2020年06月30日(火)

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください」ピリピ4:2



ここでパウロは、ピリピ教会の二人の女性ユウオデヤとスントケに、
主に在って一致するようにと言っている。彼女たちはパウロの良き
協力者であり、福音を広める事に共にあずかって来たと。熱心に伝
道し、一緒に戦った素晴らしいパウロの同労者だった。リーダー的
存在の二人だったのだろうか。しかし何かがあって二人は対立して
しまい、不一致の状態にあった。

それが教会全体の一致を乱し、憂慮となっていた。サタンはとにか
く一致を壊そうと働いて来る。一致に、どれほど大きな力があるか
を知っているからだ。そこを狙い、攻撃して来る。そしてサタンは
ほくそ笑んでいる。ピリピ教会の問題が、パウロの耳にまで届き、
パウロが勧めをしている。一致のために必要な事が、自己中心や虚
栄から離れ、人を自分よりも優れた者と思う、へりくだりだと。

自分の強い信念があり、自分は正しいと思うので、自分の思い、自
分の意見が通らないと腹を立てる。又、すねたり、心を屈折させた
りする。「自分の思い」「自分の気持ち」、「自分の」「自分の」
になって行くと、主の御思い、主の栄光から離れ、反対方向へ向か
ってしまう。自分の主張のみに立っていないだろうか。

自分は絶対正義でなく、完全ではないので、あるいは間違うかも知
れないとのスタンスに立つ時、人の意見に耳を傾ける事ができる。
何もかも同意するのではないが、相手の言う事に耳を傾ける態度は、
大切だ。そこから相互理解が生まれる。そして、自分の思いでなく、
主の御心を求めるなら、必ず一致へと導かれる。主は一つだからだ。
今、へりくだりが求められているだろうか。
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本当に戦うべき相手は誰なのかを忘れないようにしよう。罪の力と、
サタンに支配され、一致も、主への感謝も何もかも消えてしまう。
主の愛を学ぼう。


2020年06月29日(月)

「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられコロサイ3:10




目の前に、どれだけ努力しても、うまく行かない、難しい対人関係
があるだろうか。うまく対処できず、関係はこじれるばかりだ。
心が辛く苦しくなる。相手が、何とか考えてくれたらと思う。「相
手を変えて下さい」「苦しいこの環境を変えて下さい」と祈る。ど
うしても相手の欠点が見えてしまい、相手のここ、あそこの部分が
変わってくれたらと思う。相手を責めている自分がいる。

しかし祈って祈って、幾ら祈っても、相手は変わらず、状況も変わ
らず、自分も変わらない。何も変わらない。辛さは続くばかりだ。
もうどうしていいのかわからない。又、ある時は余りに苦しくて、
職場を変わる。苦しい状況から解放されて、ほっとするのだが、
しかし次の職場でも同じ事が起きる。又、目の前に難しい相手が出
て来る。以前と同じ光景だ。

祈りの中で、もしかして、自分への取り扱い?という事に初めて思
いが至る。何のすべも無くなり、主のもとへ行く時、変わるべきは
自分だと気づかせられる。あれだけ祈っても何も動かなかったのに、
「私を変えて下さい」と祈るなら、その祈りは答えられて行く。そ
して自分自身が変えられて行く。確かに変えられ、ますます新しく
されて行く。

自分自身が変えらるので、次に、同じ状況が来たとしても、乗り越
えて行ける。私たちを、成長させて下さる。又、もし主の御心なら、
環境をも変えて下さる。とにかく主の御心は、私たちが主の似姿へ
と変えられて行く事だ。
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脱ぎ捨てるべき古い人、その行いは何だろう。苦しい悩みの時に主
に祈れることは救いだ。主の聖さや愛に触れて癒され、ゆっくりと
自分自身の姿を見せてくださる。


2020年06月28日(日)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこ ころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ・・」 ローマ12:2



御言葉を聞いた時に、心の内の反応はどうだろう。「〜しなさい」
と聞くと「いや、そうすれば、周囲と異なり、変に思われる。」
「〜したら、自分の立場が悪くなる。浮いてしまう」「それは犠牲
が大き過ぎる。時間と労力がとられるのは困る」。御言葉と同時に、
「ん?」「でも」ああだ、こうだと様々な思いが浮かぶ。

サタンが働いている。その思いの方が強くなり、「ほんとにそんな
事、示されのか?」「思い違いでは?」と、サタンがどんどん攻め
て来る。「無理、無理」とサタンに説得されてしまう。結局、御言
葉を行わないままに終わる。御言葉を聞くが捨ててしまう事になる。

肉の思い、世の価値観にサタンが働いて来て、御言葉を妨げ、世と
調子を合わせる事になってしまう。御言葉を喜んで聞くし、学ぶの
だが、主の言葉よりも、常に自分の思いが優先されてしまい、そう
であれば、御言葉が結実して行かない。

そして御言葉を学ぶのだが、授業を聞く感じで、頭ではわかるが、
何だか神がよくわからず、傍観者的で、もう一つ実感がない。どこ
が問題なのだろうか。御霊の語りかけが来た時に、自分の肉の思い
の方を、無意識に選択して、従ってしまう。根深い古い価値観があ
る。

エデンの園で、善悪を知る木の実を食べた時に罪が入ったが、善悪
を自分が判断し、自分が正しいと思う価値観だ。御言葉より自分の
判断の方がすぐれていて、常識に合っていると思う。しかし肉の思
いの方を捨てて、御言葉に従う時に、自分が変えられて行き、もう
一つ実感の無い主が、親しくわかって行く。

・・・・・・・・・・・
御言葉を聞く時に、常に自分の思いが同時に来る事をわきまえてい
よう。背後に、御言葉から離そうとするサタンが働いている。祈っ
て御言葉を聞き、御霊の助けを仰ごう。御霊は、主がわかるように
必ず助けて下さる。


2020年06月27日(土)

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり・・世の終 わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」Tコリント10:1 1


聖書の中には、信仰者の失敗がありのまま記されている。世の一般
書なら、都合良い部分だけ記し、都合悪い部分は隠す。しかし素晴
らしい信仰の勇者も人間であり、失敗する。罪も過失も、そのまま
に赤裸々に記されている。まずアダムとエバは失敗して罪の方を選
び、それは原罪となった。カインは妬みのゆえ、弟アベルを殺害し
た。ノアは酔っ払って失敗した。

アブラハムは妻を妹だと偽り、又、神の時を待てずにハガルにより
イシマエルを産み出すという重大な失敗をした。ロトは肉で歩み、
この世の名誉地位を愛し、娘婿も妻も滅びから救えなかった。イサ
クも父と同じく嘘をつき、ヤコブは父と兄を欺いた。モーセは同胞
の救出に失敗し、殺人を犯して逃亡した。

又モーセは、出エジプト後、荒野に出た時には、主に従わず怒りで、
岩を打つ罪を犯し、約束の地に入れなかった。アロンは、モーセが
不在の間に、民に要求され、何と金の子牛の偶像を作ってしまった。
ダビデは姦淫の上に殺人を重ね、ペテロも弟子たちも、主が捕らえ
られた時に、主を裏切って、逃げた。

