2019年12月31日(火)

「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」申命記8:16       

      
           
学生は、そのレッスンがマスター出来たどうかを、いつもテストに
よって試される。テストによって、学んだ事柄が、身についている
かどうかがわかるからだ。主もまた、私達の信仰をテストされると
言っている。試練が、このテストに当たる。「あなたがたを苦しめ
て、あなたがたを試み」とある。

はっきりと主が「苦しめる」「試みる」と言われている。それは
「あなたの心のうちにあるものを知るため」と。試練により、普段
から心の内にあるが、決して気づかない自分の心があらわにされる。
本当の姿が現れるのは、試練の時だ。圧迫もストレスも何も無い順
境では、心の奥の姿は現れ出る事は無い。普段は現れない深く潜ん
でいるプライド、虚栄心、妬み、貪欲、不信仰、自己中心に気づく。

圧迫がなければ、決して気づく事のない、自らの心の奥にあるもの
だ。それらを知り、認める時、次の段階へと成長が与えられる。
「荒野で歩ませられた全行程を覚えていなければならない」この1
年、歩ませられた行程、試練の中で見せられた自分の姿、又、教え
られた霊的教訓一つ一つをしっかり覚えていよう。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした・・それであ
なたのおきてを学びました」。「あなたを苦しめ、試み、ついには
あなたをしあわせにするため」だと言われている。練りきよめ成長
させて下さるため、神の目的は聖めるため、祝福のためだ。キリス
トのかたちへと変えるためだ。この1年振り返り沢山の学びを感謝
しよう。
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今年も一年、日々のみことばを通して朝ごとに主を賛美することが
でき大変幸せでした。有難うございました。
来年は1月5日からの配信になります。



2019年12月30日(月)

「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう」出エジプト4:12



モーセが、荒野で羊を飼っている時に、神により召し出された。8
0歳だった。エジプトで苦役にあるイスラエルの民を救い出すよう
にと。しかしモーセは戸惑い、気後れした。昔40歳の時に、同胞を
救おうとして失敗していた。そのためミデヤンの地に逃げて来たの
だ。以前失敗したのに、ましてや、この歳になって、何もない、一
介の羊飼いの自分に、何ができると言うのか。

到底、考えられない事のように思える。しかし神は「わたしはあな
たとともにいる。これがあなたのためのしるしだ」と。そしてモー
セの不安や問いに答え、一つ一つと不安を埋め、説得して行かれる。
神ご自身が、あらゆる不思議でエジプトを打ち、民を去らせるよう
にすると。目の前で奇跡をされた。モーセの杖を蛇に変え、ふとこ
ろに入れた手をらい病にし、元に戻された。

だが、尚もモーセは、自分は言葉の人ではないと、尻込みする。す
るとわたしが口にあって、言うべき事を教えると。そのままで良い。
神ご自身が成し遂げると。結局、神はアロンを備えられた。自分の
知恵と力で行くのではない。神が「行け」と言われたからには、す
べての知恵、判断、必要な力を与えて下さる。神が常にともにおら
れ、神ご自身がみわざをすると。

もし、神があなたを何か新しい事柄に召しておられるなら、神を信
じて、一歩を踏み出そう。又、今の遣わされた場に、神は共におら
れ、あなたを用いて、みわざを成し遂げられる。
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自分の力で生きようとすると無理だ、駄目だと思ってしまう。主に
生かされ、主と共に生きる人生だと一歩踏み出すとき、思いもしな
かった世界に導かれる。「さあ行け」の神のお言葉に従おう。


2019年12月29日(日)

「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良 くしてくださったからだ」詩篇116:7


あなたも疲れ果てる事があるだろうか。ある人が過労状態だった。
休みたいが、仕事で休暇も取れず、ダウン寸前だった。そんな中、
やっと休暇が取れた。休息ができる事に、もう大喜びだった。その
休暇に入った途端、バッグを置き忘れ、無くしてしまったのだ。ガ
ックリし、通った道筋をたどり、念入りに探し、関係者に尋ね回り、
電話確認もするが全く見つからない。

紛失届けを出し、カード類はすべて差し止め、対応に奔走、疲労こ
んぱいだ。財布にはかなりお金も入っていて、意気消沈した。運転
免許証には困り、どうしても必要で再発行に出かけなければならず。
結局バッグは見つからず、もう疲れ果ててしまった。せっかくの喜
びの休暇が、更に疲れてしまい、これは一体何だったのか。

やっと主の御前に行き、心を静め、祈った。そして御心を尋ね求め
た。その時、どんなに時間があったとしても、主の平安が心になけ
れば、休めないし、何にもならない事を思い知らされ、教えられた。
休息の時間の問題ではなく、主との関係の問題だった。主の下さる
平安がどんなに素晴らしいものか、感謝な事かに改めて思いが至っ
た。

今一度主との交わりにより、心に平安が戻り、息を吹き返せて、心
から感謝した。私たちも同様だ。どれほど休暇があっても、主の平
安が無く、思い煩いや心配で一杯なら休養にならない。主がすべて
の思い煩いや心配事を受け止めて下さる。主の平安に今一度戻ろう。
そして、平安のための十字架を覚え、いっさい主に心配をお委ねで
きるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・
主だけが与える事の出来る、「主の平安」に代わるものは何も無い。
時間があっても、富があっても、主の平安が無ければ、心は虚しい。
平安は、主との交わりから来る。心がざわついたり、不安があれば
主のもとに行き、親しく交わろう。平安と喜びが戻る。


2019年12月28日(土)

「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あ なたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に 帰らせる」エレミヤ29:10


バビロン捕囚は、ユダヤの民にとって国を追われ、捕らえられ、状
況を見るなら絶望のどん底だ。どんなに悲惨で、真っ暗な事だろう。
艱難、苦しみであり、混乱だった。しかし結果的に見れば、それは
御言葉通りに、平安を与える計画であり将来と希望のためのもので
あった。なぜなら、ユダヤの民は、捕囚の苦しい試練により悔い改
めて神に立ち返れたからだ。

厳しく辛い出来事であったが、信仰を回復する事ができた。預言通
り、その通りに70年後にエルサレムに帰還する事になる。神の大き
な奇跡が成就する。「あなたがたのために立てている計画」、バビ
ロン捕囚は不運で起きた事でなく、人による事でもなく、神の御手
による計画だと。

それも見えるところは、絶望と動揺、不安、混迷にかかわらず、将
来と平安と希望のための計画だと。縦糸と横糸が織りなされて、綺
麗な織物が出来上がるように、神は艱難の中で、苦しみの中で練り
込み、御霊と一つにして行って下さる。私たちにも、突如の試練が
降りかかる。ある日突然気がつくと、厳しい苦しい辛い事態の中に
いる。

しかし、信仰人生で起こる一つ一つの出来事は、偶然でなく不運な
のではなく、すべて神の綿密なるご計画だ。それは、私たちのため
であり、偶然でなく完璧なる神の配慮のもとで来たものだ。後に、
それこそが神の深い愛であることが必ずわかる。

・・・・・・・・・・・
試練は苦しく、血が流れるように痛いが、だが、振り返る時、必ず、
主の山の上に備えありで、試練の中に備えがあった。そして時間の
経過が必要で、後になるとだが、パズルのように繋がって、教えよ
うとして下さった事がわかる。主を知り、深い豊かな霊的学びを得
る。


2019年12月27日(金)

