2020年11月30日(月)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての惡から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9



ある人が、母子関係で辛い思いをした。母親にほめられたくて、勉
強も懸命に頑張ったが、良い成績を取っても一度もほめられた事が
無かった。もっと上をと、更に要求されて苦しんだ。幾ら頑張って
も認められなかった。とうとう心を病んでしまった。主の愛に出会
い、クリスチャンになったのだが、根に母親への赦せない思いに何
年も苦しんだ。

しかし主を知り、苦しみを祈りに持って行けた事が幸いだった。心
を打ち明け、思いも感情も吐き出し祈って行った。そんな中、御霊
に示された。母親自身に確かに問題があり、母親から深い傷を受け
た。だがそれは母親の問題であり、赦せない思いはどれだけ言い訳
しても、自分の問題なのだと。今まで母親が悪い、自分は母親から
被害を受けた被害者だとしか思えなかった。

ずっと無くならない苦しみは、母親から受けた傷が深いせいだと、
ますます母親を憎んだ。その陰で全く気づけなかった。母親がどう
であれ、赦せない思いは、自分の問題と認め、その底に憎む思いも
自分の問題と認めた。ありのまま主に告白し、その事を悔い改めた。
その時、心の中の重い鉛が溶けて行った。

問題がある時、特に相手に非がある場合は見えなってしまうので、
要注意だ。苦しいのに解決が無く、苦しんだままになる。主と自
分の関係が、すべてである事を今一度覚えよう。
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主との交わりの中で、光の中に歩んでいないことを知らされる。主に
告白し赦しを受け取ろう。主が相手から解放してくださる。主と自分
の関係がすべてだ。


2020年11月29日(日)

「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込ん で、イスラエルの人口を数えさせた」T歴代21:1


目に見えるところはダビデが人口調査をしたのだが、実は背後にサ
タンがダビデを誘惑し、人口を数えさせたとある。サタンの働きで
あり、サタンの策略があった。ダビデは、イスラエルの兵士たちを
登録し、人数を数えるようヨアブと部下に命じた。すると将軍ヨア
ブが、主の御心に適わないものなので、やめるよう進言した。

しかしダビデはヨアブを説き伏せ、自らの思いを押し通した。ヨア
ブはイスラエルとユダの剣を使う者の人数を報告した。するとダビ
デは良心のとがめを感じた。「この命令は神のみこころを損なった。
神はイスラエルを打たれた」。ダビデはようやく主の御声に聞いて
行った。

「私は、このようなことをして、大きな罪を犯し」「私はほんとう
に愚かなことをし」・・。主による輝かしい勝利を、自分の力による
ものとし高ぶってしまった。そのため自らの成果を確認しようとし
た。私たちにも絶えずサタンのこの誘惑が来ている。主の成された
みわざを自分の業績、自分の栄光にし、奪ってしまう。

私たちを高ぶらせ、主に栄光を帰する事をさせたくないサタンだ。
うまくできた事に対して、外側では「いえいえ、私ではなく」と言
うのだが、内心自分を誇ってしまう。又、主は私たちの内に御心に
かなった志を与え、事を行わせて下さるが、サタンも私たちの欲に
働いて、思いを起こさせ、行動に移させる。このサタンの誘惑に心
して、祈っていよう。

・・・・・・・・・・
肉の欲に、サタンがつけ込んで来る。欲に誘惑が来て、サタンに動
かされてしまう。動機も、御霊によく探っていただこう。気づきを
与えて下さる。祈りがある時に、助けて働いて下さる。祈っていよ
う。守られる。





2020年11月28日(土)

「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、 わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ヨシュ ア1:2


出エジプト後、イスラエルは、40年間荒野を旅した。ついに約束の
地カナンを目前にする所まで来た。モーセの死後、主は、新しい指
導者ヨシュアを任命された。そして「今、あなたとこのすべての民
は立って、このヨルダン川を渡り、わたしが・・与えようとしている
地に行け」と。「あなたがたが足の裏で踏む所は・・モーセに約束し
たとおり、あなたがたに与えている」と。

主は、その地をすでに与えていると約束されたが、実際に自分のも
のとするには、足の裏で踏まなければならなかった。つまり行動す
る必要があった。彼らは、その土地に進軍し、戦い、勝ち取って行
かねばならなかった。何もせずただじっとし、祈るだけで、具体的
行動が無ければ、それを所有することは出来なかった。実際に入っ
て行き、足の裏で踏まなければならなかった。

これこそが「信仰」だった。これは、私たちの信仰生活も同様だ。
主は、私たちに溢れるばかりの祝福を備えておられる。それを実際
に、自分のものとするには、約束を受け取り、主を信じ、立ち上が
って行動しなくてはならない。その時、約束のものを手にする事が
できる。約束は与えられているのに、じっとしたまま行動が無いた
めに、所有できずにいるだろうか。

あなたも、主が与えようとしている地に「今、立って、行け」と後
押しされているだろうか。祈りの座から立ち上がって、実際に行動
を起こせと。信仰もって一歩踏み出そう。主の約束を現実のものと
して所有できる。

・・・・・・・・・・・
主から示されている事があるだろうか。ぐずぐずしていたり、ない
がしろにしていたり、臆したりしているだろうか。今、足の裏で踏
めと言われているなら、必要な力も知恵も方法もすでに備えて下さ
っている。行けと言われる主を信じ、従おう。




2020年11月27日(金)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから・・しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1



ある人が不眠に悩まされ、幾ら努力しても、どうしてもだめだった。
眠ろうとすればするほど、更に不眠に陥った。余りに辛くて医師の
もとに行くと、「そうですか。では不眠の新記録を打ち立てましょ
うよ。眠らないよう頑張って」と言われた。何とその人は、その晩
眠れたのだ。「眠らねば」の呪縛から解放され「眠らなくてもよい
のだ」と安心しきってしまい、重荷と悩みから解き放たれた。

私たちも律法の「ねばならない」に陥って行く時、どうやっても律
法を行なえない自分に、がんじがらめに縛られる。まるでアリ地獄
のようだ。もがけばもがくほど、ますます泥沼にはまって行く。出
来ない自分を責め、とがめにさいなまれ、苦しくてたまらない。し
かし「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました」
とあり、キリストのもとに私たちを連れて行くために、律法が存在
する。

つまり律法は私たちが、何一つ守れない事を、私たちに教えるため
にあると。聖書の御言葉はすべて、私たちの内におられる御霊が、
行ない成し遂げて下さる。自分の力でするのではない。自分の力で
しようとした途端、自分の肩にすべての荷がかかり、辛くなる。心
は、重苦しく、信仰が辛い重い修業になる。

「人のすべての考えにまさる神の平安」「喜びに満ちあふれ」など、
どこの世界の話かになってしまう。もし今、辛い状態なら、主にあ
りのままを告げて祈ろう。御霊による歩みへと導いて下さる。
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我慢も努力も今日はできても明日はできない。失敗すれば落ち込み、
成功すればどこかで自分を誇ってしまう。いつも自分の奴隷だ。主
の最善を信じて主に託すときに、本当に自由にされる。