主はそれら失敗を悔い改めに導き、ことごとく赦し、尚も全く変わ
らない愛で、愛し続けられた。どんな失敗をしたとしても、決して
見捨てられる事はない。アブラハム、イサク、ヤコブは大いに祝福
され、モーセは出エジプトの大役を任され、ダビデはあの素晴らし
い詩篇を記し、ペテロは、後に諸教会のリーダーとして活躍した。

失敗した時は、問題の原因を考えよう。自分のどの弱さなのか、何
に触れるのか。そうするなら同じ事を繰り返さない。主の赦しを受
け取ろう。主のあわれみは尽きない。再びやり直すことができる。
失敗で落ち込み、倒れてしまうのでなく、教訓として学び、前に進
ませて下さる。
・・・・・・・・・・・・・
人間なので、必ずミスをするし、したくはないが失敗してしまう。
犯人捜しと原因をきちんと考える事は全く別だ。自分の弱さをしっ
かり知り、認める事で、同じ過ちから守られる。失敗から学ぶ事が
大切だ。主の豊かな赦しにより、そこから前に進んで行ける。


2020年06月26日(金)

「それで彼らは言った。『私たちは、主があなたともにおられることを、はっきりと見たのです』」創世記26:28



イサクが井戸を掘る箇所が出て来る。ペリシテ人は、イサクが多く
の家畜としもべを持つ事に妬んで、父アブラハムの時代に掘った井
戸をすべてふさいでしまった。そして出て行けと。その時に、イサ
クはペリシテ人と争わなかった。そこを去り、ゲラルの谷間に住み、
そこで井戸を再び掘った。すると湧き水が出た。

ところが今度はゲラルの羊飼いたちが、この井戸は自分たちのもの
だと、争って来た。しかしそこでもイサクは争わなかった。別の所
に移動して、井戸を掘った。するとそこでも彼らは争って来たので、
また、別の場所に移動した。そこで井戸を掘った時に、初めて争い
が無かった。それで、「今や主は広い所を与えて、この地で増える
ようにして下さった」と、主が与えて下さったと言った。

イサクは、ずっと理不尽な目に会い続けた。父が掘った井戸を土で
埋められ、又、自分たちが掘った井戸は奪われ続けた。だが、争い
を仕掛けられても、争わずに場所を変えては井戸を掘り続けた。
「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことを
せず、正しくさばかれる方にお任せになった」まさに、主の姿であ
った。イサクはへりくだっていた。井戸を下に、下に、掘る事は、
私たちもへりくだる事だ。

井戸を掘り、下へ下へとへりくだって行く時に湧き水が湧く。彼ら
を追い出したアビメレクは、彼らが豊かに祝福される様を見て「私
たちは、主があなたと共ににおられることを、はっきり見た」と言
った。主に従って行く時に、敵が、主が私たちと共におられること
を見、認める。
-------------
目の前にストレスを感じる大小の諍いが来るとき、心は反応し、平
安が失せてしまう。ただ主を見て、主の恵みを信じて行動したい。
主が共におられることが何よりの幸いだ。


2020年06月25日(木)

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うし



人が過ちに陥った時、御霊の導きのもと、柔和な心で正すようにと
言っている。過ちを犯した人に、いら立ったり、自業自得と裁いて
しまったり、受け入れ難くなりがちだ。自分にも、同じく肉の性質
があるからだ。しかしそのままにしておかずに、その人を正してあ
げなさいと言う。「御霊の人であるあなたがたは」とあり、その時
は、まず自分自身が、御霊に導かれている必要があると。

「また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と言っ
ていて、自分もいつ誘惑に陥るかわからない弱い者であり、同じよ
うになっていたかも知れない。へりくだって、自分の心も探られ、
まず自分の罪を悔い改め、よくよく祈り、御霊からの導きを受け取
る事が大切だ。

その時、自分の思いや自分の力でなく、御霊がこの事を導かれてい
るとの平安が来る。そしてよく整えられ、「柔和な心」が大切だ。
ただ罪を責めるのではなく、「愛をもって真理を語」れと。愛をも
って、その人の立場に立って考えることだ。相手を思いやる気持ち
で接する時、御霊が働かれて、初めて相手の心に届く。御霊が、相
手に罪を示し、悔い改めへと導かれる。

ナタンは、罪を犯したダビデに対応した。ただ責めたのでなく、例
え話によりダビデに考えさせた。御霊は働き、罪がはっきりと指し
示された。ダビデは悔い改めへと導かれた。もし御霊の示しがある
なら、従おう。自分の力ではなく、御霊が働かれ、用いられる。
------------
誰かが過ちに陥ったとしても、自分自身の弱さは重々承知している。
同情したり裁かないようにと祈るばかりだ。相手の罪の重荷を共に
担う御霊の押し出しがあれば、自分を捨てて従おう。



2020年06月24日(水)

「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです」1ヨハネ2:11




人を憎んでいる時は、やみの中にいると、御言葉は言っている。罪
を犯すとやみの中にいる事になると。やみの中なら、光がないので、
何も見えない。一条の光でもあれば、そこはもうやみではなくなる。
やみの中では自分がどこに行くのか知らないと。つまり正しい判断
ができない。人への強い憎しみや妬みがある時、判断を誤ってしま
い、誤った方向へ向かってしまう。

「もし、心の中に苦い妬みと敵対心があるならば・・真理に逆らっ
て偽ることになり」「そのような知恵は上から来たものでなく、地
に属し、肉に属し、悪霊に属するもの」「妬みや敵対心のあるとこ
ろには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがある」と。例えば
妬む相手、憎む相手がいれば、まずその相手と接触しなくて済むよ
うに、自分の思いで行動をセッティングして行く。

するとすでに御霊が意とされる御心から離れてしまう。そして、相
手を避けるように物事を計画するので、御霊の秩序から逸脱して行
く。自分の思いで進み、主の秩序が乱れて行く。しかし自分の自然
な思いなので、気づかない。自分が相手を憎み、妬んでいる事実を
正直に認める時に、すでに光の中だ。闇の欺きから守られる。

そしてそれは祈りに持って行ける。助けを求めて祈って行ける。そ
の祈りは聞かれる。認めないなら、ずっとやみの中になってしまう。
まさにどこへ行くのかわからなくなってしまう。
--------------
憎むには憎む理由があると、自分を正当化したくなるが、肉に引き
ずられて闇の中だ。罪を悔い改めよう。主が弁護し助けてくださる。
光の中を歩もう。


2020年06月23日(火)

「きょう、もし御声を聞くならば・・心をかたくなにしてはならない」ヘブル3:7



主の御声を聞くなら、心を頑なにしてはならないと言っている。御
言葉を素直に受け取るようにと。「心に植えつけられたみことばを、
すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救
うことができます」と。素直に心に受け入れるようにと。私たちは、
自分は頑なではない、御言葉を聞いていると思ってしまう。

