2020年09月30日(水) 「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7
「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7
サタンは、策略を練って攻撃して来る。何のプランも考えもなく攻 めて来ない。サタンは行き当たりばったりではない。策略とは、普 通伏せていて、隠しておいて、明かさないものだ。「サタンの策略」 と明かされているからには、相当の策があるという事だ。エバが蛇 に誘惑された時に、蛇は、エバの目が開け、善悪を知り、神のよう になることを、神は知っていると言った。 つまり、暗に神はそうさせたくないから、禁じているのだと思わせ る。巧妙に誘導し、不服な思いに、不信感に誘惑して行く。サタン は私たちにも、不満を持って誘惑する。不満は常に大きな誘惑だ。 あなたが罪を犯した時の事を振り返ってみよう。そこに不満が無か っただろうか。罪の裏に不満が見え隠れする。 不平不満で心が支配されてしまうと、感謝も賛美もきれいに失せ、 恵みが消えてしまう。不満と感謝は同居しない。最近失敗した状況 はどうだろう。対人関係においてギクシャクした事、家庭、学校、 職場での問題、イラっとした腹立ちを自制できなかった事、きつい 言葉、悪い態度、その裏に不満が無かったか。不満はサタンの策略 だ。不満不服という餌で、罪に誘われてしまう。即、喜びと平安を 失ってしまう。 敵の策である事をわきまえよう。「神に従い、悪魔に立ち向かえ」 そうすれば、悪魔は逃げ去る。心に不満が頭をもたげるなら、すぐ サタンに気づこう。サタンに立ち向かい、神に感謝を献げよう。感 謝には大きな力がある。そこに神が働かれ、サタンは逃げ去り、不 満が感謝に変えられる ------------ 感謝を数えていると不思議に喜びに変わる。不満と失望で喜びを奪 ってしまうサタンに感謝で立ち向かおう。すでに与えられていて、 気づかずにいる恵みが見えて来る。
2020年09月29日(火) 「『この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか』彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です』・・「あなたも行って同じようにしなさい』」ルカ10:36
「『この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか』彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です』・・「あなたも行って同じようにしなさい』」ルカ10:36
サマリヤ人の動機はひとえに同情であった。それ以外の何の下心 も無かった。「憐れみ」とは、かわいそうに思う心プラス行動だ。 同情だけでなく、行ないが伴っている。彼は、目の前の苦しんで いる、今まさに助けを必要とする人に、自分に出来る事をした。 避ける事をせず、「近寄って」ぶどう酒は消毒に、オリーブ油は 薬として惜しげもなく使った。 自分の家畜を使い、自分の予定を急遽変更し、宿に同行し、一泊 し親身に介護の上、費用も全額負担した。至れり尽くせりだ。愛 するとは犠牲を払う事だ。自らの金銭、労力、時間を突然の必要 のために、彼は惜しまずに献げた。犠牲を払わずに愛する事は出 来ない。そして、彼は自分の仕事をするために出て行った。 自分の仕事を済ませ、再び戻り、お世話をした。自分の責任を放 って、世話するのではない。自分の家族の必要を放っておいて、 他人の世話に奔走するのではない。自分の責任はまず果たすべき で、尚且つ、助けを必要とする人に、自分に出来る事をして行く ことだ。御霊が助けて下さる。 今、御霊の示しがあれば「近寄って」、従おう。祭司とレビ人は 保身のために、関わりたくなくて、その場を去った。「自分の家 畜に乗せて」自らの何かを献げて、仕える事を、今、示されてい るなら従おう。主が力を与えて下さる。そして豊かに祝福して下 さる。 ------------- 自分がしてもらいたい通りに人を助ける事はなかなか出来ない。 主がしてくださった大きな憐れみと助けを覚え、御霊に導かれた なら応えていこう。
2020年09月28日(月) 「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」ピリピ3:14
「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」ピリピ3:14
「後ろのものを忘れ」とあり、前に進むために、後ろのものを忘れ るべきだが、忘れてはならないものがある。主が今までに下さった 祝福、恵み、教えて下さった事は、忘れてはならない。「主の良く してくださったことを何一つ忘れるな」「この四十年の間、荒野で あなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」の通り に。それは覚えていなければならない。 しかし、忘れるべきものがある。過去の罪、失敗、罪責感で、今も さいなまれているなら、それは間違っている。その罪を悔い改めた なら、主は完全に赦し、二度と思い出されない。「わたしは彼らの 咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ」主の赦しを受け 取り、前進すべきだ。例え、失敗したとしても、人生そのものに失 敗したのではない。 誰しも失敗する。人間であり、弱さゆえに必ず失敗する。失敗しな い人は一人もいない。しかし転んで再度立ち上がるべきだ。失敗か ら学ぶことが大切だ。学べば良い。アブラハムも何度も失敗し、イ サクもヤコブもモーセもダビデも、失敗した。しかし、彼らはヘブ ル11章の信仰の人々に名を連ねている。 モーセは自力で民を救おうとし失敗した。荒野での40年を通して、 砕かれ整えられ、出エジプトのリーダーとして用いられた。ダビデ も姦淫と殺人という重罪を犯したが、真摯に悔い改め、赦された。 ダビデの詩篇から受ける慰めと益は測り知れない。私たちは赦しを 受け取り、後ろの否定的なものをいっさい「忘れ」、前に進もう。 ----------- 悔い改めた過去の罪が思い出される度に、罪を赦された恵みを主に 感謝していこう。もう赦されている。過去に引っ張られず、前を向 いて前進することが赦してくださった主の御心だ
2020年09月27日(日) 「行ってシュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食を してください・・たとい法令にそむいても私は王のところへまいりま す。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」エステル 3:16
「行ってシュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食を してください・・たとい法令にそむいても私は王のところへまいりま す。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」エステル 3:16
