2020年07月31日(金)

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい・・『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」ローマ12:19、21



ナバルとアビガイルの夫婦がいた。「ナバル」という名は、「愚か
者」との意味だ。「頑迷で行状が悪かった」とある。ダビデには60
0人の部下がいて、大量の食料が必要だった。丁度祝いの時だった
ので、ダビデは、ペリシテの襲撃から、ナバルの羊飼いたちを守っ
ていたので、その報酬として、自分たちにも祝いの食糧を分けてく
れるよう頼んだ。当然の、妥当な申し出であった。

しかしナバルは「ダビデとは何者か」と蔑み、「私のパンと私の水
を」と自己中心の所有欲で、それをなぜ素性の知れぬ者にわけなけ
ればならないのかと。申し出をはねつけた。ダビデは激怒で、復讐
心で、部下400人に剣を持たせ、こわっぱ一人も残さないと、ナバ
ルのもとへ向かった。その時に、ナバルの妻アビガイルに、若者が
状況を知らせ、ダビデがどんなに良くしてくれているかを伝えた。

アビガイルは進言を受け止め、即、大量の食糧を用意し、ダビデの
もとに行き、地面にひれ伏した。「あの罪は私にあるのです」と、
すべてを自分が引き受ける覚悟で、ダビデの前に出た。そしてへり
くだって、ダビデが自分の手で復讐する事を止めるよう願った。
ダビデは彼女の言葉に耳を傾け、血を流す罪を犯す事から守られた。

止めてくれたアビガイルに感謝し、主が、彼女を遣わされた事に感
謝した。ダビデは、ナバルに自分で復讐するのでなく、主の御手に
委ねることの、実地訓練を受けていた。その後、主がナバルを裁か
れた。私たちも「復讐するな」と言われている。主にすべてを委ね
よと。理不尽な事、怒り・・主に委ねて主に対応して頂こう。
-------------
主は切なる訴えを聞かれ、流した涙も見たと言われる。コントロー
ルできない怒りの感情をまず主に訴え、委ねよう。主の御心とひと
つになって怒りの罪から離れていよう。


2020年07月30日(木)

「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」創世記25:23



イサクとリベカの夫婦にに双子が生まれた。生まれる前に「兄が弟
に仕える」との主の御心が示されていた。そんな中、イサクは兄エ
サウを偏愛した。また、妻リベカは、弟ヤコブを溺愛した。主が示
された御心にもかかわらず、イサクはお気に入りのエサウに祝福を
与えようとする。

するとリベカは夫イサクを欺いて、ヤコブに祝福が臨むように陰で
画策した。それでヤコブが祝福を受け取った。その結果、エサウは
騙されたと知り、激怒した。エサウの殺意に、ヤコブは身の危険の
ため、家におれず、家を出て遠く伯父のもとに逃れる。家庭崩壊で
あり、夫婦間も兄弟間もぐじゃぐじゃだ。今で言う機能不全家族だ。

リベカは、肉の画策をせずとも、主が、兄が弟に使えると言われて
いるのだから、主に委ねて信じておれば良かった。その通りに成っ
ただろう。イサクは、主からの示しに従わず、自分の思いでエサウ
を祝福しようとした。皆が主の秩序からはずれていた。そしてヤコ
ブの家庭も問題だらけだった。

リベカから溺愛されたヤコブは、ヨセフを溺愛し、そのため兄達は
ヨセフを妬み、憎み、異国へ売り飛ばすという、とんでもない行為
に走る。息子達は問題を起こし、二人の妻、レアとラケルは嫉妬し
合い、ヤコブの家庭も機能不全だ。家族が傷つけ合い、ぼろぼろだ
が、しかし、主は大きなご計画の中に、彼らを導かれる。

「地上のすべての民族はあなたとあなたの子孫によって祝福される」
とのアブラハムに誓った誓いを果たされる。苦難のヨセフがエジプ
トで総理大臣になり、一族を救う事となる。パズルのようだ。人は
罪を犯し、間違うが、主はすべてを働かせて益とされる。万事が益
と働いて行く。そして主の約束は真実で、変わることがない。
------------
肉の赴くままに動くとことごとく失敗し、真実な歩みは、主から与
えられる事を教えられる。主はご自分の愛する者を全て守ってくだ
さる。よく祈り御心に沿った歩みをしたい。


2020年07月29日(水)

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」ヤコブ4:1



御言葉は、争いの原因を「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原
因」と言っている。私たちの争いの原因は、外側にあるのではなく、
内側にあるのだと。見えるところの状況が原因だと思い、目が外側
に行きがちだが、原因は心の内の欲望だと言う。人の才能や、境遇、
人気、持てるものを羨ましく思い、羨望が高じると、そねみや妬み
になって行く。

いつしか敵対心へと増長し、心は荒み、悪口の一つも言ってしまう。
信仰者である私たちも、新生した時に新しい性質が与えられている
が、同時にまだ古い性質も残っている。肉の性質であり、それは自
己中心で、自分の思いを通して行こうとする。主の栄光でなく、ど
こまでも自分のためで、自分の栄光、自分の満足だ。肉の欲望だ。

「食べるに良く、目に慕わしく、賢くする」エバが誘惑されたよう
に、自らの内にある欲望に誘惑が来ると、欲望と合致するので、そ
れは良く、慕わしく、賢くするように非常に魅力的に素晴らしいも
のに見えてしまう。対象物を何が何でも欲しくなる。主がまるで飛
んでいて、それを自力で得ようとするので、サタンの誘惑にはまっ
てしまい、欲に引かれ、おびき寄せられてしまう。

「あなたがたのものにならないのは、願わないからだ」とある。主
に向き、主に願い、祈るようにと。「すべての良い贈り物、また、
すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から
下る」と。自力で手に入れるのでなく、まず主のもとへ行き祈ろう。
祈りを軌道修正しながら、正しく導いて下さる。そして、ふさわし
い答えを与えて下さる。
---------------
すぐに心が神から離れてしまい、欲しいものだけ見ていってしまう
者だ。祈るよりも手っ取り早く取りに行こうとして失敗してしまう。
目を覚まして祈って行こう。


2020年07月28日(火)

「サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。『ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ』」Tサムエル18:8 


戦いに連戦連勝のダビデを、女たちが賞賛して、「サウルは千を打
ち、ダビデは万を打った」と笑いながら繰り返し歌った。今まで、
サウルは女たちから、タンバリンや琴をもって歌い踊りながら、賞
賛を受けて来た。それがここで、自分は千で、ダビデは万と笑いな
がら言われた。「その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るよ
うになった」「妬みの目でみるようになった」とある。

妬みは憎しみとなり、憎しみは殺意となり、サウルはダビデをつけ
狙い、殺害しようとする。サウルが、主の方を向き、主に助けを求
め、悔い改めたならどんなによかったろう。罪は、どんどん増幅し
て行ってしまう。信仰に立つ時に、妬みから解放され守られる。私
たちは皆、違って創られていて、同じ人は一人もいない。与えられ
た賜物が異なるので、そこに競争は無い。

比較ができないので、競争にならない。各自が主との間で、主によ
って与えられたものを、主のために用いて行く歩みだ。賜物の違い
があるからこそ、補い合え、助け合える。絶えず主を仰いで行く時
に、妬みでなく、主による喜びが与えられる。又、命をつけ狙われ
たダビデは、常に死と隣り合わせの苦しい状況であった。

