2020年01月31日(金)

「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています」Tテモテ1:5



御言葉には、対人関係について様々示されている。もし誰かが過ち
に陥ったなら、御霊の人であるあなたがたがは、柔和な心でその人
を正すようにと。そしてそのすぐ後に、自分自身も誘惑に陥らない
よう、気をつけるようにと。誰かが間違った事をしているなら、見
て見ぬ振りで放っておくのでなく、正すようにと言われている。

但しその場合、自分自身が御霊に導かれる必要があると。御霊に導
かれ無い限り、そのような働きは出来ない。よくよく祈って御霊の
導きを求め、自分自身の心を整えて頂く事が大切だ。まずは一対一
で話すようにと。その目的は単なる断罪でなく、主のもとへと導き、
相手を建て上げるためだ。「築き上げるためであって、倒すためで
はない」と。

自分自身も、同じように間違いに陥りやすい者であり、弱さを持つ
人間である事を踏まえる時に、寄り添わせて下さる。一番大切な事
は、愛を持って接する事だ。「愛が無いなら、やかましいどらや、
うるさいシンバルと同じ」とある。愛によらなければ、うるさいだ
けで、相手の心に決して届かない。正しいだけであっても、心に響
かない。

愛の無い義憤や自己正義は、相手の心を閉ざさせてしまう。何も成
し遂げて行かない。私たちは、どんな時も愛が目標だ。主の前にへ
りくだり、自らに愛が無い事を認め、主からの愛を与えられ、通り
良き管として用いて頂こう。
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偽りのない信仰から出てくる愛があるか主に求めて、御霊に導かれ
て相手に向かおう。人の過ちはよく見えるが自分が一番危うい者だ。
やかましいどらやシンバルにならないようよく吟味したい。


2020年01月30日(木)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25



ヘロデ王は、ヨハネを正しい人と恐れ、保護していた。しかしヘロ
デヤの娘が踊りを舞った時に「何でも欲しい物を与えよう」と誓っ
た。娘は、母親に言われ「ヨハネの首を」と願った。王はヨハネの
事であり、大変心痛めたが、自らの誓いと、そして体面ゆえにヨハ
ネを殺害した。ヨハネの 語る神の言葉を聞いていながら、保身に
走り、人前を保つがために、ヨハネを抹殺してしまう。

ヘロデは、ただ神の言葉に喜んで耳を傾けるだけで、御言葉に向き
合い、悔い改める事は無かった。神の言葉に自らを従わせ、方向変
換するという事をしなかった。ヘロデは王であり、最高権力を持ち、
心痛むのであれば、娘の願いを退けることができた。にもかかわら
ず、娘の言う事に従ってしまった。

ヘロデは、神を恐れず、人を恐れた。めんつを取り繕うことが最優
先であった。そのために大きな間違いを犯してしまった。私たちは
どうだろう。自分が思う以上に、人の目に縛られているものだ。人
への恐れのゆえに、事を誤ってしまう。そうであれば、神の言葉に
喜んで耳を傾けていながら、御言葉に従わない事になってしまう。

人への恐れは、古い性質にあり、根深く培われている。まず気づき
から始まる。気づきが与えられるよう祈っていよう。御言葉を喜ん
で聞いてはいても、示しに従わないなら、実を結ぶことがない。実
を結ぶ生涯とされるために、今、目の前に示されている一歩に従お
う。
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誰にでも良く思われ、誰とでも上手く付き合う事ができるだろうか。
それが可能なのは、人の評価から解放された、御心に明け渡してい
る人では無いだろうか。人より主に信頼した生き方を選ぼう。


2020年01月29日(水)

「しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべる




詩篇記者は、悪者が富を増し、安らかそうであり、栄えるのを見て
落ち込んだ。彼らは楽しそうで、豊かで肥え太っていて、あぶらぎ
っていて、何の苦しみも無さそうだ。それに引き換え、神を信じて
いる自分は惨めで、苦しみばかりで、何の良い事もない。この足は
たわみそうで、歩みは滑るばかりだと。これはどういう事なのか。
なぜ神を信じない者が楽しそうで栄えるのかと。

だが、そんな事を思うのは「誇り高ぶる者を妬んだ」自らの妬みか
ら来ていた。そしてその妬みは、人と比較しているから起きるので
あり、主を見上げるのではなく、主から目を離して人を見ていた。
信仰生活で、平安や喜びが失せるのは、状況の問題ではなく、目が
主以外のものを見ているからだ。それが心を占めている。

その底には、富への欲望、人からの賞賛を求め、それを愛する心が
ある。それが羨望となって出る。それは、主に焦点が合っておらず、
ずれているので、その結果、様々な不満や愚痴、イラ立ちでいっぱ
いになる。喜びがなく虚しい。しかし彼は聖所に入った時に、光が
臨んだ。心荒み、悶々状態の原因は、目の前の状況ではなく、神と
自分の関係にある事を悟った。神から離れているから、喜びと平安
が無いのだと。

今、平安が無いなら、目の前に問題があるからと思うかも知れない
が、それは関係無い。心が主以外に向いていないか。逆にどんな困
難な中でも、主との親しい交わりにいるなら、心は不思議な平安に
守られる。主を信頼しているからだ。
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人を見て羨むのは何に刺激されているのだろう。いつまでも弱く満
足できない自分に見えても、主は右の手をしっかりとつかんでおら
れる。既に主に守られている事実に、いつも感謝をささげよう。


2020年01月28日(火)

「この日は主が設けられた日である。この日を楽しみ、喜ぼう」詩篇118:24


今日の一日は、主が設けて下さった一日だ。昨日から今日明日へと
偶然に日が巡っているのではない。「主が」設けられたと、しっか
り受け取る時に、この一日が変わる。この自覚が無ければ、漠然と
日が過ぎ、流されてしまう。「この日を楽しみ、喜ぼう」、これは
ラッキーでハピーな事があるから喜ぶのではない。喜ぼうとの決意
だ。

結婚が、愛があるか無いかでなく、愛して行く強い決意であるのと
同様だ。その時、一日の内に起こる様々な出来事の中で、信仰によ
って受け取る事ができる。突如の事態が起こるかも知れない。しか
し主が共におられるので、そして何があろうと主の支配の中なので、
その中で恵みを数え、感謝する事が出来る。「この日」、今日一日
をしっかりと精一杯生きる事が大切だ。