エステルは父母に死別し、養父モルデカイに育てられた。そのエス テルが、王妃ワシュテイが退けられた時に、次の王妃に選ばれた。 そしてそんな中、ハマンがユダヤ民族絶滅の陰謀を企てた時に、モ ルデカイの指示で、この王妃エステルが動いた。結果的に、命がけ で、「王のところに行って、自分の民族のために王にあわれみを求 め」たので、ハマンの悪巧みは見事に阻止された。 王妃であり、自分には隠れみのになる地位がある。しかし彼女は同 胞を救うため、「私は、死ななければならないのでしたら、死にま す」と、自らの命をかけて、王に同胞の救いを求めた。エステルを 通して学ぶ事ができる。捕囚の民として異国で生まれたのも、王 妃になったのも、この大きな危機のためかも知れない。 同胞を救うために、主のエステルへの配剤であり、過去も現在も環 境のすべてを支配し、エステルを王宮のその所に置かれた。私達も 同様だ。成育歴が、皆、異なる。置かれた環境も、それぞれ全く違 う。しかし、どのようなものであれ、今に至るまでの過程は、神の 摂理であり、神のご計画だ。今、思い通りでない場所、厳しい現実 であっても、今の場で神の御心があり、ご計画がある。 その所で、あなたへの使命がある。エステルは困難な状況で、死を 覚悟して、自分自身を全く神に明け渡した。危急の事態が起きた時、 方策や解決手段を必死に捜し求める。しかし、方法ではなく、神は 全く明け渡した人を通して、ご自身のみわざをされる。 今の場は、神が遣わされた場。目に見えるところでなく、神の視点 に立ち、御言葉に立ち、なすべき事を祈って行こう。 ・・・・・・・・・・・・ 後になれば、神の時に、それぞれのピースが完璧に埋まって、パズ ルが完成し、「ああ、こういう事だったのか」とわかる。全部の ピースが必要であり、一つ欠けても完成しない。主に一つの無駄も 無い。今は見えなくとも、主を信じて、目には見えない所を見て行 こう。
2020年09月26日(土) 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼 らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの 世のものではないからです」ヨハネ17:14
「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼 らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの 世のものではないからです」ヨハネ17:14
私たちは世にあって、世で生活しているが、しかし世の者ではない。 だが、世から隔離し、世と断絶するのではない。又、だからと言っ て、世にどっぷり浸かるのでもない。私たちは、この世にあって、 この世の人々と同じように生活する。しかし、その原理が異なって いる。 私たちはこの世の原理でなく、「神の言葉」が自分を動かす原理だ。 この世の価値観でなく、御言葉がどこまでも基準だ。御言葉の価値 観で生きて行く。だから、この世にはいるが、世とは違っている。 主が御父に祈られた。「真理によって彼らを聖め別って下さい。あ なたの御言葉は真理です」。真理は世の価値観でなく、御言葉だ。 御言葉が真理だ。 自分の内に根本的、根源的原則が必要だ。確固たるものが無いと、 周囲と同じである事が良い事であり、同じだと安心する。真理なる 御言葉に基づいて、思考し、判断し、行動しなければ、容易に、周 囲に同調し、世の価値観に従い、世に流されて飲み込まれてしまう。 日本には米軍基地や大使館がある。日本国内だが、そこだけは本国 である米国の法律下にある。同様に、私たちはこの世にいながら、 御言葉が支配する神の領域にいる。この世と接触を断つのではない。 人々を愛し、人々に仕え、交流し、証しをして行く。しかし埋没し て飲み込まれて、流されてはならない。 真理の御言葉に従って行く時、御霊が助け、正しく導いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 価値観は重要だ。生きる土台となり根幹となる。まず思いがあって、 行動へ移るからだ。古い価値観が根深くあるが、御霊が気づかせて 下さる。「この世と調子を合わせてはいけません」古い価値観が御 言葉に変えられる事により、御子のかたちへと変えられて行く。
2020年09月25日(金) 「『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』」マタイ4:9
「『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』」マタイ4:9
主を信じる人々がクリスチャンだが、一体、自分は「何のために」 信仰しているのだろう。もし、信仰が、自分が求めている何かを得 るための「手段」なら、どうだろう。欲しいものを手に入れたなら、 もう信仰は不要になる。又、熱望するものを得る手段であるなら、 何が何でも欲しければ、他の手段でも良くなってしまう。 サタンは、「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。欲 しいものを何でも上げるよと、その誘惑に乗ってしまう。目的のも のを得たいだけであり、別に誰がくれようと、構わないのだから。 神を利用する事になる。しかし主には、御父を礼拝する事は、手段 でなく「目的」であられた。このところが肝心だ。 もし信仰が、良い人生、高尚な生活、道徳的生活、人格者になる事、 心の満たしや自己実現の手段だとするなら、主が自分の思い通りに、 期待通りに動いてくれなかったら、遅かれ早かれ必ず失望する。主 から離れ去る。形だけ礼拝していても、心には喜びがない。実質、 得るものが無いのだから。 しかし神を神として信じ、神を崇め、何を得ようと得まいと、神と の交わりを目的として歩むなら、何があっても、どんな状況になろ うと、平安と喜びを失う事はない。状況は関係ない。あなたは「何 のために」信仰しているだろう。「あなたの神である主を拝み、主 にだけ仕えなさい」 -------------- 主の荒野の試みは、私たちにも生涯に渡って付きまとう誘惑だ。自 分の欲望が満たされる事だけが願いなら自分を拝んでいるのかもし れない。神を神として生きるためにサタンにノーと言おう。 --
2020年09月24日(木) 「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」ルカ9:62
「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」ルカ9:62
ここに三種類の人々が出て来る。一人目は、主に全面的に従います、 何でもし、どこへでも行きますと言った。しかし主は、狐には穴、 空の鳥には巣があるが、安心して住める家さえ無いと言われた。つ まり厳しい苦労があり、大きな犠牲が伴う。喜びと同時に厳しい苦 労もあり、覚悟が必要だと。中途半端な気持ちだと、こんなはずで はないと、すぐに挫折してしまう。 二人目は、主からの明確な示しがあるのだが、ぐずぐずしている。 優柔不断であり、従おうとは思うのだが、その前にあれこれをして と。しかしこれは従う事の無期延期だ。ずるずると最終的には従わ ないまま終わる。御霊の示しに、即、従わず、常に言い訳や弁解を し、結局従わない人々だ。 三人目は、主に従おうと思い、心を定め、決心していた。しかし前 進しようとしながら、後ろを振り返る人だ。捨てたつもりのものに 未練が残り、後ろ髪を引かれ、きっぱりと断ち切る事が出来ない。 その未練は神の国にふさわしくないと、言われた。捨てるべきもの への執着がどうしても断ち切れない。最終的に従えないまま終わる。 主に従わせないよう、妨害してくる様々な誘惑、攻撃、しがらみ、 かせがある。様々な方面から誘惑と攻撃がある事を踏まえ、ぐずぐ ずせず、すぐに従えるように祈ろう。御心に従おうとする時、必ず サタンと肉の妨害が来る事を心していよう。 ------------ 必要なところだけ主に頼り、従う事においては、依然として自分が 主役になっていると思わされる。これは従えてもこれは駄目だと。 出来る、出来ないより、従えるようにしてくださいと祈りたい。
2020年09月23日(水) 「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、 悪い動機で願うからです・・世を愛することは神に敵することである ことがわからないのですか」ヤコブ4:3
「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、 悪い動機で願うからです・・世を愛することは神に敵することである ことがわからないのですか」ヤコブ4:3
