2020年04月30日(木)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます」ヨハネ10:3



私たちは、日々、朝起きてから夜寝るまで、何らかの声を聞いて生
活している。いつもまずどれかの声を聞いて、その声に動かされて
、行動している。声に影響されている。それは、自分の内から湧き
上がる声だったり、人の声だったり、テレビやラジオ、新聞からの
声だったりする。その声は、怒り、妬み、憎しみ、泥酔、ギャンブ
ル・・ストレートな罪の思いやネガティブな声ならすぐわかるが、
もっともらしい声だったりする。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道
である」。人の目にまっすぐに見えるから見分けにくい。良い事、
正しい事と思い、欺かれてしまう。仕事は御心であり、良い事だ。
又、趣味も人生に楽しみと喜びを与えてくれる。しかし、いつしか
それら良いものに心を奪われ、度を越えてのめり込んでしまい、神
から離れた人も少なくない。

又、人からの攻撃、非難中傷に、こちらも反撃したくなる。肉の声
に聞くと報復が正当に思えてしまう。人に聞いてもそう答えるかも
知れない。しかし私たちが聞くべき声は、主の御声だ。サタンは肉
の声を、これでもか〃と、焚きつけて来る。主の言葉に立たなけれ
ば、そちらに従ってしまいそうだ。

しかし「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりす
るため」。それは私たちを反対方向へ進ませ、神から離してしまう
声だ。批判の指摘が当たっていれば、悔い改めれば良いし、当たっ
ていなければ聞き流せば良い。様々な声が混線している事を覚え、
御声を聞き分け従えるよう絶えず祈ろう。
------------
自分の内から湧いてくる叱咤激励の声に自分自身が疲れてしまうこ
ともある。誰がそう言っているのかと聖書を開き、主の声に耳を傾
けて安心する。折々に祈り、真実な主の御言葉を聞きたい。


2020年04月29日(水)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33




ある人が職場で、早朝出勤、深夜帰宅の過重な毎日だった。企画し
た仕事は思った以上に困難で、その準備に幾ら時間があっても足ら
なかった。仕事後は、外部関係者の接待が続き、体力にも限界で、
ストレスは半端無かった。容量オーバーで、デボーションの時間も
全く取れず、日々の重責に、心はピリピリ、イライラし、平常心も
失いつつあった。喜びや平安など持て無かった。

どうにもならず、決心し、時間を取り、主の御前に静まった。主を
意識し、ギリギリの状態で祈り始めると、心が解き放たれて行くよ
うだった。御言葉に向かうと、カラカラのスポンジに水がしみ込む
ように感じた。「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」
の御言葉が心に臨んで来た。

「神の国とその義」が、後回しになっていて、「それに加えてこれ
らものはすべて与えられます」の「これらのもの」を第一にして、
心身すり減らしていた事に気づかされた。優先順位が狂っていた。
逆になっていたので、全く平安が無く、喜びもなく、疲れ果ててい
た。

多忙の日々こそ、更に主を必要としている事にも気づかされた。朝
のほんの少しの時間をも、交わりの祭壇を建て直した。平安と喜び
が戻った。優先順位に気づきが与えられたら、その度に戻して行こ
う。御霊が気づきを与えて下さる。
------------
主との交わりの祭壇が崩れていくと、負の言葉ばかり聞いてしまう。
気がついたらそこからやり直そう。罪も赦され弱さも受けとめられ
る主から離れては、本当の意味での喜びを見失う。


2020年04月28日(火)

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい」マルコ5:34 



12年もの間、長血を患った女性がいた。長血は、律法によって不浄
とされ、礼拝へ出ることもできなかった。肉体的、精神的、社会的
苦しみの上に、更に経済的にも次々と医者にかかり破綻状態だった。
先に何の希望も持てない、真っ暗な中にいた。どんなに辛く苦しい
絶望状況だったろう。主に癒しを求め、主の着物にでも触れる事
ができればと思った。

それは切なる思いであり信仰だった。なぜなら不浄のため、他人に
は触れる事ができなかった。だのに主に触れようとした、諦めない
、屈しない信仰であった。主の癒しを信じなければ、まずリスクを
冒して触りなどしない。しかし主の着物に触れ、ひどい痛みが消え
、病気が治った彼女は、誰にも知られたくなくて、密かに立ち去ろ
うとした。

しかし主は、「わたしにさわったのは誰か」と捜され、これは隠し
おおせないと悟った彼女は、進み出て、皆の前で、事の次第を話し
た。人の後ろに隠れ、人混みに紛れ込み、おどおどしていた彼女が
主の御前に、皆の前に出て、余すところなく打ち明けたのだ。どん
なに勇気が要った事だろう。主は、彼女の口からはっきりした信仰
告白を引き出そうとされた。

なぜなら彼女には信仰があったからだ。主は、彼女を光の中に出し、
信仰を告白させ、その信仰を確かなものとされた。「あなたの信仰
があなたを直した」「安心して行きなさい」と。どんなに安堵に満
たされた事だろう。私たちはどうだろう。群衆に紛れて隠れている
だろうか。主はいつも向き合っていて下さる。私たちも、主の御前
に出ることを求められているだろうか。
------------
悩みや思い煩いの中から主に手を伸ばそう。病があり悩みがあるこ
とを主は知っていてくださる。必死に伸ばす手を主は離されない。
私の前に出なさいと声をかけてくださる。


2020年04月27日(月)

「わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます」ヨハネ11:15



マルタは、主のもとに使いを送り、ラザロが「病気です」と伝えた。
ラザロは危篤状態であり、マルタは、伝えさえすれば、主がすぐに
駆けつけて下さると思っていた。しかし主は、「この病気は・・神
の栄光のためのもの」と言われ、全く動かれなかった。尚2日とど
まり、ラザロの死を確認してから、つまり死後に出かけられた。

迎えたマルタは「もしここにいて下さったら、死ななかった」と。
マルタは将来のよみがえりは理解しているが、今、主がラザロをよ
みがえらせると信じていなかった。病気を治すことは信じられるが、
よみがえるとは信じることができない。マリヤも同じ言葉を言った。
すべてを断ち切る「死」の前には、絶望であり、泣くしかなかった。

しかし「あなたの兄弟はよみがえる」と言われた主は、ラザロの墓
の前で「石を取りのけよ」と。4日経ち、腐敗していると言ったマ
ルタだが、主の言葉に従い、墓の石を取り除けた。信仰が行ないと
なった。すると奇跡が起きてラザロはよみがえった。ラザロを通し
て「わたしは、よみがえりです。いのちです」と、主ご自身が死に
勝利されていることを表わされた。

そのためには病気の回復でなく、死でなくてはならなかった。「神
の栄光のため」であり「神の子が栄光を受けるため」であり、「あ
なたがたが信じるために」であった。あなたが今、行き詰まり、絶
望状態なら、主はその絶望を打ち破られ、すでに勝利されている。
「あなたが信じるために」主は信仰に進ませようとしておられる。
-----------------
この病気は死で終わるだけものではないとの主の語りかけを聞こう。
復活の主が共におられる。その目的は神の栄光の現われのためにあ
る。信じていこう。


