2020年08月31日(月)

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理 から、あなたを解放したからです」ローマ8:2



「いのちの御霊の原理」「罪と死の原理」が出て来る。原理とは
「法則」の事だ。万有引力の法則が働いているので、木からリンゴ
が落ちるように、物は必ず下に落ちる。法則とは例外がないという
事だ。何万回試しても、リンゴがジャンプして木にくっつく事は無
い。一つの例外も無い。一つでも例外があれば、法則とは言わな
い。

そして私達の内側には「罪と死の原理」この法則が働いている。批
判されると怒りで報復したいし、傷つけられると復讐する。思い通
りにならないとイラ立つ、自分が欲しいものを持っている相手を妬
む、嫌いな相手を憎む、怒り、妬み、憎しみ、敵対心、貪欲、虚
栄、
こんなものが次から次へと湧き出る。

これが「罪と死の原理」だ。木からリンゴが下に落ちるように、全
く自然に働く。では、リンゴを下に落とさないためには、どうすれ
ば良いのか。手で受け止めれば地面に落ちない。「罪と死の法則」
は働いているのだが、落ちない。この手で受け止めるのが「いのち
の御霊の原理」だ。

引力の法則は働いているが、落ちない。つまり別の更に強い力が働
くからだ。法則はそのままあるが、それよりも強い別の法則によっ
て解決される。いのちの御霊が働く時、批判されても報復でなく、
祈ろうとする。物事が思い通りにならなくとも、最善をして下さる
主に委ねて平安でおれる。

困難は自分で何とかせず、主に頼り、委ねて行こうと思える。御霊
に頼って生きて行く時、この「いのちの御霊の原理」の中にいる。
罪と死の法則はあるが、それに打ち勝つ御霊によって生きて行け
る。
------------
御霊が支配する原理の中にもう移されている。不安定な自分ではな
くこの事実にしっかり立っていたい。主の十字架を通して与えられ
た新しい生き方だ。


2020年08月30日(日)

「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなっ た。シメオンもいなくなった・・ベニヤミンをも取ろうとしている」 創世記42:36


ヤコブ一族は厳しい飢饉の中、ヨセフのいるエジプトの穀物で命を
つないだ。しかし尚も飢饉はひどく、その穀物も食べ尽くしてしま
った。そこで、再度、食糧を買って来るよう子供たちに言い渡した。
しかしユダは、弟ベニヤミンが一緒でないと、来てはならないと言
われていると。ユダは、弟を一緒に行かせてくれるよう切に頼む。

でなければ、皆が餓死してしまうと。自分が必ず責任負うからと。
もう瀬戸際であり、とうとうヤコブはベニヤミンを連れて行くこと
を許した。「私も、失うときには、失うのだ」と決心した。ヤコブ
にはベニヤミンが宝であり命だった。ヤコブが溺愛していたヨセフ
は、兄弟たちの妬みを買い、隊商に売られ、エジプトへ。

兄たちは、父には獣にかみ殺されたと思わせた。幾日も泣き続け、
父の嘆き悲しみは尽きず、その愛情はベニヤミンへと向かった。神
より愛するものがあると、それは執着となり、偶像となってしまう。
ベニヤミンへは執着愛となっていた。

これらの背景と状況は、主がヤコブにベニヤミンを明け渡すよう求
められたものであり、主の取り扱いであった。ヤコブが大切に固く
握り締めていたものだった。絶体絶命の状況でヤコブは主に明け渡
す事ができた。するとベニヤミンもシメオンも、ましてや何と失っ
たと思っていた、ヨセフまでもが戻って来た。

・・・・・・・・・・
ヤコブは、失う時には、失うのだと覚悟を決めた。主が、状況を通
して、ヤコブの大切な宝であるベニヤミンを、委ねるようにと導か
れた。絶対に放したくないベニヤミンだった。しかし手放した時に、
思いも寄らない、思いを越えた、大きな祝福となって返された。


2020年08月29日(土)

「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられる からである」申命記8:7


エジプトを出たイスラエルの民は、主が約束して下さった乳と蜜の
流れる地カナンを目指した。その目指す地に入ってしまえば、信仰
は必要無いのかというと、そうではない。良い地に入って、食べて
満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れな
さい」と。主を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ
自体が目的だからだ。

ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療にも通ってい
た。どうしても欲しい、余りにも強烈な願望に、ある時、神から恵
みを奪い取ろうとまでしている自分の姿に、愕然とした。これなら
目的さえ果たされ、手に入るなら、手段は何でも良くなってしまう。
「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでも
いい事になってしまう。恐ろしい自分の姿に、涙と共に悔い改めて、
自分自身を明け渡した。

しばしば間違ってしまう。信仰を、自分が良く生きるための、又、
何かを得るための手段にすると、何もかもが的をはずしてしまう事
になる。自分の生きがいの手段、喜びを得るための手段、問題解決
の手段、それなら、自分の思い通り、期待通りでない時に必ずつま
ずいて、失望し、神から離れる事になる。

私たちをひとり子を与えて下さったほどに愛して下さった、この主
を礼拝して生きること、これが目的だ。何かを与えられようと、与
えられまいと、又、取られようと、主ご自身を信じて生きる事、主
を喜ぶ事、このために生きている。

・・・・・・・・・・・・
信じる目的を間違ってしまうと、いつか必ず失望する。順調に行っ
ている間は良いが、逆境になった途端、こんなはずではないと、つ
まずいてしまう。自分の思い描いた人生と全く異なるからだ。その
時こそ、信仰が試されている。信じる歩みへと導かれている。


2020年08月28日(金)

「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は、真理の御霊です」ヨハネ14:16


御霊は、私たちの内に住み、信仰生活を導いて下さるお方だ。落胆
した時には、慰めや励ましを与え、道に迷う時には、指針を与えて
御心へと導き、平安を与えたり、取り去ったりして、日々の歩みを
導き助けて下さる。そしてそれは「おくびょうの霊ではなく、力と
愛と慎みとの霊」だ。

御言葉が悟れるのも、御霊による。御霊が解き明かして下さるので、
主の御心がわかる。御霊によらなければ、何一つわからない。主の
御声が聞け、理解できるのも御霊による。「いのちを与えるのは御
霊です。肉は何の益ももたらしません」人間によるものは霊の理解
においては、役に立たない。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさ
せ、事を行なわせて下さる」。御霊は私たちの内に願いを起こされ
る。しかし自分の肉の思いもあるので、肉か、御霊か、よく祈って
識別する事が大切だ。特に強い願望には、自らの主観が入る事も多
いので要注意だ。その願望は、「御言葉と合致するか」「神の栄光
が現れるか」「自己中心な自分の栄光、欲望ではないか」「動機は
愛か、別のものか」

「他の人の徳を高めるか、つまづきにならないか」「不安が無く、
平安があるか」等で、試すことができる。もし不安があるなら、
その不安を主に祈り、不安が無くなるまで、祈り続けた方がよい。
御心なら、不安に解決が与えられ、心が必ず平安にされる。御霊
の導きによく目を向けていよう。力強く導いておられる。
-------------
どこまでも自己中心で弱い者が最後まで信仰の歩みを続けられるの
は、助け主なる御霊が内にいてくださるからだ。御霊の声を聞き分
けて行こう。励まされ、導かれ常に新しくされよう。