2020年11月26日(木)

「すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて打ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った」Tサムエル20:33



サウル王は、最初ダビデが大変気に入り、召しかかえた。ダビデは
大変忠実にサウルに仕え、勝利を重ねて行った。そんな時、女たち
の「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」との言葉で、サウル
は妬みにとりつかれ、ダビデを疑心暗鬼で見るようになった。ダビ
デへの嫉妬は憎しみとなり、それは殺意にまでなって行った。罪は
罪を増幅させて行く。

ダビデを狙って、槍を投げつけたが、壁に突き刺さり、主がダビデ
を守られた。ダビデはますます大勝利を収め、サウルは更に恐れた。
ダビデはずっとサウルにつけ狙われたが、決して報復しなかった。
それはサウルが油注がれた王であり、ダビデが主を畏れていたため
だった。何があっても、主が必ず自分を守って下さると堅く信じて
いたので、自分で自分を守る事をしなかった。

しかしサウルは、ダビデに地位を奪われるのではと、非常に恐れて
怯えた。そして息子ヨナタンがダビデをかばうと、何と息子までも
槍で殺そうとする。どうしてもダビデを殺害したかったようだ。ヨ
ナタンは父親の固い意志を知り、ダビデの命を助けるように行動し
た。ヨナタンを用いて、ダビデの命を守られたのは、主だ。

人の生き死に、地位、境遇は「高く上げることは、東からでも、西
からでもなく、神が」の通り、すべてが主の絶対的な主権と、御心
の中にある。その主を認め、主に自分自身を委ねて歩む時に、真の
安らぎと満足に生きる事ができる。
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ダビデは逃げてはいても、いつも神から糧を与えられた。私たちも、
いつでも神に逃げていける。神の主権を認めて生きよう。様々な心
配事に追いかけられても、その先に神を見る事ができる。


2020年11月25日(水)

「むしろ、あなたがたはこう言うべきです『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう』ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています」ヤコブ4:15


主にご計画があるなら、自分で計画を立てるのは良くないのではな
いか、と思いそうだが、しかしそうではない。無計画の、行き当た
りばったりが良いのではない。主と相談しつつ将来の計画、雨の日
のための計画を立てる事は大切だ。主を無視した計画が、愚かで無
意味なのだ。肉で、自分本位にではなく、祈りつつ、御心を問いな
がら、計画を立てて行くのは良い事だ。

祈りつつ、計画を立てると良い。この人は、町に1年いて商売をし
て、もうけようと言った。しかし明日〜しようと言っても、明日の
事は一切私たちにはわからない。命がこのまま明日も続いて当り前
と思っているが、それもわからない。あの愚かな金持ちは、財産す
べてが自分のものだと誇った、しかしその夜に命を取られた。

命は、誰の手にあるのか。神無しの人生設計は、人間の高ぶりだ。
私達の命は消えてしまう霧のようだと言っている。それゆえ、大切
な事は、御前にへりくだって生きる事だ。主を人生の中心に据える
時、人は初めて真の満足を得る。平安と喜びと生きがいを見い出す。
神無しの人生は、結局虚しく終わる。

神のお心を求めて歩む人生は、平坦ではなく、自分の思い通りでは
ないが、決して後悔の無い、豊かな実を結ぶ人生だ。主は最高の相
談相手だ。どの道を進み、どの選択をし、どう判断すべきか、主に
相談するなら御心を示して下さる。今、大切な事は、立ち止まり、
まず主に相談する事だろうか。
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明日の事はわからないどころか、今日の事もわからない者だ。御心
にかなうならと、主のお心を第一に自分の祈りを初めたい。今日、
生かされている事、与えられるものを感謝して受け取りたい。



2020年11月24日(火)

「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである」申命記8:6



苦難のエジプトを出たイスラエルは「燃える蛇やさそりのいるあの
大きな恐ろしい荒野」を通された。過酷で辛い場所だった。私達も
時に人生の荒野を経験する。突如の経済的苦境、対人関係の悩み、
病気、受験の不合格、別離、何でこんな事が、と苦しい事態に遭遇
する。しかしその先があり、「ついには、あなたをしあわせにする
ため」とある。

最終的にはあなたを幸せにするための出来事であり、必ずや祝福へ
と導かれる。主は完璧なご計画を持たれ、主に無駄は一つもない。
「あなたをしあわせにするため」だ。ある中間管理職の男性が、苦
しい役どころに立たされた。上からは圧力、下からは突き上げ、な
ぜ自分ばかりがと辛い日々だった。

しかし切なる祈りの中で、目の前の苦しみに「あなたを苦しめ、あ
なたを試み、ついには、あなたをしあわせにするため」と語られた。
自分の成長のためであり、自分が幸せになるために、どうしても通
らねばならない、主が与えられた授業と、信仰もって受け止めるこ
とができた。そしてその試練のプロセスの中で、多くの学びを得て、
深い霊的恵みを味わった。

やがて神の時が来て、解決を見た。試練は「なぜ?どうして?」と
なるが、主は「あなたをしあわせにするため」と言われる。試練の
中には、主からのメッセージがある。それを受け取る事こそが、大
きな恵みだ。そして成長だ。
--------------
どうしても自分の思い通りの道を探ってしまう。主の与えようとし
ておられる良い地がなかなか見えず、その狭間で苦しむがそれも知
っていてくださる。神を信じて神に助けを求めながら歩もう。


2020年11月23日(月)

「もしよろしくて、このしもべをいれてくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください」ネヘミヤ2:5



ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き
払われた状態である事を聞いた。その時、泣いて喪に服し、断食し
て、主に祈った。昼も夜も祈る中で重荷が増し、4ヶ月後に王の前
に出た。打ちひしがれた悲しい顔つきであり、それを見た王はネヘ
ミヤに尋ねた。どうしてそんなに悲しい顔つきなのか、何か悲しみ
があるに違いないと。

この時、ネヘミヤは王に先祖の町が廃墟になっている事を打ち明け
た。すると王の方から「何を願うのか」と聞いて来た。王はネヘミ
ヤの心の重荷を察した。そこでネヘミヤはユダの地へ送って再建さ
せて欲しいと願った。王は願いを聞き入れ快く送り出してくれた。
ネヘミヤはまずエルサレムの現状を知った。私たちの信仰生活も同
様だ。

まず現状を、目の前の問題を見せられ、認める事によって重荷が与
えられる。まず知らない限り、重荷の持ちようがない。そしてそれ
を具体的に祈りに持って行く時、更に重荷が加えられる。ネヘミヤ
はその重荷に、何かをしたいと思った。その願いは答えられ、神に
より環境が次々と開かれて行った。すべての必要が備えられた。

