2020年03月31日(火)

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」詩編32:1



私たちが主を信じた時に、御霊の内住が与えられた。しかし肉が取
り除かれるのではなく、御霊の願いと肉の願い、新しい性質と古い
性質のどちらもがある。どちらもが私たちを引っ張る。激しい戦い
を経験する。私たちはクリスチャンになったからと言って、自動的
に罪を犯さなくなるのではない。信仰生活は、オートマチックでは
ない。

信仰が進むほど、むしろ罪がますますわかるようになる。以前は罪
だとわからなかった事が、見えるようになる。自分の罪深さをます
ます知るようになるのは、御霊の働きだ。地上にいる間、二つの性
質が葛藤し、あらがいながら成長して行く。光があるから罪がわか
る。暗闇の中で、黒点は見えない。光である主に近づけば近づくほ
ど、罪がわかり、自分の肉がはっきりと見えて来る。

御霊により、初めて闇がわかる。ダビデは姦淫と殺人の罪を隠ぺい
していた。その時は、「一日中うめいて骨々は疲れ果て、骨髄は、
夏の日照りのようにかわききった」と言っている。罪を隠して、認
めない心は苦しくあえぎ悶々状態だった。肉は強く、そこにサタン
も働いてくる。牢獄に囚われの身だった。とうとう主の御前に告白
し、悔い改めた。

「あなたは私の罪のとがめを赦されました」。赦された安堵と平安
が心に広がり、踊り上がるような喜びを経験した。あれほど苦しか
った心がすっきりした。闇が消えた。御霊は罪を示され、悔い改め
る時、その罪は完全に赦され、自由にされて行く。そして主の似姿
へと変えられて行く。
--------------
自分の罪に気づくのも御霊の導きなら罪を赦されたと教えてくれる
のも御霊の導きだ。神の前に赦された、それ以上の安堵があるだろ
うか。赦しという御恵みを受けて主を賛美して歩める。


2020年03月30日(月)

「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」マタイ6:7



続いて「御父は、お願いする先に必要なものをすでにご存じ」とあ
る。では、すでにご存じなら祈らなくても良いのではと思いそうだ
が、そうではない。これは偶像への祈りのように、同じ言葉を延々
繰り返し、言葉数の多さ、祈る時間の量、そういう問題ではないと
の指摘だ。

言葉数が多い者勝ちなのではないし、言葉数の多い順に聞かれるの
ではない。だから単なる繰り返しは益無く、無駄だと。この世の偶
像と違い、御父はすでに必要を何もかもをご存じなので、知らない
相手に対するごとく、くどくど説明する必要はない。しかし主は続
いて「だから祈りなさい」と言われた。ご存じだから祈る必要がな
いのでなく「祈りなさい」と。

偶像と違い、御父とは信頼関係にあり、愛の関係であるからだ、祈
りは御父との交わりだ。子供に「一生涯すべての必要を完全に保障
するから、いっさい語るな」と言う親などいない。親は子供の話す
言葉を喜び、いつも対話がしたい。親は子供を愛しているので、交
わりは喜びで楽しみであるからだ。御父は、私たちとの交わりを喜
ばれる。

又、御父は必要をご存じだが、私たちが自分で自分を知らない。真
の必要をわかっておらず、的はずれに求めていて、気づかない。自
分の栄光、欲のために求めていながら、わかっていない。主はそれ
らを祈りの中で軌道修正し、導いて下さる。祈りの中で、自分自身
が変えられて行く。
------------
自分の願いだけを一方的に語ってしまいがちだが、主が既に備えて
くださっている最善のものがある。私にとっての最善に気づけるよ
うに一つ一つの祈りを主との密な交わりの時として大切にしたい。


2020年03月29日(日)

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがた の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4: 7


ある人が職場で、他の人達の対人関係の問題に巻き込まれてしまい、
戸惑いの状況にいた。自分としては、どちらも友人であり、心を痛
めていた。しかし彼ら双方で感情的になってしまい、話すほどに理
解し合えるのでなく、逆に更に糸がからみもつれて行く現実を経験
した。誤解が誤解を呼んでしまう。

人間の力では、どうにも出来ない状況を前に、主に、状況や気持ち
を告げ、願いを献げ、祈りに祈り、委ねて行った。そんな祈りの中
で、辛い胸の内がすう〜っと平安になった。自分の思いはあるが、
祈って委ねたので、もし自分の思い通りにならなくとも、主の最善
をして下さると信じる事ができたゆえだった。

その中で、自分に出来る事として、祈って示された事を行なった。
すると何とそれが用いられて、突破口となり、事態が良い方に向か
い、解決へと導かれて行ったのだ。その時に、その取り扱いを通し
て、「主の平安」を経験させられた。まだ状況は変わらないのに、
思い煩いや不安から解き放たれた「主の平安」が心に満ちたのだ。

別の人も、ある時、自分ではお手上げ状態の窮地に陥った。自分の
力を越えていた。心配と思い煩いで体調も崩すほどだった。今まで
自分で何とか出来たのに、行き詰まってしまい、初めて主に拠りす
がり、何もかもお委ねした。

すると不思議が起きて、あんなに混乱して悶々の心がまるで「使用
前、使用後」のように軽くなり落ち着いた。あの重苦しさが消えた。
ハンナが祈った後のように、顔つきまで違うと周囲に言われた。
主のもとに行き、目の前の問題を主に渡そう。

・・・・・・・・・・・
どうにもできない窮地で、主に祈りに祈り、主に渡してしまうと、
不安しかなかった心が、不思議に落ちついて来る。自分の思い通り
かも知れないし、又、思い通りでないかも知れないが、主が思われ
る最善をして下さると思えるからだ。その平安は何にも代えられな
い。


2020年03月28日(土)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のた ましいの値うちをはかられる」箴言16:2



ある人の子供が、学校へ行きにくくなり、休みがちになったと思う
と、とうとう不登校になってしまった。親も最初は何とか行かせな
ければと、焦った。励ましたり、少し背中を押してやったり、それ
こそなだめたり、すかしたりと、ありとあらゆる事をした。しかし
どうやっても、登校する気配は全く無かった。

親として連携も大切と、学校にも連絡を密に取り、担任ともよく話
し合った。出来る事は何でもしようと、子供の友人関係の親御さん
達とも連絡を取った。親として出来る事は一生懸命に労したのだが、
事態は、全く何も動かなかった。自分に出来る事はすべてし尽くし、
しかし何一つ変わらず、徒労感におおわれた。

疲れ果てて、主のもとへ行き、長く祈った。心の何もかもを吐き出
すように祈った。主との交わりの中で、心探られた。表に出た状況
の問題でなく、自分の心の中を見せられた。プライド、人の目を気
にする虚栄心、自我が照らされた。今まで全く気づかなかった自分
の姿を見せられて、心から悔い改めた。

すると今までの心の重苦しさ、悶々が消えて、心が平安にされ、解
放された。そして不思議だが、行っても行かなくてもいいと、思え
た。ノウハウとして、行かなくてよいと言うのでなく、心底そう思
えて自分でも驚いた。少し前まで、何とか手を尽くして、どうあっ
ても登校させようと必死だったのに。心が新たにされ心から感謝し
た。すると子供が登校し出した。自分の問題でもあったと、主に感
謝するばかりだった。