2020年04月26日(日)

「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのとこ ろに行かれた」マタイ14:25



有名なペテロの海上歩行の箇所で、主は、弟子たちを「強いて」強
制的に、舟に乗り込ませられた。弟子たちが自分で選んだのではな
い。夕方、沖へこぎ出したが、その途上で嵐となり、波と風で荒れ
狂った。夜の真っ暗闇での嵐は、何も見えず、どんなに恐怖だった
事だろう。信仰人生において、嵐は避けられない。風雨も洪水も、
日照りも飢饉もある。

人生には順境と逆境があり、逆境は必ず来る。主が与えられる。そ
れは世の人々と同じだ。しかしどこが違うのか。その嵐のまっただ
中に、来て下さる主がおられる。必ず嵐に会うが「しっかりしなさ
い。わたしだ。恐れることはない」との主が共におられる。何と心
強いことだろう。

私たちが、試練のまっただ中で、不安と恐怖の中にいる時、又、辛
さと苦しみ、寂しさと孤独の中にいる時、「わたしだ」と言われる
主がおられる。その主は、荒れ狂う湖の上を、物ともせず歩いてお
られる。私たちの問題や悩み、困難の上を歩いておられる。

小さな女の子が、二階の部屋にあるおもちゃを取りに行くのが、恐
くて仕方が無かった。親に幾ら大丈夫だからと言われても、恐くて
どうしようもない。その時、父親が「じゃあパパが一緒に行こう」
と言った時に、女の子は全く恐く無くなった。恐れがきれいに消え
た。

私たちの平安は、悩みや問題が無い事ではなく、平穏無事、無風に
あるのではなく、どんな悩みが逆巻く中にも、主が共におられるこ
とにある。ここに全き平安がある。その主は、絶えず御声をかけて、
私たちを慰め、励まし、導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
どうしても環境に依存し、平穏無事が平安だと思ってしまう。が、
そうでなく、インマヌエル、主共にいます事こそが平安だ。大嵐の
中で、主の言葉が心をなぎにしてくれる。今の非常事態の中で「し
っかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語り続けられて
いる。


2020年04月25日(土)

「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってき たことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまってい る」Tヨハネ3:14



ある人が、対人関係で傷つき、相手がどうしても赦せない。しかし
自分はクリスチャン、赦さなくてはと思うのだが、思う度に更に怒
りが湧いて来る。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、
その人は偽り者」とあり、御言葉によるなら、現に相手を憎んでい
る自分は、まさに偽り者ではないか。

赦せない思いはどうにもならず、悶々状態だ。だが、人を憎むのは
自分が辛く苦しい。平安も無い。そのため、そのまま祈りに持って
行き、御前で祈り続けた。「赦したくない。怒りがどうにもならな
いです」と正直に祈り続け、だが苦しいため、「でも、赦せるよう
助けて欲しい」と祈った。無力を思い知らされる中、とにかく祈り
続けて行った。

そんな中、不思議を経験した。心の内を告げながら、ああでもない
こうでもないと、時間をかける中で、心が少しづつ〃変えられて行
ったのだ。ふと「赦してもいいかな」と思う瞬間があり「しかしや
はり赦せない」、尚も祈っていると、赦してもいいかなの気持ちが、
少しづつ微量ながら増して行ったのだ。そして、怒りが少しづつ〃
薄らいで行くのを覚えた。全く自分でなく、主のみわざであった。

「愛さない者は、死の内にとどまっている」、愛さない者は、闇の
中にいると言っている。「愛の内にいる者は、神の内におり、神も
その人の内におられる」。「愛して行こうとする事」が、神の内に
いるかどうかのしるしだと。愛するとは、赦すことでもある。まず
自分自身が、主の愛を知って行く時に、人を愛する者に変えられて
行くと。

内に御霊がおられるので、必ず、愛、喜び、平安、寛容・・の実を結
んで行くからだ。自分の愛の無さを知り、弱さを知る。しかしそれ
を知る時、変えられて行くとの希望がある。少しづつ〃変えられて
行く。御霊が変えて行って下さる。どんな時にも希望がある。

・・・・・・・・・・・・
どうしても赦せない思いや、愛せない思い、どうにも出来ない時こ
そ、主のみわざを知る恵みの時だ。どうにも出来ないが、祈る事が
出来る。まず祈ろう。すると「自分が」「自分の力で」しようとし
ている事に気づかされる。主が取り扱われ、みわざを見せられて行
く。


2020年04月24日(金)

「私は心に悩みのある女でございます・・私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです・・つのる憂いといらだちのため今まで祈っていたのです」Tサムエル1:15



ハンナは子供がどんなにか欲しかったが、子供が無かった。そこに
もう一人の妻、ペニンナは子供があったが、夫がハンナの方を愛し
ている事を妬み、ハンナに辛く当たっていた。ハンナは、ペニンナ
によるいじめ、周囲の無理解と好奇の目、夫にも苦しみをわかって
もらえない辛さ、孤独、寂しさ・・苦しい状況にいた。

余りに辛く、ハンナは泣いて食事も出来なかった。「食事が終わり、
ハンナは立ち上がった・・彼女は主に祈って、激しく泣いた」。
苦しみは極みに達し、ハンナは祈ろうと、主に持って行こうと、立
ち上がった。心の底から主に叫んだ。痛みと苦しみ、辛さを何もか
もを吐き出し、感情もぶつけ、激しく泣いた。御前で心の底の悲し
み、怒り、嘆き、恨み、何もかもを吐き出し、祈った。

男の子が与えられたら、主に献げると、何もかもを明け渡した。祭
司からあなたの願いが叶えられるようにとの言葉をもらい、ハンナ
はすっきりし、晴れやかになった。喉も通らなかったのに、帰って
食事が出来た。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。心は
すっかり落ち着き、平安になった。

ある人は試練に次ぐ試練で、許容量オーバーになりそうで、気がお
かしくなりそうな時に、ノートに、主に向かい、思いも感情も、気
持ちの何もかもを書いて書いて書き連ねた。何もかもを吐き出した
時、すっきりした。そして平安になった。主に、問題も気持ちも感
情も何もかもを持って行こう。

主は愛し、すべてを受け止め、心を平安へと導いて下さる。私たち
も、いたずらに思い煩っているのでなく「ハンナの祈り」をもって
御前に行こう。
--------------
辛いと言える主が傍におられる事はなんと幸せだろう。祈るために
立ち上がったハンナのようにいつでも主の前に行ける。包み隠せな
い本音も、言葉に出来ないうめも主は掬い取ってくださる。


2020年04月23日(木)

「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた」」申命記8:3 

        

「主は、苦しめ、飢えさせ」とあり、他でもない、主が「苦しめ」
「餓えさせる」と言われている。信仰人生で、種々の悩み苦しみに
出会う。他の人は幸せそうなのに、自分は、たまたま苦しみにあっ
たように感じてしまう。「何で?」と。又、人との関わりでの苦し
みは、相手のせいにしか思えない。相手が〜〜だから、こうなって
いると。そして「何で?」と別の悩みに襲われる。

