2019年11月30日(土)

「主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名 にほめ歌を歌うことは」詩篇92:1


今、与えられているもの、今あるものを数えて感謝して行くこと、
これは恵みに恵みが増し加えられてゆく秘訣だ。だが、しばしば私
たちは、失ったもの、無いものばかりを数えてしまう。あれが無い、
これが無い、だからだめだと悲観的になり、暗くなって心沈み、落
ち込んでしまう。

田原米子さんは、母親を失い、悲しみと虚しさに鉄道自殺を図って
しまった。しかし九死に一生を得て命はとりとめたが、両足と片腕
を失い、片手の指3本だけが残った。その身体を見た時、次こそは
絶対に確実に死のうと決意した。しかし病室を訪ね来る宣教師によ
って救いに導かれた。神に出会った時、「3本しかない」と思って
いた指が、「3本もある!」に見方が変化した。

「無い」から「ある」へと。「3本しか」と「3本も」の違いで、
人生が180度変わってしまった。結婚し子供も出産した。子供を育
るために、主はこの3本の指を残して下さった、何と有難いことか
と。祈りにより、生活の知恵が与えられ、日々チャレンジ精神で、
何もかもを3本の指で成し遂げる。

主の恵みは十分であり、主の力は弱さの中に完全に現われる。私た
ちはどうだろう。「無い」「無い」と嘆いているだろうか。あれが
無い、これも無い〜。不満と愚痴だろうか。恵みを数えよう。主は、
感謝する人に、感謝すべき事を更に増し加えて下さる。感謝して行
く時、更なる感謝が見えて来る。

・・・・・・・・・・・
行き詰まりの中で、なすすべが無い中で、とにかく感謝をしてみよ
う。感謝していると、不思議に更に感謝が湧いて来て、状況は厳し
いのだが、不思議に心が変えられて行く。心落ち着いて来て、状況
は変わらないのに、平安にされて行く。感謝には大きな力があり、
主が働かれる。


2019年11月29日(金)

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた」創世記21:19



アブラハムとサラは、主から子供を与えるとの約束を与えられて
いたが、信仰に立ち、忍耐持って待ち望むことができなかった。
待てども与えられない事で、当時の慣習である奴隷によって子供イ
シマエルをもうけた。自分たちの思いで動いてしまった。しかし時
満ちて約束の子イサクが誕生した。

やがて乳離れの頃、ハガルによる子イシマエルがイサクをからかう
のを見て、サラは奴隷ハガルとイシマエルを追い出すよう、夫アブ
ラハムに迫った。アブラハムはどちらも実子であり、非常に悩んだ。
すると主は、サラの言う事を聞き入れよと示され、奴隷の子も一つ
の国民とするからと。どこまでも憐れみ深い主であり、私たちもど
うして良いかわからない、悩みの時は主に向こう。御言葉与え、御
心を示して下さる。

アブラハムのもとを出た、ハガルとイシマエルは荒野をさまよい歩
いた。とうとう水が尽きて、死が目の前に迫った。ハガルは子供が
死ぬのを見たくないと、離れて坐り、声を上げて泣いた。絶望だっ
た。その悲痛な泣き声を主は聞かれた。少年の声も聞かれ、ハガル
に「恐れてはいけない」と御声をかけ、ハガルの目を開かれた。そ
れで彼女は井戸を見つけた。

井戸は最初からすぐそばにあった。問題は目が開かれることだった。
私たちも悩み苦しみに襲われ、パニックになり、混乱してしまうが、
問題に飲み込まれるのでなく、目が開かれるよう祈ろう。目が開か
れると井戸がすぐそばにあったように、問題が解決へと導かれる。
主は解決をお持ちだ。
-------------
神を見失しなうと現実の闇が濃くなって迫る。背後にある神の恵み
や光を知ることがない。常に私たちを愛しておられる神に目を向け
ていよう。いつも喜び絶えず祈り感謝していたい。


2019年11月28日(木)

「『それでは、天の御国では、だれが、一番偉いのでしょうか』そこでイエスは小さい子どもを呼び寄せ・・」マタイ18:1



「天の御国では、だれが一番偉いのか」と弟子たちが主に質問をし
た。彼らはどんな答えを思い描いていたのだろう。世の価値観なら、
最も功績のある人、最も能力のある人、最も善行を積んだ人、秀で
たものを持つトップに立つ人、だろうか。しかしその時に、主は小
さい子どもを呼び寄せ、子どものようにならない限り、決して天の
御国に入れない、子どものように、自分を低くする者が一番偉いと
言われた。

意外な答えだったろうか。何も出来ない子どもが一番偉いと。子供
の一番の特徴は無力だ。そして子どもは自分が全く無力な存在だと
知っている。親無しには、生きて行けず、食べる事もできない事を
知っている。丸ごと親に依存している。だが大人は自分で生きて行
けると思っている。自分の力で何でも出来ると。

又、弟子たちは内心自分が一番偉くなりたいと思っていた。一番の
重要人物でありたい。一番が良いとの価値観だ。弟子たちのそんな
考え方を「あなたがたも悔い改めて、子どものようにならない限り、
御国に入れない」と言われた。価値観、考え方自体が問題で、「悔
い改め」とは向きを変える事であり、方向変換せよと。

子どものようになるとは、自らの無力を認め、自分を低くする事、
へりくだる事だ。実は自らの無力を知る事、弱さを知る事こそが、
最大の恵みだ。無力を知る人が神に頼る。子どもが完全に親に頼り
きって平安でいるように、主に頼りきる時に平安だ。
----------------
幼子は無力を隠すこともなく親の元を離れて真の喜びを見つけよう
とも思わない。真実なるご愛と赦しと揺るがない平安を受けて幼子
のように御父を愛していこう。


2019年11月27日(水)

「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私の目はいらだちで衰えてしまいました。私のたましいも、また私のからだも」詩篇31:9



主は、全面包囲された町の中で、奇しいみわざをされる。信仰人生
で、行き詰まってしまい、八方塞がり、前進も後退も出来ない窮状
に陥る事がある。すべての面は塞がってるが、上である天は開いて
いる。私たちの窮地は神のチャンスだ。どうにも出来ない、なすす
べが無い中でこそ、生きて働かれる主に出会う。

問題なく順調な時は、私たちはどうしても自分の力と思いで歩んで
しまう。神に頼る必要が無いからだ。自分で生きて行ける。「あな
たがたが神のようになり・・」がエデンの園での悪魔の誘惑だった。
自分が神になりたい。自分が主導権を握り、誰にも邪魔されず自分
の思い通りに歩みたい。

しかし自分の力で、どうにもならない窮地に陥った時に、私たちは
神を求め、神にすがる。どうにも出来ないからだ。なすすべない状
況こそが、実は最大の恵みだ。「私をあわれんで下さい。私には苦
しみがある」「死人のように壊れた器のようになった」と苦難の中
にいたダビデが、祈りの後には「しかし主よ。あなたに信頼してい
ます」「ほむべきかな、主」と主への賛美に変わっている。