・・・・・・・・・・
今までも苦しみ、悲しみ、様々な試煉があったが、一つ一つが取り
扱いであり、ご計画であり、万事益の通りだった。その益が、御子
のかたちに変えられて行く益であり、自分自身が主を知って行ける
恵みであったことに感謝だ。


2020年03月27日(金)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11



神には偶然は無く、すべての事に、定められた神の時がある。神の
ご意志があり、すべてが量られて、ご計画のもとに、事が行なわれ
ている。振り返ると、信仰人生で、神の時を逸してしまう事があっ
たかも知れない。神の機会をとらえる事ができず、失敗してしまっ
たり、また逆に、神の時を待てないで、自分で動いてしまい、時期
尚早のため、実を結べなかったりする。

そして時と機会を捕らえた時に、素晴らしいみわざを見る。ある人
が証しした。教会で会堂建設のためにずっと祈りを積んでいた。そ
んな中、ある年に、景気の加減で土地の値段がぐっと下がった。こ
れぞ主の導き、今こそ、「神の時」だと思えた。こんな好機はめっ
たにない。すぐに購入しないと、売れてしまう、再度、値段が上が
るかも知れない。

早く、一刻も早くと焦る。しかしながら、牧師は、がんとして動か
なかった。この機会を逃してどうすると焦るが、土地の値段でなく、
教会内の一致の方が大事だと。機が熟すために、もっと時が必要だ
と判断していた。そしてやがて神の時が来て、価格的には遙かに高
い買物になったが、十分な満たしが与えられ、神の栄光を拝したと。

又、別の教会では、同じく祈りを積む中で、突然目の前にふさわし
い土地が与えられ、今が時と、即刻に決断するよう導かれた。私た
ちも信仰人生の中で、すべてに時があった事を見い出すのではない
だろうか。何事にも主の定められた時があり、時を見分けられるよ
うに、祈っていよう。
-----------
神の時は美しい。長く叶わなかった祈りも時を得ると鮮明に神の栄
光だけが現われる。心から私の時は御手の中と感謝するのみだ。神
の時を待ち望みまた悟れるよう祈ろう。


2020年03月26日(木)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3




主は「求めよ。そうすれば与えられる」と言われる。まず「求めよ
」と。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わない
から」だと。しかし私たちの願う事が、神の御心に沿ってなければ
叶えられない。自分の肉の思いかもしれない。自分の願いが、御心
に適っているのか、どうかがわからない。そんな時はそのまま祈っ
て行けば良い。

願いが、もし御心と違う方向なら、主はその事も示し、導いて下さ
る。祈りを軌道修正しつつ導かれる。御心でなければ、止めても下
さる。ある人が、ある志が与えられ、主の御心だと思え、祈り、進
もうとしていた。しかし身体面の弱さがあり、親族はそれを心配し、
皆が反対した。身体を気遣うゆえだった。しかし本人はどうあって
も御心だと信じ、進もうとする。

周囲は心配するがゆえに反対する。御心に進もうとしているのに、
反対され、行き詰まる状況に、焦り、せっぱ詰まり、主の御前に気
持ちを打ち明け、祈った。その時に、心の奥を照らされた。余りに
も反対されるので、意地になり、どうあってもと、むきになって進
もうとしている自分の姿を見せられた。

自我だと気づかされた。悔い改めて、今一度、主にすべてを明け渡
した。すると心が全き平安になってしまい、御心のままで良いと心
底思えた。主が止められるなら、それもOKと。するとその後、心
から語る言葉に、とうとう親族が受け入れてくれて、了承してくれ、
志を行なうことができたのだった。主が動機もきよめて、導いて下
さったことがわかった。
------------
強い思いがあると、どうしても自分の計画が成功しますようにと祈
ってしまう。ゆるがない御心を歩むためには、自分のプランを主に
委ねられるよう祈ろう。主が心配してくださる。


2020年03月25日(水)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9



パウロは、とげが与えられていた。とげとは身を刺す痛いものだ。
どんなに苦痛だったろう。除かれるよう切に祈り求めた。とげは妨
げとなり、これさえ無ければ、もっと主のために働けるのにと、真
剣に徹底的に祈った。しかしその答えは「ノー」だった。主は、と
げを除かないと。

なぜなら、主の恵みは十分であり、除くよりそのままの方が、更に
主の栄光が現わされると。自分ではどうにもできない「弱さ」の中
にこそ、主の力が完全に現れるのだからと。生まれつきの価値観は
弱さを嫌う。強さが善であり、強くありたい。だが神の力は「弱さ
」の中にこそ働くと。私たちにも、弱さが与えられているだろうか。

「これさえなければ、私の人生どんなにスムーズか」「こうでなけ
れば、私は幸せだったのに」悩みの対人関係に「この人さえいなけ
れば」「こんなに苦しまずとも、こんなに悩まずに済んだのに」、
辛い侮辱、又、迫害、困難、何度も「これを、あれを取り除いて下
さい」と祈る。何とか状況を変えて欲しいと。苦痛でたまらない、
その中で、パウロは切なる祈りをささげた。徹底的に祈った。

とげが与えられた時には、とにかくまず主に祈ろう。御心なら取り
除かれ、御心ならそのまま置かれる。そしてその弱さの中でこそ、
神の力と栄光が現わされる。その弱さに向き合う時、キリストの力
におおわれ、強ければ決して知ることのできない、主の大きな恵み
を知る。
------------
このとげが無ければもっと快適だった、こんなはずではなかったと
苦しみ悩んだとげが主を知るための豊かな近道だったと今は言える。
弱いからこそ何をも恐れない主の平安と力を得る事ができる。


2020年03月24日(火)

「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので・・」ローマ12:7



その前の節に、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけない」
とあり、続いて「分け与えられた信仰の量りに応じて、慎み深い考
え方をするように」とある。「思い上がる」というと、偉そうに、
いばって人を見下したような姿を思い浮かべるが、ここによると、
思うべき限度を越えた態度だと。そして信仰の量りに応じて慎み深
い考え方をしないことになる。

それが高慢で、不健全な態度だと。本当の慎み深い考え方とは、そ
れぞれに与えられた霊的賜物を用いて、主と人々に仕えて行くこと
だと。つまり「慎み深い考え方」は、「いえいえ、自分などはダメ
で、何もできない」と卑下して考える事ではなく、自分に与えられ
た賜物が、主から与えられたものと感謝して受け取り、それを主の
ために、人々のために用いて行くことだ。そこに豊かな祝福がある。

又、私たちは、「信仰の量り」によって、物事を見て行く。人間的
に、肉の判断で、この世の価値観で見るのでなく、御言葉を鏡とし
て、自分を見、御言葉に照らし出して、物事を見て行く。この世で
は、内側は見えず、外側しか見えないので、その外側を良く見せよ
うとひたすら繕って行く。人にどう見られるかが重要だ。

