2020年12月31日(木)

「すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることである」Tテサロニケ5:18



あるクリスチャン会社員が、突然リストラになった。彼は、落胆、
不安、失望、思い煩いに襲われつつも、次の仕事を懸命に探した。
が、仕事はなかなか無かった。妻子もいる中、家庭はどんどん経済
的に苦しくなって行く。やがて貯えも底をついて来た。支払いも次
々とたまる中、このままどうなるのかとの恐れと不安で、どうにか
なりそうだった。

尚も仕事は無く、思い煩いに押しつぶされて、御言葉も心に入らず、
祈れない日々が続いた。まさに、種まきのたとえの思い煩いのいば
らにふさがれた土地状態だった。もう身動きも取れず、どうにもな
らないギブアップ状況だった。重苦しい心で、礼拝に出た時に、
「すべての事について感謝しなさい」のメッセージだった。メッセ
ージに心が引き寄せられ、御言葉が心に留まった。

もう何のすべもなく、何も出来ない状況で、主に何もかもゆだねて、
御言葉に従おうと決心した。そして感謝することを始めた。「今、
仕事が無いことを感謝します」から始め、「請求書がたまっている
事を感謝します」「貯えが底をついた事を感謝します」ネガティブ
な事や不安な事をどんどん感謝して言った。家族が現在、困ってい
る事を更に感謝して行った。

そして、同時に恵みも感謝して行った。このような中も、家族は元
気に守られている事。病気もしておらず、飢えてはいない事。今日
の必要は与えられている事。するとますます感謝が増え、恐れや不
安はすっかり消え、賛美が湧き上がって来た。そんな時、仕事依頼
の電話が来た。
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この一年、共に主を賛美できましたことを心から感謝します。
来年は5日からの配信となります。


2020年12月30日(水)

「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」マタイ19:22



金持ちの青年が、永遠のいのちを得たいと「どんな良いことをした
らよいか」と主のもとに来た。主は、彼に「良い方は、ひとりだけ」
と答えた。主が、人が何かを行なう問題でなく、良い方である神の
問題だと言われたが、行なおうとの思いに満ちていた。主は、この
間違いを導こうと律法を持ち出された。

律法は、自分の力で守れない事、良い事ができない事を教えるため
にある。律法がいのちを与える事ができるなら、義は良い行ないに
よる。だが、すべての人が罪の下に閉じ込められ、義が、善行でな
く、キリストに対する信仰によるとされた。青年に、良い事は自分
ではできない事を教えようとされた。

「殺してはならない・・あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」
しかし彼は「守っている」と答えた。しかし守れるはずはない。彼
は「何が欠けているのか」と。主は、財産を貧しい人に施すように
と。もし隣人を愛しているなら、すでに施していたはずだ。自力で
は、律法は守れない事を、主は認識させたかった。

だからこそ「良い方」がおられる事を。しかし彼はどこまでも自力
に固執し、主のもとを去った。私たちも、財産=自力、自分の行な
い、自分を捨てられないだろうか。自分では不可能だ。しかし主に
はできる。主のもとを去らずに頼り、取り扱っていただこう。
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自分の行いを頼っていると主の一方的な恵みの喜びを味わうチャン
スがなく、まだ何かが足りないとつぶやく。自分にはできないけど
主にはできる。子供のように主の元にいこう。


2020年12月29日(火)

「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」詩編56:11




ある人は、小さい時から性格的に、他人の事が人一倍気になった。
どうしても人が気になって仕方がない。人の目を気にしてしまう。
良く見られたいし、良い人だと思われたい。人に嫌われたくない。
そんな時、ある近所の人から、酷く悪口を言われている事を、友人
から告げられた。

近所の人々からも同じ事を聞き、驚いて思い煩いで心が重苦しくな
った。身に全く覚えのない中傷、非難、批判に、自分は立っておれ
ばよいと思うが、辛くて、涙が溢れた。人に良く見られたい自分の
弱さ、急所だった。その急所が痛くてたまらず、悩んで心暗く悶々
の日々だった。ずっと誹謗中傷が続き、辛くてたまらない中、祈り
に祈った。

主に心の内をことごとく打ち明け、この事態を助けて下さい、御心
のように導いて下さいと、自分自身を今一度主に明け渡した。委ね
た時に、あれほど苦しかった心が和らいだ。不思議だった。苦しか
った心が平安になった。そして更に心に奇跡が起きて、自分でも驚
いたのだが、相手の事が気にならなくなったのだ。

幾ら考えても、こちらに非は思い当たらず、悪口を言われても、も
ういいやと思えた。こんな事は、以前の自分には考えられない事だ
った。もう現状もどうであれ、御手に委ねたので、後は主が導かれ
ると思えた。不思議な平安に心が守られて過ごせた。すると相手の
入院を耳にした。実は病で、自分が標的になっていたと知った。

この事を通して、「主に信頼する者は守られる」ことを身をもって
経験させられた。非常に苦しく辛い訓練であったが、主の恵みの取
り扱いだと知った。
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主に告げて祈っていると、折々に主の返事を聞いていく。今まで捕
らわれていた箇所を示されたり、導き返されたり。主との個人的な
交わりに勇気がわいてくる。主が味方だ。


2020年12月28日(月)

「試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい』」マタイ4:3



悪魔の第1の誘惑は、40日断食後の主に向かい「石がパンになるよ
うに命じよ」というものだった。主が、御父に頼るのでなく、自力
で自分の必要を得よとの誘惑だった。主にはそれが可能だったゆえ
の誘惑だ。しかし主は「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
と退けられた。

神の言葉が食物であり、自力でなく、神の言葉により必要が満たさ
れる事、つまり徹底して御父への信頼の中で生きると立ち向かわれ
た。すると悪魔は、次は御言葉を持って来て、第2の誘惑をしかけ
た。「神殿の頂から下に身を投げてみよ。神が御使いに、支えさせ、
石に打ち当たることがないようにされると、書いてあるではないか」
と。