時に、祈りがなかなか答えられない事を経験する。祈りは学校であ り、祈りとは、様々な経験を通して学んで行くものだ。最初からよ く祈れるわけではない。むしろよくわからない中で、実践の中で、 少しづつ学ばせられて行く。 祈りには原則があり、御心にかなう祈りが答えられるとある。御心 でない祈りは、幾ら祈っても答えられない。これも祈りの中で経験 する。つまり、御心にかなった祈りを知るために、祈る事になる。 しばしば自分の思いのままに祈るのだが、祈りの中で、自らの祈り が軌道修正されて行く。 主の栄光ではなく、自分の欲望で祈っていて、自分でも気づかない。 だが祈りの中で、そんな動機に気づかされ、祈りが変えられて行く。 御霊に助けられ、自分も変えられ、御心にかなう祈りへと、導かれ て行く。自分自身の姿が見せられ、砕かれ、整えられて行く。 ある人がイベントのために祈り、アイデアが浮かんだ。良い案で御 心を確信し、進めるのだが反対があり、ギクシャクし思うように行 かない。一致が得られない。何とかしようとするのだが、事は進ま ない。イラ立ちを抑えきれず、主の前に静まり、祈った。 すると心の内を照らされた。確かに主に導かれた企画だが、意見を 異にする人々を良く思わず、腹を立て、対抗心を持ち、何が何でも 遂げようとする、内に潜む強い自我に気づかされた。主が飛んで、 自我で押し進めようとしていた。心から悔い改め、自分自身も企画 も、今一度、主の手にゆだねた。 するとその後、不思議に、事が前に進み、実現して行ったのだった。 祈りの中で、私たち自身が変えられ、成長へと導かれる。 ・・・・・・・・・・ 祈りは、祈りの中で学ばされ、教えられて行く。形の違う答えが与 えられているが、気づいていないかも知れない。祈りっ放しでなく、 経過や、答えもよく見張っていよう。動機も御霊が教えて下さるの で、そこにも目を留めていよう。祈りの中で、主を知って行く。
2020年09月22日(火) 「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子た ちには、それがイエスであることがわからなかった」ヨハネ21:4
「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子た ちには、それがイエスであることがわからなかった」ヨハネ21:4
主の復活を信じていなかった弟子たちが、主からガリラヤに行くよ うに言われ、故郷に戻って来た。主を裏切った心は重く、なすすべ なく、そこで一度捨てた網を取り漁をするが、一匹も魚がとれなか った。心に痛手を負ったペテロは、これならと自負のある漁をする が、尚も挫折感、屈辱感、空虚感にさいなまれただろう。 その時、岸辺で誰だかわからないが、「子どもたちよ。食べる物が ありませんね」と言ったので「はい、ありません」と答えた。何も 無い、ありのままの状態を認めた。すると「舟の右側に網をおろし なさい。そうすれば、とれます」との声が聞こえた。 何だかよくわからないが、その声に従って、網をおろした。その時、 何と驚くべき大漁だった。網を引き上げられないほどの、おびただ しい魚だった。ヨハネが以前の光景と全く同じである事に気づき、 ペテロに言った、「主です」。それを聞き、ペテロは湖に飛び込み、 主のもとへ行った。一刻も早く大好きな主のもとへ、行きたかった。 陸地に上がった時、炭火があり、魚とパンがあった。それを見たペ テロは、主を裏切った時の、あの炭火が脳裏に浮かんだだろうか。 主は、ペテロに、三度「わたしを愛しますか」と問われた。合わせ る顔がないと思っていたペテロは「私の心を見て下さい、主はすべ てご存じです」というふうに答えた。 以前と全く違う、砕かれたペテロがそこにいた。主の愛はペテロを 見事に回復させた。私たちにもこの主の愛が注がれている。 ・・・・・・・・・・・ ペテロは、主を呪いをかけて誓ってまで否んだ。裏切りという大失 敗をしてしまった。ユダも後悔したが祭司長のもとへ行き、しかし ペテロは主に向き、主のもとへ行った。失敗した時こそ、主のもと へ行こう。豊かな赦しと変わらない愛に触れる。
2020年09月21日(月) 「予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った『あなた はアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでし た』」U歴代16:7
「予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った『あなた はアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでし た』」U歴代16:7
アサ王は最初はよく主に従った。偶像を除き、主の祭壇を新しくし た。アサ王の心は主と一つであった。しかし、アサとイスラエル王 バシャとの間に戦いがあり、バシャによりラマという所が奪われた。 包囲状態となり、その時に、アサ王はアラム王ベン・ハダデに同盟 を求めた。 アサ王は、前回、クシュ人が100万の軍勢と100万の戦車で攻めて来 た時には、主に拠り頼み、主により勝利を経験した。にもかかわら ず、主に頼らずに、財宝を提供してアラムに頼った。アラム王ベ ン・ハダデは町々を打ち、ラマを打ち取り、ユダ側に要塞を作った。 戦いは勝利し、大成功だった。 しかし預言者ハナニは「あなたは主に拠り頼まなかった・・今から 数々の戦いに巻き込まれる」と告げた。間違っている時に、主は人 を遣わし警告される。表面的に見れば、大成功に見えるが、主の御 心からは、大きくはずれていた。私達も外側、うまく行っているか に見えるが、主の御心からそれている事がある。 アサは重い病気にかかった。その時にも彼は「主を求めないで医者 を求めた」とある。その結果、死んでしまった。的はずれの方向に 向かった。悔い改めないなら、どんどん的をはずれてしまう。私達 も、危機的状況に際して、主ではなく、人に頼っているだろうか。 又、肉の手段に頼っていないだろうか。 誰しも、目に見えるものに頼ってしまう弱さがある。今、あなたは どうだろう。拠り頼むは主であり、主に向かい、主に祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・ 目の前の危急の事態の時、どうだろう。まず何とかしなければと、 思いは巡り、自分で事に当たってしまう。そして失敗する。仮にう まく行った方が危険だ。ますます高ぶってしまう。主に頼ることを 日々に祈っていよう。
2020年09月20日(日) 「アブラハムは、自分の妻サラのことを『これは私の妹です』と言 ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入 れた」創世記20:2
「アブラハムは、自分の妻サラのことを『これは私の妹です』と言 ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入 れた」創世記20:2
私たちは、人間なので、どうしても失敗してしまう。日常生活でも、 どれだけ気をつけていてもミスするし、又、間違ってしまう。アブ ラハムは、自分の妻サラを「私の妹です」と、エジプトとゲラルに おいて、1度ではなく、2度も自分を守るために嘘を言い、騙した と記されている。 普通の書物なら、都合の悪い事実は隠す。都合良い事だけを書くも のだ。しかし、聖書はアブラハムの失敗をいっさい隠さず、事実を ありのままに記している。偉大な信仰の父アブラハムも、スーパー マンではなく、完全な聖人でなく、私たちと全く同じ弱さを持った 人間であった。私たちと同じように失敗し、又、同じようにその失 敗も繰り返している。 イサクが与えられるとの約束があるのに、神の時を待てなかった。 肉の思いと方法で、奴隷ハガルによりイシマエルを産み出してしま った。しかしアブラハムの失敗にかかわらず、主は、そのつどアブ ラハムを立ち返らせ、真実に約束を成就された。イサクが与えられ、 主はアブラハムを大いに祝福された。 ヘブル11章の信仰の人々に名を連ねている。私たちは失敗する。何 度も失敗し、又、弱さゆえに同じ失敗を繰り返してしまう。だから と言って、主は決して捨てられない。約束も使命も変えられる事は ない。 私たちの弱さをご存じだ。ご存じの上で愛して下さっている。自分 はだめだと思ってしまうが、主の十字架による豊かな赦しが備えら れている。赦されて、赦されて、生きて行ける。今すぐ、主のもと へ行こう。 ・・・・・・・・・・・・ 主の御顔を仰ぐ事が信仰と言われている。どんな失敗をしても、主 から隠れず、主を避けずに、主のもとにいて、主に向く時に、主の 愛は決して変わらず、主の慈しみは尽きない事を知らされて行く。 主の豊かな赦しがあるから、悔い改める事ができる。