だが、主を信じ、御言葉を拒否する事なく、聞いていると思う私た
ちも、心が頑なになっている事がある。なかなか気づかないが、気
づけることが感謝だ。御言葉を聞く時に、「うん」「うん」と、よ
くわかっていると頭でスルーしてしまい、心で受け取らない。種蒔
きの例えの固い地だ。又、「ふん」「ふん」と御言葉を拒否するこ
となく聞くのだが、それはそれ、これはこれで、歩みは自分の思い、
肉の力、自分流儀でやってしまう。

御言葉と実生活がリンクしない。それでいて気づかない。むしろ御
言葉を拒否しているなら、わかりやすいが、拒否ではないのでわか
らない。無意識にも、御言葉を取捨選択し、都合の悪い言葉は捨て
てしまう。人は自分の聞きたい言葉だけを、聞いていると言われる
が、自我に、痛い所に触れて来る御言葉は避けてしまう。岩地だ。
つまりはうすうす問題に気づいている。自我に苦痛なのでよけてし
まう。

そうすると成長が無い。根ざせないと結実できない。主が手を延べ
て下さっている。御言葉に向き合い成長させて頂こう。又、感謝は
どうだろう。感謝が失せているだろか。主の恵みは満ち満ちている。
感謝が消えると、すべてが当たり前になり、不平不満、愚痴となる。
心が固くなっていたら、まず感謝から始めてみよう。それは主に従
う事なので、心が変えられて行く。
------------
初めて聖書を開いた時は、心をひそめて神の言葉を待ったのに時が
経つと上手に聞き分けている。繰り返し語られる御言葉に感謝し、
真実に受けていこう。


2020年06月22日(月)

「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」伝道の書11:1 



一見、パンを水の上に投げよ、ってどういう事かと思う。パンがだ
めになってしまう事が目に見えている。パンが無駄になり、虚しく
流されてしまう。全く意味の無い、無益な行為に見える。しかし御
言葉は、それが無駄ではないと言っている。歳月がたってから、後
の日に結果が現れると。

伝道すること、証しすることは、パンを水の上に投げるように、虚
しく感じる事があるだろうか。チラシを配っても配っても、証しを
しても、しても、結果が全く見えない。パンを無駄に水に流してい
るように、ガッカリ徒労に感じてしまう事もあるかも知れない。す
ぐに結果は現われない。しかし「ずっと後の日に」かなり月日を経
てから見い出すと。

だから「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励み
なさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないこ
とを知っているのですから」「みことばを宣べ伝えなさい。時が良
くても悪くてもしっかりやりなさい」と。主ご自身が報いて下さる
と。ある人は母親に証しをしていたが、信じる気配は全く無く、し
かし星野富弘さんの本は感動してずっと読んでくれていた。

その母親は今際の際に、主を受け入れた。星野さんの本も証しも、
すぐに芽が出るのではないが、布石として、用いられていた事を知
った。幾らチラシを蒔いても、証しをしても無駄なように感じる事
があるかも知れない。しかし神の時に、その御言葉は生きて働きわ
ざがなされる。見える所でなく、御言葉に立ち、水の上にパンを投
げ続けよう。
-----------
ずっと後の日を見つめて、少しの勇気を出して小さな証し、声かけ
をしていこう。どこで成功するのかは主に委ねて、救われた自分自
身の喜びを語り続けよう。



2020年06月21日(日)

「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理 解できようか」箴言20:24 



私たちの人生は、「主によって定められる」とある。主が定められ
ているなら、決められているなら、努力がいっさい不要とか、将来
の計画は無意味とか、そういう意味ではない。主の愛と配慮による
支配があるからこそ、目標に向かって努力できるし、主と相談しつ
つ将来の計画を立てる事ができる。

又、自分の人生なのだから、がむしゃらに自分が頑張るしかない、
すべて自分にかかっているのだから、というのでは無い。主が私た
ち一人一人の人生に最善のご計画を持たれ、自分の力ではなく、御
霊の力によって歩む人生だ。

しかしながら、それはすべて自分の思い通りの道というわけではな
い。振り返っても、思い通りでない事の方が多いのではないか。そ
んな時に、不確かな揺れ動く自分の思いでなく、主が自らの歩みを
定めて下さっていると知ると、安堵と平安にされる。

そして人は自分の道を理解できないと言っている。私たちは、ほん
の数分先の事もわからないし、将来は全く見えない。ただ現在が見
えるだけだ。だから想定外の事態は幾らでも起きる。先の事はわか
らないから。しかし自分には見えないが、先もすべて見通しておら
れる、主が共におられるなら、そこを信じて歩むなら、どんなに平
安だろう。自分にはわからない先が、主の御手の中にあるとは。

そして気持ちを受け止めて下さる主に、どんな時でも祈る事ができ
る。私たちの想定外の事が起きるが、主の想定内だ。そんな時こそ
落ち着いて、静まって、主を仰ごう。

・・・・・・・・・・・・・
本当に人は、自分の道を理解できない。先の事は全くわからないし、
想定外の事が起きる。しかし主は先をご存じで、私たちの人生のす
べてをご存じだ。そこに立つ時に心は平安にされる。そしていつも
「恐れるな」と語られ、必ず歩むべき道へと、手を取り導いて下さ


2020年06月20日(土)

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助 けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの 父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、 この時のためであるかもしれない」エステル4:14


エステルは、両親を亡くし、伯父のモルデカイに育てられた。その
エステルが、次の王妃に選ばれた。そんな時にハマンは、ユダヤ民
族根絶やし計画を、王に狡猾に取り入り、実行に移した。ハマンの
悪巧みであった。モルデカイは、このユダヤ民族の突然の危機に際
し、王にあわれみを求めるよう、エステルに伝えた。

エステルは、召されずに王のもとに行く者は死刑であり、そして自
分は王のもとには、召されていないと答えた。だが「この王国に来
たのは、もしかすると、この時のため」とのモルデカイの言葉によ
り、エステルは3日3晩の断食の祈りを、皆に要請し「私は、死な
なければならないのでしたら、死にます」と命がけで、王にユダヤ
民族の救いを訴えた。

それは王に聞き入れられ、ユダヤ民族は絶滅から救われた。エステ
ルがこの時期に王妃にされたのも、主の計画の内であった。これは
王妃であるエステルにのみ出来る事であり、他の誰にもできない。
その地位と立場も、神によるものだ。私達も皆、それぞれの場に、
神の摂理のもと置かれている。

今、難しい厳しい現実であっても、神の御心があり、ご計画がある。
そこであなたの使命がある。エステルは主に明け渡し委ねた。危急
の時に、私たちは焦り、解決策を探し回る。しかし方策ではなく、
全く主に明け渡した人を通して、主がご自身のみわざをされる。主
に自分自身をゆだね、明け渡すことを祈ろう。

・・・・・・・・・・・・
今、いる場所は、偶然ではなく、たまたまではなく、主のご計画に
よる。主が遣わされた場で、主からの使命があり、自分にしか出来
ない、なすべき事が備えられている。そのところに焦点を当てて、
祈っていよう。そしてなすべき事がわかったら、従おう。


2020年06月19日(金)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令とは重荷とはなりません」Tヨハネ5:3