信仰するなら、祝福して下さるはずではないのか。その祝福とは、
病気にならず健康で、商売は繁盛で、畑は豊作で、受験は合格と思
っているので、病気やけが、不作、不合格、経済的苦境、嫌な対人
関係は、祝福されていないと思ってしまう。しかしたまたまでなく、
「主が」あなたを苦しめ、飢えさせ、とある。

それは、人はパンだけで生きるのではない、主の口から出る御言葉
で生きることを、あなたにわからせるためだと。人は順境の時には、
主を求めず、自分で生きて行く。頼る必要が無いからだ。主を頼ら
ずとも、自分の力で十分やって行けてしまうからだ。どんな時に主
を心底頼るのだろう。自分の力ではどうにも出来ない時だ。

無力の極みの時こそ、主にすがる。だが「あなたの着物はすり切れ
ず、あなたの足は、はれなかった」、どんな中でも完全に守られる。
そして「ついにはあなたを幸せにする」、必ず良い地に導き入れら
れる。苦しみの時には天からのマナがあり、主を深く知って行く時
とされる。
------------
慰め、平安をくださいと祈る事しかできない時に不思議と今まで味
わった事のない平安が与えられる。逃れようのない苦しみとしか見
えなかった目が神中心に変えられている。主のお取り扱いを思う。


2020年04月22日(水)

「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23



私たちの古い性質は、自分の誤りを認めたくないものだ。間違って
いるとわかっていても、認めたくない。肉のプライドだ。不和の相
手がいると、相手が謝るなら、こちらも謝ってもよい、相手が変わ
れば、こちらも態度を変える気持ちはあるのにと。自分から「ごめ
んなさい」とは言いたくない。出来るなら、謝らずにうまくうやむ
やに済ませたい。

又は、親切な行ないで、差し引きゼロにし、自分の良心のとがめも
なだめたい。そして礼拝や奉仕が逃げ道になり、それで埋め合わせ
をしようとする。だが、主はそれは喜ばれない。主に罪を犯してい
るなら、罪を告白し、人への罪なら相手に謝まる必要がある。悔い
砕かれた心を喜ばれる。先延ばしにしている和解や謝罪があるだろ
うか。

人を憎んだまま、主への献げ物は受け入れられない。礼拝への途上
でも、供え物は置いたままにしてでも、仲直りの方が大切だと言わ
れている。先にそれをしてから礼拝を献げよと。謝罪はプライドゆ
え逃げたい。自分は主からの赦しを受けながら、赦そうとしない相
手がいないだろうか。人との正しい関係は大切だ。そして「誰かに
恨まれている」なら、自分から仲直りのために出て行くようにと。

「恨まれている」のであって、自分が「恨んでいる」のではない。
しかし、恨まれている自分の方から赦しを請うようにと。そうする
時、御霊は助けて下さる。世の喜びではない、御霊の喜びと平安を
経験する。自分の力では出来ないので、まずそう出来るよう祈ろう。
-----------
恨まれている事を思いださせてくださったのも主ではないか。主の
恵みの中で自分の状態を知らされた。主の導きに委ねて従えるよう
に祈ろう。


2020年04月21日(火)

「ここで、私たちは兄弟たちに会い、勧められるままに彼らのところに七日間滞在した。こうして、私たちはローマに到着した」使徒28:14




パウロは、宣教のため、御霊によりローマ行きを示されていた。し
かし伝道旅行後に、エルサレムに寄った時、群衆の騒動、混乱に、
千人隊長がパウロに弁明を許すと、「こんな男は、地上から除いて
しまえ。生かしておくべきでない」と人々に殺されそうになる。大
混乱に陥った。パウロは捕らえられてしまい、ローマに行く事は全
く不可能に見えた。

しかし監禁により、却って暗殺者から守られる事になり、不毛の裁
判のように見えたが、それは総督のペリクスやフェストに証しをす
る機会となった。又、丁度アグリッパ王がフェストに会いに来たた
め、王にも福音を語る機会が与えられた。パウロは、更にローマ皇
帝に上訴したため、これがローマへの道を開いた。

パウロの思いとは全く異なり、囚人としてであったが、ローマに向
かう事になった。ところがその船が、幾日もひどい大嵐に会い、皆
が、もうだめだと思ったほどの、絶望の状況だった。しかしパウロ
はローマへ行く事ができ、必ずカイザルの前に立つとの、主の言葉
を信じ、皆を励ました。そしてその通りに、船は座礁したが、全員
が無事に岸にたどりついた。

「こうして、私たちはローマに到着した」。ローマ行きが見事に実
現した。そこで証しし、福音を伝えた。どんなに障害があり、妨害
があっても、主は必ず御言葉を実現される。主が語られた事は100
%成就する。あなたは今、苦しい状況だろうか。「こうして、ロー
マに到着した」。必ず、あなたに約束された御心は成就する。主が
実現させて下さるので、信じていよう。
------------
あらゆる事が恵みとなって相働き益とされる。そこを信じて行くこ
とが私たちの立ち所だ。明日を知ることは出来なくても、主は約束
された最善に今も導いてくださっている。


2020年04月20日(月)

「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対にむいていたからだ」民数記22:32



イスラエルがどんどん勢力を増す事に、恐れたバラク王が、バラム
を雇ってイスラエルを呪わせようとした。主はバラムに「行くな、
呪うな」と命令されたにかかわらず、バラムはバラクと共に行く。
欲望で報酬に目がくらんだからだ。するとそこに突然、抜き身の剣
を持った主の使いが現れ、行く手を阻止した。

ロバには見えたが、バラムには見えなかった。ロバが止まらなけれ
ば、命は無かったところだ。主が止められた。ある人が、念願の進
路があった。どうしても進みたい。あらゆる手を尽くし、懸命に道
を模索した。しかし環境的に身動き取れなかった。祈っていた時に、
御心と反対方向を向いているので、主が立ちはだかられたとわかっ
た。

思い通りにはならなかったが、心は平安にされた。そして後に、遙
かに良い道が開かれたのだった。あなたももしや反対方向に向かっ
ているので、主が阻止しておられるだろうか。それはあなたへの愛
であり、更に良い道が備えられている。又、ある人は、目の前の好
条件の転職に目がくらんでしまったと証しした。

ヘッドハンティグされ、高給で、何より自分の才能が生かせる事に
心惹かれ、親しい人々の反対も押し切って、転職した。しかし仕事
は高度でハード、連日の残業、主のことは後回しになって行った。
富、地位、名誉、自己実現、世の欲に向かってしまう。バラムの道
に従うなと、主は言われる。絶えず軌道修正し導いて下さる、主の
御手を見、それに従って行こう。
----------
自分の都合のいい方向へ走ってしまう者を主はあらゆる事を通して
導き返してくださる。主のあわれみに感謝だ。御心に反していては、
御心は行われない。この当たり前のことを一つ一つ学ばされる。


2020年04月19日(日)