「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」ローマ6:23



エデンの園で、主はどの木からも食べて良い。しかし善悪を知る木
からは食べるな、必ず死ぬと言われた。エバはその禁止された木が、
気になって仕方が無かったようだ。ある人が、門前の植木鉢が無く
なるので「植木鉢をとらないで下さい」と張り紙をした。すると以
前よりもっと盗られてしまい、張り紙をはずしたと。

禁止により返って欲望が、かき立てられる。そんなエバに悪魔は近
づいた。御言葉をアダムから間接的に聞いていたエバを狡猾に誘惑
した。また聞きだったエバに「神は、本当に言われたのか」と。す
ぐにアダムに確かめれば良かった。だが悪魔と会話を始めてしまい、
罠にはめられて行った。悪魔は食べても決して死なないと嘘の断言
をし、神のようになり善悪を知るのだと。

結局、主に背き食べてしまいアダムにも与えた。二人は罪を犯した
結果、主の前に出られず、木陰に隠れた。主の呼びかけに「私は裸
なので、恐れて、隠れた」と言った。犯した罪には一切触れない。
罪を犯したからでなく、裸なので恐れて隠れたと言い訳する。
罪の結果、神の愛を信じられなくなり、恐れが生じた。ありのまま
の姿でおれなくなった。

ありのままの自分は恥であり、恥を隠したい。主はなぜ裸なのかと
問われた。問題点を突き、示し、そして「食べたのか」と核心を突
き、悔い改めに導こうとされた。主は十字架を備えられた。犯して
しまった罪が赦され、回復させられるとは、何という驚くべき事だ
ろう。ただただ恵みだ。
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神との正しい関係の中にいれば、弱さを隠さずありのままでいられ
る。罪に支配される者から恵みの中に生かされている。主に罪赦さ
れた罪人としていつも神の前に立とう。


2019年12月26日(木)

「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て」箴言4:20



信仰者も、時に、主が遠く感じる事があるかも知れない。主との交
わりがなかなか持てなくて、平安の無い日々を送るかも知れない。
だが私たちは、ある日突然に、主から、信仰から、離れる事はない。
徐々に、少しづつこの世に流されて、それに気づかないでいる。そ
して気づいた時には、すでに大幅に逸脱してしまっている。

「聞いた事を、しっかり心に留めて、押し流されないように」と言
っている。御言葉も何度も何度も聞いて、頭ではわかっているのだ
が、それを心に留めていないのではと。漫然と信仰生活を送ってい
る。御言葉が物理的に耳に入るが、心で聞いていないと、右から左
へと流れてしまう。種蒔きの、道ばたに落ちた種のように、心に根
付かないまま、サタンが御言葉を奪ってしまう。

「よく聞け」と、「耳を傾けよ」「目から離さず」「心の内に保て」
と言っている。又、御言葉を聞いて従わないなら、御言葉を捨てて
いる事になる。目から離さず、しっかり心に保つ時、御言葉を実行
して行ける。心に留めるなら流されない。御言葉を「一心に見つめ
て離れない人」は、事を実行して行くと。

又、心にひっかかる御言葉があるだろうか。聞きたくない御言葉が
あるだろうか。御言葉は鏡となり心を映し出すので、それこそが自
分の問題点で必要な言葉だ。考えてみよう。自分の何に触れるのだ
ろう。御霊が心を探り、照らし出して下さる。主に向き合う時、自
分の本当の姿が映し出され、それを認めて行く時、自分が変えられ
て行く。前に進む事ができて、成長して行ける。
-------------
出来ないことばかりと聖書を閉じてしまうと主も御言葉も遠く感じ
る。思い直し、出来ませんと祈りながら御言葉に向かうと、神の命
令は重荷とはならない、なぜなら・・と御言葉が語りかけた。主は
弱い私たちを助けてくださる。耳を傾けていこう。


2019年12月25日(水)

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」マタイ28:20



御使いが「あなたがたのために救い主が生まれた」と素晴らしい喜
びの知らせ伝えた。そしてその名はインマヌエル(神は、私達と共
におられる)と呼ばれると。信仰生活の中で、どういう事が救いな
のだろう。けがや病気をしない事だろうか。又、病気が治る事だろ
うか。病気の癒しは、それは確かに救われる事であり、嬉しい、有
難い事だ。

しかし病気は治っても、又、次々と病気は経験するし、すべての病
が完全に治るのでもない事も現実だ。パウロも強い願いにかかわら
ず、とげは取られなかった。又、経済的困窮の中で、必要が満たさ
れる事は救いだ。しかしパウロは豊かさと同様に、貧しさの中にい
る道も知っていた。ある時、御心なら貧しさも通される。

様々な悩みの状況はどうだろう。その状況が取り去られる事が救い
だろうか。ある人は突然の病を得て、身動き取れずベッドに伏せっ
たままの日々だった。治療を受け、養生し、祈りに祈るが、一向に
回復の兆しが見えない。どうしたものかと更に祈り続けた。主には
不可能は一つも無いではないか、癒す事がお出来になる。しかし良
くならない。

尚も状況が変わらない中、ひたすら祈りを重ね、とうとう「すべて
を明け渡します。もし一生このままでいる事が主の栄光を現すので
あれば、それでOKです」とすべてを明け渡す事ができた。その後
不思議に回復して行った。しかしその時に、どんな中でも「主が共
におられる」事、インマヌエル、それこそが真の救いだと悟らされ
た。
-------------−
主はこの世の暗闇に光として来られた。この光を見つめて歩もう。
まわりの環境も自分の中にも依然として多くの闇があるが、主は共
におられる。それを覚えるとき何も恐れない主の平安と力が来る。


2019年12月24日(火)

「あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:38  

  

マリヤはごく平凡な女性だった。15,6歳かと言われている。ヨセフ
と婚約中で幸せの中にいた。ヨセフもマリヤも主の民であり、メシ
ヤが来ることを信じていた。しかし突如、御使いが現われ、「みご
もって、男の子を産みます」と言われ、余りにも突然の事に「ど
うしてそんなことに・・」にと、マリヤは、なぜ自分が、と大き
な戸惑いに襲われる。が、それは疑いの類ではなかった。

結婚もしていないのに、なぜという問いであった。御使いは一つ一
つと答えて行く。これはマリヤの側が選んだ事ではないし、願った
事でもない。主が一方的に、ご計画によって、マリヤを選ばれたの
だ。私たちも時に、自分の思いや願いとは全く違う方向へと、向か
わせられる事がある。自分の思いとは大きくかけ離れている。
進路がそうなのかも知れない。又、それは仕事、学業だったり、境
遇だったりする。マリヤはど

うしたのか。それは想像を超えた、とてつもなく大きなものを背負
う事になる。婚約中に妊娠したとなれば、周囲からどんな批判の冷
ややかな目で見られるだろう。それより姦淫罪に問われ、死刑だ。
最愛のヨセフをどんなに傷つけることか。聖霊により妊ったなどと
誰が信じられるだろう。弁解も言い訳も出来ない状況をマリヤは受
け入れ、覚悟を決め、決意し、主に身を差し出した。