しかし信仰による考え方は、見えない内側も正直に、ありのまま認
めて、主に委ねて行く。「愛せません」「信じる事ができません」
「従う事が難しいです」・・その時、そのままの自分が受け入れら
れ、愛されていることを実感として知る。そして出来るようにされ
ることを経験して行く。
--------------
人の評価によって高ぶったり落ち込んだり。自分の勝手な物差しは
無用だと教えられる。信仰の量りは、人にも自分にも誠実に向き合
うようにさせられる。自然に慎み深くさせらていく。


2020年03月23日(月)

「彼が近寄って来たので『わたしに何をしてほしいのか』と尋ねられると、彼は、『主よ。目が見えるようになることです』と言った」ルカ18:41



当時、目の見えない人々は、仕事など無く、道ばたに座って、道行
く人に恵んでもらわなければ生きて行けなかった。物乞いで、生活
をしていた。又、生活面だけでなく、神殿に入ることができず、礼
拝することもできなかった。そこにも差別があった。何重もの苦し
みの中にいて、何の希望も無かった。

目が見えなかったので、通行人の言葉や、道ばたで話す人々の言葉
に敏感に耳をそば立てていた事だろう。そんな中、主の様々な噂を
、主のみわざを耳にしていた。主が通られると知るや、大声で「わ
たしをあわれんで下さい」と叫んだ。周囲の人々がたしなめても、
ますます叫んだ。一生に一度のチャンスだ。これを逃せば、もう機
会は無い。必死で求めた。

主は立ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた。
「目が見えるようになることです」と答えた。求めが、明確に、は
っきりとしていたので、即答できた。心の内にずっと培われていた
ものだろう。もし、当たりを行き交う人に「何をしてほしいのか」
と聞かれたなら、目が見えるようになどと言わないだろう。不可能
なのだから。

しかし「ダビデの子」「主」にはそれができると信じたから、叫び
求めた。「あなたの信仰があなたを直したのです」と、彼はたちど
ころに目が見えるようになった。主への求めに、主にはできるとの
信仰に答えられた。そして、神をあがめながら、主について行った。
彼の真の求めは、全身全霊で、主を礼拝することであった。
-----------
いかに盲目であるかを認めて、主をはっきりと見えるようにと求め
ていきたい。受けた恵みより主を感謝できる。日々、主を求め、心
から主を愛し礼拝する者になろう。


2020年03月22日(日)

「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると大声で神 をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して 感謝した」ルカ17:15 



10人のらい病人が、主に大声で「あわれんで下さい」と願った。す
ると主は「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われ
た。その時10人は、まだらい病のままだ。病のまま、行って祭司に
見せるようにと。彼らは、主の言葉を信じて、まだ身体は治ってい
ないが、言われる通りにエルサレムに向かって歩き出した。

すると、何と「行く途中でいやされた」。現状は何も変わらないま
ま、主の言葉を信じて踏み出した結果、途中で癒された。奇跡が起
きた。ここで学ぶ事ができる。まず御言葉を聞く。そして見える所
はそのままだが、御言葉だけを頼りに、その通りに従うと、主がみ
わざをされる。

逆に「行け」との言葉に従わずに、治った事実を見てから、行こう
とするなら、みわざを見る事はできない。「信仰とは、望んでいる
事がらを保証し、目に見えないものを確認させるものです」の通り
に。そして治った10人の内の1人のサマリヤ人は、祭司の所へ行く
前に、まず主のもとに戻り、溢れ出る感謝を献げた。他の9人は治
った事に大喜びで家族のもとへ帰り、主から離れてしまった。

感謝を献げたサマリヤ人は「立ち上がって、行きなさい。あなたの
信仰が、あなたを直した」と、主から、身体だけでなく、たましい
の救いを受け取った。感謝には大きな力がある。感謝して行く時、
思いを超えた大いなるみわざを見る。「感謝」に、主が働かれるか
らだ。

・・・・・・・・・・・・
なぜ感謝が無いのだろう。主が下さった恵みが恵みでなく、当然に
思う。当たり前が、当たり前でない事に気づく時に、感謝が生まれ
る。十字架のご愛、主は良いお方、今までの溢れる恵み・・感謝せね
ばならない、でなく、感謝を選択する事が出来る。そして喜びを経
験して行く。


2020年03月21日(土)

「ダビデは『アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している』 という知らせを受けたが、ダビデは言った・・『アヒトフェルの助言 を愚かなものにしてください』」Uサムエル15:31


アヒトフェルはダビデの議官だが、ダビデの息子アブシャロムに荷
担との情報が来た。裏切り行為だ。その時にダビデはどうしたのか。
まず、主に祈った。アヒトフェルの助言を愚かなものにと。なぜな
ら彼は知恵ある助言をした。それは人が神に伺って得る言葉のよう
であり、ダビデにもそう思えた。

その彼は、アブシャロムに、ダビデのそばめの所に入るなら、あえ
て父に憎まれる事をしている事になり、民は勇気を出すと助言した。
アブシャロムはそれを聞き入れ、全民の前で、父のそばめ達の所に
入った。ダビデは姦淫の罪が赦されたが、これは痛い刈り取りであ
った。罪の赦しと共に「白昼公然とあなたの妻達と寝るようになる。
あなたは隠れてしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前
でこの事を行おう」と主から言われていた。

続けてアヒトフェルは作戦をアブシャロムに告げる。今夜、ダビデ
を襲い、王だけを打ち殺し、すべての民を連れ戻すと。だが、アブ
シャロムはフシャイの意見も聞いた。ダビデの友フシャイはアヒト
フェルに反対し、ダビデに有利に計った。アブシャロムは、フシャ
イの方を取り入れた。

これはダビデの「アヒトフェルの助言を愚かなものに」のまさに祈
りの答えであった。主が彼の謀り事を打ち壊されたのだ。私たちも
窮地に立つ時、何よりもまず祈ろう。祈りにこそ大きな力があり、
神は祈りに答え、御心を示し、みわざをされる。

・・・・・・・・・・・・
ダビデは「・・助言を愚かなものにして下さい」と祈った。自分で
どうにも動けないし、何もする事が出来ない時がある。何のすべも
無いと感じる。しかし、祈る事ができる。そしてそれは最大の力だ。
何のすべも「無い」時に、祈りが「有る」。主を信頼して祈ろう。


2020年03月20日(金)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」民数記13:30



とにかく、上れ、占領せよと、主は言われる。前進すれば、確実に
勝利を得ると。御言葉の約束を信じて、前進しさえすればよかった。
しかし12人の斥候の内、10人は、民は強く、城壁持ち、アナク人を
見て、自分たちはいなごに見えたと。怯えて、恐れて、前進しない
と言った。この荒野で死んでいたらよかった、エジプトに帰ろうと
言い出した。主は自分たちを剣で殺そうとしていると。

ひどい不信仰であり、その不信仰は民全体にまんえんした。「主は
私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出し
てエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる」
と。こともあろうに、主の愛を憎しみだと取ってしまった。ヨシュ
アとカレブは、前進しようと言った。

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれ
ができるから」と。素晴らしく良い地であり、主の御心にかなえば、
私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地
には、乳と蜜とが流れている」「主が私たちと共におられる。彼ら
を恐れてはならない」。

