2002年10月31日(木)

「すべて真実なこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと・・称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい」(ピリピ4:8)


 牧師は今の時代をよく把握するために、
様々な情報に目を留めている。本を読み
新聞を読みテレビやビデオを見、雑誌を
読む。これらのインプットされた情報、
価値観、考え方、言葉はどうなるのか。
頭の中で処理され、自分の一部となる。
それらは無意識に自分の考えの中に書き
物の中に現われる。
私達は日々莫大な情報を得ている。
これらは危険でもある。神無しの価値観
のこの世で生きているので、沢山の不要
の物に出会う。それらのものは捨てたり、
拒否しなければならない。心が汚されて
しまう。真実なこと、誉ある事、正しい
事、聖い事にいつも目を留めているなら、
私達の生きかたの中に、会話の中に書き
物の中に現われてくる。
取り入れるものに注意せよ。価値観を拒
む事も必要。


2002年10月30日(水)

「むしろ、死者の中から生かされた者として、「むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ローマ6:13)

神は私達を造り変えたいと望んでおられる。
栄光から栄光へと主と同じ姿に変えて下さ
ろうとしている。そのためには、まず自分自身
を余すところなく神に明け渡し、献げる事だ。
古木がろくろで回されて削られる。すると、
その下から綺麗な木目が出て来る。そのろくろ
で削った後は、やすりでこすって仕上げる。
聖霊様はろくろのようだ。私達をどんどん削
られる。綺麗な木目が表われたように、私達
にも真の特性が表れる。やすりでこすられ
表面のでこぼこや傷がきれいに削り取られる。
同様に私達の高慢、プライド、虚栄心、名誉欲・・
それらが削り取られ、美しくされる。ろくろに
逆らわない事が条件だ。逆らわないなら、神の
み思い通りにキリストの形に変えられる。神に
明け渡し、従順であることだ。


2002年10月30日(火)

「むしろ、死者の中から生かされた者として、「むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」(ローマ6:13)

神は私達を造り変えたいと望んでおられる。
栄光から栄光へと主と同じ姿に変えて下さ
ろうとしている。そのためには、まず自分自身
を余すところなく神に明け渡し、献げる事だ。
古木がろくろで回されて削られる。すると、
その下から綺麗な木目が出て来る。そのろくろ
で削った後は、やすりでこすって仕上げる。
聖霊様はろくろのようだ。私達をどんどん削
られる。綺麗な木目が表われたように、私達
にも真の特性が表れる。やすりでこすられ
表面のでこぼこや傷がきれいに削り取られる。
同様に私達の高慢、プライド、虚栄心、名誉欲・・
それらが削り取られ、美しくされる。ろくろに
逆らわない事が条件だ。逆らわないなら、神の
み思い通りにキリストの形に変えられる。神に
明け渡し、従順であることだ。


2002年10月29日(火)

『主は遠くから、私に現われた「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた』(エレミヤ31:3)

 一人の婦人がちょうど初めての出産を
控えていた時に、母親が病で亡くなった
母親を特別に必要としていた時であった
だけに、ひどく辛かった。深い悲しみの
涙に暮れ、少し落ち着いてくると怒りが
こみ上げて来た。まだ自分は主をよく知
るクリスチャンではなかった。
その怒りは神に向かった。母親を特に必
要としている時にどうして、うつに陥り、
神を離れてしまった。しかし、落ち着い
た頃、神は望まれた。教会へ再び足を踏
み入れた時、キリストの圧倒的な愛に取
り囲まれているのを感じた。神に反抗し
背を向けた自分に神が両手を開いて待っ
ておられたとはっきり感じた。
神に心を開いて待っておられたとはっき
り感じた。神に心を開いて行く時、神に
自らの意思を向け、近づいて行く時、ま
ず神が近づいて下さっている事を知る。
神の愛は不変。変わらない。私達の側の
態度の問題だ。愛に心を開け。


2002年10月28日(月)

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)