2020年08月27日(木)

「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにす る。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、 彼らがわたしのおしえに従った歩むかどうかを試みるためである」 出エジプト16:4


イスラエルの民は出エジプトを果たした後、荒野に出た。主はその
何も無い荒野で、民たちを40年間養われた。天からマナを降らせら
れたのだ。毎日その日1日分だけを集めるようにと言われた。その
日の分だけだ。6日目だけは2倍集めるようにと。7日目は安息日
で、集めることができないからだ。

しかし、ある人々は、命令を聞かず、欲張って翌日分まで取り込ん
だ。が、それは虫がわき、悪臭を放った。又、ある人々は、6日目
に2倍集めないで、安息日に取りに出た。しかし、安息日には、何
も見つからなかった。主はこの事を通して、「わたしの教えてに従
って歩むかどうかを試みられ」た。

40年の間、1日たりともマナの無い日はなく、主は荒野で、民を養
われ続けた。これは「日ごとの糧」を表わしている。主はその日の
必要を必ず与えて下さる。明日の心配はいっさい無用だ。明日、明
後日の糧を求めよとは言われない。「今日」の糧だ。明日のこと
は、
明日が心配する。今日1日の糧があれば充分だ。

明日の心配は無用だ。能天気でよいという意味ではなく、主が心配
して下さるから、心配不要なのだ。「あなたがたの思い煩いをいっ
さい神にゆだねなさい。神が・・心配してくださるからです」。
今日、糧が与えられている事を、精一杯感謝して、明日は主にいっ
さいお任せしよう。その時、主はその人を、どんな中も平安と喜び
に守って下さる。
------------
最悪な未来を想定して心配ばかりしているより、主にあって幼子の
ような素直な信仰をもって、日々主の助けと導きを求めていこう。
今日与えられている恵みと祝福を数えていこう。


2020年08月26日(水)

「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心にあるものを知るためであった」申命記8:2  

      

「主は、あなたを苦しめ、飢えさせて」と言われている。人生途上、
様々な苦しみ、悲しみに会う時に、「なぜ?」「どうして自分が?」
と戸惑う。嘆き、怒り、落ち込む。しかし偶然起きているのでなく、
不運なのでなく、主が苦しめ、飢えさせると言っている。だが、信
仰者を祝福して下さるはずではないのか、病気にならず健康で、経
済的には満たされ、受験は合格、畑は豊作、良いもので満たし、最
善のものを下さるはずではないのか。

だが、病気が奇跡的に治る人もいれば、病気のままの人々もいる。
富んでいる人もいれば、貧しい人もいる。身体的、物質的、霊的に、
あなたが飢え、苦しむ時は幸いだと言われる。なぜなら、その時こ
そ、主を知り、天からのマナを食する恵みにあずかるからだ。対人
関係、経済的、環境的に「安定」している時、人は神を求めない。
自分の力で、十分生きて行けるからだ。必要が無い。

その「安定」が崩され、根底から揺らぐ時に、初めて人は目に見え
ないものに目を向け、見えないものを求め始める。ある夫婦が、生
まれた子供に重度障がいがある事が判明した時、絶望の淵に突き落
とされた。しかしその深い苦悩ゆえ、見えないものに目を向けるよ
うになった。

結果的に神に出会う事ができ、感謝で感謝でならないと。もしこの
苦しみが無かったなら、神に目を向ける事など有り得なかったと。
試練の時こそ神に出会い、神を真に知る時だ。御言葉が、いのちそ
のものである事を、身をもって知る。
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あの苦しい時期がなければどうなっていただろう。良い時だけでは
なく、辛く苦しい時も、この方だけが神であると確信して歩む日々
が与えられた。あの特別の出会いこそ真に奇跡だった。


2020年08月25日(火)

「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています」使徒27:25



パウロはローマに行き、証しする事を、主より示されていた。しか
し、第3次伝道旅行の後、エルサレムに寄った時、人々に殺害され
そうになり、引き裂かれるのではと思うほどの大騒動になった。捕
らえられてしまい、ローマに行く事は全く不可能に見えた。しかし
監禁により、返って暗殺者から守られる事になった。

そして、実の無い裁判に見えたが、それは総督のペリクスやフェス
トに証しをする機会となった。又、丁度アグリッパ王がフェストに
会いに来たため、王にも福音を語る機会が与えられた。パウロは更
にローマ皇帝に上訴したため、これがローマへの道を開き、パウロ
の思いとは異なり、囚人としてであったが、ローマに向かう事にな
った。

ところがその船が幾日も大嵐に会い、吹き流されたままになり、太
陽も星も見えない日が続き、最後の望みも絶たれようとしていた。
しかし、パウロは必ずカイザルの前に立つとの、神の言葉を堅く信
じていた。船は座礁したが、結果的に、その通りに全員が岸に辿り
つき奇跡的に助かった。「こうして、私たちはローマに到着した」。

パウロは無事ローマに着き、福音を伝える事になった。何があって
も、どんな障害があっても、主は必ず御言葉を成し就げられる。主
が語られた言葉は100%成就する。あなたは今、途上の苦しい中に
いるだろうか。「こうして、ローマに到着した」。必ず、あなたに
約束された御心は成就する。信じて待ち望んでいよう。
------------
主に従っていても恐れや不安に遭遇すると、誰よりも落ち込んでし
まうだろうか。主に祈っていよう。主の御約束に立ち返れる。そし
てパウロのように、嵐の中で周囲を励ますことが出来る。



2020年08月24日(月)

「『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください』イエスは、『来なさい』と言われた」マタイ14:28


ペテロは、湖上で、主の「来なさい」との言葉を受けて、湖の上を
歩き出した。「来なさい」の言葉に従い、行動すると、水の上を歩
くという驚くべき奇跡がなされた。ところが風がヒューと吹いて、
風と波を見て、主から目を離した途端、恐れで、ブクブクと沈み始
めた。全く同じ状況の中で、見つめる対象が違っただけで、歩けた
り、沈んだりした。

私たちも普段の信仰生活で、具体的に経験する事だ。主イエスを見
て、御言葉にとどまっている時、御言葉が心にしっかりある時は、
どんな苦しい状況の中でも、信仰があり、主の平安があるので、歩
んで行ける。しかし、主から、御言葉から目を離した途端、真っ暗
な状況に、辛い状況に飲み込まれてしまい、信仰が機能しない。

不安と思い煩いと落胆の大波にさらわれ、ブクブク沈んでしまう。
主イエスか、波風か、どちらを見ているかで喜びと平安で歩けたり、
心が真っ暗になり沈んだりする。毎日の生活の中でこの明暗が起き
ている。真っ暗な状況を見ているだけでは、信仰は起こらない。ま
すます落ち込むばかりだ。

御言葉を握り、主を見上げる時、信仰が湧いて来る。霊の喜びが来
る。主が信仰の創始者であるので、主を見つめる時、信仰が来る。自
分 で頑張って、信じよう、信じようとするのでなく、語って下さっ
た御言葉、約束の御言葉にとどまる時、主によって信仰が与えられる。
------------
主を見つめている目は、すぐに目に見える出来事に捕らわれてしまう。
目に見えるものにしがみつきそうになる時は、すぐに主を呼ぼう。
御言葉を握って、ひとつひとつ波風を越えていこう。