神に信頼すると言うのなら、神が支えるから、身を投げてみよと。
主は、これに対しても又、御言葉で「神を試みてはならない」と退
けられた。詩篇91:11、12と比べると「すべての道で」が抜けてい
る。これは神の御心の中にいるなら、守られるとの意味だ。勝手な
事をし守られる保障はないし、神を試して守られる事はない。

第3は世のものへの誘惑だ。栄華、地位、名誉、富、賞賛・・非常
に魅力的だ。「ひれ伏して私を拝むなら」全部上げようと。あなた
にも、今、この世のものへの誘惑が来てるだろうか。悪魔の誘惑だ。
「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と悪魔を撃退され
た。日々に来ている悪魔の誘惑に、識別のために祈っていよう。
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試みる者はいつも巧妙に近づいてくる。御言葉から答えは出ている
のに様々に誘惑され失敗する。神を拝む以外はサタンを拝んでいる
と覚えていたい。サタンの声にノーと言えるよう祈って備えよう。


2020年12月25日(金)

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」ルカ2:10



「すばらしい喜び」と言っている。喜びについての事でなく、「喜
びそのもの」だと。その大きな喜びの知らせを第一に届けられたの
は、野宿していた羊飼いだった。この当時羊飼いは、身分は低く、
さげすまれ、社会の最も底辺にいる極めて貧しい人々だった。人々
は住民登録で移動し、慌ただしかったが、羊飼いはそれさえ関係無
かった。

立派な有名人や、学識者や、資産家や、指導者でなく、そんな底辺
の見放されたような人々に、真っ先に、救い主誕生の大きな喜びが
知らされた。「きょう」生まれたと。それで「急いて行って」、彼
らはすぐに喜び勇んで行き、ベツレヘムのヨセフとマリヤを探し当
て、飼い葉おけを見つけた。全部が御使いが語った通りであること
を確認した。

彼らは救い主誕生という余りにも大きな出来事に、喜び溢れて、明
日にではなく、すぐに行動した。この時、もし主が、立派な宮殿で
生まれていたらどうだろう。彼らは会いに行く事も、近寄る事すら
も出来なかった。彼らが「神をあがめ、賛美しながら帰る」ことも
無し得なかった。「神をあがめ、賛美しながら帰る」自分のための
救い主に会い、彼らは帰って、同じ仕事をするが、心は全く違って
いたであろう。

「あなたがたのために」貧しく苦しい生活で、人々が眠る間に働く
羊飼い。彼らを格別慈しみ愛されたが、同様に、私たち一人一人の
ために救い主として来て下さった。主に出会い、新しい人生が始ま
り、一日が新しく新しくされる。
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貧しさを覚え心ひそめて救いを待っている者に主は現れてくださっ
た。闇が深いからこそ喜びは溢れる。きょうダビデの町で、私のた
めに主はお生まれになった。それゆえに喜びが溢れる。


2020年12月24日(木)

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」ルカ1:28



マリヤは、突如、御使いの訪問を受け「おめでとう。恵まれた方。
主があなたとともにおられます」と告げられた。突然の事に、その
言葉に戸惑うマリヤは、どういう事かと考え込んだ。すると「恐が
ることはない。あなたは神から恵みを受けた」のだと。みごもって、
男の子を産む、名をイエスとつけるようにと。彼はとこしえにヤコ
ブの家をおさめると。

しかしマリヤは疑問を問うて行った。なぜ子供が生まれるのか。男
性を知らないのに。御使いの答えは聖霊によると。聖霊が臨み、聖
霊の力がおおい、赤子が生まれると。そして不妊のエリサベツさえ
妊娠している。神に不可能なことは一つも無いと説明した。これは
マリヤが選んだ事でなく、打診されての事でもなく、一方的にマリ
ヤが選ばれての事だった。

マリヤはヨセフと婚約中で、この身になるなら、ヨセフとの結婚も
将来もすべて壊れるだろう。また結婚前に妊娠するなら、当時は石
打ちの刑で、死刑だ。言葉通り、この身になるなら、死を意味する。
しかし御使いは「恵まれた方」「恵みを受けた」と言う。私たちは
目の前の事態に、まず自分を中心に考えてしまう。自分に都合良い
か、悪いか、得か損か、犠牲はどれほどか。

又、逆に御心を示された時、信仰がない、時間、能力が無い、無理
としり込みする。マリヤは信仰、能力、ふさわしいから受け入れた
のでなく「主があなたとともにおられる」「主に不可能なことは一
つもない」を信じて、主に自分自身、自分の人生を明け渡した。
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主の働きかけに対し、今までの生活が変わってしまうかも知れない
という強い恐れがくる。どこまでも自己都合の信仰だが、主が選ら
び導かれるなら不安は無い。明け渡す信仰へと進もう。


2020年12月23日(水)

「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい」出エジプト14:13



エジプトを出たイスラエルの民は、男子で60万人、皆で200万人と
言われているが、おお事だ。又、エジプトにとっても、膨大な労働
力が突如消失するわけで一大事だ。約束の地を目指し、出発したが、
すぐに難題発生だ。何と背後からエジプト軍の精鋭部隊の追っ手だ。
前は海で、絶体絶命だ。民は手の平を返したような態度を取る。

モーセをののしり、「こんな荒野に連れて来て、死なせるのか。何
という事をしてくれたのか。エジプトにいた方が良かった」と。問
題が起きた時、試練の時、順境の時には決して現われない、人の本
性が出る。本当の姿だ。祈っていたであろうモーセは民に言った。
「恐れるな」「しっかり立て」「あなたがたのために行なわれる主
の救いを見よ」。

私たちはすぐに恐れる者だ。不安でいっぱいになり、大きく動揺す
る。主が飛んでしまい、目の前の状況に飲み込まれてしまう。思い
はどんどん飛躍して、最悪のシナリオが出来上がる。その時に、主
も、御言葉も抜け落ちている。まず「恐れるな」の御言葉に立ち、
状況を見る時に、恐れに飲まれていた状況が違って見える。