結婚も、将来の幸せも、夢も、命をも明け渡した。何もかもがわか
るわけでは無かったが、不可能は一つもない主を信じた。マリヤの
信仰だった。そしてその身を委ねきったマリヤを用いて、主は偉大
なみわざをされた。自分の思いとは違っても、主にはご計画があり、
従って行こう。必ず豊かな祝福へと導かれる。
--------------
今までの常識や経験を超えたことが主によって成されていく。そし
て主を賛美する。そんな経験をひとつひとつ増やしていきたい。ど
うしてそんなことが・・とのつぶやきを信仰に変えていこう。


2019年12月23日(月)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11




人は苦しみに会う時に、二つの反応に分かれる。苦難により、より
良くなるか、より悪くなるかのどちらかだ。一方は患難により砕か
れ練られ、信仰が培われ、品性が磨かれ成長して行く。他方は、苦
しみにより反抗し、心を屈折させ、苦々しい思いを持ち、頑なにな
り神から離れて行く。どちらも自らの選択だ。

ヨセフは兄達に隊商に売られ、奴隷としてエジプトへ。突如の厳し
い試練に直面した。だが自分を見失わずに、主を見上げた。どうな
ろうと主を信じていた。その場所で、主に信頼し忠実に仕えた。主
は働かれ、奴隷として仕えた主人の信頼を得させて下さった。その
後、今度は無実の罪で投獄の身に。

しかしそこでも変わらず主を見上げ、その所で仕え、模範囚に。ヨ
セフはそのつど腐る事も、不信感も、疑いも、苦々しい思いを持つ
事も出来たが、御霊の導きの方を常に選択した。モーセも王子の立
場で、同胞を救おうとしたが失敗し、荒野に逃げた。そこは何も無
く、かつの栄華も地位も、名誉も富も人々の賞賛も、何一つ無い、
一見落ちぶれた場所だ。

そこで毎日〃羊を飼い、40年の歳月を過ごした。しかしモーセは腐
らず、その所で忠実に仕えた。実は主はそこでモーセを砕き、訓練
し、造り変え、指導者としての器を準備しておられた。突如の苦し
みが臨んだ時も、主を見上げていよう。主にはご計画がある。
--------------
試練は神からのものと正面から受け止めたい。共にいてくださる神
の平安をいつも覚える。試練は辛いが必ず豊かな実を結ぶ。あの試
練があったから今の私があると言える日を信じよう。


2019年12月22日(日)

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者 を救われる」詩篇34:18



ある信仰者が言った「私は10年ほど特別な集会の度に教会へ足を運
んでいました。教会や聖書は嫌でなく抵抗も無く、聖書のお話も聞
いていました。でも、幾ら聞いてもわからないというか、全然理解
できなかったです。今思えば、自分の価値観を固く持ち、決して放
さず、その上で聞くので意味がわからなかった。

でも嫌ではなく集っていました。信じる事が出来たのは試練が来た
からです。自分ではどうにも出来ない苦しい問題にぶち当たりまし
た。瀬戸際で心底助けが欲しくて、その時に初めて目が開かれまし
た。自分の無力を知る時に、心開いて素直に聞けるんですねえ。ビ
ンビン御言葉が響いて入って来て。ほんとに自分が砕かれないと、
御言葉や神様の事はわからないですねえ」。

人は、御言葉を聞く時に、この世の価値観をもって理解しようとす
る。だから「そんな事、到底信じられない」「そんな事を言ってた
ら、現実世界では生きて行けない」「御言葉はそう言っても、むし
ろ真逆だと思う」「弱さが恵みなど有り得ない、強くならないと」
「自分が頑張らないと誰がやる」「委ねるなどと、そんな事をした
ら、何のかもだめになってしまう」・・。

世の価値観、自分の思いが強く、御言葉が入らない。意識はしてい
ないが、御言葉をシャットアウトしてしまう事になる。それが自分
の無力を知る時に、不思議に心が開かれ、心に入って来る。そして
振り返ると、主に出会えて、一番近かったのが、あの苦しみの時、
となる。

・・・・・・・・・・・
試練の時には、御言葉がビンビン心に響き、心にしみ入る。御言葉
が食物となり、御言葉によって生きる事を身をもって知り、経験す
る。心砕かれる時、主がわかる。主が近い。砕きは非常に痛いが、
大きな祝福の時だ。


2019年12月21日(土)

「すべて真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、 すべての清いこと・・そのようなことに心を留めなさい」ピリピ4:8



人はそのままなら、だいたいが、思いは悲観的に、ネガティブに傾
きがちだと言われている。少し先で数人が喋っていて、こちらを見
ている。そんな時「何か私の事を言われているのでは」と思うだろ
うか。職場で、近隣で、挨拶をしたが、返事が無い時「気づかなか
ったかな」「相手は考え事をしてたかな」と思うより「嫌われてい
るのでは」「避けられた」「何か気を悪くする事をしたのか」と思
うだろうか。

家族の帰りが少し遅いと「事故では」「何かあったのでは」恐れと
不安に襲われる。思いは悪い方〃へと向く。そのままならネガティ
ブ思考へと向かう。そんな時、不安や恐れをかき消そうと、もがく
と余計に、はまり込む。そして最悪のシナリオが出来上がる。不眠
の時に「眠らなくては〃」と焦り、不眠の事を考え出すと、ますま
す眠れなくなる時のようだ。もがけば、もがくほど更に落ち込んで
行く。

そんな時は、あるがままの状態をまず主に告げて、祈ろう。主と交
わりを持つと引き上げられる。そして否定的思いを無くそう、消そ
うと頑張るのでなく、信仰的な事に目を留めて行くと良い。御言葉、
賛美、祈りで、心を満たして行くと良い。幾ら思いを無くそうと思
っても出来ない。

そこから主に目を主に転じることだ。すると悲観的思いが消えて行
く。「主のおしえを喜びとし、昼も夜も口ずさむ」とあるように、
御言葉を口ずさむ、賛美する、祈る、恵みを数える、感謝する。そ
れを行ってゆく時に、心平安にされる。

・・・・・・・・・・・・
人が主に向くなら自由にされる。主ご自身や、主がして下さった恵
み、賛美や感謝、御言葉に目を留めて行く時、ネガティブな思いか
ら抜け出せる。心を空洞にするとサタンが来る。御言葉に思いを巡
らし、反すうしよう。賛美や祈りを献げよう。喜びへと変えられる。


2019年12月20日(金)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8



ダビデは夕暮れ時に、床から起き上がり、屋上に上がった。その時、
身体を洗っているバテシバを見て、姦淫の誘惑に陥ってしまった。
しかしその時、家来たちとイスラエル全軍は戦闘状態だった。命を
かけて戦っていた。夕方に起きるという怠惰な生活をし、油断しき
っていた時に、サタンの罠にはまってしまった。

私たちもダビデから学ぶ事ができる。生活がうまく行っている時こ
そ警戒が必要だ。生活も心も、ゆとりがある時に注意が必要だ。人
には弱さがあり、問題が無い時は油断しきってしまう。時間的ゆと
り、経済的ゆとり、体力もあり、何の問題も無い時、気をつけなけ
れば高慢になってしまい、サタンの誘惑に陥ってしまう。

試練の時は、必死に主に拠り頼み、主にすがりついているが、ゆと
りがある時こそ、目をしっかり覚ましていなければならない。逆境
の時の神頼み、順境の時の神離れと言われている。又、ダビデが人
口調査を行った時も、王として自信に満ちていた。何もかもが順調
で、平安に国も治められていた。そんな時、高ぶってしまい、軍事
力を誇り、自分の勢力を誇るために行った人口調査であった。