一人の老婦人は何不自由ない環境にあった。
息子が経済的な全ての面倒を見てくれ、ヘル
パーを雇い、家の世話も万全に、生活に何一
つ困る事のないようにしてくれた。物質面で
は何の心配もなかった。しかし、老婦人の心
はいつでも寂しかった。一人暮しで、忙しい
息子にもめったに会えなかった。会いたい孫
達にもほとんど会えなかった。お金はあまる
ほどに出してくれていたが、彼女の心からの
願いは息子家族と共に過ごす団らんの時間だ
った。一時でも一緒に過ごす事だった。神も
同じだ。私達と一緒に過ごす事を望んでおら
れる。なぜなら私達を深く愛しておられるか
ら。私達は献金や伝道奉仕や慈善の活動を懸
命にするかもしれない。しかし、神が最も喜
ばれるのは、あなたとの交わりだ。
祈りの中であなたの語りかけを聞く事を待ち
望んでおられる。


2002年10月27日(日)

「わたしは、あなたがたに自分で苦労しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです」(ヨハネ4:39)

ある家の庭は見事だった。綺麗な花が季節ごと
に咲き乱れ、見る人を楽しませた。皆に素晴らし
いと誉められるが、自分の手柄ではなかった。
なぜなら、引っ越して来た時、前の住人が世話
をし、育てたものだったから。これらは人の信仰
を手助けする上で自分の果たす役割を教えて
くれる。それは私達一人でする事ではない。
福音や愛の行為を人々の人生に蒔くが、
なかなか芽が出ない。失敗したかのように感じ
る。ある花はすぐに芽を出すが、ある花は長い
時間がかかる。人の信仰もそうだ。蒔かれた
種がその人の中で長い間眠っているかも知
れない。やがて別の人が来て私達の蒔いた
種の収穫を見るのだ。収穫は神の時にやって
来る。自分は蒔く人か刈り取る人かはわから
ないが、神には決して無駄はない。


2002年10月26日(土)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えられて行きます」(Uコリント3:18)

闇の中や薄暗い中では、物がよく見えないよ
うに、霊的生活が闇の中にある場合は、自分
の真の姿を見ることが出来ない。しかし、神に
近づくと、物事がよく見えるようになる。そして、
自分の姿がよく見える。神に近づけば近づく
ほど自分の真の性質が見えて来る。それゆえ、
神の臨在の中で時を過ごせば過ごすほど、
神の光が照らし出し、本当の自分を更によく
見ることができる。自分の自己中心、プライド、
貪欲、虚栄心、嫉妬、高慢、様々な罪が明る
みに出される。日々、神と二人で交わりを
持ち続ける事が必要だ。それによって、どこ
を矯正するべきか明らかにされる。それを
示される時、私達は初めて変えられる。
闇の中では、変わるべきところさえわからない。
自己満足の中にとどまる。神との交わりが
私達を変える。


2002年10月25日(金)

「主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」(詩篇106:15)


 イスラエルの民は荒野を旅している時
何度も何度も神の恵みに助けられた。
日毎に天からマナが降り、最初はそのマ
ナに喜んだが、やがて、それに飽きて不
平不満をつぶやく。
「肉が食べたい。エジプトで魚を食べ、
きゅうり、すいか、にら・・何もなくて
このマナを見るだけだ」神は彼らのつぶ
やきに裁きを下された。
彼らが願ったものを与えられたのだ。
地をうずらが埋め尽くした。貪欲な民は
二日二晩うずらを貪り食べた。主の怒り
が燃え上がり、非常に激しい疫病で打た
れた。願うところを与えられた。
欲望の願いが聞かれるのは要注意だ。そ
れより「私の願いではなくあなたのみ旨
がなりますように」の祈りの方が遥かに
良い。祈って答えを得ると同時に喜びも
得るのだから。
願ったものを受けて、やせ衰える事のな
いように、あなたの願い事に注意を払え


2002年10月24日(木)

「陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」(エレミヤ18:4)


 陶器師は製作中の陶器をずっと見据え続けている
彼の目に最高の陶器は、作業が終わる時に出来上が
る。陶器師はその陶器の目的と用途を知っている。
何に使われるかを知っていて、それに間に合うよう
に創作し続ける。その作業をろくろの上で行う。
間に合う器が出来上がるためには陶器師と陶器の間
柄に関係がある。陶器は陶器師が自由自在に形造れ
るように自らを委ねなければならない。
自らを全く明け渡す事だ。これは大切だ。
もし陶器が自分の意志を持ち、陶器師に抵抗したり
反抗したなら陶器師が陶器を形造る事など考えられ
ない。神は陶器師であり、陶器である私達を形造ら
れている。日常に起こる様々な環境を用いて、私達
を形造っておられる。
様々な環境や状況の中で、自らを委ねきっている事
だ。その時、神は自由に目的通りに用途にそってあ
なたを造りかえられる。


2002年10月23日(水)

「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ず、それができるから』」(民数記13:30)

しばしば大きな問題はや悩みに襲われるものだ。
私達はどう解決したらよいか、思い悩む。問題に
圧倒され飲み込まれてしまう。大切なのは、問題
ではなく、神を見ることだ。神に目を留めている
事だ。神はどんな大きな問題よりも大きな方だ
からだ。私達は問題を見ているか、神を見てい
るか。どちらに焦点を合わせているだろうか。
イスラエルが約束の地に入る時、12名の偵察隊
が遣わされた。同じものを見て、反応が異なった。
10名は絶望の報告をした。あの民は強いから
攻め上れないと。しかし、2名は上って行こう、必ず
できるからと民を促した。問題を見るか、神を見る
かで、このように反応が大きく異なるのだ。
私達は問題の中で神に焦点を当てるよう、選ぶ
ことができる。これは選択だ。


2002年10月22日(火)

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも賞を受けるために走りなさい」(Tコリント9:24)


 確固たる意思は、目標を達成し、ビジョン
を成し遂げる。映画「炎のランナー」でクリ
スチャンランナー、エリック・リデルは400
メートル走のカーブ直前で押されて、よろめ
き倒れた。目を上げると他の走者達は走り去る
のが見えた。しかし、エリックは、飛び起きる
と、彼独特のポーズ、背中をそり返らせ、腕を
振り上げる格好で猛烈に走った。
彼は追いつくだけでなく勝つ事を決意していた
そして、それを成し遂げたのだ。
これはパウロが自らの働きに持っていた熱心だ
パウロは自分を金メダルを目指す競技者と見な
している。その賞は「朽ちない冠」なのだ。
私達も勝利を目指して一心にイエスを見続ける
事だ。イエスから目を離さない事。
イエスだけを見よ。


2002年10月21日(月)

『取税人は自分の胸をたたいて言った。「神様、こんな罪人の私をあわれんでください』(ルカ18:13)


 真の癒しを受ける道は、自らの問題にしっかり
向き合い、それを認める事だ。
アルコール中毒患者が、自分はアル中だと、はっ
きり認める時、癒されて行った。
薬物中毒患者も同様だ。自分は中毒などではない
自分で何とか出来ると思っている限り、絶望的だ
言い訳したり、理由づけをして、問題から逃げて
いる限り、何の解決も無い。主が与えて下さる救
いも同じだ。自分の罪に言い訳をし、自己弁護を
している限り、救いは無い。
自分が罪人であると認めた時、神は罪から救い、
その恐ろしい結果から救ってくださる。
高慢なパリサイ人は、祈ったが救われなかった。
しかし心から自分の罪を認めた取税人は義と認め
られて家に帰った。罪人が義を与えられるのだ。
救いは無代価だ。しかし、ただ罪人のものなのだ。
へりくだって自らの罪を認めなければならない。


2002年10月20日(日)

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて、戸をあけるなら、わたしは彼のところに入ろう」(黙示3:20)