私達もまず現状の破れを認識するところから重荷が生じ、祈りによ
って更にその重荷が深められ、具体的に行動するように導かれる。
再建させられる。あなたにも今、主が見せておられる事態が、重荷
があるだろうか。まず祈りに持って行こう。御心のままにあなたを
用いて遂げさせて下さる。
----------
もし今、心かかる重荷があるなら主のご計画ではないか。主に用い
られるように祈ろう。それは自分にしか出来ない事かもしれない。
主に導きを祈り、導きのままに次の一歩を進もう。


2020年11月22日(日)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラ テヤ6:7


「思い違いをしてはいけません」とはっきりと言っているが、思い
違いをしてしまうものだ。人は蒔いたものを、必ず刈り取ると言っ
ている。これは法則なので、例外は無い。朝顔の種を蒔いて、ひま
わりの花が咲く事は有り得ない。朝顔の種からは、朝顔の花だ。キ
ュウリはキュウリ、キャベツはキャベツだ。蒔く種は、正しくその
蒔いた種の通りに結実する。

霊的な原則も同じだ。しかし「時期が来て、刈り取る」ので、その
場ですぐに結果が出るのではない。すぐに目に見える事ではないの
で、そのため思い違いをしてしまい、どうって事ないと、主を侮っ
てしまう。私たちは日々の生活で、絶えず、御霊か肉のどちらかに
蒔いている。御霊に従って生きるのか、肉の欲望に従い、自分の思
うように生きるのかの選択だ。

人へ愛と親切の種を蒔けば、喜びと主からの報いを刈り取り、自分
にも愛が返る。祈りの種を蒔けば、祈りの答えを刈り取り、宣教の
種を蒔けば、魂の救いを刈り取る。献げ物の種を蒔けば、豊かな物
質的祝福を刈り取る。又、肉に従い、悪意と憎しみの種を蒔けば、
そのように返る。

「善を行なうのに飽いてはいけない」「失望せずにいれば、時期が
来て、刈り取ることになる」と。善を幾ら行なっても結果が無いよ
うに見え、時に、うみ疲れるかもしれない。しかし神の時が来た時
に、必ず刈り取る。だから失望せずに、蒔き続けるようにと。主が
はっきりと言っておられる。必ず報いがあると。

・・・・・・・・・・・
法則に例外は一つも無いので、人は蒔いたものを必ず刈り取ること
になる。見えるところでなく、主を仰いで、主を畏れて歩めるよう
に。御霊に蒔けるよう、示されている事をお献げして行けるよう祈
ろう。必ず実を刈り取る事になる。何と喜びだろう。


2020年11月21日(土)

「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのとこ ろに行かれた」マタイ14:25



主は弟子たちを「強いて舟に乗り込ませ」とあり、主が彼らを「強
いて」「強制的に」向こう岸へ行かせられた。夕方に、沖へとこぎ
出した。その途上で嵐となり、波と風で荒れ狂った。何も見えない、
夜の真っ暗闇での嵐は、どんなに恐怖であった事だろう。

この時、弟子たちは強制的に送り出されたのであり、主は嵐に会う
事をご存じで、つまりは、試練に会わせられた。信仰人生で試練は
避けられない。風雨も日照りも飢饉もある。人生には順境と逆境が
あり、信仰者にも逆境は必ず来る。それは世の人々と同じだ。だが、
どこが違うのか。その嵐のまっただ中に主が共におられる事だ。

必ず嵐に会うが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはな
い」との主がおられる。試練のまっただ中で、不安と恐怖の中にい
る時、「わたしだ、恐れるな」との主がおられる。何と力強いこと
だろう。その主は、荒れ狂う湖の上を平然と歩いておられ、私たち
の問題や悩み、困難の上を歩いておられる。

ある小さな女児が、薄暗い二階におもちゃを取りに行くのが、恐く
て仕方なかった。親に、下で見ているから大丈夫だと、幾ら言われ
てもだめで、恐い。その時父親が「よしパパが一緒に行こう」と言
った時に、全く恐れと不安が消えた。私たちの平安は、問題が無い
事ではなく、どんな悩みの時にも、主が共におられることによる。
ここに全き平安がある。

・・・・・・・・・・・
御言葉は様々な箇所で信仰人生に試練があると言う。砕かれ練られ、
主のかたちへと造り上げられる。試練を受け止めて行けるよう祈ろ
う。平穏無事で、問題の無い事が平安だと思うが、どんな時にも
「わたしだ」と主が共におられ事が、平安だと教えられて行く。


2020年11月20日(金)

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい」ヤコブ1:21



「心に植えつけられたみことば」とある。つまり主は、私たちの心
に御言葉を植えつけて下さると。私たちは、その御言葉を「素直に
受け入れ」るようにと。素直に受け入れるなら、その御言葉は霊で
あり、いのちであるので、大きな力を発揮する。肉の思いや、悪魔
の攻撃から、私たちを守る事ができる。

「素直に」受け入れる事が大切だ。頭でわかっても、心に受け入れ
ない事が有り得る。御言葉は知っているが、肉の思いを遂げたい。
自分のしたいようにしたい。嫌な相手は憎んでいたいし、傷つけら
れた相手は赦せない。主が自分で復讐するな、わたしが復讐すると
言われても、自分で何倍にも報復したい。敵を愛せよと言われても、
愛したくなどない。祈りたくもない。心が御言葉を拒否する。

思い煩うな、ゆだねよと言われてるが、自我が委ねたくなくて、自
分が握り締めている。そのため思い煩いが止まらない。御言葉を拒
んでしまう。まず、素直に受け入れる事が出来ない事を認めて、そ
う出来るように助けを求めて祈ろう。快楽や欲を捨てようとしない、
頑なな心を砕いて、素直に受け入れられるよう助けて下さる。心に
受け止め、受け入れた時、御言葉に従う事ができる。

「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」苦し
い状況の中で、みことばにより慰めや励ましを受け、指針が与えら
れ、なすべき事がわかり、試練を乗り越えて行ける。御言葉はいの
ちとなる。又、すぐに状況は変わらずとも、御言葉により、心に不
思議な平安が与えられる。
-----------
不安定な土台に不安定な自分が立っている。自分の限界を知らされ
る度に、与えられた御言葉に帰っていける。主の御言葉に立ってい
よう。事ごとに感謝し、思い煩いを主に託そう。


2020年11月19日(木)

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩篇73:28


主を信じる以前、私たちは心に虚しさを覚えた。目の前のハピーな
事、快楽がある時には忘れているが、心が他の事に奪われているだ
けで、底にある虚しさは無くならなかった。生きる意味も目的もわ
からなかった。虚しさをごまかして、だましだまし、向き合う事を
避けて、生きて来たのかも知れない。主を信じ受け入れた後はどう
だろう。

ソロモンは、栄華を極め、富、名誉、地位、権力、そして知恵と、
何もかも持っていた。そしてありとあらゆる快楽を味わっていた。
贅沢三昧、700人の王妃と300人のそばめがいた。その妻たちが、ソ
ロモンの心を他の神々に転じさせたとあるが。領土の拡大、銅、建
築、土木を発展させ、壮大な神殿建設、事業、様々な分野で活躍し、
あらゆる楽しみという楽しみを味わい尽くした。