単に人口を調査するためでなく、自分の力を誇るためだった。人間
の弱さは、順境の時にもっと主に拠り頼むのでなく、高慢に陥って
しまう。弱い者であることをわきまえて、へりくだって身を慎んで
祈っていよう。
----------
自分は大丈夫と思う時に失敗する。自分に頼れば頼るほど主に助けを
求めて祈る時間も少なくなりる。身を慎みサタンに警戒していよう。
誘惑に陥らないよう助けを求めていよう。


2019年12月19日(木)

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば・・あなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:26


神を信ぜよ。祈って求めるものは、すでに受けたと信ぜよ、その通
りになると言っている。そして、それに続き、誰かに恨みがあるな
ら赦すようにと、赦しが強調されている。赦さない心は祈りを妨げ、
遮断してしまう。私たちはよく失敗する。だが主は、豊かに赦し続
けて下さる。罪を犯さないのでなく、罪は犯してしまうが、赦され
て〃生きている。

赦され続けているのだから、私たちも赦すべきだと。恨み憎しみが
あると祈れなくなる。とがめがあり、主との間に隔たりができ、確
信もった祈りができない。ある人が切実な必要があり祈っていた。
幾ら祈っても答えが無い。尚も祈るが導きが来ない。そんな中で、
ある人の仕打ちに、恨み憎しみが奥底にある事を示された。

これが妨げとわかり、悔い改めてその相手を赦した。その後、見事
に祈りが答えられた。ある人は友人と言い合いになり、喧嘩別れに
なった。帰宅し、祈って奉仕の準備をするのだが、出来ない。自分
は悪くない、相手が悪いと思っている。だが平安が無く心重い。御
霊に探られ示され、電話し、自分の側の悪い態度は謝った。

すると相手も平安無く、謝りたいと思っていたと。即、和解となり
平安が戻った。そして導かれて準備が出来た。何とその奉仕は素晴
らしく祝福された。赦さない心は、祈りを遮断してしまう。答えを
受け取るために、密かな恨みが潜んでいないかどうか、御霊に探っ
て頂こう。

そしてあるがままの心を祈りに持って行こう。主は取り扱い、助け
て下さる。自分の心に責められなければ、大胆に御前に出ることが
でき、求めるものは何でも神からいただける。豊かな祝福にあずか
れる。
-------------
人を恨み裁くといつまでも心に平安がない。主の平安を受けるため
まず赦せるようにと祈ろう。主よ赦してくださいと祈る前に、人を
赦せるように祈ろう。


2019年12月18日(水)

「主の軍の将はった『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』」ヨシュア5:15



モーセに導かれ、荒野を通過した民は、ヨシュアの導きのもと、と
うとう約束の地カナンに入った。だがすぐにそこで最初の難関に直
面する。エリコの頑丈な城壁が、目の前に立ちはだかっていた。私
たちの人生においても、さまざまな困難が行く手を壁のようにふさ
ぐ。ヨシュアは厳しい問題を目の前にしていた。そんな時に、一人
の人が抜き身の剣を手に持ち、前方に立っていた。

今にも戦おうとの状態だ。驚いたヨシュアは思わず「あなたは味方
か敵か」と問うた。味方であって欲しかったろう。しかし相手は、
敵とも味方とも言わず「主の軍の将として来た」と答えた。敵でな
いなら、味方ではと思うが、そうでなく「軍の将」、ヨシュアの上
に立つリーダーだと。「あなたでなく、わたしが将だ」と。

するとヨシュアは地にひれ伏し拝み「〜して下さい」と言ったので
なく「何を告げられるのですか」と、主の御心を問うた。すると、
「あなたの足のはきものを脱げ」と言われた。つまり自分の思い、
考え、方法、自分の力を「脱いで、明け渡して」、主に従うように
と。「あなたの立っている場所は聖なる所」と。主が共におられる
場所だ。「そこでヨシュアはそのようにした」。

ヨシュアは、はきものを脱いで、自分の思いや力を、いっさい明け
渡して主に従った。主の言われる通りにすると、エリコの城壁は目
の前で見事に崩れ落ちた。今、エリコの城壁が立ちはだかっている
だろうか。苦しい、辛い、困難な状況にあるだろうか。しかし主が
目の前におられる。自分が突き進むのでなく、そうでなくへりくだ
って、はき物を脱いで、主の示しに従おう。そうすれば、城壁が崩
れ落ちるのを見る。
-------------
自分が抱えている問題は、自分の責任だと思うので祈りながらも荷
はずっしりと重たい。明け渡すのは無責任とは違う、主のやり方で
で戦うことだ。自分の足の靴を脱ぎ、主の前にお委ねしよう。


2019年12月17日(火)

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために・・」ルカ18:1



この人は裁判官であるが、神を恐れず人を人とも思わない人物だ。
まず神を恐れないから、人を人と思わない。ひっきりなしに裁判を
訴えてやって来るやもめに対して、同情や配慮、思いやりのかけら
も無い。せっぱ詰まった苦しい事情があるであろうに、何とも思わ
ず、何も感じない。

しかし、やもめが余りにもひんぱんにやって来るので、いい加減迷
惑で、仕事にも差し支えて来るので、うるさいから裁判をする事に
した。裁判が実現したのだが、それはあわれみの心や愛情からでは
なく、余りにもうるさいからとの理由であった。

こんな人物でも、執拗に願い続ければ、裁判になったのであれば、
ましてや私たちを独り子を与えて下さるほどに愛して下さっている
神が、私たちの訴えを、願いを正しい裁きをつけずに放置されるわ
けがない。そういう事を言っている。「ましてや神は」が鍵だ。と
んでもない人物と神を対比させている。

この人物は自分の都合のためだったが、神は私たちを愛して、私た
ちの最善を考え、正しい裁きをして下さると。だから失望せずに祈
り続けよと。祈りの執拗さより、祈る相手がどんなお方かが重要だ。
神はすみやかに正しいさばきをして下さる。だから、答えが遅れて
いても、必ず「神の時」に答えが来るので、失望せずに祈り続けよ
と語られている。
--------------
すぐに答えが貰えないと自分の祈りなど聞かれてないのではとすぐ
に諦めたり迷いはじめる。祈りの答えを待ちながら祈り続けよう。
神に祈りは届いてる。訴えは聞かれている。



2019年12月16日(月)

「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」箴言11:24



「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに
蒔く者は、豊かに刈り取る」とある。死海は、ガリラヤ湖から入る
水が溜まるのみで、出て行く先がない。死海から流れ出る川が無い。
一方的に受けて、溜めるのみだ。流れ込む水は大量蒸発する。それ
で、死海の塩分は濃くなり、この塩分濃度のため、魚が生息できな
い。

周囲も砂漠で緑がない。逆にガリラヤ湖は、フレー湖から流れて来
る水を受け、溢れた水をヨルダン川に流し、死海へと行く。受けた
水を送り出し、常に水が流れているので、ガリラヤ湖の水は生きて
いる。そのため色々な魚類が生息している。周囲も緑が豊かだ。受
けているだけなら、腐って、死を招く。与えられたものを、次に流
すと、又、与えられて、いつも新鮮で、生き生きと喜びが溢れ流れ
る。