キリストの十字架、神の測り知れないご愛を理解
した時、私達は主を信じ、救われた。その後のク
リスチャン生活が順調に成長していれば、問題
ないが、何度、主を悲しませた事だろう。何度、
主のお心をわかっていながら、逆らった事だろう。
主の愛は永遠に不変だ。しかし、私達の側で、
罪を犯して、頑なに悔い改めないでいると、
主との交わりから離れ、平安を失う。その時、
主は心の戸の外に立ち、再び交わりが回復
するために、招き入れられる事を待っておら
れる。そのように描かれている。悔い改め、
心の戸を開くなら、主との親しい平安に満ち
た交わりが、もう一度回復される。暖かい
主との交わりが回復される。今、あなたは
主との交わりが冷ややかな、味気無いもの
になっていないか。主から離れていないか。
心の戸を開き、主との交わりに戻れ。


2002年10月19日(土)

それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ暗さはどんなでしょう」(マタイ6:23)

光が暗いのは、矛盾のように思える。しかし、
例えば太陽の光と、ほの暗い豆電球のよう
なものを連想すればわかる。太陽に比べれ
ば薄暗い豆球は暗いのだ。富を偶像にし、
富に執着している生き方について語られた。
宝のある所に心もあると。それから、からだ
のあかりは目だと語られた。つまり、私達の
関心が天に、神に、霊の事に向いているなら、
光が満ちて明るい。しかし、関心がこの世
の事に向いているなら、その光は暗いと
言われた。富は私達に物質的なものを与え
る事ができるが、私達の一番大切な心の
事、罪の赦し、傷ついた心の癒し、心を
平安で満たす、そのような事は決して出来
ない。暗すぎるのだ。あなたの内の光は
明るいか。あなたの目は神に向き、天を
求めているか。それなら、あなたの全身は
明るい。


2002年10月18日(金)

「彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした」(ルカ11:38)


 イエスは伝道旅行の際にマルタとマリヤ
ラザロの家に寄られた。彼らを心から愛し
ておられ、また、彼らのイエスへの愛情は
イエスにとり慰めであった。そこで憩われ
休息され新たなる力を得られた。
そんな姉妹達の家に喜んで寄られた。
主の一日のスケジュールはどれほどハード
で消耗するものだったろう。
常に群れて押し寄せる群集、悪霊との戦い
病人の癒し・・クタクタに疲れ果てられた
に違いない。よく祈るために一人になられ
た。マルタやマリヤとの交わりは、そのよ
うな主をお慰めした。あなたはどうだろう
あなたと一緒に過ごした相手は憩い癒され
るか。それともストレスで疲れ果てるか。
周囲の人を消耗させているか。
元気を与え励ましているか。家族、友人
学校での係りを点検してみよう。
周囲を生かすために用いられる事は祝福


2002年10月17日(木)

「あなたの前にすわり、あなたの言葉を聞く。しかし、それを実行しようとしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている」(エゼキエル33:31)



 イスラエルの人々は預言者の語る御言葉は喜んで
聞いたが、自分の生活は決して変えようとはしなか
った。彼らは自分たちの都合のよいように、自分の
思い通りにするために、御言葉を利用していただけ
だ。「あなたの言葉を聞く。しかし、それを実行し
ようとはしない」私達はどうだろうか。
思い煩いをなくして、心を軽くしたいために御言葉
を聞く。しかし、ただ聞くだけで、自分を変えたく
ないし、生活も変えたくない。
御言葉はただ聞くためでなく従うために与えられた
ものだ。あなたは聞いたそのみ言葉に従っているか
従わなければ、その聞いた事が意味を成さない。
「みことばを聞いても従わない人がいるなら・・
忘れてしまいます」しかし、実行する人は「その
行ないによって祝福されます」。


2002年10月16日(水)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです」(ヤコブ1:14)