2020年08月23日(日)

「わたしも、一言あなたに尋ねましょう。もし、あなたがたが答え るなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているかを 話しましょう」マタイ21:24


主が、宮で教えておられた時に、祭司長、長老、律法学者達が「何
の権威によるのか」と詰め寄って来た。越権行為ではないのかと。
特権階級だった彼らは、主に脅威を感じていた。その前に、宮きよ
めをされていて、宮で売り買いする人達を追い出し、両替人の台や
鳩売りの腰掛けをひっくり返された。

彼らは、自分達こそが、教える権威と資格がある者と思っていたの
で、誰がそのような権威を授けたのかと。主はその質問には答えら
れず、逆に問われた「ヨハネのバプテスマは天から来たのか、それ
とも人から出たのか」と。彼らは互いに論じた。もし「天から」と
言えば、主イエスはそのヨハネが神から遣わされたと証ししている
のに、なぜ信じないのか、又、そのヨハネが指し示している主をな
ぜ信じないのかということになる。

又、もし「人から」と言えば、群衆はヨハネを神から遣わされた預
言者だと認めているので、群衆の目が恐い。それは、どちらもまず
いので、それで彼らは「わかりません」に逃げた。わからないので
はなく、天からのバプテスマのヨハネを、決して認めたくなかった
からだった。彼らのプライド、保身だろうか。

彼らが答えないので、主も答えられない。黙された。主に向き合い、
そして正直に自分にも向き合い、ありのままを答えるなら、主は必
ず答えて導いて下さったであろう。主に向き、心を開き、自らの罪
も、プライドも、保身も、欲も、主にありのまま告げるなら、真理
へと、真実をもって導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
主は私たちがどんな状態であれ、愛していて下さる。本当の私を愛
して下さっているので、偽った私は、私ではないので、主もどうも
お出来にならない。主に向いて、認めたくないならそのように、あ
りのままの気持ちを、状態を、祈ろう。その時、次の展開へと導か
れる。


2020年08月22日(土)

「全長老がヘブロンの王のもとに来た時、ダビデ王は、ヘブロンで 主の前に、彼らと契約を結び、彼らはダビデに油を注いでイスラエ ルの王とした」Uサムエル5:3


サウル王の死後、サウル家とダビデ家は戦っていた。が、サウル家
の将軍アブネルが殺され、王となっていたイシュ・ボシェテも殺さ
れた時に、サウル家には王も将軍もいなくなってしまった。その後、
イスラエルの全部族がダビデのもとに来て、「私たちはあなたの骨
肉です」と言い、「サウルが私たちの王であった時でさえ、イスラ
エルを動かしていたのは、あなたでした」と。

皆は、サウルから御霊が去り、ダビデが主から選ばれたことを認め
ていた。そしてダビデは彼らと契約を結び、ダビデは油注がれ、イ
スラエルの王とされた。30歳であった。ダビデはどれほどサウルか
ら攻撃を受けても、自ら手を下す事は絶対にしなかった。主を畏れ、
自らの命も主に委ねていたからだった。

時満ちた時に、主ご自身が、そのダビデを王に立てられた。人によ
るのではない。「高く上げることは、東からでもなく、西からでも
なく、荒野からでもない。それは、神が、さばく方であり、これを
低くし、かれを高く上げられるからだ」。

イスラエルが一つになった時、敵ペリシテが攻めて来た。その時ダ
ビデは自分で動かず、「主に伺った」とある。攻めるべきか否かと。
攻め上れと言われ、従い、勝利した。すると再度ペリシテは攻めて
来た。前回上ったから同様にでなく、ダビデは今回も主に御心を求
めた。そして御声に従い、勝利を得た。ダビデのごとく、問題の時
には、主のお心を求め、従うことが豊かな祝福の道だ。

・・・・・・・・・・・
ダビデは、主君であるサウルの攻撃に、反撃せず、ひたすら主に委
ねて行った。主が守られた。自分で自分を守るのでなく、主に守っ
て頂ける。問題に主を仰いで行く時に、同じく主は守って下さる。
主と交わり、主を更に知れる歩みは何と幸せだろう。


2020年08月21日(金)

「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいた からである。リベカはヤコブを愛していた」創世記25:28



聖書には様々な失敗も隠すことなく記されている。イサクはエサウ
を偏愛し、リベカはヤコブを溺愛していた。つまり父親は弟息子よ
りも兄息子をひいきし、母親は兄息子よりも弟息子をひいきした。
その狭間で、エサウとヤコブの兄弟は信頼関係が築けなかった。
ヤコブは兄エサウを煮物でうまくだまして、長子の権を奪い取る事
に成功した。

そして尚も、母リベカの画策により、毛深いエサウを装うために、
子やぎの毛皮を腕にかぶせ、父をだまして祝福を横取りした。大声
で泣き叫び、激怒したエサウが弟を殺そうとしたので、ヤコブは家
におれなくなってしまった。遠く伯父のもとへ逃亡する事になる。
家庭崩壊だ。そして今度はヤコブが父親になった時、他の兄たちを
差し置き、ヨセフを偏愛した。親と同じ事をしてしまう。

それは当然、兄たちの妬みを買い、憎悪を向けられる事になる。そ
れはヨセフ殺害へと思いは高じて行く。結局ヨセフは兄たちに、隊
商に奴隷として売られてしまい、家族から離れてエジプトへ。一人
異国の地で、どんなに辛く不安であったろう。

「これらのことが起こったのは、戒めのためであり、それが書かれ
たのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため」とあ
る。信仰の偉人たちの失敗は教訓とするようにと。又、自分自身の
過去の失敗も今後の歩みのために、失敗から学ぶようにと。そして
それらは大いなる御手の中で、万事が益とされる。
--------
聖書を通して主が語りかけておられる失敗や罪深さはそのままの自
分だ。信仰を持っていても繰り返し失敗してしまう。倒れないよう
に日々主に繋がり学び続けよう。


2020年08月20日(木)

「彼は言った。『主よ、私は信じます』そして彼はイエスを拝した」 ヨハネ9:38


主は、道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。すると泥を盲人
の目に塗り、シロアムの池で洗うようにと言われた。盲人がその通
りにすると、見えるようになった。旧約聖書によると、盲人の目が
開かれる事は、メシア到来のしるしだった。「・・そのとき、盲人
の目は開かれ・・」、それゆえ、この盲人が見えるようになった事
は、まさに預言の成就であって、心開かれていたなら、主イエスこ
そが救い主だとわかるはずだ。

しかしこの時、あるパリサイ人たちは、主が、安息日を破ったと非
難した。根が悪意であり、その目で人を、物事を見るなら、すべて
が攻撃材料となる。邪悪な心だ。正当な非難だと言うが、実は根に
ある敵対心のゆえだ。盲人に問いただすのだが、彼の言葉にも全く
聞く耳を持たない。盲人は自分の身に起きた事を、素直に率直に話
しているにかかわらず、はなから否定してかかる。

私たちもどうだろう。自分は正しいとの位置に立つ時、このような
状態に陥ってしまう。彼は、一つの事だけがわかると、的確にはっ
きりと言った。「盲目であったのに、今は見える」と。どうにも、
誰にも否定のしようのない事実だ。そして物理的にだけでなく、霊
の目が開かれ、神がわかるのだ。パリサイ人は自分の思い、自分の
目で見た。

