2021年02月28日(日)

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたが たが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」マタイ7:2


犯罪を犯すと、裁判で法律に照らして判定される。だが「さばく
な」の「さばく」とは、法律でなく、自分の都合の良い物差しで判
定する事だ。自分の主観的な独断と偏見による間違った物差しだ。
人をさばく時、自分は正しいと思い込んでいる。それは自分を神の
座に置く事になり、しかも自らの事は棚上げだ。

実は、さばく自分の内に同じものがあると言われている。だからこ
そ見える。罪の性質は、人をさばく。人を下に見る事により、自分
が優位に立った気になる。しかし真のさばきは神にしかできない。
人は、相手の外側しか見えず、内は見えないので、動機もわからな
い。一面的に見たうわべでしか判断できない。

さばく事から守られるためには、まず自分の思いのメガネに気づく
事だ。御霊が気づかせて下さる。そして、それをはずす事だ。それ
が「梁」になってしまう。又、主は、さばくなと言われたが、同時
に「うわべによってさばかず、正しいさばきをせよ」と言われてい
る。正しくさばけと。

そして「実によって彼らを見分けることができる」「なぜ自分から
進んで、何が正しいかを判断しないのか」と。「さばくな」を、判
断もするなと勘違いするが、そうではない。正しい判断をせよ、悪
い者を見分けよと。でなければ、聖なるものを犬に与えるな、豚に
真珠を投げるなとの命令を実行する事は不可能だ。

自分の肉の思いを捨てて、御霊に従う時に、主の命令を実行し、肉
のさばきから守られ、且つ正しい判断をする事ができる。そして、
主の栄光が現れるために用いられる。

・・・・・・・・・
だいたい自分の思い通りでないから裁くと言われるが、自分のメガ
ネと物差しで裁いている時、気づきが与えられるように、祈ろう。
又、裁きを恐れて、判断を回避する事からも守られるように。正し
い識別と判断が与えられるよう祈ろう。


2021年02月27日(土)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、 あなたのことばを守ります」詩篇119:68 



問題や悩みは、誰も好きではない。辛い痛い目には会いたくない。
苦しみはできれば避けたいし、平穏な日々こそが、誰しもの願いだ。
人々が偶像を信心するのは、まさにそのためだ。問題の無い事が幸
せだ。しかし御言葉は、正反対のことを言っている。「苦しみに会
う前には、私はあやまちを犯しました」と。

苦しみがあったからこそ、過ちから救われ、今は守られて、主の言
葉に従う事がができていると。つまり自分が、過ちを犯したのは、
苦しみに会っていなかったからだという事になる。試練を通して、
砕かれ、練られ、鍛えられていないからだと。訓練されていないの
で、過ちを犯すと。

そしてまた、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました」と。苦しみに会った事を
通して、霊的学びが与えられて、主を知れて、幸せだったと。逆に
言えば、苦しみに会わない事は、不幸せだと。この世の価値観と、
聖書の価値観は何と異なる事だろう。正反対だ。

苦しみにより、そこでしか学べない多くの訓練を受ける。それは身
について来る。苦しみの中でこそ、主に拠り頼み、すがりつく事を
頭でなく、御霊によって、膚で知る。真剣に主に向かい、叉、自分
のこれまでも振り返り、主の御心を尋ね求める。自分の自我も見せ
られる。あれもこれも自我のゆえである事に気づかされる。主を信
じているつもりが、つもりであって、不信仰に気づかされる。

苦しみに会うのは痛いが、主が私たちに道を教えるためであり、そ
の中で、御言葉の力、御言葉によって生きる事を実際に知る時だ。

・・・・・・・・・・
試練や苦しみは、決して好きではないが、振り返る時、沢山の学び
を与えられたと感謝できる。砕かれ、練られ、訓練を受けて、祝福
とされている。主が量って与えて下さっている。これからも試練が
あるが、まずきちんと受け止められるよう、祈ろう。


2021年02月26日(金)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4



私たちは新しく生まれ、霊の目が開かれ、主との生きた交わりに入
れられた。主との人格と人格の交わりを経験し、日々に交わりを積
み重ねながら、少しづつ〃親しく主を知って行き、交わりが深めら
れて行く。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」「わたしはあな
たを愛している」と言われる主を、時間をかけつつ実感が深められ
て行く。

私たちは、誰が何と言おうと、何があろうと、この主に受け入れら
れ、愛されているので、喜びがあり、平安がある。しかるにこの世
では、人が、自分を量る場合に、「量り」が無いので、量りようが
なく、そのため目に見える他人との差異により、自分を量ることに
なる。そのため生まれた時から、無意識にも人との比較で自分を量
って生きて来た。

人より劣ると劣等感、人に優ると優越感となる。常に目は横を見る
しかないので、自然にそのように自分を量ることになる。そこから
解放され、上を見上げて生きる事のできる救いを与えられた、クリ
スチャンもまた古い性質が残っているので、神を忘れると、すぐさ
ま人との比較に生きてしまう。そこから羨望や妬みが生まれ、心に
苦みが生じ、苦しむ事になる。

人は自分に無いものを求めると言われている。自分と違う境遇、生
育歴、才能、人気・・自分も〜のようであればと妬む。しかしそれ
なら自分を否定する事になり、更には主を否定する事になってしま
う。そこには不満、虚しさで、喜びも平安も無い。主の言葉を受け
とれるよう祈ろう。嬉しさでいっぱいになり、喜びの中を歩める。
----------
世に出ればクリスチャンは圧倒的な少数派だ。人とはどうしても違
う。人との比較や人との関わりの前に、主との交わりにあって歩み
を確かにされる。私達も主を愛し歩もう。


2021年02月25日(木)

「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」Tコリント8:1



人と議論になる事があるだろうか。ある人が、友人と何でもない事
を話していたのだが、段々と議論になり、議論が高じて、言い合い
になってしまった。何とも気まずい空気のまま別れた。帰宅し、心
が重いので考えてみるのだが、自分は正しいと思う。間違っていな
い。しかし平安が無い。どうしても平安が無いので、主の御前へ行
き、思いを打ち明けて祈った。

祈りの中で、心の内を見せられた。自分が正しいと思うからこそ、
どんどん主張し、すると相手に負けたくないとの思いが出て来る。
更に打ち負かしたくなってしまう。そして自分の意見が受け入れら
れないと、腹が立って、感情的になる。議論には、気をつけなけれ
ば、意見を隠れみのに、強い自己主張、自我が出て来る事を教えら
れた。気づかされた事に感謝した。

