2002年11月30日(土) 「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4)
「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4)
ある人の証しだ。親族の死、自らの離婚、病気、 倒産と、わけのわからないほどの苦しみが次か ら次へと襲ってきた。もがけばもがくほど、ます ます事態は悪くなって行った。人生の完全な敗北 者、失敗者に思えた。クリスチャンとしての証し など成り立たないように思えた。余りの苦しみの 中で、エリヤのように死を願った事が何度もあ った。失望落胆したエリヤは逃れの道が死だと 考えた。しかし、神のご計画は異なり、エリヤには まだこの地上での使命があった。神はエリヤを 回復させ、再び立ち上がらせられた。もし、自分が 願った時に、自分の人生が終っていたら、子供達 の信仰告白、再び与えられた仕事、自らの人生 の夢の成就、それらを見る事は決して無かった。 愚かな願いを神が聞かれなかった事に感謝した。
2002年11月29日(金) 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)
時々、ラッシュアワーにだけ作動する 信号を見る事がある。それ以外は止めら れている。私達クリスチャンも時々そう だ。時たまだけ光を出す。 普段はクリスチャンだと知られたくなく て信仰を隠している。職場で何年も一緒 に仕事をしていて、同僚があなたをクリ スチャンと知らないのではないか。 主は、私達の良い行ないを見て人々が天 の父をあがめるように、光を輝かせる者 になれといわれた。いつでも、自分が主 に属している事、弁明の用意があること、 私達は神の栄光のために生きており、す べての事を神の栄光のためにする事を意 味している信仰を周囲に隠していないか。 自らの行き方によって、主を証しするよ う、光を輝かせる事が出来るよう、まず 主のものである事を証しできるよう祈ろ う。
2002年11月28日(木) 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)
夫に先立たれた婦人が、三人の子供を 育てていた。長男は就職して働いていた。 そこは給料が良く、自分もその関連会社 に仕事を得た。長男と自分の給料を合わ せれば、下の子供達の教育費をまかなえ ると思っていた。ところが、長男の会社 が倒産し、自分の関連会社も閉じる事に なった。ふたり同時に失業しその不安と 恐れは大変なものだった。教育費どころ か生活費も無く、めども立たなかった。 不安と恐れで眠れなくなり、深夜に神の 御前に心のすべてを打ち広げ心を注ぎ出 して祈った。御言葉を与えて下さるよう 切に祈った。その時、ピリピ4:6・7 が語られ、その時、心に平安が満ちた。 今の状況のすべてをご存知で入て下さる という安心が心をおおった。久しぶりに ぐっすり熟睡できたのであった。
2002年11月27日(水) 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)
エイズウィルスに感染したあるクリスチャンの証し だ。血友病患者で、止血のための血液製剤の 凝固因子が汚染されていて、知らない内に感染 していたのだ。汚染血液が血液銀行に売られて いたのが原因だった。「しかし、私は汚染血液 を売った人を赦します。たとえ私が死ぬにしても、 私は赦します。私には仕事があり、それを続け たいし、死にたくはない。しかし、私には神が共 におられ、神のむちと杖を慰めにして、日々 前進して行く」。私達の国籍は天にあり、永遠の 備えが与えられている。あなたは永遠の備えが 出来ているか。私達は皆、いずれ必ず死を迎え る。永遠をどこで過ごすかが一番大きな問題 だ。この世は一時的であり、私達は寄留者だ。 望みを神に置いて、神によって生きる時、 どんな中でも決して絶望は無い。
2002年11月26日(火) 「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けなければならないのではないか」(ヨブ2:10)
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けなければならないのではないか」(ヨブ2:10)