どん底でダビデが主に頼り、主にすがった結果だ。苦しみは私たち
を主に近づけてくれる。順境で、神が必要無く、神から離れた歩み
をしていて、それすら気づかない。「私をあわれんで下さい」、あ
われみとは、私たちの惨状を受け止めて下さる神の愛だ。どんな惨
めな状態でも、主のあわれみは尽きず、あわれみを求める事ができ
る。
---------------
順調な人生だけなら決して主を求めずひとりで好き勝手に歩んでい
るだろう。行き詰まって立ち止まらせたのは主だったと今は言える。
近くいてくださる主に祈り叫ぼう。


2019年11月26日(火)

「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」Uコリント5:7




アブラハムが75歳の時、神の「父の家を出て、わたしの示す地へ行
け」に従い、カランを出てカナンの地に移り住んだ。神を信じる信
仰により一歩を踏み出した。しかし子が無く、信頼できるしもべエ
リエゼルを相続人にと考えていた。が、神より、あなた自身から生
まれ出る者が、跡継ぎとなると言われた。満天の星を見せられ子孫
はこのようになると。

アブラハムは信じた。神はそれを彼の義と認められた。しかしその
後ずっと子供はできなかった。そんな中、サラの提案により、女奴
隷により子を得ることとし、奴隷ハガルによりイシマエルを得た。
86歳だった。だがそれは肉の思い、肉の行為であった。その後も、
約束はあるが状況的には何一つ動かず、何も見えない歳月が続いた。

厳しい忍耐の時であった。それから13年後、99歳の時に、主が再び
彼に現われ、子孫を与えると語られた。そして100歳になった時に
とうとう主の約束が成就し、イサクを得た。常識的にはもう不可能
な状況の中で、アブラハムは見えるところでなく、主ご自身を信じ
た。望みえない時に、望みを抱いて信じた。見えないものを信じる
から信仰だ。

それは厳しい状況を見るのでなく、約束して下さった主と、主の言
葉を見続ける信仰だった。あなたも今、厳しい状況だろうか。「サ
ラの胎の死んでいることを認めても」、尚も主の言葉に立てるよう
祈ろう。主は真実なお方、主の言葉は必ず実現する。
-------------
見えるものは一時的で、見えないものはいつまでも続く。目の前の
事に翻弄され、また頼りたくなるが与えられた御霊によって慰めと
励ましを受けとろう。いつも心強い。


2019年11月25日(月)

「彼らはそれを聞くと、年長者から始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた」ヨハネ8:9



律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられた女を、主のも
とに連れて来た。姦淫が許せないという事ではなく、主を陥れるた
めだった。「モーセは律法の中で・・石打ちにするように命じてい
る。ところで、あなたは何と言われるか」と。石打ちにとなると、
あなたが説いている愛はどうなるのか、石打ちにしないとなると、
律法を守らないとの事で、告発しようとした。

つまりは罠にかけるためであった。しかし主はじっとかがみ、指で
地面に書いておられた。尚も迫り、問い続ける者たちに、第三の答
えをされた。「あなたがたの内で罪の無い者が、最初に彼女に石を
投げよ」と。すると一人去り二人去り、結果、皆が去り誰もいなく
なった。彼女も、皆に紛れ込み逃げる事ができた。しかし彼女は逃
げなかった。自分の意志でそのままそこにいた。

現行犯で捕らえられたが、姦淫は死刑であり、石打ちにされて当然
であった。死を前に、罪を意識していたであろう彼女に、主の言葉
が驚きと共に、心にしみ込んだであろう。想定外の展開に、かつて
見た事のないこのお方に 自分の身を委ねた。群衆は心を刺され罪
がわかったのだが、主から逃げた。

主は彼女に「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と問われ
「主よ。だれもいません」と答えると「わたしもあなたを罪に定め
ない」と。彼女は主の赦しを受け取った。罪の苦しみから逃れる事
が解決なのではない。真の解決は罪が赦されることだ。逃げるので
なく、主に向き合おう。「あなたを罪に定めない」と完全な赦しを
与えて下さる。
--------------
罪を犯すと早く何とかしたいと隠したい肉の思いがくるが、主に受
け入れられている。罪を認めて主に赦され、そこから時間をかけて
学んでいこう。逃げずに主にとどまろう。


2019年11月24日(日)

「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したく ない悪を行なっています」ローマ7:19


律法とは、神の戒めだ。「偶像を造るな、拝むな」「御名をみだり
に唱えるな」「安息日を覚えて聖とせよ」「父母を敬え・殺すな・
盗むな・姦淫するな」等々。「神を愛し、隣人を愛せよ」「敵を愛
せよ」「迫害する者のために祈れ」「復讐するな」「悪口を言う
な」数え切れないほど様々ある。律法はすべて正しい。

しかし肉の私たちには、正しく良いものである事はわかるが、それ
を行なう力が無い。パウロが言うように「貪るな」と言われると、
罪の性質がむくむくと出て、返って貪りたくなる。律法により貪り
が引き起こされる事になる。

ある人は植木鉢が余りに盗まれるので「植木鉢をとるな」と張り紙
をした。すると更に次々と盗まれ、とうとう張り紙をはずした。
「盗るな」と言われると、盗りたくなるのが罪の性質だ。「勉強し
ろ」「手伝え」と言われると反発する。肉には逆らう性質がある。

救われた当初は、喜びで一杯だが、その内、信仰生活が辛くなって
来る。窮屈でしんどくなるのだ。今まで感じなかった「罪」がわか
って来る。なかなか祈れないし、聖書もそんなに読めるものでない。
証しなど出来ない。段々色々と重荷になって来る。善をしたいとは
思うが、実行する力が無い。どれだけ頑張っても出来ない、不可能
だ。

自分の惨めさ、無力をとことん味わう。しかしそここそが恵みの場
所だ。その時にこそ、真に神の恵みと力、救いを経験する。神にギ
ブアップし、自分を渡す事だ。その時に、御霊によって歩むという
事を知らされる。自分の力でなく、御霊が働かれ、一つ一つが成し
遂げられて行く事を経験して行く。

・・・・・・・・・・・・・・
信仰生活は、戒めに従えない、どうやっても御言葉に従えない、愛
せないし、どれだけ頑張っても赦せない、それがわかる事が入門で
あり、そこから始まると言われている。そのままを祈り、主と交わ
ろう。御霊によって歩むことを教え、取り扱って下さる。


2019年11月23日(土)

「道々、お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、 私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:22


主が十字架にかかり、墓に葬られ、よみがえられた。二人の弟子は、
墓に行った女たちが御使いから、主のよみがえりを告げられたと聞
いた。しかし二人の弟子は信じられず、エルサレムを後にし郷里に
引き揚げる。弟子達は、主がローマ帝国をくつがえし、地上に王国
を建てる事を信じていた。思い描いていた事が打ち砕かれ、十字架
での無残な最期が余りにもリアルで、よみがえりなど荒唐無稽な事
を信じる事が出来ない。

挫折感と失望、絶望の思いで、なすすべなく郷里へ向かっていた。
突然、そんな彼らのかたわらを歩く人物が現れた。その人は彼らに
語りかけ、そして彼らの話を聞かれた。それから御言葉を語り、解
き明かして行かれた。彼らがその言葉に耳を傾けて行く内に、不思
議に心が変えられて行った。失望に沈んだ心が、赤々と燃えて来た
のだ。真っ暗な心に光が来て、燃やされて行った。