そして「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とか
ら出て来る愛を、目標としています」との御言葉を示され、自分の
正しさを主張するばかりで、「愛」が無かったと教えられた。「愛
を目標としています」。議論や意見交換する時も、そこに愛がある
かどうかが大切だと。

「愛をもって真理を語り」とあり、愛をもって正しい事を語る時に、
相手も聞くことができて、双方が建て上げられて行く。「愛がない
なら、やかしいどらや、うるさいシンバルと同じです」とあり、相
手に忠告する時も、何よりも必要なものが御霊の愛だ。御霊の導き
にあずかろう。
-----------
御霊によりいつも示され、気づかされることは感謝だ。正しいと思
うと声高に語ってしまう。うるさいシンバルだ。誰かのつまずきと
ならないよう、主の愛を祈って臨もう。


2021年02月24日(水)

「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように・・長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないように」ヘブル12:15



「苦い根」とあるが、苦い根の中に「憎しみ」がある。攻撃された、
傷つけられた恨み、処罰感情、敵対心は、強い憎しみを根付かせて
しまう。だが憎しみからは何も生まれない。何の良いものも無い。
そして憎まれている相手は、何も気づかす、感じていない。憎む側
の一人相撲であり、心が荒れて、自分で自分をむしばみ、痛めつけ
る事になる。

叉、その憎しみは、「これによって多くの人が汚されたりすること
がないように」と自分だけでとどまらず、周囲に影響を与え、害を
及ぼして行く。周囲の人の心も辛く、苦しくなる。そこにサタンの
足場を与えてしまう。教会で、他の場所で、共に何かをしようとす
る時に、一人の苦い根は一致を阻む。

その所にサタンが巧妙につけ入って来る。叉、それは争い、怒り、
妬み、俗悪な欲望かも知れない。それらをそのままにしておいては
いけない。ますます深く巣くわせてしまう。まず祈ろう。人には不
可能で、出来ないが、「神にとって不可能なことは一つもない」

「人にはできないことが、神にはできる」。祈りに答えて、取り扱
って下さる。御声を聞いて、示しの一つ〃に従おう。御霊が助けて、
苦い根を引き抜いて下さる。
-------------
苦い根は自分だけでなく人にも害をおよぼしていく。主に渡そう。
すべての人との平和、聖められることを追い求めなさいと言われて
いる。意志を向ければ主が助けて癒してくださる。


2021年02月23日(火)

「人の子よ。ツロの君主に言え。神である主はこう仰せられる。あなたは心高ぶり、『私は神だ。海の真中で神の座に着いている。』と言った。あなたは自分の心を神のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない」エゼキエル28:2

 

主はツロの君主に言われたが、主を仰がず、自分の量りで判断し、
自分の価値観で、自分の思い通りに生きようとする時、それは神の
座に着いている事だと。それが紛れもなく高ぶりだと言っている。
エデンで、エバはサタンから「あなたがたが神のように」なれて、
賢くなれると誘惑された。

私たちの内にある肉は、自分の思い通りに生きたいし、誰にも邪魔
されたくない。高ぶりがある。高ぶりとは、見た目、偉そうにする
事、尊大な態度、上座に座る事、のように思ってしまい、気づかな
い。主が、十字架につけられ、三日目によみがえると言われた時に、
ペテロは「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と主
の言葉を否定し、主をいさめた。

すると主は「下がれ、サタン」とペテロに言われ、「あなたはわた
しの邪魔をするものだ」「あなたは神のことを思わないで、人のこ
とを思っている」と。ペテロは、人間的な、肉の思いでの判断だっ
た。主をいさめたという事は、主よりも自分の思いの方がまさって
いるとの事で、まさに高ぶりであった。サタンに誘導されていた。

私たちも何かを判断しようとする時に、主が無いと、自分の思い、
世の価値観、常識、経験値で判断してしまう。「わたしを離れては、
あなたがたは何もすることができない」とあり、主を離れては、多
くの事をしても、決して御霊の実を結ぶ事が無い。結実の無い人生
になってしまう。そして主にとどまる時、多くの実を結ぶと。へり
くだって主を仰ぎ、主と一つに歩もう。
-----------
日々、主に繋がっていなければ、すぐに自分本位に流される。良か
れと思うことが主の邪魔をしていないか、いつもへりくだり主に聞
いていこう。神の聖さ、正しさ、愛に触れていよう。


2021年02月22日(月)

「イエスは答えて言われた『わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります』ヨハネ13:7



ジグソーパズルは経験あるだろうか。何百、何千のピースがあるが、
一つ一つのピースがそれぞれの埋まるべき場所があり、その所に埋
まると見事な絵が完成する。感動ものだ。単に一つのピースだけを
見ると意味が無いし、わけがわからない。一つ〃はよくわからない
が、ふさわしくはめ込んで行くと、はっきりと目的を持った素晴ら
しい作品が出来上がる。

一つも無駄なピースはない。全ピースが不可欠だ。でなければ作品
が完成しない。私達の日常に起こる一つ〃の出来事も同様だ。「な
ぜ?どうして?」と戸惑う事が様々ある。その時には理解できず、
わからない。しかしそれら一つ〃の出来事に、主の計画と意図があ
る。ピースが徐々に埋まり、全体像が見え始めると、どんな作品か
が明らかになる。

そのように、時の経過と共に、主のお心が見えて来る。一つ〃の出
来事を、後で繋ぎ合わせた時に、ピタリとはまって解き明かされる
事を、経験した事があるだろう。ピースが繋がって、主の言わんと
しておられる事がわかって来る。一つとして無駄な出来事は無い。
今、試練の中だろうか。

まさに刺繍の裏を見ているので、理解は出来ないが、一羽の雀さえ
父のお許しなしには地に落ちない。御手の中で起きている。そして
神のなさる事は時にかなって美しい。今はわからないが、「心を騒
がすな。神を信じ、またわたしを信じなさい」との主を信じていよ
う。
-----------
今はわからなくても、意味なく起きているのではない事はわかる。
主のご計画が、どう繋がりどう益とされていくのだろう。主を信じ
て期待して待とう。


2021年02月21日(日)

「見よ。粘土が、陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、 あなたがたも、わたしの手の中にある」エレミヤ18:6



ある人が証しした。「教会へ行くのは嫌でなく、聖書の学びも抵抗
なく、良い学びと思い、学ぶのですが、長い間なかなか神様がわか
りませんでした。10年経てやっと救われて、でもその後も、神様
を知るのに、かなりかかりました。やはり砕かれないと、神様はわ
からないですねえ。砕かれて、神様を知れました。今は喜びがあり、
感謝でならないです」と。