「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで 来なさい』」ヨハネ4:16


この女性は、昼の暑い時に井戸に水を汲みに来た。普通は夕方涼し
くなって来る。それは人と会いたくないからだった。彼女は5回結
婚し、5回離婚し、現在は同棲中だった。好奇の目で見られ、噂の
的だったろう。そのため皆が集まる時刻を避けていた。主は、そん
な彼女のために、わざわざサマリヤへ行かれ、主の方から声をかけ
られた。

ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係だ。そして普通、男性から話しか
ける事はしない。そんな男性が非常に不思議な事を言った。自分は
生ける水を与える事ができ、その水を飲むと決して渇く事がなく、
永遠の命への水が湧き上がると。彼女は戸惑いつつも井戸水の事か
と思い、汲む必要がないなら、その水を欲しいと願った。

その時「あなたの夫を呼べ」と言われた。唐突で、一見会話がつな
がらない。しかしそれは彼女が触れられたくない核心だった。喉が
渇くと水を飲む。そのように心が渇くと、様々なもので潤そうとす
る。人、仕事、地位、賞賛・・しかし幾ら飲んでも、つまり次々と楽
しげな事をしても、心は満たされない。更に渇いて行く。

彼女にとっては男性だった。しかしそこに何の満たしもなかった。
主は罪を示し、悔い改めに導き、彼女を真の救いへと導かれた。私
たちも、主は湧き上がる水を、満たしを、与えて下さる。それをふ
さいでいる、自分にとっての「夫」があれば、悔い改めよう。その
時、外側でなく内側から水が湧き上がり、喜びが溢れる。

・・・・・・・・・・・
主は女性の心の虚しさ、寂しさ、孤独、渇きをご存じで、その渇き
を潤し、癒し、満たすために、彼女のもとを訪れられた。主の方か
ら近づかれ、彼女は主に求めた。主は応え、導いて、救いを与えて
下さった。満たされない心があるなら、主に求めよう。


2020年04月18日(土)

「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が 来て、刈り取ることになります」ガラテヤ6:8


「思い違いをしてはいけません」とあり、私たちは思い違いをして
しまうが、人は蒔いたものを、刈り取ると言っている。これは法則
であって、例外は無い。朝顔の種を蒔いて、スミレの花が咲く事は
無い。朝顔の種は朝顔の花だ。蒔く種は正しくその花が咲く。霊的
な原則も同様だ。例外は無い。

しかし、「時期が来て、刈り取る」とあり、すぐにその場で結果が
出るのではない。だから思い違いをしてしまう。悪い種を蒔いても、
すぐに悪い結果が出ないので、どうって事ないと、たかをくくり、
主を侮ってしまう。私たちは日々の生活で、絶えず、御霊か、肉の
どちらかに蒔いている。御霊に従って生きるか、肉の欲に従い、自
分の思い通りに生きるか、どちらかをしている。

人へ愛と親切の種を蒔けば、喜びと主からの報いを刈り取り、自分
にも愛が返る。祈りの種を蒔けば、祈りの答えを刈り取り、宣教の
種を蒔けば、魂の救いを刈り取る。献金の種を蒔けば、豊かな物質
的祝福を刈り取る。又、肉に従い、悪意と憎しみの種を蒔けば、そ
のように刈り取る。「善を行なうのに飽いてはいけない」「失望せ
ずにいれば、時期が来て、刈り取ることになる」と。

善を幾ら行なっても目に見えるところ、結果が無いように見えて、
時に、うみ疲れるかもしれない。宣教の種は特にそうかも知れない。
しかし神の時が来た時に、必ず刈り取る。だから失望せずに、蒔き
続けるようにと言われている。祈りの種も蒔き続けよう。

・・・・・・・・・・
蒔いたものを刈り取る。これは法則なので例外が無い。「時期が来
て」を信じていよう。地道な祈りを積む事、結果がすぐに見えず
とも宣教を続ける事、示された御心を行なう事、すぐその場でなく
とも、必ず収穫を刈り取る。肉でなく御霊に従えるよう祈っていよ
う。


2020年04月17日(金)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:10



信仰者は、信仰ゆえの苦しみ、迫害や試練があると、御言葉は言っ
ている。だが間違ってはならないのは、自分の弱さ、至らなさ、欠
点、自分の罪ゆえ問題を起こし、苦しみを招く事がある。これは自
分の問題であり、信仰ゆえの苦しみではない。信仰以前の問題だ。
弱さや至らなさがあるなら周囲に迷惑をかける。

それではなく、クリスチャンという事で苦しみを受ける事がある。
迫害されたり、笑われ、嘲られたり、仲間はずれにされたりと、不
当な苦しみを受ける。「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産
が奪われ」・・今の時代なら、信仰ゆえに陰口を言われ、辛く当た
られ、仲間はずれにされ、だろうか。「ありもしないことで悪口を
言われ」る、それは理不尽な苦しみだ。

しかしそれがキリストゆえの苦しみなら、恥じる事はない。むしろ
この事のゆえに喜べと、幸いだと。そして神をあがめるようにと。
「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてうける報いは大きい
のだから」と。その人は、たとえ主のために辱めを受け、攻撃され
たとしても、主との個人的な関係があるので、幸せな人だ。苦しみ
の中にあっても喜びおどる人々だ。内なる喜びが与えられているか
らだ。

どんなに自分が罪深いかを知り、そしてその罪が完全に赦されてい
る事を知っている。どんな愛で愛されているかを知っている。どん
なに苦しい時にも、主が共におられることを知っている。そして天
において大きな報いがあり、その報いを期待せよと。それゆえ苦難
に意気消沈するのでなく、「喜び、喜びおどれ」と。
-------------
主を喜ぶ事は大きな力だ。世の人々と主を知る喜びを共有できない
事は辛く悲しいがその思いもまた主が知っておられる。どんな場面
にも恵みを見出し喜び感謝を表していこう。


2020年04月16日(木)

「ナボテはアハブに言った『主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは』」T列王21:3



子供の視覚教材で、不機嫌な顔をしたアハブ王が出てくるが、アハ
ブ王は家の隣にあるナボテのぶどう畑が欲しくてたまらなかった。
代わりにもっと良い畑を与えるからと譲るよう要求した。しかしナ
ボテは断った。これは正当な事であった。律法に先祖から受け継い
だ土地を売ってはならないと定められていた。

もし貧しさゆえに、土地を売った場合にも、細かい規程があった。
買い戻しの権利のある親族が買い戻さなければならない。神の定め
でありナボテは神に従った。するとアハブ王は激怒し、すねて不機
嫌になった。「寝台に横になり、顔をそむけて、食事もしようとし
なかった」。自分の要求が通らず、思い通りにならないので、ふて
くされる、わがまま病だ。

アハブは自分が正しくないことはわかっていても、要求が通らない
と腹を立て、どこまでも欲望を通そうとする。人は、間違いを認め
ない時、更に罪に進み、罪に罪を重ねて行ってしまう。結局、妻の
イゼベルが画策する事により、ナボテを殺害してしまった。私たち
は、自らの間違いを認めるなら、更に罪を重ねる事から守られる。