2020年09月19日(土) 「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜 びます。私は主に歌を歌います」詩篇13:5
「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜 びます。私は主に歌を歌います」詩篇13:5
詩篇13篇で、ダビデは、苦しみと悲しみ、辛さの中にいた。「いつ まで、思い計っていないといけないのか。私の心には一日中悲しみ がある」と。主に「いつまでですか」と4回も繰り返し問うている。 「いつまでですか」永久に忘れられたのかと。「いつまで御顔を隠 されるのか」「いつまで敵が勝ちほこるのか」と。主に、ありのま まの赤裸々な気持ちを訴えている。 自分の気持ちを隠して、きれい事を並べるのではなく、正直な率直 な気持ちをそのまま告げている。詩篇の色々な箇所で、ダビデは苦 しみ、怒り、嘆き、悲しみ、理不尽な思いを神にぶつけている。そ して「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」と。神は我らの避け 所だからと。 私たちも、この苦しみがいつまで続くのかと試練の中では思う。気 持ちは、ありのまま主に告げるとよい。主は、受け止めて下さる。 ダビデは、「いつまでですか」と切なる叫びを率直に、主に言い表 した後、変化が起きた。「私の心はあなたの救いを喜びます。私は 主に歌を歌います」嘆きと苦しみが、賛美と喜びに180度変えられ ている。 主に心の底を率直に言い表し、主と交わる時に、不思議だが心が平 安にされる。状況は変わらないが、自分の心が変えられ平安を与え られる。怒り、不満、屈折のありのままの姿を認める事により、 光の中に出される。光に隅々までくまなく照らされるので、癒され、 成長して行く ・・・・・・・・・・・ 気持ちを抑え込んで、我慢するのでなく、底にあるありのままの気 持ちを主に告げよう。主にありのまま話していると、今まで気づけ なかった自分の本当に気持ちにも気づけて行ける。御霊が働いてく ださる。主はそれらをすべて受け止めて、心を安らかにして行って 下さる。
2020年09月18日(金) 「『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた』」マルコ10:47
「『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた』」マルコ10:47
エルサレムから25キロほどの所にエリコがある。主がエリコを出ら れると、盲人バルテマイが、道ばたにで物乞いをしていた。イエス だと聞くと大声で「私をあわれんでください」と叫び始めた。大勢 でたしなめても、止むどころかますます「私をあわれんで下さい」 と叫び立てた。 目は見えないが、この方の事を、人々が話すのを耳にしていたろう。 この方なら目を開ける事ができると信じたからこそ、何があろうと、 ひるまず諦めず叫び続けた。人目など気にならなかった。主へのそ の真剣な熱心な求めが、「あの人を呼んで来なさい」との主の言葉 となった。彼は「上着を脱ぎ捨て」「すぐ」立ち上がって主のもと に来た。 上着はガウンみたいなもので、毛布や敷物にもなり、大切な生活必 需品だった。施し物を受けるためにも必要で、上着を地面に広げ、 大事な商売道具でもあった。その上着を「捨てた」という事は、絶 対に癒されるとの確信を持っていた。又、盲人であり、物乞いで生 きる一生になる事への諦め、それはそれなりの安住があったろう。 それをもかなぐり捨てた。 そして信仰をもって、主に拠りすがり、願い求めた。この方なら絶 対に目を開けて下さると。その通りに目が開かれて、全く新しい人 生の一歩を踏み出した。それは目が開いて万々歳で、自分の好きな ように、思い通りの人生を歩み出すためでなく、主の行かれる所に ついて行き、一生涯を主に献げ、主に従って行くための一歩だった。 ---------- これを失ったら大変だというものが、主との歩みの邪魔になってい ると気づいたら、何度でも捨てて主にすがりつこう。新しく目が開 かれ、恵みの賜物がよく見えるようになりたい。
2020年09月17日(木) 「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11:3
「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11:3
こんな例えがある。「事実(御言葉)」と「信仰」と「感覚」が順 番になり、山の上を歩いていた。「信仰」は目の前の「事実・御言 葉」だけを見ていると、どんどん問題なく前進できた。そこに後ろ に続く「感覚」も順調について来た。ところが、「信仰」が前を行 く「御言葉」から目を離して、「感覚」を振り返った途端、「信仰」 と「感覚」はもろとも、谷底へ転落してしまった。 そして「事実」だけは一向に関係なく、前に進んで行った。信仰生 活の正しい順序は、「御言葉」「信仰」「感覚」だ。感情はあくま でも、御言葉と信仰の後について来るものだ。しばしばこの順序を 逆にしてしまう。「感覚」を一番に持って来て、「信仰」最後が 「御言葉」だ。すると迷路に迷い込む。「感情」に振り回され るばかりで、信仰生活が激しいアップダウンを繰り返す事になる。 私達はこの世界で生きているために、感覚である五感に深く拠り頼 んでいる。それは必要な事で、五感で危険を察知しなければ、命を 落とす事になる。しかし信仰は霊の分野で、通常の五感では感知で きない領域だ。信仰を五感で、人間的領域でつかもうとすると、霊 的事柄が全くわからない。そうであれば、感じなければ信じないし、 信じようとしない。 そうでなく感じようと感じまいと、感情がどうであろうと、御言葉 を真実、事実として信じて行く時に、後ろから感情がついて来る。 感情を先に持って来て、振り回され、混乱していないだろうか。 ---------- 見て感じるものと御言葉にはいつも大きなギャップがある。不安定 な感覚から一度離れて、信仰を働かせよう。主に祈り、約束の御言 葉を握り、主にある豊かな一日を過ごそう。
2020年09月16日(水) 「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32
失望に囚われ、落ち込んでいる時、主が見えなくなってしまう。経 験あるだろうか。失望は、サタンの非常に有効な攻撃手段だ。エマ オ途上の弟子たちは、失望落胆、絶望の中にいた。主が、強大なる ローマ帝国をくつがえして、地上に王国を建てられると信じ込んで いた。主が統治支配されるのだと。 しかし現実は最悪で、最も残酷で惨めで、辱めの十字架刑で死んで しまわれた。何という事だろう。自分たちの思いの対極だ。自分た ちの希望、期待、喜びが無惨に砕け散ってしまった。復活は信じて いないので、絶望と空虚しかなかった。信仰の目がふさがれ、さえ ぎられ、不信仰に陥っていた。私たちも、自分の思いと全く異なる 現実を突き付けられる時、受け入れる事が難しい。主と自分の間に 距離が出来てしまう。 例えば状況が苦しくてたまらず、別の職場を求めている時に「忍耐 が必要、主の訓練であり今の場でなければ学べない事がある」と言 われても受け入れ難い。苦しい経済的困窮の中で、「わたしに頼る ことを学ばせるため」と言われても辛いものがある。ところが落胆 していた弟子たちが、心が赤々と燃やされ、喜びに溢れ、急転直下、 もと来た道を大急ぎで引き返した。なぜ突然変えられたのか。 主の語られる御言葉だった。主が解き明かされる御言葉に耳を傾け て行った時に、「信仰」がよみがえった。私たちも極めて厳しい状 況の中で、実際、御言葉により救われる。皆が経験するところだ。 今、御言葉に耳を傾けよう、御言葉は霊でありいのちだ。信仰を取 り戻させ、更に心が新たに燃やされる。 ----------- 暗い心でとぼとぼ歩いているような時は、落ち込んでいる事にさえ 気づけずにいるのではないか。御言葉に向かおう。今この時も共に 歩んでおられる主に会える。御言葉を心に点そう。