救われてからも、自分は何だか変わらない、というのは自我が砕か
れていないところによると言われている。まさにこの頑固な自我を
砕くために、主は試練や困難を送られる。この人さえいなければと
思う、どうしても嫌な相手が送られる。対人関係で悩み、苦しくて
たまらないので、職場を変えるが、次の場所でも、同じような難し
い相手に出会す。

この人さえいなければ、人生快適で、幸せなのに、なんでこの人な
のかという相手が、職場に、周囲に置かれている。この相手でなけ
れば上手く行くのに、と思うのだが、そうであれば自分は全く変わ
らない。辛く苦しいばかりだ。

同じ事が、何度も繰り返される事により、もしかして、自分の問題
か?と考え始める。そして状況ではなく、相手ではなく、「主よ、
私を変えて下さい」の祈りがなされて行く時に、初めて事態が動い
て行く。そして祈りに答えられ、自分が変えられて行く。平安無く
苦しかった心が、喜びと平安に変えられて行く。今、目の前にある
出来事は、取り扱いだろうか。祈ろう。平安へと導かれる。

・・・・・・・・・・
頑なで強固な自我は、主の十字架で自分も一緒に死んでいることを
信じ、日常生活で砕きの御手を受け入れて行く時に、痛いが砕かれ
る。様々な事が起きているが、目が開かれるよう祈ろう。今、目の
前の出来事は主から来ていて、成長へと導いて下さっている。


2021年02月20日(土)

「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい」エ ペソ6:7


会社で、バイト先で、目にするだろうか。上司や雇用主がいる時に
は、真面目に仕事をするが、いない時はサボり、適当な手抜き仕事
をする。子供たちに、オモチャを片づけるようにと言うと、遊んで
も、これは自分が出した物じゃないと言う。自分が出してないのに、
何で片づけなければならないのかと。肉の性質は少しでも楽をした
いし、少しでも損をするのは嫌だ。

肉は、どこまでも自分の損得が判断基準となる。メリットも無いの
に、労力も時間も使いたくない。しかし御霊を宿した新しい性質は、
今までと違う新しい原理で動く。自分の損得でなく、自分が損にな
ったとしても、主の御心を行なおうとする。主に喜ばれたいと願う
からだ。それは、人のごきげんとりのような、うわべの仕え方では
なく、主を畏れかしこみ、真心から従う事だとある。

人が見ている時だけ、懸命に動き、人が見ているから、へつらうな
ら、それはうわべの仕え方だと。真心から、つまり正直に仕えて行
くようにと。そしてそれを根本的に、人に対してではなく、主に対
してするようにと。もし、強いられた事であったとしても、人に対
してではなく、主に対してするようにという事だ。

人目のためにでなく、目の前の事を、主に対してする事が、主に従
う事になるのだと。自分を中心に生き、どこまでも損得でしか考え
られず、動けなかった者が、主の御心を、主が喜ばれる事を中心に
考え、生きる事が出来る。これこそ大きな奇跡であり、新しく生ま
れた、御霊の支配に生きている事であり、これこそ御霊の喜びだ。

・・・・・・・・・・・・・
自己中心で、自分のメリットで動く者が、主を仰ぎ、主のために生
きたいと願うことが、すでに奇跡だ。主のみわざだ。新しい性質に
生きることが出来る事は、大きな奇跡だ。そして報いがあると。培
われた肉は根深くあらがう。主を仰げるよう、今日も祈っていよう。


2021年02月19日(金)

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり・・」ヤコブ1:13



私たちは、自分の欲に、巧妙に働いて来るサタンに誘惑され、罪を犯
してしまう。サタンが出来るのは誘惑のみで、罪を犯すのは自分だ。
罪には一瞬の快楽があり、心地良さがある。だからこれほどまでに誘
惑されるし、引き込まれる。罪は甘い。罪が苦ければ、誰も見向きも
せず、誘惑にならない。罪と戯れる事は、楽しく、快適なのだ。

だから巧くサタンに引き込まれてしまう。ほんのちょっとのつもりが、
いつしか罪の奴隷になる。飲酒、ギャンブルしかりだ。まず自分は大
丈夫と思うところが要注意で、そこで、サタンにつけ込まれる。警戒
なく油断していてやられてしまう。ダビデは、部下が命がけの戦いの
最中に、夕刻に起き出すという、怠惰な締まりない生活だった。

そこを悪魔に狙われ、バテシバの誘惑が来た時、主を仰がず、姦淫の
罪へと落ちてしまう。ロトもアブラハムと別れ、ソドムの近くで天幕
を張った。町の中ではなく、近くなら大丈夫だと思った。自分さえ、
しっかりしていればよいのだと。だが段々ソドムの中に入り込み、つ
いには影響力を持つ、町の名士になっていた。世と調子を合わせ、妥
協した歩みに、娘婿たちは、突然滅びると言われても、冗談だと思っ
た。

世にどっぷり浸かり、世の名誉、地位、富・・美味しいところを手に
した生き方は、霊的力も影響力も持たなかった。私たちの欲望と合致
した魅力的なものを持って、悪魔は誘惑して来る。欲と合致している
ので気づけない。祈っていよう。祈りにより御霊の気づきが与えられ
る。助けられる。
-------------
誘惑は心地良いから試練の入り口であっても祈らずに引き込まれてし
まう。誘惑には自力では勝てないと失敗から学ぼう。罪を熟すままに
せず主に頼り、助けを求めよう。


2021年02月18日(木)

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」ヘブル4:15



救いを受けた私たちは、生まれつきの古い性質と新生した新しい性
質が、絶えず葛藤している。天に帰るまでは、霊と肉の戦いの中に
ある。主は、私たちの弱さをご存じだ。この肉体は疲れ、病気にも
なる。主は、私たちと同じ肉体をとって、地上に来られたので、こ
の事をよくわかり同情して下さっている。

主は、あなたの弱さをご存じだ。良き理解者だ。だから主の血潮の
ゆえに、あわれみを受け、恵みをいただいているので、いつでも
「恵みの御座」に行く事ができる。私達は、古い価値観があり、元
気な時は、主のためにどんどん働き、主に近いと感じる。逆に心身
に弱さを覚え、無力の時はどうだろう。主を遠く感じるだろうか。