突然母親の癌が発覚した。小さな子供は 言った。「なんで、お母さんが癌になるの? なんで良いお母さんが苦しい目に会うの?」 母親は答えた。「この世で苦しみはあるわ。 だからこそ、お母さんは神様を知っている事 を心から喜んでいるのよ。もし、お母さんが 死んでも素晴らしい天の御国へ先に行って、 あなたが来るのを待っているわ」もし、私達 が苦しみに戸惑う時、神に心の疑問、苦悩を ぶつければよい。しかし、神を非難するのは 的外れだ。神はヨブに試練を与えられた時、 その説明をされなかった。しかし、正しい事 が成されていると教えられた。 私達は説明が欲しくて、説明を求める。 しかし、神は、神に信頼する事を求められる そして、主は私達の苦しみを負って下さって いる。主が共におられる。
2002年11月25日(月) 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ・・私達の神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(イザヤ55:6)
「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ・・私達の神に帰れ。豊かに赦してくださるから」(イザヤ55:6)
山の中で道に迷った事があるだろうか。 右と左の分かれ目に来て、間違った方向へ 進んでしまう。その時には、間違った場所 へ、一旦引き返す事だ。霊的生活において も同様だ。しばしば悪い言葉を口から出し てしまったり、悪い態度を取ったり、嘘を 言ってしまう。その悪い態度をそのままに しているなら、どんどん正反対の方向へ向 かってしまう。間違ったなら元の地点に引 き返す事だ。悔い改めるなら、神はいつで も豊かに赦して下さる。山で迷った事を思 い出せばよい。方向を間違ったなら、元い た場所まで引き返す。悔い改めによって、 いつでもやり直しが出来る。神は恵み深い お方だ。あなたは今、反対方向に向かい道 をそれているか。方向変換せよ。やり直せ ばよいのだ。神は豊かに赦して下さる。
2002年11月24日(日) 「私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか」(詩篇42:9)
「私は、わが巌の神に申し上げます。「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか」(詩篇42:9)
あなたは恐れのある時、不安な時、しっかりと自分 に言い聞かせているか。詩篇42編の記者は、独り ごとをつぶやいた。神を慕い、礼拝したかったが、 遠くにいたのでエルサレムの神殿に行く事ができな かった。周囲の人々は「お前の神はどこにいるのか」 と嘲った。彼はひどく落ち込み、絶望したが、諦め るのでなく、自分に言い聞かせた。「神を待ち望め。 私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを」と。 神のご人格について、真理について自分に語った 時、彼は強められ、力づけられたのだ。落ち込む 時は、なすがままになっているのでなく、自分自身 にメッセージすべきだ。「神は私を愛しておられる。 神に不可能は何も無い。神はご計画をお持ちだ。 神は真実なお方、耐えられない試練は無い、逃れ の道がある」等と。真実なひとり言は有益だ。サタ ンの攻撃に屈してはならない。立ち向かえ。
2002年11月23日(土) 「ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところへ行って報告した」(マタイ14:12)
「ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところへ行って報告した」(マタイ14:12)
こんな聖歌がある。「告げよ主に、告げよ今、内 にある悩みを、み恵みに富める主は、聞き給わん 親しく、主のもとに下ろせ、なが重き荷のすべてを、 み恵みに富める主は、取り給わん、残らず」 バプテスマのヨハネが首を切られ、殺された後、 ヨハネの弟子達は死体を引きとって葬った。 どんなに悲しみにくれたことだろう。しかし、彼ら には、なすすべが何も無かった。何一つできなか った。しかし、彼らに出来る唯一のことがあった。 それは「イエスのところへ行って報告した」ことだ。 弟子達にできるただ一つの事だったが、最高の ことだった。私達も何一つできない時、イエスに 告げることができる。これほどの特権があるだろう か。死別や離別、悲しみ、辛さの中にある時、 イエスに告げよ。イエスに語れ。主はその心を 受け止め、理解し、癒しの手を延べて下さる。 心の思いをイエスに告げよ。