与えられた恵みを証しすると、自分自身も喜び満ち、又、恵みが増
し加えられる。私たちは与えられているものについてどうだろう。
時間、富、労力、賜物・・自分だけのものにして、握りしめている
と、腐って来る。それを神に、人に献げて行くと、必ず与えられ、
更に増し加えられ、喜びの流れが止まる事がない。

人生何のために生きているのだろう。蓄えるためか。それとも神の
素晴らしさを知るためだろうか。人には欲があり、どうしても溜め
込もうとしてしまう。するとますます出す事を惜しむ。御心に従っ
て流す時に、大きな喜びの流れを味わう。流して行こう。
------------
主から日々、溢れるばかりに与えられている。必要以上に心配せず
受けるよりも与えほうが幸いであるとの主の御言葉を行っていこう。
与える喜びを経験しよう。


2019年12月15日(日)

「主に向かって歌う者たち・・彼らが武装した者の前に出て行って、 こう歌うためであった『主に感謝せよ。その恵みはとこしえま で』」U歴代20:21



ヨシャパテ王のもとに、モアブとアモンが攻めて来た。おびただし
い大軍だった。王は恐れて、ユダ全国に断食を布告し、ひたすら主
を求め祈った。ユダのすべての人々が主に祈った。自分たちにこの
大軍に立ち向かう力は無く、どうしてよいかわからない、主に目を
注ぐのみだと。

すると、主はレビ人ヤハジエルを通して語られた。恐れるな、気落
ちするな、この戦いは主の戦いだからと。主が共にいるから恐れず
出陣せよと。これを聞き、王はひれ伏して、礼拝し、主を賛美した。
歌う者たちが賛美をし、喜びの声、賛美の声をあげ始めた時、主は
伏兵を設けて、奇跡的勝利を与えられた。主が戦われ、主のみわざ
であった。

主に賛美と感謝を献げた時に、主ご自身が力強く働かれたのであっ
た。私たちも問題への対応を教えられる。目の前の問題、困難だけ
を見ると、おびただしい大軍であり、私たちは圧倒され、飲み込ま
れ、身動き取れず敗北だ。しかし王のように、まずその問題を主の
前に持ち出し、主を求め祈ることだ。自分の思いと力で対応せず、
主に祈り、主に委ねる。

すると主は答えて下さり、御言葉を語り、励まし、なすべき事を示
される。その通りに従い、感謝し、賛美を献げる時、主が勝利を与
えて下さる。問題が解決して行くのを見る。多くの人々が経験して
来た。感謝には、大きな力がある。今、思い通りにならない目の前
の問題を、主に感謝しよう。その時、主はその問題に働いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
王はおびただしい大軍の攻撃に、王は正しい対応をし、まず主を仰
いで祈った。王のように、まず主に祈ろう。そして感謝には不思議
な力がある。恐れや不安が消えて、心が落ち着いて来る。感謝は、
サタンに足場を与えない。心が守られ、信仰へとつながる。、、


2019年12月14日(土)

「悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:27



主は、愛し合い、建て上げ、一致へと導かれるが、悪魔は、さばき、
憎み、破壊、分離を引き起こすように働く。悪魔はとにかく一致を
壊し、分裂させたい。争いを引き起こし、互いに疑心暗鬼にさせ、
敵対させる。誰かの言葉や態度に、カチンと来た時に、私たちが怒
りを覚えると、悪魔はそれを更に増幅させるよう、たきつけて来る。

この時も、あの時もと、思いの火矢の攻撃で、怒りを増大させる。
背後に悪魔が働いている。悪魔に気づく時に、変化が出て来る。祈
りに持って行けるし、主に拠り頼める。「日が暮れるまで憤ったま
までいてはいけない」と。それは悪魔に機会を与える事になると。

怒りは悪魔に足場を与え、機会を与えるので要警戒だ。怒りがある
と、次々と悪魔は思いの火矢を吹き込み、燃え上がらせる。又、自
分では怒っていないと思っても、実は心の奥では相手を責めて、さ
ばいていたりする。自分は正しく、悪いのは相手だと思っている。
自分の中の恨みやさばく心や敵対心を認めて、御前に悔い改めよう。

主は豊かに赦して下さる。主からまず赦しを受け取る時に、相手を
赦して行ける。人を愛する時、心は平安に満ちる。赦せない思いを
持つと、それが恨みになり、怒りになり、憎しみになり、サタンの
策略に、術中に、はまってしまう。主は互いに赦し合うようにと言
われる。今、赦せない思いや、裁く思いがあるなら、主のもとに持
って行こう。主に向かえば、必ず平安へと導かれて行く。

・・・・・・・・・・・・
天に帰るまでは、日々悪魔との戦いだ。最大の攻撃は悪魔を忘れさ
せる事だ。悪魔の攻撃に気づかないまま、延々思い煩い、妬みや憎
しみに囚われ、怠惰にずるずる過ごしてしまう。一日の始めに悪魔
を識別できるよう祈ろう。御霊が気づかせて下さり、主を仰げる。


2019年12月13日(金)

「主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる」詩篇37:34


信仰生活で、「時」に関して学ばされる。「天の下では、何事にも
定まった時期があり、すべての営みには時がある」の通り、すべて
の事に「神の時」がある。そして「時を待つ」ことは、非常に厳し
い試練に感じる。すぐに結果が欲しくて、なかなか待てない。しか
し待つことを通して、信仰が試され、練られ、培われて行く。待つ
こと無しには不可能だ。

アブラハムは、子供を授けるとの約束を与えられたが、待ち続ける
事ができず、自分の力で女奴隷によりイシマエルをもうけてしまっ
た。しかしその後に、アブラハムが100歳の時に、とうとう神の約
束は成就した。息子イサクが与えられたのだ。しかしその時は、
「自分のからだは死んだも同然」であり、サラの胎は死んでいた。

だが「それを認めても、信仰は弱らなかった」。反対に信仰がます
ます強くなって、神は必ず約束を成就されると堅く信じた、アブラ
ハムは失敗した後、神を信じ、神を信頼し、神に望みを置いた。神
は、奇跡のみわざをされた。同様に、神を待ち望む時に、私たちを
通して、神のみわざを成して下さる。

もし自販機にお金を入れると、即、飲み物が出て来るように、即、
結果が出て来るなら、私たちは信じる必要が無くなる。信仰によっ
て歩まない。待つ期間を通して、信仰が試され、神に委ねることを
学んで行く。そして信仰が鍛えられて行く。神に委ね、神を信頼す
る時、時間は問題で無くなって来る。神への信頼と、待ち望み、忍
耐を与えて下さる。
-------------
約束されているのに待たされると自力で何とかしようとしてしまう。
何と不信仰で失礼なことだろう。人間関係なら壊れていく。御言葉
を握り、神の時を楽しみに待ち望もう。


2019年12月12日(木)

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります」ヤコブ3:14



ある人が、趣味の会で、一人の人から攻撃を受けた。いじめであり、
傷つき、帰宅しては泣いた。だが自分はクリスチャン、何とか相手
を愛せるように祈るが、幾ら祈っても何も変わらなかった。会を辞
めれば済むのだが、趣味自体は楽しみであり、辞めたく無かった。
又、ある人は職場で、一人の相手がずっと自分に対抗して来た。意
見を出したり、提案をしても、何を言ってもことごとく反対して来
た。

強い敵対心を感じ、辛くてたまらず、段々と出社の足が重く、その
内とうとう体調を崩してしまった。これら二人共、主の御前に出て、
辛い、悶々とした気持ちを主に告げて、祈った。それがどちらも祈
りの中で気づかされた事が、相手から妬まれているという事だった。
御霊からの気づきだった。