「私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ」と。最初か
らこうだと決めてかかり、そういう態度である以上、どんなみわざ
を見ても信じる事ができない。自らの思いを退けて、素直に主に向
き合うなら、「主よ、私は信じます」に必ず導かれる。
----------
もう知っているとの思いはどこまでも自分の側の思い込みだと知っ
ていたい。迷いやすい者をいつも主は心にかけて教えてくださる。
この主を見ていよう。


2020年08月19日(水)

「・・そのようなものは、論議を引き起こすだけで、信仰による 神の救いのご計画の実現をもたらすものではありません」 Tテモテ1:4




ある時、若いクリスチャンたちの交わりで、他愛ない事で議論にな
った。どうでも良いような事なのに、ああだ、こうだと、それぞれ
が強く主張し合い、その内に険悪な空気になってしまった。帰宅し
ても、何だか心がザラついて、嫌な気持ちで平安がない。どうでも
良いような事であったのに、どうしてこうなったのか。主に祈っ
た。

そして御言葉に向かっていると「果てしのない空想話と系図とに心
を奪われたりしないように・・そのようなものは、論議を引き起こ
すだけで、信仰による神の救いのご計画の実現をもたらすものでは
ない」とピッタリだった。議論になると平安が失せる。それは信仰
の名のもとに、神から離れて、実は自分の正しさを主張し始めるか
らだ。

自分の主張の方が正しいと、負けなくないとの思いになり、相手を
打ち負かしたくなる。何が目的なのかがわからなくなってしまう。
「自分の言っていることも、強く主張していることについても理解
していません」の通りだ。ここから徒党や分裂が生じる。「きよい
心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としてい
ます」。

私たちは「愛」が目標だ。愛から離れてしまい、「この目当てを見
失い、わき道にそれて無益な議論に走」りがちだ。向上のための建
設的意見交換は必要で、良い事だ。動機が、肉から出る自己主張の
ためか、それとも愛であるのか、このところに目を向けていよう。
----------
いつでも自分は正しいと主張して退かない人に、誰も近づきたくは
ない。議論の先に主の証しと平安があるかを見極めて、よく祈って
無益な議論から自分自身を守ろう。


2020年08月18日(火)

「・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあず からせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10


試練は嬉しいものではない。悲しく、痛いし、苦しい。対人関係で
の様々な悩み、経済的苦境に陥るし、病気になり、けがもする。
辛さゆえに、「なぜ自分が?」と思う事だろう。でも、いつも言わ
れるように「問題が問題なのでなく、問題に対する私達の態度が問
題」だ。試練に対する態度が問題であり、大切な事だ。

一つはネガティブにに取る。「なぜ、自分ばかりが」「他の人々は
幸せそうなのに」、反抗的になり、心を鬱屈させて、自分の殻にこ
もる。ますます心が頑なになってしまう。次に、諦めの態度になる
事がある。主に向いて祈り、求めるのでなく、感情も押し殺し、ひ
たすらうずくまるばかりだ。これらから言える事は、そこに何の実
もない。ますます落ち込んでしまう。

別の対応がある。試練を真正面から受け止める道だ。主がおられる
のだから、偶然は一つもない。たまたまという事も無い。世なら不
運かも知れないが、私たちに不運は無い。そして、主に無駄は無
い、
一つも無い。何らかの目的があり意図がある。「あなたがたのため
に立てている計画を知っている」、ご計画であり、「すべてのこと
はあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に
及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるため」。

一段階成長して行ける。試練はその時は喜ばしいものでなく、かえ
って悲しいが、後に実を結ぶ。主の訓練を軽んじず、又、逆に弱り
果てず、受け止めて行けるよう祈ろう。単に幸せだけでなく、ご自
分の聖さにあずからせて下さるのだから。
------------
受け入れがたい問題が起こると、なぜ、どうしてと納得できる理由
を捜そうとするが、わが子よ、とこれは御父からのものだと呼びか
けておられる。背後の主を信じ、受け止めていこう。


2020年08月17日(月)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛して いる」イザヤ43:4



ある人が第一線で先頭に立って、バリバリ仕事をし、どんどん結果
を出していた。ところがある時、仕事上の困難な問題にぶち当た
り、
行き詰まってしまい、仕事で失敗してしまった。過労で体調を崩
し、
入院の事態になり、止むなく退かねばならなくなった。その時にひ
どく落ち込んだ。

仕事が出来ていた時は、自分が価値のある人間と思えていたが、何
も出来なくなった時、自分の価値を認められなくなったのだ。非常
な苦痛であり、受け入れ難い事であった。様々な弁解や言い訳で、
自分を取り繕おうとするが、無駄だった。仕事上の失敗を受け入れ
られず、人のせいにしようとしている自分、人を赦せない思いに苦
しんだ。

平安の無い悶々の日々の中、心を決めて主の御前に出た。いっさい
を打ち明け、思いも感情も吐き出し、心注ぎ出し祈った。その時、
十字架が迫った。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をして
いるのか自分でわからないのです」この主の祈りが、自分のためで
ある事がわかった。主の赦しの愛を全身に受け取った。

自分が成果主義であるから、自分自身も成果が無いと認められない
こと、そして人をもそういう目で見ていることに気づかされた。成
果で人を判断している。主の赦しを受け取った時に、あれほど悶々
であった心が平安にされた。何かをしたから、結果を出しているか
ら価値があるのでなく、何が出来ずとも、このままの存在を受け入
れ、愛して下さる主の愛に癒された。
----------
自分を見る目も心の内の声もきびしく一番愛せていないのが自分自
身ではないだろうか。「わたしはあなたを愛してる。」主の御言葉
を素直にかみしめよう。


2020年08月16日(日)

「イエスはこれを見て、言われた。『行きなさい。そして自分の祭 司に見せなさい』彼らは行く途中でいやされた」ルカ17:14 


10人のらい病人の箇所だが、当時、らい病は汚れた病気と隔離され
ていた。神殿にも入れなかった。人々に近寄る事は許されず、「私
は汚れた者です」と自分で言わなくてはならなかった。苦しい病の
上に、社会生活は閉ざされ、身体的苦しみと共に、更に精神的な辛
さ苦痛があった。

主のもとへ来たのは切実な、必死な思いであったろう。大声で「ど
うぞ、あわれんで下さい」と叫んだ。主はその求めに、あわれんで、
彼ら10人を癒された。そして癒された後、10人の内、1人だけ主の
もとへ戻って来た。しかもユダヤ人が敵視しているサマリヤ人だっ
た。あとの9人は帰って来なかった。

病気がきれいに治り、社会復帰できて、自由に普通に社会生活が送
れる。生けるしかばねのようであった彼らにとれば、何と夢のよう
な喜びだろう。9人は、何とラッキー、万々歳、良かったと、大喜
びで世の中へ帰ってしまった。彼らにとっては飛び切りのラッキー
であり、偶然の事であった。そこに神は無かった。

感謝するために戻った1人は、神への感謝と賛美が溢れ出た。その
癒しに神を認め、その神を崇めたのだ。彼だけに、新しい信仰の人
生が始まった。「あなたの信仰が、あなたを直したのです」、彼は
神の愛に出会い、神の愛の中を生きて行く人生が始まった。

