2002年11月30日(土)

「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4)

ある人の証しだ。親族の死、自らの離婚、病気、
倒産と、わけのわからないほどの苦しみが次か
ら次へと襲ってきた。もがけばもがくほど、ます
ます事態は悪くなって行った。人生の完全な敗北
者、失敗者に思えた。クリスチャンとしての証し
など成り立たないように思えた。余りの苦しみの
中で、エリヤのように死を願った事が何度もあ
った。失望落胆したエリヤは逃れの道が死だと
考えた。しかし、神のご計画は異なり、エリヤには
まだこの地上での使命があった。神はエリヤを
回復させ、再び立ち上がらせられた。もし、自分が
願った時に、自分の人生が終っていたら、子供達
の信仰告白、再び与えられた仕事、自らの人生
の夢の成就、それらを見る事は決して無かった。
愚かな願いを神が聞かれなかった事に感謝した。


2002年11月29日(金)

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)


 時々、ラッシュアワーにだけ作動する
信号を見る事がある。それ以外は止めら
れている。私達クリスチャンも時々そう
だ。時たまだけ光を出す。
普段はクリスチャンだと知られたくなく
て信仰を隠している。職場で何年も一緒
に仕事をしていて、同僚があなたをクリ
スチャンと知らないのではないか。
主は、私達の良い行ないを見て人々が天
の父をあがめるように、光を輝かせる者
になれといわれた。いつでも、自分が主
に属している事、弁明の用意があること、
私達は神の栄光のために生きており、す
べての事を神の栄光のためにする事を意
味している信仰を周囲に隠していないか。
自らの行き方によって、主を証しするよ
う、光を輝かせる事が出来るよう、まず
主のものである事を証しできるよう祈ろ
う。


2002年11月28日(木)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)


 夫に先立たれた婦人が、三人の子供を
育てていた。長男は就職して働いていた。
そこは給料が良く、自分もその関連会社
に仕事を得た。長男と自分の給料を合わ
せれば、下の子供達の教育費をまかなえ
ると思っていた。ところが、長男の会社
が倒産し、自分の関連会社も閉じる事に
なった。ふたり同時に失業しその不安と
恐れは大変なものだった。教育費どころ
か生活費も無く、めども立たなかった。
不安と恐れで眠れなくなり、深夜に神の
御前に心のすべてを打ち広げ心を注ぎ出
して祈った。御言葉を与えて下さるよう
切に祈った。その時、ピリピ4:6・7
が語られ、その時、心に平安が満ちた。
今の状況のすべてをご存知で入て下さる
という安心が心をおおった。久しぶりに
ぐっすり熟睡できたのであった。


2002年11月27日(水)

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)

エイズウィルスに感染したあるクリスチャンの証し
だ。血友病患者で、止血のための血液製剤の
凝固因子が汚染されていて、知らない内に感染
していたのだ。汚染血液が血液銀行に売られて
いたのが原因だった。「しかし、私は汚染血液
を売った人を赦します。たとえ私が死ぬにしても、
私は赦します。私には仕事があり、それを続け
たいし、死にたくはない。しかし、私には神が共
におられ、神のむちと杖を慰めにして、日々
前進して行く」。私達の国籍は天にあり、永遠の
備えが与えられている。あなたは永遠の備えが
出来ているか。私達は皆、いずれ必ず死を迎え
る。永遠をどこで過ごすかが一番大きな問題
だ。この世は一時的であり、私達は寄留者だ。
望みを神に置いて、神によって生きる時、
どんな中でも決して絶望は無い。


2002年11月26日(火)

「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けなければならないのではないか」(ヨブ2:10)


 突然母親の癌が発覚した。小さな子供は
言った。「なんで、お母さんが癌になるの?
なんで良いお母さんが苦しい目に会うの?」
母親は答えた。「この世で苦しみはあるわ。
だからこそ、お母さんは神様を知っている事
を心から喜んでいるのよ。もし、お母さんが
死んでも素晴らしい天の御国へ先に行って、
あなたが来るのを待っているわ」もし、私達
が苦しみに戸惑う時、神に心の疑問、苦悩を
ぶつければよい。しかし、神を非難するのは
的外れだ。神はヨブに試練を与えられた時、
その説明をされなかった。しかし、正しい事
が成されていると教えられた。
私達は説明が欲しくて、説明を求める。
しかし、神は、神に信頼する事を求められる
そして、主は私達の苦しみを負って下さって
いる。主が共におられる。