一人の女性が停車していた時に、後ろから追突
された。その男性は、相手が女性だと見ると、
そんな場所に停車しているのが悪いと、がなり
立て、女性を非難し続けた。保険代理店により、
彼女の潔白は証明されたが、何と自分勝手な
男だろう。しかし、同様の事がエデンの園でも
起きた事だ。アダムは神が禁じられた木の実
を食べて、罪を犯した後、エバのせいにした
のだ。エバは、何と蛇のせいにした。私達は
何か失敗をした時、他の人のせいにしたいの
だ。なぜなら、誰も自分の過失を、自分の責任
を認めたくないからだ。聖書は私達が罪を犯す
のは、自分の欲望に聞き、従うからだと言って
いる。なぜ神は罪を犯させたのかと、神さえ
非難して行くのだ。勝利の第一歩は自分の罪
を認めることだ。弁解し、言い訳している内
は罪に勝てない。


2002年10月15日(火)

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)


 ある男性は、精力的な仕事人間だった
能力がありどんどん仕事で開花し成功し
て行った。
彼のモットーは「チャレンジ」だった。
常に、あらゆる事に積極的にチャレンジ
して前進した。やがて、働き盛りが過ぎ
熟年を向かえた頃、身体に異変を感じた
歩く時に足を引きずったり、手が動きに
くかったり、身体のあちこちに痛みを感
じた。病院に行くと、パーキンソン病と
診断された。今、生活がかなり不自由だ
歩く事や細かい作業に大変な困難がある
これは新たなチャレンジだった。
今は毎日が挑戦だ。しかし、祈りによっ
て平安と喜びの中で日々の生活を送って
いる。神が共におられ、必要な助けを送
って下さるので心から感謝している。
私達はどのような状況になっても、神は
信仰と勇気を与えて下さるので、祈りに
よって挑戦して行けるのだ。


2002年10月14日(月)

 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊はあなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)

 私達の内におられる聖霊は信仰生活全般に
わたり、教えたり、示したりしながら、私達
をみこころの道へと導いて下さる。
日常生活でよく体験するところだ。祈りの時
に、ふと遠方の友人の顔が浮かび、電話をか
けるようにとの聖霊の促しを感じた。
すると今深刻な悩みの中にあり励ましと祈り
を必要としていることがわかった。
電話をしなさい、手紙を書け、訪問せよ、見
舞いに行きなさい、言葉をかけなさい・・
日常生活の中で聖霊は心に思いを起こさせた
り、平安を与えたり、取り去ったり、様々な
事を通して、導きを与えられる。
あなたはその促しや語りかけ、示し、導きに
敏感か。鈍くて、聖霊が語っておられるのに
気づいていないか。なおざりにしたり、無視
拒否していないか。聖霊の導きに敏感であれ。
今、示されている事はないか。


2002年10月13日(日)

「イエスは彼らに「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである」(マルコ6:31)


主は、弟子達の立場、状況をよく理解しておられ
た。絶えず、人々が押し寄せ、様々な対応、世話、
雑用、群集はいつもやって来て、一人になる時間
など全く無かった。主は配慮され、寂しい所へ行
って休むよう、休息の時を与えられた。主もいつ
も御父との交わりのために、一人の時間を持た
れた。あなたは忙し過ぎないか。休む時間なく
立ち止まる間なく、走り続けているだろうか。
何よりも主との時間に、しわ寄せが来ていないか。
そうなら、しばし立ち止まる事が必要だ。休息と
主との親しい交わりが必要だ。新しい力を受ける
ために、心を休めるために、神とだけの静かな
時間を持たなければならない。神と語り合いの
時を持つなら、神のお心を知り、新たな力を受
ける。神が何を望んでおられるかを知る。


2002年10月12日(土)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事をあなたに告げる」(エレミヤ33:3)