そして「しっかり立て」自分で動き回らずに、自分で何とかしよう
とせずに、主を信じ、主が動かれる事を信じる信仰に立てと。「主
が戦われる」。今、目の前に困難があるだろうか。まず「恐れるな」
心配するなと。自分で動かず、主の導きを求め、その導きに従おう。
主が事を成される。
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恐れの中から主に叫び、主を頼ろう。それ以外に何が出来るだろう。
主はご自身を信じ頼る者を必ず守られる。確信をもって立っていよ
う。


2020年12月22日(火)

「彼はダビデに言った『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり・・」Tサムエル23:17



サウル王には、素晴らしい息子ヨナタンがいた。サウルは、部下ダ
ビデが連勝で、民の大喝采を浴び、人気の的である事をひどく嫉妬
した。その妬みは殺害願望にまで高じて行った。ダビデは、サウル
に何も悪い事をしていない。むしろ王のため身を挺して戦い、王に
大変忠実で有能な部下だった。

それなのにサウルの歪んだ目は、ダビデを敵視し、殺害すべく血ま
なこになる。だがヨナタンは、父サウルとは違い、信仰の目で、真
っ直ぐに天を仰ぎ、主によって真実を見、受け止めていた。普通な
ら王の息子ヨナタンが王位を継ぐが、ヨナタンは何よりも信仰に立
っていた。

だからダビデに「あなたこそイスラエルの王となり、私はあなたの
次に立つ者」と言い、ダビデを認め、ダビデの王位継承を受け入れ
ていた。そして私の父サウルも、そうなる事を確かに知っていると。
サウルもわかっていたが、それを受け入れられなかった。サウルに
とり王位は命であり、すべてであり、失う事など考えられなかった。
だからダビデを妬み、憎み、恐れ、殺害しようとした。

大事な事は王位を決めるのは神であり、人によるのでなく、神の主
権による事だ。「高く上げることは、東からでもなく、西からでも
なく・・神がこれを低くし、彼を高く上げられるからだ」と。私た
ちも何かの場に立てられたなら、主を認めて、それは主から来たも
のと受け止めよう。
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主がこのところに置いてくださったとの感謝がなければ、成功すれ
ば高慢になり、失敗するれば恵みも何も見えなくなる。本当に状況
にアップダウンする弱い者だ。すべてに主を認め主と共に歩もう。


2020年12月21日(月)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての惡から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9



罪を言い表わすとは、自分の犯した罪を「その通りです」と認める
事だ。その時、主は真実で正しい方だから、その罪を赦して下さる。
しかし罪の性質は、プライドゆえ、その通りですと認めたくない。
プライドが許さないのだ。あれこれ言い訳で自分を正当化する。こ
れは状況が悪かった、相手が悪い、相手のせいと思いたい。罪を認
める事は非常に痛い。

自我はどうあっても「ごめんなさい」だけは言いたくない。回避し
たい。そうなら赦しを受ける事ができない。赦される喜びを知る事
もない。平安もないままだ。そんな時は、あるがままで主の御前に
行けばよい。「認めたくない」「自分が悪いと思わない」「でも、
助けて導いて下さい」その祈りに主は答えられる。

悔い改める時、罪が赦される。苦しい心に平安が戻り、喜びが戻る。
バテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を重ねたダビデは「黙っていた
時には、1日中うめいて、骨々は疲れ果て」「御手が昼も夜も重く
のしかかり、骨髄は夏のひでりのように乾ききった」苦しみもだえ
た。だが罪を告白した途端、ダビデは赦された。

主との関係が回復されたダビデは「主にあって、喜び、楽しめ。喜
びの声をあげよ」と。もし、言い訳と弁解に終始し、自分を正当化
しているなら、自らの罪を認めよう。そう出来るよう祈ろう。全き
赦しが与えられ、喜びと安堵、大きな祝福の中に入れられる。弱さ
のゆえに罪を犯してしまうが、赦されて、赦されて、歩める。
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罪の中にいるとわからないが、主の赦しを受け取った時、どれほど
罪が醜いかわかる。言い訳もごまかしも主には不要だ。真実な主は
赦そうと待っていてくださる。赦されてまた主を愛していこう。


2020年12月18日(金)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14



救われて、よくわからない最初の頃は、自分が中心で、自分のため
に主がおられて、様々な助けを与えて下さるのだと思っている。そ
れで自分軸で、主よあっちへ行って下さい、こっちへ来て下さい、
主よ、あれをああして、これをこうして下さい〜式の祈りをする。
しかし初心の頃は、不思議だが自己中心の祈りにも答えて下さるこ
とを経験する。主の特別な計らいかも知れない。

それは他人の事までは祈れないが、自分の事なら祈れるので、まず、
主に向くということを、身につけさせて下さるためかも知れない。
最初は、御利益宗教のようだが、でも主のあわれみによって、叶え
て下さる。とにかく主に向くということを教えて下さる。そして時
を経つつ、段々と、私たちを砕き、練り、成長させて下さるが、祈
りにおいても、少しづつ訓練し、成長させて下さる。

祈りも練習だ。自分のためにだけ祈っていたのが、兄弟姉妹のため
に祈るように変えられ、執り成しの祈りへと導かれて行く。そして
時間もかけながら、御心にかなう祈りが、聞かれるという事実を学
ばされて行く。自分でも気づかずに自分中心の祈りをしている時が
ある。

しかし聞かれていないと感じたり、平安失せたり、周囲とギクシャ
クしたり、秩序が混乱したり、祈りが違う事を教えられ、御心にか
なった祈りへと、軌道修正されて行く。そしてその祈りは叶えられ
る。祈りの中で、祈りが変えられて行く。そのため、とにかく何よ
り祈りの実践が大切だ。
----------
自分の最善が主の御心と一致していればと思うが、主は最善だけを
してくださる。これは御心の祈りかどうか、御心が成りますように
と主に委ねながら祈りを重ねていこう。


