサクが与えられた。「天の下では、何事にも定まっ
た時期があり、すべての営みには時がある」。神の時があり、神の
時が満ちなければ、どんなに焦っても、急いても、事態は全く動か
ない。そして、神の時が来たなら、全く動かなかった物事が、動い
て行く。人手によらず門が開かれ、事が進み、実現して行く。何十
年と動かなかった事態が、神の時にはすっーと成就する。驚くばか
りだ。

全主権が神にある事を見せられる。そうであれば、私たちにとって
大切な事は、「神の時を待つ」ことではないだろうか。「時」でな
ければ動かないし、時が満ちれば、ひとりで動いて行く。思い煩う
ことなく、心騒がせることなく、神の時を待てるように祈ってゆこ
う。

アブラハムは100歳になり、もはや彼の肉体は死んだも同然、サラ
の胎も死んでいる事を認めて、もはや何の力も無くなった時に、約
束の子イサクが与えられた。神には人の思いの及ばない深いご計画
がある。今、必要な事は、忍耐を与えられ、神の時を待つことだろ
うか。

・・・・・・・・・・・・
お金を入れて、飲み物が出てくる自動販売機ではないが、すぐに結
果が欲しい。足元を照らずともしびではなく、サーチライトで遙か
先も見たい。待つ事が非常に難しい。しかしその中でこそ確かな信
仰を養い培って下さっている。神の時を待てるよう、祈ろう。


2019年10月11日(金)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71



いろんな人々が振り返って、よくあの苦しみがあったからこそ、人
生途上に主に出会えた。あの苦しみが無ければ、出会えてなかった
と言う。あの辛い出来事が無ければ、神を求める必要が無かった。
主に出会っていなかったと思うと。あの悩みがあったから、指針が
欲しくて、神の事はわからないながらも、ずっと教会に通えた。

そしてその中で、主との真の出会いを経験した。よく耳にする話だ。
決して自分から苦しみなど求めないし、求める必要も無い。だが、
人生で試練は必ず襲って来る。これは避けることができない。私た
ち一人一人もどうだろう。救われて今まで、あの苦しみがあったか
ら、主のご真実を知った。

あの悲しみがあったから、主の深い愛を知り、慰めに触れた。必要
が無いと、なかなか主への求めが無い。「苦しい時の神頼み、楽し
い時の神離れ」と言われているが、古い性質はなかなか根深い。順
境の時には、感謝する事もなく、感謝も忘れ、自分で生きて行って
しまう。試練の最中は、ただただ苦しいばかりに思える。

だが、必ず脱出の道がある事、今は見えなくとも、必ず益とされる
事、これがあったから、自分は変えられ、沢山の事を学べたと必ず
後に言える事・・それらを心に、祈りを深めて行こう。詩篇記者は、
苦しみに会ったことは、しあわせだったと証ししている。苦しみは
苦しみで終わるのではない。主のご計画の中だ。
------------
なぜこんなことがと理解できないけれど主がおられる。じっと腰を
すえて現実を受け止めよう。この試練がなければ知り得なかった
ことが必ずある。悟れるように祈りたい。


2019年10月10日(木)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」マタイ6:34



「明日のことについて心配無用」と言っている。心配が無用と言っ
ているのであって、雨の日のための備えや、将来の計画が無用と言
っているのではない。能天気が良いとの意味ではない。主の御心求
め、主と相談しつつ将来の備え、計画は良い事だ。明日は全く見え
ないので、主が飛んで、亡霊のような不安のみにさいなまれる事が、
全く必要無いと。

しばしば「もし」で不安の泥沼に入り込む。体調が少し悪いと「も
しこのまま大変な事になれば・・」経済的状況が少し悪いと「もし
食べて行けなくなったら・・」と最悪のシナリオへと進む。そして
今日の一日を思い煩いと不安でつぶしてしまう。明日は、明日の必
要の備えがあるから、今日を精一杯、御心を行ない主に在って生き
るようにと言っている。

ある婦人が、兄家族と同居の実母を急な事情で、一ヶ月預かる事を
頼まれた。ちょっとした介護も必要で、自身は家庭を持ち、責任あ
る仕事を持ち、到底無理と思われた。しかし状況的に自分しかおら
ず、祈りに祈った。すると明日の心配無用と、今日一日の事だけを
考えるよう示された。今日一日だけなら何とかなる。