2020年09月15日(火) 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14
「求めよ、そうすれば与えられる」の通り、主は祈りを喜ばれ、求 める事を喜ばれる。しかし「神のみこころにかなう願い」なら、答 えられるとある。主はソロモンに「あなたに何を与えようか。願え」 と言われた。その時、ソロモンは、ダビデに代わり、自分が王とさ れたが、自分は小さい子供ですと言った。 民は余りにも多、くおびただしい数であり、そこで「善悪を判断し てあなたの民をさばくために聞き分ける心を与えて下さい」と祈っ た。ソロモンは民をさばくための知恵を求めたのだ。主はこの願い を非常に喜ばれた。「この願い事は主の御心にかなった」。 主は、この事を求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富 を求めず、敵の命も求めず、正しい訴えを聞き分ける判断力を求め たので、「あなたの言った通りにする」と。知恵の心と判断する心 が与えられた。そしてそれに加えて、願わなかった富と誉れまで与 えられた。生きている限り、ソロモンと並ぶ者は一人も無いであろ うと。 主を第一にするなら、「それに加えて、これらものはすべて与えら れます」。自分を第一にする時、神の国もこれらの必要な物もどち らも失ってしまう。ソロモンが、御心にかなう願いが出来たのは、 主を礼拝していたからであった。私たちも、主と交わりを大切にし て行く時、主との親しい交わりの中で、主の願いが自分の願いとさ れて行く。 ------------ 自分の健康、家族の必要と祈りは尽きないが、自分の要求だけの祈 りで終わるなら、祈りは主との豊かな交わりの時となるだろうか。 御心を教えてくださいと祈りたい。
2020年09月14日(月) 「その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ・・主が私たちとともにおられるからだ」民数記14:9
「その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ・・主が私たちとともにおられるからだ」民数記14:9
イスラエルの民が不信仰になり、カナンに入る事ができず、荒野を 40年さまよい滅びてしまう事になった箇所だ。場所はカデシュ・バ ルネア、部族から一人づつ12人の斥候をカナンに遣わし、地を探っ た。戻って来たヨシュアとカレブは、「素晴らしく良い地だ。上っ て行って占領しよう。必ずできるから。彼らは私たちのえじきとな る」と報告した。 しかし他の10人は「あの地には攻め上れない。民は私たちより強い から。私たちは自分がいなごに見えた」と恐れておびえた。彼らは、 別々のものを見たのでなく、全く同じものを見た。しかし正反対の 反応が出た。どこが違ったのだろう。10人は「あの民は私たちより 強い」と、「自分たち」とアナク人を比較した。そして攻め上れな いと結論づけた。 しかしヨシュアとカレブは「主が」と主とアナク人を比べた。主が 共におられる。彼らはえじきとなる。占領できると。10人はまず 「自分」を考え、状況を見た。2人はまず「主」を考え状況を見た。 その結果、民全体に不信仰がまん延し、その夜、全会衆は、恐れて 大声で泣き明かした。死んだ方がましだ、エジプトへ帰ろうと。 この不信仰に陥った民はカナンに入れず、荒野で滅んでしまった。 五千人の給食の箇所で、ピリポも主に試された。「どこからパンを 買い、人々に食べさせようか」と。ピリポは、所持金を見て、不可 能と結論した。しかし、主は、所持金でなく、主には出来るとの信 仰を求められた。今、私たちにも、その信仰を求めておられるだろ うか。 ---------- 目の前の状況に思いは左右に振れるが、必ずできるとの主の御言葉 を信じて、退くより主が見ておられるように見て行けるよう祈ろう。 主と主の御言葉に信頼しよう。
2020年09月13日(日) 「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あ なたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に 帰らせる」エレミヤ29:10
「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あ なたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に 帰らせる」エレミヤ29:10
民がバビロンの地に連れ去られた、バビロン捕囚は、その事だけを 見れば、この上ない悲惨な、絶望的な事態であった。しかし結果的 に見れば、民は捕囚によって悔い改め、神に立ち返る事ができた。 信仰の回復がなされた。70年後にエルサレムに帰還させるとの、主 の約束も成就される事になる。奇跡がなされた。 「あなたがたのために立てている計画」・・バビロン補囚が「神の計 画」だと言われる。見えるところ絶望と挫折と混乱であったが、主 にとっては、平安と将来と希望のための計画であった。主は私たち にとっては不都合、マイナス、あってはならぬ事、行き詰まり、そ のような事態を引き起こされ、主の意図される方向へ導いて行かれ る。 そしてそれは、実は「あなたのため」の計画だと言われる。綿密に 計って立てられた、あなたの益とあなたの将来のための出来事だと。 目の前の事は痛い、苦しい、辛い事かも知れない。しかし、実は最 善がなされている。痛い所を、苦しみを通って初めて、真に神に出 会う。 人は、自我の固い殻におおわれている。痛みや苦しみによって、そ の自我の殻が砕かれる。へりくだらされる。高慢すら自分でわから ない。苦しみの中で、初めて自分の姿を知らされる。苦しみは喜び へと通じている。苦しみにあった事は幸せだったと必ず言える。 ・・・・・・・・・・・・ 七十年後、バビロンから帰らせると。試練には、定められた期間が ある。民は、試練により主に立ち返れた。試練は痛くて、自分では 望まないが、試練により沢山の事を教えられ、学ばされ祝福とされ て来た。「後になると」平安の結実に、どんな時にも希望がある。
2020年09月12日(土) 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらな い」詩篇55:22
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらな い」詩篇55:22
信仰生活で、落胆する事を経験するだろうか。時に、それが続いて しまう事もある。目の前の出来事に、状況に、がっかりし、失望し てしまう。気落ちすると気力が失せ、気持ちが萎えて、何をする力 も湧かない。そのどん底にいる時は、主が見えなくなってしまう。 働かれている主が見えない。 失望が、主をさえぎってしまうのだ。自分の目の前に10円玉を置け ば、太陽が見えなくなってしまうように。しかし実際は10円玉より 太陽の方が遙かに大きい。目の前にそそり立つ壁のように見える問 題より、主の方が遙かに大きい。自分が10円玉の方を見てしまって いるのだと認識しよう。問題から目を離して、主を見上げよう。 耐えることのできないような試練は無く、試練とともに、脱出の道 がある。そして「わたしがあなたがたのために立てている計画」、 主のご計画がある。突如の、想定外の出来事だが、不運なのでなく、 ご計画の内だ。又、サタンにほんろうされているのではない。主の ご意志だ。災いではなく、平安を与える計画であり、将来と希望の ためのものだ。 渦中にいる間は、なかなか見えないが、必ず、平安の落とし所へと 導いて下さる。今、何も見えず、目の前の苦しい事態しか見えなく ても、重荷を主にゆだねよう。そして信じて待ち望もう。必ず試練 は、成長へと実を結ぶ。通って良かったと言えるようになる。 自分の思っている方法やタイミングと、主のそれは、しばしば大き く異なる。だから待ち望もう。主の方法とタイミングで事態を、又、 私たちの内側を動かし、解決へと導いて行かれる。 ・・・・・・・・・・ 試練の度に、結果的には、大きな恵みが隠されていたと知る。しか し渦中の中では、トンネルの中なので、真っ暗でパニックになって しまう。だが心配して下さっている主がおられる。しっかり見て下 さっている方が共におられる。主を呼んでみよう。心が変えられる。