2020年12月17日(木)

「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23



ここは、自分が傷つけられて、相手を恨み、憎んでいるのではない。
よく相手を赦せなくて、悶々とする。恨みと憎しみは募り、自分が
苦しくどうにもならない。赦すべきだとわかるのだが、赦せない。
しかしやはり和解しようとする、そういう事を言っているのではな
い。「自分」がでなく、「相手」が自分の言葉や態度につまづいた
り、反感を抱いている事を言っている。

もし誰かに、自分が恨まれているなら、礼拝途上でも、まずその人
の所に行き、謝罪し、和解し、その上で礼拝を献げるようにと言っ
ている。でなければ、礼拝が意味をなさないと。自分が恨んでいる
のでなく、自分が恨まれている場合の事を言っている。主は悔い改
めること、和解することを喜ばれる。

しかし生まれつきの性質には、大変難しい。善行はまだしも、謝罪
だけはしたくない。プライドがある。謝罪以外なら何でもする。ま
た、エデンの園のアダムとエバの通り、罪は認めたくなく、自分を
正当化する。そうなったのは、相手が悪い、相手のせいだと。

又、謝罪は敗北のように感じてしまう。しかし主は「「わたしは、
高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」
と。へりくだった謝罪を喜ばれている。
-----------
謝罪し自分を改める事は痛みを伴うが、礼拝よりもまず和解をと主は
望んでおられる。解決にむけて祈り努力しよう。主との関係がなによ
り正しくされる。


2020年12月16日(水)

「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを」エレミヤ10:23




別の箇所で「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができ
ないからです」と言っているが、私たちは主によらなければ、何一
つできないことを日々の生活で経験する。自力で頑張りに頑張り、
力尽きてしまい、出来ない自分を責め、がんじがらめになる。仕事
や学業面で成績が上がらない、又、対人関係で、幾ら頑張っても相
手を愛せないし、赦せない。

又、祈ったり、聖書を読む事は信仰生活の生命線だが、それも、主
の恵み、主の力、主によらなければ出来ない。自分の力では出来な
い事を思い知る。主の恵みにより、主にとどまることにより、御霊
によって祈ることができ、御言葉に耳を傾ける事ができる。主に拠
り頼むことによって、自分では出来なかったことが、成し遂げられ
て行くことを見せられる。様々、日々の歩みにおいて経験して行く。

又、主に頼らず、自分の知恵、自分の力で歩んでいて、気づかない
ことがある。主に頼らなくても、祈らなくても、やって行けてしま
うため、主にとどまらずに、主を離れて自分で生きて行く。しかし
表向きはうまく行っていても、主を離れては何もすることができな
い。実を結ぶことが無いと言っている。

それは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまっていると。挫折
しているなら、主に拠り頼もう。又、祈らず、頼らず、歩んでいる
なら、立ち止まって主を見上げよう。
------------
ひとりで頑張って完全になる事より、どんなに拙くても主のご愛と恵
み信じて日々歩みたい。主と離れては何も出来ないと失敗から学べる
事は感謝だ。主と共に、生き生きとした信仰生活を送ろう。


2020年12月15日(火)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」詩篇51:17




生まれつきの性質が、一番言いたくない言葉が「ごめんなさい」だ。
プライドに触れて来る。ごめんなさいを回避して、代わりの善行で
穴埋めしてしまいたい。そして肉の性質は、どこまでも自分を正当
化しようとする。自らの非を認め、謝罪するなど、とんでもない。
言い訳、弁解など、幾らでも出て来る。

エデンの園で罪を犯したアダムに、主は心配し、「あなたはどこに
いるのか」と語りかけ、悔い改めのチャンスを与えるため、「あな
たは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」と問
われた。だがアダムは、「この女がくれたので、私は食べたのです」
と答えた。くれたエバが悪いのだと。エバがくれなかったら、自分
は食べなかったのだから。自分は悪くない。

エバも、主から「何ということをしたのか」と言われて、「ごめん
なさい。食べました」と言えた。ところが、「蛇が私を惑わしたか
ら、食べました」と答えた。惑わした蛇が悪い。蛇が惑わさなけれ
ば、私は食べなかったと。誰しもにある罪の性質だ。罪が入った結
果、それまでは神中心だったのが、自分中心の生き方になってしま
った。そのため責任転嫁するようになった。

日常生活の随所に現われる自分自身の姿だろうか。肉は、心のとが
めを、良い行ないで帳消しにしてしまいたいが、自らの罪を認めて、
ごめんなさいと悔い改める事を主は喜ばれる。主の血潮で赦して下
さり、「彼らの罪を思い出さない」と。何という恵みだろう。
-----------
罪を認めることは一番痛い。言い訳は次々に出てくるが、罪を認め
なければ、主の赦しも受け取れない。悔いた心を主に献げよう。主
への感謝と喜びが湧いてくる。


2020年12月14日(月)

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった」マタイ11:17




私たちが相手を裁くのは、ほとんどは相手が自分の思い通りでない
からだと言われている。自分の思いと違うから、相手を裁き、非難
する。つまりは自己中心によるものだ。主は、当時の人々を、遊び
をしている子ども達に例えられた。子ども達は、一緒に遊ぼうと他
の子達に呼びかけた。まず「結婚式」の遊びをし、楽しげに笛を吹
いたが、誰も踊らず、相手にしなかった。それで次に「葬式」の遊
びをした。

これにも誰も乗ってこなかった。同様に当時の人々は、悔い改めの
バプテスマを授けているヨハネが、荒野でいなごと野蜜で生活して
いると「悪霊につかれている」と言った。そして、主が取税人や遊
女の友となり、罪人と宴会の席についていると、「食いしんぼうの
大酒飲み」だと言い「罪人の仲間」だと言った。結局、何をしても
批判し非難した。