2002年11月25日(月)

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ・・私達の神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(イザヤ55:6)




 山の中で道に迷った事があるだろうか。
右と左の分かれ目に来て、間違った方向へ
進んでしまう。その時には、間違った場所
へ、一旦引き返す事だ。霊的生活において
も同様だ。しばしば悪い言葉を口から出し
てしまったり、悪い態度を取ったり、嘘を
言ってしまう。その悪い態度をそのままに
しているなら、どんどん正反対の方向へ向
かってしまう。間違ったなら元の地点に引
き返す事だ。悔い改めるなら、神はいつで
も豊かに赦して下さる。山で迷った事を思
い出せばよい。方向を間違ったなら、元い
た場所まで引き返す。悔い改めによって、
いつでもやり直しが出来る。神は恵み深い
お方だ。あなたは今、反対方向に向かい道
をそれているか。方向変換せよ。やり直せ
ばよいのだ。神は豊かに赦して下さる。


2002年11月24日(日)

「私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか」(詩篇42:9)

あなたは恐れのある時、不安な時、しっかりと自分
に言い聞かせているか。詩篇42編の記者は、独り
ごとをつぶやいた。神を慕い、礼拝したかったが、
遠くにいたのでエルサレムの神殿に行く事ができな
かった。周囲の人々は「お前の神はどこにいるのか」
と嘲った。彼はひどく落ち込み、絶望したが、諦め
るのでなく、自分に言い聞かせた。「神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」と。
神のご人格について、真理について自分に語った
時、彼は強められ、力づけられたのだ。落ち込む
時は、なすがままになっているのでなく、自分自身
にメッセージすべきだ。「神は私を愛しておられる。
神に不可能は何も無い。神はご計画をお持ちだ。
神は真実なお方、耐えられない試練は無い、逃れ
の道がある」等と。真実なひとり言は有益だ。サタ
ンの攻撃に屈してはならない。立ち向かえ。


2002年11月23日(土)

「ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところへ行って報告した」(マタイ14:12)

こんな聖歌がある。「告げよ主に、告げよ今、内
にある悩みを、み恵みに富める主は、聞き給わん
親しく、主のもとに下ろせ、なが重き荷のすべてを、
み恵みに富める主は、取り給わん、残らず」
バプテスマのヨハネが首を切られ、殺された後、
ヨハネの弟子達は死体を引きとって葬った。
どんなに悲しみにくれたことだろう。しかし、彼ら
には、なすすべが何も無かった。何一つできなか
った。しかし、彼らに出来る唯一のことがあった。
それは「イエスのところへ行って報告した」ことだ。
弟子達にできるただ一つの事だったが、最高の
ことだった。私達も何一つできない時、イエスに
告げることができる。これほどの特権があるだろう
か。死別や離別、悲しみ、辛さの中にある時、
イエスに告げよ。イエスに語れ。主はその心を
受け止め、理解し、癒しの手を延べて下さる。
心の思いをイエスに告げよ。


2002年11月22日(金)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(Uコリント7:10)


 私達が罪を犯した時には、罪の赦しが備えら
れている。御子イエスの血はすべての罪から私
達をきよめるのであり、罪を認め告白する時、
赦される。神のみこころに添って悲しんだから
心から悔い改めたから、過去は完全に清算され、
無罪放免にして下さった。
しかし、クリスチャンであるのに、罪赦された
と感じる事が出来ないと言う人々がいる。
失敗し過失を犯した時は、誰しも後悔する。
恥ずかしい結果が無ければ良いと思う。
いたずらにただ悪い結果を後悔している事が
世の悲しみだ。そこからは何も生まれないし
赦しも無い。いたずらに後悔するのではなく
悔い改めるのだ。犯してしまった結果は取り消
せないが、神は赦して下さり、罪赦された平安
と喜びで満たして下さる。悔い改めるなら、喜
びを変えして下さる。


2002年11月20日(水)

「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです」(Tコリント3:12)