しかし、どこまでも信仰立っていた。油注がれた王に、立ち向かい、
反撃する事をせず、復讐する事をせず、逃げ回り、ひたすら逃げた。
そして主を信じ、主に信頼し、主に委ねた。そのダビデを、主は堅
く守られた。窮地の時は、主のもとに逃げ込もう。主が正しく御心
のままに導いて下さる。
------------
唯一無二の者として主から愛されているのに、人の優れた所だけを
見て、苦々しく生きるのは悲しい。妬みの目に気づいたら悔い改め
て祈ろう。この弱さを抱えたままを愛してくださる主を知ろう。



2020年07月27日(月)

「あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って・・介抱してやった」ルカ10:33



ある人が、うっそうとした山道で強盗に襲われた。物を盗られ、殴
られ痛めつけられて、半殺しにされた。苦痛にあえいで倒れていた。
そこに祭司が通りかかった。祭司は、彼に、気づかなかったのでな
く、知らなかったのでもなく、彼を「見た」。その結果、故意に反
対側を通り過ぎて行った。様々な言い訳があったかも知れない。自
分は忙しい。神殿の任務に遅れると多大な迷惑がかかる。

もしも死んでいた場合、死人に触れると宮の任務ができなくなる。
自分が対応しなくても・・。つまり関わりたく無いので、自らを閉
ざした。次にレビ人が通りかかったが、同じように、彼を「見た」。
が、反対側を通り過ぎて行った。祭司が去ったのに、自分などが出
る幕ではなかったろうか。急いでいただろうか。

そこに敵であるサマリや人が通りかかり、彼を見て、「かわいそう
に思い」近づいた。動機は「かわいそうに思い」だった。傷の手当
をし、家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、寄り添い介抱した。費用
まで支払い、至れり尽くせりだ。このサマリヤ人は主ご自身だ。旅
人は私たち自らの姿だ。罪に傷つき血を流し、苦しみ倒れていた。

主が来て下さって、十字架につき、罪を赦し、癒して下さった。主
が来て下さらなければ、滅びであった。傷つき倒れた者は、全く何
も出来ない。私たちへの主の一方的なご愛、あわれみだ。こんなに
も愛されている。又、祭司、レビ人も自らの姿だろうか。関わりた
くない事、出来ない事をありのまま認めて、祈って行く時に、主が、
従えるように、御心にかなえるように助けて下さる。
--------------
主の前の本当の自分の姿ではないだろうか。至れり尽くせりのあわ
れみを受けているのに、具体的な一歩がでない。主に愛されている
ことを覚え、御霊に満たされ歩み寄ろう。



2020年07月26日(日)

「御霊がピリポに『近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい』 と言われた」使徒8:29



女王カンダケに仕える、エチオピア人の高官がいた。彼は、礼拝の
ためエルサレムに上り、エチオピアへ帰る途上だった。馬車の中で、
イザヤ書を読んでいた。その時、御霊がピリポに「近寄って、あの
馬車といっしょに行きなさい」と言われた。そこでピリポは御霊に
言われる通りに従い、馬車に近寄った。

並んで走りながら、「あなたは読んでいることがわかりますか」と
声をかけた。彼は「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」
と答え、馬車に乗り、一緒に座るよう頼んだ。ピリポはこの所から
イエスのことを彼に伝えた。彼は、書いてある意味はわからなかっ
たが、主を求めていた。そのためイザヤ書を読んでいた。

この箇所を通して、求めがあれば、必ず主を知ることができると見
せられる。求めるなら、与えられる。求める者は受ける。必要な導
き手が与えられ、御言葉を知り、主を知るようにされる。高官にピ
リポが備えられていたように、あなたにもふさわしい導き手が備え
られている。そして喜びに満ちる。

主は、主を求める「求め」を喜ばれる。あなたに「求め」があるな
ら、必ず主がわかるようにされる。又、ピリポの従順のゆえに、主
の御心は成し遂げられた。ピリポは御霊の導きを受けた時に、素直
にすぐに従った。少しでもぐずぐずしていたなら、高官は去ってし
まっていた。ピリポは、主の働きに用いられる恵みにあずかった。
あなたも、今、御霊の導きがあるなら、すぐに従おう。用いられて、
主のみわざを拝する。

・・・・・・・・・・・
心の奥の飢え渇きを、主はご存じだ。見て下さっている。その渇き
は、主にしか満たせない。主を求めよう。主の方法で、求めに答え
て下さる。主を知る喜びは、何にも代えられない。又、主の示しが
あれば従順に従う時に、誰かのために用いられて、共に喜べる。


2020年07月25日(土)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているか らだ・・」エレミヤ29:11


しばしば、主のみ思いと自分の思いが異なる事を経験するだろうか。
私たちは、これこそがベストの道と思うが、御心は全く違っていた
りする。パウロは、小アジア、ビテニヤの宣教を閉ざされ、どうす
ればよいのかと、熱心に御心を求めて祈っていたであろう。そんな
中、想定外のマケドニヤへの道が開かれ導かれた。

パウロの思いとは全く違った。一見、あちらもこちらも、道が閉ざ
されたように見えるが、実は、遙かに大きなご計画が用意されてい
た。結果的には、ヨーロッパ宣教の道が備えられていて、福音が大
きく前進する事となった。私たちの過去を振り返る時、「え?何
で?」と、突然目の前で、門が閉ざされた事がある。失望落胆し、
方向転換して歩んだ事がある。

しかしそれが更に大きなみわざを見る時になった。そんな数々があ
るのではないだろうか。進学時、思いの道を閉ざされ、別の道が開
かれ進むと、素晴らしいご計画があった。就職時、思い通りでなか
ったが、行った先でかけがえのない出会いがあった・・。ある男性は
受験に失敗し、心虚しくなり、色々考える時とされ、離れていた教
会に戻る事ができた。

そしてやがて神学校へ進み牧師になった。後に、あの受験失敗こそ
が人生の大いなる祝福であったと。あれが無ければ、今は無いと。
主に間違いはない。思い通りにならない事こそが、主の御手であり、
思いを超えた祝福へと導かれて行く。今、思い通りでなければ、主
のご計画があることを信じていよう。

・・・・・・・・・・・・
苦しい事、辛い事、痛い事、通りたくはないが、信仰人生で様々
通る。しかし、後の日に、その事があったから、人生途上で、主に
出会えた。あの試練があったからこそ、主に近づけられた。主を離
れずに今まで守られた。後に、振り返る時に、見せられる。


2020年07月24日(金)

「そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた」マルコ11:7



主が弟子たちに、向こうの村へ行き、誰も乗ったことのないろばの
子をほどいて連れて来るようにと、言われた。「主がお入用なので
す」と。当時、ろばというのは、へりくだり、謙遜や柔和の象徴と
されていた。主は、このろばの子に乗って、エルサレム入場をされ
た。立派な力のある軍馬でなく、無力で、何の経験も無い、弱いろ
ばの子を用いられた。

私たちは弱く、力が無く、何の経験も無くても構わない。私たちは
ろばであり、主が乗られるのであり、主をお乗せするだけだ。乗っ
ていただけるとは、何と光栄なことだろう。主が用いて下さるのだ。
ある人が、どう考えても自分には力不足である働きを依頼された。
能力的に無理で、労力、時間的にも難しいと思えた。