「何も出来ない者」と悪魔の声が聞こえる。罪を犯すと「同じ失敗
ばかりして」「成長がない、だめだ」とひどく落ち込み、ますます
主から遠ざかる。御言葉はどう言っているだろう。「あわれみを受
け、恵みをいただいて、大胆に恵みの御座に近づこう」。離れるの
でなく、近づけと。恵みの御座に近づける根拠は「あわれみを受
け」「恵みをいただいて」とあり、「あわれみ」と「恵み」だ。

自分の功績、自分の力にはいっさいよらない。行ないではない、一
方的な愛顧だ。主のあわれみと恵みがあるので、どんなに破れ果て
た、ぼろぼろの状態でも、御前に行ける。少しはましになって御前
に行こうとするが、あるがまま行こう。主の「あわれみ」と「恵み」
をしっかり心に刻もう。
------------
自分自身の理解が邪魔をして、主の御心と大きく離れていても、なか
なか気づかない者だ。今の現状のままで主に向かおう。主が教えてく
ださる。主のあわれみと恵みの中に何も持たずに行こう。


2021年02月17日(水)

「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である」箴言27:5



「もし、誰かが過ちに陥ったなら、その人を正してあげなさい」と
言われている。その場合「柔和な心で」と。往々にして、すぐに肉
が反応してしまい、腹を立てて、正そうとしてしまう。その肉を正
義感と勘違いしてしまう。又は、密かに、自分ならそのようにしな
いと高ぶり、正す事はせず、心の中で裁くだけかも知れない。

他の箇所では、その人の所へ行って「二人だけのところで、責めな
さい」と。責めるとは、過ちを指し示す事だ。その目的は「兄弟を
得るため」と。裁くためでなく、回復のためで、建て上げるためと。
「御霊の人であるあなたがたは」とあり、人を正す時は、御霊に導
かれる事が大切だ。自分も過ちを犯す者である事を覚え、へりくだ
って、愛を持って対応せよと。

盲目的な愛は、単なる甘やかしになる。「愛をもって真理を語り」
と、御霊の愛は、語るべき事をはっきりと語る。御霊に導かれる事
が大切だ。ある人が、主に在る友に、間違いを忠告するよう、御霊
に示された。相手にとって突かれたくない、最も痛い所だった。言
うと関係が終わってしまうのではと思うが、幾ら祈っても御霊の示
しは変わらない。

御霊に押し出され、愛をもってはっきりと指摘し語った。思った通
り、相手は激怒した。痛い事だからだ。しかし相手はずっとその事
を考え、悔い改めに導かれた。そして忠告を心から感謝された。御
霊の示しがあるなら、従おう。
---------------
主が良い関係を築いてくださるよう祈って従おう。愛しているから
そっとしておこうと思うのも不誠実ではないか。御霊の導きなら、
向き合おう。


2021年02月16日(火)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」へブル2:1


罪に関して、ストレートな罪はわかる。偶像礼拝、泥酔、姦淫、憎
しみ、妬み、偽り・・。だが一見罪ではない、むしろ良いものが要
注意だ。気をつけなければ、その良いもので、主との間が隔てられ
てしまう。食物は必要不可欠であり、体をつくり、健康に保ち、楽
しみを与えてくれる。しかし過ぎると暴飲暴食になり、健康を害し、
逆に身体を壊してしまう。他のものも同様だ。

仕事、音楽、スポーツ・・は良い事であり、娯楽や余暇を楽しむ事
は良い事で、決して罪でない。主は楽しみを与えて下さる。ただ、
それが過ぎると要注意だ。趣味は、生活に活力と喜びを与えてくれ
るが、のめり込み過ぎ、それに支配されると逆になってしまう。熱
中する余り、主のための時間が無くなるなら、本末転倒だ。

それをする事で、更に主に近づくなら良いものであり、反対に霊的
食欲が減退して行くようなら、問題だ。人はある日突然主から離れ
るのではない。少しづつ〃流されて行きながら、気づかない内に、
いつしか霊的食欲が全く失せ、他のもので心がいっぱいになってい
る。悪魔が様々なものをもって誘惑する。

ある人が、非常に高額のバイトに飛びついたが、早朝から夜遅くま
での勤務に疲れ果てて、デボーションが全く持てなくなった。経済
的には良くても、心は虚しくなるばかりで、辞めてしまった。選択
を誤ると元も子も無くなってしまう。すべての事はしても良いが、
すべての事が有益とは限らない。今、霊的食欲はどうだろう。 
-------------
気づいたら神から遠く離れていたという失敗を経験する。迷い出て
いると気づけるよう、毎日の小さな事の中にも御霊の導きを求めて
いこう。導きではないと御霊は教えてくださる。


2021年02月15日(月)

「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」ヨハネ17:15



私たちは、この世で生活しているが、主が「彼らもこの世のもので
はない」と言われた通り、この世の者ではない。天国人だ。しかし
世を遮断し、世と断絶するのではない。逆に、世にどっぷり浸かり、
世に流されるのでもない。この世で、この世の人々と同じように生
活する。しかしその原理が違う。私たちは、神の言葉が自分を動か
す原理だ。

御言葉がどこまでも基準で、御言葉の価値観で生きて行く。だから、
この世にいるが、世とは全く違う。私たちは天を目指し、天での報
いを目指して生きるが、この世は地を目指し、この世での栄光、賞
賛、豊かさを目指す。全く逆方向だ。主が祈られた。「真理によっ
て彼らを聖め別って下さい。あなたの御言葉は真理です」と。御言
葉が真理だ。

常に、自分の内に根本的原則が必要だ。確固たるものが無いと、簡
単に周囲に流されてしまう。特に日本人である私たちは、周りと同
じである事が善で、同じだと安心する傾向があって、周りに合わせ
てしまう。御言葉に基づいて、思考し、判断し、行動しなければ、
世の価値観にすぐに影響される。

日本には米軍基地がある。日本なのだが、そこは米国の法律下にあ
る。同様に、私たちはこの世にいるが、御言葉が支配する、目には
見えない神の国の領域にいる。人々に仕え、証しをして行く。しか
し飲み込まれてはならない。真理の言葉に従って行く時、御霊が助
け、正しく導いて下さる。
------------
私たちは主には従順に従い、日々、真理の御言葉によって立とうと
祈っている。それ以外の何の奴隷でもない。その矜持を抱いてこの
世を歩みたい。流されやすく迷いやすい者を主が支え守って下さる。


2021年02月14日(日)