何が肝心なのだろう。病気が治る事だろうか。病気が治ると嬉しい
が、また別の病気にもなる。そして必ずいつか死ぬ。「世の終わり
までいつもあなたと共にいる」その人生へと招いて下さっている。
苦しみ時も喜びの時も、いつも主と共に生きて行けるとは、何と喜
びであり恵みだろう。

・・・・・・・・・・・・
同じものを見て、神無しなら、単に偶然で、ラッキーだ。神を認め
る事は無い。しかしそこに神を認めて、感謝できることは何という
幸せだろう。どんな小さな事の中にも、神を見て、感謝が溢れる。
主を見る事のできる目を与えられている事が最大の幸せだ。


2020年08月15日(土)

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させ るものです」ヘブル11:1


ある人が、極めて厳しい経済状態にあった。多額の必要の上に請求
書があり、祈りに祈るが、支払い日はどんどん迫って来る。しかし、
与えられない。尚も、祈り続けるが、与えられる気配はなく、恐れ
と不安が募る。いよいよもって与えられず、不安で一杯になり、
悶々のタイムリミットギリギリの時に、知り合いから電話が入った。

祈りの中で、主から示されたので、献げものを振り込んだとの連絡
だった。その額が、何と必要額ほんの少し多い目で、満たされたの
だ。もう大喜びで飛び上がり、嬉しくて嬉しくて、全身が喜びに満
たされた。

その時、ふっと御霊の語りかけが来た。目に見える人間が、振り込
んだと言えば、現金を見たわけではないのに、安堵し大喜びしてい
る。だが、ずっと主から「私の神は、キリスト・イエスにあるご自
身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださ
います」「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要で
あることを知っておられます」「あすの心配は無用です」「何も思
い煩わないで・・」と語られていた言葉はどうなのかと。

人の言葉は信じることができても、主の言葉を信じることができな
い、不信仰を示された。信じることができないので、思い煩い、不
安、恐れに襲われ、支配されてしまっていた。不信仰を悔い改めて、
御言葉に立てるよう、信仰に歩めるように祈った。主の取り扱いに
心から感謝した。

・・・・・・・・・・・
この通りの弱さがある気がする。目に見えるものは、大きな力があ
り、影響力がある。目には見えないもう一つの現実を、しっかり霊
の目で見て行けるよう、祈っていよう。いつも不信仰を主に告げて、
御言葉の方を選び取って行けるよう、御霊の助けを求めていよう。


2020年08月14日(金)

「私には、水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいま せん。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです」 ヨハネ5:7


もし人が病気になっても、それが普通で正常な状態だと思っている
なら、病気が治ることはない。病気が治るためには、自分が病気だ
と認識しなければならない。私達も癒されるためには、自分は病気
であり、この状態はまともではないと認識することが重要だ。

自分の内側の自己中心には目を向ける事なく、相手の欠点ばかり責
めているなら、いつまでたっても、その状態は改善されず、同じ事
の繰り返しのままだ。成長ができない。私たちはどうだろう。相手
の欠点ではなく、状況の問題ではなく「自分の問題」だと気づき、
認めて行く時、大きく変えられて行く。

この人は、今の状態の原因を「池の中に自分を入れてくれる介助人
がいないから」と、人が助けてくれないからだと。助っ人がいな
い、
だから自分はずっとこんなふうで、良くならないと。人に依存して
しまっていた。人依存だと無気力になる。うまく行かないのは人の
せい。その人依存こそが問題だ。主は「起きて」と言われた、床を
取り上げよと。そして自分の足で歩けと。

問題は、人に、病気に、依存している「自分に」あると気づき、認
める時、主のみわざはすでに始まっている。自分の床って何だろ
う。
自己憐憫、諦め、不満、不信仰、神以外のものに頼る心・・その床
を取り上げて、主に向き、心底頼る事を始めよう。自立とは、神だ
けに頼ることだ。
----------
ああしてくれない、こうしてくれないと不満が出るとき、神と一緒
に他の者にも頼っていることに気づきたい。自分の弱さをしっかり
と認めて神に向き頼ろう。神が変えてくださる。


2020年08月13日(木)

「サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きている ときにも、死ぬときにも離れることなく、わしよりも速く、雄獅子 よりも強かった」Uサムエル1:23

人を赦せない経験をした事があるだろうか。傷つけられた相手に、
怒りと憎しみで、四六時中がんじがらめだ。赦せない相手がいるな
ら、どんなに楽しい時も、ふと心に影を落とす。放免される事がな
い。心がずっと囚われ、牢獄の中だ。

しかしダビデはどうだったのだろう。サウル王に殺意を抱かれ絶え
ず付け回された。サウルに対して、何も悪い事をしていない。むし
ろ良い部下で、忠実に仕えているのに、ずっと標的にされた。本気
で殺害のために狙われ、2度も槍を投げつけられ、突き刺されそう
になった。

一国の王であり、いつでも軍隊を招集できる相手だ。野山を逃げ回
り、常に死と隣り合わせで、不安と恐怖はどれほどだったろう。サ
ウルを討つ好機があったにかかわらず、神に選ばれ、油注がれた王
に手を下す事などできないと、しなかった。

妬みゆえに、命を狙われるという理不尽な攻撃に会ったが、神がサ
ウルに油を注ぎ、王としてを選ばれた、そこに立った。ダビデの信
仰だ。そこに堅く立って動かなかった。サウルについては、主が判
断され、裁かれるなら主のなさる事だと。

ダビデは信仰に立っていた。サウルの死を悼んでいる。どうしてそ
んな心持ちでおれたのか。ダビデは、主に自分自身も何もかも委ね
きっていた。すべての信頼を主に寄せていた。

恐怖、嘆き、怒り、苦しみ、悲しみ、あらゆる思い、感情を主に持
って行った。主と交わり、受け止めて頂いたので、心がガードされ
た。ここが秘訣だ。ダビデにならい、主に引き受けて頂こう。どん
な中であろうと、心が守られる。

・・・・・・・・・・・
ダビデは主を畏れていた。それゆえ油注がれた方に手は出せないと
言った。ダビデのようい、傷ついた心も、怒りも恨みも、主のもと
に持って行こう。ことごとく聞いて頂こう。明け渡せるよう祈ろう。
その時、苦しみから守られる。


2020年08月12日(水)

「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、 神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一 新によって自分を変えなさい」ローマ12:2



主を求めているつもりだが、出会っている実感が無い。祈っている
が聞かれている気がしない、壁に向かっているように感じるという
人々がいる。求めているのに「なぜ?」と。求める者には答えて下
さるお方ではないのか。求めているが、神がよくわからないという
時、「自分に都合の良い神」を求めている事がある。

自分の思いが強く、自分にとって心地良い神を求めている。自分の
イメージ通りの、自分の思い通りの神を求めていて、そんな神は存
在しないので、まことの神とは違うので、かけ離れているので幾ら
求めてもわからない。神がわからないという時、的がずれていない
か。実は、まことの神ではなくて、自分に都合の良い偶像を求めて
いたりする。

又、一方的に自分の願いを聞いて欲しいばかりだろうか。願いを叶
えて欲しいし、助けて欲しい。そのためだけの神なら、神社で、さ
い銭を投げ入れ、かしわ手を打ち、ただこちらの願いのみを告げる
のと同じになってしまう。

