2020年05月31日(日)

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、 神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」ヤコブ 1:12



「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われてい
る。しかし「試練」は神からであり、「誘惑」はサタンからだ。源
が違う。神は、誰をも決して罪に誘惑される事はない。断じて無い。
悪への誘惑は神からではない。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、
おびき寄せられて、誘惑されるのです」。

自らの「欲望」にサタンが誘惑を吹っかけてくる。魚が、えさにお
びき出されるように、サタンは欲望に働きかけてくる。「試練」は
神より与えられるものであり、試練は決して悪いものではない。む
しろ喜べと言っている。「試練に会う時は、それをこの上もない喜
びと思いなさい」と。試練は忍耐すべきものだ。そうする時、必ず
一段階、成長して行く。

試練は成長のためのものだ。それは成長を遂げた完全な者にされる
ためとある。しかしながらその良いものである試練に向き合う際に、
反抗したり、屈折したり、疑ったり、不信仰に陥ったりするなら、
それは誘惑になってしまい、その結果、神から離れてしまう。向き
合い方いかんによってしまう。良いものに、サタンが働いて来て、
罪へと誘って行く。

試練に向き合う態度は大切だ。しっかりと受け止める時、成長が与
えられる。そして後の日に必ず良かったと思える。「苦しみに会っ
たことは、私にとってしあわせでした」と言える。「それであなた
のおきてを学びました」と。

・・・・・・・・・・
試練は、辛く、痛く、苦しい。そのままの思いを、気持ち、感情も
主に告げよう。洗いざらい告げて祈っていると、不思議に心が落ち
着いて来る事を何度も経験する。主が受け止めて下さっている。外
側の状況は凄まじいのだが、心の奥に不思議な平安が来る。


2020年05月30日(土)

「デボラはバラクに言った。『さあ、やりなさい。きょう、主はあ なたの手にシセラを渡される。主はあなたの前に出て行かれるでは ありませんか』」士師記4:14


女預言者デボラは、バラクに主の言葉を告げた。それは、一万人で
進軍せよ。戦車九百両と大軍を率いるシセラを、キション川に引き
寄せ、あなたの手に渡すというものだった。そして「ひとりの女の
手に売り渡す」と。敵は大変な戦車部隊だ。イスラエルにはそんな
武器もなく、見えるところ、人間的考えなら、圧倒的戦力に到底不
可能に思える。

しかし主権は主にあり、シセラを渡すと言われた主は、みわざをさ
れた。それは、「キション川は彼らを押し流した」とあり、キショ
ン川の氾濫で、戦車が役に立たなかったのだ。「主が」シセラの軍
隊を剣の刃でかき乱したので、シセラは戦車から飛び降り、徒歩で
逃げた。それを女性ヤエルが招き入れ、討ち取った。主の言葉の通
りに実現した。

主の戦いであり、主が戦われる。自分たちの力では断じてない。私
たちがすることは、主を信頼し、主の御声を聞き、言われた通りに
従うことだ。紅海が目の前で分かれたのも、岸いっぱいに水かさの
あるヨルダン川が渡れたのも、エリコの城壁が崩れ落ちたのも、す
べて主のみわざだ。伏兵を設けてでも、不思議をして下さる。

目の前が絶体絶命だろうか。行き詰まりだろうか。主に頼る訓練を
与えておられる。まず祈ろう。主の導きを求めて、御声を聞こう。
そしてその御声に従おう。その時、「主が」先立たれ、主の戦いを
戦って下さる。主が私たちを愛しておられるから。大きな練習、小
さな練習、信頼する練習を与えておられる。

・・・・・・・・・・・
目の前の事態にパニックになり、思いは巡りに巡るが、とにかく自
分で動かず、まず祈ろう。これが難しく、自分で何とかしようとし
てしまう。すると思い煩いで一杯になる。動かず、主の導きを待
とう。主の示しに従う時、主と一つに事態に対応できる。毎回練習
だ。


2020年05月29日(金)

「アブラハムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた」創世記12:4



アブラハムは、御声に従い、主の示す地へ旅立った。その時に、甥
のロトも一緒に出かけた。アブラハムは「主がお告げになった通り
に」出た。主の御声による出発だった。だがロトは、そこで主を見
上げ、祈る事もなく、伯父にくっついて行った。自分の思いによる
出発であった。そしてその歩みは、アブラハムのゆえに大いに祝福
され、双方の所有物が増え過ぎ、同行が困難となった。

そこで双方別れる事にした。その時に、アブラハムは信仰に立ち、
全所有権を主に委ね、甥のロトに、先に行くべき土地を選ばせた。
ロトは主を仰ぐ事もなく、年上の伯父に敬意を払うこともなく、最
も肥沃そうに見える土地を選んだ。肉の判断だった。しかし、そこ
は不道徳で堕落した酷い地だった。ロトは罪に関わりたくなく、
「ソドムの近く」に住んだ。

近くなら良い、中に入らなければ、自分は大丈夫と思った。私たち
も自分さえしっかりしていれば大丈夫と思ってしまう。だが、その
後は「ロトはソドムに住んでいた」となり「近く」から、「中に」
となった。少しづつの誘惑には勝てない。影響を受けてしまう。次
には「ソドムの門の所に座っていた」となり、その町の名士が門に
座るので、ロトは町の有力者になっていた。世の名誉、地位、富を
求めて生きた。

アブラハムは、様々な失敗を通して砕かれ、御霊の人へと造り変え
られて行った。まずはロトに、祈りがあれば、どんなに違っていた
だろう。私たちも、いつも主に判断を求めて祈る事ができる。ロト
を教訓として、今、目の前の判断に、主を仰ごう。そして主に従お
う。
------------
一見、魅力的に見えるもの、安易な道をすぐに選んでしまう弱さと
危うさが自分にあることを覚えていたい。正しく主に頼り、いつも
助けを求めながら歩みたい。


2020年05月28日(木)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5



私たちは、何かが起きた時に、「まず、何とかしなければ」の思い
から、自分で「ああしよう」「こうしよう」と自分の思い考えで必
死に何とかしようとする。しかし、ああでもない、こうでもないと、
どうにもならず八方ふさがりだ。悶々状態になり、完全に行き詰ま
ってしまう。そんな時「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに
たよるな」に、はっと我に返る。自分の悟りに頼っている事に気づ
く。

古い価値観は、自分で懸命に考え、今までの経験値で、知恵を絞り
策を考える。だから主を見上げていなければ、無意識にすぐそこに
行ってしまう。懸命に何とかしようとする。しかし御言葉はそうは
言っていない。「心を尽くして」、自分で策を練るのでなく、「主
に拠り頼め」と。自分の考え、経験値でなく、それらに「たよるな
」と。正反対のことを言っている。

そして「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げ
てくださる」。その問題を「主が成し遂げる」と。自分が成し遂げ
るのではない。そしてそのために「あなたの道を主にゆだねよ」と。
まずは「ゆだねる」こと、そして「主に信頼せよ」、「主に」信頼
することが大切だ。

私たちは、「自分」や「人」や「物、金銭」に頼り、そこに信頼を
寄せてしまう。が、主以外のものに頼るなら、それは偶像であって、
主がそこに力強く働かれ、みわざをされる事を大きく妨げる事にな
る。本音では何に信頼し、頼っているだろう。信頼を主に向けよう。
---------
まず自分に何が出来るかと考え、次にこれで上手く行くだろうかと
不安になる。いつもくり返す失敗だ。最初は主に委ねる祈りから始
めたい。信仰をもって主に委ねる時にゆれ動かない平安が心にくる。


2020年05月27日(水)