神を愛することで、よく勘違いしてしまうが、神を愛するとは、単
に心に神を思う事ではなく、神の命令を守る事だ。神の御心を実際
に具体的に行なって行くことが、神を愛することだと言っている。
そこに感情がついて来なくても構わない。感情は横に置いて、意志
を主に向けて、主の助けを求めて、意志で御心を行って行けばよい。
それを主に従った、主を愛したと受け取って下さる。

聖書の中の愛はすべて意志的愛だ。主の喜ばれる事を行ない、御心
を行なって行く事だ。二人の息子がいて、父からぶどう園へ行き働
くよう言われ、兄は「行きます」と答えた。が、行かなかった。
一方、弟は「行きたくない」と言ったが、後で悪かったと思って出
かけた。どちらが父の願った通りにしたかというと、後の弟の方だ。

口先でなく、実際に行なうことが大切だ。信仰生活において、感情
は後でついて来るものだ。感情は簡単にアップダウンし、コロコロ
変わる。そんな感情に従っていたら、どこに向かうかわからない。
迷走してしまう。感情ではなく、意志で御言葉に従った時に、感情
が後でついて来る。

例えば、嫌いな人がいて、祈っていると、御霊に声をかけるよう示
されたとする。感情は拒むのだが、意志で実行すると、不思議に平
安にされる。従って良かったと思う。そして御霊の実を結んで行く。
感情は横において、意志を向けて、意志でもって従おう。
--------------
感情を優先することが正しいことのように思えるが、それでは何も
変わらない。神を愛する道を歩もう。信仰による勝利は約束されて
いる。


2020年06月18日(木)

「なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい」創世記12:19



人は皆、ミスするし、失敗する。失敗しない人はいない。へブル11
章の信仰の勇士に名を連ねているアブラハムも失敗した。ある時、
飢饉を回避するために、神の約束の地を離れ、食物が豊富にあるエ
ジプトに下ってしまった。そこで自分の妻サラを妹だと偽った。サ
ラが美しかったため、妻である事が分かると、自分が殺されると恐
れたからだった。

その結果、妻のサラはパロの宮廷に召し入れられ、大変な危機とな
った。アブラハムはサラを失うところだった。しかし危機一髪のと
ころで神の介入があり、妻サラを取り戻すことができた。アブラハ
ムの失敗から、私たちも学ぶ事ができる。アブラハムは、食物を求
めてエジプトに下ってしまったが、いるべき御心の場所から離れる
事は危険だ。御心の地にとどまるべきであった。

飢饉だとしても、主は奇跡をもってでも、養って下さったであろう。
ナオミ夫妻も飢饉の時に、いるべきベツレヘムを離れ、偶像のはび
こる地モアブに移住した。が、大変な苦難に会った。主の御心の場
所こそが、最も安全で安心の場だ。又、アブラハムが、わが身を守
るために、肉で思いついた嘘で、サラを大変な危機に陥らせた。罪
は、刈り取る事になる。

しかし、どんなに失敗した時も、主の愛とあわれみは尽きず、悔い
改める事ができて、豊かに赦される。間違いを気づいた時には、す
ぐに主のもとへ行こう。自分であれこれ対応し、肉で画策するとサ
タンに欺かれてしまう。すぐに主を呼び、主と共に対応に当たろう。
豊かに赦され、もう一度やり直すことができる。
------------
不安や恐れの中で問題を解決しようとすると失敗してしまう。主の
前に落ち着いてよく祈り行動したい。そして、どんなに失敗したと
しても、神の愛から切り離される事がない。何という感謝だろう。


2020年06月17日(水)

「呪法師たちはパロに、『これは神の指です』と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった」出エジプト8:19



モーセが民を率いて、出エジプトの際に、次々と奇跡のわざがなさ
れた。ナイルが血に変わり、かえるが全土に満ちた。呪法師たちも
同じことをした。サタンも万能ではないが、奇跡を行なう。同じ事
をした。だが、地のちりが全土で、ぶよとなった。そして呪法師も
同じ事をしようと、秘術を使ったが出来なかった。ぶよは人や獣に
ついた。

そこで呪法師たちは言った「これは神の指です」と。どうしてもで
きず、これは神であるとわかった。しかし神のわざだと理解したか
らといって信じるわけではない。パロも、ますます心を頑なにした。
彼らの言う事を聞き入れなかった。次に、あぶが全土に満ち、地は
荒れ果てた。追い詰められたパロは、民を出て行かせると言った。
しかし「決して遠くに行ってはならない」と。

サタンは、私たちにも「遠くに行ってはならない」と言う。信仰は
そこそこでよい。すべてを献げるなど行き過ぎだ。罪から全面的に
離れるなど、出来っこない。肉から、罪から離れさせたくない。成
長させたくない。遠くへは行くな。ある程度でよい。今も誘惑が来
ているだろうか。神は「わたしが主であることを知るようになる」
との目的をもって十の災害を下された。

しかしパロはみわざを見るが、神を拒み、その結果ますます強情に
なり、頑なになって行った。主を拒んでゆくと、そのままではなく、
更に心が固くなってしまう。私たちはパロのようでなく、苦しい試
練の中で、心を頑なにするのでなく、受け止める時、神が主である
ことを知る事ができる。そしてその主を認め、ますます主を知り、
成長して行ける。 
------------
自分しか見ていない心の高ぶりが、試練を拒み、試練を通して与え
られる本当の神の恵みを見えなくしている。自分では何も出来ない
と主に頼ろう。身を低くして主と共に試練をぬけよう。


2020年06月16日(火)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことでその人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」マタイ13:23



4つの土地に種が蒔かれている。種は御言葉で、土地は心だ。それ
ぞれ、御言葉を受け取る心の状態を言っている。聞く心の態度が問
題だ。聞く態度が良ければ、良い土地に種は十分に芽吹いて、どん
どん実を結んで行く。聞く心の態度が悪ければ、全く実を結ばない
とある。どのように聞くかは極めて重要だ。

まず種が土地に植わらなければ、実の結びようがないように、御言
葉が心に根ざさなければ、実を結ぶ事は不可能だ。サタンは私たち
の心の中を見ていて、御言葉をどのように聞いているかを知ってい
る。「悟らない」と、サタンが心に蒔かれたものを奪い去ってしま
う。幾ら自分は聞いていると思っても、聞かなかった事と同じにな
る。

サタンが絶えず御言葉を奪い、祈りを奪い、デボーションを奪う事
を覚えていよう。又、聖書を読み、礼拝で説教を聞くが、私たちの
心には、まだいばらがあるので、「世の心づかい、富の惑わし、そ
の他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐ」。様々な肉
の欲が、次から次へと湧いて来る。いばらが延びて来るのだ。

その時に、このいばらを捨て、献げ、委ねる事を繰り返して行こう。
祈りは力だ。肉の欲が出て来るたびに、まず祈り、主のもとに持っ
て行こう。信仰人生に、実を結ぶか結ばないかは、私たちの御言葉
を聞く態度にかかっている。
-----------
御言葉を従いますの姿勢で聞いていよう。聖書を閉じると、いつも
の忙しい生活が襲ってくるが、与えられた御言葉を心に留めて、信
じて立とう。根は伸び、主にあって豊かな実を結ぶ事ができる。