というのは、その日は火とともに現われ、この火が
その力で各人の働きの真価をためす・・とある。
イエス・キリストを土台にして、その上に建築物を
どのように建てるかについて、よくよく注意する必要
がある。かの日にそれらはすべて、火によって試さ
れるからだ。その火は地獄の火ではなく、さばきの
火だ。キリストを持たない者は、すべて自らの罪に
対して永遠の罰を受ける。自ら犯した罪の報いだ。
クリスチャンは地獄へ行くことは決してないが、
その働きをさばかれる。木、草、わらで建てたもの
はすべて焼かれて失せて無くなってしまう。あなた
は日々、どんな建物を建てているだろう。木、わら
草とは、神の栄光のためでなく、自分の栄光、自分
の賞賛、自分の快楽、自分の欲望のために、自分
の力でなしたことだ。それらはすべて燃え尽きてし
まう。神の栄光のために、神に頼ってしたことが
永遠に残る。報いを受ける。常に私達の動機は
どうだろう。


2002年11月19日(火)

「彼らの中にある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました」(Tコリント10:10)


 苦難のエジプトから神が奇跡をもって開放
して下さったイスラエルの民は、荒野には入
るや、不平不満を言出した。
荒野には水がない食物がない、果てはエジプ
トにおればよかった、エジプトに帰りたいな
どと。彼らは約束の地へ行くまでの困難が嫌
だったのだ。彼らは様々の事について不平不
満を言い、つぶやいてた。その不信仰は神の
怒りを招いた。一万五千人もの人々が神に向
かってつぶやいたゆえに滅ぼされてしまった。
私達の多くも、自分の思い通りにならなけれ
ばつぶやく。つぶやきは神を悲しませる。
しかし、感謝に満ちた心は神を喜ばせる。
神は感謝する事を喜ばれる。どんな状況の中
でも、恵みを数えて感謝する事は神の御名を
崇める事になりサタンの足場を無くしてしま
う。


2002年11月18日(月)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)


 当時の奴隷の生活は悲惨なものであった。
人間としては扱われず、物同然だった。
働きづめで、休みなどほとんど無かった。
しかし、クリスチャンの奴隷はそんな虐げの
中でも光を見出していた。
彼らは皆、真の主人であるイエス・キリスト
のために働いていた。キリストから頂く賞賛
のために懸命に働いていた。こんな言葉があ
る。「もし道路掃除人として召されたなら、神
聖な仕事であり、真剣に最高の道路掃除をすべ
きだ」あなたの仕事は毎日同じで単調そのもの
かも知れない。あなたの主人はあなたを正しく
評価してくれないかも知れない。賃金も不等な
ものかも知れない。しかし、あなたは直接的に
も、最終的にも、働いているのは主キリストの
ためだ。かの日に「よくやった。好い忠実なし
もべだ」と言われるよう日々の仕事を果たすべ
きだ。


2002年11月17日(日)

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。・・あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり」(イザヤ43:1)

一人の婦人が遠い昔を思い起こした。小さい子供
を抱えて離婚に至った。子供をどうやって育てられ
るのだろうか。不安と恐れで立ちつくし、大きな責任
におののいた。一人で育てるなど不可能に思えた。
しかし、主は世の終りまで共にいると約束された。
約束通り、主はいつも共にいて下さった。深い水
の中を通った。火の中も通った。どのような苦しみ、
困難な時にも主は共におられた。やがて子供達は
成人した。それらの期間を通して、霊的に弱かった
者を強い者へと成長させて下さり、忠実な者と変えて
下さった。数々の試練の中で強められて行った。
あの頃は乗り越えられないような障害物に見えた
ものは、今、小石に見える。神は歳月の中で、
何よりも彼女自身を形造り、成長させて下さった。
神は常に、あなたに働きかけ、みこころにかなう
者に造り上げて下さる。


2002年11月16日(土)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:5)

多くの人は、人に嫌われたくない、むしろ好かれた
いと思っている。それゆえ、人の間違いを指摘する
のは難しい。相手の不真実な言動や行ない、不道
徳な行為を示すのは、たやすい事ではない。しかし、
御言葉は、神に導かれて、はっきりと指摘する事は、
愛することであり、それは相手への愛だと言っている。
柔和に穏やかに語るなら、救いを提供する機会に
神はして下さる。真の友は、もし傷つける事になろう
とも、益になる事を語ってくれる。欠点を指摘し、忠
告してくれる。それは痛いが、それを言ってくれる
友こそ真の友だ。私達の肉の性質は、自分にとって
耳ざわりの良い、都合の良い事だけに耳を傾け
たいものだ。しかし、愛する者が傷つける方が真実。
聖霊様も、私達に常に間違いを指摘して下さっている。


2002年11月15日(金)

「もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか」(マタイ18:12)