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて、他方を軽んじたりするからです」マタイ6:24



あなたの宝のある所に、あなたの心もある、とあり、自分の宝を地
上に貯えるのはやめよとあるが、自分にとってとても大切なもの、
価値あるもの、無くては生きて行けないものは何だろう。それが、
その人の宝だ。それは富や物とは限らない。ある人には、名誉や社
会的地位、才能や仕事、人からの賞賛、評価、自己実現、プラ
イド、又、子供や愛する人だ。

自分が執着しているものだが、それは死後、持って行けない。「私
たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出る
こともできない」。パリサイ人は、人からの賞賛のため、見せるた
めに自力で善行をした。良い人に見られたく、天でなく、地上に宝
を貯えるためだった。それを止めよと言われている。

自分の宝は天に貯えよと。「天に宝をたくわえる」とは、主を信じ、
自分の力でなく、主の恵みによって生きる事だ。それは日々に、主
の喜ばれる事、主の御心を求めて、この地上において自分の思いで
なく、御心を行なって生きる事であり、今日を天に繋げて生きる事
だ。

「目が健全なら全身は明るい」、目が健全とは二心でなく単一で、
あれもこれもと目移りせず、一心に一つのもの、主を、天を見つめ
る事だ。もし目が濁れば、あちこち目移りし、天に向かず、地のみ
で全身は暗いままと。地で執着するものがあれば、必然的に目が天
に向かない。自分の宝は何だろう。

・・・・・・・・・・
この世だけに生きると、一瞬の快楽はあるかも知れないが、心の奥
は虚しく、あれやこれやとさまよってしまう。極みまで愛し、慈しんで
下さっている主を見上げ、この一日も、天に繋げた一日であるように、
祈ろう。


2021年02月13日(土)

「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、 あなたがたより先に神の国にはいっているのです」マタイ21:31



ある時、主は、二人の兄弟のたとえ話をされた。父親に「ぶどう園
に行き、働け」と言われ、兄は「行きます」と言った。しかし、行
かなかった。弟は「行きたくない」と断ったが、後から悪かったと
思い出かけた。「どちらが父の願った通りにしたか」と祭司長や律
法学者たちに問われた。彼らは「後の者です」と答えた。主を拒否
している彼らであったが、その通りであったので、そのように答え
た。

主は、弟息子は、取税人や遊女のようだと言われた。彼らは律法に
従わず、罪を犯していたが、ヨハネの悔い改めの教えを聞き、それ
に従い、ヨハネがメシアだと指し示した主を受け入れた。逆に、行
くと言ったが、実際は行かなかった兄息子は、表向きは道徳的、品
行方正で、善行をしているように見える。が、ヨハネを拒み、彼の
教えも拒み、主を認めず、受け入れない、彼らの姿であると言われ
た。

私たちもどうだろう。クリスチャン生活が年数経ると、外側、クリ
スチャン的な振る舞いをするが、心に、主に入って欲しくない部屋、
主を認めたくない領域があるだろうか。「あなたの行く所どこにお
いても主を認めよ」とあるが、信仰生活どこにおいても「主を認め
る」のでなく、自分の思いが中心になっているだろうか。そうなら、
主が見えなくなってしまう。
主を受け入れない心の部屋が無いか、御霊に心を探って頂こう。一
つ一つと主の領域が広がり、喜びが大きくなって行く。

・・・・・・・・・・
放蕩息子の兄を思い浮かべるが、外側、忠実で、なすべき事は
きちんとし、父の言う事を聞いているように見えるが、心は父から
全く離れていた。真の幸せと喜びは、主の近くにいることなので、
御霊に心を探って頂き、心の部屋を渡して行けるよう祈ろう。


2021年02月12日(金)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」イザヤ30:21



ユダ王国は、アッシリヤに攻められ、包囲された。そのためユダ王
国は食料が底をつき、窮乏状況に陥った。危急の事態であり、今、
必要なのは、何よりもまず食料だと思われる。しかし目の前のもの、
食料ではなく、まず第一に主を仰ぎ、主の言葉を聞いて行く事が大
切だ。その時に、必ず主の助けと守りがある。

「主は恵もうと待っておられ、あわれもうと立ち上がられる。幸い
なことよ。主を待ち望むすべての者は」とあり、私たちが主に向き、
主を待ち望むなら、私たちの耳は後ろから、主の言葉を聞くと。主
は「これが道だ。これに歩め」と、導くと言っている。そしてよく
よく祈って行く時、御言葉、御霊の語りかけ、環境を通して、歩む
べき道が示される。

だが、焦っている時はどうだろう。祈っている場合ではない、とに
かくまず目の前の事をしてしまわなければ、と強い思いが迫る。気
になって仕方なく、そこに心が奪われる。心が座するのでなく、立
ってしまっていて、身体がどんどん動いてしまう。主が語ろうとし
て下さっているのに、目の前の事しか見えなくなる。

まず祈って導きを求めよう。試練の苦しみの時は、真っ暗なトンネ
ルの中にいるように感じる。先が全く見えず、不安と恐れと思い煩
いに襲われる。ずっと苦しみがこのままだと思ってしまう。しかし
自分でどうこうせず、主を仰ぎ、主を信じ、待ち望んでいると、真
っ暗なトンネルの中で、主は語りかけて下さる。主からの御言葉が
臨む。

試練の中で、語られる言葉がある。試練の中だからこそ、聞ける言
葉がある。その言葉を受け取り、握り締め、従おう。主のみわざに
あずかる。
----------
目の前の状況に一喜一憂する事はないと、主は恵もうと待っておら
れ立ち上がってくださる。焦って動き回らず主を待ち望もう。
主と共にあるなら、試練の中で真空状態の主の平安を経験する。


2021年02月11日(木)

「彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示を仰ごうとしない」イザヤ30:2



アッシリヤが強大な力を持ち、北王国を滅ぼし、ヒゼキヤ王のユダ
王国にまで攻めて来た。エルサレムを包囲しようとし、危急の事態
だ。するとユダ王国では、肉の「はかりごとを巡らし」、エジプト
に助けを求めた。まず主を仰ぎ、主に祈り、助けを求めるのでなく、
目に見える所で、人間の思いと知恵で動き、同盟を結ぼうとする。

しかし「わたしの霊にはよらず」とあり、主を無視した計りごとで
あり、それは「罪に罪を増し加えるばかり」だと。そしてその行為
は「反逆」であり、「わたしの言うことをないがしろにし、主の教
えを聞こうとしない」と。私たちも、どうだろう。ある日突如、ア
ッシリヤの強大な力に襲われるかも知れない。突然の経済的苦境、
仕事の失敗、リストラ、難しい対人関係の悩み、進路の不安だろう
か。