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてださい」ルカ22:42



信仰生活で、主の御心と自分の思いが、相反する事がある。時に経
験する。御心が何となくわかるのだが、自分はどうしてもその方向
へ行きたくない。又、自分はこの事がしたいのだが、どうしても道
が開かれない。これは御心ではないのかも知れない。だが自分はど
うしてもしたい。時にこのような状況に陥る。非常な葛藤が生じる。
こんな時には、どうすればよいのか。

まず、よくよく祈ることが大切で、必要だ。主は十字架にかかる前
に、ゲッセマネの祈りで、ご自身の気持ちを率直に祈られた。「で
きるなら、この杯を過ぎ去らせて欲しい」十字架を回避させて欲し
いと。弟子たちに、これから十字架にかかり・・と言い続けて来ら
れた十字架だ。どんな御心にも、黙って、雄々しく勇敢に従って行
くのが、霊的で、立派な信仰者なのではないのか。そんな思いが無
いだろうか。

しかし、主は弟子たちにゲッセマネで、十字架を前に、悲しみの余
り死ぬほどだと言われ、一緒にいて欲しいと弱さをあるがまま出さ
れた。繕わずに、隠さずに、ありのまま御父に祈られている。これ
が真の祈りだと見せられる。そして祈りの中で、祈りつつ御父の御
心に、ご自身を明け渡して行かれた。「あなたの御心のように」と。

私たちの肉が求めるのは、どこまでも自分の思いを遂げる事だろう
か。「自分の心が成るように」と。そこに「自分を捨てる」「自分
に死ぬ」苦しい戦いがある。だが主はその苦しみも、戦いもよく理
解し、わかって下さっている。ありのままを主に祈ろう。祈りの中
で、祈りが導かれて行く。そして心も導かれ、御心へと、手を取っ
て導いて行って下さる。
------------
強い思いがあれば、それだけ御前に祈りが深くなっていく。気づく
と主にすっかり明け渡せているのは、主の導きだ。あれを、これを
と自分の願いをうちあけた後は、主の御声を聴こう。


2020年05月26日(火)

「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい」出エジプト14:13



モーセが民を率いて出エジプトを果たした。イスラエルの民は男子
で60万、皆で200万人かと言われているが、それが全員移動するの
だから、大変な事態だ。又、エジプトにとっても、それだけの労働
力が突然消失するわけで、一大事だ。民は約束の地を目指し、出発
したが、すぐに難題が来た。何と、後ろからエジプト軍の精鋭部隊
の追っ手が迫るではないか。

前は海で、絶体絶命だ。すると途端、民は、手の平返しの態度を取
る。モーセをののしり、「こんな荒野に連れて来て、死なせるのか。
エジプトにいた方が良かった」と。少し前まで主の偉大な奇跡を見
て、大賛美だったのだが。問題が起きる時、試練の時、順境の時に
は隠れている、人の本性が現われ出る。主に祈っていたモーセは民
に告げた。

「恐れるな」「しっかり立て」「あなたがたのために行なわれる主
の救いを見よ」と。私たちは恐れる者だ。不安で一杯になり、大き
く動揺する。主が飛んでしまい、目の前の苦しい状況に飲み込まれ
てしまう。思いはどんどん増幅し、最悪のシナリオを描き上げる。
その時には、主も、御言葉も飛んでいる。

まず「恐れるな」の御言葉を堅く受け止め、御言葉に立ち、状況を
見る時に、状況が違って見えて来る。そして「しっかり立て」自分
で動き回らず、自分で何とかしようとせず、主が動かれる事を信じ
て、立とう。「主が戦われる」と。

今、目の前に困難があるだろうか。まず「恐れるな」思い煩うな、
心配するなと。そして決して自分の思いと力で動かず、まず祈り、
主の導きを求めよう。主が戦って下さる。主の示しに従う時に、主
が事を成し遂げて行かれる。
-------------
試練を前に本性はいつも恐れて動揺し、ネガティブな言葉をもらし
てしまう。ここから「恐れるな」の御言葉を握り主に頼る時だ。信
じて立とう。主が働かれる。


2020年05月25日(月)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4



私たちの中には、良い人に見られたい、人に嫌われたくないという
根深い思いがある。それは固く培われた価値観だ。主に会う前は、
それを求めて生きて来た。人前を繕って、良い人の演技をしてしま
う。なぜ演技するのだろう。本当の自分を出せば、人に嫌われる、
人は離れて行くと思ってしまう。御言葉によると、私たちの心の奥
底は、誰しも愛されたいと思っている。

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」の通り、人の愛を求め
ている。エデンの園で、アダムとエバは罪を犯した結果、霊的に死
に、神から離れてしまった。神との愛の交わりが断たれてしまった
ために、目に見える人の愛を求めるようになった。新生したクリス
チャンもまた、根深い肉の性質があるため、目に見える人に、愛さ
れたいとの思いが強く、人前を繕ってしまう。

主は、私たちを愛し、あるがまま、丸ごと受け入れて下さっている。
しかしながら主ではなく、この世を求め、自分の力を誇り、自分の
思うように生きてしまう。だが、主の愛は、何もかもすべてご存じ
の上での愛だ。この愛を信じて行こうとしない時、主との間に距離
を作り、主の前ですら本当の自分を隠して、繕ってしまう。

アダムのように、主を避けて、隠れる事になる。十字架の血潮によ
ってではなく、自分の力で少しはましになって御前に出ようとして
しまう。主がアダムに「あなたはどこにいるのか」と問われたが、
私はどこにいるだろうか。「わたしはあなたを愛している」と真実
を持って、命をかけて語って下さっている。

問題は、心の奥では、この愛を信じられない事だろうか。もしそう
なら、そこのところを、祈りに持って行こう。祈りに答え、豊かに
祝福し導いて下さる。
---------
人は取り繕えば愛してくれるが、ありのままならどうだろう。神は
この罪深さもご存知で、見捨てずに赦された。赦された上で愛して
くださっている。及びもつかない神の愛の深さを知っていこう。


2020年05月24日(日)

「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨル ダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになっ て」U列王5:17


将軍ナアマンは、らい病を患っていた。イスラエルの捕虜の娘が、
らい病を癒す事のできる預言者がいると伝えた。そこでナアマンは、
癒しを求めてエリシャを訪れた。だが、エリシャは会いにも出て来
ず、使いの者に伝言を託した。その扱いに、将軍ナアマンはプライ
ドをひどく傷つけられた。

そして、それは手を置いての厳かな儀式ではなく、ヨルダン川で七
回身を洗えと。とても受け入れられるものでなく、怒りに燃えた。
神は、このナアマンの高いプライドをご存じで、エリシャを通して
砕こうとされた。自分は主君から非常に重んじられる将軍であり、
名誉も地位も財もあり、部下からの尊敬も受けている。

エリシャからの扱いにズタズタに傷つき、怒り、帰ろうとする。し
かし、しもべの進言により、思いとどまった。プライドを捨て、エ
リシャの言う通りに、ヨルダン川に7回身を浸した。すると、何と
らい病がきれいに癒された。奇跡が起きて、身体は元通りになった。

人のプライドは、神の恵みと決して相容れない。神はナアマンに、
真の救いを与えるために、そのところをあえて通された。彼のプラ
イドが取り扱われる必要があった。難しい事をせよと言われたなら、
まだしもプライドが保てた。しかし余りにも簡単で、人の目にさら
される奇異な状況に、とても耐えられない。しかしナアマンは従っ
た。