つまりは、自分たちの正しさを誇っていた。相手を正しく見て、受
け入れようとの思いなど皆無だった。その時に主は、「知恵の正し
いことは、その行ないが証明します」と言われた。必ず主の正しさ
は、その行ないによって証明されて行くと。

そして「そのすべての子どもたちが証明します」と。クリスチャン
たちが証明して行くと。私たちが悔い改めて、御言葉を聞き、自分
の思いでなく、御言葉に従って行く時に、私たちを通して、主の正
しさが証明されて行く。
-------------
一生懸命に自分の正しさを守ろうとしている人には、いくら説得し
ても伝わらない。主を信じ、自分の価値観から出て主の恵みに応答
していきたい。主の正しさを証明する者でありたい。


2020年12月13日(日)

「立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦し てやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あな たがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25


誰かに対する恨み事があるだろうか。それは誰かを、決して赦して
いない事になる。もし自分自身に対して、主からのあわれみ深い赦
しを受け取っているなら、それは必ず他者への赦しとなって現れる
と。つまり、他者を赦せないという事は、自分自身も主からの赦し
を受け取っていない事になってしまう。

それは主との交わりの妨げになる。ある働き人が、特別な集会での
説教を依頼された。求道者には救いを、信仰者は新たにされるよう
に、力強い主の働きをと、皆が祈りに祈り、祈りが積まれて行った。
その説教者自身も準備のために主と交わり、祈りに祈っていた。

段々と具体的に説教の内容に入ろうとするが、どうしても語る言葉
が与えられない。期日も迫る中、尚も祈るが示されない。どうすれ
ばよいかわからず、心が探られるよう、何か妨げあれば教えられる
ようにと切に求めた。すると心の底に、赦せない頑なな思いがある
事が示された。

心の奥にしまい込みふたをし、普段は気づかずにいたが、紛れもな
くある人々に根深い恨みを抱いていた。批判され、誹謗中傷された
事への怒り、恨み、赦せない思いだった。主の御前に涙ながらに悔
い改め、赦しを祈った。心がすっきりし、晴れやかになった。喜び
が来て平安が満ちた。語る言葉が授けられた。主は取り扱って下さ
る。取り扱いにあずかろう。

・・・・・・・・・・・
恨み事がある時、赦す事は難しい。赦したくない頑なな自我がある。
自分には出来ない事を認め、祈って行く時に、不思議が起きる事を
経験する。祈りは力だ。主が働かれて、みわざをして下さる。自分
では無い。祈りによって、主に拠りすがろう。


2020年12月12日(土)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこ ころは何か・・心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2



信仰生活を送る中で、教会に行っては、御言葉を学んでいる。しか
しその聞いた御言葉が、それはそれ、これはこれと、実生活とは別
物になってしまっていないだろうか。聖書の言葉と、実際の生活が
リンクしないで、切り分けられてしまっている。御言葉通りにする
なら、この世の中ではやって行けないと思っている。

教会は教会、この世はこの世の事と、それぞれに合わせてやって
行く。嘘も方便、グレイにしておいた方がうまく行く。摩擦さえな
ければ良い。しかしそうするなら、どんどん神の聖さや真実から離
れて行ってしまう。何が聖くて真実なのかが、わからなくなってし
まう。

自分がなかなか変わらないのは、御言葉と実生活が、別々になって
いるだろうか。御言葉を頭では、はい、はいと聞いているのだが、
実際は、現実生活はこの世の価値観で生きている。しかし御言葉を
拒むのではなく、聞いてはいるので気づかない。

主が必要を与える、主に頼れと言われるが、現実にはお金が生活や
老後を保障してくれると、思っている。神と言っても、本音はお金
が大事。弱さの中に神の力が現れる、弱さが恵み、と言われて、本
音は能力があり、強い事、力のある事が善と思っている。実は御言
葉とかけ離れた世の価値観で生きている。もしそうなら、そこに気
づく事から祝福が始まる。


2020年12月11日(金)

「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」ヨハネ6:66




私たちは、どんな動機で主を信じ、従っているだろう。主はご自身
を求め、従って来る者を決して拒まれない。しかし助けて欲しい、
祈りを聞いて欲しいとの強い思いがあり、それがどんなに熱心であ
ったとしても、自分の欲求を満たすためだけならどうだろう。主を
知りたいというのでなく、ただただ自分の願望を叶えて欲しいだけ
だろうか。

それなら遅かれ早かれ、思い通りにならない時に、失望して主を離
れる。実は従っているのではなく、自分のために、主を利用してい
ただけだ。利用価値が無いなら離れ去ってしまう。しかし真に主を
知りたい、従いたいと願う人は、そこで、離れるのではなく、自ら
の欲求を満たしたいがために、従っていた事に気づかされた事に感
謝する。

悔い改めて、信仰のあり方を軌道修正される、大きな恵みの機会だ。
間違った方向に進む者を、御霊は示し、気づきを与え、方向転換さ
せて下さる。彼らは、主の「肉を食べ、血を飲む・・」との言葉を、
「ひどい言葉」だと言った。絶対に受け入れられない拒否反応だ。
不信となる。自分が、主より上で、自分の知識を超えると、捨てて
しまう。

理解できないのなら、へりくだって、主に教えてもらおうとは決し
てしない。そんな時、ペテロは「私たちがだれのところに行きまし
ょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」との
信仰告白をした。信じ、従って行く時に初めて、「この教えが神か
ら出たものかどうか」がわかる。
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個人的に示してくださる御霊の導きを通して、経験を通して初めて
、主こそ自分のいのちのパンだと告白する事ができる。自分の知恵
や経験を洗い流し、素直に主ご自信を信じられるよう祈っていこう。


2020年12月10日(木)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5




ある人が、自分を傷つけた相手を赦せない思いでいっぱいだった。
怒りが湧くし、憎しみや処罰感情も募る。何倍にもして報復したい。
しかしそのために、自分自身は苦しい。「もし人の罪を赦すなら、
あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、
人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しにな
りません」との御言葉に触れ、更に悶々状態に陥った。