趣味の会の女性は、以前から習っていたので、上手に出来、皆から
賞賛されていた。職場の男性は、営業成績がトップだった。上司か
ら評価され誉められ、可愛がられている自分が妬ましかったのだと。
それがわかった時、どちらもが、相手が違って見えた。自分も妬む
者であり、自分を妬まなければならない相手がかわいそうに思え、
相手のために祈れるようになった。自分が変えられた。

すると心の重苦しい鉛が消えてしまった。妬みは誰しもに深く巣く
う根深い罪だと言われている。どうであれ、問題を主のもとに持っ
て行く時に、取り扱われ、主の解決へと導いて下さる。
---------------
苦い妬みや敵対心を覚える時、同時に自らの劣等感と向き合う。
痛い思いを流さずに気づいたところから主に悔い改めたい。外に現
われない罪は沈殿していく。主に解決してもらおう。


2019年12月11日(水)

「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その道を確かにすることも、人によるのではないことを」エレミヤ10:23



ある人の証しだ。主との交わりが大切で、その手段として祈りがあ
り、自分の願いや悔い改めを主に告げて行ける。主は御言葉を通し
て語って下さり、お心を現して下さる。デボーションが大切で、信
仰生活の生命線だとわかる。主との交わりが大切だと、よくわかっ
ているつもりなのに、なかなか祈りの時間を持てないし聖書も読め
ない。

ズルズルと1週間が過ぎる。礼拝に行って、流されていたと気づき、
主と交わりの生活をしたいと思う。だがついテレビで時間がつぶれ、
雑誌は幾らでも読めるのに、聖書が読めない。好きな事なら時間を
忘れて夢中になる。なのにデボーションの時間は無い。こんな繰り
返しに、自分でもいい加減嫌になり、主のもとへ行き、祈った。正
直にことごとく打ち明け、助けを求めた。

祈っていた時に、主を真剣に、本気で求めていない事に気づかされ
た。しかし自分でどうにも出来ず、主を求める事が出来るようにと
祈って行こうと思えた。だがこの気づきも、祈った祈りの答えであ
る事に感謝した。祈る事も聖書を読む事も、自分の力では出来ない。
助けを求めて祈る時に、主を経験して行く。

ある人は、なかなか祈れない自分に、助けを求めて祈った。その時、
忙しいから、時間が無いからの理由でなく、祈らなくてもやって行
けると思っている自分に気づかされた。それは高慢ではないか。御
霊の気づきを与えられ感謝した。自分でどうこうしたり、又、自分
で頑張るのでなく、まずありのままを主に告げよう。主が助けて下
さる。
--------------
困った時、迷った時には必死で主に導きを祈るが、そうでなければ
何処までも自分で歩いて行きたいと気づかされる。人はその道を定
めえず確かにする事は出来ない。何気ない一日でも主の守りの中だ。


2019年12月10日(火)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8


神に従おうとする時、悪魔からの妨害が来る。祈り始めるや、心が
重くなり、祈る気がしなくなる。なぜか気力が萎える経験が無いだ
ろうか。又、なすべき事が次々浮かび、思いがそれる。そしてその
思いに引っ張られるように行動に移る。又、突然眠気に襲われる。
これらすべて祈る前はどうもなかったのに、明らかに敵の攻撃だ。

又、祈っても無駄、祈って何になるとの虚しい思いが湧く。敵の攻
撃で、祈らせたくないのだ。又、聖書を読もうとする時も、他の思
いが浮かび、思いがさまよう。集中できない。別の事を考え、うわ
の空で読み、何を読んだかわからない。読むのを諦めてしまう。読
み出すと眠気に襲われる。御言葉の意味がわからず、止めてしまう。

礼拝中も同様だ。悪魔は、御言葉を聞かせたくなくて、別の事を考
えさせる。眠くなる。又、悪魔は日常生活に働く。対人関係で問題
を起こす。妄想をあおり、疑心暗鬼にし、分裂を生じさせる。憎し
みや妬みを起こさせる。又、ずるずると貴重な時間を無駄にさせる。
気力を奪い、気持ちを萎えさせる。不安と思い煩いを起こして来る。
あらゆる領域に働いて来る。

悪魔への対抗は、祈りと御言葉に立ち、御言葉を宣言する事だ。感
謝は大きな力だと誰しも経験で知っている。感情を横において、意
志を向けて実行して行く時、サタンはどうにも出来ない。最大の攻
撃はサタンを忘れさせる事だ。思い煩いに陥って、数時間後にサタ
ンだと気づいたりする。今、攻撃が思い当たるだろうか。主に助け
を求め、祈ろう。
----------------
自分の弱い所をサタンに熟知されている。祈りも御言葉を開くのも
意識して選び取ろう。無意識にしているとどうでも良い事ばかりで
一日が終わってしまう。サタンに気づけるよう一日の初めに主に祈
ろう。


2019年12月09日(月)

「そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です』と言った」マタイ14:33



主は、弟子たちを「強いて」舟に乗り込ませられ、ご自分は祈るた
めに山に登られた。すると弟子たちは湖上で大嵐に会った。プロの
漁師だが、逆巻く波と強風に、今にも転覆しそうな小舟で悪戦苦闘
した。苦闘する弟子たちは、立ちはだかる問題に悩まされ、必死な
私たちの姿だろうか。右往左往でパニックだ。不安でたまらない。

そんな弟子達の所へ主が来られた。「しっかりしなさい。わたしだ」
と。「恐れることはない」と。夜中の3時頃だった。主は、すべて
の「時」を定めておられる。耐えられない試練はなく、必要以上に
長引く試練も無い。決められた「時」がある。そして主が舟に乗り
込まれると「風がやんだ」。あの大嵐がピタリと止んだ。

驚いた弟子たちは、「確かにあなたは神の子です」と信仰告白に至
った。舟は無事、目指す地に到着した。主が大嵐の試練に会わせら
れたのだが、弟子たちは、その試練を通して、主が自然界をも支配
される、生ける神であることを知った。私たちも試練が与えられる。
「強いて」舟に乗り込ませられる。その時、その問題に主をお迎え
する時、平安が臨む。

つまり、その問題を主に委ねること、明け渡すことだ。その時、心
が心を平安にされる。そしてその問題を導いて行って下さる。重大
な事は「主イエスは神」であるということだ。自然界も、私たちの
人生も問題も支配しておられる。主が「恐れるな」「わたしだ」と、
必ず私たちの危機で、助け出して下さる。
---------------
主はいつも共にいてくださるのに凪ぎの時は勝手に進んでいるよう
に思う。試練は苦しく辛い時だが、まことの神である主が共におら
れると知る時だ。自分で握らず主に委ねていこう。



2019年12月08日(日)

「・・なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ 6:45


こんな御言葉がある。「死と生は舌に支配され、どちらかを愛して、
その実を食べる」私たちは単純に善を愛して、悪を憎んでいると思
っている。悪を憎んでいるのだが、まだ罪の性質があるため、罪に
はまってしまう事で悩んでいると。しかし御言葉によると、死を愛
する心があると言っている。罪を本当は憎んでいるのではなく、愛
していると。