2002年11月22日(金) 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(Uコリント7:10)
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(Uコリント7:10)
私達が罪を犯した時には、罪の赦しが備えら れている。御子イエスの血はすべての罪から私 達をきよめるのであり、罪を認め告白する時、 赦される。神のみこころに添って悲しんだから 心から悔い改めたから、過去は完全に清算され、 無罪放免にして下さった。 しかし、クリスチャンであるのに、罪赦された と感じる事が出来ないと言う人々がいる。 失敗し過失を犯した時は、誰しも後悔する。 恥ずかしい結果が無ければ良いと思う。 いたずらにただ悪い結果を後悔している事が 世の悲しみだ。そこからは何も生まれないし 赦しも無い。いたずらに後悔するのではなく 悔い改めるのだ。犯してしまった結果は取り消 せないが、神は赦して下さり、罪赦された平安 と喜びで満たして下さる。悔い改めるなら、喜 びを変えして下さる。
2002年11月20日(水) 「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです」(Tコリント3:12)
「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです」(Tコリント3:12)
というのは、その日は火とともに現われ、この火が その力で各人の働きの真価をためす・・とある。 イエス・キリストを土台にして、その上に建築物を どのように建てるかについて、よくよく注意する必要 がある。かの日にそれらはすべて、火によって試さ れるからだ。その火は地獄の火ではなく、さばきの 火だ。キリストを持たない者は、すべて自らの罪に 対して永遠の罰を受ける。自ら犯した罪の報いだ。 クリスチャンは地獄へ行くことは決してないが、 その働きをさばかれる。木、草、わらで建てたもの はすべて焼かれて失せて無くなってしまう。あなた は日々、どんな建物を建てているだろう。木、わら 草とは、神の栄光のためでなく、自分の栄光、自分 の賞賛、自分の快楽、自分の欲望のために、自分 の力でなしたことだ。それらはすべて燃え尽きてし まう。神の栄光のために、神に頼ってしたことが 永遠に残る。報いを受ける。常に私達の動機は どうだろう。
2002年11月19日(火) 「彼らの中にある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました」(Tコリント10:10)
「彼らの中にある人たちがつぶやいたのにならって、つぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました」(Tコリント10:10)
苦難のエジプトから神が奇跡をもって開放 して下さったイスラエルの民は、荒野には入 るや、不平不満を言出した。 荒野には水がない食物がない、果てはエジプ トにおればよかった、エジプトに帰りたいな どと。彼らは約束の地へ行くまでの困難が嫌 だったのだ。彼らは様々の事について不平不 満を言い、つぶやいてた。その不信仰は神の 怒りを招いた。一万五千人もの人々が神に向 かってつぶやいたゆえに滅ぼされてしまった。 私達の多くも、自分の思い通りにならなけれ ばつぶやく。つぶやきは神を悲しませる。 しかし、感謝に満ちた心は神を喜ばせる。 神は感謝する事を喜ばれる。どんな状況の中 でも、恵みを数えて感謝する事は神の御名を 崇める事になりサタンの足場を無くしてしま う。
2002年11月18日(月) 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)
当時の奴隷の生活は悲惨なものであった。 人間としては扱われず、物同然だった。 働きづめで、休みなどほとんど無かった。 しかし、クリスチャンの奴隷はそんな虐げの 中でも光を見出していた。 彼らは皆、真の主人であるイエス・キリスト のために働いていた。キリストから頂く賞賛 のために懸命に働いていた。こんな言葉があ る。「もし道路掃除人として召されたなら、神 聖な仕事であり、真剣に最高の道路掃除をすべ きだ」あなたの仕事は毎日同じで単調そのもの かも知れない。あなたの主人はあなたを正しく 評価してくれないかも知れない。賃金も不等な ものかも知れない。しかし、あなたは直接的に も、最終的にも、働いているのは主キリストの ためだ。かの日に「よくやった。好い忠実なし もべだ」と言われるよう日々の仕事を果たすべ きだ。