その際、まず主を仰がず、自分の知恵、自分の思いと判断で動くな
ら、道をそれてしまう。主が飛んでいれば、自分の肩にすべての重
荷がかかり、苦しくてたまらない。思い煩い、焦り、どうにかしな
ければと、自分で目に見えるところで、動いてしまう。しかし「立
ち返って静かにすれば、救われ、落ち着いて信頼すれば、力を得る」
と。まずは、静まれ、動き回るなと。これは信仰の練習だ。

何とかしなければと思うので、焦ってしまい、思いは巡り、心はず
っしり重く暗い。まず祈ろう。動かずに主を待とう。御言葉が臨ん
で来る。今、自分の計画で、動こうとしていたら、立ち止まって、
主を仰ごう。
-----------
まず動こうとしてしまうが、自分の思いが混乱していることを主の
前に認めて、静まる事を祈ろう。主は危急の中におられ、必ず助け
てくださる。動かず主の導きを祈ることこそ力だ。


2021年02月10日(水)

「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」箴言14:4

 

牛や馬を使って、耕作をするなら、牛や馬を飼育しなければならな
い。牛舎や馬小屋はひどく汚れる。飼葉おけをきれいにし、糞を片
付け、毎日掃除し、世話は骨が折れる。来る日も、〃、重労働であ
り、大変だ。だが牛や馬は、作物の収穫のためにはどうしても必要
だ。それによって豊かな収穫を見込める。しばしば余りの大変さに、
牛や馬さえいなければと思う。そうすれば、きれいなままだ。

飼葉おけを汚したくなければ、牛はいない方が楽だ。だが収穫は、
牛の力によって多くなる。多くの収穫を得たければ、牛や馬は重要
な存在だ。同様に私たちは、何かを達成しようとするなら、犠牲を
払い、労苦が必要だ。手間ひまかかり、面倒で、煩雑な事があり、
様々な関わりが出て来る。

そこには、まさつやトラブルも起きてくる。しかし牛がいなければ、
面倒な事もないが、豊かな収穫は期待できないように、時間や労力
や財・・を献げて労する事なくして喜びや感動を経験する事も無く、
成長も無い。人生、ひたすら安穏無事だけを願うなら、飼葉おけは
きれいなままだが、成し遂げる喜びを、達成感を味わう事もない。

今、何かすべき事が示されているだろうか。骨が折れ、煩雑で、手
間がかかるだろうか。あるいは、対人関係の関わりだろうか。困難
があるかも知れないが、しかし素晴らしい収穫が、祝福が備えられ
ている。必ず豊かな実を結んで行く。もし何もしなければ、楽だが、
収穫は無い。祈って、助けられて、目の前の御心に従おう。
-------------
失敗を恐れ、してはいけない事に気をとられ、いつの間にか消極的
な信仰生活を送っている。御霊に導かれ一歩動き出したい。まさつ
や骨の折れるひとつひとつに、自分自身が養われていく。


2021年02月09日(火)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6



ある人の子供が、進路での挫折を引き金に、どんどん道をそれて行
った。家出し、暴走族グループに入り、問題行動を起こした。薬物
で警察沙汰を起こし逮捕された。親は悩み、苦しみ、思い煩い、そ
してどうしてこんな事にと、心の内で子供を責めた。怒りが湧き、
又、自分も責めて、落ち込んで行く。世間体もズタズタだった。

非常な苦しみと悲嘆の中で、主の御前に行き心を打ち明け、悲痛な
思いで祈りに祈った。絶望、怒り、落胆、嘆き・・、混乱状態の心
の内を、あるがまま主に告げて行った。祈り続けていた時に「わた
しはあなたがたのために立てている計画をよく知っている」、主の
ご計画の中に置かれていると語られた。そして「それは災いではな
くて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与える
ためのもの」と。

見た目は非常に負の事態だが、将来と希望があると。主はこの事態
をも益として下さると。御霊からの言葉を、見えるところは相反す
るが、信仰によって、すがりついて受け止めた。万事益になると信
じようと思えた。その時、現状はぐじゃぐじゃなのに、心が不思議
に落ち着いた。そして子供を、あるがまま受け入れるようにされた。

変えよう、変えようと必死であった子供を、初めて現状のまま受け
入れる事ができた。自分自身が問題であった。砕かれ変えられた。
主の力であり、みわざだった。それから子供は変わって行った。時
を経ながら立ち直ることができた。御言葉通り、万事益であった。
----------
今はわからなくても、背後には必ず主の摂理があると信じているか
ら試練の中でも、心の底には平安がある。主を見つめ、主を待ち望
み、今ある事態を受け止めていこう。


2021年02月08日(月)

「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:39


マルタとマリヤは、どちらも大変喜んで主をお迎えした。もてなし
方が違った。マルタは、フル回転で動いた。片づけに、料理作りに
大忙しだった。マリヤは主の足もとに座って、み言葉に聞き入って
いた。その内、マルタは、夕食の時刻も迫り、焦ってイラ立ってき
た。こんなに忙しいのに、なぜ妹は手伝わないのか、見ると何もし
ておらず、座っている。

腹立ちで、主に、妹が私だけに台所仕事をさせているのを、何とも
思われないのか。妹に私を手伝うよう言ってくれと。マルタは、も
てなそうとしていたはずが、主を批判し、非難する事になる。主に
向かって指図し、命令している。自分が主人になってしまっている。
私の手伝いをするようにという事は、自分のしている方が正しいと。
しかしマリヤは「みことば」に聞き入っていた。

主は答えて「どうしても必要なことは一つだけ」と。それも、あれ
もとは言っておられない。二つでもなく、一つだけとはっきりと言
われた。御言葉に耳を傾ける事だと。マルタの働きも大切で必要だ。
が、まず御言葉を聞いて、労したらどうだったろう。信仰に立って、
主と共に動くなら、様々な心配、思い煩いから守られる。

「彼らが旅を続けているうち」の出来事で、伝道旅行の途中であり、
十字架も近づいていた。もういつ聞けるかわからないと、マリヤは
切実な思いで、「主の足もとにすわって」=弟子入りのごとく、全
身全霊で御言葉を聞き入っていた。私たちも主から目を離した途端、
油が切れて、肉のイライラや焦り、腹立ち、思い煩いに囚われてし
まう。すぐに目を上に向けよう。
-------------
大切な第一のものを見過ごし、聞き逃していないだろうか。これも
あれもと第二、第三のものが押し寄せてくる。御言葉を聞き、祈り
、第一のものを心に留めて今日を生きよう。