2020年09月11日(金) 「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した」士師6:1
「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した」士師6:1
士師の時代は暗黒時代であり、霊的指導者がおらず、イスラエルは 自分勝手に歩んでいた。「めいめいが自分の目に正しいと見えるこ とを行なっていた」とある。 偶像に走っては外敵に襲われ、主に 叫び求める。すると、士師を遣わし救い出された。その繰り返しが 士師記に記されている。ミデヤン人が襲って来た時に、非常なる苦 しみを通った。 攻撃を受け、山の洞窟やほら穴で生活をした。又、種を蒔くと、襲 われ、収穫を荒らされた。敵はいなごの大群のように来て、家畜の 餌すら残さなかった。これらは民、自らの罪のなせるわざであり、 主は気づきを与えようとされた。せっぱ詰まった状況だったろう。 住まいを追われ、洞穴生活で、食糧は何もかも持って行かれ、どん どん切迫し、追い詰められて行った。 とうとう苦痛の余り、民は、主に助けを叫び求めたのだ。これは、 主に立ち返らせるために、主が送られた苦難であった。人は、ギリ ギリの限界状況にならない限り、神を求めない。平穏無事な生活の 中では、人は、自分の力で生きて行ける。そのため神無しで生きて 行く。そして支障なく生きて行けてしまう。今、あなたも問題、悩 みがあり、ストレスの中にいるだろうか。主を新たに知る機会だ。 主に叫ぼう。 民が苦しみの中で、主に叫び求めた時、主は祈りに答えられ、一人 の預言者を遣わされた。そしてギデオンを召し出し、敵を打ち負か された。主は必ず叫びに答えて下さる。あなたにも御言葉示し、指 針を与え、周囲の人を通し、助言を与えつつ、導いて下さる。 ------------- 追い詰められなければ主を求めない者だ。問題が片付きひと息つく とまた好き勝手に歩んでしまう。試練を通して、本当に必要として いるものを気づかせてもらおう。主を心に据えて歩もう。
2020年09月10日(木) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
サタンの特に巧妙さは、誘惑する際に、光の御使いに変装する事だ。 「サタンさえ光の御使いに変装するのです」つまり神に見せかけ、 良い、正しい、麗しい事に見せる。クリスチャンと同じ者だと思わ せる。又、目的のために手段を正当化させる。目的が正しいのだか ら、手段は構わないではないか、目的さえ達成すればよい、結果オ ーライだと誘惑して来る。 子供のためだと言い、親のエゴを突き進める。家族に楽をさせるた めだと、金銭的に、貪欲に誤った方向に走ってしまう。これはサタ ンの誘惑だ。誘惑を受けている。主は、目的も手段も、聖い、正し い事をされる。主は、人に自由意志を与えられた。この自由意志は、 神もサタンも関与できない。 サタンはこの自由意志に触れる事ができず、強制ができないので、 巧妙な手段を取る。何度も〃繰り返し〃執拗に誘惑する事によって、 罪に引ずりき込もうとする。絶えず〃欲望をかき立てられ続けるな ら、いつか必ず行動に移るのは目に見えている。私たちを神から離 そうとしているサタンが絶えず獲物を狙っている事を、覚えよう。 悪魔が策略を持って、臨んで来ている事に心していよう。あなたに 今、誘惑が来ているだろうか。サタンに気づけるように、祈ってい よう。 ---------- サタンは魅力的な策略を持って来る。そして私たちは誘惑に弱い。 備えが必要だ。朝から来ているサタンに気づけるよう祈っていよう。 御言葉に立って考え、決断できるように。
2020年09月09日(水) 「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
主は「何も思い煩わないで・・」と言っておられる。「何も」「い っさい」思い煩うなと。今、現在、あなたが思い煩っている、その 事も含まれる。思い煩わなくて良いとは、何という解放だろう。安 堵だろう。しかし、思い煩わなくてよいと言われても、思い煩うの が私たちだ。心の底を見て行くと、確かに思い煩いを、自分が選択 している。 苦しくてそれから逃れたいはずなのに、選択している自分がいる。 思い煩いから逃れたいのだが、心配していないと不安なのだ。冷静 になって考えると、思い煩いの対象を、その事を寝ても覚めても考 えている。そして繰り返し繰り返し思い煩う度に、その不安は更に 強固なものとなりモンスターになって行く。常に思っているのだか ら、ますます膨れ上がるのは、当然だ。 人はその思う通りの人になって行く、とある。自分で思い煩いをど んどん育て上げている。つまりは、サタンが、思いに吹き込む火矢 を拒否しないで、受け入れ、同意し続けている。サタンが思い煩い に誘惑し、攻撃している。繰り返し繰り返し考え、尚も考え続け、 心が壊れるまで考え続けるかも知れない。 逆に御言葉をそれほど繰り返し繰り返し思い、常に思い続けたらど んなに良いだろう。それほど御言葉に思いを潜めるなら、御言葉が 自分の思いとなって行く。主は「いっさい神にゆだねよ」と言われ る。心の底では、自分が握っていないと、主に手放す事は不安なの で、ゆだねられない。手放せないと祈り、助けを求めよう。主が委 ねられるようにして下さる。 ----------- 明日の事がわからないから恐れも不安も確かにある。どこに逃れの 場があるだろう。心配していれば安心だろうか。思い煩いはサタン との会話だと気づこう。力強い主の下に助けを求めよう。
2020年09月08日(火) 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」へブル12:2
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」へブル12:2
その前の節で「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて走ろう」 と言っている。思い煩い、不安、心配事、問題があるだろうか。 又、常にまとわりついて悩まされている罪、習慣があるだろうか。 足もとにまとわりつき、からみついていては、歩く事はおろか、走 る事などとてもできない。あなたのまとわりつく罪は何だろう。 絶えず悩まされる嫌な相手、ライバルへの妬み、傷つけられた相手 への憎しみ、処罰感情、性的な罪、噂話や悪口、怠惰、イライラ、 さばき、いつも主に告白して悔い改めては、繰り返してしまうだろ うか。いつも、とがめがあり辛くなるだろうか。それなら「心が元 気を失い、疲れ果てて」しまう。信仰生活が目標を目指して走るど ころか、ヘトヘトで、あえぎあえぎになってしまう。 こんな時は一人で悩まず、一緒に祈ってもらうと良い。「互いに罪 を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです」罪 を告白し、祈り合う時、癒され、祈りが聞かれ、主の力が働く。そ して「イエスから目を離さないでいなさい」今、何を見ているだろ う。目の前の辛い苦しい状況だろうか、それなら落ち込むだけだ。 心が暗くなり、重く苦しく、真っ暗な底に沈んで行く。 「イエスから目を離さないでいなさい」目の前の大変さでなく、主 を見上げる時、どんな時も希望がある。問題の解決を、御霊が一歩 一歩、御言葉を通して教え、なすべき事を示し、行なう力を与え導 いて下さる。必ず乗り越えさせて下さる。導きを求めて祈ろう。 ---------- 一人で抱え思い悩むと暗い方へと向かっていく。結果を主にお任せ して、主から目を離さずにいよう。主がら目を離したら、痛くて苦 しいだけになってしまう。