2002年11月17日(日) 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。・・あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり」(イザヤ43:1)
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。・・あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり」(イザヤ43:1)
一人の婦人が遠い昔を思い起こした。小さい子供 を抱えて離婚に至った。子供をどうやって育てられ るのだろうか。不安と恐れで立ちつくし、大きな責任 におののいた。一人で育てるなど不可能に思えた。 しかし、主は世の終りまで共にいると約束された。 約束通り、主はいつも共にいて下さった。深い水 の中を通った。火の中も通った。どのような苦しみ、 困難な時にも主は共におられた。やがて子供達は 成人した。それらの期間を通して、霊的に弱かった 者を強い者へと成長させて下さり、忠実な者と変えて 下さった。数々の試練の中で強められて行った。 あの頃は乗り越えられないような障害物に見えた ものは、今、小石に見える。神は歳月の中で、 何よりも彼女自身を形造り、成長させて下さった。 神は常に、あなたに働きかけ、みこころにかなう 者に造り上げて下さる。
2002年11月16日(土) 「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:5)
「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」(箴言27:5)
多くの人は、人に嫌われたくない、むしろ好かれた いと思っている。それゆえ、人の間違いを指摘する のは難しい。相手の不真実な言動や行ない、不道 徳な行為を示すのは、たやすい事ではない。しかし、 御言葉は、神に導かれて、はっきりと指摘する事は、 愛することであり、それは相手への愛だと言っている。 柔和に穏やかに語るなら、救いを提供する機会に 神はして下さる。真の友は、もし傷つける事になろう とも、益になる事を語ってくれる。欠点を指摘し、忠 告してくれる。それは痛いが、それを言ってくれる 友こそ真の友だ。私達の肉の性質は、自分にとって 耳ざわりの良い、都合の良い事だけに耳を傾け たいものだ。しかし、愛する者が傷つける方が真実。 聖霊様も、私達に常に間違いを指摘して下さっている。
2002年11月15日(金) 「もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか」(マタイ18:12)
「もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか」(マタイ18:12)
幼稚園から遊園地に遠足に行った。親同伴で、 園内では自由行動。三々五々、皆がグループに 分かれ、好きなように過ごしていた。 集合時刻になった時、子供が一人見当たらない 事に気づいた。その辺にいるだろうと皆で探し たが、見つからない。段々、大人の顔に不安が 表われ更に懸命に捜した。園内中捜し回り、や っと子供が見つかった。私達が道をそれて迷い 出た時、神は同じように私達を捜し追い求めて 下さる。わがままで自己中心な私達を神はひた すら捜していて下さる。すぐに世の快楽、欲望 に目を奪われ、あちこちさまよってしまう私達 を、尚も愛を持って追いかけ続けて下さる。 もし放っておかれたら、どうなっていた事だろ う。あなたを決して見捨てず追い続けて下さる 神の愛、主に抱かれ、家に戻る。
2002年11月14日(木) 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)
一人の男性が大学在学中に難病が発病。 将来どのようになるかわからないと言われ 失意の内に大学を中退し、闘病生活の入っ た。その時から祈り始め、暗闇の中で、生 涯を神に明け渡した。祈り続けていると、 不思議な事に、難病に関わらず身体が癒さ れて行き、忍耐の治療生活の後、日常生活 が何とか大きな支障なく出来るようになっ て行った。将来の導きを祈っていた時、 宣教師一家との親しい交わりに入れられた その幸いな交わりの中で、心身ともに新た にされ、霊的に恵まれどんどん成長して行 った。やがて神学校への導きが与えられ、 今その宣教師を助けて、神のために働く身 とされている。神は失望と落胆から救い出 され、心身を癒さし、人生を全く変えられ た。神はどの人にとっても、起こるすべて の事を益として下さり、最善の人生へと導 いて下さる。