昨日を過去を振り向いて、どうにもならない事に、くよくよしてい
ないだろうか。あの時〜、この時〜と後悔し、自分を責め、暗くな
り思い煩い、落ち込み、今の時間を台無しにしてしまう。悔い改め
た事は完全に赦されているし、万事益とするとの恵みの約束がある。
信仰に立って感謝するなら、どんなに良いだろう。そして未来はど
うだろう。

先を思い煩って、今の時間を不安と恐れで台無しにしているだろう
か。先は主の御手の中だ。主が恵みによって隠しておられる。自分
の死ぬ時、病気やけがをする時・・人生がすべて予めわかっていた
らどうだろう。先は主の愛の御手の中だ。先はゆだねて、この一日
を、喜びを決意し、精一杯主と共に生きることを選択しよう。態度
は自らの選択だ。そうできるよう祈ろう。
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主の最善だけが昨日から今日へ手渡される。何という感謝だろう。
ひとつひとつが恵みに溢れている。失ったものを悲しむより感謝か
ら一日をはじめよう。御霊に励まされて今日を生きよう。


2020年01月27日(月)

「・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」ヨハネ14:26 



「“作り笑い”はできるが、“作り喜び”はできない」との言葉が
ある。心に反してでも、笑顔は幾らでも作れるが、喜びは自分で作
り出すことはできない。幾ら喜んでいる振りをしても、心に無いも
のは無い。自分が一番よく知っている。ある人の同期入社した同僚
が、チーフに抜擢された。笑顔を作るが、心では羨望と妬みが渦巻
いた。

妬ましい思いがどうにもならず、心は暗く苦しかった。喜ぶ者と共
に喜ぶ事など到底出来ない。自分には無理だ。どうしても祝福など
できない。自分が惨めになるばかりだった。クリスチャンなのにと
思うと更に情け無く辛い。妬みは、相手でなく、自分が苦しい。喜
びも平安も無い。こんな状況にとうとう耐えられず、いつも学んで
いる通り、あるがまま祈ろうと、主の御前に行った。

「喜ぶ者と一緒に喜べません。妬んでいます。苦しいです。どうに
もなりません」と心を注ぎ出し祈った。自分の内にあるものを一つ
一つ認め、主に吐き出し、悔い改めた。主と交わっていると、あん
なに鉛のように重苦しかった心が、落ち着いて来たから不思議だっ
た。

そしていつも学んでいる事が思い起こされた。各々が全く異なり比
較が出来ない事、主は自分にも、自分のための祝福を備えていて下
さる事、素直に受け取れ、平安へと戻された。突如の事態にこそ、
普段学んでいる事を適用して行こう。
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御霊は様々な形で導いてくださる。肉は喜ぶ者と一緒に喜べるはず
がないと思う。「しかし、あなたがたはキリストのことを、このよう
には学びませんでした。」御霊の導きに委ねていこう。



2020年01月26日(日)

「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生か します」詩篇119:50


ある人が仕事で大きなプロジェクトを起ち上げていたが、中途で問
題が起きて、行き詰まってしまった。暗礁に乗り上げ、何の方策も
無いように思えた。しかしその事業は、始める前に主に祈り、主に
導かれて起こしたものであった。どうしてよいかわからず、なすす
べも無かった。自分の無力に打ちのめされた。

主の御前に心を静め、祈ろうと時間を取った。現状と心の思いをこ
とごとく打ち明け、長い時間、主の御前にいた。導きを求め、御声
を聞こうと、御言葉に向かった。その時に「あなたがたがわたしを
選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・任命したの
です。それは・・実を結び、その実が残るため・・」の言葉が心に迫り
響いた。

主がこの仕事に自分を選び、任命して下さった事が、改めて確信で
きた。主が導かれたのに、主を差し置いて、自分がしなければと、
「自分が」「自分が」と自分が前に出て、気負い、力尽きた姿が見
せられた。「自分が選んだのでなく、主が選んで下さった」、「主
が」、そこに平安と安堵が来て、その時、自分自身と現状況、又、
今後を今一度主に委ねた。

すると不思議な事に、思い煩いと恐れが失せて行った。とにかく、
主が成し遂げて下さるから、従ってゆけばよいと思え、気が楽にな
った。すると、不思議が起きて、目の前に道が開かれ、導かれて行
き、「主の山に備え」を一つ一つと体験して行った。

今、もし行き詰まっているなら、とにかく主のもとへ行こう。心を
打ち明け、委ねて行く時、御言葉を示し、御心の解決へと導かれる。

・・・・・・・・・・・
悩みの時、苦しみの時、「御言葉を与えて下さい」と祈ろう。御言
葉の戸が開くと、光が差し、わきまえがなくとも、悟りが与えられ
る。状況が解き明かされ、なすべき事がわかるようにされる。平安
の道へと導かれる。祈って求めよう。


2020年01月25日(土)

「もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あな たがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき 腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがた を悩ますようになる」民数記33:55

 

ヨルダン川を渡って、カナンの地に入る時には、その地の住民をこ
とごとく追い払い、石像や鋳造、偶像をすべて粉砕せよと。そして
その地を自分の所有とし、そこに住めと。「わたしがそれを与えた
から」と。その地は彼らのものではなく、主ご自身のものだ。氏族
ごとにくじを引いて、その地を相続地とせよと。

その地の住民を残す事はとげとなり、いばらとなる。根深く強い偶
像礼拝から来る堕落、不道徳、混乱は、民に必ず影響を及ぼし、家
庭を破壊し、国を滅ぼして行く。先住民たちは、イスラエルにとっ
て必ずや「とげ」となる。そして主は「彼らに対してしようと計っ
たとおりをあなたがたにしよう」と。

民が、先住民を追い払わなければ、民の方がカナンの地から追い払
われてしまうと。私たちはどうだろう。形は違うが、心の中に偶像
を住まわせていないだろうか。主を圧迫し、隅に追いやってしまう
ような、主以外の大切なものを住まわせていないだろうか。

それは必ずや「とげ」となり「いばら」となり、あなたを悩ませる
事になる。平安を奪い、秩序を乱し、主から離れさせる事になる。
密かに心に持っている偶像があるだろうか。主に近づける事を妨げ
る偶像を、主のもとに持って行こう。御霊の喜びが与えられ、成長
して行ける。