例えば、自分を傷けた相手、又、自分に敵対し、中傷する相手を憎
んでしまう。憎むのは、自分が苦しいし辛い。しかしながら憎しみ
は募る。だが心の底の底を探られると、憎みたくないのではなく、
強烈に憎んでいたい。赦せないのでなく、赦したくない自分がいる。
どうしようもない自分に、自我に、行き着く。古い罪の性質がある。

だがそんな時こそ、主の十字架、主の流された血潮が、頭ではなく、
現実味をもって迫って来る。まさにこのために、この自分のために、
主は裂かれて、血を流されて苦しまれたのだと。自分の罪が見えて
十字架の赦しがわかる。そして舌は死と生を支配すると。言葉は種
であり、蒔いた結果「その実を食べる」。

恵みの言葉は恵みの実を、悪い言葉は悪い実を結ぶ。死か命の実を
結んでしまう。否定的、批判的、懐疑的な言葉の種を蒔くか、肯定
的、建設的、信仰的な言葉の種を蒔くか、日常で語る言葉は大変重
要だ。日々どんな言葉を口から出しているだろう。内側が御霊に支
配される事を求め、発する言葉が御霊に導かれるよう祈っていよう。

・・・・・・・・・・
口は心に満ちているものを話すので、不満、愚痴、怒りがあれば必
ず肉の言葉が出てしまう。主とよく交わり、心の内を主に聞いて頂
いて、心を御霊に導いて頂こう。「主よ。私の口に見張りを置き、
私のくちびるの戸を守ってください」と祈っていよう。


2019年12月07日(土)

「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです」マタイ22: 14


王が、王子の結婚の披露宴を設けた。しかし招待した客は、皆、断
って来た。神の事、永遠の事より、今の地上の事柄が心を占め、目
の前の事に心を奪われてしまう。王や王子の祝宴など二の次であっ
て、大切なものが、畑であり、商売であり、この世の事だ。まして
や他の者たちは王の使いを殺してしまった。

招いた者たちはふさわしくなかったので、王は、大通りに出て行き、
出会った者を誰でも招くよう命令した。片っぱしから呼んで来たの
で、宴会場はいっぱいになった。ところが、そこに婚礼の礼服を着
ていない客が一人いた。王は怒って、外に放り出した。大通りで、
突然呼ばれるわけで、誰も礼服など持ち合わせていない。

この礼服は、すべて主催者側で用意されていた。だから放り出され
た人は、王の礼服を故意に着用せず、意識して拒否したことになる。
自分の服の方が良いと思ったのかも知れない。彼は、大通りで招か
れ、招きは拒まず、やって来たのだが、王の前に出る「礼服」は自
らの意志で拒んだ。「招待される者は多いが、選ばれる者は少な
い」この客のようだろうか。

自分の服で、自分を着飾りたい。どこまでも自分の力、自分の功績
を捨てない。捨てたくない。自分の良い行ないで、自分の力で義と
認められようとする事だ。主の考えより、自分の考えを正しいとす
るなら、主を拒否する事になる。それは礼服を拒む事だ。王の礼服、
義の衣、主キリストを受け入れ、自分の身に着て、主と一つとなり
従って行こう。そして披露宴の大きな喜びと楽しみにあずかろう。

・・・・・・・・・・・・・
狭い門から入れと。ただただあわれみによって救いに入れられた事
はどんなに感謝してもしきれない。又、私たちは救いを着せて頂い
たが「気にもかけず」自分の楽しみや利得へと、畑や商売に忙しい
だろうか。気づかされ、主の祝宴の食卓の溢れる喜びにあずかろう。


2019年12月06日(金)

「しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:14



主はユダヤを去り、ガリラヤへ向かわれる時に、あえてサマリアを
通られた。普通はサマリヤを通らなかった。ユダら人とサマリヤ人
は仲が悪く、付き合いをしなかったからであった。しかしこの時サ
マリヤを通られたのは、心が飢え渇いて救いを求めている、一人の
女性に会うためであった。主は「旅の疲れで」井戸のかたわらに座
られた。非常に疲れて、座り込んでおられた。

主も私たちと同じように疲れを覚えられる、私たちの理解者だ。こ
こでサマリヤの女性は「偶然」主に出会ったのではない。主の方が
彼女を求められたのだ。ご計画の内だ。「わたしに水を飲ませてく
ださい」と彼女に頼まれ、会話の糸口を作られた。そして個人伝道
をされた。彼女の心は非常に渇いていた。その渇きを満たすために
男性を求め、次々と5回の結婚離婚を繰り返し、今は同棲していた。

決して男性によっては心は満たされなかった。近くの女性たちが井
戸水を汲みに出て、お喋りを楽しむ夕刻には姿を現さず、人目を避
けて、カンカン照りの昼間に生活用水を汲んでいた。人目をはばか
る生活であった。そんな心満たされず、渇いている彼女に、主が近
づき、罪を示し、たましいの救いを与えられた。

すると今まで人と顔を合わさず、隠れた生活していた彼女が、生活
の大切な水がめを置いて、町へ出て行った。そして人々の前に出て、
言った。「来て、見て下さい」と主イエスを指した。彼女は変えら
れた。同様に私たち一人一人をも、主は目を留めて下さったので、
救いに導かれた。あなたに目を留められ、あなたを愛されている
-------------
誰よりも自分の罪を恥じていた彼女が主によって新しくされた。
罪を赦され、愛されている。その喜びをもって人の前に出て行け
た。罪から解放され主の愛を知った生まれ変わった姿だ。


2019年12月05日(木)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21


私たちには様々な思いがあり、明日のプラン、来年のプラン、又、
人生の長期プランがある。「人の心には多くの計画がある」の通り
だ。しかし主にも特別なプランがある。ヨセフの生涯を見る時に、
はっきりとわかる。父に特別可愛がられた事により、兄達に妬まれ、
憎まれ、エジプトの隊商に売られた。どんな苦しみだったろう。

しかしそこで主人に誠実に仕え、主人の信頼を得て全財産を任せら
れるほどになった。ところが主人の妻からの濡れ衣で投獄の身とな
る。しかしそこでも「主がヨセフと共におられ」模範囚となり重ん
じられた。献酌官長を通して出獄かとの希望を抱いたが、ヨセフと
の約束は忘れ去られ、又、2年が過ぎた。神の時は何と長いのだろ
う。

結果的に見れば2年だが、その渦中では、どんなに忍耐が要ったろ
う。結局、最終的に総理大臣となり、飢饉のヤコブ一族の命を救う
事になる。ヨセフがエジプトに売られて以来10数年だ。命を救うた
めに、主が、予めヨセフをエジプトに遣わされた事になる。ヨセフ
自身にも自分の人生プランがあった事だろう。しかし主のプランは
思いを超えた遙かに深く高いものであった。

ヨセフは自分の計画でなく、主の計画の道を歩ませられた。その結
果、プロセスにおいて砕かれ、信仰が培われ、品性も練り上げられ
聖められて行った。自分の思いは強く、多くの計画があるが、主の
私へのプランを祈り求めよう。それが最善であり、それこそが信仰
人生において豊かな実を結び、主の栄光が現われる。
----------------
こんなはずでは無かったと思うような経験を通して、神に出会った
り、大きな祝福へと導かれたりする。御心の通りになかなか歩めな
い者を、神がご計画の道へと導き歩ませてくださった。


2019年12月04日(水)