別れ道に来た時、無理やりに宿泊を願い、家に招いた。その人物が
パンを裂いて、渡された時に彼らの目が開かれた。よみがえりの主
である事がわかった。「彼らの目が開かれた」時に、そう言えば道
中、心が内に燃えていた事に思いが至った。すべては主が目を開い
て下さる事による。

あれほど信じる事のできなかった彼らが、主のよみがえりを信じた。
彼らも不信仰と絶望の渕からよみがえらされた。今、心が沈んでい
るだろうか。この弟子はあなただろうか。主は、今、かたわらにお
られる。意識して、その主の語りかけに耳を傾けよう。

・・・・・・・・・・・
信仰ダウンしている弟子たちに、主の方から近づき、寄り添われた。
心の内を吐露させられ、主は御言葉を語られた。御言葉に真剣に耳
を傾けていると、信仰がよみがえって来た。絶望の心に信仰と希望
の光が赤々と燃えた。主は御声をかけて下さっている。耳を傾けよ
う。


2019年11月22日(金)

「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ」詩篇19:14



主は、人前で善行をするな、右手のしている事を左手に知られるな、
と言われた。施しが隠れているように、自分の善行を人に知らせて
はならないと。しかし、同時にあなたの光を人々の前で輝かせ、人
々があなたの良い行ないを見て、天におられる父を崇めるようにせ
よ、とも言われた。人前で良い行ないを輝かせよと。

一方は知らせるな、一方は知らせろと、これは正反対ではないのか。
どう違うのか。ここで言われているのは、動機の問題で、動機がど
うかという事だ。自分が認められ、ほめられ、自分の栄光のために
しているのか、それとも主のために、主を喜ばせようとしているの
かだ。主ではなく、自分を喜ばせるためにする善は偽善だ。パリサ
イ人の善行がそうだった。

人の前で自分を正しいとする事であり、人の間で崇められる者は、
神の前で憎まれ、嫌われると主が言われた。人前でなく、神の御前
で生きる事、人の目でなく、神の目を意識して生きる事が言われて
いる。誰しも皆、人を意識して生きている。目に見えない神よりも、
目に見える人からの評価や賞賛が欲しい。人前で体裁を繕い、良く
思われたい。

目に見える世界が大事であり、すべてとなり、主を無視してしまう。
サタンの誘惑だ。目に見えない主の御前で生きて行く事は、まさに
信仰によるのであり、これも自分では出来ず、御霊の助けと導きに
よることだ。祈って行こう。主に自分を明け渡して行く時に、助け
られて、「御前に」受け入れられる事を求めて行ける。
------------
クリスチャン生活、悪い事はためらっても良い事は動機を探らずや
ってしまう。動機はと問いかけてみるならどうだろう。心を見てお
られる神の御前を生きよう。


2019年11月21日(木)

「肉の思いは死であり、御霊の思いは、いのちと平安です」ローマ8:6



ある家庭で問題が起きて、解決のために家族会議を始めた。兄が、
自分では全くの正論だと思い、意見を言った。すると父親がやはり
正論だと思い、それに反対の意見を言った。そこで弟が父親の言葉
に反論し、また別の意見を言った。すると母親がまた全く別の角度
からの思いを語った。そこで妹がそれは違うと思うと、また別の思
いを言った。

皆が自分は正しい、と思っているので、どんどん主張し合い、感情
的になって来るし、エスカレートして、やがて熱心の余りに、言い
争いになって行った。その場に何の関係も無い過去の事や、普段の
不満やいら立ちなども飛び交い、何だか険悪な空気になった。収拾
がつかなくなり、その場を切り上げた。皆が平安失せ、暗たんたる
気持ちになり、それぞれの部屋に引き揚げた。

ひと息つき冷静になると、色々考えさせられた。各々が自分の思い
に固執し、自分は正しく相手は間違っている、に立ち、肉の思うま
まの言動であった事に思いが至り、主の御前に悔い改めを与えられ
た。互いに素直に詫び合った。その時、自分の思いでなく、神の御
思いに、神に視点を向ける事が出来た。御霊の導きを求めつつ、相
手の事も思いやり、再度話し合えた。

すると一致して、平安の内に決定が導かれた。そこに潤いと平安が
あり、御霊を感じた。「肉の思いは死」の通り、自分の思いを通し
て行くとそこに何の実も無い。暗たんたる気持ちと相手をさばく思
いに支配される。「御霊の思いはいのちと平安」、神に視点を向け
よう。
----------------
自分の正しさを主張し叫ぶ者たちによって主は十字架につけられた。
肉の弱さの中から主に助けを求めるなら必ず御霊の歩みへ主が戻し
てくださる。


2019年11月20日(水)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33




心配性で、いつも心配や思い煩いに悩まされている人は多い。ああ
なったら、こうなったらと、先に起こるかも知れない事を想像して、
不安でたまらない。そしてまだ見ていないのに、今、落ち込む。
不安材料をかき集め、まるで現実であり、事実であるかのごとくに、
最悪のシナリオが出来上がる。しかしそれは妄想だ。

現実に起こっていないのだから、神も、そんな架空のものをどうに
も出来ない。思い煩いを選択している自分の問題だ。明日の事は、
先の事は、私達にはいっさいわからない。1時間先の事すら何も見
えていない。誰にも何一つわからない。しかし、神を信じる私達は、
明日に恐れと不安を見るのでなく、明日に神の愛を見る。

明日は、神の愛に包まれ、神のご計画の中にあり、神の御手の中に
堅く守られている事を心から信じる。見えない明日に、不安や恐怖
を見るのでなく、神を見て、神の慈しみを信じる。これが信仰だ。
神の愛を信じて歩む時に、思い煩いの亡霊に惑わされない。そして、
「神の国とその義を第一に」神第一を心に据える事が大切だ。自分
を第一、神を第二、第三にする事から、秩序が狂い、思い煩いが生
じる。

自分を中心にするなら不安と恐れで、すべてが思い煩いとなる。重
荷が自分の肩にずっしりと来て、自分で自分を守らねばならないか
らだ。神を第一にするなら、神が全責任を取って下さる。すべて与
えられる。そこから平安と安堵と喜びが来る。あなたの優先順位は
どうだろう。明日の心配ではなく、明日に神の愛を信じて歩めるよ
うに、そうできるよう祈って行こう。
---------------
私達には明日を知ることは許されていないが、最善を与えてくださ
る深い神のご愛を知っている。思い煩う時には信仰の目を天に向
けよう。


2019年11月19日(火)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4



主に、御言葉に、御心に従おうとする時に、衝突して来るものがあ
る。経験するだろうか。この世の価値観、習慣、考え方、自分の思
いだ。一見正しく妥当に見える。救われる前は、叱咤激励の価値観
で生きて来たので、自分の力で頑張る事が善であり、美徳だ。

今まで真面目に生きて来たが、真の神に出会うや、今まで以上に真
面目に、忠実でなければと、信仰生活は厳しい修業のように思って
しまう。苦しいのだが、しかし苦労も美徳、苦しいのは当然、むし
ろなぜか苦しいと安心感があったりする。修業している気になれる。
日本人気質に合致する。これら世の価値観から来ている。