 幼稚園から遊園地に遠足に行った。親同伴で、
園内では自由行動。三々五々、皆がグループに
分かれ、好きなように過ごしていた。
集合時刻になった時、子供が一人見当たらない
事に気づいた。その辺にいるだろうと皆で探し
たが、見つからない。段々、大人の顔に不安が
表われ更に懸命に捜した。園内中捜し回り、や
っと子供が見つかった。私達が道をそれて迷い
出た時、神は同じように私達を捜し追い求めて
下さる。わがままで自己中心な私達を神はひた
すら捜していて下さる。すぐに世の快楽、欲望
に目を奪われ、あちこちさまよってしまう私達
を、尚も愛を持って追いかけ続けて下さる。
もし放っておかれたら、どうなっていた事だろ
う。あなたを決して見捨てず追い続けて下さる
神の愛、主に抱かれ、家に戻る。


2002年11月14日(木)

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)


 一人の男性が大学在学中に難病が発病。
将来どのようになるかわからないと言われ
失意の内に大学を中退し、闘病生活の入っ
た。その時から祈り始め、暗闇の中で、生
涯を神に明け渡した。祈り続けていると、
不思議な事に、難病に関わらず身体が癒さ
れて行き、忍耐の治療生活の後、日常生活
が何とか大きな支障なく出来るようになっ
て行った。将来の導きを祈っていた時、
宣教師一家との親しい交わりに入れられた
その幸いな交わりの中で、心身ともに新た
にされ、霊的に恵まれどんどん成長して行
った。やがて神学校への導きが与えられ、
今その宣教師を助けて、神のために働く身
とされている。神は失望と落胆から救い出
され、心身を癒さし、人生を全く変えられ
た。神はどの人にとっても、起こるすべて
の事を益として下さり、最善の人生へと導
いて下さる。


2002年11月13日(水)

「また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイ13:5)しかし、日

ある人が、種蒔きのメッセージを聞いた時、自分が
岩地だとわかった。土が薄く、根が浅いのだ。日曜
毎に熱心にメッセージを聞きはするが、月曜から
は、まるで別人のごとく、世にまみれてしまう。御言葉
など飛んでしまう。古い人に支配されてしまう。日曜
クリスチャンだった。しかし、自分の現実をはっきり
認識した後、少しづつだが、自分が変えられている
のがわかった。御言葉を読むことを始め、祈る事を
始めた。毎日規則的にそうする事を始め、それを続
けた。クリスチャンの交わりに加わり、自分に可能な
奉仕にも参加し出した。少しづつだが、自分が成長
している事がわかった。すべては、自分の現状を
はっきり認識する事から始まる。自分が変わりたい
と願う時、聖霊は助けて下さる。成長へと導いて
下さる。まず、自分の破れがはっきりと見えるように。


2002年11月11日(月)

「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えになんと答えるかを見よう」(ハバクク2:1)

 預言者ハバククは、人々を虐待するバビロンに
悩まされていた。「なぜ、悪者が栄え、罰を受け
ないでいるのか」疑問を神にぶつけた。
神との交わり、祈りは、その答えを受け取るため
のハバククの手段だった。心の内を神にぶつけて、
神の答えを見張った。私達も同じことが出来る。
問題、悩みがある時、また混乱しそうな時、心の
内をことごとく、神に祈りによって打ち明け、そ
して、御言葉を通して語られる答えを見張るのだ
。神の御声を聞いて行くのだ。そのための時間を
取る必要がある。語るのと同じくらい、耳を傾け
て聞くべきだ。そうするなら、神のお心がわかる。
神に自分の言いたい事を言うだけ言い、神に聞く
ための時間を取らない人が多い。困難を神に言う
だけでなく、その答えを聞くための時間を取る事
が必要。


2002年11月10日(日)

「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)

沢山の仕事と雑用を抱え、特に忙しい1日が始まった。
朝食を取る時間もなく、コーヒー一杯で済ませた。急ぐ
雑用があり、予定していたデボーションの時を失って
しまった。昼食も仕事をしながら、簡単なファースト
フードで済ませた。最近身体にだるさを感じていた。
多忙過ぎて、食事は不規則、簡単なものばかり、
そのせいだと思った瞬間、聖霊様が気づかせて
下さった。そうではなく、霊的な食事を取っていない
せいだと。霊的エネルギーが失せていたのだ。
命のパンを食す必要があったのだ。イエスこそ、日毎
の力だ。日毎に身体に栄養が必要なように、魂にも
栄養が必要だ。主と共に過ごす十分な時間が必要
だ。神は、「さあ、来て食せよ」と豊かな食物を備え
ていて下さる。主のもとに、行かなければ得られない。