又、思い通りにならない時は、そこに門を閉じておられる主を認め、
御心を受け止めよう。受け入れる事を学ぼう。主は別の道を備えて
いて下さる。自分の欲望でなく、主の御心を第一にして行く時、肉
の満足でなく、真の満足と、快楽でなく御霊の喜びを経験する。
-------------
願っても受けられないのは間違った動機ではないか、願いは祈りに
あげて主に介在してもらおう。手に入らなければ罪へと進んでいく
のを肉は止められない。主に委ねよう。


2020年04月15日(水)

「見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。『・・あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう』」創世記28:13



ヤコブは、父と兄を欺いて祝福を奪ったが、自らの罪のために、家
におれなくなった。遠く伯父のもとへと旅立った。何も無い原野で、
石を枕に、野宿となった。これから先どうなるのか、大きな不安と
恐れに襲われ、又、家族を離れどんなに寂しく、孤独だったろう。
そんな彼のかたわらに主が立たれた。

そして主は「あなたの子孫は地のちりのように多くなる。わたしは
あなたと共にあり、どこに行ってもあなたを守り、あなたをこの地
に連れ戻す」と約束された。だが、その連れ戻すとの約束の成就に、
何と20年を要した。何と長い歳月だろう。主の時は長い。私たちは
なかなか待てない。しかし、主は地道に、年月をかけながら、こつ
こつと私たちを練り上げられる。時間がかかる。

そして主にとり、無駄な時間は無い。今日の1日は、練られきよめ
られ、造り変えられる途上にある貴重な時間だ。必ず時は満ちる。
状況が少しづつ変化して行く。ヤコブも20年後に状況が変わって行
った。ラバンやラバンの息子達が段々好意的でなくなり、態度が違
って来た。問題が起きそうだ。そんな時に主の御声が臨んだ。生ま
れた国へ帰れと。

主の約束は100%実現する。主の言葉は成就する。ヤコブは辛い苦
しい20年を通り、砕かれ練られ、厳しい訓練を受けた。私たちにも、
無駄な事は一つも無く、すべては私たちのためだ。信仰の目を持っ
て事態を、状況を見よう。そしていつもすぐかたわらに主が立って
おられる事を覚えよう。
-----------
待たされている祈りも全く無駄のない途上、近道など無い事が感謝
だ。この一日が「主がこの所におられるのに私はそれを知らなかっ
た」と新しく主ご自身を知る喜びの途上だ。


2020年04月14日(火)

「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います」エレミヤ42:6



人々は、実はこの言葉とは裏腹だった。ヨハナンや人々が、エレミ
ヤに、主に祈り、自分たちの歩むべき道となすべき事を伺うように
と頼んだ。自分たちは、すべてエレミヤに示された通りに、必ず行
なうからと。良くても悪くても、主の言葉に聞き従うと。エレミヤ
は人々の申し出を受け、「十日の後」とあり、十日間、十分時間を
かけて主に祈った。

すると主から答えが来た。エジプトへは行かずに、とどまるように
と。「この国にとどまるなら、あなたがたを建てて、倒さず、植え
て、引き抜かない。バビロンの王を恐れるな。こわがるな。わたし
はあなたと共にいて、彼の手からあなたがたを救い出すから」と。
わたしはあなたがたをあわれむと、主はあわれみを施して下さると。

だから、バビロン王のもとにとどまるようにと。あなたがたを建て
上げて、植える。決して倒さないと。しかし実は彼らは、すでにエ
ジプトに逃げようとの意志が決まっていた。主の御心は、彼らの思
いと正反対だった。自分たちの思いは定まっていて、御心に従うと
いうのは、口先だけの表明だった。

早くエジプトに逃れなければとの恐れが、主の時を待てず、御心が
示される前に、結論を下してしまう。私たちもどうだろう。聞きた
いのは、自分に都合の良い御言葉で、主からの承認を欲しいのだろ
うか。示された御心を受け入れる事も難しいので、御心を受け入れ
る事ができるよう、主に祈ろう。主が働かれる。
-------------
強い思い込みや恐れが心に充満していること、自分には確かな方法
など決められないことを御前に認めて主に導きを求めよう。心を静めて
それから御心を求めて確かな聖書を開こう。


2020年04月13日(月)

「・・また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでなはないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11 



この世では、様々な不条理があるし、経験したりする。一生懸命に
頑張りに頑張って、必ず結果が出るとは限らない。怠けたのでなく、
頑張って備えたのだが、入試、就職試験の不合格がある。又、努力
を重ね、準備に準備を重ねたが、大事な本番の競技試合でミスをし
てしまう。よくオリンピックの大舞台で、選手が緊張の余り力が入
ってしまい、失敗する姿を目にする。その日、たまたま体調が悪い
事もある。

又、能力さえあればと思うが、コネ入社が優先されたり、コネで出
世もある。年下がコネ入社で、昇進し、理不尽を感じる。悟りや知
識があるから、資産家になるとも限らない。先祖からの資産家もあ
るし、又、欲望のため、法の目をかいくぐり資産を増やす人もいる。
悟りや知識と財産は正比例ではない。頑張りが必ず結果が出るとは
限らない。

だが、「すべての人が時と機会に出会う」とある。全員が、時と機
会に出会うとあり、そしてその時と機会は主から来ている。主が与
えて下さるものだ。主はそれぞれに、御心のままに時と機会を与え
られる。不公平は無い。すべてに神の時があり、そして機会は大切
だ。主からの機会が与えられるからこそ、物事が成就して行く。

私たちは主からの機会に出会う。主からの時と機会にあずかって行
く時に、神のみわざが成され、栄光が現わされる。その時に、時と
機会を逃さないように、絶えずアンテナを張っていよう。今、目の
前に、主からの時と機会が来てるだろうか。ためらわず従おう。
------------
いかにして富や名声を得ようかと心を向けても虚しいと学べる。神
はそれを求めておられないからだ。神の時と機会を尋ね求めよう。
神の招きによって、与えられた力で立っていこう。


2020年04月12日(日)

「エリはサムエルに言った「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、 『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げな さい」Tサムエル3:9


祭司エリがサムエルを養育していたが、ある日、突然、少年サムエ
ルに主の御声が臨んだ。エリの指示を受け「お話し下さい。しもべ
は聞いております」と答えた。すると、その最初の主からのメッ
セージは、何とエリの家への裁きであった。「彼の家を永遠にさば
く。自分の息子たちが呪いを招くような事をしていながら戒めなか
った罪による」と。

非常に、厳しい辛い言葉であった。相手は自らの師であるエリだ。
サムエルはエリに語ることを恐れたが、しかし主の言葉をそのまま
伝えた。預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にその通りに民に
語る人のことだ。どんなに痛い厳しい言葉であろうと、その通りに
語らねばならない。

これから預言者として立てられるサムエルへの、最初のテストであ
ったかも知れない。私たちも「しもべは聞いております」と主に向
かいつつも、自らの罪を示され、自らの肉の姿を照らし出される痛
い言葉、又、自分の思いのプランと異なる言葉、矯正の言葉は耳を
ふさぎたいだろうか。