祈りに祈った時に、「主がお入り用なのです」と語られ、軍馬でな
く、ろばの子を用いられる、弱い、無力な者をと励まされた。信仰
により、受諾した時に「イエスはそれに乗られた」と自分でなく、
主が、自分に乗って成し遂げて下さると励まされ、力を受けた。
「ほどいて」連れて来なさい。

自分の好み、自分のしたい事、自分の思い、望、又、名誉、地位、
富への執着、人から賞賛を得たい欲、それらからほどかれ、解かれ
て、主のもとへ行こう。主が乗って下さって、用いて下さる。主に
用いて頂けるとは何という喜びだろう。「主がお入り用なのです」、
あなたにも語られていないだろうか。「イエスはそれに乗られた」。
-------------
自分のしたい事は、出来る事は、と考えていくといつも力不足で息
苦しくなる。主に生かされ、主に用いられるとの信仰の目で見てい
くなら、思いもよらない発見や新しい希望が拡がってくる。


2020年07月23日(木)

「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」Tサムエル15:23



占いや偶像礼拝は、明らかに罪だとわかる。クリスチャンであれば、
しないだろう。しかし「主のことばを退ける」ことは、意識せずに
行なってしまったりする。主の言葉より、自分の思いの方を優先さ
せてしまうからだ。だがそれは、偶像礼拝の罪だと言っている。サ
ウルが、サムエルを待てと言われていたのに、ペリシテとの戦いで
劣勢を極め、民がおびえて逃げ出す状況に、何とかしなければと、
自分で全焼のいけにえを献げてしまった。

主の言葉でなく自分の思いに従った結果だった。また、「アマレク
を打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない」との
主の命令に対して、サウルと民は、アガグと肥えた羊や牛、子羊と
すべての最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちの無いものだけ
を聖絶した。明らかに主の命令に違反し、主の言葉に従っていない。

自分の思いに従い、自分の思いを優先させている。それを主は「主
の言葉を退けた」と言われた。そしてサムエルに、羊や牛の声は何
かと、問いただされた時に、「あなたの神、主にいけにえをささげ
るため」と言い訳をした。そして民が惜しんだからと、民に責任転
嫁した。

主は、いけにえでなく、主の御声に聞き従うことを喜ばれる。そし
て聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂
肪にまさると。今、自分の思いが優先していないだろうか。自分の
良かれとの思いでなく、主の言葉に従うことを再確認しよう。
------------
主の御声に従う中で、肉の思いが混ぜ込まれていくと、言い訳は次
々と湧いてくる。強欲や偽善から成すことなく純粋に主の御声に従
えているか、いつも吟味していたい。


2020年07月22日(水)

「あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます」Tサムエル10:8



サムエルは、サウルに「いけにえを献げるので、私が到着するまで
7日間待て、なすべき事を教えるから」と言った。しかしペリシテ
人との戦いで、敵は圧倒的に優勢であり、サウルの軍は劣勢で、敵
の強大な力に、民はひどく圧迫されて、ほら穴、岩間、地下室に隠
れ、おののいて震えていた。そして恐れて、サウルから離れて散っ
て行こうとしていた。

民が動揺し、恐れて逃げ出す中、サウルは、この状況の中で主に頼
み、祝福を得たいと、サムエルを待った。だが7日間待ってもサム
エルは来ない。このままでは、皆が去ってしまい、軍崩壊の危機だ。
サムエルを待てと命じられていたのに、サウルは自分で「全焼のい
けにえ」を献げてしまった。献げ終わった時にサムエルが到着した。

全焼のいけいえは、祭司しか献げる事ができない。サウルは自分の
思いに従い、主の命令に従わなかった。主の命令はサムエルを待つ
ことであり、その命令を守らず、自分の思いを先行させてしまった。
民が逃げたとしても、息子ヨナタンが言ったように「大人数による
のであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに
妨げとなるものは何もない」。

勝利は主によるのであり、主が戦われ、主が成し遂げて下さる。兵
士の人数は関係無い。しかし、その信仰を持てなかった。だから自
分で動いてしまい「あなたは愚かなことをした」と、王位から退け
られてしまった。主が喜ばれることは、いけにを献げる事でなく、
聞き従うことだ。まず主の御声をよく聞いて、その示しに従う事を
喜ばれる。今、示されている事があれば、その御声に従おう。
----------------
一歩先が見えなくて不安に襲われても、その時、その時、必ず主が
導いてくださると信じていよう。自分の力で右往左往してしまうが
落ち着いて、主に祈り尋ねていこう。


2020年07月21日(火)

「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう・・それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです」詩編38:13 



言葉はもろ刃の剣であり、人を生かしも殺しもする。舌をもって主
をほめたたえる事もでき、また同じ舌で人をのろう事もできる。対
人関係で、様々、言葉で傷つくことがある。理不尽な言葉や、非難、
批判、悪口・・深く傷ついてしまう。舌で被害を受けた時にはどう
すればよいのか。人からの言葉には、受け入れるべき言葉と聞き流
すべき言葉があると言っている。

単に傷つけるための言葉は聞き流して、耳しいになるべきだ。悪意
ある攻撃の言葉には、聞こえない耳を持つ必要がある。「人の語る
言葉にいちいち心を留めるな。あなたのしもべがあなたをのろう言
葉を聞かないためだ」ともあり、ネガティブな言葉に、いちいち心
を留めるなと。陰口、悪意のある噂話、人の言葉が心に刺さり、辛
くなってしまう。

耳しいになり、耳を閉じることだ。耳に入ってしまったなら、建て
上げることのない、むしろ害のある、無益な言葉は忘れてしまおう。
又、舌は多くの人が失敗する、少しもじっとしていない悪と言われ
ており、自分自身も無益な言葉を発することが無いように。くちび
るの戸が守られるように祈っていよう。

耳しいになれるのは、すべてをご存じで、すべてを見ておられる、
真実に正しくさばかれる方に任せることができるからだ。主が、の
のしられても、ののしり返さず、正しくさばかれる方に任せておら
れたように。
------------
人の言葉に動揺しても、大騒ぎをせず沈黙できるのは、主に全てを
打ち明け、主を待ち望む事ができるからだ。ダビデに学ぼう。主よ
急いで私を助けてくださいと主に叫べる。


2020年07月20日(月)

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」ルカ19:5



ザアカイは、富が自分を満たしてくれると信じていた。富があれば、
何でも買う事が出来て、手に入れる事が出来る。富が自分の夢を実
現させてくれ、又、自分の生活を保障してくれる。富さえあれば幸
せになれると。しかし富は自分を裏切るに十分だった。決して幸せ
にはしてくれなかった。喜びも平安も、心の満たしも与えてはくれ
なかった。

莫大な資産があっても、虚しさと寂しさと孤独はどうしようも無か
った。不正をし、私腹を肥やしている後ろめたさは、心に影を落と
し、心を暗いものにしていた。そんな頃、主の噂を耳にした。罪人
と食事を共にし、取税人や遊女を目に留め、愛して下さるお方、こ
の方なら、自分の心の奥の求めに答え、虚しい心を満たして下さる
のではないか。

しかし人垣で会えない中、決して諦めず、そばの木に登った。どこ
までも求め続けた。すると主の方から「ザアカイ」と名を呼ばれ、
あなたの家に泊まると。つまり、ザアカイを全面的に受け入れられ
た。ザアカイは自分の名を知っておられる主に、どんなに驚いた事
だろう。そしてどんなに嬉しかった事だろう。主は、切に主を求め
るたましいをご存じだ。