2021年02月07日(日)

「あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが神のみ こころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかっ たのです」Uコリント7:9


信仰生活で、私たちは弱さのために失敗してしまう。誰しも必ず失
敗する。失敗しない人はいない。その時に自分の弱さや、過ちに、
向き合う事が大切だ。だが、これが難しい。自らの弱さは見たくな
いし、触れたくない。失敗は辛く、無かった事にしてしまいたい。
目をそらしていたい。心の引き出しにしまい込んで、ふたをしてお
きたい。

しかし認める事が、信仰の前進のために必要だ。ユダとペテロが出
て来る。どちらも裏切りという大罪を犯した。ユダは銀貨30枚で主
を売った。ペテロは裏切るつもりは無かったが、呪いをかけてまで、
主を知らないと否んでしまった。ペテロの弱さによる失敗だった。
どちらも後悔した。しかし結末が全く違った。

ユダは、罪に向き合う事をせず、助けを求めて主のもとにも行かず、
自ら決着をつけ、命を絶ってしまった。だがペテロは逃げなかった。
自分の弱さ、罪に向き合った。主の指示に従い、ガリラヤに行った。
痛みと辛さを抱えながら、主に向いた。そこで、よみがえりの主に
出会い、主の愛と赦しに包み込まれ、回復させられた。

新たに主に出会い、立ち直る事ができた。そして、再度、主の働き
の任を与えられ、主の昇天後、諸教会のリーダーとして立てられた。
私たちも失敗するが、それで終わり、万事休すなのではない。主に
向き、過ちを認め悔い改める事ができる。絶望はない。主はいつも
再びチャンスを下さる。

・・・・・・・・・・・
大きな事も、些細な事も、よく失敗してしまう。主はあわれんでい
て下さる。弱さをご存じで、同情していて下さる。自分で何とかし
ようとせずに、すぐに主のもとに、恵みの御座に行こう。7度を7
0倍するまで赦して下さる主の愛を知るようにされる。


2021年02月06日(土)

「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を 低くしなさい」創世記16:9


アブラムとサライは主の約束を待てず、奴隷ハガルにより子供を得
た。だがハガルはみごもった時、高ぶり、女主人を見下げた。それ
に激怒したサラはハガルをいじめ、ハガルは余りにも辛く逃げ出し
た。一人寂しく荒野にいた時、主の使いが現われ「サライの女奴隷
ハガル」と呼んだ。

「サライの女奴隷」と現実をはっきり見せ「どこから来て。どこへ
行くのか」と。ハガルは居場所を失い、自分を見失ない、行き詰ま
っていた。「女主人から逃げている」と答えた。苦しみから逃げた
いばかりだ。すると「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで
身を低くせよ」と。

ハガルはサライの奴隷なので、戻ってへりくだり、女主人に仕える
事がハガイのなすべき事だった。一番嫌な、したくない事だが、実
はハガイにとり、それが一番幸せで、平安の道だ。自分の遣わさ
れた場から逃げても、一時の解放感はあるが、喜びも無く平安も無
い。

私たちも自分を見失ない、行き詰まる時は、主と出会う事により自
分を取り戻せる。又どのような主人であれ、見下す事は、御心でな
い。私たちも相手ではなく、自分が、主との関係で御心に歩むなら
どうであれ平安だ。主が平安を与えて下さるからだ。

そして主はハガルをも心にかけ「あなたの子孫は、わたしが大いに
ふやすので、数えきれないほどになる」と祝福を約束された。自分
に語りかけられた主と出会い、恵みを受けたハガルはサライのもと
に戻った。

・・・・・・・・・・
主は、ハガルが選択出来ない奴隷である状況をご存じで、あわれん
でいて下さる。苦しい時は、自分でかせを除きたいし、逃げ出した
い。環境を変えたい。だが主の御心の中が、一番安全で平安だ。主
のあわれみの御手に身をゆだねよう。


2021年02月05日(金)

「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉をつかむ」箴言29:23 



出エジプトを導いたモーセは、地上の誰よりも、謙遜だったと記さ
れている。謙遜とは、表向き、腰を低くする事ではない。口では
「いえいえ私などは」と言いつつ、心では、自分こそがふさわしい
と思っていたりする。謙遜とは、自分が無力であると知り、何も出
来ない事を認め、主に拠りすがる事だ。モーセはそのような人物だ
と。

しかし最初からそうなのでは無かった。パロの娘に拾われ、王子と
なったモーセは、地位、名誉、財、力、すべてを所有していた。周
囲からちやほやされ、文武両道、非常に有能な人物だった。自信満
々で、自分こそが同胞を救うにふさわしいと思い、40歳の時に行動
を起こした。が、同胞の理解は得られず、結局、荒野に逃亡する事
となった。

何も無い荒野で、モーセは一介の羊飼いとして暮らした。王家の王
子が、ただの羊飼いとなった。地位、栄誉、人からの称賛、富、プ
ライド、栄光の将来、何もかもをはぎ取られ、失った。しかしモー
セは砕かれ、へりくだった柔和な者へと造り変えられて行った。主
はモーセを偉大な器とするために、下へ下へと取り扱われていた。

高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを授けられる。モーセは訓練
され、整えられ、40年後、今こそ間に合う器として、民を救出する
という大きな働きに用いられた。主はへりくだった者を用いられる。
主は、私たちを器として用いるために、砕かれる。

今、もし荒野なら訓練の時だ。訓練を受け止めて行く時、砕かれ、
練られ、整えられる。そして主のために用いられる。へりくだって、
今の場で、主に従って行こう。
---------
高ぶっている事さえわからない者だ。問題を通ってみて始めて、思
っているよりはるかに醜く弱い自分を知らされる。ただ主の恵みに
頼り主と共に歩んでいこう。


2021年02月04日(木)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え・・」エレミヤ33:3



私たちは、自分の思いがあり、強い思いがあるものだ。物事が思う
通りに行って欲しい。思い通りになれば喜びがあり、そうでなけれ
ば落ち込んでしまう。そのため、目の前に自分の意に反する事態が
起きると、状況を変えよう変えようと必死にあらがい戦う。思い通
りにしたい。対人関係で、思いと違う状況になると、相手を変えよ
う変えようと、やっきになる。

ある人が、自分の思いがあり、目の前に起きている状況を、何とか
変えたいと必死に頑張った。祈りつつ出来る事は何でも試みた。し
かしどうやっても、全く変化なく、微動だにしなかった。もうどう
にも出来ずギブアップで、主の御前に静まり、ことごとくを打ち明
けた。祈っていると、ふっと御言葉が浮かんだ。「神のみわざに目
を留めよ。神が曲げたものを誰が真っ直ぐにできようか」というも
のだった。