2020年09月07日(月) 「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:11
「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:11
別の箇所では、主の前では、人間のどんなにすぐれた知恵やはかり ごとも、役に立たないと言っている。そのため自分のはかりごと、 思い、プランを、絶えず主に明け渡して、ゆだねて行く事が大切だ。 私たちは、自分の思い、計画が、これこそが絶対に良い、ベストだ と思い込んでしまう。そしてどこまでも自分の思いと計画を成し遂 げたい。 頭では、主の御心がなりますように、主のご計画が最善とは思うの だが、肉の性質は、自分、自分と、自分の思いを通したい。そうし ていながら、なかなか気づかない。ある人が転職の誘いを受けた。 遠方であり、生活も大幅に変化する事になる。牧師に相談すると、 牧師は、今は動かない方が良いと反対だった。しかし高給で、何よ り才能が発揮できる、自分のしたい仕事だった。 すべてに魅力的に見えた。不安もあったが、自分の強い思いに従っ てしまった。そして転職した結果、高給なだけあって、仕事は高度 でハードだった。深夜帰宅も続き、段々、時間的にも精神的にも余 裕が無くなり、心身共にギリギリとなって行き、とうとう主から離 れてしまった。後の日に立ち返れたのだが、振り返る時、あの時は、 誘惑に負けてしまったと。 「主は何を喜ばれるのか」「主のお心は」の判断基準でなく、自分 の思いと好みで選んだしまった。その結果、痛い刈り取りをしなけ ればならなかった。主のはかりごとは、とこしえに立ち、御心の計 画は代々に至ること、主に従う時、豊かな実を結ぶ事を覚えよう。 -------------- 自分の考えも良いと思えるからこそ迷うが、本当に良いものは主の 御心に適う計画だ。私の思いではなく主のお心はと、冷静に御手に 委ねてみよう。主に従いますの態度で聞こう。
2020年09月06日(日) 「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚され たりすることのないように」ヘブル12:15
「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚され たりすることのないように」ヘブル12:15
信仰生活の中で、苦い心を抱くことを経験するだろうか。怒りや憤 り、妬み、憎しみ、赦せない思い・・対人関係の中で、行き違いがあ った時に、生まれて来る。御言葉は「無慈悲、憤り、怒り、叫び、 そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」、 「あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、 悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨てて しまいなさい」と言っている。 相手だけでなく、こちらにも非がある場合はわかるのだが、全くの 理不尽で、不当な扱いを受けた時に、どうしても怒りが湧き、処罰 感情が抑えられない。生まれつきの性質は、赦すどころか、何倍に もして報復したい。復讐したいのだ。しかしその場合も、苦しいの は自分だけだ。 嫌な思い、裁く思い、赦せない思いに、辛くてたまらないのは自分 だ。一人相撲で自分の心がどんどん浸蝕され、むしばまれて行く。 それは身体にもきて、体調まで崩したりする。主は「捨て去りなさ い」と。それを主にゆだねるようにと。処罰感情に支配されると、 捨てることが難しい。自我は握りしめて放さない。 自分にはそれは出来ないが、しかし祈ることができる。「捨てたく ありません」とありのまま祈ることから始めよう。主との交わりの 中で、御言葉を受け取り、捨てることが出来る。主との交わりの中 でのみ可能だ。主が働き、みわざをして下さる。 ・・・・・・・・・・・ 苦い根はそのままにしておくと、どんどんはびこってしまう。飲み 尽くされてしまう。恨みや怒り、赦せない思いは、思えば思うほど ますます赦せない。自分が辛いばかりだ。「握り締めて放せない」 からありのまま祈ろう。主に助けを求めるなら、必ず応えて下さる。
2020年09月05日(土) 「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうから です。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自 分のしたいと思うことをすることができないのです」ガラテヤ5:17
「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうから です。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自 分のしたいと思うことをすることができないのです」ガラテヤ5:17
肉とは、肉体でなく、神無しで生きる高ぶりであり、神に反抗し、 真理を憎み、罪を求める性質だ。神に敵対して行く生活原理だ。肉 は改良する事はできず、訓練も出来ない。訓練で良くなるものでな く、「肉」は捨て去るしかない。「肉によって生まれた者は肉です。 霊によって生まれた者は霊です」。 一見、肉が訓練されて霊になるように思うが、そうではない。肉が 霊になる事はない。肉は肉、霊は霊だ。新生した時に、新しい性質 を受ける。神のご性質だ。しかし肉もまだあり、且つ新しい性質も 宿すので、二つの性質が内にある。生まれつの肉のままに歩むと、 そこに戦いはない。自分の好きなように歩むので、葛藤が生じない だが御霊に従って歩もうとする時、肉との戦いが生じ、葛藤が起き る。肉は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう。この二つは対立し、自 分のした事が出来ない。例えば、嫌いな相手がいると、肉はずっと 嫌っていたいので、肉に歩むと葛藤はない。ところが御霊は愛する ように導かれる。すると肉と、御霊の導きが対立してそこに激しい 葛藤が起きて来る。 パウロも経験した。善をしたいと願うのに、したくない悪を行なう。 善をしたいのに、実行できない。本当にみじめな人間だと。そして 苦しんだパウロは解決を見い出した。自分の力でなく御霊によって 歩むことだと。「御霊によって歩め。そうすれば肉の欲望を満足さ せることはない」と。御霊の導きに従えるよう、祈ろう。 ・・・・・・・・・ 自分の力でやってみるが、必ず行き詰まる。行き詰まりが感謝だ。 成長するためには、砕きを通される。砕かれる。そして真剣に主に 助けを求める時に、必ず答えて下さる。「出来ません」と祈る時、 御霊の力によって、出来るようにされ、御霊の助けを経験して行く。
2020年09月04日(金) 「サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た」Uサムエル16:5
「サウルの家の一族のひとりが、そこから出て来た。その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た」Uサムエル16:5