しかし実は真理と逆方向に向かっている。それは神から出ていない。
ここでは割礼の事が問題となっている。ユダヤ人の慣習である割礼
を受け入れて、問題を起こさぬようにとする。何かの行ないによっ
て、神に、人に認められよう、受け入れられようとする事は、もは
や恵みではない。それはキリストから離れ、恵みから落ちてしまっ
ていると。

信仰生活は、神に受け入れてもらうための苦しい修業でなく、逆に
そこから主が十字架により、救い出し、解放して下さったものだ。
すでに主に丸ごと受け入れられ、100%の愛を受けているから、嬉
しいから喜んで、感謝して自由意志で主に従って行くものだ。「ね
ばならない」の義務感ではいっさいなく、「愛によって働く信仰」
愛が動機であり、自発的に仕えて行くものだ。そこには主への愛と
喜びと平安がある。
--------------
行いも信仰も不完全で不安定な者が、既に主の十字架で受け入れら
れている。この恵みの確信に立つときやっと平安を得る。主にある
自由と喜びを持って主の愛に応えて行きたい。


2019年11月18日(月)

「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます」詩篇130:5



信仰生活で、難しい事の一つが「待つ」ことだと言われる。すぐに
結果が欲しい。願ったものをすぐに手に入れたい。ファーストフー
ドを食し、自販機からは、即、飲物が出て来る。コンビニは24時営
業で、すぐに入り用の物が手に入る。各自が携帯を持ち、個人同士
で連絡も取れる。世界中リアルタイムでメールが行き交う。

便利な時代になり、即、欲しい物が持てるので、「待つ」事は非常
に難しい。信仰生活でも、すぐに行動したいし、すぐに目に見える
結果が欲しい。しかし主は、主の御前に座し、静まり、じっくり祈
り、御声を聞いて、導きを確信して歩めと言われる。忍耐が培われ
る時だ。御言葉を求め、導きを求め、確信を得るには、じっと御声
に耳を傾ける時が必要で、祈りが必要だ。

そうでなければ、自分の思いと力で、自分の判断で行動してしまい、
必ず失敗してしまう。つまずいてしまう。誰しも肉の欲があり、肉
の思いは、自分の都合の良いようにやりたい。しかしそれなら肉に
従い、サタンに従う事になってしまう。神の栄光どころか、逆にサ
タンに用いられてしまう。あなたにも今、待ち望む事が必要であり、
求められているだろうか。

悪魔は焦らし、急かし、神はじっくり導かれる。焦りは悪魔の誘惑
だ。肉の思いに走らないために、悪魔に欺かれないために、じっく
り主を待ち、御声に耳を傾けよう。必ず御声をかけ、確信与え、御
心の道へと導かれる。それは平安な確かな道だ。
-------------
便利で合理的、何でも遅いより早い方が良いとの価値観にどんどん
押されてしまう。祈ることも聖書を開くことも御霊の導きを確信す
ることにも時がいる。主を待ち望むという焦りのない歩みをしたい。


2019年11月17日(日)

「悪魔は・・世界の国々を全部見せて・・『ですから、もしあなたが私 を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう』」ルカ4:7


主を信じる人々がキリスト者であり、聖書を読み、祈り、教会に行
く。だが一体自分は「何のために」信仰しているのだろう。少し立
ち止まって考えてみる事は有益だ。自分の願う何かを得るための手
段だろうか。この世の宗教にはよくある事だ。さい銭を投げ、ジャ
ラ〃と大鈴を鳴らし、パンパンと柏手を打ち、あれこれ盛り沢山の
願い事を告げる。

信仰が、もし何かを得るための手段なら、その欲しいものさえ手に
入るなら、他の手段でもよい事になる。この世では、望みが叶わな
いので他の宗教へと渡り歩く姿を普通に目にする。悪魔は「私を拝
むなら、この世の国々とその栄華を、何でも上げるよ」と巧妙な誘
惑をしかけた。

「あなたのその欲しいものを上げる、私を拝めば」と。喉から手が
出るほど欲しい物があれば、大きな誘惑となる。目的のものが欲し
いばかりで、誰がくれようと構わない。しかし主には、御父を礼拝
する事は手段でなく「目的」であった。

時に、問題解決の手段ための信仰だったりする。次々と襲い来る悩
みや困難の解決が欲しい。又より良い人生や人格者になる事、心の
満足や自己実現の手段とするなら、神が自分の思い通り、期待通り
に動いてくれないなら、遅かれ早かれ失望する。神の愛を疑い、神
から離れる事になる。

それらのものを神は御心なら与えて下さる。しかし肝心な事は、神
を神として信じ、神を崇め、神を礼拝し、神との交わりを目的とし
て生きるなら、どんな中でも平安と喜びを失う事は決してない。

・・・・・・・・・・・
「主よ、ああして下さい、こうして下さい、主よ、あっちへ行って
下さい、こっちへ来て下さい」の祈りになりがちだ。主は御心なら
叶えて下さる。しかし「主をおのれの喜びとせよ。心の願いを叶え
て下さる」とあり、主ご自身を求めて行く事が大切だ。その時祈り
が叶えられて行く。


2019年11月16日(土)

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者 ではなく、とこにこの取税人のようではないことを、感謝します」 ルカ18:11



ある人が、対人関係において、自分は人を見る時に、常にフェアで
ある姿勢を取ろうとして来たし、そうしていると思っていた。自分
は決して人を偏見で見ていないつもりだし、そう見る人は間違って
いると思っていた。しかし、ある時、御霊に心を照らし出された。

デボーションで、聖書の中のパリサイ人と取税人の祈りの箇所を読
んでいた時だった。パリサイ人が祈りで「神よ。私はほかの人々の
ように〜〜でないことを、感謝します」と言った箇所が目に留まり、
心に刺さった。心の奥の自分が重なった。このパリサイ人は何と愚
かなのか、自分はこのパリサイ人のようではない、自分は違う、そ
んな事はしないと、優越感を抱いて見ている事に気づかされた。

又、更に表にこそ出さないが、実は心の底では様々差別をしている
醜い自分に気づかされた。まさにパリサイ人の姿そのままだった。
神に反抗しているならわかりやすいが、表面的には、御言葉に従い
正しくあろうとし、神の心にかなおうと、従おうとしているので、
返って気づかない。

御言葉と御霊の光が臨む時、私たちも、心の奥底が見せられ、全く
気づかなかった、知らなかった自分の本当の姿を知る。愕然とする
が、主はそんなものは何もかもすでにご存じの上で、愛して下さっ
ている。神は知っておられるが、自分が自分の本当の姿を知らない。
様々の取り扱いを通して。本来の姿を見せられ、悔い改めつつ、ど
こまでも成長して行ける。

・・・・・・・・・・・・
どこまでも醜い肉があるが、御霊により気づかされる事が感謝で、
光の中だ。光の中なので、見えて、祈りに持って行ける。そして主
はそんな自分をありのまま愛して下さっている。愛されているから
悔い改める事が出来る。主の赦しの平安、安心の中を歩んで行ける。