そこに、主の側のお心はどうなのか、主の喜ばれること、御心を行
なって行こうとの思い、又、主を知りたい、主のお心を知りたいと
の思いが欠落している。それなら御利益宗教になってしまう。神の
御心は何か、何が良いことで、神に受け入れられるのか、そこに焦
点を当てて行く時に、主を新しく〃知って行ける。

そして御心に従って行く時に初めて、自分が変えられて行くことを
実感する。あれほど変わらなかった自分が変えられて行く。

・・・・・・・・・・
どうしても自分中心に発想し、考えてしまうので、主がわからない
し、御心がわからない。見えない。発想を転換し、自分でなく、主
はどう思われ、どうされようとし、何を喜ばれるのかの視点に立っ
て、祈る時に景色が変わって来る。主語を「主」に変えよう。


2020年08月11日(火)

「彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った『あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって・・なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか』」民数記16:3



コラの反乱だ。コラとその共謀者達が、250人のイスラエルの人々と
共に、モーセとアロンの権威に反抗した。「なぜ集会の上に立つのか、
分を越えている」と。モーセはこれを聞いて、どうしたのか。モーセ
は民に対応せず、まず主のもとへ行き、主の御前にひれ伏し祈った。
そして結果的に、主ご自身がこの反逆に決着をつけられた。

地面が割れ、反逆する人々は飲み込まれた。主がさばきを下された。
その後、主は明白なしるしを与えられた。12部族にそれぞれ、1本
づつ杖を持たせ、神が選ぶ者の杖は芽を出すというものだった。す
るとアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、アーモンドの実を結ん
だ。主ご自身が民の不平を静められた。

私達もそれぞれに割り当てられた、分をわきまえる事は大切だ。主
が、今の場で、一人一人に与えられた分がある。それぞれの立場や
役割は主からのものだ。分を越えていたのは、コラや共謀した人々
の方であった。今いる場所で、立場、役割において他の人々への羨
望はないだろうか。自己憐憫はないだろうか。他の立場や役割への
不満や妬みは、恐ろしいそむきの罪へと増長して行く。

妬みから陰険で邪悪な行ないが生まれる。あなたを今の場に置かれ
たのは、主だ。「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」
のが悪魔だ。分をわきまえ、今の立場と役割を主からのもとと受け
入れよう。そして感謝しよう。主はその所で大いに祝福して、あな
たを用いられる。
----------
人に目が向いてしまう時、不満がある時は主に告げよう。主に励ま
され、今この立場は主から来ていると感謝して受け止めよう。既に
手にしている多くの恵みに気づける。自分自身を豊に生きていこう。


2020年08月10日(月)

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27



「主の平安」「わたしの平安」は「世が与えるものとは違います」
とある。この世の平安ではないと。世の平安とは、環境、状況が平
穏無事であることだ。災いが無いことであり、「無病息災」「家内
安全」「交通安全」「商売繁盛」だ。そしてこれらを得るための信
心だ。それで災いに会うなら、信心している意味が無い。

しかし、主の与えて下さる平安は、違う。どのような環境の中であ
ろうと、主ご自身から来る平安なので、環境に関係が無い。それは
揺るがない平安だ。行き詰まった歩みの中で、絶体絶命の状況の中
で、何もどうにも出来ない中で、自分自身を明け渡して、主に委ね
る時に、状況は何も変わらないのに、に不思議な平安を経験する。

厳しい大変な状況の中で、心が落ち着いて、平安になってしまう。
外部からの何ものにもよらない、主からの平安だ。そして祈りの中
で、事態が展開して行くのを見る。又、信仰生活の中で、主の御心
を求める時、主の判断を求める時に、「心の平安」は一つの基準に
なる。「御言葉」と「環境」と「祈りによる心の平安」だ。

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、
温順であり、またあわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、
見せかけのないものです」とあり、主からの知恵、み思いは、平和
(平安)が心に来る。平安の有り、無しによって歩みが導かれる。
進路に、歩みに平安が無ければ、前に進まず、そこでとどまり、ま
ずよく祈った方がよい。それが御心の道ならば不安に答えを与え、
平安を与えて下さる。
-------------
心に苦いざわつきがある時、何かが違うと教えられる。それは本物
の上からの知恵ではないからだ。どんなに暗い中も一人ではない。
御霊は教え励まし導いてくださる。


2020年08月09日(日)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、 押し流されないようにしなければなりません」ヘブル2:1


信仰生活で、漂流するのように、少しづつ少しづつ流されて行く
事に、よく気をつけよう。流されている事に気づけると、仕切り直
しが出来るのだが、気づけないまま少しづつ、世に流されて離れて
行ってしまう。日曜に礼拝に行って、ぬるま湯の中の1週間だった
と気づく。熱くもなく冷たくもなく、なまぬるい。主を求めないま
ま、過ぎてしまった。

特に試練が無いなら、主に頼らずとも、自分で生きて行けてしまう
ので、主との交わりもないまま流されてしまう。又、「ちょっとぐ
らい」は誘惑だ。主に従おうとは思っているが、「ちょっとぐらい、
このくらいは、自分の好きにしてもいいのでは?」どうしても〜し
たいという強い欲がある時に、「ちょっとぐらい〜」とサタンの誘
惑が来る。

そして乗ってしまい、御心からそれて行く。又、時にあるだろうか。
祈らずに、事を行ってしまって、手痛い失敗をしてしまう。後に刈
り取る事になる。ある日突然、離れるのでなく、少しづつ少しづつ、
知らず知らずの内に流されて、気がつくと、世にまみれて霊的食欲
も失せてしまっている。

そうならないためには、「聞いたことを、しっかり心に留め」るよ
うにと。「心に留める」は「錨を下ろす」との意味があり、船がし
っかり錨を下ろさないなら、波に流されてしまう。主に祈り、御言
葉に聞き、主と交わる生活、信仰の人々と交わり、励まし合う歩み、
今一度、確認しよう。漂流は気づかない内に起きている。

・・・・・・・・・・・・
流されている事に気づける事が感謝だ。気づけなければ、流されて
しまう。御霊は絶えずサインを与えていて下さる。今、霊的食欲は
どうだろう。以前より減退しているなら要注意だ。主のもとに行く
時、御霊を通して、御言葉を通して、霊的食欲が戻される。


2020年08月08日(土)

「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒が ありません』と言った」ヨハネ2:3


当時の結婚式で、ぶどう酒は重要で、それが切れるのは大失態だっ
た。だが、私たちの人生でも、ある時ぶどう酒が無くなる。自らの
失敗、又、病気、倒産、リストラ、離別、経済的問題・・突如の苦境
で、喜びのぶどう酒が切れしまう。その時に自分で何とかしようと
必死にあがき、もがく。まさに自力で、水からぶどう酒を作り出そ
うとする。

悪戦苦闘し、しかしぶどう酒など作れず、行き詰まり疲れ果てる。
そんな時に、私達のする事は、自分でぶどう酒を作り出すことでは
なく、「ぶどう酒がありません」と主に向かう事だ。そして言われ
る通りに従うと、目の前にぶどう酒が一方的に与えられた。