しかし、晩年の彼の言葉は「空の空。すべては空」だった。何もか
もが虚しいと。原因は、晩年は神から離れてしまっていたからだっ
た。得られる限りの何もかもを手に入れたソロモンの言葉だ。私た
ちはしばしば勘違いする。不足、虚しさを覚えるのは、仕事に恵ま
れないから、経済的に貧しいから、伴侶がいないから、家族に、友
人に恵まれないからと思ってしまう。

しかしそうではないと。外側の問題ではない。「結局のところ・・
神を恐れよ。神の命令を守れ。それが人間にとってすべてである」。
神と自分の関係が問題だ。神との生き生きとした交わりに生きる時
に、初めて平安と喜びと幸せの中に歩める。
-----------
御霊を通して主の励ましを受け取ると、小さな祈りにも聞いていて
くださる主を感じる。どんな中にあってもこの世で主に助けを求め
ながら歩めるとは、何と平安で豊かな日々だろう。


2020年11月18日(水)

「ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ」T歴代11:17



ダビデがアドラムの洞穴にいた時だった。喉が渇き、しきりに故郷
ベツレヘムの井戸水が飲みたくなった。それで、故郷の水が飲みた
いなあと、思わず口にしてしまった。しかしそこは、敵であるペリ
シテの陣地になっていた。そしてアドラムとベツレヘムは、かなり
の距離がある。

にもかかわらず、三人の勇士が命がけで、敵の陣営を突破し、何と
ベツレヘムの井戸から水を汲み、ダビデに持ち帰ったのだった。
ダビデに命令されたわけではない。ただダビデの願いを叶えたい一
心だった。それが喜びであったからだ。ダビデを愛するゆえであり、
忠実な部下たちであった。ダビデはどんなに嬉しく、感動した事で
あろう。それを決して飲まず、主に注ぎ献げ、地に流した。

これは命をかけた人たちの血だから、こんなに犠牲が払われたもの
を飲めないと。ダビデの礼拝行為だった。しかしせっかくの水を何
と勿体ないと思うだろうか。マリヤが主の葬りのために、300デナリ
の高価なナルドの香油を惜しげもなく、すべて主に注ぎきった時の
ようだ。弟子たちは香油を何て無駄にするのかと、憤慨して彼女を
厳しく責めた。貧しい人たちに施せるのにと。

しかし主はマリヤの献げものを受け入れ、非常に喜ばれた。立派な
ことをしてくれたと。福音が語られる限り、彼女のした事も語り告
げられると。私たちの行為、献げものは、主に献げられているもの
である事を、今一度覚えよう。主はその献げものを喜んで受け取っ
て下さる。
-----------
高価な香油ではなくても、主のために主を愛するゆえに小さな行為
も献げていこう。その動機を主が喜んでくださり、何より自分の心
も喜びにあふれる。


2020年11月17日(火)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24



賢い人と愚かな人が出て来る。賢い人は御言葉を聞き、愚かな人は
御言葉を聞かないというならわかりやすいが、どちらも御言葉を聞
いている。賢い人は「ことばを聞いて、それを行なう」。愚かな人
は「ことばを聞いて、それを行なわない」。この違いとある。愚か
な人も御言葉を喜んで聞き、御言葉を学ぶ人だ。

御言葉を聞かずに反発しているならわかりやすく、自分でも認識で
きるが、喜んで聞いているので、気づかない。御言葉を聞くだけで
満足し、わかった気になってそこで終わってしまう。聞くだけで実
行しないなら、すぐに聞いた事を忘れてしまうと言っている。結局、
聞かなかった事と同じになる。そのため自分自身は変わる事がなく、
結実して行かない。

どうも自分が変わっていないなら、このところをかも知れない。又、
砂の上に建てた家とは、砂は、自分の思いであり、御言葉土台でな
く、自分の思いの上に建てた家だ。普段は普通に建っているように
見えるが、雨風洪水=試練が来た時に倒壊してしまう。「しかもそ
れはひどい倒れ方」と。自分の思いによって歩む人生は、途中で挫
折し、崩れてしまう。

しかし自分の思いを捨てて、御声を聞き、御言葉を実行して行く人
生は、どんな大きな厳しい嵐が来ようとも決して倒れない。今、大
切で且つ必要な事は、聞いたその御言葉を実行する事だろうか。示
されているその御言葉を、実行できるよう助けを求めて祈ろう。一
歩踏み出そう。
-----------
御言葉を土台にすえれば、決して倒れないと神が宣言してくださっ
ている。これ以上の支えがあるだろうか。頑なな者だが、神を信じ、
御言葉を選ぼう。一歩踏み出せるように祈ろう。



2020年11月16日(月)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい主にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7



思い煩いは、私たちの多くの問題だ。まだ起きてもいない事を、あ
あなったら、こうなったらと、不安にさいなまれ、恐れと心配に襲
われる。ネガティブへとどんどん向かい、最悪のシナリオが出来上
がり、心は落ち込む。だがそれは妄想だ。ある人が、心が沈み込み、
重くてたまらない。ふとなぜだろうと心を探ってみると、家族の一
言が原因だった。時折りそうなる事に気づかされた。

家族の体調の事だったり、子供の悩みの事だったり、愛するがゆえ
に、問題を耳にすると心配で、どっと不安と恐れに襲われる。一つ
の言葉から思い煩いの妄想が膨らんで行く。サタンだと気づかされ
た。思い煩いと心配に引っ張られてしまっている。主に向く時に、
思い煩いを主に持って行けて、主に渡せて平安にされる。あなたの
思い煩いも、誰かからの言葉から来ているだろうか。

又、先の事だけでなく、過去の事も思い煩いとなる。あの時ああし
ていれば、この時こうしていれば、ああでもない、こうでもないと
くよくよと悔やみ、自分を責め、又、周囲を責める。ラザロの死後、
主が来られた時に、マルタもマリヤも「主よ。もしここにいて下さ
ったなら、兄弟は死ななかったのに」と言った。

死ぬ前なら良かったが、もうだめだ、手遅れだと。その時主は「も
しあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と言われた。ど
のような状況であれ、状況は問題ではない。主を見上げ、主に委ね、
信じて行く時に、栄光を拝させて下さる。今、主を見上げよう。
------------
サタンは最悪の明日の妄想を持ってくるが、主に頼り、守られた経
験を思い起こそう。私達は主がどんなお方か知っている。心の中で
どんどん増幅する思い煩いを、気づいたところから主に告げよう。


2020年11月15日(日)

「しかし、彼が出かけると、主の怒りが燃え上がり、主の使いが 彼に敵対して道に立ちふさがった」民数記22:22



バラムは、モアブ王バラクにイスラエルを呪うよう頼まれた。しか
しバラムは主から、イスラエルを呪うなとの命令を受けていた。
「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。民を呪ってもいけ
ない」と。その民は祝福されているからだと。しかし王は更に大勢
の位の高い者を送り、手厚くもてなし、何でもするからと頼んだ。