あなたも今、問題はプライドだろうか。又、自分の思いが強くて、
御心が受け入れられないだろうか。それを捨てて従う時、大きな祝
福が待ち構えている。今、主が取り扱っておられるだろうか。
自分のありのままを主に告げて、祈ろう。主は必ず導いて下さる。

・・・・・・・・・・
信仰人生で、様々主の取り扱いがある。起こる出来事を通してプラ
イドに気づかせられる。自分に死ぬことが、御心であることがわか
るが、自分では出来ない。そのため祈りが備えられている。祈って
行く時、御霊により恵みによって、明け渡して行けるようにされる。


2020年05月23日(土)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるという のですか」ガラテヤ3:3



私たちは、恵みのゆえに信仰によって救われた。救われるために、
何もせず、何も出来る事はなかった。行ないによるのではなかった。
十字架の贖いを信じただけで、救いを受けた。一方的な恵みによる
ことであった。それはよくわかるのだが、救われた途端、行ないに
よって生きてしまう。救いは恵みだが、後は自分の力で善行に励も
うとする。

今まで生きて来た根深い価値観があるからだ。頑張らねばならない、
頑張りが善の価値観だ。そのため恵みは頭ではわかるのだが、根深
く培われたものによって、動かされてしまう。ガラテヤのクリスチ
ャンは、救われた後、割礼を受けねばならないとの、ユダヤ教に戻
ってしまった。

しかし「もし、割礼を受けるなら、キリストはあなたがたにとって
何の益もない」と。行ないによって義と認められようとするなら、
キリストから離れ、恵みから落ちてしまったと。自力による行ない
は、今までの生き方なので、身にしみついている。自分の頑張りに
頼る。頑張って聖書を読み、頑張って祈らなければ、善行をしなけ
れば〜〜と。

すると段々、信仰生活が、窮屈で息苦しくなる。又、自分はだめだ
と落ち込んで行く。だが肝心な事は、もし聖書を読めず、祈れなく
とも、神の愛は変わらない。なぜなら神のご性質が愛であり、その
愛は不変だから。その一方的な主の大きな愛を知る時に、このまま
愛されている事を知る時に、深い安堵に包まれ、聖書を読んで、祈
りたいと自発的に思える。

その時、恵みの下にいる。肉の頑張りでなく、主の愛を信じ、御霊
によって歩む時、恵みの中に置かれ、そこには喜びと自由、平安が
ある。今、もし信仰生活が重苦しく、窮屈なら、立ち止まって、主
と交わろう。主に向かい、ありのままを告げて行く時、その時、主
と交わっている。今一度、主の変わらないご愛を思い、安堵と平安
が来る。恵みの下に戻れる。

・・・・・・・・・・・・・・
「その命令は重荷とはなりません」とあり、信仰生活が重荷で、窮
屈で、苦しいなら、御霊で始まったものを、肉によって完成させて
いるだろうか。主のもとに行き、そのままを告げよう。慈しんでい
て下さるので、様々な気づきを与え、御霊の歩みへと導いて下さる。


2020年05月22日(金)

「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた」マルコ5:1




弟子たちは、夕刻になって、主に「向こう岸に渡ろう」と言われる。
その御声に従い、舟を漕ぎ出すと、途上で激しい嵐に会った。嵐に
は慣れているはずのベテラン漁師たちも、死ぬかと思うほどの激し
い嵐だった。主の御心に従うと、大変な嵐に会った。主が、与えら
れた試練だった。

しかし嵐の中で、主が湖に向かって「黙れ、静まれ」との、ひと言
葉で、風がピタリと止み、あの大嵐が静まった。余りにも驚いた弟
子たちは、大きな恐怖に包まれて、「風や湖までもが言うことをき
くとは、一体この方はどういう方だろう」と言った。御心に従わず
岸にとどまっておれば、嵐に会う事もなかったが、この主が神の子
である事、自然界をも支配されていることを知る事もなかった。

アブラハムも主から「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父
の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われた。「そうす
れば、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し・・」と。あな
たにも、「向こう岸へ渡れ」「あなたの父の家を出て、わたしが示
す地へ行け」と言われているだろうか。心地良い今の場所、安らか
な場、安定した生活を捨てて、新しい御心へと導かれているだろう
か。

まだ見た事もない世界、不安や恐れがあるかも知れない。今の居心
地の良い場を離れたくない。しかし主は、新しい世界に導き出して
下さり、信仰を試され、訓練、鍛錬し、信仰を成長させて下さる。
あなたの「向こう岸」、「わたしの示す地」は、新しい働きか、誰
かを赦す事か、和解か、新たな環境に次の段階に進む事か。向こう
岸へ渡ろうと言われた主は、必ず向こう岸に着地させて下さる。
-------------
新しい世界には不安と同時に、新しい発見と祝福が備えられている。
自分にとっての新境地とは何だろうか。主に尋ね、御声を聞いたな
ら信仰をもって踏み出そう。主は次の一歩を与えてくださる。


2020年05月21日(木)

「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て」使徒7:55




ステパノは、12使徒を助けるために選ばれた人だった。信仰と聖霊
に満たされていた彼は、不思議なわざとしるしを行なっていた。そ
れが気に入らない律法学者たちは、議論するが、彼が「知恵と御霊
によって語っていた」ので、対抗できなかった。そこで画策し、人
に偽証させて、神を冒涜したとの罪で議会に引き出した。

そこでステパノはイスラエルの歴史を語る。民は事あるごとに偶像
礼拝に陥り、主は預言者を送り、立ち返らせようとするが、それも
拒み、とうとう最後にはキリストを殺してしまったと。すると人々
は、激しい怒りに燃えた。だが、「聖霊に満たされていた」ステパ
ノは人々の石打ちに「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」
との言葉を発し、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」
と叫び、息絶えた。

それは主の十字架上の言葉だった。「主よ彼らをお赦しください」
と。ステパノは、なぜ自分を殺す人々を赦す事ができたのか。まず、
彼は「聖霊に満たされていた」とあり、主に従おうと、自分を全く
明け渡していた人だった。自分の生涯に、主の栄光が現される事だ
けを求めていた。だからこそ聖霊に満たされていた。そして、彼は
主だけを、一心に見つめていた。

「天が開けて・・人の子が・・見えます」ただただ主だけを見てい
た。私たちはどうだろう。赦せない相手だけを、一心に見続けてい
ないだろうか。ますます赦せなくなる。聖霊に導かれること、主を
見つめ続けることを、覚えよう。自分では出来ないので、主に助け
を求めて、祈ろう。求めに必ず答えて下さる。
------------
目の前の人が心にいる限り、絶えず動揺して心は休まらない。主に
心を注ぎだして祈ろう。御霊によって共におられる主が見える。主
に信頼し、全てをお任せしよう。


2020年05月20日(水)

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたの教えは私の心のうちにあります」詩編40:8



イサクとリベカに双子が生まれたが、生まれる前に「兄が弟に仕え
る」との御心が示されていた。だが、父イサクはエサウを偏愛し、
母リベカはヤコブを溺愛した。ヤコブは策略により、エサウから長
子の権利をだまし奪う。しかしエサウもまた一杯のレンズ豆と交換
して「長子の権利を軽蔑した」。

エサウは、二人のヘテ人の妻を持ち、両親の悩みの種だった。霊的
な事柄に関心が向いていなかった。又、親たちも主の御心を無視し
イサクは、偏愛するエサウの方を祝福しようとする。するとリベカ
は夫と長男を欺いてまでも、弟ヤコブが祝福を受けるようにと画策
する。