2002年11月13日(水) 「また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイ13:5)しかし、日
「また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイ13:5)しかし、日
ある人が、種蒔きのメッセージを聞いた時、自分が 岩地だとわかった。土が薄く、根が浅いのだ。日曜 毎に熱心にメッセージを聞きはするが、月曜から は、まるで別人のごとく、世にまみれてしまう。御言葉 など飛んでしまう。古い人に支配されてしまう。日曜 クリスチャンだった。しかし、自分の現実をはっきり 認識した後、少しづつだが、自分が変えられている のがわかった。御言葉を読むことを始め、祈る事を 始めた。毎日規則的にそうする事を始め、それを続 けた。クリスチャンの交わりに加わり、自分に可能な 奉仕にも参加し出した。少しづつだが、自分が成長 している事がわかった。すべては、自分の現状を はっきり認識する事から始まる。自分が変わりたい と願う時、聖霊は助けて下さる。成長へと導いて 下さる。まず、自分の破れがはっきりと見えるように。
2002年11月11日(月) 「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えになんと答えるかを見よう」(ハバクク2:1)
「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えになんと答えるかを見よう」(ハバクク2:1)
預言者ハバククは、人々を虐待するバビロンに 悩まされていた。「なぜ、悪者が栄え、罰を受け ないでいるのか」疑問を神にぶつけた。 神との交わり、祈りは、その答えを受け取るため のハバククの手段だった。心の内を神にぶつけて、 神の答えを見張った。私達も同じことが出来る。 問題、悩みがある時、また混乱しそうな時、心の 内をことごとく、神に祈りによって打ち明け、そ して、御言葉を通して語られる答えを見張るのだ 。神の御声を聞いて行くのだ。そのための時間を 取る必要がある。語るのと同じくらい、耳を傾け て聞くべきだ。そうするなら、神のお心がわかる。 神に自分の言いたい事を言うだけ言い、神に聞く ための時間を取らない人が多い。困難を神に言う だけでなく、その答えを聞くための時間を取る事 が必要。
2002年11月10日(日) 「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)
沢山の仕事と雑用を抱え、特に忙しい1日が始まった。 朝食を取る時間もなく、コーヒー一杯で済ませた。急ぐ 雑用があり、予定していたデボーションの時を失って しまった。昼食も仕事をしながら、簡単なファースト フードで済ませた。最近身体にだるさを感じていた。 多忙過ぎて、食事は不規則、簡単なものばかり、 そのせいだと思った瞬間、聖霊様が気づかせて 下さった。そうではなく、霊的な食事を取っていない せいだと。霊的エネルギーが失せていたのだ。 命のパンを食す必要があったのだ。イエスこそ、日毎 の力だ。日毎に身体に栄養が必要なように、魂にも 栄養が必要だ。主と共に過ごす十分な時間が必要 だ。神は、「さあ、来て食せよ」と豊かな食物を備え ていて下さる。主のもとに、行かなければ得られない。
2002年11月09日(土) 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、べきものを捜し求めながら歩き回っています」(Tペテロ5:8)食い尽くす
「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、べきものを捜し求めながら歩き回っています」(Tペテロ5:8)食い尽くす
食い尽くすべきものを捜し歩き回っているサタンを いつも覚えていなければならない。あなたはいつも 漠然とした罪意識にさいなまれていないか。いつも 自分はダメだと感じる。きよくない自分はふさわしく ない。罪だらけだ。すでに神様に告白して、解決 している罪をくよくよ思い煩う。これらはサタンから 来ている攻撃だ。24時間絶え間無く攻撃してくる。 罪を犯したなら、はっきり神に告白して悔い改める ことだ。そうするなら、神は完全に赦して下さる。 その後に来るのは悪魔だ。赦されていないと嘘を ついて来る。悪魔が攻撃してきた時、イエスの血潮 によらず、自分の義に立つと敗北する。悪魔の攻撃 に言い訳し、自分を正当化しようとする。自分の内 にはいっさい正しさも義も無い。私達の義はイエス による。