・・・・・・・・・・・
罪や偶像や惡習慣や苦い根をそのままにしていると、いばらとなり、
やがて致命傷となってしまう。これ位は大丈夫と妥協して行くと流
されて、鈍くなり、わからなくなって行く。御霊の示しがあるなら、
離れたり、捨てて行こう。備えられた豊かな祝福を受け取ろう。


2020年01月24日(金)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9



ある人の証しだ。ずっと人に頼るまいと、自分の力で生きようと頑
張って来た。人に弱みを見せまいと肩ひじ張って、突っ張って来た。
重い、しんどい歩みだった。失敗した時は、環境のせい、人のせい
にして、言い訳し、自分の非も弱さも認めず、自分を正当化して来
た。そうでないと、自分が崩れてしまいそうだった。

自分しか信じられるものが無く、他人など到底信じられなかった。
そんな自分だったが、対人関係で悩み苦しんだ時に、誘われるまま
教会に行った。しかし自我は強く、自分が罪人だなど認められない。
又、神に頼るなどと、弱い者のする事だとの思いで受け入れられな
い。自分の力で生きなくてどうする。反発心も湧いた。

そんな中も、教会の皆は親切で、状況が苦しくもあり通い続けてい
た。事態は更に厳しくなり、どうにもならず行き詰まってしまった。
その時に「神が本当におられるなら、わかりたいです」との心の叫
びとなった。だが、その日から何かが変わった。罪人でないと思っ
ていたが、表向きは良い顔をし、心では人を見下し、さばき、憎み、
妬んでいる自分。

又、人のためにと言いつつ、実は良い人だと見られたい、動機は虚
栄心。そんな自分の「罪」を示された。罪を認め、導かれるまま悔
い改めた時に、心に安堵が来て、今まで経験した事の無い平安を味
わった。孤独で寂しく突っ張った心に、喜びがこみ上げた。
-------------
ひとつひとつ示された罪を認め、赦しを受け取ると自分で自分を守
らなくても良いと思えてくる。なんと感謝な平安だろう。愛する御
神が過去の全ての罪を赦し、日々に守り導いてくださる。


2020年01月23日(木)

「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください」民数記32:5




ルベン族ガド族が、大変多くの家畜を持っていた。そのためヤゼル、
ギルアデの地が素晴らしく家畜に適していたので、モーセのもとに
来て、約束の地であるカナンに入らず、ヨルダンのこちら側にいた
いと願った。それに対し、モーセは、どういう事なのか。皆は戦い
に行くのに、あなた方はとどまろうとするのか。なぜ、民の意気を
くじいて、主が約束された地へ渡らせないようにするのか。

カデシュバルネヤの時もそうだった。カナン偵察から戻った斥候の
言葉で、ひどい不信仰に陥り、それは民に伝染した。主は怒られ、
ヨシュアとカレブ以外の二十歳以上の者は約束の地に入れないと。
又、同じような事をしようとするのか。家畜を増やされたのも、カ
ナンに入るためで、約束の地で生活するためだ。

主の御心はカナンであるのに、自分たちの都合が良いとの理由でこ
ちら側に定住したいとは。私たちもどうだろう。主のみ思い、御心
でなく、自分の思い、自分の願望を満たそうとしていないだろうか。
根本的に、私たちが救われたのは、主の似姿に変えられるため、聖
められるためだ。主の御心へと変えられるためだ。

それが主の御心ではなく、自分の願いを叶えて欲しい、自分の満足
が欲しい、自分自身を中心とする事へと、向きが違って来てしまう。
今、与えられているものを、一旦主に渡して、御心通りに用いるか、
それとも自分の思い通りにするか。主の喜ばれる選択ができるよう
に祈ろう。
-----------
明確に御心が示されているなら従えるよう祈り始めたい。目の前の
安住も主の御手に守られてないなら祝福は得られない。今は自分の
思いが大切に思えると心の内も主に告げよう。


2020年01月22日(水)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16




主はアブラハムに、アブラハムから生まれる跡継ぎを与えると約束
された。そして子孫は天の星のようになると。しかし見えるところ
一向にその気配は無く、サラは自分が子供を産めないので、奴隷ハ
ガルによって、子をもうける事をアブラハムに提案した。当時の風
習であり、サラからの申し出であったので、そのようにした。これ
は人間的な思い、アイデアであった。

しかし祈りによらず、御霊によらない、肉の思いであった。肉の行
為は、必ずトラブルを生み、秩序が乱れ、混乱を生み出す。自分に
とどまらず周囲にも害が及ぶ。子供をみごもったハガルは高慢にな
り、女主人であるサラを見下した。するとサラはハガルをいじめ、
ハガルは辛さの余り、逃亡する事になる。そこで主が介入された。

ハガルは奴隷であり、自分で選択不可能な立場にあった。その事に
は責任は無い。しかし自分の態度には責任がある。肉による行ない
は、必ず問題、悩みが生じる。まず祈らなければ、人間的な思い、
意見はしばしば罠になる。人間的に最善と思える方法が、必ずしも
主の方法ではない。肉の判断、肉の行動への警告だ。

信仰生活において、まず祈り、主の判断、主の方法を求めよう。サ
タンはとにかく急かせて、焦らせる。私たちは早く結果が欲しいの
で、何とかしなければとの思いばかりが高じる。サタンはそのとこ
ろに働き、肉の行ないを誘発する。主は必ず導かれる。肉で動かず、
御霊の導きをじっと待ち望もう。主が成し遂げられる。
--------------
肉の強い思いがあると主の御心か自分の思いかわからない。見たい
ように見て、聞きたいことを求めてしまう。心が空になるよう祈ろ
う。全く明け渡し主の判断を仰ごう。


2020年01月21日(火)

「ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません」Tテサロニケ2:5



パウロは「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものでは
なく、だましごとでもありません。人を喜ばせようとしてでなく、
私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語る」と言った。
そしてへつらいの言葉を用いたり、貪りの口実を設けたりした事は
無いと。偽預言者が人々を導いて行くのは、何らかの自分たちの利
得のためだ。