不安な重い気持ちが軽くされ、祈りに祈り、一日だけを考えて生活
した。すると思い煩いや不安から守られ、平安が与えられた。夫と
子供たちがよく助けてくれ、協力してくれた。一ヶ月間、主と共に
全うできて、心から感謝した。主に委ねる事、この一日を生きる事
を改めて教えられた。
--------------
主を見上げなければ明日はいつも不安と恐れだ。今日の心配が明日
も続くように思えてしまう。主に祈り、主から力を得よう。一日、
一日、主が支えてくださる。


2019年10月09日(水)

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16



ある人が、怒りっぽく、短気なことに悩んでいた。とにかくすぐ
にカッカとなる。ちょっとした事で、怒りが噴き出す。イライラし
出すと、もうおさまらない。あれもこれもと次々と連鎖して、腹が
立って仕方がない。そうなると普段ならどうも無い事まで腹立たし
い。どうしても一番近い家族に当たってしまう。甘えがあるからだ。

当然のごとく嫌な空気にしてしまう。暗い、重苦しい、嫌な雰囲気
になる。冷静になると、またやってしまったと落ち込み、自己嫌悪
に陥る。反省するのだが直らない。心を決めて、主の御前に行き、
ことごとく告げて、真剣に助けを求めて祈った。祈る中でイライラ
する時、自分は激しく「怒りたい」と思っている事に気づかされた。

怒りたくないのでなく、怒りたい。その最も自分の弱い所に、サタ
ンの攻撃が来ている事を教えられた。御霊に導かれている時は、自
分に余裕があって、同じ状況でもイライラしないし、カッとしない
事にも気づかされた。主と共に歩み、心に平安と喜びがある時は、
短気にならない。落ち着いて相手を受け止める事ができる。余裕が
あるのだ。

状況や相手ではなく、「自分の問題」だと示された。主との親しい
交わりの中で、御霊に導かれて歩む時、心に平安と喜びがあり、主
と共に対応できる。その時、状況に、相手に反応するのでなく、意
志をもって行動して行ける。自分がどうこう頑張るのでなく、日々
に御霊に導かれて歩むことが大切と教えられた。
-------------
本当の本音は肉に負けてしまう弱い自分が好きなのではないだろう
か。でもそのようなものから何も良い実を得なかった苦い経験もし
ている。決断して霊により歩もう。


2019年10月08日(火)

「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」イザヤ43:2



私たちは、信仰人生で様々な試練に会う。御言葉が、信仰人生に
は、試練があると言っている。この世の宗教は、不都合な事の無
いための信心だ。悪い事があると、何のための信心かになる。し
かし「試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」
「訓練と思って耐え忍びなさい、子として扱っておられる」「ご

自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」「順境の日に
は喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること」
と、逆境も主からのものだと。時に、理不尽な、不当な苦しみも通
る。「善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対して
も従いなさい」と。辛い中も、神の前における良心のゆえに、悲し
みをこらえるなら、神に喜ばれることだと。

不条理な事があっても、異邦人の中で立派に振る舞うなら、悪人呼
ばわりされても、かの日に神をほめたたえるようになると。苦しい
水の中や火の中を、通らないようにされるのではない。そうでなく、
苦難の水の中、火の中を通るが、水に押し流されることはなく、炎
も燃えつかないと。

苦しみはあるが、主が共におられて、どんなに厳しい中でも必ず守
られると。脱出の道も備えられている。今、理不尽な、不当な苦し
みを通っているなら、大きな慰めであり、希望だ。主の支配の中に
あり、主の愛に守られている。
------------
試練に打ち勝ち強くなれと言われれば無理でも、弱いままで主に頼
れ、主がその御手によってしっかりと守るとの御約束は、何と心強
いことか。主にあってますます弱さを認めよう。それは何よりも強
い。


2019年10月07日(月)

「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと・・そのようなことに心を留めなさい」ピリピ4:8



多くの人は、生まれつきでは、ネガティブ思考へ向かう傾向がある
と言われている。不安な事態に対して悪い方に解釈してしまう。家
族の帰りが遅いと、「交通事故に会ったのでは?」挨拶に相手から
の応答が無かった時、「避けられているのでは」「何か気にさわる
事をしたのか?」反対意見を言われると「自分が嫌いなのでは」メ
ールに返信が無いと「あの言葉、この言葉が悪かったのか」、