すると、バラムは、主が他の事を告げるか確かめると。だが、主か
らすでに明確な命令が出ているのに、何を他に聞く必要があろう。
金銭に目がくらみ、バラクのもとへ行く。その時に主は、「この者
たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け」と言
われた。

ところが翌日、バラムがろばに乗り、モアブへ向かうと、神の怒り
が燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラ
ムがどうしても行くというので、主はそのままにされただけで、決
して主がそれを是認されたわけではない。むしろろ怒っておられた。

主は私たちに自由意志を与えられた。私たちの首に縄をつけて、無
理強いされないし、私たちがどうあっても行く、というのなら主は、
行くに任せられる。しかし主がそれを願っておられるのではない。

肉の思いを通して行く事は要警戒だ。それが私たちの最善の道では、
決してないからだ。時々、主の最善が自分の思いと異なる事がある。
そのため自分の願いが、叶わない方が良い時もあると心得よう。

・・・・・・・・・・
人間には、物事が近視眼的にしか見えないので、何が最善かは、主
が一番ご存じだ。自分はこれが良いと思うが、自分の思いが強くて、
反対向いているかも知れない。主にゆだねる事が最善だ。主に自分
自身を明け渡す時、主の御心へと導いて下さる。


2020年11月14日(土)

「しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められ た」詩篇66:19



ある人が、非常に世話好きな隣人に戸惑っていた。親切は有難いの
だが、頼みもしないのにどんどん世話を焼かれる。気持ちがしんど
くなって行くところに、更にプライベイトな事にまで踏み込んで来
られ、苦痛でたまらなかった。だが、そう思う自分も、寛容でなく、
心が狭いのではと、何だかとがめてしまう。

かなりのストレスとなり、とにかくその事を祈りに持って行き、そ
してずっと祈り続けていた。ある時、余りにも行き過ぎた行為に、
とうとう我慢の限界となり、切れて爆発する瞬間、「神様!」と叫
んだ。どうにもならない瀬戸際で、助けを求めた。その時、口から
ひとりでに言葉が出た。

「すみません。いつもよくして頂いて」。自分で自分に驚いた。取
り返しのつかない決定的な言葉を発してしまうところ、主の介入で
助けられた。言葉は、後戻りが出来ない。御霊の助けであり、守ら
れた事に安堵した。すると相手は心和んだようで、良い関係にされ、
和気あいあいとなった。自分自身も心が変わり、平安に対応でき、
素直に教えて欲しい事も聞けた。

すると相手からの相談を受け、主のみわざに驚いた。祈りの力を教
えられ、見せられた。ただただ辛くて、祈り続けていた祈りの答え
だった。どんな状況の中でも、祈りに持って行けばよい事を教えら
れた。

「わたしを呼べ」と言われる主のもとへ行き、主に祈ろう。「そう
すれば、わたしは、あなたに答え」、今、目の前の事態に主を呼び、
主に告げよう。主は答えて下さる。

・・・・・・・・・・
日々に「わたしを呼べ」と言って下さっている。何と感謝な事だろ
う。いかなる時も、自分で何とかしようとせずに、まず主を呼ぼう。
その時に、主が共におられること、愛されていることを実感して行
く。小さな事にも、祈りの答えを見て行き、喜びが溢れる。


2020年11月13日(金)

「遊女におぼれてあなたの身代を食いつくして帰ってきたこのあな たの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」ル カ15:30



家を出、放蕩した弟息子が、すべてを失った時、我に返った。そし
て父のもとに帰って来た。毎日、息子を待ち続けていた父は、大喜
びで彼を抱き、口づけした。喜び祝おうと宴会を開いた。「死んで
いたのが生き返り」と、息子は死んでいたと言い、その挫折、孤独、
痛み、うちひしがれた心をわかっていた。父の心は愛と慈しみで溢
れ返っていた。

しかし兄は、行方不明の弟が戻った事を喜ぶのでなく、激しい怒り
が沸き上がる。家に入ろうともしない。好き放題をして戻って、宴
会などと有り得ないと抗議する。兄は「私はお父さんに仕え、戒め
を破ったことは一度もない」と自分を義とし、弟を見下し裁く。

ある人が、罪がなかなかわからなかった、と証しした。真面目に懸
命に努力し、生きて来た。周囲の人へも親切にして来たつもりだ。
皆に良い人と言われた。しかしメッセージで兄息子の事を聞いた時
に、自分の姿が映し出された。

口にも態度にも出さないが、出来ない人々を、努力しないからと見
下していたし、道をそれる人の事は自業自得と冷ややかに見ていた。
自己中心で高慢で、愛など無かった。自分が、人によく思われたい
がための善行だった。兄はずっと父と一緒にいたが、その心には愛
も喜びも平安も無かった。兄こそが問題児だった。兄息子の姿に、
自分の罪がわかった瞬間だった。

父は、兄をも全く責めることなく「私のものは全部お前のもの」と
兄を慈しんでいる。主に仕える事が、義務に、重い事になっている
なら、今一度、父の愛に立ち返ろう。

・・・・・・・・・・・・
御霊によらず、自分の力で歩むと、外向きはこなせても、内側は愛
が無く、喜び無く、満足が無く、不満と鬱屈となる。しかし御父は
一緒にいるよと言われ、御父の心は、愛とあわれみでいっぱいだ。
どんな時も御父を仰ぐ時、慈しみ、抱いて下さっている事を知る。


2020年11月12日(木)

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」詩篇32:1



ダビデは、バテシバと姦淫し、その夫ウリヤを殺害した。二重に犯
した罪を隠ぺいしていたところ、主は、預言者ナタンを送られた。
ウリヤは現に殺されている。ナタンも、即、殺害されても不思議で
はない。しかしナタンは主に従い、ダビデのもとへ行き、言った。

「二人の人がいて、一人は富み、一人は貧しかった。富んでいる人
は多くの羊や牛を持っていたが、貧しい人は一頭の小さい雌の子羊
だけだった。彼は大切に育て、自分の娘のようだった。旅人が裕福
な人の所に来たが、自分のものを惜しみ、貧しい人の子羊を取って
調理した」。するとダビデ王は激怒し「そんな男は死刑だ」と叫ん
だ。

ダビデの隠れた罪が反応した。すかさずナタンは「あなたがその男
だ」と指さした。ダビデは「わたしは主に対して罪を犯した」と罪
を認め、告白した。ナタンは、まずダビデの罪の指摘でなく、他の
人の罪の話をした。他人の罪には非常に敏感だ。ダビデも自分の犯
した罪はわかっていたろう。しかし自分は王でありトップだ。すべ
ては自分の思うがままであり、隠しおおせると思っただろう。