2019年11月15日(金)

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」マタイ5:24



ある人が、友人とちょっとした行き違いで、言い争いになってしま
った。どうしても自分は正しいと思うので、強く主張してしまい、
相手を否定する事になってしまった。非常に気まずい空気のまま別
れた。帰宅しても全く平安が無い。心は重かった。しかし自分は正
しいとしか思えない。相手が間違っている。だが平安は無い。

教会の奉仕のために、重い心のまま準備しようとするが、出来ない。
どうしても出来ないので、どうにもならず、主の御前に行き、祈っ
た。その日の出来事を、重苦しい自分の気持ちを、あるがまま主に
打ち明け祈って行った。洗いざらい感情も吐き出して祈っていると、
段々心が落ち着いて来た。

冷静になり、自分は正しく、相手が悪いと思っていたが、自分にも
非がある事に気づかされた。言い方が悪いし、態度も悪かった。自
分を正当化していたし、相手をどんなに傷つけただろう。自分の非
を悔い改めた。そして相手にも電話をして詫びた。するといや、自
分の方こそ感情的になってしまってと、謝ってくれた。

平安が戻り、心がすっきりし、新たにされ奉仕の準備が出来た。そ
の働きは大変祝福され、主のあわれみを感じた。心が辛く平安が失
せる時には、まず主のもとへ行こう。心を打ち明け祈る時に、必ず
平安へと導いて下さる。
-------------
兄弟との和解は、単なる人間関係だけでなく神との正しい関係を保
つために必要だ。主の前に謙遜になろう。主が求めておられる方へ
意志を向けよう。


2019年11月14日(木)

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」ローマ12:19



人から批判、誹謗、中傷されたらどうだろう。肉の性質は怒りが沸
いて、仕返しをしたいと思う。復讐しないとおさまらない。それも
何倍にもして報復したい。私たちには罪の性質がある。ある人が
結婚したが、なかなか姑とうまく行かなかった。辛い日々だったが、
何とか祈りによって、過ごしていたが、心はずっと重苦しかった。

余りに心が苦しくて、洗いざらいを御前に祈っていた時に、御霊の
気づきを与えられた。姑にいじめられていると思っていたが、自分
も報復していた事に。巧妙に、わからないように、仕返しをしてい
た。御霊の光に、自分の罪深さを示され、心から悔い改めた。心が
平安にされた。その後、不思議に心が変えられて、今までと違って
接する事ができた。

そのつど祈ると、主の助けがあった。厳しい状況もありのまま祈る
と、助けられて喜びもって対応できた。笑い合える間柄などと主の
みわざだった。どうしても罪の性質は、やられるとやり返したい。
しかし、主は報復するなと言われる。復讐からは何も生まれず、憎
しみや敵対心を増幅させるばかりだ。苦しみが増すだけだ。

主は「自分で報復するな。神の怒りに任せよ」「復讐はわたしのす
ることである。わたしが報いをする」と。主が報復すると言われる。
私たちのする事は、主にゆだねる事だ。何もしてはならない。主に
明け渡してしまい、心平安にしていだこう。あとは主のなさる事だ。
--------------
肉は怒りに反応し動き出そうとするが、御心に従おうとの祈りを主
は必ず聞いて罪から守ってくださる。裁き主は主だと、心を主に注
ぎだし、主にお任せしよう。


2019年11月13日(水)

「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36  


           
会堂管理者のヤイロが、娘が危篤状態で、主のもとに助けを求めて
来た。足もとにひれ伏し、一生懸命に願った。ヤイロは必死だった。
幼い娘が瀕死の状態なので一緒に来て欲しいと。病気が直って助か
るようにして頂きたいと。主は、願いを聞き入れ、一緒に出かけら
れた。どんなに嬉しかったろう。主さえ来て下されば大丈夫だ、何
とかして下さる。

するとそこに12年長血を患う女性が来て、中断してしまった。彼女
も主の癒しを求めての事だった。危篤で一刻を争うのに、ヤイロは
どんなに気をもんだ事だろう。主が女性に対応しておられる時に、
家から使いが来て、娘は亡くなったと告げた。もう来て頂く必要は
無いと。亡くなってしまったなら、もうどうにもならない。

「遅かった」「もうだめだ」「手遅れだ」「万事休す」だと。しか
し、主は間髪を入れず「恐れないで、ただ信じていなさい」とヤイ
ロに言葉をかけられた。ヤイロは御言葉を受け取り、主と共に家に
帰った。そして主は御言葉通りに、娘を生き返らせて下さった。

信仰を妨げるのが、否定的な言葉だ。「もう遅い」「もうだめだ」
のように。どんどん不安、落ち込み、恐れ、不信仰へ陥って行く。
私たちも、使いの者の「もうだめだ」の否定的な言葉を拒否し、聞
き流し、主の「恐れないで、ただ信じていなさい」の言葉を握り、
信仰に立とう。

心が不安と恐れで落ち込む時は、信仰の言葉の方を捨てて、ネガテ
ィブな言葉を受け入れ、聞いてしまっている。主が目の前の事態を
必ず良きに導かれる。「恐れないで、ただ信じていなさい」の主の
言葉に立とう。
--------------
今日できても明日は駄目ではないか、今日駄目なら明日も駄目なの
ではないかと意識しなければ不安の声がする。「恐れないで、ただ
信じていなさい」の主の言葉は力、信仰で勝利しよう。


2019年11月12日(火)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7




私たちは、しょっ中思い煩ってしまう。主は「思い煩い」について
教えて下さった。「何も思い煩わないで」「明日のための心配は無
用」「思い煩いをいっさい神にゆだねよ」と。思い煩いは、全く事
実では無い事を仮想して、あれこれと気に病む。この事が、ああな
ったら、こうなったらどうしようと、勝手に最悪のシナリオを描く。

心は暗くなり不安でたまらない。しかし主は、いっさい、「何も」
一つも思い煩わなくてよいと言われる。それを神に委ねよと。何と
平安、安堵だろう。だが、しばしば委ねられない事が問題だ。わか
っているのだが、どうしても委ねられない。なぜ委ねられないのだ
ろう。

自分が握っていなければ、自分が手を放してしまうと、目の前の事
態がだめになってしまう、崩壊してしまうと思うからだ。だから自
分が何とかしなければと、ますます固く握りしめ、放せない、放さ
ない。主に委ねるには信仰が要る。今、先の事は見えないけれど、
主を信頼して、主に渡すことだ。主は必ず良くして下さる。

それは自分の思い通りの道ではないかも知れない。自分の思いとは
しばしば異なるからだ。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異
なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ」と、「異な
る」と言われている。

そうであれば、かなり違うという事だ。主が成される事は、常に私
たちにとって思いとは異なるが、結果的に最善だ。真の平安の道だ。
「委ねる事ができません」とありのまま祈ろう。主は祈りに答え、
働きかけて下さって、委ねられるよう助けて下さる。
---------------
明け渡しているつもりでも、主よ、私のやり方を助けてくださいの
祈りで、結局いつまでもはらはらが続く。明日を安心して主にお任
せする信仰こそ求めたい。


2019年11月11日(月)