12人は、全く同じものを見て、正反対の見方に分かれた。御言葉を
見て、現状を見るか。御言葉無しに、現状だけを見るかの違いだ。
「すべてのしるしにかかわらず、いつまでわたしを信じないのか」
と、今、目の前に恐れがあるが、御言葉を信じ、主に拠りすがり、
前進する時だろうか。祈ろう。助けて下さる。
-------------
御心なら全ての道で主は守ると約束してくださっている。主の真実
は大盾だ。心を定めて主に頼ろう。ネガティブな声は聞き流し、主
を通して現実を見ていよう。


2020年03月19日(木)

「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません』」ルカ7:47



この女性が、主をよけい愛したとあるが、これは、主を愛するその
前に、主がどんなに大きな愛で、深い愛で、愛して下さったかを知
っていたからこそ主を愛した。それに対して、女性の罪は赦されて
いると言われた。その後に「少ししか赦されない者は、少ししか愛
さない」と言われた。

何となく多く愛すると、多く赦されるように感じてしまい、もっと
献げ、もっと奉仕し、と思うがそうではない。まず主に多く赦され
たので、主を多く愛する者となって行く。こんなにも醜い罪人の自
分を赦して下さったから、その赦しを知るほど、愛する者へと変え
られて行く。ある人が、もっと祈り、聖書を読まなければと思うが、
しんどくなり、義務になる。

そんな時、問題が起きて自分がいかに酷く罪深いかを思い知らされ
た。打ちひしがれ、立ち上がれないほどだった。その罪が赦された
事を経験した時に、自分が変えられた。罪の赦しも頭の中の事で、
実感無く、自分は正しい人間だった。それが初めて赦しを実感した。
赦される喜びに満ちた。それ以来、義務感でなく、そうしたいから
主に仕えるように変えられた。

どんなに赦されているかを知る時に、おのずと愛が湧き出でる。別
の人も、余り自分の罪がわからなかった。しかし信仰生活の中で、
様々な出来事を通して、御霊は罪の大きさを知らしめて行って下さ
った。その赦しを受け取った時にやはり喜びが満ちた。主への思い
が変えられた。赦されるとは何という幸い。
---------
罪を赦されたという深い感謝と喜びは、思わず涙で主の足をぬらす
主に対する愛の行為になっていく。自分の小さな努力が愛されるに
ふさわしいと思っていく時、気づきたい。


2020年03月18日(水)

「何事も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってさだげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6



「思い煩うな」と御言葉は言っている。思い煩うとは、問題や試練
に会った時に、あれこれとネガティブに考え、不安でたまらず、心
が分かたれ、平安を失ってしまう事だ。家族の問題、経済的苦境、
対人関係の悩み、学校や職場、又健康面での悩み、次から次へと問
題は出て来る。その度に思い悩み続けると、その問題はどんどん大
きくなりモンスターになってしまう。

多くの時間、その事を思っているので、自分が問題をモンスターに
してしまう。大きな目の前に立ちはだかる城壁のように思えて、問
題に飲み込まれてしまう。「ストップ」する事が大切だ。あれこれ
悩むのでなく、祈りに持って行くことだ。ストップしなければ、時
間がある限りずっと思い煩い続けてしまう。思いが来る度に祈り持
って行けばよい。

それは問題の解決がどうのより以前に、主を覚え、主に心が向く事
が大きな恵みだ。祈る時は、主を意識している。心が主に向いてい
る。問題だけを見て、飲み込まれてしまいそうな中で、主に向く事
は大きな力だ。思い煩い続けるか、祈りに持って行くかのどちらか
だ。

「神に知っていただきなさい」と、余すところなく主にことごとく
打ち明けることだ。気持ちも感情も、思いも、心の底を吐き出した
結果、不思議だが平安に包まれる。
------------
心配で委ねられませんと正直な思いを主に告げるだけで主の平安に
守られる。自分で解決しようと頑張っていたことにも気づける。感
謝をもって祈りと願い事を主にささげよう。


2020年03月17日(火)

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25



ある人が、職場で、皆の前で面と向かって、批判され、きつい言葉
で攻撃された。それが理不尽で、なぜそんな事を言われなければな
らないのか、納得が行かず、ひどく傷ついた。更に、人々の面前で
もあり、プライドも傷つき、赦せない思いで一杯になり、怒りと憎
しみが湧き上がった。しかし赦せない思いは、自分が苦しい。

苦しくてたまらない。心が重く暗く悶々状態だ。しばらくして、部
署替えがあり、その相手は、顔を合わす事も無くなった。もう会わ
ないのだから良いようなものだが、しかし目の前にいなくなっても、
憎しみは消えず、心は苦しくてたまらなかった。赦せば、自由にな
る事がわかる。それなら赦せば良いと思うのだが、どうしても赦せ
ない。

忙しい時は紛れているが、時間が出来ると、ふっとよみがえり、心
に影を落とす。楽しい時も楽しくなく、牢獄に捕らえられた囚人の
ようだった。辛くて、主の御前に行き、何もかも心のありのままを
打ち明けた。赦せない事、憎んでいる事、しかし苦しくて、もし解
放されるならそうしたい事・・葛藤があったが、このままではいた
くない。

ずうっと御前で思い巡らし、考え、祈った。そしてとうとう赦すこ
とを決意した。「赦します。助けて下さい」と、主に意志を向けて、
祈った。するとあんなに苦しかった心が、すうっ〜と平安になって、
驚いた。みわざだとしか考えられなかった。生きて働いておられる
主に触れた瞬間だった。心が自由にされ、嬉しくて感謝でならなか
った。主と自分の間に隔たりをつくっていた事に気づかされた。
--------------
自分には赦すことが出来ないからこそ祈り始めよう。繰り返し考え
続けるより主に助けを求め、御霊に満たされて心を守ろう。必ず主
に明け渡せ委ねていける。


2020年03月16日(月)

「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか」ヘブル4:11



御言葉を聞く時に、聞き方に注意せよと言われている。イスラエル
の民は、皆、モーセから神の言葉を聞いていた。主は、乳と蜜の流
れる地、カナンへ導くとの約束を与えられた。しかし民は、「御言
葉が信仰に結びつけられ」なかった。そのため最後まで難しい状況
を見ては、主を疑い、いつも不満と愚痴三昧で、目に見える状況を
見るばかりで、信仰の目をもって主の約束を信じる事はなかった。

聞いた言葉も益にならなかったと。結局は不信仰によりカナンの地
に入れずに、荒野で滅ぼされてしまった。モーセは忠実に神からの
言葉を語った。聞く側に問題があった。サラも子供が与えられると
いう神の言葉が、信仰に結びつけられなかった。そのため自分に子
供ができないので、奴隷によって子を得るよう画策し、アブラハム
は従ってしまった。

どんなに御言葉を聞いても、それが信仰によって結びつけられなけ
れば、結実する事がない。信仰は、神の言葉と自分を結びつけてく
れる。御言葉を信じる時に、神の言葉は、自分の内で力となり、い
のちとなり、主の御心が成就して行く。御言葉を信じて行く時に、
御霊が私たちの心に働いて、実現するし、自分が変えられて行く。