赦す事が御心であり、赦さなければと思うのだが、怒りはますます
沸くばかりだ。赦せない。だが、自分はクリスチャンなのだから、
それではいけないとも思う。が、幾ら頑張っても無理だ。頑張って
も出来ない。祈ろうとし、祈るのだが、相手の事を思うと、祈りの
最中に怒りが沸いてしまう。

どうにもならず、お手上げ状態で、主に告げて行った。「出来ませ
ん」「赦せません」「あの言動態度を見られましたよね」「だいた
い何であの人と出会ったのか」「私の人生はめちゃくちゃです」と
不満や愚痴の思いのたけを告げていると、段々心の中が見えて来て、
赦せないのでなく、決して赦さない、赦したくない、頑なな自我に
ぶつかった。

赦そうとするが、赦せないのでなく、絶対に赦したくない自分。し
かし、延々あるがまま、感情もぶつけて、御前に吐き出していると、
不思議だが、何だか心があったかくなって来たのだ。自分がありの
まま、主に受け入れられている事を膚で感じた。「あなたの道を主
にゆだねよ」「主が成し遂げて下さる」。

委ねればよいのだと、赦せない自分を明け渡した。その時からだっ
た。少しづつ〃自分が変えられて行った。いつしか赦せていた。自
分が頑張ったのでなく、まさに主が成し遂げて下さった。
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自分で頑張っても出来ないと認められたら感謝だ。くり返した失敗
も自力を手放すための益で、委ねる決心を主は助けてくださる。
御言葉や、御霊の励ましを通し主が重荷を取ってくださる。


2020年12月09日(水)

「「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」エレミヤ31:3



「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とあるように、私たち
は誰しも皆、人の愛を求めている。人に愛されたい。しかし人の愛
には限りがあり、見返りを求めてしまう。親切な行ないをすれば感
謝が欲しい。全く感謝が無いのに、善行を続ける事は難しい。私た
ちはどうしても報いが欲しい。報いが無いなら疲れてしまい、続け
る事が難しい。

しかし神の愛は無条件だ。与える愛であり、犠牲愛だ。神を基盤に
し、その神を間に置き、人と交わる事が秘訣だ。まず「初めに神」
で、神との交わりにより、自分自身が喜びと平安に満たされて、人
に関わって行く。すると神の愛で、心が満たされているので、人か
らの見返りを求める必要が無くなる。真に与える者とされる。

人の愛を求めて、人に依存し、執着する事から守られる。人からど
うこう言われる事が気にならない。神を通して、人と関わることが
大切だ。「初めに人」となり、まず神でなく、人の愛を求めると、
心満たされる事がなく、逆に、妬みやそねみ、欲求不満と様々な悩
み問題を起こして行く。

「初めに神」でなく「初めに人」になっていないだろうか。人に求
めても、心の奥底は決して満たされることはない。神しか満たす事
ができない。まずその求めを神に向けよう。神から真の喜びが来る。
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人に良くしたら、良く思われたい者だ。愛を示すにも条件つきだと
思わされる。無条件で永遠の愛で神に愛されている事実に何と無関
心でいるだろう。神の愛と与えられている恵みに感謝だ。


2020年12月08日(火)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください・・私をとこしえの道に導いてください」詩編139:23




ある人が伝道者になるように導かれていると感じていた。だが、心
に何かとどめるものも感じる。何か心にすっきりしないものがあり、
中途半端な状態がずっと続いていた。しかしきちんと祈ろうと決心
して、主の前に祈りに持って行った。あるがままの心を祈ろうとし
た時に、はっきりさせたくない気持ちがある事に気づかされた。

あいまいにしておきたい。伝道者になると考える時に、大きな不安
と恐れに襲われる。そんな事が自分に出来るのだろうか。将来は?
経済的な事はどうなるのか?不安しか無い。だが、「私を強くして
下さる方によってどんなことでもできる」のではないか。「主は栄
光の富をもって、必要をすべて満たして下さる」のではないか。

祈りながら心の底を探る時、主を信じているつもりながら、信じき
れない自分を見せられた。信じきれないから、不安でたまらないの
だと。又、その事実も認めたくないので、あいまいにしておきたい
のだと。御霊に示され、心から悔い改めて、祈った。自分の力でや
ろうとしていたから、不安に襲われていた事も教えられた。

委ねた時に、公の決心に導かれた。私たちもどうだろう。何か心が
もやもやする時、平安が無い時、まず祈りに持って行こう。心を打
ち明ける中で、影を落としている部分を御霊は指し示して、御心へ
と導かれる。
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心の内の明るみに出したくないもの、ぼんやりさせておきたい事を
示され、自分の今の姿を見せられるのは主のご愛だ。足りないもの
ばかりでも、無い事がわかるから主に求めて、頼って歩める。


2020年12月07日(月)

「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます」ヨハネ3:29



ヨハネがバプテスマを授けていたが、主がバプテスマを授けるよう
になると、ヨハネの弟子たちは、人々が皆、主の方に行くと報告し
た。弟子たちは内心寂しく、面白くなかった。やっかみもあったろ
う。それを聞いて、ヨハネは心がざわつく事もできた。しかし彼は
そうではなかった。なぜなら、その事が主から来ていると受け止め
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と、主の御心
が成されている事を喜んだ。

なぜヨハネはこのような聖い、へりくだった態度が取れたのだろう。
まず「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と主が救い主であると告
白していた。そして自分はキリストではないと明言した。「私はキ
リストではなく、その前に遣わされた者」だと。ヨハネは自分に与
えられた立場と使命をよく理解していた。