他人の罪としてナタンから語られた時に、その罪がはっきりと目の
前に示され、気づかされた。即、悔い改め、蒔いたものの刈り取り
に苦しみつつも、練られ、聖められ、信仰の人ダビデが造り上げら
れて行った。悔い改める時、罪が赦される。ダビデの大罪が赦され
た。そして尚も建て直され、建て上げられて行く。何という恵みだ
ろう。
-----------
罪を悔いることができ、赦しを受けることができる。神を知って生
きるとは何と幸いな人生だろう。失敗の苦い思いの中で、御前に罪
を認めていこう。そして新たらしく一歩踏み出そう。


2020年11月11日(水)

「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい」ヤコブ1:20



人の怒りは、神の義を実現しないと言っている。人の怒りとは、義
のための怒りではなく、自我からの怒りだ。自分の思いが通らない、
自分が評価されない、認められない事による怒り、自己中心の腹立
ちだ。だいたいは正義の怒りでなく、自分の思い通りにならない事
による腹立ちと言われている。

それらは主の栄光の現われを妨げてしまうので、捨てるようにと。
まず自らの怒りが、自我からの、自己中心の怒りなら、主に渡せる
よう祈ろう。ある人は、我慢ならない相手に、反撃しようとした時
に、御霊に止められた。それは肉の怒りで、神の義を実現するもの
ではないと。怒りはサタンの足場となり、サタンは乗じて来る。

どんどん思いの火矢で、焚きつけて来る。ますます激しく怒る事に
なる。サタンにあおられている事に気づこう。怒りは捨てなければ
とわかるのだが、握りしめて捨てる事が出来ない。誰しも経験する。
自分でしようとしても、どうにもならないので、そのまま、あるが
まま主のもとに持って行こう。主が取り扱い、助け、捨てさせて下
さる。

そして「聞くには早く、語るには遅くせよ」とあり、まず御言葉を
聞いて行くことが大切だ。御言葉により、感情に走る事を止められ、
又、復讐心、処罰感情から守られる。主が、心に御言葉を植えつけ
て下さる。その御言葉を拒否せず、なおざりにせず、素直に受け入
れよう。その時、御言葉がどんなに力があり、救いであるかを知る。
------------
肉はいつまでも憎んでいたいが、その怒り、憎しみは何処から来る
のだろう。外から来るのだろうか。祈りつつ御言葉を読もう。御言
葉が必要だ。


2020年11月10日(火)

「みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」ヤコブ1:23



御言葉を聞いて、行なわないとは、朝に自分の顔を鏡で見て、汚れ
ていても、そのままにして立ち去る人のようだ。朝、汚れを見たの
だが、一日が始まると忙しく、全く忘れてしまう。生まれつきの顔
は、自分が持っているそのままの顔だ。鏡とは御言葉だ。御言葉は、
私たちの心をありのままに映し出す鏡だ。

鏡が無ければ、顔は見ることが出来ないように、御言葉が無ければ、
自分の心の姿はわからない。だが、御言葉の鏡を見て、自分の汚れ
や、罪がわかったとしても、対処せずそのままならどうだろう。何
も起こらないし、何も変わらない。ずっと汚れたままだ。その時に
御言葉を実行するなら、初めて自分は変えられて行く。

悔い改めるなら罪はきれいに赦され、又、対人関係で和解が必要な
ら、従うと、主の栄光が現われ、自分自身も平安にされ、変えられ
て行く。ある人が、忙しい毎日に、デボーションから全く遠ざかっ
ていた事を、礼拝の中で気づかされた。日々の忙しさに流されてし
まっていた。示された事を即、実行した。

祈りの中で、溢れる様々な思いを、明け渡して行った。主との交わ
りに、久し振りに心満たされ平安にされた。「私のたましいよ。お
まえの全きいこいに戻れ」「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの
水のほとりに伴われます」。御言葉に示された、目の前のその事を、
実行できるよう祈ろう。実行する時に、生まれつきのままの姿でな
く、御言葉の人格へと変えられて行く。
------------
せっかく御言葉で示されても、立ち上がると日々の生活に関心が移
ってしまう。鏡を見るように、内なる人にも最大の関心をはらって
いたい。素直に御言葉を実行しよう。


2020年11月09日(月)

「ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか』と言った」使徒16:30



私たちが、深い苦しみや悲しみの中においても、主に拠りすがり、
信仰をもって、平安と感謝をもって生活する時に、周囲の人々は、
なぜそうできるのかと不思議に思い、インパクトを受ける。パウロ
とシラスが、迫害により酷く鞭打たれた後、投獄された。足かせと
激痛の中で、賛美と感謝をしていた時に、囚人たちが聞き入ってい
た。

この世では、そういう状況では、愚痴、不満、失望、落胆が普通だ。
人々は、彼らをただ者ではないと思ったろう。又、一マイル行く者
と共に、二マイル行ったらどうだろう。一マイル行くのも苦痛なの
に、二マイル行くなど有り得ない。どうして?そんな事ができるの
か?と自分には出来ないので、やはり何かを感じる。その時に証し
ができる。

希望について説明を求める人に、弁明出来る用意は大切だ。そのチ
ャンスはいつ来るかわからない。ある人が、離婚という非常に辛く
苦しい試練を通った。尽きない涙の谷を通り、張り裂けそうな苦し
みの中で、主だけが望みで、頼りで、何もかも委ねて、主に拠りす
がった。その時、不思議を経験した。世のものでは無い主の平安を
与えられ、主にかくまわれているようだった。

状況は悲惨なのに、主の平安に包まれた。この世のものでない御霊
の喜びと感謝が湧いた。誰よりも心を痛め、じっと見守っていた未
信者の父親が「お前が、安らかでいる事が嬉しい」と「自分も、お
前の神を信じる」と、主を信じ救われた。
-------------
喜びにつけ悲しみにつけ、自分に向けられる主のご愛をその度に知
らされ深く感謝するばかりだ。死を超えた希望も持っている。いつ
も主が共にいてくださる感謝を証しして生きよう。


2020年11月08日(日)

「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽 くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8


悪魔は策略を練り、巧妙に半分の真理に半分の嘘を混ぜて来る。全
部嘘ならまだわかりやすいが、半分は合っているだけに見分けずら
い。エバに来た誘惑も。はなから無神論者で神否定なら予防線を張
り、警戒するが、「神」が出て来るし「言われた・・」御言葉もどき
が出て来ると、安心し気を許してしまう。

又、悪魔の誘惑は、自分の欲望にピタリと合致して来る。自分の思
いと一致しているので、気づかない。例えば、相手の辛辣な言葉や
悪い態度で、傷つけられる。心は辛く苦しい。相手に非があるので、
自分は被害者で、傷つけられたために苦しいとしか見えない。自分
がこんなに苦しいのは相手のせいと、更に相手を憎む。

しかし実際は、自分が相手を裁き、憎んでいるので心が辛い。そこ
が悪魔におおわれ隠される。「人から出るもの、これがが人を汚
す」、何があろうと、主と自分の間が正しければ、外的状況は関係
無く平安なはずだ。何ものも主の下さる平安は奪えない。又、泥酔
や賭け事、妬み憎しみ等ストレートな罪はわかりやすいが、良い事
で誘惑して来る。