体調悪いと「大変な病気ではないか」「これから先どうなるのか」
と、どんどん最悪のシナリオが出来てしまう。流されるままなら、
ネガティブ思考へ向かうばかりだ。そんな時、不安や恐れを考える
まい、〃とすると余計にはまり込んで行く。不眠の時に、「眠らな
ければ」と焦り、焦れば焦るほど、ますます眠れなくなる。

もがけば、もがくほど、更には泥沼にはまる。そんな時、現状から
目を離して、主に目を向ける事だ。ある実験があった。「黒い丸を
頭に描いて下さい」「次にその黒い丸を消して下さい」。なかなか
出来ない中、出来た人はどうしたか。「白い丸を描きました」と。
賛美や御言葉や祈りに心を向けて行くとよい。

否定的思いを無くそうと頑張ると、ますます取り込まれて行くので、
前向きな、信仰的思いに心を向け、その思いで満たして行く。その
時に、否定的思いが消え去る。「すべての事について感謝しなさい」
感謝して行く時、思い煩いや恐れが消える。御霊の働きだ。
--------------
間違った所で道を曲がってしまったらいつまで進んでも目的地に着
けない。正しい道にもどろう。真実なこと、誉あること、すべての
正しいこと・・主の御言葉を心に留めていよう。


2019年10月06日(日)

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、い ろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」Tペテロ2:1


御言葉は、この後に、生まれたての赤ちゃんのように、御言葉の乳
を慕い求めよと続く。赤ん坊は小さいのに、ゴクゴクと音を立てて、
ハアハアと息をしながら、大変な勢いでお乳を飲む。そしてお腹が
すくと、力一杯大声で泣き叫び、お乳を求める。私たちもそのよう
に、御言葉を慕い求めよと。

それによって成長し、救いを得るからと。苦しい時、辛い時、主の
ひと言葉によって、心が救われる事をよく経験する。心の大嵐がピ
タリと止み、なぎになってしまう。見える所は変わらずとも、主の
愛や導き、指針に希望が湧いて来る。自分が変えられる。

見た目は悲惨であっても、主は約束の言葉を与えて下さる。その言
葉を握って苦しい中を乗り越えて行ける。信仰人生、主は御言葉を
与え、信仰を培い、成長、成熟へと導かれる。そのためにも、捨て
るべきものがある。それが悪意、ごまかし、偽善、妬み、悪口だ。
それらが内にあるなら、主の言葉が心に入らない。

心の中の苦いものは御言葉を妨げる。又、屈折して御言葉を受け取
ってしまう。正しく受け取ることができない。心に歪みが生じてる
からだ。心の内にある罪を、一つ一つと主のもとに持って行こう。
悔い改めたり、委ねて行こう。

ある人は思い煩いで許容量オーバーになり、御言葉が全く入らなか
った。一つ一つと主の前に、具体的に書き出し、言い表し、委ねて
行った時、心がすっきりし、平安になり、御声を聞けるようにされ
た。
苦いものを主の前に、ことごとく差し出そう。主は赦し、そして悪
から守って下さる。「罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢
れ」、主の恵みはどこまでも大きく、悔い改める度に、主を愛の深
さをますます知って行ける。何という恵みだろう。

・・・・・・・・・・
苦いものは、自分では捨てようと思うのだが、自我が握りしめ、捨
てられない。生まれつきの頑なな性質がある。自分でどうにも出来
ないから、祈りに持って行こう。まずありのまま主に打ち明け、祈
ろう。主が捨たり、委ねたりさせて下さる。


2019年10月05日(土)

「私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行 こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」創世記13:9


アブラムは主の御声を聞き、主の示しを受け、それに従い旅立った。
しかしロトは御声を聞いたわけでなく、祈ったからでもなく、ただ
伯父のアブラムについて行っただけであった。伯父と一緒にいれば、
利得があると思ったのかも知れない。そして、ずっとアブラムの後
をついて、アブラムの判断に任せたまま歩んで来た。

そしてアブラムへの主の豊かな祝福ゆえに、ロトも所有物がどんど
ん増し、牧者間の間にもめ事も起き、双方共に進む事が困難になっ
た。それで、アブラムは別行動を取る事にし、自分の全所有権を手
放し、まずロトに好きな地を選ばせた。「もしあなたが左に行けば、
私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」と。