この祝福は、変更不可能なものであり、だまされたと知ったエサウ
は激怒の余り、弟を殺そうする。罪とは「的はずれ」だ。家族皆が
的をはずして行った。ヤコブは身の危険に、家を出る事になる。家
庭崩壊だ。夫婦・親子・兄弟の関係が、的をはずし、今で言う機能
不全家族だ。ヤコブの家庭も、二人の妻、レアとラケルが激しく嫉
妬し合った。

母から溺愛されたヤコブは、息子の内のヨセフを溺愛した。その結
果、兄達はヨセフを激しく妬み、弟を異国へ売り飛ばした。しかし
主はこれらすべての中で、驚くべき主権を持って彼らを導かれる。
着実に主の約束が成し遂げられて行く。「地上のすべての民族はあ
なたとあなたの子孫によって祝福される」との誓いを果たされる。

ヨセフがエジプトで宰相になり、飢饉の中一族を救う。自分の肉で
動く時、的をはずして行くが、主に従い、御心に従う時に、主の栄
光が現わされて行く。肉は思い通りに歩もうとする。しかし、今、
目の前の事に、主のお心の方に従って行けるよう、祈ろう。
------------
自分の都合を通しては迷い悩む姿にはっとさせられる。同時に聖書
を通して人の生活が神によって動かされていくさまも見せられる。
確かに導かれる神に、思いを明け渡し従って行けるよう祈ろう。


2020年05月19日(火)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にうゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7



私たちの多くは、かなりの心配症かも知れない。多くの人々はネガ
ティブ思考で、何かが起きると、ネガティブな考えに傾くと言われ
ている。目の前の問題を思い煩い、又、先の、まだ見ていない事を
心配して、最悪のシナリオが出来上がって行く。あなたも経験ある
だろうか。もし、ああなったら、こうなったら・・と不安で仕方が
無い。

そうならないのに、妄想で心が暗くなる。まだ起きるかどうかもわ
からない事への、不安と恐れでいっぱいだ。明日の思い煩いで、今
日の一日をつぶしてしまう。今日なすべき事を成し遂げる事ができ
ない。主は思い煩いに対する答えを下さっている。それは「いっさ
い神にゆだねよ」というものだ。

そして問題は、神にゆだねるべきだとは、よく知っている。頭では
よくわかっているのだが、ゆだねられないところにある。ゆだねた
「つもり」なのだが、思い煩いは消えず、ゆだねてはいない。自我
が固く握りしめて放さない。無意識なのだが、目の前の事態を、自
分の手から放してしまうと、何もかもがだめになってしまう、崩壊
してしまうと思う。

何とかしなければと思い、自分で、自分の知恵と力で解決しようと
している。そのためますます握りしめる。自分では、ゆだねられな
い事を、そのまま主に祈って行こう。主が明け渡せるように助けて
下さる。主に渡した時に、自分の手から主の御手に、その問題は移
ってしまう。

そのため、まず心が落ち着いて、平安にされる。そして主は事態を
受け取り、取り扱われ、なすべき事を示して下さる。それに従う時
に、主のみわざへと導かれて行く。
----------
どうにもならない局面でやっと主に委ねた時、不思議な主の平安に
包まれ、そこから主が働かれる栄光を拝する事が出来た。心配は主
がしてくださる。まだ起こってない事まで心配するのはやめよう。


2020年05月18日(月)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20


ある人が、重要な仕事が壁にぶち当たり、行き詰まってしまった。
どうしてよいかもわからず、すべも無く、心は重苦しく、沈んでい
た。しかし「何で?どうしてこうなる?」主は、祈りに答えて下さ
るのではないのか。その日、余りの重圧に牧師を訪ね、牧師に話し
祈ってもらう中で、「八方ふさがりで、どうにもならない。祈る気
になれない。心が重い」と言った。

すると牧師が「こんな賛美があるよ。“望みも消えゆくまでに、世
の嵐に悩む時、数えてみよ、主の恵み、なが心は安きをえん”と。
恵みを数えてみない?」と。全くそんな気分でない。気持ちも乗ら
ない。が、牧師に言われ、促されるまま、一つ一つと思いつくまま
に数えた。今、健康なので感謝します。空気も、水も、住まい、食
物も与えられていて感謝です。救われている事に感謝です。

主の十字架に感謝します。家族、友人がいる事に感謝、仕事も感謝
です・・一つ一つを最初は気持ちも全く伴わず、機械的にだが、感
謝して行った時に不思議が起きた。不満、愚痴で一杯で、うっとう
しく、沈み込み、暗かった心が、何だか知らないが少しづつ軽くな
って行ったのだ。不思議だった。

頭をどんよりおおっていた、雲霧が晴れて行くような感じだった。
与えられているものが、当然としか思っておらず、当たり前なので、
感謝も、感動も何も無い事に気づかされた。何より、見える所に目
が奪われていて、主に、目が行っていなかった。すべての事は当然
で無く、主の恵みによる事だと見せられ、主に焦点が合うと、不思
議に「大丈夫だ」と思えた。

主は、愛し、慈しんでいて下さる。ご計画があり、良くして下さる。
そこに焦点が合って行くと、心が平安に変えられた。自分視点だっ
たのが、感謝して行く時、神視点に変わる。すると心が変えられる。
一歩従うことは、大きな祝福へと繋がる。
-----------
問題が解決したら感謝できるのにと思ってしまうが、いつでも、す
べてのことについてだ。感謝を数えていこう。すでに身に余る程の
恵みが手の中にあることに主は気づかせてくださる。


2020年05月17日(日)

「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」ヨ ネ5:9


ベテスダの池で、病で38年も伏せっている人に、主は目をかけられ
た。そして問われた、「よくなりたいか」と。気の遠くなるような
長い年月になると、気持ちが萎えて、気力が失せてしまう。しばし
ばよくなる事を諦めてしまう。又、38年も病気だった人が、突然、
健康体になったならどうだろう。

今まで、人は同情してくれ、伏せったままで良かった。しかし当然
働いて、社会生活をして行かなくてはならない。仕事を探し、住ま
いを探し、突然多くの責任が生じて来る。今まで伏せっていた者に
とって、大きな喜びの反面、非常に厳しい現実が待ち受けている。

私たちにも、主は「よくなりたいか」と問われる。今まで何度やっ
てもダメだった。これからも失敗すると諦めているだろうか。自分
の内にそんな部分があるだろうか。よくなるために、主はまず私た
ちの弱さを直視させられる。弱さを、惨めさを認めたくない。痛く
て突き詰めたくない。あいまいにしていたい。

又、主に真剣に従って行こうと決心するなら、払うべき犠牲に気づ
いている。その犠牲は困る。そのため、よくなりたくないのだろう
か。「よくなりたいか」は、自分自身の内のあいまいにしている部
分に、光が当てられ探られる。

又、内側の醜さ、嫌な部分は認めたくない。良い人でいたい。主は
良くして下さるために、自らの内側を直視させられる。逃げずに、
認めて行くなら、変えられ、成長して行ける。長年、引きずってい
る重い問題、悩み、そのところをいやし、自由にして下さる。

・・・・・・・・・・・・
よくなりたいのは、当たり前のように思うが、様々心の内を照らさ
れる。自己憐憫の中に浸っているのは、楽だったり、弱さを見たく
なく、認めたくなく、逃げていたかったりする。主のもとに自由が
あり、喜びがあり、いやしがある。主の問いかけに答えて行きたい。


2020年05月16日(土)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神 よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17


エデンで、アダムとエバは罪を犯した。その時、主はアダムに「あ
なたは・・食べたのか」と問われた。それは愛ゆえに、悔い改めの機
会を与えるためであった。アダムは「ごめんなさい。食べました」
と罪を認める事ができた。だがアダムはそうせずに、エバのせいに
した。「この女がくれたので、食べた」と。