自分自身はどうだろう。もしそこが欠けているなら、そのまま主の
前に認めて、御言葉が信仰に結びつけられるよう祈ろう。主が信仰
を導いて下さり、必ず豊かな実を刈り取って行く。
-------------
御言葉の約束があっても問題が起これば思いはネガティブな方へと
流れる。肉の価値観に流れそうな時、主に祈ろう。御言葉を信じ従
う方を選択しよう。主が助けてくださる。


2020年03月15日(日)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神 よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17 

私たちの人生で最も危険な時は、私たちがどうしようもなく無力で、
弱っている時ではなくて、自分に自信があり、自信満々の時だと言
われている。そんな時は要注意だ。モーセも40歳で、地位も富も権
力も能力も何もかも持ち、我こそはと同胞の救出に立ち上がったが
失敗した。

ペテロも自信満々だった。主が、皆、つまずくと言われた時に、全
部の者がつまずいても、自分だけは大丈夫と豪語した。決してつま
ずかないと。ペテロは知らなかったが、自分の力に頼っていた。そ
して本当の自分を、自分の弱さを知らなかった。主の言われた通り
に、ペテロは三度、主を呪いをかけて誓ってまで否定した。主を裏
切ってしまった。

しかし主は、ペテロが失敗しないようにではなく、信仰が無くなら
ないようにと祈っておられた。モーセは老人になった80歳の時に、
栄華も地位も力も何もかも失せた時に、民を救出するために指導者
として立てられ、用いられた。自分では今更何ができようと思った
ろう。主が用いられるのは屈強な軍馬でなく、ろばの子だ。

号泣したペテロは、自分の本当の姿を知った。情けない弱い自分、
惨めな自分の姿、弟子の資格もなく、ふさわしくないと思ったろう。
しかし主は、その砕かれたペテロを回復させ、建て上げ、諸教会の
リーダーとして用いられた。

「立ち直ったら、兄弟たちを力づけるように」と。自分に何も無い、
無力を知る時こそ、実は恵みの時だ。豊かな祝福へと導かれる。

・・・・・・・・・・
有能で、力に満ち、信仰強く勇敢な器が主に用いられるように思っ
てしまう。しかし御言葉によると、主が用いられるのは、砕かれた
器、主に拠りすがらなければ、何もできない弱い器だ。空の器を聖
霊で満たして、用いて下さる。無力こそが大きな恵みだ。


2020年03月14日(土)

「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしも べがあなたをのろうのを聞かないためだ」伝道7:21

人の言葉には、大きく影響を受けてしまう。人からの言葉がひどく
気になり、恐れや思い煩いにさいなまれるだろうか。又、面と向か
って責められたり、批判され、攻撃を受ける事があるかも知れない。
ダメージを受けて、心暗くなり、心沈んでしまう。

よく考えてみて、もし自分に非があり、落ち度があるなら、悔い改
めなければならないし、又、相手に謝る事が必要だ。しかし幾ら考
えても、自分に落ち度が見受けられないなら、御言葉に目を向けて
行こう。「人を恐れるとわなにかかる」とあり、自分が落ち込むの
は、自分の中で、人の言葉が、神の言葉より上になっていて、人の
言葉に重きを置いているのではないか。

神の言葉と人の言葉と、どちらが大切なのだろう。御言葉でなく、
自分が、人の言葉に振り回されていた事に気づく時に、平安が戻る。
「私たちの神のことばは永遠に立つ」絶えず御言葉を受け取り、御
言葉を握っていよう。御言葉を通して、人からの批判や目の前の状
況を見る時に、神視点で、人の言葉や状況を見ることができる。心
が神に向いているからだ。

今、平安が無いなら、心が辛く苦しいなら、神の言葉でなく、人の
言葉を受け入れていないだろうか。「人はみな草のようで・・」人の
言葉は草のようだと。草はしおれ、花は散る。しかし、御言葉は、
とこしえに変わることがない。聞く言葉と聞き流す言葉がある。永
遠に決して変わることのない、神の言葉こそ、絶えず目を向け、心
に受け取ろう。

・・・・・・・・・・・
人の目を気にする、人に嫌われたくない、良く見られたいという強
固な根深い価値観がある。神の御前でなく、人の前に生きてしまう。
人の言葉に振り回され、平安を失う時、御霊の気づきが与えられ感
謝だ。何度も〃気づかされつつ、少しづつ変えて行って下さる。


2020年03月13日(金)

「ダビデはナタンに言った『私は主に対して罪を犯した』」Uサムエル12:13 



ダビデは指揮をヨアブに任せ、兵士たちをアモン人討伐に出してい
た。全軍が命をかけて戦っている中、ダビデは夕暮れに起き出すと
いう怠惰な生活だった。その油断はサタンにつけ込まれた。ダビデ
はバテシバへの誘惑が来た時に、主に助けを求め、拠り頼むべきだ
った。主を仰ぎ、祈れば良かった。しかしそうせずに、誘惑に身を
任せ、罪に罪を重ねてしまった。

「ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」主はすべて
見ておられた。王であり、トップだ。誰一人何も言える者はない。
ダビデは隠ぺいした。しかし全く平安は無かった。主は、悔い改め
に導こうとナタンを遣わされた。主はダビデを祝福し、豊かに与え
「それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し
加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげ
すみ」と。

罪を犯した原因が主の言葉をさげすんだ事によると。それは「わた
しの言葉を侮り」「主の言葉を軽んじ」という事だ。主の言葉を軽
んじた事により、姦淫、殺人、虚偽の罪に至ってしまった。私たち
も罪を犯す時、原因は心の底で「主の言葉を軽んじ」ていることに
よる。信仰を捨て、否むのではないから、自分でも気づかないまま、
主の言葉をないがしろにして、肉を選択し、欲望に走ってしまう。

しかしそれは主の言葉を侮り、さげすむことだと。ダビデは罪を認
める事が出来た。日々主にとどまり、祈りと御言葉の交わりにとど
まる時、御霊が気づきを与えて下さる。罪も悔い改める事ができる。
主の言葉から離れず、主にとどまっていよう。
------------
御言葉を侮るということは、神を認めないで自分を神の上におき、
自分に栄光を帰していく。罪は人ではなく神に対する問題だと心か
ら思える。十字架の救いのほかに救いはない。


2020年03月12日(木)

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」Tコリント13:1



ある人が、後輩の対人関係の悩みを聞いていた。正しい冷静な判断
をしてあげたいと、相手が話すしりから、「それは、君も悪い」
「君の〜〜の態度は良くない」「君の〜〜の言動はまずい」とこと
ごとく話を折ってしまった。又、相手が話すと「それは、〜〜すれ
ば良かった」「もっと〜〜すべきだったね」と、自分では善意で、
解決を図ろうと、懸命に考えて助言したつもりだった。

しかし相手はキレてしまって、「先輩は、聞いてくれない!ああし
ろ、こうしろと正論ばかりで、気持ちが全然休まらない。いらいら
する」と親しいので本音を言ってくれたのだが、大変なショックだ
った。自分としては良かれと思ったが、正、不正で評価するばかり
で、全く気持ちに寄り添う事が無かった。