2020年06月15日(月)

「けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです」Tペテロ2:20



信仰者は試練があり、迫害があり、苦しみを受ける。主のための苦
しみだ。しかし自分の至らなさや欠点ゆえ周囲に迷惑をかけ、トラ
ブルを起こすならそれは迫害でない。信仰ゆえの苦難ではなく、信
仰以前の事だ。誰でも、人に失礼な態度や言動をするなら、非難さ
れる。だが個人の落ち度でなく、キリストゆえに受ける苦しみがあ
る。

今の私達なら、信仰ゆえに悪口を言われ、仲間はずれにされ、嘲笑
や無視の対象になり、理不尽な目に会う。しかし、キリストゆえの
苦しみなら恥じる事はない。かえってその事のゆえに神を崇めるよ
うにと。そして忍耐する時だ。苦難の時は忍耐を培われる時だ。忍
耐とは我慢でなく、どんな状況下でも、神が必ず良くして下さると
信じて行く事だ。この忍耐を働かせる時に成長して行く。

ある青年が家族の迫害に会った。余りに辛く、家におれず教会へや
って来た。「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。人が
もし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、
悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。・・善を行なっ
ていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれ
ることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです・・」

と牧師が御言葉を読むと、自分から「帰ります」と言い、主に励ま
され平安与えられ、帰って行った。主のゆえなら受け取ろうと、信
仰的、前向きに変えられた。今、理不尽な中にあるなら、主は、立
派に振る舞いなさいと言われる。状況を、気持ちを、何もかも知っ
ていて下さる。祈り求めよう。御霊は助けて下さる。
------------
愛する主を共に喜べず、主のゆえに苦しめられるのは最も悲しい。
けれど主に向かって信仰が深く深くされていく。主に励まされて
御心のふるまいを実践していこう。


2020年06月14日(日)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる」詩篇55:22 

信仰者であっても、悩みが来るし、困難に出会う。そして重荷が臨
む。重荷の無い人生はない。では、その重荷はどうすれば良いのか。
御言葉は、その答えであり、解決が、主にゆだねることだと言って
いる。「あなたの重荷を主にゆだねよ」と。

ゆだねるとは、例えば、飛行機に乗る時にパイロットを信じて、身
をあずけることだ。私たちが機上の人となれば、自分でできる事は
何もない。パイロットを信じて、身を預けるばかりだ。バスに乗る
時も、目的の停留所に着くと信じるから乗り、運転手に身を預ける。
その時に、信頼して身を任せるなら、リラックスできる。

本当にちゃんと着くのだろうかと、ずっと不安で、心配し、思い煩
っていたらどうだろう。思い煩いに関しても、「あなたたがたの思
い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心
配してくださるからです」と、「いっさいの思い煩いをゆだねよ」
と。自分で思い煩うのでなく、主に任せよと。

主が私たちを愛して、心配して下さるからと。「何も思い煩わない
で」と言っている。「いっさい、何も」だ。主が負って下さるから
と。主に渡さないで、自分で握りしめて、悶々と苦しんでいるだろ
うか。自我は握りしめて放さない。どこまでも自分でどうにかしよ
うとする。そのため主に渡すことができない。

自分では委ねられないと、主にありのまま祈りに持って行こう。主
が委ねられるようにして下さる。そして「あなたのしようとする事
を主にゆだねよ。そうすればあなたの計画は揺るがない」が実現さ
れる。

・・・・・・・・・・・
信仰人生、問題は次々と来るが、主におゆだねし、何も、いっさい
思い煩わなくて良いと。何という恵みだろう。主が心配して下さる
のだからと。しかし問題を握り締めて、決して放さない自我がある。
気づける事が感謝で、ゆだねられるよう祈って行こう。


2020年06月13日(土)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正し いと見えることを行っていた」士師21:25


エフライムにミカという人がいた。家は裕福で、家に自分の宮を持
ち、息子を祭司にしていた。ミカの母親が、銀千百枚が盗まれた時、
盗んだ者を呪った。しかし、息子のミカが犯人と知るや一転、息子
を祝福する。全く一貫性が無く、自分の都合次第だ。

ミカが銀を返した時、母親は、その銀を聖別して主に献げると言っ
たが、二百枚を献げただけで、何とその銀で彫像と鋳像を作った。
それが、ミカの母親だった。ミカもミカで、自分の家に宮を作り、
祭司が着るエポデを作り、自分の息子の一人を祭司に任命していた。

そこに丁度レビ人が来たので、財力で、自分の家の祭司にした。レ
ビ人も、お金に目がくらみ、ミカの要請を受け入れた。王が無い時、
このように無秩序で混乱し、めいめいが自分の目に正しいと見える
ことをした。偶像礼拝をし、勝手に祭司を任命する。まるで秩序が
無い。

「自分の目に正しいと見える」とは自分に都合の良いという事にな
る。正義も、神の御心も無く、ただ自分の都合で、判断もその場〃
で、コロコロ変えて行く。そうなるのは、「王がない」ためだと。
人は、王が無い時に、自分勝手に、わがままに歩んで行く。

私たちも、主を自分の王として、心の王座に来ていただかないなら、
同じ状態だ。イスラエルのように、口では「神」と言いつつも、自
分の都合のままに、自分の思いのままに動いて行く。主を心の王座
にお迎えし、自分の都合でなく、主の御声に耳を澄ませ、主の御心
に従おう。そこに喜びと豊かな祝福がある。

・・・・・・・・・・・
王が無いと、自分の目に正しいことを行なう。主が飛んでいると、
祈りが抜けると、自分の都合で、好きなように、思い通りに歩んで
しまう。今日も、主を心に据えて、主を仰いで、主と歩めるなら、
主の目に適った歩みへと導かれる。そこに御霊の喜びがある。


2020年06月12日(金)

「『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから』しかし、彼の婿たちは、それは冗談のように思われた」創世記19:14




ソドムの町は宗教的堕落、不道徳、不品行、混乱、と極めて罪深く、
主から滅ぼされようとしていた。その前に主は、ロトに二人の御使
いを送り、家族を連れ出すよう言われた。一刻を争う、差し迫った
危急の状況だ。そこでロトは娘婿たちにその事を伝えるが、信じる
どころか、何と、彼らはそれを冗談だと思った。

彼らは普段のロトの生活や価値観を見ていた。世からの賞賛を、世
の栄誉を手にし、世を享受していて、突然、そのロトに、世が滅び
ると言われても「何を冗談を」としか思えなかった。そしてその婿
たちを目にして、ロト自身すら、逃げる事を「ためらった」のだ。
財産はどうなる?今まで築き上げた名誉、地位は?世への強い執着
心で踏み出せない。

もう間に合わないと、御使いが、彼と彼の妻と二人の娘の手をつか
んで連れ出した。主の彼らに対するあわれみだった。「命がけで逃
げよ。後ろを振り返るな」と。しかしロトの妻は途中で、後ろを振
り返ったのだ。その結果、塩の柱になってしまった。この世への執
着が、未練が、断ち切れなかった。そして二人の娘はソドムの深い
罪の影響を受けていて、父親と近親相姦の罪を犯した。