その心の渇きとあがきをご存じで、主の方から御声をかけて下さる。
5回結婚をして、今は、同棲中のサマリヤの女性の、埋まる事のな
い心の奥の渇きもご存じだった。女性の必要を満たすために、わざ
わざサマリアを経由され、女性に御声をかけられた。主への求めは、
必ず主が満たして下さる。主に向いて求めて行こう。
-----------
主を信じていると言っても、心の全てを主で満たしていると言える
だろうか。何かに頼り、心を寄せては失ったり裏切られたりする。
主は変わらず満たし続けてくださる。主に向かおう。



2020年07月19日(日)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10



人生の極めて重大な局面に立つ時、どうだろう。誰しも不安と恐れ、
大きなプレッシャーを覚えるだろう。モーセは突然、神から「パロ
のもとに遣わす。わたしの民イスラエルをエジプトから連れ出せ」
と言われた。余りにも唐突で、驚いたモーセは、まず「私はいった
い何者なのでしょう」と神に申し上げる。

なぜ、自分がそのようなとんでもない事をしなければならないのか。
もう老齢で、ただの羊飼いである自分にそんな力は無い。そして昔、
若い時に、同胞を救おうとして、手痛い失敗をしている。更に、今
の自分には何も無い。地位も権力も富も人脈も無い。無力だ、何が
できよう。

しかし主は恐れ尻込みするモーセに「わたしはあなたとともにい
る」これがあなたのための「しるし」であると、これ以上無い明確
な保証を下さった。「わたしがあなたを遣わすのだ」と神からのは
っきりとした召しだ。これ以上、何が必要だろう。以前、モーセが
思い立って行動した同胞の救済は、自分から発した事であり、自分
の思いであった。

だから成就する事なく失敗してしまった。今や神から発した事だ。
神から発した事は、神が成し遂げられる。この後の出エジプトにお
けるモーセの働きを見る時、まさに神ご自身の働きを見る。「主が
あなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければなら
ない」。肉の力でなく、主ご自身が働かれ、主の栄光を拝する。

・・・・・・・・・・・・
自分から発した事と、主から発した事には、雲泥の差がある。主か
ら発した事であれば、必要な知恵も力もすべて主から来る。そして
必ず実を結び、主の栄光が現われる。自分発でなく、主から来た事
は従おう。従えるように祈ろう。


2020年07月18日(土)

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに 知らせるために・・中風の人に、『起きなさい。寝床をたたんで、家 に帰りなさい』と言われた」マタイ9:6


中風の人を4人で、床のまま、主のもとへ連れて来た。すると主は
彼らの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われ
た。彼らは、とにかく病気を癒して欲しくて主のもとに来た。しか
しそこで聞いたのは、想定外の罪の赦しだった。罪の赦しでなくて、
欲しいのは病気のいやし、そう言いたかったかも知れない。

すると罪の赦しの後「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさ
い」と中風をもいやされた。彼は家に帰った。いやしを求めて来た
が、罪の赦しを与えられた。単に身体のいやしなら、又、病気にも
なるし、そしていつかは必ず死ぬ。永遠の滅びだ。だが人は、とに
かく現実の目の前の問題を何とかして欲しい。

悩みを解決して欲しい。人が望むものは、家内安全、商売繁盛・・だ。
罪の赦しなどどうでもよいから、目に見える目の前の必要が満たさ
れたい。経済的苦境は満たされたいし、病気は癒されたい。むしろ
罪には触れられたくない。隠しておきたい。しかし実は、根本的な
問題は罪にある。私たちの辛さの原因は罪にあり、見える問題が問
題なのではない。病気さえ治れば、仕事さえあれば、と思うがそう
ではない。

罪とは「的はずれ」であり、神から離れているから、問題が起きて
いる。「子よ。あなたの罪は赦された」罪が赦される時、神との交
わりが回復する。その時、主と自分の関係が正しくなり、目の前の
問題が導かれて行く。

・・・・・・・・・・・・
とにかく、目の前の苦しみを何とかして欲しい。すぐに解決して欲
しい。しかし根本的な、真の問題は、神を認めず、神から離れてい
る事にある。主は罪の赦しを与え、関係を回復させて下さる。その
時、一つ一つの苦しみに意味があり、主と共に乗り越えて行ける。


2020年07月17日(金)

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」へブル13:5



母親が自分の子供を、赤ん坊を忘れるだろうか、たとい母親が忘れ
たとしても、わたしはあなたを忘れない、と言われている。私たち
には、主に従う中で、時に、忘れられているのでは、との状況を経
験するだろうか。祈っても、幾ら祈っても状況は何も変わらない。
どれだけ祈っても、何も動かず微動だにしない。助けも見えて来な
い。

行き詰まり、どこへも進めず、何もどうにもならない。本当に愛さ
れているのだろうか?目に留めて下さっているのか?独り取り残さ
れたように感じる。イスラエルも苦しみの中で「主は私を見捨てた、
主は私を忘れた」と言った。失望し、意気消沈していた。しかし、
そんなイスラエルを、主は力強く励まされる。

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。胎の子をあわれまないだ
ろうか」と。そのように決してあなたを見捨てることは無いし、忘
れ去ることもあり得ないと。「たとい女が子供を忘れても、このわ
たしはあなたを忘れない」と。決して我が子を忘れる事のあり得な
い母親が、万一忘れたとしても、このわたしは絶対にあなたを忘れ
ないと。

私たちは、絶対に忘れられる事も、捨てられる事も無い。よく病院
で、忙しい看護師さんが、重要な事を、忘れないために手のひらに
書いている姿を見る。その文字は何度も消しては、書き直す。手を
洗えば消える。しかし主は「手のひらにあなたを刻んだ」と言われ
る。刻んだものは消しても消えない。それほどに強く強く愛されて
いる。絶対に見捨てられず、忘れられていないことを覚えよう。
--------------
どれほど落ち込んでも、周囲から忘れられているように思えても、
神は私たちを決して忘れない。手のひらに刻まれた私の名前を大切
に慈しんで見ていてくださる。なんと感謝なことだろう。


2020年07月16日(木)

「世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた・・どこから来たのか、知らなかったので、しかし、水を汲んだ手伝いの者たちは知っていた」ヨハネ2:9



結婚式がカナであった。その宴会の途中で、ぶどう酒が切れてしま
った。当時の結婚式におけるぶどう酒は、大切で重要な、無くては
ならぬものだった。それが無くなるなど、主催者側の大失態であり、
花婿花嫁の顔がつぶれてしまう事態だった。すぐにマリヤは、主に
助けを求めた。その時、主には、まだ時ではないと言われたが、マ
リヤは、主が必ず何とかして下さると信じ、緊急事態を、主の御手
に委ねた。すると主は動かれた。

手伝いの者たちに「水がめに水を満たしなさい」と。それは80〜120
リットル入る水がめ6つだった。6つものかめに水を満たすのは大変
な重労働だ。しかし主の言われた通りに、彼らは従った。この場合、
私たちは思うだろうか。「何で、水なのか」「ぶどう酒が必要なの
に、水など汲んでどうするのか」「水などがどうなるのか」戸惑い
と疑問が来るかも知れない。