「この女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」ルカ8:44



この女性は12年もの長い間、出血が止まらない状態で、どんなに苦
しんだ事だろう。律法によると不浄であり、礼拝にも出れず、宗教
的にも社会的にも疎外されて来た。経済的にも治療に全財産を使い
果たし、良くなるどころか、返って悪くなり、この先どうすればよ
いのか、全く光が見えず、心身限界で、ぼろぼろであったろう。

わらにもすがりたい思いで、いたに違いない。丁度そんな時、様々
主の噂を耳にし、せめて主の着物にでも触れたなら必ず直ると信じ
た。必死な思いであった。触ったその瞬間、血の源が枯れて、ひど
い痛みが直った。奇跡が起きた。誰にも知られず隠れていたかった。
そっとその場を去りたかった。が、主がそこで「触ったのは誰か」
と問われた。

群衆に紛れて潜んでいたが、隠しきれないと思い、恐れて震えて進
み出た。「イエスの前に」出た。どんなに勇気の要った事だろう。
「すべての民の前で」主に触れた理由と、癒された次第を話した。
すべての民の前で告白した。自分を卑しめ、暗さの中に隠れていた
のが、光の中へと入れられた。

主は「あなたの信仰が」と女性の信仰を認め「安心して行きなさい」
と、もう恐れも不安も怯える事もない、全き安堵と平安と自由を下
さった。身体だけでなく、心も癒し、救いを与えて下さった。主が
告白に導かれたのは、実は彼女自身のためであった。晴れやかな喜
びと全き平安に包まれた。
-------------
隠したい悩み、苦しみも主の元に行けば光の中に招き入れられる。
主に触れて主に叫ぼう。身体よりも心をすこやかにされる。主の元
にいき、主にすがろう。


2019年12月03日(火)

「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し・・」マタイ25:36



「靴屋のマルチン」という物語がある。ある日、主がマルチンに現
れ「明日、お前のところに行く」と言われた。マルチンは嬉しくて、
翌日働きつつ、窓の外に目を凝らしていた。外は厳しい寒さで、そ
こに雪かきの老人がいた。彼はその老人を暖かい家に迎え入れ、お
茶をご馳走しもてなした。次に、赤ん坊を抱いた貧しい母親に目が
留まった。

マルチンは急ぎ出て行き、その母子を家に招き入れ、ショールを与
えた。マルチンは、主はまだか、まだかと待っていると、少年が老
婆のかごからリンゴを盗んだのが見えた。マルチンは少年のために
懸命に執り成し、一緒に謝った。やがて夜となり、一日が終わり、
とうとう主は現われなかったと、マルチンはひどく落胆していた。

すると主が「今日お前のところへ行ったのがわかったか」と言われ、
主の姿が、雪かきの老人、貧しい母親、リンゴを盗んだ少年に変わ
った。目の前の助けが必要な人に、手を差しのべるなら、それは主
に対してしたのだと教えられた。たいそうな事でなくとも、ほんの
些細な、小さな事でも、必要とする人に与えるなら、主は豊かに報
いて下さる。又、小さい者とは、普段余り気にかけない者の事だ。
それなら家族はどうだろう。

他人には配慮し、礼儀正しくし、素晴らしく良い人になるが、家族
は余りにも当然過ぎて、無遠慮になり、むしろ甘えが出てわがまま
になり、配慮を欠くかも知れない。一番身近な、家族こそをまず大
切にしなければならない。小さな者の一人にしたのは、主に対して
した事だと言われる。こんなに嬉しい事は無い。御霊に導かれ対応
しよう。
--------------
ここ一番の大事には祈って備えても小さな一つ一つの事は意外と注
意を払っていない。愛のなさを覚える。御霊に励まされ、主が身近
に置かれた人々に愛を行いたい。


2019年12月02日(月)

「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み・・そこでふえよ。減ってはならない」エレミヤ29:6


 
エレミヤの時、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ捕虜として連行
された。しかしそのアッシリヤは、バビロンによって倒された。バ
ビロンはどんどん侵攻し、国々は討ち取られ、滅ぼされ、とうとう
ユダの人々も、バビロンに捕囚の身となった。当時のユダは神から
離れていた。民は偶像礼拝に陥り、堕落していた。

預言者たちは人受けのする、耳ざわりの良い、心地良い言葉だけを
語り、平安が無いのに「平安、平安」と言っていた。しかし神の人
であるエレミヤはどこまでも主に従い、混ぜ物をせず、真っ直ぐに
語った。そのため迫害受け、苦しめられた。敵であるバビロンに捕
らわれの身となる、真っ暗な中で、エレミヤは神の言葉を語った。

今の状況は、「災い」としか見えないが、「平安・将来・希望」の
ためのものだと。必ず平安へと導かれると。すぐに解放にはならな
いので、その地で住みつき、腰を据えて生活せよと、そしてその町
の繁栄を祈れと。それは自分達の繁栄になるからと。私たちも苦し
みの時は、一番欲しい言葉は「即、問題解決」「即、悩みからの解
放」だ。しかし口先だけの励ましは更に傷が深くなる。

全く思い通りではない現実を受け入れる時、その中で神からの支え、
励まし力づけにより生きて行ける。現実をしっかり受け入れる事が
大切だ。いつまでもそのままではなく、「70年の満ちる頃・・あな
たがたを帰らせる」。現状の中で主に従って行こう。そこには「平
安」が約束されている。そして神の時に、解放して下さる。
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思い通りではない現実を思い通りにしたいと祈り求めてしまう。都
合の良い言葉には一時の安らぎがあるが、ご計画を成就させられる
のは神だ。「平安と将来を与える計画」が何処にあるかを求めよう。


2019年12月01日(日)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」ピリピ2: 14



主のみこころを行なおうとする時に、つぶやき、疑いが、私たちの
心に湧いて来る。不思議にみこころを行なおうとする時に、妨げと
してやって来る。示されたみこころが好きでない場合には、つぶや
きが来る。「何で私が?」「したくないです」「気が進まない」
「無理です」「私には難しいです」「どうせやっても無駄です」

そして様々な言い訳が幾らでも出て来る。理屈を言う。不満いっぱ
いで、出来るなら回避したい。だが、しぶしぶでも従うと、思いを
超えた素晴らしい祝福を味わう。心が平安と喜びに満ちる。従って
良かったと心から思う。誰しも経験するところではないだろうか。

逆に言えば、みこころを行なう時に、つぶやきと疑いの攻撃、誘惑
が来るということだ。サタンの妨害が来る。足を引っ張って来る。
みこころに従わせたくない。自分には出来ないので、そのために祈
りが備えられている。みこころが行なえるように助けを求めて祈る
ことが出来る。その祈りに答えて、主が成し遂げさせて下さる。

普段の生活で、きちんとした状況判断は大切だ。思慮無く、準備も
無く、やみくもに突き進むのは違う。だが。主が御心を示して下さ
ったなら、主が力を与えて下さる。だから必ず成し遂げる事ができ
る。そして大きな祝福とされ、平安と喜びに結果する。もし今、示
された御心に対して、つぶやきと疑いにある状況なら、「行ないな
さい」が導きだ。主と共に実行しよう。

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御心を行なおうとする時に、サタンの妨害が来る。つぶやかきが来
て、疑いが来ると言っている。「時間が無い、手間がかかる、した
くない」「本当に語られたのか、御心なのか」と、妨げてしまいた
いサタンからだ。主は、実行せよと言っている。