2002年11月08日(金) 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)
幸せになりたいと思わない人はこの世に いないだろう。人は誰しも幸せになりたい 幸せや喜びが喉から手が出るほど得たいの に、持つことが出来ない。何処に問題があ るのか。私達は自分の欲望が満たされるな ら幸せになれると思う。それが間違いで、 自分の欲望は幾ら満たされても一瞬の快楽 で心は虚しいのだ。真の喜びと幸せは、自 分の欲望ではなく、神のお心に従うときに 来るのだ。自分を喜ばせようとしている限 り、永遠に手に入れる事の出来ないものな のだ。イエスのみこころを行う事を人生の 喜びとするなら、あなたは真の幸せを手に 入れる事が出来る。 真の喜びとは悲しみや苦しみのない状態で なく、その真っ只中でも尚も希望がある。 幸せは欲望の満足でなく、主イエスから来 る。みこころを行う事から来る。
2002年11月07日(木) 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)
私達は、主イエス・キリストを信じて、 心にお迎えした。今、私達の心の中に住ん でいて下さる。イエスを心の家にお迎えし たが、あなたの心には色々な部屋がある。 あなたはどの部屋に主イエスをお入れして いるか。ゲストルームにだけ来て頂いてい るお客様か。居間も自分の部屋にも入られ ては困るのではないか。居間は自由にして いたいし、自分の部屋では、もっと好き勝 手いにしていたい。干渉されては困る、 これが本音だろうか。応接間にだけいてく ださいと。主はあなたの全ての部屋を明け 渡して欲しいと望んでおられる。 鍵を渡せない心の部屋があるか。部屋に入 って頂くなら、その部屋を綺麗にきよめて くださる。自己中心を従順に、敵対心を愛 に、怠慢を勤勉に主は変えて行ってくださ る。部屋を渡せ。
2002年11月06日(水) 「神は仰せられた「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」(出エ3:5)
「神は仰せられた「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である」(出エ3:5)
ある主婦は小さい子供を抱え、目の回るような日々 を送っていた。幾ら片付けても散らかり、部屋は雑然、 子供は1日中目が離せず、手かせ足かせで、自分の したい事は何もできず、イライラしていた。しんどくて 重荷で押しつぶされそうだった。何もかも投げ出し たい思いにかられ、どうしようもなくなった時、主の 御前に静まり、心を打ち広げ祈りの時を持った。 すると神は、あなたの立っている地は聖なる地と 語られた。他でもない神が遣わされた場所だと 目が開かれる時、状況の中に神が見えてくる。 主婦は家庭で、働く人は仕事場で、学生は学校 で、そこにあなたを置かれたのは神であり、そこ は聖なる地だ。そのところで、あなたは用いられる。 その場所で、神に対して、あなたの心を大きく 開け。
2002年11月05日(火) 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(Uコリント12:9)
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(Uコリント12:9)
「弱さ」と「罪」をしばしば混同する人々がいる しかし、これらは別のものだ。弱さは罪ではない。 むしろ、そこに神の力が現れ栄光を見ることができ るものだ。しかし、罪を弱さで覆い隠してしまうこ とがある。母親の「ご飯ですよ。手を洗いなさり」 の命令を無視して、遊び続ける子供は、「弱い」の ではなく「不従順」なのだ。神のみこころを無視し て、自分勝手な道を歩む大人も同じだ。 兄弟でケーキを分けるのに大きい方を取るのは、 「弱い」のではなく「自己中心」。弱さと罪をすり 替えることを止め、罪は悔い改め、自分は神なしで は生きていけない、弱い者である事を認め、神のみ 前にへりくだる時、神は必ず必要な助けと力を与え て下さる。自分の力に頼らない限り、神はあなたの 弱さのうちに働かれ、神の力を経験して行く。
2002年11月04日(月) 『主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである』(Tサムエル3:21)