仕事や趣味は良いものだ。趣味は良い気分転換になる。しかし罪で
はないが、知らず〃、のめり込むと、時間と労力が奪われ秩序が狂
って来る。「すべての事はしてもよい。しかしすべての事が有益と
は限らない」罪でないが、有益でもない事で、ダラダラと時間を使
い、主との交わりの時間が大幅に圧迫されてしまう。もしその事で、
霊的食欲が減退して行くようなら、巧みな悪魔の誘惑が来ていて、
要注意だ。主に助けを求めて祈ろう。

・・・・・・・・・・
サタンは手段はどうであれ、とにかく神から私たちを離したい。そ
れが成功するなら、手段は何でもよい。罪でないが、有益でもない
事に大幅に時間が取られるのは要注意だ。流されてしまう。その事
で霊的食欲が増すか、それとも減退して行くかで、見定められる。



2020年11月07日(土)

「「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あと でわかるようになります」ヨハネ13:7


ジグソーパズルがある。沢山のピースがあり、各々のピースは、バ
ラバラだが、それを一つづつ埋まるべき場所に埋めて行くと、見事
な作品が完成する。一つ〃のピースだけを見ると全く意味不明だ。
しかし、それぞれふさわしい場所にはめると、素晴らしい絵が完成
する。一つとして無駄なピースがない。一つ欠けても完成しない。
完成のためには、全ピースが必要だ。

同様に、私達の日常に起こる一つ〃の出来事も、無駄なものは一つ
も無い。時に突如の想定外の事が起きる。「なぜこんな事が?なぜ
私に?」と非常に戸惑う。わけがわからない。しかしそれら一つ〃
の出来事に、主の計画と意図がある。ピースが一つ〃と埋まり、少
しづつ全体像が見えて来ると、どんな絵かが明らかになるように、
時の経過と共に主のお心が見えて来る。

一つ〃の出来事が、繋ぎ合わされ、ピタリとはまって解き明かされ
る事を経験して行く。全く理解不能だった事が、一つ〃が繋がり、
主のお心が見えて来る。一つとして無駄は無い。今、試練の中だろ
うか。今は、わからないが、それは主の御手から来ている。一羽の
雀さえ、父のお許しなしには決して地に落ちない。御手の中だ。

神のなさる事は、時にかなって美しい。今はわからないが、信仰に
よって受け止めよう。時間はかかるが、それがベストだったと、後
でわかるようになる。主のなされた最善であり、感謝できるように
なる。

・・・・・・・・・・・・・
試練の渦中では、なぜこうなっているのか、何が起きているのかわ
からない、理解できない。しかし主の御手の中にあり、主は、それ
ら一つ一つのすべてをわかっておられる。そうであれば、理解でき
ずとも、その主を信頼して歩む喜びに、生きて行きたい。


2020年11月06日(金)

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19



信仰の人、アブラハムの状況はどうだったのだろう。75歳で「生ま
れ故郷を出て、わたしの示す地に行け」との召しでカナンに出発し
た。そしてカナン人との闘いの日々だった。長く子どもができず、
しもべエリエゼルを相続人にと考えていた。「子孫を下さらないの
で、家の奴隷が跡取りになる」と。すると主は「その者ではない。
あなた自身から生まれ出る者が継がねばならない」と。

主は彼に満天の星を見上げさせ、子孫はこの星のようになると告げ
られた。その時「彼は主を信じた」。彼は、神の約束を信じた。現
に子供はおらず、見えるところでは、状況的には、非常に受け入れ
難い事だった。しかしアブラハムは神ご自身を信じた。状況でなく、
神ご自身の方を見て信頼した。「彼は望みえない時に、望みを抱い
て信じた」。

望み得ないときに望みを抱くからこそ、信仰だ。目に見えないから
「信仰」なのであって、目に見えたなら、信仰は必要無い。人間の
五感による、感覚的な実感などどこにもない。状況を見て、感覚を
頼るなら、どこを見ても信仰など湧いて来ない。目の前の状況から
出る結論は「不可能」だ。その望み得ない状況から、どうやって希
望が湧き出るのか。

それは約束の言葉だ。神が語られた言葉を、そのまま真っ直ぐ受け
入れた時、それが彼の義とみなされた。そして「彼の義とみなされ
たと書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのため
です」。私たちも、アブラハムと同じ祝福にあずかると。
-------------
少しでもしるしがあれば安心できるのにと思ってしまうが、約束し
てくださるのは神だ。これ以上の安心があるだろうか。状況をみれ
ばネガティブになるが信仰に立って前を向こう。


2020年11月05日(木)

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」Tヨハネ3:17



困難が起きた時に、まず頼るは主であり、避け所だ。何があっても、
頼るべきお方、行けるところがあるとは、何と幸いな事だろう。し
かし自分が困った時に、大胆に確信を持って祈ろうとするなら、普
段から「神の命令を守り、神に喜ばれることを行っている」ことが
大切だと言っている。

すなわち他人の事を思いやり、他人が困っている時には、その必要
に仕えていなければならない。人が困っているのを見て、助けるこ
とができるのに、憐れみの心を閉ざすなら、自分自身が困った時に、
どうして心が責められずに、主の御前に出る事が出来ようかと。
「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答え
られない。」

人の苦しみには耳を閉じ、自分が困っている時には助けて欲しいと
は、自らの心がとがめて、御霊によって、祈る事が出来なくなる。
心にとがめがあるなら、それが妨げとなり、どれだけ祈ろうとして
も確信が持てない。祈りが妨げられないために、いつも大胆に御前
に出られるように、普段の生活で御霊に示される事には、一つ一つ
従って行こう。

肉は犠牲を惜しみ、渋るので、御心に従えるように助けを求めて祈
ろう。そうする時、御前に心が平安にされる。そしてとがめ無く大
胆に祈ることができて、「求めるものは何でも神から頂くことがで
きる」素晴らしい恵みと祝福にあずかる。 
-------------
御霊の促がしに従えるように祈ろう。受けるだけで満足し、人のこ
とを顧みられない者だ。自分には出来ないが主がしてくださる。
御霊に導かれ主の心で従おう。


2020年11月04日(水)

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」詩篇40:8



みこころを行なう事が喜びだと言っているが、肉は、自分の願い、
欲望が叶うことが喜びで、幸せだと思う。欲望が満たされる事は、
非常に心地良いからだ。又、自分の利益になる事も快い。与えるよ
り受ける方が幸いになる。目の前の事態に、とっさに自分の損得を
基準に判断し、行動してしまう。メリットが無い事に関わりたくな
いし、時間も労力も財も使いたくない。

そして又、仮に全財産を貧しい人に施したとしても、愛が無ければ
何の役にも立たないと言っている。全財産を与えるのは、大変な犠
牲的行為だ。しかし動機が問題で、それが自分の栄誉のため、自分
のプライドや賞賛のためなら、何の益も無いと。人は、自分の栄光
のために、かなりの事が出来てしまう。しかしそれならいっさいが
無益だと。信仰は、根底が自分中心から、神中心への転換だ。