ある人は、神の御声を聞くという事や、御言葉が語
られるという事が、どうしてもわからなかった。どうし
たら聞けるのかも、わからなかった。自分には不可
能だと思っていた。しかし、自分が心を開いて、神
に求めれば、答えて下さることを体験した。突然の
癌の宣告を受けて、心が打ちひしがれた。どのよ
うに受け止めればよいのか、わからなかった。
神は御声をかけて語りかけてくださるのだろうか、
神の語りかけが欲しかった。導きを求めて切に
祈った。すると、電話が鳴り、一人の婦人が励まし
てくれ、ある御言葉を読んでくれた。次の日、別
の婦人が全く同じ御言葉を記した手紙をくれた。
その後、牧師夫妻が訪問してくれ、同じ御言葉を
開いて読み祈ってくれた。これこそ、神の語りかけ、
御声だとの確信に喜びが満ちた。心を開いて、
求めるなら、神の御声が聞こえる。


2002年10月11日(金)

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私達をきよめてくださいます」(Tヨハネ1:9)


 兄弟喧嘩をした事があるだろう。互いに、相手を
非難し合い、「僕じゃないよ○○が悪いんだよ」
「違うよ、○○が悪いんだ」と相手のせいにし合う
小さな頃を思い出すと、誰しも覚えがあるだろう。
自己弁護し、自分を正当化する。
エバがサタンの誘惑を受けて、善悪の知識の実を食
べて、罪を犯した。その罪をアダムにも与え、アダ
ムも罪を犯した。その時アダムとエバはどうしたか
神が御声をかけられ、悔い改めの機会を与えたにも
かかわらず、エバは自分の罪を蛇のせいにした。
自分の罪を認めず、責任転嫁したのだ。私達のする
事は自分の罪を認め、告白する事だ。
その時、神は赦そうと待ち構えていて下さるのだ。
自分の罪を認めるところから、正しい人生が始まる


2002年10月10日(木)

『サムエルは、「お話ください。しもべは聞いております。」と申し上げた』(Tサムエル3:10)


 最近は携帯電話を多くの人々が持っている。
どこででも連絡が可能で、家や職場と絶えず連
絡が取れる。親が小学生の子供にも持たせる理
由は、夜遅い塾の帰りでも連絡が取れるからだ
そうだ。このような連絡線を天との間にも、し
っかりつないでおく必要がある。
人間同士がいつでも連絡できる事で安心感があ
るとするなら、私達は、どんな時にも天の御父
と連絡が取れるとはどんなに平安な事だろう。
神の考えておられる事を御言葉を通して聞く事
ができるのだ。しかし、そのためには、日頃の
態勢が必要だ。
常に、主と親しく交わっているか。御声を聞こ
うとしているか。不従順のゆえに、神との間に
隔たりが出来ているだろうか。罪のゆえに神か
ら離れているか。罪を告白して、神に帰る事が
出来る。心を静め、主を待て。必ず静かな御声
が聞こえて来る。


2002年10月09日(水)

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく神からの賜物です」(エペソ2:8)

救いは賜物だ。行ないにいっさいよらない。
しかし、この事が人間のプライドにとって、受け
入れられないのだ。良い行ないによって、救わ
れる人は誰一人いない。どんなに良いと見え
る行ないも、その動機には、自己中心や高慢、
虚栄心、うぬぼれが見え隠れする。罪の性質
があるから、不可能なのだ。しかし、行ない
によらず、賜物として一方的に与えられる事
が嫌なのだ。自分の行ない、その底にある
自分というものが否定されるからだ。
しかし、永遠の生死を分けてしまう重要な賜物
を受け取る事を、愚かなプライドなどで妨げら
れてはならない。永遠がかかっている。人は
罪を認めたくない。しかし、これこそが永遠の
幸いへの道だ。賢い選択をせよ。


2002年10月08日(火)

「私の歩みはすべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶるものをねたみ、悪者の栄えるのを見たからである」(詩篇73:2)