シムイが呪いの言葉を吐き、ダビデと家来たちに石を投げつけた。 シムイは、ダビデがサウル家の血を流したと呪った。「出て行け、 出て行け。血まみれの男、よこしまな者」と。主がサウルの血を報 いたのだと。しかしダビデはサウル家の者の血は流してはいない。 不当な非難で中傷だった。部下がシムイを殺そうとしたが、ダビデ は止めた。 「ほうっておきなさい。彼に呪わせよ。主が彼に命じておられるの だから」とダビデはそこに主を認めた。サウル家の者は殺していな いが、血の非難はウリヤ殺害の罪についての、主からのものと受け とめた。「私をそしる者が敵ではありません。 それなら私は忍べ たでしょう」とシムイのそしりを意に介していない。 ダビデは自分で何とかしようとせず、自分に降りかかり、自分に起 きるすべての事を、主の御手からのものと従順に受け入れ、主にお ゆだねした。そして一つ一つ刈り取って行った。ダビデの信仰だっ た。そして、「主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろ いに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」と。 私たちはどうしても目の前の状況に即、反応してしまい、状況を変 えよう〃としてしまう、しかし状況でなく、主を見上げよう。悪意 をも、良いことのための計らいとして下さるお方だ。主に間違いは 無い。 ------------- 主が全てを知っていてくださるとの信仰に立てるのは幸いだ。人の 言葉に心を騒がせられない。今日ののろいに代えて、主はしあわせ を報いてくださると希望を待ち望める。真の慰めだ。
2020年09月03日(木) 「ダビデは、『アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している』という知らせを受けたが、そのとき、ダビデは言った。『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください』」Uサムエル15:31
「ダビデは、『アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している』という知らせを受けたが、そのとき、ダビデは言った。『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください』」Uサムエル15:31
アヒトフェルは、ダビデが最も信頼していた議官の一人だった。 「私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。 私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、 彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、 私の友、私の親友のおまえが。私たちは、いっしょに仲良く語り合 い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに」と。 反対者が敵対してくるのは、まだ対処できるが、同志であり親友が 裏切り、敵対して来るのは、この上無い痛み、辛さだ。しかしダビ デは、目の前に起きる様々な事が、バテシバと姦淫しウリヤを殺害 した罪の刈り取りである事がわかっていた。ダビデは真正面から受 け止め、刈り取って行った。 親友の裏切りである、この事も「アヒトフェルの助言を愚かなもの にして下さい」と主に委ね、主に信頼し、祈った。自分で対処せず に、祈りに持って行った。そして息子アブシャロムが謀反を起こし、 ダビデに向かって戦いの準備を進めていると耳に入る。息子とは戦 えない。ダビデは逃げる事を決意する。「ダビデはオリーブ山の坂 を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。 彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った」ダ ビデは泣いた。どれほどの苦しみ痛みだったろう。オリーブ山は主 を礼拝する場所だった。主の御心と受け止めたダビデは、痛みの中 で更に主に拠りすがり、主に近く歩む者とされた。 ---------- 何か事が起こる度にダビデは昔の罪を思い起こしただろう。そして 罪を思い出す度に、その罪を赦してくださった主の恵を思い、ます ます主に近づいていけた。痛ましい姿にみえても何処までも主と共 にいる。
2020年09月02日(水) 「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者が栄えるのを見たからである」詩篇73:2
「私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者が栄えるのを見たからである」詩篇73:2
詩篇記者は、悪者が栄えるのを見て落ち込んだ。彼らは楽しげで、 肥え太り、何の苦しみの無さそうで、安らかで、富を増している。 それに引き換え、自分は惨めで、苦しみばかりで、何の良い事もな い。この足はたわみそうで、歩みは滑るばかりと。なぜ神を信じな い者が栄えるのか。不平不満で一杯だ。欲求不満のかたまりだ。 その彼が、神の聖所に入り、光が与えられた。実は彼の不平不満や 妬みや愚痴、様々な悩みや悶々の原因は、外側のものでいっさい無 く、神の近くにいなかった事によるものと悟った。「私にとって、 神の近くにいることが幸せ」なのだと。真の問題は、様々な悩みや 苦しい状況ではなく、自分と神との関係だった。 自分が神から離れているから、神を見ずに、別のものを見ているか ら、喜びも平安も無く、妬みと愚痴と不満で一杯だった。それが信 仰にとって根本的なことだった。私たちも同様だ。愚痴や不満が募 る時、怒りでイライラ状態の時、本当の問題はその状況でなく、自 分と神との関係にある。神から離れているから、心が荒んでいる。 逆に、神と親しい交わりの中にいる時、状況がどんなに悲惨でも、 波風逆巻く大嵐の中でも、心は不思議な主の平安に守られる。問題 が問題でなくなる。一番大切で根本的な事は、自分と神との関係だ。 今、主との関係はどうだろう。距離があるなら、すぐに立ち返ろう。 平安が戻る。そして主との交わりの中でのみ、真の幸せと満足を感 じることができる。 -------- 自分だけが、と落ち込む時は自分の事しか見えていない。自己憐憫 でいっぱいだが、これは違うと神に祈ると賛美の力が戻ってくる。 神なる主はいつでも避け所だ。
2020年09月01日(火) 「なぜこの人を困らせるのですが。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」マルコ14:6
「なぜこの人を困らせるのですが。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」マルコ14:6
信仰人生で、「時」と「機会」は大切だ。時と機会は主から来る。 マリヤは、食卓についておられる主に、ナルドの石膏のつぼを割り 頭に注いだ。300万円とも言われる高価なものだ。当時の女性はよ く、結婚の時のためにと少しづつ貯えたようだ。マリヤは、主への 感謝と愛が溢れ出て、惜しげもなく、主に注ぎ尽くした。 十字架へと向かわれる主を、どんなにお慰めした事だろう。何も知 らない弟子たちは無駄な事をと憤慨した。貧乏な人達に施せば良い のにと。そして彼女を厳しく責めた。しかし、主はマリヤを弁護さ れた。わたしのために自分にできる事をしたのだと。主はその愛の 行為を受け取られた。愛は計算しない。肉は利得で動く。 自分にメリットが無いなら何もしたくない、する意味がない。しか し愛には計算が無く、損得勘定が無い。「しかし、上からの知恵は、 第一に純真であり・・」の通り、御霊に動かされる時、自分の損得 でなく、主をお喜ばせしたい一心となる。「貧しい人々はいつもあ なたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」 いつでも出来る事と、今、この時にしか出来ない事がある。 主が言われた通り、その時と機会を逸したなら、マリヤは香油を塗 ることができなかった。この後、主は十字架へと向かわれた。いつ でも「機会」があるのではない。御霊の示される貴重な、その時し かない「時」がある。それを逃したなら二度とない機会だ。今、も し御霊の示しがあるなら、時と機会を逃す事なく、主に愛を表わそ う。 ------------ 愛をもってじっと見ていなければ、また次もあるだろうと機会を逃 してしまう。マリヤのように何とか主をお喜ばせしたい、愛を表し たいと、その思いで見ていることが必要なのではないだろうか。