ある人は、子供の不登校で悩みに悩んだ。叱ったり、なだめたり、
押したり引いたり、何とか登校させようと必死だった。学校や保護
者たちとも連携を取り、自分に出来る事はし尽くした。しかし幾ら
動いても、時を経ても、全く何一つ変わらず、事態は微動だにしな
かった。

もう出来る事は何もなく、何のすべも無かった。心身共に疲れ果て
た。どん底で、主を仰ぎ、主のもとに行った。まさに「ぶどう酒が
ありません」状態だ。何も無い。ハンナのごとく心を吐き出し、注
ぎ出して、嘆きも憂いも苦しみも、何もかもをことごとく告げて祈
った。主と交わっている時に、初めて、自分の内側に気づきが与え
られた。

人からどう見られているか、人の手前ばかりを気にしている事、自
分がこの状況を受け入れられないでいる事を。御前に悔い改めて、
いっさいをお委ねする事ができた。状況は変わらないのに、初めて
平安と安堵が心に満ちた。人が気にならなくなった。そしてその後、
問題は解決した。

・・・・・・・・・・・
祈ってはいるつもりなのだが、実は、自力で何とかしようと、悪戦
苦闘してしまう。心は重く苦しく、重荷がずっしり肩にかかる。無
力を認めて「ありません」と主のもとに行く時に、主が最高のぶど
う酒を備えて下さっている。


2020年08月07日(金)

「民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデ を石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の 神、主によって奮い立った」Tサムエル30:6




前回は、ダビデが祈らずに「心の中で言った」、自分の思いで動い
た結果、失敗してしまった。その後、ダビデたちが留守宅に戻る
と、
アマレクに襲撃され、火で焼き払われ、女、子供は皆、連れ去られ
ていた。ダビデも妻たちや財産も奪われ、何もかもを失った。皆は
大号泣し、泣き明かした。

民は、この悶々、不満をダビデにぶつけた。だがダビデは、この窮
地により、主に立ち返る事ができた。前は、自分の考え、肉の思い
に従ったが、今は「主によって奮い立った」。そして「主に伺って
言った」。どうすべきかを主に問うた。略奪隊を追うべきか、追い
つけるのかと。

すると主は「追え。追いつける。救い出せる」と答えられた。600
人と共に追いかけたが、200人は疲れてしまい、400人で追跡した。
すると途上でアマレクの捕虜で、エジプト人の逃亡奴隷に出会った
。主の関与で主の働きだ。彼を助けたところ、アマレクのもとに案
内してくれた。アマレクは、溢れる略奪物で、飲み食いし騒いでい
た。

ダビデたちは24時間、彼らを打ち、妻子も略奪物も全部取り戻し
た。
何一つ失わなかった。主に頼り、従った結果だった。戻った時、よ
こしまな者たちが、戦っていない者には分けてやれないと。ダビデ
は、主が賜った物で主の恵みだからと言い、同じように分けた。周
囲の町々にまで贈った。

独り占めにせず分け与える事が大きな祝福だ。突如の事態に際し
「心の中で言った」と「主によって奮い立った」では天地の差が生
じる。自分の思いで動かず、まず主に向き、祈ろう。
--------
悔い改めて主に立ち返るとき、主は即座に導きを与えてくださる。
なんと主のあわれみは尽きないのだろう。自分ではなく主に栄光を
帰すとき、周囲にも祝福が及ぶ。


2020年08月06日(木)

「ダビデは心の中で言った「私はいつか、いまに、サウルの手によ って滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道は ない」Tサムエル27:1


いつも主を仰いで、主の導きを求めていたダビデだが、ここでは
「心の中で言った」とある。主への語りかけでなく、自分自身に語
った。つまり祈らずに、自分の思いで行動してしまった。ずっとサ
ウルにつけ狙われ、常に死と隣り合わせの日々は、どんなにストレ
スで、緊張状態だったろう。

敵であるペリシテの地に入れば、サウルも諦めるだろうと思ったの
だった。私たちも様々な思いは絶えず巡りに巡る。しかしその肉の
思いに従うと失敗してしまう。ダビデは、自らを救うために、部下
と家族と共にペリシテの地に入った。周囲も巻き込んでしまう事に
なる。

サウルはダビデが強敵ペリシテの地に入ったと知ると二度と追わな
かった。しかし、肉の判断と行動は、御心からそれて、苦しい刈り
取りとなる。アキシュのもとで、部下と共にゲシュル人、ゲゼル
人、
アマレク人を襲った。だがアキシュには、ユダのネゲブ、エラフメ
ル人のネゲブと同胞イスラエルを襲っていると嘘をついた。

そしてその嘘がばれないよう、一人でも告げる者がないよう男も女
も皆殺しにした。そんな時ペリシテは、イスラエルと戦うために軍
隊を招集した。ダビデはアキシュから共に出陣するよう求められ
た。
何と同胞と戦うはめになってしまった。

大変な窮地に陥ったが、首長たちから、ダビデが裏切るかも知れず
と、同行阻止にとの横やりが入った。主が介入され、ダビデは主に
より同胞と戦う事から守られた。祈らずに、自分の思いに誘惑され
て動くと失敗し、罪を重ねてしまう。いつもまず主を仰ぎ、祈ろ
う。
必ず御心の平安の道へと導いて下さる。
-----------
自分の悟りに頼ると急転直下で泥沼へと進んでいく様を見せられ
る。
自分の目は簡単に曇り、真っすぐに見てしまう。大丈夫だろうかと
常に主に尋ね、頼ろう。


2020年08月05日(水)

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」 創世記22:1




主は約束を下さっていたが、アブラハム100歳、サラ90歳の時に、
長い長い忍耐の末に、実子イサクを得た。しかし彼らも弱い人間で
あり、主の時を待てずに、肉の手段で、奴隷ハガルによりイシマエ
ルを産み出してしまった。だがヘブル書によると、アブラハムは信
仰の人として賞賛されている。主は彼に試練を与えられた。

愛する子イサクを全焼のいけにえとして献げるようにと。25年も待
ちに待って与えられた、目に入れても痛くない、愛してやまない息
子だ。そしてこのイサクから子孫が増え広がるはずで、この主の大
いなる祝福の約束はどうなるのか。アブラハムの心中は、いかばか
りだったろう。

しかし「翌朝早く」イサクと共に出かけた。すぐに、時をおかずに
従順に従った。イサクが途上で「いけにえの羊はどこに」と問うた
時に、彼は「神ご自身が備えて下さる」と答えた。彼はこの事にお
いて、主を全く信頼した。しかし、いけには無く、イサクをいけに
えとし、刀を振り下ろすその瞬間だった。

「あなたの手を、その子に下してはならない」と止められた。あな
たが神を恐れることがよくわかったと。そこに羊が備えられてい
た。
これは彼も知らなかった事だ。その彼に、主は「あなたが、このこ
とをなし、あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあ
なたを大いに祝福し」と、主から大いなる祝福を受けた。

私たちも一歩先は見えず、明日の事もわからない。しかし主はご存
じだ。一歩一歩この主に委ねて歩む時、一生涯の間、「主の山の上
に備えあり」を確かに経験して行ける。
---------
不安や恐れはあっても、与えられている御約束を信じて進む者に主
は必ず報いて祝福してくださる。信じて進もう。全ては恵みだった
と言える主の山の備えを経験する。


2020年08月04日(火)