曲げておられるのは、主なのだと。「え!」と、御心を知った瞬間
だった。主が曲げておられるものを、自分は真っ直ぐにしよう、し
ようと、悪戦苦闘していたのだと。まさに方向違いの戦いだった。
その時から祈りが変えられた。状況を変えるのでなく、受け入れる
事ができるようにと。受け入れる事は困難だが、「出来ない」から
こそ、主に拠り頼み、祈ることが「できる」。

祈り続けていると、その祈りは聞かれ、受け入れる事ができるよう
にされた。すると、あんなに苦しかった心が平安にされた。まず祈
ろう。主はなすべき事を教え、導いて下さる。そして出来ないから
こそ、祈り、拠りすがろう。
----------
自分にはわからない。だから祈ろう。自分の思いばかりを見ている
事にも気づかせてくださる。未知なる主の御心が背後に隠れている。
主を呼ぼう。


2021年02月03日(水)

「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイ26:39



ある若い宣教師が、発展途上国の宣教地に赴任した。慣れない生活
習慣、言葉、気候、文化に大変な苦労をした。カルチャーショック
で落ち込み、母国を遠く離れた寂しさや孤独感にも見舞われた。生
活習慣が全く異なり、無意識にも、培われた価値観で量るので、現
地の習慣と合わず、イラ立ってしまい、怒りすら出て来る。自分の
思い通りに事が運ばないので、傷ついている事にも気づかされた。

イラ立ち、怒り、失望、落胆、挫折感・・平安とはほど遠いありさ
まだった。落ち込んで、疲れてしまう事が度々だった。だが、目を
主に向け、神視点に立つ時、見方は全く変えられるのであった。こ
れら一つ一つの出来事は、自分の砕きのためだと教えられた。どこ
までも自分の思いは強く、宣教活動も、一つ一つの対応、対処も、
自分の思う方法でやりたい。

その「自分の」思い、「自分の」方法が、砕かれて行くのがわかっ
た。何一つ自分の思い通りにならなかったのだ。主からの砕きの訓
練であった。そんな中で、自分のしたい事をするために、そこにい
るのではなく、主のなさりたい事を主がされるために、自分がそこ
にいる事に目が開かれて行った。今一度、自分自身を明け渡した。

その時に、自分の思い通りでなくとも、主のみこころが成されて行
く事、そのために自分が用いられている事に喜びを感じる事ができ
た。自分が変えられた。そこに立つ時、状況がどうであれ、心平安
に対応できるようにされた。
-----------
自分の思いにふさがれ、すぐに迷ってしまう者だ。自分の願いと共
に、しかし、主の御心がなりますようにと祈ろう。主のみこころが
なされていく事が願いと明け渡していきたい。


2021年02月02日(火)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」マタイ7:25



二人の人が出て来る。賢い人と愚かな人だ。賢い人は御言葉を聞き、
愚かな人は御言葉を聞かない、であればわかりやすいが、どちらも
御言葉を聞いている。違いは、賢い人は「ことばを聞いて、それを
行なう」。愚かな人は「ことばを聞いて、それを行なわない」。愚
かな人も御言葉を学び、礼拝で喜んで御言葉を聞く人だ。

御言葉を聞かなかったり、反発しているなら、自分でもわかるが、
喜んで聞いているので、気づかない。しかし御言葉を聞いて、それ
で満足してしまう。そこが問題だ。聞いて、わかった気になって、
自己満足で終わる。止まってしまう。聞くだけで行なわないなら、
自分の生まれつきの顔を鏡で見るようだと。

自分をながめてから立ち去ると、すぐに見たものを忘れてしまう。
御言葉を聞いてすぐに忘れてしまい、何も無かったことになってし
まう。結局、聞かなかった事と同じだ。それなら実になることが決
してない。私たちは、すぐに忘れてしまう。真理の言葉は行なう時
に初めて、実を結ぶ。良いお話だと、御言葉を聞いて、終わりだろ
うか。

何も無い時はよいが、試練の時に立ち行けず、倒れてしまうと言っ
ている。「しかもそれはひどい倒れ方」と。御言葉を実行する時に、
結実し、どんな試練が来ても倒れない。聞いた御言葉を一心に見つ
めて離れない人は、事を実行して行く。今、必要な事は聞いたまま
でなく、その御言葉を実行することだろうか。
------------
主は多くの言葉を語ってくださっているのに、いざとなると自分を
土台に動いてしまう。主の固い守りを信じて主の御心を行おう。主
を土台に歩む賢い生き方をしよう。


2021年02月01日(月)

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちの負いめのある人たちを赦しました」マタイ6:12



ある人が、学生時代に友人たちと争いになり、中傷され、ある事無
い事、悪口を言いふらされ、非常に傷つき、悔しい思いをした。攻
撃して来た子たちを赦せない思いで、ずっと恨み憎んでいた。卒業
後、彼らとは別々の道になった。それから自分は人一倍努力して、
頑張って〃生きて来た。

しかしその動機は、何としてでも、彼らを見返したい、ただその一
心だった。執念深く恨んでいた。何かにつけて懸命に努力したが、
そこに喜びは無かった。相手が目に見える形で、目の前にいなかっ
たとしても、恨みが残るなら、どんなに距離が離れていても、ずっと
囚われの身だ。自分の人生が恨む相手にコントロールされてしまう。

いつも思いに上っては、心に影を落とす。やがて教会に行くように
なり、御言葉を学んで行った。その中で教えられて行き、確かに相
手は悪いが、しかし自分にも非があったと気づかされた。今までの
頑張りの動機が間違っていたこと、自分が相手を恨むことは自分の
問題であると知った。自分の憎しみや恨みが、自分自身を苦しめて
いることも教えられた。

そしてそれは絶対に何があっても赦したくない自我から来ていた。
光に照らされるように、自分の姿が見せられた。解放されたいと願
った。自分が相手を赦すことが解放だった。悔い改めて、赦します
と意志を主に向けて行った。人を赦せない思いは、サタンのわなで
あり、策略だと言っている。がんじがらめにされてしまう。主に助
けを求めて祈ろう。自由にして下さる。
------------
赦したくないからい相手の悪いところを数えてしまう。いつまでも
憎しみの奴隷だ。一刻もはやく憎んでいる事を悔い改め、主の前に
預けていこう。主が苦しみから解放してくださる。