それが貪りであり、そのためにへつらいの言葉を用いる。へつらい
とは、神を喜ばせるのではなく、人を喜ばせる事であり、そのため
に語る言葉だ。人に心地良い言葉であり、人に都合の良い、聞こえ
の良い言葉だ。誰しも、痛い、辛口の言葉は聞きたくない。心を刺
される言葉は拒否したい。罪を指摘される言葉、自分の見たくない、
認めたくない部分を突かれる言葉だ。

しかしそこが主によって対処されてこそ、御霊の実である、御霊の
喜びや平安を得られる。それは真の平安だ。そして成長して行ける。
私たちの日常生活はどうだろう。一つ一つの行為の動機はどうだろ
う。主を喜ばせようとするためだろうか。それとも自分の利得のた
めだろうか。

又、良い人に見られたいがために、人の歓心を得ようとしているだ
ろうか。それはへつらいだ。肉によるものなら、肉の実を結んでし
まう。そこには秩序の乱れや妬み、偽り、疑いが生じてしまう。主
を喜ばせようとする時、秩序、喜び、平安の御霊の実を結んで行く。
------------
目の前の人だけを見ていくと単なる同情心や話の流れの勢いで右往
左往させられる。落ち着いて主に祈り、主は何を語られるかと尋ね
ていこう。隠れた動機を主に示してもらおう。


2020年01月20日(月)

「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか」ルカ14:34



私たちが地の塩だと言われ、又、私たちの言葉が親切であり、塩
味の効いたものであるようにとも言われている。「親切」=「恵み
に満ちた」となっていて、私たちの言葉が、愛から出たものである
時に、同時に塩味が効いた言葉となる。そして塩味が効いた言葉と
は御言葉であり、御言葉に基づいて出た言葉だ。

人は誰しも、自分に都合の良い言葉を聞きたい。「自分に都合の良
いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々と教師
たちを寄せ集め・・真理から耳をそむけ」の通り、それは、肉には
非常に心地良い言葉だ。しかし肉を喜ばせる言葉なら、塩気のない
言葉になってしまう。それは相手へのへつらいであり、機嫌取りで
あり、真理から離れた言葉になる。

だが塩気の効いた言葉は、真理の言葉に基づいており、時には厳し
いかも知れない。だがそれは真に相手のためである言葉だ。そのた
めには御霊に導かれる事が必要だ。祈らなければ、発することがで
きない。祈りながら言葉をかける時に、御霊が教えて導いて下さる。
又、過度に塩気のみの言葉もある。正しいのだが愛が無い。

正しいだけに反論が出来ず、正論は、相手を追い詰めてしまう。言
われている事は正しいのだが、心がどうしても動かない。心に響か
ないだけでなく、心が苦しくなってしまう。塩けは感謝の言葉でも
ある。御霊により親切で塩けのある言葉が口に授けられるよう祈ろ
う。
----------------
言葉で間違いを犯しやすいと恐れるあまり気づけば心地よい言葉だ
けを選んでいる。真に御言葉に立って祈って言葉を発したい。自分
の中に塩気を保てるよう主に求めていこう。




2020年01月19日(日)

「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初め の雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、 シオンにおいて、神の御前に現われます」詩篇84:6



人生において、平穏無事がすべてなのではない。辛い事や苦しい事、
理解に苦しむ事が必ず起きる。そこには「涙の谷」があり、悲しみ
にくれることがある。未信者にも信仰者にも同じ事が起きる。しか
し違うのは、信仰者は、どんな悲惨な事、どんな悲しみと苦しみの
中も、そこに神を認めて行く。
そのまっただ中に神がおられ、そこでこそ、まことに生ける神の愛、
真実、慈しみ、助けを実際に体験して行く。

神を信じない人はどんな奇跡的な事があっても、そこに神を認める
事は決して無い。信仰者はどんな出来事が起きても、そこに神を認
めて行く。信仰を持つと悩みが無くなるのではない。次々と問題や
困難は来るが、神を信じているから、そこを「泉のわく所」として
行く。

その悩みの中に神を見、その中で神に出会って行く。だからこそ涙
の谷も、神を深く知る機会とされる。その泉は溢れ出て、周囲の人
も潤して行く。そして、「初めの雨もまたそこを祝福でおおい」そ
こに祝福の雨を降らせて下さる。「彼らは力から力へと進み・・神の
御前に現れます」

悲しみと苦しみに沈み込み、失望落胆し、沈み埋もれてしまうので
なく、主から上よりの力を受けて、必ず前進して行ける。その悲し
み苦しみの中に、主が現れて下さり、親しく交わることができる。
涙の谷を通るが、そこには主がおられ、信仰者にはどんな時にも、
光があり、希望がある。

・・・・・・・・・・・
苦しみ、悲しみを通るがそこに主がおられ、そこで主と出会うので、
主の愛や、主の慰め、主ご自身を深く味わい知ることになる。問題
の中にかかわらず、不思議な平安を経験する。苦しみ悲しみの時も、
まっすぐ主の御前にいよう。必ず祝福でおおって下さる。


2020年01月18日(土)

「いばらの中に種を蒔かれるとは・・みことばを聞いてはいるが、世 の心づかいや富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、み ことばをふさぐ」マルコ4:19


主に出会うまでは、私達は見えるものによって生きて来た。この世
の見えるものに支配され、見えるもので心を満たして来た。見える
ものがすべてであり、それしか無かったからだ。見えるものとは、
富や名声、人から来る外側のものだ。人から評価されたい、認めら
れたい、賞賛されたい、人に良く思われたい、愛されたい。それが
すべてなので、一心にその事を求めて生きて来た。

絶えず人にどう思われるかが不安でたまらず、恐れとなる。それが
いばらの中に蒔かれた種の事で、この世の心づかいだ。なぜ私たち
は、富や人からの評価で心を満たすのだろう。罪により、神との交
わりが遮断された結果、不安でたまらず、見えるものにしがみつく
ようになった。

多くの人は富にしがみつく。富が一生を保障してくれ、富が夢を叶
えてくれ、幸せにしてくれると錯覚するからだ。又、人の愛にしが
みつく。人の好意、賞賛を求め、それにより心を満たそうとする。
「世の心づかいや、富の惑わし・・がはいり込んで、みことばをふさ
ぐので、実を結びません」と。