しかし痛い言葉こそが、実は聞くべき恵みの言葉だ。それは愛の言
葉であり、自分が変えられ、自分を主のかたちへと成長させてくれ
る言葉だ。主は、絶えず御声をかけ、慰め、励まし、力づけて下さ
る。私たちは主の言葉によって生きて行く。「しもべは聞いており
ます」とのへりくだった姿勢で、耳を傾けよう。

・・・・・・・・・・・・・
自分の欲しい言葉があるなら、無意識にもそれに反する言葉はしゃ
断、スルーしてしまう。無意識なので気づかない。まず自分の思い
を明け渡して、身を委ねて、御霊の導きに耳を傾けたい。思いに反
する言葉でも、必ず自分自身の祝福と益と成長とされる。


2020年04月11日(土)

「それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国 に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってし まった」ルカ15:13 


父のもとが窮屈で嫌だった弟息子は、家を出た。父のもとを去り、
放縦を自由とはき違え、放蕩三昧をした。父からの財産を使い果た
した後、食べる事に困窮し、戻って来た。父はこの息子を「死んで
いたのが生き返り」と言った。家出する以前に、ずっと父のそばに
いた時から死んでいたと。父との関係はしゃ断されていた。

父はどんな時も決して変わらない愛で、息子を愛し続けていたが、
息子の心は父から離れてしまっていた。身体はそこにいたが、心は
無かった。父には、それがわかっていたので、息子の望むようにさ
せた。息子は、気ままに、好き放題をし、放蕩の限りを尽くし、行
き着く所まで行った。

身を滅ぼし、どん底で我に返った。このままでは飢死してしまう。
父のもとへ帰る決心をした。私たちもどうだろう。御父を離れて、
自分の思いで、好きなように、欲望に生きてしまう。罪を犯すと、
なかなかすぐに帰れない。どの面下げて帰ればよいのか。少しまし
になってから帰ろうと思う。しかし父が喜ばれるのは、息子が帰っ
たことだ。

「祝おうではないか」、父は、息子の帰りをひたすら待ち、待ち続
け、見つけるや、父の方から走り寄り、抱き口づけした。その時、
息子に真の悔い改めが起きた。息子は生き返った。父は待ち続けて
いる。強制的に連れ戻すのではなく、ただ待たれる。愛は自発的、
自由意志だ。私たちは何度も離れてしまう。しかし父は両手を開い
て待っておられる。どんな時でも立ち返ることができる。

・・・・・・・・・・・・・
父親はずっと待ち続け、心がそこに集中していたので遠くの息子が
わかった。一言も責めず、大喜びで迎える。この世には無いので、
一見、非常識なまでの愛だ。私たちの主に、私たちはこの愛で愛さ
れている。主はずっと待っていて下さる。


2020年04月10日(金)

「まことに、あなたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」ルカ4:24



主は、生まれ故郷のナザレに行かれた。安息日に会堂に入り、教え
られた。イザヤ書の言葉を読まれ、「わたしの上に主の御霊がおら
れる・・貧しい人々に福音を伝えるようにと。捕らわれ人には赦免
を、盲人には目を開かれる事を、虐げられている人を自由にし・・
」素晴らしいみわざだ。そして「今日、聖書のこのみことばが、あ
なたがたが聞いたとおり実現した」と。

何千年も前からの預言が、今日実現し、メシアが今、ここにいると
。聞いた人々は、主の口から出る恵みの言葉に驚き、感動し、主を
誉め讃えた。しかし同時に「ヨセフの子ではないか」と蔑む。ガリ
ラヤのナザレは小さな村だった。そこでは、主はヨセフの子、この
人は大工としか、人間的見方でしか見ずに、信仰の対象ではなかっ
た。そのため主から神の言葉を聞く事ができなかった。

「ヨセフの子」「この人は大工」との言葉は、人々の心から恵みを
奪い取り、消し去ってしまう。メシヤとして受け入れないので、御
言葉が心に入らず、信仰が生まれる事が無かった。預言者は誰でも、
自分の郷里では歓迎されないと、主は人々の不信仰を嘆かれた。私
たちもどうだろう。

自分の価値観、自分の見た目、自分の判断で、御言葉に対応する時
に、同じように受け入れる事ができずに、肉で判断してしまう。
「そんな事、あり得ない」「無理だ、不可能だ」「世の中、渡って
行けない」。自分の思いの方に立ってしまう。そこに気づける事は
御霊の働きだ。御言葉に立って行けるよう、御霊の気づきが与えら
れるよう祈っていよう。
---------------
初めて主を知った時の様にいつも心に新しく御言葉を受けとめ、受
け入れていこう。御言葉に肉の思いが被ってくる時に、いや違うと
気づきを祈ろう。御言葉が聞いた通りに実現したと喜んで言いたい。


2020年04月09日(木)

「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11



御父は、私たちの親であるので、子供に最善のものを与えたいと思
っておられる。そのため、私たちは「求めなさい」と、願いを求め
るように言われている。しかし、神は「自分の子供に良い物を与え
る」「求める者たちに良い物を」と、「良い物」を与えると言われ
る。それはすべてが自分の願い通りのもの、自分が祈ったそのもの
でなく、「良い物」だと。

つまり主が、私たちのために良いと思われるものであり、最善のも
のだ。それは、願ったものその通りかも知れないし、また別のもの
かも知れない。とにかく主からご覧になる、私たちにとって「良い
物」なのだ。祈りが答えられないと、がっかりしているなら、祈り
の答えを、今一度見直してみよう。

一つ一つの祈りが、別の形で、違う形で答えられているかも知れな
い。小さな子が母親のように料理をしたいと包丁を求めても、親は
与えない。しかしふさわしい年齢になれば持たせるだろう。又、子
供が高価な物を欲しがるなら、大きくなってから与える。持つにふ
さわしい時期がある。又、忍耐、待つ事を学ばせたかったり、その
子の益のために教育的配慮から控える場合もある。

自分はこれこそが絶対に良い、これこそ必要と思うが、主は完全に
ふさわしく与えて下さる。主には間違いが無い。主が与えて下さる
ものは、自分の願いとは異なるかも知れないが、それは「良い物」
だ。その時は理解できずとも、必ず豊かな結実を見る。
-----------
主が良い物をくださるから待ち望む希望がもてる。与えられない物
にも意味を見出せる。自分にとって有益なもの基準をしっかり知っ
ている事は、なんと自由で幸いだろう。


2020年04月08日(水)

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいでは、それが何になりましょう」ヨハネ6:9 

 

男だけで五千人、女、子供を入れると倍以上という、大勢の空腹の
人々を前にして、主はピリポを「試された」とある。「どこからパ
ンを買って来て、この人々に食べさせようか」、「どうしようか」
と。するとすぐにピリポは、手にある所持金で計算した。答えは、
こんなに大勢の人々に「不可能」だった。「足りません」だった。