だが彼らは「水がめを縁までいっぱいにした」。主の言葉の通りに、
6つの水がめを満たした。適当に7分、8分目まで入れたのでなく、主
の言葉通りに縁まで満たした。すると主は、その水がめを世話役へ
持って行くようにと。「え!水を?」となりそうだが、「彼らは持
って行った」。従順で忠実だ。

するとそれは、純正のぶどう酒に変わっていた。時に主の示しが、
自分の思いや常識と異なる。ペテロが魚のいない朝に、網を下ろし
て漁をせよと言われたように。しかし言われた通りに従おう。そう
するなら、素晴らしい主の栄光を拝することになる。
---------
ただの仕事なら六つの水がめを一杯にすることなど出来ないが、主
の命令なら地道な作業も従えるのではないか。誰に仕えているのか
、何に仕えているのか。真心から主に従おう。


2020年07月15日(水)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2



試練を喜べと言っている。それも「この上もなく」喜べと。試練こ
そが、私たちに忍耐を培い、成長を与えるから、大きな祝福なのだ
と。しかし試練に会う時、往々にして間違った対処をしてしまう。
まずは、誰しも苦しい環境からは、何とかして逃れたい。祈らずに、
逃げてしまう。環境を変えてしまう。

仕事先で、嫌な対人関係があると、職場を変える。又、自分の思い
で、肉で、対応してしまう。試練に会うと、パニックになって、と
にかく何とかしなければとの思いでいっぱいになる。主が飛んでし
まい、主を求めずに、肉で画策する。すると失敗してしまう。自分
で動くと、すべてが自分の肩にかかるので、とても負えずに、弱り
果ててしまう。

又、思いも感情も抑え込んで、ただただ我慢する事も間違っている。
忍耐とは、我慢することでなく、主が必ず良くして下さると信じる
ことだ。歯を食いしばって我慢するのではない。主に信頼し、最善
をして下さることを信じることだ。そして忍耐とは、「とどまる」
ことでもある。つまり、希望を持って主と共にとどまることだ。

試練が来た時に、逃げないで、避けないで、主と共に、その下にと
どまる。試練を真正面から受け入れる。「懲らしめを軽んじてはな
らない」又、「弱り果ててはならない」の通りに。私たちの一番の
願いは、霊的成長ではないだろうか。主の似姿に変えられて行く事、
とどまる時、主はその霊的成長を与えて下さる。
-------------
自分の力で何とかしようと思えば試練はただただ辛く苦しく、主に
励まされなければとても越えられない。主は全てを知っていてくだ
さる。主と共に試練を越えよう。


2020年07月14日(火)

「いつまで御顔を私からお隠しになるのですか・・いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう」詩篇13:1



「いつまでですか、いつまでですか」と繰り返し、ダビデは苦しみ
を、率直に正直にあるがまま訴えている。この苦しみ、悩みはいつ
まで続くのかと。「私に目を注ぎ、私に答えて下さい」と求めてい
る。ここには、「いつまで〜」が4度も出て来る。ぎりぎりの瀬戸
際であった事だろう。

私たちは、順調に行っている時には、神に愛されている、祝福され
ている、守られていると思える。商売は繁盛、交通安全、受験は合
格、畑は豊作、家族は健康、夫婦円満、それなら祝福、感謝と思え
る。しかし受験不合格、畑は不作、リストラ、倒産、家族の病気、
経済的苦境の場合はどうだろう。祝福されていないと感じてしまう
だろうか。愛されていない、守られていないのだろうか。

しかし御言葉によると、訓練は神の愛だ。「主はその愛する者を懲
らしめ」愛しているからこそ、むちを加えると。我が子として扱っ
ていると。私生児は懲らしめない。懲らしめが無い方が問題で、心
配だ。先が見えない中で、信仰が鍛えられ成長する時だ。私たちも
今「いつまで〜」の状況だろうか。

対人関係や仕事、経済的悩み・・。そのままの気持ちをダビデのよ
うに、弱さのまま主に告げよう。主ご自身もゲッセマネで、弟子に
弱さを隠されなかった。死ぬほどの悲しみで一緒にいて欲しいと。
私たちも弱いまま、率直に祈れる。祈りの後、ダビデは「救いを喜
びます。主に歌を歌います。主が豊かにあしらわれたゆえ」と大き
な喜びと平安に変えられている。
------------
目的をもって訓練を与えられる主は、苦しみも与えられるが、その
苦難の中にいつも共にいてくださる。試練を抜ける時にはっきりと
わかる。主にしがみつきダビデのように祈ろう。


2020年07月13日(月)

「さばいてはいけません。さばかれないためです」マタイ7:1



「さばくな」と主は言われる。では、「裁判」も、いっさいの「裁
き」はいけないのだろうか。しかしそれは違う。主は、「何が正し
いかを判断せよ」と。善悪の判断をきちんとするようにと言われて
いる。又、「聖なるものを犬に与えるな」「豚の前に真珠を投げる
な」と命じておられる。判断しなければ、主に従う事ができない。

「実によって見分わけることができる」と。又、汚れたものを見分
け、何もかも信じるのでなく、偽預言者を見分けよと。又、兄弟が
罪を犯したなら、まず二人のところで責めよと、罪を正す事を命じ
ている。主が「さばくな」と言われたのは、御言葉の基準でなく、
自分の肉のメガネで、自分の思いや偏見、独断で裁いてはならない
という事だ。

それは自分のメガネに合わない相手を、中傷し批判することであり、
自我による裁きであり、私たちも陥りやすい過ちだ。裁く相手は、
しばしば自分と同じものを持っていると言われている。自分の中の
嫌な、受け入れがたいものを相手に見る。それが受け入れられず、
裁きや批判となる。

「自分の目の中には梁がある」目の中に大きな丸太があれば、何も
見えない。人の微小のちりなど、見えるはずがない。ちりの入った
人は、鋭い痛みがある。丸太の入った目で、そのちりを取ろうとす
るなら、見えないので、更に痛みをひどくしてしまう。まず自分の
丸太を取り除くことが必要だ。

御霊に示されて、自らの内側にあるものを悔い改める時、自らの丸
太が除かれる。すると目が見えて、相手のちりがはっきり見える。
その時、相手のちりを除く助けのために、御霊により用いられる。
----------
違っても裁き、似ていても裁くならただのあら探しだ。問題はいつ
も自分の中にあるのではないか。真っすぐに見えるよう、裁いてい
ることに気づきたい。主に正直に悔い改めよう。


2020年07月12日(日)

「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあ なたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたの であるから」」Tサムエル8:7



イスラエルの民が王が欲しいと、サムエルに王を求めた。他の国民
のように自分たちも王が欲しいと。しかしそれは、主の御心ではな
かった。だが、民が「どうしても」と、何がなんでもと要求した時、
主は、要求を聞き入れよと言われた。それは、サムエルを退けたの
ではなく、神を退けたのだと。主はサムエルに彼らに厳しく警告し、
王の権利を告げるようにと。

しかしそれを聞いても尚、民はどうしても王が欲しいと言い張った。
すると主は、王を立てよと言われた。時に、自分が肉で計画した事
がうまく行く。思い通りに、画策通りになる時に、これは主が成功
させて下さった、主が認めて下さったのだと思うが、それは大きな
誤解だ。どうしても行くというので、主は、民が自分の道を行く事
を許されただけだ。