「彼らは・・モーセとアロンに逆らい・・『あなたがたは分を越えている・・なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか』モーセはこれを聞いてひれ伏した」民数記16:5



コラがその共謀者達と、イスラエル人250人と共に、モーセとアロン
の権威に逆らった。「全会衆は聖なる者で、主がその内におられる
のに、なぜ・・集会の上に立つのか、分を越えている」と。モーセ
は彼らに対応するのででなく、まず主の御前にひれ伏し祈った。す
ると結果的に、主ご自身がこの反逆に決着をつけられた。

反逆者たちに「あなたがたが分を越えているのだ」と地面が割れ、
人々は飲み込まれた。主ご自身がさばきをされた。その後、主は明
白なしるしを与えられた。12部族に1本づつ杖を持たせ、神が選ぶ
者の杖は芽を出すというものだった。するとアロンの杖が芽をふき、
アーモンドの実を結んだ。主が民の不平と反抗をおさめられた。

私達も割り与えられた、分をわきまえる事は大切だ。主が、各々に
与えられた分がある。それぞれの立場や役割は、主からのものだ。
分を越えたのはコラや共謀者たちだった。立場、役割で周囲と比較
し、羨望や妬み、自己憐憫は無いだろうか。妬みは憎しみへと増幅
する。妬みから邪悪な行ないへと向かう。

あなたを今の場に置かれたのは、神だ。「自分の領域を守らず、自
分のおるべき所を捨てた」のが悪魔だ。主を認め、分をわきまえ、
今の立場と役割を感謝し、そこで主に仕えよう。感謝して受け入れ
る時、主はその所であなたを祝福して、あなたを大いに用いられる。
-----------
人を羨むと思いは乱れて自分の環境を嘆いてしまう。今置かれてい
る場所は偶然ではなく主からの賜物と見ていくとき、主の恵みが豊
かに注がれていることに気づく。自分の領域を自分のものとし、主
にあって実り豊な人生を歩もう。


2019年11月10日(日)

「心を尽くし、主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」箴言3:5


ある人が仕事で開発プロジェクトを進めていた。だが、なかなかう
まく運ばず、試行錯誤の中どうにもならず、暗礁に乗り上げてしま
った。もう手立てが無いように思えた。しかしその事業は、主に祈
り、導きを得て、始めた事であった。困惑し、どうしてよいかわか
らず、自分の無力に打ちのめされた。どうにもならず、主の御前に
静まり、祈りに持って行った。

行き詰まり、頓挫している現状を、心の思いを何もかも打ち明け、
心を吐き出し、祈った。御言葉を読んでいた時に「あなたがたがわ
たしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・実を
結び、実が残るため」の言葉が心に迫り、主が確かにこの仕事に自
分を選び、任命して下さったのだと思えた。

しかし主の御心の仕事ではあったが、「自分が」「自分が」と自分
が前に出て、自分の考えと自分の力に頼り、力尽きた姿が見せられ
た。「あなたがたではなく、わたしが」、「自分」ではなく「主」
が、先導して下さっている、そこに平安と安堵が来て、今一度、主
に現仕事と自分自身を明け渡した。

すると不思議な事に、あれほどの重い鉛を抱えていたような不安、
思い煩い、恐れが失せて行った。とにかく、目の前の一つ一つを、
主に委ねつつ、従ってゆけばよいのだと思えた。主が何とかして下
さる。主を信じれた。気持ちがすっかり楽になり、力が湧いて来た。
自分が運転席に座り、主が助手席だったのが、主が運転席、自分が
助手席に交代した。

すると、目の前の一つ一つが導かれて行く事を見せられ、困難はあ
るが、心が全く違って平安だった。そして主により成し遂げられた。
何よりこの事を通して、主への信頼が新たにされ、深められた事が
感謝だった。

・・・・・・・・・・
信仰人生で、ある時、どうにもならない行き詰まり、瀬戸際を経験
する。目の前は紅海だ。しかしその中で、全くなすすべ無く、ただ
ただ主にすがった時に、道が開かれ救われる事を、幾つも経験して
来た。自力でなく、主に拠り頼むことを祈ろう。


2019年11月09日(土)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6


信仰生活の中で、現状が自分の思いと異なる場合はどうだろう。自
分の思いが強いと、目の前の状況をどうしても受け入れられない。
苦しくてたまらない悶々状態を経験する。すべての環境は主から来
ていると頭ではわかるのだが、受け入れられないので、何とか状況
を変えようとする。不満で仕方がない。怒りも出て来る。自分の思
い通りにしたいばかりだ。

しかしどんなに悪銭苦闘しても、何も変わらない事を知る。不毛の
戦いだ。とうとう疲れ果てて、ギブアップして主の御前に行く。そ
して祈って行った時に、主からの事だと気づく。主がそうしておら
れるのだと。それを自分が思い通りに変えようと、動き回っていた
事に気づく。

ある人が子供に障害が発覚したが、どうしても受け入れられなかっ
た。なぜ?自分の子が?どうして自分に?と涙、涙で、思いは空回
りし、苦しく、辛くてたまらなかった。主に対して反抗的になって
いた。同年齢の子供を見れば涙が溢れた。心は苦しくてたまらず、
とうとう限界に達した。もう行き詰まり、ギブアップした。

自分自身も子供も将来も、不安も恐れも何もかもを、主に明け渡し
た。その時、状況は全く変わらないのに、心に初めて深い安堵と平
安が臨んだ。不思議だった。心平安にされる事が、道をまっすぐに
される事だと経験した。委ねられないでいるなら、その事を主に告
げようありのままを祈ろう。明け渡して行く時に、主が成し遂げて
下さる。

・・・・・・・・・・・
目の前の状況に、主を認める事が大切だ。そうできるよう祈ろう。
主を認められず、空回りし、苦しいばかりだ。解決が無い。しかし
主を認める時、主は働かれる。御心なら状況が変わるし、状況が変
わらないなら、心を変えて、平安にして下さる。


2019年11月08日(金)

「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ」箴言 29:23

モーセは謙遜の代表と言われていて、「地上のだれにもまさって、
謙遜であった」と記されている。だが最初からそうなのではなかっ
た。王家の王子として過ごした40年は、人々からちやほやされ、あ
らゆる学問を身につけ、言葉にもわざにも力があり文武両道、地位
も能力もある人物であった。自信に満ちていて、自分こそが同胞を
救える者だと思った。

しかし皆の理解は得られず、結局失敗してミデアンの地に逃亡する
事となった。見渡す限りの荒野で、何も無い場所で、モーセは羊飼
いとして暮らした。王家の華やかな王子が、一転、荒野で一介の羊
飼いとなった。打ちのめされ、無力を見せ続けられたろう。名誉、
地位、富、人の賞賛、栄光、プライド、輝かしき将来、すべてを剥
奪された。

しかしこれこそがモーセの真の財産となった。荒野の試練の中で、
自信満々のモーセは砕きに砕かれ、へりくだった柔和な者へと、造
り変えられて行った。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを
授けられる。これは普遍の法則だ。水は決して高い方へ流れず、常
に低い方へと流れる。モーセは荒野で砕かれ練られ整えられ、40年
後に主により立てられる事になる。