正しさばかりを押しつけて、荷を軽くするどころか、更に重い荷を
負わせてしまった。パリサイ人は、自分は正しいと決めつけ、「言
い伝え」を守れない人たちをさばくばかりで、人々に荷を負わせ、
自分はその荷に指一本さわらなかった。主は、自分の正しさで人を
苦しめていないかと言われる。

「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。
なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか」とあり、愛によらない正
しさは、人を損ない、傷つけ、又、同じ量りで量り返される事にな
る。そして自分の知恵でなく、御霊の知恵による導きによって歩む
ことが、自分も相手も平安へと導く。
-------------
自分は正しいと思う時の勢いは恐ろしい。いつも自己中心なものさ
しを持っていることを忘れずにいたい。主の愛を持っているか、祈
りながら応答しよう。


2020年03月11日(水)

「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」マタイ23:26



主は、パリサイ人に対して、非常に厳しい言葉を語られている。
「杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっ
ぱい」「忌まわしいものだ。パリサイ人・・」「偽善の律法学者、
パリサイ人」「外側は人に正しいように見えても、内側は偽善と不
法でいっぱい」・・と。主は、彼らが悔い改めることを望んでおら
れた。

主は内側を見られるので、幾ら外側をきよめても、何にもならない
。主が喜ばれるのは、内側の罪深さ、醜さ、憎しみ、妬み、高ぶり
、偽りを認めて、悔い改めることだ。だが、パリサイ人は外側だけ
を、行ないだけを問題にした。今の私たちは、パリサイ人を外側か
ら見ることができるが、しかし、自分自身もまた、容易にパリサイ
人になってしまう。

人からどう見られるかを、外見が非常に気になって仕方がない。嫌
われたくなく、良い人に見られたいので、無意識にも、良い人に振
る舞ってしまう。人目を気にして、繕ってしまうと、良い人でも何
でもない自分を、良い人だと思い違いしてしまう。そして、どんど
ん高慢になって行ってしまう。しかし、真実の自分は、妬みや憎し
み、裁き、赦せない思い、怒り、いら立ちでいっぱいだ。

それならパリサイ人と同じになってしまう。主は、絶えず自分自身
の本当の姿を教えようとして下さる。礼拝メッセージや、学びや、
デボーションの御言葉を通して、本当の自分を照らし出して下さる。
悔い改めを与え、赦しきよめるためだ。そして偽善に陥る事から守
って下さるためだ。
-----------
内側の霊的な部分はどうだろう。主にあって潤っているだろうか。
主と同じように自分の内側に最大の関心を払おう。よく祈って、
主との交わりの中で闇に気づかせてもらおう。


2020年03月10日(火)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12



ある独身女性は一人暮らしの中、歳末になり、街がクリスマスで華
やかに、キラキラし出すと寂しくてたまらなくなった。巷がにぎわ
い、特に家族団らんが溢れる年末年始はひどく孤独に感じた。周囲
の楽しげな家庭を見ては、主は不公平だと不満が募った。主にぶつ
けていた時、ぶどう園の箇所で気づきが与えられた。

早朝からぶどう園で働いた人達は、賃金を契約し満足していた。一
日の労働を終える時、十分な糧を得て帰宅できる。妻子の喜ぶ顔を
思い励みになったろう。そしてその日の賃金が保障されており、暑
さの中も平安もって働けた。ところが隣と比較した途端、感謝と平
安が吹っ飛び、不平不満と怒りで一杯になった。

比較が無ければ、自分に与えられた報酬に、感謝し満足できたのに。
彼女は、自分の心の態度の問題だと気づかされた。人との比較では
なく、また自分の理想の思いとの比較でもなく、あるがままの自分
を認め、そこで上を仰ぎ、主に従って行くなら、来る日も来る日も、
平安で幸せでいる事ができるのではないか。比較を止めて、主と自
分の関係の中で歩む事が救いなのでは。

主に出会う以前、自分を量るためには、人との差異でしか量りよう
が無かった。そのため、比較は、誰しもに根深く培われている世の
価値観だ。主は少しづつ変えて行って下さる。まず比較に気づけた
時に感謝しよう。御霊は気づきを与えて下さる。それが積み重ねら
れて行く。自由に、自由にして行って下さる。
----------------
比較の呪縛は根深く、周りと同じようにしていると安心できる自分
に気づかされる。注がれている神の愛をしっかり受けとり、人では
なく神の愛にふさわしい者でありたい。


2020年03月09日(月)

「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ」出エジプト3:12



羊飼いのモーセが、突然主から、パロにもとに遣わす、イスラエル
の民をエジプトから連れ出せと言われる。突如の難題に会う時、誰
でも多大な恐れと不安に襲われる。モーセは、なぜ自分が、そんな
事をしなければならないのかと。モーセは今や80歳であり、以前40
歳の時に、民を救出しようとして失敗し、懲りている。

この年老いた者に今さら何を?今の自分には何の能力も無く、更に
身体的にも老齢だ。だが主は、今のモーセこそがふさわしいと言わ
れる。尻込みするモーセに「わたしはあなたとともにいる。これが
あなたのためのしるし」と説得して行かれる。「しるし」とは、証
拠であり保証だ。主が共におられるとは、これ以上の保証は無い。

これが現実なら、これにまさる強みはない。これがすべてだ。私た
ちの信仰人生も同様だ。どんな時も主が共におられ、「わたしがあ
なたを遣わす」の通りだ。私たちがなすべき事を決めて、自分で行
き、自分の力で成し遂げるのでは断じて無い。主が遣わされるので
あり、私たちを、今いる場に遣わされている。

たまたま偶然そこにいるのでなく、主から遣わされて、そこにいる。
その所で主からの使命があり、それをも主が成し遂げて下さる。そ
して主は、モーセが血気盛んで、何でも出来ると思っていた40歳の
時でなく、栄誉も地位も富も人脈も、何も無い一介の羊飼いである
80歳のモーセを選ばれた。無力な、ただ主にすがる者を、主は用い
られる。
----------
偶然ではなく主が遣わされた場所だと今を見ていく時、主の恵みを
数えることができる。主は遣わされる場所に必要な力も備えも整え
てくださるお方だ。主に頼ろう。


2020年03月08日(日)

「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり 信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」コロサイ2:7


「あふれるばかりに感謝せよ」とある。私たちは病気になった時、
どうだろう。とにかく痛みを何とかして欲しくて、その一心だ。必
死に祈る。祈りは切実となる。そして祈りが聞かれ、癒されて元気
になると、あんなにすがり祈ったのに、祈りは省略となって行く。
休んでいた間の仕事の遅れを、取り戻す事に忙しい。業務は山積み
だ。感謝はどこへ行ったのだろう。

苦しい時の神頼みで、答えられた時は感謝するのだが、一時的だ。
問題が無くなった途端、自分の力で生きて行く。主が飛んでしまう。
人間の弱さで、すぐに感謝を忘れる。十人のらい病人の箇所で、主
は感謝のために戻ったサマリヤ人を大変喜ばれた。「イエスの足も
とにひれ伏して感謝した」。