どれだけ警告を受けても、私たちが頑なに聞かない時、主は願う通
りの道を行かせられる。自由意志を尊重され、決して強いる事はさ
れない。そして蒔いた種を刈り取らせられる。結実してしまい、辛
い、苦しい刈り取りになる。その刈り取りをも訓練とし、学ばせら
れる。自我を通す事が、いかに愚かであるかを身をもって知る。

蒔いたものは必ず刈り取る。蒔き刈りの法則だ。今、自分の道に行
こうとしているなら、又、祈らずに進もうとしているなら、立ち止
まって祈ろう。方向変換して御霊に従おう。御霊に従う事がどれほ
ど祝福であり、平安な喜びの道かを知る。御霊の実を刈り取る。

・・・・・・・・・・・
反対されても、何がなんでも欲しいと、どこまでも願う時、主はそ
れを与えられる。しかし願うものを与えられて、心はやせ衰え、虚
しくなると言っている。肉の思いを通すなら、御心をそれてしまう。
主に従えるよう祈ろう。


2020年07月11日(土)

「だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義 を行ない、心の中の真実を語る人」詩篇15:1


ある人が、個人的に厳しい状況にあり、深い悩みの中にいた。職場
で以前から信頼できる先輩に相談した。先輩は悩みをじっくり聞い
て、「ごめんね。私にはどうしてよいかわからない。解決の方法も
わからず、何も言って上げられなくて、ごめんなさい」と正直に答
えてくれた。それは極めて誠実な対応だった。

私たちの主への態度はどうだろう。主は常に私たちを助けよう、助
けたいと願い、待ち構えておられる。だが、私たちの態度が問題だ。
主の御前に、正直である事を喜ばれる。主に対して正直で、真実で、
ありのままでありさえすれば、主はどんな状態であってもも導いて
下さる。どんなに自分で、もうだめだ、取り返しがつかないと思う
ような酷い状態でも、正直でさえあれば、主は必ず導かれる。

「あなたは心のうちの真実を喜ばれます」心の中の真実を、自分の
内にあるものを、ありのまま認める事を喜ばれる。その真実の反対
が、「まやかし」だ。「わたしは彼らを贖おうとするが、彼らはわ
たしにまやかしを言う」。自分を繕い、ごまかしてしまう。主の御
前にまでも、良い人の仮面をつけて出る。本音と建前があり、弱さ
を主の前でも、人の前でも認められない。

しかし、弱さをありのままを認めて行く時、御霊の光に照らされる。
光は心の隅々まで照らし出し、二面性のない、裏表の無い人格を形
造る。私たちはどうだろう。主が贖おうとされるのに、ごまかしを
言っているだろうか。

・・・・・・・・・・
心の闇は、御霊の光に照らし出される時、闇は闇で無くなってしま
う。光の中だ。しかし、自分自身が光の方へ向かない限り不可能だ。
光があっても、自分が目を閉じて、見なければ闇の中と同じだ。痛
くても光から逃げず、向いて行く時、いやされて行く。解決して行
く。


2020年07月10日(金)

「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません」ヤコブ1:13



誘惑について御言葉は言う。「人はそれぞれの欲に引かれ、おびき
寄せられて、誘惑される」と。誘惑は、外部から来るのでなく「欲
に引かれ」と、私たちの内側から始まる。魚釣りのように、サタン
が私たちの内側の「欲望」に誘惑の餌を投げかける。その餌に食ら
いついてしまうと、誘惑にかかってしまう。もし、欲望が内側に無
ければ、餌がどれだけあっても、何の誘惑にもならない。

誘惑は、心の欲から起きるのであり、状況からではない。エデンの
園で、サタンは、エバにまず疑いを起こさせた。「本当に?神が言
われたの?」、私たちにも同じように誘惑が来る。主がはっきり罪
だと言われている事に対しても「本当に?この場合はいいんじゃな
いの?」示されている御心についても「本当に?自分の思いではな
いの?」

次に、サタンは、エバに「決して死にません」と正反対の嘘を堂々
と言って来る。しかしサタンに耳を傾けて行った時、欺かれてしま
い、もう嘘が見抜けない。「あなたは神のようになる」は、エバに
とり、大きな誘惑であった。「手に入れると、幸せになれるよ」、
心が惹かれそこに向いてしまうと、サタンの嘘にだまされ、行動に
移ってしまう。

サタンの言葉を心に入れてしまうと、主が禁じられた木は、好まし
く魅力的な、素晴らしいものにしか見えなかった。その結果、取っ
て食べてしまった。私たちもサタンに聞いて行くと、そのように見
えてしまい、行動に移して行ってしまう。霊の戦いは祈り無くして
戦えない。祈りと御言葉によって勝利して行ける。
-----------
「この場合はいいんじゃないの?」の声に馴染みはないだろうか。
失敗から学び、肉の欲に自然に溶け込んでくるサタンの声に気づけ
るよう祈り備えていよう。


2020年07月09日(木)

「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた」出エジプト15:23



イスラエルの民は出エジプトの際に、主の偉大な奇跡を目の当たり
にした。紅海が目の前で、二つに分かれ、追っ手のエジプト軍から
見事に救われた。主の全能の力を目の前に見て、驚くべき体験をし
た。ところがその後どうだろう。彼らは荒野に入り、3日歩いた。
その時水が無く、メラでは、そこの水は苦くて飲めなかった。

すると民はモーセに向かってつぶやいた。何を飲むのかと。その時
モーセは、つぶやいた民に対応するのでなく、主に向かった。主に
助けを求めて叫んだ時に、一本の木が示された。それを苦い水に投
げ入れると、水が甘くなった。あの後にも先にも無い大奇跡を見て、
まだたったの3日だ。

そしてその間も、主は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、彼らを照
らし、昼も夜も彼らを導かれた。雲の柱と火の柱は、民の前から離
れることが無かった。あの奇跡を経験して、尚も雲の柱と火の柱で
導かれながら、目の前に少し不都合が生じた途端、不満、愚痴、つ
ぶやきだ。不信仰なイスラエルの姿は、自らの姿だろうか。

主は、苦い水を甘い水に変えられたし、そのように計画しておられ
た。主のご愛を信じ、主に信頼しておれたなら、どんなに良かった
ろう。感謝が無く、感謝を忘れる、不信仰な「つぶやき」は、主の
お心を痛める。逆に「感謝」は、すべての出来事に主を認め、主の
ご計画を認める事だ。感謝は、主を大いにお喜ばせする。
------------
私達も主とともに旅をしていながら、たった3日でつぶやきが湧い
てくる者だ。いつも喜びを忘れずにいよう。たえず祈り、どんなこ
とにも感謝しよう。


2020年07月08日(水)

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26



ある人が、「わたしの目にはあなたは高価で尊い」との御言葉は、
素晴らしい恵みの言葉と、頭ではわかるが、長い間、どうしても自
分の事として受け取れなかった。自分が高価で尊いなどと、どうし
ても思えない。生い立ちから培われた古い価値観に妨げられてしま
う。主を信じてはいるのだが、何か心底満たされていない事も感じ
ていた。

頭では、神は愛だと思うのだが、実感が無かった。しかし苦しい時
に、祈る祈りが何度も答えられ、助けられた。確かに主はおられる
のだが、もう一つ実感が無く、わからない。時も経る中、そんな事
もありのまま洗いざらい告げて祈っていた時に、御霊の光が射し込
んだ。心照らされ、自分が高価で尊いと、信じていない事が示され
た。