御言葉が根づかないのは、世の心づかいと富の惑わしが、御言葉を
ふさいでしまうからだと言っている。富や、人から良く見られる事
により、安心を得ようとしていないだろうか。それは違っている。
安心が来るのは、主の愛からだ。何があっても、どんな時も変わら
ずに愛して下さっている、神の不変の愛による。

いばらの価値観に気づく事から、大きな祝福が始まる。主は取り扱
い、それを除き、豊かな実を結ぶように助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・
主を知る前は、目に見えるところでしか、自分を量れないので、人
との比較、差異で量るしか方法が無かった。しかし救われた後も、
培われた根深い価値観が残っている。「わたしの目には高価で尊
い」と無条件で愛して下さっている主に、絶えず目を向けていよう。


2020年01月17日(金)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:10



ハンナの時代は、士師の時代であり、イスラエルは堕落し、霊的に
酷い暗黒状態であった。偶像礼拝がはびこり、人々は不品行に陥り、
主の命令は無視され、自分勝手に生きていた。「イスラエル人は主
の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた」とあり、「めいめい自分
が正しいと見える事を行なっていた」とある。

主は、その暗黒の中に、新たな霊的指導者を起こすために、ハンナ
を用いようとされた。祈りによって指導者を産み出そうとされ、主
はハンナが主に拠りすがり祈る事をご存じであった。「主がハンナ
の胎を閉じておられた」とあり、そのために胎を閉じ、ハンナの祈
りを引き出された。

ハンナは不妊の辛さ、ペニンナのいじめ、周囲の偏見による苦しみ
により、募る辛さと苦しみが極みとなり、祈りへと押し出された。
主に心を注ぎ出し、涙と共に一心不乱に祈った。その祈りの中で
「男の子を授けて下さいますなら、その子の一生を主におささげし
ます」との決心に導かれた。祈り終え、祭司の言葉をもらった時、
辛くて食事もできなかったハンナが、帰宅して食事ができた。

もう以前の顔ではなかった。平安になり、心はすっきり晴れやかに
なった。そして結果的に、その祈りは答えられ、指導者サムエルが
産み出された。私たちも祈りで、いつも経験する。苦しい中で主に
拠りすがり祈る時、状況は変わらずとも、自分の内側が変えられる。

御父に委ねるので、状況に関係なく、心に平安が与えられるのだ。
主はあなたの祈りによって、閉じられている道を開きたいと思って
おられるのかも知れない。ハンナのように、心をことごとく打ち明
けて祈ろう。
------------
祈りを通して神との生きた交わりが与えられる。包み隠せない思い
を打ち明け軽くなった心の中に御心を望む思いが湧いてくる。最善
は何かと思いを変えていける。


2020年01月16日(木)

「主の使いは彼に言った『・・敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ』」民数記22:32




モアブの王バラクは、バラムに使いを送り、イスラエルを呪うよう
にと要請した。余りにもイスラエルの力が強くて、脅威を感じたか
らだ。そこでバラムは神に伺いを立てた。神は「その者たちと一緒
に行くな、民を呪うな」とはっきり答えられた。するとバラクは、
更に大勢のそれも位の高い者たちを遣わした。そして手厚くもてな
すからと、富や地位、名声をちらつかせた。

バラムには誘惑となり、主の答えはすでに決まっているのに「主が
何か他のことをお告げになるか確かめる」と言った。バラムの心の
すきに、サタンがつけ込んだ。すると主は「立って彼らとともに行
け」と言われた。バラムは、明確に「行くな」と命じられたにかか
わらず、本心は行きたかった。欲望だった。

「不義の報酬を愛したバラム」と言われている。だから主はバラム
の強い意志の通りにされた。富と名声に目がくらんでしまった。主
は無理やり止められない。それならロボットになってしまう。自発
的な、自由意志で主に従うことを求めておられ、それを喜ばれる。
心のすきにサタンは猛威を振るって襲って来る。助けを求めて祈っ
ていよう。

そこに主の使いが抜き身の剣を持ち、道に立ちふさがった。「あな
たの道がわたしとは反対に向いているから」と。主が介入され、結
局は、バラムはイスラエルを祝福することになる。心の内の欲望は
サタンに足場を与え、道を誤ってしまう。自らの弱さを覚え、心し
て主に助けを求めていよう。
----------------
明らかに御心に反すると知りつつどうしても行くなら、もはや主は
止めない。そうなる前に、主の警告を聞こう。何度も立ちはだかっ
ておられないだろうか。主の御心を求めて祈ろう。


2020年01月15日(水)

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」詩篇33:18



戦いは、普通に考えるなら、兵士の数が多い方が戦いに勝つ。1万
と10万なら、10万人が圧倒的に有利だ。普通の常識だ。それが、詩
編記者は、勝利は軍勢の多い少ないでは無い、数は関係無いと言う。
そして軍馬も勝利の頼りにはならないと。普通は軍馬は無いよりあ
る方が有利だ。私たちは信仰と言いつつも、実際は常識や、経験値、
世の価値観が根深くある。

現実生活では、御言葉や信仰でなく、世の価値観で判断してしまう。
つまり見た目の軍勢の多い少ないで判断する。五千人の給食の箇所
で、ピリポが主から問いかけられた時に、持ち金では、人々に食を
与えるのは無理、不可能と答えたように。見た目で判断してしまう。
決定的な事はそこに神が抜け落ちている。

しかし、詩編記者は、勝利は兵の数にはよらず、神によると結論づ
ける。神に信頼し、神に導かれて進むのであれば、見た目や常識は
くつがえされる。そこに神が働き、超自然のみわざがされる。兵数、
つまり自分がどれほど無力で、困難はどれほど大きくても、それは
何ら問題でない。結局のところ、物理的力ではなく、神の御心かど
うかの問題だ。

御心であれば、神が成し遂げられるからだ。軍勢の数で、計算して
いないだろうか。又、逆に、神が共に行かれないなら、どんなに大
軍勢であっても、敗北だ。救いは軍勢ではなく、神による。主の目
は主を恐れる者に、その恵みを待ち望む者に注がれる。主に頼り、
主に期待しよう。そこが肝心だ。
----------------
普段の生活において神の他に頼るものが幾つあるだろうか。主は万
物を支配しておられる。ご自身の栄光を現すために、主はあえて少
数で勝利を与えてくださる。主のみに頼っていこう。


2020年01月14日(火)