2002年11月09日(土)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、べきものを捜し求めながら歩き回っています」(Tペテロ5:8)食い尽くす

         
食い尽くすべきものを捜し歩き回っているサタンを
いつも覚えていなければならない。あなたはいつも
漠然とした罪意識にさいなまれていないか。いつも
自分はダメだと感じる。きよくない自分はふさわしく
ない。罪だらけだ。すでに神様に告白して、解決
している罪をくよくよ思い煩う。これらはサタンから
来ている攻撃だ。24時間絶え間無く攻撃してくる。
罪を犯したなら、はっきり神に告白して悔い改める
ことだ。そうするなら、神は完全に赦して下さる。
その後に来るのは悪魔だ。赦されていないと嘘を
ついて来る。悪魔が攻撃してきた時、イエスの血潮
によらず、自分の義に立つと敗北する。悪魔の攻撃
に言い訳し、自分を正当化しようとする。自分の内
にはいっさい正しさも義も無い。私達の義はイエス
による。


2002年11月08日(金)

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)


 幸せになりたいと思わない人はこの世に
いないだろう。人は誰しも幸せになりたい
幸せや喜びが喉から手が出るほど得たいの
に、持つことが出来ない。何処に問題があ
るのか。私達は自分の欲望が満たされるな
ら幸せになれると思う。それが間違いで、
自分の欲望は幾ら満たされても一瞬の快楽
で心は虚しいのだ。真の喜びと幸せは、自
分の欲望ではなく、神のお心に従うときに
来るのだ。自分を喜ばせようとしている限
り、永遠に手に入れる事の出来ないものな
のだ。イエスのみこころを行う事を人生の
喜びとするなら、あなたは真の幸せを手に
入れる事が出来る。
真の喜びとは悲しみや苦しみのない状態で
なく、その真っ只中でも尚も希望がある。
幸せは欲望の満足でなく、主イエスから来
る。みこころを行う事から来る。


2002年11月07日(木)

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)


 私達は、主イエス・キリストを信じて、
心にお迎えした。今、私達の心の中に住ん
でいて下さる。イエスを心の家にお迎えし
たが、あなたの心には色々な部屋がある。
あなたはどの部屋に主イエスをお入れして
いるか。ゲストルームにだけ来て頂いてい
るお客様か。居間も自分の部屋にも入られ
ては困るのではないか。居間は自由にして
いたいし、自分の部屋では、もっと好き勝
手いにしていたい。干渉されては困る、
これが本音だろうか。応接間にだけいてく
ださいと。主はあなたの全ての部屋を明け
渡して欲しいと望んでおられる。
鍵を渡せない心の部屋があるか。部屋に入
って頂くなら、その部屋を綺麗にきよめて
くださる。自己中心を従順に、敵対心を愛
に、怠慢を勤勉に主は変えて行ってくださ
る。部屋を渡せ。


2002年11月06日(水)

「神は仰せられた「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」(出エ3:5)

ある主婦は小さい子供を抱え、目の回るような日々
を送っていた。幾ら片付けても散らかり、部屋は雑然、
子供は1日中目が離せず、手かせ足かせで、自分の
したい事は何もできず、イライラしていた。しんどくて
重荷で押しつぶされそうだった。何もかも投げ出し
たい思いにかられ、どうしようもなくなった時、主の
御前に静まり、心を打ち広げ祈りの時を持った。
すると神は、あなたの立っている地は聖なる地と
語られた。他でもない神が遣わされた場所だと
目が開かれる時、状況の中に神が見えてくる。
主婦は家庭で、働く人は仕事場で、学生は学校
で、そこにあなたを置かれたのは神であり、そこ
は聖なる地だ。そのところで、あなたは用いられる。
その場所で、神に対して、あなたの心を大きく
開け。


2002年11月05日(火)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(Uコリント12:9)