日々の生活に心が満たされず、心の奥に虚しさがあり、欲しい物を
手に入れても満足が無いのは、自分中心に生きているからだ。それ
を神中心に転回して行く時に、真の心の満たしを経験する。神は、
私に何を願っておられるのか、私への御心は何か、神はどう思って
おられるのか、まず「神は」を主語にする時に、すべてが秩序を持
って回り、自分自身にも真の平安と喜びが臨む。

私たちは、自分で思い描いた幸せを望むばかりで、主が私に与えよ
うとしている溢れる祝福を受け取り損ねていないだろうか。自分の
思う幸せに固執していないだろうか。主のみ思いは、全く別にある
かも知れない。主のみ思いを尋ね求めよう。
-----------
心はいつも感情と打算に流れてしまう。御心を祈っているつもりで
も自分の有益ばかり願っている。何を一番にしているか、立ち止ま
り今一度、点検したい。


2020年11月03日(火)

「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこに行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです」Tヨハネ2:11



光の中にとどまる人は、決してつまずく事がない。光があり見えて
いるからだ。人がつまずくのは、闇の中にいるからだと言っている。
闇の中で見えないので、つまずく。「光の中にいると言いながら、
兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいる」と。やみの中
にいるしるしは、兄弟への批判、非難、悪口、赦せない思い、憎し
みだ。

兄弟への敵対心、憎しみがあるなら、私たちはやみの中にいる。幾
ら、自分は光の中にいると言っても、御言葉がやみの中だと言って
いる。まず、自分がやみの中にいる事を認める時に、すでに光の中
だ。反対に、兄弟を愛して行くなら、やみの中にはおらず、それは
光の中におり、つまずく事がないと。その時、真っ直ぐに歩んで行
ける。

霊的にダウンする時、相手や環境のせいだと思う。嫌な相手、嫌な
環境のために憂鬱で、自分に喜びがなく、落ち込んでいると思う。
周囲の人や状況さえ変われば、平安なのにと。しかし実のところそ
れは原因ではなく、自分と主との関係が原因だ。平安が無い時は、
主との関係に、何らか問題がある。心に憎しみがあるかも知れない
し、人からの評価や賞賛を求めているのかも知れない。

心が神以外のものに向いている時に、必ず喜びが失せ、不満、愚痴、
裁き、妬みが出て来る。問題が混乱してくる時、まず自分と主との
関係に焦点を置こう。そこの妨げが取れて、真っ直ぐになると、光
の中だ。どんな状況でも、主を真っ直ぐに見上げる心は、平安であ
り、物事が正しい位置に置かれて行く。
------------
御父との交わりがないと自分の問題に気づかず、何の問題も無いと
思い込んでしまう。気づいた罪は主に告げて、赦されてひかりの内
を歩んでいこう。


2020年11月02日(月)

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」創世記11:4



有名なバベルの塔の箇所だ。最初、全地は一つ言葉だった。そのた
め互いに意思疎通ができた。人々はシヌアルに平地を見つけ定住し
た。彼らは、石の変わりにれんがを作り、粘土の変わりに瀝青を作
った。しかしそれらは神による技術であった。そして建造物を作る
ことができたが、それも神の恵みであった。

対話もでき、皆で交流でき、肥沃な地に住み、すべてはうまく行っ
ていた。しかし「そのうちに彼らは」「天に届く塔を建て、名をあ
げよう」と言い出した。「神のようになろう」としたアダムと同じ
だ。主の恵みに感謝し、へりくだって主に栄光を帰するのではなく、
自分の名をあげ、自分の栄光、名誉、賞賛、「自分」が神の位置に
取って変わった。

神に与えられた能力を、自分の栄光のために使い、「自分が、自分
の、自分を・・」これがアダムからの罪そのものだ。そして「生め
よ。増えよ。地に満ちよ」との主の御心に反逆し、散らされないよ
うにしようとする。「そのうちに」とある。最初は良かったのだが、
段々と向きが変わり、狂って来た。神が介入された。

言葉を混乱させ、意思疎通を不能にした。その結果、塔建築が不可
能になり、「彼らは建てるのを止めた」、建設は失敗した。神が阻
止された。そして人々は全地に散らされた。原因は人間の「高慢」
であった。

私たちもどうだろう。言葉が通じず、気持ちが通じない時、そこに
主を忘れ、「自分が、自分が」という「高慢」がないだろうか。ま
ず主の前にへりくだり、肉の思いを退ける時、必ずそこには御霊の
一致がある。
---------
共通の言葉はなくても主は御霊を与えてくださった。言葉も考え方
も違う人と互いに意思疎通し、一致しようとする時に謙遜にさせら
れる。自分中心から主にあって一つになれる。


2020年11月01日(日)

「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわってい る人々に分けてやられた」ヨハネ6:11


人は、自然にしていると、どうしても悲観的な見方に傾くと言われ
ている。私たちも主から目が離れると、有るものではなく、無いも
のばかりに目が向いてしまう。不足分を数える。あれも、これも無
い。能力が不足、時間が無い、財力も無いと、心沈み、落ち込んで
しまう。

アンデレは、パンと五つと小さい魚を二匹持っている少年を、主の
もとへ連れて来た。しかし、こんなに大勢に、この僅かなものが何
になろうと。だめだろうなと。だが、主のもとへ差し出した。
主は手にあるものを用いられる。それがどんなに僅かでも問題無い。

自殺未遂となった田原米子さんは、片腕と両足を失い、3本の指だ
けが残った。絶望し、次は確実に死ぬ事だけを考え、睡眠薬をため
込んだ。そんな中、宣教師の導きで、主を信じた時に、突然「指が
3本もある!」との思考になった。「無い」から「有る」へ180度
発想転換が起きた。そして生涯を主に献げて行かれた。

星野富弘さんも、首から下が動かない身体になった時に、絶望した。
真っ暗闇で、苦しみ、煩悶を母親にぶつけていたと。そして主に出
会った時に「首から下が動かない」から「首から上が動く」に変わ
った。主にお献げして行った時に、世界中の人々の慰めと励まし、
心の癒しのために、素晴らしく用いられて行った。

私たちはどうだろう。無いもの、不足分ばかりに、目が行ってない
だろうか。そうでなく、与えられているものに目を向けよう。それ
を主にお献げする時に、主は聖めて、主の栄光のために用いて下さ
る。手の中にあるものを、まず主のもとへ持って行こう。主は受け
取って下さり、祝福し、周囲のために豊かに用いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
手の中にあるどんな僅かなものでも、主のもとへ持って行こう。持
って行くことが大切だ。自分の手にあるか、主の御手にあるかで、
天と地ほどに違って来てしまう。こんな僅かなものと思ってしまう
が、主のもとへ携えよう。主は素晴らしく祝福して下さる。