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」エレミヤ31:34



よく「他人と過去は変えられない」と言われるが、目の前の事でな
く、過去を思い、くよくよする事があるだろうか。普段は生活に追
われて、忘れているが、何かがあると、過去の失敗、後悔する過失、
傷が思い出されるだろうか。フラッシュバックし、心暗く、重苦し
くなり、落ち込む事があるだろうか。悔い改めたその事は、主の十
字架の血潮によって、もうすでに完全に赦されているのに、またほ
じくり出しては悶々とする。

判断ミス、選択の失敗、もしあの時、この時、別の選択をしていた
ら、違う対処をしていたら、又、逃してしまったチャンス、あの時
ああで・・、この時こうで・・今、自分の人生は全く違った結果に
なっていたかも・・堂々巡りしては後悔する。しかし、もし神が、
あなたに違った道を歩ませたければ、その時、そう出来なかっただ
ろうか。この事を本気で信じているだろうか。

心の奥にとがめや後悔、不安がある時、前進が出来ない。感謝と喜
びが奪われてしまう。過去のその所に神を認めよう。「わたしは、
もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」と主は宣
言して下さっている。罪は完全に赦され、神が思い出さないと。全
き赦しを受け止め、感謝しよう。

くよくよ後悔を、きっぱり感謝に変えよう。それが神の喜ばれるこ
とだ。神の摂理と御心を認め、信仰もって受け入れよう。受け入れ
た時、後ろのものを忘れ、前に向かって、ひたむきに前進して行け
る。頭だけの罪の赦しなら、しっかりと受け止められるよう祈ろう。
------------
主が十字架によって罪を赦してくださった。頭ではわかっていても
それを信じられなければ、主はどれ程悲しまれるだろう。赦しの約
束を信じられるよう祈ろう。


2020年01月13日(月)

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」ヨハネ14:1 



「恐れないで、ただ信じていなさい」と、神を信ぜよと言われるの
に、私達はしょっ中、思い煩い、心配する。この事、あの事、まだ
先の事、次から次へと思い煩いは尽きる事がない。モーセに導かれ
た民が出エジプトを果たした時に、追っ手の精鋭エジプト軍が背後
に迫り、目の前は紅海という絶体絶命の状況に陥った。

戦闘の精鋭訓練を受けたエジプト軍に、戦った事もなく、戦い方を
知らない民が立ち向かえるわけもない。前進も後退も出来なくなっ
た絶体絶命の時に、主は、奇跡を起こされた。海を分け、海のただ
中に道をつけられた。主はどんなに道が無いと思われる状況でも、
そこに道を造られる。食物の無い荒野では天からマナを降らせ、岩
から水を出された。

そして乳と蜜の流れる地、カナンまで導き、カナンを前に、ヨルダ
ン川の溢れる水をせき止めて渡らせ、更にエリコの城壁を崩され、
勝利を与えられた。あの絶対に滅びないバビロンを倒され、不滅と
言われたローマも倒された。神に不可能は一つもない。すべては主
の主権の中だ。その全能の神があなたの事を心配して下さっている。
そして、思い煩うな、神に委ねよと言われる。

実は、問題が問題なのでなく、問題の中で神を信頼しない事が問題
なのだ。問題を繰り返し繰り返し心に思い、心が不安と恐れで引き
裂かれてしまう。問題を見続け、恐れのどん底に陥る。逆にそれだ
け繰り返し恵みを思い起こせばどんなに幸いだろう。神に心を告げ、
問題をも支配されている神に問題を渡そう。そうする時、立ちはだ
かる問題の城壁が崩れることを見る。乗り越えて行ける。
-----------------
ネガティブな思いが来ると主が飛んでしまい目の前の不安だけが永
遠に続くと思ってしまう。いつも「恐れないで、ただ信じていなさ
い」を握っていよう。あれやこれは主に渡し、ただ信じていよう。


2020年01月12日(日)

「イエスは答えられた『もしわたしが洗わなければ、あなたはわた しと何の関係もありません』」ヨハネ13:8

主がたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い始められた。そして手
ぬぐいで拭かれた。ペテロの番になると、「主が私の足を洗って下
さるのですか」と驚き、「決して洗わないで下さい」と、余りにも
恐れ多いからと。ペテロはそれを拒んだ。この時代は、今のサンダ
ルのようなはき物で、砂ぼこりで足が大変汚れた。ペテロはその自
分の汚れた足を、師に洗ってもらうなどと、とんでもないと思った
のだ。

しかし、それは自分の心の部分にも通じる。誰しも自分の汚い部分
を、人に見せたくない。醜い部分は隠しておきたい、誰にも知られ
たくない。しかし、主はそこをこそあらわにし、洗わなければ、主
と何の関係も無くなると言われた。そこで、主との関係が深められ
るのだと。

私達は見栄えの良いところ、能力のあるところを見せたいものだ。
人に認められたいし、評価されたい。しかし、主と私達の間はそう
ではない。弱い、醜い、汚い部分をすべて主に広げ、明らかにする
時に、赦され、新たにされ、造り変えられて行く。主は弱さを受け
入れ、罪を赦し、傷はいやして下さる。主に心を開き、真実を打ち
明けて行くことだ。

その事を通して、主との関係がより親密にされて行く。弱さは悪で、
強いことが善とのこの世の価値観がある。しかし、正反対で、現さ
れた弱さにこそ、主の力が臨み、主により強くされて行く。又、罪
はことごとく赦される。弱さや罪を隠す事こそ、主との関係を妨げ
てしまう。汚れた、ほこりまみれの足を洗って頂こう。

・・・・・・・・・・
罪を犯すと、心にとがめが来るので、心が重苦しくなり、どうして
も主と距離が出来てしまう。自分で少しはきれいになってと思って
しまう。しかし足が汚い事を認め、その足を差し出す時、きれいに
して下さる。弱さをご存じで、赦そうと待ち構えていて下さる。


2020年01月11日(土)