ロトはそこで主を見上げる事も、祈る事も無く、又、伯父の恩義に
報いる事も、年長の伯父を立て、伯父さんが先にという事もなく、
思いは自分の利得のみだった。どこが一番有利で、得かと見渡した。
そして最も潤う肥沃な地を選んだ。見た目には素晴らしい地であっ
たが、しかしそこは邪悪なソドムであり、滅ぼされる地であった。

一方アブラムは、残った所を主からのものと受け取った。アブラム
の信仰だった。アブラムは選ばなかったが、主がアブラムのために
選んで下さった地だった。ロトは肉の目でソドムを選んだ。自らの
選択であった。

肉で選択する事と、主に委ねて歩む事の違いを見せられる。進路が
自分の思い通りでなく、自分の選択の結果でなくとも、主が選んで
下さった道だ。そしてその道こそベストだ。主に委ねて歩もう。自
分の思いとは違っても、主が選んで下さった道には、思いを遙かに
越えた祝福が備えられている。御声を聞いて歩む幸いを見せられる。

・・・・・・・・・・・・
アブラムは、主に委ねたから全き平安でおれた。どこになろうと、
背後の、主の主権を認め、自分にとっての最善が成ると信じていた。
だから平安だった。「行く所どこにおいても、主を認めよ」、その
信仰に立つ時、人生はどんなに平安に保たれ、守られるだろう。


2019年10月04日(金)

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」創世記45:8



今、対人関係の苦しみがあるだろうか。職場に、この人がいるから、
私の毎日は真っ暗だと思うだろうか。あの人さえいなければ、何の
問題も無い、平穏な日々なのにと。あの人、この人、胃痛の種のス
トレスになるような人々がいるものだ。ヨセフは、兄たちの悪巧み
によって、エジプトの隊商に奴隷として売られた。それは妬みによ
る明白な悪意であった。

エジプトで良い主人に仕える事ができ、全面的信頼を受ける。しか
しその妻により無実の罪で投獄に。波瀾万丈の人生となるが、腐ら
ず、諦めず、投げ出さず、主を仰ぎ信仰に立っていた。後に悪を計
った兄たちに再会する事になるが、ヨセフは「私をエジプトに遣わ
したのは、あなたがたではなく、実に神」と信仰に立った。

目に見えるところでは「兄たち」が隊商に売ったが、そうでなく
「神が」ヨセフをエジプトに遣わしたのだと。ヤコブ一族の命を救
うためのご計画だと。辛く当たって来る相手がいるなら、その人を
置かれたのは、神だ。この人、あの人さえいなければと思うが、あ
なたの成長のために、人格を練り整えるために、あえて難しい相手
を置かれる。

私たちの出た部分を削り、砕き、間に合う器と造り変えられるため
だ。主に無駄は一つも無い。嫌な相手を通して、裁き、憎み、嫌悪
する自分の本当の姿を見せられる。そして取り扱われ、変えられて
行く。すべての事を、あなたの益のために大きく働かせて下さる。
そのためどんな状況でも希望がある。
------------
主の取り扱いによって思いがけない本当の自分を見せられる。取り
扱いなど喜べない自分、変わりたくない自分だ。避けられない状況
には主のご計画がある。信じていよう。


2019年10月03日(木)

「ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9



パウロには「肉体のとげ」があった。とげは苦痛だ。小さなとげで
も刺さると激痛となる。何かの痛みが与えられていた。パウロは主
によく仕えるために、この障害となるとげが除かれるようにと、徹
底的に祈った。しかし、主からの答えは「ノー」だった。とげは取
り除かれず、「わたしの恵みは、あなたに十分」との答えを得た。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現される」と。とげがある事
によって、キリストの力がおおい、ずっと主の臨在の中を歩めると。
あなたには、今「とげ」が与えられているだろうか。そのとげは、
身体的、精神的弱さ、悩み多い環境だろうか。ある人は職場、近隣
の辛い人間関係かも知れない。パウロのようにまず祈ればよい。

御前に心を注ぎ出して祈り、祈りを重ねる時に、御心なら取り除か
れるし、受け入れるべきとげなら、そのように示される。パウロは
「高ぶることのないように」とげが与えられたと言っている。私た
ちは「とげ」によって、へりくだらされ、主に頼る事無しに、祈る
事無しに、生きて行けない者とされる。高ぶりから守られる。それ
は大きな祝福だ。