更に「あなたが私のそばに置かれた女」と神のせいにした。有名な
責任転嫁だ。「あなたのせい、あの女のせい、あなたが悪い、あの
女が悪い」、そして自分は悪くなく、被害者だ。ダビデも姦淫と殺
人の罪を犯したが、ダビデはその後、悔い改めた。その時、自己正
当化も、バテシバへの責任転嫁もせず、弁解、言い訳せず、ダビデ
は悔いくずおれた。ダビデは砕かれた。

ダビデは主の御前だけでなく、人々の前にも罪を隠さず、体面やめ
んつに関係なく罪を認めた。王であり、トップであり、なかなか出
来る事ではない。ダビデは、主の御前に、人々の前にへりくだった。
主は砕かれた、悔いた心をさげすまれない、軽しめられない。

「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」「主は心の打
ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」。
自分の罪を悲しみ、心から悔い改める魂に、主は大変近くあられる。

・・・・・・・・・・
罪を犯しても、結果がまずかったので、後悔はするが、悪いとは思
っていなかったりする。仕方が無かったと自己正当化してしまう。
そうするなら、何も変わらない。主が喜ばれるのは、悔い砕かれ、
悔い改めること。その時、赦され、新たにされ、変えられて行く。


2020年05月15日(金)

「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって・・」Tヨハネ2:10


光の中にとどまる人は、決してつまずく事がないと言っている。
光があるから見えるので、つまずかないで歩んで行く事ができる。
つまり、光により、罪がわかり、悔い改めることができるからだ。
罪を犯さない人はいない。罪を犯してしまうのだが、その罪を示さ
れ、教えられて、悔い改めて〃、赦されて、赦されて、歩んで行け
る。赦しがあるから、常に主の光の中を歩める。

人がつまずくのは、光の中にとどまらず、闇の中にいるからだと言
っている。闇の中では、真っ暗で何も見えないので、歩くとつまず
いてしまう。「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、
今もなお、やみの中にいる」やみの中にいるしるしは、兄弟への憎
しみだと。御言葉を真実とし、憎しみがあるなら、自分がやみの中
にいると認める時に、すでに光の中だ。

御言葉に従っているからだ。又、兄弟を愛して行くなら、やみの中
にはおらず、光の中で歩んで行けると。愛せない事を認め、愛せる
よう主に拠り頼むなら、光の中だ。心が重苦しいのは、相手のせい
だと思う。嫌な相手のために憂鬱で、落ち込んでいると。この状況
さえ変われば、平安になるのにと。

しかしそれは原因ではなく、平安が無いのは、自分と主との関係の
問題だ。憎しみは、主との関係をシャットダウンしてしまう。まず
主のもとへ行き、祈ろう。自分ではどうにも出来ない。しかし主は
弱さをわかり、助けて下さる。人に出来ないことが主にはできる。
平安へと導いて下さる。
------------
相手はどうであれ、自分に憎しみという罪があると気づけたら闇か
ら光の中だ。主は闇から救い出してくださる。御言葉のひかりに照
らされて、つまずかず御心の中を歩もう。


2020年05月14日(木)

「しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3


魚にのみこまれたヨナの箇所だ。ヨナは、敵地であるニネベへ行け
との、主の命令がどうしても気に入らなかった。そこで「主の御顔
を避けて」、船場に行くと、丁度そこに、ニネベとは反対のタルシ
シュ行きの船があった。渡りに船で、反対行きの船に乗り、主から
の示しであるニネベ宣教を拒否した。

すると嵐になり、ヨナは、嵐は不従順な自分のせいなので、自分を
海に投げ込むようにと言った。その投げ込まれた海中に、主は、大
魚を備え、ヨナを飲み込ませ、守られた。その中でヨナは主に向か
って祈った。魚の腹から出された後、今度は、素直にニネベに行っ
た。するとニネベの人々は、ヨナの言葉で悔い改めたので、主は災
いを思い直された。

それが又、ヨナには納得が行かず、受け入れられない。町を出て小
屋を作り、その陰に座った。どうなるか見てやろうとの態度だ。主
はとうごまで日陰を作られ、ヨナは喜んだ。だが翌日、虫でとうご
まは枯れた。焼け付くような太陽が照りつけ、ヨナは衰え果て「死
んだ方がまし」と死を願うほどだった。苦い思いから、とうごまで
機嫌が良くなったかと思うと、又、ぐったり衰え、死にたいと願う。

自分の姿だろうか。些細な事で一喜一憂し、信仰がアップダウンし、
グラグラ揺れる。うまく行けば大喜びし、少し行き詰まればひどく
落胆し、外的状況にころころ振り回される。外側の状況に反応する
のでなく、内側に確かな信仰、喜び、確信を持つ事が大切と教えら
れる。主はヨナを大きな深い愛で愛しておられる。

ヨナが御心をそれても、決して見捨てず、見放さず、尚も導かれ、
その愛は不変だ。この同じ愛で、すぐ御心をそれてしまう私たちも
愛されている。弱さをご存じでいて下さる。この主のもとに、弱い
ままいつも帰れるとは、何という安堵だろう。
-----------
自分がどうであれ、神のご愛、恵みはいつも豊に注がれている事実
に今朝も感謝できる。どんな不信仰の中からも弱さのまま祈れる。
神からのとうごまの備えに幾度も心は慰められ満たされて来た。


2020年05月13日(水)

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」創世記11:4




よく知られているバベルの塔だ。最初、全地は一つ言葉だった。そ
のため互いに交流でき、意思疎通もできた。そんな頃、人々は移動
し、シヌアルに定住した。彼らは、主かられんがを作る技術が与え
られ、れんがと瀝青で建築物を作る事ができた。うまく対話でき、
肥沃な地で、建築技術も与えられ、すべては主の大いなる恵みであ
った。

だが「その内に彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」と言
い出した。主に感謝し、栄光を主に帰するのでなく、自分の名をあ
げ、自分の栄光、自分の名誉と、「自分」が神の位置に座ろうとし
た。主に与えられた能力を、自分の栄光のために使うようになった。
「自分が」「自分の」「自分のため」・・。どこまでも自分になっ
て行く。これがアダムからの罪だ。

「その内に」とあり、最初は良かったのだが段々と狂って行った。
自分の知恵と力でやり始め、「我々が全地に散らされるといけない
から」と自分たちが一つ所にいるためのものだった。そこで主は言
葉を乱され、意思疎通を不可能にされた。その結果、混乱し、塔建
築は出来なくなり、「彼らは建てるのを止めた」、失敗した。主が
介入され、阻止された。

そして人々は全地に散らされた。原因は「高慢」であった。私たち
もどうだろう。言葉が通じず、気持ちが通じない時、そこに主を忘
れ、「自分が、自分が」の「高慢」がないか。「主のみ思い、主の
御心」が第一でなく、それを押しのけ「自分の気持ち」が第一だろ
うか。そこから各々が気持ちをわかってくれないと、分裂と争いと
なる。

まず主の御前にへりくだろう。そして祈る時に、様々御霊の気づき
が与えられ、高慢から守られる。そして主を第一に求めて行く時に、
必ずそこに一致がある。主は一つ、御霊は一つだからだ。
------------
神との交わりが近ければ近いほど、自分の無力を素直に喜べる。
自分が自分がと押さえきれない肉が常に内にあるからこそ、日々、
神に助けを求めて歩みたい。


2020年05月12日(火)