 小さな子供と父親が散歩していた。石ころで
子供が転びかけて、父親が「手をつなごうか」
と言うと、彼は「パパの服を持つよ」と言った。
しばらくすると、又、転びかけ、やっぱり父親
の方が手を握った。すると、二度と転ぶ事はな
かった。詩篇記者も転びそうだった。
彼らはなんの苦労もなく、繁栄し、したい放題
をし、油ぎり、富は増し、裕福で平安そうだ。
なんの苦痛もなく死んで行くのを見た。
しかるに、彼は真面目な生活をしているのに、
試練だらけの毎日だ。悪者への羨望と妬みの為
に、神に従う生活など虚しくてくだらないと思
いかけた。しかし、彼が神を見つめた時、一変
した。彼らの最後は滅びである事を見たのだ。
あなたも他を羨んだり、信仰生活が虚しく思え
る事があるか。サタンの攻撃だ。神に自分の手
を渡して、神に握って頂け。


2002年10月07日(月)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)


 ある兄弟が取っ組み合いの喧嘩をしていて
母親に叱られた。双方で、ごめんなさいを言
わせられ、兄弟で謝り合った。
ところが母親が去った途端、にらみ合いのの
しり合った。よく見る光景だ。口で赦すと言
っても。うわべだけの事がよくある。私達も
赦さなければならない義務感から赦すかもし
れない。しかし、心から赦してはいない事が
明らかになる。赦す動機が問題だ。
母親が恐いから、また良心の呵責から逃れた
いから、自分の得になるからだろうか。
神のみこころは、神が赦してくださったよう
に赦す事だ。神は私達の失敗や過失を赦して
くださり、綺麗に忘れてくださるのだ。
私達は赦したいと言いつつ、何かが起こると
すぐ以前のその失敗や過失を持ち出す。
根に持って忘れてはいない。聖霊の助けで私
達は赦す事ができる。


2002年10月06日(日)

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ」(ヘブル12:5)

私達の人生の中で、大きな、又、小さな様々な
試練が置かれている。御父の完璧な配剤だ。
実際問題、試練は良いものなのだ。神に敵対
し、罪の世界であるこの世にあって、クリスチャ
ン達が御霊の実を表わすよう、神は意図して
おられる。そして、困難は良いものだ。私達の
心の中の高慢や虚栄心、プライド、自己中心、
それらが明るみに出され、砕かれて行く。
それを通して、成長して行く。何もかもがうまく
行っていると、私達はすぐに主を頼る事を忘れ
てしまい、自分の力に頼ってしまう。そして、
深刻な事態に陥る。困難はある方がむしろ、
私達は健全でおれ、守られる。神と御言葉
を信頼し、頼る事を学んで行くからだ。困難
は、霊的健康の助けになる。神は私達を愛
し、よりきよめるために試練を送られる。試
練は良いものだ。


2002年10月05日(土)

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか」(ヘブル6:1)

職場に入った人々は、ほとんどが最初は初歩的
な下積みの仕事から始める。最初は見習いで、
とにかく教えてもらい覚えなければならない。
ほとんど仕事にはならない。給料も安い。それが
段々仕事を覚えて、経験を積んで仕事ができる
ようになって行く。少しづつ認められて報酬も上
がって来る。初歩的仕事にいつまでも、とどま
っている事はない。クリスチャンも又、初歩的
段階にいつまでもとどまっていてはならない。
ガラテヤの人達は聖霊の力によって歩まず、
自分の肉の力で歩んでいた。コリントでは、絶えず
争い、妬みがあり、霊的赤ん坊であった。私達
も主に頼らず自分の力に頼って歩んでいないか。
赤ん坊が少年、大人へと成長するように霊も
成長しなければならない。いつまでたっても、
同じ所にとどまっていないか?前進しよう。


2002年10月04日(金)

「あなたがたが悲しんで悔い改めたからです・・神のみこころに添った悲しみは悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ」(Uコリント7:9)