主の言葉を信じていない自分。なぜかと思うと、自分がそう思えな
い、そう感じないからだった。御言葉でなく、自分の思い、自分の
感覚の方を信じていた。それなら御言葉を否定する事になり、主の
真実を否定する事になってしまう。主のことがもうひとつわからな
い、実感がないその底に、自らの「不信仰」が横たわっていたと初
めて気づかされた。

心から悔い改めた。感じる感じないでなく、御言葉をそのまま受け
入れます、感謝しますと祈った。その時から変えられた。主の愛が
頭でなく、心でわかるようになった。以前とは全く違い、御言葉が
力とされ、救いとされた。
------------
自分ではとてもそう思えなくても、主が言われていると聖霊の働き
によって素直に御言葉に結びつけられる。御霊に励まされて心を高
くして生きていける。


2020年07月07日(火)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11


「時にかなって美しい」とあるが、「かなう」とは「ぴったり合う
・適合する・丁度当てはまる」であり「時にかなって」とは丁度良
い時・時がピッタリ・ジャストタイミング」だ。「美しい」は、
「調和がとれていて快適に感じられるさま・人に感銘、感動を与え
るさま」だ。主のなさる事は、丁度ピッタリのタイミングで、秩序
と調和があり、人に感銘、感動を与える。

エステルの物語しかりだ。ハマンにより、ユダヤ人絶滅の悪巧みが
なされた際、そこにピッタリのタイミングで、王妃としてエステル
がいた。王に願い出る事は、エステルにしか、他の誰もできないこ
とだった。そしてエステルは命がけで、主に従い、王に願い出る事
を実行した。自分にできる事をした。結果、ユダヤ人は絶滅から救
われた。

ナオミの帰郷も主のみわざだった。飢饉で祖国を離れたナオミが、
帰郷を決意した時、嫁のルツも従った。二人が帰郷した時、ピッタ
リのタイミングで、大麦の刈り入れの時期だった。そのため、落ち
穂拾いというナオミとルツの生計の手段があった。又、たまたま落
穂拾いをしたその場所が、ボアズの畑であった。ボアズの畑を選ん
だわけではない。たまたま足を踏み入れた畑だった。そして丁度そ
の時、ボアズが姿を見せた。

すべてにジャストタイミングで、まさに主のなさることは時にかな
っている。主に従い、自らの故郷を捨て、異国の地に来たルツは、
豊かに報いられ、ボアズとの結婚が備えられていた。すべての事に
主の時があり、主は時にかなってふさわしい事をされる。今はわか
らずとも、必ず主の時が来て、「美しい」ことが判明する。信じて
いよう。
-------------
先が見えなくて一つ一つの出来事に一喜一憂してしまう日もある。
けれど主に愛され、恵みのご計画に与っていることも信じている。
必ずぴったりと合う美しい主の時が来る。信じて待とう。


2020年07月06日(月)

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14



ぶどう園が収穫期のため、労務者が早朝、9時、12時、3時、5時と順
次雇われた。早朝の者だけ1日1デナリの明確な契約がなされ、9時以
降の者の報酬は「相当のもの」となっている。そして1日の労働を
終えた時に、5時の者から順に、全員に等しく1デナリが支払われ
た。1デナリは当時の1日分の給料だ。5時の者たちは非常に驚い
ただろう。

ほんの少し働いただけだ、もう片づけに入る頃だ。それなのに丸々
1日分貰えた。だが早朝の者は怒りがおさまらない。5時の者が1
デナリなら、朝早くから労働した自分たちは、もっともらえるべき
だ。それなのに同額とは納得が行かない。憤慨して主人に文句をつ
けた。「1日中労苦と焼ける暑さを辛抱した」と。それが同賃金と
は不公平だと。自分たちは辛く苦しかったと言った。

だが、別の面から見れば早朝から1日分の報酬が確約されていた。
家族の喜ぶ顔が浮かんだ事だろう。又早朝から選ばれたからには頑
健な人々だったろう。ところが5時の人々はどうだろう。怠けてい
たのでなく、働きたいが、夕刻まで雇って貰えなかった。身体が弱
そうだったかも知れない。夕刻になるのに今日の糧が無い。ずっと
不安で思い煩いであったろう。家族はどんなに落胆するだろう。

その心細さ、恐れを抱えて夕方まで過ごした事になる。労働して給
料を貰うのは報酬だ。しかし労働無しに報酬を貰えた。これがあわ
れみだ。主は、あわれみのお方であり、天の御国は、このあわれみ
の世界だと。私たちも、大きなあわれみを受けている。罪ゆえ滅び
て当然の者が、救いに入れられた。値しない者に、何と驚くべき恵
み、一方的な愛顧だろう。感謝しかない。
-----------
どの立場に立っているのかと、いつも心を照らされる。主から与え
られる恵みがあまりにも大きすぎて、その全てが見えていないので
はなか。主の深いあわれみに、ただ感謝するばかりだ。


2020年07月05日(日)

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ち た種があった。すると、鳥が来て食べてしまった」マタイ13:3


ある人が、御霊の気づきを与えられた。それは、主を信じ救われて、
かなりの期間を経るのだが、御言葉を聞いているつもりで、実はス
ルーしていた、流していた事に気づかされたと。それは御言葉を捨
ててしまっていた事になると。種蒔きのたとえの「道ばた」に落ち
た種であり、土地が固いので植わらず、弾き返してしまう。つまり
心が固いので、御言葉が心に全く入らず、弾いている。

しかし御言葉を拒否するのでなく、自分としては、喜んで聞いてい
るつもりなので、全く気づかなかったと。御言葉を聞く時に、必ず
別の思い、肉の思いが同時に湧いて来て、御言葉をかき消してしま
う。例えば主が「必要を満たす」と言われると、「どこからどうや
って?」「そんな事、有り得ない」と打ち消してしまう。

しばしば主の価値観は、世の価値観と正反対だ。それで「そんな事
をしていたら、世の中で生活して行けない」と思う。つまりはずっ
と御言葉を聞く時に、横から湧いて来る、肉の思いの方を選択して
いたと気づかされた。御言葉を聞いてはいるが、心に入れずに捨て
てしまっていた。成長して行けないのはそこが原因だとわかった。

そこで、御言葉を聞いた時に、同時に湧いてくる自分の思いの方を
捨てて、とにかく御言葉に従おうと決心した。それを実行して行っ
た時に、初めて、本当に自分が変えられて行った。驚きであった。
御言葉を拒否しているなら、むしろわかりやすいが、普通に聞いて
いるので、長い間気づかなかった。ずっと自分は変わらないと思っ
ていた。御言葉が植わる、土地であるところの、心のあり方は非常
に重要だ。御霊の光で探って頂いて、修正して頂こう。

・・・・・・・・・・
御言葉を聞く事は好きで、幾らでも聞くのだが、実は肉の思いに妨
げられて、心に入っていない事がある。無意識なので気づかない。
種が心に入らない限り、結実は無いので、御霊によく心を探って頂
こう。今一度、聞いているつもりのところに光を当てて頂こう。


2020年07月04日(土)