「しかし、イスラエル人は、ゲシュル人とマアカ人とを追い払わなかったので、ゲシュルとマアカとは、イスラエルの中に住んだ。今日もそうである」ヨシュア13:13



ヨシュアをリーダーとして、イスラエルの民は、主の大いなるみわ
ざによりヨルダン川を渡った。そしてカナンに入り、エリコの城壁
が崩され、どんどん進軍して行った。主の約束して下さったものを
次々と勝ち取って行った。しかし年を経て、主がヨシュアに言われ
るところは「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき
地が沢山残っている」だった。まだ多くが占領しきれてなかった。

各部族は、その地に住む先住民を追い払わなかったため、先住民は
彼らの中に住んだ。しかし主は警告されていた。先住民と「親しく
交わり、彼らと縁を結び、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼
らもあなたがたの中に入ってくるなら」、彼らは、わなとなり、落
とし穴となり、わき腹にむちとなり、目にはとげとなり、ついには
主が与えた良い地から滅び失せると。

その通りに、ヨシュアの死後も、「彼らを追い払わなかったので、
彼らは一緒に住んでいる」とある。影響は甚大で、段々と彼らの娘
たちを妻にし、自分の娘を与え、彼らの神々に仕えるようになって
行った。主を忘れて、何とバアルやアシュタロテに仕えたのだ。こ
れは、先住民と共存してしまった事が原因だった。

私たちもどうだろう。肉は、楽な、安易な道を選んでしまう。しか
し肉と妥協しているといつしか命取りになってしまう。自分の中の
占領すべき地はどうだろう。高ぶり、プライド、虚栄心、欲、快楽、
自分の思い、自分のプラン・・自分が握り、主に王座を明け渡して
いない箇所はどこだろう。自分が占領すべき地は?御霊に示された
なら、一歩従って行こう。
-----------
まだまだ占領すべき地が拡がっているのに現状に満足してしまって
いる。くり返す失敗や自分の足りないところ、受け入れるべきもの
・・示されたなら何より感謝だ。諦めないで前進していこう。


2020年05月11日(月)

「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:7



主は、乳と蜜の地に導くと約束して下さったのに、民は入る事が出
来なかった。不信仰のゆえだった。導き入れるとの、主の言葉を聞
きながら、信じる事なく心を頑なにした。「もし御声を聞くならば
・・心を頑なにしてはならない」の通り、御声を聞くなら受け入れ
る必要がある。もし、語られた言葉をないがしろにしているなら、
心はそのままでなく、更に固くなって行く。ますます頑なになって
行ってしまう。

私たちはどう聞いているだろう。主が御言葉を語られた時も、聞く
人の心の態度は様々だった。素直に受け入れる人、単に好奇心だけ
の人、反発する人、聞き流す人・・。又、石地のように、喜んで聞
くのだが、根ざそうとすると、岩である自我にぶつかる。すると自
分の肉の思いの方を通して行くだろうか。

そんな心が耕される必要がある。頑なな心が、すきやクワで耕され、
砕かれる時、素直にされる。砕きは祝福だ。御声を聞く時、主の言
葉を、その通りにそのまま受け止め、信じて行く事が信仰だ。この
世は、目に見えるもの、手でつかむ事のできるものを確かなものと
する。私たちは、目に見えない御言葉を真実なもの、確かなものと
する。

そして、その語られた御言葉を、行なって行く事が大切だ。実行し
て行く時に、初めて御言葉が身につき、培われ、そして必ず豊かな
実を結ぶ。私たちはどうだろう。ただ聞き流しているだけだろうか。
それなら御言葉を捨てている事になってしまう。心して受け止め、
そして今、目の前に示された御言葉に一歩従おう。実行しよう。
その時、素晴らしいみわざを見て行く。
------------
本当に聞くだけで従えない者だ。目に見えるもの、聞こえてくる声
に思いは簡単に流れてしまう。真に価値のあるものに従いたい。語
られた御言葉を心に留めて従ってみよう。


2020年05月10日(日)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ5:8


罪は、真っ黒な苦いものに思えるが、そうではない。罪には一時の
快楽がある。罪は楽しい、甘いものだ。肉を喜ばせる。もし罪が苦
いものであれば、こんなにも罪の問題は起こらない。苦いものにな
ど誰も近寄らない。罪は心地良く、甘いからこそ、人は誘惑されて
罪に陥ってしまう。そこにサタンが巧妙に働いて、惑わす。

エデンの園でエバに来た誘惑、「食べるのに良く、目に慕わしく、
賢くする・・いかにも好ましい」の通りに、罪を素晴らしい、魅力的
な、麗しいものに見せて欺く。そしてサタンの言葉を受け入れて行
くと、そのようにしか見えなくなってしまう。エバが、蛇の「決し
て死なない」「神のようになり、善悪を知るようになる」と、一つ
〃の言葉を受け入れ、その目で見ると、その木は素晴らしく良いも
のに見えた。

もう行動に移る事は時間の問題だった。エバは禁じられたその実を
取って食べた。サタンは罪を良い魅力的なものに見せる。罪は快適
で、欺かれていて気づかない。サタンの策略だ。良いものに見える
ので、御心をそれていながら気づかない。何の問題もなく、人生う
まく行っていると思ってしまう。

とにかく神から離そう〃と、誘惑し、攻撃して来るサタンに心して
いよう。サタンに聞いて行ってはならない。自分は大丈夫と、罪を
もて遊んではならない。必ず罪に、飲み込まれてしまう。主に拠り
頼み、罪を拒否し、避け、退けよう。いつも祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・
主の御心をそれていながら、すべてはうまく行っている、何の問題
も無いとサタンは欺いて来る。すぐに結果が来ないので、目に見え
るところに欺かれてしまう。巧妙なサタンをわきまえつつ、主を畏
れて、ただ主に頼り、従えるよう祈っていよう。


2020年05月09日(土)

「約束のみことばはこうです『私は来年の今ごろ来ます。そして、 サラは男の子を産みます』」ローマ9:9


アブラハムは、75歳の時に「生まれ故郷を出て、わたしの示す地に
行け。大いなる国民とし、祝福する」との召しに従い、カナンに向
けて出発した。だが、一向に子供のできる気配は無く、やがて、し
もべエリエゼルを相続人にと考えていた。「子孫を下さらないので、
家の奴隷が跡取りになる」と。

すると主は「その者ではない。あなた自身から生まれ出る者が継が
ねばならない」と。主は彼を外に連れ出し、子孫はこの星のように
なると、天を見上げさせ、満天の星を見せられた。その時、「彼は
主を信じた」。彼は、神の約束を信じた。現に子供はまだ与えられ
ず、気配もなく、常識的にも、見えるところでは受け入れ難い事だ
った。

しかしアブラハムは、神を「信じた」。状況でなく、神ご自身を信
頼した。「望みえない時に望みを抱いて信じた」。望み得ない時に
望みを抱くからこそ、信仰だ。見えないから「信仰」なのであって、
目に見えたなら信仰は必要ない。人間の五感による実感など、全く
無い中、御言葉だけが頼りだった。状況を、目に見える感覚を頼る
なら、どこを見ても信仰など湧かない。目の前の状況から出す結論
は「不可能」だ。

その望み得ない状況から、どうやって希望が湧き出るのか。それが
約束の御言葉だ。神が語られた言葉を、そのまま真っ直ぐ受け取る
時、「彼の義とみなされたと書いてあるのは、ただ彼のためだけで
なく、また私たちのためです」。私たちも、アブラハムと同じ祝福
にあずかる。

・・・・・・・・・・・・・・
「みことばはこうです」と、みことばの下に自らを置き。みことば
を握り、サタンに立ち向かうなら、サタンは逃げ去るとある。「何
も思い煩うな」「わたしだ、恐れることはない」と言われる。状況
でなく、み言葉の方を信じて、主の平安の中におらせて頂こう。