苦しみは、主のもとへ私たちを連れて行き、主に拠りすがるように
してくれる。でなければ、主を離れて、自分で生きて行ってしまう。
とげは、まず祈ろう。御心なら除かれ、環境が変えられる。そのま
まなら、主の恵みは十分で、弱さの中で神の素晴らしい力を経験し
て行く。目の前の苦しい状況に、主の取り扱いに、ご計画にあずか
ろう。
-------------
辛いとげが主から特別に与えられたものと受け取れたら感謝だ。今
の正直な思いを祈っていこう。パウロのように大いに喜んでいます
と言えなくても、主が今日の一歩を励ましてくださる。


2019年10月02日(水)

「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」ピリピ4:11



満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道とも言われて
いる。真の満足は心から来るものであって、外側からのものではな
い。必要は与えられているのに、更に「あれが、これが欲しい」
「もっと欲しい」幾ら持っても、更に欲しい、これは「貪欲」だ。
貪欲は心の問題で、際限がない。持っても、持っても、更に欲しい。

それは所有すればするほど、心が囚われてしまう。これで良いとい
うところが無い。「満ち足りる心」は感謝することから来る。「す
べての事について感謝せよ」「あふれるばかりに感謝せよ」、これ
が秘訣だ。今、与えられているものを感謝して行く時、貪欲の罪か
ら守られる。そして競争心や妬みからも守られる。今、与えられて
いる境遇を感謝して行く時、妬みは無い。

不平不満、妬みは、無いものを数える事から来る。「あれが無い」
「これが無い」と不満で一杯になる。無いものを数えていないだろ
うか。主から与えられているものに目を留めよう。あふれるばかり
に感謝を献げよう。感謝する時、サタンも足場を失ってしまう。
パウロはどんな境遇であっても、満足する事を「学んだ」と言って
いる。

少しづつ〃様々な状況の中で、御霊に従いつつ学んで身につけて行
った。多大なストレスがあった事だろう。しかし主に従い、主の取
り扱いに身を委ねて行く中で、学ばされて身につけて行った。今の
境遇を感謝できるよう、助けを求めて祈ろう。
------------
新しい朝を向かえられた事も感謝だ。最善だけが昨日から送られて
いる。感謝して受け取ろう。無いものばかりに目が行く所から、ど
こにでも幸福を見い出す謙遜な心を持てるように祈りたい。


2019年10月01日(火)

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神」詩篇68:19



ある50才代の会社員が、小さな会社の業績不振で、リストラが目前
に迫っていた。夫婦で不安にさいなまれた。家のローンや種々の支
払いは?今から再就職などあるのか。路頭に迷う大きな不安に眠れ
ない日々が続いた。目の前が真っ暗になり、食事も喉を通らなかっ
た。主は何と言われるか。祈りに持って行った。

「日々私たちのために、重荷をになわれる主」「あなたの重荷を主
にゆだねよ。主は、あなたのことを心配して下さる」「重荷を負っ
ている人は、わたしのところに来よ。わたしがあなたがたを休ませ
る」「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねよ。神があな
たがたの事を心配して下さる」。あなたのその心配を担う、神が心
配しているから荷を委ねよ、あなたを休ませる、神が心配を引き受
けるので、思い煩いを一切委ねよと言われる。

不安と恐れはどこから来るのか。湖で嵐でうろたえた弟子たちに
「なぜ恐がるのか、信仰の薄い者たち」と言われ「不信仰」が原因
だと。委ねられない奥に不信仰がある。主を信じられないので、任
せる事が出来ない。自分が手放すと何もかもがだめになると思う。
だから固く握って放さない。

そして自分が何とか出来ると思っているので、すべてが自分の肩に
かかり、思い煩い、不安で身動き取れなくなる。自らの無力を認め
る事だ。自分を正当化していると、無力が認められない。これらを
正直に主に祈って行く時に、主の恵みは十分で、弱さの中に神の力
が働く。信仰が与えられて行く。
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不安と恐れは外からではなく内から湧いてくる。心配事がくる度に、
その思いを主に差し出そう。御言葉を現実の生活に結び付けていけ
る信仰を祈ろう。