主が花婿で、自分は花婿の友人であり、人々に花婿を紹介し、伝え
る事が自分に与えられた使命なのだと。花婿が重要なのであって、
自分ではないし、自分の影響力ではない。主が現われる事が重要な
のだと。ヨハネは自分の使命に忠実に生き、満ち足りていた。私た
ちも、突然、他の人が出て来て、自分を越えて能力を発揮し、周囲
の人々の賞賛を浴び、人気者になる時にどうだろう。

真価が試される時だ。順調な時でなく、衰える時こそが大きな試み
の時だ。健康が衰え、病気になる時、物事が自分の思い通りになら
ず、うまく行かない時・・そんな時に真の自分が出て来る。その時
こそ自我が砕かれて、内なる主が盛んになる。ますます主が盛んに
なり、主の栄光が現されて行く。
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成果をあげている時期はいつかは過ぎていく。いつまでもそれを認
めなければ大切な今も失ってしまう。自分が頼りなくなった事も祝
福だ。一日一日、主と共に豊に歩んでいる事を知れる。


2020年12月06日(日)

「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、 さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまで も取り上げられるからです」ルカ8:18



聞き方に注意せよと言われている。どのように聞くかは非常に重要
だと。なぜなら、その聞き方次第で更に与えられ、又、反対に、持
っていると思うものまで取り上げられると。何を聞くのか。聖霊に
よって語りかけられる「御言葉」だ。祈りつつ素直に、真剣に御言
葉を聞いて行く時に、真理を知り、主ご自身を知って行く。

そして御言葉は鏡なので、自分自身の姿も照らし出される。その自
分が見せられ、取り扱われ成長して行ける。つまり更に与えられて
行く。だが御霊による語りかけに注意を払わず、御言葉を聞こうと
しないなら、何も始まらないだけでなく、どんどん耳が鈍くなって
しまう。その内に聞こえなくなって行き、そして持っていると思っ
ているものまで取り上げられると。

豊かな実を結ぶためには、種である御言葉が必要不可欠だ。「種」
なしに、実が成る事はあり得ない。そして「土壌」は、私たちの心
だ。よく耕された土壌に「種」が植えられると豊かに結実する。だ
から「聞き方」は非常に重要だ。私たちの聞き方はどうだろう。心
素直に「教えて下さい、信じて従います」とへりくだった態度で、
御言葉に聴いて行く時に、更に教えられる。

そして、それを実行して行く時に、豊かな実を結んで行く。御言葉
をしっかりと心に据えて行く時に、自分で輝くのではなく、主があ
なたを輝かせて下さる。成長のため、結実のため、どうしても御言
葉が必要だ。主の語られる言葉に真摯に耳を傾けよう。

・・・・・・・・・・・
主以外のものに心が奪われている時は、なかなか御言葉が聞けない。
心が導かれて、渇きが与えられるように。御声に耳を傾けられるよ
う祈ろう。「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いこと
でしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」心を傾けさせて下さる。




2020年12月05日(土)

「彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、 知恵のないことなのです」Uコリント10:12


ある人が、自分の家の職業が恥ずかしくて、嫌で、決して人に言わ
なかった。その事で、子供の頃から劣等感のかたまりだったと。決し
て恥ずかしい職業でなどでなく、立派な仕事なのに人に知られたく
なかった。絶対に友達を家に呼ばなかった。対人関係にまで劣等
感は影響をもたらした。

主に出会った時に、初めて心が変えられた。私たちもそれぞれ形は
違うが劣等感がある。劣等感はどこから来るのか。人との「比較」
から来ると言われている。劣等感と優越感は根は同じもので、劣等
感があるから、優越感を持ちたい。そして優越感を持とうとすると
必ず劣等感に陥る。「高慢」を根にグルグル回り、アップダウンを
繰り返す。

人と比較すると、競争心、妬みが生まれる。サウルはダビデへの強
烈な妬みが憎しみへと増幅し、殺意にまで至った。妬みゆえの殺人
は、昨今も様々なニュースで目にする。「妬みや敵対心のあるとこ
ろには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがある」の通りに。

あるがまま主のもとに行こう。主は取り扱い、解放して下さる。真
に自由にして下さる。主から、極みまで愛されているので、人と比
較す必要がない。与えられているものに目を留め、賜物を用いて行
く事が大切だ。「愛は・・人を妬みません」、まずこの主の愛を十分に
知り、浸り、味わい、主にあって満ち足りることが秘訣だ。

・・・・・・・・・・・・
主との関係が第一だ。明け渡し、心砕かれて行く時に、ますます主
に近づけられる。主との交わりにより、喜びや平安で満たされてし
まうので、自然に人が関係無くなる。主を見上げて行く時に、満ち

足りる心を、満足を与えて下さる。主以外に与える事はできない。


2020年12月04日(金)

「・・ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」使徒16:7





私たちも進路の事で経験する。自分の進みたい方向があるのだが、
閉ざされてしまう。強い願いがあるにかかわらず、目の前で戸が閉
じられる。入学や入社試験、事業や様々なプランにおいても経験す
る。 又、大事な仕事を前に病に倒れたりする。「なぜ?どうして
?」悲しく辛い経験だ。

パウロもアジアでの宣教活動を御霊に止められた。では、ビテニヤ
へ行こうとしたが、それも阻止された。宣教のためなのに、なぜ?
時に御霊の導きは、私たちに理解ができない。だが理解できなくて
も、そこに主を認め、主のご計画を信じて行くこと、それが信仰に
よって生きるということだ。あちこち閉じられたパウロは結果的に
マケドニヤに渡るよう導かれた。

そこには、思いを遙かに超えたヨーロッパ宣教という大きな御心が
あった。進路を止められた事は、導きを失った事ではない。迷子に
なったように不安を感じてしまうが、御心が別にあるという事だ。
ある人は医師として働こうとした時に、病が発覚。数年の入院生活
にひどく落胆した。