「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわな いなら、それはその人の罪です」ヤコブ4:17


「すべての事を、つぶやかず、疑わずに行なえ」ともあり、御心

行なおうとする時に、つぶやきや疑いが、私たちの心に湧く。経

するだろうか。御心を行なおうとする時に、不思議に妨げが来
る。
「本当に御心か?」「自分の間違いでは」「神がそんな事を言わ

たのか」。御心が好きでない場合は、つぶやきが来る。「何で私

?」「したくない」「嫌だ」「無理」「私には難しい」「どうせ

ってもだめだ」

そして数々の言い訳が出る。理屈をこねる。不満タラタラで、出

るなら回避したい。だが、しぶしぶであっても、意志を向けて従

と、思いを越えた素晴らしい祝福を受ける。心が平安と喜びに満

る。従って良かった、もっと早く従えば良かったと思う。誰しも

験するところではないだろうか。

逆に言えば、御心を行なう時に、悪魔からつぶやきと疑いの誘惑

来るということだ。悪魔が何としても、私たちへの祝福を妨げた
い。
御心に従わせたくなくて妨害する。そのために「祈り」が備えら

ている。御心が行なえるよう、助けを求めて祈る事が出来る。そ

祈りに答えて、主が成し遂げさせて下さる。

普段の生活で状況判断は大切だ。思慮無く、準備も無く、やみく

に突き進むのは違う。だが。主が御心を示して下さったなら、必

な力は主から来る。だから必ず成し遂げる事ができる。そして大

な祝福とされ、平安と喜びに満ちる。もし今、示された御心に対

て、つぶやきと疑いにある状況なら、「行ないなさい」が導き
だ。
主と共に実行しよう。

・・・・・・・・・・
御心がわかり、行なおうとする時に、悪魔の攻撃が来るのはよく

験する。心が重くなったり、実行をずるずると延ばそうとした
り、
祝福を奪いに来る悪魔だ。なすべき事がわかったら、従えるよう

ろう。主が従う力も与えて下さる。、


2020年01月10日(金)

「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」ハバクク3:18



ラッキーな時、ハピーな時は、誰でも嬉しい。受験合格、昇進、大
豊作、祝い事・・信仰があっても無くても、誰でも喜べる。だがハ
バククが喜んだのは、饑饉で、いちじくの木は花を咲かせず、ぶど
うの木も、オリーブの木も実が無く、畑は全く何の収穫も無い。羊
も牛も絶えてしまった。周囲は真っ暗な完全な絶望状態であった。

失望落胆、悲しみ、嘆き、無気力になりそうな状況のまっただ中で、
なぜ喜べたのか。「主にあって喜び勇み」「救いの神にあって喜ぼ
う」とあるように、環境、状況等、外側の出来事によって喜んだの
でなく、「主にあって」喜んだのだ。ハバククの信仰だ。私達も、
現状が何の希望も持てない、絶望の暗黒状態であり、今後も真っ暗
であったとしても、喜ぶことができる。

状況にあってでなく、主にあって喜べる。主に焦点を持って行こう。
主はどのようなお方かよく考えよう。必ず万事益とされるとの約束
がある。ご計画を持っておられ、災いは無く、平安と将来と希望の
ためのものだ。最悪の事態が必ず平安の落とし所へと導かれて行く。
そして最悪に見えても、主はすでにしようとしている事をご存じだ。

ご自分のひとり子をさえ惜しまずに与えて下さったお方が、良くし
て下さらないわけがない。状況を信じるのでなく、主を信じよう。
「心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」。
「恐れないで、ただ信じていなさい」。とんでもない状況が目の前
にあるが、目を転じて「御言葉」を見続けよう。それが信仰だ、御
言葉により、恐れが平安に変えられて行く。
---------------
真っ暗な状況の中でも主を待ち望み、主にあって喜ぶことができる。
なんと感謝なことだろう。今は見えず、遅れているように思えても、
主はご計画を遂行されている。主の最善の時を信じて待とう。


2020年01月09日(木)

「『・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい』」ヨハネ21:22



人は、心の底では、自分に無いものを求めていると言われる。
「自分も〜〜のようであれば」と。違う境遇や、違う成育歴や、違
う才能や性格を求めていると。しかし、それなら今の自分を否定す
ることになってしまう。いつも言われるようにバラが百合になりた
い、足の裏が目や口になりたい・・と。しかしバラと百合は、好み
の違いはあっても、優劣は無い。

足の裏と目も優劣は無い。役割が違い、どちらも無くてはならない、
不可欠だ。一流レストランはその良さがあり、おふくろの味の食堂
はその良さがある。頭ではよくわかるのだが、心の奥にしっかり受
け止めているだろうか。人と比較し、人を羨んでいるなら、まずそ
れを認めよう。無い振りをせず、ごまかさずに、自分の羨望や妬み
をきちんと認めよう。

そこから新しい歩みが始まる。自分が誰それのようになろうとする
のでなく、主が慈しんで創造して下さった、唯一無二の自分自身を
生きて行けるように、祈り求めよう。かけがえがない、代わりがな
いという事だ。人のようになるという意味では、決して自分を変え
る必要はない。

しかし主のかたちへと近づく意味では、今のままでなく変えられて
行かなければならない。人との差異で自分を量るのではなく、御言
葉を鏡として自分を量る時に、主のかたちへと成長させて行って下
さる。そしていつでも心に平安があり、喜びを持って生きて行ける。
-----------
それぞれに主が与えてくださった環境や賜物があり、人と比べたり
人を頼りにしては信仰の人生は歩めない。主を頼り、与えられた御
言葉を握って自分自身の歩みを続けよう。


2020年01月08日(水)

「・・だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」ヘブル12:15



モーセに率いられた民は、エジプトを出た後、追っ手のエジプト精
鋭部隊が迫り、目の前は紅海で、まさに絶体絶命だ。民はパニック
なる中、紅海が分かたれて、道が出来るという、主の劇的な奇跡に
よって、救い出された。大勝利であり、喜び踊り、主に溢れる賛美
と感謝を献げた。そして民は荒野を歩いた3日目、マラに着いた時
に水が苦くて飲めなかった。

主の奇跡によって、苦難から解放されて喜び踊った、たった3日目
に、手の平返しで、水が無いとモーセにつぶやいた。主は民を愛し、
あわれみ、民が救いを叫んだので、後にも先にも無い奇跡をもって、
救い出して下さった。目の当たりに奇跡を見たばかりだった。主に
不可能は一つも無いはずだ。

しかし目の前に不都合が起きると、主に信頼するのでなく、不平不
満、つぶやき、疑い、不信仰に陥ってしまう。水が苦かったのだが、
それは民の心にある苦い根の方が問題だった。「苦い根が芽を出し
て悩ます」と。「多くの人が汚される」つぶやきは、聞く者を暗た
んとした気持ちにさせ、恵みを消してしまう。自分も喜びと感謝が
失せる。