アンデレは、あるいは、主は何かして下さるのではと思ったので、
弁当を持っている人を探し回った。すると一人の子供が小さな弁当
を持っていた。が、こんなに大勢には、焼け石に水だ。これが何に
なろう。到底無理、だめだと思った。一万人以上の群衆に、食べ物
が無い、所持金も間に合わない、このような状況で、主は「しよう
としていることを知っておられた」。すでに、解決策を持っておら
れた。

あなたが今、どうにもならない、このような窮地にいるなら、主は
すでに「しようとしている事を」ご存じだ。主にはできるという
「信仰」を私たちに求めておられる。「信仰がなくては、神に喜ば
れることはできません」。そして、「小さな」ものを用いられる。
五つのパンと小さい魚を二匹だ。今、不安な状況にあるだろうか。
新しい環境、仕事、奉仕を前に、自分は取るに足りない小さな者だ
と思うなら、主はその「小さな」者をこそ用いられる。

たった五つのパンと二匹の小さい魚が、主の手に握られる時、大勢
の人々への大きな祝福として、用いられた。そして何と全員が十分
食べて満腹した。どんなに小さくても問題無い。その「小さなもの」
が主の手に渡るかどうかが問題だ。何か示されているだろうか。そ
の小さなものを主のもとに携え、献げよう。どんなに用いられるか
は、驚くばかりだ。 
------------
あれがないから、これがないからと足りないところに目が行く時は
豊に用いてくださる主に求めよう。どんなものをも主は用いてくだ
さる。主のご計画を信じて立とう。


2020年04月07日(火)

「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません」マルコ7:15



この世の考え、生まれつきの価値観では、外側から入るものが、人
を汚すと思う。生い立ちが不幸だった、酷い環境だった、社会が悪
い・・だから、子供は非行に走り、大人は犯罪を犯すと。環境さえ
良くなれば、社会さえ良くなれば、人間は良くなる。悪い影響を取
り除けば良いのだと。しかし、たとえ良い親で、親が愛情を持って
育てても、人は罪人であり、ある人は自分の欲望のために生きる。

聖書は正反対のことを言う。環境が人を汚すのでない、環境は人を
汚すことができないと。人は罪を犯したから、罪人なのではなく、
罪人だから罪を犯すのだと。環境が良ければ、善人になるのではな
い。「義人はいない。ひとりもいない」、環境は関係無く、人の心
から出るものが人を汚す。

「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不
品行、盗み、殺人・・これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す
」。様々な問題がぶつかり合い、争いが起きる。それらは、関与す
る人々の心から出て来る問題だ。すべてが内側から出て来て問題を
起こす。心に原因があり、内側から出る「罪」が人を汚す。

主は、そのところに十字架で解決を下さった。主の流された血潮に
よって、私たちの心も良心もきよめられる。主は罪を赦し、心をき
よめて下さる。そして自我まみれの古い人は、キリストと共に十字
架につけられたと。信仰によって受け取って行ける。主の血潮によ
ってのみ、私たちの内側はきよめられる。
---------------
清くなりたいのと清いのは違う。誰かのせいにできない内側の問題
を主は十字架で取り扱ってくださった。頑張って清くなろうとする
傲慢さに気づいていたい。心が主から遠く離れてしまう。


2020年04月06日(月)

「また、神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」コロサイ4:12



別の箇所では「これが道だ。これに歩め」ということばを聞く、と
あり、主は私達に、語りかけられる。ご自身のみ思いを示され、私
達の進むべき道筋を教え、導いて下さる。主はどのように語りかけ
られるのか。@主の言葉を通して。礼拝メッセージや教会での学び
、各自のデボーションの中で聞く御言葉により語りかけ導かれる。
祈りをもって御言葉に向かう時、深い印象を持って御言葉が心に臨
んで来る。

A聖霊により語りかけられる。「聖霊は、すべてのことを教え、あ
なたがたに話したすべてのことを思い起こさせる」祈りの中で、又
、日常の中で、あの事はあのように、この事はこのようにとの知恵
やアイデア、なすべき事が平安をもって思いに示される。B指導者
や他の人々の助言を通して語られる。主は時に、助言者を用いられ
る。

助言者のアドバイスを通して語られる「多くの助言者によって勝利
を得る」C環境を通して語られる。御心なら必ず門が開かれる。自
分で戸を叩き壊して進むのでなく、あなたの目の前で、主が戸を開
かれる。主によって開かれた門を通って行く。もし、門が閉ざされ
たなら、御心ではなく、別の導きが備えられている。

導きを求める時は、よくよく祈り、アンテナを立てて、耳を澄ませ、
目を開いていよう。主は様々な事を通して御心を示される。御言葉
と祈りによる平安、環境、それらが必ず一致する。確信した時には、
ためらわず事を進め、前進しよう。不安があるなら、行動に移らす
しばし祈り続けよう。御心なら、その不安を平安に変えて下さる。
-----------
あれこれと自分のプランの実現のための祈りにならないよう、全て
の結果をご存知である神の導きを求め祈ろう。自分の思いが邪魔を
しないよう、神の明確な方向をよく悟れ従えるよう祈ろう。


2020年04月05日(日)

「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」ヨハ ネ5:8



ベテスダの池に、38年間病気で伏せっている男性がいた。38年とは
何と長い歳月だろう。初めは、あちこち医者を訪ね、良いと言われ
る事は何でも行ない、あらゆる方法を試してみた事だろう。どうし
ても直りたい。しかし、何をやっても、何もどうにもならない現実
を知る。今度こそはと期待しては、裏切られ、又、望みを置いては、
落胆しの繰り返しだった事だろう。段々、心が折れて来る。

その最後に、ベテスダに池にたどり着いた。だがそこも同じだった。
水が動いた時、最初に入った者はどんな病でも癒される。じっと動
く時を待ち、次こそ、次こそはと思うが、他人に先を越されてしま
う。期待しては打ち砕かれ、挫折の繰り返しだ。心が疲へいし、期
待すると傷つくので、もう期待する事を止めてしまう。これ以上傷
つきたくない。

主は、この男性の38年間の苦しみ、悲しみ、嘆き、失望を、何もか
もご存じで、この男性に問われた。「よくなりたいか」と。彼は介
助者がいないからダメだ、介助者のいる人が先に行くと言い訳した。
私たちもどうだろう。あれが無いこれが無い、だからだめ。又、自
分がこうなのは、環境のせい、社会のせい、親のせい・・自己憐憫、
自己正当化の中にいる限り、何も変わらない。

喜びも平安も無い。状況や人は関係無く、自分はどうなのかと。
「あなたはよくなりたいのか」と主は問われている。自らの心はど
うだろう。よくなりたくないのだろうか。「はい、よくなりたいで
す」と答えよう。主はその信仰を受け取り、主がそのようにして下
さる。

・・・・・・・・・・・・
「床を取り上げ」自分の離れられない「床」は何だろう。自己憐憫、
周囲への赦せない思い、憎しみ、怒り、「よくなりたいか」の御声
に応答する時、38年の苦しみから解放して下さる。よくなりたい
かと、問われている。