今こそが間に合う器として、民をエジプトから導き出すという大き
な使命のために用いられる事に。主はへりくだった者を用いられる。
信仰の一番の妨げは高ぶりだ。今、もし荒野にいるなら、大きな祝
福の手前だ。主は砕き練り整えられる。へりくだって、今、いる場
で、主に従順に従おう。

・・・・・・・・・・・・
高ぶっているかどうかは、主の助言や人の助言を受け入れないとこ
ろに出て来る。高ぶっているので、人の助言を受け付けない。結局
失敗を繰り返し、滅びの道に至ってしまう。へりくだった人は砕か
れていて、誰からでも教えを受ける事ができて、ますます繁栄して
行ける。


2019年11月07日(木)

「・・大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダビデの子よ。私を あわれんでください』と叫び立てた」マルコ10:48


目の見えないバルテマイは、人から物乞いをして生活していた。金
銭を、物を、恵んでもらって生きていた。それしか生きるすべが無
かった。そのため主に「わたしに何をしてほしいのか」と問われた
時に、一生涯生きて行けるだけの金銭を求めても不思議はなかった。
しかし主にに求めたものは、金銭ではなかった。

「目が見えるようになること」だった。それは、この方にはそれが
できるとの信仰があったからだ。そうでなければ、はなから求めな
い。彼には信仰があった。その信仰は「私をあわれんで下さい」と
の叫びとなった。彼を黙らせようと周囲に阻止されても、ますます
叫び立てた。

もし、主が受け止めて下さると信じなければ、叫び続ける事もしな
い。又、まず主に求めもしなかったろう。彼は真剣だった。この時、
このチャンスしかない、二度と機会は無いと全身で叫んだ。ザアカ
イも同様だ。今を逃してもうチャンスは二度と無いと木にまで登っ
た。もし、ここであわれみをもらわなければ、生涯盲人のまま、又、
ザアカイは一生虚しい何の喜びもない暗い日々が待っているいるだ
けだった。絶対にこのままでは帰れなかった。

主はその心の底からの求めに答えて下さった。私達はどうだろう。
求めがあるだろうか。与えられても、与えられなくても、どっちで
もよい程度のものだろうか。又、最初から諦めてしまっているだろ
うか。彼は全く何も出来なかった。唯一「あわれんで下さい」と叫
ぶ事だけができた。この求めを、主は待っておられる。そして喜ん
で受け止めて下さる。愛して下さっているからだ。

・・・・・・・・・・・・
バルテマイは、目が見えるようになるために、何も出来なかった。
全く出来る事が無かった。何も出来ないからこそ、主に向かい、叫
びとなった。すべがあれば走り回っていたろう。何一つ出来る事が
ない時こそ、大きな恵みの中だ。主にすがり、叫ぶことができる。


2019年11月06日(水)

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないよう な試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えること のできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」 Tコリント10:13


人は誰しも、暗い夜を経験する。厳しい試練の時を通る。辛くて涙
が溢れて来る。それは自分の過失だったり、又、経済的苦境、苦し
い対人関係、病気、けが、リストラ、離別・・まさに「夕暮れに涙が
宿」る。しかし、明けない夜は無いと言われるように、ずっと夜の
ままではあり得ない。涙のままでは終わらない。

どんなに辛い夜でも、必ず明けて朝が来る。「朝明けには喜びの叫
びがある」。どんな時にも希望がある。これは何と慰めだろう。試
練には期間がある。試練のまっただ中では、真っ暗闇が永遠に続く
ように思えてしまうが、試練には必ず終わりがある。期限付きだ。
トンネルは必ず出る。夜の後に朝は来る。悲しみの後に、必ず喜び
が来る。

又、逆に、人間は成功が続く時こそが危険だと言われている。成功
の中で、自らを律っする事の出来る人はまれだ。有頂天になってし
まい、油断してしまう。順境で、神を求めなくなる人も多い。神無
しで十分やって行けるし、幸せになれると思うからだ。必要が無く
なってしまう。

人が求めるのは平穏無事だ。しかし、それによって神から離れるの
ならどうだろう。神が送られる試練は、必ず益とされる。試練の時
は、何もかもが光を失い、真っ暗闇に思えてしまう。が、主のよみ
がえりを覚えよう。十字架で弟子達はつまづき、絶望した。万事休
すで何もかもが終ったと。しかし、よみがえりで世界は一変した。

死から命へ、暗闇から光へ、溢れる喜びに変った。必ず夜は明ける。
今の苦しみは喜びに変わる。だからこそ、すべての事に感謝できる。

・・・・・・・・・・・・
試練の最中は、先が見えないので、トンネルがずっと続くようにど
うしても思えてしまう。だが期限付きで脱出の道があり、試練に結
末があり、乗り越えられると。平安と将来と希望のためのものであ
り、平安の落とし所に落として下さる。どんな中でも希望がある。


2019年11月05日(火)

「イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわた しの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」ヨ ハネ12:7 


                    
マリヤが「埋葬の用意にと」主のからだに、油を塗った。主がこれ
から十字架に向かわれる事をただ一人悟っていた。これが主の最後
の旅である事がわかっていた。それで主のために精一杯お献げした
いと願い、高価な香油を惜しげもなく主に注いだ。すると弟子たち
が憤慨した。香油をむだにするとマリヤを責めた。

「300デナリ以上に売れて」と300万円の価値だった。貧しい人々に
施せたのにと。主に注ぎ流してしまうのは無駄だと。しかし主は
「マリヤはわたしの葬りの日のために それを取っておこうとし
た」とマリヤを擁護された。「それを取っておき」少しづつ蓄えて
いた。マリヤの主への愛だ。

献げ物は主への愛の表われだ。今、自分に出来る事をすれば良い。
私達はよく思う。もっとお金があればと、そうすれば献げるのに。
お金が無いから献げられないと。今は忙しくて時間が無いから、余
裕が出来たら時間を献げよう。状況と環境が変われば、もっと主の
ために労力を献げられるのだが・・、と。しかし、そのようになった
としても献げるとは限らない。

今、「自分にできることを」すればよいと。弟子たちさえ、十字架
をわかっていたなかったのに、なぜマリヤは悟れたのだろう。主の
足元に座して、いつも真剣に御言葉に聞き入っていた。一言ももら
すまいと。そしてその心からの愛の献げものは、今から苦難に向か
う主を、どんなにお慰めした事だろう。

・・・・・・・・・・・・・
お献げしたマリヤは生涯どんなに喜びであった事だろう。「この女
は、自分にできることをしたのです」自分に出来る事でお献げする
事ができる。愛する主をお喜ばせするために、今、自分にできる事
は何だろう。主は受け取って下さり、自分には喜びが与えられる。


2019年11月04日(月)

「あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそ がれた者を救うために出て来られます」ハバクク3:13


ハバククはヨシヤ王の死後の預言者で、当時、国内は、罪が満ち、
裁きが行われず、悪がはびこり混乱していた。主はカルデヤ人を襲
撃させ、悪を罰すると言われたが、現状は悲惨だった。「いちじく
は花を咲かせず、ぶどうの木は実を実らせず、オリーブの木も実り
がなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいな
くなる・・」