 真の悔い改めとはどんなものなのか。
ある人は悔い改めた翌週、教会へ来なく
なる。涙を流して悔い改めた人が、世の
中へ戻ってしまう。ある人は、感情はほ
とんどなかったが、自分の罪をみつめ、
キリストが必要である事を認め、受け入
れた。彼の罪深い生活は終わった。
生活が変わったのだ。これはどう違うの
か。悲しみに二種類あり、神のみこころ
にそった悲しみと、世の悲しみがある。
聖霊による悲しみは悔い改めに導き、救
いを与え、新しい生活に入れられる。
しかし、世の悲しみは、罪によって引き
起こされた結果が悪いと感じるだけで、
感情的に悲しむだけで、何も変わらない。
根本的に人を変えることなく、死をもた
らす。真の悔い改めが二度と罪を犯さな
い事ではない。しかし、罪を認め主イエ
スを信じるなら救われているし、主のた
めに生きたいと願うならその悔い改めは
本当だ。


2002年10月03日(木)

「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです」(ヤコブ1:23)


 私達の顔が汚れている時、手でいくら
触っても、その汚れはわからない。
では、どうすれば汚れがわかるか。鏡に
顔を映せば、すぐに汚れが見え、拭き取
る事ができる。同様に心の汚れはどうか
自分で考えてもわからない。鏡に自分の
心を映し出されると、すぐにわかる。
聖書がその鏡だ。御言葉によって自分の
汚れが初めてわかる。自分の動悸や偽り
欺瞞が御言葉に指し示される。矯正すべ
き点、なすべき事を示される。
その鏡に移った自分の姿を見てもすぐに
それを忘れてしまうなら愚かだ。
そのように、御言葉に自分の姿を示され
ても、従わないなら、すぐにそれを忘れ
てしまう。従うべき点は何かを祈り求め
ながら、御言葉に向かうべきだ。
示された事に従う堅い決心を持って御声
を聞くなら、どんなに祝福だろう。
「みことばを実行する人になりなさい」


2002年10月02日(水)

「まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい」(マタイ13:30)

ある大学職員の学歴詐称が発覚した。アメリカに留学
し、博士号を取った事になっていたが、証明するもの
が出て来ず、彼は姿を消してしまった。優秀な職員
として働いていただけに、周囲の驚きは大変なもの
だった。彼が同僚達を完璧にだます事ができた
ように、偽クリスチャンも教会の人々を見事にだます
事ができる。悪知恵で巧妙に信仰の証明書を偽造
する。朝飯前だ。成長するまで麦と毒麦がそっくり
で、区別がつかないように、本物と偽物のクリスチャ
ンは一見、余りにも似通っているので、容易にだま
されてしまう。似非クリスチャンが教会の中にいる。
彼らの巧妙な偽りや狡猾な方法で争いを起こし、
分裂を起こして行く事をよく見張って警戒すべき
だ。主は毒麦は最後に裁かれると言われる。
偽預言者にも気をつけよ。羊のなりをして、内は
貪欲な狼だ。


2002年10月01日(火)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かにするものは主である」(箴言16:9)

 人の思いと主の思い、人の計画と神の
計画が異なる事を多くのクリスチャン達
は経験する。何歳で結婚して何歳で子供
を産んでと計画していた女性は、独身で
海外女性宣教師として活躍している。
結婚はしない一生キャリアウーマンとし
て働くと言っていた女性は若い内に結婚
し子供が三人与えられている。
教会で牧師の右腕となって仕えたいと願
っていた男性は海外勤務に導かれた。
人の計画と神の計画は必ずしも一致しな
い事を知る。ペテロは何があっても主に
従うと豪語した。
「たとい全部の者がつまずいても、私は決
してつまずきません」と、断定したのだ。
しかし、ペテロは主を裏切ってしまった。
自分こそは大丈夫という高慢と自惚れが粉
々に砕かれた。高慢と自惚れは自己中心か
ら出ている。私達のすべき事は主に人生を
お委ねし一歩一歩従って行く事、それがす
べてだ。主は私の人生に計画をお持ちだ。