「九人はどこにいるのか」と。九人はもう大歓喜で、主のもとを去
り、どこかへ行ってしまった。病の時は、普通に生活できている事
が、実は大変な恵みだとわかる。しかし元気になった途端、すべて
が当り前になり、感謝が失せてしまう。

入院した人を見舞った時に「朝毎に、ああ今日も起きることが出来
て感謝だなあと、心底の感謝に溢れます。今までそんな事思った事
もなかったのに。病気になった事も心底感謝です。ほんとに感謝が
足らない者です」と。感謝するを目の当たりにし、感謝に気づかさ
れる。主の御前に祈って行こう。感謝して行く人に、更なる感謝を
増し加えて下さる。そして感謝はサタンの足場を砕く。

・・・・・・・・・・・
不平不満、愚痴に、サタンはどんどん乗じて来る。思い煩い、不安
心配、恐れにも乗じて来る。サタンにやられてしまう。しかし感謝
する時、サタンは足場が無い、足場を失う。感謝があるところにサ
タンは働けない。不満でなく、感謝を選択できるよう祈ろう。


2020年03月07日(土)

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心 に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは。このよ うな人のことです」マタイ13:19


主は、私たちに御声をかけ、御言葉を通して、御心を示そうとし続
けて下さっている。私たちは、メッセージを毎週聞いているのに、
なぜ自分の事として聞こえないのだろう。物理的には、耳に聞こえ
ているが、心の耳に聞こえていない。聞きたくないというわけでは
ないのだが。むしろ拒否するなら、自覚がありわかりやすいが、拒
否するでもなく、何となく聞いている。

傍観者のように、他人事のように聞いていると、御言葉の種が心に
落ちる前に、サタンに奪われると言っている。御言葉を拒否する気
は無いので、むしろ気づかない。右から左に流れて行く。なぜ聞こ
えないのだろう。真剣に受け取るつもりがない、つまり心の深い所
では従うつもりが無い。聞く事は支障がないので、良いお話と聞く
が、犠牲は払いたくないので、心が受け取らない。

そこで他人事のように聞いてしまう。犠牲が必要な御言葉は、無意
識に退けてしまう。御言葉が、心にぐいぐいと入って来る時は、自
分が従おうとしている時だ。御声に従い、自分が変わろうとの思い
がある時に、御言葉が心に強く響いて来る。主の言っておられる事
がわかる。

種蒔きの例えの土地は心だ。自分の側の心の態度は重要だ。表向き
は御言葉を聞いているが、心の奥では拒んでいたりする。無意識か
も知れないし、うすうす感じているかも知れない。あなたの心はど
うだろう。実は聞こえては困るのだろうか。成長は気づきから始ま
る。御霊の働きだ。今まで忍耐を持って導き、どんな時も変わらぬ
愛で愛し慈しみ続けて下さった主を覚え、今こそ従おう。

・・・・・・・・・・・・
心が、ぼお〜っとしていたり、よどんでいる時には、御言葉が入ら
ない。心が他に向いている時にも入らない。そんな時は、ありのま
まの状態を言おう。まず主に向いて祈る事を喜んで下さる。御霊が
心を探り、導いて下さる。渇きも与え、求める心を与えて下さる。


2020年03月06日(金)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」ピリピ4:4



この前の箇所で、ユウオデヤとスントケに、主にあって一致するよ
うにと勧めている。教会宛の手紙に、個人名を出してまで勧めてい
る。どのような状況で、どんな問題があったのかは、記されておら
ず、わからないのだが、争っていたのか、一致が無かったようだ。
周囲にも彼女たちを助けるようにと懇願している。

そしてそのような中で、「喜びなさい」と繰り返し二度も言ってい
る。状況的には決して喜べない問題のさ中にあって、状況がうまく
行っているから喜ぶのでなく、「主にあって」喜べと言う。ラッキ
ーな事、ハピーな事があれば、誰でも喜べる。だが、誰しも悩みの
中では、重苦しく、どうしても悲観的になり、暗くなり、沈み込ん
でしまう。

教会内でも仲違いがあり、喜びとは全く逆の感情に向かってしまう。
しかし、主にあって、信仰によって喜べるのだと。そして「寛容な
心をすべての人に知らせよ」と。十人十色で、十人いれば、皆、意
見は違い考え方は違い、好き嫌いも違う。生い立ちが違い、境遇が
違い、価値観が違うから当然だ。

しかし皆、背景の違う人々が、主に在っては一致できる。主は一つ、
信仰は一つだから。自分の思い、肉の思いを捨てて、主の御心を求
め、御言葉を求めるなら、そこに一致がある。そしてそこに立つ時
に、違う人々が受け入れ合える。そして、「何も思い煩わないで、
あらゆるばあいに、感謝をもって」祈れと。

ことごとく問題を、悩みを、そのまま主のもとに持って行き、主に
打ち明けてよと。何があろうと、いっさい思い煩わなくてよいとは、
何という恵みだろう。今、抱えている問題をそのまま主に持って行
こう。
------------
人の営みを見ると一致できないのはお互い様ではないか。主にあっ
て全ての人が結び合わされている。教会が与えられて、世の未信者
の群から集まる兄弟姉妹が与えられている事は何と感謝だろう。


2020年03月05日(木)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます」詩篇18:28


ある人が、隣家の主婦が苦手だった。ずけずけと物を言うタイプで、
どうしても傷ついてしまう。隣なので言葉を交わさないわけには行
かず、逃げる事もできず、苦痛の日々であった。しかし自分はクリ
スチャンであり、相手の無礼な態度にも、礼儀正しく、丁重に接す
るよう努力した。何とか良い関係をと祈り、努力するのだが、傷つ
いてしまい、落ち込んだ。

辛くてずっと祈る日々だった。そんな折り、夫に転勤辞令が出た。
引っ越し業者にすべての荷物を依頼し、自分は列車で転勤先へ向か
った。様々な思いが巡り、祈りつつ、今までの事を思い起こしてい
た。あれほど苦しかった環境から出る事ができて、どんなにか安堵
で、楽になったはずなのに、心は何か晴れなかった。

そんな祈りの中で、御霊の光に照らされた。相手がきつい、人を傷
つける物言いをする人で、自分は被害者だとずっと思っていた。し
かし実は自分の方が、相手を拒み、心を開く事なく、受け入れてい
なかったのだと気づかされた。自分が相手を嫌い、裁きの目で見て
いたのだと。

自分は被害者としか見えなかったので、その裏にある自分の内側な
ど全く気づかなかった。悔い改めの祈りをして、自分自身も主に委
ねた。その時、心がすっきり晴れやかになり、心底からの安堵、平
安が臨んだ。この平安こそは、何ものにも代えられない。
----------
何でも祈りによって主の前に持ち出すことができるのに、闇の中に
隠れているものは主に示されないと解決がない。御霊によって気づ
かされる時、心から悔い改めさせられ、主を賛美する。


2020年03月04日(水)

「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」エレミヤ29:10



エレミヤの時代、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ捕虜として連
行された。そのアッシリヤはバビロンによって滅ぼされる事になる。
バビロンは侵攻し、国々は滅ぼされ、とうとうユダもバビロン捕囚
の身となった。当時のユダは神から離れ、偶像礼拝に走り、堕落し
ていた。預言者たちは、耳ざわりの良い、心地良い言葉だけを語り、
平安が無いのに「平安、平安」と言った。