2020年05月08日(金)

「主は彼に仰せられた。『あなたの手にあるそれは何か』彼は答えた。『杖です』」出エジプト4:2



多くの人が、何かが起きた時に、悲観的思考に傾くと言われている。
ネガティブな思いへと進んでしまう。私たちも、主から目を離すと、
無いものばかりに、心が向きがちだ。無いものを数えてしまう。あ
れが無い、これも無い。能力が無い、時間も労力も無い、財も無い
・・だからだめだと、心沈み落ち込んで行ってしまう。

無いものでなく、あるものを見よと主は言われる。田原米子さんは、
母親が亡くなった虚しさに自殺を図り、片腕と両足を失い、3本の
指だけが残った。絶望し、次は確実に死のうと計画した。そんな中、
宣教師の訪問により主に出会った。主を受け入れた時に、突然、光
が来て「指が3本もある!」と思った。「3本しか無い」から「3
本もある」へ転換が起きた。

星野富弘さんも首から下が動かない身体になった時に、人生に絶望
した。先も全く見えず真っ暗だった。持って行き場の無い苦しみ、
煩悶を母親にぶつけて当たっていたと。そして聖書に触れ、神に出
会った時に、「首から下が動かない」から「首から上は動く」に思
いが変わった。自分にできる事をして行った時に、多くの人の慰め
と励ましのために素晴らしく用いられて行った。

私たちは無意識にも、無いものばかりに目が行ってないか。必ず主
は何かを与えておられる。何もないと思ったモーセには、羊飼いの
杖があった。少年は5つのパンと2匹の魚を持っていた。それを主の
もとに携える時に、大きなみわざをされ、周囲の人々も神を知るよ
うになる。あなたの手にも、必ず何かが与えられている。それを主
のもとに携えよう。
------------
心が荒んでいく時、無い物を数えている事に気づく。今、手の中に
与えられている物、また注がれているのに気づかずにいる恵にも感
謝し、主に十二分に用いていただこう。


2020年05月07日(木)

「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた・・」ヨハネ13:2 



悪魔が、ユダの心に、主を裏切る思いを入れたとある。ユダが自分
で思ったのでなく、悪魔が入れた思いなのだと。悪魔のささやきを、
心に受け入れ、同意してしまった。悪魔の声を拒否する事ができる
し、同意する事もできる。私たちにも、しょっ中、思いに、悪魔か
らの火矢が飛んで来る。拒めばよいのだが、それを受け入れ、同意
してしまう。

それを心に温めると、罪に進んで行ってしまう。「人はそれぞれ自
分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される」とあり、欲のあ
る所に、悪魔の誘惑の手が伸びる。そこに必ず自身の肉の欲望があ
る。欲が無ければ、誘惑にならないからだ。その悪魔の吹き込む思
いに同意して、受け入れてしまうと「欲がはらむと罪を生み」と、
その思いを心の中で妊娠させてしまう。熟成させてしまう。

すると実際に罪を犯してしまう。ダビデも、部下は命がけで戦って
いる中、夕刻に起き出すという怠惰な生活をしていた最中に、身体
を洗っているバテシバを見た。その誘惑を拒否する事が出来たが、
呼び寄せてしまい、姦淫の罪を犯した。

人は弱く、誘惑に負けてしまう。だからこそ、主は祈りを与えて下
さっている。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていな
さい」と。主との交わりの生活の中にいる時に、守られる。祈りは
力だ。ダビデは、バテシバを見た時に、祈れば良かった。私たちも
誘惑が来た時に、主の助けを求めて、即、祈ろう。主は弱い私たち
を助けて下さる。
-------------
自分は誘惑に弱い、負けてしまう。だからいつでも主に助けを求め
る姿勢でいたい。悪魔の声と会話していく時に気づけるよう、御言
葉に照らし拒否できるよう祈っていよう。


2020年05月06日(水)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」詩篇119:67



信仰人生にも、様々な問題がき起きる。問題や悩みは、誰しもいや
なものだ。できるだけ、痛い目には会いたくない。できれば、避け
て通りたいし、出来る限り順境であって欲しい。平穏な日々が、私
たちの心からの望みだろうか。しかし、御言葉はそう言わない。正
反対のことを言う。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、
あなたのことばを守ります」「苦しみに会ったことは、私にとって
しあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。一見、
苦しみに会うと、あやまちを犯すふうに思う。だから、平穏でいた
い。しかし、逆で、苦しみに会う前は、あやまちを犯したと言って
いる。

つまり、苦しみを通ったからこそ、あやまちから守られ、御言葉に
従い、御言葉を守る者とされていると。そして、苦しみに会ったこ
とが、幸せだったと言っている。私たちは、苦しみに会うことは、
不幸だと思っている。根深い肉の価値観だ。しかし、信仰人生で一
番主に近かった時は?との問いに、皆が、試練の時、最も苦しかっ
た時、と答える。あんなに主に近い時は無かったと。

これは苦しみにより、主に頼り、拠りすがる者とされるからだ。真
剣に、本気で、主に向かい、切に御心を問い、自らの本当の姿を照
らされる。普段順境の時には、決して知る事のない、自分の不信仰
や、エゴに気づかされる。悔い改めて、新たにされる。そして、主
を新たに知り、主との交わりが深められて行く。これこそが一番の
幸いだ。
----------
苦しみの中で主を親しく知り、これまで一人で孤軍奮闘していた自
分から主は解放してくださった。主は苦しみを通して主に頼る事を
一歩一歩、教え続けてくださる。


2020年05月05日(火)

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテロ2:19



ある人が職場で、辛い状況にあった。先輩が、どうも自分が気に入
らないようで、挨拶をしても、返してもらえなかった。無視されて
いるようで、しんどい状態だった。自分の何が悪かったのかと考え
るのだが、思い当たらない。相手がしていた仕事を、上司が自分回
し任せたのが、気に入らなかったのだろうか。

だが自分はクリスチャン、こちらは無視されても挨拶をし続けた。
隣の自分の同僚には親しく話しかけ、自分はスルーされ、怒りが湧
きそうになるが、祈りに祈り、御言葉に励まされながら、何とか守
られ接することができた。辛い中、この事を続けて祈っていた。あ
る時、相手の仕事の締め切りが迫り、どうにもならない中、一緒に
遅くまで残業して手伝った。

「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」との御言葉が示
されていたからだ。どうにもならなかったその仕事はうまく行き、
大変感謝された。相手は良心のかしゃくを感じているようだった。
入社時から自分に仕事を教えてくれたのが、その相手であり、自分
もその事を感謝した。その時、何かが変わり、その後、良い関係と
なった。

祈りの答えだった。主が祈りに答えて下さった。問題が起きた時、
自分で動き回らず、とにかくまず祈ろう。祈りを積み、そして次に
耳を澄ましていよう。御霊はなすべき事を示される。その時示しに
従おう。従わないならそのままだが、従う時にみわざを見て行く。
------------
感情では不当な苦しみをこらえる事などできない。主に助けられな
ければ、結果を思い煩うばかりだ。全てを知っておられる主に結果
を委ねられるよう、主の喜ばれる方へ向かえるよう助けを祈ろう。


2020年05月04日(月)

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14



ぶどう園の収穫に、労務者が早朝、9・12・3・5時と順次雇われ
た。早朝の者のみ、1日1デナリの契約がなされ、9時以降の者は1
デナリでなく、それぞれ「相当のもの」との約束だ。そして業務終
了時に、早朝でなく、5時の者から順に1デナリが支払われた。当
時の1日分の給料だ。5時の者たちはどんなに驚いた事だろう。