こんな不毛、失望落胆、嘆き、なすすべの無い状況、お手上げで絶
望状態だ。作物も家畜も壊滅状態だ。これを見るなら、望みも何も
かも打ち砕かれ、暗澹たる気持ちになって当然だ。先の事を考える
と絶望しかなくなって不思議はない。しかしハバククは違った。こ
の酷い状況のまっただ中で主を賛美し感謝したのだ。

「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩
ませる」と。主の裁きの先にある、赦しと回復を見ていたからだ。
主は、罪を徹底的に裁かれるお方であると同時に「あなたは、ご自
分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うた
めに出て来られます」の通り、救いの約束を成就される主である事
を信じていた。

私たちも厳しい試練の中で、目の前の状況を見るのでなく、主の約
束を、御言葉を見続けることだ。それは選択だ。状況を見て、落ち
込み絶望するか、主の約束を信じ、主を賛美し感謝するかで、これ
は選択だ。主を選べるよう、助けを求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・・
主も、サタンも、私たちに意志に触れる事は出来ない。意志は自分
のものだ。であれば、ロボットではないので、自分が意志した結果
に責任が伴う。ネガティブ状況で落ち込みを選ぶのは自分で、主を
見て、御言葉の約束を選ぶのも自分だ。主を選べるよう助けを求め
て祈ろう。


2019年11月03日(日)

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなので す」詩篇73:28



主を知るまでは、皆、心は、この世のものに支配され、又、見える
もので心を満たして来た。神無しで、見えるものしか無かったから
だ。見えるものとは、富、地位、名誉や、目に見える人からのもの
だ。人から評価されたい、認められたい、賞賛されたい、良い人だ
と思われたい。神無しでは、それがすべてなので、一心にその事を
求めて生きて来た。

絶えず人にどう思われるかが不安で、たまらない。嫌われていない
か。それがこの世の心づかいだ。なぜ私たちは、富や人の評価を求
めるのだろう。エデンの園で、罪を選び、神との交わりが閉ざされ
た結果、隠れ、恐れ不安に支配され、何かに頼らずには生きて行け
ない。そのため富にしがみつく。富が人生を保障してくれると錯覚
する。富さえあれば大丈夫、何でも手に入り、夢が叶えられ、幸せ
になれると。

又、神との愛の交わりが断たれた結果、人からの愛を求めるように
なった。人の好意、人の賞賛が欲しい。それにより心を満たそうと
する。つまり心に穴があり虚しいので、人の愛、地位、名誉により
空いた心を埋めようとする。しかし問題の解決はそこには無く、そ
れらを求めれば求めるほど、ますます心は渇き虚しくなる。その虚
しさは神以外に何によっても埋められない。

信仰者にとっても同様で、この世を次々と求めてさまようのは、主
により心が満たされていないからだと。だから空いた心を満たすた
めに放浪する。しかしそこには何も無い。真に心が満たされたいな
ら、主のもとへ行き、主と交わる事だ。その交わりを密に深めて行
くこと。その時、この世のものでない御霊の喜びや平安を経験する。
そこに真の満たしがある。

・・・・・・・・・・・・
サタンの誘惑があり、自分の内に肉があるので、心地良いものを求
めて、方向違いへ向かってしまう。しかしそこに御霊の喜びは無い。
主にとどまること、主との交わりで初めて平安と喜びに満たされる。
しあわせは、神に近くいること、今、主との交わりが必要だろうか。


2019年11月02日(土)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5



私達はしょっ中、思い煩う。そしていつも心配する。この事、あの
事、次から次へと思い煩いは尽きる事がない。しかし御言葉は何と
言ってるだろう。モーセに導かれたイスラエルが、出エジプトを果
たした後に、追っ手の精鋭屈強のエジプト軍が背後に迫り、目の前
は紅海という絶体絶命の状況に陥った。

戦闘訓練を受けたエジプト軍に、戦い方など知らないイスラエルの
民が立ち向かえるわけもない。進む事も退く事も出来なくなった。
その時に、主は奇跡を起こし、海を分け、海のただ中に道をつけら
れた。どんなに行き詰まりと思える状況でも、主は、そこに道を造
られる。

食物の無い荒野では天からマナを降らせ、岩から水を出された。そ
して約束の地カナンまで導き、カナンを前にしては、溢れるばかり
のヨルダン川の水をせき止め渡らせ、更にエリコの城壁を崩され、
勝利をもたらされた。あの絶対に滅びないバビロンを倒され、不滅
と言われたローマも倒された。神に不可能は一つもない。すべては
主の主権の中だ。

その全能の主があなたの事を心配して下さっている。そして、思い
煩うな、主に委ねよと言われる。実は、問題が問題なのでなく、問
題の中で主を信頼しない事が問題だと。問題を繰り返し〃心に思い、
不安と恐れに飲み込まれてしまう。

問題を見続けて、恐れのどん底に陥る。逆にそれだけ繰り返し恵み
を思えばどんなに幸いだろう。主に問題を渡し、導きに従おう。そ
の時立ちはだかる問題の城壁が崩れ、道が備えられている事を見て
行く。

・・・・・・・・・・・・
頭ではわかるのだが、ゆだねられない事が問題だろうか。握りしめ
て放せない。どうしても放さない。自分ではゆだねる事が出来ない
ので、あるがまま告げて、助けを求めて祈ろう。御霊が少しづつ、
少しづつ導いて下さり、祈りは答えられる。


2019年11月01日(金)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



日々、私たちは色々な事を祈りに持って行く。主は、求めよ、祈れ
と言われる。何でも祈って良い。しかしある人が、祈っているのに
祈りが答えられない、幾ら祈っても答えられないと言う。祈りの原
則に照らし合わせる事は有益だ。まず「その耳が遠くて聞こえない
のではない。

あなたの咎が神との仕切りとなり・・」もし罪があれば、主との仕
切りになってしまうので、祈りが答えられない。悔い改めによって
回復する。又、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために
使おうとして悪い動機で・・」とあり、その願いは自己中心な動機
であるかも知れない。

又、自分の願いと、主の願いが違っている場合がある。一致してい
ない。自分の思いが強く、自分の思いに固執してしまう事がある。
主のみ思いを尋ねてみよう。祈りを軌道修正して、主のみ思いに合
致するように助けて下さる。又、御心に適ってはいるが、答えの時
期が更に先かも知れない。忍耐もって待ち望む必要がある。又、別
の形で答えられていて、気づかず見えていないのかも知れない。

自分はAを切望していたのに、Bの答えが来たなら、それはBが主
の御心であり、自分の思いとは違うが、自分にとってベストと信じ
受け取る事が大切だ。その先に豊かな祝福が備えられている。答え
らえる祈りとして、私たちの一番の求めは主ご自身を知る事であり、
「主をおのれの喜びとせよ」と主を喜びとして行くなら、主のお心
を求めて行くので、あなたの心の願いは叶えられると言っている。
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自分の願いは主の御心と違う事の方が多いが、主は全ての祈りに耳
を傾けてくださる。祈りながら主に委ねていこう。本当に良いもの
を惜しみなく与えてくださる主に祈り求めよう。