2020年04月04日(土)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11


対人関係で、トラブルが起きたり、思い通りにならなかった時に、
相手に腹を立てたり、恨んだり責めたりしてしまう。しかし「私た
ちの格闘は血肉に対するものではなく」と言っている。「悪霊に対
するもの」だと。いっさい人間とは戦っていない。人間の背後に潜
む悪霊との戦いだ。ところがサタンは目に見えない。そこでどうし
ても、目の前で争っている、目に見える相手に焦点を当ててしまう。

相手を憎んでしまう。今、人に腹を立てたり、憎んだりしているな
ら、背後のサタンの攻撃と誘惑が来ている。人を憎むよう、恨むよ
うに誘惑されている。それに乗ってしまうと、自分の罪となる。
「悪魔の策略に対して立ち向かえ」とあり、サタンは策略を練って
攻撃して来る。考え無しの行き当たりばったりではない。明確な目
当てがあり、緻密な計算がある。

目的は、とにかく神から引き離すことだ。どんな手段であれ、引き
離せば成功だ。苦しい病気や、辛い対人関係に遭遇したらどうだろ
う。「神が愛なら、こんな事になるはずがない。愛されてなどいな
い」とサタンがささやき、疑心暗鬼にさせる。

又、逆に順境が続くと、主に頼る必要が無いので、知らず知らず自
分の力で歩み、主から離れてしまう。順境の時の神離れだ。自分は
離れていると思っていないので気づかない。又、成功すると自分の
力だと錯覚し、内心自分を誇り栄光を自分に帰してしまう。策略を
練って襲って来るサタンの識別を祈っていよう。御霊が気づきを与
えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
罪や、悪い事、また一見良い事をも使って、サタンは襲って来る。
趣味や仕事は、良いものだ。しかし時間、労力、心を奪われ、主か
ら離れてしまう。サタンは手段は何でもよい。主から離してしまえ
るなら。もし霊的食欲が減退していたら、立ち止まって主に向こう。


2020年04月03日(金)

「私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます」詩篇63:8



私たちの今までの信仰人生でどうだろう。想定外の事態、突如の何
でこういう事が、という事態、自分が願った事でも、望んだ事でも
無い事態に出会す。平穏に歩んでいたのに、ある日突然大きな試練
の中に置かれたりする。自分では全く予想もせず、考えてもいない
状況が起きる。ダビデもそうだった。ダビデは、ただただサウル王
に忠実に仕えていた、良い誠実な部下だった。

だがサウル王の一方的な妬みで、その妬みは憎悪となり、殺害のた
めにつけ回された。相手は一国の王であり、いつでも軍隊を招集で
きる絶対的な力ある存在だ。様々な計略を用いて攻撃をしかけて来
る。ダビデは援護軍隊があるわけでなく、ただひたすら逃げ回った。
孤立無援の中で、常に死と隣り合わせの恐怖の中で、ダビデはどう
したのか。

それは、ひたすら主に拠りすがり、拠り頼む事であった。主が避け
所であり、拠り所であり、唯一の頼みの綱であった。「あなたに拠
り頼みます」「あなたを尋ね求める者をお見捨てになりません」。
ダビデは苦難の中で、ひたすら祈りに祈った。「私は祈るばかりで
す」主以外に頼むべきものが何も無かった。

私たちも、時にそういう状況に置かれる。何のすべも無く、どうに
も出来ず、ただただ「祈るばかりです」。ただ主だけを頼るように、
四面塞がりの苦しい状況に置かれる。主を頼らせるためであり、そ
の出来事を通して、主の栄光を現されるためだ。
---------
ダビデの勝利の秘訣を学ぼう。ひたすら主のもとに行き、苦難の中
で、先のことより今日の知恵と今日を耐え抜く力を求めたい。今日
を主とあゆもう。主が全局面において守り支えてくださる。


2020年04月02日(木)

「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい』死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」ヨハネ11:39



信仰生活において、時に信仰のテストが来る。ラザロが死んだ時に、
主は「ラザロはよみがえる」と言われ、墓へ行かれ、墓に立てかけ
てある石を「取りのけなさい」と言われた。死後四日を経ていたの
で、マルタは「もう臭くなっておりましょう」と答えた。理性と常
識で考えるなら、死後、腐敗が始まっている。

その時に、主は「『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を
見る』、とわたしは言ったではありませんか」と言われ、その言葉
に、彼らは墓の石を取りのけた。そして主の栄光を拝する事になる。
ペテロは、主に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」
と言われた。しかし常識と理性では、朝に魚はいない。そのため夜
を徹して漁をする。

が、昨夜の漁では一匹も魚がとれなかった。信仰のテストだった。
主の言葉と見える所が正反対だ。どうすればよいのか。だがその時、
ペテロは「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と常識
では考えられないが、主の言葉の方に従って網をおろした。すると
手助けが必要なほどの大漁であり、驚くほどの祝福であった。

私たちにもテストが来る。信仰を練り、堅くするためだ。見える所
と御言葉が異なる時は、御言葉の方を選び、従ってみると、必ず主
のみわざを見る。信仰が成長へと導かれる。従ってみて初めて経験
する事だ。あなたにもテストが臨んでいるだろうか。主の示しに一
歩踏み出し、沖へ出て、網を下ろそう。
------------
見えはじめたら急いで行きます、の信仰ではないだろうか。信じる
なら神の栄光を見るとの主の約束に素直に従いたい。主の栄光を拝
するために信仰のテストを逃さず主への信頼を増し加えていこう。


2020年04月01日(水)

「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:14




「この水を飲む者はだれでも、また渇く」と言われた。水を飲んだ
時は、渇きが癒されるが、また渇く。この世の水は決して、心を満
たすことはできない。一瞬の快楽はあるが、必ずまた虚しくなる。
サマリヤの女性は5回の結婚と5回の離婚をし、今は同棲中だった。
彼女の心は渇いていた。男性が渇きを癒してくれると信じ、結婚と
離婚を何度も繰り返した。

だが幾ら求めても心の満たしは得られなかった。主は女性の渇きを
ご存じで、彼女のためにサマリヤへ来られた。そして正しい方向へ
導かれ、女性の心の渇きを癒された。ザアカイも心が渇いていた。
富が幸せを与えてくれると信じ、不正を行ない、トップにまで上り
詰め、大富豪となった。しかし富は幸せを与えてはくれなかった。

心は虚しく、更に同胞から軽蔑され、嫌われ、孤独で寂しく何の希
望も持てなかった。暗い心と暗い日々に、主を求めて、木にまで登
った。そんなザアカイの心の奥を主はご存じだった。「ザアカイ」
と名を呼ばれ、「今日は、あなたの家に泊まることにしてある」と
ありのままのザアカイを受け入れて下さった。

ザアカイは悔い改め、富でなく主によって心が満たされた。この世
の水は、幾ら飲んでも必ず渇く。この世の水は決して渇いた心を満
たせない。心が渇いているなら、主のもとに行き、主に求めよう。
主は必ず渇いた心をご自身で満たして下さる。永遠の命への水を湧
き上がらせて下さる。
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主が与えてくださる水と同時に、この世が与える水も欲しがり頼っ
てしまう。そこを認めていたい。この世のものに頼っているなら必
ずまた乾き、失望する。