「イスラエルの王はヨシャパテに言った『私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは自分の王服を着ていてください』こうしてイスラエルの王は変装して戦いに行った」T列王22:30



イスラエル王アハブは、ユダ王ヨシャパテを誘い、アラムからラモ
テ・ギルアを取り返そうとした。400人の預言者に聞くと、上って行
くようにと口を揃えて言った。しかし預言者ミカヤは反対の預言を
し、アハブが悪霊に惑わされている事、殺される事を告げた。そん
な中、アハブとヨシャパテは、アラムと戦う事になった。

アハブは巧く逃げようと、ヨシャパテには王服を着せ、自分は変装
した。敵を欺き、ヨシャパテを王と思わせ、自分は助かろうとした。
しかしアラム王の命令は、イスラエル王アハブだけを狙えというも
のだった。ヨシャパテは、敵にアハブに違いないと、間違えられた
が、彼が主に叫び求めた時、敵は彼がイスラエル王でない事を知り、
引き返したのだ。主の介入だった。

そして一人の敵兵が、何げなく放った矢が、何とアハブの胸当てと
草摺の間を射抜いた。彼は傷を負い死んだ。別にアハブを狙ったわ
けではない。何げなく放った矢だった。それがアハブに的中し、射
抜いた。驚くべき事だ。主が介入し働かれた。ミカヤの預言がその
通りに成就した。主の完全な主権と支配を見せられる。

人が何をどう画策しようと、主の御心が成就する。非常に厳粛な事
だ。それゆえ、その主を信頼し、自らの人生も、持てるものも、自
分自身も委ねよう。主のもとに携えるなら、あなたへの人生の最善
のご計画を成し遂げて下さる。そして、平安でいる事ができる。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ
さる」。
-------------
いくら立派な計画を立てても主を見失ってしまうなら、どれ程恐ろ
しいか。真っ白な思いで主の導きを求め委ねよう。主のご計画だけ
が成り、それは最善だ。


2020年08月03日(月)

「神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる・・私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」Tヨハネ5:14



主は、祈りを喜ばれ、願う事を喜ばれる。「求めよ。そうすれば与
えられる」「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わ
ないから」と。そして、求めるなら受け「あなたがたの喜びが満ち
満ちたものとなる」と。祈る事を主は求め、受け止めて下さり、そ
して祈りに答えて下さる。

ただその答えが、願った通りに与えられるとは限らない。祈りとは、
自動販売機にお金を入れると、缶ジュースが出てくるのではない。
又、祈り勝ちとばかりに、時間をかけて同じ言葉でガンガン祈り倒
せば良いのではない。時間さえ長ければ良いのではない。主はどん
なに小さな祈りも、すべて聞いて下さっている。

だが願った通りに叶えられるのではない。祈りとは、自分の願望を
これでもか〃と、主に押しつける事ではなく、その中で、正しく主
の御心を知って行く事だ。自分ではこれこそが最善の道、最善の願
いと思うが、主から見れば、的はずれな求めかも知れない。又、動
機が自分の欲、自分の栄光と、間違っているかも知れない。

又、御心に適っているのだが、まだ期が熟しておらず、時ではない
かも知れない。祈り続ける事を学ばせられるだろうか。祈る中で、
祈りを軌道修正されながら、主の正しい御心に着地して行ける。こ
のところに目を留めて祈りを続けよう。祈りは大きな祝福だ。
------------
聞かれた祈りは感謝をお献ささげしても、聞かれなかった祈りを心
に留めて検討しているだろうか。御心に適う祈りをしたい。御心に
心を向けて祈っていきたい


2020年08月02日(日)

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことが できません・・あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を 結ぶことはできません」ヨハネ15:3


心に安らぎ、平安があるだろうか。いつも山積みの仕事に、なすべ
き事に追い立てられ、イライラしているだろうか。しかしながら何
かをしていないと不安で、何かを為す事で、心の充足を得ようして
いないか。何かをする事で安心感を、満足感を得ようとするなら、
それは忙しいのではなく、自分で忙しくしている事になる。

止む事ない仕事や奉仕を自分で取り込み、取り憑かれたようにのめ
り込む。だが、何かをする事で満たされるのではない。主は仕事や
奉仕で充足感を与えて下さるが、それはあくまでも結果であって、
満たされるために行うのではない。私たちに満足が与えられるのは、
何かをする事によってでなく、主にとどまる事によってだ。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝」「わたしにとどまりな
さい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」とどまるなら多
くの実を結ぶと。そして、「わたしを離れては、あなたがたは何も
することができない」。何もする事ができないと。主を離れて、肉
であれやこれやと動き回っても、御霊の実が結べない。

今、焦りやいら立ち、疲れがあるだろうか。重荷を負って、心が重
いだろうか。自分の力で頑張っていないか、行ないで満たされよう、
認められようとしていないか、立ち止まろう。まずは主と交わり、
主の憩いに帰ろう。そして主の平安の中で、多くの実を結んで行け
る。

・・・・・・・・・・・
主にとどまっている時は、何と平安だろう。自分の力に頼り、主か
ら出てしまう時は、平安無く、思い煩いや不満愚痴が出て来る。主
にとどまって、主と共に労する時、焦りや重圧感は無い。主を信頼
しているからだ。離れていると気づかされられる度に、帰ろう。


2020年08月01日(土)

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自 分より先に向こう岸に行かせ・・」マタイ14:22


五つのパンと二匹魚の奇跡の後、群衆は主を政治的な王に祭り上げ
ようと、無理やり連れて行こうとしていた。そのため、主はすぐに
弟子たちを向こう岸へと、強制的に舟に乗り込ませられて、群衆を
解散されられた。そしてご自分は祈るために、一人で山に登られた。

その湖で、弟子たちは夜中に激しい嵐に会った。嵐の中で悪戦苦闘
だった。ここで学ぶ事ができる。弟子たちは主に強いて舟に乗せら
れ、主に従った中で、大嵐に会った。何となく思っていないだろう
か。自分から御心をそれるなら、ギクシャクしてうまく行かないだ
ろうが、御心に従ってさえいれば、問題なくスムーズに行くのでは
ないかと。

しかし御心に従う中で試練に会うという事だ。弟子たちは真っ暗闇
の中で、波風と格闘していた。「風が向かい風なので、波に悩まさ
れていた」。私たちも、様々な難しい問題に悩まされる。弟子たち
は、主が飛んでしまい、大嵐への対応で四苦八苦、パニックになっ
ていた。主を忘れていて、自力で頑張るので、すべては自分の肩に
かかり、重く、苦しく、先も見えない。

私たちも、突如の試練に、主が飛んで、自分が、自分がと必死にな
るだろうか。そんな中に主が来て下さって、「しっかりしなさい。
わたしだ。恐れることはない」と。「わたしだ」とは、主がモーセ
に語られた「『わたしはある』という者である」と同じだ。まこと
の生ける神と、ご自身を現わされた。常に私たちにも「わたしだ、
恐れることはない」と御声をかけて下さっている。

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向かい風の中、波に悩まされる。私たちにも突如の試練、問題が起
きる。弟子たち同様何とかしようと必死になる。自力で頑張るので、
落ち込み、心は辛く苦しくなる。「恐れることはない」「わたし
だ」何と力強い言葉だろう。今も、語りかけて下さっている。