 「弱さ」と「罪」をしばしば混同する人々がいる
しかし、これらは別のものだ。弱さは罪ではない。
むしろ、そこに神の力が現れ栄光を見ることができ
るものだ。しかし、罪を弱さで覆い隠してしまうこ
とがある。母親の「ご飯ですよ。手を洗いなさり」
の命令を無視して、遊び続ける子供は、「弱い」の
ではなく「不従順」なのだ。神のみこころを無視し
て、自分勝手な道を歩む大人も同じだ。
兄弟でケーキを分けるのに大きい方を取るのは、
「弱い」のではなく「自己中心」。弱さと罪をすり
替えることを止め、罪は悔い改め、自分は神なしで
は生きていけない、弱い者である事を認め、神のみ
前にへりくだる時、神は必ず必要な助けと力を与え
て下さる。自分の力に頼らない限り、神はあなたの
弱さのうちに働かれ、神の力を経験して行く。


2002年11月04日(月)

『主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである』(Tサムエル3:21)

 ラジオを聞く事があるだろうか。
ニュースや音楽を聞く時、サイクルに
合わせる。他のラジオ局と混信しない
よう、聞きたい局に位置を合わせて、
番組を楽しむ。神との交わりもよく似
ている。神の方へ向いてアンテナを合
わせ、周波数を合わせなければならな
い。この世界に発信されている絶え間
ない騒音はその妨げになる。この世界
の様々な騒音に妨害されて、神からの
発信が聞こえて来ない。そんな時こそ
よけいに、アンテナを向けて周波数を
合わせなければならない。
自分の位置を変える必要がある。心を
沈めて、神に向き、祈る事だ。
そうするなら、神に焦点が合い、御声
が聞ける。神の御声を聞き、神に教え
られ、私達は変えられる。神に聞く時
神のみこころを悟り、神のみこころを
行える。はっきりと神の御声を聞ける
ようにサイクルを合わせ、自分の位置
を変えよう。


2002年11月03日(日)

「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである」(マタイ13:14)

一人の婦人が事故に会った。右折で、直進車が
見えず、交差点で衝突。車は滅茶苦茶になった
が幸いけがはなかった。車が全然見えなかった
と言ったが、ある男性は、何もかもが全く見えな
かったため、人生を踏みはずしてしまった。
目の前の欲望しか目に入らなかった。自己中心
な、わがままな道を歩み続け、とうとう法を犯して
しまった。その結果、苦しみの刈り取りをしなけ
ればならなかった。家庭崩壊、離婚、子供との
離別、健康を害する事、身柄の拘束・・。何も
見えてはいなかった。神に立ち返り心から悔いて
いる。蒔いた種は刈り取らなければならない。
不信仰の罪の種でなく、信仰の従順の種を
蒔こう。どんなに素晴らしい御霊の実を刈り
取ることだろう。


2002年11月02日(土)

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

旅行先で、素晴らしい景色に出くわした。是非
写真に収めようとカメラを取り出すと、あいにく
フィルムが無くなっていた。近くに店は無く、が
っかりした。しかし、移動先でフィルムが買えた。
そして、翌朝はこれまで見た事もない、見事な
素晴らしい景色を撮影できたのだ。神様は時々、
自分の心からの願いを叶えて下さらないと思う
時がある。しかし、そうではなく、もっと素晴らし
い、遥かに良いものを、いつも備えて下さって
いる。私達は沢山の願い事を神に献げて来た。
「子供の進学を導いて下さい」「夫の仕事を
祝福して下さい」「対人関係の悩みを助けて
下さい」様々な願いをしてきた。神様はそれら
すべてを最善の形で答えて下さったのだ。
それは、しばしば自分の思い通りの形では
なかったが、心に平安を与えて下さった。
神を持つ者はすべてを持っている。



2002年11月01日(金)

『イエスは言われた「七度まで、などどわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います』(マタイ18:22)


 ある婦人、結婚した娘から電話がか
かった。深刻な悩みがあり、母親に聞
いてもらい、慰めが欲しかった。しか
し、母親は聞くなりパニックになって
しまい、娘の欠点や間違いをまくし立
て、娘を深く傷つけてしまった。
娘は母を避け、もう幾ら電話しても出
なかった。母子関係はどんどん悪化し
て行った。悶々としていると、彼女の
夫が娘に手紙を出して気持ちを告げて
言い過ぎた事は謝り、娘への愛は決し
て変わらない事をわかってもらうよう
に助言した。そのようにした時、娘は
心を開き、母子関係は修復、回復した
のだった。傷ついた娘は母親を赦した
が、その赦しが以前よりももっと親子
関係を近づけ、堅いものとなった。
赦しは、関係を修復し癒しをもたらす
そこに愛が生まれる。あなたは誰かと
の関係を修復しなければならないので
はないか。