「知恵の正しいことは、その行ないが証明します」マタイ11:18



私たちは、しばしば人を裁いてしまう弱さを持っている。しかし私
たちが人を裁くのは、相手が自分の思い通りでないからだと言われ
ている。自分の思いがあり、それに合わないので相手を非難すると。
つまりは自己中心によるものだ。

主は、当時の人々を、遊びをしている子ども達に例えられた。子ど
も達は、一緒に遊ぼうと他の子達に「呼びかけ」た。「笛を吹いて
やっても、踊らない」まず「結婚式」の遊びをし、楽しげに笛を吹
いたが、誰も踊らず相手にしなかった。それで次に「弔いの歌を歌
っても悲しまない」、「葬式」の遊びをした。これも誰も乗ってこ
なかった。そっけない態度だ。

それと同様に人々は、バプテスマのヨハネが、荒野でいなごと野蜜
で禁欲的な生活していると、彼はおかしくて「悪霊につかれてい
る」と言った。そして主が取税人や遊女の友となり、罪人と宴会の
席で、飲食していると、「食いしんぼうの大酒飲み」、「罪人の仲
間」だと言った。

結局、どちらでも批判し、何をしても非難した。つまりは自分たち
の思いがあるばかりで、自分の物差しに合わないゆえの批判だった。
そして自らの正しさを誇っていた。相手を公正に見て、受け入れよ
うとの思いなど皆無だった。だからヨハネも主も受け入れなかった。

その時に主は、「知恵の正しいことは、その行ないが証明します」
と言われた。どうこう釈明せずとも、必ず主の正しさは、その行な
いによって証明されると。そして「そのすべての子どもたちが証明
します」と。クリスチャンたちが証明して行くと。私たちが悔い改
めて、自分の思いでなく、御声に従って行く時に、主の正しさが証
明されて行く。

・・・・・・・・・・・
いわれのない批判や非難に対して、主は、行ないが証明すると言わ
れた。誹謗中傷、無理解がある時には、いちいち反応せず、主を見
上げ、主の御心を行なって行けば良い。その結果、主が実を結ばせ
て下さって、結実により知恵の正しい事を、主が証明して下さる。


2020年07月03日(金)

「人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る」箴19:21



私たちの心には多くの計画があると、御言葉は言う。ああしたい〜、
こうしたい〜、あれはああなりたい、これはこうなって欲しい〜、
人は様々なプランを思い描く。人に沢山のプランはあるが、しかし
主のご計画だけが成就すると言っている。“人の目にはまっすぐに
見える道がある。その道の終わりは死の道である”とある。

しばしば主と相談してプランを練るのでなく、自分の都合が良い、
自分の好みに合った、自分がしたいプランを描く。それは自分の目
には、絶対に良い道、素晴らしい道、正しい道、に見えるのだが、
「人の目には」とあり、それは自分の思いの道だ。その終わりは死
の道とある。御霊の導きからそれているなら、自分にはどれほど良
く見えても、実を結ぶ事は無い。

又、主の御心でないとわかっていても、欲のために、自分の思いに
進む事があるだろうか。その思いが叶い、うまく行く時に、主が承
認されていると勘違いするが、そうではない。迷路に迷い込んでし
まう。軌道修正が必要だ。又、状況が私たちの思い通りにならない
時、そこに主が立ちはだかっておられ、主のみ思いがある。そこで
立ち止まって祈ろう。

そのような時こそ、人の計画でなく、主のはかりごとが用意されて
いる。状況だけを見るのでなく、主の言葉に、主のお心に目を向け
よう。主からのメッセージがあり、プランがある。“あなたのしよ
うとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるが
ない”
----------------
祈りが叶わなかったために新しい道が開けた経験がある。主が自分
だけに準備し、期待しておられるプランこそ知りたい。強い思いが
あるときほど、主によくよく思いを委ねていこう。


2020年07月02日(木)

「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください」詩編25:5



信仰人生で様々な問題に出会う。そんな時、とにかく思うのは、苦
しい状況が去って欲しい。早くこの問題が無くなって欲しい、ただ
ただその一心だ。苦しくてたまらない。そのため、状況が変わるよ
うにと祈る。対人関係の悩みなら、相手が変わるようにと。願いは、
状況が変わるように、相手が変わるようにだ。

しかし、主は、私たちを変えるために、どうしてもうまく行かない
対人関係、うまく対処できない状況、難しい環境を送られる。しか
しながら、主は見えず、目に見えるところしか見えないので、相手
が悪いとしか思えない。辛い状況を変えて欲しいばかりで、どこま
でも相手を、環境を変えて下さいとの祈りになる。

又、相手を責め、環境のせいにしていたら、自分を見なくて済む。
しかし、その祈りを幾ら祈っても、答えられない事に気づく。ある
時は余りに辛くて、自分で環境を変えるが、又、同じ事態が起きる。
職場を変えて、ほっとするが、次も、やはり嫌な人がいる。同じ問
題が起きて、もしかしてこれは主からのメッージかと気づく。

すべてが主の支配の中なら、これは相手や環境の問題ではなく、自
分自身の問題なのではと気づく。それで「教えようとされている事
を教えて下さい」「私を変えて下さい」との祈り始める。その祈り
は聞かれる。自我に気づかせられ、成長へと導かれる。

私の益のために、成長のために与えられた問題だとわかる。又、も
し御心なら状況が変えられる。主に従う時に、私たちを自由にして
行って下さる。
----------
人には全く関係のない、自分が歩むべき道を主に尋ねながら行こう。
主を恐れる者には、主がその人に選ぶべき道を教えられる、との御
約束がある。主が望まれる道を歩もう。


2020年07月01日(水)

「彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される」詩篇34:17



信仰生活で、深い悩み、難しい問題に遭遇し、大きな不安、恐れに
陥り、行き詰まってしまう状況に陥ることがある。パニックになっ
てしまい、不安は不安を呼び、心は重苦しく、落ち込むばかりだ。
そんな時にはどうすれば良いのか。まず自分で動かないことだ。
どうしても何とかしなければと、ああでもない、こうでもないと思
いは駆け巡り、必死に対処法を考える。

しかし解決策が見つからない。自分が動こうとすると、すべての重
荷はずっしり自分の肩にかかるので、重苦しくて身動きがとれない。
ますます焦り、胃は痛くなり、思い煩いでいっぱいになる。「立ち
返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれ
ば、あなたがたは力を得る」。自分が問題に当たり、方策を考え、
動き回るのでなく、まず主を見上げ、静かにし、祈ろう。

まず、主を見上げ、静まろう。問題を主のもとへ持って行こう。主
は、祈りに答えて、なすべき事を一つ一つと導いて下さる。「わた
しを呼べ」と言われる主を、まず呼ぼう。「そうすればあなたに答
え」と、御心を示し、なすべき事を導いて下さる。また時に、サタ
ンの攻撃がある。特に理由がないのに、ひどい落ち込みに襲われる。

心が鬱々として、喜びが感じられない。理由も見当たらず、戸惑う。
サタンからの攻撃だ。私たちを混乱させ、落胆させ、ひどく落ち込
ませる。時にこんな攻撃がある事も覚えていよう。同じように主の
もとに行こう。ありのまま祈り、主と交わろう。
---------------------
一人で問題ばかりを見ていると落ち着かず、動かずにはいられなく
なってくる。焦りも恐れも、そのままを祈り続けよう。耳を傾けて
くださる主を思うだけで心が落ち着いてくる。