しかしエレミヤは、真っ直ぐに神からの痛い言葉を語った。そのた
めに苦しめられた。バビロン捕囚のさ中、真っ暗な中で、エレミヤ
は、それは、一見「災い」としか見えないが「平安と将来と希望」
のためのものだと言った。すぐに解放にはならないので、その地で
落ち着いて、腰をすえて地道に生活するようにと。

そして敵である「その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」、そ
れは自分達の繁栄になるからと。私たちも苦しい時、一番欲しい言
葉が「即、問題解決」「即、悩みから解放」だ。しかし口先だけの
励ましは、更に傷を深める事になる。私たちも足かせのような苦し
い現状を受け入れる時、その中で神からの支え、励ましにより生き
て行けるという事だ。

現実を受け入れる事が大切だ。いつまでも苦しみのままでなく「70
年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。現状を受け入れて神に
従って行こう。そこに「平安」が約束されている。そして神の時に、
かせから解放して下さる。
-----------
みな閉ざされていても神の御心ならここが一番確かな場所と、神に
時を委ねて安んじていよう。環境によって導かれる神はやがて道を
開き行く先を示してくださる。


2020年03月03日(火)

「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう・・人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」ガラテヤ1:10



日常生活で、どうだろう。何を基準にして、思考、行動しているの
だろう。もし人の言動や、態度、自分への評価が基準になっていた
なら、アップダウンを繰り返してしまう。人から認められ、評価さ
れたなら心地良く、満足で、認められず、賞賛を受けなかったなら、
ひどく落ち込んでしまう。そうであれば、幸、不幸が、他人次第と
いう事になる。

人の言葉が気になって仕方が無いだろうか。昔の日本では、向こう
三軒両隣りが神と言われていたが、人が偶像になってしまう。人に
どう思われているか、人の目を恐れ、人の態度で一喜一憂し、がん
じがらめになる。自由も喜びもなく、何を言われるかとびくびくす
る事になる。「人を恐れるとわなにかかる」、人の目ばかりを気に
すると、御心と反対方向へそれてしまう。

人を恐れると「ノー」が言えない。相手を傷つけたくなくて「ノー
」を言えないのは、実のところ相手でなく、自分が傷つきたくない
からだ。又、相手を喜ばせようとして、「ノー」が言えない。人の
歓心を欲してだろうか。お喜ばせするべきは、主だ。御言葉を基準
にして、主に信頼するなら守られるとある。まず自分が人目を気に
し、恐れる者である事に気づく時に、助けを求めて祈りに持って行
ける。

祈って行く時に、御霊は生活の中で具体的に示し、導いて下さる。
相手の嫌な言動に振り回されずに、御霊の導きに従い続ける時に、
自分自身は平安にされる。相手は変わるかも知れないし、変わらな
いかも知れない。しかしそれを続ける中で、自らは主の平安の内を
歩める。そして少しづつ人の目から自由にし、解き放って行って下
さる。
------------
人を恐れているとしっかりと認めていたい。簡単に人の流れに飲み
込まれる。人の支えも必要だが、本当に神の恵みのみに頼っている
か。逆にならないよう祈っていたい。


2020年03月02日(月)

「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて・・家を建てた人・・洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも・・びくともしませんでした」ルカ6:48



賢い人と愚かな人がどちらも家を建てた。賢い人は岩の上に、愚か
な人は砂の上に。家の外観は全く同じだが土台が違った。岩の上に
建てるには、地面を深く掘り、岩を掘削して大変な労働だ。一方、
砂の上に建てるのは、楽で、手っ取り早い。何も無い時は、外側同
じに見える。だが大嵐が来て、雨風で、洪水になった時、違いが明
らかになった。

岩の上の家はびくともせず、砂上の家は倒壊してしまった。その壊
れ方は酷かったと。砂上とは自分の思い、考え、感情、世の価値観
で歩む人生だ。又、土台は富や名誉や地位かも知れない。自分の思
いで進む人生は、何も無い時は、うまく行っているように見えるが、
試練の時に立ち行かずに、崩壊してしまう。まさに砂のようだ。

しかし自分の思いや感情、自分の力でなく、主に聞いて、御言葉土
台に、主に頼って従う歩みは、どのような苦しみ、試練が来ようと
も、絶対に倒れない。信仰人生では、時に、突如の、想定外の出来
事に出くわすものだ。「どうしてこんな事が」「なぜ自分に」・・
しかし何があってもびくともしないと。必ず試練を乗り越えて行け
る。

まず御言葉を聞く事が大切だ。しかし二つの家はどちらも御言葉は
聞いていた。「実行する」「従う」で両者は分かれた。聞いただけ
では忘れてしまう。御言葉を反すうし、考え、御言葉を「見つめて
離れない」時に、実行して行ける。
-----------
試練の時、同じように恐れはあっても主を知っている者はまず祈り、
御言葉に指針を求める事ができる。本当に感謝だ。どんなに倒れそ
うな家に見えても土台は主だ。しっかりと立っていよう。


2020年03月01日(日)

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを 加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい」ヘブル12:6


この世の信心は商売繁盛、家内安全、交通安全、五穀豊穣だが、御
言葉は必ず試練があると言っている。主が苦しめ、試みると。主は
私生児は懲らしめないが、実子は懲らしめると。主は、訓練し、鍛
錬を与えて下さるが、だが訓練を訓練として受け取らなければ、痛
いだけで何も学ぶ事ができず、何の益もない事になる。

逆に反抗し、心を屈折させ、ひねくれてしまうならどうだろう。何
度、試練を通っても、自身が何一つ変えられない事があり得る。そ
れは、自我が砕かれていない事が原因だ。この自我を取り扱われる
ために、嫌いな人、うまく行かない状況を目の前に送られる。

相手にも非があったりすると、どう見ても相手が悪いとしか見えな
い。相手のせいで自分は苦しい立場にいると思い、ますます憎しみ
が増幅する。そして心の中で相手を責めて行く。しかし自分の心に
平安が無い。その苦しみもまた相手のせいだと思ってしまう。この
苦しい状況を何とかして下さいと、祈るのだが幾ら祈っても祈りが
聞かれない。

状況も、自分も、相手も、何も変わらない。祈りが聞かれず、状況
も変わらない事を通して、段々「もしかして、何か自分の事を言わ
れてる?」と感じ始める。気づきが与えられると、祈りに持って行
ける。教えて下さいと祈ってゆくと、自分の内に砕かれない、頑な
なものがあると示され、強い自我に気づく。

すると、私を変えて下さいの祈りにたどり着く。そして御心にかな
った祈りは、聞かれるとの通り、この祈りは聞かれる。自分自身が
変えられ、一段階、成長へと導かれる。苦しかった心に、平安が来
て、解き放たれる。

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この世の価値観では、問題が無い事、平穏無事が祝福だ。しかし聖
書には、繰り返し試練があると言っている。受け入れるすべての子
に、むちを加えると。聖めるためであり、御子のかたちに変えられ
て行くためだ。そのところにしっかり焦点を当てていよう。