『主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからである』(Tサムエル3:21)
ラジオを聞く事があるだろうか。 ニュースや音楽を聞く時、サイクルに 合わせる。他のラジオ局と混信しない よう、聞きたい局に位置を合わせて、 番組を楽しむ。神との交わりもよく似 ている。神の方へ向いてアンテナを合 わせ、周波数を合わせなければならな い。この世界に発信されている絶え間 ない騒音はその妨げになる。この世界 の様々な騒音に妨害されて、神からの 発信が聞こえて来ない。そんな時こそ よけいに、アンテナを向けて周波数を 合わせなければならない。 自分の位置を変える必要がある。心を 沈めて、神に向き、祈る事だ。 そうするなら、神に焦点が合い、御声 が聞ける。神の御声を聞き、神に教え られ、私達は変えられる。神に聞く時 神のみこころを悟り、神のみこころを 行える。はっきりと神の御声を聞ける ようにサイクルを合わせ、自分の位置 を変えよう。
2002年11月03日(日) 「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである」(マタイ13:14)
「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである」(マタイ13:14)
一人の婦人が事故に会った。右折で、直進車が 見えず、交差点で衝突。車は滅茶苦茶になった が幸いけがはなかった。車が全然見えなかった と言ったが、ある男性は、何もかもが全く見えな かったため、人生を踏みはずしてしまった。 目の前の欲望しか目に入らなかった。自己中心 な、わがままな道を歩み続け、とうとう法を犯して しまった。その結果、苦しみの刈り取りをしなけ ればならなかった。家庭崩壊、離婚、子供との 離別、健康を害する事、身柄の拘束・・。何も 見えてはいなかった。神に立ち返り心から悔いて いる。蒔いた種は刈り取らなければならない。 不信仰の罪の種でなく、信仰の従順の種を 蒔こう。どんなに素晴らしい御霊の実を刈り 取ることだろう。
2002年11月02日(土) 「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)
「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)
旅行先で、素晴らしい景色に出くわした。是非 写真に収めようとカメラを取り出すと、あいにく フィルムが無くなっていた。近くに店は無く、が っかりした。しかし、移動先でフィルムが買えた。 そして、翌朝はこれまで見た事もない、見事な 素晴らしい景色を撮影できたのだ。神様は時々、 自分の心からの願いを叶えて下さらないと思う 時がある。しかし、そうではなく、もっと素晴らし い、遥かに良いものを、いつも備えて下さって いる。私達は沢山の願い事を神に献げて来た。 「子供の進学を導いて下さい」「夫の仕事を 祝福して下さい」「対人関係の悩みを助けて 下さい」様々な願いをしてきた。神様はそれら すべてを最善の形で答えて下さったのだ。 それは、しばしば自分の思い通りの形では なかったが、心に平安を与えて下さった。 神を持つ者はすべてを持っている。
2002年11月01日(金) 『イエスは言われた「七度まで、などどわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います』(マタイ18:22)
『イエスは言われた「七度まで、などどわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います』(マタイ18:22)
ある婦人、結婚した娘から電話がか かった。深刻な悩みがあり、母親に聞 いてもらい、慰めが欲しかった。しか し、母親は聞くなりパニックになって しまい、娘の欠点や間違いをまくし立 て、娘を深く傷つけてしまった。 娘は母を避け、もう幾ら電話しても出 なかった。母子関係はどんどん悪化し て行った。悶々としていると、彼女の 夫が娘に手紙を出して気持ちを告げて 言い過ぎた事は謝り、娘への愛は決し て変わらない事をわかってもらうよう に助言した。そのようにした時、娘は 心を開き、母子関係は修復、回復した のだった。傷ついた娘は母親を赦した が、その赦しが以前よりももっと親子 関係を近づけ、堅いものとなった。 赦しは、関係を修復し癒しをもたらす そこに愛が生まれる。あなたは誰かと の関係を修復しなければならないので はないか。