5時などもう片づけに入る時刻だ。ほんの僅かの労働で、丸々1日
分貰えた。何で??と。しかし早朝の者は怒りがおさまらない。憤
慨して主人に文句をつけた。「1日中労苦と暑さを辛抱した」と。
それが同賃金とはどういう事だ、不公平だと。人間の価値観だ。

早朝の者から支払えば問題無かった。順次貰って去るので、後の者
の事はわからない。しかしわざと最後の者から支払われた。何が言
いたかったのか。「天の御国は」とあり、これはこの世の労働の価
値観でなく、御国の価値観の事だ。人間は成果主義だが、神の価値
観は全く異なる。

早朝の者は報酬の確約があった。労働後に確かな報酬があり、安心
感をもって働けた。5時の者はどうだろう。怠けではなく、働きた
いが雇って貰えない。身体が弱く見えたのだろうか。夕刻迫るがそ
の日の糧は無い。家族の落胆を思い、どんなに不安や焦り、落胆だ
ったろう。そこに「ぶどう園に行け」と言われ、どんなに嬉しかっ
た事だろう。

そして1日分の給料だ。何という驚き。「最後の者にも同じだけ上
げたい」「気前がいい」、天の御国は、恵みとあわれみの世界だ。
労働を提供した報酬は給料だ。労働しないのに給料がもらえる、そ
れが恵みだ。御国とは、この恵みが支配する世界だ。
------------
最後の者の報酬を知った時に湧き上がる嫌な思いが、自分の内にし
っかりある。自分の意志では決して、神のあわれみと恵みを共有で
きない者だ。御言葉に照らされ、気前がいい御父の恵みを深く受け
ていると気づく。


2020年05月03日(日)

「『帰って行きなさい。あなたの息子は直っています』その人はイ エスが言われたことばを信じて、帰途についた」ヨハネ4:50


王室の役人が、カペナウムから主のもとに来た。王の宮廷官吏で、
地位も財もあった。しかし、それらをもってしても、どうにも出来
ない事態が生じた。息子が病気で死にかけていた。どんな高名な医
者も治せなかった。絶体絶命の中、主の噂を耳にし、この方ならと
最後の望みを託して、30キロの道のりを必死の思いでやって来た。

どうか来て、息子をいやして下さるようにと願うと、主は「イエ
ス」とも「ノー」とも答えられず、「あなたがたは、しるしと不思
議を見ない限り、決して信じない」と言われた。「あなたがたは」
であり、彼とガリラヤの人々が、主を歓迎しているのは、様々な奇
跡を見たゆえだと。

「イエスがなさったすべての事を見ていたからである」。それなら
逆に奇跡を見なければ、すぐに主から離れてしまう。それは、御言
葉を聞いて信じる信仰でなく、見て信じる信仰だと。しかし彼は、
尚も必死で「主よ、来て下さい」と息子の癒しを求めた。主は「帰
りなさい。息子は直っている」と言葉を与えられた。

すると、彼は、ただ主の言葉だけをもらい帰途についた。主の言葉
を信じた。彼は、主に、実際に来て頂かなければと思っていた。し
かし主は言葉を与えられた。「不思議を見て」でなく、「御言葉を
聞いて」信じる信仰へと導かれた。

彼は御言葉を信じて、帰って行くと、途中でしもべが、息子が直っ
た事を告げた。それが御言葉を聞いた「同時刻」である事を知り、
彼も彼の家族も、皆、信じた。見ないで、信じる本当の信仰へと導
かれた。

・・・・・・・・・・
信仰は聞くことから始まり、キリストについての御言葉による、と
ある。せっぱ詰まった役人に、主が御言葉を与えて下さったように、
私たちの問題にも、求めに答えて言葉を与えて下さる。一心に御言
葉を聞こう。


2020年05月02日(土)

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをす べての真理に導き入れます」ヨハネ16:13

ある女性の証しだ。小さい時から頑張り、親に言われるまま塾にも
通い、優等生で過ごして来た。周囲からも褒められ、自分でも、成
績は良く、何ごとにも真面目な良い子だと思っていた。ある時、友
人に誘われ教会に行った。ところが「罪」ということが、一向にわ
からなかった。

自分は良い子であり、周囲にもそう言われ、自分自身も真面目に生
活して来たつもりだ。非行になど走った事はない。しかしある時、
放蕩息子の学びだった。その時に、その放蕩息子ではなく、兄息子
が、自分と同じで、自分に重なることに愕然とした。

家出して行方不明の弟を心配もせず、軽蔑し、見下し、そして帰っ
て来た弟を受け入れる父親に不満を爆発させる。誰にも見せない自
分の姿だった。いい顔をしつつ、実は出来ない子を見下していた。
自分は正しく、良い人間であり、心の中では不良たちを冷ややかに
裁いていた。そして心の中は、常に満たされてはおらず、怒りや不
平不満でいっぱいだった。

突然、御霊の光によって自分の姿があらわにされた。初めて罪がわ
かった瞬間だった。心底自分は罪人であった。頭で聞いていた主の
十字架が、まさに自分のためであると迫り、心からの悔い改めが与
えられた。御霊が働かれ、罪につき、義につき、そして十字架の意
味をわかるように教えて下さった。御霊の光が、自分も知らない自
分の姿を照らし出し、真理に導いてくれる。

・・・・・・・・・・・
御霊によらなければ、何一つわからない。御霊は光であり、光は自
分もわからない、心の闇を照らし出してくれる。主の十字架を新た
に知り、そして罪はことごとく赦される。自分自身が新たに〃され
て行く。すべての真理に導き入れる、との約束は何と嬉しい事だろ
う。、


2020年05月01日(金)

「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」詩編6:8



ダビデは、理不尽にもずっとサウル王から攻撃を受けた。それは命
をも狙われる攻撃だった。サウルの命を救い、良い忠実な部下であ
り、何一つサウルに悪い事をしていない。むしろ王にとっては戦い
に長けた素晴らしい部下だった。それが連戦連勝のダビデに対する
女たちの賞賛、人気に、サウルが激しく嫉妬したゆえであった。

ダビデは、常に死と隣り合わせの状態だった。いつ殺されるかも知
れないなどと、どんなに恐怖と不安、苦しい状況だろう。更にサウ
ル王だけでなく、実子のアブシャロムからも敵対され、攻撃される。
その上病気にもなり、もうボロボロで、極度に弱り果て、ダビデは
泣くしかなかった。

「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なすすべなく
泣いて泣いて嘆いた。ダビデは信仰者であり、神の心に適った者と
言われている。信仰すれば、悩みが無くなるのではない。主は、私
たちの信仰を試され、鍛えられる。苦しみの時に、どうしても切実
に願う事は、目の前の状況が変わる事だ。

問題が無くなって欲しい、ただただ悩みが去って欲しい。しかし苦
しみの時こそが、神が神であられる事を身をもって知る時だ。ダビ
デは嘆きをそのまま主に持って行った。私たちも、そのまま心にあ
るものを主に持って行ける。ありのままを受け止め、心の内を聞い
て下さる。

そして言葉にならない、心の内を理解して下さる。その叫びや恐れ
の、その奥にあるものをもわかっていて下さる。主は一番の理解者
だ。主は泣く声を聞かれ、私たち自身を受け入れて下さる。主のも
とにに持って行こう。
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主は私を愛し、私の悩みに心を用いてくださる。それを知っている
から祈る事ができる。出来ないから祈り、失敗しては祈り、弱音を
ことごとく主の元に持っていき祈れる。