モーセは主に祈り、主は苦い水を甘くして下さった。これは信仰の
テストだった。民を導き出された主は、全責任を持って下さってい
る。昼は進路を示すため雲の柱、夜は照らすため火の柱の中にいて、
常に臨在された。つぶやきでなく、主への信仰、信頼を献げて行け
るよう、祈ろう。
-------------
主を知っている者として不安やつぶやきを発信するのは避けたい。
主の良くしてくださった恵みを覚えて、どんな中でも変わらない
喜びを主から受けていることを証していきたい。


2020年01月07日(火)

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21



まず、「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り」とある。心が汚れ
や悪、罪、ネガティブなもので占領されていると、御言葉が素直に
入らないからだ。思い煩いがあると、心が不安や心配事でいっぱい
で、御言葉が入る余地が無い。又、怒りがあると、御言葉が聞けな
い、自分の思いばかりが強くて、御言葉を排除してしまう。

主に対する不信感、人に対する妬みや憎しみ、さばき・・それらを
捨てるようにと言っている。自分でわかっている罪は、主の御前に
告白し、悔い改めよう。様々な言い訳や弁解をやめ、自己正当化す
る事をやめ、罪を認め、言い表そう。それが「捨て去る」というこ
とだ。主は真実で正しい方なので、罪を赦し、すべての悪から私た
ちをきよめて下さる。

自分で捨てる事ができない、どうしようも出来ないものは、まずあ
りのまま主のもとへ持って行こう。思い煩い、怒り、妬み、憎しみ
・・それらを正直にそのまま祈りに持って行ける。主に明け渡して
行く時に、主が捨てさせて下さる。そう出来るよう助けて下さる。
心が耕されると、御言葉が入って来る。

主が心に植え付けて下さるので、私たちはそれを拒まずに受け入れ
る時に、御言葉により生かされる。信仰生活において、一つ一つの
場面で、御言葉が命であることを、御言葉により救われることを経
験して行く。
------------
御言葉に照らされると心のどこかに痛みがくる。そのままにするか、
改めていくかいつも選択だ。自分では出来ないが主の助けを求める
ことは誰にでも出来る。改めるべきは悔い改め心を健やかに歩もう。


2020年01月06日(月)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」ヘブル12:2



新しい一年、主から目を離さないでいる事を目指そう。主にならい
従って行きたいなら、主から「目を離さないでいなさい」と、3節
にはこの方のことを「考えなさい」とある。「注意深く考察しなさ
い」と。どんな時も、主をしっかり見つめ、主から目を離さず、よ
く観察し、熟考せよと。主を見つめている事が、信仰の鍵だ。

主を仰いでいるなら、何が起きても、主に判断と指針を求めて行け
る。主が共におられる事を確信できる。主は求めに答えて、目の前
の事態を導いて下さる。そして、主を見つめている時に、主のかた
ちへと変えられて行く。逆に、主イエスから目を離す時はどんな時
だろう。自己中心に生きてしまう時だ。自分の利得、名誉地位を求
め、虚栄心、プライドを満たそうとし、欲望に陥ってしまう時だ。

又、人との比較にいる時、又、目の前の状況に飲み込まれている時
も、主から目を離している。主から目が離れた途端、自らの知恵と
力に頼ってしまう。そして、主から目を離さずにいようとした瞬間
から、サタンが攻撃して来る事もわきまえていよう。様々な思いの
火矢を吹き込み、入れて来る。サタンは、ただ私たちの目を、主か
らそらせさえすればよい事を知っている。

そのため次々と火矢を打ち込み、反応させようとする。注意を様々
なものへとそらせる。サタンの思いを受け入れ、はらむと罪へと誘
われ、罪を犯してしまう。日々、主との祈りと御言葉の交わりから
離れないでいよう。絶えず御霊の助けが臨む。
-------------
今年も様々な問題は必ず来るが、信仰によって退かず進んで行こう。
問題の向こう側には主がおられる。敵が来ても主を仰ごう。主を見
つめ主に信頼するなら状況は必ず変わる。


2020年01月05日(日)

「・・わたしたちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、 私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではあ りませんか」ヘブル12:1


マラソン競技を走り抜くために、登山用の重い荷物を背負っていた
らどうだろう。そんな競技者はいない。スポーツ着も靴も、レース
のために出来るだけ軽装にするだろう。私たちも信仰人生を走るた
めに、重荷があれば走れないと言っている。重荷とは、様々な思い
煩いや心配事、不安でたまらない事柄だ。

それは目の前に起きている事態だけでなく、過去の事、将来に関す
る事に対してもだ。どうにも出来ない過去の事を、あの時ああすれ
ば、この時こうしていたらと、くよくよと思い煩う。まだ起きてい
ない先の事を、ああなれば、こうなればどうしようと不安で不安で
たまらない。最悪のシナリオを描いて、落ち込んでしまう。

思い煩いは、信仰を大きく損なってしまう。思い煩いを捨てる必要
がある。持ったままでは信仰によって歩めない。「何もいっさい思
い煩うな」と言われている。一つ一つを主に告げて、主に任せよと。
又、まつわりつく罪がある。前に走ろうとすると、足にまつわりつ
いて走れない。誰かへの赦せない思い、憎しみ、妬み、富への執着、
名誉、地位、人からの賞賛への欲、主から離そうとするまつわりつ
くものは何だろう。

「まつわりつく罪を捨てて」とあり、絶えずからみついて来る、
薄々気づいている捨てるべきものを、祈りに持って行こう。自分で
は出来ない事が、主には出来る。私たちを、主は取り扱い、捨てる
事ができるように助けて下さる。その時、信仰に前進して行ける。

・・・・・・・・・・・・
どれも、自分では捨てる事ができない。自我は執着する。しかし今
のままではいたくない、信仰に進みたいとの意志を主に向ける時に、
主は取り扱い、主が重荷とまとわりつく罪を捨てさせて下さる。
(★新年おめでとうございます。年末には沢山のお励ましメールを
感謝します。本年も祈りを込めて配信させて頂きます。どうぞよろ
しくお願いします。祝福をお祈りしています)