ロトは堕落した地でも「自分さえしっかりしていたら大丈夫」と思
ったろう。しかし少しづつ〃影響を受けて、命取りになってしまっ
た。悪魔は少しづつ〃巧妙に世に引き込む。決して大丈夫ではない
事をわきまえ、自らの弱さを認め、主に拠りすがり、絶えず祈って
いよう。その時に守られる。
-----------
ロトと同じように楽な方へとなびいて行く者だ。後ろを見てはぐず
ぐずせず、ただ主のあわれみに拠りすがって、ひたすら逃げよう。
後へ戻るなと主は言われる。


2020年06月11日(木)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28

 

沢山の人々がこの御言葉により、主のもとへ来て、御言葉通りに休
みを得た。疲れた人、重荷に心暗く、押しつぶされそうになってい
る人は、主のもとへそのまま来るようにと、招かれている。まず、
本当の真実な休みは、主の十字架による罪の赦しから来る。罪の重
荷から解かれ、心底の安堵を経験する。何という喜びだろう。

又、悩みや問題から来る重荷があるだろうか。なかなか解決できな
い難しい問題、経済的困窮、対人関係の悩み、身体の不安、将来の
不安・・恐れや思い煩いで、心がつぶれそうだ。しかし主は、わた
しが、あなたを休ませると。くびきとは、二頭の家畜を一つ方向に
進ませるための道具だ。横木に二つの穴が開いていて、そこに首を
入れる。

すると二頭共、同じ方向に進み、土地を耕す事ができる。主のくび
きを負うなら、主が片方を負って下さる。同じ方向を向き、主と一
つだ。何をしようと、どんな働きをしようと、主と一つとは、何と
いう喜びだろう。嬉しい事だろう。主と一つなら、こんな平安はな
い。くびきをしっかり負う事から安らぎが来る。

くびきを逃れ、避けようとするなら、痛いばかりだ。環境は苦痛で
しか無い。きちんと負うなら、主と一つなので、安らぎと共に、主
から学ぶ事ができる。そこには苦痛も苦しい重荷も無い。今、心が
苦しくて、疲れているだろうか。それなら負う必要のない、不必要
な重荷を負っていないだろうか。
---------------
この状況も環境もすべて主から与えられたと思えるとき、主は近く、
主のくびきを負っていると感じる。問題の解決策も、結果も自分で
握っているなら主に信頼し委ねきって、平安を受けよう。


2020年06月10日(水)

「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す」士師記7:7




主はミデヤン人との戦いにギデオンを召し出され、戦いに際し導き
を与えられた。「民は多すぎる」と言われ、「恐れおののく者は皆
、帰るように」と。多過ぎる理由は「自分の手で自分を救った」と
言い、主に向かって誇るといけないからと。民が戦いに勝利した時
に、自分たちの力だと思い、主を讃え、主に栄光を帰するのでなく
、自分たちの栄光にしてしまわないように。

そして恐れおののくなら戦えない。その恐れ、怯え、不安、不信仰
は一人にとどまらず、伝染し、民全体の士気に影響を与える。主が
戦われるとの信仰がぐらつき、なし崩しになってしまう。この結果、
イスラエル軍32,000人の内、22,000人が帰って行った。結局、10,0
00人が残った。これに対しミデヤンの陣は135,000だ。

しかし驚くべき事に、まだ多過ぎると。水のある所で試された。犬
のように舌で水をなめる者と、ひざをついて、口に手を当ててなめ
る者を分けるようにと。すると後者は300人であった。ひたすら喉の
渇きを潤す事のみか、水を飲む時にも、とっさの動きが取れるよう
警戒し備えているかの違いだ。この300人で陣営に攻め下れと。

135,000人対300人の戦いだ。主はミデヤンの陣営を手に渡して下さ
ったと。その通りに300人で勝利した。多い事が良いと思うが、主に
とって数は問題ではない。少数であろうと、主にすがり、主につき
従う者を通して、勝利を与え、主の栄光を現される。
----------
問題に直面すると、主が共に戦ってくださると頭でわかっていても
頼りになるものは何にでもすがりたいという恐れがある。戦いは、
主だけに信頼することこそが勝利、最大の力だ。



2020年06月09日(火)

「ギデオンは・・言った『ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか』」士師6:13



士師記はイスラエルが神から離れては、立ち返る、その繰り返しが
描かれている。民は堕落し、偶像礼拝に陥る。すると必ず外敵が襲
って来る。主は民を、その外敵の手に渡される。それで民が非常な
苦しみの中から、主に叫び求めると、導き手を起こし、民を救われ
る。何度も何度も、この同じ事の繰り返しの物語だ。ギデオンの箇
所でも、民はミデヤン人に襲われ、非常に悩まさ苦しめられた。

「今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡された」と言って
いる。外敵の脅威に、「なぜ、こんな事が起きているのか」とギデ
オンも主に問うた。紅海を分けて、偉大な奇跡をされた主ではない
のかと。なぜ自分たちにはして下さらないのか。しかし主が民を捨
てたのでなく、民が主を捨てて、偶像に走ってしまうのが実態だ。

その時、民はバアルを拝んでいた。外敵は、民を立ち返らせるため
に、主が許されたものだ。余りの苦しみに、主に叫ぶ。すると主は、
その叫びを聞かれ、助けの手を送られる。私たちも、状況のみに目
を奪われてしまう。突如の事態が起き、試練に会うとパニックにな
ってしまい、驚き慌て、不安にかられ思い煩いに沈んでしまう。

状況を何とかしよう、状況を変えようと苦闘する。しかし、主の目
線で見ると、そこには主からのメッセージがある。その事によって、
何かを教えたいと思っておられる。何を教えて下さっているのか、
祈り求めよう。そこに祝福と成長がある。
------------
主から離れることは災いだとイスラエルの民を通して繰り返し教え
られる。同時に主のあわれみも尽きることがない。失敗を通して学
ぼう。主は教えてくださる。


2020年06月08日(月)

「ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った」Tサムエル21:10



祈らずに失敗した事があるだろうか。ダビデも、ある時、祈らずに
失敗した。ずっとサウルに命をつけ狙われ、逃げ回る、死と隣り合
わせの日々だった。サウルの執拗な追跡に、窮地に陥り、事もあろ
うに敵地に逃げ込む決心をする。しかし祈らずに動いた。そのため
失敗した。アキシュのもとに身を寄せるが、イスラエルと戦うはめ
になってしまった。

結果的に主により守られるが、祈らずに行動し大失態を招いた。バ
テシバの誘惑が来た時も、そこで主を見上げ祈れば良かった。主に
助けを求めていれば、違ったろう。祈りは大切だ。祈りにより、あ
らゆる面で守られる。ある婦人が、家計の必要のため、パートの仕
事を祈り求めていた。面接で、フルタイムはどうかと打診された。