が、完治して実践の場に出た時、患者の気持ちがわかるという、幸
いな益を受けて、病を感謝した。自分が思う最善の進路が閉ざされ
たなら、主が思われる最善の道に導かれる。道が閉ざされたなら、
導きを失ったのではなく。御心が別にある。別の道を備えられてい
る。祈って、主を待とう。
-----------
主は門を閉ざして、別の道へと進ませてくださる。とても明快な導
きだ。願いが叶わない悲しみはあっても、揺るぎない主への信頼を
もって次の導きを待ち望もう。


2020年12月03日(木)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」ヨハネ10:3




主は、御声をかけて私たちを導かれる。御心にかなった志を与え、
事を行わせて下さるとある。主の御声を聞いて、私たちは従う。し
かし私たちの心には、主の御声と共に、他の声も聞こえて来る。す
べてが神の声ではないので、要注意、要警戒だ。神の声、絶えず火
矢を飛ばして来るサタンの声、内から湧き上がる自分の肉の思いの
声がある。

それらが入り混じっている。どこからの声なのかを、よく祈りつつ
判別する必要がある。主以外の間違った声に従うと、御心と正反対
の方向へ行ってしまう。まず、その声が御言葉と合致しているだろ
うか。御言葉に反する導きは決して無い。又、目的は良いが、手段
が不正なら、神からの声ではない。そして神の声は愛なる声で、力
強く且つ穏やかだ。落ち着いていて、平安に満ちている。安心感が
ある。

サタンからの声は、恐れと不安にさいなまれる。怒りが湧き、憎し
みや妬みが起きる。心が暗くなり、重苦しくなる。平安が失せる。
弱さを責め立てられ、又、逆に自分の力を誇らせ、高ぶらせるもの
だ。主の声は、悔い改めるべき点をはっきりと指し示し、サタンの
声は漠然とした非難と責めで、明確な一点が無い。

主の声は具体的に導き、サタンの声はいたずらに急かし、焦らせる。
自分の肉の欲からも、ああしたい、こうしようとの思いがふつふつ
と湧き上がる。そして、サタンは神の声を真似る。「サタンさえ光
の御使いに変装するのです」しかし御霊は常に助けて下さる。祈っ
ていると御霊は聞き分けさせて、守って下さる。祈りが大切だ。
----------
主の導きかどうか迷う時は、よく祈り御言葉と照らし合わせてみよ
う。御霊の実を豊に結ぶものだろうか。漠然とした不安や焦り、衝
動的な感情はよく祈り主に渡そう。


2020年12月02日(水)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9



ある人が、生い立ちの中で、母子関係に歪みが生じていた。小さな
頃から、幾ら頑張っても母親に認めてもらえなかった。母親にほめ
られたくて、勉強も懸命に頑張ったが、良い成績を取っても、一度
もほめられなかった。更に上をと、尚も要求されて苦しんだ。とう
とう心を病んでしまった。主の愛に出会いクリスチャンになったの
だが、母親への赦せない思いに、悶々状態が続いた。

しかし主を知り、この苦しみを祈りに持って行けた事が幸いであっ
た。主に心を打ち明け、思いも感情も何もかもを吐き出し、祈って
行った。そんな中、示された。母親自身に確かに問題があり、母親
から深い傷を受けた。しかしそれは母親の問題であり、赦せない事、
憎しみは、幾ら言い訳しても、自分の問題だと。

今までずっと悪いのは母親で、自分は被害者だと思っていた。苦し
いのは母親のせいだと思うので、ますます母親を憎んだ。その陰で
全く気づけなかった。自分の罪は罪と認めて、告白し、御前に悔い
改めた。その時、心の重い鉛が溶けて行った。悶々だった心が落ち
ついて行った。問題が起きた時に、相手のせいにしてしまう。確か
に相手に非があるが、そうしている限り、自分を見なくて済む。

だがそこには解決がない。それは相手と神の関係であって、自分に
は関係が無い。相手を憎む自分は、神の前にその責任を負う。それ
を告白し、憎しみは憎しみとして認める時、赦しが臨み、平安が戻
る。そして胸の辛さから解放されて行く。主はしばしば「辛さ」を
用いて正しい方向に導き返して下さる。
--------------
自分の罪は罪として悔い改め、憎しみを手放せるよう祈ろう。相手
に向かっている目を主に転じて、主との関係をみてみよう。主にあ
りのままで愛されている。真の自分の価値を主から受け取ろう。


2020年12月01日(火)

「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」マタイ6:5



祈る時、又、施しをする時に、偽善者のようであってはいけないと
言われた。偽善者とは「役者」の意味だ。俳優であり、つまり演技
をする者の事だ。俳優とは何をするのだろう。俳優は、脚本家が書
いた脚本の通りに、その人物を演じる。脚本の通りに、監督が演技
指導し、俳優はそこに描かれた人物を、監督の指示に従い、忠実に
演技する。

それをいかに巧く演じるかで評価される。その人物にどれだけなり
きるかが勝負だ。それは全く別人だ。偽善者とは、自分ではない人
物を演じる者だ。それは「彼らは、人に見られたくて」とあり、人
の賞賛、評価を得るためだ。エデンで、アダムが罪を犯し、神から
離れたので、人は、目に見える人の愛情を求めるようになった。

人に認められたいがために、見えない神ではなく、目に見える人を
求めてしまう。誰もがその弱さを持っている。人に良く見られたく
て、良い人を演じてしまう。それは自分ではない別人だ。嫌われた
くないので、人に気に入られる事を言ってしまう。これが俳優であ
り偽善だと。それが祈りになると、建前のきれい事の祈りになる。

演技の祈りであって、天に届いていない。主は、あるがままの本当
の気持ち、正直な気持ちを受け止めて下さる。それを待っておられ
る。別人でなく、私たち自身を愛して下さっている。あるがままの
気持ちを祈りに持って行こう。
-------------
上手く祈ろうと人目を気にする事もあるが、誰に祈っているのか、
祈りが御霊に助けられながら、神との真実な交わりにしたい。祈り
ながら、祈るべきことも折々に与えられるから感謝だ。