断ろうと思ったが、まず夫に相談すると、家の事は協力するし、応
援するとの事。環境は開かれたが、仕事内容に全くの自信が無い。
御心を求めて祈りに祈った。その時、この仕事が、職を求めて祈り
を積んだ、祈りの答えである事がわかった。確信を与えられ、主に
委ねて働く決心をした。仕事に就いたものの、自信なく、主に頼っ
て祈りに祈り、主にすがり祈る日々だった。

泣きながら祈り続け、日々主にすがりついた。祈りにより仕事をし
て行った。すると驚くほどの成果が与えられ、周囲もびっくりする
ほど、次々と結果を出して行った。自分ではなく、祈りの答えであ
り、主の力だった。ただただ主によるものであり、周囲も祈りの力
を、主の栄光を見せられた。
-------------
苦しい時は必死で祈るから御言葉の語りかけや、御霊の導きに敏感
になれ、また思いがけない方向へ環境が開かれることも導きと悟れ
る。順境にも感謝をささげ、主に祈りつつ歩もう。


2020年06月07日(日)

「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を 留め、いやされる信仰がるのを見て、大声で、『自分の足で、まっ すぐに立ちなさい』と言った」使徒14:9


ルステラで、パウロが御言葉を語っていた。その時に、生まれつき
足のきかない男性が、丁度座っていて、パウロの語る御言葉にじっ
と耳を傾けていた。彼は生まれた時から一度も歩く事ができず、自
分の足に関して、何もどうする事もできなかった。完全無力の状態
だった。

自分で何もする事ができない。だからこそ、「自分の足で、まっす
ぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがりついた。自力で出来な
いからこそ、すがる事ができた。彼にはこの言葉しかなかった。唯
一の望みであり、信じて賭けた。この言葉がすべてだった。無力だ
からこそ、そうできた。自分で立てたなら、頼る必要が無い。

その信仰に神の力が働き、奇跡が起きた。一度も歩いた事のない彼
が、飛び上がり歩き出した。もし自分で何かが出来るなら、自分で
何とかしただろう。私達は、自分で出来てしまうので、主に頼らな
い。自分で生きて行ってしまう。自らの無力を知る時こそが、信じ
る祝福の時だ。何の方策も無く、何もどうにも出来ない。信じるし
か道がない。その時に信仰が働く。

自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、主へ
の信仰は難しい。信仰半分、自力半分というのはあり得ない。幾ら
御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやって行く。信仰とは、
御言葉だけを頼りに、自分を任せて行く事だ。それゆえ、自らの無
力を知る事が、実は大きな祝福であり、幸いだ。無力に落ち込む事
は無い。

・・・・・・・・・・・
失敗を通して学べる事が感謝だ。祈らないで行動し、失敗したり、
主に頼らず、自分の思いと自分の力でした事で失敗したり。失敗に
よって、主を離れては、何も出来ない事を教えられる事が祝福だ。
自分の思いや力に、気づかせられる事が感謝だ。


2020年06月06日(土)

「肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのな いように、私を打つための、サタンの使いです」Uコリント12:7



パウロは、かつて人類の誰もした事のない、第三の天にまで引き上
げられるという特別な体験をした。人間には語る事を許されていな
い、口に出す事の出来ない言葉を聞いた。特にパウロにだけに許さ
れた、特殊な体験だ。そのパウロに、肉体に一つのとげが与えられ
た。それはサタンからのとげであり、非常な苦痛を伴うものだった。

だがそれは、パウロが特別な霊的経験で高ぶる事が無いようにと、
神が許されたものだった。信仰生活において最大の危険が高慢であ
り、それも霊的な高慢だ。肉の高慢は悔い改めることができるが、
霊的高慢は悔い改める事が難しい。なぜなら自分は正しいと信じ込
むからだ。最も恐ろしいかも知れない。この霊的高慢から守られる
ためのとげだった。

明けの明星が、天から落ちてサタンとなったのも高慢のゆえだった。
パウロは非常な苦痛に、とげが除かれるようにと切に祈った。しか
し主の答えは、とげがある事により高慢から守られ、主にすがる事
ができ、更にキリストの力におおわれると。弱さの中にこそ主の臨
在があり、ずっと臨在の中に生きて行けるというものだった。

私たちもパウロと形は違うが、とげが与えられているだろうか。ま
ず祈る事は大切だ。パウロも祈ったからこそ、弱さの中に神の力が
完全に現れるという真理と、主のご計画を知らされた。私たちも振
り返る時に、あの苦しみこの痛みがあったからこそ、高慢から守ら
れたのではないだろうか。主の深い、測り知れないご計画を思う。

・・・・・・・・・
よく証しを耳にする。苦しく辛い試練だったが、あの試練によって
高慢から守られた。あの試練が無ければ、どんなに高慢になり、恐
ろしい事になっていたかと。苦しみにより、へりくだらされ、高慢
から守られる。結果的にどんなに感謝しても、しきれない。


2020年06月05日(金)

「寄るベのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」箴言19:17 

 

同じ箴言に、寄るべのない者の叫びに耳を閉じるなら、自分が主に
呼ばわる時に答えられない、ともある。困窮者の必要に、目を、耳
を閉じる事は、祈りの答えに関係して来る重大な事だ。祈りの生活
に直結する問題だ。困っている人がいる時に、見なかった事にして
しまうだろうか。そうすると責任を感じなくて済むし、悩まなくて
済む。

しばしば時間、労力、富、犠牲を払う事を嫌がり、面倒に思ってし
まう。しかし「あなたの手に善を行なう力があるとき、求める者に、
それを拒むな」とある。「ことばと口先だけで愛することをせず、
行ないと真実をもって愛そう」「自分の心に責められなければ、大
胆に神の御前に出ることができ」「求めるものは何でも神からいた
だける」。口先でなく、行ないと真実をもって愛する時、求めるも
のをいただける。自らの祈りが聞かれて行くと。

祈りと関わって来る。そして何より主にとどまり、主と一つ心であ
るので、妨げのない御霊の喜びと平安が満ちる。「少しだけ蒔く者
は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る」「神は、
あなたがたを、すべての事に満ち足りて、すべての良いわざに溢れ
た者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかり与えることのでき
る方」とある。

この実際を、時間、労力、富を献げて行く者が経験し、味わって行
ける。私たちは何のために生きているのだろう。楽をするため、蓄
えるためだろうか。主の栄光を現わし、主のわざにあずかり、主を
更に知るためだろうか。
------------
してはいけませんという御言葉には敏感になれても、しなさいとい
う御言葉は、無理だと簡単に流していると改めて思う。与えようと
して周囲を見ていく目を主に祈りたい。


2020年06月04日(木)

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」マタイ4:4



主が40日の断食後、空腹の時に、悪魔が誘惑に来た。「あなたが神
の子なら、この石がパンになるように命じよ」と。つまりは「この
ままだと死んでしまうよ。そうであれば元も子もなく、人類の救い
を実現できない。神の子なのだから、奇跡ができるのだから、石を
パンに変えて、とにかくは生き延びる事が先決」と、主に信頼し、
主に従うのでなく、自分の思いと自分の力で生きるように仕向ける
誘惑だった。

しかし主は「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と御言葉に
立たれた。神の言葉が食物であり、神の言葉により必要が満たされ
ること、つまり自分の力でなく、神への信頼の中で生きると、立ち
向かわれた。すると悪魔は、それならと御言葉を持って来て、次の
誘惑をしかけてきた。「神殿の頂から下に身を投げてみよ。神が御
使いに支えさせ、石に打ち当たることがないようにされると、御言
葉にあるではないか」と。

神に信頼すると言うのなら、神が御使いに命じて支え、足が石に打
ち当たらないようにすると、御言葉にあるのだから、身を投げてみ
よと。主は、これに対しても、やはり自分の思いでなく、御言葉で
応じ「神を試みてはならない」と退けられた。詩篇91:11、12と比
較すると「すべての道で」が抜けている。これは神の御旨に従い、
御心の中にいるなら守られるとの意味だ。

自分勝手な事をして守られる保証はなく、神を試して守られる事は
ない。悪魔は、私達を狡猾に誘惑する。巧みに御心からそれさせる。
そして失望落胆させる。失望は気力を失わせてしまう。悪魔の攻撃
だ。御言葉の下に自分を置き、主に拠り頼み、御言葉に従おう。
-----------
サタンは巧みに無い物を数えさせ、主によって与えられている豊か
な恵みを空しくさせる。聖書を開き、具体的に御言葉を知って、正
しく御言葉に信頼していこう。


2020年06月03日(水)

「出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた・・イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった」創世記25:24



イサクとリベカ夫妻は、20年間不妊の苦しみを味わった。私たちの
信仰人生には「なぜ」と思う事が様々起きる。平穏な日々に、突如
の試練が臨む事がある。余りの苦しみに、主が見えなくなるように
感じる時もあるかも知れない。主は祝福して下さるのではないのか、
なぜ、こんな苦しみが、と。

病気やけが、経済的苦境、対人関係の問題、失業やリストラ・・様
々な悩みを通る。彼ら夫婦にも試練があった。40歳の時にイサクは
リベカをめとったが、不妊の辛い時を通った。「イサクは自分の妻
のために、主に祈願した」とあり、切なる祈りを献げた。まず主に
祈る事を教えられる。主は御心へと導いて下さる。

御心なら願ったものを与えられ、御心でなければ、更に良いものを
与えて下さる。その祈りは主に届いている。イサクの祈りにより、
妻のリベカは妊娠した。どんなに喜んだ事だろう。だが双子であり、
その双子が、お腹の中でぶつかり合い、争うという悩みが襲って来
た。あんなに願った子供なのに、リベカは不安でたまらず、そんな
リベカがした事は「主のみこころを求めに行った」。

御心を求めて祈った。すると「二つの国民があなたから分かれ出る。
兄が弟に仕える」と答えられた。私たちも、喜びの日々から、突然
不安な状況に陥ったり、理解不能の事態に遭遇する事がある。そん
な時はリベカのごとく、主の御心を求めて祈ろう。主は祈りに答え
て、み思いを教えて下さる。そして兄が弟に仕えるという御心は、
その通りに実現して行く事となる。
-------------
試練は形を変えて様々にあり、すぐに納得できない事ばかりだが、
神を通って来ている事を信じて祈っていこう。信じて祈るときに
心が御心にふさわしく整えられていく。


2020年06月02日(火)

「ギブオンの住民たちは・・彼らもまた計略をめぐらし、変装を企てた。彼らは古びた袋と古びて破れた・・」ヨシュア9:3




ギブオンの住人たちは、ヨシュアがエリコとアイにした事を聞きイ
スラエルとの戦いを恐れ、避けようとした。そのために計略し、変
装してやって来た。遠くから旅して来たかのように見せるため、古
びた袋、古い着物、ボロボロのパンを持って。そして、遠国から来
たので、盟約を結んで欲しいと。彼らの外観を見て、策略にはまっ
てしまい、だまされてしまった。

ヨシュアは彼らと和を講じ、生かしておくとの盟約を結んだ。本来
は見破れたはずなのに、その時に「主の指示をあおがなかった」。
これが致命的問題だった。人間的な思いで、見た目で判断してしま
った。盟約を結んだ後に、欺かれたと知った。実際は近くの者で、
自分たちの中に住んでいたのだ。主を仰ぎ、主に頼らず、肉の判断
で受け入れてしまった。ヨシュアは失敗したのだが、神の前での盟
約は重大な事であった。

その結果、滅ぼされるべき民が、イスラエルの中に、居続ける事に
なった。私たちはどうだろう。日々の生活で、様々な計画を立てる。
策を練り、人と相談し、良いものが出来たと思う。しかし主と相談
しただろうか。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の
終わりは死の道である」。肉の目で見ると、まっすぐに見える道が
要注意だ。私たちの判断に、主が抜け落ちている時に、失敗させら
れる。

主を仰がずに、人間的思いだけで突き進む時、ストップをかけられ
る。しかしそれは主の愛で、私たちの益だ。そのまま進めばどうな
るかわからない。「主の指示をあおがなかった」、振り返ると、数
々思い当たるかも知れない。今、目の前のプランをまず主のもとに
持って行こう。確かなものとして導いて下さる。
----------
自分の目は曇りやすい。少し先でさえ知る事ができず、それさえ忘
れ惑わされる。常にわきまえていたい。弱さ、貧しさを覚えて主の
前にへりくだり祈りつつ歩もう。


2020年06月01日(月)

「イエスは・・道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた」マタイ9:9



マタイは取税人であった。当時、ローマに代わり税金徴収をしてい
たのが、ユダヤ人の取税人だった。つまり同胞から不当に取り立て、
私腹を肥やしていた。ローマの手先、裏切り者と嫌われ、蔑視され
ていた。罪を犯していて、平安無く、自己嫌悪にも陥っていただろ
う。財は築いたが、喜び無く、幸せではなかった。

そういう状況もわかっていたが、それでも富を求めて取税人になっ
たのだろうか。人から後ろ指を指され、拒絶され、心に闇を抱え、
寂しさと虚しさ、孤独の中にいたろう。生きる意味も見い出せなか
っただろうか。そんな時に、主は、心の内の何もかもをご存じで、
マタイをご覧になって、「わたしについて来なさい」と声をかけら
れた。

彼は立ち上がって、従った。主がそんなマタイを選ばれていた。彼
は主の招きに、即座に応じている。迷いが無い。重大な決意だが、
聖い方が自分のような者を招かれた事にどんなに驚き、嬉しかった
事だろう。その彼は生涯、主に従い通して、マタイの福音書を記す
栄誉にあずかった。彼は自分の事を「取税人マタイ」と言い、はっ
きりと「取税人」だと言っている。

どんな所から救われたかを隠さず明言した。闇から光に入れられた、
その驚くべき恵みを、主の愛の深さを味わい知った。私たちも主が
「ご覧になって」呼んで下さったから、今がある。どんな所から救
われたのか、救われていなかったなら、どうなっていたのか、今一
度、感謝を献げたい。
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ただ主について来ただけで何と幸いな日々が与えられたのだろう。
試練の中も主に助けを求め、励まされて歩める。主の声を聴くため
に主はそれぞれを闇の中に一人で置かれた。日々感謝して歩もう。